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『モンタナの風に抱かれて』という映画がある。事故のトラウマを抱える馬と、その馬のオーナーである少女が居る。彼等の心を元に戻したい少女の母親が馬の心が解る「ホース・ウィスパラー(馬に囁く者)」の存在を知り、嫌がる娘を問題の馬とともに、この「ホース・ウィスパラー」の元へ無理無理連れて行くという話だが、行った先で、訪ねられたホース・ウィスパラーは毎度、都会からやってきた少女の両親に「いつまでかかるか?」「どれくらいかかるか?」と尋ねられる。が、彼の答えは、「こいつ次第さ!」なのだ。問題犬の治療も基本はここだと思う。直すための施策は確かにこちらが提供するわけだが、治っていくのはその子がもつ理解力や忍耐力次第なんだ。理解力や忍耐力を伸ばすためにいろんな条件を課していくのだけれど、それを消化し、吸収していくのはその時点で、その本人が持つ力なんだよね。与えられた条件を消化・吸収できるようになるまでそれを待ってあげることだとか、そうしたことを助けてあげる事は出来る。。。が、結局は本人の問題になる。しかし、結果を焦って待てない飼い主が多い。いつになったら心を開いてくれるのか?いつになったら楽になるのか?自分が楽になれることばかりが優先されていて、相手に対する思いやりが足りていないんだ。自分がおっきなトラウマを抱えた事が無いと相手の痛みも痛みを克服するまでに必要な時間もわからないから結果ばかりを欲してしまう。そういう思いやりの無さが、相手を余計に追い込んで拙い結果を引き出すことにつながるということが解らない。この映画を観ていて思ったのは(話の中の人間模様よりも、馬の治療に目が行ってしまうところが職業病^^;)対象が馬の場合、あまり身近ではない動物と言う部分から人間の理解を越えたところにいる動物だという事や人間よりも遥かに大きく危険が有る相手なだけに、人間は待つしかないということを納得せざるを得なかったりする。。。が、対象が犬の場合にはあまりにも身近な生き物で有るために人間は、そういう相手に対して緊張感が無かったりする。本当は、理解していないために問題が生じているのに、理解出来ている動物であるかのように錯覚してしまったりする。相手が、自分の目線よりも低いところに居る動物と言うことで、自分が相手をどうにかできるのではないかと言う錯覚をしてしまう。が、実は、犬であっても、馬であっても、人間と言う種族とは別物であって一度傷ついたり人間に対して警戒心が強く働く環境に置かれた個体はどちらも心を開くのには時間がかかるということが見落とされているなと言うことなど観ていて強く感じたよ。で、馬の場合に行う押したり引いたりも犬の場合と変わらんなぁ。。。というのが感想だ!
Jan 30, 2009
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『「我」が強い』というのは、稀に才能豊かで秀逸であるために他者と見解が異なっていることからそのように思われがちといったこともあったりするが人間の場合でも犬の場合でもそのような者というのは稀で多くはただ、我侭によるマイワールドやマイワールドによる人間不信物事の道理を理解していない無知の上に自分が一番解っている者という自惚れによったりする。犬の場合には本犬が損をすることになっていたり周りの人間が不快感を感じたり、不都合を与えられるといった事になるだけだが、人間の場合には無知なる自覚が無いというだけでなくその自惚れによるごう慢さから周りの者を呆れさせ孤立を招く事になる。が、本来、そのように才能の豊かさによってもたらされている「我」の強さではない無知とごう慢さによってもたらされている「我」の強さだった場合には、本人は、元々脆い基礎の上に無理くり豪邸を建てているようなものだったりするから孤立感によって元の脆い部分が一層脆さを増し被害妄想的に自らを悲劇のヒロインに持ち上げてしまったり、排他的に成ったりする。それによって本人は一層自分が望んでいない状況に追い込まれる形に成るのだけれど、ちょっと自分を抑えて周りの者の意見に耳を傾けたり周りのものが示す内容を試してみたりすればそれまで退いていた周りとの関係は修復できたりするのだけれど、自分が被害妄想に凝り固まってしまっていたりするからその、「ちょっと自分と違う意見を取り入れてみる」と言うことが出来なかったりする。そうした心の余裕の無さや、傲慢さと言うのは犬は敏感に感じ取りこの手の我の強さを持つ人に対し犬は真っ向から反抗的だったりする。最初に示した才能が豊かで有るために我が強いという者と無知の自覚が足りていないことや自惚れからくる「我」の強さの違いは犬がその者に対して従おうとするか反抗的に構えようとするかの違いと成って顕著に現れる。前者には心に余裕が有ることから犬が返してくる反応の細かな部分への観察が可能であり、それを上手く還元させて思いやりと方向性を持って関わっているから犬はその者に従っていくのだけれど、後者の場合には自分が考える自己評価と実際の能力とが不一致である現実に思考が支配されてしまって自己評価を維持しようとする気持ちばかりに走り相手の犬の現状を把握するところに気持が向けられるだけの余裕が無く、犬に対してゴリ押しばかりする。だから、結果として犬との関係は悪化するばかりで、この手の我の強さを持つものは自己評価と異なった自分を突きつけてくる犬と言う存在を自分の中から抹消するといった逃避の方向に走り易い。かといって、高い自己評価の都合上はっきり飼育放棄といった形も取ることが出来ず、犬を自分の手元に置きかかわりだけを断つといった「飼い殺し」状態によって逃避を完成させようとする。人間不信が強い犬の場合、何かをやっているとき(やらされているとき)も、与えられている作業内容とは別に勝手に自分で周りに対しての警戒作業も平衡して行なっていたりする。そのため、示されている作業に対する集中力が弱く効率の良い仕事が出来ない。先の、自己評価と現状の自分の能力とが一致せず自惚れや無知からくる我の強さを持っている人の場合、こうした人間不信の犬と同じで、本来観察すべき対象の犬を観るといった作業と同時並行で自己評価の維持に気持ちが奪われてしまっているため、観察のために向けるべき集中力が欠けている。何故出来ないのだろう?何故従わないのだろう?と「出来る自分」に戻ろうとするところにばかりエネルギーを使っている。そうした、自分の見栄を満足させるために思考を働かせるのではなくて、素の瞳でもって犬の反応を見つめる事に集中すればその答えは簡単に見つけることが出来る。しかし、こうした我の強さを持つ人の多くは「出来ない自分」に何時までも捉われていて観察を怠っている自覚が無い。相手がやっている行動や返してくる反応を素で受け止めていれば何故犬がそうするのか?は簡単に見えてくる。。。が普段から他者の意見に耳を傾けるという鷹揚・柔軟な姿勢と言うのを持たず自分のゴリ押しだけで生きているために相手の様子から情報を汲み取るといった習慣が欠けているその人たちは言葉で思いを伝えてくれる人間と言う相手を拒否して生きてきた人たちだからましてや、言葉で伝えてくれるわけではない犬と言う対象に対しては人間に対してなされるべき受け入れ態勢よりももっと自分を退いてあいたいする必要が有るのだからその手の人にとっては非常に難しいという事に成る。まずは、言葉で通じ合える人間を相手に自分を退くとか相手の言葉を真摯に受け止めるといった練習が必要だったりする。
