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[22.01.30] 世界平和統一家庭連合 世界本部教会 平和ヌリ2022/01/30 09:30に公開予定です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.29
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「神様祝福永遠宣布式」(第一回七・一節)1991年7月1日漢南洞公館<祈祷> 愛するお父様! きょうは、1991年7月1日でございます。1991年は、摂理史的転換時機におきまして一番最後の峠の位置を占めました年であると知っております。正月から六月までの複雑多端なる環境を越えまして1991年の半分を既に送り、新しく迎えます後半期は、あなたの摂理史における頂上を越え、新しい希望の平原に向かいます。天の国の自由と平和の世界へ連結します世界へ進入することのできます分水嶺になる期間になることを知っております。今や韓国の祖国の地を中心といたしまして南北が分かれていたすべての怨恨の数々。東西の紛糾によりまして歴史的な恨みの数々を残してきましたすべての争いの苦痛の数々も皆、真の父母を中心としまして解消され、偽の父母によりまして植えられましたすべてのものが真の父母によりまして勝利的収穫を整えまして共産世界と自由世界、北韓と南韓が一つになることのできます時代が訪れて参りました。 お父様! きょうを期しましてすべての宣布式をすることによりまして摂理史を代表してきたすべてのもの、天が立ててきましたすべての条件の数々を清算し、勝利と解放と栄光の日を自ら祝うことのできます日が近づいてきますことを知り、各自が自ら家庭を収拾し、氏族を収拾して天の父母をその氏族圏内にお招きすることができますように、お父様! 準備させてからもう既に久しくなりました。 氏族的メシヤの使命をせずしては、その家庭とその国を連結させることができない摂理史の全体的み旨を推しはかってみます時、もう既に氏族的メシヤを宣布し、きょうを中心としましては全世界的に自分自らが氏族的メシヤになりますと宣言することができる日にもなりましたのでこの時間、ここに訪れてきまして真の父母を中心としました真の愛の因縁に従い、汚されました血統を分別して天の一族として立てましたすべての祝福家庭たちと祝福家庭の後世を代表しまして、真の父母の一族を宣布することのできますこの日をもつようにして下さいますことを感謝いたします。 今や世界的なすべての限界を越え、解放のラッパの音とともに世界平和の旗手の責任を、真の父母を中心としまして左右に分裂し、争ってきましたすべての民主世界と共産世界が一つになり、南北が一つになりましてお父様が願ってこられました天国の理念を地上に宣布することによりまして、その時間が短縮され、そのみ旨が地上に顕現する日が訪れてくるとともに天運が訪れることによりまして成就させることのできます帰一的勝利の基台を決定することのできます瞬間になってくることによりまして真の父母の名前を備えた、ここの幼い子女たちを代表して父母として天の父母を縦的に侍り、横的なすべての悪魔の蕩減的要因の数々を皆、解怨し、旧約時代、新約時代、成約時代と同じく今日、我々一族を中心としました万物権、子女権、父母権を設定し、万物を犠牲にすることによりまして子女が解放され、子女を犠牲にすることによりまして父母が解放され、父母を犠牲にすることによりまして縦的な創造主、天上の父母に侍ることができるというとてつもない摂理史の内容を代弁し教えてやりましたし、これを実践しまして今では勝利的条件を立てましたことを天の前に感謝いたします。 あなたが経営なさいますすべての創造理念をあなたの目前におかれ、これを処理することのできます真の愛の手を差しのべまして万国を処理することのできます勝利的自主圏を統治することのできます時代へ越えていきますようお許し下さいますことを切にお願い申し上げます。 選ばれた群の数は少ないけれどもこれらの人たちを祭司長にして万国を解放することのできる日に向かって前進の決意を固めることができます新しい宣布式をもつためにこの時間を設けましたから、このすべてを神様が注視なさり、すべての霊界の善なる霊たちと先知先烈と祖先たちも注視し、また、サタンも今まで天に反してきた恥ずかしい自身を告白し、天の権限の前に、愛の前に自ら自然屈伏することのできます環境与件を天の前に提供することによりまして彼も自由の解放圏に全人類の頂上の位置に立っても従っていくことのできます恵みを中心としまして宣布するすべてを注視し、お父様のみ旨に侍り、真の父母に侍り、統一天国に向かって前進することのできます統一式を、解放式を、すべての勝利的宣布式を天の前に奉献することに賛同して下さいますことを願いながらこのすべてのみ言葉を真のご父母様のみ名によりまして天の前に宣布いたします。アーメン。アーメン。アーメン。<祝祷> 歴史は、流れ流れて今まで、この所までたずねてまいりました。真の父母から始めました創造理想が偽の父母の顕現によりまして悲惨なる惨状を歴史的過程に残し、数多くの人類たちの背後には、死亡の血の滲む闘争の歴史が編まれてきたという事実をもう一度回顧しながらこれを収拾しようとする天がいると同時にその収拾しようとする事実を滅ぼそうとする悪魔がいまして、その悪魔の版図が地上を占領したという事実を知るようになります時、天がいかばかりわびしく孤独な立場であったのかという事実を私たちは知りました。 地上に水平、平面的な父母の権限をもちまして天使世界まで指導し、収拾して天の前に示威の栄光を高めなければならない責任を果たせないことによりまして人類は、サタンの僕になりましたし、サタンの血筋を受け継いだ息子、娘になり、脱け出ようにも脱け出ることができない恨みの歴史を編んできたという事実を考えるようになります時、堕落した後孫として生まれました人類は、恨みの実を受け継いだ群たちであり、天の逆賊の血を受け継ぎました群であることを自認しながら、自ら自体を収拾しまして天の一族の位置を慕い仰ぐ心をもち、真の父母の血肉の因縁を探し求めるための恨みに満ちた路程を復帰しなければならないという覚悟をもう一度固く決意しなければなりません。 父母を失ってしまった孤児のような立場にあります人類は、悪魔の子女の位置で生まれました。悪魔の子女の立場に立ちましたけれども悪魔はこれらを愛するのではなくして天道に反し得る道へ追いやった事実によりまして地上地獄と天上地獄が生ずるようになりましたし、人類は、それを恨みに思われる天を知ることができず、不孝不忠でありましたから、人類の歴史的なそのすべての過誤を許して下さいますことを切にお願い申し上げます。 これは、偽の父母になりましたアダム・エバが真の愛の因縁に従うことができず、偽の愛によりまして編まれ、一つの木のように成長し、数多くの実をこの地の上に拡張させてきましたゆえであり、再びこれを刈り入れまして本然の基準へ戻すという事実は不可能に近いことでありましたけれども、条件的な基準を立てまして真の父母の道理を立てるために血統的に個人から家庭、氏族、民族を代表しまして天が選民圏を探し求めて出て立ちましたすべての群を通じまして兄弟から腹中世界、根源の位置までこれを継ぎまして真の父母の因縁の道理をこの地の上に発生させるための天の労苦がいかばかり大きかったかを私たちは知っております。 イスラエル民族が二千年間、血の滲む闘争と殉教の血を継ぎました恨みに満ちた歴史を踏んできました後にイエス様が本然的に聖別されました子女としてひとり子の権威をもちまして天から初めてこの地の上に送られましたその日が人類の前にいかばかり喜びの日であり、いかばかり解放の日であり、いかばかり希望の日でありましたか? しかし、イスラエル民族はそのことも知らず、彼を再び十字架に釘づけすることによりまして天の恨みを加重させると同時にサタンの版図を拡張させてやることによりまして二重に難しい峠を越えていかなければならない歴史路程が残るようになりましたので、これを教えるためにキリスト教の信者たちが殉教の地を継ぎまして祭司長職を代身するために孤独と悲しみと迫害の道を耐えながら二千年間世界舞台で国のない民族、イスラエル圏を失ってしまった国のない民族として、国を中心とすることのできないキリスト教として四方にさまよいながら多くの犠牲と血を流してきました。そのような殉教の善血を継ぎまして今日、歴史時代をもう一度天の圏に継ぐことのできます世界版図まで拡張しまして第二次大戦を中心としましてキリスト教文化圏が初めて世界を代表しました一つの定着地王権国家を再臨時代とともに整えることができます立場になりましたけれども、使命を果たすことができないことによりましてキリスト教とキリスト教を指導してきましたアメリカは、地に落ちるようになりました。 このようなゆえに今日、統一教会と真の父母の因縁に従いましたすべての歴史的な願いのみ旨の前に召命を受けましたこの群たちは、国を失ってしまい、世界を失ってしまい、立つべき位置を失ってしまい、寂しい広野に追い出されまして教会を再び立て、再び民族を解放し、世界的版図圏を代表したキリスト教を再び継ぎまして自由世界を代表しましたアメリカを訪ね行き勝利し、共産圏まで遡って迫害の路程で倒れず、今日まで天の保護によりまして勝利し、今や1991年7月1日を中心としまして恨みに満ちた歴史的蕩減路程を取り片付け、新しく創造主であられる神様と本然の父母になることのできます横的な真の父母に侍り、左右が一つになり、南北が一つになり、すべての宗教圏と政治圏とすべてが一つになり、長子権を受け継ぎ、父母権を受け継ぎ、王権を探し求めまして本性世界の解放圏を探し求めようとするきょうの宣言が必要でありますことを私たちは知っております。 そればかりではなく本性を中心としまして、真の愛を中心としまして、個人的中心であり、家庭、氏族、民族、国家全体の中心であります真の愛の道理に従いまして絶対的な一つの方向による、絶対的な目的帰結であります本然的天国は、地上を代表しまして地上で生活しました家庭の基台にならなければならないことを知りましたので、統一教会は、今、氏族的メシヤを宣布しまして定着しなければならない、統班撃破という厳粛なる使命的課題を前にして前進命令を天より受けました。 自分たちが立つ位置がどのような教会の責任者ではありませんし、連合会会長ではなくして今やご父母様に侍ることのできます孝子の位置を探し求めなければなりませんし、国に侍ることのできる忠臣の位置を探し求めなければなりませんし、世界に侍ることのできる聖人の位置を探し求めなければなりませんし、天地に侍ることのできる聖子の道理を探し求めなければならない位置であることを知りました。今やそのような伝統を家庭から植え付けなければならない厳粛なる各自の5パーセント完結を宣言することのできる時代になりました。 ご父母様の責任所行は、もう既に完結致しました。きょうを迎えまして自由世界であれ共産世界あるいは、北韓であれ南韓におきまして私がすべき責任を果たしました。今や残されましたことは、統一家の群たちが、子女たちが、祝福家庭の子女たちが伝統を受け継ぎましてそれを実践躬行するに徹頭徹尾しなければなりません。それを原理的教育を中心としまして実践することのできます舞台は、国でもありませんし、世界でもありませんでした。五パーセントの責任を完成しなければならないその責任分担路程が家庭基盤であることを確実に宣布するこの時間でございます。そうでありますから、お父様、今やこれを強固になさいまして家庭の勝利的覇権を整えることのできない者は、氏族の前に立つことができないのであり、氏族の前に勝利的覇権を整えることのできない者は、民族の前に立つことができないのであり、民族の前に勝利的覇権を整えることができない者は、世界の前に立つことができないのであり、世界の前に勝利的覇権を整えることのできない者は、天宙の前に立つことができないのであり、天宙の勝利的覇権を整えることができずしては、天の前に立つことができないのであり、天の宝座、王宮に参席することができないという事実を厳然たる事実として受け入れるようにして下さいますことをお願い申し上げます。 各自の権威を行動しなければならない五パーセント完結時代が訪れて参りました。今からは、サタンの迫害も私たちの左右から皆、去りました。統一家は、すくっと左右世界の中央の象徴として全人類が慕い求めなければならない環境へ追いやっております。これに侍り、これを受け入れるためには、本然的アダム・エバの家庭におきまして一族を代表することのできます群になりまして、祝福の因縁によりまして血統を転換させ、家庭的基盤を新しくしまして革新的な基盤の上に天の血族の基台から天の国の基盤になることができますこの場を準備しなければなりません。 各自が恥ずかしくないように心と体が一つになり、男、女、夫婦が一つになり、父母が一つになりました家庭を探し求めて立てますここからのみ、新しい基地の出発が可能であるということを統一家のすべての群たちは、今まで知らずにまいりました。今や7月1日から決定的この峠に向かいまして行かなければならない、自分の家庭と自分の一族を収拾するに総進軍しなければならない世界史的時代が訪れてきますことを知るようにして下さいますようお願い申し上げます。 7月1日を中心といたしまして全世界的に氏族的メシヤを宣言する、このような申請をすることのできます日として策定いたしましたから、それを申請いたしましたすべての群たちは、前後左右を見回さず、天の一族の因縁に従いましてアダム・エバが失いました長子権復帰と父母権復帰と王権基準を家庭から鉄錘を打ち込み、そのだれも動かすことのできない勝利の覇権を確立しなければならない祝福家庭の使命を忘れないようにして下さいますことを切にお願い申し上げます。 このような家庭基準を守ることのできます起源が始まることによりましてこの基台の氏族を結び、民族を結び、国家を結び、世界を結び、天宙を結び、天宙を結んで天のみ前まで到達することのできます道を開放することを願いますから、天のお父様、この時間をお許し下さいますことをお願い申し上げます。 今、この式典に天のために敬拝しました三人ずつの代表たちをお父様がそのまま任命して下さいますように。真の父母のみ名とともに全宇宙に宣布いたしますから、このすべての権限を天が直接掌握して下さいますようお願い申し上げます。恨みの多い歴史的時代におきまして天の全権全能、全体的行使をできなかったことを真の父母を通じまして真の父母の完成の一つの条件を立てましたその基準を通じまして復帰しまして万国を統治することのできます時代へ越えて行きますようお許し下さいますことをお願い申し上げます。 天の前には、自由世界、共産世界があり得るはずがありませんし、南北があり得るはずがありませんし、サタンがあり得るはずがありません。すべての悪の役割を清算し、歴史とともにこれを埋葬してしまい、勝利と解放の天国が地上に到来しますことを真の父母のみ名によりまして地上世界と天上世界に宣布いたしますから、万世の道が盾にしまして主導して下さいますことをきょう7月1日、この時間に真の父母のみ名によりまして宣布いたします。(アーメン) 真の父母のみ名により宣布いたします。(アーメン) 真の父母のみ名により宣布いたします。(アーメン) <み言葉> 立って話を少ししましょうか? アラスカから今来ました。今回、特別に訪問するようになったのは、特別な意味があってのことです。 今年7月1日は、偶然な年の7月1日ではありません。摂理史から見るようになる時、これは三年路程の中心になる年であり、歴史的な転換時期なのです。転換時期だというのです。すべての情勢もそうですし、歴史の流れも今から変わらなければならないというのです。 民主世界の方向も失ってしまいましたし、共産世界の方向も皆、失ってしまいましたし、宗教世界の方向も皆、失ってしまいました。人間たちが出来がよいといっていたすべての基盤が皆、崩れました。それは、そうであるざるを得ないというのです。 秋になるようになるならば、すべての実自体が真なる実なのか、偽の実なのかということが現れるようになります。偽の実は、自然に火に入って燃えてしまうようになり、真の実は、収穫されます。 復帰摂理だとか救援摂理とかいう観点から見る時、実がいくつかではないというのです。宗教が探し求めていく結実の実というものはいくつかではないのです。一つだというのです。仏教や儒教等の多くの宗教がありますけれどもそれらが目的とする実は、二つではなくして一つだというのです。 その実の主人はだれなのか? 宗主ではありません。国でもありません。国を治める人たちが実を取り入れることもできないのであり、宗教を統治してくるすべての宗派たちがその実を取り入れて自分の宗団のものとして保管することもできないのです。必ず実は、ある宗団を代表して、全体の宗団を代表して結実したものを取り入れて神様の実として受け入れなければなりません。 このような観点から見るようになる時、神様が何を願うだろうか? 何の宗団の実を願うだろうか? 人類を通じて再び、救援摂理は再創造摂理だと長く話はしませんけれども再創造されて刈り入れられたその実を神様は何ゆえに必要とするのかというのです。それは、天を中心として見る時、何か出来がよくてではないのです。天の血族の実を探し求めるのです。血族だというのです。天の血筋を立てるためのものです。他のことではないのです。血筋を立てるためには、神様を中心として愛の因縁を経ることのできる伝統を連結させなければならないのです。 今日、堕落した人間は、サタンの血筋を受け継いだというのです。これが問題です。サタンの血筋を受け継いだのでこれをきれいに天へ引き戻すのがどれだけ難しかったことか。換言するならば、愛する恋人を失ってしまったある男がその恋人を通じて生んだ子供を自分の息子のように愛さなければならない立場が天であったというのです。そのように生まれた息子を直系の息子として受け入れることのできる心をもつことができるのかというのです。悲惨なことです。それを一挙にすることができませんから神様は、個人的立場から初めて家族的立場、氏族、民族、国家、世界的立場にまでそのような試練過程を経てきながら耐え忍んで克服しながらメシヤが来る時まで待ったのです。 メシヤは、どのように来るのか? 血筋を清めてきます。皆さんが知ってのとおり、アダム・エバを中心としてカイン・アベルが始まったのでこの血筋を清めようとするならば、カイン・アベルが一つの腹中に入って同じ息子、娘として、長子、次子のような立場から生まれなければならないのです。本来、アダム家庭で生まれた初めの息子というものは、長男の長男であってそこに長男の長男型、長男の次男型があり得ないのです。長子だとか次子だというものがあり得ないというのです。これを救援摂理という立場から見るようになる時、次子の立場を天の側に立てて--そのまま天側に立ててそれが、血統が正されるのではないのです--どこを探し求めて入っていくのかといえば、もう一度子宮を探し求めて入っていかなければなりません。旧約時代のタマルの役事がそれです。 ですから皆さんが聖書を見るようになる時エサウとヤコブの問題を信ずることができません。女房が夫であるイサクを騙し、自分の息子を騙して次子ヤコブが祝福を奪うようにしますか? これは、何でもってきてくっつけて説明することができません。それは、邪悪なことです。悪なることです。そうなのになぜそのような内容が聖書にあって重要な要件として残されたのかというのです。 マリアを中心としてなされたことを見てもそうです。処女が赤ん坊を孕みますか? 処女が赤ん坊を孕むというそのようなことをしてメシヤを送らなければならない天の事情が何なのかというのです。 そのような基盤を築くためには、エサウとヤコブからタマルへ下ってきて、ベレツとセラを中心として復帰し、実体的に世界国家的基盤からマリアを中心として歴史はこうしましたから、その伝統を受け継いで新しいメシヤが出現するということを発表しなければならないのです。世界的な時、国家的な時を中心としてそれを結びつけて宣布することによって歴史的国家基準が設定されるのです。宣布しなければ、設定がされないのです。 その基盤の下でイエス様が来てどのようになったのか? イエス様が来た時、イスラエルの国とユダヤ教がカイン、アベルのように一つになったならばどのようになっただろうかというのです。イエス様は、どこへ戻っていかなければならないのか? どこへ行かなければならないのか? 父の位置へ行かなければならないのです。父の位置に行くためには、この地の上において、今、サタン世界で天の長子権を探し求めるために次子たちが犠牲になってきたすべての犠牲の代価を全部、皆、復活の実体として対さなければならないというのです。それ、何のことか分かりますか? アベルの役事というのは、全部、カイン・アベルになってエサウとヤコブに、その後にもずっと連結してきたものを国家的基準からイエスは、アベル的復活実体として、全体アベルの因縁を集めて国家を代表した一つの実体として長子権を再び国家基準に設定しなければなりません。それを設定せずしては、世界的長子権を探し求めることができないのです。 こうしては何をしようというのか? 世界的長子権を探し求めては何をするのかというのです。世界的長子権を探し求めた後にこそ世界的父母権が設定されるのです。長子権が世界的闘争路程で勝敗を決定せずしては、父母が本然的父母の血縁因縁を立てることができないのです。 父母がこの地に来てしなければならないことが何なのかといえば、王権を探し求めて立てなければならないのです。天を代表したメシヤがこの地に来てイスラエルの国とユダヤ教を中心としてローマの国の王権を消化させなければなりませんでした。闘争して消化させるのではないのです。投入して再創造の役事、投入してするのです。与えて忘れてしまい、投入して忘れてしまい、こうしながら時間を忘れてしまい、年を忘れてしまい、自分の生活と生涯舞台を皆、忘れてしまい、投入する一念だけがみ旨の前に残ることができる道であって、自分を主張し、自分を立てることは、再創造の過程で神様にとってあり得ないのです。 ですから、いかなる時であれ、民族を代身しようが、国家を代身しようが神様は、エデンの園の堕落しなかったアダム、エバの血族と同じ国家基準と世界基準に対することのできる心に差異をもってはいけないのです。ですから、何を継続したのかといえば、アダム、エバを創造したこと、投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうことを個人復帰時代であれ、家庭復帰時代であれ、氏族復帰時代であれ続けてきました。完全氏族ではなくして条件的氏族、条件的民族、条件的国家、条件的世界復帰路程でそのような態度をとってきたのが神様の立場であることを知らなければならないのです。 条件時代にも方便的に適当に人間的な計略とともに、ある計画とともにすることができないのです。いつも無の位置で自分を投入する愛の本質的一念は、個人蕩減時代であれ、家庭、氏族、民族、国家、世界蕩減時代まで歴史を通じてきた神様は変わらなかったというのです。分かりますか? 本質においてであれ邪悪なる悪に対して、悪魔の勢力圏に対しても本質的形態は変わらなかったというのです。 ですからサタンまでもその前には「あなたはただひたすら創世以後の主人です」と公認するというのです。その公認をするというのです。サタンは、どれだけ変わりましたか? 時間々々変わり、環境、東西南北、四方で変わったというのです。そうして中央本部を東にも引っ張っていき、西にも引っ張っていき、南にも引っ張っていき、北にも引っ張っていき、自分勝手にどこにでも引きずり回しながら中心を混乱させて送ったというのです。けれどもそれを意に介せず、再創造してきたその本性の基準を中心として再創造路程にも探し求めてこられた天がいかばかり悲惨だったのかという事実を知らなければなりません。 皆さん、愛する妻を奪われ、愛する夫を奪われた立場で、その奪われた夫、妻が生んでおいた息子、娘を連れてきて自分の息子、娘以上に愛して自分の血族につくるというそのようなことが世の中にありますか? 特に、とりわけ祝福家庭たち、よく知らなければなりません。祝福を受けるならばそれですべてではないのです。これは条件なのです。 神様の心情圏を受け継ぐためのこの時代が訪れてくるに従い私たちは、神様自体が歴史的伝統を立てるために努力してきたことをまず知らなければなりません。そのような観点からその伝統とともに皆さん自体を批判しなければなりません。「ああ、某は、個人中心だった者だ!」と。それは、皆さんがよく知っています。 神様は、家庭的復帰摂理のために自分の位置と立場を忘れてしまい、闘争してきましたし、復帰完成する神様のみ旨とするところのものを皆、探し求めるために怨讐の子供を連れてきて自分の息子娘につくるとなさいました。怨讐を憎まず、長い歴史を経てきながらそのように下ってきた天がいたという事実は、人類が何に対してでもお返しすることができない負債であるという事実を知らなければなりません。耳目口鼻を備えて不具者にならなかった、容貌が端正な姿勢として自分を誇るその何かがあるとするならば、特にこのような模様の形態を残すために天が無限に苦労した公義の基台があってその基台のために自分がからみつかれているという事実を知らなければなりません。 皆さんの行く道は、東方であれ西方であれ、南方であれ、北方のどこかを中心として見るとしても自由な環境で歓迎することのできる舞台ではないのです。すべてのことが逆説的な環境で、悪魔たちは、私たちが行く道をすべてに反対しています。これをより分けて越えて行かなければなりません。何をもってより分けていくのか? 神様が創造しておいた発展的本性の心情をもってのみより分けていくことができるのであって、何の手段、方法をもって? 統一教会のこいつら、雷に打たれるのです、全部。適当にみ旨の道ですか? み旨の道が適当にですか? 死ぬか生きるかという業なのです! ここに立っている統一教会の教主という人が一生をそのように生きるのです。 三十六家庭が何をしたのか? このような伝統を残さなければならないのに自分の一家を中心として女房や息子、娘のために、子供たちを他人よりましにするために勉強させると何をどうするというのですか? 子供たちを選んでくれとありとあらゆる見え透いたことを皆するこの野郎たち! 天の本質的伝統から見る時あり得ることかというのです。 こいつらめ、祝福を受けて堕落して、何、再祝福を受けるというのですか? 再祝福がどこにありますか? 断崖に綱を一つ垂らしてやるのです。上ってくるのは、自分が上ってこなければならないのですね。恥ずかしさを知らなければなりません。祝福を受けた連中に対して整理する時が来るのです。 神様の恨みをまずどこで解くのか? サタンを解く前に民族と世界で解きません。内的なこの群を中心としてこの原則に反する自体が自主的に悔い改めなければなりません。自分が境界線を越えられません! 私、文某が境界線を思いどおりに越えられません。私が土地のきれっぱしを買って祝福したならば、それを売ることができませんでした、今まで。売ろうとしても売ることができません。神様に捧げたものですから。こいつらめ、自分たち勝手に何かの教会の財産を売り、何がどうのこうのと今までそのようにしてきたのでしょう? きょう、この式を終えることによって私の思いどおりにすることのできる時が来たのです。今までは、私の思いどおりにできなかったのです。思いどおりにすることができたならば私がなぜ苦労をしたでしょうか。世の中になぜ出来の悪い業をしますか。私は、賢い人なのです。能力のある人なのです。けれども時があるのです。時が。時に対する責任を果たせずに顔を上げて往来できますか? それ、何のことか分かりますか? 越えて行こうとするならば、あの世に行こうとするならば、荷物をもって、世の中のすべてのものをあちら側に皆、引き渡してやらなければなりません。新しい礼物をもって越えていかなければなりません。サタンがついてきているのです。私が統一教会のすべてのものを売って全部、国に与え、世の中の人たちに与え、あなたたちにあるものまでも打って与えたいのが先生の心です。何のことか分かります? 神様がそうだというのです。きれいに通り越さなければなりません。 新聞社のきれっぱし、他の何のきれっぱしなど私は必要ではないのです。それは、今までサタン世界を防御しようとしましたから必要としたのですね。今や私に必要なのは、自由の平原地に向かって闊歩することのできる身軽な行客の姿だけ残っているのです。こうして私たちの境内に入って行かなければなりません。厳粛なのです。地上の生涯を清算し、厳粛に自認することのできる本郷の地を訪ね求めていかなければならない息詰まる時代が訪れてくることを知らなければなりません。 氏族的メシヤになり、家庭教会をしなさいと発表してから七年になりました。七年。七年間教えてきました。それをするといった人、今、そのような決心をし、そのような覚悟をし、夜を徹して行きながらした人がどこにいますか? 偽物です! 偽物の連中です。み旨を断片的に考えますか? 私はそういうのを認めません。 天の本性がどのような立場から出て来たとしても本性を中心としてその基準の前に個人、家庭、氏族、民族、国家イスラエル圏を選んだのが……。ヤコブを天が選ぶためにヤボクの河べりで夜を徹してすもうをし、天使長に勝つ時までどれだけ気をもんだことでしょうか。イスラエルという名前を地の上に宣布したその瞬間にどれだけ呆れ返ったか分からないほどです。 イスラエルの名前を汚すなというのです。イスラエルの名前だけではなく、イスラエルの血族を汚すなというのです。イスラエル民族は、イスラエル血族を汚しました。イエス様の血族として生まれたキリスト教も血族を汚しました。イスラエルを代表した王として来ましたし、父母として来たイエスを中心としたキリスト教も血族を汚したというのです。 今日の教会を見なさい。このキリスト教圏を中心として神様が願う、イスラエルを祝福した勝利的権限、国家代表の実を取り入れることができます。どこから? 教会を代表した実をどこから取り入れることができますか? そのすべてはどこから? メシヤなのです。真に満ちた一つの実の種を探し求めていかなければなりません。 今日、西欧文明が--イギリスがエバであり、アメリカとフランスがカイン、アベルなのです--アジアを訪ね求めてくるのですが、だれを訪ね求めてくるのですか。ご父母様を訪ね求めてくるのです。エバが二人の息子を抱いて離脱して天から追い出されました。それを訪ね求めてくるのです。だれを訪ね求めてくるのか? 種を受けるために訪ね求めてきます。エバは、今まで怨讐の種を受けてきましたけれども、これを全部清算しなければなりません。これをけとばして一家一国全体を後にして、反対するのを振り切り、困苦なる立場を免れることができなくとも、死にながらでもただひたすら訪ね求めていかなければならないのは、本然的真なる夫の懐に抱かれて真なる子供の種を受けるための位置なのです。これが復帰摂理なのです。真なる種が他にあるのではないのです。真の父母、真の父なのです。 真の父は、サタン圏に勝たなければなりません。真の父の名前をもって、真の父母の名前をもって個人的迫害、家庭的迫害、氏族的迫害、民族的迫害、国家的、世界的迫害に皆、勝つことができます。私に自由世界が反対しましたし、共産世界が反対したのに、そのような私が自由世界のワシントンでソ連のすべての指導層を教育することによりまして、CIA、FBI、国防省、国務省、ホワイトハウス等の情報員たちが全部、驚いてひっくり返ったのです。このような内容があるとは知らず、レバレンド・ムーンを迫害したという事実が恨みになるのですね。歴史にない一番貴いお客様が訪れてきたのにもかかわらず歴史にない冷遇をした怨恨をどのように脱ぐのですか。自分の一国家、ある一人の知識によって国民と環境を利用して統一教会が世界的に伸びていくのを全部、妨げようと大騒ぎしたというのです。そのような活動的罪悪の実状を何でもって脱ぐのかというのです。 今、西欧社会は、完全にレバレンド・ムーンによって潮流が変わるのです。今まで西欧社会が先に出てきましたけれども皆、下っていき、今からは、アジアから潮流が流れていくことのできる時が訪れてきたというのです。今日(回? )きてこのことを設定するのです。着地を宣布するのです。今まで反対するすべてのことを清算し、蕩減復帰、蕩減してきたすべてのことを先生が頂上基準に立って民主世界、共産世界の勝利的覇権の上に立ってさっと天地に宣布するのです。こうすることによって初めて新しい時代の着地が始まるのです。着地が。地に着陸、着地するのです。 それをするために先生が個人的迫害から家庭、氏族、民族、国家、世界的迫害まで受けましたけれども、全部、勝ったのです。そうして祝福家庭たちを中心として今、還故郷(帰郷)してどこへ入っていくのか? 家庭へ戻っていくのです。家庭に。何のことか分かりますか? 堕落して家庭から全部、悪なる世界になりましたから、悪なる世界を収拾するために来た先生の行く道には、家庭の反対、氏族の反対、民族の反対、国家の反対、世界の反対、全部、カインが生命をかけて殺そうとしたのです。それを皆、通り越したというのです。 これを通り越したので世界を越えて国を探し求めてくるし、国を越えて故郷を訪ね求めていって一族を探し求めていくのです。先生にそのような時が来たので、皆さんも……。皆さんが、先生の故郷に全部、行くのではないのです。皆さんが生まれた故郷は、皆、違います。その人たちがどのように先生の故郷で一挙に生まれることができますか? そうあり得ませんから、先生の還故郷に先立って子女たちが故郷に行って定着することのできる基盤を築くことを許したのが、氏族的メシヤの説法だということを知らなければなりません。分かりますか? それではどこに行って落ち着くのか? 自分の家庭が落ち着いてそこでストップするのではないのです。家庭を収拾して母の位置……。皆さんは、イエスの復活体と同じ立場で解放圏を中心として自分の父母を横的な基準でアダム、エバの位置に立ててやるのです。氏族的イエスの位置、先生が完成した全部が、ご父母様の位置になって横的な基盤で連結されるのです。こうすることによって横的な歴史路程でサタンが侵犯してきたすべての怨恨の起源が完全に折られてしまうのです。このような横的な基盤を築いておいたので、家庭を中心として男は東の方であり、女は西の方だというのです。東西に線をさっと引いておいたので、これを自分の刀をもってしては回すことができないというのです。これをどこから回すのか? 国でもないし、氏族でもないのです。家庭です。分かりますか? アダム、エバの家庭で偽の愛を中心として百八十度違えて地獄をつくっておいたので、今日の統一教会は、回っていって家庭において百八十度回して天の血族として血筋を清めた位置に立って新しい種として、ご父母様が植えた種として、新しい祖先として誕生せずしては、復活がありません。救いがありません。 何、キリスト教に救いがあり、何がどうしたって? 統一教会を抜け出ては、生命的救援、永遠なる愛を中心とした因縁的救援はありません。それで先生が還故郷の道を築いて自分たちを全部、押し立てて還故郷して氏族的メシヤ宣布をするようにしたのです。それを私がいつから教えてやりましたか? そのためには、カイン、アベルの関係を収拾しなければならないと、ホーム・チャーチ、家庭教会をいつ話しましたか? 七年の歳月です。七年の歳月。しましたか、しませんでしたか? すると言ったのですね。すると言ったのが成功ですか? 台風が吹いてくるし、自分の足が切られ、首が落ちるとしてもしなければならないのです。 ここに立っている私、レバレンド・ムーンは、そのような道を歩んできたのです。どこからか戻っていこうとしませんでした。そうするならば、天が皆、清算します。従って来てみなさいというのです。戻って行こうとしては、天が自分の息子、娘から全部、行く道を妨げてしまうのです。そのような恐ろしい時代が来ることを私がよく知っているので、私は今まで……。 アメリカにおいて起訴が起こったという消息がある時には、私は、直ちに韓国から飛んで行きました。自分の闘いの場を失ってしまった人は、勇将になることができません。勇将になれずしては勝利者になることができないのです。勝利者になれずしては、国の歓迎を受けることができないのです。同じ道理なのです。動き回り、引き逃げし、詐欺師のようにしていては、勝利的覇権の位置に上っていくことができません。死の場でひっくり返り、生死の境を中心として生権を争い取り、捩じり取るようになる時、国が保護し、歓迎するのです。分かりますか? 何のことか分かりますか? 反省しなさい、反省を。 先生が今まで買ったものに一つも手を出すことができませんでした。天に対して何であっても捧げてから、献金してからまた、持ってきて使うことができますか? 死ぬことはあってもそうすることはできないのです。その時までは、どれだけ難しくとも生き残らなければならないのです。それに手を出したならば、それが条件にひっかかって歴史の批判を受けるのです。無慈悲な歴史の批判を受けるのです。 それで、きょうの式が何の式なのか? 神様を中心として左右が生じました。分かりますか? それが恨みなのです! 一つにならなければなりません。この左右の手を集めて一つに前に行かなければなりません。左へ行き、右に行く業が起こりました。神様がこの左右に分かれた歴史を収拾するためにこちらで打たれ、あちらで冷遇されました。主人を失ってしまった女房のように怨讐の町内に行って追われるのと同じく、神様がまっすぐな所へ行けず、正面へ鼻が、手が指向する所へ行けず、左右へ動いたという怨恨の歴史を知らなければなりません。 統一教会に入ってきてどれだけ左右に動きましたか? 言いたいことを皆言い、見え透いた真似を皆やり、先生に従うと言いながらありとあらゆることを皆やって……。それに対する恨みを私が……。世の中を憎むようになるならばこいつらは……。そのような時がくるのです。どのように処理されるやら、私がそこに対して今、深い祈祷をしているのです。手を出せば種の頭の先もなくなるのだがどうするつもりなのか……。 私が願う天の祝福を受けた家庭は、こいつらではありません! これは、左右に分かれました。体と心も左右に分かれたのですね? 中心がなくてこれが……。神様を中心として一つになる家庭を見ようとしたのに堕落したので歴史的に多くの犠牲の代価を支払い、戦争の血肉を継いでいきながら、死の谷の被害者たちを一人のご父母様が来てこれを収拾することができる時まで引きずってこられた神様がいかばかり怨痛したかということを知らなければなりません。千年の歳月を一日を過ごすように耐え忍んできたというのです。 この地に真の父母が来たにもかかわらず世の中は思いのままに待遇しました。思いのままにここに集まった人全部、先生を利用してやろうとし、先生は利用されてきました。率直な話なのです。きょう、この時間、7月1日に皆さんは、自らの自責の念を感じながら自分の姿を支えることができない恥ずかしさに身にしみ、痛哭し、悔い改めなければなりません。痛哭してでも悔い改めることのできるそのような位置に立ったことを知らなければなりません。何のことか分かりますか? 先生は、後退がありません。後退がないというのです。父母が後退することができますか? 父母の名前をもった人が後退することができますか? 父母が後退することができないことを皆さんの息子、娘も全部、父母の位置を受け継がなければならないのではありませんか? そうしてこそ血族が残っているのではありませんか? 国家形成、世界形成がされるのではありませんか? 深刻なのです。父母をお金でもって換えることができますか? 名誉でもって換えることができますか? これは、天理の大道が外れる恨みがあってもこれは変わりがありません。お金をもって換えますか? 名誉をもって換えますか? 力をもって換えますか? 死とともに交替されるしかないのです。これらのために父母は死ななければならないし、子供は父母のために死ななければなりません。その道のみが大道の道を継ぐ道であって、ここに手段、方法をもってしてはできないのです。 先生が今まであんたたち、乞食の群のような連中を呼び集めて真なる子供につくって氏族的メシヤを……。メシヤが何ですか? メシヤが? イエス、死んだ代わり勝利の覇権を握り、自分の父、母、反対してきた怨讐を集めてアダムの位置に立てておいたのです。夢のような話なのです。そうでなくしては、これが中央で東西南北が生きることのできる平面基準になりません。三百六十度を描くことができません。そうしようとしますとこれは何なのか? 愛でもって、その愛の十字架を負って許さなければなりません。いつでもそうできますか? いつでも。着地して中央が設定されるならばありません。その時は、打ってしまうのです。はっきりと知りなさい。中央の設定が決定された後には許しがありません。法にひっかかるならば、法に従ってしなければならないのです。自分の父親であれ母親であれ、女房であれ、子供であれ、仕方がないというのです。その前までは先生の許しもあり皆、そうしたのですね。それが分からなければなりません。 自由世界、この国に真理の道、天の道を私によって、統一家によって正しておかなければなりません。君の女房、君の夫、君の子供たち、正しく行っていますか? 適当主義の輩、終わりを味わえというのです。どのようになるのか。子供たちがどのようになるのか。今に見ていろというのです。うまくいくように見えますけれども、自分がうまくやっているように見えますけれども今に見ていろというのです。だんだん引きずられて入って行くのです。今に見ていろというのです。 蕩減法によって物質蕩減、お金に対する嘘をしきりに言うようになるのです。子供が問題になります。子供が。その責任を果たせないならば、子供が行く道がないので、子供が血を見なければならないのです。子供が被害を受けるのです。子供が被害を受けるようになるならば、自分の父母が被害を受けます。ですから、子供一人、保つことができない父母がここにいることができないというのです。 旧約時代、新約時代もそうではありませんか? 成約時代は、ご父母様が来て苦労なされるのは、神様をこの地にお迎えしてさし上げるためにそうするのです。成約時代というのは、愛を中心として悲惨な歴史的な排斥圏を抜け出る時代なのです。なぜ? そうして子供が行く道、万物が行く道、神様が来る道を愛から地上に結束できなかったアダム、エバの偽の父母の基準を解怨成事しなければならないのです。原理的観から不可避的な結論なのです。別の理論がありません。そのみ言葉どおりなのです。 それで初めにしたことが自由世界の代表、共産世界の代表なのです。今、見なさい。これが転換していきます、これが。左側が右側になり、逆になります。キリスト教圏が反対することによって共産圏が先立つようになっているというのです。今、そのような段階に入っていくのです。それで共産圏も今からは、レバレンド・ムーンを中心としていかなければ世界の行く道が分からないのです。アメリカもそうです。今からは。皆、現れました。 今回、ワシントン・タイムズの編集局長、今までそのままにしておいたのです。こいつら、自分の権限を中心として行使するのを今まで待ってきました。お前の時までやってみろというのです。思いどおりにやってみろというのです。何、編集権、不干渉だとかいって……編集局の方向だと? この野郎め! 世界を滅ぼすのが編集方向なのか、この野郎たちめ! 昨年12月から処理し始めたのです。今回完全に首を打ち切ってしまったのです。こうしてワシントン・タイムズも私の下で私が指示したとおりブッシュ行政府も手を挙げなければならないし、国防省、国務省も手を挙げなければならないというのです。私が一番恐ろしい位置に登場したのです。今回、人事処置をする時、編集局長でもないのです。編集局長代理を任命しようとするのに噂が広まって……。その編集局長が他の所に行くようになっているのです。 ところで大統領秘書室で秘書室長が分かって、大統領の指示を受けて、「わあ、ワシントン・タイムズの編集局長代理--編集長と思っているのですね--を昼食に招待して過去よりもっと熱烈に結びつけなければならないのだが早く連絡しなさい」と言って……。連絡するその日、二時間、この人が自分の故郷のテキサスへ飛行機に乗って行く途中なのに、これ、連絡しようとは……。連絡するには家に連絡するのであって、だれが飛行機に乗っているのにそこに連絡しますか? 何時に到着するとそう言ったのですが、到着して降りるや否や、自分の姉の家に行きました。自分の故郷の父母のところに行かずに姉のところに行ったのが分かるはずがありません。探そうと大騒ぎになったのですね。 そうして三日ぶりに探し出して連絡ができて……アメリカでは、大統領を軽く見ているのです、言論人たちは。何、来いとか行けとか、言うことができるかとそういうわけですね。自分に時間があるならば会うのであって、月曜日に戻って行くから、その日まで待ちなさい。金曜日から四日間大統領がこの人に会うために待つという歴史にないことが起こるのです。ワシントンで。 ああ、ブッシュ大統領に会おうとするならば、ある行政部署の責任者たる人たちも一年半前、八か月以上に皆、スケジュールを組んでしてこそ会うことができるのに、これは出し抜けの措置をレバレンド・ムーンがしておきますから、その日から雷が落ちて自分のスケジュールを皆、延長して四日間、手首をくくっておいて過ごしているという事実は、その歴史のいかなる主権者たちにもないことが起こったのです。 こうですから、ワシントン街の高層ビルで回転イスに座って脚を机の上に投げ出し大きなことを言っていた幕僚から、その閣僚から国防省、国務省、全部、それ、分かりませんか? このようなことが起こりますから、なぜそうなのかというわけです。それで驚くのです。「わあ、レバレンド・ムーンのバックがこんなにも大きいのか。私たちが夢にも知らなかったのであり、レバレンド・ムーンのバックが大統領までもこれ、息を殺して待っているんだな」というわけです。何のことか分かります? そのようなことが起こるのです。 そうして来て入って行って秘書室長を通じてブッシュ大統領に会ったのですが、「これまでよりもっとちゃんとやりましょう。お願いします」と言うのです。そのようになっているのであって、命令するようになっていますか? そのようなことを言論で隅々まで知っているのです。「どうなるのか見よう」とこう思っていますから、それ、四日間、そのような社会環境が展開されますから、何、ワシントン周辺を中心として、ニューヨークからその周辺にあるすべての新聞社の編集局長たちが耳をすませて「そのワシントン・タイムズの編集局長がだれなのか?」とこう思うのです。分かりもしない人なのに、この人がどのように行動を取るのかということを聞きたいのです。言論界は、それをキャッチして報道をだれが先にするのかという角逐戦が起こるのです。 そうして私たちに反対していたCBS、チャンネル4、NBC、この連中が全部、私たちの編集局長代理に生放送でインタビューしました。一番のゴールデン・アワーに呼んで統一教会の新聞が将来どのようになるのかということを知ろうとして呼んでインタビューするのです。 「インタビューしましょう」と言うので、「インタビューしよう」とそう言いました。そのインタビューの席上で司会する奴が、「ワシントン・タイムズで今では、ムーニーが第二人者になったそうですね?」と言うのです。こいつら、編集局長に対して聞かずに、聞く内容がそのようなことを……。全くよくひっかかったというわけです。何日間、全部神経戦をやってワシントン・タイムズの編集局長にだれがなったのやら、どんな奴がなったのか見ようという言論界に全部、神経を逆立てていますから、その世論がどうですか。全国が全部、その時間を眺めているのにそのようになりますから、「この野郎! お前は、宗教にだけ関心があるのであって言論に対しては関心がないのだな。この野郎!」と言って激しく怒ったのです。 「ああ、アメリカという国には宗教が自由なのですが、クソ桶を神様として侍ってもだれが何と言いますか? このような自由世界で? あなたは、宗教に対してこのように無関心……それはなぜですか? 統一教会をそのように憎むということは、反対する立場にいますから、それ、憲法の道理において合っているのですか、合わないのですか?」と激しく打ったのです。この説明もできずに恥をかいたのです。 「統一教会の第二人者ではなくて第一人者というものは、実力を整えて、堂々たる背後の実力を整えてすべての人たちが尊敬する、すべての言論人たちが、数百名が尊敬する立場でその位置を守っているのであって、だれでも選んでさせると思うのか、この野郎め。第二人者が第一人者になれば、どうだというのか。だれが妨げるのか? 長老教会の信者は、長老教会のゆえに編集局長ができません!」と打ったのです。一時間、完全に恥をかいたのです。 そうしておきましたから、アメリカ全域に言論人世界で総評がどうなったのかといえば、「数千年間、基盤を築いた宗教が、たちまちのうちに統一教会に踏み付けられてあのざまは何だ。わけもなく反対するからあのようにやられなければならない」と言うのでした。 その翌日、いかばかりうるさかったことやら……。政界の風潮に対してうるさい世界だからか、全部、何がどうのこうの……「レバレンド・ムーンがそのように力をもっているとは初めて知った」というのです。こいつらめ、レバレンド・ムーンが洪吉竜(注・李朝時代の義賊)の子分だと思ったのか? お前たちが知らないうちにそのくらい大きくなったのです。この野郎め! こうしてレバレンド・ムーンが有名になりました。 それでは、編集局長を今、代理に立てたのですが、編集局長をだれが任命するのですか? それ、アメリカ大統領が任命することができますか? 国防省、国務省の長官がそれを任命することができますか? ホワイトハウスの副大統領があるいは、秘書室長が任命することができますか? その任命をだれがするのですか? (レバレンド・ムーンがするのでしょう?) ですから、どれだけ片腹が痛いですか? 分かりますか? 「ワシントン街を牛耳ってよくひっかき回すことのできる覇権者を設定するのに、設定させるに当たってレバレンド・ムーンがしますか? 心が冷え冷えしますか? それをするのですね。そのような基盤を……。今からは統一教会を自分勝手にできないのです。私が激しくしめつけさせるようになるならば、ブッシュ行政府は壊れていくのです。そのような覇権を皆、握り、戻ってきたところだということを知らなければなりません。分かりますか? (はい) ですから、堂々としてきて、アメリカに対して……。ソ連もそうです。ソ連、KGBの長たち、軍隊の将星たちを連れていって教育をするのです。CIAの幹部たちとアメリカの将星たちの教育を皆、終えるのです。これが、次期計画を皆、終えるのです。今やソ連の方向がレバレンド・ムーンを尊敬することのできる時代に来ました。あんたたちよりましです。分かりますか? あんたたちは、クソ犬のように何も分からないのです。主人しか分からないのではありませんか? 隣町に王が通り過ぎるのやら大統領が過ぎるのやら、分からない者たちです。 その人たちは、思想的に武装したそのような観があって、もっぱらレバレンド・ムーンが主張する神様主義と頭翼思想は、自分の世界以上の一つの世界を残して必ず成就させて勝利の覇権者になることを信じ、そうであることを知って従ってきているのです。彼らがどれだけ賢いか分かりますか、思想的に。その共産主義理論も自分勝手にどのようにでもなっていませんでした。理論的に見る時に否定することのできない内容を備えていたので世界的な知性人層を全部、掌握してこき使うのです。 それで左右を収拾しました。左右を収拾しましたから、レバレンド・ムーンがアメリカを行ったり来たりし、共産世界も行ったり来りし……私は、直行するのです。今までどれだけ反対し、直行してきましたけれども、出発もそのようにしてきましたけれども、今や右往左往することのできる時代は過ぎ去ったというのです。今こそ砲弾のように、鉄砲の弾のようにターゲットに向かって直行することのできる時代に入ってきたということを知らなければならないというのです。分かりますか? 何のことか分かりますか? (はい) 皆さん、姿勢を整えなければなりません。穴は、一つしかありません。それを経なければなりません。そうしようとするならば、父、母、二人が一挙に出られません。母の心、女房の心。その次に父の体、女房の体が一列に立たなければなりません。その次には、息子の心、娘の心。息子の体、娘の体が一列に並ばなければなりません。そのようになっていますか? 二人が出入りすることができません。越えていかなければならないのです。分水嶺を越える時は、人一人なのです。悪魔が従って入ってくることのできる第二のすきがありません。 父の心、母の心。父の体、母の体。一つの体なのです。一つの体になったそこに息子、娘の体と心が一つになって直行しなければなりません。四人が一人のように通過してからこそ横的に立つことができるのです。横的にすることができるのです。行けずしては、永遠にここに来ることができません。 祝福を何千年前に受けても……アダム、エバ、何、祝福を何千年前に受けたではありませんか。すべてのことが名前をつけたとおりになったのです。生育し、繁殖して皆、したのですね。皆、しましたけれども、できなかったのです。だれの責任なのですか。神様の責任なのですか、あんたたち自体の責任なのですか? 私が祝福しましたけれども、祝福をしたのは、私の責任でしたけれども、祝福を成すか成せないかは、あんたたちの責任なのです。私までは、その祝福を成せなかったところへ行きません。私は、その道を皆、行きました。はっきりと分からなければなりません。何のことか分かりますか? 父、母が一つになれなくて、父母が一つになれなくて子供を愛しますか? それはあり得ないことです。それ、天道ではないのです。父、母が一つになって、その子供たちが「うちのお母さんは母なる神様であり、うちのお父さんは父なる神様です」と言うことができなければなりません。地に見える神様として何をもってしても換えることのできない父母であると誉め称えることができる父母にならなければならないのです。 父母になってありとあらゆることをしながら、詐欺師のようなことを目の前でしながら、祝福を受けた家庭としてありとあらゆることを皆しながらこうして家族の子供たちによくなれって? とんでもないことです。はっきりと分かりなさい。 その道を行くのに当たっては一方通行なのです。一方通行を回って四方通行が起こるのです。縦的な基準が起こるのです。皆さんが朝敬拝するのも、皆さん夫婦同士、互いに敬礼するでしょう? そのようにしますか、しませんか? 横的なのです。横的に一つになるのです。先生はどうしますか。お母様は、先生にします。縦的に一人の方だけするのです。中心となる幹は一つなのです。枝は数多くありますけれども。 これ皆、先生が適当にするのではないのです。天道を明らかにするためなのです。家庭において敬拝式をしないでいながら統一教会の信徒なのですか? 子供たちが皆、どこに行って? その子供たちが今後、み旨が皆、成された後に父が生きているならば、父の手を斧で切り、足を切る時が来るというのです。どうだ、そうでないか今に見ていなさい。世の中に自分が祝福を受けたのに、他の人たちはあのようにつくっておいたのに私たちはなぜこのようにつくっておいたのかというのです。自分の子供のためにしてきたその目が怨恨の目に変わり、子供の目が怨讐の目、悪魔の目になって自分の父の目を抜き取り、手の指を切ることのできるそのような時が来るというのです。 私がそのことを知っているので先頭で瞬きもせずこの道を歩んできたのです。事後処理してどのようにするのかを知っているので……はっきりと分かりなさい。分かりますか? (はい) これを話してやって行かなければなりません。 二世時代だと言いますけれども、二世時代は、あんたたちの父、母よりもあんたたちがしっかりとしなければなりません。二世時代には、父、母が誤ったならば、それを是正しなければなりません。曲がりくねった木をまっすぐにするという責任を中心として二世時代が来るのです。父、母をおいといて只でしますか? 分かりますか? 飯場に行って一日にいくらずつお金をもうけてくる労働をしなければなりません。労働をしました。私は、乞食の真似もしました。み旨のために。 さあ、祝福を受けて生まれたあんたたちと先生とだれが貴いですか? あんたたちが貴いですか? 話してみなさい。こいつらめ。同じなのです。国を探し求めるためにはありとあらゆることを皆しなければなりません。先生は、国を探し求めるために孤独単身で苦労しましたけれども、国を制御できないその恨を、その罪状を蕩減しながらその道を甘んじて打たれて行かなければなりません。本分的使命をしなければなりません。あんたたち、分かりますか? (はい) 三十六家庭の下……これ皆、良いというのではありません。こいつらめ! 出世のためにして頭を振ってこうして自分が何がどうのこうのと自分の一家を中心として考えるそのような連中たちはあり得ません。三十六家庭が失敗したことを全部、埋めてしまおうとするのにこれらの体たらくを見ますとどうもいけません。これを七次まで延長するかもしれないのです。七次まで。 先生の家庭、三十六家庭、七十二家庭、百二十家庭、四百三十家庭、七次まで、その残り全部、肥やしにするのです。肥やしにして一つの新しい柱をつくるのが、天が願うことです。私は父母まで捨てた人なのです。兄弟はもちろんのこと、国も捨てた人なのです。なぜ? 神様のために。神様に国がありますか? 神様に父母がありますか、ありませんか。子供がありますか、ありませんか。国の代わり、父母の代わり、兄の代わり、姉の代わり、兄弟の代わりに神様だけに侍ってきた人なのです。 過去にいろいろ複雑な内容がどれだけ事情を示してもその事情に捕らえられる男ではないのです。私の行くべき道を堂々と行ったのですね。堂々と行くべき道を正すために環境を……。今もお母様がいますけれども、どれだけ何といっても私の行く道を私が行くのです。今では皆、越えました。それできょうその式を宣布しなければなりません。分かりますか? 民主世界代表、共産世界代表、その次に宗教界代表。これが問題なのです。民主世界と共産世界を一つにつくるのが問題なのです。体と心が分かれてここまできました。民主世界、共産世界が闘争歴史として血をたくさん流しました。宗教と政治とは、政治をする人たちが宗教を打ってきたのですね。私たちの体は、いつも心を打つでしょう? 怨讐なのです。 宗教がたくさんの血を流しました。血を流したその代価の価値がどこに行って実を結ぶのか知らずにいます。それが真の父母なのです。分かりますか? 真の父母によって宗教圏、政治圏、その次に民主世界圏、共産圏が統一されるのです。なぜ? 偽の父母に分かれ始めましたから、それ、どうすることもできません。理論的なのです。理論に合っているのです。私が思い立って話することではないのです。また、事実がそうなのです。事実がそうですから、事実どおりになっているではありませんか。 それで8月にそれ準備しますか、郭錠煥? (はい) 宗教、それ、準備するでしょう? 政治。朴普煕はどうですか? それ、責任を負って準備しますか? (はい) 自信がなくともあんたがここにいるならば、国内でもそれ、準備しなければならないでしょう? 8月に全部、終えてしまうと思います。そうしようとしますから宣布式をするのです。分かりますか? 宣布式をしますけれども天では皆、そのように編成がされるのです。分かりますか? 今まで共産世界、民主世界が争っていたのが全部、霊界で怨讐になって連合運動が始まるのです。 宗教圏と政治家たち、今、怨讐ではありませんか? 政治家たちがどれだけ宗教人たちを虐殺しましたか。全部、怨讐なのですね。分かってみるとお兄さんであり、弟なのです。お兄さんたちなのです。それは、お兄さんなのです。ですから、愛でもって許してやろうとするのです。許してやり……霊界の流通構造に全部、連合運動が起こっていくのです。分かりますか? その次に何なのですか? その次には、長子権復帰なのですね? そうでしょう? 長子権。長子権に引っ掛かって宗教圏と非宗教圏、天国地域が分かれたのです。これを全部長子権復帰をすることによって霊界から、地上世界から変わるのです。アダムを中心として天使長が長子権を略奪したのを復帰することによって天使世界がアダムを育てて成熟することができる時まで養育していたその本然世界へ戻っていくのです。霊界が人間世界を利用できないというのです。今までどれだけ利用し、無理やりに取り上げましたか。悪魔たちがそうなのですね。金持ちの家の客たちを蹂躙して食い物にして。アダム、エバを堕落させたその業をしたのです。寺もそのようなことをしてきましたし、また宗教指導者たちも今までそうしたのです。 それでこれを統合しようとするのです。これを統合することによって自分たちが行使することのできる権限がなくなります。水平になってしまうのです。上へ上っていくことができるのは、真の父母と天の権限しかありません。分かります? ですから行使する力がなくなったのです。力を出して無理やりにしてみろというのです。そうしようとするならば、崩れるのです。国がこのようになる時は、南北がこれを……南北も全部、このようになるというのですね。何のことか分かりますか? 金日成を廬泰愚がどれだけしても思いどおりにできないのです。それでこの宣布式をしなければならないのです。これを先生を中心として処理しておかなければならないのです。偽の父母によって処理しましたから真の父母によってさっとこのように結びつけて宣布しておかなければならないのではありませんか? そうでしょう? その宣布する日にがまさしくきょうなのです。 長子権。もちろん皆、話をしましたけれども決定できませんでした。決定できなかったのです。その次に父母権。それで氏族的メシヤをしますという申請書を出しなさいとそう言ったのですが、申請書を受け取りましたか? 洪性杓、皆、受け取りましたか? (はい) この日がそのような日であるのでそのことを全部するのです。 どれだけ一家の中で自分がお兄さんであっても、古くなったとしても申請しなかった人は洩れるのです。その人を金氏であるならば金氏の氏族として数えることができません。自分は、いわゆる何の連合会長だから、そのようなのは関係ないと思うかもしれませんがどういたしまして。教区長だからと自分は関係ありませんか? どういたしまして。どれだけ教区長であっても今回、申請しなかった人は脱落するのです。自分勝手に考えては恥をかくのです。 その次には、父母権。見なさい。長子権喪失、王権喪失をどこでしましたか? 世界ではないのです。どこでしましたか? 家庭なのです。家庭でしたのです。それで今、何かといえば、統班撃破、家庭着地なのです。それ、先生が指示したのです。こいつらめ。隣町の何の選挙運動をしますか? 生死がかかっている重要なことであり、天下を得るか失うかという闘いなのです。 私が来ないでおこうと思いました。元来は、今回、寄らないでおこうと思いました。この式がなければ寄らないのです。このざまを見なさい。こいつら、皆、掃き捨てるのです。生死を決断することのできる自分の版図を掴むのか、掴めないのか。紐の端を掴むのか、掴めないのかというのです。このような深刻なこの時に傍観視しますか? 「わあ、私は、就職のゆえに……」。この野郎たちめ! 就職しようと統一教会に入ってきましたか? 就職しようと祝福を受けましたか? 乞食の子のような女房をもって……お前の女房がその道を行けないようにし、その子供が行けないようにするならば、全部、クソ犬なのです。私がそのような群になれと祝福しませんでした。はっきりと分かりなさい。 家庭の基盤を探し求めに故郷に戻って家庭の自分の父母を中心として……子供を生む時も家庭で生むのでしょう? 愛することも家でするのでしょう? どうですか? どこで統一されますか? 女房と夫と? 氏族会館なのですか? 自分の家なのです。千辛万苦してひとときを探し求めてきた天が……先生が四十年生涯、事実、七十年生涯を消耗しました。万民が家庭へ戻って行き、愛の巣を設定して長子権回復、父母権回復、王権回復して本然の地に定着することのできる驚くべき時代を迎える価値を不信し、これを否定して認めない行動をしたという事実は、罰を受けなければなりません。滅びなければなりません。私たちの隊列から切り捨てなければなりません。 祝福家庭、ぶつぶつ言う連中を私はよく見るのです。こいつら、祝福家庭だから何、許して下さい? この野郎め。その奴がつまらない奴なのですね。祝福家庭は、私の手で切ってしまうのです。 今後、一族で誤ったことは、自分の一族で族長が裁判して死刑場まで自分の息子、娘を送らなければならないのです。そのような時が来るのです。今後は、警察や第三者が自分の一族に手を出せないようにするのです。何のことか分かりますか? 皆さんは、直ちに関門を経てこそ悪魔の世界が逃げて行ってしまうようになるのです。何のことか分かりますか? (はい) その次には、何ですか? (本性復帰) 本性復帰。その本性を発表しなさいというのです。「私、今や神様に代表しては絶対的です。あなたの本心に、創造する前に心情的因縁を全部、立てる前に愛を中心として関連をつけて愛の対象を自分よりもっと出来の良い人につくりますという本性的心情においては私は、神様の代身に間違いありません」と発表しなさいというのです。 その次に心情ですね? (心情権復帰です) 愛を中心としてその代表として愛の主人になるのです。愛を通じて主人になることによって愛の主人のひざもとにおいて永遠なる生命が存続されるのです。