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温泉薬師瑠璃殿
この温泉薬師は伝説には行基菩薩の創建、慈覚大師の再建といわれますが、以前の薬師堂の位置は今の「大師湯」の西隣りであったようです。
寛保2年(1741年)湯川の氾濫によって薬師堂は流され、寛保4年から湯本講中で再建を計画したようです。そして今の建物は文化6年(1809年)に湯本講中の積立金により再建されました。




北向観音堂
開山:慈覚大師
中興開基:平維茂
中々興開基:海野広道、塩田北条氏
本尊:北向観音(千手観音)
本尊は千手観音菩薩。御堂は北向に建てられていて、古くから北向厄除観音の名で広く知られ親しまれている。この北向であるということについては、長野の善光寺の南面と相対するものといわれ、善光寺の未来往生と、この観音の現世利益の功徳は一体のもので、その一を欠けば”片詣り”であるという。この信仰はかなり古くからあったと想像され、信州では厄除観音の霊名で名高い。
(一)開創の由来と歴史
開創の由来等については「北向堂大悲殿本起」に詳しいが、それを概略記すと次のようである。
天長2年(825年)信濃国小県郡出浦郷別所の北の方角より俄かに地底が鳴動し火抗が出来火煙が立上り、砂や石を噴上げ、人畜に大きな被害を与えた。里人は大いに恐れて事の子細を上奏した。朝廷は比叡山 延暦寺の座主、円仁慈覚大師を遣わし、安鎮の祈禱を厳修すると、やがて火は鎮まり、火抗より紫煙が立上り、南方へとたなびき、北向山の桂の梢に止まった。大師がその夜禅定に入ると、尊像が空中から「百般のわざわいを除く有縁の地であるから我が像を北に向けて安置せよ。北斗星のように世界の依估となって済度なさん」とのお告げにより霊像を模刻し北向に御堂を建て、毎月25日を北向観世音の縁日と定めたという。
その後安和2年(969年)、信濃国の戸隠山に棲む『鬼女紅葉』を勅命によって討伐に向った平維茂は、鬼女の妖術にかかり進むことが出来ず、この北向観音に祈願し、霊剣を得て退治することが出来た。維茂はその御礼に一山を修理し、三楽四院六十坊を建てて寄進した。別所の地にある将軍塚はその供養塚であるといわれている。
つぎに養和元年(1181年)木曽義仲が隠れていた木曽を出て近くの依田城(現丸子町依田)を拠点として、平家軍追討のため横田河原(現長野市横田)の戦いに出陣した際、戦乱によって別所の寺堂はことごとく焼失した。建久8年(1197年)に源頼朝の命により海野広道が再建し、建治4年(1278年)に塩田北條氏によって再々興された。
以上のようなものだが、これを明らかにする史料はない。しかし縁起は莫然と作られたものでなく、これらの伝説はいろいろの事情によって綜合成立したものである点注意したい。
まず観音堂の位置であるが、御堂に向って湯川をわたり参道が続いている。御堂の正面にある石段の右側に、樹齢1,200年といわれている桂の名木が立っている。この根方一帯に、古来から、別所三楽寺(長楽・常楽・安楽)の1つ、長楽寺があったとされている。古文書に「 北向山 観音院 長楽寺 」と記されており、参道・寺堂の配置から長楽寺は観音をまつる別当寺であったと想像される。現在長楽寺に関する史料は全く見当らないが、恐らく災害にあって観音堂だけが免れたか、あるいは再建され、長楽寺は廃絶したものと思われる。以来別当寺のない観音堂は長い年月の間、庶民の信仰によって法灯が護られたものであろう。
では北向観音の起原をうかがい知ることのできる史資料について記して見たい。
(二)史資料から起源を推る
所在の御堂の地域一帯を院内といっているが、御堂の西方湯川の上流300m余の川の両域からは数多くの古い石塔が散見されている(その大凡は現在常楽寺の多宝塔の両側に移されて供養されている)。