Jan 30, 2009
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物事は案外シンプルだったりするのに余計な情報が出回っているためにそういうのが知らずと頭の中に入り込む機会が多かったりして振り回されていたり自分の頭を使ってものを考えようとしていなかったりするんだと思う。犬友と称して群れたがっている飼い主たちの多くはお互いに、有益情報を交換し合っているかのように錯覚しているけれど、本当は、独りになって余分な情報を断ってしまえばもっと自分の犬を素で見つめる事が出来たりするんじゃないのかな?と思う。へんてこ情報に振り回されて頭でっかちになっているせいで自分の犬が見えなくなっていたり躾と称して語られている事がただお勉強が出来るだけのグレ者を作っていたりすることに気づかなかったりする。独りになってくどくど考えていることは決して無駄なことじゃあなくふとしたときにそうした考えに引っかかってくるような小さな情報が重なってきたりする。閃きなんていうのはそうしたところからバンバン出て来るんだと思う。人の中に埋没してしまっていたりすると、他人の思考に左右されて落ち着いて自分の頭を使うという時間が案外取り難かったりする。他人の考えに流されている事にも気付かず流され続けていたりする。特に、犬の業界はここ数年、海外からの汚染が激しいからね。
Jan 29, 2009
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作業犬種を飼っていながら犬が飼い主とは遊んでくれない犬だったりすることがある。本来犬と言う動物はとっても遊び好きだし、体を動かすのが大好きな動物だ。なのに、飼い主が一緒に遊ぼうと思っても遊びに乗って来なかったり、遊び始めてもすぐに別のことを始めてしまって遊びの終わりはいつも犬が勝手なことを始めてしまうとか動かなくなるとかで終わったりする。特に、オゥシーなどの飼育者なんかにそういう状態を犬から示されている人と言うのが多く、そういう犬を飼っている人たちが集るとそうした状態をオゥシーだから!と言ってしまう。そういう話をする人たちほどワイワイと集りがちでだからオゥシーと言う犬種は集中力が無いとかディスクを5投したら終わりみたいな言われ方をしていたりする犬種だ。が、そういう人たちが飼っているオゥシーをひとたびドッグランなんかで放したらこの持久力こそがオゥシーの持ち味だ!と思われている様相で日がな一日走り回っていたりする。で、オゥシーと言う犬種は集中力が持続しないとか言っている人たち。ここで、本当だったら、気づくべきなんだよね。日がな一日じゅう犬同士だったら遊び呆け走り回っていて、飽くことが無い。なのに?人間が相手のときはディスクを5投げしたら終わるの?集中力。。。なのに?オゥシーだから。。。か?それ、おかしいだろ!?それ、飼い主はただの「つまみ」程度にしか思われていないってことだよな!?その犬は、人間が嫌い(飼い主を含めてね)なんだよ!その犬は、人間を信頼していないから遊び相手を始めとして、周りの環境に対しても警戒心が働いて遊びに集中できないんだよ!その犬は、飼い主が考え出す遊びというのが大して面白くないと思っていて人間との遊びがつまらないんだよ!人間と一緒に遊ぶ事が楽しいと感じているオゥシーは体力の限りを尽くし、果てるまで遊ぶぜ!こちらが、これ以上やったら、こいつの心臓がもたねぇだろ!と思ってセーブしなくちゃならないくらいに何時までも続行しようとする。オゥシーだから集中力が無いとかおかしな話をばら撒くのはやめて欲しいわ!逆だよな!オゥシーだから集中力があるんだぜ!もう、やめようぜ!って言っても熱気ムンムンの目で訴えてくる連中だ!
Jan 29, 2009
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犬飼の中では「虹の橋」って言う話は有名だ。そこでは『飢えも無く、寒さや暑さもなく、寂しいという事も無く楽しく健康に暮らしている。。。』といったいわゆる「心身ともに充たされた状態」というのが語られているわけだが、存命中、「虹の橋」の話に出てくるような「心が充たされて、恐れや不安が無い状態」にある犬と言うのはこの世に存在するのだろうか?。。。と素朴な疑問。体が健康な犬だとか寝食充たされている犬というのは居ると思うよ。だけど、心が充たされている犬ってのはほとんど逢ったことが無い。
Jan 29, 2009
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このところ、40肩だの、上腕肉離れだの、全指レイノー症による痺れだのでほとんど使い物にならない右腕だったが、今朝、鼻の頭を擦り剥いた子を撮影するために朝からカメラを持ち出した。ついでに、お前も撮ってやるからそこに伏せてミソ!と、排泄が終わった直後のアレスを呼びつけて伏せさせた。。。が、こうして改めて見てみるとアレスって・・・顔でかっ!伏せてます・伏せてます・伏せてま・・・まだかなぁ・・・あ、誰か来た。。。なんだ、立ち話になっちゃった。。。解除はしてくれないのね・・・かあちゃんからの解除が出ません。仕方が無いから、僕はまだ伏せてます・・・かあちゃん話に夢中で、僕忘れられてないか?と不安なんですけど。。。朝一の排泄直後から訪問客と言うのはこちらとしても、ちと、厄介だった。。。汗が、顔が押し潰されて変形しているくらい地面に吸い付くようににずっとフセをしていたアレちゃん。そういうとこは真面目で可愛い♪朝一撮影。起き抜けの目ヤニくらいは取ってあげればよかったな!?