愛の主人になれなかった世界では、生命の主人ができてきません。それ何のことか分かりますか? 愛が先なのですね。生命の主人になりたいならば、愛の主人にまずならなければならないというのです。 神様は、愛の主人になりましたし、生命の主人になろうとするのです。だれを通して? レバレンド・ムーンを通して。真の父母を通して。それが原理ではありませんか? それを見れば、サタンはこの世の中からなくならなければなりません。サタンまでも解放しようというのです。「サタンまでも解放してやります。人間の一番抹消である地獄の果てまで解放され得る時を待って、アダム、エバの息子として生まれたすべてを天使長が養育して天国に行くことができるようにする本然の使命を果たして、アダム・エバが堕落しないように保護していたその原則に従って地獄にいる人までも救わなければならない」と努力することができるように皆さんに人間の一番末の位置を付与したのです。そのようになっているでしょう? これが復帰路程なのです。 カイン圏、サタン圏までも解放させる勝利を宣布しました。ですからサタンが私に対して反対するいかなるものもないではありませんか。だからといって適当に計略をはかってしたのではないのです。原理原則なのです。これをしたので皆さんの家庭の運勢を中心として天下は回り始めるというのです。会社ではないのです。分かりますか? 国ではないのです。大韓民国の国ではないのです。皆さんの家庭で始めることができなければ民族も国もなくなるのです。それは、民族と国が天の国に関係をもてないのです。皆さんは、先生が今まで世界的に闘ったすべてのことを集めて祝福して回り右して行くのです。そうして本然の基地に着地して家庭勝利の覇権をもって天の国の長子権を代表し、父母権を代表し、王権を代表していかなる人の支配を受ける必要がないのです。皆さんがどのように生きなければならないということを皆、知っています。そうでしょう? 分からないことがあるならば、先生の説教集を皆、読みなさい。先生がどのように生きてきたということをそこに皆、提示してあります。 それによって皆さんが家庭では何ですか? 天の国の王族なのです。王族! 王族! サタンが王族権を掠奪してしまいました。メシヤとともに、来られる再臨主とともに全部、王の振舞いをするのです。宇宙観が何なのですか? 兄弟観に間隔がない……。皆さんのおじいさんは全部、過去を代表した霊界と祖先を代表したそれが思想になってしまうというのです。 皆さんの父母は、この世界五十億人類を代表したのです。少なくとも男、女、父母が全部、主人になっているのではありませんか? 主人を代表したのが家庭なのです。その代表が父母なのです。息子、娘は後孫です。過去、現在、未来を縮小させておいた、王権的愛の理想の図版なのです。 こうして息子や嫁(娘?)が主張することが愛を中心としてするようになる時は、祖父、祖母、孫に関係なく全部、一つになるのです。その主張にしたがっていくのです。そのとおりだというのです。愛を中心とした主張をその家庭は歓迎するのです。何の愛? 神様の再創造の愛、為に生きる愛、投入して忘れてしまう愛、そのような愛でもって孫が主張するとしても祖父、祖母はそのとおりだと言うし、頭を下げることができるのです。そのような道理の基盤を国の代わり、氏族の代わり、世界の代わりに整えてそれこそ家庭天国、愛を中心とした主人の位置に立つ家庭になってこそのみ、愛を中心とした主人の位置から生命の主人の資格が始まるのです。そうではありませんか? 愛から生命が始まるのです。その生命と愛が一つになるそこから血統が生ずるのです。天の祝福を受けることのできる、万世を統治することのできる、神様の福を受けて繁栄することのできる、横的なものとして膨脹することのできる後孫が生まれるのです。愛と真なる生命の主人にならずしては、投入が不可能です。だんだん縮小するのです。今に見ていなさい。その父、母がどのように動くのに息子、娘がどのようになるのか見ていなさい。先生の言うことが合っているのが、合っていないのかよく見ていなさい。 その息子、娘が見るようになる時、「ああ、私たちの父、母は、果たして天が愛せざるを得ません。夜であれ昼であれ、忠臣の道理を果たしている」と言うことができますし、「すべての面においての天運が応護することができる方なのだなあ」と証することができるその後孫は栄えるのです。先生の家もそうなのです。「ああ、今度、息子、娘はどのように生まれます」と考えるならば、そのように生まれるというのです。ですから不平を言えません。 三代がどこへ行くのか? その幹がジグザグに行くのか、垂直に行くのか? 深刻な問題なのです。この祝福受けた女たち、分かりましたか? 恥をかいて死ぬ日が近づいてくるなら別のことを考えなさいって。先生は賢い人なのです。分かりますか? 何にことか? この膨大なる世界、混乱した世界においてこれを整理して人間が行くことのできる梯子を上手につくっておきました。上っていくならば何百階も上っていくことができるのです。他の道は、どれだけ探し求めても行く道がありません。他の梯子は、バッサリ切ってしまいました。上って行く道がありません。 さあそれで統一式を宣布しましたからそのように理解して自信満々に……今から統一教会に反対する人、首根っこを捕まえて打ってしまいなさい。「この野郎、何に反対なのか」と。これなのです。打たれないようにしなさい。分かりますか? (はい) このような宣布式をすることによって……イエス様もメシヤ宣布式をできなかったのですね? ユダヤ教を中心として、イスラエルを中心としてできなかったではありませんか? そのメシヤ宣布というものが何なのか? 自分の家庭を中心として一族を従えようとして民族とともに……。一族があってこそ宣布するのですね。家庭がありますか? しかし、私レバレンド・ムーンは? その道を皆、経てきました。真の父母を宣布することのできる民族的精気と自由世界、民主世界においてだれが何といってもレバレンド・ムーンをこの世代において世界的な英雄であると語っています。手紙が来るのを見れば、そのような話が多いのです。そのような伝統を皆さんが皆さんの一家で輝かせることができなければなりません。先生の枝、先生から東西南北へ芽が出て、その芽が美しくなれば、中心的芽の代わりに枝の芽をもってきて植えるならば、同じ中心的幹になるのです。何のことか分かりますか? 今後、先生の一族と全部、祝福して全部、編んでやらなければならないのではありませんか? 事故が起こり、傷がある人はだめです。先生が教えたみ言葉が審判するのです。自分勝手にしてはいけません。 さあ、きょう7月1日。そのように理解し、この式典がどれだけ重要ですか。先生がこのような式典を願い、神様もこの式典を願い、すべての宗教と国家たちが願っていたこのような式をして宣布式をしましたから、今からはすべての問題がこの基準を中心として収拾されていくのです。そうではありませんか? (はい) アダムが名づけるとおりになるというのと同じく先生が神様のみ旨と一致した位置に立って反対のない、反対する環境を脱け出た位置に立って名づけたとおり、宣布したとおりになるのです。それが真の父母の特権だというのです。分かりますか? (はい) そのように理解し、このような信念をもって皆さんが憤って一言「この野郎め」と呪うならば、その呪いのとおりに直ちに呪いを受けるのです。ですから、だんだん恐ろしく現れるのです。外的に現れたあんたたち家庭に訪れてくるのです。神様は、許しがありません。許しがないというのです。 うちの孝進に何の問題が生じても皆、そうしましたけれども、孝進が今まで歌を作りしたことが悔い改めなのです。お父様に対しては顔をまっすぐに上げられないというのです。世の中にこのような息子になることができますか? 悲惨なことは、語ることができません。顔を上げられません。今もそうです。自分の過去を考えるならばいかばかり悲惨なことか分からないのです。脱け出ることができません。それを脱ぐようにしなければならないのに、それ、できますか? お父様しかいません。お母様もできません。お母様が中心なのですか? ですから、「お前、これをしなさい」と言えば、異議がありません。それ、いかばかり悲惨な生活でしたか。今から近づく日々においてご父母様が命令することを行うことができない時には、その悲惨なことを避けることができないのです。これ、いかばかり呆れ返るかということを知っているので……むしろそのような面では将来における良い近道にならざるを得ないのです。その歌で『主(ぬし)』という言葉は、お父様のことです。愛という言葉は全部、お父様に対して語ったのです。それで私が、「おいおい、あまりそうするな。私が責任負ってやる」と言ってやったのです。その時以上の位置の心をもつようになるならばいつでも私が責任負ってやるというのです。時がすべての宣布式が終わらなかったではありませんか。私が責任負ってやると今、そのようなことも言ってやりましたが、「先生が自分の息子、娘だと特別に考える」と思うけれども、私にはそれがありません。いかほどの事情があればあのようにしようとするならば狂犬が現れて噛んで病院に行って死ぬことを願って。道端で交通事故に遭ってひっくり返ることを願いました。祝福が何ですか。 私がお母様とも話をしました。天道に立ちふさがる息子ともったというのが恥だと。許しを受ける道がないのです。千年体をかがめても謝罪を受ける道がないのです。子供の謝罪を父母が乞うことができますか? 祖先の謝罪は、後孫が乞うことができますけれども、父母が子供の謝罪を乞うことができません。私は、そのように思っています。正しい道を行きなさい。分かりますか? (はい) 食口たちの前に恥ずかしい道を行ってはいけません。だんだん問題になるのです。 今、私が重要な三つの問題を前にして祈祷しているのですが発表できません。万一、私がこれに手を出す日には、世界は血みどろになり得ることが起こるのです。それをだれが責任負うのか? だれも責任負えません。責任負う人がいません。堕落した世界には。亡国の僕をだれが責任負うのかというのです。真の父母が責任負うことができないことも知りなさい。ですから、それを代身して責任負うことのできる祭物としてだれを……。自分の息子、娘を連れてきて立てるかしなければならないのです。深刻な問題なのです。今や皆、越えてそのことがあり得るかというのです。今まではあり得ました。 深刻な時が来ることを知ってきょうを期して明日から皆さんが行く方向から、視覚から、感覚から行く歩みが戻って行かないようにしなさい。迫害がありますか? 迫害、ありません。今からは。今、迫害を受けるならばそれこそ一族が数か月以内に屈服することができるようになっているのです。何のことか分かりますか? 歩みも堂々と最頂上の道を越えて行くようになる時は、サタンの因縁を皆、切ってしまうようになります。皆、けっとばしてしまうのです。そうではありませんか? サタンに対して自分を貴く思ってきたものを全部、分けてやり、手を空(から)にして訪ねていかなければなりません。手を空にして入って行って涙とともに心情をもって大罪を犯した子供を歓迎するに苦労なさったその父母の前に名目を立てることができず、大声で痛哭しなければなりません。私もそうしたのです。その日がいつの日になるやら、国とともに……。 今からは先生が死ぬとしても失敗者になって死ぬのではありません。分かりますか? 今、宣布式を皆、終えましたからそのように理解してそのような基準で処理し、そのような基準の信念をもって前進隊列をさらに強力に濶歩することをお願いします。分かりますか? (はい) さあ、書きなさい。 1991年7月1日。韓国訪問と摂理的処理。摂理的処理をしてやらなければなりません。神様の摂理、復帰摂理という言葉……。再創造は、怨恨なのです。怨恨。怨恨の言葉なのです。これは、良い言葉なのではありません。処理をだれがしますか? アダムが誤りましたからアダムがしなければなりません。 その指示事項一は、東西文化格差、東西文化の格差、東洋と西洋の文化の格差によって被支配者になったのです。それは、自由世界、共産世界に区分されて争うのです。これが文化的差異を中心として総括的な結実として現れたのが右翼、左翼の闘争歴史だというのです。一番目は自由世界、二番目は共産世界。そうしておいて左右問題、左と右の内的な面で闘争終結。それ、闘争なのですね。左右の内的な闘争歴史が終結されなければならないというのです。それが何かといえば、イエス様を中心として、真の父母を中心として左右に分かれたのですね。真の父母とイエス様のみ旨を成すことのできる完成時代、再臨完成時代が来れば終わるのです。これが。そのことを前にして言うのです。 内的な面で闘争史の終結。では、そこに残るものが何なのか? 歴史的な内容、歴史的な内容は、それが何かといえば堕落した人間たちに対して神様がどれだけご苦労なさったのかということを知らなければなりません。これを皆、闘争終結、終えるのです。残ることは、神様がどれだけご苦労なさったのかというそれだけなのです。それだけは残しておかなければならないのです。闘争史は、皆、なくなり、洗ってしまうとしても神様がその背後でどれだけご苦労なさったのかというその事実だけは、残しておかなければならないのです。その話です。分かりますか? 左右内的闘争終結と歴史的内容。すべての歴史的闘争史は、終結されましたけれども、神様の心情的内容だけは、私たちが受け継がなければならないというのです。先ほど語ったそれなのです。 その次にまた、一として、二は、東西文化格差であり、これは小さいものであり、その次に大きい一なのです。南北統一問題。南北が統一されなければならないというのです。金日成がどれだけそうしても、統一をしたくなくとも自分の思いどおりにならないのです。分かりますか? その思いどおりにするとすれば、しきりに後退します。足裏が崩れます。 ですから、南韓が良い意味においてしきりに提示しろというのです。北韓に学校も建ててやる。劇場も建ててやる。文化会館も建ててやる、としきりにやれというのです。それを建ててやれというのです。そうするとしきりに崩れるというのです。反対すれば反対するほどだんだん暗闇へひっぱり込まれ落ちるのです。 ですから、南北統一問題。一番目は周辺強大国連合。周辺強大国を連合しなければなりません。先生が今、それをするのです。アメリカとソ連と中共と日本を中心として……私がその人たち、幕僚たちと会おうと思います。それで日本の今や名ある人たちを呼んで会うのです。その次には、アメリカのイーストガーデンに呼んで会おうと思うのです。今からは外交をしなければなりません。分かりますか? 今からは、何をしなければならないって? (外交です) 外交。外交が何なのですか? 教育なのです。政治教育しなければならないのです。国々を誤って治めますから。 今回、湾岸戦争に貢献した人がレバレンド・ムーンなのです。ゴルバチョフとブッシュ大統領と電話で話した人が、私なのです。それはホワイトハウスでよく知っているのですね。国防省も皆、知っているのですね。ワシントン・タイムズがどれだけ貢献しましたか。ヴェトナム戦争においてフランスだとかワシントンでデモをして全部、戦争を終えると考えたのですね? こいつらめ! その時は、レバレンド・ムーンがいませんでした。この野郎! 五十ケ州に五十万以上、七、八十万が一時に反対する奴、何万を皆、けっとばしてしまいました。消え去れ、ここがどこだと思って……。 ですから、ブッシュ行政府は、それ以上幸いなことはないのですね。私に対してありがたく思うのです。「アメリカが大きいと言い、アメリカが誇ることのできる団体も多いけれども、キリスト教団体も多いのですね。YMCAだとか多いですけれども、ただ一つ力ある団体は、統一教会、AFCしかない」と言っています。 私は、滅びませんでした。分かりますか? 堂々としています。今や州知事を呼べば、州知事が飛び出してくるようになっているのであって、私が飛び出しません。 今回、来る時は、私が魚取りをしていた服を着て来ました。何、ネクタイは、何のネクタイなのですか。見れば、田舎の人なのですね。真っ黒で。時計のあとがあるでしょう? なぜこうして動き回ると思いますか? 今後、人類の食糧問題を私が基盤を築いてやらなければならないのです。それは、海しかありません。養殖。養魚する方法しかありません。それでここに来る前にカナダから、アラスカから全部……アラスカに魚のとれる有名なところは皆、踏査したのです。私が行ってみて話しなければならないのです。私の前では、嘘を言えません。復帰摂理の路程において私の前で嘘を言えないのと同じく、水産事業、陸地事業において私の前で嘘を言えません。カカシではないのです。カカシのようにじっとしていますけれども間違えると激しく打たれるのです。 南北統一問題。一番目は周辺強大国連合。周辺強大国連合。今やそのようになるならば、アメリカとソ連を連合させて……今やレバレンド・ムーンをその世界から抜き除くことができません。中共問題もそうですね。パンダプロジェクト……。このころ、韓国日報で失敗作だと? こいつらめ。失敗作なのか自分たちが行ってみましたか? 何をしているのやら、先生の作戦が何なのか分かっていますか? 今後、後の部屋まで入っていかなければなりません。私が。何のことか分かりますか? 私がこのくらいしたならば、あんたたちがしなさいというのです。できないならば*小平が会おうというのです。ですから、ストップしているのです。作戦上、停止しているのです。 台湾政府で、閣議で三十五パーセント国内販売を認めたという消息を聞けなかった模様ですね。それだけではだめです。五十五パーセント。広東省が二十パーセントしなさいというのです。そうすれば、私がお金をどれだけでも出すのです。郭錠煥、お金を少し出しますか? 新聞社を売り飛ばせばよいと思ったでしょう? 自分たちが主人ですか? 私が売れと言う前にどうして売ることができますか? 私が天の前に祈祷して、これを天の前に国とともに祭物として捧げるものを引きずり出して売ることができません。雷に打たれて死ななければなりません。それが先生の観なのです。 そうしようとするならば、今やあんたたちの家を売りなさい! 服であれ何であれ、女房の宝石があれば売ってしまい……軽々しく出しますと……聖なる物に手を出しては雷に打たれたのでしょう? 契約の箱の前で聖なる物に手を出して雷に打たれましたか、打たれませんでしたか? 私がそれを知っている人なのです。時になる時まで、峠を越える時まで……今や峠を越えた後には、思いどおりにします。与えたければ与えるし、売りたければ売るし。その前に自分勝手に皆、するならば……。先生が今までだれの言うことを聞いてしてきましたか? 長たる連中が全部……。班長のきれっぱしが資格になりますか? クソ犬みたいな奴をつかまえてさせるのですね。自分が出来が良くてやっていると思うのでしょう? 長が何の長ですか。大きなことを言うなというのです。 神様が今まで投入して全部、忘れてしまうように私も投資して全部、忘れてしまいました。取り分けようとはしませんでした。峠を越える時まで取り分けようと思いません。それは、サタン世界に与えてしまったのです。皆。今や通り越すようになる時は……。先生は宗教指導者であって何の事業指導者なのですか? 今や通り越す時はそれこそ精鋭部隊を投入しなければなりません。 それでアメリカで明年9、10月まで縮小せよと言いました。九十八ケ会社があります。三十八ケ、三十五ケまで四十五ケ団体を、半分近く処理せよというのです。既に指示しているのです。お金を三十パーセント削減して支払いしているのですね。滅びろというのです。日本も同じです。韓国も同じです。私が今では一和に関心もないし、統一産業にも関心がありません。今では皆、通り過ぎました。救援摂理において峠を越えることのできる杖になり、踏み台になるので必要としてしました。何、してくれと言いますけれども関係ありません。 こいつらめ、会社で自分の飯を儲けて食べ、そこで万年生きるのですか? 私が火で皆……あっさり爆弾装置をして爆破させるかもしれないのですね。それで今回、ワシントン・タイムズに私が朱東文……今、この連中が来るのです。私が来いと指示しました。お前、今までワシントン・タイムズが満九年間、十年という歳月にどれだけ使ったのか全部、決算して報告しろと言いました。編集局長、こいつ……黄金万能を誇るこの自由世界、アメリカの世界でお金をどれだけ使ったのかというのです。全部計算してみると八億三千万ドル使いました。ワシントン・タイムズだけで。分かりますか? その間、アメリカで数十億ドルを使いました。 こいつら、一方の連中は「フゥー」と言って驚いてひっくり返るかと思えば、他の連中は、高位層の連中は、「それが何が多いというのか? アメリカを全部、掌握したことは考えないのか? そのお金をもってアメリカを全部占領し、アメリカを思いどおりにすることができ、方向提示を思いどおりにしながら料理することができるのに、その権限でつかんで引っ張れば八億を越えて引き出せる」とそう言っているのです。こいつらめ。 さあ、このようなことをする時、あんたたちが何か夢でも見ましたか? 先生がそれをする時、日本の人たちがお金をたくさんもってしましたか? できないことを無理にするのをコーチしてやって、方法を教えてやって全部、このようにつくっておいたのですね。日本の人たちも自分たちが出来が良くてそのようにしたという人は一人もいません。今もそうです。アメリカの人たちもそうです。数十億ドルを使ったのです。 復帰摂理は、ひとときしかないのです。宗教指導者として短時間内に、満十六年間にそのような資源を人類のために、平和のために、解放のために投入したということは、歴史的事件です。それを後代の人間たちが誉めたたえるのです。 私が短い一生の間に多くのことをしたのですね。ですから手を広げてそれを支えることがどれだけ……ですから、眠れないのですね。他人のように食べられず、遊べず……狂った人が爪先立って行くのと同じく、そのような道を行きながら一つのみ旨を一貫して来てみますと天が保護して下さってこの位置に立ったのです。そうでなければもう既に死んだはずです。死んだはずです。私があまり無理してしたならば病気になってもう既に死んだと思いました。 今回もそうです。若い奴ら八人を連れて行きますと全部、分からないように行って眠ろうとして、「わあ、先生は鉄骨みたいな男です。七十歳という老人があれは何ですか?」と言うのです。自分たちが耐えがたいのですね。多分、キング・サーモンを捕らえ、レッド・サーモンを捕らえるのに私が倍以上釣ったのですね。海上事業をして飯を食って生きようとするならば、私のようにしなさいというのです。飢えて死にません。伝統を立てなければなりません。 こうして全部入って来てはてんでんばらばらに抜けて行くのですね。12時に私一人、守っているのに自分たち全部……私は、それ、教育をしなかったのに、自分たちを見て思いどおりに行動しろと言わなかったのに。この修練課程なのに自分勝手に行って、先生を12時まで待つようにしておいて自分たちが行ってそうするならば、その心が安らかですか。こいつらめ。次には絶対連れて来ないのです。先生がカカシだと思うのですか? 皆分かります。クソを垂れているのまで手に取るように知っていながら知らないふりをして座ったとしてもそれがそのまま通り過ぎると思いますか? どういたしまして。 お母様にしたってそうです。レッド・サーモンを捕まえるとそう言うものですから、小さいのを捕まえて何しますか。鯉を捕まえなければならないのですね。キング・サーモンは、小さい女の人ぐらいです。本当です。どれだけ力が強いことやら、あんたたちの力では、一、二度やっては沈んでしまうほどです。どれだけ(意味不明)約五百メーターを走りながらついて行って初めて捕らえるかどうかというほどです。私は、一日に五回も滑り、それでも……若い奴らが皆、きつくて倒れるとしても私はびくともしません。びくともしないのではなくて、くたびれても我慢しなければならないのですね。責任者が疲れたからといって倒れることができますか? 死ぬ前に自分の行くべき道を行かなければならないのです。お母様もキング・サーモンがひっかかったのですが、私に「わあ、お父様、私にちょっと手助けして下さい」と言うので、「いやいや! ここに来た以上、一匹捕まえなければならないでしょう?」。ですから、どれだけ不平をたくさん言ったことやら。夫という人が無情にも……(そうではないではありませんか、とお母様)(笑い) いえ、そうしたはずだと思ったのですね。すべてのことをやって……(先に二匹取り逃がしましたから、逃がすまいとしてそう言ったのです、とお母様)(笑い) そうして、「いいや、今度、捕まえなければ、お母様の威信が立たない!」と言ってあっさりぱっと切って、「ついて行きなさい!」と言いました。そうすると五百メーター以上その険しい山、全部滑り、山道、熊の子も下って来るのが難しい坂道なのです。雨はずっと降り続けるし、滑るならば約十メーター滑るところであり、水の中に入っていくところなのですが、氷の上を歩き、雪の上を歩くのが普通であり、滑るならばぬかるみ道なのです。体がこのようになるならば、全部滑って入っていきます。そうして、「よくやる! 捕まえたのか、捕まえなかったのか見よう」と思っていると、後では一番大きいのを捕まえたのです。(拍手) そうしては、どれだけ大変ですか。大変ですけれども、「ああ、気持ちが良い。大変でも気持ちが良いです!」と言うのです。それが粋というものです。大変でも気持ちが良いのですね。そうしてその日捕まえて約三日間喜ぶのを見る時、「ねえ、次にはもっと大きい奴を捕まえなさいと私がもっと無情にしなければならない」とそのようなことも思いました。すみません。(笑い) そうして、帰ってきながら飛行機で私は、夢も見ずにいるのに、「ああ、私が捕まえた魚を全部、韓国に持っていって私たちの祝福家庭のおばさんたちに見せてやったら良いのだが」と言いますから、「それ全部、剥製を作って持っていって見せてやるのに、その時見せてやればよいでしょう?」と私がそのように返事をしてきたのです。そのように自分が捕まえたものはそのように貴いのです。お父様が捕まえたものは貴くなく。(笑い) ああ、神山が最後の日までマグロ一匹も捕まえられなかったのです。ですから水産事業の責任者として威信が立ちますか? 韓国代表の朴**(漢字不明)も二匹、三匹捕まえて皆、そうなのですが、一匹も捕まえられませんから、どうしようもありません。それで、私が一番良い場所を選んでやるのです。このようにするならば間違いなく捕まえることができると教えてやるのです。何日間教えてやっても捕まえられなかったのですね。そうして最後の日、本当に捕まえられなかったら話しろと言ったのですが、その日二匹捕まえました。こうして昼食を食べるのも忘れてしまって喜んでいるのですね。昼食も食べずに夕方になり、夜眠らず興奮しているのです。そうしながら言うことが、「わあ、私が捕まえたこれは、全部剥製にしなければ成らない」だと。この野郎、お前が捕まえたものを剥製にしなければならないのか? それで私が夕方に戻ってきて御飯を食べる時、「おい、この野郎! それ、何の話か? お前が捕まえたものは貴く、お父様、お母様が捕まえたものは貴くなく、韓国代表たち、社長が捕まえたものは貴くないのか? 世の中にそんなことってあり得るのか? それが日本人の思考方法か、この野郎」とこのように気合を入れてやると、「わあ、済みませんでした」と言うのです。 次の日に出発する時からは、自分が捕まえた魚をどこかに隠したのか見えもしなかったですね。(笑い) それ、教育が必要なのです。順序を忘れては、天下がひっくり返るのですが、ご父母様が威信を正してやらなければならないのではありませんか。ここの頭が大きいのにだれが訓戒をしますか? だれが訓戒をしますか? 頭が大きいですから、訓戒すればこのようにしています。私だから訓戒すると大きい頭が皆、聞くのではありませんか? ですから、おじいさんが必要なのです。そうですか、そうではありませんか? (必要です) 嫌なことをだれが言いますか? おじいさんがしなければならないのですね。しなければ、捕まえて打って……それゆえに東洋思想が人をつくるのに一番直短距離の教育方法だというのです。 強大国の連合。その次には何かといえば、アメリカ、ソ連、中国、日本をどのように動かさなければならないのかという問題が金日成を生捕する方法なのです。分かりますか? 何のことか分かりますか? (はい) それで金日成に今、提案しているのです。人を送って提案しているのです。 その三番目のものは何かといえば、アメリカ訪問の斡旋。だれが? 金日成を私がアメリカに連れて行って一発けっとばすのです。そして国防長官、国務長官--大統領は除いておくのです。大統領はテレビで午餐の時、司会させるのです--そして副大統領、CIA局長の四大人物を連れて、ここにゴルバチョフの手紙をして「来るのが良い」と招請をするのです。 金日成がアメリカと日本と今、全部、つながりの紐がなくて大騒ぎしているのですが、差し出してやればどれだけ喜びますか? 私は、そのように信じているのです。この前、連絡が来たのですが、「レバレンド・ムーンしか信じません。南韓のだれだれ、アメリカも信じられません。日本も信じられません」とそう言っているのです。それで、このようなことを斡旋するためにワシントン・タイムズの編集局の責任者にこのような内容を中心として指示してきたのです。 その次に四番目は何かといえば、南北統一をしなければならないのですね。大韓民国政府もできません。それは、カイン・アベルの争いなのであって父母の心情がどこにありますか? 四番目は、民主、共産の結束と頂上方向策定指示なのです。外交問題。全部大使館追放運動が起こるのです。何のことか分かりますか? それに手を出さなければなりません。「おい、この野郎、言うことを聞かない? 荷物をまとめろ」と言って大使館を皆、追い払うのです。一挙に数十ケの大使館全部、荷物をまとめて戻って来るならば、世の中にどこに行くところがありますか? 世の中に行くところがないのです。こいつら、言うことを聞かなければ……。 その次に五番目は何かといえば、これは、秘密の話なのです。内容が何かといえば、神様主義の頭翼思想のみが今やソ連の希望であり、アメリカの希望なのです。それを金日成も知っています。盧泰愚大統領がどれだけやったって南北統一できません。北韓を消化することができる能力がありません。南韓の自由世界も統一することができません。ここに代身、教育して……レバレンド・ムーンが神様主義と頭翼思想でもって共産主義と民主主義を一つにつくる代表者ですから、この思想を中心として南北の国民を教育するならば、統一されるのですが、争うことがありますか? そうしてこそ統一が可能なのです。 そうです、それ、気持ちが良いですか? 可能性がありそうな話のようですか、カカシがラッパを鳴らすような話ですか? 言ってみなさい。これ、自然にできることではないのです。五次にわたって先生が送った使節団が渡って行きました。それは、だれも知りません。どんな人が行ったのか分からないのですね。南北統一をしなければならないその時になりましたから、今からは皆さんが密使として動員されるのです。 崔元福! 英語が上手だから密使として売り飛ばすかもしれないですね。老いた人だからといって売り飛ばせばどうですか。何に使いますか? 間もなく死ぬのに……。するのか、しないのか? (いたします) する? その次に何かといえば、これ、民主世界が何かといえば、政治圏、宗教圏、四大条件なのです。その次が何かといえば、長子権確立と還故郷です。長子権を確立しなければなりません。自分の故郷へ行って。分かりますか? それで氏族的メシヤなのです。自分の故郷に長子権がないでしょう? ありますか、ありませんか? ありませんか? ないからサタンが長子になり、サタンが思いどおりにします。サタンの基地が残されることを知りましたから私が眠ることができません。御飯を食べることができません。父、母を解放し、一族を解放しなければなりません。忙しいです。病気になっても網に包まれています。網を開けてしまわなければなりません。これがメシヤの使命なのです。分かりますか? 長子権確立と何? (還故郷) 還故郷して全部、主人の振舞いをするのです。 父、母が堕落しなかったアダム・エバの位置に上っていきますか? それ、信じますか、信じませんか? そうでなくしては、故郷が自分の父母を通じて天側の父母が生んでくれた位置を立てずしては、故郷が私の故郷になることができません。故郷を探し求めようとするならば、不可避的に父、母が天側に立って私を生んでくれた故郷になってこそ自分の故郷が天の国の復帰された故郷になり得るのです。 皆、故郷を愛するでしょう? 今からは、宗教の看板が必要でありません。統一教会が必要でありません。教会が必要でありません。一族が私たちの教会なのです。分かりますか? 昔のイスラエル民族たちの祭司長たちの中には、一族の祭司長がいたのですね? 同じなのです。そこで全部、至聖所をつくっておき、祭壇をつくっておき、燔祭を捧げたのです。今からは、統一教会の看板が必要でありません。氏族的メシヤの使命を果たすならば、皆終わるのです。それで家庭から百八十度回しておかなければなりません。 それで統一旗を掲げなさいと言ったのですね。旗を掲げていますか? (はい) それでご父母様の写真に侍りなさいと語ったのです。何のことか分かりますか? なぜそうなのか? それ、狂ったことなのですね。「あの文先生、賢い先生がそのようなことをするとは、悪口を言われるのですね」と思うのですが、狂ったようですけれどもどうしようもありません。写真をもってきて張り、旗を掲げる人は、イスラエル民族たちがカナン復帰、出エジプトにおける羊をほふって血を門口に塗ったのと同じなのです。今後、大審判時代が流れていくのです。自分の先祖たちが訪ねてきて守ることのできるこのような時代まできたので、そのようにしなさいと語ったのです。間違いなくそうだというのです。 協会長! (はい) 連合会長、金栄輝! (はい) 全部、それをしなしと言いましたか? (はい) 勝共連合、国民連合、全部、張りましたか? 全国的に張りなさいよ。写真を張ったその家は、今後、だれかが来て選挙運動できません。けっとばすのです。サタン世界が何の選挙運動もできないのです。 この前、水西事件によって韓国の風土が変わりました。今回の選挙期間にも政府であれ、だれであれ、信ずることができません。信ずることができない風土を私がつくっておいた貢献者として考えるのです。そのように思います。これによって良心的な人……広域選挙の時もお金のない人が出馬して当選し、全部、非行をして洪吉童みたいな人たち全部、絞ってしまうことが起こるのです。南北総選挙対備全国大会を通じてそのような面を私たちがコーチするのです。暗々裡にそのような結果として現れることを私が予想したのです。 長子権! その次には父母権設定のための氏族的メシヤの使命! 分かりますか? これが何かといえば、ご父母様の権限を皆さんの家庭に分けてやるというのです。分かりますか? それを厭う人は、天国に行けないのです。皆さん、未来では地上天国、関係ありません。それは、絶対的なのです。話がそうではありませんか、話が。そうではありませんか。アダム・エバが家庭から出発したのであって、氏族から出発しましたか? 家庭に入っていって勝敗を決しなければなりません。 根がそこから植えられたのですから、そこから根を抜き捨てなければならないのですね。根を抜き捨てて新しい根を植えなければならないのですね。新しい種を植えるのですが、昔のものを切り捨てたそこを掘って植えるならば、昔の根が腐って肥やしになるのです。肥やしになるのです。分かりますか? サタン世界に植えておいたすべてのものは、肥やしになるというのです。六千年育ったものが一挙に、たちまち育つことができる時になるので、世界が一挙に回っていく時がくるのです。 そのように父母権設定! 父母権設定がされていますか? 今、されていないのでしょう? 皆さんの家庭にされていないのでしょう? **! **が自分の家の自慢をよくするのだが、天側で父母権設定がされていますか? 笑うことではありません。各自責任を負わなければなりません。十字架を負う恨みがあるとしても、死ぬ恨みがあるとしても、そのことをはっきりさせずしてはあの世へ行って天国へ入れません。世の中に来て再び……。このように眺めて行っては戻ってくる道がありません。祝福家庭がどのように戻ってきますか? 祝福を受けた家庭が地上に戻ってきて救援摂理することができますか? もっと悲惨だというのです。祝福受けなければ戻ってくる道なりあるのであって、祝福受けるならば戻ってくる道がありません。自分の責任を果たせなかったのにどのように戻ってきますか? 国家が解放されて全体が恵みを受けることができる時まで待つとか、世界が解放されて全体が恵みを受ける時まで待つとかしなければなりません。思いどおりに戻ってくることができません。責任を果たしてこそ自分の祖先たちも戻ってくるのです。祝福家庭が戻ってくるようになっていますか? 返事してみなさい。完成をしては戻ってくることができるけれども、完成できなければ戻ってこられません。 その次には何かといえば、王権復帰、地上天国。王権復帰、天上地上天国還元! 王権が復帰されてこそ地上天国、天上天国がどのようになるって? 還元がされます。そうでなければ還元がされません。根本へ戻ってこずしては、主人になれません。還元できなければ主人になれません。主人になれないのにどのように神様が天上天下に王宮を……王権復帰できなければ、主人になることができません。王権復帰、天上地上天国還元! 戻っていかなければならないのです。そこから法が生ずるようになる時、地獄世界、邪悪なサタン世界の処理方法が生ずるのです。統一教会に対する法が生じます。 **、これで分かりましたか? この前、イースト・ガーデンに来て堂々としていましたが。皆、自分の部下のように考え、そうしていましたね。何の特権になっているのやら? 古くなったというのが特権ではないのです。古くなったほど謙遜でなければなりません。分かりますか? 三番目は何ですって? 王権復帰と天上地上天国還元。それをしなければなりません。家庭還元するというのではないのです。王権を天上世界に全部、還元するのが私たちの使命なのです。これが終わる前には、あの世に行って永遠な世界の幸福の要所を捕らえることができないのです。 これ、しきりに使えば、しきりに折れます。私は、このような鉛筆を初めて見ましたね。お母様がもってきてくれたのですが、きょう、お母様がしきりに恨むようですみません。 その次にまた、一。真の父母侍衛と世界国家! 今や、真の父母に侍らなければなりません。侍衛。囲いを打って侍るということです。防衛という言葉があるではありませんか? 侍衛と世界国家。真の父母侍衛、真の父母に侍らなければならないのです。ですから写真が必要なのです。ですから、旗が必要なのです。家庭でどれだけ忙しくとも……。 このころ、ソウルでお父様の写真をかけておいて話するのを見る時、「おいあれ、統一教会の信徒たちがすることをしているね」ということを思いました。お父様、何とかかんとかと言うのですが、実に素敵だというのです。写真を見て、それ、祈祷なのです。「真のご父母様、こういうことがあり得ますか? このような事情がこうなのですが、これ、サタン世界がそうしているから腹立たしいです」と言えば、「おお、そう、そうですね」とこう言うようになっているのです。分かりますか? 侍らなければなりません。 写真から侍らなければならないのではありませんか? 愛するならば、写真をお連れして動き回るのですね。それ、よく侍る人が実体を受け入れるのです。そうすると福が来るのです。先生の福がどれだけ大きいのか分かりますか? 私が福を受ける王と同じ人なのです。私によく侍るならば、福を無限に受けることができるのです。私が言葉に違反するならば、しがない存在の中の王になります。天下に今、そのようになっているのです。天、霊界に行ってみなさいって。地上でもそうです。地上でも今や明らかになったではありませんか。霊界が今や全部、合徳され得るのです。 今やご父母様に侍らなければなりません。この写真を。自分の親戚たちの家に、あんたたちがこれ、できないようになるならば、三代が動員されるのです。おじいさん、おばあさんに持っていってどの家であれ、全部写真を、婿の家、娘の家に持っていって張るならば張るのであって……そうではありませんか。だれが何と言いますか。「この野郎! 私が好きで張るのに婿の奴がどうのこうのと言うのか。孫が何のどうのこうのと言うのか。チェッ!」。お前の家が福を受けるようにするためのものであって、滅びろとそうするのではないんだ。この旦那さんが今まで七十年生涯、そのように迫害を受け、四方から撃つ弓矢に当たりましたけれども生き残りました。数百回死んでも余り得る環境で生きてきました。だれが保護して? 神様が保護して。運があり、福があるので生き残りました。この旦那さんの写真をかけるならば、その襟に保たれるようになり、その陰に避難するように居其することができる環境になるのになぜこうなのか! 福を受けるのが当然なことだ」と一言言えば終わるのです。 おじいさん、おばあさんにさせて、おばさんの家にすることができるではありませんか? おじいさん、おばあさんがいないならば、おじいさん、おばあさんとずっとして五代孫全部、行って一代の演説をします。「昨日、夢の中におじいさんが現れてこのように教えてくれました」と言いなさい。それ、嘘を言ってはいけません。そのように祈れば教えてくれるのです。おじいさんが現れて教えてくれ、「おい、このようにしなさい」と教えてくれるのです。「五代祖先のおじいさんがこのような人です。私は、お目にかかれなかったおじいさんが現れてこうこうこのようにしてこそ一家が福を受けるのであり、きょう、宴会の日、どうか文先生の写真に侍り、統一教会の旗を掲げなければならないと通告しますから、皆さん、しなければなりませんか、しなくてもよいですか。しなければ、私、死にます! 私に解放させて、手助けしてくれなければならないのであって、そうでなければ皆さんのおじいさん、おばあさんが死にます」と言いなさい。その運動をしなければなりません。 写真を張った人たちは、私たちの味方になるのです。そうですか、そうではありませんか? 何のことか分からなくても良いです。原理を理原と言っても良いです。東の方を西の方と言っても良いです。方向を知って何しますか? 愛を知ったならばそれで良いのですね。息子、娘を生むなら良いではありませんか? 嫁たちが東西南北をもっとよく知り、八卦を解いて号令するというようにならば、息子を生めなければ、滅ぼすのです。分かりますか? 真の父母侍衛と世界国家。ある国家が国家の命令を通じて、「私たち統一教会の文先生を我が国に善なる代表者としてお迎えします」と言い、「私たち国民は全部、この写真を大統領とともに掲げます。アーメン」と言えば、福を受けるのです。国が一挙に復帰されるのです。分かりますか? 国が復帰されて入ってくるのです。一族が復帰されて入ってくるのです。 「選挙の時、当選しようとするならば、文総裁が生きている限り行ってサインをもらってこなければなりません」と言うようになっているのです。「写真をもう既に何十年前からかけたのに、どのようにその写真を見る前で私が嘘を言いますか」と言えば、与党、野党、そこに統一党が生ずるのではありませんか? 自然屈服が皆されるのです。分かりますか、分かりませんか? (分かります) 朝食を食べられず、昼食時が近づいてくるからお腹が空いた様子ですね。ヒィーと言って全部、目に力がなくなっていきます。よく聞いておきなさい。いつもこのような話をしてやらないのです。訪ねてきてもしてやりません。してやることだけでも腹立たしいのに……これ皆、必要な話なのです。その次がまた何かといえば、真の愛創造理想と神権時代! ご父母様に侍り、そうするならば,真の愛創造理想時代が来るというのです。我知らず愛が慕わしくなるのです。決定されます。父母が慕わしくなるのです。祖先が慕わしくなるのです。昔の師たちが慕わしくなるのです。分かりますか? そのようなことが起こるのです。真の愛創造理想と神権時代が来るというのです。 ご父母様に侍り、きょう語りましたみ言葉どおりにするようになるならば、我知らず昔の愛の因縁に従って自分が少し学びたく、十年、一生前の赤ん坊の時から現世に生きているこの時代に展示品として横的に展示されてくるというのです。 それゆえに信ずる人が鼻歌を唱うことができるし、赤ん坊の踊りを踊ることができる時代になるのです。何のことが分かりますか? おじいさん、おばあさんが小学生たちの歌を歌うことができるのです。そうしながら循環するのですね。そのように同化することのできる……幼かった時から一生を通じてしてきた心情でもって和合をうまくすることができるし、このような経験をもってこそ……天上世界に行けば、赤ん坊の時代がないと思いますか? 自分がそこに和動することができるのかというのです。そこから真の愛の創造理想と神権時代が来るのです。騙そうとしても騙せません。子供たちが「お父さん、お母さん、なぜ嘘を言うの?」と言うのです。子供たちが父、母をコーチします。神権時代が入って来るのにそうであらざるを得ないではありませんか。今や何ですって? 真の愛の創造理想と神権時代。皆さんの家庭にご父母様に侍り、天の国に国の国賓をお連れし、忠誠を尽くして私たちの家庭が国の代表的家庭であり、私たちの氏族が国の代表的氏族になり、民族の代表になり、国家が世界の国家の代表になろうというのです。 そのような道を行く人は、天の一族に到達することができます。天の国の一族になるのです。その権限の中に属しようというのです。神権時代が来るならば、そのような人たちを保護するのです。これを滅ぼそうとするようになるならば、天が保護してくれ、防御してくれるのです。 そしてまた、次に一。サタンも人類救援再起処理! サタンも滅亡へ追い込まず、救ってやるという心をもてというのです。ですから、自分に反対しても「あの奴、罰を受けろ」と呪うなというのです。分かりますか? 神様が悪なる人に対して自然処理してきたのと同じく自分自ら独特な立場に立って、「あれ、罰を受けたら良い」と思うなというのです。神様が後におき、自然に処理するのと同じ立場でとっていくことができなければならないというのです。そうではありませんか? その人たちが悪い行動をしたのに、そのような行動をされた人が自分を怨讐視せず、同じように対するようになる時、その人たちの骨が溶け出るというのです。サタンも人類救援を、サタンも人類救援と再起処理、サタンまでも協助しなければならないというのです。協助しなければならないのです。 今まで反対しませんでしたか? 救援摂理まで反対したというのです。今からは反対したとてサタンの権限が立つことのできる時にならないということをサタンが知っています。よく知っているのです。心の姿勢をそのようにしなさいというのです。「お前もお前の一族たちが神様のみ旨の前に背反し得ることをしたけれども、そうせずにお前が案内者になって苦労してくれ」ということです。それによって再起することができる基準が立つ時だというのです。サタンも人類救援と再起処理。処理は、サタンができません。私たちがしてやらなければならないのですね。処理は、サタンができないのですね。私たちがそのような心の姿勢をもっていくことのできる環境をつくってやれというのです。 その次には、霊界、肉界正通還元時代! 霊界と肉界が今まで自分勝手に行ったり来りしました。しかし、今からは霊界と一つの道を行くというのです。正通還元時代が来るというのです。サタンがいなくなり、サタンを許してやりましたから神様が主管する時代へ入っていくということです。霊界と肉界は完全に正通、正道の道へ還元し、神様の世界へ入っていくというのです。 ですから、神様の勝利と真の父母の栄光なる世界の到来を宣布するのです。きょう、この式をここでしたのです。このようなすべての内容を皆、整えたので、神様の勝利と真の父母様の栄光の時代が到来することを宣布したのです。神様が勝利しましたから、真のご父母様の栄光の時代ではありませんか? それが分かるので宣布をしてしまうのです。宇宙の前に。すべての万有世界の前に宣布したのでそれが一つの法になり、これを中心として霊界を処理するのです。 氷が凍ろうとするならば氷点というのがあるのです。ある一点でぱっと冷たいものを中心として凍り始めるのです。溶けるのも同じです。このような提示条件を中心として解決するのです。例えば、共産党が滅びると、ジュネーブにおいて八五年でしたね、郭錠煥にさせて、「共産国のソ連帝国滅亡」宣布をしなさいと言いますと、ケプラン博士が三回も私を訪ねてきて、「ああ、先生。そうなるかもしれない、と換えましょう」と言うのをそれで三回も気合を入れました。私がその時にした話が、「この野郎、五年後にどのようになるのか知っているのか?」と。覚えていますか? (はい) 五年後のことをどのようになるのか分かるか? ケプラン博士の奴、できなければ首を打て、と言いますから仕方なしに宣布するようになったのです。それを杖に定めて垣を乗り越えるのです。五年して皆、終わりになったではありませんか? 先生は、天地の度数を解いていくのです。 きょう参席するようになったことを栄光に思い、歴史に末長く誇ることができる祖先の栄光の中に記録として残すことのできる材料になるのです、分かりますか? その宣布が終わりましたから、今からはそのことのために前進しますように。アーメン。(アーメン) アーメン。(アーメン) アーメン。(アーメン)(拍手)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.28
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(TC-044-日本語) 開会式のみ言 李基誠 苑長_1533回修錬会HJ Heaven and Earth CheonBo Training Centerチャンネル登録者数 1940人HJ天宙天寶修錬苑2022.01.22、オンライン役事での李基誠 苑長のみ言です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.26
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[21.01.23] 世界平和統一家庭連合 世界本部教会 平和ヌリ2022/01/23 09:30に公開予定です。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.23
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突然私事になりますが、実は1ヶ月ほど前に左腕に火傷を負ってしまいました。年末の慌ただしい中で病院へ行き、一時は「入院」、また場合によっては「手術」といった話もありました。個人的には、足もあって動けるのに片腕だけで寝てばかりの毎日を想像するだけでも憂鬱になりましたが深度Ⅲに近いⅡということで、何んとかそうならずに済んだようです。とはいっても、自宅で治療はしていかなければなりません。その負担がママさんに行くこととなってしまいました。朝晩2回の薬の塗り替えと包帯巻です。年末に帰省した子供(ドナちゃん)も、パンパンに膨れ上がった手を見ては「クリームパンみたい」と。でも、「キャー」と言いながらもその期間はママさんをアシストしてくれて大変助かりました。また、市販で5枚1000円(2.5枚/1回)もするパットをしばらく買ったりしていたのですが、通販で半額くらいのを探しては注文までしてくれたりと嬉しかったです。創傷パッド(モイスキンパット) 75*200mm 7520 1箱(1枚×30袋入)1か月が過ぎた今、傷の様子から見ても1・2週間で治るようなものでは決してないことは私にも分かります。しばらく休んでいた仕事にも行くようになり朝は早くから起きて治療しなければならないのですが、ママさんの献身的な看護に心から感謝しています。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.22
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「本郷人集会での御言」1991年1月21日 祈 祷 統一教会のメンバーは、世界いずこに行っても兄弟であるということを知っているか、という話です。そこには白人もいるし、黒人もいるし、黄色人もいます。だから、皆、合わせればだんだらになってしまいます。いろいろ混ぜてしまうのです。牧場に行ってみれば、牛を見ても、そこには白いだんだらの牛もいるし、黄色い牛もいるし、黒い牛もいるのです。そういうものたちが混ざって繁殖しています。そこには何の不自由もないのです。自然的にそんな融合をして、そのように生きていくのです。だから万物がそういうふうにやっているから、万物の霊長たるものはもっと、そういう方面において中心にならなければなりませんね。 今は皆、韓国語を解読するんだから、悪口も言われませんね。(笑い)先生はメッコールが好きだから。(笑い、拍手)これは記録帳だね。(笑い) ここに集まった者で三十歳以上は? 大概、皆、三十歳以上でしょう? 三十歳以上、手を挙げて、三十歳以上。オー。三十歳以下、三十歳以下。三十歳以上が多いですね。それから四十歳以上になった者。よういるよ、いるじゃないの、けっこう。四人か、いい時だ。(笑い)こういう者はみんなして戦争の第一線に追い出して、これはもうチャンバラをしなければなりません。(笑い)そういう時です。兵隊。これは国を代表して一線に立った場合には、命をかけても戦いをしなければなりません。そういうときには、苦労とか郷愁の思い、故郷を思うとか、そういう観念を持ったら精兵となれません。すべて忘れて一心驀進、一つの心で驀進するような、そういう訓練をなさないと、精兵隊として戦争に勝つことができません。そういう面から見た場合に、三十代の若い者はもっと苦労させなければなりません。(笑い)それは先生の生活哲学です。分かりましたか? (「ネー(はい)」) 今から統一教会の青年は、三十歳まではあらゆる方面に苦労しながら、それを修得しなければなりません。まずもって社会を知らなければなりません。社会といえば、上、中、下(あります)。貧民から中流から上流社会のすべてを決定しなければなりません。それについて、それを教育する内容を知らなければならないのです。そういう内容を知ってこそ、自分が国民としての自覚を得ることができます。国民として自覚をえない者は、その国に必要な者になりません。自分はこういう経験によって知った、その国の国民であるということを。そうすることによって本当の国民になれるのです。本当の国民になった場合には、自分を中心として何かを残さなければなりません。そうでしょう? 何かを残さなければならないのです。 そういう面から見た場合に、伝統というもの(が重要です)。まずもって伝統を知るには、社会全般の上中下、社会の実体社会を完全に知らなければなりません。それから、その国民をより高いところに上げるには教育、教育システム(が重要です)。小学校から中、高等学校、大学まで卒業した者たちが、いかにして活動するかと(いうことです)。いかにして効果的な……。教育された者を、伝統の基盤の上にいる上中下の国民をいかに指導していくか、いかに開発していくかと(いうことです) 問題を引き集めれば三点に集結されます。伝統、教育、実践です。これはいかなる国やいかなる団体、いかなる個人においても成功を願う者は、こういう背景の準備を徹底化しなければ、そのなしうる目的、行動して実践している目的というものは、決定的なものになりません。その国を残すには、この国民の願う以上のものを残さなければなりません。そうでなければ歴史的な材料となりません。そういうものを残すには、徹底された背後関係を組んで自分なりのそのものを残すようになることによって、その一人が歴史的な人材となるとともに、その一家、それと伴う一団体が国を指導していけるという、今こういう内容になっているのです。分かりましたか? (「ネー(はい)」) そういう観点から見た統一教会、統一教会も例外ではありません。統一教会の伝統を知らなければ(なりません)。統一教会の教育は実践教育、実践に必要なる教育です。だから小学校からずーっと大学まで行くのに、それを基盤とした、自分の習ったすべてを、いかに伝統にプラスになる実践をするかと(いうことです)。これは各人の一人においても、家庭においても、団体においても、国においても、この原則は異なりません。分かりましたか? (「ネー」) それで、統一教会の伝統を知らなければなりません。簡単なものではありません。統一教会の伝統、統一教会の伝統といえば何ですか? だれか答えてみなさい。(「苦労を感謝して…」)。伝統は何ですか? (「自己否定」)。将来、み旨が果たされた場合にも自己犠牲になりますか? (笑い)(「ために生きる」)。それは問題です。伝統というものは、ここにいる文先生の思いをかなえるその伝統は、時代性を超越、時代を超越……。時代性といえば「せい(世)」、一世紀とか、何千年を超越しなければなりません。だから、過去、現在、未来に通ずるとともに永遠の世界にも通じる、そういう背後の根本と一体化された伝統というものが絶対必要なのです。それは生涯の伝統になり、歴史の伝統になり、国の伝統にも通ずるのです。それは天宙の伝統に通ずる、そういう伝統を知らなければなりません。 それから、それに伴うその基準に行くには、個人からこの社会というものは、後進国家と先進国家、それはずーっと上、中、下のレベルがあります。それをいかにして寄せながら、関係、連帯性をつなぐかと(いうのです)。下から上まで上がって、上まで上がった場合にはどうするか、その問題です。この世のサタンの世界は、上がった場合にはどうするか? もっと上がりたい、もっと上がりたい、もっと上がって、てっぺんに通じた場合どうするか? それ考えられないのです。日本にいて例を挙げれば、日本で出世する、そして何になる。大きな会社の会長になるとか、大臣になるとか、そんな(ことです)。それ以上はどうするか? そこについて果たした実体としてその場を離れた場合はどうなるかと、そういう問題です。だから、すべては運動する巡回(「円形運動をしながら上がったり下がったりする」の意で語っておられる)。運動しなければなりません。上がった場合には下がるのは当然であるというのです。世の中はそれを願いません。今までの世界のあらゆる成功、あるいは有名人たちを見た場合に、成功した場合、それでとどまって、それで最後を通ずる、成功したその後には何をするかというと、その国においてはそれ以上、上がるところがない。そうなった場合には下に行って教育しなければなりません。自分みたいな人をたくさん輩出するように教育しなければなりません。そんなこと分からないのだから、上に上がった場合には下に下がることを願わなければなりません。世の中はそういうのはありません。一方きりの頂点まで占領しているのがサタンの社会です。だからサタンは個人占領とともに世界を占領して、今までずーっと神様まで否定してしまって、自分が永遠にこの絶頂の基準を維持しようと(してきたのです) それをやるには巡回、上がっては回る、循環運動をなされるすべての宇宙の世界、宇宙は動いているのです。関係、連関関係でも、人間関係、社会関係、金融関係、関係、関係は共に譲り合う、授受作用して運動すると(いうのです)。そういう基本的観点から見た場合には、サタンはそれは願わないのです。一方きりでもって「わしに従って行け」。それ以上のことをやるには皆、撲滅してしまう、殺してしまう、こういう作戦をしてきました。だから、そういう基準から見て独裁者、サダム・フセインなどはそういう者の代表的一人なのです。 神のみ旨に立った基準といえば、最高に上がった場合には、下の方に自動的に回ると(いうのです)。ここから上がってポケットに入れた場合には向こうは出さなければなりません。呼吸と同じです。吸い込んだら出さなければならないし、出した場合には吸い込まなければならない。授受作用することによって、授受作用を多くすることによって、自分の価値の人格基準が、もっともっと高いものになっていくのです。その基準はどこまでいくかというと、神様がいたとするならば、神様の心情を中心として、同じ呼吸をなしうる、授受作用をなしうる相対圏に立つということが、人間最上の、歴史を通して万人共通の目的であるのです。 人間は欲望を持っています。皆、欲望を持っているでしょう? 男にしては、顔はどうでもいい。女にしても顔はどうでもいいのです。ちっぽけな女、ちっぽけな男にしても、自分は日本人としての日本の天皇の上まで行きたいという思いを、皆、持っているのですね? (笑い)そうではないですか? 総理が問題ではない、総理が自分の孫になればいいと、自分の息子になればいいと、そういうふうに思いますよね、思いませんか? 思わない者は人ではありません。(爆笑)そうです。万物の霊長たる者がそういうことを思わないということは、それは資格がありません。(笑い)皆、思うでしょう? (「ネー」)。では思わない者、手を挙げて。(爆笑) そういうふうに皆、思っているのに、それはそこまで行くには、高い山を思うとき、高い谷がそこにせせらぐというものです。分かりましたか? 高い山がいいのですが、そこには深い、何がありますか? (「谷」)があります。深い谷の底には、いろいろな悪いものが皆、腐っています。そういう肥料が必要です。だから高い山の景色の上、高い山の谷には、いろいろな腐るものがあるから、そこにはたくさんの虫が住みます。たくさん虫がつくから、鳥などが皆、集まるのです。分かりましたか? 名勝地になぜ鳥が集まるかというと、獲物が腐った肥料の中に育っているから、それを食うために、それを食べ物とする鳥類が集まって、もっと名勝地を花咲かすのです。そうではないですか? (「はい」)。そのおいしいご飯がどこに行ってとどまりますか? (笑い)そうです、それを考えなければなりません。宇宙はそうなっているのです。そうでしょう? ご飯が欲しいと言えば、ご飯は結局、何になるかというと肥料と血を通ずるのです。すべての栄養を取らした後の糞は(笑い)、その残りは糞になってくる、糞は糞になってしまうのです。(笑い)そうですよ。分かりましたか? (「はい」) 人間が立つと影がつなぐとね(「影ができます」)。影なき存在はありません。それ自体、影は立ったものによって反対の方向に(できます)。長いものと象徴するのです。だから、いつも立ったものは平均を、水平を考えなければならないと(いうのです)。高いものは深いところを、右のものは左のものを、上のものは下のものを、前のものは後ろのものを、これは付きものです。「わしは影なんか要りません」と言ったら、日中、日が出た日に歩くこともできなければ、仕事をすることもできないし、存在の権限を表す何の場所も得ることができません。分かりましたか? (「はい」)。表裏が一体となって、表がよかった場合には裏は暗くなります。こうやれば暗くなるのです。地球もそうでしょう? 日中、昼夜が相反するような立場に立っているのですが、それは回ることによって平均と共通、平和という問題ね(平和が生まれます)。東西が一つになるということを考えた場合には、夜が一つ、昼が一つ、昼夜が一つになるという話はありません。それをどういうふうに連結させるかというと、表裏一体ということであり、それは実体と影みたいなものです。だから高いものと低いもの、そういうふうに低いものと狭いもの、長いもの、そういうふうなつながるものであると(いうのです)。だからりっぱな人であればこそ、外の価値、外に行って犠牲になるという思いを持った場合に、それは宇宙すべてが歴史を通して願う存在となるのです。自然の現象に、自然の法則に、こうして生涯をすましていくものは、自然自体が歓迎する人格になるのです。分かりましたか? (「ネー」) その反面には、君たち考えてみなさい。人間の一番重要な所はどこですか? 何! (笑い)どうですか? 一番重要なところがどこですか? 目玉はどうですか? (笑い)生殖器は使わなくてもめくらになるのがいいですか? 生殖器、何だ、使えないものになるかとそういった場合には、どこを願うかな。(笑い)これは笑うことではありません。これは自分を中心として考える一番大事な問題です。自分も解決しておいて、それから整理してなしえて重大性を持ったところにおいて国と関係を持って、それを整理して、世界の中心となった場合に、天宙と、天宙なった場合に神様と。神様はただ自分の個性自体を整理しないところに神様の、宇宙の中心と関係を持つことはできません。そうでしょう? だから、自分自身で女として男として、一番重要なものは何ですか? それも考えなかったのですか? 皆、祝福されるに足りない者たちですね。(笑い)落第生が皆、集まってるや。それは何ですか? 口が一番重要な所なのですか? あなたたち、男と女で特定の、一つ変わったところを持っている、そこが一番重要なの? 口がなかったら大変でしょう? 死んでしまうではないですか? (笑い)そういう問題は教科書にはないのです。(笑われる)(笑い)いかなる世界の教科書、有名な大学の教科書にも、そういうものはないのです。それは重要なものです。なぜ? 口がなかったらすぐ死んでしまう。目がなかったらめくらになる。両足がなかった場合にはどうしますか? 両足を必要とするか、生殖器を必要とするか。(笑い)みーんな、もう頭も熱心に使わないで、生殖器ばかりむくっとしているのです。