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(四)常楽寺と上田市塩田地方
常楽寺は、長野県上田市塩田地区にある。上田市といえば、前述のようにすでに信濃国分寺の跡が発掘されているので、諸国の通例により、信濃国府があったところと想定され、目下その調査が進められている(ただしこの国府は平安初期には現在の松本市阪に移転した)。信濃国府とは、古代信濃の政庁の所在したところ――いはば今の県庁所在地に当り、信濃国の政治経済の中心であった。
それでは何故上田地方(かつては全体的に小県郡といった)が信濃国府や国分寺の所在地に選ばれたのだろうか。その根本の理由として、まず考えなければならぬのは”塩田地方”の問題であろう。
上田市の西南より千曲川の左岸の盆地を塩田平と呼んでいる。わずか数㎞平方の平坦地にすぎないが、そこには十指に余る国宝・重要文化財・県宝等の建築物や仏像がある。多くは、鎌倉時代と関係があるので、「信州の鎌倉」と呼ばれ、年間何10万の見学・観光の人が訪れるところでもある。
それらの神社仏閣の中で最も古い由緒をもつものに下之郷区の生島足島神社があるが、この神社はとくに生島神・足島神の2神を勧請していることによって知られる。生島神・足島神はわが国の国土生成に関係ある神で、「国魂の神」として重要な存在であるが、この神が何故ここに勧請されているかというと、それは実は信濃国の国造がここに居所を構えていたからである――ということが定説となっている。
国造というのは、古代の一国の長官を指すことばで、さしずめ今の県知事に当るとでも言えよう。つまり古代――おそらく日本国の体制が出来はじめたころ、この地に大豪族が存在していて、それが中央から信濃国の長官として任命された。その大豪族である国造が中央(宮中)から勧請した神が、この生島足島の2神であったと想定される。
今から約1,000年前に出来た『延喜式』という書物に各国々の重要な神社が記されていて、信濃国には48座数えられる。その筆頭にあるのが諏訪神社2座(上社・下社、何れも諏訪郡)で、次がこの生島社・足島社の2座となっている。つまりこの神社の祭神は信濃では諏訪神社の祭神(建御名方神・天照大神の甥といわれる、およびその女神)につぐ高い位置にあったことを物語っている。それは信濃国造が奉斎する神であったからであろう。
上田市(もと小県郡)の塩田地方は、以上のことでもわかる通り、神代のころから信濃の重要地点であった(生島足島神社の東方、東山一帯には、他田塚と呼ばれる円墳をはじめ大小数10基の群集墳のあとがあり、国造族に関係するものといわれている)。
信濃国造の後、信濃国を支配するものとして信濃守が任命された。その居所が国府である。それはおそらく千曲川の右岸に設けられ、国分寺もその近くに建設されたのである。
さてこのように塩田地方は古代からの信濃国の重要地点であった。おそらく奈良時代に施行されたと思われる「条里制」のあとが最近までいくつもこの地方にのこっていた事実がそれを証明する。そして、古墳時代から、弥生時代・縄文時代と遡っても、この地方には、各所に住民生活のあとがたくさん残っているのをみると、何千年もの遠い昔から、この地方は古代人のよりよい生活の場所であったらしい。
人間が集まって生活を営むとき、まず求めるものは食糧であろう。塩田地方は降雨量こそ少いが、信州指折りの温和の気候と肥沃な土地をもち、よく住民の要望をみたすことができた。 次に必要なことは健康の保持である。寒暑に堪える衣服や住居のこともさることながら、不時に出会う災難とくに病気やけがなどには、応急の手当てを必要とする。