Jan 28, 2009
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以前、尊敬する習志野の獣医さんと話をしたときその方の口から「貴方も僕と一緒で、『ジャンプする人』だ。」という言葉が出た。それまでの生活だとか、一般的な感覚からパッと飛び出してもっと違った世界に飛び込んでいく人のことを指しておっしゃった言葉だ。自分は、そんな風に違う世界にババッと飛び込んでいけるほど思い切りよく行動できる人間では無いと思っていたから、貴方もそういう類の人間だと言われてもその時にはあまりピンとこなかったこの「ジャンプする人」と言う言葉だったが、「ジャンプしない人」「ジャンプできない人」というのが最近解る様になってきて、そういう意味ではその人たちとは確かに感覚が違うなぁと感じられる。自分がジャンプする人。。。とは思わないが、ジャンプしない人だとか、ジャンプできない人だとかともちょっと違うなと感じるということはジャンプする人に近いものがあるのかもしれない。。。出来ないまでもね。「ジャンプしない人」「ジャンプできない人」というのはいってみれば一つの枠の中から飛び出していけない人飛び出そうとしない人ということだなと先の内容からするととっても当たり前のことを何故だか今日は改めて感じ入った。そういう人は、枠の中に居ることが楽だというのを意識する・しないとに関わらず知っているんだな、きっと。。。枠の中に居ても大して楽が無いからこちらは意識する・しないに関わらずジャンプせざるを得なかったりジャンプさせられてしまうということなんだ。だから、自ら積極的にジャンプ「する」人。。。と言われても何かピンと来なかったわけだ。そう、消極的、受動的にジャンプさせられていたからだ。ジャンプしないのでも、ジャンプできないのでもない。したくないけどさせられていた。。。そんな感じかな。。。
Jan 28, 2009
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愛情一杯で育つのも愛情一杯で育てるのも結構なんだけど、その「愛情一杯」と言う状態が、本当の愛だったら。。。の話なんだよね。人間社会で生かされる動物なのに、人間に危険や迷惑を与える犬にしてしまうというのは本当の愛情ではなかったと言える。自分勝手な愛だったりただの自己満足だったりなんじゃないのかな?電話で話をしたら、「甘やかすって言う事はしていないつもりなんだけど。。。」とおっしゃる。甘やかさないことが良いことなんじゃなくて、人間社会に支障をきたさず、人から愛される犬にすることが大事なんじゃないのか?そのためには、時には甘やかすという事も必要だったりするんじゃん?「甘やかしてはいない」とおっしゃる方たちの大半が、可愛がっていないというだけだったりするんだな。自分を可愛がってもくれないような人のことを好きに成ると思います?問題は、どう可愛がるか?なのであって、「甘やかしていない」と言う人たちがおっしゃる可愛がり方を確認すると、撫で撫でしていないと言うだけだったりする。もうね、そういう人たちと言うのはご自身が「真の愛情」というものが何たるか?というところを体得しないまま大人になっているんだと思う。可愛がるというのは、その相手が幸せに成れるように配慮してあげる事であって、その中には厳しさも必要だし先のことを考えてあげるということも必要だ。才能を伸ばして挙げられるような環境を作ってあげることも含まれるしその中には、あえて「干す」ことで、意欲を掻き立てるといったことだって環境を作ると言うことの中に含まれている事もある。要はその子が幸せに成れる方向に配慮する事で、自分が楽をするとか、自分が心地良ければよいとか、その場相手から好かれるとか言う事ではない。憎まれ役を買って出てでも相手が幸せに成れるようにすることが可愛がるということだと思うのに、関わっていないから甘やかしていないとか思っていたりすることは大きな間違いで、関わっていないという事は仕事を課すといった事も能力の限界を引き揚げるかかわりもしていないって言う意味からすれば、立派な甘やかしなんだよね。だって、楽で怠惰を許しているわけだからさ!与える事充たす事庇護する事世間体を気にする事そんな風に自分勝手の自己満足の間違った愛情で育てられた人たちは愛情を一杯掛けてそだてるという事がどういうことなのかが解っていなかったりする。可愛がったり与えたり甘やかしてあげたり充たしてあげたり時には庇って盾に成ってあげることもあったり厳しくしたり追い込んだり干したり責任を持たせたり悩ませ考えさせたり経験を積ませたりそういう諸々を全て含めてその子が正しく伸びていけるように配慮してあげるのが愛情一杯に育てるって言う事なんじゃないの?「関わっていない」から「甘やかしてはいない」?「与え、充たしている」から「愛情を一杯かけた」?どうしてそう単純・短絡的で発想が貧困なんだろう?!
Jan 27, 2009
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保護活動家の見分け方。。。「足るを知る」人たちは自分たち自身の手で行える範疇というものを弁えているから、他人のお金を当てにしたり他人の技術を当てにしたり他人の住いを保護先に当てたりはしないと思う。「足るを知らない」人たちだから、次から次へと自分たちの手に負えない範疇にまで手を出して、他人の手を煩わせたり、他人を当てにしたりするんだと思う。自分たちが自分の出来うる範疇を越えたところにまで手を出すから、自分で自分の首を絞める形となって保護先が足りないだの捨てる人間が多すぎるだのやたら、文句や愚痴を言いたくなるのだ。自分たちが他人の尻拭いをさせられているようなものだと偉そうな講釈をたれたり押し付けがましく避妊去勢を強制したりと言うことに成る。嫌ならやめちまえば良いと思うのに、やめないのは、自分自身を善い人間だと思い込みたいからであって、やめてしまったら自分が善い人間と思える理由が消失する事になる。全ては自分自身のためにやっていることでしかない。なのに、いかにも、自分達が何か使命を負ってでもいるかのような偉そう振り。自分で出来る範疇を越えなければもっと謙虚に、地味に活動できると私は思う。自分たちに出来る範疇を越えなければ、自分たちが好きでやっているだけなんだという現実ももっと自覚できるはず。誰も、頼んでやってもらっているわけではなく、自分たちが好きでやっていることなのに、あの偉そうで恩着せがましい講釈はナンなんだろう?といつも不思議でしょうがない。避妊・去勢なんていうものは犬が良い犬で、その犬の価値を実感できれば、そういう存在をやたらと殺傷せざるを得なくなるようないい加減な管理未熟な管理をしてはいけないと譲渡された者自ら感じ取り、強制されずとも自らそれを選択するのでは?と思う。強制的に施術してから引き渡さないとそうしたいい加減な管理・未熟な管理しか出来ないような人たちに譲渡しているのか?だったら譲渡することが間違いだろうと思う。封建的な親が強制的に自分たちの考えを子供に押し付けているのを見ているようで、そこには相手に対する信頼とか尊重する気持ちといったものは存在せず、与えてやるという姿勢の一方的な傲慢さに見える。相手は一人前の大人なんだぜっていうところが欠けているんじゃないのかな?信用できない相手なら譲渡しなければ良いと思う。誓約書を取ったり、飼育場所となる自宅を覗きにとわざわざ家庭訪問までする割に肝心の相手の人間を信用するとか信用出来ない相手には譲渡しないという基本的な部分がいい加減なんじゃないのかな?それは、次から次へと保護するから保護先が確保できないという事情を自ら生み出しているためだ。命の大切さを訴える割にベルトコンベアー式に保護犬が手元から排出できることを望んでいるために大人相手に話をしていながらまるで相手を餓鬼扱いしたようなタカピな対応なんじゃないのか?だからそうやって相手のことを全然信用できていないのに譲渡を進めてしまうのだろう?