(爆笑)そういう結果になるじゃないの。生殖、生殖器。それはなぜでしょうか? 原理の説明をそこまでずーっとすることができるのです。なぜ女と男は生まれてきたのか? 根本問題。なぜか? なぜだ? これを話したら、もう原理講義をしないといけないから(笑い)、きょうは時間がありません。 君たち、初めて一年ぶりに会ったのに。君たちも言いたいこともたくさんあるでしょう。(笑い)先生も聞きたいことがたくさんあります。そういう時間、千人近い者たちが集まったのだから、もう一人ずつ言い出しても十分ずつでも、いくらですか? 十分で一千万、万分です。万分だったら何日ですか? 大変なことになります。だから皆、同じものとして、同じ過程を通過するものとして、同様と認めて先生が話しているのです。 それが愛の中心なのですか? 根本問題です、根本問題。何? (「神様が宿る…」)。何? 神様が宿る? 神様がそれを握って一生涯するのですか? (笑い)君たち、大学へ行ったり、あるいは修士の行程(課程)を通過して各種の学位をもらい、そういう基準を通過した場合は学位をもらうというのは表彰、それを証明する証書をもらうのです。その内容は簡単です。「この者はこの大学で規定された学課程を完全に修了したからこの証書を授与する」と。簡単です。それは簡単ですが、内容は複雑です。何十年の生活を費やして、自分の精神ともに投入した結晶体としての結論です。そうでしょう? 社会に出た場合には、その人はどうでもいいのですが、その証書が皆、働きかけるのです。あの人は証書を持っていると言えば、「そうか」と(なります)。それは一時使うものであり、一時必要なものであり、資格を得るのに必要なものであって、永遠にそのものが中心にはなりません。 それで生殖器も同じです。生殖器は重要なものです。卒業証書と(同じです)。完成した人間になるには、原理からいえば責任分担という(ものが重要です)。原理主管圏と直接主管圏を結合させるには、個性完成をしなければなりません。個性完成とは何でしょうか? 真の愛の一体圏を意味します。そうでしょう? 真の愛。真の愛というものは神様が提唱する愛です。その神様の相対たるアダム、エバが、それに平等の相対価値を得て、価値の相対圏の愛の実体として、共に一つになって統一をなしうるのです。すべてを統一するという思い、すべてをです。人間、女、男ももちろん統一です。それから人間同士を、男女を一体化させるとともに、神様と一体となしうる完成基準をなしうる器官としてあるから、その生殖器が最も重要であるのです。分かりましたか? (「はい」) 生殖器は天情、天の情、天情があり、人情があるのです。天情、人情を一つにまとめて完成圏に決着させるそのものが愛だから、愛は男女の生殖器なくしては成立されませんから、その生殖は最も重要だという結論を出さなければなりません。原理的な解説です。分かりましたか? 分かりましたか? (「はい」)。だから最も大切なものであり、最も貴重に思わなければならないものなのです。最も貴重にする(思う)ものは、公に見る、看板として掲げるものだから、持ち出すものではありません。秘密の所に、自分だけ知る所に隠しておくのが、最も貴重なものを取り扱う方法です。それは歴史を通じて同じです。人たるものがつかさどるときには、同じ行程を行かざるをえません。では、その公式は一つしかないのです。二つはありません。分かりましたか? (「はい」)。そういう面で、宇宙完成をなす中心的な部署が生殖器だから、生殖器が一番であるということを解説して、答えは満点になるのです。それについて意見がありますか? (「ないです」)。分かりましたか? (「はい」) だから原理は偉大ですね。それで、男の完成、女の完成はそれが一つになることによって、生まれて初めて歴史を代表して、歴史の相続、完成相続圏を受ける、つなぐ一つの決着点となりうるのです。それ以外に道がないから、男女生涯において最も重要なその部分だから、生殖器が最も重要であるのです。どうですか、先生の答えがまあ、十点くらいになりますか? 神様からいえば、「いやー、そうだ、そうだ」とおっしゃるでしょう。(笑い)サタンからいえば「そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない」。神様は「そうだ、そうだ」と二回やるのに、サタンは二百回もやるのです。大きな音を出すのは正しい者ではありません。不正の者は大きな声を出すのです。分かりましたか? それは堕落世界、善悪の世界が混合しているこの堕落世界の歴史の実情としてつないでいるのです。だから女は口が早いですね。(笑い)騒ぎが多いです。それは善に通じるものではありません。悪に通じます。男より口が重い場合には、その女は無言でもって男をコントロールします。(ウーン)(笑い)だから沈黙というのは偉大なことです。神様は今まで、創世以降、堕落した以降において、無口で沈黙を続けておられる偉大な主人公です。善悪の内容も弁明しないでいるのだから、自分自身を現さないで、隠れ、隠れした、隠蔽された背後でもって、自分の意志を堂々と、歴史を通して維持しておられるのが神様です。サタンは騒ぐのです。 韓国において、今、自治選挙を、選挙で騒ぐのですね。「あー、自分に選挙(投票)をしてくれ。あの者は悪いし、自分はいい」と。こういう宣伝の仕方は、サタン世界の宣伝です。そういうのを、いかに先生が将来、整理するかということです。ちゃんと天の選挙法を皆、知らなければなりません、国を治めるには。そういう時にまだなっていないから、それは言わなくていいでしょう。あまり多く分かれば、荷物が多くなって、足が細くて倒れてしまいます。そういうふうに、女はいつも注意しなければなりません。こそこそしゃべりだしたら、こそこそ聞き出し、こそこそしゃべり始めたのは女か男か、どっちですか? (「女です」) 「女」というものを日本語でいえば、「おん」は何ですか? 「おん」といえば悪いことですか、いいことですか? 「おん」といえば怨讐にもなるし、(笑い)恩恵にもなります。(笑い)両方ついています。韓国語で「おんな」といえば、「な」は「わたしだ」という話です。(笑い)(笑われる)日本で「な」というと、熟語を作ってみなさい。(「なまえ」)なまけもの。(笑い)それから? 泣き虫。悪いことに通じます。それから? (「なっとう」)何? (「なっとう」)納豆? 豆の? あー、それは腐ったにおいがするではないですか。(笑い)皆、悪いものに通じます。「女」といえば、日本語で悪いほうの名前(言葉)が多いということですね。(笑い)(笑われる)日本語として「女」というものは、悪い女を代表した世界的な結論の言葉ではないでしょうか? (笑い)だからエバ国になったのではないですか? それは、罪が多いところには恵みが多いという話です。それは神様が女を訪ねてこられるのだから、一番偉い女たちより、一番悪い女たちをいかに偉い女につくるかというのは蕩減復帰です。(笑い)そうではないですか? 一番悪い女を一番偉い者にした場合には、女の上中下は自動的に偉い女になります。そうすれば、女の中で一番、世界歴史を通して苦労したのは日本の女ですね。そうでしょう? 世界代表的です。そうでしょう? 女はもう、姓名がないではないですか。そうでしょう? 何の認めもしないような影の(ような存在です)。影はいくら踏んでも跡がありません。答えもなければ跡もありません。そういうふうにして、歴史を、犠牲、犠牲、犠牲にして、蹂躙されてきたのは、そう見ればサタン世界の橋、四方八方に橋をつなげる、そういう利用物にされたのが日本の女です。そうですね? 先生も運が悪いから、日本をエバ国につくったから、先生が苦労しますよ。そうですね? 苦労。君たちもそうでしょう? 韓国はアダム国家、日本は? (「エバ国家」)。エバ国家。歴史の発展の中心は、今何が一番重要だと言いましたか? 生殖器でしょう? 大陸につながった半島は、男の生殖器と同じです。だからこういうような男の生殖器をかたどった所は世界文化の発生地であり、決着地であるのです。だからローマ半島、イタリア半島、地中海は完全に女の子宮、女の陰部とそっくりです。そうでしょう? 地中海文明というのは、この地上の歴史において初めて、文化摂理基準において文化起源の内容をまとめた所です。ローマ文明というのは、今もローマの法律など、その偉大さというのは歴史に非常に影響を及ぼしています。なぜそのイタリア半島かというと、それは男の生殖器と同じであるのです。地中海、完全に女の陰部です。それは一つになっているのです。だから大陸、アジア大陸、アフリカ大陸、それからヨーロッパ大陸をつなげる、その中心部になっているという、こういう観点から見た場合に、これはアジアを中心として、韓半島を中心として、日本は必ずそういう女と同じように男を、陰部みたいになっているのです。これは太平洋文明圏を中心としたそこに、もっと大陸、それはアメリカを中心としての大陸、中国大陸、ソビエト大陸、世界、すべてが、六大州すべてがつながるような基準に、中心点をなしている、太平洋に近いのです。 こういうふうに見た場合、今、太平洋文明というものは何を中心としてなすかというと、皆、思うのは中国と日本でしょう? そうではありません。韓半島です。そうならざるをえません。それは韓半島を地政学から見た場合に、ヘレニズムとヘブライズムの交差点として民主主義、共産主義。唯物主義と有神主義が世界的対決をして、ここに結実体として、悪の真の父母と命名(されたのが)金日成であり、善の真の父母と命名(されたのが)先生です。こうやって対峙して、今消化し合うのです。それは歴史最後の終着点であるということです。分かりましたか? (「はい」)。これを一体化させるのです。中心体は大陸の男性の生殖器として、太平洋のすべてを包容しうるのです。日本は西洋文明の総集結地です。それらが一体化することによって、世界は自動的に、地政学から見ても、天から見ても、一つにならざるをえないような中心的な部署です。それが今、考えてみなさい。 君たち、日本人でしょう? 日本人なの、韓国人なの? あなたたち、日本人ではないですか? 日本人は韓国から皆逃げて行って、皆、浦島太郎みたいに(笑い)島流しされた者たちです。だからチャンバラをしなければ、力がなければ生き残れないのです。そうです。大陸から皆、島流しされてきたのです。そういう者だから、力を持たなければならない、チャンバラをしなければ生き残れないのです。それで日本は、日本という一つの国を整理するのです。藩主というものが、戦国時代が生まれてくるでしょう? 山を一つ境目として、部落ともにこうやって、チャンバラをやって、これをずーっと国家的までもなして、今もその伝統的(今もその伝統は生きています)。その下の者は大名に絶対服従して、いつでも女も男も命を懸けるのです。一言の命令でもって生涯すべてを犠牲にしても、それはなすのが当然だという思いを持っているのが日本の武士道精神です。そうでしょう? だから上の者の命令には絶対に一つになれるように一番訓練された歴史性を持つのが日本民族です。だから世界に観光に行っても、観光団体が小さい旗を上げて、さっと……。(笑い)(笑われる)それがなかったら死ぬのです。 そういう歴史過程を通過した日本民族というのは、もう訓練された者です。これは何のためにこういうふうに訓練されてきたのかというのです。それから天照大神の孫です。天照大神は女の神なの、男の神なの? (「女の神」)。女ではないですか、女の神です。だから女の性格です。お嫁に行った場合には旦那さんに絶対服従していくのです。だから姓名もないのです。韓国はどうですか? 女も姓名があるのです。堂々たるものです。世界的に見て、これは韓国にしかありません。女も男も、夫も奥さんも、堂々たる姓名を持っています。主体性を持っているのです。韓国の女はそうです。日本人の男と韓国の女と(けんかした場合は?)、日本人の男が負けます。(笑い)あー、平均的に八〇パーセントがそうです。考えてみなさい。強い! 強いということを嫌がった場合には、だめです。強くなければ、木によじ登るにも、すべてが強くなれば大変です。くにゃ、くにゃ、日本の女みたいでどうするのですか? 上がれないのです。 強い民族を先生は願うのだから、日本の男と韓国の女、日本の女と韓国の男を組んでやって、何代かいけば種を変えてしまうのです。なぜ? 種は女によるのではなくて男によるからです。共に補助し合うのです。君たちの相対者そのものが、「あー、韓国の奥さんをもらうんじゃなかったね」と、八〇パーセントの人はそう思います。そうでなければうそです。そうでない者、手を挙げてみなさい。(笑い)いくらもいないではないですか。そうでないの? あんた、腕白して脅迫したでしょう? それは日本の与太者みたいな者です。久保木(修己)会長のよく歌う「やくざ」(の歌がありますが)、やくざはそういう性格を持っています。そうでなければ、日本の女みたいな女かもしれませんね。それもあるのです。強い者も弱い者もいたのでしょう? しかし大半は(強いです)。日本の男性に負ける女がいたら、先生はだめだと考えます。(笑い) 日本は世界に行っても自律性(自立性)がありません。例を一つ挙げましょう。アメリカのワシントンにワシントン・タイムズがあります。そこの副社長が社長になりました。今からは世界的変革時代に入っています。それで「世界日報」も皆、切り替えをしました。韓国も組織体、全体犠牲でもって切り替えをしました。アメリカもそう、日本もそうでしょう? 四千パーツをつくって、それを三×四=十二、一万二千パーツまで拡大して、それを皆、教会、教会基地をつくらなければなりません。それから、そういうふうにして収穫された完全な種を収穫された場合には、まくのが当然です。まくところには肥料を積み込みます。汚い所。分かりましたか? 汚い所に排出するのが肥料になるのだから、肥料がきれいで、香水みたいなにおいのものがありますか? 研究してみなさい。あるか、ないか? 絶対ありません。香水というものはずーっと吹き飛んでしまうものですが、肥料はずーっと下がっていくのです。だから肥料になるのです。(笑い)(笑われる)必要な料理を肥料というのです。この「ひ」でなくて、肥料。分かりましたか? 両面の意味があるように、そう聞きながら考えてみなさい。悪いにおいがするけれども、命を育てるには肥料がなければなりません。人間も同じであるのです。肥料が必要です。肥料を食べさせなければならないのです。だからそれが何かというと、苦労の道なのです。においのするところにそれをやって、構えて十数年、数十年たった場合には堂々たる草木として、一番重要な木材になります。そうではないですか? 棟梁、棟梁と言うのです。韓国に来てよかったの、悪かったの? (「良かったです」)(笑い) こうだ、こうだ、これ、右の目を開いたのはいいのですが、こうでしょう? 韓国に来たら、今でも「日本によこしてもらえばいいなー」というのが(思っている人が)三分の一はいるでしょう? (笑い)言わなくても、先生はちゃんと知っているのです。見ればサーッと(分かるのです)。ここにいなくて、日本に帰って行く場合、そうでしょう? 習慣も伝統的文化、背景、何、かかわるところがないのです(何も変わるところがないのです) 向こうの後ろ、聞こえる? 聞こえる? 聞こえる、聞こえない? 聞こえない? (「小さいです」)。小さくここで言うんですよ。(笑い)あまり騒いだ場合には、悪い者が騒ぐと言ったではないですか。(笑い)小さくて、聞こえるだろう? (「聞こえません」)。あなた、つんぼかもしれませんよ。これをずーっと、ずーっと、マイクを装着するように準備するように命令してつくったのに。聞こえる、聞こえない? (「聞こえません」)。死んでしまえ。(爆笑)なぜ遅くなって、遅く聞く、それも蕩減です。それはそうですよ。世の中は公平になっています。遅く来た者は、そういう背景も悪いものです。それは皆より、よったくずなるものは、皆、後に来る者をよこすのは、世の中の分別の常識になっているのです。(笑い)今、半分に切って、切り替え(入れ替え)をしましょうか。(「エーッ」)。一時間ごとに。あー、あー、あー、前は「エーッ」と言うのに、向こう(後ろ)は拍手しています。ではどっちの意見を尊重すべきですか? (笑い)前の意見を尊重するのが通例の法則です。(拍手)(笑い) だから、これを見た場合には、革命的な原理です、革命的な。歴史にいう日本人の若者を(変えたのですから)ね。君たちは皆、日本にいても、頭の悪い者ではありません。皆、考えが、普通の者以上のものを(持っています)。(笑い)そうです、そうでなければ、ここまで来られません。(笑い)思いもよくしますね。呼吸している日本人なんか、こう働きながら、下ばっかり見ないで? 野郎たちは、こういうふうに呼吸して歩いて来たんだから、ここまで来たのです。レベルとしては違うのです。先生はそう認めます。顔を見ても、日本の等級なんか、先生は日本をよく知っています。大阪でも町を歩いている人をずっと見れば、平均的に統一教会のメンバーみたいな顔はありません。(笑い)本当、本当です。先生は今まで、生涯かけてたくさんの指導者たちを指導してきたので、すぐ分かります。町にいれば、「あー、この国は将来こうだ」と。平均的に統一教会のメンバーは皆、美人が集まっています。美男子が集まっています。(笑い、拍手) 女の雰囲気としても、天の運勢が日本の全土をずーっとカバーしてきたとするならば、日本として誇るものは皆、取ってきて、どろぼうして取ってくるのもあるのですが、どろぼうではないですか? 日本人の誇るものは一つもありません。カメラにしても、ドイツのライカとかを皆、どろぼうしてきたし、機械にしても皆、どろぼうしてきたものです。皆、小さいもの、女。こそこそこそこそして、こういうふうにおとり出しています。皆、どろぼうの遺族みたいになってくるのです。誇ること一つないのです。特に世界に輸出しているものは何もありません。何がありますか? 女しかありません、女。(笑い)女しかありません。世界的に日本は女、中国は料理。(笑い)そう言っています。日本は女、中国は料理、韓国は何ですか? (笑い)キムチではありません。(笑い)韓国は大将、大将。皆、韓国人はひとりぼっちのひとり狼で、やくざするひとり狼です。よく包丁で刺します。(笑い)ひとり狼でなければ、ああいうこともできません。団体を組んでいる、そういうやくざはひとりの狼の性格、韓国はそういう性格を持っています。君たち、それは分かるでしょう? その反面に、いいことは情熱的です。情においては広いのです。世界いずれもすぐ友達をつくれるのです。それは面白い習性を持っています。日本人が一年に友達を三人くらいつくるとすれば、韓国人は一年に百人もつくることができます。その外向的手腕というものは……。 本心、本根に通じるのです。日本人はそうではありません。お嫁に行きたいという女が、あの男を見たら七十点、この男八十点、あれ四十点、外的にはこれがいいけれど、内的にはこれがいいから、どこに行こうか。二つを見てあれこれ比較するような性格を持っています。共通の心情圏を。それは貧しいとかかわいそうな者があった場合には、皆、韓国人の特性は、自分のお米を食べさせていくのです。そういうことに気がつくでしょう? 君たち。日本と違うのです。そうでしょう? 社会的な慕わしい流れが、伝統的に下の方にずーっと敷かれているのです。だからいざという場合には、自分の主張するものには天下何者であっても折れないのです。主張しだしたら折れません。 だから韓国人は、韓国人として外国に行って、大使館を訪問する者は一人もありません。ワシントン・タイムズの社長に任命した韓大使は、以前パナマの大使をやっていました。そのとき、同じ東洋人同士ということで日本の大使と、いつもゴルフをしながら仲のいい友達になっていました。その日本の大使が言うには、「自分は韓国人を頼もしく思う」。韓大使は「そんなばかなことを。日本人がそうじゃありませんか?」と言うと、「いやー、日本人はだめだ」。なぜだめかというと、日本人たるものは世界に出た場合には皆、大使館に来て、「お願いします。お願いします」と言う。それは女です。「お願いします。お願いします」と言うのは女ではないですか? 大使館に行って一から十、百まで、偉い者、支店長でも皆、「お願いします」と願うのに、韓国人は移民として行った者で、乞食でも大使館に来て「助けてください」とは一言も言わないというのです。 日本人がそうなれば、世界を指導することがてきるようになります。そういうようなことをやるのなら、指導者がなければだめです。女の風習を持っているのです。盗賊みたいに、「君、わしの話聞け」と言った場合には大変です。それは一家が滅亡の……。原理を超えて自然的になくなってしまうというのです。日本人はアメリカにたくさん開拓に行きましたが、皆、帰ってきました。韓国人は帰ってきません。それはアメリカを中心として、南米のいずこにも、北極の極端の食堂のおやじも韓国人です。(笑い)どこにも行かない所がない、行かない所がないのです。ソ連も遠い町、遠くの衛星国家でもどこでも、韓国人は世界の困難な所に来て王者になろうとするのです。両方つかまってこうやろうとするのです。そういう腹具合があります。 それでアメリカなんかに行っても、ロサンゼルスでも韓国の街ができています。ワシントンにもニューヨークにも、大きな都市に(できています)。ユダヤ人が四百年以上の歴史を通して、アメリカの保護を受けながらつくった基盤のすべてを、十年間に皆、(韓国人に)取られてしまって、韓国人反対運動(が起こっています)。黒人もそうして反対運動をやっています。それは傑作なことです。黒人街、スラムで韓国人が貪欲に商売をやっています。危険な所は皆、韓国人がいます。そういう性格から見て、韓国はアダムという名前にふさわしいというのです。君たち、そうだと認めますか? (「はい」)会社なんかに行っても、十年、九年もいる者はいません。三年くらいやってみて、「大したことないや」。顔からしても体からしても自分よりもよくないし、いろいろ比べ合って、「彼が四十点なら、わしは八十点だ」と思えるのです。だからすぐ出て、彼のやっていることをすべて乗っ取るようなことをやってしまうのです。そういう性格があります。 今、ソビエトなんか、中共なんか、日本より、真っ先に入ったら、日本の政界、財界がもう、北方領土、問題が問題じゃありません。それはポケットに入れた小石みたいな、ざら石みたいなものです。それでもって外交問題と(言えるのですか?)。何じゃ、それは。だめです。結局は韓国人に負けます。いろんな新聞なんかももう政府に売ってるではないですか? これは何ですか? 外交性ゼロ!! それはそうならざるを(えません)。それは天運からしてそうです。摂理の運勢から、そうなっているのです。韓国人は行かない所がありません。中共にしても、皆、そうでしょう? 北京のホテルの三分の二は韓国人です。ソビエトのホテルも皆、そうです。それは素晴らしいことですか? そういうプライドを占領しようという、男らしい性格なのです。その代表的な者がここに座っている先生という者です。(拍手) こういう、千人の考えが千人の方向を持っているような者たちを、いかにして、国を超えて歴史を通して……。日本なんかそうでしょう? 韓国人たちは皆、違法だと、日本で一番悪いことをするのは韓国人だと言っています。悪いことをせざるをえないような立場に追い込んでいるのです。今の三世などに対して法的(な立場を)認めないという問題は、ばかなことです。だから悪いことをやるのです。韓国僑胞が百万近く、百五十万以上いるのです。本当は徴用されて、北海道、オホーツク北部など、東亜戦争で皆、男は死んだでしょう? 女は皆、一人で……養子として入って、それを相続して、皆、韓国人の帽子を脱いで、日本の帽子を被っているような人がたくさんいます。それからパチンコなど、遊楽町のおやじは皆、韓国人です。そうでしょう? 知っていますか? 遊楽町というのは、有楽町ではありません。遊びとか歓楽街のような所のおやじは皆、韓国人です。やくざの八〇パーセントが韓国人、おやじ、親玉です。知っていますか? (「はい」) それを、先生が命をかけた場合には、「日本の首相を拉致して来い」というように。(笑い)なぜ笑うよ。問題ありません。(笑い)将来見てみなさい。今アメリカにおいてマフィアがあるのですが、マフィアは中国のマフィアと闘っています。それをコントロールするのは韓国人です。日本のやくざと中国のやくざをつなぐのは韓国人です。釜山がいよいよ根拠地になりつつあるというのです。そういうことを知らないでしょう? そういう暗い世界の王者たちをコントロールしない者は、天下を治められません。それで韓国の力の世界の十万人をコントロールするのは先生なのです。そんなことを言って、「人を殺せ」と命令したことはありませんよ。(笑い)だから前に言ったように、君たちが頭がいいということは、そういう者は皆、町長になろうという思い持っている者は、半分はそういう悪辣な性格を持たなければ、その目的を果たすことはできないというのです。それは世の中の闘いの現場において常識の話です。 それで統一教会に入る者は並々ならぬ者が入るべきです。だから君たちも日本人として中、上の者が入ったと考えます。だから韓国に来て、こう座る。男には男の前に、そうやって宣誓しながらね。「せんせい」というのは「先生」ではありません。宣言の宣誓、誓いの宣誓をしながら、宇宙の転覆の目標を果たそうというサタンの全滅を果たせと(いうのです)。歴史というのは革命的です。革命歴史において最も頂上の革命的な現場であるということです。ここに参席したら、それはもう恐ろしい思いでもって身の締まるような境地ではなくして、簡単、歓迎してみて身が飛ぶような喜びの場が、この現場であるということを考えるのですか? (「はい」)本当ですか? (「はい」)本当? (「はい」)。今、朝ですか、夕方ですか? (「朝です」)。だから気持ちがいいからそんなことを言うのかもしれないですね? (笑い)今、夕方なのにそんなこと言うという思いを持って聞かざるをえませんよ。分かりましたか? (「はい」) 先生は会っていいことを言うから、気持ち良く言うのですが、悪いことばかり言ってバットで振りかけた場合には、そんなことは言わないでしょう? 革命的です。革命というのは、それ以上のものは何と言いますか? 爆命であると(いいます)。爆発の命。転覆の「ぷく命」とか、そういう名前に変えなければ合わないような、革命の場であるということです。それに加わった、その名前を持つその誇りはいかばかりか? 天宙的です。天宙という名前を知っているでしょう? 電信柱の「電柱」ではありません。(笑い) そういうふうに見た場合、君たち、こういう大きな部屋で密閉して座っているのですから、同じ方向を持ち続けようという……、内面に苦労があります。常識といった習慣性、文化背景の異なったいろいろな伝統的風俗を受け継いだ者でも、それが問題なく、それを乗り超えて、消化して乗り超えるという時代が来ました。それが男たる、女たる者が愛の世界を中心としては乗り切るところがありません。君たちもそうでしょう? 自分の愛の相対者は、自分より偉い者を願うのです、そうでしょう? (「はい」)。その偉い者を願うのに、偉い者は国を代表した男、女を願ったというのです。それが国にないから、国を超えて世界にもっと素晴らしい者を求めてきたというのです。 そういう面から見た場合、日本の国を超えてきたこの者は、日本の愛の相対圏を超えて韓国まで来て、愛の相対者を得たというその勝利感、これは偉大な、偉大なことです。昔、祝福を受ける前に恋愛した者もいるでしょう。片思いをして、消すことのできない背後もあるでしょう。それを問題にされず、きれいに消し取ってしまって、漂白してしまって、何気なしに一心不乱、一心不乱の思いで国を超えて、玄界灘を超えてきたというのですね。日本海を超えて来たのです。どういうふうに超えたかというと、飛んで超えて来た? 泳いで超えて来た? (笑い)それを見た場合に、泳いで来たという思い、これもって日本人のあれよりは新しい氏族を自分の一身に及ぼして、それを産みつけて、世界に花を咲かすために、一つの革命的な氏族になりたいからここに来たと、そう思いますよ。(「はい」)。そう思わない者は信じることができません。信じることができない者が行動するか? 行動しない者は、実践しない者は結果を目指すことはできません。まずもって思え。実践場というものは生易しいものではありません。大きければ大きい反面、苦労が反比例的に伴うものです。勉強にしても同じこと、出世にしても同じことです。歴史性の成功の道を行くにおいて、皆、平等なものです。国を超えて、歴史を超えて、同じ公式をたどっていく、つないでいくのです。だから大きな成功を願う者は、大きな苦労を克服するばかりでなく、消化していかなければならないのです。克服するのは関係なく素通りするのですが、消化、克服消化する者は、その苦労の場を肥料として、自分の成長の栄養として吸収する者です。 だから日本から韓国に来ていろいろ逆らう反対の環境を見た場合に、これこそ自分の人格内面を一段階高い面において改革する材料が出てきたと思えばいいのです。姑にしても大変です。旦那さんの家に行けば、おじいさん、お母さん、皆、いるでしょう? 姑、姑ばあさん、大変です。日本の女が韓国に何年か、いいか悪いかやり合っているということです。「あの表情はどうだ。伝統的面から見た場合に、日本の孝子はこうだろうと思うのに、(あの嫁は、あの婿は)ああだ。日本人は悪い」と結論した舅さんたちに、「そうではない」と涙を誘い……。それは生活の感覚ではありません。皆が集中したら、その集中の場を消化の根底として、種として、消化していくのです。大変でしょう? まあ、二年、三年くらい過ぎた場合には、「あー、日本に帰りたい」。(笑い) 一本きりはだめだから、二本で歩かなければならない。そう思ったらだめ! 足でこういうふうにやって、大陸占領のために来たということです。日本人だから一本なの、二本なの? この場合は二本です。(笑い)分かりましたか? (「はい」)。日本は韓国人にそれを授けて、それを接ぎ木して、私が相続するために来たということを考えた場合には、母の心情、親の心情を持たなければなりません。だから、そういう面から見て、ここに来ている日本人の祝福された者は、神様の心情圏に通ずる一番近い所ではないかと思います。分かりましたか? (「はい」) 歴史を通して今まで神様は生きています。「神様は死んでしまった、もういない」というようにして旗揚げして、デモをやるような環境を見詰める神様の辛さ。もともとは完成をやって栄光の神様、万年の親たる勝利圏に立つべくして、万秋の王として、主として、指導すべき伝統的センターだというべきなのにもかかわらず、悪辣な悪魔によって反対の犠牲をかけ、「神は死んでしまった、いない」と否認するのです。それを見詰める神様の悲惨さ。日本人のあなたたち、環境から否認される。この者たち、皆、そうでしょう? その悲惨さ。そういう環境に接することによって、今まで歴史を通して神様の心情圏に一番近い所に立つべき心情の娘に、男になるのではないでしょうか? そういう面で見れば、それはもっと幸福な者になるでしょう。日本に住んでいる人たちはそんなことはないのです。 うち(私たち)は断食を一週間もしたんだから、水一杯でお茶も三杯グラスで飲んでも、三日間に一食で十分です。着物はどうでもいいのです。ナイロンの足袋なら一か月以上はけます。(笑い)パンツにしても肌着にしても一年以上着られます。だから日本の女の人は七年間もそういうパンツ、肌着を着て、風呂に入りながらそれを繕い続けてきたという話を聞いて、先生は涙をポロポロ流したことがあります。「文先生というのは罪の王者である。素直な名門家のお嬢さんたちを連れ出して、道端に投げ出して、こういう苦労の道を、涙を酌み合うようなことをして何になるや」と。平面的な基準から見た場合には罪をなす王者です。しかし先生はその金を一銭も使いません。世界、アメリカなどにもたくさん日本からお金が送られてきますが、一銭も使っていません。CIAやFBIの調査によって「文先生は正しい人だ。勝利の人である。聖人であり、貴人である」という報告が来ています。調査、調査、調査、その挙げ句に結論は何かというと、「正義の指導者だ」ということです。彼らの背後に先生を尊敬する者たちがいます。 迫害の道をたどってきたのですが、十年後になってみれば、その果ては十倍、百倍、千倍の大きさで山と積まれている、そういう結果が見渡せるということを思った場合に、そういう神様は自分を遣わして金儲けしたとか、たくさんの結果を得るためにやっていると思った場合に、何年後に感謝するようになってきているのです。その時代は悲惨です。そういうふうな立場において君たちを苦労させているのです。先生の苦労と君たちの苦労を比較してみた場合に、君たちは先生の命令、一方的なことで、それは済ますのです。それをなせば済ます先生は蕩減復帰の問題です。ユダヤ教の失敗、キリスト教の歴史の失敗、それに統一教会四十年間の失敗、すべてを先生の一身において再蕩減しなければならないのです。君たちが果たせなかった場合には、日本人が果たせなかった場合には、神様の願ってきた最初の基準に到達しなかった場合には、先生が責任を持たなければならないのです。そうでしょう? 命令したのは先生だからです。その結実体(である皆さん)が、神様の創造の言葉、一言を発すれば、その実体は相対者として現れるべきなのです。それが創造本然の原則であるのです。にもかかわらず、神様の身代わりに命令して果たせなかった場合には、相対圏が成立しなかった場合には、命令した者が責任を持たなければならないのです。 それで統一教会の四十五年の歴史において、先生の家庭の不幸な事件、興進様を霊界に送る事件など、いろいろな背後関係(というのはどうして起こったかというと)、統一教会の失敗、なしえなかった未完成の(内容を)先生一家を中心として蕩減しなければならないから、先生の家庭にそういう悲惨な蕩減の跡が残るようになってきたのです。分かりましたか? (「はい」)。一国、世界をつないで先生が命令して成らなかった場合には、先生がやらなければなりません。世界基準まで先生が帰らせなければならないから、日本を後にしアメリカを後にして、それは統一、アベル世界先進国家、キリスト教文化圏を後にして、ローマ教皇、宗教独立、共和国アメリカを背後にして、先頭切って日本の政財界の収拾問題、中共の最高閣僚の収拾問題、ソビエトの閣僚の収拾問題、衛星国家収拾問題を、今までだれも知らない中で、どれほど先頭切って果たしてきたことでしょうか? 先生がこれを果たせなかった場合には、数千年の歴史を通して君たちに重荷を背負わせて蕩減しなければならないのです。統一教会の未来は……、先生は生涯かけて、その清めの闘いを一心不乱に続けて、とうとう長子権復帰がされたし、父母権復帰、王圏復帰を宣布するようになったのです。先生が先生の行くべき未来の道を一人で開拓しました。 それをやってきたのだからそういう発表をなすのであって、君はそこまでつなげる何の因縁も持たないのですが、勝利した後には自動的に説明でもって、一瞬にしてつながるその道を準備してきたということを思った場合に、君たちも今、韓国の異邦の地に来て、こういう環境消化問題と……。先生は異国、一か国ではなく十二か国以上の国々を消化しつつ、未来に残すべき蕩減の道を解消するための闘いをやるには、先頭に行って迫害の道を消化しつつ開発して、今まで勝利圏を成しえたことを考えてみた場合に、君たちの苦労と先生の苦労は比較にならないような立場に立っているのです。分かりましたか? (「はい」) 君たちの願いはそうです。先生を見上げながら今の環境を消化していく、一日一日の任務が残っているのです。早く子供を生んで、早く家庭の基盤をつくって、韓国人が、その周辺の者が、外部のサタン世界の者たちが、家庭たちが、君たちに無言のうちに頭を下げ、尊敬ではなく崇拝するような家庭にならなければ、国際結婚家庭の伝統をどこから相続できるというのですか? 君たちでなければ認められないのです。深刻です。これが周辺に回る一点でなくして、中核の収束のただ中心の一点になっているのです。思いよりの考えで通ずる道ではありません。原理の道は親、お父様の行った道を踏んでいく道です。これを踏んで行く道なのです。勝手に行けません。これを通過して世界解放圏に通ずる伝統を残すのが国際結婚式を中心として、国を挙げての昨年、一昨年(の祝福)、交差結婚です。歴史上そんなことはありません。交差。日本の二世と韓国の二世を交差結婚するのです。 これをしなかったとするならば、皆、日本をのみ込もうとするのです。中国もアメリカも日本をのみ込もうとする、ソビエトものみ込もうとするのです。これは三人の天使長! 日本は裸になった美人です。それは神様の前にある、アダムという先生と競争をしたら、韓国は惨めであるというのです。日本なんか関係も持たない立場です。しかし男としては先生以上の男はいないのです。そうでしょう? (「はい」)(拍手)あー、あー、あー、もう拍手しないでいいです。(笑い)だから韓国人がアダム国家で、アダムは一人です。 日本の皇室のルーツは韓国にあります。日本人は皆、分かるようになったでしょう? それは先生の功労です。今までアカデミーを通してずーっと歴史を研究、研究、研究させて、そして発表して、今どうにもならないのです。 韓国に来てみれば、日本の三種の神器など、どこにでもあります。だからそれを見て、「フー、フー、そんなことは知らなかった」と言うのです。だから君たちはもともと故郷に帰ってきたと考えなさい。分かりましたか? (「はい」)。先祖が悪いことをしたその罪を、この現地において蕩減復帰するための旗揚げの戦闘であるのです。韓国人の一番悪いところを我々が吸い込んで、のみ込んで消化していくのです。そうやった場合には、日本の国はずーっと滅びません。君たち皆、韓国に来て、日本に帰りたくなったら、日本はどんどん悪くなります。太平洋の水に沈んでしまいます。今大変でしょう? オゾン層が皆、破壊されていくのですから、地球がだんだんだんだん暑くなってくるのです。それで北極の雪が解け、南極の雪が解けた場合には、日本なんか沈んでしまいます。分かりましたか? (「はい」) りっぱな女性、世界的な女性、世界的な男になるということを考えてみた場合に、歴史的に怨讐圏の女、男を、自分のおやじたちを、自分の王様たちを殺した! その敵の子女を、自分の国の王様の王女より以上に愛する者にならなければならないのです。これはなぜですか? サタンは悪の王であったというのです。王様です。神様は善の王です。王様同士、怨讐です。そうでしょう? 「その息子、娘みたいな者はどこに生涯をかけて愛すべきや」ということを考えてみた場合に、もとをはっきりした場合には、悪魔の王圏を切り飛ばして! 神様の方に帰って行って、何千倍愛するというような思いを持ち、一生かけて闘っていくことが頼もしいのです。歴史転換期において華々しい先祖として持つべき権威です。分かりましたか? (「はい」)。そういう転換点の一線に立つ者であるのです。その価値と何で代えるのですか? 日本の大臣が問題ではない、日本一国が問題ではないのです。分かりましたか? (「はい」) それで先生は君たちに(対して)、本当は今からバットを振りかざして、周辺の迫害とともに天の迫害をプラスさせればいいなと(思っています)。そういう結論をなすようになってきたというのです。先生は「理想相対として国際結婚をさせてやる」と言って、い「いことがある」と言いながら、百から千まで皆、悪いのに、もっと悪いと思うのは陰のもの、実体の迫害を先生からぶっかけていこう。どうですか? 皆、嫌な顔をしているではないですか? (笑い)あなたたち、まだ訓練されていませんね。そうするともう人相がすぐ変わっていくのです。(笑い)だめよ、だめよ、そうです。 今、成しえたすべてのことを比較対照した場合、今から行くべき山はヒマラヤの絶頂のエベレスト山であるのに、何ですか? 韓国の塔みたいな峠も超えないで済むものか! そのときはフンドシをかけてもどうでもいいのです。(笑い)(笑われる)恥ずかしいことです。山をよじ登るにはフンドシでもいいのです。それがだめになったら取ってしまうのです。自然でもいいというのです。なぜですか? 鹿がそういうふうに走るし、ネコがキツネがそういうふうにやるし、ウサギがそういうふうにやっているから、万物の霊長といったら自然的現象において頂上たる(立場を)踏まえるのです。この地獄じゃないかと、このときじゃないかと誇ってもいいのです。 裸になって岩をよじ登って、先頭に上がって旗を刺して「わしのものなり」と、勝利の権限の旗を出して天宙に宣言した場合には、その名前というのは歴史的な名前になるのです。どうですか? 日本の女の子、男たち。(笑い)どうですか? 先生からも迫害されたら、皆、逃げて行くでしょう? (「逃げません」)。先生のたった一点の目標としてきたのに何ですか? (笑い)そうです、本当は旦那さんが必要だから来たのではないのです。先生が、先生のために来たのではないのです。そうでしょう? (「はい」)。先生は先生の顔のために来たのですか、先生のみ旨のために来たのですか? (「み旨のために来ました」)。み旨のために来たのだから、先生のみ旨は日本の一番美人と韓国の一番悪人と結婚させることです。(笑い)なぜかといえば、エバという者は歴史において一番、旦那さんをめちゃくちゃにした王者です。蕩減復帰されるには、日本の最高の者たちと韓国の一番最後の者たちを、こういうふうにすることによって、女が高いのだから、男だけ何年間消化すれば、韓国は世界一の基準に自動的に上がるのです。日本(の女性)がその一家に嫁に来て貢献する道は、りっぱな子供を育てる以外にありません。分かりましたか? 子供を生まなかったら相続圏の相続はできません。一家を残すのは女の功労ですから、りっぱな女はりっぱな子供を生んで、りっぱに育てるものです。顔はどうでもいいのです。みっともなくても、どうでもいいのです。足は短くてもりっぱな子供を生んだ場合には、りっぱに育てる者は、女としての天来の使命を果たしたというのです。 エバはアダムを、天の神様の子供を堕落させたのです。そうでしょう? だから韓国が祝福される第三イスラエルだった場合には、日本の女は第三イスラエルの悪者みたいな男たちと組み合って善人にもとがえす道を得なければ、歴史を通してエバが解怨される、恨みを解くという道は得られません。分かりましたか? (「はい」)。分かりましたか? (「はい」)。原理観です。先生観ではありません。蕩減復帰の神様の摂理、神様のみ旨から見た蕩減観です。女としては歴史を通してずーっと犠牲になりながら、そういう一日を迎えて、国を超えてそういうふうに生きたささげ物、生畜の祭物として神様につなげる女として、親として、その子女を天に百パーセント貢献しうる基台を残していきたいのが、生来の歴史を通した堕落世界の女の最高の望みなのです。 先生は、きょう会ったらいいことを聞かせようと思ったのに、いやーこれは大変です。首をかけたのに、鼻までかけてしまいました。(笑い)(笑われる)首は……ここまでやって巻けば完全に捕まえます。首をかけただけで縄が切れたらどうしますか? 鼻までかけて、両脇までかけて、三か所をかけるのがもっと安全だと思わなければなりません。(笑い)あー! 本当のことを言っているのです。このことを各自が自覚して、この転換期の一期を乗り超えなければなりません。日本の男は僕の僕として……、そうではないですか、僕の僕ではないですか? 韓国人を四十年間僕にさせようとしたでしょう? サタンはよくも知ったものです。神様の選民圏としてなす国の二千年の歴史を包囲、妨害するために、エバ国家である天照、女の神は、サタンの先頭切って韓国を占領して、新しく日本人の悪魔のサタン圏に立つ女の子として繁殖しようとしたのです。四十年間やったのです。神様には、その日本を先生がエバ国に選んだということは謎の話です。先生が言ったのです。 日本を見てごらんなさい。このようになるということを言ってきました。神山などは、皆、知っています。日本はこう、こう、こうなっているのですよ、と。七二年から八八年までは明治維新以来の百二十年間、(日本は)神様の祝福圏に立つのですが、それ以降において韓国に無関心になった場合には大変です。今、金日成は日本に近寄ろうと大変でしょう? (「はい」)。今度はそういうふうに世界情勢から見て金日成が一番、悲惨な立場に立っているから、日本にしがみつこうとやっているのに、それは世界の情勢から見た場合には日本の行動は認められないということを日本の指導者は、為政者は知っているから、韓国とともに行こうとしています。そうでしょう? 今、ペルシャ湾の問題にしても、日本は何ですか? 女みたいにこんなにして……。五十億出すということは、イギリスが一発、この日本で戦争が終わった場合には、アメリカが日本の道をしめると言えば「百億出します」と言うのです。何ですか? 女としても、腹のでかい女にならなければなりません。(笑い)そうでしょう? 日本は先頭切ってアメリカの前に……を持つと言うべきです。そういうときにしないと、日本の権限はどこに出すのですか? 小さくても水の上に浮かぶ船が偉いのです。分かりますか? (「はい」)。小さくても偉いというのです。大きな船でできなかった場合は、小さい船でもなれと言うのです。波を乗り切れる船頭さんになった場合には、小さい船でも怒濤の波に打ち込んで行くことができるのです。何ですか、日本に船がありますか・ 島国に船がなくてどうしますか、どこに行きますか? 四方八方、すぐ封鎖されます。それをずーっと今まで先生が教えてやっているのに……。あんた、異様な目で見ていますね。「あー、先生肌着を着てる」。着ています。(笑い)そりゃ、窮屈です。見えません。女に男の肌を見せるということが失礼だということを知っているのはしかたないだろうし……。 君たちの到着すべき苦労の原点にまだ遠い! 縄を縒る機械があるでしょう? 二人の縄でもって三つ入れなければならないですよね。それはいくら太くても入れる……次であって先に立つことはできません。先になったら大変なことです。大きくなりません。だから入れ込む、入れ込む、入れ込む。ただ百千万本を入れても、そこに従っていくところの大きな縄が作られます。そうでしょう? そこでとっぴなことをやってはだめなのです。何の話か分かりますか? 先生は今、韓国人でありながら韓国人ではないのです。今まで四十五年間、公的に社会的に迫害されてきています。今は既成教会なども反対していますが、もう遠くないのです。完全に七〇パーセントを超えています。七〇パーセントを超えれば、試験でも七〇点を取ったら合格です。六〇点以上だったら合格です。そうでしょう? 統一教会と既成教会は何をやっても、向こうが負けます。先生は数を考えません。その方向性の中核のメンバーだけいればいいというのです。先生が今見た場合、ICUS(科学の統一に関する国際会議)の組織、百以上の世界的科学者組織を持っています。世界的な言論界組織も持っています。ワシントン・タイムズを中心として、連関関係を結ぼうとすれば、フランス、ドイツも皆、関係を持つようになっています。メディア世界の連合会も持っているのです。それから頂上会談、サミットも持っています。これは皆、今まで、世界を指導してきた為政者たち、前首相や現首相も入っています。現首相は活動ができないから参席できないのですが、大概国々を中心として見た場合に、前首相が三~六人まで持っています。日本人は何人いますか? 数えてみなさい。前首相を何人持っていますか? 福田さん、中曽根さん、三木さんもいるでしょう。田中、大平、竹下、鈴木さんもいます。池田? 十人以上いるではないですか? 佐藤さんは生きていますか? 岸さんの弟ですね。だから平均三人以上、六人までやります。六人以上になるのです。このように見た場合、大変です。学者、言論人、為政者の親株、もう三人以上を踏んだ場合には、首相は彼らによって決めるのです。これを組んだ場所には、国家放送機関を完全に利用できます。分かりましたか? (「はい」) 先生はもう蕩減復帰の峠を超えています。先生はソビエトで有名だし、アメリカでも有名だし、世界的な文先生に皆、会いたがるようになってきました。日本の首相たちも先生に会おうとしていますが、先生は会わないのです。ブッシュなども先生の考慮で、先生の助けによって大統領になりました。それは訪問しません。彼らが訪問しなければならないのです。呼びかければいつでもつなぐようになっているのです。 こういうふうに見た場合、今の時期において、左翼、右翼、戦闘時代を超えて、頭翼思想を主張した者は先生です。頭翼思想というのは恐ろしい(思想)です。この時期に適した言葉です。頭があった場合には生き返るということです。そこから縦的な神主義までつながっています。頭翼思想は、完全横的思想、すなわち左翼、右翼を中心としてサタンがそろえてきたものを百八十度転換します。そうなった場合には左翼が右翼になるし、右翼が(左翼になり)、競争の時代に入っていきます。それをだれがコントロールするのですか? 帰っていくには、堕落した分水嶺を通過して、歴史過程の通路をいかにして正しい本源の神に帰るかというのです。その帰る主人は、ここまで来るのに堕落した父母を中心として個人、家庭、氏族、民族、国家、世界まできたのだから、悪魔の悪辣な先祖たちを中心にしてここまできたのだから、それを蕩減復帰していくには個人的、真の勝利圏、真の父母の勝利圏、家庭的勝利圏、真の父母勝利圏、氏族、民族、国家的勝利圏、世界的勝利圏をなしてこなければならないのです。 真の父母は何から出発しますか? 真の愛です。愛の問題です。真の愛、真の愛を中心として個人、真の愛を中心としていくという家庭、氏族、民族、国家、世界までが一つに通ずるのです。歴史の方向性は真の愛の道一本きりであるべきなのに、それはめちゃくちゃになってきています。ジグザグです。それを真の父母がずーっと(真っすぐにして)帰っていくのです。帰ってきて国を超えて、エバは氏族を超えて、家庭を超えて、個人完成をなしえて、氏族のメシヤ、個人完成をなしえたメシヤ圏というのは真の親になります。だから先生は国家の中心と、社会的蕩減の基準を立て、ちゃんと国に来て、横的に蘇生が個人であり、家庭が長成であり、氏族が完成です。三段級で国につなげる時代まで来たということです。最後です。これからどこに行くかというと、神様の心情圏です。ここでも心情があるし、心情はどこでも通ずるのです。それで最後の思想が頭翼思想です。頭翼思想は真の父母しか知りません。神主義は真の父母しか知りません。それは何を中心としての思想ですか? 真の神様を中心として永遠なる生命圏の基台となる、愛を中心として満ちているの(満ちている思想)です。分かりましたか? 一般の宗教はそれを知らないのです。仏教にしても真の愛の道を行くことはできません。だから帰って、回れ右していくには、行く道がないのです。儒教にしても分からないのです。具体的な天、情的な天、心情的な天、人格的な神様を知らないのです。先生において初めて、地上人への人格、内容、価値を持った人格である神様を分かるようになるのであって、今までの宗教はぼーっとしています。ぼう然としたものは、本源の原則の地に帰ることができないのです。こういう時代になったのだから、宗教圏を神様が今まで育ててきたのは、文化、背景を包容して消化するために、培養し育ててきたその道を神様は収穫しなければならないのです。神様のみ旨によって、み恵みによって世界に散布したみ恵みを収穫していかなければならないという内容があるから、先生は「世界平和宗教連合」を編成するのです。分かりましたか? (「はい」) それから、それに対して心と体が分立して歴史で蕩減したのですが、彼らはサタン圏です。その心は、良心が、神圏を中心として唯神、唯物の分別の闘いの歴史が、こういう無神論と民主社会、キリスト文化圏という対峙、争いの基準を統合消化、蕩減の長子権の蕩減圏、そこを立たせることによって、これは崩壊せざるをえないのです。 それで、先生とキリスト教を見た場合に、統一教会とキリスト教を見た場合に、宗教的な立場から見た場合に、統一教会をアベルとすれば既成教会はカインです。歴史はカインがアベルを利用してきました。サタンがアダムを利用してきたように、神様は歴史を通してアベルを犠牲にして、カインを復帰しようという名目で来たのです。 それでアメリカのキリスト教が文先生や統一教会と一つになって、アメリカの選挙を共同して、アメリカの大統領を先生の名によって立たせるようにさせ、カイン、アベル一体。それは心と体、カイン、アベルです。それからカイン圏、アベル圏において、統一教会と既成教会が一つになった基準は、アベル圏を中心としてアメリカ、国がカイン圏を消化するために全国組織を動員して、選挙によってレーガン大統領とブッシュ大統領、十二年間の勝利圏を得たのだから、共産主義の敗退、後退基準を見いだせるようになるのです。その宣伝をしたのは、共産主義をこういう状況に落ち込むようにしたのは先生であるということです。分かりましたか? (「はい」)。そういうふうにして、アメリカ大統領を先生が、長子権という先生が指示するのです。今もそうです。ペルシャ湾の戦い、ペルシャ戦争によって背後の収拾の方法はどうするかということを、今先生は指示してきています。その説明をやるには何時間もかかるので時間がありませんが、簡単にいえば歴史はいつもそうです。わしということを見た場合には、ここには創造理想と、神の愛を中心にするという理想的実体を中心として、良心と体が左右に、右左になっています。いつも左翼と右翼があったということを分からなければなりません。分かりますか? (「はい」) 本然の人間から見た場合に、わし一身を中心として良心の立場は神様のほう、右翼であり左翼です。だから左翼は赤、赤というのは不安ということです。右翼は白、安全だというのです。悪魔は黒を象徴し、天は白を象徴するでしょう? それをやった場合には黒に染められるという話もあるではないですか? 皆、そういうふうになっているのです。だから左右、紛争圏というのは個人から良心と肉心が闘うでしょう? 男性と女性が闘うのはサタン圏です。皆、サタン圏です。 一点、良心しかありません。良心は肉心に負債を負いません。いつも生涯かけて、良心は肉心のために犠牲になっているのです。そうでしょう? 投入して忘れ、投入して忘れ、投入して忘れる。正に神様が再創造の道を、復帰路程において投入されるのと同じです。神様の姿と同じなのです。だから天の側だというのです。投入して忘れるというのは、良心が投入してずーっと肉心に命令して、それに従わないといって何か蕩減条件を立てさせて脅迫するはずはないでしょう? 投入して忘れる、生涯かけてそういう犠牲されたのが(良心を犠牲にしたのが)肉心であるのです。これいかにするかというと、良心がプラスとなり、肉心がマイナスになるべきなのです。しかしサタンが別のプラスになっているのです。サタン圏がすべてになっているから、良心は垂直線の中心として立つように、四方八方がサタン圏のマイナス圏が、東西南北みんながプラス圏になっているから、サタン圏は強い! そのとりこになっている環境を消化するのに、今まで数千万年の歴史を通過して、これを克服されずして、その定着基準を乗り超えず、延長に延長が増し(加わって)きたのが歴史であるというのです。分かりますか? (「はい」) 歴史過程上に多くの聖人たちが生まれてきたのですが、彼らの教えは心身一体圏を理論的に発掘することができませんでした。漠然と「善なる方法を取れ」と言うだけで、心情を持った人格的神様の価値観には到達しえませんでした。これはメシヤが来て初めて、すべての環境をつくることができるのです。環境圏の核心として、それは、天宙のすべてを解明させて到着、到着、定着する、土着化させる運動がメシヤ思想であり、統一思想です。土着化していますか? 日本のなまりが土着化言葉でしょう? それと同じように、中心人物を中心として国家すべてを、環境はすべてが平等ではないところを、神の伝統を中心とする土着化を消化していくのです。完全に占領するのです。すべてを消化していくというのです。こういうふうに見た場合に、神様の摂理は国を中心として蕩減しなければなりません。国なのです。 だからユダヤ教を中心として、ユダヤ、イスラエルの国です。それからユダヤ教徒が一つになったという心身一体です。宗教は心のほうであり、体はイスラエルの国です。それが一体化された人格人(人格者)でなければ神様の相対基準に立てないから、その基準はいつでもそうです。その基準に相応した心身一体、神様の愛を垂直の愛と横的な愛を結んだ、心身一体化された本然の神様の責任分担完成とともに、結果主管圏と直接主管圏の統合をなしうる、神様の愛を中心とした縦横的、結着点の代表者として来るのが、国の基準において送るべきなのがメシヤであるということです。分かりましたか? (「はい」) だからその国の王様は祭司長の指示において主管されるようになっているのです。横的に心が体を動かすのと同じように、国の基盤の上にメシヤを送ろうとするのが、聖書に現れる四千年来のメシヤ降臨であるのです。分かりますか? (「はい」)。そうなっているのです。そこにおいて初めて国を中心として成し上げることに、イエス様はこの国を中心として、ユダヤ教を代表した一人は祭司長、それから国を代表した代表です。だからイエス様の氏族と洗礼ヨハネはカイン、アベル関係です。分かりますか? それはいとこの関係です。外的には奥さんを中心として、お母さんを中心として、いとこの関係です。だから自動的に一つになるようになっているのです。神様はいつも双子を中心として結んできているでしょう? それはエサウとヤコブがそうだし、ペレヅとゼラもそうです。双子の子供を一つにすることによって、これを転換した基準において一つにすることによって、神様の子供となるイエス様が生まれるような歴史的蕩減基準をつくって、その血統がマリヤを通して生まれてきたのです。それは知っていますか? 知っているでしょう? 先生、簡単に言っていますが、その内容を知っていますか? (「はい」)。知らなければなりませんよ。 国を中心として左右が一体となり、前後が一体となって回れ右しなければなりません。だれを中心としてですか? イエス様! を中心としてです。そうなった場合には神の心情圏の垂直通路を中心として個人的完成をなしえた結果、家庭的完成、氏族、民族、国家的基準を完成した基準に立った王者として、来た道を自動的に往来できるようになるのです。そうでしょう? 歴史はそういうふうに来たのです。一人でもって、心情圏に歴史的な一体心情を、個人、家庭、氏族、民族、国家基準まで延長して、回れ右して、頭翼思想を中心として、神主義と一体となった場合には、ローマが問題ではありません! 理論的にかないません。その代表者を信仰するような、信奉するようなそういう所、アジアにおいてのインド仏教徒、儒教徒、今のイラクを中心とするその宗教圏、それは問題ありません。自動的に吸収されるのです。そのときに国をあげたとするならば、イエス様を中心として今先生がやっている宗教圏統一、こうして国家代表を組んで自動的にローマを消化した場合には、そのまま世界的基準によって、エデンの園に復帰されるのです。その目的が完成されなかったのです。 それで左右、右、左が、イエス様が死ぬことで再び闘いの道がつながるということを象徴しているのです。だから最後、右の強盗は、サタン世界で起きたものは讒訴するというのです。右の強盗は「我々は悪をなしえて、死ぬに相当する罪を得てこういうふうな現場におるのに、この中心におる者はそういうことが一切何もない立場で立っている。それを呪うな!!」と責め立てたのです。その闘いは、キリスト教文化と世界の闘いです。それでキリストも血を流しました。イエス様は死んだから、大将は死んだのだから、皆、死の境地を通過し、血を流し合うのです。どん底からずーっと歩いてキリスト教文化を、世界的な最高基準まで上げてしまったのです。最高基準まできた場合には国家的基準から植え込んだのを、世界的基準において収穫しようとするのが神様の摂理だから、キリスト教を中心として世界が一つになったのは、第二次世界大戦後であったというのです。分かりましたか? (「はい」) それはキリスト文化圏を中心として世界すべてが、国全体、世界がカイン圏に立っているのです。その基準の上に再臨の主が来られるべきであるというのです。心身一体でしょう? 心身一体圏を中心として頭翼思想を植えつけて、回りにきた場合には、天国直通です。アメリカはそういう使命を果たせなかったのです。アメリカを中心としてキリスト教、ローマ法王と新教プロテスタントはカイン、アベルです。全部カイン、アベルです。一つになって先生がやるのです。すぐ、七年間に収拾すべきことは何かというと、三年以内にローマ法王とアメリカを消化するのです。韓国の独立とともにそうなった場合には、国がありません。それは英、米、仏。英はエバ。米は何ですか? 子供ですが、再臨の主は女を通して生まれてくるでしょう? そうでしょう? アベルの位置はアダムです。完成アダムです。それからフランスは天使長です。フランスとイギリスは戦いました。怨讐です。怨讐同士が一つになって日本の女……日本は女でしょう? 島国です。ドイツは悪辣な男です。世界戦争を起こしたのは日本のためです。ちっぽけな日本がアジア全体、仏領ベトナムも一挙に占領してしまったのです。英領シンガポールも一挙に占領してしまいました。ヒットラーを中心として見た場合には、フランス、英国、何でもないではないかというのです。それで日本によって枢軸国家、日本、ドイツ、イタリア。イタリアは行ったり来たりするでしょう? 世界制覇。第一次戦争、第二次大戦もそうです。優秀な血統を持っているゲルマン民族であるということで、ヒットラーは白人の優秀な種族を残すためのヨーロッパ政策を行ったのです。ユダヤ人を皆、殺そうとしたのです。優秀な青年たちを中心としてりっぱな種を蒔こうとして、悪者はみーんな子供の種から殺してしまって、優秀な者といえば一人の男に千人の女を遣わして、いい種を蒔かせようとしたのです。まるっきりサタンです。まるっきりサタンのことをやっています。それはもうずーっと敗れて、退治されました。そういうふうに埋めたのだから、二つに同じく埋めたから、アダム、エバ、天使長を埋めたのだから、サタン世界は世界的なアダム、エバ結実体、天的アダム結実体、闘うのだから、これは相似的に闘ったそのものが負けてしまうのだから、世界一体圏になったのだから、キリスト教の新教、旧教一体、キリスト国が一つになり、新教と旧教が一つになった場合には、自由世界が一つになるのです。それが先生の七年間の目的であり、それができたとするならば、世界的カイン圏は自動的に指導を受けて、回れ右した場合には共産主義など現れてきません。四十五年間の犠牲という物的被害、人的青少年の被害。それから自身、崩壊状態になっています。それは荒野において鷹の餌食になったのと同じです。サタンが完全な獲物として残すのは死体の骨ばかりです。旧約聖書のエゼキエルの谷の死骸の話があります。 再臨のときそうなるのですが、それを皆、思想的に展開して、新しく復活されて、世界の精鋭隊になるという話です。これがそういうふうな世界基準において、先生と一体となった場合には……。英米仏が韓国を分けたのです。韓国は大東亜戦争において爆弾一つもつくりません。日本は爆撃によって荒野の地になって、皆、さらされて(さら地になって)しまったのですが、韓国の地には爆弾一つも落としません。神様が保護しているのです。なぜ! このように二つに分かれたのは、アメリカの責任であるというのです。英、米、仏が使命を知らなかったのです。そのときに先生に反対しないで三年の期間、つなげるような万全の準備をしたにもかかわらず、既成教会と再臨観が違うことによって分裂されてしまったのです。「絶対に肉身で再臨されるはずがない」と反対し、先生はいよいよ悪い立場になって、分裂とともに南北分裂、世界分裂になるのです。分かりましたか? (「はい」) そのすきまを通して共産主義が偽の再臨を、偽の真の親を送りました。スターリンは神主義の世界を爆滅する傀首です。だから(一九)五三年に死んだでしょう? 五三年に死ななければならないのです。先生の七年間の基盤をなしえなかった基準において、メシヤの使命、イエス様の復活体、サタン全世界、成約圏をつくったのです。それはどこに終着するのでしょうか? 金日成、真の親という基準です。分かりましたか? (「はい」)。金日成は自分は親であると言うのです。神様が将来来られた場合に、共産主義政体みたいな組織(があれば)、統一世界をなしうるし、同時に真の父母を中心として心情圏一体圏をなしうる太平洋的な基準を中心に、南北分裂をスターリンがコントロールするのですが、再臨の主はイエス様の蕩減の道を完成しなければならないから、その代表的基準において金日成を中心として国家的全権を振るって、共産主義世界において王者のごとく、王者中の王者の権限を振るったのは金日成です。分かりますか、何の話か? 完全に父子関係をつくって一体化されているのです。それが皆、共産圏を比べることによって、先生、神様のほうから見た場合には、神のほうに一切の準備をなしえたのだから、それを受け付けるような中央体制を完成されたのだから、サタンのほうは蕩減を長成期、長成復帰、それから親権復帰、王圏復帰の本然の創造理想の真の愛を中心としてエバ、アダム家庭、アダムとエバ家庭にそれを付着すべきその基準を世界的に再び盛り返して、再びこれを植え付けなければならないのです。その基準をなしえたのは先生の七十歳、古希の日までになしえた勝利圏であるのです。分かりましたか、何の話か? 六千年の歴史、プラス安息日一千年を超えて、七千年歴史を蕩減して、今は長子権復帰、親権復帰、王圏復帰を宣布するようになってきました。 