医薬のことなど発達していない時代であってみれば、頼れるものはまず草根木皮である。経験からわり出した内服用・外科用の植物などあったに相違ない。せんぶり・どくだみ・おおばこなど案外古くからその薬効が知られていたものではなかろうか。
次に着目されたのは温泉による療法であろう。湯によってあたためるということが、疾病や疼痛には著効があるということに古代人も気づかない筈はない。ところがその湯が、自然にこんこんと沸き出している場所があるとすれば、誰しもそこへ寄りつくに違いない。そして湯の湧き出口やたまり場を利用して、あるいは全身を、あるいは傷口をあたため、それが想像外の治癒力となることを発見する(「傷のなおることを鹿が教えた」などという伝承はそこから生れたものであろう)。当然その場所は霊効ある場所として口コミによって宣伝される。そして人々の集るところとなる――それがいわゆる“いで湯”である。
古代の人々が何時からこの”いで湯”を利用し始めたかは判らない(おそらく太古からであろう)。『日本書紀』などわが国で最も古い記録をみても、温泉のことはかなり早くから散見する。 そしてそれは「有間の湯」「伊予の湯」「紀の湯」「束間の湯」などの名であらわれ、これらの地へは天皇なども行幸したなどとも記している。それはその「いで湯」の地が全国的に著明となっていたことを物語るもので、またその心身にわたる効能もあまねく人の心に知れわたっていたことを示唆する(とくに信濃にあった束問の湯――いまの浅間・山辺の温泉と想像される――には、行宮――仮りの宮殿――を建設する計画が練られた程であった)。
このような”いで湯”の刮目すべき効能は古代人にとっては当然神仏の霊験と解釈される。そこでそこには神仏が祀られ、人々は健康の回復を、その神仏のお陰と感謝するようになるのはごく自然といはねばならない。
いま全国各地の古い温泉地で神仏の祀られていないところはおそらく絶無である。中には霊泉または神の湯と信じ「霊泉寺」また「神の湯」というような名称をそのまま土地の名にしているところさえある。こうして”いで湯”の効能は神仏に結びつき、またその神仏を信仰することが、”いで湯”のもたらす治癒力や爽快感を味うことと相乗して、日本の温泉地はいよいよ発展するようになった。常楽寺のある別所温泉も当然その例にもれない。別所温泉が発見され、また利用されるようになったのはおそらく太古のころからであろうことは、大字「別所温泉」地域内から発見される考古学的遺物や遺跡が物語るが、近くにあった生島足島神社や国府・国分寺等、信濃国の古代の政治宗教の中枢に在った人々がこれを見逃すわけはない。
おそらく別所の湯は、国造時代――さらにさかのぼっては王子塚(塩田地区大字新町、上田市小県地方第二の大古墳、6世紀)時代の人々から利用されていたのであろう。そしてそこにはすでに原始的ながら信仰の対象がまつられていたものと想像される。それが別所の北向観音の祖形と考えて大過あるまい。
(五)常楽寺と北向観音
別所の北向観音については、別項に記述されるので、詳細はそれにゆずり、ここでは観音の成立と常楽寺の関係について考察してみたい。そのためには、いったい観音信仰というものは、何時ごろからはじまったものか記さねばならない。
いま日本に残る仏体の中で明らかに観音像と考えられるもののはじめとしては、辛亥年(651年)の銘のある48体仏(もと法隆寺、現東京国立博物館所蔵)の中の一仏があり、これと前後するものに、観心寺の観音(戊午一658ーの銘がある)などがある。このころからわが国の観音信仰が盛大となり、阿弥陀信仰よりむしろ優位をしめていることを諸種の研究が教えている。そしてその像容も、聖観音・十一面観音・千手観音などいろいろなかたちとなって国内にひろめられていったようである。