その結果、終生飼養の誓約書を取っておきながら飼えない事情が出来たら連絡寄越せに成るんじゃないのか?誓約書。。。終生飼養だろ?!なのに、飼えなくなったと連絡貰ったらすっ飛んで行って引き取ってくる。馬っ鹿じゃないのか?自分たちが作った誓約書の権威を自ら貶めていたりする。あのポリシーの無さが嫌いなんだな。飼えなくなった事情が出来たんなら、自分たち自身の手で里親探せっての!それまで一緒に暮らした家族なんだろ!?里親探せないんだったら自分たちが安楽死させるくらいの覚悟を持って飼い始めろよ!何よりも、普段から自分たち以上に良い飼い主なんてのは絶対現われっこない!って言うくらいの飼い方していれば、最初から里子に出そうなんて考えないよな?!保護団体もさ、飼えなくなったら連絡寄越せじゃなくて、うちでは引き取りませんから自分たちの手で何とかしてくださいくらいのことを言って貰いたいものだ!で、結局何が言いたいかって言うと、足るを知っているまともな人たちはやたら恩着せがましかったりいかにも自分たちは被害者だと言わんばかりの偉そうな講釈は垂れていないってことだ。*************************************トレーナーの見分け方。。。その人の犬がどの程度の犬か?って犬の出来具合を見ればその人に教えてもらっていて良いものか?どうか?が解ろうというもの。。。習う側が、教えてくれる人以上になるのは大変だ。なのに、教えてくれる人の犬がまともでなかったら習っている自分の犬がトレーナーの犬以上に良くなるなんて言う事は殆どありえない。
Jan 26, 2009
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先ほどBSで北京五輪の立役者?チャン・イーモウ監督をインタビューした映像が流れていた。北京五輪の開会式。。。見てなかったのよぉぉぉ~~~っ!!てか、オリンピックそのものを見なかったし!その時の様子が流されていて、開会式を見逃した損失の大きさに愕然!お願いだ!出してくれっ!DVD。(注:開会式だけのヤツ!)
Jan 25, 2009
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昨日こんなことが有ったばかり。今朝、こちらは雨が降っていて、普段は排泄はコンスタントに出す保護犬が、雨に濡れるのが嫌なものだから排尿だけ済ませたらもうありません!と主張する。この保護犬。当初は、オシッコもウンチも平気で垂れ流し、垂れ流した上を、平気で歩き回ってはご丁寧に大小両方を攪拌した挙句どろどろとなった肥やしの中でこれまた平気で寝転ぶという程度の悪い犬だった。その頃は、ハウスの外で排泄させようとしても有りません!と我を張ってはハウスに戻ったら出すというまったく人間不信&外の世界では安心できないために出さない&出せない犬だったわけだが、現在、ハウスの中で漏らす事は度々だが、出しなさいといったときは出せる犬に成っている。外に対する恐怖や人間に対する不信感と言うのはまだまだ完全ではないにしてもかなり改善されてきてはいる。現在、「我慢しよう」までは漕ぎ付けたものの耳が聞こえないこの犬「我慢すべき」という義務感までには至っていない。こうすればここを教えられる。。。と考えている内容はあるのだけれど、それに必要な小道具をそろえられずにいるからだ。その保護犬、今朝は、漏らしたときのためにと裂いて入れてある新聞が濡れて固まっていた上で丸く成っていた。このところ、そうしたことは無く裂いて入れてある新聞はどちらかと言うとフワフワとした保温材のような存在に成っていたのだけど、昨日はこちらが風邪っぴきで熱が出ていたせいでいつも出している最終の排泄時間には寝入ってしまっていたため今朝はこうした状態に陥ってしまっていた。一年に何度もあることじゃあないし。。。てか、ここ数年、こんな風邪引いたこと無かったなと思ったりしながら、それでも、ウンチは漏らしていなかった事にまあまあホッとした。この保護犬、今でこそ、出しなさいというときに出せるように成ったもののいまだ、ハウスの中では出さないように「我慢する」というのを理解していない。その後始末をするたび、排泄を我慢するというのを幼少期に教えられなかった人は他の何かを教えようとしてもそれは無理・無駄というものだよなぁといつも感じる。全ての教育の始まりはこの、排泄を我慢させる事に始まっていると思うんだ。ひとたびそこを間違った認識にされてしまった犬を直すのは排泄を直させるというだけでなく全ての我慢の基本が狂っている犬を直すのと同じことだと感じる。排泄とか、摂食という生きる上での一番基本的なところが壊れている犬と言うのは全部が壊れているという事に等しいように思う。それでも、最近は、この保護犬も、時々は、排泄を我慢していたんだなと言うのがわかるときがある。排泄させにハウスから出して排泄場所に連れて行くと、凄いなぁと感心するくらいの大量小便だったりすることが増えてきたからだ。耳が聞こえないこの保護犬は、音刺激には無反応で影響が無いのだけれどその分、どちらかと言うと、周りに飛び交う「気」の影響を受け易く土・日・祭日など周囲の状況が落ち着かないときなどにハウス内で平気で漏らすといった事になりやすい。そんな背景はあったにしても、今朝、新聞が汚れていたのはオシッコのみによるものであって、ウンチはまだ体の中にあると解る。で、朝一番の排泄に出すと、それなりの量でオシッコは出したもののそれっきり、もう無いから帰る!と言う。無いわけが無い。ウンチをしていないだろうと思うのだけど、雨に濡れている状態が嫌だからハウスに戻りたがっているだけだ。こういうとき、保護犬の意のままにハウスに戻せば、外で雨に濡れている状態よりも遥かに落ち着けるハウス内で排便するというのはあまりにも解り易かった。濡れるのが嫌で排便を端折りたいというのなら、排便する気に成るまで濡れてろや!と完全に雨がそのまま降りかかるというほどではないけれど、若干吹き込むぞと言う場所に座っているしかない状態でくくりつけておき、他の子達の排泄を行った。その間、雨が時々吹き込んでくるのにフニャフニャと文句のような声で抗議していたその犬も、こちらが4~5頭排せつを済ませて後排便しろよと促したらシブシブその体勢に移行して大量のウンチを出した。案の定、こんなに大量のウンチを体内に確保していたじゃあないか!あのままハウスに戻していたら、他の子達の世話をし始めた途端勝手にハウスの中で出しては出ちゃったから取り除けよとフニャフニャ言って人を呼びつけるに決まってる。昨日、がんちゃんが自分の地位を引き揚げんとしているかのようなつまらぬお試しを仕掛けてきたが、ツッパリハイスクール時代?と思しき今の月齢は、きっとこれからもいろんなことで仕掛けてくるのだろうとは思うのだけど、こうやって犬が人間に対していろんなお試しを仕掛けてくる幼い三つ子の魂を培う頃や、思春期に当たる時期に、犬の意のままに動かされていたりしてやられる人間だと、この保護犬のように勝手に自分の都合だけで物を考えては後から平気で人間を呼びつけて自分の身勝手さの後始末をさせる犬になるのだろうなと思う。昨日のがんちゃんのような場面と言うのはなんちゅうことのない他愛の無いシーンなのだけど、ああいう部分で犬の意を通させてしまうか人間が我を通すかといったことがいわゆる「躾」なのであって、よく言われている「服従訓練」なんていうものはここがちゃんとしていない犬と飼い主がいくらそれをトレーニングしたところで普段の生活の中で犬が主導だと示してしまっているわけだから服従訓練なんていう時間をつくったところでそんなものは全く無駄なんだよなってことだ。で、この保護犬、飼育放棄されただけのことあって、人間に対してまったく気遣いが無い。だから、「出ません!」が「仕方ないから出します」に変わったとき自分の意志が通らなかったことに対し思いっきり身震いしやがって尻尾の先で濡れた地面を引っ掻くものだから傘差して排せつが終わるのを待っていたこちらの顔に泥水跳ね上げてくれたよ。くっそ~!!やりやがった!ほんと、ウンザリ!