特に大正13年(1924年)に御堂の西方200m余隔てた東院内地籍地中から、多宝塔が5基、宝篋印塔が29基、五輪塔が20基、多層塔については数は不明だが屋根部が59発見され、三重乃至九重の多層塔とすれば20基から7基と考えられる(小山眞夫氏の『信濃国小県郡の石造多層塔』より)。この夥しい石塔群の発見は、学界の注目をあつめた。当時の京都大学天沼博士の鑑定によれば、多宝塔の1基は平安時代、2基は平安末か鎌倉時代の初期、2基は鎌倉の中期より末期のものであり、特に時代の古い多宝塔としては我国に類例がなく、5基の多宝塔がそろって出たことは驚くべきことであるとされた。また出土の地域が観音堂の別当 長楽寺の境内と思われていることから、往時此の地が高野山や善光寺に遺骨や遺髪を送り信仰仏の加護を仰ぐと同様に、遠近の土豪等が供養した残影と思われ、観音堂を中心とした一大霊域と考えられている。
平安時代から鎌倉時代の塩田地方とその周辺の歴史については、他の章に黒坂周平先生がくわしく述べられているが、北向観音堂の縁起等の関係上、歴史の流れについて重複するむきもあろうがお許し願って、少しく記してみることとする。
例えばこの地方には平安時代の中期の造立といわれる大法寺の木造十一面観音、普賢両菩薩像や、平安末期の仏堂建築、中禅寺の薬師堂と薬師仏など東日本を代表する建物や彫像が現存している。また平安時代の終期に平家打倒の勇名をとどろかせた木曽義仲挙兵の根拠地は、塩田の東境に当たる依田城であった。そのことはやがて天下を統一した源頼朝が、義仲の拠点であった塩田から上田地方にかけての支配に特に留意したことは史実に明らかである。北向堂の縁起には、義仲の平家追討の際、別所の寺堂は戦火にあってことごとく焼失。その後頼朝によって再興されたと伝えられている。
頼朝没後、鎌倉幕府の意向があってか、文化人の宣撫によって塩田の寺は学問の修業道場として広く世間に知れわたった。「塩田は信州の学海なり」。京都南禅寺の開山、無関普門(大明国師)の塔銘の一節はその実情をよく伝えている。
鎌倉時代の中頃、幕府の執権 北條時宗の補佐の任にあった北條義政が、蒙古襲来という国離の後、突然重職を退ぞき塩田に隠棲するという事件があった。ちょうどその頃、別所の安楽寺には鎌倉の建長寺の開山 蘭渓道隆禅師と交流のあつかった樵谷惟仙という名僧がいた。木曽義仲の末孫と伝え、幼少の時期に隣りの 常楽寺 で天台の学問を修め、やがて中国に渡り修業し帰国の後安楽寺を開いた我国で名の知れた高僧である。北條義政が塩田に隠棲したことの理由となった重要人物と称されている。
義政が文化人であった事は「続古今」「続千載」その他の勅選和歌集にその名をとどめていることでもわかる。鎌倉の地を無断で離れた理由は、何か西行法師の心境に通ずるものを感ずるが、塩田の歴史的環境が何よりも彼を引きつけたものと思われる。別所の地名が北條氏の別荘の地であるという見方も理解出来るわけである。
やがて別所の安楽寺に我国唯一の八角三重塔が建てられ、塩田地方の文化は北條氏の外護によって大いに栄えた。八角の塔は塩田北條氏が残した偉大な仏教文化のモニュメントである。
(三)別所温泉とのかかわり
別所の地で忘れてならぬ歴史的要素は、信州で最も古い温泉の1つ、別所の出湯である。太古から湧き出ていたこの温泉は、人の住みついた古代から限りない恵みを庶民の身心に与えたことであろう。湯の効能は神仏の霊験と考えられ、まづ観音様がまつられた。これが北向観音であると思われる。
仏教発祥の印度には懸崖に観音がまつられているが、我が国でもその例が多い。この観音堂も後世に石垣によって改修されているが、最初は崖の上に建てられたものと思われる。因みにこの観音堂の西方にそびえる夫神岳の麓には観音沢という地名があり、みどの沢(御堂沢)地籍からは古代の寺跡を思わせる布目瓦が発見されている。やがてこの北向観音を中心に長楽・常楽・安楽の3寺が建てられ、鎌倉時代には仏教学問の道場としての役割を果したものと思われる。