北向観音の本尊は千手観音である。千手観音は十一面観音とともに観音信仰の中心となった仏で、日本の最初の「千手観音信仰」は、奈良時代の初期(霊亀2年・716年)に唐に入って修業し帰朝した玄明という僧によって弘布されたものとされる。その後、奈良時代から、まず都を中心としてこの信仰が盛んとなり、次第に地方へ普及していく。奈良時代の造像になる唐招提寺(奈良市)や葛井寺(大阪府)等の千手観音は有名なものだが、平安時代に入って京都府広隆寺、滋賀県園城寺(三井寺)、大阪府勝尾寺などの木彫仏像は優作として名高い。
わが 長野県では県下最古最優の木彫像として知られる龍燈山 清水寺(長野市松代西条)の本尊 千手観音(重要文化財)が、平安前期の成立であることをみると、千手観音信仰は、平安前期にはこの信濃でもかなり盛んとなっていたことが想像される。
このような観音信仰の歴史をたどっていけば、北向観音の歴史はおよそ次のように推定できよう。
まず原始時代から、温泉のすぐれた効能が、偶像化され信仰の対象となり、現在の北向観音の地に祀られた。それはおそらく神とも仏ともつかないものであったであろう。その後仏教の伝来に伴って、とくに国造や国府の所在地にいち早く弘布されて来たのは観音信仰であった(中国仏教では観音信仰が阿弥陀信仰に先んじて成立したとされている)。
そこで温泉の霊験に結びつく信仰の対象は観音となった。同じ観音信仰にしてもおそらく東山道が通過し、国造・国府の所在地であったこの地には、都で最も盛に行われていた信仰――すなわち十一面観音または千手観音信仰が一番早く入ってきたことは推察に難くない。そのよう考えてくるとき、北向観音の本尊は、はじめから千手観音であったとしても、決して不合理ではない。
信濃最古の木像、前述の清水寺の本尊が、同じく千手観音で平安前期のものであり、またすぐ北方4㎞の古刹 大法寺(その前を東山道が通っていたことは既にのべた)の本尊が十一面観音で、これも平安中期の造立と推定されていることから推して、歴史的文化的意味の濃い別所の地の信仰の対象は十一面観音として、かなり早く造顕されていたかも知れない。別所の東北約10㎞の現上田市字国分には、すでに奈良中期に「天平一三年(741年)の詔」をうけて国分寺僧寺・尼寺の建設が着手され、それから数年後には大伽藍が完成していた時代であることも考えれば、少くとも奈良末期には、別所温泉は観音信仰の場所として定着していたと考えて大過あるまい。
それにつけても連想されるのは『日本霊異記』に記す小県郡を舞台とする2つの説話である。
『日本霊異記』といえば現存するわが国最初の説話集であり、奈良時代の主として仏教に関する説話を集大成した貴重な典籍として知られる。編纂されたのは平安初期、少くなくとも弘仁14年(823年)前後と考察され、平安遷都してから30年後のことで、まだ記憶に新らしかったと思える奈良時代の仏教説話が生々しく物語られている(もっとも、因果応報物語であるから不思議なことも多く記される)。この『日本霊異記』の中には全国からのニュースがたくさん集められているが、そのうち畿内(都の近辺)を別とすれば、東山道筋と東海道筋が最も多い。
その東山道筋では11の話が載せられているが、興味あるのは信濃関係の説話が2つあり、その2つともわが小県郡の出来事であったことである。
1つは信濃国小県郡跡目里(現在の上田市浦里および青木村地方と推定される)の記事で、他田舎人蝦夷という土豪があまりよくないことをしていたが、法華経の写経を行っていたため、死後、とくに生前の罪を許されて生き返ったという話。
1つは同じく小県郡康里(現東部町)の記事で、大伴連忍勝たなる土豪が氏寺をつくって信心していたがある日突然急死した。ところが5日ばかりで生き返った。その理由は生前あまりよくないこともしていたが、堂を建て信心していたからということであった。