その前にオリンピック大会を中心として、これは外的な世界的なチャンピオンの結集大会です。韓国を中心として百六十か国(が集まったのは)、歴史に例がありません。その前はソビエトとロサンゼルスの二つに分かれて、一つになりうる道がないのです。韓国によって両極六・二五戦争を中心として、両極紛争期に入るのです。ソビエトとアメリカが両極です。紛争となったのは韓国の動乱です。韓国で分かれたものが韓国で統一したのがオリンピック大会です。それでソビエトとアメリカが統合(されました)。そうでしょう? 共産主義と民主主義が一つの町において、全世界的な勝利圏をなしえた韓国のオリンピック大会において、歴史の記録を破って、韓国が何番だったのですか? (「四位」)。四位でしょう? それはアメリカと韓国、ソビエトとドイツ、東独、それはカイン、アベルです。よーく考えてみなさい。韓国が四位になるというのは、神様の保護の下、守護の下にそうならざるをえないのです。そうならなければ、カインとアベルの長子、親、父子一体、ソビエトと東独、父子関係です。アメリカと韓国も父子関係です。 その背後関係の内的統一教会の宣教師と一体化するのです。分かりました? その外的な世界的チャンピオンたちが集まったところに、統一教会の百二十か国の宣教師が来て、皆、和合しました。メッコールなどをソビエトの選手団なども、たくさん飲みました。先生はそのとき二十四億も使っています。使って「皆、飲め!」。ソビエトの団長は先生に、自分がソビエトの大会でチャンピオンになったメダルまで、ちゃんとささげ物として(持ってきたのです)。たくさんの着物とか洋服とか、いろいろな物をして、そのとき先生が(ソビエトの選手団長に)提案したのは、「あんたの国に二千台の車を贈るから、文書を出した。郭錠煥先生を通して『世界日報』を通して公文を出して、それを受け入れるのだったら、条件は何かというと三八度線を通過するということです。一つは満州を通してハバロフスクを通過するものと、一つはウラジオストクを通過するものです。その両方の道を……。運転手は我々がしてやる」と。(笑い)それは三八度線の解放問題です。そうなった場合には歴史的記録になるのに、ソビエトはあのとき、「国として金日成と軍備上の協定を結んでいるから、それはできない。国家権限でもって信頼を放棄することはできないから……」。 それを皆、材料として持っているのです。歴史において先生がなしえた蕩減条件は完璧になしえているのです。だから一体化して、皆、その国に帰って今も連関関係を持って、オリンピック大会、文化オリンピック大会に参加するという巡回をやっています。内外一体です。分かりました? (「はい」)。内外一体。怨讐圏とともに一つになるうる基準をアベルがなしえなかった場合には、アベルの上昇圏の勝利を拡大することはできません。分かりました? (「はい」) 先生を中心として、そういう内容を中心として、韓国で九月二十日には統一宣布するというのです。南北統一、東西統一宣布式。それからその次の十月三日には何の開天式ですか? (「世界統一国開天日」)。世界統一国開天日を発布するのです。ちょうどそのとき回れ右をするのだから、主体圏を鉄柱を地上に押し込むのです。だれも抜くことはできません。だからそれは統一教会、韓半島の運勢は……。今そうでしょう? 中曾根もそう、海部さんもいたし、それから三月になったらゴルバチョフも来るし、ブッシュも来るのです。韓国の地は有名な地になっています。 そういうふうにして韓半島はいよいよ、太平洋時代文化時代において、いろいろ渦巻く中心点として果たしうるようになってきたということは、歴史性を通して学者たちも否定できないような現状になったのです。まさしく摂理観と一体となって混み合ってしまったということです。分かりましたか? そして先生を中心としてすべて回れ右、頭翼思想は回れ右するのです。イエス様をして、国を中心としてなしえた、その植えたものが世界基準における収穫期において、完全に先生一代で四十年間再蕩減して、四千年の歴史を再蕩減して、この勝利圏を中心として長子圏を百八十度、今転換をなすようになってきたのだから、世界すべての組織は、転換時代に入るのです。分かりましたか? アメリカも今、全体、家庭に入れ! エデンの園には教会はありません。教会があったのですか? 教会はありません。エデンの園にあるのは(何でしょうか?)アダムとエバ成長期には象徴的な家庭はあったのですが、象徴的な氏族、象徴的な民族、象徴的な国家、象徴的な世界、象徴的な天宙はあったのですが、それから始まるのです。だから今、韓国に帰って統班撃破運動です。「家庭に帰れ」というのです。組織体としては統と班、統一の蕫統﨟と洞窟の蕫洞﨟です。それは蘇生、長成、完成です。それは垂直において家庭、横的においては自分と家庭と親とおじいさんと。それは自分を中心として蘇生、長成、三段階です。こういう基準をして家庭転換期に入るのです。何を中心として? 真の父母の愛とともに真の父母の頭翼思想、神思想を中心として回ることによって、サタン歴史を通して何の讒訴条件も突き出すことはできないのです。分かりましたか? (「はい」) 回れ右することで統一教会は真っすぐ家庭まで行く道ができました。だから家庭土着化運動が最後に残すべき天国創造の第一基盤です。そうでしょう? 家庭です。そこから第二氏族。だから先生は世界的条件以上、国家的条件以上、氏族条件。今何かというと、先生を中心として条件の基盤の上に氏族圏を持つ者は統一の群れです。分かりましたか? 先生を中心とする家庭と氏族です。韓国が今、国を中心に立てようとして、国を中心としてバーン! と打ち込んだのです。おしまいです。 イエス様も国のために死んだでしょう? 先生も国のために追い出されたでしょう? 勝利圏を持ってきて、基台だけ消化して、そこに鉄槌を打ち込んだ場合には垂直線です。神様から世界をつなぎ、国をつなぎ、民族をつなぎ、氏族をつなぎ、家庭をつなぎ、個人をつなぐ愛の鉄槌が打ち込まれるのです。分かりましたか? 打ち込んだ場合、だれも! 神様自体も、真の父母もそれを抜くことはできません。それを包容し、守護する立場に立つのです。それを弱め、分解させたり、倒れさせたり、抜くことはできません。なぜか! この垂直に打ち込む真の愛というものは、直短距離を通過するのです。分かりました? 天来の真の愛を中心として鉄槌を打ち込む着地点は垂直の核心です。そうでしょう? 天から見た場合に垂直線、これは一番短距離です。直短距離、短距離。それは垂直点、一点しかないのです。九一度、九〇・一度も垂直線ではないのです。九〇点の〇点の〇です。それが垂直線です。その垂直線、真の愛を中心として、個人を中心として垂直点立ったとすれば、人間、心を、真の心を中心として、絶対なる主体に体が自動的に一つになるようになっているのです。神の血統を受け継いだ場合には……絶対ありません。その垂直点に真の夫婦の愛も(あります)。真の夫婦の愛、真の父母の愛も、平面的真の愛だったとするならば、それも垂直線に平面に通ずるのだから、それが一番、短距離です。垂直線短距離に合わせるその道は、九〇度角以外にありません。分かりましたか? (「はい」)。少し外れてもだめです。ちょうど九〇度につながる本然の心情の天と地の決着点が結ばれた場合には、万宙すべては愛によって主管されるようになるのだから、その基準になったとするなら、そこに皆、付着しようと方向をまとめていくのです。そうやったら天宙復帰は長くありません。(「はい」)。それは理論的にそうなのです。だから真の父母とは何かというのです。人間は二重性を持っています。なぜですか? 垂直と水平を決着させなければならないのです。それを決着することによって、すべての存在の位置とフォーム、姿、形が測定できるというのです。 設計するときは、九〇度合わせて設計します。水平に合わせてこう引けば、すべてが水平と垂直を中心として、正しいとか悪いとか決めるのです。だから人間は「君たち、良心的か?」と聞くのも、「垂直に位置したか?」と言うのです。良心は正しいということでしょう? 正しいのは何ですか? 垂直線です。直短の位置に立つ、一点を占める垂直を言うのです。良心に対して、肉身は自動的に水平の地を取るようになっています。堕落しなかった場合にはそうなっています。中核、点に入れば共鳴圏に入ります。なぜかというと球体のすべてが通ずる傑作点というものは、この一点しかないのです。この一点を無視した場合には相対世界は崩壊します。分かりましたか? その一点を中心に見れば、こういう球体が生じます。これはもう、鉱物から植物から動物から、人間、宇宙、皆、そういう関係になっているのです。だから君たちの細胞から見ても、電子構成から見ても、皆、球体、回るのです。なぜか! 天地創造がそうなっているのです。 そういうふうにして、おおもとの愛の宇宙の中核、核心に平行で垂直、垂直と平行、水平基準に膠着点が、各存在たちの、いろいろな存在の種の起源であるというのです。植物にしても方向は、こういう愛の理想圏でつくったそのスタートがどこですか? 東西南北、ところにおいて垂直面において、水平線と平行、垂直と平行、交差点の自分の存在を中心として繁殖しているのです。だから種の基準、種の権限、原点を侵害することはできません。宇宙は侵害することができません。保護するようになっているのです。 こういう論理を提供した場合には、進化論というものは話にもなりません。アメーバから人間まで進化するには何千段階の相対圏の愛の誕生、雄、雌、の愛の関係の道を通過しないと、つながらないというようになっています。雄、雌、男女、愛の関係を進化論では抜いてしまっています。チンパンジーとそっくり同じような人間の女と男を結婚させたら、子供は生まれてくるのですか? 千年、万年たっても、生まれてくると思いますか、こないと思いますか? 絶対! 来ないのです。それから、いかなる宇宙の存在でも、その愛の相対圏が成立されたところに第三者加入という場合は、絶対! 許容しません。君たちの相対者のところに、女のところに、男のところに、第三者が現れるのを願いますか? あんた、奥さんのところにもう一人の男が生まれる(現れる)のを願うのですか? (「願いません」)。どのくらい願わないのですか? (「絶対」)。絶対! 不滅、唯一。女もそうです。自分の旦那さんのところに一人の女、美人のもっと素晴らしい女が現れるのを願う女はいますか、いませんか? (「いません」)。相対的? 絶対的? (「絶対的です」)。目が一つ抜けても二つ抜けても、それは絶対的に許せないことです。 動物の世界はどうですか? 動物の世界も同じでしょう? 相対関係を結ぶ前には、男女が乱れ合って混じるのですが、いったんそれが相対関係を結び、巣をつくるようになったならば、第三者の加入を絶対許しません。先生はそういう話は専門です。たくさんの鳥を取って食べたり、見たり、研究したのですから。(笑い)では昆虫の世界はどうですか? 昆虫の世界も同じです! 命をかけて闘うのです! そういう内容を考えてみた場合に、進化路程というものはうそつき! の論理です。何千段階の愛の関係を通過して、それを直線的につなげたというのです。それから二点を結ぶのは直線というのです。直線世界には増加が生まれません。第三点はだれがつけたかというと、直線の世界から曲がる、三点はだれが満たすか? 直線自体は絶対できません。分かりましたか? (「はい」)。直線は直線。直線二点は関係ありません。他のものを加入させないと生まれてきません。それは三点から生まれてくるのです。三角から四角、球体というふうに。そうでしょう? 四角を書くものが円です。三点から四角、何千点も拡大することです。延長基盤の方向において、こういうふうにやって、第三点はだれが加入させたのですか? それはその線自体においてはできないのです。そのもの自体においてはできないのです。そうなったとするならば、(第)三点を加入する力を持っているかというのです。そんな理論はできません。なぜかというと、力の世界でおいては入力と出力の関係は、出力が入力より小さいのです! 作用した結果において第三点の大きいことが生まれるのは論理的不合理です。 それは愛によって創造されるのです。愛とは何かというと愛の関係です。真の愛の関係は、入力よりも出力が大きくなるのです。だから歴史の聖人たちはその時代に迫害されて消えていったのですが、出力が大きくなる真の愛は投入、投入、投入。投入して宇宙創造が生まれてくるのです。投入すれば大きくなるでしょう? 大きい、大きい、大きい、大きい、永遠性という、永遠的な理論です。永遠に投入する、投入の心情圏があれば永遠の生命の存在基台は残されるのです。それは真の愛を中心として神様自体が永遠に投入することによって、永生は理論的、自動的な結論です。 真の絶対なる、愛の主体なる神様が相対者をつくるのに、君たちの願いと同じように、自分の愛の相対者は自分よりも偉いことを願います。自分の子供は自分より偉いのを願うのです。「その歴史的権限は、どこから由来したや?」と聞いた場合には、「神様からである」というのです。そうしたら神様に帰っていった場合には、神様自体も自分の愛の相対は自分より偉いのを願うのであり、子供も自分より偉いのを願うのです。分かりましたか? (「はい」)。神様がそう願うとするなら、だれが一体、それは自分というものです。あー、だからこの良心の欲望というものは、歴史を一回も完成させたことはないのに、この基準を占領した場合には、良心すべて言うのには「わしで完成し、すべてを球体体制に整える」。永遠にそれは回ってもいいというのです。君たちもそうでしょう? 愛の理想相対はすべてをかなえた、すべてを完成したという、そういう結論になるのです。だからその欲望は絶頂なる最高の神様を占領し、神様ばかりでなく神様の愛まで、神様の中に潜んでいる、隠している秘密の宝石箱までも占領して、神様自体を持ち、神様のすべてを相続しうるのが真の愛の相関関係なのです。分かりましたか? (「はい」) こういうふうに偉大な者が人間であるのです。だから永生という論理は、神様の相対者としてつくったという基準を認めた場合に、自動的な結論です。否認できません。それは目玉に対して「君、何歳まで生きたい?」(と聞くと)、「永遠に」と目玉も言うのです。鼻も言うのです。細胞も皆、言うのです。なぜそう言うのですか? 根本がそうなっているから、根本に従って根本の結果世界に行かなければならないから、いいこと、いいこと、皆、君たち、いいことを言うでしょう? もっといいことを。そうでしょう? 昨年より今年はもっといいことを、青年より、老年より、今の時代より未来にもっといいこと、いいことと言うでしょう? (「はい」)。言うでしょう? (「はい」)。簡単なこと、いいこといいことして何するや? 世界を自分のものにするのです。 結局は何がいるかというと、神様は宇宙の親です。神様は宇宙の先生であるのです。神様は宇宙の主人です。愛の一体圏に立った場合には、自分も真の愛を中心として真の父母になる。神様と同じように。同じです。相続(したら)同じ権限です。だから真の愛には相続権があるのです。遠い東京に住むお父さん……それは一体圏を成しうるのです。分かりましたか? (「はい」)。まさしく霊界に行けばそのとおりに、先生が教えるとおりになるでしょう。万年、復帰路程において真の愛を投入し、万人を救うために愛の心情を投入して忘れ忘れ、投入して生涯かけてみなさい。すぐ、神様の宝座の前に着くでしょう。自分を立てて、自分に投入しろと言うのはサタンです。サタンは自分を中心として投入するでしょう。 一方最高、絶頂まで行った場合には、上がると皆、きてしまったのです。投入しては神様自体は、一番大きいものの正面に立つには、神様は一番見えない所にご自分の座をつくられました。だから核心のうちの核心です。分かりましたか? (「はい」)。その基準に到着すればするほど、宇宙すべてが真の愛の核心の核心の中に入れば、神様を占領して神様と一体化される道があるのです。神様から始めたものは、結局は世界をずーっと愛の因縁でもって(回って)神様に帰るのです。分かりましたか? こういう円を描いたものがこう入り、入った場合にはどうするようになっていますか? 永遠に入りますか? 永遠に入るか、入らないか? こうやって平面にこうなった場合には、こうやって上がるか、上がるか、上がってどうするかというのです。上がっててっぺんになったらどうする? もとに帰るのです。こういうふうにやって、それから回って回って回って、そうやって上がって上がって上がってどうするか? 反対のほうにあっててっぺんになって、またやって戻る、こういうふうに呼吸作用を……。 地球もそうです。知っていますか、地球が呼吸していることを。分かりましたか? だから渦巻きを巻いた場合には、そこに土地を掘ってしまった場合には、島が生まれてくるというのです。渦巻いた場合には、島なき所においてこうやれば……。上がる道だから、島が上がってくるのです。掘るのです。掘って、掘る方法、上がる道です。渦巻きはそういう作用をするでしょう? 分かりましたか? そういう作用をすることによって自動的に球体がつくられるのです。分かりましたか? それは上弦と下弦です。弦というのがあるのです。こういうふうにつくると球体になります。核を中心として東西南北、前後左右、皆、生まれてくるのです。だから上がった場合には、もとに帰らなければ滅びるのです。先生が真の父母になった場合に、真の父母どうするや。万民、真の父母を中心として、その家庭のどん底の中で入り、また一番家庭の先端で、また宇宙の先端に上がって、こういうふうにして一つの球体をなしうるのが理想地上天国、天上天国です。分かりましたか? (「はい」) あー、何時になりましたか? 随分たちましたね。日本の歴史もずーっと詳細にやれば、本当は修練会を先生が講義すれば面白いですね。それはもう、創造原理を何年もしますよ。皆、初めに聞いた、後に聞いた、あまり多いから皆、忘れて、こんがらかってしまいますからね。(笑い)こんがらかってしまうから、先生は話をしないほうが、かえって便利かもしれません。 どうですか? 先生の話を聞けば、歴史が今、即然に完成圏に大転換する真っ最中であることを分かりましたか、分かりませんでしたか? (「分かりました」)。今、そうです。外的戦争、唯神、唯物戦争、これは外的蕫体﨟の戦争でした。では、今のペルシャ湾の戦いは何かというと、蕫心心﨟戦争です。心の、悪の心と善の心の戦いです。だからサダム・フセインはもう、自分の国の参謀総長から国防大臣の首を取ったり、サタンの傀首です。そうして何をしようという(のでしょうか?)回教はイエス様の左(の強盗)、右(の強盗)を中心として、バラバです。イエス様のために(代わりに)残ったのはバラバ圏です。バラバと左翼は一つです。右翼と神様、バラバ圏はサタンが復活して一つになって前に立ったし、左翼は左です。分かりましたか? サタンがバラバ圏まで……。(回教は)コーランと刀を抱えていますが、今までそういう宗教はないのです。 イエス様が亡くなられた、その権限を悪魔が先頭に立って、左翼と一つとなって、いつも共産圏はずーっと回教と一つになったでしょう? シリアの大統領を中心として皆、円、団をつくって、世界を脅迫してきています。右翼は神様が後ろにいます。後ろにいて、これが転換しないといけません。転換するには前に来ようとするのだから、これは問題です。これは相対的問題、前後問題です。キリスト教と回教のどちらが先に打つかというと、回教が打ってくるのです。先に打つ者は負けるのです。だからキリスト教は絶対、ユダヤ教を放してはいけないのです。キリスト教とユダヤ教はもう、先生が握っているのです。アメリカは知らないけれど、もう握っています。今、ブッシュ大統領とゴルバチョフの背後の戦乱の解消問題を、先生の提言を中心として話し合っています。それから回教の一番、頭かくは何かというとシリアのグレンドマフティ、それは法王と同じ(ような人ですが、その)人が先生と一体となっています。それでアメリカに連れてきて四十日教育をします。それを完全にして……。回教は今まで戦争を起こして砕くという方法で天的基盤をつくっているのです。だから宗教連合圏を結束したのも、その防備策です。 先生が共産主義撲滅のほかに、もう一つ問題にしているのは回教です。回教のことはもう五十年前に教えています。それが今になって、回るべきときに共にいるというのです。サタンは唯一、生きようと、宗教を中心として前後の争いです。だからこれを防備するには、ゴルバチョフをここに立たせて、ゴルバチョフを中心として悪辣な金日成とカダフィと、それからカストロです。ゴルバチョフ(を入れて)、サタン圏の代表的な四位基台です。四位基台。だからアメリカを中心としてイギリスと一つになって、フランス一体として、三位基台です。キリスト教文化を中心として。それと同じように韓国も盧泰愚大統領を中心として、三金四位基台です。それが一つにならないのです。先生を中心としなければ(一つにならないのです)。それと同じように、アダム国家、エバ国家、アダム、エバを中心と、周辺の中国はアジア的天使長です。キリスト教は世界的キリスト教、神様のほうの天使長です。ゴルバチョフは悪魔の天使長です。アダム、エバを中心に周辺の三人の天使長は、先生によって皆、生かされて、動かされているのです。分かりました? 日本もそうでしょう? 植えたとおりに収穫しないといけません。収穫して、悪いものは地獄に、いいものは天国に聖別させなければなりません。今そのための地ならしをやっているのです。頭翼思想を中心として。共産主義、それから神主義を中心として、頭翼思想で共産主義が救われるし、神主義思想で民主主義が救われます。精神的内容が、統一原理が分かれば、宗教圏のすべてが一つになります。キリスト教はもちろん、社会主義、共産主義が一つになって、神様を中心として本然の郷に帰るのです。何も支障をきたさず、カイン、アベル復帰圏が地上を中心として完全に終了することになるのです。分かりましたか? (「はい」)。終了するようになるのだから、アダムの勝利的長子権と、アダムの父母権。父母が誤ったでしょう? 父母様復帰です。それから父母圏復帰が自動的に、地上ばかりではなく永遠の国の王圏まで、地上圏と天上圏。それは日本がまさしく、サタンのほうで乗っ取って、万世一系の天皇を、八紘一宇の理想、これは神様の理想です。よくも唱えていますね。それを皆、消化するのです。 こうなれば、歴史はまた先生を中心として今、世界的創造をなしえたのです。蕩減条件基準において、祭物たるものは何かというと、時、それから条件物と人です。条件物は世界であり、時というのは末の時期の点が、四千年の、二千年の歴史の今、九〇年を中心として、先生を中心として七十台を超えて八十年に向かう十年間です。この世界を収拾しなければならないから、先生の基盤は世界教授アカデミーを、それから世界言論会、教育と社会指導を旗揚げするのは言論人会議です。それから頂上会談、サミットです。要人たちを消化すれば、いっぺんに世界の新しい……、宗教圏も世界平和宗教連合で……。外的には体を中心として世界平和連合を一体化させてやってしまうのです。それで将来の大統領や選挙においては、必ず宗教圏を結んで一体化させた場合には、いかなる大統領も宗教圏の大統領が立たざるをえないというのです。分かりました? 宗教圏をまとめる力は今までなかったというのです。真の父母が現れなかったから、そういう分裂の宗教圏をなしてきたのです。真の父母圏に帰ろうとする道をつくってきたのだから、あらゆる宗教は真の父母の教えによって完全に収拾一体化されて統一されるのです。そうなった場合には、世界の為政者というものは宗教圏の配下に立つというのです。良心の主体性で肉身が服従するような、もとの堕落しなかった世界圏に戻るための復帰蕩減条件をなしえた場合に、天宙復帰はそのままつながるようになるのです。分かりましたか? (「はい」)。救援の歴史観というものは、こういうふうにして先生を起点として回るようになってきたのです。いかに複雑、いかに膨大な内容かということです。分かりました? その一群れとして君たちは足を入れて、参席した者です。今日の日本のメンバーが統一教会を通して韓国の男、女と祝福されました。これは歴史の家庭の伝統の清冽な始まりです。歴史的です。分かりましたか? (「はい」)。日本に帰りたくないですか? (「はい」)。お嫁に行った女は子供がいる所、自分を生んでくれた親兄弟より、子供を生んだその家をもっと尊べというふうに教えるのが、その女の一家の教えです。分かりましたか? お嫁に行った場合には、絶対帰れと言うの、絶対帰るなと言うの? (「『帰るな』と言います」)。帰るか、帰らないか? (「帰りません」)。帰れ! この者たち。(「帰りません!」)。帰れ! (「帰りません!」)。皆、殺してしまう! (笑い) いろいろ先生の話を聞く前には、何とか日本に帰るように先生に申し出たい人がたくさんいたでしょう? それを一言聞けば、もうすぐにあいさつもしないで飛んで帰るのに、「あー、きょう、しまった、しまった、あー」。(笑い)先生も同じです。故郷だった所をすべて忘れてここまで来ました。それで今から、親を再び考えなければなりませんね。故郷に帰るのだから。昔育てられた山野を思いつつ、子供のときに戯れながら遊んだいろいろな所を思い出します。ずーっと今考えつつ、時たま、時が近寄っているから、先生はすぐ分かるのです。昔遊んだ所、ずーっとこういうふうに昼寝なんか疲れて、……なった場合には、故郷の所に行って、だれか話をします。「あー、これはどうだ、どうだというの」。故郷へ帰る時間がだんだん近寄るのが自動的に分かるようになっているのです。先生はそういうところが普通の人と違うのです。どこに行くか、どういうふうにやるかということを、それはもう知らないふりをしながらも、ちゃんと通過できないのです。分かるようになっているのです。 もともと人間は自分の生来の理想の道を、理想の生涯の道を自動的に分かっていくようになっています。だれかに教えられて行くのではないのです。君たちは聞いたことがあるでしょう? 大きな船なんかが出航して、航路に立つ場合に、途中で破船状態になるといった場合、だれが先に知るかというと、ネズミが先に知るというのです。ネズミがそういうことを分かって、出航する前夜にロープを、もやい綱をつたって、皆、陸地に出ていった場合には、その船は破船してしまうというのです。そういうふうに動物自体が知るのに、万物の霊長が知らないということは、話になりません。真の愛を中心として真の生命と真の血統を受け継いだとするならば、そういう宇宙の権限を振るいながら栄光の生涯を残すべきなのに、堕落の血統、堕落のサタンの神様の怨讐です。神様の怨讐は何の怨讐ですか? 愛の怨讐です。姦夫です。女を三つやって(書いて)姦夫でしょう? 姦夫、知っていますか? (「はい」)。姦夫は何ですか。自分の愛する奥さんをどろぼうして取る人を姦夫というのです。まさしくエバというものは、神様の奥さんです。そうでしょう? 外的奥さんです。 なぜ神様はアダムとエバをつくったかというのが問題です。なぜ! それは繁殖のためです。分かりました? 繁殖。マルティプライ。子孫を増やすためです。子孫を増やして何をするや? 膨大な天国の国民を増やすためです。それを解明しました。霊界に行けば繁殖ができるかというと、絶対にできません。なぜかというと神様の愛は垂直に一点しかないのです。一点に立つのです。垂直の道をたどるのだから、垂直には繁殖の道がありません。分かりました? なぜ横的な基準の愛の基台たるアダムとエバをつくったかというと、これは東西、水平だから、これは回るようになるというのです。一八〇度の平面圏は無限にあります。だから繁殖はあらゆる方面に可能であるというのです。だから地上の膨大な平面圏の繁殖者たちを霊界(に)連れて、天国の国民を成す永遠の国民を繁殖するための所が、生産地が地上です。男、女たちの体を借りて、子供の生産工場です。霊界では子供を生みません。そうしたら(霊界では)愛の関係を結ぶことをしないかというと、することはできます。しなくても、本心の真ん中に行って女、男はずーっと喜ぶような衝撃を受けた場合には、夫婦関係をする以上の力を、衝撃を体恤するというのです。ゼネレーターがあるでしょう? 発電機を通じて、ここでスパークするより、発電機自体の中で刺激する、ことより負荷をかけて出すよりは、もっと強いという話です。そういうふうに見た場合に、本当に愛する女をずーっとずーっと見れば、そこに自分の旦那さんがちゃんといるのです。一体です。 神様がそうでしょう? 二性性相があったのと同じように、二性性相をかなえるような、……結局は神様に帰るのです。真の愛を中心として一体となったというのは、神様の友達になるというのです。神様はその中に入るのだから。男の中心、女はそうでしょう、女は相対圏に立つのだから、中心を回るでしょう。女が男を中心として回るようになっているのです。女を中心として回るのではありません。だから心を中心として体が回るし、そういうような男は中心になったから、女はこれを中心になるのです。神様はどこにいるかというと、心の中にいます。分かりましたか? 良心と肉身の一番焦点、とどまる軸の垂直線の下の軸です。だから神様はそういう一番見えない所に、見えないように神様はいるのです。見えるものは実体を借りていた見える良心の実体は夫婦実体が肉身を中心として、フォームを持って、体を持って形を持っているのですが、神様は形を持っていないから、良心の下にあるのです。何の話か分かりましたか? 男、女はこう、下のほうにプラスになったりすると、それを垂直基準で見た場合には、上下、天地、すべてつながるような上下関係と、平面関係はこの下の方にあると、いうのが見えるのです。だから神様に帰るのです。分かりました? もうイエス様が主様ではありません。神様はお父さんにもなる、お父さんみたいな存在であり、兄さんみたいな存在であり、夫みたいな存在であり、子供みたいな存在であるのです。神様はそうでしょう? 神様がいれば、神様を一つ主体として完全に得たとするならば、そこにはお父さんを得たより、兄さんを得たより、旦那さんを得たより、子供を得たよりもっとうれしいというのです。だからすべてを、霊界に行くときには、自分の父母を連れて行くのではありません。先に行っているのだから残していくし、自分の相対者も残していくのです。自分の子供も残していくのですが、真の愛に属した場合には、神様とともにすべてを補えるような環境を得られるのです。お父さんと言ったらお父さんです。兄さんといえば兄さん、旦那さんといえば旦那さんの声。それから子供がいた場合、神様にそういうような体恤は十分に得られるのです。だから神様を得た場合には、何も永遠に憂うことがありません。 だから得るもの、得るもの、神様が得られるすべてのものは、私が真の愛の立場に立った場合には、神様と同じものを、いずこにおいても、どこでもいつでも得られるのです。分かりましたか? 一挙に百万人のバンケット、素晴らしい宴会をするのは、すぐ自分の愛の相対を中心として神とともになしうる! としたら、すぐ数万人のバンケットが現れてくるというのです。食べ物も何でも食べられるし、着物は金の着物を着ようとしたら、何よりも細い金の革で作った着物をちゃんと着られるのです。何か音がするのではありません。それはもう、ぐにゃぐにゃにして縮むのではなく、肌の着物よりも柔らかい気持ちでもって着られるのです。それで皆、ささやくと、皆、通ずるというのです。それで自分の肌についた場合には、喜ぶ感情を共に感じるというのです。分かりましたか? (「はい」)。嫌な思いをした場合には嫌な感情をすぐに修正することができるような、すべてが通ずるのです。だから真の愛はすべてに共通! 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.21
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人類の涙をぬぐう平和の母 自叙伝 / 韓鶴子 【本】韓鶴子総裁自叙伝『平和の母』より:第六章 平和の母、凍土を越えて世界の果てまで2. 凍土の王国を崩した勇気ある一歩「いずれ冷戦という言葉は過去のものになるでしょうね」「表向き、そう見えるだけですよ。ソ連はいまだに持ちこたえているし、共産主義はまだ多くの国で勢力を伸ばしているのに、平和がそれほど簡単に訪れるでしょうか?」「簡単ではないでしょうが、誰かが必ず、平和をもたらしてくれると信じています」一九九○年になり、人々は今後、世界がどのように変化していくかについて、様々に意見を交わしました。確かに、表向きは和解の時代に入りましたが、水面下ではなおも冷戦の不気味な潮流がうごめいていました。また、世界の三分の二を支配していたソ連は、自由主義の国々を共産化しようとする野心を捨てていませんでした。私たち夫婦は、世界をじわじわと締めつけ、 苦しめている冷戦を、もう終わらせなければならないと決心しました。たとえ命を懸けることになったとしても、凍りついた大地、モスクワに入り、ゴルバチョフ大統領に会うことにしたのです。その決断は、既に当時から遡って十四年前に下されていました。一九七六年、大成功で終わったワシントン・モニュメント大会の翌日である九月十九日に、私たち夫婦は重大な発表をしたのです。それは共産世界を解放するため、モスクワで大会を開くという宣言でした。モスクワのクレムリン宮殿を切り開いてこそ、神様と人類を解放することができるのです。しかし、人々の反応は冷ややかでした。ある人は、まさに無謀なドン・キホーテの虚言だとあざ笑いましたが、私たち夫婦は、「モスクワに行く」と言ったことを一度たりとも忘れませんでした。共産主義との戦争は、政治体制や単純なスローガンの闘いではありませんでした。「神はいるのか、いないのか」という問題だったのです。その戦争の真の目的は、共産世界を解放して神様を迎えるようにすることでした。冷戦時代、自由主義世界の人々が何も知らないうちに、もしくは知っていても知らないふりをし、恐怖に捕らわれて戸惑っている間に、共産主義世界では数え切れないほど多くの人々が、苦痛に満ちた生活を強いられていました。彼らを救うため、私たち夫婦はソ連を凌駕しなければならなかったのです。しかしソ連は、決して与しやすい国ではありませんでした。ゴルバチョフが改革を掲げていたとはいえ、クマが国を象徴する動物であることからも分かるように、依然共産主義園のトップとして鉄のカーテンの奥に構える、冷血で屈強な国でした。モスクワに行く少し前、私たち夫婦は統一教会の元老信徒たちに会って時間を共にしました。多くの信徒が、何とかして私たちを引き止めようとしました。「なぜ危険な共産主義の本拠地に、あえて行こうとされるのですか?」しかし何ものも、私たち夫婦の意志を曲げることはできませんでした。文総裁は信徒の顔を一人一人眺めた後、思いがけない言葉を発しました。「統一教会の第二教主を決定する時が来ました」突然出てきた「第二教主」という言葉に、誰も、何も言えませんでした。文総裁はもう一度信徒を見回した後、ゆっくり口を開きました。「私がいなくても、お母様がいればいいのです」この瞬間、「統一教会の第二教主」としての、私の重大な使命が明確になったのです。人々は驚いていましたが、私は静かにその言葉を受け止めました。世を救う独り娘、平和の母としての使命は、既に三十年前から与えられたものでしたが、私は文総裁が最前線で摂理を率いていけるよう、内助に最善を尽くしていました。その日、第二教主を発表したのは、モスクワで起こり得る不測の事態に備えながら、今後のことを念頭に置いた上での措置でした。その後、一九九〇年三月二十七日、統一教会の名節(記念日)の一つである「真の父母の日」を迎え、アメリカのニューヨークで行われた記念礼拝で「女性全体解放圏」が宣布されることで、私は統一教会の第二教主となりました。その後、一九九四年十一月二十七日には、ニューヨークのベルベディアで第二教主としての私の公的使命が改めて公表され、その意義が強調されました。十六万人の日本人女性教育と各国での大会が終わり、私の役割がさらに重大になっていた頃のことです。その日、私は信徒たちの前で、「みな一つとなり、真の父母の伝統を立てる家庭になることを誓いましょう」と決意を促しました。また、一九九一年六月には、カナダのクレアストーンの本館で「顧命性宣誓宣布」が行われました。「顧命」とは、「王の遺言」を意味する言葉です。文総裁は御自身が聖和した後も、私が神様の使命を引き継いで果たしていけるよう、日本の女性代表が責任を持って真の母を支えていくべきことを、顧命として宣布されたのです。この宣布には、日本が真の母と一つになり、世界を抱いていかなければならないという使命も含まれていました。このように文総裁は、幾度にもわたって、御自分が不在となる万一の場合に備えられたのです。一九九〇年四月、モスクワで「世界言論人大会」が開かれました。ゴルバチョフは、大会に参加した世界の指導者たちをクレムリン宮殿に招待したのですが、その中で女性は私一人だけでした。ソ連の大統領執務室は出入りを厳しく制限していましたが、私は特別待遇を受けたのです。私たち夫婦は、ゴルパチョフに「中南米統合機構(AULA)」が制定した「自由と統一のための大十字勲章」を授与した上で、彼の手を握り、祝祷しました。「この大統領を神様が祝福してくださいませ」無神論を主張する共産主義世界の宗主国、ソ連。そのソ連の大統領執務室で、神様の祝福を願う祈祷をするということ自体が、共産主義の体制上、異例のことでした。祈持を終えて談笑していると、ゴルバチョフが私に向かって言いました。「韓服がよくお似合いですね、本当にお美しいです」私もすぐに返しました。「ライサ夫人こそ本当にお美しいです。世界中の女性が尊敬しています。明日、ライサ夫人にお会いできるのを楽しみにしております。夫も申し上げましたが、大統領は本当にハンサムでいらっしゃいますね」お互いに賛美し合う中で、雰囲気が次第に和やかになっていきました。ゴルバチョフは気分が舞い上がったのか、豪快に笑いました。私はこれが祈祷の力であり、役事だと思いました。その後に行われた会談により、世界の歴史が変わりました。文総裁はためらうことなく、ゴルバチョフに向かって忠告をしました。「ソ連の成功は、神様を中心とするか否かにかかっています。無神論は自滅と災いを招くだけです」ソ連が生き残る道は、共産主義革命の父と呼ばれるレーニンの銅像を撤去し、宗教の自由を認めることだけである。さらに、共産主義を終わらせ、神主義を受け入れなさい、と堂々と語ったのです。ゴルバチョフの顔には困惑の色がありありと浮かびましたが、最後には私たち夫婦の言葉を受け入れました。それまで、クレムリン宮殿でそのような話をした人は一人もいませんでした。世界が固睡を飲んで見守った会談は、成功裏に終わりました。その時から、ソ連は急速に変わり始めたのです。それは単なる変化を超え、もはや革命とも言えるものでした。特に、私たち夫婦と統一教会に対する、ソ連およびゴルバチョフの信頼は、次第に大きくなっていきました。私たちは三千人を超えるソ連の青年や教授をアメリカに呼び、教育を受けさせました。その後、ソ連にクーデターが起き、しばらく混乱が続きました。ゴルバチョフが改革と開放を勢いよく進める中、共産主義体制における保守派がクーデターを起こし、大統領をクリミア半島のフォロスに軟禁したのです。しかし、幸いにも彼は九死に一生を得て、帰ってくることができました。また、開放政策を通してソ連が民主主義に向かう中で、私たちが教育した大学生や青年たちがクーデター派の指揮下にあった戦車に立ち向かい、身を挺して阻止するということもありました。彼らはゴルバチョフとエリツィンが再び手を取ってソ連を解体し、冷戦を終息させるに当たって、牽引車の役割を果たしたのです。文総裁と私がゴルバチョフの執務室で捧げた「この大統領を神様が祝福してください」という祝持が、天運をもたらしたのです。一方で、私たちは会談よりずっと前から、ヨーロッパの若者を中心に、ソ連と東ヨョーロッパに地下宣教師を密かに派遣していました。青年メンバーがある日突然、姿を消すので、周りの人々は気掛かりに思ったことでしょう。彼らは東ヨーロッパの主要都市に入り、地道に活動を続けて、ソ連を崩壊させるとともに民主主義を定着させるに当たって、一翼を担ったのです。ゴルバチョフとの会談から一年八ヵ月後、ソ連共産党が解体され、凍土の王国は歴史の表舞台から消え去りました。一九一七年の十月革命以来、七十数年の間、世界の三分の二を支配下に収め、数億に上る人々の血を流し、人類を恐怖に追いやった共産主義の宗主国、ソ連が、ついにその赤旗を下ろしたのです。これは、神様を否定する無神論の世界観が敗北したことを意味しました。さらに、葛藤と闘争、憎悪の哲学の限界を暴き出し、共産党の独裁体制の崩壊を宣言したことになったのです。振り返れば、私たち夫婦のソ連入国、およびゴルバチョフとの会談は、薄氷を踏むような一世一代の冒険でした。しかし、それが共産主義の力を失わせ、世界の版図を変えるに当たって、決定的役割を果たしたのです。ゴルバチョフとの会談後、私たちはこれから大きく変わりゆく世界において、実質的に平和をつくり上げていける団体が必要だと考えました。その頃、世界に暗い影を落としていたのは、宗教の衰退と道徳性の喪失、そして共産主義の浸透でした。その中で共産主義は、私たち夫婦の三十年以上にわたる努力により、宗主国のソ連ですら解体され、力を失うという結末を迎えました。しかし宗教問題は、いまだ非常に深刻な状況にありました。宗教指導者たちが解くべき宿題とは、いかにして宗教紛争を防ぎ、疲弊していく宗教が再び人生の羅針盤となるようにするか、ということでした。その土台の上で、道徳性を回復していく必要があったのです。私たちはこの使命を果たすために百二十ヵ国を巡回し、「天宙平和連合(UPF)」を創設しました。真の平和世界をつくるために汗を流す人々と団体を一つに束ね、地球村の毛細血管のような役割を果たせるようにしたのです。各界各層の名だたる人々が私たちの志に共感し、平和大使になりました。二〇〇一年に韓国の十二都市でスタートした平和大使活動は、すぐに世界各地へ広がっていきました。彼らの純粋さと、その意義深い活動に感銘を受け、今や百六十以上の国で百万人を超える平和大使が、真の平和を根づかせるため、それぞれの分野で様々な行動を起こしています。また、国連の経済社会理事会から特殊諮問資格を得た NGOにもなっています。さらにそこから発展して、国連に加盟した国々が自国の権益だけを主張し合い、地球上で起こっている紛争をいまだに解決できていない現実において、真のビジョンを提示する「真の父母国連」をつくり、世界各地で奉仕活動を展開しています。平和大使は、様々な専門分野の人々が参加し、世界の隅々まで訪ねていって平和を実践しています。紛争のある所、貧困によりまともに教育が受けられない人々がいる所、宗教的対立がある所、病気で苦しんでいても治療を受けられない人々がいる所を訪ねてその痛みを治癒し、より良い生活ができるように、献身的に活動しているのです。『ファミリー』’90.8月号からです。真の父母は唯一であり、一カップルだけなのです。他には絶対的に存在しません。お金もいつまでもあり、知識もいつまでもあり、権力もいつまでもあります。しかし、真の父母はいつまでもいないのです。 真の父母は一時的に地上にいるだけです。皆さんはその唯一の時代に生まれて真の父母に出会うことができたのです。そして統一原理を真の父母から教育を受けているということは、どんなに貴重なことでしょうか。皆さんの置かれている立場はどんなに貴重なことでしょうか。……ですから、先生が一人でいても父母の代身であり、お母様が一人でいても父母の代身なのです。統一教会員たちの中で、「レバレンド・ムーンは、古稀の祝いの七十歳を過ぎたのに後継者がいない」などと話している人がいますが、そんな話はやめなさい。お母様はまだ四十七歳にしかなっていないのです。私たちには、父母が生きているのです。多くの息子や娘がいるのです。ですから心配することはありません。……先生が第一の教主であれば、お母様が第二の教主なのです。第二の教主は何かというと、祭司長なのです。もしお母様が宣教本部に行ったとしても、「なぜお父様は来られないのですか」などと聞いてはなりません。「父母の日と私」一九九O年三月二十七日アメリカ・ベルベディアにて すべてがぺアシステムに 私たちは統一教会の信者ですが、「統一」という言葉の意味が分かりますか。私たちはこの地上において生活する中で、目が二つあり、耳が二つあり、手が二つあり、心も二つあります。また世界を見ても、分裂した二つの世界があるのです。それは、悪いものだけを中心としてのぺアになっているのではありません。たとえば口から出る言葉は、悪い話もするし善い話もするのです。目も善いものも見るし、悪いものも見ることができます。また耳や足も、すべてのものがそのようになっているのです。ですからこの肉体も、二つの行動を取るのです。それは悪い行動と善い行動です。 そのように全部が二重になっているこの善悪の混乱状態を克服するためには、これらを一つにしなければなりません。では、なぜそのような状態になったのでしょうか。なぜ一つになれなかったのでしょうか。それは、堕落のゆえであり、その起源がどのようになっているのかという問題をたどってみると、創造原理に反対する行動を取ったからです。 それでは、創造理想の中心は何だったのかというと、神様の創造理想の中心は、神様の愛であり、神様の生命なのです。その次に、神様の血統があったのです。神様一人だけでは完成できないので、一代、二代、三代、四代と、連結させながら拡大させるために血統が必要なのです。 きょうの題目は、「父母の日と私」ですが、この「私」という存在が問題なのです。もし堕落がなかったならば、神様の愛と、神様の生命と、神様の血統が直結するようになっていたのです。皆さんが「私」と言う時に、「私」というその存在は歴史的なすべての血統の結実なのです。それを大きな木にたとえてみるならば、大木の一つの葉、一つの枝になるのです。そして、根から幹、枝、葉まで、全部連結されて一つになっているのです。そのように一つになった所に花が咲くのです。そして花が咲いたあとに実が実るのですが、その実はすべての葉や、枝や、幹、根の要素を支配するのです。 そこで皆さんの立場は何かというと、そのような一つの実であるから、全部が人類を代表したものであり、葉や、枝や、幹がすべて連結されているのです。ですから皆さんは花と咲かなくてはなりません。その花には、メシべとオシべがありますが、それらは一つにならなければなりません。皆さんもお父さんお母さんに聞いてみなさい。お父さんとお母さんが一つになって皆さんは生まれてきたのです。 ですから、父母と子供たちは連結しているのです。そして、その関係は男性一人ではできません。自分が親になろうとすれば、相対が必要なのです。男性と女性 が必要なのです。人間は自分一人で生まれることはできません。それで最近のアメリカでは、ホモセクシャルのグループやレスビアンのグループがありますが、男性同士で暮らしたり、女性同士で暮らしたりするそのような若者たちは皆異常な人々です。狂った者たちです。それらはすべて宇宙の原則から外れているのです。そのような状態は問もなく終わる時が来ます。 それでは、根源が真の愛であり、根源が真の生命であり、根源が真の血統であったならば、それがどこかに行って分からなくなるのではなく、ここに結果がなくてはならないのです。そのためには愛がなくてはならないし、その次には生命がなくてはならないし、血統がなくてはなりません。初めに、本然の真の愛、真の生命、真の血統があったのです。それが根源であるために現在の私たちが存在するのです。それらは原因と結果の関係です。すべての人々が愛と生命と血統を持っているのです。皆さんも持っているのです。 そこで、すべての人々はそれらを求めるのです。しかしそれは一人ではできないので、すべてがぺアシステムになっているのです。相対が必要なのです。それが絶対的公式なのです。相対一つになれずしては繁殖がありません。 それでは、なぜ相対が必要なのでしょうか。このぺア過程を経て、初めて字宙の根本である神様の愛と、神様の生命と、神様の血統を得て、その生命圏を所有することができるのです。一人では所有できないのです。愛は縦的であり、その愛に生命と血統が会わさって縦的歴史を綴ってきたのです。それは、ジグザグではなく垂直なのです。子供たちは垂直で縱的な線です。真の愛は最短距離を通過するのです。 皆さんが愛する人に会う時、遠回りしてから会いますか、最短距離を通って会いますか。最短距離を通って会うようになっているのですね。それはなぜかというと、愛を中心にした血統は、すべて縦的な直線によって連結されているからです。皆さんの祖先のラインがどうなっているのかということが問題なのです。聖書によれば、人類始祖が堕落したというのですが、そのことは何を意味するのでしょうか。一枚の葉が落ち、一本の枝が折れたというのならば問題ないのです。しかし、根が間違ってしまったのです。 本来、堕落しなかったならば、人類始祖であるところのアダムとエバは真の父母として、真なる愛と、真なる生命と、真なる血統を連結した真の父母にならなければなりませんでした。そうでしょう。それが創造理想に一致した姿、統一した姿です。しかし、堕落によってそこに何が入ったかというと、サタンの血統、サタンの生命です。アダムとエバは、成熟し完成する前にサタンの愛を中心として連結したのです。それが問題なのです。そのために、それらが垂直にならずに、偽りの愛の血統になり、地上が全部もつれてしまったのです。 皆さん、原則的でない偽りの愛は、あちこちに辿っていくんですね。そうでしょう。なぜかというと、それは良心が一つにならずに二つに、両方に別れているからです。良心とこれが(先生が板書される)重直になっていなくて、このようになっているのです。 アメリカの人々は最近フリーセックスだとか言っていますが、そのような人々は罰を受けるのです。このことは何を言うのかというと、アダムとエバが不倫の愛の関係を結んで青少年時代に堕落したと同様に、植えた種が終わりの日には実を結んで今日、滅びていくのです。それらは破いて火に投じてしまわなければなりません。アダムとエバの偽りの愛の終わりの時、収穫の時なのです。そこで現代の青少年のフリーセックスという堕落した愛の道になっているのです。ですから、これを切ってしまわなければなりません。 さあ、このように見た時に、統一教会は何をしなければならないのでしょうか。何を教えるのでしょうか。それは単なる教理ではなく、原理であり、人類の原理公式なのです。この原理をもって生活しなければ、天の国の本然の愛の完成、人間の完成である個性完成、家庭完成、氏族完成、民族完成、国家完成、世界完成、天地の完成が不可能なのです。そのような原理を教えてあげるのです。 「原理」という言葉は、「公式」ということと同じであり、「原則」ということと同じです。公式には、誰もがそこに合わなければなりません。公式とはすべてのものが一つに合うことです。皆さんは原理によって、サタン世界、この悪なる世界がどうなるのか、また善なる世界がこれからどうなるのか、この二つの世界を確実に知ることができるのです。 全体のための愛の世界 このように人間は、正しいことに焦点を合わせようとしています。そこに真の愛、真の生命、真の血統が集中するのです。それは三位一体と同じです。一つも外すことができないのです。生命を除けば愛がなくなるし、愛を除けば生命が死んだものになってしまうのです。皆死ぬのです。三位一体が先なのです。 それで、神様の愛が、神様の生命が、神様の血統が皆さんを通して永遠に生きていくのです。ですから、神様の愛がどこにあるかというと、「私」にあるのです。神様の生命、神様の血統は「私」にあるのです。もし堕落がなかったならば、そのような「私」になったのです。しかし、堕落によって、サタンの生命、サタンの愛、サタンの血統の「私」になったのです。 それでは、サタンの愛は何かというと、それは自己中心的な愛です。しかし神様の愛は、すべてに本質的に為に尽くす愛であり、全体のための愛の世界であり、愛が全体のためにあるのです。自己のためにあるのではありません。今日のアメリカがこのような個人主義の国になったということは、完全にサタンの主管圏内に落ちてしまったのです。それをひっくり返さなければなりません。フリーセックスは、サタンが神様の原理、神様の愛圏、神様の生命圏、神様の血統圏を一OOパーセント破綻させようとする戦略なのです。今までの世界は、サタンが先頭に立って、人類をすべてサタンの側へ連れていきました。そのまま地獄へ連れていくのです。 さて、世の中で一番凶悪で恐ろしい怨讐が何かというと、愛の怨讐なのです。そうですか?(はい)。皆さんはそのことをよく知らなければなりません。神様は「怨讐を愛せよ」と言われるのに、悪魔サタンは愛することができないのです。サタンの側の人も、神様は愛することができるのですが、サタンは愛することができないのです。本来、人間は堕落しなかったならば、神様の息子、娘となる立場にいたのですから許すこともできるのですが、サタンはそれができないのです。サタンは天使長であり、僕なのですが、主人のものを全部奪ったのです。妻を、嫁を、后を強奪したのです。悪魔が何かというと、愛の怨讐なのです。神様の愛、神様の生命、神様の血統が、神様の怨讐になったのです。 サタンとは、どんな種類の怨讐かというと、それは神様の愛、神様の生命、神様の血統の怨讐なのです。堕落によって何が起きたかというと、神様の愛、神様の生命、神様の血統ではなく、サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統になってしまったのです。サタンが世界を主管しているので、誰も繁栄することができないのです。サタン側の世界なのです。そのような使命がまだ残っているのです。 では、神様はなぜ天地を創造されたのでしょうか。神様は一人で暮らすのがおもしろいのでしょうか。神様一人では幸福ではないのです。神様は愛の相対を必要として創造されたのです。 それで、絶対的な神様は全知全能であられても、愛のために創造された後に、「あなた方のために絶対服従するので、あなた方も私に服従しなさい」と言われるのです。真の愛には絶対的に服従するのです。ですから神様は愛のために創造されたのです。神様は為に生きる愛を強調して、一OOパーセント投入したので、愛の相対は一OOパーセント以上になるのです。愛の相対が自分よりも優れることを願うのです。神様が一OOパーセントの愛を持っておられるとすれば、その一OOパーセントを完全に投入されるのです。そのように完全に投入して愛することのできる段階になった時には、神様は完全に零になってしまうのです。なぜならば、愛の対象が自分よりも優れていることを願うのが愛の本質であり、本性だからです。 皆さんに聞いてみましょう。皆さんが結婚したならば自分の夫や妻が、自分よりも劣ることを願う人がいるならば手を挙げてみなさい。一人もいませんね。そのような性質は誰に似て、どこから来たのでしょうか? (神様からです)。先祖は一つの神からです。また、皆さんの愛する息子が、両親よりも劣ることを願う人がいれば手を挙げてみなさい。(笑い)それはどこから来たのでしょうか? (神様からです)愛の対象は、男女の愛、父母の愛が一番の人生の根本なのです。愛が主体の自分よりも相対の優れることを願う本性はどこから来たのかというと、神様がそうだからです。神様から受け継いだのです。結果的存在である私たちにこのような性質があるということは、原因として存在する神様も同じものを持っているということです。原因と結果、始めと終わりは、同じ性質のものが世代を経て受け継がれていくのです。始まりは、統一された一つのものであるということを意味しているのです。 それで、神様も愛する相対をつくられた時は、神様自身よりも優れたものをつくられたという論理は、正しい答えであります。神様はすべてを投入して創造されたのです。人間を絶対視してつくられたのです。それを知らなくてはなりません。そのように考えると、愛は自分から生じるものではなく、相対を通して生まれてくるのです。ですから、愛を受けたいと思う人は頭を低くしなくてはなりません。このようにしなければなりません。(先生がしぐさされる)男性も女性も水平にならなくてはなりません。「どうか神様が垂直に下りてきてください。そして私たちの真ん中に届いてください」と。 真の愛の方向は、最短距離なのです。絶対的な愛による創造の絶対的一点のポイントがどこかというと、縦的なラインなのです。それをつかめばすべてのことが解決するのです。そこを中心としてアダムとエバが生まれ育って、九十度で成長したのです。そして成熟すれば再び四十五度で二重になって会うのです。縦的なラインで会うというのです。九十度で下りてきて四十五度を求めていって、四十五度で会うのです。 宇宙的な血統を代表する私 男性は東側のほうで、女性は西側のほうで成執すれば、「ああ、私たちは世界のすべてを学んでいくのだ。そして、学んだ結果は男性は女性のために、女性は男性のために生まれたということを知りました。ですから互いに会わなければなりません」となるのです。それは、この中心線でです。 さあ、見てください。このように立つとすれば、男性は女性の右側のほうをつかまなくてはならないし、女性は左側のほうなのです。女性がそうなれば、このように回るのです。時計はどのようになっていますか。地味はどのようになっていますか。東のほうからではなく西のほうからです。そのように回っていくのです。それで、このように(先生がしぐさされる)回るのです。(笑い)女性は毎日このセンターにぶつかるほどに近づいて、男性はこちらのほうをつかんで回っていくのです。(先生がしぐさされる)(爆笑)これが理想です。回るのが理想なのです。(拍手)回るのに何の抵抗もありません。完全に回るのです。(拍手)そこには反対もないのです。天地のどこに行っても、いかなる地の果てに行っても歓迎されるのです。 そのように全世界の人々が回っていくならば、神様はどこに行かれるのかというと、神様は中央で眺めながら、「ああうれしい、ああ全部私に似ているなあ」と喜ばれるのです。しかし、縦的中心が必要であって、それがなければ全部が逆さまになるのです。 皆さんはそのようになっていますか。真の愛は宇宙のために生じるのです。真の愛は宇宙の中心であり、縱的ラインなのです。ですから、愛を求めていくためには、世界や宇宙を考えなければなりません。宇宙的愛を考えなくてはなりません。私たちは宇宙的な血統を代表しているのです。ですから、この世界が私に、「与えよ」と言う時には、いつでも神様のように与えることができなくてはなりません。 それで、真の愛がどこに来るかというと、縦的ラインを通して下りてくるのです。水平ラインではありません。縱的ラインにつながっていれば、いつどこへでも供給することができるのです。すべての人々が縱的其の愛と、宇宙的意識を持って暮らすならば、神様の息子、娘となるのです。ですから、真の愛のあるところには、真の生命力が常に供給されるのです。真の生命があるところには、常に真の愛と真の血統がつながるのです。 血統は、一人ではできません。そのためには結婚しなければなりません。血統は男性と女性の縱的ラインにつながった伝統が必要なのです。そうして、真の愛、真の生命、真の血統を受け継ぐ時には、そのすべての枝は私の枝であり、その葉も私の葉であり、その幹も私の幹であり、その根も私の根となるのです。それですべての世界の人々は、私の兄弟姉妹であるというのです。ですから東のほうの根であっても、西のほうの頂上であっても、どこへ行ったとしても妨害するものがないのです。国境がないので、そこには税金もいらないのです。 ですからサタン世界の国境、すべてを撤廃してしまわなければなりません。真の愛があれば、文化や国境など問題ありません。統一教会の合同結婚式に参席すれば、文化の壁も崩れ、国境もなくなるのです。一つになるのです。皆さんはアメリカ人ですか、どこの国の人ですか? (宇宙的な人種です)。(天国人です)。私たちは統一国の国民なのです。(拍手)。 統一国の中心は何かというと、本来の神様の愛であり、絶対的に為に生きようとする愛です。自分のためにではなく、一OOOパーセント自己を投入する愛です。それで、絶対的に為に生きようとするところには、循環法則によって無限の力が介在するのです。為に生きれば、絶対的に永遠に、絶対的力につながるのです。 もう皆さんは、何が必要なのか分かったでしょう? (はい)。明確にですか? (はい)。今や皆さんは偉大な人物です。最も偉い人です。(拍手) 皆さん、考えてみてください。自国のために生きたアメリ力は、世界を失ったのです。第二次世界大戦以後、アメリカに全世界を任せたのに、アメリ力は世界を失ったのです。「オー! 世界はアメリ力の下にあって、私のものである。天も地もアメリカを中心として、ペッ、ペッ、ペッ(つばを吐くしぐさをされる)」と。この者たち! 神様が願われたのは、アメリ力が神様を中心として全人類のために奉仕することだったのです。 かつて、イスラエル民族がイエス様を捕えて殺してしまったのは、「オー! 主が来られれば、イスラエル民族を中心に世界中をみな踏み付けてしまおう」と思ったからです。イスラエルが一番ではないのです。神のみ旨はイスラエルを犠牲にして、世界を自分の懐に抱こうとしたのです。イスラエル民族を中心にして世界を抱こうとしたことが間違ったのです。イエス様は全世界、全宇宙を抱きたかったのです。神様もそうです。しかし、それができなかったのです。イエス様は宇宙を懐に抱いていたのです。イスラエル民族を抱いたのではありません。 統一教会も同じです。我々の教会が世界を支配するというのではありません。統一教会の人々を犠牲にして世界を救うのです。この点が違うのです。ですから、この宇宙を救って、その宇宙を通してのみ統一の愛圏、統一の生命圏、統一の血統圏が垂直に通じるのです。それが解決であって、他の道によっては絶対に不可能なのです。これが最後の道なのです。 統一教会は人種問題や東西問題、文化の問題や貧富の差の問題をすべて解決するのです。その鍵が何かというと、真の愛なのです。真の愛は自分自身のためではなく、他のために生きることです。分かりますか。自分中心はサタンの生き方です。自己中心に生きる人は、先生と関係ありません。他のために時rを使うことは、自動的に繁栄につながるのです。なぜならば、それが神様の創造だからです。本来の神様の概念だからです。正確に、それが宇宙的力につながっているのです。ですから自動的繁栄につながるのです。分かりましたか? (はい)。 世界をどのようにしたらよいのでしょうか。それは簡単です。アメリ力はアフリ力の僕になることです。神様が占領する、所有する方法はまず犠牲になってから取り戻してくるのです。先に打たれてから奪ってくるのです。迫害されて、所有権を得るのです。レバレンド・ムーンは常にサタンに迫害されて、サタンの所有権を獲得してきたのです。ですから宇田がこのしバレンド・ムーンを保護して繁栄させるのです。これが歴史の秘密です。分かりましたか。腕を殴られたとしても、なぜ殴られたのか分からないのですね。しかし、殴られたことを良いように考えるのです。そして「ああ、私が殴られたのは、あなたが私よりも立派であるからです」と受け取れば、その時より大きな思想に変わるのです。他に方法はありません。ですから、レバレンド・ムーンは、アメリカが私を殺そうとした時、『ワシントン・タイムズ』をつくり、『インサイト』をつくり、『ワールド&アイ』をつくって、アメリカを救ってあげようとしたのです。アメリカの若者たちのために、このような思想を植えておいたのです。ですからアメリカは滅びません。皆さんが生きていれば滅びることはありません。(拍手) 健全な社会を築く統一主義 さて、絶対的愛を必要とする神様も、為に生きる愛から出発したのですから、すべての被造世界で為に生きる思想を持てば、鉱物世界、植物世界、動物世界、人間、神様まで連結するようになっているのです。それは何を中心とした思想かというと、愛の対象を求めるためであり、自分以上により良い愛の対象をつくろうとするものです。ですから、すべての万物も愛の対象として吸収されて、愛を中心としての関係を結ぶようになっているため、鉱物も、植物も、動物も、全部がぺアシステムになっているのです。 神様が縱的愛を中心にして、また横約愛を中心にして、これはこのように(先生が板書されながら)創造をしていくので、全部がこのような十字の軸を中心にした平行線なのです。(先生がチョークを打ちながら)すべての存在がこの十字を中心にしているのです。どんな動物であっても、いかなる人間であっても、何の組織であっても絶対にここを中心として、このような同じ立場で、このような形を描いているのです。 これらは家族を中心として兄弟や氏族、民族に連結するようになっていることを知らなければなりません。鉱物世界もそのようになっているのです。みな同じなのです。水平のラインがこのように対応し、縦的なラインがこのように対応して、これらが全存在のための土台になるのです。そして、縱的基準は誰も侵犯できないのです。それは横的に侵犯しようとしても奪い取ることができないのです。例を挙げれば プラスイオンとマイナスイオンは全部が一つになろうとしても、相対的になっていなければ強制的にも一つにすることができません。 ですから、ここで進化論でいうように、形態や構成が同じものであっても一つにはならないのです。進化論からすれば、アメーバもオスとメスによって、段階を経つつ、数千種の愛の門を通してから人間が生まれると言うのですが、そこには理論的な根拠を見いだせません。