1
京都の東寺は、弘法大師「空海」ゆかりの寺院である。今から二年前(2003年)の七月に初めて参詣、空海自身の企画による「立体曼荼羅」の仏像群が堂内全体に配置され、圧倒的な迫力だったことを憶えている。その東寺参詣の折に境内で土産物を買っていたら、そこに東寺の寺紋としての「八雲紋(やくものもん)」(上の画像)を扱っていた。全体として八つの雲の形で構成され、その中心に少し大きめの「雲のかたち」と、その周囲に七角形状になるよう七つの「雲のかたち」が配してある珍しい紋章である。当時は、私自身が「七角形」に強く魅かれていたこともあり、この寺紋にどういう謂れがあるのか、また「八雲」とくれば「八雲立つ出雲・・・」という「出雲」にかかる枕詞ということで、島根県の「出雲」とゆかりのある紋章なのかなど、とても知りたいという思いが湧き上がり、境内にある寺務所で僧侶達に訊ね回ったことを覚えている。詳しい話は聞けなかったが、やはり山陰の出雲国ゆかりの寺紋であることは確かなようで、境内の鎮守社が出雲系の神社ということが、寺紋の由来につながっているとのことであった。つまり、現在の「東寺」がある場所は「もともと出雲系の神社の土地だった」ことがうかがえるというわけだ。そういえば現在でも、境内南側の出入り口の近くに、お寺を守る出雲系の神社が存在する。島根県の「出雲」といえば、出雲市大社町に鎮座する「出雲大社」が有名だ。その出雲大社の北側には神体山の「八雲山(やくもやま)」である。その八雲山の南側の麓と出雲大社境内の北側の接合部、まさに神体山と出雲大社を結ぶ境界域のところに「スサノヲ」を主祭神として祀る「素鵞社(そがのやしろ)」がある。この「素鵞社」は出雲大社の摂社なのだが、出雲大社に参拝される際は、「素鵞社」への参拝も是非お勧めしたい。当社の参拝の際には、神社の裏手に回り山裾の岩肌の前に立ち、八雲山の息吹を直に感じていただきたい。「我が心すがすがし・・・」の素晴らしい神気をいただくことができよう。そして出雲にはもう一つの有名な神奈備山たる「八雲山」がある。それは、島根県大原郡大東町にある「須我神社」(主祭神 スサノヲ)の神体山であり、この八雲山の山頂あるいはその近辺が、スサノヲとイナダヒメが初めて住居をつくり生活を始めた場所とされている。この山の山頂部はなだらかな丘陵になっており、ここから日本海や宍道湖方面を眺める景色は素晴らしい。かなり細い道だが山頂近くまで車で行けるので、山麓の須我神社に参拝されて時間にゆとりのある方は、この八雲山への登拝をお勧めする。古代出雲の首長が「国見」をするかのような幻想的世界を、今に体感することができよう。出雲大社境内の「素鵞社と八雲山」、そして大東町の「須我神社と八雲山」の関係は相似象・・・。つまり、この「スサノヲ」を祀る二社と二つの「八雲山」は、互いに似ている関係にあると言ってよかろう。おそらく出雲国におけるスサノヲ祭祀は、大東町の八雲山と南麓にその原型があり、それが歴史の変遷により分祠された社地が、出雲大社の後方にある八雲山と南麓であったと考えられる。それを示唆するかのように、中世の出雲大社は「神仏習合」の影響を受けて、一時祭神は「スサノヲ」であったとする見解があるようで、実に興味深いところである。さてここで、「八雲紋」と「スサノヲ」の関係について、さらに深みのある解釈を試みてみよう。この「スサノヲ」とは、象徴的に「剣」と解釈することができる。そしてこの「剣」は、地球の「地軸」を暗示している。その地球の回転を司る「地軸」の極北方位(私たち日本人は北半球に住んでいるという前提)に「八雲の紋」を想定すると面白い。つまり「八雲紋」の中心の雲を「北極星」と見立て、その周囲を取り巻く七つの雲を、北極星を中心として巡る「北斗七星」ととらえてみるのだ。おそらく出雲におけるスサノヲ祭祀の本質とは、地球の地軸に対する信仰、すなわち「北辰(北極星と北斗七星)信仰」であったと観ることができる。となれば、出雲大社の主祭神の「オホクニヌシ」を「地球」そのものとしてとらえ、その背後に「スサノヲ」の役割たる「地軸」を想定でき、さらにその奥にある神体山の「八雲山」山頂から天空に向かう「八雲紋」たる「北辰」の姿が彷彿としてくる。これまでの日記に書いてきたように、どうやら「南北軸」とは地球の「地軸」を意味しており、「スサノヲ」とはその象徴言語と解釈してよさそうである。「八雲」をキーワードとして此処まで来たわけだが、そこで今一度「紋章」としての「八雲」をおさらいしておこう。この「八雲紋」は、全体的に七角形状だと言ったが、普通は七角形であれば、その形状を「七」に纏わる形ととらえがちである。ところが、この七角形状の紋を「八雲紋」というのは、一体なぜなのだろうか・・・。それは、日本の紋章における独特の数解釈にありそうだ。例えば「七曜紋」という紋章の形は六角形状である。それは同じ直径の円を、中心が一つとその周囲に六つの円を配した、計七つの円で描かれた紋章で、それを「七曜紋」と名付けているのだ。つまり数の付く紋章の日本的な数え方とは、中心も一として数に加えて全体を数えるのが特徴といえる。このことは年齢の数え方の、いわゆる「数え」で何歳という、一般の年齢よりひとつ上乗せして数える「しきたり」と繋がりがありそうである。以上のことから、七角形状の「八雲の紋」を、中心の雲とその周囲の七つの雲の数を合わせて「八」とする、日本的な捉え方が分かっていただけたものと思う。しかし、島根県の出雲地域で見かける「八雲紋」は、確かに雲を象っており様々な種類があるのだが、魅力的だと思える紋には出会っていない。やはり京都の東寺で知った七角形状の「八雲紋」が、私には強く印象に残っており脳裏から離れないのである。この「七角形」が面白いのは、ある条件でこれを立体的に構成した場合、中央部が「開いた」かたちになるところだ。平面の図形として「正七角形」を描こうとする場合、コンパスと定規だけでは描けないとされているが、次元を一つ加えた立体的感覚で構成法を模索すると、意外と簡単に具現化できるのである。ある解釈によると、「七角形」は「破壊」と意味付けされる。これが、まさに言い得て妙で、中心の「八」の位置が開いた状態とは、八が開く・・・「八開」・・・「破壊」・・・「はかい」というつながりを見出せ、この「言葉遊び」こそ日本語活用の醍醐味であり、「八開」とは「末広がり」という吉兆の意味合いにもつながる。また立体的な「七角形」の中心部が開いたその破壊性とは、ただ単なる破壊一辺倒ではなく、「創造的な破壊」を意味した造形だと捉えることができる。例えば、火山の噴火を創造の源とすれば、噴火には相応の破壊も伴うわけで、「創造」と「破壊」は常に表裏一体というわけである。以上の観点から、この「立体的な七角形構成」(下の画像)を、私なりの「創造的破壊」という意味合いでとらえてみた。「創造的破壊」の形があるなら、その反対の「破壊的創造」の形もあるわけで、また双方の境界に「安定的維持」と想定する形も加えて、次回では三種類それぞれの形の関係性について論じてみたい。
2005年06月29日
閲覧総数 5062
2
さて、今回の”出雲行脚”(令和6年6月中旬)において久しぶりに参拝したのは、雲南市大東町に鎮座する「須我(すが)神社」であった。この地で詠まれ日本最初の和歌とされる『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を』があるのだが、この歌の中に登場する「出雲」こそ、「出雲」という地名の起源とされている。上の画像は、鳥居の近くにあった由緒を撮影したもので、上記の和歌が詠まれた経緯などに詳しい。この由緒にあるように、御祭神は「スサノオ」と「イナダヒメ」の夫婦神と、その「御子神」となっているのだが、”出雲口伝”や研究者のサイトを調べていくと、「スサノオ」とは〈古代出雲王朝〉の“初代の王”である「菅之八耳(スガノヤツミミ)」のことであり、また初代王の后は「稲田姫(イナダヒメ)」であって、上記の「スサノオ」の妻と同じ神名であると、ようやくこの期に及んで知ることとなった。ところが、いわゆる”記紀神話”においても、上記の初代出雲国王「菅之八耳」という王名に似た「稲田宮主 須賀之八耳神」という神名があり、「イナダヒメ」と結婚した「スサノオ」が出雲国の須賀に宮を作った際、その宮の首に任じられた「アシナヅチ」(イナダヒメの父)に、この名が授けられたなどの諸説があるので留意すべきところではある。ここで、さらに「スサノオ=菅之八耳 説」を補強するとすれば、由緒にある「御子神」の「清之湯山主三名狭漏彦八島野命」(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)とは、つまり西出雲王国の第二代”大名持”で神門臣家(家祖)の「八島士之身」(やしましの/八嶋篠)と、東出雲王国の第三代”大名持”で富家(家祖)の「兄八島士之身」(やしましゅ/八嶋手)の兄弟と認識できるので、やはり「スサノオ」とは”出雲王国”の初代王たる「菅之八耳(スガノヤツミミ)」ということになろう。以上のことから・・・当社の名称である「須我(スガ)」とは、初代王の神名にある「菅(スガ)」を意味していたのだ・・・と、この文章を書いている過程で、自分なりに腑に落ちたのであった。既に”出雲口伝”を読み馴染んでいる方は、「スサノオ」とくれば…出雲における「徐福」の和名…(※)という捉え方(スサノオ=徐福 説)が定着していると思うのだが、現時点で「スサノオ」に想いを馳せると、すでに「徐福」の印象は霞んでしまっていて、今や「菅之八耳(スガノヤツミミ)」の御姿が深く大きく浮かんでくる。(※)ここで「スサノオ=徐福 説」について興味のある方は、各自で検索し確認して欲しい。さて、この「スサノオ」たる「菅之八耳」を祭神として祀る「須我神社」の神体山は、上の画像の掲示板に書いてあるように「八雲山(やくもやま)」(標高426m)であり、日本初の和歌の冒頭にある「八雲立つ」の「八雲」にちなむ山名となっている。これまで十回以上、この「八雲山」の山頂に立ったことがあるのだが、いつも当山の八合目辺りまで続く細い車道を利用しており、上の画像の掲示板は山上の駐車場に近い登山口に掲げられたものだ。八合目の登山口から少し歩くと、上の画像に映る最初で最後の分岐点を示す標識が現れる。ここから緩やかな山道を登っていけば約20分で、なだらかな丘のような山頂に到着する。そして上の画像は、「八雲山」の山頂から東北方面を撮影したもので、汽水湖の中海から弓ヶ浜を経て、日本海に突き出た島根半島の東部方面が映っている。なだらかな丘陵地ともいえる山頂部は、上の画像のように展望の良い場所で、よく晴れた日には東方に伯耆富士と謳われる「大山(標高 1,729m)」や、西南方面には「三瓶山(標高 1,126m)」を展望することができる。(以下の関連記事は”晴れた日”に「八雲山」山頂から撮影した展望画像を掲載している。)※関連記事・・・令和元年【秋】出雲行脚の巻(一)実は、この「八雲山」を神体山とする「須我神社」の祭神「スサノオ」を、上記の「菅之八耳(スガノヤツミミ)」と確認あるいは感得したのは、図らずも昨日〔7月17日〕の夕刻であった。…そういえば〔7月17日〕は何かあったな…と思い、ハタと気づいたのは・・・京都の「祇園祭」でも最高の見せ場とされる「山鉾巡行」が斎行される月日だということであった。この”日本三大祭”のひとつ「祇園祭」(開催期間…7月1日~同月31日)は、京都市右京区に鎮座する「八坂神社」(主祭神「スサノオ」)を中心に斎行される年間でも最大の祭事なのだが、その当社の主祭神こそ「スサノオ」たる「菅之八耳(スガノヤツミミ)」だったということになる。・・・これは”おそらく”というより、”完全に導かれている”・・・と、素直に感じた次第である。山頂部にて「ひとり」でまどろむこと約一時間、解放された心身で天頂方面を見ていると、それまで覆っていた雲が次第に薄れ、ついには上の画像のように天空が開き青空が見えてきたのには感動した。その天頂の”晴れ間”に感動して思い出したのは、今回の旅路でも類似の造形を持参していた『中心部の開いた立体七角形』である。つまり頭上を見上げた際、徐々に雲間が開いて青空が広がっていく光景が、私には『立体七角形』の中心部の開き加減に連動するかのように観えたのである。それと同時に、かつて京都市南区にある世界遺産「東寺」の境内で見かけた”寺紋”の「八雲の紋」(下の関連記事の冒頭画像に掲載した御紋で、境内に鎮座する出雲系神社の神紋を由来とする。)が、それこそ日本最初の和歌「八雲立つ 出雲…」を象徴する、「出雲」に座す「八雲山」の山頂で浮かぶのであった。☆関連記事・・・「八雲の紋」…京都 東寺と出雲を結ぶ謎そして下の画像は、”天体の地上投影”という観点から、出雲地域に投影された「おうし座」を構成する主要な星々が描かれた地図である。