以上の説話は何れも宝亀4.5年(773.774年)のこととしている。これは 奈良朝末期のことで、すでにこのころ、小県郡地方には豪族を中心として、写経し、氏寺を建てるなどのことが行われたことを物語っている。とすれば同じ地方にある別所の地にも、あるいは大きな勢力者がバックとなってかなり大きな霊場が生長していたことは当然想像される。 長楽・常楽・安楽のいわゆる『三楽寺』はもちろん、この霊場に伴って成立したものであろう( 常楽寺は天台宗、安楽寺は禅宗――もと律宗と伝える。長楽寺は今のところ廃滅してしまっているが、本尊や寺院配置からみておそらく天台宗であろう。しかし奈良時代には天台宗はまだ伝来していない筈であるから、長楽・常楽の2寺はもっと古い宗派であったかも知れない )。
このうち 長楽寺は、その位置からみて観音の別当寺 (お守りをする寺)であったことは間違いない。また 常楽寺は観音出現の場所 と伝えられ、観音とは特別の伝承によって結ばれている。
(六)常楽寺と「北向観音縁起」
常楽寺に所蔵される『信濃国出浦郷北向堂縁起』という記録は、常楽寺の第廿二世・廿三世となった性算と頼真が筆をとったと伝えられるが、その中に次のような記事がある。
『――天長2年(825年)、当時「七久里の湯」といわれていた別所の丑寅(東北)の方角、草木うっそうたる山裾の辺から毎夜光明が立ち上るので、里人たちはこれを奇異とし、みな心に畏れの念を抱いた。
やがて6月を迎えるころ、地底が震動し、大きな火阬(火口)から火煙が噴き出るようになった。時の信濃守護職は、これを驚き憂え、直ちに京都に上って事の次第を奏上した。朝廷では、これは「仏」の出現される瑞兆(めでたいしるし)であろうとされ、時の比叡山 延暦寺の座主である慈覚大師(最澄の弟子 円仁)に数名の僧を添えて信濃国別所へ遣わされた。
別所へ到着した慈覚大師は、直ちに火阬に向って台密による安鎮の秘法を修せれらること17日、10月25日の明け方に、突如阬中から紫雲が湧き起り、金色の光明があたりを照らしながら南方へ飛び去った。大師をはじめ里人たちはこの奇瑞を喜び、光明の向った南方の北向山の山麓あたりを探したが何も見当らなかった。
ところがその夜、大師が禅定(仏を念ずる姿)に入られると、虚空から妙なる声でお告げがあった。
「汝をこの地に招こうとして、火阬に霊異をあらわしたが、汝の深甚な修法をうけ、今この北向山の桂の梢に止まっている。わが止まる所は有縁の净地であるから、わが像を北に向けて安置せよ。そうすれば北斗星が世の指標であるように、われもまた一切衆生(生きとし生けるもの)の依估(よりどころ)となろう。」
そこで大師は桂の梢を仰ぎ見られたところ、そこに金色の千手観音のお姿を拝見することができた。直ちに一刀三礼の古式によって観音の木像を彫まれ、その胎内に樹上に拝見した仏体を納められた。ついで良木、名匠を集めて北向きの観音寺院を建立、天長3年(826年)10月25日に遷座、法要を営んだ。これが別所北向観音の草創である。――』
以上が常楽寺所蔵の「北向観音縁起書」の伝える概要である。もとより伝承のことであるから、学問的に真否は確めようもなく、またその必要もないが、ただこの内容から想察されることは、常楽寺はもともと北向観音と並々でない関係をもつ寺であったということである。現に常楽寺境内には、その信仰の中心に当るべき場所に巨大な石造宝塔が建ち、そこが北向観音出現の火阬跡と伝えられている。
この石造宝塔は多重塔形式のものであるが、その様式からみて、少くも鎌倉前期に遡るものであることは間違いなく、その故に国の重要文化財に指定されているのである(石造多宝塔で国の重要文化財に指定されているのは、この塔の他に滋賀県に1基あるだけである、68頁参照)。