どのようにして、愛の門の段階を通過することができるのでしょうか。アメーバから人間の男女まで、どのような段階を通過してきたのでしょうか。非常に多くの段階が必要なのです。どうして愛の門を通り抜けることができるというのでしょうか。この者たち! もし愛し合う夫婦以外の誰か第三者が入ってきた時に、受け入れることのできる人は手を挙げてみなさい。 健全な社会を築くことが統一主義です。今日見られるような社会の発展は何のためでしょうか。アメーバから猿まで発展してきたからだと言うのですか。この君たち! 男性と女性をして、愛の過程を通してから一段階ずつ発展していくのです。それを連結させることのできる自信がありますか。皆さんの愛に第三者が介入することは絶対できないのです。犬が愛する時に馬が介入できますか。とんでもないことです。 今まで愚かな者たちが、骨格が同じだからと言って、雀とタルマエナガ(シジュウカラ科の鳥)を結婚させたならば、子供が生まれるでしょうか。それは可能ですか、不可能ですか。完全に不可能なのです。種の区分というのは厳格なのです。それをよく知らなければなりません。今日の発展についての進化論は何ですか! 人間をつくるのは生殖器だけではありません。愛を通して段階的に発展してきたことはみな除外してしまっているのです。それは悪魔の手段です。チャールス・ダーウィンのいう話は夜学校の講習なのです。 すべての被造物は、愛を中心としてより大きな愛である神様の愛を求めていくのが願いなのです。いずこにいたとしても植物は鉱物を吸収し、動物は植物を食べて、次々に食べていくのはなぜかというと、高いものをめざして人間に近づいていくためであり、我々人間の神経素を通して神様を愛するようになるためです。人間として、神様を愛することのできる神経細胞のような人になれば理想的なのです。 すべては神様の愛に向かうというのです。それで人も神様のためにあり、神様の愛のために生きるのです。愛を中心として、私たちは常に神の法則に従うことができなければなりません。人間の体は、神の愛に従いたいと思っているのです。そのようなカップルを宇宙は保護するのです。これが本然の愛のスタイルです。そうでない場合には、サタンに属するのです。 ですから、このような公式をもったならば、皆さんたち愛する夫婦はぺアとして結ばれた宇宙的夫婦であり、全宇宙が保護し、天と地が保護するのです。ゆえに、人々やあらゆる万物までもが保護するのです。これが本然の愛の生活をする人のスタイルです。全部がこのように縦的になっているのです。(先生が黒板を使用される)これは絶対に一つしかありません。それで、これが神様と人間のようにならなくてはなりません。神様がこのようになっているのに、これがこのようになったので堕落したのです。愛の道は最短距離であり、これが九十度なのです。東のほうに男性がいれば、こちらのほうには女性がいるのです。これが互いに真の愛の最短距離で、全部が九十度なのです。ただ一つの道なのです。二つではありません。この九十度は、真の愛が結束できる公式点なのです。真なる愛が結束する縦横に連結された一つの公式点がこの九十度なのです。分かりますか。唯一の場なのです。 皆さんは全員がこの公式を持たなければなりません。この公式に一致しない者は皆地獄に行くのです。皆さんは一つの心を持っていますか、二つの心を持っていますか。また二つの心を願いますか、一つの心を願いますか? (一つの心です)。一つの体ですか、二つの体ですか? (一つの体です)。体は真の父母を通して生まれたのであり、心も真の父母を通して、縦的な神様から生まれたのです。ですから心は縦的な私であり、体は横的な私なのです。二種類の愛が関係して、生まれた私なのです。この縱的愛と横的愛が一つに結合し、真の愛を中心に出会うのです。でなければ統一された一つの体をつくることはできません。心と体が戦うのです。なぜならば、人間が堕落したからです。 縱的霊界と横的な地上は真の愛を中心として連結されなければなりません。地上での両親は霊界と連結して、双方がその一点で結舎するのです。横的世界は人類を保護しているのですが、縦約ラインはなぜ助けることができないのでしょうか。それには土台が必要なのです。横約世界は、大きな場所、土台を持っています。人間を保護できるのは地上だけです。霊界ではそれはできないのです。ですから、神様は人間を創造されたのです。そして人類を繁殖させたのです。そして霊界に行くのです。これが本然の世界です。霊界では繁殖がありません。この地上は横的世界なので繁殖することができるのです。縱的ラインは一つしかありません。 それでは、神様はなぜ創造されたのでしょうか。第一は真の愛の相対を探し求めるためであり、第二は体を感じるためであり、第三は人類を繁殖させるという三大目的のためです。なぜ愛の相対が必要なのかというと、息子や娘たちは霊界に行くのであり、霊界で父母になるには体を持つことが必要だからです。霊界では縱的世界なので繁殖しないのです。それで霊界で、神様のように真の愛を通して一つになればそのまま天国に行くのです。救世主が必要ないのです。そのまま入っていけるのです。この宇宙が私たちの国になるのです。この世界も私の国であり、霊界も私の国です。縱的心と横約体が真の愛を中心に連結して一つになるのです。それが出発点です。 真の愛を中心として心と体が連結し、一つになるのです。なぜならば、人類が堕落してそれを失ったからです。心と体を誰が取ったのですか。それがサタンです。では、どのようにすれば本然の九十度を取り戻せるのでしょうか。それが宗教的生活様式なのです。ですから、私たちはサタン世界に対抗するために宗教的力、宗教的教育、宗教的道が必要なのです。それは、サタン世界が一八O度で奪っていったからです。完全に反対の世界になったのです。ですからサタン分別をするのです。そうすれば自動的に九十度に復帰できるのです。それをなさなければ帰れません。宗教生活とは何かというと、まず、三年間から五年間くらい体を打って、習慣的に心の前に体を屈服させることです。その次はサタンが外的世界であるために、休まずに祈祷して垂直の天の力を受けて、心の力を三倍、四倍に強めていくことです。この二つ以外にはありません。そのように強い心をつくって、三年間くらい体を引っ張っていくのです。でなければ、どうして体を主管できるのでしょうか。自分の体を中心にサタン世界と戦うのです。心と体は、歴史上で最も戦いの激しい場なのです。 お母様の勝利 このような道を行くのは、ただ統一原理、統一教会だけです。そのために今皆さんは心と体を主管することのできる真の愛を中心とした原理を学んでいるのです。それは、本然の創造の場を復帰する道なのです。自動的にそのような土台を築いていくのです。そうすれば、神様が歓迎し、宇宙が歓迎するのです。 先ほど進化論の話をしましたが、最近は唯物論者たちは意識が先か、実体が先かと言っています。この思惟と存在問題について、一つの例を挙げてみると、目が一番初めに生まれる時、太陽があることを知っていたでしょうか。目は知らなかったのです。しかし、目は太陽を見るために生まれたのは事実です。ただ太陽を見るためだけではなく、空気の中のほこりがあることを知ってまつげがついているのです。また、目には涙腺があります。涙腺は水をまかなければならないのです。この地上では、空気が蒸発するために目が焼けるのを知って、このようにつくられたのです。存在は、すべてのものの背後にあるものを知らないのです。誰か、私以外のものがすべてを知っていたのです。完全に理想的方法を知っていたのです。このことは意識が先であって、実体が後にできたことを意味します。それは神様が存在するということです。 きょうは何の日ですか? (「父母の日」です)。きょうの「父母の日」は、韓国では第三十一回目ですが、満三十歳の「父母の日」です。本来イエス様が死ななかったならば、三十歳で真の父母となり世界を統一していました。もし、ローマやイスラエルなどの歓迎を受ける環境で真の父母が登場したのであれば、今日このような世界にはなっていなかったでしょう。イエス様当時にみな成し遂げられていたことでしょう。イエス様は三十歳の時に、このような理想を成就しなければならなかったのです。 今日、この世界t版図の上に立つ統一教会を中心として、今やお母様が完全に三十歳を迎え、この復帰摂理をみな成就してきたのです。イエス様の家庭を中心にして、世界を代表することのできる解放圏を持たなくてはならなかったのです。二OOO年後にこれを蕩減復帰して先生が生まれて、第二次大戦後に成すべきだったのです。今日、四十年を過ぎて一九九O年代に、三十回目の「父母の日」を迎えることによって、初めて家庭を中心として世界の舞台に登場したのです。イエス様は国家的舞台だったのですが、先生は世界的舞台に登場したのです。(拍手) それで、アメリカがどんなに反対しようとしても、反対できないようになったのです。アメリカを中心にした自由世界のすべてが統一教会に反対したことも、みな過ぎ去ってしまったのです。そして、共産世界の反対もみな過ぎ去ってしまったのです。その次に、宗教圏の反対もみな過ぎ去っていったのです。それで共産世界のすべて、ソ連を中心にして今は金日成までも圏内に入ってきたのです。 このような条件を中心として、すべてが完全に終わったのです。もし先生がいなくて、お母様一人になってもみ旨には何の支障もありません。今まで歴史上で女性は天と地を代表した立場に立つことができませんでした。しかし初めて父母の愛を中心とした一体的理想でもって、お母様を中心とした女性全体解放圏を地上で宣布したのが今朝の式だったのです。 さあ、このことによって今後どんなことが起きるかということです。今や知るべきことは、女性たちが団結して女性の解放圏をつくって、全部が一つになるように、街中の女性たちが世界的女性同盟をつくり、清算運動をしていかなければなりません。今まで女性たちが、サタンの武器として用いられ淫乱の種を蒔いて、サタンの一族を繁殖したのですから、完全にこれを壊してしまわなくてはなりません。サタンは偽りの愛です。それをどうして清くできるのですか。全世界のすべての女性は革命しなければなりません。 全部、女性たちがそれをしなければなりません。もし駄目な時は、統一教会の人たちが自分の家に人々を住まわせて、それを防がなくてはなりません。女性の不足分は男性の協力を受けて完成させなければなりません。そのようにして神様を中心に、本然の一夫一妻主義の完全なる理想的家庭を立てずしては天国に入れないのです。神様は絶対的であり、唯一です。分かりますか。その神様の真の愛を中心に絶対的一人の男性と絶対的一人の女性が完全に連絡して、心と体が一つになって、一人ひとりが神と連結しなければなりません。絶対的真の愛でもって、神様と完全な結束をするのです。 私たちは神様の真の愛を中心とした絶対的なカップルとして創造されたのです。ですからカップかは、完全にf様を中心としなければなりません。これが本然の創造の出発点です。私たちは何があろうとも、どんな状況にいようとも、この本然の出発点に帰らなければなりません。これが堕落人間の使命なのです。でなければ天上天国に人ることができません。神様は絶対的です。ですから男性も絶対的であり、女性も絶対的なのです。互いに絶対的な愛で連結しているのです。絶対的なカップルとして創造されているのです。これが神様の創造目的なのです。 カップルの愛は絶対的であり、誰も切り離すことはできません。絶対的愛は永遠に連結するものです。分かりますか。皆さんは誰もが父母を持っているでしょう。父母による息子、娘なのですね。しかしその父母は、皆さんのものではありません。絶対的子供と、本然の親は離れることはないのです。では、どうすれば絶対的子供を生むことができるのでしょうか。それは誰にもできません。真の愛を中心としたカップルだけが絶対的な親となるのです。絶対的カップルとなるのです。皆さんは義父のようなものです。 神の愛を除けば生命も血統もありません。だから、アメリカはすべてを失ったのです。彼らは理想を土台とした世界観、国家観を持っていません。社会も、家族システムも持っていません。ただ個人主義があるだけです。そんな中でどうやって自分の生涯を全うすることができるでしょうか。若者はフリーセックス、酒、ドラッグ等で完全にサタンに占領され、神様を非難しています。どうやって、この世界を本然の姿に復帰するのですか。どんなに力が強くても、愛を除いてはできません。これが、神様が人間の目的として与えたものであり、他には何もありません。ですから二つの目、二つの耳になっているのです。 統一教会の教えは真の愛の道 これからは神様の正しい道のみです。ただ一つの道のみです。一つの心、一つの耳、一つの触覚、一つの体、一つの愛の方法、これが神様の願われる道です。このような生活をすれば、全宇宙が保護してくれるのです。この責任分担を果たせば、自動的に繁栄することができます。これが神学的結論です。科学的にも分かることです。愛は意識です。誰も愛を見ることはできません。愛は目に見えないのです。しかし統一教会の教えは実体であり、意識ではありません。 すべては愛を中心として、鉱物、植物、動物を産み出したのです。統一教会の教えは、真の愛の方法です。堕落の道ではありません。真の愛の道はすべてを産み出します。すべてが自動的についてきます。ジャンプして従ってきます。このような力を統一教会は持っているので全世界のすべての堕落人間を救うことができるのです。 真の愛の道は最も短い道であり、最も速い道です。皆さんが霊界に行けば、そのことがよく分かります。真の愛によれば、どこへでも行くことができます。宇宙は非常に大きいけれど、もしどこかに行こうと思えばすぐに行くことができるのです。愛は時空を超越しているからです。そのような真の愛の意識を皆体験しなければなりません。その真の愛の属性は三つあるのです。相続権と同参権と同位権です。 愛の意識は真の愛に連結し、自動的に主体に連結するのです。神様はすべての創造物をつくられたので、親なる神様であり、すべてのものに働いています。ですから、皆さんの野心は大きくなければなりません。人間の心は大きな野心、欲望を持っているのです。どうして神様は、人間にすべてを占領するような大きな大きな野心を与えたのでしょうか。それは、神様を中心とした真の愛の中に私たちがあるからです。これが唯一の結論であり、絶対的な結論なのです。 絶対的な愛によって、全宇宙が自動的に一力所に集まります。先生の行く所が統一教会の本部です。愛によってある種の雰囲気ができるからです。レバレンド・ムーンがアメリ力に住めば、人々はそこに集まります。そして大勢になるのです。ですから、統一教会のメンバーは「お父様、お父様どうぞ来てください」と言うのです。 アメリカは大きな国です。その大きなアメリカの四方八方で「お父様、お父様」と呼んでいるのです。「レバレンド・ムーンは、どうして来られないのですか。真の父母様はどうして来られないのですか」と。真の父母は唯一であり、一カップルだけなのです。他には絶対的に存在しません。お金もいつまでもあり、知識もいつまでもあり、権力もいつまでもあります。しかし、真の父母はいつまでもいないのです。 真の父母は一時的に地上にいるだけです。皆さんはその唯一の時代に生まれて真の父母に出会うことができたのです。そして統一原理を真の父母から教育を受けているということは、どんなに貴重なことでしょうか。皆さんの置かれている立場はどんなに貴重なことでしょうか。 今から皆さんは、そのように働かねばなりません。いつも貴重な教えを受けているにもかかわらず、いつもfいているにもかかわらず、「分かりません」と言うのですか。私はいつもみ言を語り、皆さんはその概念を理解しているにもかかわらず、行動を起こさないのです。み言は通り過ぎていきますし、誰も実績を出そうとしないのです。皆さんには何の影響も現れないのです。皆さんは、そのような状況をどう思っていますか。私は強調しているのに、何の実績もないのです。これは問題です。 皆さんは一生懸命働かなければなりません。行動しなければなりません。実績をつくるためにです。これが私たちの使命なのです。きょうここに女性解放を宣布しました。ですから、先生が一人でいても父母の代身であり、お母様が一人でいても父母の代身なのです。統一教会員たちの中で、「レバレンド・ムーンは、古稀の祝いの七十歳を過ぎたのに後継者がいない」などと話している人がいますが、そんな話はやめなさい。お母様はまだ四十七歳にしかなっていないのです。私たちには、父母が生きているのです。多くの息子や娘がいるのです。ですから心配することはありません。 私たちの統一教会の父母や、息子、娘たちは為に生きることにおいて、神様の絶対的愛でもって先頭に立つのです。このことを皆肝に銘じなくてはなりません。今からそのような概念を持たなければなりません。そうしなければ世の中を売り飛ばすことになります。負債者になってしまうのです。それで、今後仏たちの後継者たちが誤った時には、家庭会議でもってすべての原則に適うように新たに決定するシステムをつくるのです。ですから全く問題ありません。 きょうの題目は、「父母の日と私」ですが、その贈り物が何かというと、今先生が語った内容なのです。先生が第一の教主であれば、お母様が第二の教主なのです。第二の教主は何かというと、祭司長なのです。もしお母様が宣教本部に行ったとしても、「なぜお父様は来られないのですか」などと聞いてはなりません。 神主義は両翼を消化する 歴史時代において、私たちはこのような長子権復帰をすべて終えたのです。分かりますか。アメリカの大統領は私が立てたのです。長子権復帰は終わったのです。また、全アメリカのキリスト教も、生き残るためにはレバレンド・ムーンについて行かなければなりません。キリスト教を再復興させることのできるのは統一教会の原理しかないということを、アメリカは知ったのです。サタンが全部人類を連れていったのです。全部地獄へ連れていったのです。 それで、神様は一人二人と、「これはサタン側のオリーブの実だ、神側の野生のオリーブの実だ」と選び出して、半分を民主世界のキリスト教、天の側の野生のオリーブの木として、世界を指導するようにされたのです。ここに再臨主が来られれば、全部がキリスト教文化圏に接ぎ木されて一つになるのです。ですから真の父母が来られれば、右翼も左翼もみな滅びるようになっているのです。 今日、世界情勢はどうなっていますか。アメリカには指導者がいませんね。ですから何の希望もないのです。アメリカはこれから軍事的に、経済的に、政治的に、文化的に破壊していきます,青少年f題も解決することができないのです。問題解決の道は先生の教えのみです。 ソ連も同じです。彼らはユートピアの思想を実現しようとしていますが、理想世界の概念を持ちません。私たちの統一世界は神を中心としたものであり、神は絶対的唯一なる存在です。そして真の父母を中心に一つになるのです。第二次大戦後、真の愛を中心にアメリカは全世界を一つにすることができたのです。 しかし、それが成されずして、全キリスト教会が一つになって先生に反対してきたのです。そして先生は世界の端に追いやられたのです。しかし、四十年を経て再び上陸して、家庭をつくり、全世界が反対する中で先生はすべてを越えてきたのです。個人的戦い、家庭的戦い、民族的戦い、国家的戦い、もはやすべての戦いを終えました。 アメリカは先生を完全に打ちくだき、地下へ閉じ込めたいと思っていました。しかし、それはできませんでした。今やアメリカの唯一の希望的指導者は、バレンド・ムーンだけです。左翼では世界を救えません。もし世界を救おうとすれば右翼を消化しなければなりません。また共産主義、唯物世界の彼らは霊界を知りません。それでどうして右翼を消化できるのでしょうか。一方キリスト教世界は物質世界を知りません。外的世界を否定しています。それでは左翼を消化することはできません。レバレンド・ムーンは両翼において戦って、唯一の神主義を現したのです。神主義は両翼を消化するのです。 レバレンド・ムーンは左翼も消化します。問題ありません。今やキリスト教世界の人々と共産世界の人々が一つ時に集まっているのです。それは、自由世界を統一しているということを意味しているのです。分かりますか。両方を消化したので、一つに集まってきたのです。完全に真の愛を中心にして、家庭システムを一四O力国につくったのです。もはや誰もこのような真の愛を中心として一体となった家庭を破壊することはできません。サタンにそれができますか? (いいえ)。それは、神様にも先生にもできません。統一原理的観点は神様すらも変えることはできないのです。原理的観点は永遠です。霊界も否定できません。それは真の愛を中心としているからです。すべてが自動的に、自然界も、鉱物界も、そういう真の愛と一つになるのです。そのことは全手苗、全世界の保護的立場を意味します。そうなれば誰がそれを破壊できるでしょうか。神様にも先生にもできません。前進あるのみです。繁栄し、最後に一つ出合うのです。それがすべてです。 きょう、このような解放を宣布すると同時に、真の父母と一つになった家庭は世界のどこにいたとしても、真の父母の勝利を相続したものです。ですから、さらに強く雄々しくあれば、神様と手苗が先生を保護したように保護されるので、一国を消itすることに問題ありません。このことを宣布します。(拍手)前進! 前進! 前線に立ちなさい。先生のように前線に行って、帰ることを忘れるくらいに立ち続けるのです。そして、回り道しないで、真っ直ぐに進むのです。皆さん、統一教会員であることに誇りを持ちましょう!(拍手)統一教会員であることを誇りましょう! 統一教会員ということは真の父母に属する者という意味です。皆さんは、真の父母の子女であることをどうして隠すのですか。統一教会員であることを隠せば自動的にサタンに侵入されることになります。それは、サタンを歓迎することになるからです。 では、今から誇りを持って宣言しなければなりません。皆さんはナンバーワン、ムーニーです。皆さんは、ナンバーワン、真の父母の息子、娘です。どうして、サタンが侵入できるでしょうか。皆さんは、「サタンよ私の所に来なさい! ペチャンコにしてやる」というような決意をしなければなりません。それができますか、できませんか? (できます)できるという人は手を挙げなさい。素晴らしいことです。(拍手) まず第一に兄弟権復帰が終わり、第二に父母権復帰が終わり、第三に王権復帰です。(先生が板書される) ソ連が問題です。ソ連はサタン側の兄さんの立場の国です。先生はそこに行って話をしたのです。(拍手)そして、二億七千万人のすべての人々がしバレンド・ムーンにつながったのです。すべての人々が一度にテレビ放送で私の話を聞いたのです。ソ連にはただ一つのテレビ放送局しかないので、一度にすべてに伝えることができます。(拍手)一人の指導者ゴルバチョフ大統領は、二億七十万人の人々と共に私を歓迎したのです。ですから今後このアメリカはどんなに惨めな状況に置かれることでしょうか。それを考えなければなりません。今日までアメリカの言論界はどのような道を経てきましたか。それを考えてみなさい。 CIAは今や先生のスピーチを聞いて、「文先生は素晴らしい。ソ連は今やアメリカの上を行っている。それは嫌だ」と言っています。また、「このアメリカが文先生に影響を受ける以上に、ソ連は文先生に影響を受けているではないか。これでは、アメリカはレバレンド・ムーンを失うことになる」と言っています。 しかし、アメリカは私を引き止めることはできません。「どうか、この国にとどまってください」と言っても、「ノー」と言うだけです。今まで私を迫害したのですから、私は韓国に帰ります。私は何度越えていかなければならなかったことでしょうか。何百回もです。分かりますか。今や中国、ソ連、東欧圏が私を歓迎しているのです。 では、どのようにしてレバレンド・ムーンを愛するのですか。今までは二億四千万のアメリカの国民が私に反対してきました。先生はたった一人の孤独な男でした。どんなアメリカの指導者も先生と一緒ではありませんでした。先生は今までそのような状況下にいたのです。そうでしょう。皆さんは自分が責められていると思ってはなりません。いつの日か私はアメリカを去ります。それは明らかです。皆さんはどう思いますか。永遠にしバレンド・ムーンがここにいると思っているのですか。私の目的はサタン世界を救うことです。サタン世界の一国として、ここに来ただけです。分かりましたか。アメリカ合衆国がだめなら次はソビエトです。 この前ソ連の高官で、言論界のひとりの人が私に次のように言いました。「レバレンド・ムーンは四十年の間に何百万人もの統一教会員ができましたね。これは自慢すべきことです。私は今、ソ連の言語で原理を翻訳しようと考えていますが、今までに翻訳されたものはあまりにも複雑です。やさしく原理をまとめて全国民に三千万部を配布するようになれば、三年以内に統一教会の世界中の信者が今の何倍にもなります」と。(拍手) さらに中国では、レバレンド・ムーンを英雄視しています。彼らの国での英雄です。韓国の英雄ではありません。アメリカの英雄でもなく、「自分の国の英雄だ」と言って、彼らは私を尊敬し歓迎しています。いつも「おいでください。どこへでもおいでください」と言います。誰がそのような基台をつくったのですか? (レバレンド・ムーンです)。神様がつくったのですか、先生がつくったのですか。先生が中心になってつくり、神様に連結したのです。 これまで、歴史上で神様を中心にそのような基台をつくったことがあったでしょうか。長い間、基台を拡張することもできませんでした。分かりますか。真の父母を中心に一つになったので、このような基台ができたのであって、そうでなければできません。いつも神様は、そのような基台を望んできましたが、誰がそれをつくったのですか? (レバレンド・ムーンです)。先生が神様と連結したのです。神様が先生と連結したのではありません。最初に、先生が神様と連結し、このような世界的な基台をつくったのです。復帰の再創造のシステムは神様ではなく、人間が成さなければならないのです。 復帰の路程は再創造路程であり、それは神様を中心とした再創造です。誰が堕落世界をつくったのかというと、人間を中心として堕落世界をつくったのですから、復帰路程も人間が中心にならなければなりません。神様はこの世界の中心ではないので、この世界を救うことに連結できないのです。神様はどんなに力を持っていても、この地上で行使することができないのです。神様は何と惨めな状況でしょうか。クリスチャンの誰一人としてこのことを知りませんでした。皆さんが理解しただけです。 ですから、先生だけが天の側の秘密である原理を宣言し、伝授したのです。サタンは、家庭、氏族、そして国家を基台に主管しています。多くの国家がサタンに属しています。神はいかにして国家を復帰するかを願っています。世界的基台は自由主義と共産主義ですが、サタンが共産主義をつくり上げたのです。皆さんが、まず世界基台を連結するべき所は、唯物思想の共産主義世界です。次はアベルの立場にある自由世界です。自由世界は、連邦同家システムとしてカのある大国のアメリカが、敗北した国々を同じように復興するのです。それが兄弟主義です。民主主義は兄弟主義なのです。戦うことをいつも誇りにして父母がいませんでした。アメリカ政府の上院、下院の国会システムを見てみなさい。彼らは互いに戦っています。彼らが戦っている目的は国家のためではなく、政党のためです。アベルの政党とカインの政党が一国家にあるのです。もし父母がいれば、政党ではなく国家の心配をするでしょう。その父母を中心に歴史的方法を転換していくのです。転換点です。早い速度で変化する時です。 全世界が選民圏に 今は民主主義世界が問題をつくり出しています。そして、世界は罰を受けています。どうすることもできません。真の父母によって一八O度回転しなければなりません。父母主義によって、自分たちの生命を投げうって、どんなに困難な状況も保護し、サタン側から復帰するのです。これが統一教会の道です。分かりますか。今まではサタン世界が全人類を指揮していました。そして第二次世界大戦後、キリスト教世界が世界を支配しました。当時、父母が両側に連結していたのです。七年間で一つになっていたはずでしたが、すべてが完全に崩れてしまいました。しかし、今秋たちの教えが霊的にも力強いのはなぜかというと、霊界と自由世界、理想世界を認識するので双方が歓迎しているからです。そのような原理を持っているのです。一度そのような内容を聞けば自動的について来ます。 では、アメリ力の指導者たちはどうでしょうか。もしステイトリーダーたちが州議員を四日間教育すれば、完全に変化するでしょう。既に「レバレンド・ムーンを歓迎します」「国会に来てください」「どうか、全州を教育してください」と言っています。私はそのような基台をつくったのです。彼らは、すべてがクリスチャンではありません。しかしあっという間に変わるのです。原理にはそのような力があります。これは強力な武器です。サタン世界は瞬時に破壊されます。統一教会はこのように素晴らしい真理を持っているのです。 これから国家的基台ができれば、サタンは地下に押しやられてしまいます。サタンはそれを知っているので統一教会に反対するキリスト教会などを組織して、全人類がレバレンド・ムーンに反対するようにしているのです。人類歴史を見ても、このような戦いはただ一度だけです。アメリカ、ソ連、中国、全ヨーロッパ諸国、未開発国家など、あらゆる国々が一つになって私を打ってきました。 しかし、どんなに強く打ってきても私は負けません。私はこのように力強く生きています。そして多くの若者が、世界を新しくつくり変えるために力強く前進しているのです。先生はすべてを見せ、すべてを成し、明確に示しました。ですから、私に従ってくれば良いのです。私の足跡をたどってくれば良いのです。 そして皆さんは前線に出なければなりません。そうすれば、皆さんは幾つもの州や国家を指導できます。皆さんはそうしなければなりません。皆さんは、神様と一つになった中心をもって、統一世界をつくらなければなりません。なぜならば、神様は先生と同じみ意を持っているからです。皆さんが私に従ってくれば、霊界では自動的に次の席にいるのです。これが原理的観点です。明確です。もはや父母権を復帰したので、神様の位置でイエス様を送ったことと同様に、神様の位置で再臨主を送ったことと同様に、氏族的なメシヤによって、初めてすべてが収拾されるのです。縦的な基準に従って、先生もここから縦的に上がっていって、アダム時代、イエス時代、再臨時代の世界基準を整えてきたのです。すべてを先生が勝利してきたので、これを再臨時代においてここで5引き延ばさなければなりません。 イエス様の時代には何をしなければならないのかというと、自分の家庭をつくらなければならなかったのです。父母となるのです。分かりますか。このようにして原型がつくられるのです。アダム父母、イエス父母、再臨主です。 これらを越えて、神の位置でアダムと同様に再臨主を送ったのです。三次アダムを送った神の目的は、二次アダム、一次アダムを救うためです。三次アダムが来て、二次アダムのところに入っていったのです。そこで一次アダム、自分の父母を救ったのです。(先生が板書される)ですから、自分の父母がアダムの位置に上がってくるのです。 そうなれば、父母によって宗教的伝統も必要なくなるのです。キリスト教などの宗教が必要なくなるのです。全世界が選民圏に入っていくのです。そのようになれば、何が起こるかというと、横的に見れば子女が氏族的なメシヤになり、自分が生まれた血統の国家的メシヤになるのです。今や氏族のメシヤとして故郷に帰るのです。その目的は両親を救うためです。両親を救ったあとには基台をつくるのです。それはアダムの立場であり、イエス様の立場です。氏族の始まりは家庭であり、国家の始まりは氏族です。両親は横的、自動的に氏族の基台の上に生まれ、国家は自動的に家庭と氏族を中心としてその基台の上にできるのです。 そうすることによって、すべてが一人の父母を通じて連結された子女として生まれてくるのです。旧約時代も、新約時代も、成約時代も真の父母を中心とした立場は、横fに同じです。そうすることによってどうなるのかというと、自分が生まれた地、自分の行くべき故郷が天国になるのです。お父さんお母さんが全部、真の先祖になるのです。 最初に個人が天の側に立つのです。その次に家庭が天の側に立つのです。そうなれば、いずれにせよ真の父母を中心にして、世界的版図がすべて連結するようになるのです。本来の故郷はどこですか? 本来の故郷は先生の生まれた所ですが、皆さんの故郷は皆さんの生まれた所です。これからは皆さんの生まれた所が天国になるのです。 故郷で天を中心とした父母が生まれたのですから、その場がエデンの園なのです。堕落しなかった本然の園を中心にして、皆さんの善なる後孫はこれから世界に向かって伸びていくのです。縦的に先生の一族を中心にして、皆さんを全部連結して結んでいくのです。まず縱的父母である真の父母を誰よりも、自分の血族よりも愛さなければなりません。その後に横的な自分の家庭、自分の氏族を愛するのです。そうなればサタンが占領できないのです。 このような家庭が成立すれば、次に王権復帰です。本来の天地のアダムとエバが完成すれば、天国の父母が完成するのです。そして家庭の主人になり、家庭的天国、王権が立つのです。 アダムとエバは個人的王であり、家庭的王であり、氏族的王であり、民族的王であり、国家的王であり、世界的王になるのです。このような国家基準を乗り越える時が来たので、サタン世界の王権を越えて天の国の王権を設定することのできる日が一九九O年三月二十七日なのです。今から全世界がしバレンド・ムーンによって回っていくのです。 サタン分別の道を行く統一教会 メシヤは、野生の柿を中心に接ぎ木するために来られたのですが、サタンが先行し、神様が一番尻にいたのです。今日までの歴史は、サタンが先頭にいて全人類がそれに従っていたのです。宗教人は皆神様を中心にして、サタン世界の中で神様の領土を大きくしていかねばなりません。ですから唯一の神を中心に第二次大戦において全部カバーしたのです。そして、この中心に誰を送るのかというと、これが再臨主です。真の父母です。ところが、これが一つになれなかったのです。完全に壊して一遍にみんな切ってしまい、七年間で一つの世界をつくらなければならないのに、既成教会のすべてが反対したのです。全部が反対したのです。 ですから再び四三OO年(先生が板書される)を四十三年で蕩減復帰して上がってこなければなりませんでした。蕩減するために世界中が反対してきたのです。左翼、右翼のすべてが反対してきたのです。しかしレバレンド・ムーンはここまで上がってきたのです。今や左翼と右翼を中心にして、一八O度回らなければなりません。分かりますか。統一教会がサタンについて来られないように一回りしていくのです。サタンがついて来ないように、正反対に全部がこのように下りていくのです。この線の下に下りていくのでサタンはついて来ることができないのです。深ければ深いほうがよいのです。このようになれば、サタンはそれを乗り越えることができないのです。レバレンド・ムーンはこのような道を行っているのですから、皆さんもあとに続かねばなりません。サタンは自己中心で傲慢なので、そこが嫌いなのです。 それでアメリカは、「私たちは、レバレンド・ムーンのやり方は嫌いだ」「アメリカ人の自由、幸福の道は楽しい方法だ」と言っているのですが、それはサタンの繁栄する世界です。皆さんは、先生のやり方を取り入れなければなりません。下りていかねばなりません。マフィアの世界にも先生は下りていきます。どんなに惨めに見えたとしてもです。神様はサタンの立っている場を見たくないのです。 レバレンド・ムーンの教えは下に下りていくことです。ですから、統一教会は、迫害を最も歓迎していくのです。それは神が最も望んだ理想的方法なのです。なぜならば、サタンを完全に分別することができるからです。歴史的な敵であるサタン分suの道を行くのが統一教会の目的です。人類歴史上今日までいつも神の前に人類を訴え続けてきたサタンです。 それで、先生の道はサタンと対決する方法を取って、完全に一八O度転換してきたのです。もはやサタシはついて来ることができません。ですから最も安全な道は、最も困難な道を選ぶことです。完全にサタン分別をするためには、最も良い方法なのです。 先生は生涯で何度牢獄に行きましたか? (六回です)。将来はソ連に行きます。そこでどんな困難に遭おうとも行きます。それが最も正統な道です。直線で、正続的な道を取らなければ、サタンがいつでも非難し、私たちを取って行きます。分かりますか。それが自分をも清め、完成する道です。今、すべて明らかなのです。 今、アメリ力の祝福家庭はどのような状況ですか。難しいですか? 四人の子供がいれば両親と合わせて六人です。どうやって食べていきますか。皆さんはそれを考えなければなりません。皆さんは国を持っていないのです。誰が皆さんの家庭を保護しますか。国家の力がいつも主管しています。それを知らなければなりません。どんな家庭的な困難も越えて国家的基台をつくらなければなりません。 皆さんは、国家的力を持たなければなりません。でなければ、どのようにして氏族的力、国家的力の上に立てますか。それができなければ、神様はそこに住むことはできません。それが神学的結論です。どんなに家庭的に困難でも皆さんは、サタンの国家的、世界的基台を越えなければなりません。それが私たちの全生涯における目的なのです。どんなに困難でも、私たちは越えていかねばなりません。そうしなければ、神様の本来の創造目的である所有権を獲得することはできません。いつもサタンが所有権を持っているのです。 皆さんは、このことを明確に知らなければなりません。国家を救う道か、家庭を救う道か、どちらを取りますか? (国家です)。国家を救う道と世界を救う道のどちらを取りますか? (世界です)。私たちの最後の目的は、真の愛を中心として神様を解放することです。悪い親はサタンを中心としているのですから、悪い親が消滅すればサタンは自動的に消えるのです。分かりますか。それが本然のエデンの園の理想に復帰するという意味です。全地上、すなわち地上天国と、全霊界、すなわち天上天国が現れるのです。 きょう真の父母は、皆さんに何の贈物をするかというと、絶対なる神様が尊重する真の愛と真の父母を贈ります。分かりますか。この真の愛の前には、神様も絶対的に服従するのです。神様が御自分の愛の相対のために一OOパーセント投入されたので、神様が立てられたこの真の愛を中心として、男性と女性が一つになった日には、すべてが解決するのです。そして父母が絶対的であるように、息子も絶対的な位置で四位基台をつくれば、天の家庭として天国に行くのです。 ここで祝福を受けている人は手を挙げてください。皆さん、「アメリカと世界をあげるので相対者と取り換えますか」と聞かれた時、どうしますか? (取り換えません)。本当にそうですか? (はい)。また、自分の息子、娘と全世界を交換しますかと言われたらどうしますか?(取り換えません)。なぜですか? これから、天の国の国民を私が共に治めなければならないので、息子や娘がいなければ天の国が繁栄しませんね。霊界は無限なる世界なので、人間が地上で産児制限をしてはいけないというのです。地上で飢え死にしても、皆霊界に行くのです。飢え死にしたとしても、統一教会を信じて、愛の中で飢え死にすれば、皆天国に行くのです。 たとえ人々が飢え死にするような場に行っても、私たちは生き残ることのできる訓練はみなできているのです。私たちは最も安全な道を教わっています。将来、全世界の人々が飢えていても、いかなる困難な状態にあっても大丈夫です。死にません。なぜならば、私たちは多くの苦労と困難な状況で訓練されているからです。 さあ、それできょうの贈物は何でしょうか。皆さんに絶対的な真の愛が与えられ、皆さんが真の愛を所有するならば、それ以上求めるものはありません。そうなれば、霊界も神様も主管することができるからです。サタン世界も主管することができるし、天運も主管することができるのです。主管するということは、神様がついて来るし、この世界がついて来るし、天運がついて来るのです。全人類も、全天宙も、天運もです。分かりますか。「信仰」ではなく、「天運」です。神様が従いサタンはついて来ないのです。「さようなら。サタンよ」。(笑い) 自分自身で証をしている先生のような人は、ただ教えて教えて、生涯どこへ行っても迫害ばかりです。しかし、繁栄するのです。迫害を受ければ、敵側の神の戦法を相続することになるのです。分かりますか。迫害はサタンの所有権を相続して、神の息子、神の子女が住む神の場所を復帰することを意味します。迫害の道は、敵の所有権を相続する道です。先生はそのような秘密の道を知っていたのです。だから、神様の戦法は打たれて奪ってくるのです。サタンの戦法は打って失い、神様の戦法は打たれて得るのです。第一次大戦、第二次大戦、第三次大戦は打たれて勝利していくのです。これが真理の道です。 このことを知って、真の愛のために、神様のために、人類のために総進軍することを決意することに、きょうの「父母の日」を迎える意義があるのです。今回、特別に三十一回を迎えたこの日から、世界のどこへ行っても、遮るものがなく、自由、平和、天国の建設のために前進するのです。アーメン! (拍手)さあ、立って手を挙げて誓いましょう! <完>一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.20
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「巻頭言・お母様の勝利とエバ国家の使命」、「み言・天地父母宣布」は『ファミリー』’90.6月号からです。「天地父母宣布」一九九O年二月二十七日韓国・ソウル漢南洞公館にてみ言のポイント一神のみ旨と人間の責任分担 / 七年路程の勝利 / アメリカの復興と共産主義の解放 / 真の父母宣布とエバ国家の便命 / 王権宣布式 /「真の父母」歓迎 神のみ旨と人間の責任分担 今年は一九九O年です。聖婚式を行って三十年目です。お母様は幼いころに先生と出会って、その後十七歳から今日まで、先生とともに、家庭を持って三十年の歳月が過ぎました。では、その期間何をしてきたのでしょうか。 蕩減復帰は、個人の蕩減復帰が重要ではありません。家庭蕩減復帰をするために、メシヤは来なければならないのです。メシヤが来られても、ある宗教団体の下にとどまっているのではなく、国家の次元を越えなければならないのです。イスラエルの国を中心として見た時、イエス様は三十歳で公的路程を出発してから、四十歳になるまでにローマを越えなければなりませんでした。ローマを越えて天と地の一切の蕩減条件を立てなければならなかったのです。天使長が堕落してサタンになったのですから、今まで反対してきたあらゆる歴史的状況を完全に解放した立場に立たせて、天と地の前に王権を宣布しなければなりません。定着させなければならないのです。 サタン世界はカインの世界です。その時、イエス様を中心としたイスラエルがアベル的国の代わりになるのです。結果は、国を立てることはできませんでした。天の側の息子であるイエス様はイスラエルの国の王ではなく、ローマを越えた王にならなければならなかったのです。それが本来堕落しなかったアダムとエバの王権なのです。人類始祖が堕落したことによって、サタンはこじんに侵入し、家庭に侵入し、氏族、民族、国家、世界にまで侵入して、天のアベル的な王権への道を阻止してきたのです。 ユダヤ教を中心として神がイスラエルの国を立ててきた目的は何かというと、ローマの悪世界の中にイエス様が来られて、ローマの王権までも越えることなのです。そうしなければ、天の国と地の王権宣布ができないのです。天上天下の王権を発表することが創造理想なのです。その時は、個人も天上天下を代表した個人であり、ここから天国と地獄が一体となった国が決定されるのです。しかし堕落したがために、一体化した国が生まれてこないのです。 ですから、イエス様を中心として世界を支HPしてきたローマの国以上になって、天国と地獄が一体化した国を宣布すると同時に、その一体化した目の中心者の王の立場に立たなければならないのです。それは歴史時代において、来られるメシヤが越えなければならない峠なのです。イエス様はそれを越えることができずに、ローマの支配下で亡くなり、イスラエル民族も今日まで流離漂泊して、数多くの国において蹂躙されてきたのです。ローマに蹂躙されると同時に、多くの民族に蹂躙されてきたのです。民族、家庭、個人に蹂躙されてきたのです。責任を果たし得なかったがゆえに、どこに行っても反対されてきたのです。村が反対し、国が反対してきたのです。それはなぜかというと、メシヤを中心としてローマを越えなければならない神のみ旨に失敗したからです。 イエス様は亡くなり、イスラエル民族は国を失い、教会を失って、サタンの国々に蹂躙され、サタンの民族、氏族、家庭、個人に蹂躙されながら、二OOO年間の蕩減の時代を経てきたのです。責任を果たすことができなければ、こんなにも恐ろしいことが起きるのです。ですから十字架を背負っていかれるイエス様に対して、女たちが泣いた時に「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」(ル力による福音書第二三章二八節)とイエス様は言われたのです。イエス様はローマを越えて、天国に至る立体的な王権を立てなければならない理想的な基準の上に立っておられましたが、十字架で亡くなったことによってすべてが崩れてしまいました。イスラエル民族の過ちによって国が崩れたので、世界中の国々がイスラエルを打つようになったのです。民族も、氏族も、家庭も、個人も、どこに行っても歓迎されることのない惨めな環境に陥ったのです。 そのような歴史を今日までキリスト教は受け継いできたのです。それで第二イスラエル圏を中心として、カトリックとプロテスタントが戦ってピューリタンたちが追い出され、アメリカ大陸に上陸して、ヨーロッパの文化圏の中身を収拾してきたのです。打たれながら奪ってきたのです。天宙のすべての内的な中身をアメリカに移したのです。その後、第二次世界大戦直後に、初めて世界国王権を受け継ぐことのできる時代になりました。第二次世界大戦の直後、アメリカを中心として、キリスト教文化圏を中心として、統一圏が始まったのです。ですからいかなる戦勝国も、一つの半島を支配することができず、踏みにじることができなかったのです。そのような基準の上に再臨主は来られるのです。再臨主が来られ、アメリカとイギリスとフランスと韓国が一つにならなければならなかったのです。韓国はアダム国家なのです。再臨主は父の立場であります。 そのような父に侍らなければならないのが母なのです。そして母と父に侍らなければならないのが、息子と娘なのです。子女なのです。そうですね。それで、今までの歴史時代におけるキリスト教文化圏は、母を中心として息子と娘が勝利してきた版図なのです。そこに父を合わせて、王権を立てなければならなかったのです。 ですから韓国の解放直後に先生を中心として一つになるべきだったのですが、それができなかったのです。もしそうなっていたならば、今日世界はキリスト教を中心とした王権基盤の下で連結され、父と母と息子、娘を中心として一つの実が結ばれていたことでしょう。それは世界的な実だったのです。それでサタンはその実を結ばせないために個人、家庭、氏族、民族、国家、世界的に反対してきたのです。再臨主を中心とする、その相対者と息子、娘を中心とした家庭を築くことができないように妨害してきたのです。いつでも最後の日になると、サタンは家庭を破壊させようとするのです。 今日のアメリカは正に家庭が混乱状態に陥っています。もし再臨主を迎えていれば統一の家庭圏に入ることができたのですが、再臨主を迎えることができなかったために、今やアメリカ全体の家庭が破綻されていくのです。アメリカがアダムを受け入れて、アメリカの国とアメリカの家庭が再臨主の家庭と一つになれば、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の蕩減がなくなるのです。アメリカが再臨主と一つになっていたならば、アメリカがすべての基盤となったのです。 七年路程の勝利 アメリカは、世界的に国家圏、民族圏、氏族圏、家庭圏、個人圏に勝刊した国だったのです。そこに再臨主の家庭が一つになっていたならば、すべては終わったのです。再臨主の家庭の設定は何かというと、アダムの国とエバ、カイン、アベかなのです。そのように統一されていたならば、そこに再臨主が定着され、家庭を持たれ、息子、娘が生まれれば、世界的カイン国家庭を代表したカイン家庭、アベル家庭が再臨主の前に一つになった立場に立つのです。しかし再臨主の所に果たけれども、それは家庭的に見ると外的なものでありました。直系の子女を中心として一つにならなければならなかったのです。 アメリカを見ると、そこには数多くの人種が連結されているのです。ですから、もしカイン・アベルを中心とした家庭圏内で一つになったならば、フランス、イギリスなど、すべてそこに入らない民族がないということです。そこで、このような外的、世界的版図の前に再臨主の直系の子女が二人いれば、それで十分なのです。二人だけで、すべてが連結されていくのです。いずれにせよ、そのような再臨主の直系の血統を中心として、世代が続いていくのです。 それゆえ、お母様の立場でも二人の女性が必要なのです。お母様の立場とは縦的なのです。母と娘の関係は縦的と横的なのです。洪ハルモニに大母という言葉を送ったのもそのためです。お母様の直系にならないがために、すべてのことを蕩減条件に連結させて定着したのです。先生から見ると、二番目のお母様に当たるのです。一番目のお母様が世代を育ててあげなければなりません。レアとラケルの立場で一つにならなければなりません。心情圏の分裂が起こってはなりません。一体圏レアとラケルのような立場で、またカイン代表の婦人、アベル代表の婦人のような立場でもって、もし立場を交代したとしても一つになれるという心情圏が必要なのです。兄が弟になり、弟が兄になるとしても、「良し」と言えるような内的基盤の一体圏をつくっておかなければならないのです。 そのような過程を通して、お母様を迎えたのが今から三十年前の一九六O年なのです。一九六O年を中心として今日まで何をやってきたのかというと、教会も越えることのできなかった世界の祝福の峠を再び蕩減しなければならなかったのです。第二次世界大戦直後、アメリカが先生と一つになっていたならば、世界は一瞬に越えることができたのですが、アメリカがみ旨を受け入れることができなかったがゆえに、先生一人で戦ってきたのです。戦ってイエス様が失なったイスラエル圏を韓国内において蕩減復帰しなければならなかったのです。それが十四年路程、だったのです。その間この韓国はどんなに反対してきたことでしょうか。統一教会が行く道をすべて無くそうとしたのです。そのような戦いの中で、本当に不思議なことには、イエス様の十二弟子が反対したことと同じように、十二名が先生を殺そうとして一体化したのです。それはすべて蕩減復帰のためだったのです。 そのような反対の中で法廷闘争が始まったのです。彼らは結婚式の前日にやって来て、すべてを調べていったのです。その中で分かったことは、十二名が反対したということだけです。お母様もその時連れて行かれて、調べられました。祝福を受ける前日にそのような迫害の路程を越えなければならなかったのです。 イエス様がイスラエルの国とユダヤ教を中心として失ったすべての蕩減として、十二弟子と法廷を通して、先生はイエス様が失敗したことの蕩減をしなければ越えていくことができなかったのです。そのような中にいたので、国が反対し、既成キリスト教すべてが反対してきたのです。 この統一教会は、イエス様に従った群れと同じです。ですから、このような立場で反対されたのです。反対される中で、その峠を越えなければならないのです。そのような中で重婚式を行って、次に何の日を立てたのでしょうか。原理から見るとそれは長成期完成級なのです。七年と七年で、十四年になるのです。祝福によって、アダムが堕落した長成期完成級に登ってきた立場に立ったのです。そこから、さらに七年路程が残っているのです。七年路程を経て直接主管圏で、神の愛を中心として完全に一つにならなければ、責任分担圏の解放ができないのです。そのような基準が残っていたがゆえに、第二次七年路程、十四年以降に「父母の日」を設定したのです。 神を中心とした「父母の日」は、サタンが勝手に主管できないのです。そして、ここから登っていかなければならないのです。登っていくに当って、どんなに反対されても、この道を妨害することはできないのです。 それで「父母の日」「子女の日」「万物の日」を経て、一九六八年正月、初めて「神の日」を決定したのです。この七年路程は、お母様も歩まなければなりません。「神の日」の決定によって、今までサタンが待っていた天の王権、天の国の王権、父母の王権、子女の王権、万物の王権を先生が勝利したので、先生の中にあるすべてのことをサタンは奪っていくことができないのです。なぜならば、真の父母に属し、真の子女に属し、真の万物圏に属し、神に属しているがゆえに、どんなに小さいものであってもサタンは触ることができないのです。しかし、包囲して死亡の道へ導くことはできるのです。なぜかというと、家庭の道は、ローマまで越えなければならないからです。世界統一圏をアダムが失ってしまったのです。また、統一圏とともに神の国と地上天国の王権を失ったために、世界的水準まで越えなければならないのです。そのために、アメリカに先生は行かなければならなかったのです。アメリカに行って、十四年間戦ってその峠をすべて越えました。そして帰ってきたのです。 サタンは四方八方道を妨害したけれとも、だんだん崩れていくのです。それで家庭から民族的支派編成です。数は少ないけれども各国の民族編成、各国の支派編成をするために各国で解放が起こり、世界の解放圏がだんだん近づいてくるのです。祝福家庭を中心として、世界版図はすべて一二O力国に連結されてくるのです。神様を中心として真の父母と、子女と、万物を中心として、神様の新しい血統を中心とした一族が世界版図圏を造っていくのです。そのためにアメリカに行って蕩滅後帰してきたのです。イギリスが過ちを犯し、アメリカとフランスが過ちを犯して失ってしまったので、その失ってしまったものを捜し出さなければならなかったのです。 アメリカの復興と共産主義の解放 アダムに反対すればすべてが終わりです。先生に反対すればすべてが崩れていくのです。歓迎すべき一時のために準備してきたことも、もしメシやに反対すればすべてが終わりなのです。先生はそれを再び蕩減するために、日本をイギリスの代りに立て、アメリカをアベルの代りに再び選んだのです。これは父母が選んだのであり、神様が選んだことではありません。民族にメシヤを送るまでは神様が選び、キリスト教を中心として、再臨主が再び来られて成功するように願われたけれども、人々が神様の選んだ再臨主を追い出してしまったがゆえに、神様は再び選ぶことができないのです。 ですから、息子である先生が責任を持つのです。それでイギリスの代りに日本、さらにアメリカを再び選んだのです。アメリカをアベルの立場に立てて、ドイツをカインの立場に立てたのです。なぜアメリカを選んだかというと、もしアメリカを除けばユダヤ教とキリスト教の基盤がすべて崩れてしまうからです。統一教会は旧約、新約、成約であり、蘇生、長成、完成であるがゆえにアメリカを立てなければならなかったのです。それで韓国からアメリカに行って、アダムの代りに、日本のエバ圏を中心として、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、それに韓国の七カ国が恩讐になったことを解放してあげなければならなかったのです。それは神様にはできないことです。先生の責任なのです。これは、アメリカが責任を果たし得なかったがゆえに失ってしまったのです。 キリスト教とアメリカの国が、統一的世界版図の上に来られるメシヤを迎えていたならば、七年以内に一九五二年にキリスト教統一圏が成されて、すべてのことが終ったのです。このような一つの世界を成し遂げようとした神の計画が崩れてしまったので、再びアメリカを立てるためには、先生がアメリカに行かなければならなかったのです。そのためには、韓国人、日本人、ドイツ人、アメリカ人、イギリス人、フランス人の七カ国の怨讐圏の人々が一つになって行かなければならないのです。なぜならば、再蕩減が必要だからです。韓国を中心として、七カ国が一つになって統一圏が起こるのです。互いに反対することによって、みんな怨讐になったがゆえに一つにしなければならないのです。一つになろうとすると、サタンがすべての力を尽くして攻撃してきたのです。それが一九セ六年の戦いだったのです。 アメリカは様々なことを行った結果、滅びざるを得ない立場に陥ってしまったのです。なぜならば、イスラエルの国が過ちを犯したことによって、国の基準から民族基準、氏族基準、家庭基準へ陥っていったことと同じく、アメリ力もそうなったのです。世界を基準として、アメリ力を中心とした白人を中心とした国が陥っていくのです。今や家庭破壊まで起こっているのです。先生はそれを収拾してあげなければなりません。アメリカの基盤がなければ、世界的基盤が崩れていくからです。このようにしてキリスト教を再び復興し、滅びざるを得ないアメリカと、アメリ力の大統領を中心として収拾していくのです。アメリ力の大統領が私たちと一つになって、アメリ力の教会が私たちと一つになったという立場で、再び勝利の基盤を立てて、世界的版図を復帰して戻ってこなければなりません。アメリ力でこの七カ国怨讐の人々が何をしたのかというと、滅びざるを得ない個人主義を中心としたアメリ力を応接して、再び復活させて独立世界に向けて、その方向せいを正してあげたのがこの先生なのです。 また、共産主義がなぜできたのかというと、アメリ力が責任を果たせなかったからです。キリスト教と統一教会がアメリカで一つになれば、カインとアベルが一つになるのです。カイン圏がアメリ力の大統領を通して、私に侍らなければならないのです。既にアメリカ政府も、レバレンド・ムーンの思想でなければならないという方向性を設定したのです。教会も同じです。キリスト教の生きる道は、この統一教会の精神を受け継がなければなりません。国家が生きる道は、このレバレンド・ムーンの神主義でなければならないのです。民主主義では不可能なのです。そのような方向性をこの地上だけでなく、すべて霊界でも認められるように蕩減をしてきたのです。 アメリカやソ連が四十三年前に失ってしまったことを先生が取り戻したので、ソ連自体、共産主義のサタン自体も、第二次世界大戦直後の勝利的基準を再び捜し出したアダム圏に反対することはできないのです。アダム圏が崩れることによって生じた共産主義は、今やすべて先生の手中にあるのです。中国が先生の前に屈伏し、ソ連が先生のHUに屈伏し、アメリカも先生の前に屈伏したのです。そして韓国に帰ってきたのですが、韓国の状態は今主人がいないのです。サタン世界もすべて主人がいない状態なのです。アメリカも、ソ連も、中国も、日本も主人がいないのです。では、主人は誰かというと、主人はたくさんいるのではありません。一人しかいないのです。 真の父母宣布とエバ国家の使命 アダムを中心としてエバが一つになれば、神様と縦的に一体となり天使長たちはすべて横的に一体になるのです。こうしてみると先生はアダムであり、三人の天使長とは世界的な代表国であるアメリカ、中国、ソ連なのです。そして、復帰摂理において方物を一番多く持っている国が日本なのです。ですから日本はエバ同家なのです。エバ同家の万物は日本自体のものではありません。もし日本の子女たちのみが豊かに暮らすならば、その子女たちを愛すれば愛するほど、日本は次第に梅毒者のようになるのです。最近一番恐ろしい病気は、エイズですが、それは最後の日に淫乱を審判するための神の鉄槌なのです。 お金を中心として娘、息子を愛すれば、サタンの世代を受け継いだ立場に立つので、自分の子女たちが豊かに暮らすことは許されないことなのです。なぜ許されないかというと、真の父母が現れたからです。今やザタンの世代が終り、天の国の世代が現れたので、天使長の世代はなくなるのです。今日まで天の国の世代が現れなかったがゆえに、天使長の息子、娘を接ぎ木して、天の国の世代をつくるための種を植えなければならなかったのです。今までのサタン側の野のオリーブの木は不信者たちであり、宗教を持っていなかった者たちです。宗教を信じていた人々は神側のオリーブの木なのです。そこで再臨主とは、天の国の永生の種を持って来られる方なのです。命の種は男性から来るものです。イエス様は神様の愛と一致する、原理的直接主管圏、間接主管圏を屈服することのできる責任分担を果たした愛を通して、神様の血統的な関係を残そうとしてきたのですが、それを成し得なかったのです。そこで再び来られるメシでは、すべての蕩減的内容を越えた立場で神様と愛を中心とした完成基準において、天の血統を持った根っことして来られて、そこから新しい種を植えるのです。 それゆえ、私たち統一教会員たちは、先生に対して絶対的に従順でなければなりません。接ぎ木をされるためにはそれが大切なのです。言い訳はできません。皆さんはそれをはっきりと知らなければなりません。XとY軸の原点に戻らなければなりません。今までは自分のお父さんやお母さんを中心としての愛の関係を結んだ事実が、現実的に受け入れられる立場を越えなければ、サタン的血縁関係を屈伏し得ないのです。それを越えなければならないのです。接ぎ木をするためには三年間絶対従順でなければなりません。このようにして統一教会は拡がっていくのです。 ですから先生の家庭を中心として、一九八九年までに國進まで祝福したのです。孝進、興進、顕進、國進の四人の息子たちです。その次は謍信、仁進、恩進の三人の娘たちです。七数を越えなければならないのです。アダム家庭も八数以上だったのです。そのような世界的蕩減過程を経て、世界的基準まで越えてきたのです。今やアメリカ社会で、西洋社会で父母が何をしても問題にならないのです。しかし、韓国は問題になるのです。世界的な運勢下で韓国の民が父母を受け入れなければ、本当の定着は起こらないのです。その定着は韓国だけのものではなく、世界的基準を越えて、神の国の王権と地上の国の王権を連結させる立場を代理するものなのです。このような時代を迎えたので、韓国において真の父母を宣布したのです。それは何のことかというと、地球上において創造以後アダムが失ってしまった天と地の一体的愛を中心として、初めて王権が成立するのです。このような重大な意味を持っているのです。 王権宣布式 それで先生はセ十歳、八十歳になっても再びこれを越えなければなりません。では、何をもって越えるのかというと、世界的峠を越えて、サタンがカイン的基準を国家的、世界的に結束も、対抗することもできない立場を立てなければなりません。このような時代に入ったのです。これを成就しなければなりません。王権復帰をするのです。王権復帰ののちは、その王権を定着させなければなりません。韓国という国が支持する立場で、国の基準を中心として世界に向けて越えていくのです。このような重大な意義があるのです。霊界の啓示を受ける者たちも、そのように受けるのです。先生が昨年説教した内容も、このような神の国と地上の国を清算するためには、分水嶺を越えなければならないということです。そのようなことをすべて宣布したのです。それで今日、不思議なことは、霊界に通じる人たちは文総裁の使命は成就したと言っているのです。 天の国を成すためには、まず王権がなければなりません。同家の三大要素は主権と国土と国民です。同士は韓国、国民は統一の群れ、主権は天の国なのです。それで、これからは反対がないのです。この前交差祝福をした時、一部が反対したけれども、これからは反対はありません。峠を越えて帰ってきて、既に六日が過ぎました。今や七数を越えて八数に向かうのです。王権とは、兄弟権復帰、父母権復帰を成した家庭を中心とした王権なのです。先生を中心として、世界を代表したカイン圏を連結し、国家を連結し、氏族、民族、世界を連結させるのです。このようにしてどこに連結させるのかというと、氏族圏に連結させれば国は自動的に生まれるのです。イエス様が失敗したのはこのことです。 ですから、先生の家庭が中心になるのです。根から幹、枝ができて、葉っぱが茂るように、皆さんと一つにならなければなりません。それで、これから接ぎ木をするには誰に接ぎ木するかというと、それは同じ種類の氏族なのです。過去には、カインとアベかは種類が違っていました。天の側の木の下でカインを切ってしまい、アベルを接ぎ木してきました。ですから、血族も違ったのです。しかし今は同じ血族なのです。自分の息子、娘が自分の父母の前で接ぎ木を受けるのです。簡単なことです。反対しなければ一瞬にして一つになるのです。野生のオリーブの木と真のオリーブの木は、種が違うので難しかったのですが、オリーブの木とオリーブの木同士は接ぎ木がしやすいのです。自動的に通じるので反対がないのです。 それで今回、宣布式を行いました。真の父母宣布式と同時に、全国を回って王権宣布式を行わなければなりません。何の話か分かりますか。定着しなければ、これから恐ろしいことが起きます。祝福を受けた皆さんの家庭を中心として見ると、天使世界と同じなのです、霊界の先祖をいつでも呼んで成長させるようになるのです。こちらに来て守ってくれるように祈っているのです。神様の本来の創造理想の国は、アダムのいる所にいつでも天使長が協助するようになっていました。