Jan 23, 2009
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旦那さん、ここ数日、昭和と戦争 ~語り継ぐ7000日~というビデオを観続けている。昨日は、その4巻を見ていたのだけど、途中で、伝令のためのハトだとか軍馬とかが登場し、もしや?軍用犬とか出てくる?と思いながら一緒に脇で見ていたら。。。出たよ!出たよ!軍用犬。。。てか、軍用犬のために献上された犬達?Gシェパは勿論の事ドーべも一杯映っていた。エアデールテリアも勢ぞろいって言う感じにかなりの頭数が映っていたのだけど、Gシェパやドーべに比べると、歩行の仕方とか滅茶苦茶だったりしてた。エアデールテリアのシーンだけ愛玩で飼っていたのを献上させられた?って言う感じで、これから訓練するのね?って感じが強かった。んで、400mの電話線を引張って走り去っていくGシェパの姿が残されていた。予科練の朝礼風景なんかも映っていて沢山の若者が体操しているところなんかが有ったりしたのだけど、ここに映っていた人の殆どこんなに沢山の少年や犬達が亡くなったのだろうなと思うとそこに映っている沢山の少年達の姿や軍用犬たちの姿が切なく感じた。
Jan 21, 2009
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犬って凄いなって思う。こちらが自分の拙かった点に是正を加える毎に七つの子達はどんどん動きが良くなって来る。そういう、彼等のちゃんと歯止めが有る中での俊敏・軽快な動きを見ているだけでこちらは、彼等から一杯幸せを分けてもらっていたりする。癒しなんてものを求めているわけではないのだけれど、確実に、彼等は癒しを与えてくれていたりする。7つの子やリズが居なかったら、とんでもない保護犬ばかりと関わっていたあの頃に、多分私は犬が嫌いになっていただろうと思う。今は、彼等が毎朝、進化しているのを感じる事が出来て、こんなに、愛犬に恵まれた幸せな飼い主は居ないだろうという気がしてしまう。自分の中に有る淀みが一つクリアされる毎に進化する彼等。最終的に、どこまで伸びていくものだろうか?まだまだ、ここがこうあって欲しいというところは一杯あって、全然完璧なんていう言葉には遠いのだけど、それでも、充分私の人生に光をもたらしてくれている七つの子。彼等がここに存在するのはアスタという犬を拾った事に始まっている。今、毎夜毎、アスタが我家にやってきた当時に旦那が撮影した写真のネガを旦那は、最近買ってきたネガ用のスキャナで取り込み作業を行っていて、アスタの幼かった頃の画像がPCのモニターを賑わしている。幼かったアスタを見ていると、7つの子達の画像も沢山撮っておきたいものだと思う。
Jan 20, 2009
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自分がとっても優しい人だと自分に信じ込ませるために犬に至れり尽くせり尽くしては犬をわざわざ「妖怪」に作り変えてしまうんだよ。業界人はね、命の大切さを取り上げているフリをしてお客を取るために必死だったりするんだ。本当に「命の大切さ」を実感して犬の命の大切さを語るならそれより先に人間の命の大切さを語ってみて欲しい。犬の命が大切なら人の命はもっと大切なんじゃないのかな?と私は思う。なのに、犬の処分にかかる費用を浮かせるために国会で議論して予算を分捕ったでしょ?犬を生かすために?予算を増やしてもらった?そういう浮かせた費用を人間の福祉に回そうという人はあんまり居なかったよね。。。福祉予算は削られる一方だというのに。。。
Jan 19, 2009
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昨晩、ラフっ子達の夕飯を用意しているときに娘から電話が入った。そのまま彼等のご飯を用意しながら電話で話をしていたのだけど、相変わらずかあちゃんは過保護やネェと娘に言われる。そうだよね~。なんたって、うちの「良い子」の基準なんて、便秘症のマギーが、頑張ってウンチをしたっちゃぁ、マギちゃんいい子だネェ。。。だし、食の細いアクセルが、今日、餌の最中に出初式のために上げられた音花火にビックリして食べられなくなっているのが、頑張って食べ終えたっちゃあお~っ、偉かったなぁ。。。だかんね♪といったらおわっ、レベル低っ!!いまだにそれかい!。。。と呆れられた。で、食べ終わったラフっ子達を最期の排泄に出すときがまた、娘から、まあ犬とよくしゃべってるわなぁと呆れられる。爆他所の飼い主さんと言うのは何かが出来るようになった、やれダンスが上手くなっただのディスクで入賞しただのといろいろな基準で「我家の良い子」をお考えだけど、うちの場合は、怪我をしなくて、食べるものちゃんと食べて出すものちゃんと出してくれたらそれだけでいい子なんだ。そりゃあね、考えれば低水準だと思うけど、保護犬のとんでもないのと関わっていたりすると、この低水準でさえクリアできていないっていうのが世間の犬達だとわかる。何何が出来ましただの服従訓練競技会で入賞しましただのいっても、たかが排泄をワザワザお散歩に連れて行かないならしませんとやっていたり、今出しなさいと言われても言われたときはしたくありませんとかやるくせにハウスに戻ったらさっさと中で排泄してくれたりね。。。