またこの石造塔周辺から無数の五輪塔・宝篋印塔・多重塔が発掘され、その一部が、この重要文化財指定の多宝塔の前面、参道両側に並べられている。これらをみると、鎌倉~室町にわたる長い時期に、この地域一帯が一大霊場であったことが想像される。
(七)常楽寺の性格
北向観音堂の直接の別当寺は、長楽寺であったことは、長楽寺の遺地構から推して疑いない が、その長楽寺と常楽寺はもともと深い関係があり、あるいは長楽寺は観音堂を守って台密の信仰方面を担当し、 常楽寺は同じく台密の道場として修学研鑚の場となっていた のではなかろうか。
常楽寺の本尊は妙観察智弥陀如来という。「妙観察智」とは密教では五智の一で、「西方無量寿仏の智徳に配す」とされる。つまり阿弥陀仏の智徳を表す意味である。 常楽寺が本来学問の寺であったことは、その本尊によっても示唆されているといってよい。その故かこの寺は、由来学問修業の道場であったことが種々の史料によって立証されている。 以下その若干をあげてみよう。
常楽寺の所在する「別所」地域は、上田市塩田地方に所属している。この塩田地方が古代信濃国の中心的位置を占めていたことは、すでに述べたが、その性格は中世に至っても失われていなかった。例えば、平安末源氏の嫡流から出て、専横を極めた平家打倒に成功した木曽義仲が、実際に挙兵したのはこの塩田地方のすぐ東隣りの依田荘からであった。
そのころ塩田地方は塩田荘といって、当時の最大実力者である後白河法皇の后 建春門院の領地であった。義仲の挙兵は、この塩田荘を勢力下におくことも、そのねらいの1つであったに違いない。というのはそのころから塩田地方は東信濃の政治文化の一中心地であったと考えられるからである。たとえば塩田の前山にある中禅寺薬師堂の本尊薬師如来は、信濃でも有名な古仏だが(国の重要文化財に指定される)、それはとくに平安末期のいわゆる”定朝様”の典型として知られる。このことはこの仏体を安置する薬師堂(同じく国の重要文化財に指定、鎌倉初期)とともに、塩田地方は、平安末期からすでにすぐれた仏教文化をもっていた有力な証拠である。
木曽義仲は、平家打倒には成功したが、数年にして源頼朝のため減される。しかしこの頼朝も塩田地方を極めて重要に考えたことは、まず腹心の島津忠久(惟宗忠久)を塩田荘の地頭に据えたことによっても察することができる。
この頼朝も三代にして子孫を失ったが、その勢力をうけついだ執権 北条氏はまた塩田を重要視した。北条氏で本家につぐ重要な地位にあった北条重時を信濃守護に任じ、その本拠を塩田においたと推定されているが、それは塩田地方を極めて重要視したからにほかならない。塩田の地が「信州の学海」として天下に知られるようになったのは、このころからであった。
無関普門(大明国師)といえば、信濃の生んだ日本の名僧である。彼は後に天下第一といわれた京都南禅寺の住職となった人だが、その塔銘(行跡の記録)によれば、この無関普門は幼時塩田地方に学んだことが記されている。その文にいわく「――(彼は)信州に却回して、塩田に館す。乃ち信州の学海なり、凡そ経論に渉るの学者、簦を担い笈を負い、遠方より来って皆至る。師その席に趨り虚日なし――」とある。意訳すると「彼は信州にやってきて塩田にとどまった。そのころ塩田は”信州の学海”といわれ、およそ学問に志す者は、傘をもち、本箱を背負って、遠方からみた集って来た」ということになる。これは「塩田」というところが、当時信州の学問の一大中心地だったことをよく物語っている。そしてその中から無関普門のような大器が生れたのであった。
それでは、それらの学徒は一体どこで勉強したのだろうか。そのころ学問といえば、まず仏教を指すといってよい。とすればその勉学の場所は寺であったと考えねばならない。それではその寺は――となると、まず第一に常楽寺の名が上がってくるのである。それには次のような理由がある。