我が国は温泉国で開湯の伝説が多いが、『日本書記』には”有馬”・“伊子”・“束間”など現存する温泉地の名が記されている。この別所温泉は古来より「ななくりの湯」と言い伝えられ、 歌枕(歌の名所)にその名をとどめている。鎌倉時代の初め(1234年頃)順徳天皇の著わした『八雲御抄』という歌学書の名所の部に、温泉の名が9か所挙げられているが、「ななくりの湯」の名があり、この湯は「信濃の御湯」と明記されていて、当時はかなり有名な温泉だったことをうかがわせる。なお、信濃国には「ななくり」の地名は4か所あるが、いづれも史料が乏しく、塩田の歴史的背景から「ななくりの湯」は別所の温泉と見るのが妥当と思われる。なお詳しくは今後の研究に待ちたいと思う。
以上北向観音堂の起源を塩田地方の傍証史料によってたずねたわけだが、この御堂が史料によって確かなのは室町時代から戦国時代の約250年を経た、真田から江戸時代になってからである。
(四)史料にみる近世の歴史
そもく北向観音堂は長楽寺が別当寺であったことは前にも述べたが、長楽寺が廃寺後は住民の厚い信仰によって長い年月の間法灯が守り続けられたものである。言いかえれば、いかに大衆が心の支えをこの観音様に求め続けたかが感ぜられる。
元和5年(1619年)の上田領寺社領改めにも観音堂の寺領はない。元禄4年(1691年)の塩田組寺領調べに北向堂として500文が認められている。3年後の元禄7年になって今まで別所村の所有であった観音堂がこの年常楽寺持となっている。以前よりたえず常楽寺が護持につとめた縁によるものであろうか。以来今日まで約300年間、常楽寺が別当寺として御堂を護り続けている。
「記録」によると、本堂は正徳2年(1712年)5月6日夜、観音堂と隠居家(三間に五間半)が火災により焼失し、8年後の享保4年に間口五間、奥行七間の観音堂が費用319両、米35石で再建されたとある。今の御堂の原型である。この火災のため「古仏」も焼失したので、国分寺村の仏師 藤川弁朝に依頼し、常楽寺で2ヵ年の歳月をかけ新仏が作られた。假堂を造り、正徳4年1月入仏式を行ったという。常楽寺四十六代住職翁玄の時代で、上田領主 松平忠周より用材の寄附をうけ、諸費用は翁玄の自費であったという。中興と称せられた住職であり、近世の北向観音堂の名が世間に広まったのは此の時代頃からと思われる。それは、奉納絵馬や境内に信者の寄進による石塔、燈籠などこのころのものが最も多いからである。
絵馬の最も古いものは享保7年(1722年)の銘のある一匹馬が画かれたもので、本堂再建後3年のことである。絵馬は寺社に祈願するとき、または祈願成就のお礼に奉納する板絵のことだが、起源は大変古く生活の手段であった馬と人とのかわりに起因するといわれ、本来の図柄は馬であった。室町、桃山時代に社会の風潮から上流武士や有力の商人らが専門の絵師に豪華な絵を描かせ奉納した。
この観音堂には絵馬の多いことと優秀な作品があることでは全国でも有名である(現在は御堂を取りまく回廊や、堂内に数多く掲げてある)。安産の感謝の図、戸隠山の鬼女退治の図、善光寺の大地震の災難を免がれた感謝の図、和算(日本の数学)学者が難問の解法を図示して感謝した算額、おびただしい群馬の図、養蚕家が掲げた繭をあしらった図など多彩である。中でも有名なのは享保15年の銘のある江戸吉原の遊女を描いた「三浦屋店頭の図」で、江戸歌舞伎の「助六」の名場面が見事に描かれている。願主は海野町(現上田市)在住の18人衆。この板絵は国の重要美術品に指定されている。また、葛飾北斎の筆と認定されている中国の『三国志』から取った、劉備が愛馬にまたがって河の急流を渡る絵もすばらしい。
・・・。








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