そういうのって人間に対して信用してしないために人間がその場に居たらできないとか周りを警戒して出来ないのがハウスだと出せちゃったりって具合だったり今でこそ、出しなさいといわれたら速攻で出すし、無くても頑張って出そうという姿勢が有るけれど最初の頃のアテナやアレスなんて、ハウスの中に自分の匂いを着けまくっておかないと不安で不安で外ではしませんな癖にハウスに戻した途端中でしつこいほどマーキングしてたりした。だからね、うちの良い子って非常に低水準の良い子だと思う一方で、この水準と言うのは案外難しい水準なのかもしれないとかって思ったりする。アクセルの食べたくなくても、食べられなくても、食べなさいといわれているから食べる努力をするというのに比べて、食べるのを待つくらいのことがナンダッチュウノ?と思うのに保護犬なんかは、マズルにガツガツ縦皺出来るほど顔に力が入った状態でかっ食らいに来るからね。世間の犬ってのは。。。特に飼育を放棄されたレベルの犬なんてのは全然「犬」じゃなくて、「野獣」「家畜」の類だよなって思うよ。家犬って言うのは人と共に在るのが犬だと思うけど、連中を見る限り彼等にとって、人間は「敵」だもんな。だから、取られまいとして貪り食うとか牙剥いて威嚇しては、抱え込もうとしたりするんだよ。そういうレベルに有る犬を「犬」と錯覚して可哀想がる連中と言うのはなんか、感性が相当ずれたところにあるか?自分の身の危険よりも相手を哀れむ気持ちが大きい素晴らしい人なのか?良く解らん。普通に飼主と一緒に暮らしている世間の犬達も、ちょっと無理強いされたら恨みがましい顔に成ったりジトッとなったりする犬なんていうのはやっぱり人と共に生きているのではなくて人間使って生きているわけで、そんな様子を見ても訓練方法に原因が有ると思ってしまう人って言うのはやっぱり感性鈍いよなって思う。何も、すんごい仕事をさせようって言うわけじゃなく普通に暮らしていく普通の指示を聞きたくないとか聞かぬ振りしているとか言う犬ってのは飼主を馬鹿にしているとか飼主を嫌っているということだよね。まあ、犬の場合馬鹿にして嫌っているっていう感じだけど。自分が嫌われているとか馬鹿にされているとかっていうことを信じたくないのかしらんけど、気づかない程度の飼主だから嫌われて当然とも思う。で、そういう人は、自分が馬鹿にされ嫌われているとは露ほども疑っていなくて訓練方法が悪いとかって思いこみ、こんどは、さらにそういう相手のご機嫌取りに徹するからおめでたい。自分が自分の犬に嫌われていると疑わないのはよっぽど御自分に自信がおありなんだろうな。。。かつて、保護団体のお一人も飼主なんだから嫌うはずが無いと思っているとか言っていたことが有る。いや、飼主だろうが、毎日餌を与えている人であろうが、下らないやつのことは犬ってのは馬鹿にするし、嫌うものなんだよね。そこを疑う気持ちが全く無いって言うのはよっぽど育ちがいいんだろうなと思う。頑固で封建的な親だとか、世間体ばかり気にして子供の気持なんか全く汲み取ろうとしない親なんかに育てられていたら親なんだから子供が嫌うわけが無いなんて考え方が通用するはずがないって知ってるはずだからね。犬って言うのも「言葉」でもってお付き合いが出来ない(ショックをかけたり、何かで釣ったりしなくては聞く耳を持っていない)という場合、自分は下らないヤツだから嫌われているんだなと思って間違いない。犬って言うのはそこら辺とってもシビアで、嫌いな人の言葉は聞く気が無いし聞かぬ振りしてみたり逆らったりするのがお得意な動物だ。でもひとたび好きに成ってしまったら付き合い始めの頃の恋人のように何だって聞いてくれるし、理解しようと努力してくれる。要は好かれているか好かれていないかの問題なのであって訓練方法の問題なんかじゃないってことだ。でも、自分が嫌われている事に気づかないとか疑った事も無いような人が善いと言うか傲慢と言うかそういう人と言うのは大抵訓練方法のせいにしたがるよね。犬は、そういうくだらなさを見透かしてあんたの言う事なんか無視しちゃうもんね~をやっているんだよ。うちにも居るよ。人間が嫌いで、人間の言葉に従いたくないっていうやつ。それとか、適当にやってりゃ気づかれないだろうっていい加減な事をやるやつ。媚びれば誤魔化しが聞くと思い込んでいるヤツ。そういうヤツはね、そんなことは無いから!ってのが解るまでこっちが無視して愛情干すのさ。そしたら、思い込みもなんか変だなって感じるようだ。そこに疑問も無いようなときに何かしても無駄さね。何か変だな?って気づかせてからだよ、いろんなことを始めて意味があるのは。
Jan 19, 2009
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自分の中にある矛盾や混乱、欺瞞なんかを解決していくとそれだけで、九割方、犬のしつけっていうのは出来上がってくるだろうなと思う。自分の中にある意味不明さを解決していくと犬から見た自分と言うのが解り易い人に成ってきてこちらが何をイワンとしているのかを感じ取りやすくなるんじゃないかな?と思う。自分の中にある意味不明さに自覚が無い段階、自覚が無いどころか自分は善人・努力家・物知り・・・なんて風に思っていたりする場合が多く、そういう場合、自分が抱く能力の高い自分のイメージとは裏腹に犬達は、そういう人の指示は聞く気が無いという態度をあらわにする。で、自分の謙虚さの無さだとか、能力の無さだとかに自覚が無く自分と言う人間がなかなか良い人間能力ある人間と思っていたりするそういう人たちは自分の実態に関する自覚が無いだけに悪いのは犬であって犬が自分を舐めている。。。と考える。犬は別に人間を舐めているんじゃなくて、人間の行動・言動が理解不能でやってらんない!状態なのだったり、お手上げです!状態にあるというだけなのが解らない。。。っていうか解ろうとしていないとか、解れる基礎が無い。自分の複雑怪奇さに自覚が出てくる段階になると、こんどは、そうした無能な自分を認めるのが辛くなって自分の実態を突きつけてくる犬という存在から逃げ出す事ばかり考えるようになり殆ど飼い殺しいった状態に犬を置くようになる。見ていると自覚が無い驕りが内在している人は大体、こういうパターンに治まる。