このころの寺は、まだ鎌倉仏教が興隆する前のことだから、天台宗とか真言宗という宗派の寺がまず想像される。塩田地方の天台・真言の寺で、たとえ寺伝にせよ、平安初期の創立と称するもので現存するのは、常楽寺と前山寺の他にはない。前山寺は真言宗であるから、天台宗では常楽寺が唯一の寺である(但し長楽寺が天台宗であるとすると、2ヵ寺となる)。つまり常楽寺は、寺伝による限りは、塩田における最古の寺の一つということになるのである。
次に樵谷惟仙の問題をあげねばなるまい。鎌倉時代の中期、信濃からまた名僧が出た。樵谷惟仙といい、木曽義仲の血をひく人とされる。若くして中国(当時は宋)に渡り径山という霊場に入り、無準師範・山祖智というような名僧の教へを勉強して帰り、鎌倉の執権 北条時頼に見出されて、別所安楽寺を創建したと伝えられている。
別所安楽寺はもともと律宗であったかと想像されているが、このときから禅宗となったらしい。しかも信州の禅寺としては最古の名刹として知られ、その境内にある八角三重塔(鎌倉末の建築、国宝、二世恵仁:中国出身の僧の建てたものと想像される)は、わが国唯一の八角塔として名高い。
この樵谷惟仙は2度も中国に留学し、鎌倉五山の第一建長寺の開山となった傑僧 蘭渓道隆と中国時代から親交のあったことも証明されており、鎌倉中期を代表するわが国の名僧の1人である。
その樵谷惟仙が実は幼時、常楽寺で勉強したことを物語る資料がある。それは現在安楽寺に所蔵される「文禄の塔銘(文禄3年・1594年に、時の安楽寺の中興開山 高山順京和尚が、次世の将奕和尚とともに記録したもの)」の中に、「崇福山安楽禅寺開山樵谷伊僊(惟遷)禅師は、源朝臣木曽の生縁なり。隣寺の常楽教寺において、年齢16歳にいたるまで、天台の学をなす(以下略)」と記されていることである。
これによれば、安楽寺の開山 樵谷惟仙は、幼時隣の常楽教寺に於て勉強したと明記している。高山順京といえば、室町末期の信濃の禅僧として有名な人で、佐久郡の竜雲寺(佐久市)・水内郡の玅笑寺(長野市)など多くの名利を開いた天英祥貞の法系をつぎ、真田氏に招かれて信綱寺を開き、さらに別所の安楽寺の中興開山となっている。この人の記録にあるのだから、樵谷惟仙が幼時常楽寺において勉強したという記事は、ほぼ確実な資料に基くものと考えてよいであろう。しかも 常楽寺を常楽教寺とあえて記しているところをみると、中世末まで常楽寺はいわゆる『学間寺』としての性格を失っていなかったことを暗示している。 樵谷惟仙は正に”本箱を背負い、傘をもって”勉強のために塩田に来た1人であった。そしてその参じた寺は常楽寺であったのである。
また、横浜市金沢の称名寺という名利には、有名な「金沢文庫」があり貴重な資料を多数保存しているが、その中に「十不二門心解」という古写本がある。これは正応5年(1292年・鎌倉中期)に称名寺の僧が、信濃国塩田庄別所常楽寺において書写したものであることが、その奥書によって知られる。
「十不二門」というの「不」というのは、「法華玄義」「十不二門指要抄」などとともに、天台宗の基本的な規範を説く書で、「十不二門心解」は、それに対する新らしい解釈を試みたもの、天台宗にとっては、なくてはならぬ重要な書とされる。その書が、別所常楽寺で書写されていることは、この寺が古くから天台宗の教学の寺であったことを物語るものといえよう(なお、この記録は塩田庄別所という名が文書に表れた最初のものとして注目されている)。
さらに時代は下るが、享徳元年(1452年・室町時代初期)、天祐という僧が、信濃国常楽寺において法華経を書写し、寺の裏山へ埋めたという記録が残っている(『信濃史料』第八巻301頁 「願文集」)。