この地図を見ていると、古代より神社等の建造物が各投影地に建立され、現在まで大切に維持されてきたことがうかがえよう。その意味で、「スサノオ」の別称でもある「牛頭天王」の「牛頭」とは「おうし座」と深く連関し、この地図に投影された「おうし座」とは、「スサノオ」を本質的に象徴している図象ということができよう。ちなみに今回の記事で取り上げた「八雲山」は、「須我神社」と「熊野神社」を結ぶ線の中間に位置し、(今の私的感覚では)「おうし座」の一等星「アルデバラン」の投影された聖地であり、また”古代出雲王朝”の「はじまり」を担い、過去から現在そして未来に向かって燦然と輝く聖地だと感じている。(つづく)【 追 伸 (1)】上記のように、「スサノオ」の本質を「おうし座」として記したが、いつも参考にさせていただいている下記の書籍を参照すると、日本神話の「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」の段において・・・「スサノオ」は老夫婦(アシナヅチ=翁〔おきな〕/テナヅチ=媼〔おうな〕)に頼んで少女をもらい受け、彼女(クシナダヒメ)を”爪型の櫛”に変えて頭髪に挿した。そして酒樽を用意させて大蛇の現れるのを待った・・・とあるのだが、この件(くだり)における上記の”神々”と連関する”星座”との関係性を示すとすれば、下の画像の天体図になるようだ。つまり「スサノオ」とは「おうし座」にして、「クシナダヒメ」とは”爪型の櫛”の形状たる「ぎょしゃ座」であり、その後の”夫婦和合”の関係を彷彿とさせているのである。そして下の天体図にあるように、クシナダヒメの父親である「アシナヅチ」は、”足”が長いように見える「ふたご座」に見立てられ、クシナダヒメの母親である「テナヅチ」は、”手”が長いように見える「ペルセウス座」に見立てられることから、言わば四季折々の印象的な”天体図”を基盤に、この「八岐大蛇」を含む「日本神話」の様々な場面を、それが分かる人には伝わるように物語っているということになろう。※参考書籍・・・書名『星空の卑弥呼』(上・下巻)・榊 晶一郎 著・星雲社 (初版2004年)【 追 伸 (2)】下の画像は、「出雲大社」の境内図なのだが、「御本殿」の後ろに「素鵞(そが)社」と「八雲山」が確認できると思う。この境内に鎮座する「素鵞社」の祭神は「スサノオ」であり、背後の「八雲山」が当社の神体山という”信仰の構図”は、先に取り上げた雲南市大東町にある神体山「八雲山」の麓に鎮座する「須我(すが)神社」という”信仰の構図”と、社名の発音に多少の違いがあるにせよ、同じ構図とみて間違い無いであろう。ここで私的見解を述べるとすれば、元々は雲南市の”信仰の構図”があって、それが「出雲大社」創建の際に、その地所(境内地)を”東出雲王家”の「富家」が担当したという伝承があることから、その”信仰の構図”の縮小版が「出雲大社」の境内地に遷祀されたのではないかと考えている。ちなみに、創建された「出雲大社」を含む建造物の築造は、”西出雲王家”の「神門臣家」が担当したとの伝承があるので、当家は境内に鎮座する主要社殿の「鍵」を管理する立場にあったということであろう。そこで、もし出雲大社の境内社である「素鵞社」の祭神「スサノオ」が、初代出雲国王の「菅八耳(スガノヤツミミ)」ということであれば、出雲大社の祭祀の中心である「御本殿」にて、西出雲王家の第八代 大名持の「八千矛(大国主)」が祀られた経緯なり筋道が、より明確になるのではないかと感じている。
2024年07月18日
閲覧総数 221
3
最近話題にしている「サッカーボール」の基本形状は、「準正32面体」がベースである。この立体の造形表現に関しては、今まで様々な種類をブログ上でも披露してきたが、なかでも今日は、最も簡単にできる「32面体」の作り方をお伝えしよう。(素材は、細軸の「赤ちゃん綿棒(スリム型)」である。)前回のブログでも紹介したが、この立体工作の仕方は、「2005年8月2日の日記」を参考にしてもらいたい。以下は、その工作方法を把握されていることを前提に、話を進めることにする。まず画像を見ていただきたい。紫色のジャングルジムのような造形が、今回作ろうとしている「32面体」である。手前には、この造形の構成単位である2種類の形を置いてみた。分かりやすく「赤」と「青」で色分けしたが、赤色の「6芒星」が20枚と、青色の「5芒星」が12枚の、それらを加えた計32枚で、この紫色の「32面体」が構成できるというわけだ。ちなみに、ひとつの「32面体」を構成するのに必要な「綿棒」の総数は、(6×20)+(5×12)=180本である。実は、この「6芒星」や「5芒星」の星型を作る段階でコツがある。そのコツを知らないと、なかなか綺麗に仕上がらないのである。画像では分かりにくいかも知れないが、この6芒星も5芒星も、竹細工の「竹籠」のように編んである。ちなみに「5芒星」は、あの「安倍清明紋」と同じ編み方をしてあるので、単体としてそれを持ち上げてもバラけることはない。ただその編み方については、ここでそれを知らない人に伝えるのは難しいので、ネットサーフィン等で各自で調べてもらいたい。さてそこで、上述のコツとは、構成単位の6芒星と5芒星の一つ一つを組み上げ、双方の数をそろえた後に・・・それぞれの星型のクロス(交差)した部分を、木工ボンドなどの接着剤で確実に止めておく・・・ということである。接着後の完全に乾いた星型の状態にしてから、これを構成単位として組み上げていくのである。後で美しく仕上げるためには、最初が肝心というわけだ。その組み上げ方法は、例えば自宅にあるサッカーボールを参考にしても良いし、それが無ければ百円ショップにあるボールや、あるいはネットで展開図を調べてみればわかるであろう。それと前後になるが、もう一つのコツは、綿棒の両端に染み込ませる接着剤の付着についてだ。星型の形成において、二本の綿棒の軸をクロスさせると、すでに接合した両端の綿部に、自ずと離れようとする力が働いてしまう。その接合部の接着力を強くするためには、綿部への最初の接着剤の付着の後に、多少の時間を置いてから、もう一度接着剤を付着させる、つまり「接着剤の二度塗り」をお勧めしたい。ところで、ブログに掲載してきた造形の中には、とても分かりやすくて単純なものもあるのだが、これは簡単にできるだろうと思っても、いざ実際に自分の手で作ってみると、これが以外に難しかったりする。この「32面体」は、その簡単に出来そうで出来ない典型だろうが、チャレンジ精神のある人は挑戦してみていただきたい。むしろなかなか出来ない方が、結果的には「頭の体操」になって、心身の活性にも効果的であろう。まずは、「正三角形」の構成面だけで出来る三つの立体、「正4面体」・「正8面体」・「正20面体」の製作をクリアーして、ある程度の工作に慣れてから、この「32面体」に取り組んでみてはいかがだろうか。出来上がった「32面体」は、ちょうどサッカーボール位の大きさになる。自分の好きな色を塗ったりすれば、ちょっとした「お部屋のインテリア」にもなるであろう。それは、例え「いびつ」な形になったとしても、それなりの達成感を味わえるし、苦労して作り上げた作品には愛着が湧いてくるものである。見る聞くだけでなく、何かを「手で触って作る」という喜びを、体験してみていただけたらと思う。
2008年01月27日
閲覧総数 2697
4
それは偶然のようにみえて、必然の流れだったのであろう・・・昨日の夜は結果的に、三柱の女神のはたらきが、まるで三つ巴の螺旋を描くかのように離散集合を繰り返し、「ひとつ」に集約されていく気配を感じるという、私としてはかなり大きな転期だったような気がしている。実はその「きっかけ」となったのが、本日掲載した「ひもろぎ(神籬)」と「いわさか(磐境)」を映した画像だったと、今宵は昨日の出来事を反芻しているところだ。この画像は、中央に屹立する「ナギの木」(国指定天然記念物)が「ひもろぎ」、そしてその下方に位置する苔むした岩石を「いわさか」とする見立てで、その「聖なる樹木と聖なる岩石」は、双方が寄り添うというよりも、既に「ひとつ」となった風情を醸し出しており、太古日本の祭祀形態を今に伝えるような佇まいを感じる。(以下はブログ内の関連記事)2008年7月11日の日記・「イワナガヒメとコノハナサクヤヒメ」http://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/200807110000/数日前にこの画像の写真を、ある感性の豊かな知人に披露したところ、「イワナガヒメ」が観えるということから、もう一度同じ写真の原版を見てみたいということで、昨日改めて現像してみたものが今日の画像である。(この写真の撮影は2002年5月初旬)上記の2008年7月11日の日記に掲載した画像と同じだが、また少し違った趣が感じられると思う。(今回の現像により、画像の下方にピンク色の光が隠れていたのを確認できた。)さて、そのような背景があって昨日の夜、ほぼ同じ時間帯に「ニシキトベ」に深い関わりのある方、そして今「ヤサカトメ」に強く惹かれている別の方から連絡が入った。この二柱の女神を簡単に紹介すると、「ニシキトベ(丹敷戸畔)」は神武軍との戦い敗れたとされる紀州熊野は先住民の女酋長で、丹生都比売(ニュウツヒメ)につながる・・・「ヤサカトメ(八坂刀売命)」は諏訪大社の下社の祭神で、建御名方命(タケミナカタ)の妻である・・・となろう。そして、この二種類の神名に共通するのは「トベ(トメ)」であり、共に古代日本の女性酋長(女酋)をあらわす言葉なのだそうだ。加えてこの二柱の女神は、共に古代の「出雲」に関係することもわかってきたのである。さらにその海人族系「出雲(いづも)」の、さらに大元となる候補地を含めて、九州北部の博多湾に浮かぶ〔志賀島〕を根拠地とする海人族系「阿曇(あづみ)」が想定されることから、近くの高祖山地(福岡県)の「くしふる山」の麓か、あるいはその近辺を拠点としていたであろう女酋「イワナガヒメ」が浮かび上がってくるのであった。奇しくも先月の4月26日の日記で紹介した書籍、『 日本神話と古代史の真実 』 松重楊江 著(たま出版2010.4.12初版)によると、そのの冒頭には・・・吉武高木に王宮のあった「磐長姫(イワナガヒメ)」は、初代の猿田彦命(サルタヒコ)が病死したのちに、女王となって王権を継ぎ、長く君臨した・・・とあり、その「サルタヒコ」の妻だった「イワナガヒメ」を、「卑弥呼(天照大神)」以前に実在した「女王の魁」としている。以上・・・どうやらこれは繋がっていて、いよいよ《「イワナガヒメ」のおでまし》ではないか・・・という直感のもとに、拙い文章を披露した次第である。ちなみに、日本の国歌『君が代』は、その「磐長姫」を讃える御歌とする説もあり、実に興味深い。〔 君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで 〕
2010年05月10日
閲覧総数 764
5
今年の2月中旬、吉備国は岡山県笠岡市の瀬戸内海に浮かぶ「高島」に行く機会があった。『古事記』『日本書紀』には、神武天皇が東征の途上「吉備の高島宮」にへ仮宮を置き3年若しくは8年滞在したと記されており、地元では古くから、高島宮とはこの島のことだと伝えられてきたそうだ。島の周囲は約6km、最高峰の神卜山(かみうらやま)でも標高77mと、島内をハイキング気分で周遊するには、ちょうど良い感じのスケールである。この度は、その「高島」に点在する「磐座(イワクラ)」を映した画像を公開しつつ、感想を含め数回に別けて紹介していこうと考えている。まず最初の画像は、その「高島」の「天津磐境(あまついわさか)」といわれる高台を撮影したもので、この周囲には円環状に二~三層に及ぶ石組みが展開しているとのことである。私はこの展望の良い高台が気に入って、しばらく佇んでいたが、それでもその限られた時間に、何故かその場で3人の知人と電話したりメール交換することになり、不思議な感覚を抱いたことを覚えている。
2012年03月27日
閲覧総数 199
6