Jan 15, 2009
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年明け早々から考えること多々有り!ああ、こういう人は犬を作れないだろうなぁとか、こういう人は犬から嫌われ・馬鹿にされるだろうなぁとか。。。その共通点は?驕りがあって思いやりが無いという点だ。そう、それと、我侭で、自分の好きな事はどんな困難でも乗り越える努力を惜しまないくせに、自分がやりたくないことに関しては、バレバレの言い訳を披露するご都合主義と怠惰。でも、自分では、好きなことに努力する自分と言うところだけ自己評価に採用するから、自分を努力家だと思いこんでいて自分が怠惰・我侭・ご都合主義であることに気づかない。本当の努力家と言うのは苦手なことややりたくないことに関して努力してやり遂げる事を言うのだと思う。好きなこと、やりたいことを頑張るのなんか誰だってそうするよね。驕り・・・と一口に言っても本人は、自分のそれに気づいてはおらず、大抵、その本人は、自分のことを謙虚だと思っていたりする。そう、誰が見ても解るといった表面化している「驕り」ではなくて、心の奥底にある「驕り」であって自覚が無いというのが特徴だ。驕っている自分を誤魔化しているとか気づいていないとかそういう意味では自分を見失っているとか自分を等身大で見られない人たち。。。そういう人たちというのが思考と行動が一致せず、意味不明な行動や言動を取る。ある意味、総合失調症といっても良いのかもしれない。。。そういう矛盾や混乱だらけの人を犬と言う生き物が理解できるはずが無い。だから犬は、その意味不明な人間を警戒し緊張を高めてしまったり、嫌悪感一杯になったりするんだなと思う。現に、かつて、自分もやっていることが矛盾だらけだったとき、リズやラナには愛想着かされていた。彼女等にすると、ほんとワケ解らん飼い主だったろうと今思えば彼女達の気持がよく解る気する。。。で、そういう人が身近に存在していたりするととても疲れるんだ。多分犬達もそういう飼い主に対して嫌悪感だけじゃなくて疲労感なんかも感じていたりするのだろうなと思う。疲れるからさぁ、関わりたくないんだよ。。。って孤独を好むようになるんだと思う。だからね、ACに自分の犬の気持を聞いてもらうのもいいんだけどね、ACから、この子は孤独が好きなんだと言われてそうか!じゃあ、別にそれでいいんだ!?何て納得しているようだと救いようが無いって感じ。孤独が好きなんじゃなくて、この人とは関わりたくない、もう、ウンザリだから放っておいて頂戴!って犬から引導渡されているくだらないヤツだと言うだけなんだよね。考えれば簡単なことだ。だって、犬って言うのはもともと群れ動物であって猫のように一匹で生きていくような思考は持ちあわせていないんだからさ!そういうの、ACはどこまでわかって言葉を伝えているんだかさ!?解っていて、とぼけているというのだったら、お客欲しさから、真実を語らないトレーナー達と同じだよね。
Jan 14, 2009
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年明けからトチ狂った飼い主に戸惑い気味の七つの子。昔、グレートピレニーズのメイとシェパードの二コールドーべミックスのアスタの三頭を横一列で連れて歩いていた私もここらの道が、対向する二台の車がかわせない道幅である事をこの横一列で実感し、何度かその状態でのお散歩を行った後やめてしまったことがあった。が、七つの子全員を一同にそろえて一緒に歩いて散策したいというのがずっと頭の中にある。これまで、ほかの犬にちょっかい出すなよといわれ続けてきた七つの子だが、ここにきて、3頭、4頭をまとめてリードで連れ歩かれている。まとめて歩かされていても他の犬にちょっかい出すなよのルールは現存しているから自分が周りの犬からチェックを入れられたくなければ自分も周りの犬に関心を示さない事だというのが解っている。連れ歩く此方は、よく見かける多頭飼育者たちの鵜飼状態での歩行はしたくないと思っていて、一緒くたに連れ出すのであってもルールはルールとして存在している状態で連れ歩きたい。だから、パッと見、サーカスによく出てくる白馬の競技のように犬達が横一列で脚側状態にあったりする。狭い場所を通過する際には縦横共に2頭ずつの並びとなってこちらの左に居たりしてなかなか可愛い♪しかし、犬達からすると自分ひとりだったら自由が利くのにと思っていることだろうなぁ。こうして一緒くた歩きを始めてから、短かった排泄にかかる時間が一層短くなり、他の犬への興味と言うのがパッと見は以前よりも表わさなくなった。。。といっても関心度で言えば無いわけではなくて関心を示されたくないから無関心を装っているというに過ぎないことも明白なんだけどね。多頭で連れ歩けば当然、1頭1頭は自由が利かなくなって自制するしかなくなる。年明けから、トチ狂った飼い主の我侭にお付き合いさせられている七つの子。今年は受難の年になりそうかもね!