その記録(願文)の中の一節に「――信濃国霊験の奇は、常楽寺を以て無雙となす。(中略)3体の観音は安置の本尊たり。この経この寺、仰ぐべし、信ずべし。弟子幸い当国に来って当寺を礼するを得たり。」という書き出しで、その後につづけて「自分は滅罪のため、また善根を植えるため、この寺に法花(法華経)を安置したいと思う。寺の四辺をみると、後に高山がある。そこで、その山麓に小庵を構え、難解の経を二部浄書し終った。ここに村人とともに十種の供養を行うのである――云々」と記してある。
この記録の中に「信濃国霊験の奇は、常楽寺を以て無雙となす」とあることに注意すべきで、常楽寺の霊験は信濃随一とされていたこと、ここで写経することは、非常な功徳を得ることになる――と信ぜられていたことがわかる。
以上のような確実な資料をあげてくれば、常楽寺は、もともと天台宗の根本義を学ぶ、いわゆる”学問寺”として成立し、また発展して来たと考えて間違いあるまい。そこに「信州の学海」の中心たる地位を占めていたのではないかという推定が生れ、また鎌倉中期の名僧、無関普門やその多くの学徒が塩田で学んだという場所も、実はこの常楽寺あたりが中心ではないかという想定も生れる。
今、常楽寺を参詣するとき、まず気付くのは、別所将軍塚の駐車場からの参道が直線となって、常楽寺寺域に至り、それを延長すると、例の観音出現の火阬跡といわれる石造多宝塔に至ることである。
天台・真言宗等成立の古い寺の参道は直線的にまず信仰の中心である場所に至り、その参道の脇に別当としての寺があるのが通例である (例えばこの近くでは別所観音堂と長楽寺、上田市東前山の三重塔と前山寺、青木村当郷十一面観音堂と大法寺、上田市小泉大日堂と高仙寺、など何れもそうなっている)。常楽寺もおそらくもともとその古制を守っていた寺であったと考えられる。
なお寺の背後の丘陵をこすと、そこを北谷という。その最高処近くに御堂沢という地名があり、そのあたりに広大な平地がある。おそらく御堂(仏を安置する堂)があったに違いない。なおこの周辺に尾根を削平して造成したと思われる小平地がいくつか散在して、大平山・経が峯などという地名も古地図には見える。このあたり全部が、「常楽寺山」となっているが、あるいは、この北谷一帯の数多い平地に僧坊が並び立っていて、それが”簦を担い、笈を負って”勉学修行のためやってきた学僧たちの修行の場所となっていたのかもしれない。もちろん今後の検討にまたねばならないが、本坊を中心とする「小比叡」のような景観を呈していたことも充分想像されることである。
(八)近世の常楽寺
なお本坊常楽寺のみについていえば、室町戦国のころについては詳らかにしないが、元和3年(1617年)上田藩主 真田信之が一貫二百文の地を寄進し、同年天海僧正(徳川家康に最も信任された僧)が、上野国世良田の長楽寺で灌頂大法会を行ったとき、常楽寺も加衆し、それ以後この長楽寺の末寺となった。
明治2年(1869年)比叡山本宗大会議があり、これから延暦寺直接の別格本山となって今日に至っている。
北向観音が常楽寺の直轄となったのは元禄7年(1694年)から で、このとき以降、北向観音でとり行われてきた一切の法会、行事は常楽寺が担当しているわけである(「北向観世音堂」の章参照)。
後章に現在まで五十六世を数える常楽寺住職の系図を掲げる(常楽寺歴代系譜参照)。常楽寺の歴史を担って今日あらしめた人々の系譜である。その経歴の詳細など不明に属するところが多いのは残念であるが、将来研究が進むにつれて、なおその事跡等が明らかとなり、県下宗教史に多くのことを加えられるであろう。

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