前回の日記で書いた熊本の磐座巨石群「押戸石」では、気付いてみると午後5時半頃から約2時間をそこで過ごしていた。なんとも贅沢な時間を過ごせた私は、帰宅の道中で夕食を済ませ道草をしつつドライブを楽しんでいると、近場の繁華街だった日田市に到着したのは午後10時を過ぎていた。今から山口に帰ったとしても、途中で仮眠が必要だろうし、かかる高速代と宿泊代がほぼ同じということから日田市内に宿泊することにして、翌7月29日は、かねてより念願だった大分県安心院町の「米神山(こめかみやま・475m)」に登ることにした。これもやはり、たまたまというよりも必然的な流れだったのであろう。そして翌朝、その巨石信仰の山としても聞こえた「米神山」を、麓の田んぼから展望した写真が冒頭の画像だ。この画像の下方の田んぼの中に石柱が見えると思うが、これは地元で「こしき石」と呼ばれる高さ約2.5mの立石で、米神山の山頂方向に約45度の傾きで立っている。撮影時の光の加減か、天空から薄紫色の光が石柱に降り注いでいるように見えて神々しい。この「こしき石」を調べた天文に詳しい研究家の話では、夏至の朝に、この立石の位置から見て、日の出直前に昇る東天の星があるはずなので、米神山の山頂で観測できる星を調べてみると、ペルセウス座のアルゴルとなるそうだ。さらに、この石柱を立てた年代をコンピューター・ソフトで検索すると、何と紀元前2300年となったそうである。さらに調査を進めると、この米神山の西麓にある「こしき石」は、宇佐地方の測量標準基点となっていることが明らかになったそうで、今から約4300年前に、この立石が設置されたと思うと、もうそれだけで感慨無量である。◎参考書籍「 縄文の星と祭り 」 堀田総八郎 著 中央アート出版社(1997)刊まず初めてとなる「こしき石」を、じっくりと観察した後、そこから約1キロの距離となる米神山登山を兼ねた駐車場に移動、すぐ近くの登山口にある「佐田京石」という高さ2~3mの立柱からなる環状列石を撮影したものが上の画像である。連日のハードスケジュールにも拘らず体調は良かったが、猛暑が予想されるため気を引き締めて午前9:30に入山。ところがどっこい、入山まもなく道に迷ってしまい、もう少しで下山を決意するところまで追い込まれた。その後、何とか登山道を確認でき、ロープを頼りに登る急な坂道にフラフラになりながら高台に到着すると、そこで待ち受けていた特異な形状の岩組みがあった。その「月の神岩」といわれる磐座を、下方から撮影したものが上の画像である。その斬新な切り口の一枚の大岩は、水平より少し斜め上に意図的に突き出すように組まれており、その全体を支える下方の岩組みに、構造安定化の仕組みが隠されているように感じて、私の心身は疲れを忘れて、大いにときめくのだった。つづく
2014年08月07日
閲覧総数 563
7
本日の画像は、この8月1日の画像に引き続いて、左側が出雲大社の「御本殿平面図」、そして右側は日本神道の秘儀とされる「八咫鏡(やたのかがみ)」の図を掲載した。(※双方の図は、同じ「方位」を示している。)この「八咫鏡」の図は、四正四隅の八つの方位に、それぞれ〔1〕から〔8〕までの数を当てて、「八方世界」を表わしている。(※これまでのブログでは、「方位」を語る際には「五」を中心とした九マスの魔方陣を活用してきたが、この「八咫鏡」の図にあるような、方位と数の抱き合わせの関係を知ったのは、今回がはじめてであった。)日本神道の原典でもある「古事記」の記述には、この「八咫鏡」をはじめとして「大八嶋国」・「八尋殿」・「八坂瓊曲玉」・「八百万の神々」など、「八」にまつわるものが多いことから・・・あらゆるものは「八」でくくられている・・・と、とらえることもできよう。その「八方世界」、すなわち「八方位の世界観」をあらわしたものが、「八咫鏡」の図ということだ。しかし、「古事記」を数霊で解釈すると、これまで形成されてきた世界が「八方世界」であり、それが「十方世界」へと生成発展することを、その物語の中で語っていることになるそうである。その数霊解釈の例では、古事記の「天之岩戸開き」の物語における「岩戸(いわと・一八十)開き」とは、「一から八までの世界」を「十の世界」にまで開くこととされ、そのことを象徴的に・・・「八方世界」から「十方世界」へ開く・・・というのだそうだ。つまり、「岩戸開き」をするというのは、「一から八までの世界」と「九・十の世界」をひとつにして、「一二三四五六七八九十(ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・たり)」の世界に結ぶということだ。(関連記事・2006年3月18日の日記)ところで前回のブログでは、知人が出雲大社にお参りして、御本殿を拝観された時の印象を少し記したが、その御本殿の中央にある「心御柱(しんのみはしら)」には、何か特別なものを感じたそうである。その感想を伺っている内に、私の心にピーンと来るものがあった。天地を貫く「心御柱」の、その中心から「天」と「地」の二つの方向こそ、「九(天)」と「十(地)」の世界である・・・と。このとらえ方は、今までも何度かブログで取り上げてきたが、改めて御本殿の構造に思いを馳せるとき、実感として心に響くものがあったのだ。出雲大社の御本殿は、地上から十五段の階段を昇った高い位置にあり、御本殿の床は御柱のほぼ中央に相当する。その九本の御柱の中央部の床に立ち、神殿の中心にある「心御柱」を意識するということは、同時に「天」と「地」の二つの垂直方向を意識することでもある。ここで、画像の二つの図を重ねてみて欲しい。中央の「心御柱」が「八咫鏡」の図の中心に位置し、周囲の八本の柱が八方位の数に対応する。しかし、かような平面図では、例え「心御柱」が中央にあることが図示されているとしても、そこに「天・地」を意識することは難しい。つまり二次元の平面図では、「八方世界」の認識で限界だということを示していると言えよう。(※余談・・・既にご存知の方も多いだろうが、現在の神殿を支える柱は、中央の「心御柱」を含めて九本とも、それぞれ一本の柱で立てられているが、近年の発掘調査によって、古代の出雲大社の御本殿の御柱は、それぞれ三本を束ねて一柱とする技法で建築されていたことがわかっている。)(関連記事・2006年5月13日の日記)そこで上述の・・・「八方世界」から「十方世界」へ開く・・・とは、・・・「平面世界」から「立体世界」へ転換する・・・ととらえ直すと分かりやすい。つまり、今までの物事を認識する際の主流であった「平面的世界観」から、天地を貫く垂直軸を加えた「立体的世界観」への『認識の転換』を意味しているということである。環境問題を含めて、物質文明の行き詰まりを如実に感じる今こそ、一人ひとりの「心の岩戸(一八十)」を開く時である。すなわち「十方世界」とは、物質世界を象徴する「二次元平面の呪縛(八方塞)」からの《心の開放》を意味していたのである。私たちの意識が飛び交う〔心の交差点〕を、ぶつかり合わないと前に進めないような「平面交差」の段階から、あらゆる方向から縦横無尽に行き来できる「立体交差」に向けて、速やかに「次元転換」する時を迎えている・・・と、御神殿の「心御柱」に思いを寄せているうちに、そのような感覚を抱いた今日この頃である。〔 追 伸 〕古事記の数霊による解読では、大国主命は「十方世界」の到来を、黄泉国の入り口のところで、その時を待っているそうだ。その黄泉国の入り口とは、「八咫鏡」の図の〔8〕の艮(東北)の位置に相当するとのことだ。そこで、その「艮」の位置を「御本殿平面図」に重ねると、大国主大神を祀る西向きの「御神座」となっており、また黄泉国の入り口は「太陽の沈む西の方向」という解釈もできるので、実に見事な対応関係になっていることがわかる。先日より繰り返し解説してきた、「富士山─出雲の太陽信仰・東西ライン」の西端にある「出雲国」が、西日に照らされて燦然と輝き始めた感じを抱くのは私だけではないであろう。図らずも、その出雲大社御神殿(主祭神・大国主大神)を支える大黒柱たる「心御柱」への想いから、この「十方世界」を認識できたことに、奇しき因縁を感じるところである。
2008年08月03日
閲覧総数 301
8
か~ごめか~ごめ か~ごのな~かのと~り~は~ い~つ~い~つ~で~や~る・・・・・・とは、わらべ歌の「籠の鳥」のフレーズだが、もうお分かりのように、今日のタイトルの「加護の十理」とは、この「籠の鳥」をモジッたものである。「籠の鳥」とは、文字通り「籠の中に入れられた鳥」のことだ。この「籠」とは、竹で編んだ竹籠のことで、「カゴメ(籠目)の紋」ともいわれる「6芒星」が基本形状といえる。だからであろう、私にはこの「籠」は、平面的には「6芒星」に観え、さらに立体的には「星型8面体」に視える。この「星型8面体」は、二つの正四面体がバランスよく「ひとつ」に和合した構造で、ある角度からは「6芒星」に見えるのだ。そして「鳥」を「十理」と取るのは、単なる「おやじギャグ」ではなく、「しくみ」を識る者の古くからの言い伝えともされており、(結果的ではあるが)長年この関係を追及してきた私にとっては、「とり」という発音を聞けば、この二つの文字(十理&鳥)が脳裏に舞うことになっている。ここで「十理」とは、一(〇)から十までの「十進法の数理」という意味合いで、つまり「籠の鳥」とは、・・・「星型8面体」という〔形〕に秘められた「十進法」の〔数〕の巡り・・・というのが私なりの解釈である。この「十理」に加護としたのは、「十進法」たる「十理(鳥)」が、「星型8面体」という「6芒星」でできた「籠(加護)」に護られてきた・・・という意味を加えたかったから。さて、今日の画像は、あらゆる「立体」の根元の形である「正四面体」の軸線構成を、ある角度から映した写真だ。(6本の綿棒で構成した造形)形と数の関係性から、この形には一から五までの数を想定することができる。つまり、この「正四面体」の4つの頂点に、一から四までの数を置いていき、形の中央が「五」の位置付けとなる。上述した「星型8面体」は、二つの正四面体で構成されるので、もうひとつの「正四面体」を想定して、その4つの頂点と中央に、六から十までの数を置くことができる。つまり「星型8面体」には、一から十までの数が巡ることになり、その中央には「五」と「十」の二つの数が座して、周囲の8つの頂点には残りの八つの数の配置となるわけだ。「九星学」などの占いに多用される、「五(十)」を中心とした9マスの魔方陣の原型を、この「星型8面体」の立体構造と想定することもできよう。魔方陣の縦横斜めの3数の合計が「15」になるように、数を立体的に配置することもできるのだ。また、ここで「〇=ゼロ」の位置付けとは、この「星型8面体」という形の全体を包む【球】ととらえることができる。実は今から20年以上前、私はこの「星型8面体」を無意識に構成したことにより、立体造形の世界に深く入ることになったという経緯がある。設計図も何もないところからこの形を組み上げた時、壊れかけていた自分の心が、一瞬にして「よみがえる」という強烈な体験をした。安定した「形」を作ったら、それまでの不安定な「心」が安定したという体験は、「心」という〔精神構造〕と「形」という〔物質構造〕には、確実に密接な関係がある・・・と、自分なりに納得するには充分な説得力があった。この体験によって、【「形」から入って「心」をつくる】という着想が得られたのである。そして、この「星型8面体」という単純だが普遍的な型を通じて、マクロシステムでは「太陽系の構造」、ミクロシステムでは「原子の構造」、そしてメゾシステムでは「男女の人間関係」など、いわば「空間」の全域を見通す視野を形成することにつながっていったのである。ところで、この「星型8面体」に関連する数の「十」は、日本的には「完成」や「成就」をあらわす数とされ、また縦横十字のこの文字を「縦=火(カ)・横=水(ミ)」として、これを陰陽和合の字形ととらえて「神(火水)」と解釈する場合もある。そこで今現在の、この激動の転換期を、この「十」という陰陽和合の成就した「神」の世界に向かって、破竹(八九)の勢いで邁進している時節と読み取ることもできよう。この「破竹」を「八九」と読むのは、古くからの言い習わしともいえるのだが、この神界の変遷ともいえる現状から象徴的に読み取ると、「コノハナサクヤヒメ」が「八(八大龍王)」にして「表」の役割、そしてこの度の封印解除によって蘇った「セオリツヒメ」が「九(九頭龍神)」にして「裏」の役割と観えてきた。桜花の咲き誇る時期を間近に迎えて、怒涛の如く押し寄せてきた〔水神系〕の「よみがえり」の情報から、一般的に【桜木】とは「コノハナサクヤヒメ」の化身と認識されてきたが、その裏には「セオリツヒメ」が秘め隠されていたことが分かってきた。(今まで「封印解除」という言葉を何度か使ったてきたが、『今まで「裏」に隠れていたものが、時宜を得て「表」に出てきた』という表現の方が的を射ていると言えよう。)まさに秘匿されてきた【桜木】の、「裏」が「表」に出たことにより、「籠(加護・過去)」の呪縛から解き放たれ、「十(自由)」なる理想世界に向かって、「八九(破竹)」の勢いで飛翔する不死鳥(フェニックス)の勇姿を垣間見る・・・そんな思いが浮かぶ今日この頃である。・・・よ~あ~け~のばんに つ~るとか~めがす~べった うしろのしょうめんだ~れ?