Jan 9, 2009
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今、私はネット上で注目している1頭の犬が居る。保護家庭が保護している犬なのだけど、保護家庭のかかわり方がその犬の良さを引き出し、そこに居るときのその犬はとても良い顔をしている。が、里親希望の方とお見合いしているときやお試し飼いとして里親希望者宅で過ごしているときのその犬は世界を拒絶した表情や姿を示していて、案の定、噛みつきと言う当初の問題が表面化して出戻ってくるといった事を繰り返している。保護家庭での暮らしがその子の精神状態を安定させているのに対して、里親希望者の方たちは「懐かせよう」「馴らさせよう」と努力するためにその子を飼育放棄した元飼い主の姿とダブってその子の目には映っているのだろうなと思う。保護主さんは、懐かせようとか、馴らさせようとかそんなことは多分少しも考えておらず、内のやり方に従って貰うという感覚で接しているのだろうと思う。その淡々としたマイペースさというのが里親希望の方たちには欠けているんだろうと思う。もっと言えば、オイラにはむかって、ここに居られると思うなよ!くらいの意志をもって接していればその良い意味での緊張感が相手の犬からすると頼りがいと感じられていたり、犬は、主としての人間の立ち場というのを理解し易くなる。何よりも、特別扱いと言うおかしな注目が無い事が何より安心出来る環境を提供する形に成っているのだろうと思うのだけど、里親希望者達にはそこが感じられない。なにかこう、新しい家族が増えてワクワク♪みたいなハイな部分が生じていて、それが、元飼い主のキャピキャピとかフワフワとかの歯止めの無さを犬に連想させているのだろうなと思うのだけど、噛みつきという具体的な問題が生じていることによって問題が犬側にあるかのように思われていたりする。本当は、人間側の内側に存在している「歯止め」なのだと思うがなかなかそこが理解されないみたいだ。扱い方だとか、かかわり方の違いと言うのが犬に影響しているというのは里親を断念した希望者達も保護家庭の方もその犬をセンターから引き出した保護活動家の方も解っていると思うが、そうした、かかわり方や扱い方の違いというのがどこから生じているのか?について理解できていないのだろうなと思う。問題は、その犬にとって、元飼い主の姿をタブらせる人間側の内面にある。ドッシリとした頑固さの欠如。そこがきっとみんな解って居ないのだと思う。。。いや、保護家庭だけは解っていることだろう。さて、世の中に数多く居る保護犬という立場に置かれた犬達の中で何故、この犬にだけ注目しているのか?というと、保護家庭でのこの犬の様子と言うのがとても幸せそうである事による。他の多数居る保護犬たちはどの犬も腐りきった顔をしていたりするからそういう犬は見るたび胸糞悪くなってしまうのだけどこの犬は、ここに居る限り安心できる暮らしを続けていられるというのがとてもよく解る。が、この犬を現在保護している保護主さんにはご自分の愛犬が数頭居てその保護犬をご自分の犬として家族に加える考えは今のところ無いという点だ。犬がわにとっては極楽であっても保護主側にしてみれば、自分からその犬を共に暮らすパートナーとして生涯の責任を負う立場から選んだわけでは無いという点が今後のその犬の身の振り方に影響している。数回のトライアルで噛み付きの問題を表面化させているこの犬の状況から言って里親が決まるのには相当永い期間を要する事に成るだろうと思う。が、ここで一つ疑問として、この犬をセンターから引き出した担当者の責任は?と言うのがある。現在の保護家庭には、保護団体が扱いきれない事で話が回ってきたらしい。保護団体。。。よく、しつけが出来なくて飼育を放棄した飼い主に対して偉そうな講釈を垂れて自分たちだけが善い人であることを強調していたりする。では、あなた方はどうなの?センターの中で、相手の犬がどういう子であるか?見抜けなかった程度の技量でもって他人に犬を譲渡する行為を行っている未熟さや無責任さ。その犬の問題を解決して上げられずに扱える保護家庭へとお回ししたのはその犬を扱いきれなくなって飼育放棄したのとどこがどう違うというのか?里親希望者達がその犬によって出来てしまった犬への恐怖というトラウマに対し保護団体はどう考えているのか?今後、その犬に対して自分たちの責任をどうとって行くのか?そこが興味の中心となっているのだ。まさか、保護家庭に押し付けっぱなしにはしないだろうな!って感覚で見ているのさ。保護活動家と言うのは、自分たちが引きだした問題犬を保護家庭に押し付けっぱなしにしたまま自分たちは、次々と好みの犬を連れ帰っては自分たちだけが善い人をやっていたりする。自分が引きだした犬には責任があるということがどこか忘れられている。なのに、飼育を放棄した元飼い主を平気で批判していたりする。だけど、自分たちが扱いきれなかったレベルにある犬を放棄せざるを得なかった人を批判するのは可笑しいし、そういうレベルに在る犬を他人に譲渡しようと言うのはもっと可笑しいと思うんだな。そういうことに成らないためには犬を見極める目というのを培うべきだし、好みや感情で引き出すのではなくそういうものに対して自分の中で線引きできる冷静さと言うのを持つべきだと思うんだ。それを持っている人間を、冷淡だといって非難するんじゃなくてね。他人に犬を譲渡することの責任と言うのをもっと自分たちの中に強化すべきなんじゃないのか?そこが未熟だから、こういう問題がある子なんですけど、飼いこなせる方の応募をお待ちしていますという募集の仕方が横行しているのではないのか?そういう問題がある段階で里親募集するなよ!といつも見ていて思うんだ。自分たちが問題を治しきれないのに、他人にそれを期待するって、それは相当な我侭ってモンだとわかっていないよね。今注目しているその犬は、本当だったら、きちんと扱えている現在の保護家庭の方からその子を引き出した担当者が自分の下に引き取って、保護家庭からかかわり方を教えてもらいながら担当者自身がその犬の事をもっと良く知っていく事が必要なんじゃないのか?担当者が、しっかりその犬を正しく飼いこなせてから里親希望を募り里親に対する指導も出来るようにするというのが本当だろうと思うんだ。そうすれば、そういう犬を安易に引き出して良いものかどうか?もっと慎重になるだろうし、里親さんに、問題の在る犬を提供することは良い事かどうか?も解ってくる。そういう犬を譲渡された里親さんがどんな気持でその犬と暮らし保護犬とかセンターの犬というものに対してどういう印象を抱き、どんなことに悩むか?といった事ももっと実感を持って理解できるはず。その犬を現在の保護家庭に押し付けっ放しのままにしてその保護家庭に譲渡先を決めさせるのではなくて引き出した本人が、しっかりその犬と向き合ってから自分のもとより里子に出すというところに至るのか?を見ている。もしも、その犬を引き出した担当者が現在の保護家庭から自分の下に引き取ってその犬としっかり向き合うことをしないのであれば、しつけが出来なくて飼育放棄に至った飼い主たちを批判したり、問題の在る犬達を売りっぱなしにするブリーダーやショップを批判するのはお門違いとか、身の程知らずとか他人のことは見えても自分のことは見えない人たちなんじゃないのか?って思うんだな。
Jan 9, 2009
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ファルちんのモサモサ感が出せなかった原因て、もしかして。。。首輪とチェーンカラーの両方が装着されていたせいなんじゃん?!今頃気づくなんて。。。ばっかでぇ~!毛に隠れてて見えなかったから解らなかったよ!普段、家の中だと、両方ともはずしてあるからモロにモサモサなんだ!
Jan 3, 2009
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最近、胸毛がかなりモサってきてちょっぴりカッコがついてきた感じのファルクラム。このモサモサ加減を上手く出したいと思うのだけどなかなかそれらしく撮れない。・ ・ ・ここで、素朴な疑問。。。胸毛と言ってしまったが、犬の胸毛って言うのは、いわゆる「エプロン」とか呼ばれている「前胸」部分を言うのだろうか?それとも、お腹の前の部分を指して言うのだろうか?どっちだと思ふ???モサモサ感が表現できない。難しい。。。胸毛って言ったら上? 下? どっちだと思ふ?犬ってのは、どうしてこうも、絶妙なタイミングで瞬きするんだろう?人間でも、そういうやつっているよね?!集合写真を撮るときに、瞬きで眼を瞑ってしまって何度も取り直しさせるヤツ!2009年最初の、「本日の一枚」はこれかな?
Jan 1, 2009
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