同様に天の国の王権宣布をしたのちには、善なる霊界はいつでも王権氏族に対しては、天使長と同じ立場でアダムを完成させるために協助するのです。ですから、私たちの周りにはサタンがいません。思いきって前進すべきです。 これからは、金日成もバラバラになっていきます。先生が結婚して、既に三十年になるからです。イエス様は世界版図圏を中心として、三年路程を経て定着しなければなりませんでしたが、それができなかったのです。三年を経て七年が過ぎて四十歳になるまでに天下統一をしなければならなかったのです。同様に、これから一九九二年を経て二OOO年までに、先生は世界を一つの国として完全に収拾していかなければなりません。私たちの手によって十年以内にすべてが終わるのです。 私たちの摂理史から見ると、一九六O年の聖婚式から一九八O年までが第一・三次七年路程なのです。そして一九八一年から第二・三次七年路程が始まり、二OOO年に入るのです。このように見ると、第三・三次七年路程の時代は私たちの時であり、それは蘇生、長成、完成なのです。先生が八十歳になれば、世の中の問題はすべてが解決するのです。このようになる日が目前にはっきりと見えるのです。そのためには、いかにして一番早く収拾するかというと、それは大学教授たちと学生たちの力によるのです。彼らを正しい道に導いておけば、国民を導くことは問題ではありません。問題は学校での教授と学生、家庭での父母と子女なのです。家庭では内的、縱的な父子関係、外的社会では、先生と学生の関係なのです。それらが愛を中心として完全に一つになれば、この世界はみんなが主人になるのです。ですから、みんなに「何になりたいですか」と聞いてみると、「主人になりたい。先生になりたい。お父さんになりたい」と言うのです。これが三大願いなのです。しかし主人になるためには、まず中央が一つにならなければなりません。 それで今回、先生がある指示を出したのです。このことは本来、皆さんが成すべきことです。先生が前に出てやることではありません。コンクリートを打ったような路面ではなく、穴が空いている道なのです。その穴を誰かが埋めて平らな地面にしなければならないのです。このょうに道路の穴を埋めようとするので、人々が悪口を言い打ってくるのです。平らな地面を造らなければなりません。神様は、間違っているこの世の中をそのままにしておかれるでしょうか。ですから、皆さんも過ちを犯せば打たれるのです。真心を込めた父母を中心として、その標準の前に相対的基準が皆さんの家庭となり、皆さんの息子、娘にならなければなりません。これからの問題は家庭なのです。お父さん、お母さんの役割を良くしなければなりません。皆さんは先生に侍ることにおいて模範になり、子女たちは先生の息子や娘に侍るようにならなければなりません。皆さんそのようにできますか? (はい。) ですから、真の父母宣布式を行わなければなりません。もはや反対はないのです。既に韓国の諜報員たちが、先生が何の話をするのか調べているからです。先生はそこで、血と汗を流しながら語ったのです。どこでも三時間以上は語りました。簡単に話すこともできますが、三数を越えなければならないのです。今や韓国でのすべての大会が終ったので、お祈りをして出発しなければなりません。分かりますか。それが王権定着なのです。 皆さん、教育はどこから始めなければならないかというと、家庭に帰ってやらなければなりません。父母様を歓迎する時代に入ってきたので、運勢から見ると、韓国は列をつくっているというのです。父母様がみんな連れてきたからです。ですから真の父母歓迎という大きな看板を立てなければなりません。素晴らしく歓迎しなければならないのです。それができないならば旗を立てなければなりません。「真の父母」歓迎 これからは、真の父母を歓迎すれば永遠に生きられるのです。真の父母を歓迎すれば、天国に行ってから永遠に生きられるのです。簡単なことです。真理は他の所にあるのではありません。真心を込めて真の父母を愛すれば、十年、六十年かけて到達したこと以上になるのです。思いだしても涙が出るのです。神様は復帰摂理において、息子、娘を考えながら涙で歩んでこられた方です。その方の息子、娘を涙なしに愛することができるでしょうか。先生は復帰の道をこのように涙で歩んできたのです。 ですから今やどこに行っても、真の父母だと言われるのです。真なる家庭の中でも、カイン,アベルの家庭があるのです。皆さんは今や祝福を受けて帰ってきたカインなのです。カイン家庭なのです。ですから、もし中心を失ってしまうと希望がなくなるのです。皆さんは三代以上苦労しなければなりません。蘇生、長成、完成の三代です。三代を経てこそ習慣性がなくなるのです。皆さんは今でも習慣性を持っているでしょう。忘れていないでしょう。そのために、先生は今度初めて真の父母という言葉を発表するのです。メシヤがなぜ真の父母なのでしょうか。メシヤは父であり、父は母が必要なのです。イエス様はその母を迎えるために楽園で再臨の日を待っていたのです。 父母という言葉は、再臨時代に初めて出てきたものです。それは、人間が家庭を中心として堕落したからです。父母は長成期完成級でアダムが堕落したその立場を復帰して、世界の迫害を勝利して韓国に帰ってきて、天の国の王権と地の国の王権を宣布したのです。今や共産主義は崩れ去りました。金日成は神の範時にはありません。これからは、民主世界の代りに共産世界を接ぎ木するのです。モスクワ大会について考えてみると、先生の結婚した日が四月十日なのです。どうしてもモスクワ滞在一週間の中でその日が真ん中に来るのです。ですから完全にソ連は崩れていくのです。今日、ソ連には主人がいません。もはやサタンは主張できないようになっているのです。では、誰が主人でしょうか。この先生が主人なのです。これからはアダムの付けた名前がそのようになったように、主人の決定したとおりにしなければなりません。もはや金日成はいてもいないような存在なのです。南において統班組織だけ教育すれば、各家庭に旗を立てて、そこに統一教会の人たちが一日三人通ってくるような喜びの家庭になれば、みんな救われるのです。 今日まで、数多くの人々が私の世話になりました。アメリカにまで連れて行ってもらって教育を受けたり、いろいろ世話になったので、真の父母と呼んだとしても反対することができません。先生のみ言を中心として、精神的、物質的、様々な恵みを受けたのです。ですから誰も反対することができません。ラッパを吹けば、太鼓を打つようになっているのです。そのような段階に入ってきたのです。 真の父母歓迎を宣布することによって、世界の峠を越えて、サタンが今まで舞台にしてきた地球を回ってこの韓国に帰ってきて、神の国と連結させるために王権定着宣布式を行ったのです。これからこのような実力を持って定着すれば、統一しても何も言わなくなるのです。これからは力で導く必要はありません。教育して導くのです。皆さんが霊界のすべての善なる霊人たちを再臨させるための秘訣は、皆さんが故郷に帰って、素晴らしい人、善なる人だけを愛さないようにすることです。悪い人、罪を犯した人たちを愛すれば、地獄にいるすべての先祖たちが解放されるのです。地獄の底にたまっていた水がだんだん浮かんでくるようにです。その村に入って氏族的メシヤになって、そのように愛しなさいということです。神の救いの摂理の縦約基準を横的に展開させた自分の一族の悪なる基準と比べてみると、今が最も悪いということです。 ですから、神の愛を持ってすべて救ってあげようとする心に従って、皆さんは神の代りの立場に立って、悪なる先祖でも、素晴らしい人でも、自分の一族でも、誰でも同じ心を持って愛する時には、いかに悪なる先祖たちも再臨して協助することができるのです。旧約時代、新約時代、成約時代のすべての功労が平準化される時代が来たのです。救いの摂理圏を立てるために、ユダヤ教、キリスト教、統一教会を立ててきた恵みの圏を全人類の前に及ぼす時が来たのです。宗教を信じない人までも、先生によってイスラエルの国やキリスト教を信じる人たちのように、恵みの圏内に入れるようになったのです。先祖たちは悪のすべてを否定されて、皆さんの功績によって天上世界に入れる恵沢を受けるのです。 ですから、すべてが皆さん自身にかかっているのです。悪なる霊人たちが降りて来るので、サタンもその後ろについて来るのです。これからはサタンまでも評してあげなければなりません。では、金日成をいかにすべきでしょうか。共産党はすべて崩れ去りました。世界的に残ったのは一つは島国のキューバと、この半島国家の北韓のみです。半島は男子を、島は女性を象徴しているのです。この二つしか残っていません。お母様はこちらに来てください。お母様を連れてきました。明日の出発の準備に忙しいのですが、一度みんなでお祈りしましょう。 祈祷 愛するお父様。きょう一九九O年二月二十七日、午後七時十分前を期して、この漢南洞の公館に父母様と共に全国に広がっている学舎教会の教区長たちと、全体教会の教区長たちが一堂に集まりました。韓国で驚くべき父母様の栄光なるみ名を宣布する前まで、この者たちがそのみ名を押しつけて、自分勝手に追求してきた過去の足りなかったすべてを評してください。 これから、この韓半島、アジアと全世界。今回韓国で、父母様を歓迎したのは韓国だけの歓迎として終わるのではありません。今回の期間はアメリカを越え、全世界を越え、一番頂上に立って、父母の特別な権限を持ち、天上世界の解放とともに、地上世界の解放を予告する宣布の期間でありました。真の父母様というこのみ名がエデンに定着することによって、地上と天上世界に永遠なる王権が設定されるべきでありましたが、我々の人類の始祖たちの過ちにより、天使長の蹂躙によって堕落し、これを失ってしまいました。 今や、来られた再臨主がこの地上に立って七十年の一生を懸けて、恨みの峠を越えるために千辛万苦を重ねたのちに、全世界を通して再び勝利の盾を立てました。しかもアメリカが、責任を果たし得なかった第二次世界大戦以後の過ちをすべて清算し、彼らが天に向かって方向を整えるようにしたのです。それと同時に今回古稀の祝いに際して、これまで反対してきた韓国のすべてが粛然たる立場で父母様を尊敬する一連の心として集まり、その頂上の立場に立って今回六日間「真の父母歓迎大会」をfなうことによって、韓国の国民が心の門を開きました。世界の人々が心の門を開きました。霊界の先祖たちも、賛美とともにこの時間喜んでいることを知っております。それのみならず地獄にいる霊まで、真の父母のみ名を持った愛をもって許す今日のあらゆる説明の内容を中心として、一切が平準化時代に向かっている摂理的時代を迎えたので、お父様の愛のみが左右(主管)することのできる自由の天地になりますように。 その中で、天と地を代表できる永遠なる王権が、この地上から天の国に至るまで一直線に定着されますように宣布し、サタン世界のすべての権限を押さえ、あなたの創造理想を中心とした愛と平和のための統治権限が行使されることのできる時代へ進められるように、お父様、宣布してください。 真の父母様が立てたこの基盤を聖なる心で受け入れてください。天の父母と共に一つになって天上、地上に新たな王権の策定を宣布致しますので、万宇宙は歎息と恨みの峠を越えて、喜びと賛美と栄光を返しますように。f様の解放と真の父母様の解放と万民の解放が神様の愛を中心として、また神様の王権を中心として、神様の民とこの地味星を中心として、天上天国を中心として成し遂げられるように承諾してください。 このすべてのみ言を、全天宙の前に、真の父母のみ名によって宣布致します。アーメン、アーメン、アーメン、アーメン。 (タイトルは「史報」韓国歴史編纂委員会に準じました)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.17
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「み言・古希慶祝式におけるメッセージ」は、『ファミリー』’90.4月号に掲載されたものです。慶祝・文鮮明先生古稀の御言「古稀慶祝式におけるメッセージ」一九九O年二月一日(陰暦一月六日)韓国・ソウル オリンピック公園フェンシング競技場にて 尊敬する内外貴賓の皆様、世界一三O余力国の代表者、国内指導者、そして紳士、淑女の皆様。 公弘共におftしい中にもかかわらず、きょうは私の古稀の祝いのために、このように盛大な場を準偏してくださいましたことをありがたく思い、特に天意を動機として生きてきた私の生涯を、このように祝ってくださる皆様のお心に対して感謝申し上げます。 先ほどは、それぞれの代表の方が多くの賛辞をもちまして、私の過去の業績を賞賛してくださいました。しかし、きょうのこの記念式が、単に過去の功績を賛美するだけの場であるならば、何らの意義もないと思います。この私の業績が未来にどのような希望的動機を付与するのか、また人類の将来のためにどのような意義があるのか。さらには、宇宙を治められる神様の摂理といかなる関連があるのかを中心として、祝賀の内容が決定されなければまりません。 天命に従い、前人未踏の孤独な開拓の道を一目散に走ってきた私の生涯が、没理解と反対の中にあって、外的に波乱万丈であったことは周知の事実であります。しかし、私の心の世界では、一分一秒を争いながら、いかにすれば神様が願われるとおりに生きて、そのみ旨を成すことができるのかということに焦点を合わせた、緊張の連続でした。神様を除いてはとても説明できない私の生涯であり、さらには国家の運命、世界の運命と直結した私の行路を前にして、神様と深い内情を授受しながら過ごしてきた事縁の数々、最も深い悪しみも神様とともに、一番大きい痛みも、最高の喜びも神様とともに体感した生々しい記憶の数々を回想しながら、他人とは違った情感でもって神に深い感謝を捧げつつ、この日のすべての栄光を、生きておられる私の父なる神に捧げたいと思います。 その間に私が世界的に築いてきた基盤の数々が、驚くべき業績となっているということは、率直なことであります。しかし私は、外形的であり、可視的なその基盤のどの一つを取ってみても、私自身を中心としなかったという点、また現在よりも未来を、個人よりも全体を、小さいことよりももっと大きい目的のために築いてきた天と地と歴史が公認する、基盤であるという点を誇りとしています。徹底的に神様が動機になられて、とげとげしい風霜、曲折の中でも、神様が守ってくださる中で築いてきた基盤であるということが貴いのです。 私の過去七十星霜は、決して易しい道ではありませんでした。この社会に友達もいませんでしたし、師もいなく、実に一人ぼっちの孤独な道でありました。私が数多くの逆境を踏みしめて立ち上がったのも、死地をさまよいながら勇気を失わなかったのも、神様と深い心情的交流があったからでした。誰もその深い境地の対話を知ることはできませんが、常に奥深い勧告を下さる神様は、私の生涯の動機自体であり、生命力の根源でありました。私は他人の言葉に耳を傾ける余裕がありませんでしたし、わき見することもできず、世論に神経を使うこともできませんでした。日久月深(日がたち月が重なる)、神様の願いを思い、細胞が締め付けられるような一体感でもって、その方の創造連想を現実に成就すべき、その道、その目的に向かって、狂ったように駆け上ってまいりました。 満場の皆様! 本来、堕落がなかったならば、神様は無形の真の父母であり、人間はその子女になります。人間は縦的な真の愛の父母である神様と、横的な真の愛の父母であるアダム、エバから、愛と善なる血統を受け継ぐ真の生命体であります。また人間は愛の過程を通じて、生命の種を子孫へ連結するようになっているのです。堕落というのは、人間始祖が神様の縦的な真の愛の下で横的に真の愛を完結することができず、天使長の侵犯を受けて偽りの横的な愛を持ったことです。このような堕落の結果、神様は愛する子女を失うようになりましたし、人間は心と体が矛盾し、葛藤する故障した生命として生まれざるを得なくなったのです。悪魔は横約愛の条件を口実にして、個人から世界に至るまで、人間を不当に主管してきております。神様は、これらのすべてのことを原状へ復帰させる救援摂理を始められたのです。原理に従って悪魔を自然屈伏させながら、メシヤ、救世主を通じて、人類を接ぎ木して復帰させるのです。 本来、神様が真の愛を完全段人して創造されたように、再創造過程の復帰摂理においても、為に生き、完全投入すべきことを知った私は、天命に従って生涯を捧げ、この原則を実践してきました。神様のみ旨の前で、他人の為に生きる道に徹しながら、投入、投入、完全投入してきた結果、今日の基盤ができたのです。 現代科学技術の発達は、地球上に大きな変化をもたらし、今後、さらに大いなる変化を予告しております。人類はこれに英知を集め、対処しなければならない緊迫した局面におかれています。一言で現代文明は、重大な危機の岐路に臨んでいます。これに対する人類の対処は、まず一番目に超国家、超人種、超宗派的に、すなわち汎世界的な接近でもって協同、努力しなければなりません。公害問題、人口問題、自然保護問題など、当面する問題の数々がすべて、汎地球の間題となっているからです。 二番目に現代社会の病弊、特に倫理、道徳、人間性退廃の問題、また人種戦争の危険性などは、すべての人間本質の中に内在した病弊であるゆえに、その主体たる人間の意識革命、人間改造の次元でもって解決しなければなりません。決して体制や制度上の間題だけではないのです。 満場の紳士、淑女の皆様/・私が創設した世界的な活動の数々は皆、国境を越え、人種の垣を崩し、超宗教的、汎世界的な運動の典型です。世界の統一教会の信徒たちは、神様の真の愛を中心とした意識改革でもって、新しい世界観を身につけ、既に一つの人間家族としての生活をしております。アメリ力の中でも、白人と黒人間の摩擦と壁のない唯一の所が統一教会なのです。 アメリ力はキリスト教思想に基をおいて、人権と平等を叫びつつ努力してきましたが、解決することのできない白人と黒人の紛糾を、私たちが解決したのです。また、日本、アメリカ、ドイツ出身による三人一組の宣教師が、過去の怨恨と葛藤の歴史的事縁を飛び越えて、互いに一面識もない立場でありながら、それぞれ見知らぬ国に到着して、共同献身生活を通して宣教活動をすることによって、世界一家族理想を証してきました。それのみならず、ユダヤ教、キリスト教、マホメット教、仏教など各宗団の和合のために、私は毎年巨額の支援を行って、一致会議を開催し、世界各地の宗団長たちの賞賛を受けていることは、既に知られていることであります。 さらに、国際祝福によって日本の名門大学出身の新婦を迎えた韓国の農村の青年が、村の宴会を通してお祝いを受けました。このような喜ばしい血族の因縁の中において、韓日間の民族的感情が問題になるでしょうか。統一教会が主管する集まりは、いついかなる所であろうとも、人種間の葛藤や民族差別意識、宗教的偏狭性がありません。洋の東西を問わず、これらの人々は私の思想に従い、人格変化を受け、利己的、自己中心の姿勢を清算し、他の人の為に生きて、施す生活をすることによって、本来の理想世界の市民の標本を指向しております。 統一連動はまだ量的には十分ではありませんが、今日の実績の示す意義は、宇宙史的なものです。歴史以来、多くの聖賢の教えの数々は、このような結実を目標としたものではなかったでしょうか。また、この地球上には多くの良心的な人々が正しく生きるために、いかにその道案内を捜し求めていることでしょうか。また、どんなに心ある若者たちが新しい可能性を探し求め、明るい未来を夢見てさまよっていることでしょうか。捜し求めては失望し、挫折した若者たちがどんなに多いことでしょうか。皆さん、来て見てください。偏見なしに見てください。人間が動機ではなく、天運が共にあったこの基盤を研究してみてください。そうして明るい明日を設計し、明確な価値観を立ててください。 世界の統一教会の会員たちは、老若男女を問わず、献身の道を歩む中でいかばかり喜びに満ちていることでしょうか。特に若い会員たちが混濁したこの世俗の中でも最上の倫理道徳的基準を身につけ、自負心をもって活勒する姿を見てください。私は統一教会の世界の若い会員たちを、人類の希望、神様の希望として眺めております。 狭い教派や宗教観念を越えて立ち、地球人という大きい次元で考えてみましょう。もし韓国人が、私の唱導する思想によって人格変化を起こし、他の人の為に生きるようになるならば、この国の将来はどのようになるでしょうか。私たちにとって、南北統一は難しい課題でしょうか。さらに全世界人類がこのみ旨を受け入れたならば、平和に満ち、繁栄した世界は保障されることでしょう。私の"もっと大きいことの為に生きる"という哲学は、統一教会自体を発展させようとするものではありません。また、神様と世界は、教会のためにあるのではありません。教会は神様と世界のために奉仕しなければなりません。私は今も、これからもさらに続けて奉仕する道を探し求めており、そのような歩みの連続でもって生涯を終えるのです。 いま一度、皆様の祝意に感謝しながら、きょうこの記念式が単純に私の古稀を祝う場であることを越えて、他の人の為に生きる宇宙公道を学ぶ集まりになりますことをお願い致します。皆様の成されておられることと、皆様の家庭に、神様の祝福が共にありますことを祈願致します。ありがとうございました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.16
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第5回天の父母様聖会 成和子女礼拝 孝情ヌリ(2022.1.16)天一国9年 天暦12月14日(2022.1.16) 09:30にライブ配信予定です。孝情文和苑 文和ホール & PeacelinkTV一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.15
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第2回神統一韓国のための救国救世祈祷会2022年1月9日午前10時 清心平和ワールドセンター&PeacelinkTV韓鶴子総裁演説一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.14
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「ネーナラ統一」1991年1月1日午前零時韓国・ソウル本部教会にて 祝祷 愛するお父様。今、一九九〇年を送り、新しい一九九一年を迎える元旦の新しい朝の瞬間です。 歴史時代を回顧します時、この身がこの地上に生まれてから満七十歳を越え、新しく七十一歳に向かうこの瞬間は、摂理歴史においては七十年の歴史を蕩減し、清算し、この地上にかくも罪悪と死亡の曲折の事縁を残してきたサタン世界のすべての主権を除去し、天が新しく勝利の基台を準備して、天の主権の世界を建立できる新しい八十歳代の再出発時代の劈頭(へきとう)を迎えました。 今、この十年間を中心として、この身が八十歳代までに国を越え、世界を越えて、歴史的に複雑な世の中のすべての問題を清算して、天の国を地上に完成させなければならない重大なる時期が近づいてまいりました。 今まで天が共になされた波乱万丈の歴史過程に、天の心情圏を立てるために統一教会と、統一教会のすべての家庭が四十年余りの間、血のにじむ闘争を経てきました。家庭を捜し求め、教会を捜し求め、氏族を捜し求め、民族に向かって、世界の舞台にまで闘争過程の蕩減の血と汗と涙を振りまいてまいりました。 このようにして、サタンの反対する強いすべての垣根を崩して、今こそ頭翼思想を中心として、神主義に向かって左右が一八〇度の異なる方向を振り返り、天の本郷に向かって戻っていく還故郷時代を迎えました。 お父様。その間、統一教会のあなたの子女たちが、任せられた責任を十分に果たすことができないために、摂理史の中に誇ることのできない歴史的日々がありましたが、それにもめげることなく勝利の盾としてすべてのことを除去し、今や永遠に自由世界を越えて、天に向かう道におけるすべての迫害の要素を除去し、勝利の覇権を立てるべき歴史的な八十歳代を迎えました。 お父様。今まで私たちは体と心を尽くし、天の父母に従ってきましたが、これからは天の国を立てるために、イスラエル民族がカナンの福地に復帰し、定着しなければならない時代を迎えての建国ではなく、建世界のための重大なる使命を果たさなければならない時になりました。 前途に困難があるとしても、すべての困難は蕩減の要因によって解消されるような事柄ではなく、私たちの持てる精誠のすべてを投入することにより、蕩減ではなく天の国の財産として、所有物としての功績が私たち個人、家庭、氏族、民族、国家の前に残り、世界の前に残り、天地に残るという驚くべき時代を迎えました。 今まで私たちが苦労してきたすべての々結果は流れていき、蕩減の祭物として消え去ってしまいましたが、今から血と汗を流して投入するすべての再創造の勝利の権限は、天の全権の前に、万民、万国を越えて、天上世界のお父様の前に奉献できる天の所有として、各自が準備しなければならない個人完成、家庭完成、氏族完成、国家完成という課題をここに集いましたすべての国の人々の環境と境遇に従い、その国を捜し求めなければならない召命的使命が残っていることを知っております。 八十歳代に輝く統一教会の誇らしい時期が訪れましたので、すべての精誠を尽くして、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流すという標語の下で順応してきたすべてが、今勝利の覇権を中心として、天の国の栄光を捜し求めるためにすべての面に真心で体と心が一つになり、天の前に捧げる所有権のために再び、この地のために汗を、人類のために涙を、天のために血を流す時、たとえいかなる根みがあるとしても、国のものとして、神様のものとして、私たちのものとして残すことのできる素晴らしい時代が近づいてまいりました。 今、私たちが行くその路程には、天が共にいてくださいますことを知っております。神様は私たちの直接的な、縦的な心を代表するお父様であり、真の父母は愛を中心とした横的な体を代表する方でありますから、縦横の父母に侍り、真の愛を中心としての一体理想圏内に、私の体と心が再び生まれた復活の実体となり、復活した家庭の実体となり、私の氏族と、私のこを捜し求めてきました。世界万民が天下を統一するための、世界を統一するための目的に向かって前進、前進、前進を固く決意する時が近づいてまいりました。 お父様。この日、天上のすべての聖徒たちと、神様を中心としたすべての十二長老の宝座を中心とした全体は、地上のご父母様と一つになって、この地上のすべての死亡圏を克服し、勝利的基盤の上に立つ統一家を中心として、統一氏族と統一民族を中心として、残された南北の統一はもちろんのこと、アダム国家として整えるべき勝利の韓半島になると同時に、日本を中心としたエバ国家となり、アダム、エバ国家の統一と、さらに進んで周辺にある三大天使長国家を完全に、この国の一族として結びつけることのできる責任遂行を完遂することにより、天地を統一し、万国の勝利の覇権を天の前に奉献する時が訪れましたので、すべてのものを整え、各自が準備できますようにお願い申し上げます。 私の一身、一家庭を中心としての旧約時代の完成、新約時代の完成、成約時代の完成によって、堕落の要件を再び復帰できる内容を超えた直接的な神様をこの地上に臨在させて、崇め奉る直接的時代に入ったことを知ることができますように、お許しくださいますことをお願い申し上げます。 その前に、私たちが行かなければならない道は、家庭は物質的旧約時代を象徴し、子女は新約時代を象徴し、夫婦は成約時代を象徴しますので、万物を犠牲にして子女の道を開き、子女を犠牲にして父母の道を開き、父母を犠牲にして神様が臨在する道を開きましたので、今や私たちの家庭の中心に神様をお迎えし、真の父母をお迎えし、真の子女になった位置で真の万物を従える所有権を決定しなければなりません。万物を再編成して、お父様の前に献納しなければならない時代が近づいてきていますので、各自が準備して、子女、自分、夫婦、それら一切を再び天のものとして付与するこのにより、天の国の万物の所有権、子女の所有権、父母の所有権、神様の全権的所有権を地上に決定し、すべて神様が直接主管できますように、能力を発揮することができますように、主導してくださいますことを切にお願い申し上げます。 今や八十歳代においては、すべてお父様の前に捧げていかなければならないことを知り、今まで備えることができなかった天の国の個人完成、天の国の家庭完成、天の国の氏族、国家、世界完成へと前進する一九九一年となりますように、お許しくださいますことをお願い申し上げます。 こうして、九〇年代から二〇〇〇年を中心としたこの期間に、八十歳代のご父母様を中心にして新しく出発する勝利の年として、この新年を出発させてくださいますように、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。 民主世界を代表したアメリカと、共産世界を代表したソ連が一つになり、その中で頭翼思想を中心として一体化した縦的な神主義でもって、天宙を統一して新しい平和の時代へ前進できますように、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。 天が地と一つになって、天が願うすべての願いどおりに、この地上が従い、完成する方向へ収拾されますように、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。 霊界のすべての霊人たちも地上に再臨復活することによって、子女たちと共に勝利の覇権を整え、神様の選んだ息子娘の権威を受け継いで、祝福を受けた直系の子女たちと天の国の一族になり、民になりますように、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。 五十億人類が神様に抱かれる一族であることを、この時期に宣布しますので、悪の権限、悪魔の権限を踏みつけ、復活の新しい息吹がすべてこの地球の万民を成就させることができますように、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。 今や長子権が成立しましたので、父母権復帰と王権復帰の実践的舞踏場が、この地上にできますように、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。 統一の群れは、このことのために旗手となり、前進的な決意をする天の精兵となれますように、お願い申し上げます。 新しく迎えます九一年、この息子は八十歳代を迎えて出発します。この栄光に満ちた歩みの一歩を新しく踏み出せますように、お許しくださいますことをお願い申し上げます。 前進するすべての路程の上に、お父様の加護と祝福と勝利のみが満ちますように、お許しくださいますことをお願い申し上げます。すべてのことをお父様がお引き受けくださいまして、子女たちはそれに従い、そのすべてのことを収拾することを誓いながら、このすべてのみ言を真のご父母様のみ名によって、新年の劈頭に祝願致します。アーメン、アーメン、アーメン。 世界は一つの民族という概念を持って 新年の年頭の辞は、昨年と同様、三年間同じ標語を定めることにしました。 皆さんが考えるように、今年も私の国統一であり、来年もまた、私の国統一です。そのように三年をかけて、これを完結させなければなりません。ですから、三年目には必ずという概念を持って、九二年までに私たちはこれを実践しなければなりません。(ここで年頭標語「내나라統一」を謹書される)(拍手) 一九九一年度の新しい年に、皆さん方に祝福がありますことをお祈り致します。(拍手)更に進んで、私たちの大韓民国を中心に、ここに参席されたすべての国の人々にも、新しい祝福がありますことをお祈り致します。(アーメン)。 私たち統一教会は、一九四五年以降に本格的な出帆をしました。そして四十五年という歳月が流れていきました。また、私の年齢でいえば満七十歳を過ぎ、七十一歳を迎える新しい年を迎えました。七十一歳ということは、私にとっては八十歳代に向かっていくようになるということであり、これからの十年というものは、私にとってはモーセがカナン復帰を始めた八十歳の時と同じく、世界のカナン復帰完成を標準としての八十歳代なのです。きょう二〇〇〇年に匹敵するこの時を迎えて、皆さんは摂理がどのようになるかということを推察できなければなりません。 この十年間に、すべての世界の人々が一つの民族の概念を持たなければなりません。今まで人類は、複雑多端なる方向を経つつ今日の国家形成をしてきました。一八一か国、氏族としては、数千の氏族を残しつつ、さまざまなる方向を経てきたすべての国々が、今や一つの方向に向かっていくべき時を迎えたということを、皆さんは知らなければなりません。 いつも「私たちの誓い」の中で暗記しているように、神様のみ名でもって一つの国を捜し求めていかなければなりません。神様のみ名でもって一つの主権を捜し求め、一つの民を捜し求め、神様の国土を捜し求めていかなければなりません。その一つの方向性の決着点は、神様へ戻っていくことであり、天の国に戻っていくことです。 私たち人間は地上に生きていますが、まず何よりも天の国と直結した位置に立ち、天の国に向かっていくことに生涯を捧げて、天の国の永生路程に合うように訓練される舞台がこの地球なのです。地球で一生を送る間に、天上世界、天の国に入って生きることのできるすべての準備を整えなければならないのです。 天の国に入れば、そこは単一民族ではありません。今まで歴史時代の地球上で生きてきたすべての国の人々が入っているのです。しかし彼らはすべてが一つになっていません。みんなが限界線にとどまっているのです。本来は、これが地上から統一されて天上世界に行かなければならないにもかかわらず、悪魔がこの地上を主管したことによってさまざまな分派的な垣根ができたので、すべてに限界が生じて、国境となったのです。その国境の中で生きた人々は霊界に行っても、その形態にとどまるようになるので、一つの国から一つの国境を越え、また次の国境を越えていくということは易しいことではないのです。そのような形態で霊界も今日まで編成されてきているのです。 ですから今日、統一教会が生まれて単一民族形成のための活動を行っているのです。それは、堕落によって愛の問題を中心として分かれたからです。これを蕩減復帰するためには、サタンによって家庭から分離されてきた愛の問題を、神様を中心として、真の父母を中心として、再び生まれたという立場に立って、これを蕩減してこなければならないのです。この蕩減に主導的な役割を果たすのが何かというと家庭なのです。その家庭を形成するために主導的な内容を整えるのが祝福なのです。 祝福を通して、天の国の一族編成、天の国の氏族編成を行い、一つの民族、国家、世界編成のために、私は今日まで多くの闘争を経てきました。悪魔の世界のサタンは、これを妨害し、すべての方向に反対してきました。 神のみ旨 皆さん、天の前に祝福を受けた家庭というものは、普通の結婚による家庭とは違います。歴史性を背負ったサタンたちが反対する環境を突き抜けていくのです。故郷で歓迎を受ける家庭ではありません。故郷を離れて、父母たちが反対し、一族だ反対し、国が反対する環境で、祝福の家庭を中心として世界的な版図を拡張させてきたのが、今日の統一教会の歴史なのです。 それでは、祝福家庭を中心として、世界中の統一教会の信徒は、どこへ行こうとする人々なのかというと、いろいろな国の中で生きていても、その国が自分の国でないのです。その国を離れて、神様が統治する国へ行くのです。複雑多端な民族的、国家的背景を離れて、一つの国家を捜し求めていくのです。一つの国を捜し求めて、一つの方向性を捜し求めて、天の国へ連結させなければならないのです。 もし堕落がなかったならば、アダムとエバは神様から生まれた、神様の息子娘です。神様の息子として人類歴史過程において、初めて男性として生まれたのがアダムであり、また女性として生まれたのがエバなのてす。その男と女、アダムとエバは、神様の前に初めて息子娘なのです。しかし、神様の息子として、神様の愛を受けることのできたアダムの生涯は、堕落の直前までです。またエバが神様の娘として、神様の愛を受けることができたのも、堕落する直前までだったのです。 それでは、いつ堕落したのかというと、青少年時代であり、堕落する前の神様の心情を中心として見た時、堕落以降のアダムとエバは神様の心情圏から離れてしまいました。そして、神様の愛、神様の心情圏とは全く関係のない悪魔の愛によって、私たち人間たちが行かなければならなかった本然的すべての心情的要素は制御され、拘束されながら、今までそこに反抗する路程を歩んできたのです。 ですから、アダムとエバ、男性と女性が一つに結ばれ、永遠に愛の圏に一体となり、分立するにも分立できないようにならなければなりません。しかし、アダムとエバ自身は心と体が分かれ始めました。アダムとエバ自体が、愛を中心として一体になることのできる神様の最初の愛を受けた息子や娘ではなくして、神様の心情に背く悪魔の愛によって、サタンからも愛を受けられず、利用されて生きる路程を出発したのが、堕落直後の人生航路だったのです。 それゆえ、出発当時から幸福という要件がありません。聖書に記されているように涙を流しながら、痛哭しながら、天の前から追放された悲惨な歴史を出発したのが、私たちの祖先だったということをはっきり知らなければなりません。ですから、アダムとエバの生活は、神様の前に違背し、神様の前に立つことのできない罪なる生涯であったというのです。このような出発によって綴られてきたすべての人類歴史は、神様の前に許しを受けることができずに生きていかねばならない地獄そのものなのです。 神様は、これらを救うために千辛万苦しながら多くの蕩減の歴史を経てきました。救援するために神様は能力のある方であり、悪魔を思い切り打ち砕き、人々を奪ってくることもできるのに、それが不可能になったのです。神様が人間を愛でもって育て、愛でもって家庭をつくり、愛でもって氏族、民族、国家、世界をつくろうとされるみ旨があるかぎり、アダムとエバが堕落したとしても、彼らが堕落する前の心を神様は永遠に保っておかなければならないというのです。アダムとエバは堕落することによって、神様の心の世界を離れましたが、力でもって強制して元に戻すことはできないのです。なぜかというと、すでにアダムとエバが悪魔との愛の関係を結んでいるからです。愛の関係を結べば、そこに所有権が決定されるのです。相続権が決定されるのです。さらに同位権、同参権が決定されることによって、完全にサタンの所有になるのです。 たとえば、上流階級の人に愛する一人娘がいるとします。その一人娘が僕と愛の関係を結ぶならば、その娘は僕の所有になるというのです。同様に、私たち人類の始祖が堕落したことによって、天使長と一つになったことによって、僕と一つになったことによって、非合法的にせよ愛の形態において一つに結びつけられたことによって、不可避的に悪魔の所有となったのです。 そして、悪魔とは何かというと、神様の愛を中心とした姦夫なのです。この地の上においても、自分が愛する人を奪った愛の姦夫を許してやる法はありません。しかしこの姦夫を許してあげられるようにならなければ、永遠の天の国へ入っていく道がないという結論が出たのです。ですから悪魔に隷属された人々は、収拾して、再び接ぎ木する役事でもって、たとえどのような恨みがあるにしても、悪魔の側の人々だからといって除去することはできないのです。悪魔の側にいる人々を再び捜し求めていかなければならないのです。捜し求めていって、接ぎ木の役事をしなければならないのです。 ですから聖書に、野性のオリーブの木と真のオリーブの木の比喩があるように、その形が似ているのです。実が違うだけであって形は似ているのです。実を結ぶ前には、真のオリーブの木であれ、野性のオリーブの木であれ同じ木なのです。しかし、秋になれば、野性のオリーブの木は野性の実を結ぶのです。それは、誰も願わないものです。真のオリーブの木を願界ていたのに、野性のオリーブの木になったので、これを再び復帰するために神様は、真のオリーブの木をこの地に送られなければならないのです。それで、天は宗教を通じて役事するので、世界的な宗教であればあるほど、再臨思想、メシヤ思想が介在するのです。 ですから、宗教の中でも、中心的な真のオリーブの木になる中心宗教を立てて接ぎ木していくのです。ところが野性のオリーブの畑はサタンが所有しているため、神様が強制して、これを切って接ぎ木することはできないのです。それゆえ、天の圏の相続を受けて、自然に天側に移してあげて、野性のオリーブの畑ではあっても悪魔の所有権を天が相続した、天側に戻ってきたということを中心として、完全にこの世界が神様の側の支配を受けることができるのです。このような野性のオリーブの畑と同じように、統一的時代を迎えなければならないのです。それで、世界の歴史の中に宗教文化圏を中心として、キリスト教を中心として、世界統一を整えなければならないのです。それが第二次大戦直後だったのです。 それで、サタン世界の野性のオリーブの畑を全部、天側の野性のオリーブの畑としての神様の所有の単一圏が成されて、ここに初めて真のオリーブの木を送って、真のオリーブの木の芽を接いで、世界を一度に接ぎ木して、天の一族の形態を成そうとしてきたのです。これが神様のみ旨なのです。第二次大戦直後、そのようなことを願って、再臨思想時代と連結されて来られる主様が真のオリーブの畑になって、これを全部接ぎ木し単一化させて、一九四五年から一九五二年までの七年間に全世界のキリスト教を統一させたならば、世界はたちまちのうちに復帰されたのです。そして、一つの方向性を整えて、地球の単一民族を中心として、真の父母を中心として、神様が直接指導する世界になれたのに、準備されたキリスト教国家のアメリカはそれが分からなかったというのです。また、キリスト教がそれを知らなかったというのです。 統一教会の出発の背景 再臨の時には、主様が雲に乗って来られることを願ったのであって、地上に人として来られるということを知らなかったのです。あたかも旧約時代と同じです。イスラエル民族は、四〇〇〇年間待ち焦れたそのメシヤがイエス様であったということを知らなかったのです。イエス様を捕らえて十字架で殺したことによって、ユダヤ教とイスラエル民族は、教会と国を失って二〇〇〇年間世界をさまよいながら、地球上のさまざまな国々と民族の中を流されて生きなければならないし、多くの涙を流さなければならない悲惨な歴史を経てきました。世界のすべての民族が抗争し裏切る中で、再び運命の道を経ながら、新しい時代が訪れる時まで、主様が再び来られる時まで、イスラエル民族とユダヤ教は、希望のない拘束された群れとして、この地上をさまよっていたのですが、一九四八年の第二次世界大戦後の韓国の独立と共に、初めてイスラエルの国を捜し求めることができたのです。 そのように捜し求めたイスラエルの国も、自分の力でもって建国したのではありません。アメリカの力でなされたのです。第二イスラエル圏のアメリカの援助を受けてなされたのです。第二イスラエル圏は、第一イスラエルの基盤の上に立たなければならないのです。ですから、第一イスラエル圏を立てなければならない摂理的意義があるので、アメリカを通じてイスラエル独立が起きたのです。韓国も同じです。韓国もキリスト教の代表的な第二イスラエル国であるアメリカを中心として独立したのです。それによって、第一、第二イスラエルを収拾して、その上に立つべきだったのが韓国独立であったのです。 しかし、キリスト教が反対したのです。もし統一教会を中心としてキリスト教が歓迎し、アメリカが歓迎していたならば、約七年路程で新教のアメリカを吸収することができたのです。旧教はカイン的であり、アメリカを立てて、国家を合わせれば、原理的内容を知って、たちまちのうちに包摂するようになっていたのです。七年路程を中心として、一九五二年に統一教会が世界史的な出発をしていたならば、先生が四十歳で世界のいかなる為政者も結び合わせて、一つの天の方向に向かって引っ張って、地上天国の理念へ移行していけたのが全般的な摂理観なのです。 ところがそれができなかったことによって、アメリカとキリスト教が統一教会に反対したことによって、地上のすべてが悪魔の世界、サタン世界へ戻っていったのです。誰でも反対するようになれば、サタン側の世界へ戻っていくというのです。ですから先生が一生の中で世界的版図をもって指導する時代は、統一教会は荒野の群れのように世界を失い、国を失い、氏族を失い、家庭を失った立場から、これらを新しく収拾していかなければならない運命の道を歩むのです。 歴史時代において四〇〇〇年間、悪魔と戦って失ってしまったものを統一教会が再び捜し求めていかなければならないのです。また、そのために四〇〇年もかけることができないのです。これを誰が捜し求めなければならないのかというと、来られる再臨主、真の父母が責任負って、四十年という期間に回復する運動をしなければ、再び永遠に悪魔の世界へ連結されてしまうのです。ですから、このみ旨を知った先生は、生涯を捧げて決死的な努力をしてきたのです。 解放後の十四年は、旧約時代の七年、新約時代の七年に当たり、その次は成約時代の七年に入るのと同じく、蘇生、長成、完成の時代の中で家庭的に堕落をしたので、摂理史的見地において解放後、満十四年目に聖婚式を行ったのです。こうして家庭を持ち、三次七年路程を行ったのです。 そのように男として勝利できる基盤は、アダムとして、蘇生、長成期完成級の基準を越えて、完成期蘇生級から完成期完成級まで越えていかなければならないので、長成期完成級までは迫害を受けなければならないのです。家庭を捜し求めるまでは、歴史時代に受けてきたすべての迫害を再び受けるのです。ですから、大韓民国自体も我知らず反対するのです。既成教会の信徒たちも、統一教会に対して自分でも分からず激しく反対するのです。それはなぜかというと、悪魔が主導するからです。反対する者はいつもサタン側へ渡っていくのです。これを消化しなければならないのが統一教会の道なのです。 ですから、歴史を通じて神様のみ旨を成すに当たって、いつも天の側が打たれてきたのです。悪なる側から打たれても、善なる側は打つことがてきないのです。いつも善なる側は保守的な立場で、これを防御しなければなりません。ところがサタンは、いつも攻撃してくるのです。二人がいる時、どちらが先に手を出すのかという問題です。善なる側は、先に手を出すことができないのです。いつも悪なる側が手を出すのです。善なる神様は先に打つことができないからです。愛を中心に所有権を決定して、これを捜し求めるために、自然屈伏させるために、男であれ、女であれ、神様が好きで行ったからには、世の中の環境がどんなに反対してきたとしても、天に従って行動したという立場に立たずしては、天の国の版図を形成することができないのです。これが宗教世界の悲劇なのです。 そのためには、血と汗を流さなければならないし、涙を流さなければなりません。換言するならば、サタン側の愛を否定し、神様を愛してサタン側の愛以上の位置に立ってこそ、悪魔は離れるようになっているのです。これが公式です。 ですから、イエス様も「誰よりも私をもっと愛しなさい」と語りました。「汝の母や子供や妻を私より愛するものは、私にふさわしくない」と語りました。それのみならず、「自分の十字架を負って私に従ってきなさい」と語ったのです。家庭を克服し、反対する環境を乗り越える愛を持たなければならないことはもちろんですが、さらに、自分の十字架を負って従っていかなければならないのです。 その十字架が何かというと、家庭の勝利で終わるものではないのです。そこには、氏族というもっと大きい怨讐が待っているのです。しかし氏族圏を勝利したといっても、それで終わりではありません。もっと大きい民族がいるのです。民族に勝ったからといってそれで終わるのではありません。国という主権者がいるのです。このように、次々に大きなものが前に立ち塞がってくるので、もっと愛する位置に立ったとしても一方通行ですべてのことが終わるのではありません。このような戦いを重ねてきたのです。それを世界までです。 ですから、キリスト教も世界版図を築く時まで血を流してきたのです。殉教ということです。生命を投入して、また投入して、死亡の峠を踏み越えて立ち、また乗り越えなければならないのです。このように家庭を経つつ、個人的垣根、家庭的垣根を皆崩して、統一天下を成して、すべての環境を開拓するのは、来られる主様にまみえるためです。来られる父母にまみえるためです。偽りの父母の種を受けた位置を離れて、神様の直系的愛を中心とした新しい種を受けた位置で接ぎ木されて神様の国に入っていくのです。偽りのサタンの血族では入れません。ですから、必ず新しく来る真の父母の門を経なければならないのです。 「死なんとする者は生き生きんとする者は死ぬ」 そして、真の父母の前にどのように立たなければならないのかというと、自分の財産をそのまま持って真の父母の門を通ることはできません。また、自分の息子や娘によって通ることもできません。自分たち夫婦だけでもって通ることもできません。真の父母の前に立つためには、全部が新しくならなければなりません。換言するならば、神様が新しく創造したものとならなければなりません。 ですから、私のものであった万物、私の息子、私の相対も、サタン側に保管するのではなく、自分の宗教圏に保管しなければなりません。すべてが私のものではなく、神様のものだと思わなければなりません。神様のものであるという言葉だけではなく、また証文のように名前の変更だけでもいけません。神様のものであるということは、サタン世界の堕落の愛で染まっていたすべてのものを乗り越えた位置で、「何よりも神様を愛し、何よりも永生の路程を愛しますので、神様のものとして受けてください」と、言えなければならないのです。 偽りの愛でもって汚された人生航路が天側へ移されるためには、真なる愛の心情圏で堕落した心情圏を凌駕しなければなりません。生命を捧げずしてはサタンの愛の圏を凌駕することができないのです。ですから、聖書に、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」という、逆説的な論理を立てられたのです。これは、このような根本的な内容があるからです。聖書には、その内容を説明していませんが、そのような内容を通じた結果であるにもかかわらず、それを知らないままに今日まで侵攻してきたことによって、霊界に行くようになると、知らなかったことが審判の条件となって、もしそこに解決点を持つことができなければ地獄へ行くのです。 ですから、新生という言葉があるのです。ニコデモがイエス様に尋ねた時、イエス様が、「お前はユダヤ人の先生であるにもかかわらず、新生ということを知らないのか」と言われたのです。新生とは再び生まれ変わるということです。偽りの父母から生まれた人が、真の父母を通じて再び生まれることです。再び生まれる時、神様の愛、神様の生命、神様の血統を受け継ぐために、今までのサタン世界の愛、サタン世界の生命、サタン世界の血統とは無関係となり、意識にもないようにならなければなりません。 このような原則的内容を中心として交差して、地上の悪魔の世界から天の世界へ相続されるために、越えていかねばならないことを知らないでいるのです。そこで統一教会が現れて、具体的な内容を整えて、個人の行く道、家庭、氏族、民族、国家、世界の行く道を全部、編成したのです。その清算した基盤の上に、悪魔も讒訴できない勝利的覇権を地上に築いたのです。このように見た時、今まで私たちが行ってきたことは、個人的な死亡の世界の航路を開拓したことです。先生が個人的な路程を開拓する時、悪魔は全世界の人々を通じてすべてに反対してきたのです。 私は大韓民国の民として生まれましたが、大韓民国の国民としての扱いも受けられないのです。国民の扱いも受けられないばかりか、怨讐の扱いを受けたのです。それで一番後に残るものが何かというと、キリスト教です。聖書に「汝の家族が怨讐である」という言葉があるでしょう? (はい)。終わりの日には、家族が怨讐であり、民族が怨讐であり、自分の一族が怨讐となるのです。しかし民族や一族が問題ではありません。信仰においては、キリスト教がお兄さんの位置にいるのです。統一教会は、弟の位置にいるのです。ですから、今までカインが弟を殺してきた歴史を、末世時代において清算するためにサタンを中心として最後まで統一教会に反対してくるのです。 このような過程を経ながら、個人的な垣根を崩し、家庭的な垣根を崩し氏族編成をしてきたのです。その氏族編成が祝福なのです。この地に天の国の氏族がなかったし、個人もいなかったのです。そこで、統一教会を中心として氏族編成をしたのです。イエス様がザカリヤの家庭をヨセフの家庭を中心としてできなかった氏族編成です。この話は何のことかといえば、男子の生まれることのできるのがヨセフの家庭であり、イエスの血族となるのです。また、女子の生まれることのできるのがザカリヤの家庭なのです。洗礼ヨハネとイエス様の関係、マリヤと洗礼ヨハネのお母さんとは従姉妹関係です。一つの血族なのです。親戚なのです。 ですから本来、洗礼ヨハネはイエス様に反対することができないのです。それゆえ、二人が一つにならなければなりません。男の支派と女の支派が一つにならなければならないのです。なぜそうなのかといえば、今日の五十億人類もすべて男性の側、女性の側の二つに分かれているのですが、イスラエルの国を中心として、ユダヤ教の圏内には多くの氏族たちが入っています。その中で男性を代表したのがヨセフの家庭であり、女性を代表したのがザカリヤの家庭なのです。これが結婚して一つにならなければならないのです。 それでイエス様は結婚しなければなりませんか、してはいけませんか? (しなければなりません)。既成教会では、私がイエス様は結婚しなければならないという話をすると言っては、私に反対するのです。イエス様は男ですか、女ですか? (男です)。男という言葉が生じてくるには、女という存在をおいていう言葉なのです。ですから男が生まれたということは、女に出会うように生まれたということなのです。また、女が生まれたということは、男の存在を条件として、男に出会うように生まれたということなのです。ですから女であれ、男であれ、自分のゆえに生まれたのではありません。このことをよく知らなければなりません。男であれ、女であれ、自分の体は自分のものではないのです。男の体は女のものであり、女の体は女のものであすか、男のものですか? (男のものです)。男のものなのです。 そして重要な愛の器官は、男も女も自分が主人ではありません。女の愛の器官の主人は女ではありません。自分勝手にはできません。その主人は、絶対的に男なのです。男の愛の器官は、絶対的に女のものです。ですから、神様は愛の器官の主人を取り替えておいたのです。これを勝手に使用すれば一族が滅び、天下が滅びるのです。 ですから男女問題には注意しなければなりません。歴史時代に天地が道理であるにもかかわらず、これが入れ代わるならば地天になります。地天になれば、それは、天地の前に怨讐なのです。よく黒白と言いますね。白黒と言わなければならないのに、なぜ黒白になったのですか? また、赤白とも言うでしょう。悪いものが全部、前に立ったのです。しかし、父母は母父になっていません。父母だけは、伝統的になっているのです。これが逆になれば、何の使い道もないのです。 このように見た時、神様が上にいなければならないのに、サタンが上にいて神様が下にいったのてす。これを本然へ正していこうとすれば、歴史路程において上にいるサタンは下がっていかなければならないし、神様が上がっていって交差しなければならないのです。歴史時代に必ずそのような交差点があるのです。 今日、民主世界と共産世界がそうです。精神が先か物質が先か。神様がいないという無神論と神様がいるという有神論なのです。今まで神様がいないという無神論が上にいました。神様が上にいなければならないのに逆になったので、神様は自分の位置を捜し求めて上がっていかなければならないし、サタンは自分の位置を捜し求めて下がっていくので、必ず交差点を経なければなりません。その交差点は何かというと、零点なのです。 今や歴史上に人類の終末時代が訪れたので、民主と共産が交差するのです。神様によって、全世界に澎湃していたサタン世界の全権時代も、七〇パーセントになれば下がっていくのです。七〇〇〇年歴史を中心として蕩減するのてす。七数が問題なのです。第一次大戦もドイツが七〇パーセントは勝ったのです。第二次大戦も日本が七〇パーセントは勝利しました。七数になれば、そこから下がり始めるのです。歴史もこのようにすべてが、原則的な公式を通じて発展するというのです。 人類は偽りの父母から生まれたので、このように謝ったのです。父母を中心としてこのようにならなければならないのに、逆になったのです。それを誰かが来て解かなければなりません。個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に、天宙的に解かなければならないのです。個人的な曲折を解く時代は、個人蕩減時代です。家庭的な曲折を解く時代は、家庭蕩減時代です。 八段階の蕩減路程 今日、統一教会はこのような八段階の蕩減路程を歩んできたのです。皆さんも言葉だけは知っているのですね。個人蕩減、家庭蕩減、氏族蕩減、民族蕩減、国家蕩減、世界蕩減、天宙蕩減という言葉は知っていても、皆さんはそれをいつ蕩減してきましたか。生命を懸けて死ぬか生きるかという決闘をしたことがありますか。皆さんは子供の位置にいるのです。堕落は誰がしたのかというと、父母がしたのです。真の父母の名をもって来られた方は、個人的な闘争をしてその垣根を崩し、家庭的な闘争をしてその垣根を崩し、氏族的な闘争をしてその垣根を崩さなければなりません。こうして、このすべてに上下を中心として合わさることができなければなりません。何を中心として合わさるのかというと、今日の世界は経済圏を中心として一つになろうとしています。経済と知識と権力をもって、力の平準を通じてこれを一つにしようとしています。 しかし、それは間違いです。世界を一つにする歴史的統合的中心方案は、真の愛というものです。歴史の流れには方向があるのです。経済圏でもっては一つになれません。真の愛を中心として偽りの愛を収拾し、上下を連結させなければならないのです。歴史的な真なる方向は一つです。その真なる方向に従って、個人の人生観、家庭観、氏族観、民族観、国家観、世界観があり、これがだんだん広がっていくのです。個人時代、家庭時代、氏族時代です。この中央線に通じるのは、真の愛という方向性なのです。 それで皆さんも真の愛を願うのですね。ですから個人は、堕落によって個人が行かなければならない真の愛の方向性を失ってしまったのです。天の世界へ戻っていこうとすれば、一八〇度違うのです。悪魔の愛とは、自分を中心とした愛なのです。天側の愛はその反対で、全体を中心とした愛です。これが分裂したのです。ですから今まで死亡へ行く道は体が喜ぶ道であり、生命の天国へ行く道は、心が喜ぶ世界です。一八〇度違うのです。 ですから、逆説的論理でもって「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」ということなのです。それは何かというと、このように進んでいた人が一八〇度回れ右をすることです。先の者が後になるし、後の者が先になるのです。父が息子の前に立っていたのに、回れ右をすることによって、息子が父の前に立つようになるのです。天地開闢が起こるのです。私たち統一教会はそのような式をするのです。 このように見た時、真の父母の門を通って行くためには、真なる愛が必要です。悪魔世界では物質を愛しました。その次に知識を愛しました。もし霊界に行く時になって、ソウル大学の卒業証書を千枚持って行っても何の役に立ちません。 また、お金の包みをどんなに愛したとしても、それを持って天上世界に行っても何の効用もありません。知識、何々の博士、何々のメダルを持って行っても、何ら必要としません。権力? 「私は三代も大統領の務めましたから、私は天国に行きます」。とんでもありません。それは皆、よこしまなものです。お金を愛し、知識を愛し、権力を愛し、自分の体を愛する以上に神を愛さなければなりません。私という存在は、サタンに埋められているのです。ですから私の生命以上に愛する基準でのみ、天の国に初めて足を踏み入れることができるのです。 そうでなければ悪魔が遊んでいた敷物の上で生きるのと同じです。分かりますか。悪魔が住んでいた部屋に入って、悪魔が広げ、悪魔が被せて、悪魔が使っていたものを、神様が良しと言うことができるでしょうか。悪魔の痕跡、愛の怨讐になる悪魔の姿はその形を考えるだけでゾッとします。 今国に入るのがどんなに難しいことか分かりますか。既成教会の牧師、長老、信徒たちが、「信じることによって天国に行く」と言うのですが、そのようなでたらめなことがどこにあるでしょうか。もしそうであれば、賢い文総裁が牧師中の牧師になったのです。それらは皆、通じないのです。分かりますか? (はい)。 そのようにして真の父母の門を通じなければなりません。それで統一教会に入って、どうするのかというと、真の父母によって再び生まれるのです。お母さんのおなかより、結婚する前のお父さんの骨の中の赤ん坊の種にならなければなりません。その位置まで訪ねていかなければなりません。何の話か分かりますか。それで統一教会に来るようになれば、統一教会の先生が父の位置にいるので、すべての人が、女であれ男であれ、互いに先生を自分のものにしたいと思うのです。同じ体のように絶対的に必要な先生なのです。正に父のようなのです。そう思いましたか? (はい)。原理がそうですから、統一教会の信徒がそうでなければうそです。 それで統一教会に入教してくれば、先生が父のようであり、兄のように思えるのです。神様の愛を受け、その次には兄の愛を受けるのです。その次が夫の愛です。エバが堕落することによって三大愛を蹂躙したので、このような愛を体験せずしては救いを受けることができません。蕩減することができないのです。一〇〇円の借金をしたならば、一〇〇円返せば全部清算されますが、それができなければそれに該当する心情をプラスしてでも、その量を満たさなければなりません。 それと同じく、三大愛を蹂躙したエバの犯罪的条件を蕩減するためには、真の父に会うためには、父のような思いになるというのです。それは自分を生んでくれた父母が問題ではないのです。私を愛する、兄弟姉妹が問題ではないのです。自分を愛する夫が問題ではないのです。統一教会では、そのような風が吹くのです。 ですから統一教会に来るようになれば、恋愛結婚後一週間の夫婦も、互いに嫌になるのです。統一教会の一番初めの青坡洞教会はみすぼらしい教会なのです。それなのに、その家が一番素晴らしく見えるのです。教会に入れないようにと大門を閉めれば、塀を乗り越えてくるのです。そのようなことが起こるのです。ですから、悪いうわさも立ったのです。 そのようにして、もっと大きい愛、もっと高い愛を持たなければ、天の国に入れないのです。それで先生が絶対に必要なのです。堕落したアダムとエバによって、偽りの生命を植えつけられたので、本然的生命を得るためには、真なる愛の波に乗り、再び父母の骨に入っていかなければならないのです。このように復帰は難しいのです。こうして春の風が吹いたので、統一教会の女性は、十二歳から八十歳までのすべての女性が、「先生は自分の夫だ」と考えたのです。そのように霊界から教えてくれるのです。 先生が父みたいであり、次に兄みたいなのです。それで、首飾りもかけてあげ、指輪もはめてあげ、約婚式もしてあげ、皆、見せてあげたのです。そのような、心遇々中心とした訓練をさせたのです。先生を通じなければ、その道が出てこないのです。そのようにして、心情を置き換えて祝福へ連結させたのです。 それで、父母の門に通じるためには、曲折に絡み合ったこれらを皆、解いて入っていかなければなりません。自分というものが残っていてはなりません。私の生命をつないでくれる真なる愛のみが主体なのです。そこには、男女語区別もありません。それで、父母の骨に入っていかなければならないのです。 そうして解放後、約十四年を経てお母様をお迎えすることができました。原理を学んだ統一教会の人たちは、宇宙のお母様、真のお母様がいつ来られるのかと言って、十四年間先生が一人でいる間ありとあらゆる夢を見ました。娘を持った家では、ありとあらゆることをして先生を誘惑しようとしました。もし私が原理原則を知らなかったならば、とっくに打ち壊されていたことでしょう。皆さんも知っているでしょう。いろんな人々がいたのです。お母様をお迎えしたのに、「このお母様は偽物であり、自分が本物のお母様だ」と言うのですね。世の中にそのようなことがあってよいものでしょうか。 私は、統一教会の教主になってこのような苦労をするとは夢にも思いませんでした。「私は先生の骨の中にいるので、先生が私なのです。私と一つになってください」と言うのです。そして夜であれ、昼であれ、千里、万里遠く離れていても、先生の行く先に行って待っているのです。幼い子供みたいなのです。人は生まれるために、誰しもお父さんの骨の中の種から、お母さんのおなかを通じて生まれてくるのです。七年は旧約時代、また七年は新約時代、そして十四年を経て完成時代に入っていくようになり、長成期完成級で堕落した家庭を捜し求めていかなければならないのです。