2007年03月14日
閲覧総数 3607
9
今日の画像は、数学的な概念上のモデルである「五次元立方体」を、その内部構造を含めて、すべて同じ長さの軸線で構成した造形を映したものである。これを初めて製作するときには、事前に外側の枠組みは判っていたのだが、その内部構造までは把握していなかった。それゆえに、その全体の設計図のないまま、まさに「手探り」で探り出すのはなかなかに大変だったが、それはまた製作の醍醐味でもあったことを思い出す。(製作時期は2001年頃)この「五次元立方体」は、サイコロ型の「立方体」を展開することで得られる形状で、三次元空間という次元的制約があるために、その単位としての「立方体」は少し歪んだ形状になり、その各々の面形は(内部に形成される面を含めて)一様に「黄金比」の菱形となっている。内部構造を含めて全体を構成できたので、たとえそれが概念上のモデルだとしても、「五次元」をイメージとして認識しやすいところが特徴といえよう。背景には造形の影が映っているので判ると思うが、雰囲気としてはソロバンの珠のような立体構造であり、この画像の方向から撮影すると全体としては「十角形」に見えるので、前回のブログで「十角形」を「五次元」と見立てる観方と相通じるところがあるといえよう。ところで、巷の「アセンション(次元上昇)」にまつわる情報には、我々の意識が「三次元」から「五次元」に上昇する際に、「四次元」が消えて無くなるという通説がある。また、ある書籍には、「四次元」の分野で〔死後の世界〕の一部とされる「幽界」が、まもなく消えてしまうということが、その具体例を挙げて書いてあった。そして、いずれは「幽界」の上層部にある「霊界」も、消滅することになっているということだ。実は今、私の意識の中で消えかかっている図形がある。・・・それは「八角形」・・・前回のブログで、「五次元」を「十角形」と見立てたが、その「見立て」から類推すれば、消えてゆく「四次元」を象徴する図形は「八角形」と、自ずと推考できよう。そこで感じるのは、この「八角形」の形と、その数の「八」という、いわば「八」を示す数と形をもって、その後の「日本文化」を徹底してデザインした原典が「記紀」、すなわち「古事記」と「日本書紀」ではなかったか・・・ということであった。その数と形の「八」を採用した「記紀」の編纂における思想的背景には、中国伝来の「道教」という思想哲学があったわけだが・・・この既に呪縛装置と化してしまった「八」の呪術が、おそらくこの「アセンション」といわれる転換期において、「四次元」の消滅とともに解体する時を迎えた・・・というのが、現時点での私の直感である。かつて2009年9月9日~11日のブログ等では、「八角形」を基盤とする立体(これは「四次元立方体」の一種)から、数の「十」を読むという観点を記したわけが、この度の伊勢内宮と二見興玉神社で起きた台風災害(関連記事・2009年10月10日の日記)などの、臨界点を超えたと思える現象を俯瞰したとき、やはり「十」という数の表現は、形としては「十角形」がふさわしいと強く感じた次第である。この10月18日・19日のブログに記した「破竹(八九)の勢いで「十」の時代へ・・・」という文言は、実のところは日本神話の「天の岩戸(一八十)開き」より導き出された暗号である。・・・だとするなら「記紀神話」には、「八」の呪術が解ける時代を迎えた際に、「十」という次なる時代を担う「キーワード」も記されていたことになるわけで、まさしく「危機管理」の充実した《預言書》という側面を感じるところである。
2009年10月21日
閲覧総数 2058
10
いよいよ今回は、〔綿棒〕でつくる「立体工作」の案内である。冒頭の画像では、「5つの正多面体」の軸線構成を紹介したが、画像下方の「3つの立体」が基本中の基本となる。(下方の3つは、向かって右から「正4面体・正8面体・正20面体」の軸線構成であり、この3種とも「3角形」だけの面でできているところが特徴だ。そして上方の2つは、向かって右が「正12面体」、向かって左が「正6面体」の軸線構成である。)今回の工作方法を知ることで、下方の「3つの立体」をつくることができたら「 すばらしい! 」ということで、タイトルは【 立体工作のご案内 】とした。それではまず、用意する材料から説明しよう。☆[ 綿 棒 ]・・・市販の綿棒(紙軸がよい)私の場合は、「細軸」の「赤ちゃん綿棒」(スリム綿棒)を使用している。その理由は、綿棒どうしをクロスさせて構成する場合に誤差が出にくいことと、そのフォルム自体の「美しさ」にある。ただ、普通の太軸綿棒に比べて値段が高いのが難点だ。(※市販のものは、細軸綿棒の200本入りが1パックで300~500円が相場)そこで値段と質から、全国チェーンの子供用品専門店「 西 松 屋 」のベビー用品コーナーに置いてある細軸スリム綿棒がおすすめである。210本入り×2個パック(計420本)で《 399円 (税込) 》と、安心価格で入手できる。ただし、写真の「3つの立体」だけをつくるのであれば、一般に普及しているの綿棒(太軸)で十分である。また、子供と作って遊ぶ場合も、細軸でない普通軸(太軸)の綿棒で間に合う。ただ、安価すぎるものは綿棒自体の構造に問題がある場合があるので気をつけたい。(※〔太軸綿棒〕は1パック200本入りで150円前後が目安)☆[ 接着剤 ]・・・ミツワの「 ペーパーセメント(Sコート)」(福岡工業〔株〕)これは「仮止め」の接着剤である。一般的には馴染みがないと思われるが、例えばかつて印刷会社の版下制作で使用していた「貼って剥がせる接着剤」である。20cc のチューブ入りで1本200円前後。慣れてくれば、このチューブ1本で、綿棒200本をまかなうことができる。(280mlの缶入りで千円位などもある)これは、画材店等で入手可能(無ければ注文できるはず)だが、一般の文房具店では扱っているところが少ない。都会では、東急ハンズやロフトなどで扱っている。どうしても入手困難な方は、ネット通販を利用されたし。とりあえず、この2つの材料がそろえば、工作の準備は整ったことになる。その他に、2~3の材料が必要だが、それは次の工作方法のところで、順次説明していくことにしよう。・・・《 工作方法 》・・・まず、机の上に台紙(A4の紙など)を置いて、接着剤が付いても汚れないように準備する。そして「乾燥台」を用意する。この乾燥台とは、綿棒の両端に接着剤を染み込ませた後に、その両端の綿部を乾かすために軸の部分を置く台という意味で、台所で使うサランラップ等の空箱でよい。また、綿棒を乾かすことができるような寸法に紙を折って、それを乾燥台にしてもよい。次に、右手(利き手)の親指と人差し指で、綿棒の「中央部」を挟んで持ち、その先端の綿部に接着剤を染み込ませる作業をするわけだが、その作業に都合がよいと思うところ(台紙の上)に、少量の接着剤を出してみよう。その接着剤に綿棒の片方の先端を付けて、ゆっくり回転させながら接着剤を付着させていく(綿部の先端から「3分の2」位まで)。そして、その同じ綿棒の上下を持ち替えて、もう一方の先端にも同様に接着剤を付着させ、乾燥台に並べ置いていく。後は次の一本、そして次の一本と、必要な本数まで同じ作業を続けていくというわけだ。その乾燥台に何本も綿棒を置いていく際に、それぞれ平行になるように置くことが基本ではあるが、綿棒どうしを合わせて置いても、少し離して置いていってもどちらでも良い。(※合わせて置いた場合は、綿部の付着部分を、一本一本やさしく丁寧に外してから工作することを心掛けたい。)その綿棒の先端部に付着させる接着剤の量は、ほどほどの適量があるのだが、付け過ぎても効果は同じで、付けなさ過ぎては接合に問題が出てくるということで、何度か経験してコツをつかむ他はないと言っておこう。そして、接着剤を両端に付着させた綿棒を乾燥台に置いていき《 約5分 》が経過すると、それぞれの綿棒の先端をつないでいくという要領で、立体工作が楽しめるようになるわけである。そこで、さらなる接着力を期待したい場合は、既に接着剤を染み込ませ乾かした綿棒の綿部に、もう一度同じ要領で両端の綿部に接着剤を染み込ませる方法がある。つまり接着剤を綿部に2回染み込ませるわけだが、これをやると接着力が強くなり、これを束ねて密閉保存すれば、経験則から約1ヵ月は接着力を維持できるはずだ。この「仮止め」の接着剤を利用する理由は、綿棒の両端を繋いだ接合部の「付け外し」ができるということにある。工作の過程で、接合部の繋ぎ方を失敗した(間違えた)と思っても、・・・優しく丁寧に・・・という綿棒の取り扱いに留意すれば、簡単に綿部の付け外しができたり「やり直し」が可能なので、自ずとその表現に自由度が増すことになり、想像力や創造力の喚起につながるというわけである。今回の工作テーマの「3つの立体」について、すでにその形状は説明したが、ここでその構成に必要な「綿棒」の本数を紹介しよう。[ 正4面体=6本 ・ 正8面体=12本 ・ 正20面体=30本 ](繰り返しになるが、この「3つの立体」だけをつくるのであれば、細軸の赤ちゃん綿棒ではなく、普通の太さの綿棒で事足りる。その理由は、この「3つの立体」は、綿棒どうしを交差させなくても、構成することができるからだ。)この画像に映る立体的な平面図形の類推から、この「3つの立体」を構成するのは難しいかもしれないが、他の類似サイトの検索を試みるなどして、「立体パズル」の感覚で取り組んでみてはいかがだろう。この「3つの立体」こそ、〔立体〕の基本中の基本になると思われるので、これらを作ることができるようになってから、他の種類の立体にチャレンジするなど、後は自由気ままに想像の翼を広げて立体工作を楽しんでもらえたら・・・と、そのように思うのである。ただし、この接着剤は、あくまでも「仮止め」の接着剤なので、作成した立体をそのまま放置していると、その接着度にもよるが約1週間で崩れてしまう。そこで、作った形を残したい場合の対策として、「木工用ボンド(水性)」に少量の水を混ぜて筆で溶き、構成した綿棒の接合した各部分に塗布すると、なかなか壊れずに長持ちすることになる。また、色を塗りたい場合は、接着剤を染み込ませる前に、ポスターカラーなどで綿棒全体に塗り、乾かしてから上記の工作に入る方法や、完成した作品に後からカラースプレー等で吹き付けて色付けする方法など、様々な手法が考えられる。[ 注意事項 ]言うまでも無いことだが、小さい子供と一緒に遊ぶ場合は、特に「接着剤」の取り扱いには十分注意していただきたい。小学校に入るまでの子供と遊ぶ場合は、事前に上記の「仕込み」を済ませてから、工作に入るのが望ましいと考える。また接着剤は、揮発する際に毒性がある(セメダインほどではない)ので、長時間使用する場合は、空気の循環のよいところでの使用をおすすめする。(※ある程度の時間を経て完全に揮発した場合には、毒性は無くなるとのことだ。)[ 特記事項 ] 写真の上方の2つの立体は、現段階でその作り方を伝えるのは、直接の伝授以外は難しいということを、ここでお断りしておきたいと思う。ちなみに「正12面体」の全体構成に必要な綿棒の数は、「120本」(この内、外枠だけの数は30本)であり、「正6面体」の全体構成に必要な綿棒の数は「36本」(この内、外枠だけの数は12本)である。特に「正12面体」の全体構成については、その設計図が無かったために、着想を抱いてから具体化できるまで、丸10年の熟成期間を必要としたという経緯がある。★関連記事・・・「正12面体」における新たな内部の相互関係について時間の許す人は、童心にかえって、色々な形を作って遊んでみて欲しい。実際に自分の手で、様々な形を作っていく過程で、もしかすると大切な「気づき」があるかも知れない。そして懸案の造形が完成したときの、何ともいえぬ《達成感》を味わっていただけたらと思う。ご家族のお子さんや、近くに子供がいたら、上記の[ 注意事項 ]に留意して、みんなで一緒に作ってみてはいかがだろう。子供が本来持つ創造力(想像力)の素晴らしさに、大人は感動することになると思う。(子供は5歳位から)立体の究極の形は「球」である。3次元立体の究極の形は「球体」なのだ。いろいろな立体に触れて、自分の手で造形を生み出していくうちに、おのずと私たちの生活環境である球状の「地球」は「ひとつ」だということに、そして私たち「人類」は「ひとつながりのいのち」だということに気づくようになるのではないか・・・。そして、このかけがえのない地球に生かされて生きている自分を如実に自覚できるようになり、この「ひとつ」しかない地球を大切にしたいという想いが湧いてくる・・・。そんな期待を胸に抱いて、「立体(たま)」の工作方法を公開した次第である。(※以上、2005年08月02日の日記より転載&校正)
2012年09月18日
閲覧総数 23311
11
冒頭画像に映る左右二つのなだらかな山並みは、米神山の山頂から「宇佐」の北方を撮影したものだ。その向かって右側が当地域の最高峰「雲ヶ岳(標高 654m)」であり、そして左側が全国八幡宮の総本社である宇佐神宮(豊前国一之宮/大分県宇佐市)の神体山「御許山(おもとさん/標高647m)」である。当日は米神山を下山し、その後「御許山」の9合目に鎮座する大元神社(宇佐神宮の元宮)に登拝すべく車を走らせ、当山の登山口の一つである「正覚寺登山口」にて撮影した画像が上だ。そして下の画像は、その登山口の右側に立つ看板に掲載された、大元神社への各登山道が記された地図を拡大したものである。下方にある緑色の線が今回利用した登山道で、ここから山頂まで約40分の道程となる。縁あってこの御許山への登拝は7回目になろうが、特に今回は当日中に宇佐地域における古代の測量基準点たる米神山ふもとの「こしき石」(紀元前2,300年頃に設営)と、その「こしき石」を基準点として設置されたとされる御許山山頂の巨石群(紀元前2,250年頃に設営)を祀る「大元神社」を巡る機会を得て、とても有意義であった。上記の米神山ふもとの「こしき石」と御許山山頂の「巨石群」の関係については、下にリンクした記事に詳しい。※関連記事・・・台風を追い風に「宇佐神宮」への参拝大元神社に向かう崖地の山道を歩いていると、忽然と展望が開け目に飛び込んできたのが、下の画像に映る御許山の山頂(画像の中央部)であった。さて、この度の御許山登拝については、その直前に「宇佐」にまつわる重要な歴史情報を入手することになった。それは以下に紹介する書籍で、宇佐神宮の宮司家である宇佐家が伝承する「宇佐国」の古代史である。◎参考書籍・・・宇佐家伝承『続 古伝が語る古代史』 宇佐公康 著・木耳社(1989年初版)ここで上記書籍より以下、私的に印象に残った文章を抜粋しておく。○宇佐家の伝承によると、菟狭(ウサ)族は始祖「タカミムスビノミコト」以来、北方系天孫民族として男性シャーマンによって統率された父系氏族の象徴を月神「ツキヨミノミコト」とし、アマツコヨミ(天津暦)・ツキヨミ(月読)・ヒジリ(日知/聖)などと呼ばれて、現代の自然科学や社会科学、特に天文学・気象学・地理学・農学・医学などを、シャーマニズムによって行ってきた日本で最も古い北方系の先住民族であるとする。○その族長は、男性シャーマンをもってする男系族長であり、代々「ウサツヒコノミコト(菟狭津彦命)」を襲名し天職を世襲して、祖神の宇佐大神と族長とは神人一体であり、祖神の象徴である「月」にウサギがいるという太古からの口伝によって、ウサギ(兎)すなわちウサ(菟狭)を氏族の称号として現代に至るまで名乗ってきた。○この男神である月神「ツキヨミノミコト」は、「ウケモチノカミ」との深い間柄によって、まず地上生活のために最も必要で欠かせない食物を確保し、アマツコヨミ(天津暦)すなわち月の運行によって判断する太陰暦にもとづいて季節や天候を知り、種蒔きや苗植えなど植物栽培の端緒を開いたことが考証できる。○古代ウサ国は、もともとは「月の国」であり、「夜の食国(おすくに)」である。そして月にウサギがいるとする伝承から生じた「菟狭(ウサ)の国」であり、ウサはまた「総(ウサ)の国」となり、この「総(ウサ)」は統(す)べる・まとめる・合わせるという意味であるから、「総の国」とは一種の連合国である。上記の抜粋した文章は、それぞれ奥深い内容であり、この期に及んで知るべき時を迎えたのだと感じられた。そこで下の画像は、当山の9合目に鎮座する宇佐神宮の元宮「大元神社」の拝殿より、奥宮と刻まれた神額を掲げる石鳥居を撮影したものである。ちなみに、この石鳥居の奥の山中は神域で禁足地となっており、山頂の巨石群に近づくことはできない。そこで、とりわけ私の心に響いたのは、記紀神話における智慧の神「オモイカネ命(思兼命)」に関する以下の文章であった。○オモヰカネノミコトは、ウサ族の始祖タカミムスビノミコトの息子とあるので、ツキヨミノミコトを祖神とするウサ族の男系の直系子孫で、古代ウサ(族)国の首長であり、天津暦や天太占を天職としていた男性シャーマンである。この文章を読んだ時、記紀神話で活躍する神々のなかでも、なぜ私自身が「オモイカネ命」に強く魅かれてきたのか・・・ここでは上手く表現できないが、不思議とその理由が判然としてくるのであった。※関連記事・・・星神「アメノオモイカネ」に想いを馳せて・・・※関連記事・・・【中央】を担う祭祀場を巡る(7)もう午後4時を過ぎた頃だったであろうか・・・拝殿奥の山上から降り注ぐ美しき陽光を撮影した画像が上である。この毎回訪れる当社の拝殿付近では、何度か興味深い体験をしてきたのだが、その一端を書いた記事が以下である。※関連記事・・・宇佐神宮の御許山へ(1)※関連記事・・・宇佐神宮の御許山へ(2)そして、この登山道を利用する際は、いつも気になりつつも素通りしていたのが、冒頭でも取り上げた二並びの山岳の一方である「雲ヶ岳(標高 654m)」であった。標高を比べれば分かるように「御許山(標高 647m)」とは7mほど高いだけだが、この雲ヶ岳は男性性を示す「岳」、そして御許山は女性性を示す「山」と表現されてきたのは、この二並びの山岳が夫婦一対(陰陽和合)を象徴してきたからではないかと感じてきたし、かような伝承が地元でもあったような記憶がある。いよいよその時が来たか・・・というわけで、自分の体力や夕暮れの時間とも相談しつつ急勾配を登り、雲ヶ岳山頂にある三角点の石標を映した画像が上である。写真撮影は叶わなかったが、広大な山頂部の南端において、急峻な崖地に繁茂する森林の狭間に、陰陽一対の由布岳と鶴見岳を確認することができ、感慨一入であった。思い返せば当日(3月11日)は早朝より「米神山」、そして昼からは「御許山」と「雲ヶ岳」と、言わば「宇佐」を代表する三山を登拝することができ、望外の喜びとともに有り難き幸せを噛み締める一日であった。
2020年04月24日
閲覧総数 568
12
さて次に、下段の参考書籍より引用解説する軸線は、上の地図に描いた”紫色の二本の軸線が交差する図形”である。その一本の軸線(紫色)は、”祖山”たる「富士山」と「筑波山」を結ぶ軸線であり、もう一本の軸線(紫色)は、「浅間山」から”冬至の日の出”の方位に線を引いたもので、この二本の軸線が交差する要所に武蔵国一宮「氷川神社」(埼玉県さいたま市大宮区)が鎮座している。☆関連記事・・・「浅間山」の展望より・・・当社の本来の御神体は、関東平野の西側にある山岳地帯を源流とし、「男体山」と「江の島」を結ぶ南北の軸線上にある「川越」を経て東方の「大宮(当社の鎮座地)」に流入する『荒川』であり、この暴れ川を制御・調整する”祈りの場”として、この古代より選ばれしクロスポイントに大宮「氷川神社」は鎮座したと推考できる。当社鎮座地の重要性は、明治政府が成立した明治元年(1868年)、京都を発し「東京城(江戸城)」に入城した〔明治天皇〕が、この大宮「氷川神社」を武蔵国の鎮守、勅祭の社と定め行幸したことからもうかがえよう。かつて私も、この武蔵国一宮「氷川神社」から”冬至の日の出”の方向に<三点一直線>に並ぶ《氷川三社》(大宮の「氷川神社」・見沼の「中川神社」・浦和の「氷川女体神社」)を、まず「氷川女体神社」から「中川神社」へ、そして大宮「氷川神社」と、約10Kmの道程を徒歩で巡拝した経験があり、当日の最後は〔川越〕に鎮座する「氷川神社」の参拝で締め括ったことを思い出す。☆関連記事・・・『太刀割石』の斬新な切口ここで、冒頭地図の関東地域に描いた軸線群を俯瞰する上で、さらに大切なポイントを挙げるとすれば、今から約2200年前の日本において”弥生時代の幕開け”を担ったと思われる、秦の〔徐福(じょふく)〕の存在である。いわゆる”徐福伝説”によると紀元前200年頃、秦の〔始皇帝〕の命を受けた〔徐福〕一行は「不老不死の霊薬」を求め、中国の山東半島から数千人の童男童女と共に日本列島の”蓬莱山(ほうらいさん)”に向かって渡海し、ついに霊薬のある”蓬莱山”たる〔富士山〕に辿り着いたということである。そこで下記の参考書籍から引用すると、渡来した秦の〔徐福〕は探し求めていた〔富士山〕の麓に到着し、後に富士山頂において「封禅(ほうぜん)」を行い、《氷川三社》の「氷川女体神社」において「郊祀(こうし)」を行った可能性があるとのことだ。(※上記の「封禅・郊祀」とは、支那流の「皇帝」になるための”即位祭祀”を意味する。)もしそれが史実であれば、〔天海=光秀〕が”祖山”を〔富士山〕とし、江戸幕府の中心たる「江戸城」を要とする”関八州”に施した特異な呪術といえども、その元を辿れば秦の〔徐福〕による”支那流の即位祭祀”を源流とする呪術祭祀を、脈々と踏襲してきたことになると言えよう。ちなみに、古代出雲の伝承が詳しく書かれた下記の書籍によると、上記の武蔵国一宮「氷川神社」の主祭神である「須佐之男命」とは、”秦の〔徐福〕”と明記してある。☆関連記事・・・令和二年【春】出雲行脚の巻(四)もしかすると、この未曾有の転換期において、弥生時代以降の伏せられてきた”歴史の封印”も、今まさに解かれようとしているのではあるまいか・・・。(つづく)※参考書籍・・・書名『複式簿記の黙示録』 岩辺晃三 著・徳間書店(1994年 初刊)※参考書籍・・・書名『富士山、2200年の秘密』 戸矢 学 著・かざひの文庫(2014年 初刊)※参考書籍・・・書名『出雲王国とヤマト政権』 富士林雅樹 著・大元出版(2019年 初刊)・・・下の画像は、かつて”冬至の日”に「筑波山」への登拝を終えた帰りに、山頂から麓に下るケーブルの中から撮影した”夕暮れに映える「富士山」”である。その撮影地の「筑波山」と遠方の「富士山」を結ぶ軸線の中間地点に、上記の大宮「氷川神社」を含む《氷川三社》が鎮座していたかと思うと、今更ながら感慨深く振り返るところである。
2022年03月16日
閲覧総数 568
13
日本の「紋章」において数の付く名称の場合、例えば「七曜紋」とは、同じ大きさの7つの○(円)を、中心とその周囲に6つ並べたものをいう。つまり、全体的には6角形の形状なのだが、「中心」を数として勘定に入れて「1(中心)」+「6(周囲)」=「七曜紋」とするわけだ。さて今日の画像は、「七角形」を立体的に表現した造形だが、中心部分が開いているところが特徴のひとつである。全体形状は「七角形」にして、中心の「八」の部分が開いていることから、この型を今日のタイトルとして「八開」と名付けた。また・・・中央部の「開き」を分かりやすく強調してみたい・・・ということで、「白ヌキ」の画像処理を試みた。今まで数々の「七角形」の立体的表現を試みてきたが、私なりの感覚では本日紹介する「立体七角形」が、最も普遍的な造形ではなかろうか・・・と、そのように今のところは観ている。(関連記事・2007年3月30日/2008年1月8日の日記)この「八開」と題した造形は、正四面体をベースにした立体構造なので、ただ平面に正三角形(青色)を7枚並べたのではなく、中心部に集う正三角形(正四面体の一面)の7つの頂点が、手前側に絶妙に浮いた形態となっている。この「白ヌキ」の部分の開き加減が(手前味噌ではあるが)、実に美しい「開き」を魅せている。ところで、前回のブログでは、「五角形」と「六角形」の共存する造形を掲載した。例えば、同じ大きさの「正三角形」を並べてそれぞれの角形を作るとすると、この「五角形」と「六角形」は共に中心が閉じた表現となる。つまり、正三角形が5枚で「五角形」を作ると、中央部は閉じて膨らむ「五角錐」となり、同様に正三角形が6枚で「六角形」を作ると、平坦な「正六角形」となってやはり中央部は閉じた状態だ。それが、7枚の正三角形で「七角形」を作るとして、その構成法に立体的条件を付加すると、「六角形」までは閉じていた形状の中心部が、「七角形」では開いた状態となるのである。コンパスと定規では描けない図形とされる「七角形」も、二次元(平面)にもう一次元を加えた「三次元(立体)」の構造表現によって、このように具体的に視覚化できるのだ。・・・現今の混迷混沌とした閉塞感を打開する「手懸かり」になれば・・・ということで、この普遍的な「開き加減」の立体七角形を、ここで初めて公開・披露することにした。その意図するココロとは、一人一人の閉じられた〔 心 〕の「岩戸開き」に繋がる布石としての・・・創造的「破壊(八開)」・・・である。(関連記事・2005年6月30日/2006年1月28日)目覚める人々が、その《想像的八開》の向うに、『 真実の光 』が見出せることを期待して・・・。
2009年03月16日
閲覧総数 9529
14
「出雲」にはもう十回は足を運んだであろうか・・・、訪れる度にまさに「出雲八重垣」の垣根を一重づつ潜らせていただき、毎回その懐の深さを感じさせられてきた。そして何度か出雲訪問を重ねるうちに、「出雲神族」の祖神とされる「クナト」という神の名前を知ることになった。この「クナトの大神」は、「日本書紀」では「岐神」として登場し、「古事記」では「衝立船戸神」と呼ばれている。現在は、出雲大社の東方にある「出雲井神社」に、「久那戸(くなと)大神」として祀られており、まるで導かれるようにして何度か参拝させていただく機会があった。さて、上述した「出雲神族」の末裔で、一子相伝の「口伝」により古代の歴史を伝えてきた「富(とみ)氏」の伝承がある。(参考文献・・・「謎の出雲帝国」吉田大洋 著・徳間書店 ほか)その伝承によると、その「出雲神族」は、東北方面から出雲に移住してきたということである。なかでも注目すべき口伝に、『我々の大祖先は、「クナト(岐神)」の大首長だが、もうひとつの隠された女首長に「アラハバキ(荒吐神)」があり、体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、「クナト」は「地蔵」に、「アラハバキ」は「弁才天」へと変身した。』とあるそうだ。実は私は、この「クナト」と「アラハバキ」が深い関係にあり、しかも男神と女神のペアだと知ったのは昨日のことである。この東北の神として聞こえた「アラハバキ」は、先日のブログでも取り上げた「遮光器土偶」がその神を象ったものとされ、その土偶が女性の特徴を強調していることからも女神と認識されている。(参考記事・2008年6月12日の日記)ちなみに、北海道は倶知安のアイヌ酋長の話によると、アイヌの古語で「クナト」は「男根」、「アラハバキ」は「女陰」の意味で、本来は一対のものだったということである。先日のブログのも書いたが、先の東北地域で起きた地震は、縄文勢力の「よみがえり」を暗示するのでは・・・と推理したが、もしかするとその流れのなかで、この「縄文」を象徴する男女一対の大神たる「クナト」と「アラハバキ」が浮上してきたのではあるまいか・・・。(参考記事・2008年6月16日の日記・同年6月21日の日記)そしてこの記事を、本日『七夕』の月日に公開できたことを、とても喜ばしく思う今日この頃である。◎【 追 伸 】 上記の「クナト大神」に関して、上掲の参考文献よりも詳しい書籍を知り得たので、以下その関連記事と共に紹介しておこう。(2020.4.12 記)※参考書籍・・・書名『出雲王国とヤマト政権』 富士林雅樹 著 大元出版(2019年 初版) ※関連記事・・ 令和二年【春】出雲行脚の巻