もし、その時に既成教会とアメリカが協助していたならば、今のお母様ではないのです。別の人がお母様になっていたのです。 真の父母の門 愛のみが自分の生命を乗り越えることができるのです。ですから、そのような立場で旧約時代、新約時代、成約時代を通じて何をするのかというと、神様を私の内に押し込もうとするのです。誰が根なのですか? 神様が根なのです。そうでしょう。神様が人間の根にならなければならないのです。本来、真の父母が根ではないのです。真の父母も神様の根から出てきたのです。男と女という二人の芽として出てきたのです。 アダムとエバは、堕落する前には神様の息子と娘の位置ですね? (はい)。しかし堕落によって、万物もアダム・エバよりましな位置にいるというのです。アダムとエバは成長して堕落しました。堕落によって、万物よりもっと俗なるものになったのです。ですから、万物が人間の上にいるので、私たちの代わりに万物が死んでくれるのです。私たちの代わりに血を流して位置を整えてくれるのです。ですから旧約時代は、すべての祭物を犠牲にさせて息子娘の行く道を築いたのです。そして新約時代はイエス様が来られて、血と肉を流し犠牲になったのです。多くの殉教の血を流して、再臨時代にご父母様が来られる道を築いたのです。イエス様は息子の位置であり、ご父母様は父母の位置なのです。 ですから、霊界に行ったイエス様が先生に礼儀正しくあいさつするのです。このようなことは、皆さんも知らないでしょう。統一天下にするためには、天上世界の神様の前に行って霊界を統一した印を受けなければ、地上世界の統一はできないのです。分かりますか?(はい)。 いつでしたか「釈尊が私の弟子であり、イエス様が私の弟子であり、孔子が私の弟子であり、マホメットが私の弟子だ」と言った時、「文総裁を捕らえて殺さなければならない」と、ホメイニは私に死刑宣言をしました。それは、自分で霊界に行ってみれば分かることです。私は嘘を言う人ではありません。嘘かどうか、霊界に通じる人は祈祷してみなれば分かるのです。ですから、今に見ていなさい。統一教会が宗教統一の中心になるのです。すべての国の指導者たちも全部、自然屈伏してくるのです。 アメリカも私に自然屈伏しましたし、ソ連もそうです。ソ連も「統一教会の文総裁でなければならない」と言っているのです。ソ連の共産世界の頂上にいる人たちも、ソ連の国会で「文総裁の思想でなければならない」と言っているのです。ですから、アメリカも従ってこざるをえません。今回、そのような大会を中心として、全部結びつけました。 さあ、このような問題を考えてみた時に、今年も「私の国の統一」という標語になったのです。こうして真の父母の門を通さずしては、神様を中心として統一ということはありません。男女が堕落することにより、争いの場が展開されたからです。 それで真の父母の門に通じるためには、道理的でなければなりません。道理的になろうとするので苦労が多いのですね。しかしそれだけでは通れません。愛の位置に立たなければなりません。ですから宗教圏内では、全部が出家するのです。国を捨て、家庭を捨て、男は女を克服しなさいというのです。女が怨讐なのです。エデンでアダムを生きられないようにしたのが女なのです。女が男を否定したので、男は女を絶対否定しなければ、肯定的道を捜し求めることができません。ですから、宗教生活を好む人はいないのです。このように全部が逆説的なのです。一八〇度違うのです。御飯を食べたいのに、断食せよと言うのです。遊んでいたいのに、休まず祈祷せよと言うのです。休まずに祈祷することは、どんなに難しいことかしれません。祈祷する時は、敷物を広げてひざまずいて、罪人たることの許しを乞うことから始めなければならないのです。 その次には、犠牲と奉仕です。生命を捧げなさいというのです。これは何かというと、零点の位置に訪ねていかなければ、再び戻ってくることができないということです。では、この零点の肉の塊をどこへ引きずっていくのかといえば、ご父母様のおなかの中へ引きずって入っていくとしても、ご父母様は、け飛ばしてはならないのです。喜ばなければなりません。「ああ、あの女は来ないのか」と、毎日のように待たなければなりません。 皆さんは先生に会いたいと思いましたか? (はい)。先生も同じです。失ってしまった子供に会うのに、どこで会うのかというと、零点の位置を通過しなければなりません。「死なんとする者は生きる」という零点です。個人的垣根を崩さなければなりません。 この地上でこれが解けなくては、永遠に引っ掛かっていくのです。あの世へ行って、父母の世話になるのではありません。父母の世話になるのは、地上世界の二十歳までです。結婚するようになれば、世話になった父母にお返ししなければなりません。息子や娘を生んで父母の代わりに育てるのです。それ以上に目上の人に世話になったことは、お返しする道がありません。ですから水が流れるように、人類に向かって返さなければなりません。父母が私を愛したように、自分の息子や娘を愛する心で人類を愛さなければなりません。 神様が万物を創造する時、心情を投入したのです。それゆえ、すべての物質を神様に捧げなければなりません。それで統一教会の標語が出てきたのです。涙は何のために? (人類のためです)。汗は何だった? (地のためです)。血は何だって? (天のためです)。それでそのように生きてきましたか? (生きようとしました)。生きようとしただけでは、何千年たっても何の関係もできません。生きたのでなければなりません。これは深刻な問題です。このような複雑な蕩減路程なのです。 個人の曲折は、零点をつくる垣根を崩さなければなりません。先生がそれを皆、行ったのです。ですから、一生涯、重要な時は監獄に入っているのです。監獄に入っても、「ああ、私は腹が立つ」と思ってはいけません。たとえ拷問を受け、血を吐いたとしても、「神様、私は死にます」と神様を呼んではいけないのです。 既成教会の牧師たちが監獄に入れば、監獄から出るようにしてくださいと祈祷しますが、神様は知らずに愛する息子、娘を監獄に押し込むでしょうか。神様の曲折があって、監獄に押し込んだのに、その曲折を背負った者が神様に、「ああ、私を助けてください。私を助けてください」と言えば、情が離れますか、情がくっつきますか。先生は監獄に入っていっても、祈祷をしません。拷問を受けて痛いと言いません。机の脚のような角材で激しくなぐられるとしても、「角材がぶっ壊れるのであって、私はぶっこわれない。打つなら打ってみろ。神様の名前でもって打て。悪魔よ、打て!」と言うのです。先生は体も丈夫ですし、力持ちなのです。 私の父は、米俵一つをこのように持ってよく階段を上がっていきました。そのような血族の中に生まれたので、七十歳を越えた今もかくしゃくたるものです。山を駆けていく野鹿も、裸足で走っていって捕えようと思っているのです。 このような複雑な個人的垣根を全部崩しました。家庭的な垣根、氏族的な垣根、民族的な垣根、国家的な垣根、世界的な垣根、その次は霊界に行って、霊界の道を皆、築いておいたのです。地獄から天上世界に行く道を皆、高速道路にしておきました。道は築いておいたのですがその道を走るためには、自分が峠にいるならば、その道は自分が築いてこなければなりません。分かりますか。 父母が間違いを犯して垣根を築いたので、真の父母になるためにはこの垣根を皆、崩さなければなりません。第二次大戦直後にキリスト教を中心として、もし先生に侍ってきたならば、その垣根が全部、崩れて天下が統一されたのです。 第三イスラエル圏の形成 このようなことを知っていた先生がいかばかり大変だったことでしょうか。ですから、私は解放後には「万歳」を一回も叫ぶことができなかったのです。私が行かなければならない道は、私がつくらなければならないのです。三十八度線を越えながら、神様の前に祈祷したことは、「共産党は私の手で処置します」ということです。悪魔が覇権を握ったこの地球を私が撃破するのです。 この話は何のことかというと、一つの教会をつくるということです。その教会を中心として第三イスラエル圏を形成するために、キリスト教ができなかったことを成して、世界を統一する次元の時代を迎えなければならないということです。それがまさしく今なのです。今や文総裁に反対する人はいません。今までアメリカで私を讒訴してきた弁護士、判事たちは今に見ていなさい。悪魔の首を切るのは、悪魔の一番近い息子たちなのです。 ですから、本物の共産党員になろうとすれば、父を殺してこそ本物の党員になれるというのです。自分の兄弟の血を流すことのできないような人は、本物の党員にはなれません。父が息子の首を打つことなど問題ではないのです。これらは悪魔の悪らつなる手法によって、人間の行くべき最後の門を閉めてしまおうとすることなのです。その悪魔に対して、世界的に一人で戦ってきた大将がこの私なのです。そうですね。大将だと言ったからといって気持ち悪く思わないでください。戦って勝利して今では大将になったのです。(拍手) ですから何よりも、誰よりも、もっと私を愛さなければ天の国に入ることができません。歴史上の堕落の血族として生まれたすべての忠臣、烈女、国を愛する愛国者、世界を愛する聖人、家庭で父母を愛する孝子、孝女がいるとすれば、それ以上の位置に立たずしては天国に入れません。それは、サタン世界に包括された世界の伝統を残すだけであって、天の国では何の役にも立ちません。先生がそんなことを話すので、既成教会が大騒ぎしたのですね。 既成教会の牧師たちが霊界に行ってみれば、どのようになるでしょうか? そこの女たち、文総裁を何だと思いましたか? 国を生かし、大韓民国を世界一の国にするために天が送った使者であるにもかかわらず、自分勝手に扱ったのですね。 最近は、このようなことを語っても、先生を知らない人も分かるようになったのですが、四十年前にこのような話をすれば、空砲を撃つ文総裁、嘘をよく言う詐欺師の文総裁と言われたのです。そう、彼らが詐欺師ですか、私が詐欺師ですか? それは、歴史が流れるにしたがって証明されるのです。 何よりも真の父母を愛する心情圏が主体にならなければなりません。相対になってはいけません。金孝律のお母さんも天国に行こうとすれば、「ああ、私の息子の孝律が来ないのか」という心を持ってはいけません。彼は自分の息子でしょうか? 自分との関係で生まれては来ましたが、それは、サタン世界の血統を受け継いで生まれたということ以外に何がありますか。それを悔い改めなければなりません。悔い改めて天国に入っていかなければなりません。それが統一教会に入ってきた目的です。 このようにして先生が個人、家庭、氏族、民族の垣根をすべて崩し、霊界にふさがっていた垣根も皆崩しました。今まで地上で悪魔が持っていた長子権も復帰しました。分かりますか? (はい)。ですから神様も救援摂理のためには、自分の一番愛するひとり子を犠牲にしたのです。ひとり子を犠牲にさせるとともに、そのひとり子に従う群れのクリスチャンたちにも今まで血を流させてきたのです。 神様は先生を愛するように思いますか、思いませんか? (思います)。よこしまな話はやめなさい。神様が愛するのを見ましたか? (はい)。それでは、神様の愛する先生がなぜ一生涯このように悪口を言われるのですか? (愛によって、もっと高めるためです)。話は素晴らしいですね。そのように愛して、あの世での特権的福を与えようとするのです。 人類歴史は六〇〇〇年ではなくして、二億五〇〇〇万年になりました。今まで数多くの歴史時代を経てきながら、神様が捜し求めている真の父母というものは、心の中にいるのであって、会うこともできず、夢の中でのみそれを希望してきていたのです。神様はそれをつくることができません。人間が捜し求めてこなければなりません。なぜかというと、アダムである人間の父になる祖先が、過ちを犯したからです。 民が罪を犯したことを、その国の王が償うことができるでしょうか。息子娘が罪を犯したことを、父母が背負うことができるでしょうか。父が罪を犯したことは、息子娘が蕩減する法がありますけれど、息子が罪を犯したことは、父は蕩減できないのです。この話は何かというと、神様が私たちのすべての罪を代身して、全部蕩減してくれなければならないという話にはならないのです。 蕩減は私たちがしなければなりません。天使世界を通じて蕩減するのです。分かりますか? (はい)。友達を通じたり、自分の近い息子娘を通じてしなければならないのです。父母が負債を負ったものは、子供が弁償するのです。また子供が負債を負ったものは、父母が返済してやらなければなりません。しかし本来は返してやってはいけないのです。この話は何のことかというと、神様が私たちのすべての罪を犯したことを責任を負って解いてくれなければならないということではないのです。 息子が死刑宣告を受けたのに、父母が死刑を受けることができるでしょうか。父母が死刑を受ける整種になったのを、息子が代身して死刑を受けるのは道理に合っているのです。 ですから文総裁が現れて、個人から世界的な反対を受けてきたのです。誰かが悪魔の前に立って、世界的な反対を受けなければならないのです。そうして個人の垣根を越えて世界的な反対の中で打たれて奪ってくるのです。罪のない人を打ったならば、打った人が良心の呵責を受けるのですね? (はい)。良心の呵責を受けてまた打つ法はないのです。ですから悪は戦いを続けることができません。清算しなければなりません。その時は、どのように清算するのかというと、「私が過ちを犯しましたから、一つなぐりましたから一つ半打たれても良いです」と言うのです。その時は、そっと一つなぐるのではなく、大きく一つグワンとなぐっても罪ではないというのです。二つなぐった人は、三つなぐられて許しを受けるのです。 それは何のことかというと、損害賠償の請求は、元金と半分の利子を請求して受けるのです。ですから、神様は救いの摂理をするにあたって、全知全能であるので、思いどおりに行おうとすれば一日で世界を皆、引っ繰り返すこともできるのです。ところが人間たちは、この法を知って適用することを知らないでいるのです。文総裁は、それが分かったのです。 神様の戦法 初めて人間世界で神様の作戦と悪魔の作戦を知ったので、「おい、悪魔め! お前の作戦を皆、行ってみろ。お前がどれだけやってみたって、神様の戦法にはお前の戦法では勝てないのだ。私が勝つだろう」と言ったのです。神様の戦法は、先に打つのではありません。打たれて奪ってくるのです。サタンも過ちを犯したことを知っているのです。 神様が、「お前は成功したのか、失敗したのか」と問う時、「過ちを犯しましたが、文総裁はそれが分からないのです」と言うのです。分からなければ条件が立てられないのです。なぜかというと、「アダムとエバは分からないで堕落したのです。分かっていたならば堕落していません。ですから、分からずに堕落してこのようになったので、分からない圏内で成されたすべてのことは、私(サタン)の所管にあるのであって、解放することはありません」と言うのです。ですから、文総裁は、世界的に歴史以来の宗教という名のもとに、人類全体の前で世界的な大迫害を受けてきたのです。大韓民国だけでも母という母、夫とう夫、妻という妻、息子娘という息子娘で私に反対しなかった者はいません。 先生が迫害を受けていた時は、連絡もしないで毎日のように引っ越ししたのです。ですから先生を見失ってしまって、多くの人々が祈祷しました。「そんなに会いたいのか?」「はい」と言って、泣き騒ぐので、「おい、住所を書いてあげなさい。どこどこにこのような家があるから直ちに訪ねて行きなさいと」。そして、私が一人で祈祷しているとドアを開けて、「先生いますか」と言って、入ってくる人が多かったのです。聖書の奇跡も、統一教会に比べれば何でもないのです。 先生がおなかが空いていると、道端でおばさんたちが白い服を着てあいさつしながら、「昨夜、夢に私の祖先が現れて、あなたにもてなしをしなければならないと言ったので、夜を徹して食事を準備しましたのでどうぞお入りください」と言うのです。そのようなことを、信じられますか? 先生にはそのような何かがあるので、他の人ができない業をしてきたのです。 ここには西洋の人たち、東洋の人たち、さまざま人たちがたくさん集まりましたね。みんなは何を求めてきましたか、何を捜してきましたか。文総裁に会っても、何にも与えるものはありません。悪口しか与えるものがありません。(笑い)。まるで、愛を捜し求めて集まってくるジプシーの群れのようです。真の愛の味が分かるのですね。真の愛は蜂蜜のようなのです。働き蜂は密の味が分かるので、花の香りをかぎ、千里の道も遠しとせずに飛んでくるのと同じです。 それで、真の父母になるのは易しいことではありません。私が真の父母の権限を譲りますから引き受けたいという人がいるならば出てきなさい。それは雷に打たれる者です! (笑い) 私は真の父母になるということなど思いもしなかったのに、統一教会の責任を負っていかざるをえなくなり、そうしているうちに真の父母になったのです。私は真の父母になるということを初めから分かっていたならば、万民が皆、理論的に従ったのです。何も分からずに人生の根本問題を掘り下げてみると、ここまで来たのです。さまざまな曲折を解いてみると、真の父母のすべての解怨成事もなり、神様を解放する必要が分かったし、今は神様が私によって解放を受けたので、絶対的に文総裁を愛さざるをえないというのです。(アーメン)。(拍手) では、皆さんは真の父母に会って何をしましたか? 先生は今まで、悪魔の世界で鞭打たれながらも、家庭を経て、氏族を経て、民族を経ながら、個人編成、家庭編成、氏族編成を成してきました。統一教会の祝福家庭は氏族編成なのです。それも世界的なのです。今ではサタン世界が捕えて絞首台で首を切ることはできません。なぜかというと、素晴らしく生きているからです。一般社会では東洋人と西洋人が結婚しても、なかなか一緒に住むことができず、よく離婚するというのに、私たち統一教会の人々は十年でも、二十年でも素晴らしく生活していくのです。またよく見ると、子供たちは、親よりも素晴らしい息子娘が生まれているのです。子供たちが実に美しいのです。私がイーストガーデンで十二か国の人々と共に住んで、その十二か国の人々の子供たちを見ると、本当に素晴らしい子供たちなのです。彼らが成長すれば全部、婿や嫁にしたいと思うのです。全部がそうなのです。 それで、ここにいる夫婦は、自分の息子や娘は自分より出来が良かったですか、悪かったですか? 先生とお母様によって生まれた息子や娘も、先生とお母様より出来が良かったでしょうか、悪かったでしょうか? (出来が良いです)。 うちの孝進もここに来ているでしょう? (はい)。「孝進、一度、立ってみなさい」(拍手)女に生まれたならば先生のような人の嫁に一度なってみたいですか? (はい)。ですから、統一教会の信徒たちの願いは、先生の一族とどのように姻戚の縁を結ぶのかというのが最高の希望なのですね。(笑い)。 もし鉱夫であっても、そこの鉱山の主人にきれいな娘がいるならば、その娘を自分の嫁さんにしたいと思うことは罪ではありません。恋煩いにかかって事件を起こせば問題ですが、心で思うのは罪ではないのです。なぜ正月早々からこのような話をするのかといえば、今からきれいに男らしく、女らしく国のために全部、血筋が通じ、脈が通じる愛国者の伝統を継いであげるために、このような話をするのです。分かりますか? (はい)。 さあ、時間がたくさん過ぎました。もう二時になるのですね。 真の父母の家庭が築かれるまで 真の父母が訪ねていくことのできる家庭にならなければなりません。分かりますか。真の父になるためにどんなに迫害が多くあったことでしょうか。神様はアダムを通じてエバをつくりましたね? (はい)。それで先生は何にも分からないお母様を育てていったのです。「失礼しました。お母様、そういう時は聞えなかったと思いなさい」。世間知らずのお母様をお迎えしたので、周囲は狼のようにワンワン騒ぐのです。昼であれ夜であれ、毎日のように騒ぐのです。世の中で私はそのような女たちを初めて見ました。事実なのです。狂ったのです。一人ぐらい狂うならかまわないのですが、全部が狂ったらどうしますか。 先生の結婚式が終わった時に、お母様になりたいとは何事ですか? 資格から見れば、自分たちのほうが皆、ましなのですね。お母様は何にも分からないのですから、原理もよく分かりません。ですから、育てていかなければならなくなったのです。その当時は博士の女たちもおり、大学に通う女たちもおり、美女たちもいたのに、四十歳になった老いぼれが二十歳にもならない娘と結婚するとは、まるで泥棒の徒弟になるみたいでした。(笑い) これは本当に素直な話です。ですから私自身も、女たちに対して失礼だったのですね。 このように、先生の幸福なる家庭を築くということは本当に難しかったのです。ですから、しばらくは定着できませんでした。それで十四年が過ぎました。十四年の間に何をしたのかというと、大韓民国における主権と戦ったのです。北韓に行って戦ったのです。一九五五年度にも刑務所生活をしましたね。北韓に行って金日成と戦い、南韓に来ては南の政権と戦いました。戦ってそれを全部、越えていかなければなりませんでした。イエス様がユダヤ教とイスラエル民族の前に追い詰められ、ローマの前に追い詰められたからです。現代のローマのような国はアメリカなのです。イスラエルの国と同じ立場が韓国なのです。ですから、アメリカの守護を受けているのです。 それでは、ユダヤ教とイスラエル民族がローマと一つになって反対しイエス様を殺したのと同じように、悪魔は、再臨時代になってそれを適用してくるのです。ですから、キリスト教と韓国とアメリカが一つになって文総裁を監獄に押し込むのです。全くイエス様の時と同じです。そこから解放されなければなりません。ですから全部経ていかなければならないのです。蕩減というものは恐ろしいのです。 ですから一生の間、何を誤って監獄に行くのかと言うのです。私の行く先々がすべて監獄なのです。アメリカに行っても監獄に行ったでしょう? (はい)。私はアメリカに行って、アメリカのお子を一文も使いませんでした。アメリカの二億四千万の西欧社会の人たちが自由世界を代表すると言いますが、彼らは私に対し顔を上げることができず、私に負債を負った人たちなのです。ところが反対に私が打たれたのです。アメリカを援助してあげ、救ってあげるために行ったのに、アメリカはその私を打ったのです。それでアメリカが報いを受毛泣ければなりません。アメリカが過ちを犯したので怨讐の国、ソ連をしてアメリカを打つのです。分かりますか。 今回、ソ連の野党の人が教育を受けました。彼は、「私が帰れば文総裁の思想をもって全部、党を創建してソ連に影響を及ぼす」と宣誓して帰ったのです。そのような六つの衛星国家の人たちが来て教育を受けました。それでソ連のすべての頂上の人たちが教育を受けて、「文党クラブ」を宣布して出発していったのです。 アメリカが私を打ちましたし、ソ連も一九八七年に金日成と相談して私の暗殺計画をしました。二十五名の赤軍派を送って、文総裁を暗殺するように指示したのです。それで私は、法廷闘争をせず、捕らえられることもなく、モスクワに入城したのです。生命を差し出したのです。分かりますか? このように私はいつでも生命を差し出し、生命を投機として一生の仕事をしてきたのです。そして、黙って打たれ、サタンの都城を占領してきた歴史が、文総裁の輝かしい勝利的歴史だということを知らなければなりません。 その間に皆さんはよく食べて、良い生活をしていましたね。今やご父母様が血の代価で支払ったすべての価値を、一文のお金も出さずに、功労もなしに受けて、それでもありがたいとも思わないのですか。祝福を受けたその価値がどんなにありがたいことなのか分かっていますか。 正月早々からこのような気持ちの悪い話はしたくないと思いましたが仕方がありません。これが、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」ということであり、「良い話を聞かんとする者は滅びるのであり、悪い話を聞かんとする者は福を受ける」ということです。 さあ、このようにして先生が家庭を捜し求めるために、どんなに千辛万苦したことか分かりましたか。家庭に対する迫害を多かったし、そのわなを抜け出るためにどれだけ苦労したことかしれません。民族のわなからも抜け出なければならなかったのです。大韓民国の数千数万の家庭たちが迫害する、そのわなを無事に抜け出なければなりません。私が一対一で力でもって戦えば、皆、ぶっこわれていくのですが、神の戦法は打たれて奪ってくるのです。先生は袋だたきに合いながら、全部捜し求めてくる業をしてきました。 統一教会の文先生を捕らえて殺すと言いながら、一家族が、一党がありとあらゆる迫害を加えてきたのです。その後、統一教会に入会願書を出し、祝福を受けて死んでいった人もいます。世の中は実に妙なものですね。 統一教会の原理を知れば、この道を行かないわけにはいかないし、いかばかり心的苦痛が大きいことでしょうか。私を殺すために銃を持ってきた者もいます。鎌を持ってきた者もいます。おのを持ってきた者もいます。私はこの地上で人を生かしてあげるために、万民を解放するために来たのに、私の教えは聞こうともせず、刃を携えて現れるのを天は願わないし、棍棒を持って現れるのを天は願いませんでした。 そのような過程を経ながら、先生が家庭の位置を確保する時までは、多くの恨みがあったのです。世の中のいかなる家庭も体験できないような悲しい背後の曲折を皆、経なければなりません。お母様もそうです。美しいお母様に何の罪があるというのですか? 世の中のことを何も知らない二十代の女性が嫁に来て、部屋らしい部屋もなく青坡洞の二階の部屋に住んでいるのに、女たちが来ては「この部屋はあなたの部屋ではなく私の部屋だ。明け渡しなさい」と言うのです。先生に会っても、「なぜ自分を相手にしてくれないのか、若い嫁さんが良いのか」と言うのです。実にありとあらゆることを見てきました。世の中で言えばそのような横暴がどこにありますか? それも見て知らないふりをしなければならないのは、師の行く道、神様の行く曲折がそうだからです。それは笑いごとではありません。 統一教会の祝福 先生は家庭を定着させるためにどんなに千辛万苦し、また教会を定着するためにどんなに千辛万苦したことでしょうか。今も統一教会にその手下たちが反対するのですね。 西欧社会ではすでに、「再臨が人として来られるならば、文総裁こそ間違いなくその方である」というのが公論になっています。(アーメン)。アーメンは、何のアーメンですか? この国の大統領は、「文総裁がなぜ再臨主だという話をして私を苦しめるのか、援助してやりたくても援助してやれないようになせ苦しめるのか」と言っているのです。再臨主もしたくてするのではありません。世の中を生かそうと思うので、悪口を言われながらそのような業をしているのです。静かに門を閉めて、一人で再臨主になって世の中が救いを受けにくるようであれば、そのように静かにしているというのです。悪口を言われるのが明らかなのになぜそうするのかというと、生かしてあげるためには仕方がないのです。二つの組が生じなければならないのです。「反対する者はあちらへ行け、支持する者はこちらへ来い」と、二つのグループに分かれるのです。あなた方は支持する者ですか、反対する者ですか? (支持する者たちです)。最初からそうですか? (はい。最初から反対しませんでした)。(笑い) 先生の家庭を定着させることがどれだけ難しかったことか、皆さんには分かりません。先生とお母様だけが分かるのです。女として妻の位置を確保し、夫に侍って生きる基盤を築くためには、いかばかり背後に曲折の事縁が多くあったことか誰にも分からないのです。 その峠を越えるまでは、教会が大騒ぎしたのです。「統一教会を信じるな」と、全部が大騒ぎしたのです。また、「文総裁はなぜそのように悪口を言われるのか、少し悪口を言われないようにしたらどうだ」と。もし、そうできればどんなに楽なことでしょうか。私は愚かではありません。それらは皆、分かっています。なのに、なぜ他人の息子娘を、当の父母の知らないうちに結婚させてあげたのでしょうか。これが心配なのですね。 結婚をする前に全部、約婚をしてあげて、結婚式の招待状を出したのです。「あなたの家の息子娘が何日結婚するようになりましたから、この通知を受け取ったら出席してください。その時は礼服を着て来なければなりません」と。礼服がなければ出席できないということです。それで結婚式の当日は、龍山警察署が実に苦労したのです。 三十六家庭の結婚式はいつしたのかというと、早朝にしたのですね。それも争いの中で、「うちのお父さんを出せ! 私の娘を出せ!」と言ってきたのです。父母の知らないうちに結婚するようになったからです。父母から承諾を受けなけなければならないのに、結婚式の日に何々の礼服を着て結婚式に出席しなさいという通知を出したのです。世の中にそのような習慣はありません。そのような習慣がないことを私もよく知っていました。知らずにするならばともかく、知っていてやったのです。このようなことを知りながら行わなければ蕩減にならないのです。分かりますか。眼を閉じていいかげんにしてはいけません。 私は、監獄に入っても、「あなたは誰ですか」と問われた時、「私は文教主、文なにがしです」と言うのです。統一教会の教主であるということを恐れる人ではありません。皆さんは、自分が統一教会員だということを恐れたでしょう。どこに行っても私は統一教会の教主だと宣伝しました。もしそのことで、なぐられるならば一回だけではなく、死ぬまでたぐられなければならないのです。それが分からなければなりません。先生はその日から今まで、継続的な幅跳びをするのです。教会を定着させるためにです。 以前、青坡洞で礼拝していた時、周辺から、どんなに石を投げつけられたことでしょうか。ガラスが破れたり、また脅迫や脅しを受けたのです。私は度胸があるので生き残ることができたのですが、もし女みたいであれば、すでにヒステリーを起こして、真っ青になってやせ衰えて死んでいたはずです。だからと言って、私は悪いことはしません。生かしてあげるためにするのです。しかし少し過ぎるほどに熱烈なので、心配するのですね。(笑い) 先生の家庭を立てることがどんなに難しかったことか、皆さんはよく知らなければなりません。皆さんは生きることにおいて、そのように難しく生きたことがありますか。先生一人で、大邱などでは一か月に十三回も引っ越ししました。「気違いみたいな文なにがし、悪魔の魁首が入り込んだ。大邱市から追い出せ!」と言って行く先々で迫害されたのです。ですから、いつも荷物を包んで引っ越して回ったのです。このように個人の生活も大変でしたから、家庭の定着はもっと大変だったのです。分かりますか。さらに、教会の基盤を確保することがどんなに大変だったことかしれません。統一教会は氏族編成をして世界的に連結されなければならないので、祝福しなければなりません。ですから祝福がいかばかり冷遇されてきたことでしょうか。 三十六家庭から七十二家庭、一二四家庭、そして一昨年には、日本と韓国の交差祝福を行いました。韓国と日本の男女が、交差祝福をしたのです。エデンの園に、アダムとエバと三大天使長がいたのですが、エバがただ一人であるのと同じく、日本はまさしく一人のエバと同じなのです。アダム国家この文総裁と、ソ連、中国、アメリカが三天使長なのです。四人の男が互いに張り合っている中で、きれいに飾った美人の立場が日本なのです。ですから中国も日本を飲み込もうとするし、ソ連も日本を飲み込もうとするし、アメリカも日本を飲み込もうとするのですが、文総裁が主人なのです。それで息子娘を全部交差祝福したのです。それで国中が大騒ぎするのですが、大騒ぎしたって何になりますか。 一週間の間に数万名が往来するというのですから、日本の韓国大使館では、ビザの判こを押すのに夜を徹して、四位基台をつくって押してくれたのです。それがなぜか当人たちにも分からないのです。そのような天の風が吹いたのです。 それで祝福を受けてよくなったのですか、まずかったのですか? (よくなりました)。では、きちんと生活していますか? (はい)。喧嘩もせずに、千年、万年生活できますか。両親に侍って千年、万年生きるという韓国の民謡があるのです。韓国は実に芸術的な国なのです。そのように、天国の民になることのできる素性を持っているのです。あの歌、何と言いましたか。 「月よ月よ、明るい月よ。李太白が遊んでいた月よ。あの月の中に月桂が植えられているので、金の斧で整えて、銀の斧で取り出して、両親に侍って千年、万年も共に生きたい」と。 今までそのように両親に侍って生きてきたのです。そうではありませんか。それは、何だと思いますか? 真の父母が来られるので、千年、万年生き永らえて真の父母に侍るということなのです。 それで、統一教会が定着するためにはどれだけ大変だったことでしょうか。もし統一教会の大学を二十年前に建てておいたならばどうなったことでしょうか。五代長官が、統一教会の大学をつくれば大韓民国を飲み込んでしまうと思って反対したのです。 統一教会が今日このような基盤を築くためには、背後に先生の血を流す歴史的事実があったということを知らなければなりません。礼拝する場所がなくて、赤ん坊を生む女が産室を探し求めてあえぎ苦しむのと同じような曲折がどれほど多かったことか知らなければなりません。 神のみ旨から見るならば、韓国の一番大きい教団がすべての教会を代表して、神様に祝祷を捧げることが願いであるにもかかわらず、「かわいそうなこの教会を救ってください」と祈る身の上なのです。 統一教会を立てるために、悲痛なる歴史があったということを知らなければなりません。しかし、今からは各国が歓迎する時代です。アメリカでも今、家庭破綻が朝野の問題になっています。日本もそうです。ヨーロッパもそうです。もはや統一教会の祝福家庭のみが人類における希望的家庭として、家庭崩壊を防御できるのであり、青少年の淪落を防御できるのであると、希望の灯台のように考えられる段階に入ってきたのです。 ここに、西洋の人たちもたくさん来ていますね。あなた方も知らなければなりません。先生がどれほど迫害の道を経てきたのかを知らなければなりません。先生は、このような基盤を築くために多くの迫害を受けてきたのです。分かりますか? (はい)。ですから誰も祝福のカップルを引き離すことはできません。神様がそのようなことを願うからです。それを知らなければなりません。その一双一双が祝福を受けるために、天は多くの血族を通じて、手を差し伸べて先生と出会うようにしたのです。それは偶然なことではありません。歴史的な事件です。 二万数千の氏族的メシヤ 真の父母が生きる時代に共に生きているということ、同じ地球で同じ生活をしているということは驚くべきことです。また先立って、祝福の基盤を受け継いだということは、驚くべきことなのてす。百万長者が問題ではありません。この大宇宙が、現代の人々が問題ではないのです。もし先生が皆さんみたいであったならば、統一教会が生じたでしょうか? 私は行く先々で、監獄を目標として直行したのです。監獄の正門へ向かっていったのです。皆さんはそれが分からなければなりません。 先生がとどまることのできる家庭、先生がとどまることのできる一族を捜し求めていく中に、今日の世界版図を築きました。そこに対備することのできる外的条件として、世界の学者世界、アカデミー、言論界の組織、頂上会議をつくっておきました。また、心を代表した宗教圏の連合、体を代表した政治圏の連合、これは、個人の体と心の闘争歴史でもって分かれてきたものを今、終わりの日になって収拾せずしては人類の生きる道が、収拾する道がないからです。平和の世界へ行く道がないからです。反対されながらも一人でこのような業をしてきたのです。その時、誰が歓迎しましたか。 このごろになってようやく、文総裁の功績を誉めたたえる人がいます。皆さん、見ていなさい。これからは文総裁を歓迎しようとアメリカで大きい問題が生じます。何の話か分かりますか? (はい)。文総裁を「世界の生きた聖者だ!」と言って、四方で旗を掲げてデモを行いながら歓迎する日も遠くありません。 今や学者世界でも文総裁の思想を研究する人々が多くなりました。韓国語を流暢に話す学者たちも多くなりました。考えのないところに行動は起こりません。そして行動は、個人行動ではないのです。世界を考え、世界を幸福にするためには、個人では駄目なのです。天地が協助して、このような問題をつくってきたのです。 今や、今年の八月には五万双の合同結婚式をしようと考えているのです。「郭錠煥!」(はい)。今、何万双が可能ですか? (五万双を目標にしています)。今までに祝福を受けた家庭は二万数千家庭になりますが、一家庭が三人ずつ伝道すればどうなりますか? 自分の妹、弟、姪、甥、一族の中には多くの対象者がいるのです。統一教会の祝福を受けた家庭をすべてが誉めたたえるのであって、反対する家はありません。反対する者は今後、にわかに死ぬようになるのです。本当です。統一教会の家庭は、いかばかり素晴らしいことでしょうか。問題はありません。 さあ、このような統一教会の世界的な祝福家庭をつくって、全部が氏族的メシヤになるのです。世界に二万数千の氏族的メシヤができるのです。イエス様が来られて、イスラエルの国とユダヤ教を一つにしたその基盤の上で結婚されたのと同じ家庭が、二万数千双配置されたという事実の前に、世界的戦いは皆、終わるのです。今や歓迎する時代に入るのです。 日本の祝福家庭の子女たちは何名ですか? 世の中ではしきりに産児制限をしますが、統一教会は産児制限ではなくて、産児拡張なのです。そして、文総裁が一番なのですね? (はい)。一四〇名ほど生めば良いのですが、十四名しか生めませんでした。どんなに子供たちが多いといっても、一人でもいなくなれば何かがガランと空いたようになるのです。(笑い) 産婦人科の医者から、私は野蛮人文総裁だという噂を立てられたのですが、「野蛮人であれ何であれ、神様のみ旨をなさなければなりません」と言ってあげました。天の国の民が必要なのです。きょう伝道して入ってくる人より、祝福を受けて生まれた息子や娘がもっと天の心情に近いのです。そうですね。 その次に、「祝福を受けます」と言って入教してくる年の多い人たちは、最初から門を閉めてしまうか、祝福をしてあげないようにします。アダムとエバが真の父母になったとしたら、結婚して一緒に住んでいた人たちを祝福してあげるようになっていましたか、なっていませんでしたか? 自分の息子や娘だけ、若い人だけを祝福してあげるようになっていたのです。エデンの園で真の父母は、そのように結婚した人々を見ることもできませんでしたし、考えることもできなかった状況を考えてみた時、既成家庭の祝福ということは問題にされなければなりませんか、されてはいけませんか? どちらですか。それを考えなければなりません。 今、正にそうです。先生の七十歳代の昨年までに、神様の復帰摂理七〇〇〇年歴史を皆、蕩減してしまいました。それで私はクリスマスに、「神様の願いの成就の日が今や近づきました。あなたの怨讐を思う時代は過ぎ去ります。今、私の手によって、すでにそのような悪党の巣窟、悪党の群れは壊れていきます」と祈祷したのです。 今、アメリカでは、私娼街だとかマフィアが角つき合わせをしているのです。それなに結部、手を出さなければならない道が残っているのです。ですから、マフィアタチハ「M・マフィア」「ムーン・マフィア」だと言っています。マフィアよりもっと恐ろしいのです。このような話は初めて聞くでしょう。今まで私が語って手を出さなかったものはありません。 統一教会はアメリカの行く方向を正してやり、既成教会の方向を正してやるために、三十五万人の牧師たちを教育してきました。そして代表的な七〇〇〇名の牧師たちを韓国に連れてきて、精神的な武装をしてあげたのです。今やアメリカの教会は、文総裁に従っていかなければなりません。アメリカの教会に希望を与えてあげ、方向性を正してあげたのです。すでに一九七九年に、神学界でも実力的な論戦で完全に手を挙げたのです。 すべての宗教の宗団長たちが連合して、その宗団の大神学博士たちが連合して、世界で一つのバイブルを作るために自分の宗団の代表教理を加えて、四回ずつ修正をして、来年には出版して販売することにしました。しかしそこには肉だけがあるのであって、そこには創造観がないし、歴史観がありません。その次には、理想観がありません。骨がありません。骨は統一原理なのです。それは統一教会にだけあるので、それを除こうにも除くことができません。今から何が起こるのかといえば、「おい、おい、行くな、行くな」と言いながら、先生に従っていくようになるのです。 さあ、それで家庭を捜し求めることが難しかったし、教会を捜し求めることが難しかったし、その次には、キリスト教の方向を正すことが難しかったし、滅びていく自由世界の方向を正すことが難しかったし、滅びていく共産世界の方向を正すことが難しかったのです。それで結論が何かというと、文総裁によって長子権が復帰されたことです。皆さんはカイン・アベルの歴史を知っていますね。そこで、長子権が復帰されたのです。本来アダム自体が長子権を持っていました。アダム自体が真の父母になり、アダム自体が王の王になるためです。 堕落によって人間が何を失ったのかといえば、長子権を失ってしまいました。天と地の基いを相続する長子の権限を失ってしまいました。悪魔のゆえにです。神様の愛と、神様の生命と、神様の血統を中心として、天地の創造主たる父母に侍る永遠なる血族にならなければならないにもかかわわず、アダムは真の父母になる権限を失ってしまったことも分からなかったのです。 「南北総選挙対備全国大会」 今日、堕落しなかったならば、世界はアダム文化なのです。アダム一族なのです。ですから一つの王権なのです。民主世界というのは、杖と同じです。兄弟主義なのです。民主主義とは兄弟主義なのです。兄弟が多いので、相続するために代表を立てるのです。兄弟たちが全部集まってより犠牲になり、より奉仕し、より伝統を立てることのできる人を選ぶのです。これが民主主義です。民主主義は兄弟主義ですから、その後に父母主義時代が訪れてくるのです。 選挙で父母を選出できますか、選挙で再臨主を選ぶことができますか、選挙で神様を採択することができますか? とんでもありません。ですから、この選挙時代、選挙主義、民主主義時代は、不信的風潮を醸成する基台になっています。なぜかというと、民主主義は全部、自分の利益のためにはありとあらゆることを行うからです。金力を動員し、人力を動力して中傷、謀略などありとあらゆることを行うのです。 それで今回の選挙の時、正そうと思います。それで「南北総選挙対備全国大会」を行い、地方自治制の選挙をする前に発表したのです。 今日、統一教会員のすべては正念場にならなければなりません。正義のラッパを吹く者にならなければなりません。そして国を捜し求めなければなりません。分かりますか? (はい)。政治の世界には心がありません。ですから政治の世界に心を植えてやらなければなりません。そのような時が来ました。私が宗教指導者として、なぜこのような南北総選挙対備という政治風土の話をするかというと、頂上の人々が責任を果たせないので仕方がありません。これから、ラッパを吹かなければなりません。分かりますか? (はい) 私の国を捜し求めるためには、選挙人たちが努力する何十倍をしなければなりません。「私に投票してください!」と言う人がいれば、それ以上に叫ばなければなりません。 今年の標語は何でしょうか? (「私の国の統一」です)。私の国の統一です。私の国には心がありません。国を愛する心がありません。皆さんは、心を代身しなければなりません。先生は家庭を捜し求めるのが難しかったし、氏族を捜し求めるのが難かしかったのです。そのような中で世界的に、イエス様を中心としたすべての氏族基盤を編成してきたのです。今では、世界は皆、私の懐に抱かれるのです。分かりますか? (はい)。私が今、指示し、計画していることは、ソ連とアメリカの国会議員を教育して、姉妹血縁を結んでやることです。その次に、大学街の教育です。今回そのようなテストをしてみました。世界の政党のリーダーたちを集めて教育したのです。 こうして、頭翼思想を中心に民主世界と共産世界を正すのです。このままでは世界は滅びます。回れ右をすれば、右側が左側になり、左側が右側になるのです。分かれて争ってはいけません。手を握らなければなりません。そしてどこへ戻っていくのかというと、根本へ戻っていくのです。偽りの父母によって堕落したので、一八〇度回れ右をするのです。心と体の分離により、外的に版図を拡張して、有神論と無神論で争ってきたのですが、これらを頭翼思想でもって一つにするのです。 ソ連ばかりでなく、中国でも「文総裁を英雄として侍る」と言っているのです。「朴普煕! そうですか?」(はい)。このような基盤を築くためには、ソ連が自分の国を守るための何十倍の努力と、何十倍の功績を通じて、心の姿勢でもって受け継がなければならないのに、統一教会の信徒たちはそれを分かっているでしょうか? 自分たちが何もしないでこれをただでもらうとは何事ですか! 何の話か分かりますか。 今回、先生の八十歳代に世界に向かって、再収拾し、統一天下に向かって前進するこの時点において、皆さんが命令を受けているこの瞬間がいかばかり厳粛な時かということを知らなければなりません。私の国の統一というこの課題が、歴史以来の摂理史を中心として何万年、何億万年待ち焦がれてきた神様の願いであり、今はそれが着地する息詰まる瞬間であることを知らなければなりません。また、数多くの宗教人たちが悔しい思いで血を流しながら、「私たちの怨痛なる恨みを解いてくれ」と天に祈祷し、所願成就の日を願ってきたすべてのことが、この地上で成されている息詰まる瞬間であることを知らなければなりません。ここに書いてある「私の国の統一」ということは、今日の韓国の地のみを中心とした、韓半島だけを中心としたことではありません。世界の国家を代表したものです。分かりますか? (はい)。世界国家なのです。これは、元来「私の国の統一と私の世界の統一」として「私の世界」を入れなければならないのです。それを略しているのです。 ここにいるこの世界の人たちが各自、自分の国を統一して、韓国に接ぎ木するならば、私の世界の統一になるのです。それを知らなければなりません。私の国の統一のために持てる精誠を尽くして、今までのいかなる愛国者よりも、いかなる忠臣よりも精誠を尽くしていく歩みを促しながら、「涙とともに、また行かなければならない」と拍車をかける日々の生活を誇ることができなければなりません。何の話か分かりますか? (はい)。疲れた脚を引きずって行きながらも、倒れることはできません。あの山を越え、一つの峠を越えて、また一つの峠を越えて、歴史的資料を残さなければならないのです。天の伝統を記録する時に、私が働いていたことが、一つの資料として登場する歴史的な資料を残さなければなりません。伝統としてこれらの残りうる資料のために、私の至誠に満ちた心を尽くした所にのみ、天の祝福の福地が皆さんの行く手に連結されるということを知らなければなりません。 このような基盤を築くのに、先生は順風満帆で行ったのではありません。暴風雨の押し寄せる台風圏内で、この基盤を築いてきました。ですから、この厳粛なる家庭の伝統、教会の伝統基盤を中心として、より価値のある国を解放する立場に立って、「南北総選挙対備全国大会」という名称をもって、その解放の旗を掲げ、解放の勇士として、精兵として一様にいでたつことを誇りとしなければなりません。私の目の前に見える家々は、焦土のように踏み越えていくという覚悟をしなければなりません。何の話か分かりますか? (はい)。きょうから、総出動なのです。 それで結論は、皆さんが長子権を受け継ぎなさいということです。長子権を受け継ぐためには、悪魔の長子と戦って勝つことのできる勝者の権限を整えなければなりません。天が堂々と記憶することのできる、霊界全体と祖先たちが記憶することのできる摂理の覇権を与えられた息子の姿勢を整えなければなりません。このような堂々とした長子権を帯びた息子の姿をもたなければなりません。そしてその息子は、妻を従えなければなりません。エバはアダムの骨子でもってつくられました。ですから、女性を完全にみ旨の前に一致化するように治めなければなりません。 天国は、真の愛を持った者だけが行くことができます。お金を捜し回った人は、あの世では地獄に行きます。聖書にも、「神様と物質を共に崇め奉ることはできない」とあります。愛を中心とした物質は天国に属し、愛を中心とした知識は天国に属し、愛を中心とした権力は天国に属することができますが、愛を抜いて、自分の利益を中心としたものは天国に属することはできません。愛を中心としないものはすべて、邪なるものです。あの世に行けば、方向を失ってしまいます。 宗教は永生の道を捜し求めていくものです。永遠であられる神様が愛の対象としてつくった人間なので、永遠なる人は、愛の対象が自分より出来が良いことを願うのです。皆さんも愛の対象である息子娘が、自分より出来が良いことを願うのと同じことです。それは、神様に似たからです。ですから、私たち人間の価値というものは、神様よりも出来が良い愛の対象であると見るのです。このような永遠なる真の愛における永生の論理は、自然的な論理なのです。このような永生の道を築いていくのです。永生の個人的心情の版図を築き、永生の世界で歓迎される家庭的版図、氏族的版図、民族、国家的版図を築いていかなければならないのです。 祝福を受けた家庭の前に世界がありましたか。アダムの前に世界がありましたか。あるのは、自分が治める家庭と神様に侍ることであり、それ以外にはありません。それと同じです。よこしまな悪の世界を中心とした習慣性をきれいに清算しなければなりません。すべて解放された姿をもって、本然時代の長子権を純粋に受け継ぐことのできる息子となり、長子権をもって家庭をなしてこそ、父母権が復帰されるのです。父母権を失ってしまったので、氏族的メシヤを中心として父母権を復帰することによって、皆さんの生まれた本郷の地を故郷の地として設定できる天の祝福を受けたのです。 先生は過ぎ去る旅行者として語るのではありません。一家の長として、一国の長として、一天下の中心存在として語っているのです。氏族的メシヤの責任を果たしてこそ、王権が連結されるのであり、国が連結されるのです。世界と国の基準を皆、築いておきました。私はこの垂直に立っています。皆さんはここに、東西南北を中心として連結させるのです。個人が蘇生であり、家庭が長成であり、氏族が完成なのです。このようにして、国家的基準を中心としなければなりません。ここに連結させなければなりません。世界各国が連結されなければなりません。民族解放は遠いところで起こるのではありません。個人的基台の上に家庭があり、家庭的基台の上に氏族基盤を中心として、東西南北の氏族たちが連結される時、国は形成されるのです。 「統班撃破」 この南韓の地において、引っ繰り返していかなければなりません。それは氏族ではできません。家庭なのです。家庭へ戻っていかなければなりません。アダムとエバが堕落することによって天の方向を一八〇度反対の地獄へと展開してきたので、一八〇度家庭で回していかなければなりません。これを成すために、霊界のすべての反対、地上での反対を先生の一代で皆、清算しておきました。ソウルから地方まで全部です。それで今年は「統班撃破」です。 基地は家庭です。家庭に着地して方向を定めなければなりません。すべての家庭は、ご父母様と神様の名前を中心として写真をかかげ、四位基台で敬拝しなければなりません。三代が敬拝しなければなりません。四位基台は三代なのです。祖父母、父母、子供たちなのです。三代が敬拝しなければなりません。 真のご父母様と共に四位基台圏を成して敬拝するところは、堕落圏でなくなるのです。神様が直接主管をするので解放圏となり、霊界に行った天上世界のすべての霊人たちが、地上に降りてきて、天使長のようにアダム家庭を保護する時代に入ったのです。昔はカイン圏が霊界になり、アベル圏が地上になっていたので、アベルがカインを救うために犠牲になって、今日まで利用されてきましたが、今や長子権を復帰したので霊界が天使世界であり、地上が、統一教会を中心としたアダム圏なのです。アダム圏を後援するようになっているのであって、利用するようになっていません。ですからサタンが介在して活動する余地がないのです。サタンは追放されるのです。 強く大胆に立ち、その基準を一歩も譲らない前進的姿勢をもって、平衡的基準を整えて前進するところには、悪魔の勢力圏は全部、崖から落ちていくのです。そのように、家庭ごとに火をともすようになり、金日成も先生の言うことを聞かなければ、一夜のうちに霊界に連れていかれます。皆さんがそのように、真の父母の名前でもって行えば、金日成も除かれるのです。彼は歴史以来最も悪辣な共産主義の覇権主義者です。そして、父という名前を持っているのです。悪魔の国家的再臨主なのです。スターリンは悪魔の世界的再臨主です。 先生は一九四五年から一九五二年までの七年間に、キリスト教を統一し、世界統一圏を期待していたのです。先生の時であるので、世界的再臨主型のスターリンは、五十年以上生きられませんでした。ソ連と中国もそこから分かれ始めたのです。今や金日成だけ残りました。分かりますか。金日成だけ残りましたね? (はい)。ですから、南韓での家庭を回していかなければなりません。家庭から金日成の地下工作班たちの電話電報をする通信が途絶えなければなりません。家庭の女たちが全部かばい立てしているのです。おばあさんのスカートに包まれて、彼らはよこしまな関係を結んで保護されているのです。それを撃破する運動をしなければなりません。分かりますか? (はい)。サタンが隠れている基地の家庭を中心として、撃破運動しなければなりません。 今まではピラミッド式の組織でしたが、今からは違います。反対に引っ繰り返すのです。ですから、本部がありません。地方にも県がありません。郡がありません。先生を中心として本部は全家庭なのです。堕落する以前にもそうです。父母だけしかないないのです。祝福家庭は、全部ご父母様を中心として、神様を中心として特命を受けて、その命令の一元化実体圏を整えて、天の前に奉献しなければならない責任を、地上に生きる血族たちは全うしなければなりません。これが天国に行くことのできる準備なのです。 霊界に行く時、お金を持って行くのではないのです。サタンの息子娘を教育できなくて、悪い人のままにしておくならば、あの世で引っかかります。木を逆さにして入っていくのと同じです。一人が一二〇名以上収拾しなければなりません。天の国の民を皆、失ってしまいました。それを接ぎ木して、再び失ってしまわなかったという条件で合わせなければならないのです。 霊界で十二真珠門を経ていくためには、地上でたくさんの天の民を捜し出して戻ってこなければなりません。そのためには、涙と血と汗と再創造の真の愛の心情を中心としてサタンの父母以上の、サタンの夫や妻以上の、息子や娘以上の心情を投入して、涙とともに、血と汗とともに交差する家庭を経ずしては、天の国の所有圏、民を立てることはできません。この数に比例して、あの世で栄光の座に、神様の前に近づくための条件が分かれるということを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。 文総裁はそれを知ったのて、一生涯を、国のみならず世界へと経てきたのです なぜかというと、真の父母の名前が怨讐となったからです。霊界へ行っている人たちまでも全部、真の父母の恵沢を受けなければなりません。ダンベリーの監獄に入って、二月一日に地獄と天の門を開く式を行い、すべての開門を準備したのです。 このように千辛万苦の恨みの峠を越えて、また越えて行かなければならないし、大洋が広いというならばそれを泳いで渡っていくのと同じく、山が高いというならば、裸足でもって白雪の積もるヒマラヤ山頂を越えるのと同じく、悲惨な歴史上に、すべての勝利の覇権的基盤を立てたという事実は驚くべきことです。そのような、悪魔も従ってこようにも従ってくることができぬ、離れようにも離れることができない受難の道を経てきたということを知らなければなりません。 私の家、私の息子、私の娘が厳粛な神様なのです。第二の神様なのです。おじいさん、おばあさんは神様の代身として、昔を代表し、父母は今の時代を代表し、息子娘は未来を代表したものです。三代で過去、現在、未来の神様の顕現者として侍ることができなければなりません。息子娘をだまし、妻をだまし、父母をだます人は地獄に行くのです。為に生きる愛で、生命まで投入しても忘れてしまう真の愛の核の中心として、家庭と国家と世界と天地が連結されるようになっているのです。それ以外にはありません。 そのような核を通じた心情的内容をもって、天の国の民をいかに復帰するのかということが、今日の私の国の統一の秘訣なのです。今日は世界に散らばっている宣教師たちか皆、集まって来ましたが、皆さんも自分の国に帰って、きょうの私のこの統一と同じく、自分の国で同じ立場に立って、持てるすべての精誠を尽くして、自分の国を他のどの国にも負けないように早く天の前に奉献しなければなりません。 旧約時代の万物、新約時代の息子娘、成約時代の夫婦、その次に神様を地上にお迎えして、これを横的に引き受けなければなりません。堕落によって地上に神様をお迎えすることができず、サタンを迎えたのです。今からは神様をお迎えして、全部を連結しなければなりません。ですから皆さんの万物は、皆さんのものではありません。万物は、旧約時代に該当するものです。息子娘は新約時代に該当するものです。旧約時代に万物を犠牲にさせたのは、息子娘の行く道を築くためであり、息子娘を犠牲にしたのは、父母の来る道を築くためです。そして、真の父母がこの地に来て苦労するのは、神様をこの地にお迎えするためです。サタンをこの地に迎えたので地獄になったのです。真の愛でもって神様に侍らなければなりません。 自然屈伏の時代 再創造は、投入して、投入して、忘れてしまった真の愛の起源を通じて、神様に侍ることのできる物質と子女と自分自体の全部を結束させ、すべてのものが真の愛と連結された神様のものであるということが設定された後で、再び分配を受けて子女の所有時代へ連結されるのです。父母の所有、子女の所有時代へ分別されるのです。 ですから歴史は社会主義社会を経てきたのです。共同共有の時代になるのです。今日、大韓民国は資本主義社会であり、政府がすべてに干渉するので、半社会主義と同じなのです。半社会主義によって個人所有を認めないのです。これからは、神様にお返ししなければなりません。お金も自分のものではないし、息子娘も自分のものではないのです。自分自身も、夫婦も自分のものではないのです。全部、自分勝手にできない時代になります。お母様であっても自分の思いどおりにはできません。すべて報告しなければなりません。 息子娘も、自分の思いどおりにはできないのです。息子や娘も父母の言うことを聞きますか? そうでしょう。悪魔は四方八方を全部バラバラにするのです。終わりの日には、妻たちは二人以上の男に仕えるのです。全部、浮気者になります。男たちは言うまでもありません。あちこちに臭いをまき散らして回るのです。 共産主義は何かというと、今後来られる天の国の法によって絶対命令に生きるために、悪が先に天の国を真似て、真を偽りのものにするための一つの方便的手段として現れたものです。私たちはそれ以上に、世界に向かって越えていかなければなりません。脅迫や脅かしではなく、愛でもって自然屈伏させるのです。文総裁が誰かの首を切りましたか? 人を殺しましたか? 脇腹に刃を突きつけましたか? そのような人がどこにいますか? 全部、愛して自然屈伏して、このような基盤を築いてきたのです。ですから今後、家庭の全体の前に影響を与えて、家庭を頭翼思想でもって一八〇度回しておくので、争ってはなりません。神様の真の愛を中心として、完全に平和を中心として、家庭から氏族、民族が連結されるのです。北韓に対しても、そのような愛を持っていく時、サタンは打つことができないのです。 自然屈伏する時代になったのです。もし自然屈伏しなかったならば、金日成父子は一夜のうちに霊界に連れていかれるのです。分かりますか? きょうの夕方にでも神様は霊界に連れていくのです。ですから、いつどのようになるか分かりません。金日成が死ぬ前に何をしでかすか分かりません。総選挙に対備してすべての方向に準備した人は滅びません。 このような準備の時代にこそ、家庭を中心として転換させなければなりません。これを捜し求めていって着地し、家庭を中心として初めて天の国が地上に定着するのです。分かりますか? 定着して、方向の違う愛の理想出現が起こることによって、家庭天国から氏族天国、民族天国、国家天国、世界天国、永遠なる解放の世界へ、神様に侍って展開されることが私たちの願いなのです。ですから、どんなことをしても南北を統一しなければなりません。 南北を統一し、アダム国家とエバ国家を統一しなければなりません。第一に南北を統一しなければなりません。南北を統一するには日本が協助しなければなりません。なぜかというと、堕落はエバの過ちによって、二つに分かれたからです。先生の故郷は北韓です。北韓はキリスト教文化圏にあります。キリスト教が責任を果たせなかったことによって南韓に下ってきたのです。南韓に何の教会がありましたか? 慶尚道、全羅道に何の教会がありましたか。 避難民たちが南に来て生活する中で、友達になり、結婚して、南韓に教会が満ちるようになったのです。北韓の民が失ってしまったものを全部、南韓で蕩減復帰するための役事を成して、再び今からは戻っていかなければなりません。 お金は皆、北韓の人たちが持っているのです。経済圏も北韓の人たちに皆、奪われました。今、故郷に戻っていく前に国を生かさなければならないのに、国を愛することを知りません。南韓の地で自分の基盤を築いて、二階建ての瓦ぶきの家を建てようとするのですが、北に家を移して住もうという考えをしないというのです。お金の包みを持って全部、北韓に行って生きようと考えるのです。それはいけません。そのようなことを教育して、北韓の一五〇〇万の五道民を収拾し、教会と連結させて、南韓の四〇〇〇万が先生の言うことを聞くようになれば、南北韓のキリスト教統一、国民統一が可能になるのです。今日の統班撃破は、南北のための統一のための近道であるということを知って、この道を行かなくてはなりません。 それで今年も再び、「私の国の統一」のために、私の四肢、体が疲れきり、海老寝をする恨みを持ったとしても、この歴史的な目的が粛然とした天の使命であることを知り、前進、前進の隊列に参加することを誇りと思い、出動する新年劈頭のこの時間であることを知らなければなりません。分かりますか。再び、また再び、私の国の統一をより輝くようにしましょう。 自分の持てる精誠を尽くし、これを撃破させて余りあるという決意を固くし、総出動、総進撃させ給いますように。ここに参加することを誓う人たちは、新年劈頭に神様の前に宣誓しましょう。「宣誓!」。新年に、神様の祝福が皆様の上にありますことをお祈りします。 祝祷 愛するお父様。蕩減復帰摂理という恨みに満ちた時代は、今、文総裁の前に過ぎ去りつつあります。ただ一つ残りましたことは、北韓の地のみです。 あの怨讐のようなソ連の領域も、今やすでに、すべての氷山が溶けて春を迎える時になりました。アメリカも、希望もなく喘ぎ苦しみ、サタンに引きずられていったすべての悲惨なる運命が、文総裁によって新しい方向を迎え、今や頭翼思想を足として、天上の神様の懐へ戻っていける神主義を知るようになりました。このすべての勝利の覇権的世界の版図を分けてきましたが、この勝利的すべての版図を納めて天運と共に今、韓国を訪れました。 韓国を訪れてみると、南北韓に分かれております。南韓のキリスト教を中心としても、これがまた、統一教会と分立しております。これらすべての与件を越え、キリスト教は反対するとしても、南韓の国家と一つになる時、キリスト教圏を引っ張って、どこにでも戻っていけることを知っております。そのような原理の道が分かりました。ですから、国を動かし、この世の国の政権に反対するこの実相を、今日、統一教会が主体になり、すべての家庭が統一教会と一つになり、喜びの基準でもって国民すべての家庭の上に定着できる環境的与件を開拓することにより、真の父母の前に北韓の偽りの父母、金日成は自然屈伏しなければならないという、北韓共産党以上に南韓の統一教会が熱意を尽くし、生命を皆投入して熱烈に動くようにしなければなりません。サタンの父母圏は、自動的に座を明け渡させなければならないという原理的観をはっきりと知っておりますので、ここに集ったすべての人の心を、自ら固く決意させていく王道の礎石をはっきりと知ったので、この礎石を踏みしめ、道を越え、国を越え、北韓へ、そして統一を成して、アジア統一と、世界統一の未来像を神様の命令とともに、受け継げますようお許しください。 そして、私は天と地の代表であり、世界の代表であり、南北統一の代表であり、それのみならず、南韓におきまして、すべての邪悪なるものを除去した勝勢的代表であり、天の家庭と天の個人の代表であるという自負心を持って、どこであっても恥じることのないように、堂々とした歩調で整えて、行軍のラッパの音と共に自らの歩調を合わせ、勇ましく前進に前進を固く決意することができますように、天の国の息子娘になりますように、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。新年劈頭に決意したすべての事実をお受けくださいますように、今や、明日から、この正月初めから戦う統班撃破路程の上に自信を持って進むすべての者が、順応の道理を目撃しながら天のみ言と共に、命令と共に、その事実が現実に一致することを喜んで感謝しながら、前進に前進を固く決意しながら、誇り高き姿を天の前に示して、天の国に記憶されうる息子娘になりますように、お許しください。新年劈頭に出発を覚悟しましたので、お父様、今年の標語を中心とした私の国を……。また、愛する統一圏を中心として直行する統一教会の群れとなり、南韓の地に天の国の春の季節を成すことができるようになさしめてください。 今、八十歳代を中心とした十年間、世界的なすべての問題を整備しなければならない莫大かつ重要な責任が、この身の行く道に残っておりますから、お父様、今まで指導してきましたその一念と共に、あなたが共に成さり、すべてのことを収拾されたように、残ったこの十年の八十歳代に有終の美を飾れますように保護し、引導してくださいますことを重ねてお願い申し上げながら、万々世の恵みと愛があなたが経綸なさいますその経綸の中に永く共にありますように。 全世界の統一教会の群れがこの朝、ご父母様のおられる地に向かいまして、祝祷する一律的な恵みの圏として紐帯を結ばれまして、統一的行歩を共に整えて出発できますよう祝福してくださいますことをお願い申し上げながら、すべてのみ言を真のご父母様のみ名によって祝願致しました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.13