2008年07月07日
閲覧総数 15835
15
前回の日記で、国常立尊(日本書紀)と天之御中主神(古事記)は、共に「北極星」を示す神名という視点を記した。そこで思い出したのが、京都左京区の吉田神社の境内にある「斎場所 大元宮(さいじょうしょ だいげんぐう 重要文化財)」であった。この神殿(通称・大元宮)は、入母屋造の特殊な構造を持つ吉田神道の根本殿堂とされており、全体的に「八角形」の建物というところが印象的である。(御祭神 天神地祇八百萬神〔あまつかみくにつかみやおよろづのかみ〕)なぜ「八角形」なのか・・・長年、私なりに「立体造形」に携わってきて、ようやく「八角形」の背景に「北辰信仰」が隠れていることがわかってきた・・・。ここで「北辰信仰」とは、北極星と北斗七星に対する信仰という意味合いである。この北極星は中央に座す不動の星ということで、八角形の中心の位置付けとなる。そして、北斗七星が八角形の象りとなって、中心の北極星を巡るというわけだ。ここに中国伝来の龍神信仰を結びつければ、「龍神」が「北斗七星」にして、その龍神が手に持つ「玉」が「北極星」ということになる。ここで、北斗七星が「八角形」となるのは何故かといえば、北斗七星の七つ星とその輔星(アルコル)を合わせた八星を数珠つながりと見立てて、「八角形」になぞらえているということ。(これは、中国思想の根幹とされる「道教」の思想信仰からきているということだ。)上述の「大元宮」の境内には、かつて「八神殿」が祀られていたということだが、その神殿に祭られる八神とは、「神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神」とされ、これが北斗七星と輔星の八星に相当する神々といえるのである。さらに調べると、この八神のなかでも最後の一柱の事代主神だけが「国津神」で、他の七神は「天津神」ということである。なるほど、天津神の七神が「北斗七星」で、国津神の一神が「輔星」というわけか・・・、ということで思い出したのが出雲(島根県)の鰐淵寺(がくえんじ)だった。その寺の境内には、摩陀羅(まだら)神社がある。実はこの摩陀羅神こそ、北斗七星の輔星(アルコル)と想定される神なのである。国津神・・・事代主神・・・出雲神・・・摩陀羅神・・・と、この直感的な連想は、一連の深い繋がりを示しているに違いない。加えて、北辰信仰による祭祀という観点から例を挙げると、旧江戸城の北方に鎮座する日光東照宮がある。山王一実神道による東照宮の御祭神は当初、徳川家康・天海僧正・藤堂高虎とされ、その背景には北辰の星々があったということだ。つまり、主祭神の家康公は「北極星」として祀られ、天海僧正は「北斗七星」として、そして藤堂高虎は「輔星」という配祀だったということである。以上、「八角形」と「北辰信仰」の関係について、様々な観点から論じてきたわけだが、なぜ「日本神話」において「八」という数が多用され、また古代の天皇陵の形状が「八角形」なのか等の疑問の答えが観えてきて、この期におよんで不思議な気分の今日この頃である。
2007年08月08日
閲覧総数 2692
16
ある書籍を読んでいると、新説として「天之御中主は志賀島の主」とあった。(忘れられた上代の都「伊都国日向の宮」 石井好 著・郁朋社 刊)この「天之御中主(アメノミナカヌシ)」とは、日本神話「古事記」の冒頭に出てくる「天地初発の神」である。「天空の星々」と「神話の神々」との間に相互関係が見出せるという観点から、このブログ上では一貫して「天之御中主」を「北極星」と見立てる解釈で論じてきた。しかし、上記の書籍によると、中国史書の「宗氏日本伝」の記録では、「天之御中主」は実在した初代の「伊都王」としており、『天之御中主から彦なぎさまで二十三世、みな筑紫の日向の宮に都した』と明記されているとのことだ。そして、ある古代の年代を算出する計算法によれば、「天之御中主」は西暦50年頃の「伊都王」と計算でき、あの志賀島で出土した「漢委奴国王」の金印は、皇室始祖たる「天之御中主」の印綬と推考できるそうである。(金印下賜は西暦57年)ちなみに、「漢委奴国王」は「かんのなのわのこくおう」と読むのが通説だが、著者は「かんのいとのこくおう」と読むのが相応しいとして、金印出土の志賀島が伊都国の国領と考えられることからも、金印に刻まれた「委奴国王」は「伊都国王」を示す可能性が高いと指摘している。ここで、かつて福岡市博物館に展示されている実物の「金印」を、長時間まじまじと見つめながら妄想に耽っていた自分を思い出したが、今ここでこの金印が皇室始祖の「天之御中主」に下賜された可能性を想う時、実に感慨深いものを覚える次第である。この書籍を読んでいて、特に強い印象として心に残ったのは、この「天之御中主」を祀る神社が、志賀島は北端の沖津島に「沖津宮」として存在することを知ったことだった。とりわけこの志賀島は、「天之御中主」を祀る祭祀の比率という観点では、その祭祀の密度を含めて日本一の数値を示すということだ。ここで思い出したのは、2007年5月3日のブログにも書いたが、かつてこの沖津島に渡ったことがあり、その島の高台にある「沖津宮」に参拝したことがあったということ。その「沖津宮」の祭神が「天之御中主」だったとは・・・。思い返せば、当時の沖津島での「調査」により採取した小石の主成分が「パラジウム」とわかり、そのパラジウムの原子核構造と「正12面体」との連関等について記したのは、2007年12月6日のブログだった。そしてこの度、「天之御中主」が「沖津宮」の祭神と知り、本日改めて「正12面体」の軸線構造を映した画像を掲載したいと思った。不思議なことに、この180本の軸線で構成した「正12面体」は、なぜか「黒」や「紫」で塗布したくなるのである。その理由はもしかすると、「天之御中主」にあったのではないか・・・と、今の私は感じている。陰陽五行説によると、方位の「北」をあらわす色は「黒(紫)」とされており、志賀島は博多湾の〔北方〕の中央にある島であり、「天之御中主」を祀る沖津宮は志賀島〔北端〕の沖津島に鎮座している。また、「天之御中主」を「北極星」と見立てる関係性からも、やはりこの「正12面体」は「黒(紫)」が相応しい色と感じたわけである。この「天之御中主」という神名は、「海の真ん中にいた王」の意味合いなので、博多湾の真ん中にある金印出土の志賀島が自ずと浮かんでくること。その「天之御中主」を祀る志賀島北端の沖津島で採取した石の成分が、「パラジウム」だったこと。この原子番号46の「パラジウム」の原子核構造は、「正12面体」が想定されるということ。その「パラジウム」は、92まである原子の丁度「中央」にある原子で、構造的にも安定していること。古代ギリシャ時代から「正12面体」は、基本立体のなかで最も重要視された造形だったこと。今これらの要素を俯瞰して眺めていると、それらが絶妙に関連して「ひとつ」に融和し、この「正12面体」の構造が「ミナカヌシ」に観えてきたから不思議である。
2008年07月09日
閲覧総数 1682
17
前回の日記で告知した作品展が始りました。そこで冒頭画像は、展示会場の全体を撮影したものです。画像の中央奥に小さく映る”金色の造形”が、私の出展した作品です。今月23日の午後4時まで開催していますので、皆さまのご来場をお待ちしています。☆ 第2回【 防長創作会 大作品展 】日時:~9月23日(祭日)10時~17時(最終日 16時)会場:山口市 彩香亭 2F 会議室 《 入場無料 》住所:山口市天花1丁目2-7
2024年09月21日
閲覧総数 175
18
まず上の画像は、「冬の始まり」を告げる10月23日(二十四節気では「霜降」の頃)の夕暮れを撮影。茜色に染まる夕焼けが、抜群の美しさを放っていた。次に11月6日の午後、米国のトランプ氏が次期大統領に当選確実だと感じた時、たまたま空を見上げた際にクッキリと出ていた「二重の虹」。これはすなわち”吉兆”である。そして「立冬」(11月7日)の神々しい朝日。朝刊の一面トップには〔 米大統領 トランプ氏 〕とあった。ここで”縄文”由来の暦(以下に関連記事)にならうとすれば、本年の「冬期」は〈10月23日頃〉を「冬の始まり」とし、その”要”となる日は〈12月21日(土)〉の『冬至』、そして〈2月19日頃〉を「冬の終わり」とする約120日間となる。※関連記事・・・”光の道”のその先に・・・(3)おそらく今年(2024年)の「冬期」は、”噂”に事欠かない来年(2025年)の動向にも深く繋がる、【 地球規模 】の”一大転期”となるであろう。さて下の画像に映る造形は、『光』を象徴する「立体七角形」を基盤とし、動態的には”左回転による昇華(浄化)”をイメージした作品だ。〔安定的維持〕を前提とした《破壊的創造》により、本来の輝きを取り戻すための“地球の大掃除”が、いよいよ実働体制に入ったと感じる今日この頃である。※関連記事・・・いよいよ【岩戸開き】の”時”きたり!!※関連記事・・・新年 「明けまして」 おめでとう!
2024年11月09日
閲覧総数 172
19
この6月を迎えて観えてきたことがあった。それは、どうやら「北斗」の世界は、「北斗九星」(上の掲載図)が基盤となるらしいということが、感覚的に掴めたということである。これまでのブログ記事では、「北斗七星」に「輔星(ほせい・アルコル)」を加えて「北斗八星」という解釈をしてきたのだが、上の図に示したように、さらにもう一つの「弼星(ひつせい)」を加えて「北斗九星」とすることで、いわゆる「九星」(上図のカッコで示した九つ)の魔法陣とも整合してくることが認識できたということだ。※関連記事・・・八角形と北辰信仰⇒ リンクつまり、従来の北斗七星に「左輔(さほ・輔星・8番目の星)」と「右弼(ゆうひつ・弼星・9番目の星)」の二つの星を加えた「北斗九星」という捉え方が、「北斗」を認識する際に最も普遍性があると感じられたというわけである。そしてさらに、約26000年周期という地球の歳差運動において、約2,000年~3,000年の一定期間に「北極点(地軸の北端)」に一番近い「北極星」(現在は小熊座のポラリス)を加えて「十」で全てとする世界、すなわち「北斗九星」に十番目の星たる「北極星」を加えて、言わば「十全」(完璧)の世界を見出すことができる。この「北極点」を巡る「十」の星々が判然と認識できたとき、それに連動するかのように私の脳裏には「十角形」が観えてきた。そして、その「十」の星々と想定した「十角形」の中心こそ、目に見えない不動の「北極点」ということになる。・・・いよいよ破竹(八九)の勢いで世界は、本来の「自由(十)」を取り戻すべく、大きく動き始めたのではあるまいか・・・以下は、当ブログで書いてきた「十」に纏わる[数と形]に関する記事を選出したものである。※関連記事・・・そして「十」の時代へ⇒ リンク※関連記事・・・「10角形」の立体構成⇒ リンク※関連記事・・・「十」の必然性⇒ リンク
2016年06月10日
閲覧総数 2991
20
前回の日記で・・・「シリウス信仰」に纏わる祭祀線が見出せた・・・と書いたが、そのシリウスを祀る中心的な施設と思われる「志登神社」(福岡県糸島市志登)を映した画像が上、そしてその由来が記された石碑が下の画像である。この「豊玉姫(とよたまひめ)命」を主祭神とする「志登(しと)神社」は、古代の「伊都国(いとのくに)」があったとされる糸島半島の中央部に鎮座し、多くは次に紹介する記事(⇒ リンク)のように、年毎の太陽運行を観測する測量地点だったと推測されてきた。ところが今年の春分の頃に、糸島市においては当社と北方の二見ヶ浦にある「夫婦岩」(以下の二つの画像)の二箇所を、夕暮れに間に合うよう短時間で訪ねたことにより、結果的にこの「夫婦岩と志登神社を結ぶ軸線」が、冬至の頃にシリウスが昇る真南から東に約20度の方向を示すことが分かったのだった。・・・この地域では、「太陽信仰」が根付く前に、「シリウス信仰」があったのではなかろうか・・・。またそれと同時に、次に挙げる志登神社の位置を示す地図(⇒ リンク)を拡大していくと分かるように、当社の近辺とその南方に拡がる現在の区画が、まるで上記のシリウス出現の方位を示す軸線に沿うかのように重ね合わせて観えてくるのだった。◎関連記事・・・2007年12月20日 「冬至」に向けて ⇒ リンクこの上下の画像に映る「夫婦岩」は、今でこそ夏至の日の入を示す磐座として有名だが、この二つの大岩の割れた方向を方位磁石で確認してみると、私的にはシリウスに纏わる上記の方位と感じられたので、もしかすると・・・ということでその軸線を南方に伸ばしていくと、予想通りに「志登神社」が鎮座していたということである。現在この二見ヶ浦の「夫婦岩」は、近くの桜井神社の社地として崇敬されているが、この桜井神社の創建は江戸時代の寛永二年(1625年)とそれほど古くないことなどから、往古より糸島の全域を治める祭祀を司ってきた「志登神社」の管轄だったと考えられる。更に後日になって、九州北部における古代の天文・地文に詳しい『 儺の國の星(なのくにのほし)』(真鍋大覚 著)に目を通していると、この糸島地区の旧国名「伊都国」の「伊都(いと)」とは、「シリウス」を意味する旨が明確に記されていたことから、この地域に根付いたであろう「シリウス信仰」は、私の中で確信に至るのであった。前回の日記で書いたように・・・「柱島」と「雷山」を結ぶ縄文時代の南北軸・・・の軸線を踏まえて推考するに、おそらく志登神社の鎮座する場所とは、縄文時代にはシリウスや北極星などの航海の目星となる星々を、古代海人族が観測する拠点としての役割が大元であり、やがて弥生時代になると太陽運行の観測を主流とする聖地になっていったのではあるまいか・・・。ここである想いが脳裏を過ぎった。その古代「伊都国」の要を担う祭祀場たる「志登神社」の主祭神は「豊玉姫命」・・・。その「豊玉姫(とよたまひめ)」という神名が意味するところの本質とは、太古より世界各地で《豊穣の女神》と讃えられてきた天体「シリウス」に違いない・・・と、そのように感じ始めた今日この頃である。
2016年04月13日
閲覧総数 1328
21
前回の「拝ケ石(おがみがいし)巨石群」を取り上げた日記で、この巨石群が岐阜県の「金山(かなやま)巨石群」と同類の雰囲気を漂わせていると書いた。そして、その実地における体感から、私の心中で燦然と輝きを放つ軸線があった。その軸線とは、同じ熊本県の南小国町にある「押戸石(おしといし)」と「金山巨石群」を結ぶ、〔夏至の日の出〕と〔冬至の日の入〕を示す一本の軸線である。上記において、この軸線が燦然と輝きを放つと書いたのは、「押戸石」と「金山巨石群」を結ぶ軸線を、そのまま「押戸石」より西南西に伸ばした軸線上に、「拝ケ石巨石群」が存在することを確認できたからである。私なりの感覚からすれば・・・どうりで「拝ケ石巨石群」と「金山巨石群」は、その醸し出す雰囲気が似ている・・・という想いが浮かんだと同時に、もしかすると同じ時期に同じ系統の超古代人(巨人族か!?)が、これらの施設を造ったのかもしれないという妄想も膨らんだ。そして「拝ケ石巨石群」を訪ねた後に、同行者と昼食を共にして解散となり、今度は山口へ帰る道すがら私一人で「押戸石」に向かうことにした。途中、久しぶりに肥後国一の宮「阿蘇神社」に参拝したが、何と当日の7月28日は、当社で年間最大とされる「御田植神幸式祭(おんだ祭)」という祭事にたまたま遭遇し、阿蘇に坐す神々のお導きを実感しつつ、阿蘇の山々を一望出できる「大観峰」を経由して、今回で四度目となる「押戸石」の丘に到着した。ここで冒頭の画像は、この「押戸石」の入口となる「はさみ石」という岩組みを撮影したものだ。夏至にはこの岩の間(凹み部分)から太陽が昇り、冬至にはこの岩間から太陽が沈むとされている。かつて、はじめて「押戸石」を訪れたとき、まずこの狭い岩間を通ることが、この磐座群に入らせてもらう作法なのだと、知人から教わったことを思い出した。◎〔押戸石の丘〕ホームページ ⇒ リンク上の画像の石は「祭壇石」といわれ、押戸石のある丘陵地に夏至の日の出(冬至の日の入)を示す軸線を引いた場合に、その軸線のほぼ中央部に座す磐座である。画像は、その軸線と90度に交わる北九州の宗像大社方面に向かって撮影したもので、この画像の方向と逆の方向には阿蘇の根子岳を確認することができた。この「祭壇石」という磐座は、この画像の方向で少し角度を変えて何枚かの写真を映したのだが、どの写真にも「顔」らしきものが確認できるので、まるで意図的に作られた「人面石」のようでもあり、実に摩訶不思議である。次に上の画像は、この磐座群のなかで高さ5.5m・周囲15.3mと最も大きく、この丘陵地の最も高い位置にある「押戸石」という巨石である。冒頭の画像の「はさみ石」と次の「祭壇石」、そしてこの「押戸石」の3つの磐座を結ぶ直線は、この押戸石の丘を貫く「夏至の日の出(冬至の日の入)」を示す軸線を意味している。そして、その押戸石の丘に引かれる軸線を基準にして、これを東北東方面に延長すると「金山巨石群」、反対の西南西方面に延長すると「拝ケ石巨石群」が存在するということになるわけだ。今回の「熊本行き」については、初めてとなる「拝ケ石巨石群」を訪ねることも念頭に置いており、その巨石群の実地散策が実現して、縄文系の太陽信仰たる「夏至の日の出」を示す軸線で「金山巨石群」と「拝ケ石巨石群」が、ここ「押戸石」を経由して結ばれていたことを体感を含めて確認できたことは、まさしく望外の歓びであった。そしてこの画像は、押戸石の磐座巨石群を分かりやすく解説した看板を映したものだ。今回、熊本の磐座巨石群と題して(1)~(2)と記したが、ここで取り上げた巨石群はおそらく縄文以前、つまり今から約1万年前よりも以前に、夏至の日の出が示す軸線を基準にして、列島各地に意図的に配置された遺構の一部だと思われる。近い将来、この磐座巨石群が建設された目的や意義等が明らかにされるのではないかと、そのように感じる今日この頃である。
2014年08月05日
閲覧総数 1394
22
先月の中旬頃、久しぶりに大分県は宇佐市内の「安心院(あじむ)」に行く機会があった。これまでも九州東部への車の行き来で、この安心院を経由する機会が多かったのだが、その際に時間があれば必ず寄っていたのが、安心院盆地を一望できる展望台(最下の地図参照)である。そこで冒頭の画像は、その展望台の前方に拡がる盆地から豊後富士と謳われる「由布岳(標高 1,583m)」(画像中央に聳える独立峰)や、その左隣にある「鶴見岳(標高 1,375m)」を中心とする山々を映したものだ。☆関連記事・・・「由布岳」登山の回想おそらく今まで計5回は当展望台に訪れたと思うが、今回こそ一番の大展望に恵まれて、晴れ晴れとした心地になったことを憶えている。この展望台から一望できる景観は、小説家 司馬遼太郎氏が ” 日本一!”と絶賛したとか・・・。 次に上の画像は、宇佐市にある「和尚山(かしょうざん・標高 327m)」に二度目の登拝が許された際、当山の山頂部南端から南方面を撮影したもので、既にお分かりのように中央の御山が「由布岳」である。(最下の地図参照)※関連記事・・・宇佐祭祀の根源へ・・・☆関連記事・・・そして豊前の「鹿嵐山」へ…(1)☆関連記事・・・そして豊前の「鹿嵐山」へ…(2)☆関連記事・・・そして豊前の「鹿嵐山」へ…(3)そして上の画像は、山口県中央部の瀬戸内海湾岸域にある「ある地点」から、南方となる大分方面の山々を「由布岳」を中心に撮影したものだ。ここから展望すると、瀬戸内海を挟んで遠方に見える「由布岳」が、ほぼ真南となるのは興味深いところである。実は、このほぼ真南にある「由布岳」を構想に入れて設計したであろう建物が、現在の「山口きらら博記念公園」内にあって上の画像に映る「きららドーム」(多目的ドーム)だ。(最下の地図参照)前回の日記で取り上げた『 山口ゆめ花博 』(平成30年9月14日~11月4日)は、実はこの公園を会場として開催されたイベントであった。(明治150年プロジェクト「 やまぐち未来維新」の中核イベント) そして下の画像は、上の「きららドーム」を映した場所から、その後ろの正面を映したものである。つまり上記の「ある地点」とは、手前の海岸に続く階段を降りた場所だ。 この画像では遠方の海上に微かに見える二並びの山が、冒頭で解説した「由布岳」と「鶴見岳」である。その降る階段の向かう方向は、どちらかというと「由布岳」の方だと分かるであろう。そして下の画像は、山口市を代表する山たる「東鳳翩山(ひがしほうべんざん・標高 734m)」(最下の地図参照)の山頂から南方を撮影したものである。この画像の天と地を分ける境界域において、中央部に確認できる白い点が「きららドーム」だ。そのさらに南方に「由布岳」が控えているかと思うと、撮影当時も胸が熱くなるのであった。さて最下の画像は、冒頭より掲載してきた数々の画像を撮影した場所(地点)を示したものだ。この地図の南北を貫く赤線は、最南端の「由布岳」を基点とし「山口の県央部」を結ぶ南北軸である。今回の記事では、山口県は中央部の瀬戸内海沿岸から(天気の良い日には)南方に視認できる「由布岳」を中心に取り上げた。 本年の山口県(長州)における「明治維新150年」という節目において、この日記で何度も取り上げてきた「山口と九州を貫く南北軸」が、いよいよ燦然と力強く輝き始めたと感じる今日この頃である。※関連記事・・・由布岳(豊後富士)を展望しつつ・・・
2018年11月11日
閲覧総数 949
23
当日記で何度か取り上げてきた「ベシカパイシス」とは、”すべての始まりをあらわす形”とされ、上の画像の図形では、半径が同じ2つの円周が双方の円の中心を通って交差し、その中央部に形成される”黄色”を囲む形状のことだ。そこで、冒頭画像に映る「ベシカパイシス」は”2次元の平面図形”なのだが、私の中で「ベシカパイシス」とは、なぜか”3次元の立体構造”として表現すべきとの『夢』を通じた直感(以下の関連記事)があり、それを具現化した作品が上の画像に映る造形である。(※「ベシカパイシス」の立体的表現…第一種)☆関連記事・・・ベシカパイシス・・・上の画像に映る造形は、上の関連記事に掲載の冒頭に映る造形と全く同じものなのだが、映した角度により全く違う造形に観えてくるところが、(一場面に限定される平面図形と比べた場合に)立体造形の醍醐味であり奥深さと言うことができよう。ちなみに、「ベシカパイシス」を形成する二つの円の基本単位である”一つの円”に対応する”3次元の立体”とは、制作当時の私なりの解釈で「準正14面体」の軸線構成とした。つまり以上の解説を前提として、円形(球体)と見立てた”青色”の「準正14面体」と”赤色”の「準正14面体」が和合した部分に形成される形状が、立体的な「ベシカパイシス」ということである。(※上の画像に映る造形の接合部が、少し黄ばんで映っているのは、上の関連記事を公開した日付が2007年7月22日であり、その年月日に制作し17年を経た今も健在だった作品を撮影したからだ。)そして上の画像に映る造形は、以下の関連記事でも書いたが、かつて「準正14面体」の”縮小版”を制作していたことから、その「小さい準正14面体」の二つを結合して「立体的ベシカパイシス」を制作し撮影したもので、今回の記事で初めて公開する作品である。(※「ベシカパイシス」の立体的表現…第二種)☆関連記事・・・フラワー・オブ・ライフ(立体)の”縮小版”を制作(下)この上の画像に映る「第二種の立体的ベシカパイシス」を自分の手の平に置いた時、改めて「フラワー・オブ・ライフ」につながる大元の構成単位であり、生命感あふれる「立体的フラワー・オブ・ライフ」を生成する《根源》なるものを垣間見たのであった。次に上の画像に映る造形は、「ベシカパイシス」を構成する基本単位の「円」を「準正32面体」と見立て、青と赤の二つの「準正32面体」の軸線構成を、互いの中心核を共有する形で結合した構造体であり、中央部に形成される黄色の軸線構成が「ベシカパイシス」の位置付けとなる。(「ベシカパイシス」の立体的表現…第三種)☆関連記事・・・「ベシカパイシス」の立体的表現(Vol.2)以上で簡単ではあるが、三種類の「ベシカパイシス」の立体的表現を解説したことになるが、この「ベシカパイシス」について検索を重ねた際に、特に目を引き印象的だった画像が下である。この上の画像は、前回の日記でも紹介した「ベシカパイシス」について分かりやすく解説されたサイトから引用した”人間の『受精卵』”を撮影したもので、それはまさに「ベシカパイシス」を含む二つの球体が結合した形態であった。そこで以下の文章は、そのサイトから抜粋したものだ。・・・私たち人間も、幾何学的な道筋を通った末の産物です。その象徴たるものが受精卵。何億という精子の中から、卵子に辿り着いたたった一つが卵子の中へ入っていきます。そこで精子の尾が外れ、精子の頭の部分が卵核とちょうど同じ大きさの球体になると、次第にその二つが融合して、ご覧の通り「ベシカパイシス」を形成しました。その融合し合った二つの細胞は、その時点であらゆるすべての宇宙の叡智を内包しているのです。ここから発展していく有名な「フラワー・オブ・ライフ」も、たくさんの「ベシカパイシス」の集合体に他なりません。・・・さて末尾画像の地図に描いた図形は、今年7月の連載記事「ふたたび”列島中央部”への旅路」に出かける直前に描くことになった陰陽二つの円と「ベシカパイシス」である。この大きな時代の転換期に、日本列島の中央部に秘められてきた【 弥勒(ミロク)の世 】を暗示する「ベシカパイシス」が、ふたたび浮上し律動する時を迎えたと感じる今日この頃である。
2024年10月02日
閲覧総数 245
24
最近は私の周囲で「コノハナサクヤヒメ」という神名をよく聞くのだが、なかなかその姉妹で姉の「イワナガヒメ」の神名と共に聞くことは少ない。それは日本神話の記述で、「イワナガヒメ」は醜女(容姿のみにくい女性)と描写されていることもあるからであろう。しかし、私は前々から・・・これはどうも解せない、背景に何かあるぞ・・・と感じていた。さて先日、図書館で「日本庭園」のビデオを見ていた。その作庭の歴史から、全国の有名庭園が紹介されたものだ。そのビデオを関連書籍を参考にしながら鑑賞していると、とても気になる文言に出会った。・・・日本の庭は「空間に小宇宙である心の風景を具現化した造形」であり、その心の風景を形づくる素材の中心は石と岩であった。これに比べて植栽は副次的なものである。・・・・・・神が宿る処が石・岩でなければならない理由として、石が有する保温性が挙げられる。すなわち東から昇る太陽が西に没するまでの間、岩石は太陽エネルギーにより暖められる。太陽が沈んだ後も岩石は温もりを保ち続ける。原始・古代の人々は、太陽の霊力は夜に岩石に宿り、翌日再び東より昇ると考えた。・・・日本庭園の作庭においては、古代より「岩石」が第一の主役にして「樹木」は第二の脇役という厳然とした順序(秩序)があり、おそらくこの順序は日本の古代祭祀の原点たる「神籬・磐境(ひもろぎ・いわさか)」にも連関しているということだ。ちなみに、この「ひもろぎ・いわさか」は、祭祀の時に周囲に常盤木を立てて神座としたものを「神籬(ひもろぎ)」、岩石でつくった神座を「磐境(いわさか)」と古来から称しており、縄文以来の祭祀形式の伝統だということができよう。上述した作庭の順序を知ったことで、姉の「イワナガヒメ」は「岩長姫」の表記から「聖なる岩石(いわさか)」を示し、そして妹の「コノハナサクヤヒメ」は「木花咲耶姫」の表記から「聖なる樹木(ひもろぎ)」を示す象徴言語だとするなら、この姉と妹という姉妹の順序は、作庭における「岩」と「木」の順序に重なるという見方もできると感じたのである。 ここで改めて、日本神話におけるニニギとコノハナサクヤヒメの出会いのところを、フリー百科事典のウィキペディアから参照すると、以下コノハナサクヤヒメは、天孫降臨で日向国に降臨したニニギと笠沙の岬で出逢い求婚される。父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返してコノハナノサクヤヒメとだけ結婚した。オオヤマツミは、『私が娘二人を一緒に差し上げたのは、イワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギ)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤヒメだけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう。』と言った。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。以上繰り返しとなるが、縄文系譜の日本古来の祭祀のあり方は、「聖なる岩石」と「聖なる樹木」という言わば陰陽の呪物が順序よろしく和合するかたちで成り立つと考えられ、私自身もその法則に適う縄文祭祀の佇まいや、枯山水などを含む庭園を津々浦々で観てきた経緯がある。上の神話物語によれば、渡来系弥生人の大王たる「ニニギ」は、祭祀対象の本来の主役である「いわさか(イワナガヒメ)」を排除して、副次的な脇役の「ひもろぎ(コノハナサクヤヒメ)」を主役として立てたことになるわけだ。それゆえ国津神(縄文系)のオオヤマツミに、ニニギの寿命は長くないと言わしめたのであろう。これを別の角度から見れば、縄文時代の「自然と共存」する社会から、弥生時代以降の「自然と対立」する社会への転換を意味しており、おそらくニニギの治世あたりから、権力志向の強い殺戮闘争型の社会となって治世も短くなり、それが現代社会まで続いているという見方もできるだろう・・・。そこで、何故かここで思い出したのが、かつてお付き合いしていた神道系の求道家の知人のこと。その男性の求道家は自ら・・・今はニニギ尊の役割を演じている・・・と話していた。そして、いつもその知人と行動を共にしていた二人の女性がいたのだが、その女性の二人がイワナガヒメとコノハナサクヤヒメの役割とのことであった。そして今更ながら思い出されるのが、そのニニギ役の知人が私にそっと耳打ちしてくれた内容で、それは「かつてのことがあったので、この度はイワナガヒメを返さずにコノハナサクヤヒメと三人で行動を共にしている。」という、かような文言であった。もう今から20年以上も前の話だが、もしかすると神話の内容は現実に反映することもあるかもしれず、その内容に「間違い」があったなら、人間の姿を借りてその修正が求められるのかも・・・などという妄想が脳裏をかすめたこともあった。その御三方は私よりも年齢が二回りも上の方々だったが、神話の世界からそのまま抜け出てきたような雰囲気だったので、上述の言葉を聞いて実に微笑ましく感じられたことを思い出す。ところで、この神話物語の背景には、中国伝来の「陰陽五行説」が巧みに織り込まれたかたちでのシナリオ作りだったという見方もできる。かつて、過去のブログで取り上げたこともあるが、ニニギは「中央」の『土』、イワナガヒメは「西」にして『金(岩=金)』、そしてコノハナサクヤヒメは「東」にして『木』と、それぞれ配当することができるとすると、そこに興味深い構造が観えてくるのだ。その「陰陽五行説」の循環法則から分かりやすく解説すると・・・「中央」の祭政を司るニニギの政権を安定・維持するためには、東の『木(このはな)』との相克(対立)する関係を制御・調整できるよう、西の『金(岩・いわなが)』から東の『木(このはな)』に対する働きかけがどうしても必要となってくる・・・ということだ。つまり、ニニギはイワナガヒメの介添えなくしては、コノハナサクヤヒメと仲良くやっていけないのに、イワナガヒメの働きを無視したので、ニニギは短命となったということである。「木火土金水」という五行循環の法則を、神話の登場人物に投影させて物語を編むという手法だと思われるが、どうやらここら辺に、この部分の神話内容を普遍的に読み解く鍵がありそうである。今日の画像は、話題にして「ひもろぎ(聖なる樹木)」と「いわさか(聖なる岩石)」が抱き合わされたような、まさに「岩」と「木」の陰陽和合のたたずまいを映した写真である。撮影場所は住まいの近くの山腹にあって、おそらく古代祭祀の跡と思われるのだが、写真下方の「岩石」に手前中央の「樹木(ナギ)」がピッタリと寄り添い、ほどよく光が降り注ぐ風情も加味されて、ほのぼのとした雰囲気が伝わってくる。
2008年07月11日
閲覧総数 8631
25
このたび上の画像に映る自作の立体作品(一点)を、山口市内で開催の展示会に出展する機会を得たので、その日時や会場等を以下に紹介させていただきます。第2回【 防長創作会 大作品展 】日時:2024年9月20日(金)~23日(月・祭日) 10時~17時(最終日 16時)会場:山口市 彩香亭 2F 会議室 《 入場無料 》住所:山口市天花1丁目2-7作品の題名『 地球維新 』 作者 山本裕一 (作品の寸法・36×36×36cm)☆〔 作品の解説 〕…この造形は「綿棒」を素材として構成した立体作品です。表面的には”サッカーボール”の形状であり、基本立体の中で最も「球」に近い軸線構成です。その内部構造に関しては自身の〔手探り〕による摸索を繰り返し、総計1,110本で全体を構成することができました。昨今の未曽有と思われる地球規模の転換期において、幕末から明治維新を担った防長先賢のご威光を浴び、《新たな維新》を担うに相応しい光り輝く作品になったと自負しています。※《 追 伸 》…展示会場から車で約10分の所に鎮座する周防国三ノ宮「仁壁(にかべ)神社」(山口市三の宮2丁目6-22)には、奉納された自作の造形「 高天原 (たかあまはら) ≒ 宇宙 」が、下の画像のように本殿に向かう拝殿の天井から吊り下げられており、参拝者はいつでも見ることができます。※関連記事・・・天空に輝く「星々」と神社に祀られた「神々」との関係性、そして・・・
2024年09月18日
閲覧総数 211
26
本日の2024年11月11日(月)の未明、「剣(つるぎ)」が自分の目の前で甦る(復元する)という”夢”を見た。その印象的だった”夢”を、以下に掻い摘んで記しておく。◎そこは最先端の機器を扱う研究室のような場所だった。その先端機器を最大限に駆使し、なぜか動物の「犬」の記憶を辿って、何かを丁寧に復元する現場に私は遭遇した。◎それは、今から復元しようとする『剣』を、かつてこの実物を見たことのある「犬」の脳裏に残る記憶から抽出し、それを具現化する作業のように思われた。◎そして、その先端機器により短時間で見事に甦った『剣』を見ていると、その『剣』の”持ち手”の上部に刻まれた二行の古代文字が、なぜか私には読めるのだった。◎そこには神代文字で「オホモノヌシ(大物主)」と「クシミカタマ(櫛甕玉)」と刻まれていたのであった。以上が今朝見た”夢”の粗筋だが、その”夢”から醒めて直ぐに思い出したのが、冒頭画像に映る「銅剣」のレプリカであった。(福岡県糸島市の「三雲南小路王墓」から出土した「有柄銅剣」の複製)この画像は、今年の秋に「伊都国歴史博物館」(福岡県糸島市)を見学した際に撮影したもので、改めて「銅剣」(複製)を見てみると、今回の”夢”で見た『剣』のイメージと瓜二つであった。そこで思い出したのは、当博物館を見学した折に当館の解説員から聞いた話である。これは一つの説として受け止めて欲しいのだが、その内容とは・・・「熱田神宮」(愛知県名古屋市)の御神体で、〔三種の神器〕の一つとされる「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の実物を観察した人の話では、この展示された「有柄銅剣」と寸法や特徴が同じであった・・・ということである。これは私としても聞き捨てならない内容で、それは「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」とも称された「草薙剣」の本質とは、かつては日本の国土から見えていた天体の「南十字星」のことであり、また私が今世に生まれ育ち現在も住んでいる山口市小郡の「小郡(おごおり)」の地名の由来が、”南天の夜空”に輝いていた「南十字星」だったからでもある。※関連記事・・・「二本(日本)」の御剣から※関連記事・・・展示会場のある「小郡(おごおり)」についてそして後に、その”夢”で見た『剣』の”持ち手”の上部に刻まれた「オホモノヌシ(大物主)」と「クシミカタマ(櫛甕玉)」を調べてみると、大和国一之宮「大神神社」(奈良県桜井市)の主祭神に「大物主大神」とあり、その別名に「倭大物主櫛甕玉命」とあったことから、当社の主祭神を刻んだ『剣』と認識できたのであった。加えて少し複雑な解説になるのだが、いわゆる「出雲口伝」に基づけば、当社の主祭神「大物主大神」とは、古代出雲国(東出雲王家)における第八代〔スクナヒコ(副王の役職名)〕の「八重波津身(ヤエハツミ)」であり、記紀における名称は「事代主(コトシロヌシ)命」となっている。つまり”夢”で見た『剣』に刻まれた神名たる「 オホモノヌシ クシミカタマ( 大物主 櫛甕玉 )」とは、大和国一之宮「大神神社」の主祭神「大物主大神(事代主命)」のことであり、その神名を『剣』に刻み「三種の神器」の「草薙剣」(本質は「南十字星」)として甦ることとなり、この期に及んで”夢”ではあるが私の眼前に顕現したと解釈できよう。興味深いことに、上記の代表的な神名で「オホモノヌシ(大物主)」を〔数霊(かずたま)〕で計算すると「121」となり、「11」×「11」=「121」=「オホモノヌシ」ということからも、まさしく本日の11月11日という”ゾロ目”の月日に相応しく、また本日を狙いすましたかのような”夢見”であった。最後に付け加えると、今朝の”夢”に登場した『剣』を記憶する「犬」とは、おそらく〈大犬座〉の一等星で「ドッグ・スター」とも呼ばれる「シリウス」を暗示していることから、今回の”夢”で見た『剣』は夜空で一番輝く星「シリウス」の”介添え”(後ろ盾)により甦ることになったと感じている。
2024年11月11日
閲覧総数 125
27
・・・お待たせしました⁉・・・冒頭画像に映る造形が(私独自の解釈による)【フラワー・オブ・ライフ (立体) の”縮小版”】の完成形である。これまで自身が制作した作品群の中で、おそらく最も緻密で精細な造形表現(軸線構成による複合立体)であり、全体の構成に必要とした綿棒の総数は、計552本であった。次に上の画像に映る造形は、冒頭画像に映る”縮小版”の構成単位である「小さい準正14面体」を、冒頭画像と末尾画像に映る各造形と”同じ角度”から撮影したものである。本日の日記に掲載した、これら大・中・小からなる三つの「準正14面体」の軸線構成を見比べることで、互いに”相似”の関係にあることが類推できるであろう。さて実は、今回の造形(冒頭画像)を制作するにあたり、その過程で興味深いことに気づくことができたのであった。そもそも”神聖幾何学”と謳われる「フラワー・オブ・ライフ」(上の画像の平面図形)の一般的な解説には、その構成要素としての図形(当日記で何度か取り上げた)「ベシカパイシス」が見出せることが記されている。※関連記事・・・ベシカパイシス・・・そこで、その制作過程で気づいた興味深いこととは、冒頭画像に映る【フラワー・オブ・ライフ (立体) の”縮小版”】の構成単位たる「小さい準正14面体」を構成する要素が、下の画像に映る「8芒星」(正8角形を基盤とする図形)であり、この「8芒星」と以下の記事にて冒頭画像の地図に描いた”大きな円”が、同じく〈正8角形〉を基盤にしていたというその《類似性》であった。☆参考記事・・・ふたたび”列島中央部”への旅路(1)思い返せば、今回の「出雲(山陰地方)の旅路」について記した連載で、最後の記事に書いた「ベシカパイシス」がキッカケとなり、上の記事の冒頭画像の映る地図に「正8角形(8芒星)」を内包する”一つの大きな円(伊吹山を中心とする)”を描いたことから、まるで導かれるようにして”もう一つの大きな円(御嶽山を中心とする)”を描くことになったのであった。そして、その二つの円により形成される地図上の「ベシカパイシス」を頼りに、上のリンク記事を筆頭とする計10篇の連載となった『ふたたび”列島中央部”への旅路』がスタートしたのであった。かなりマニアックになってしまったが、(自身の覚書ということで)ついでに書き加えておくが、それは「小さい準正14面体」の構成法についてだ。その構成法とは、この上の画像に映る「8芒星」を二つ作ったうえで、その言わば「陰の8芒星」と「陽の8芒星」の双方を立体的に立ち上げ、全体として”陰陽和合の球体”を想定しつつ組み合わせ構築していくことが、おそらくこの「小さい準正14面体」を制作する上で最も簡単な方法ということである。(※上記の構成法の解説では、理解も実践も難しいとは思うが、制作の”ヒント”にはなるであろう。)それでは最後に、末尾画像に映る【フラワー・オブ・ライフ (立体) の”通常版”】に関する所感を書いた三篇の記事と、今回の連載でリンクした主要な記事や動画を、ご参考かたがた以下に挙げておく。※関連記事・・・「バランス」の究極(1)・(2)・(3)◎関連記事・・・《 立体工作のご案内 》…「綿棒」で立体を作ってみよう!☆関連動画・・・【綿棒工作】…『スケルトン立体』を作って楽しもう!(No.1)◎関連記事・・・「究極の構造」(あの「フラワー・オブ・ライフ」の原型かもね)☆関連動画・・・【綿棒工作】…No.8〔フラワーオブライフ〕
2024年09月22日
閲覧総数 258