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「希望に満ちた天国建設」真の御母様の御言1990年3月1日 二月十一日から三月四日まで、真のお母様をお迎えして、日本全国十六か所で「真の家庭世界化前進大会」が開かれ、三月一日早朝、新潟で真のお母様が教会員に語られたみ言。 み言を語られる前に『父の祈り⑥孝心編』を訓読された。 皆さん、お父様の祈祷文を読んでみて、何を感じますか? お父様の祈祷文を読んでみた感想を話してください。話す人はいませんか? 今、六十億の人類がいますが、どこのだれがお父様についていくことができるでしょうか? お父様が、だれよりも神様を愛し人類を愛しているかたであるということを、祈祷から感じることができるのです。 祈祷一編の一言一言が、すべて天を思慕し、天を愛し、天の願いを成してさしあげ、神様を解放してさしあげようという心なのです。また、どれほど人類を愛しておられるでしょうか。瞬間的に多くの生命が地獄に落ちているのを、いっときでも早く救わなければならないという、切迫した心を持って祈祷される姿を感じることができるのです。 それでお父様は、科学者会議、教授アカデミーや宗教者会議などの多くの会議や大会をされますが、お父様がなさることの目的はすべてただ一つ、「神様と人類を解放する」ということなのです。 そして、最も難しいことは、人種差別と宗教間の壁を超えるということです。それは人類歴史の大問題だったのですが、お父様はすべて解消されました。 今回の三億六千万双を祝福した後には、多くの人々がそれを実感したと思います。 世の中の人々がそのように感じているとすれば、み旨を知っている立場で、真のご父母様に侍り、祝福を受けた皆さんの思いはどうでしょうか? 私たちの未来が見えるようではないですか? 皆さんの覇気によって、私たちの前から困難なことはすべて消え、雲はきれいに晴れ、明るい太陽の下で、日の光の下での希望に満ちた天国建設だけが残っているのです。今、私たちはどれほど興奮する世界に生きているのかということを、皆さんは実感しなければならないのですが、どれほど実感しているでしょうか? 皆さんは、真のご父母様の健康と長寿を祈っていますが、真のご父母様が生存していらっしゃるということが、私たちにはとても大きな力なのです。 多くの宗教が実体的に、建物や教会など、歴史的なものをたくさん残してきました。キリスト教はもちろん、仏教もそうであり、他の宗教も自分たちの宗教を象徴する歴史的な建物をたくさん残してきました。 そして、一つの国を支配し、その名をとどろかせた王たちも、自分がいる間に歴史的な何かを残そうとして、たくさんのものを建ててきました。 それでは、皆さんは過去の歴史上の王たちよりももっと優れた位置ですか、そうではないですか? また、二千年前のイエス様の弟子たちよりも優れた位置ですか、そうではないですか? キリスト教の歴史を代表しているイタリアに行けば、皆さんはローマ教皇庁を見ることができます。そして、歴史の古い都市を見れば、現在の二十世紀の文明では再現することのできない有名な城や建築物が多く存在しています。 歴史上、前にも後にもない貴重な時代に、真のご父母様に侍って生きている皆さんが、未来においてどのように表現されるのか気になりませんか? 皆さんは、そのようなことを考えてみましたか? 私たちが考えることもできず、現実にあえいでいるとき、霊界の興進様をはじめとして、大母様は驚くべき苦労をされています。 皆さんは清平によく行くので知っていると思いますが、今、清平で建てている建物があるでしょう? 大母様の願いは、お父様の八十歳のお祝いを聖別された所でお迎えして行いたいということなのです。 それは、すべて大母様の努力で建てている建物なのです。韓国の財団や、世界の教会が協助しているのではなく、修練費で建てているのです。大母様が苦労されているのです。お父様は、それをごらんになられて、こうおっしゃいました。「肉身を持っておられない霊人の身で、このように苦労されたのだなあ」。皆さんは、肉身を持った者として負債を負っています。 今回、日本巡回に出発しようとしたとき、興進君と大母様が「真のご父母様に侍ることのできるもっと大きな神殿を建てなければならない」と言いました。「『霊界から天国の王宮の姿を、天使を通して見せてあげながら、建築を実際に担当する設計チームを呼んで話をしなさい』と指示した」と言っていました。 イタリアに行けば、古い教会の建物があります。ある建物は、何世紀もかけて完工したそうです。それでは、この時代に真のご父母様が住まわれる神殿を一、二年で建てることができるでしょうか? 設計だけしようとしても、多くの時間が必要なのです。お父様がお歳を召されているので、十年以内、早ければ五年以内に完工しようとして仕事を始めたというのですから、皆さんは、そのことを少し考えてみなければなりません。 皆さん、そのようなことを考えてみましたか? ただ与えられた目標と責任にあえぎながら、時が来れば霊界に行くと考えていましたか? 歴史的な人物であったという証拠を残して、後世に見せてあげられるものを残さなければならない、と考えたことはないのですか? 私たちには、なすべきことが多くあります。世の中では、することがなく、願いがなく、希望がない人は自殺することもあり……。日本は、自殺者数がとても多いという話を聞いたのですが、そのような人たちと、私たちは違うのではないですか? 皆さん、女性が食事を作るにしても、喜んで作るものと、同じ材料でも気分が良くない状態で作るものとでは、天地の差があります。私たちがすることも同じなのです。 小さいことから大きいことまで、この時代に生まれて真のご父母様に出会い、このようなことをすることができるようになったということ自体が、天のみ前に感謝なことであり、祝福を受けたことなのです。 皆さんは、これを自分の中に留めておかずに繁殖させて、皆さんのようなたくさんの実りを実らせなければなりません。特に日本の社会では、今、この時間にもたくさんの人たちがみ旨を知らずに生命を失っているので、急がなければならないのです。 ですから、皆さんはこのような大会があるたびごとに、動機を高めて大きく結果を生み出すことができるように、あらゆる方向に努力しなければなりません。 天が百パーセント施してくださったのならば、皆さんは百二十、二百パーセントにしてお返ししようと思って一生懸命に励めば、どのようになるでしょうか? 皆さんは、今は時が違う、ということを皮膚で感じているのではないですか? 昨日、ここで奉仕していたおばあさんの中の一人のかたも、天地祝福を受けて、今、夫と一緒に暮らしているという話をしていました。私たちには今、霊界に五百億人にもなる祝福家庭がいるのです。霊界で地獄から解放された、また善なる先祖、悪なる先祖にかかわらず、解放されたすべての先祖が、皆さんの行く道をどれほど協助してくれるでしょうか? 皆さんが動いていないので、分からないのです。考えが及ばないので、そうなのです。 ですから、皆さんはもう「難しい。大変だ。できない」と、そのようなことを言うこともできなくなっています。それは、皆さんの能力に従って現れるのです。 どうですか? きょうはお父様の祈祷を聞き、私の話を聞いて、何か少しでも感じることがありますか? (「はい」)。霊界の霊人たちよりも、私たちが劣っていて、それでよいのですか? 霊界では、お父様の前に来て敬礼しようとしても、手続きが複雑なのです。今、皆さんは、お父様の前に出て敬礼もし、すべてのことの指示も受けて、み言も聞くことができるではないですか? 霊界でも、お父様が早く来られたらよいと思っていますが、私たちの立場から考えれば、お父様が早く行かれてはいけないでしょう? そうでしょう? (「はい」)。ですからお父様に、この肉界で関心を持っていただけることが多くなければなりません。そうではないですか? 皆さんも、関心がある所に行きたいのではないでしょうか? ですから、皆さんが孝子、孝女になろうとすれば、お父様が関心を多く持たれることができるように、皆さんが努力しながら、実績を見せてさしあげなければならないのです。分かりますか? 皆さんが再び決心して、きょうも希望に満ちた一日の出発をすることを願いながら話をしました。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.12
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「六五〇〇双特別集会における御言」1989年6月19日龍仁の一和工場六五〇〇双特別集会において、在韓の六五〇〇双日本食口に対して、日本語で語られたみ言の前半部分を要約したものです。 相対のために生まれた人間 ここにいる皆さんは全員、異国の男性、女性を求めてきたのではありませんか? 異国の男性、女性を中心として解決すれば、同じ国の男性、女性の解決は問題ではありません。それは大変なことです。もしも、女性が子供を生まなかったらどうなるか、子供をつくらない運動をしたとすればどうなりますか? 聖人のような男性、女性が何千億万人地上に住んだとしても、一世紀以内に人類は滅亡します。だから、統一教会の女性は子供を生む義務があるということを知らなければなりません。 女性は胸が大きくなるのはなぜかというと、それは子供のためです。それから、女性には月経があるでしょう? それは子供のためです。子供は一人で得られますか? 旦那さんが絶対に必要です。生理状態を解決する根本を考えてみても、男性が絶対に必要です。そうではありませんか? それを否定する女性は手を挙げてみなさい。(笑い)皆そうです。 ヒップが大きくなるのも自分のためではありません。女性は肩が狭く、ヒップが大きくなっています。長く座っているようになっています。肩が押し付けられないからです。男性は座ってはいけません。ヒップが小さいから長く座れません。走り回らなければなりません。だから、生活問題は男性がしなければなりません。それゆえに、女性は座るとき、四角に無理なく、東西南北に合うようになっているのです。それを否定する者は、宇宙がざんそ讒訴します。 男性はもともと女性のために生まれてきたのです。先生は、それをずーっと苦悶してきました。「なぜ、人間は生まれたのか」、それを苦悶して苦悶して、尋ねて尋ねて、探って探って、結論を付けたのです。その後にようやく、わたしは結論を出し、真理の真っただ中に立っていたことを発見したのです。完全なものです。 なぜ、男性が生まれてきたか? それは、男性のためではありません。国に先立って、世界に先立って、女性のために生まれたのです。いくら大学を出たとしても、女性であれば忠実な男性のために勉強することになります。忠実な男性のために勉強しなかったと考える者は、社会にも、国にも、世界にも通用しません。愛が伴う知識は必要であるけれども、愛のない知識は、だれも必要としません。 愛が伴う権力はどこでも歓迎されますが、愛の伴わない権力というものは、だれも受け入れません。愛とともに行く所には疲れがありません。その反対に希望の山が積まれます。愛を独り占めにしようとする人は、最終的には疲れて、捨てられてしまうのです。 真の愛の定義 だから、日本という国が将来発展し、存続することを願うならば、愛国心を持つ国民を永遠に持つことです。そのためには、愛国心に先立って家庭を愛し、社会を愛する愛の国民を持つことです。国に先立って、夫婦共々に国の代表として愛ある家庭と社会をつくる、そこから愛国という言葉が生まれてきます。世界を愛したいと思う者は、国を愛さなくてはなりません。これが、統一教会の偉大な方向性なのです。 今までの世界主義は、国や氏族、社会といった、犠牲になる社会、犠牲になる愛の基盤を全面的に放棄して、「世界にだけ奉仕せよ」と言うのです。これが共産党の主張でした。しかしながら、統一教会はそうではありません。 愛はすべての方向性を抱える内容を持っています。個人の方向性は万年変わらないし、家庭の方向性は皆同じです。個人の生活と世界観がつながっているのです。個人の人生観、家庭観、社会観が皆別個に、方向が乱れてはいけません。個人の人生観も家庭観と通じ、家庭観が社会観につながり、社会観が国家観に、国家観は世界観に、世界観は宇宙観につながり、宇宙観は愛とともに結実しなければなりません。 そのような歴史の中心的な方向性を、小から大までつなげるその本流を、核心につなぐ方向性をなすものは一体何ですか?(「真の愛」)。愛しかありません。真の愛とは一体何ですか?(「ために生きる愛」)。ために生きる愛では、真の愛になりません。ために生きる愛の道によって真の愛が探されるのです。真の愛は一体何ですか? (「怨讐を愛する愛」)。怨讐を愛する愛が真の愛ですか? 怨讐でない者を愛する真の愛はないのですか?(どよめき)そういうこともあります。自分の愛する子供たちは怨讐でもないのに、愛さなければなりません。間違ったところには愛の代わりに鞭を打つ。これをどう解釈しますか? そんなことでは正しい解答になりません。 では一体何ですか?(「縦的神の愛と横的父母の愛が一つになった所」)。そうです。縦的神の愛と横的父母の愛。縦的な真の愛と横的な真の愛が一つになって、世界の血統的内容を抱擁した上に立つ愛を、真の愛と言うのです。そこが私の生命の元になります。だから、私は真の愛から始まります。それを否定した場合には、自分の生来の生命を否定し、存在すべてを否定することになります。真の愛には、自分の生命が永遠的につながるのです。そこには血統が入ります。 あなたたち自身を愛するのが真の愛ですか? 「自分を愛したい」という者は、真の愛に属するものですか? 自分に属するものですか?「自分を愛したい」という者は、永遠に真の愛とつながりません。 縦的愛の主体である縦的お父様と横的父母とともに結束して、そこからつながれた血統の上に立ったのが私です。それは、縦的愛を表徴した聖霊実体です。その行く道はきちんと公式的になっています。それゆえに、永遠不変の愛の基台から生まれた自分自身が、父母もそういう立場で見て、ともに愛し合う。愛を中心として、父母が別個ではありません。父母がなければなりません。絶対必要です。男の子も、女の子も絶対必要です。そこには言葉も必要ありません。父親は自分の息子、娘に村して、「わたしは絶対愛した」とは言いません。それをだれかが邪魔して、横的な力で加減ができるものではありません。真の愛はそういうものです。 愛、生命、血統 真の生命体を中心として、男性、女性が愛によって結束する、そういうカップルは真の夫婦です。社会はそういう因縁によってつながります。兄弟圏の心情を横的に、社会的に拡大した第二の相対圏が真の社会であり、真の国であり、真の世界です。自分とつながらない者は、自分の愛の根底とつながりません。自分は宇宙の代表みたいになりたいでしょう? 私は宇宙を代表しています。真の愛の背後的因縁を中心として皆平等ですから、それを犯すような者は、処罰されるのです。 それゆえに、愛と生命と血統、これが自分です。血を持っているでしょう? 自分が生命を持っているでしょう? また、愛も持っているでしょう? 男性ばかりだったら、愛も何も分かりません。女性が愛を感じるときは、体が分かるのです。生理体が震えます。それは不思議なものです。 血統は何によって結ばれますか? 生命によって。生命は何によって?(「愛」)。愛、生命、血統。それは一つです。愛は根元であり、生命は木の幹であり、私は枝と同じです。枝の中には幹もあれば、根もあります。 それゆえに、血統を汚す者は天宙憲法に引っかかります。自分の勝手にできません。女性はその血統を男性に援助してもらわなければ、次の血統圏を持つことができません。また、男性は女性に援助してもらわなければなりません。このようにして生命が組まれていくならば、愛と血統が真っすぐつながります。このように交差して結び合うのですが、その愛を中心として血統は垂直につながるのです。ゆえに、女性は離婚して、夫と別かれて家を出たとしても、子供は連れ出すことができません。子供は縦的に立つからです。女性は、横的です。横的なものは、東西南北、方向性を変えても存在します。 愛がなければ、男の生命、女の生命をかき混ぜて、そこに花を咲かせることができません。だから、「自分」というものは、男の命を女の命が激流し、巻き合う、その渦巻きの結晶、愛の結晶として植え込まれたものなのです。それは、男性がなしたのではありません。愛するとき、男性も女性も皆こうするでしょう?(しぐさで示される)。皆頭が回るでしょう。その渦巻きの真っただ中に生命が生まれるのです。男性の要素と女性の要素がともに融合、一体圏を結束する真っただ中に、自分が定着して生命が生まれてきます。 自分というもの それゆえに、自分というものは、ご父母様の愛に同参したものであり、参席者です。その価値は、お母様よりも子供のほうがもっと価値があります。それは、お父様の血を買ってきたものだからです。また、お父様より偉いものです。それは、お母様の血を買ってきたものだからです。男性一人、女性一人では、それはできません。だから、男性も女性も、お父さん、お母さんも、子供を崇拝しなさい。 愛に絶対的に服従して消えて行ったとしても、それは消えてなくなるのではありません。永遠の存在圏をなすのです。それは重要です。自分というものは父母の愛の結実体です。愛を中心として同参、参席した同参者であり、その結実体です。 だから、自分はお父様の実であり、お母様の実です。愛による新しい実として生まれたものです。私がお父さんを尊び、お母さんを尊ぶならば、それ以上に自分を尊ばなくてはなりません。ゆえに、自分を犯す者は、憤慨して、排斥されますが、それを防備しようとする者は、保護作用を受けるのです。それは悪いことではありません。 だから、自分、親、神様をいつでも引っ張っていく愛の連携を、「真の愛」と言います。神を否定できません。父母を否定できません。自分を否定できません。それに順応していく道をたどって行くのが愛の道なのです。個人が家庭に、家庭が氏族に、氏族が民族に、民族が国家に、国家は世界に、世界は宇宙に、宇宙は神様に、神様の愛の栄光の実体までつながるのです。 真の愛を背後に抱えなければ何事も進められません。家庭を真の愛で愛したという証拠を得なければ、社会を愛することができません。社会を愛したという証拠がなければ国を愛することができません。 だから、会社においても、自分勝手に物をなくしたり、粗末に扱ってはいけないのです。その物が、「ああ、嫌だ、嫌だ」と言ってデモをします。しかし愛すれば歓迎されます。そのような生き方をする人の背後には、国と社会と家庭が慕って行くし、男女ともに、子供たち全部がそれに伴ってついて行こうとします。 円満な夫婦生活 皆さんは、なぜ先生の後について行きますか? お金で先生が買収しましたか? 暴力で押し付けて命令しましたか? 真の愛ゆえです。真の愛を持つ人は、社会が抱擁するし、宇宙が抱擁します。それを主流にして生きなきい。 主流がなければ、世界的な価値をつなぐことができません。ともに生きる道ですから、真の愛が存在するところには、すべてが同位の存在権を得る。価値観を得るのです。縦的神様と、ご父母様と、自分を一体化させて、永遠にそれを一つにさせる、そういう内容を持つ基台を、縦的、横的に、世界的につなげていく道が、真の愛の道です。自分の生命もその根底で休みたいし、自分の一生の平和もその基台の上を残したいし、すべてが、その基台の上に願うものです。 あなたの目玉はどうですか? あなたの目玉はあなたの目玉ですか? お母様の目玉ですか、だれがこのように作ったのですか? 目玉も、生理作用、愛の力の作用によって生きるのです。だから、目も、真の愛の目で見れば、永遠に見ても疲れません。 夫婦ともの生活もそうでしょう? 毎日旦那さんと会ったときには、腰を触りながら喜びます。旦那さんの手が永遠に触ってくれなければ、腰が泣くというのです。昼夜旦那さんの真の愛の手が触った場合には、いつでも百パーセント歓迎体制をつくります。だから、自分の愛する相対者と十二時間キスしてもいいというのです。三百六十五日、ご飯を食べないでキスしながら死んでいったとしてもいいではありませんか。(笑い)それは不幸な夫婦ではありませんよ。 一番秘密に保管したい所を、夫婦同士では一番露骨に現したい、旦那さんの手で永遠に触ってもらいたい。そうではありませんか? 少女時代に男性が来て、そこに触れたとすれば大変です。しかし、結婚して触ってもらえれば、それは理想的です。愛するときも生きるときも、それが幸福の的です。ともに行動したい。男女間係はそのようにして一つになるし、生理作用も愛によってまとまるのです。女性は、夫婦間係の愛の生活、生理的関係の生活が円満でなければなりません。それがどこかよじれ、問題が起こるとヒステリックになります。 先生は、女性の笑い方を見れば、その夫婦生活はどうか、すぐ分かります。女性が笑う第一の標準、相村者は旦那さんです。旦那さんとともに笑う表情は、生活につながっています。だから、さっと見て、悲しそうな何かがあると、すぐ分かります。それは理論的です。笑い方を見れば分かります。愛によるいかなる笑いも、その声はハーモナイズし、どこに行っても調和するでしょう? しかし、自分の欲望に駆られた笑い方は、女の爪で顔をかくような思いがします。だから、愛というものは偉大なものです。 真の愛の道 ですから、国を超えての、韓国人女性、韓国人男性との愛はいかばかりの愛でしょう? それは関心の的です。真の愛を求めていくとき、日本的感情を持って見詰めるその目は愚かな目です。日本の着物を着たという考えでもって、日本的な愛の向き方をするのは、その旦那さんに対して大変失礼です。 あなたたち、韓国のしゅうとめとかに会うときはどうでしょうか? 言葉も通じないし、家庭においていかに大変でしょう。しかし、訪問伝道活動等を通じてあなたたちは韓国を愛しています。自分の子供よりも自分の娘(嫁)に上げるのがもっと素晴らしいのです。だから皆、今あなたたちを歓迎するようになっているということを先生は知っています。 ですから、言葉が通じなくても、「この女は日本人ではない」と言われるような境地にまでいかなければなりません。蕫﨟(擬声語、物が落ちる音)発音してみなさい。発音をしたとき、「あれは、日本人の婿だった」と思われるようではだめです。 だから、そういうことを思う前に、愛に染められて、愛の感動によって、すべてを忘れるような環境をいかに求めるかということが、今からのあなたたちの生涯の宿題です。それは偉大なことです。 あなたたちは二つの国を超えて愛を実践する者です。だから、誇るべきです。真の愛というものは、自分の血を生命化します。昼夜いつでも、そこに行かなければなりません。その道をたどって行くのが愛の道です。自分の父母も、自分自身も嫌う人はだれもいません。愛したいのす。袖様にも嫌いなものはありません。だから、元が願っていくところの、永遠に向き合う道をたどって行くのが真の愛の道です。 だから、縦的愛というものは縦的なお父様を象徴しているのです。良心は「縦的私」であり、肉身は「横的私」です。それが、私の生命と、私の血統と血によって結びついているのです。この良心と肉身、生命と血が、百パーセント向き合うところが真の愛の道です。 それで、結婚した夫婦は「本当に、良心から私を愛しますか?」と聞くのです。良心と肉身と別個に、「私を愛してください」と言う人は、男性であれ、女性であれ世界中にだれ一人いません。心は神を象徴しているがゆえに、神の愛と神の存在と神の血がつながっているのです。体は、 父母様の愛と、ご父母様の血と生命とつながっています。心身ともに、永遠に、これが一つになるのです。自分の愛と生活のすべての力を注ぐ所、それらが向き合うその場所に真の愛がつながります。 今までは、宗教生活の一番の秘訣は何かというその規定も分かりませんでした。良心と肉身を九〇度に一体化させるのが宗教生活の理想です。そのように理想的な生活をして何するのかというのです。お父様はおじい様の愛の道を立たせたし、私はお父様の愛の道を立たせてあげるのです。孫もこのようにして立たせていく、つまり自分によって立たせておいた愛の道を先祖から子孫にまでつなぐのです。 同居権、同参権 文字を書くにしても、愛する人がくれたペンシルとか万年筆は貴重な物です。心身を一体化させれば、血が激動しながら文字を書くようになります。それは素晴らしいことです。そこには、天のお父様も、現実の肉体を持つ横的父母も参席しています。見詰めているのです。今ともに同参しています。 ゆえに、愛の属性は同居権、参席権、同参権です。真の愛によって永遠に同じく居たい。真の愛を中心としてどこでもともに参席したい、結びたい。それから、真の愛を持つと、「私のすべての物はあなたのものであり、あなたのすべての物は私のものです」と言うように、自分のものを相対者に任せたいと思うようになるのです。それはお父さんのものでもなければ、お母さんのものでもありません。共有のものであるけれども、それは公的なものだから、公的な愛の主人である後孫に譲ってあげるのです。 ゆえに、代表的なものは自分の子供です。お母さんの代理であり、神様の代理であり、旦那さんの代理として愛してもらいたい、それが子供の願うところです。それが、創造理想の核心であり、主流の自然な位置です。母親を待ち焦がれた子供の目は、大きくなったら旦那さんを待ち焦がれるようになります。そのようにして二つ(夫婦)になった場合には、夫婦の目としては、将来自分の子供を待ち焦がれるような目になります。 真の愛とは何か? 根底がどうなっていますか? 真の愛の道はどのように行くか? 神様を認定し、ご父母様を認定し、自分を認定し、自分の相対者と自分の子供まで認定しなければなりません。全部がそこに服従します。全部がそこに従います。そこには議論がありません。それを代表としてつなぐ道に、真の愛は連結されます。 だから、自分の旦那さんを愛するように、自分の奥さんを愛するように、そして父母が自分の子供を愛するように人類を愛しなさい。神様のために愛しなさい。それが、真の愛の道です。動機がそうであれば、結果は世界的に通じます。宇宙が歓迎します。それを否認し、否定する何者もありません。そのような基準が立った場合には、すべてが相対に立って関係を持とうとします。電気の周波が出るのと同様な周波が出ます。その周波に感動するものは、同じ原動力で相対してきても、どこでもそれを拡大して作用するのです。偉大なものです。 ゆえに「真の愛」と言う場合、神様と父母、愛に結ぶ自分と、将来自分の血統につながる夫婦ともの家庭までつながります。それは一つのものです。 だから、子供を愛する親は、お母さんもお父さんも、どこかへ行って遅く帰って来た場合には、夜通しで見詰めても疲れません。先に疲れる者は相対者であり、疲れない者は主体者です。父母の話を聞きなさい。父母が主体の愛のもとで訓示するその愛は、正しい道を告げてくれます。真剣な者が主体になります。会社の後継者はどういう人かといえば、社長よりも熱心に会社を守り、昼夜休まず出勤し、努力する人です。そのような人は、全体の関係性の中で中心的に移動していくのです。 宇宙の根本 父母に会いたいでしょう? ここに来ても、お父さん、お母さんを忘れられないでしょう? 父母に愛されている兄弟は忘れられません。自分を犠牲にしても、自分の妹や弟を成功させたい、自分よりもりっぱにしたい。自分の家庭を犠牲にしても国をりっぱにしたい。それが、本心の願う基準です。国がそのようになれば、私は家庭を超えて、氏族を超えて、国とともに栄えていく。国家に対して、出世をしたいという思いがするでしょう? しかし、愛を持たない者はそれができません。欲心をもった者は、いかに高く上がったとしても下がっていきます。愛の本質に全面的に従う者は愛とともに栄えるのです。それが万象の真理です。 「真の愛」と言う場合には、神様、ご父母様、絶対的な愛を持つ私、私の血統、生命、それ自体です。私は、愛を中心としてお母様を代表し、お父様を代表し、神を代表します。だから、神様は私を否定でさません。私が呼び掛けた場合には答えざるをえません。私を追いかけて来て離れられません。そういう主体なる私には、愛があり、生命があり、血があります。愛を押しつけてきて、再創造の力をつなぐ血を持っています。 子供たちは何によって生まれますか? 血によってつながりますか? 生命によってつながりますか? 血です。女性のタイム(生理)には血が集まったり、減ったりするでしょう? これが生命の元です。だから、人間は血を見た場合には深刻になるというのです。皆さんは血を見るとショックでしょう? その血の中には生命がつながっているし、愛がつながっています。 それゆえに、愛国運動は血を激動させる運動によって成立します。宇宙の根底は、愛、血、生命です。それらが私に結実しています。だから、私は愛の中心を持つ生命の保護体です。それから血によって歴史性、伝統性をつないでいるのです。この三つともに必要です。皆さんもこの三つを皆持っているでしょう? この三つのものが一つに合併することによって、新しい人が生まれます。これが宇宙の根本です。神様自体に愛があり、生命があり、血があったからです。 霊界での生活を規定するもの 皆さん、霊界に行けば次元が違うだけで、現実とそっくり同じ世界です。この地上世界は横的に作用する世界であり、霊界は縦的に作用する世界ですが、その内容は同じです。さらに、私の意識に現れたことがそのまま実現する世界です。 「一和の工場で大会をしよう。二千人以上準備!」と言えば、直ちに展開します。「そこに参席するお客様は銀色の着物を着て参席しなさい」と言えば、すぐにそうなります。千万人の宴会も一瞬のうちに準備されます。うそのような世界です。会いたい人には、さっと呼び掛ければどこでも会えます。そう考えてみた場合には、いくら自由であっても、愛の相対者を差し置いてそこに参席したいでしょうか? 今までは霊界が分かりませんでした。しかし、先生が地上で教えることによって、それが分かるようになり、霊界には大革命の基盤が拡大されてきました。宴会も、相対者をともに連れて行くような時代に変化し発展していきます。 今までは、向こうに行っても兄弟のような人ばかりで、結婚した人はいません。元の世界では、真の父母がまだ愛の道を立てていないときに、子供のような者たちが愛の道を行くのは許されません。男女働いても、聖霊という感覚が感じられません。成熟していない男、女ともにいても何も知らないでしょう。先生からみたら面白くありません。 今からの地上世界でこのような理想相対を組んで、霊界へ移動する準備をするのです。我々を中心として皆霊界へともに連れて行って、何千年の先祖たちをあなたに、相対理想を先生の命令によって、氏家の分派圏を中心として代表的長を立たせて組ませてやろうとするのです。そのような再編成がなされるのです。 何を中心としてなすかというと愛を中心としてなします。いかに真の愛を実践するか。実体を通じての生活において、生涯に残してきたその基台の大きさに比例して、霊界での活動、位置、権限が決定されるのです。 だから不平を言うことができません。不平を言えば口が命令します。「私の口は正義と愛の目的のために使うのであって、不平を言うために動くようにできていません」。それで体が動かなくなって、他の所へ追い出されます。そのような恐ろしい世界が未来に待っているということを知らなければなりません。 先生からの最高の土産物 ”韓国に来た”という思いを早く忘れなければなりません。そして、言葉が通じ合わなければ道がありません。日本の言葉を語っていては、そのような思いを抜き取ることができないのです。分かりましたか? 今年の「万物の日」の世界会議で決定したことであり、数年前から言ってきたことですが、来年(一九九〇年)以後、先生は通訳を使わないと発表しました。 先生は最近、毎朝起きるとすぐ、健康のために少し横になって半分寝ながらあんまをしてもらっています。そうしながら、六〇年代の説教集の内容をずーっと聴いていますが、それは実に感動的です。どんなに素晴らしいことを言っているかが分かるのです。重要なことは、そのころすでに皆教えています。 ゆえに、統一教会のメンバーは先生に対して一言の不平も言えません。真心を尽くして教えた内容は感動的です。先生自体が、六〇年代に語ったその歴史的内容に感動します。それが余りにも事実だから、永遠に問題になるのです。それがうそだったら、それでおしまいです。それが事実だった場合には、常に天地が共鳴します。 これは、地上の堕落世界において、人生の根本問題を、深い次元から苦悶し続け、悲哀の生涯を残したすべての民族のためのものです。歴史的に考えても、現世の状況を解決する立場から考えてみても、無限の価値ある真理の内容を、迫害され、背信されながらも、今まで何千回も授けてやろうとして続けてこられた神の愛は、偉大なものです。普通一般の人であれば、こんなに貴いものをあげるのに、一声「君、永遠にやめなさい」と反対されれば、やめてしまうでしょう。しかし、それでも永遠に続けてやる。年がたつにつれて疲れるはずなのに、それも忘れてやりたい、教えたいという思いがそこに潜んでいるのをみるとき、愛の力は偉大なものだと感嘆するのです。 その内容をつづった本を、先生が地上を去るときの最高の土産物として残していこうとするのです。それは、天宙を売り払っても買うことができない土産です。先生を真の父母と考えた場合には、君たちが真の子供であるとすれば、その土産によって血統的に一つになるのです。血統的に一つになった場合には、生活はもちろん、環境は皆治められます。子は、親のすべての愛の代理者であるがゆえに、親の言葉と文化と生活様式を相続するのが、伝統的な道です。 それもしないで行った場合には、霊界に行って大変なことになります。あなたたちの先祖たちが讒訴します。先生と同時代に生さていて、あれほどまでに、再三にわたって、「韓国語を勉強しなさい」と言い聴かせられながらも、日本語を使って生きてきたとすれば、あなたたちの先祖が、「一家を辱めてきたその心を知らないのか!」と訴えるのです。先祖が真の父母に対して、あなたを仲間にして付き合うことも、紹介することも、つなぐこともできないではありませんか。 あなたたちは言語を学ぶことによって、原理憲法を知るのです。その原理の説教集は、日本語でもなければ英語でもありません。韓国語です。韓国語はだれの使った言葉かといえば、真ごの父母様の言葉です。真の父母からすべてが始まるべきです。それにつながる文化圏に立つ後孫の生活圏を立たせるためには、同じ文字、同じ言葉を使わなければなりません。それが伝統的な道です。そうしなければ霊界で引っ掛かります。 言葉の革命 こういう決定をしたために、もしも各国の代表者が韓国語を知らなければ大変です。韓国語を知らない者は後輩になります。だから、日本にいる僑胞が中間に立たなければなりません。そのようにしてでも言葉の革命をしなければ大変です。だれかがしなければなりません。 堕落によって、うち建てられたバベルの塔はサタンの理想を拡大し、その権威を誇る基準となったのです。そのようにして言語が分裂していったとすれば、統一圏の天的時代を迎えて、言葉を統一しなかった場合には、サタンに負けたことになります。 日本語で先生の説教集を読んだとしても味がしません。日本人と韓国人の性分は全く異なります。心情的、信仰的基準においては絶対に及びません。その形容詞は、詳細な分析的内容を表現することのできる、世界的な言語です。だから韓国人の発音というものは世界的です。言葉が優秀です。韓国人はなぜ頭が良いかといえば、それは言葉自体が分析的内容を表現し、立体的分析をなすことができるからです。 言葉、言語形態から見ても韓国語で発音できない音声がありません。それで、韓国人が日本語を学ぶと、日本語を一〇〇パーセント解読できます。聞いて分かるのです。しかし、あなたたちが韓国語を勉強しても、三〇パーセントくらいしか解読できません。また、日本人がいくら一所懸命英語を学んでも、二〇パーセントくらいしか通じません。でも、韓国人はそうではありません。 それゆえに、日本人が本当に世界に通ずる万国語を解読するには、まずもって韓国語を習った後にできるのです。神様が、未来の世界を統一する民族として選定されるために賜物として授けられたその言葉が、日本民族によって無視されたというのです。その言語をサタンが破壊しようとしたのが分かったために、復帰時代において、再び神の方に取り戻さなくてはならないのです。それゆえに、エバ国家は皆韓国語を習わなければなりません。女性は、旦那さんの家にお嫁に行った場合には、そこで使われている方言であっても、すべてそれを伝統的祖国語、母国語として習わなければなりません。そうではありませんか? 真の子女としての責任 皆さんが先生の説教集を読んでいかなければ、霊界に行っても先生に出会うことができません。地上で先生がなしてきたこと、その内容すべてが先生の説教集に入っているのです。説教集を解読して、何回か読まなくてはなりません。それを読まなければ、先生の蕩滅復帰時代を発見することができません。 イエス様について語られた内容には、とても深いものがあります。それを既成教会の牧師が読んだとすれば、口をそろえて、「文先生は異端だ」と言うことができないような内容になっています。今まで反対してきた者たちが、二千年の歴史を通じて築いてきたすべての内容が崩壊するような、恐るべき事態になりつつあるというのです。 韓国にお嫁に来たり、婿入りした者は、どうせ習わざるをえないでしょう。しかし、そのために習うのではありません。九十年代に入れば、一和の工場にも、言葉を語れない者は入れないかもしれません。来年の正月からは、韓国語を知らない日本の女性は皆、イーストガーデンから帰るのです。先生の前で挨拶したり、祈ったりするのに日本語では通じません。先生はそれを発表したために、霊界はそういう日を中心に方向を固めています。だから地上はそれをなさなければなりません。分かりましたか? だから、来年になるまでに、六か月以内に習っておきなさい。今から六か月たっても語れない旦那さんや奥さんは日本に追い帰すかもしれません。「今から六か月以内に韓国語を解読できない者は日本に帰りなさい」と言えば、日本に帰りますか、帰りませんか?(「帰りません」)。先生が命令するのに? そんな親孝行息子がどこにいますか。(笑い) 本一冊ですべてが解決するのに、数千冊の訳本を必要とするなら、その材料や原料の消耗にだれが責任を持ちますか。宇宙が讒訴します。考えてみなきい。世界中どこに行っても、普遍的な生活の境地を味わわなければ地上天国にはなりません。初めて出会った人でも、自分の兄弟と出会ったように、どこでも自由自在に話し掛けることのできる、そのような言葉の革命をだれが決定しますか。だれもできません。 真の親たるべき者が間違った道を行くことによってそうなったのです。牛の吠える声は二つですか? 羊の声は二つですか? 一つではありませんか? 人間だけがめちゃくちゃです。ばらばらなものを逆にして、一方向的な決定運動をしなければなりません。分かりましたか?(「イエー!」)言葉も通じない大学でもって真の父母の世界圏に立つ者は、目玉が恥ずかしい、顔が恥ずかしい、一身が恥ずかしい。その体でもって真の父母によって教えられた真の愛を受けたのですか? とんでもないことです。 言語統一、心情統一、血統統一 言語統一。それが一番難しい学問です。言語を統一し、心情、愛の世界を統一し、血統を統一する。この三つでおしまいです。 一つは言葉、言語です。それから?(「心情」)。心情。それから?(「愛」)。血統。「私の誓い」の五番目は?(「我々は、神を中心とした一つの主権を誇り、一つの国土を誇り、一つの民を誇り、一つの言語と文化を誇り…」。それほど重要なものです。それから?(「血族」)。血族。それから? 新世界。だから、心情の世界を作る。そこには皆入っている。真の父母の血統によって植えつけたものを収穫しなければなりません。それは、お金によって得られるものではありません。何千万人の犠牲によってもらえるものではありません。 その道を求めて、多くの宗教界においては殉教の血の祭壇を築きながら、歴史がつづられてきたのです。そのようにして自分の前に賜物として授けられたその血統を中心として、世界を一つにしなければなりません。地上天国。それはつながっているのです。言語統一、それから心情統一、それから血統統一。それ以外の道を求める者は統一勇士ではありません。だから、先生の生涯の道は一つのことです。先生の前には国境がありません。サタン世界の文化の影も認めません。因習にとらわれたりしません。皆、崩して造り変えなければなりません。 あなたたちの親は、文先生に反対するでしょう? 親が子供を拉致するような、歴史にないことが統一教会内に起こったのは、サタンの伝統と根本的に異なるからです。自分を生んでくれたその親元を出て、天地ともに真の、理想的な親を求めて泣き続けてきたのが人類歴史であるということを知らなければなりません。そのような代表的な勝利者として、真の父母につながったその誇りを、何と取り替えることができましょうか? いかばかり自分が喜んで、感謝の涙をどれくらい流しましたか? 心身とも、細胞全部がその感謝に打たれて、意識を超越して、奉仕の生涯残しても余りある感謝の思いを持ってきましたか? 真剣なものです。 あなたたちは「文先生」、「真のお父様」と呼ぶでしょう。その名前につながる先生の外的表情は、今という時間圏内に収まるものですが、世に立つべき先生の、その背後というものは、時空を超越しているのです。それを知らなければなりません。 時間内の基準において尊敬すべきお父様ではありません。それは、時空を超えて、歴史を超越して永遠にたたえるべき名前です。その土産をあなたたちが受けたからには、自分の後世万代につなげる土産として残して、飾りを付けなければなりません。そこに、花を飾るように心情的に飾りを付けるのです。これを基盤として、一族の伝統的家系をつくるのです。そこに、先生のみ言とともにいかなる飾りを、芸術の価値を、刺繍を置くようにプラスさせたいか。それが、私たちの生涯をかけて追求する目標なのです。 文化の伝統はそこにあります。それで、先生はきょうも、六七年に語った十七冊分のみ言をカセットテープに入れました。韓国の家庭に皆分けてあげて、毎日毎日、時間があればそれを聴くのです。 先生が祈る祈祷の内容は、実に感動的です。それを、原稿によってしか知らない人たちは実に不幸です。先生自体、今になって第三者の立場でそれを聴くとき、それが先生の祈りとは思われないのです。その叫びの声が、二十四年の歴史を超えて、今の現実に勝利した先生自体を感動させます。いかなる人も、万民が感動しうる価値がここに横たわっています。それは、金で買うことができないし、国を売っても買うことができないし、世界を授けても取り替えることができないもの、だれもが貴ぶことのできる唯一の宝物だというのです。 涙の祈祷で解かれた天宙の公式 その言葉、その内容を探るのに、先生はどれほど苦労したか。参考書もなければ、勉強した所もなければ、何もなかったのです。単位も、公式もなかったのです。その膨大な内容を解明した後に、単位も公式も皆先生が造ったのです。そして、その全体を実験して、間違いない基準に立ってから責任を持って発表した内容なのです。 したがって、それは霊界が公認し、地上の万民が公認しなければならない内容であり、万民の後孫も、絶対に相続すべき内容だというのです。それから外れた場合には、希望というものがなくなるような世界になることでしょう。その内容を解明し、今までずーっと現実を蕩減して、世界的歴史の人間とともに携わって結論づけてきたその愛というものは貴いものです。歴史を知らないことは不幸です。根本を、統一思想で言えば本体論をはっきり知らなければなりません。 それを探るための先生の背後の歴史はいかばかりか。何千回、何万回、どれほど涙を流したことか。涙を流す生活をするために外に出ることができなかったのです。毎日七時間から十七時間も涙を流しながら祈り続けました。涙の祈祷の後には、水をかけたような涙の跡が毎日残っている。先生のその涙が、あなたたちを讒訴するときが来ます。聞くのに真剣になり、解決するのにいかばかり真剣だったでしょう。 それを無視して、いいかげんに片付けて迎えた者には、「近寄るな。理想世界の背反者よ、消えてしまえ!」と、先生は何も言わなくても、宇宙万象が叫びかけます。霊界に行ってそうなります。「どれくらい先生に侍ってきましたか?」と聞かれるのです。 「真の親」という言葉に伴う心情は、自分を通して植えた場合には、真の子供が生まれてくるのかというのです。それが問題です。あなたたちが先生のように慕って慕って行くのと同じように、あなたたちによって植えつけられたそのものが、命懸けで奉仕しうるような子供であり、同じような結実となるか? 一回転ができなかった場合には、戻って行く道です。戻って行かなければ使い物にならず、放棄してしまうしかありません。あなたたち、入って行くときよりも縮まってくるでしょう? 統一原理を聴いた場合には、興奮して自分の感覚を超越した気分に漂っていたでしょう。しかし、その時期を過ぎてみると、昔のように、自分なりに考え、憂うつな顔で、みっともない格好をして統一教会を疑ったり何かして、いろいろなことをしてきたでしょう。もしも先生がそのように振る舞った場合、今まで神が耐えてきたと思いますか?神様は最も神経質なおかたです。 価値ある世界を目指して ときたま、先生は疲れ切ってしまうことがあります。み旨のために、人間の力、体力の限界をどこまで超えてやれるかということを神様もよくご存じです。しかし、それを超えて超えて、超え切れない境界を超えていくのです。そして着物を脱がずにそのまま寝た場合には、神様が先生の体をずーっと抱擁してくださるのです。 そのとき、手が光ります。神よ、感謝します! 自分の息子たる者が、限界を超えて神のために奉仕しょうとするその心情圏、その行動の実績をご覧になる神様は、その玉座を去って地上まで来られて、その子供を抱擁したい。そのような愛の主体者であることが分かるのです。 まぶたを開けるとともに、自動的に涙があふれる境地、骨肉が融け合うような、宇宙の真ん中に自分自体が神とともに立つような境地に運ばれるときの幸福感を、何に例えることができるでしょうか。そういう価値ある世界に向けて歩んでいるということを知らなければなりません。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.11
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「韓国は人類の祖国」1989年6月18日韓国・ソウル本部教会にて 先生のたどってきた道 この中で外国の食口は手を挙げてみなさい。日本の食口、ヨーロッパの食口は手を挙げてみなさい。その間みんな元気でしたか?(はい)。このように韓国に帰ってくると、また私は韓国の人になった気持ちがします。私は韓国の人でしょうか、他の国の人でしょうか?(韓国の人です)。言葉は韓国語を使い、姿形はアジア人で、行動は西洋人のような行動をしてきましたが、根本は韓国人なのですね。しかし先生の今日までのすべての行動は、韓国人の人とは異なり、アジアの人とも異なり、今世界に住んでいるすべての人々とも異なっているのです。そのために問題の人物とされながら、人類の歴史をつづってきた一人の代表者なのです。このように韓国の人や世界の人々と同じでないために問題になるのです。韓国の人として韓国で共に住めば何の問題もないのです。アジアの人として、アジアの伝統的文化背景を中心として、環境的国家体制圏内に順応していけば何も言わないのです。またアメリカや、ヨーロッパや、世界中のどの国に行っても、その環境的体制に歩調を合わせれば何の問題もないのです。ところが、特別に韓国が私を問題視し、アジアの中の日本や中国、またアメリカやヨーロッパ、さらにはアフリカのような第三世界までもが問題にしているのです。 レバレンド・ムーンに対して、自分たちの文化背景、すなわち六大州の各国が誇るその背景圏内において融和しなければならないのです。もしそれが除去される時には、すべてに問題となるのです。このように見た時、六大州を中心としたこの地球上には数多くの民族が多くの国家を成していますが、その国家から「自分たちとは異なっている」と言われ、歓迎を受けなかった歴史的な代表者がレバレンド・ムーンなのです。分かりますか?(はい)。 ここに来た皆さんたちは若い人が大半ですが、その背後を考えてみた時、そこには父母たちがおり、おじいさんやおばあさんがおり、そのような親戚を拡大していけば六〇〇〇万の南北の白衣の民族となるのです。北韓の金日成は今、全面的にレバレンド・ムーンを除去するための運動をしています。今日まで中国やソ連もそうでした。しかし今からはレバレンド・ムーンを歓迎する段階へ越えて行かねばなりません。アメリカも私を嫌って監獄に入れましたが、今やアメリカは私の後についてこなければならない環境に置かれているのです。また韓国もそうです。すべてに自分たちが最も偉くて、文なにがしは世の中の最も悪い人種の代表であり、歴史を代表して反対しなければならない怪獣の旗手であると言っているのです。最近も既成教会が反対しているようですが、本当に反対するのならば、この統一教会の根っ子を取ってしまわなければなりません。彼らは反対すればするほど、どんどん後退するのです。そのような反対を何のためにやるのでしょうか。反対して後退し、また反対して後退し、どんどん後退していくのです。 アメリカのキリスト教がいかに連合して反対してきても、私を除去することはできませんでした。またそのような内容もありませんでした。キリスト教の文化背景を中心として、アメリカが私を除去しようとしましたが、私に屈伏したのです。アメリカのキリスト教文化圏のすべてが、レバレンド・ムーンの思想に手を挙げたのです。さらに思想的世界においては、民主主義と共産主義の思想体系を総合して私に攻撃してきましたが、それも今や全面的に吸収される段階に入ってきました。皆さん、共産主義の世界を見てみなさい。私が「一九七三年になれば限界線が来る」と話したとおりです。 第二次世界大戦以後四十三年たてば、韓国の時が来ます。しかし四十三年を越えても世界に向かって整えることができなければ、韓国は混乱状態になり、家を持っていたとしても誇ることができず、国を持っていたとしてもその国を誇ることができない、混乱状態に陥っていくのです。それで今や世界中の情報は、レバレンド・ムーンが韓国で何を話しているかということに焦点を合わせているのです。共産世界も民主世界もそうです。 アメリカも要人を送って、先生が政治的発言をしていないかどうか注目しているのです。政治的発言はさておいても、レバレンド・ムーンがどのような内容の話をしているのか知っていますか。レバレンド・ムーンの宗教的話の深さを知っていますか。 母の体内にいる子供は、父母の言葉を聞きたくても聞くことができず、見たくても見ることができないのです。それはまだ人としての立場に立っていないからです。このようにいうと失礼かもしれませんが仕方がありません。そのようになっているからです。ここに初めて来た人は、文総裁は非常に独裁的な宣布をすると思うかもしれませんが、独裁者といえば先生ほどの独裁者はいないでしょう。今や世界中の青年たちは、東西南北で誰の言うことも聞かず、いかなる宗教的背景も信仰的な面も皆かなぐり捨てて、自分勝手に生きて、自分勝手に結婚しようとしているのです。そのような人たちであっても、「このようにしなければならない!」と言って恐喝、脅迫してはなりません。そのようになれば、すべてが滅びるのです。しかし、そのような人も自分の一生を思ってみた時に、この文先生に生涯を投入しても決して損にはなりません。皆さんは三六〇度のいかなる環境に置いても、損にはならないということを知っているために、先生が何かやりなさいと言えば、そのごとくにやるというのです。また、やってはいけないと言えば、けしてやらないのです。それでもし私が、「ソウル中のトイレを清掃しなさい」と言えば、彼らはすべての家のトイレを訪ねていくことでしょう。 そのようなことは、国の王様の命令でもすることはできません。大統領の名前でもすることができません。その国に偉大な学者や宗教指導者がいたとしても、そういうことができるでしょうか?(できません)。このレバレンド・ムーンには何か特別なものがあるのかもしれませんが、「これをやらなければならない」と言えば、「そうです」と言って皆が従ってくるのです。強制ではありません。「やりたかったらやるし、やりたくなかったらやらなくていい」と私は言うのです。皆すべてを知っているのです。結果がどのようになるかということを知っているのです。このようになって橋を渡っていけば都市があり、都市にはよいビルがあり、ビルに入っていけばバンケットが始まるというのです。そのバンケットの貴賓席に座って、舞踏会に参加し、踊りを踊ることができるのです。豪華絢爛な装飾を整えて正装し、舞踏会で踊りを踊ることができるのです。それは地上世界のみがそうでなく、永遠の世界もそうなのです。このように夢があるのです。 ですから、このように回り回って、部落で問題になり、村で問題になり、郡で問題になり、道で問題になり、その次は国で問題になるのです。「彼を追い出せ!」と言われるような、その国での問題のチャンピオンとならなければなりません。その次は、世界で問題にならなければなりません。世界中から「あの人は駄目だ!」と言わなければなりません。それが先生のきた道です。そして勝利したのです。ですから先生に対しては、たとえボクシング選手で、いくら連戦連勝のチャンピオンのネームバリューを持っていたとしても、一度ノックダウンされれば、その日からは反対に勝者に仕えなければなりません。(はい)。たとえ仕えなくても、知って侍らなければなりません。それと同じことです。 最後まで耐え忍ぶ人は救われる 世界でも小さなこの大韓民国は誰も知りません。まして盧泰愚大統領を世界で誰が知ってくれますか。世界で盧泰愚大統領を知らない人はいますが、この文総裁は世界的基盤を持って、よく知られているのです。そして二十四時間話をし続けても終わることのできない話をすることもできます。一度やってみましょうか? 皆さんは謝礼をどれくらい出しますか、入場料をどれくらい出しますか。(笑い)一億ウォンではあまりに少なすぎます。いくらずつ出すつもりですか?(持っているものを全部出します)。さあ、いくらずつ出しますか?(笑い)。それは皆さんが何のチケットを持ってきたかということです。何のチケットを持ってきましたか? 何の特権を持ってきましたか。 統一教会の皆さんは先生を知っていますか?(はい)。では、先生の何を知っているというのですか。この顔を見たからですか。写真で見た顔は先生の代用品です。これが実体です。写真の実体がこのレバレンド・ムーンです。さあ、先生を本当に知っていますか?(はい)。神様も先生を知らないのにですか?(笑い)先生も自分を知らないのです。統一教会に三十年もいれば、霊的に高まって多少は知っているかもしれませんね。ですから、先生がいつ帰るかということを皆知っていて、通知も電話もしないのに飛行場に迎えに来ている人たちが多くいます。そういうことはこの社会では理解できないことです。次元が異なるのです。地平線以下にいる人にはいくらやっても分からないことです。そういうことを見ても偉大な統一教会なのです。 そのように偉大な統一教会なのですが、皆さんはどうですか? 統一教会と言えば、その中心はいったい誰ですか?(真の父母様です)。世界が統一教会を知らなくても、レバレンド・ムーンのことは知っているのです。私は教祖ですか。逆に言えばカトリックで主教でないでしょうか。(笑い)主教と教祖は同じようですが、それは反対です。教祖は正常です。ですから、主教たちが来て侍らなければならないのです。統一教会に来て僕になれというのではありません。侍ることが原則なのです。先生は、再臨主というためにどれほど迫害を受けたかしれません。死の恐怖をどれほど越えたかしれません。しかし、そういう話をしないようにしているのです。 今日ワシントンにおいて、世界を支配する高層ビルの頂上の安全椅子に座って、「この者たち! 世界は私の膝の下で治められるのだ。私の足の先で動かすのだ」と言って、誇っていた人々が先生の世話にならなければならなくなったのです。これは本当に不思議なことです。また、私が何かやるたびにホワイトハウスから国防省までが問題とするのですが、アメリカの国防省の問題においても、このレバレンド・ムーンが貢献したことが多いのです。このような話をすれば、韓国の国防部長官は私が、「よく嘘をつく」と言うことでしょう。これは国防部長官が知るはずのないことです。また参謀総長が知るはずのないことです。韓国の大統領が知るはずのないことです。千年後を計算するコンピューターの結論をいくら途中で掘り下げて顕微鏡で見ても結論は出せません。しかし、最後になれば分かるようになります。それで聖書に記されているように、最後まで耐え忍ぶ人は救われるというのです。 では、統一教会の群れは最後まで耐え忍ぶ群れですか?(はい)。今「はい」と言った人の夫を先生が奪っていってもいいですか。また、息子、娘を連れていっても構いませんか。それでも「はい」と答えますか?(はい)。それならば公開することはないでしょう。なぜこの話をするかといえば、この統一教会はどこにいくのか、また大韓民国はどこにいくのか、世界はどこにいくのか、世界的人物といわれるレバレンド・ムーンはどこにいくのか、神様はどこにいかれるのか、これが問題なのです。創造された立場から見れば、いかなる存在もそのような結論を必要としているのです。ですから生まれて見て、女性たちは「私はなぜ女として生まれたのか」と言うのですね。あなたは日本の女性ですか?(はい)。なぜここに一人で来ましたか? 韓国の言葉が分かりますか。(はい)。「私はなぜ日本の女性として生まれたのか、韓国の女性として生まれていたならば、先生の話を自由に聞くことができるのに、聞いても分からず、どれほど息苦しいことでしょう」と思っているのですね。 それでは、女性は自分が女性として生まれたのが不幸でしょうか、幸福でしょうか? 統一教会の信者たちに、「女性として生まれて不幸ですか、幸福ですか」と聞いてみると、どんな答えをするでしょうか。(神様を恨むようなことはしません)。皆さんは神様を見たのですか。(笑い)今日はこのような話をして一日を過ごしましょう。私は一生の間どれほどストレスが積もったことでしょうか。(笑い)そのストレスを晴らさなければならないのです。(笑い) それでは、統一教会の人たちは女性として生まれたことを幸福に考えますか?(幸福です)。もし女性として生まれなかったならば、統一教会に入ることはできなかったでしょう。女性として生まれたために、神様が必要とされて統一教会におくってくださったのです。もし男性として生まれていたならば、統一教会には入れなかったのです。ですから、女性として生まれたことは不幸ではなかったのですね。(笑い) こういう話がよく分かる統一教会の信者たちはIQ(知能指数)が高いというのです。ですから世界の人々は、統一教会の人を無視していては大変なことになるのです。私がアメリカにいた時、「アメリカはこのような大国なのに、アジアの小さな国から来てワシントンの重要都市を掻き回すのか!」と言って打ってきたのです。「お前は気が狂った男であって、精神がどうにかなった人間である。このアメリカがどういう国なのか知っているのか! 無知な韓国人よ。韓国は動乱の時から全部火の海となって何もないのに」と言ったのです。私は無知なのでしょうか。私はこんなに賢明なのですが。(笑い)このごろになってようやく、「偉大なレバレンド・ムーンが来られた」と言っているのです。こういう話をなぜするのかというと、先生に対してアメリカは反対していましたが、今や「行かないでください。あなたに行かれては生きていけません」と言っているからです。 真の愛によって和合される男性と女性 さあ、そうなった場合に私は素晴らしい男ですか、素晴らしくない男ですか。素晴らしい男の反対は何ですか。素晴らしくない男という言葉は私に合いません。もし私が今独身者であるならば、私に求婚しない女性は一人もいないでしょう。(笑い)この世でこういうことの言える男性はどこにいるでしょうか。そういう男性はどこにいますか。おばあさんと嫁、その嫁の娘、そのように三代を呼んでおいて、「おばあさん私を愛しますか。私が好きですか」と言えば、「愛して好きであるばかりでなく、死んでも死に切れません」と言うのです。(おばあさんの食口が「アーメン」と言う)。(笑い)現におばあさんがそう言っているのです。また嫁は、「このおばあさんは、私がしようとする話を代わりにしているのです」と言うのです。「おばあさんは思っているだけですが、私は行動します。統一教会に行って、文先生の後に従って歩いて何をするかというと、誰も一度も手も握ることはできず、キスも一度もできないのに、私は今や文総裁の手首をつかみ、キスもしてみようとします」と言うのです。それで、そのような女性の群れのために私は有名になり、悪口もたくさん言われたのです。(笑い) 女性は座る時に、スカートをこのようにして(先生がしぐさされる)膝を揃えて座らなければならないのに、統一教会の女性は気を抜いてこのように勝手に座っているのですね。それで女性の家で有名になり、悪口もたくさん言われました。このように女性のために先生は悪口を言われたのです。女性として生まれたことは幸福ですか、不幸ですか?(幸福です)。では男として生まれた者はどうですか。「ああ、この社会で生きていても、やることはないし、気に入ることはないし、息苦しくて男性として生まれたことが恨めしい」と、言いますか。ある父母と息子がいて、息子の外見は素晴らしいのに父母の外見は醜く、それで、その父母の外見を見て立派な息子が、「ああ、父母は私を生んで、このように苦労されたのか」と言うでしょうか。これが問題なのです。 男性として生まれた者は、私は過去の歴史を代表して誇ることができ、世界の男性の代表として、未来の後孫の男性に対しても誇ることができ、「神様がいれば、神様が私に似なければならない。私は神様に似たくはない」と言いたいのです。もしこのような男性がいたとしても、神様は「この者、神がお前に似なければならないのか、私がお前に似て喜ぶことができるものなら似たい者だ。一人でいるよりも喜べるならば」と言われるのです。「そのように喜ぶためには、何を中心として似なければならないか」と神様が尋ねれば、「私が好きな愛に神様も似なければなりません」と言うのです。その時、神様の答えは、「おお、この者はたいしたことを言う、そのとおりだ」と言われるのです。そこで、「神様も愛が好きであり、天下を取った私という男性の愛を中心として、歴史上のいかなる男性であっても私に似なければならない。私が標本である。私を中心として測定しなければならない。また世界中の人類を代表しても、私は愛の標準である。さらに、未来においても私が愛の基準とならなければなりません。神様もその愛に相対したいでしょうか」と、このように問うことができるのです。その時には、神様も「あなたに似なければならない」という言葉が正しいのです。なぜかというと神様も愛が必要であるからです。それは何の愛ですか?(真の愛です)。 小学生のころには、「愛」という文字を書く時、「人」と書くことが多いのです。「愛」という文字と「人」という文字は、似ているのです。韓国語ではそうなのです。英語の「マン」と「ラブ」は違うのですが、韓国語の「サーラン」と「サラン」は似ているのです。愛がいいですか、人がいいですか? 男性がいいですか、女性がいいですか? 男性であっても女性であっても、みんな愛が好きなのです。愛によれば男性が生まれても女性が生まれてもすべてが良いのです。愛には通じないことはありません。愛を中心として似た形態は、万国が歓迎し、万世が歓迎し、歴史が歓迎するのです。真の愛で和合された男性と女性が笑って写した写真は、世の中の傑作品の中の傑作品です。それ以上に価値のある写真はあり得ません。どうですか? 夫婦同士で移した傑作写真は、愛の花が咲いてその香を宇宙に発散させるほどに満足して、細胞までもが笑い出すのです。 そして、男性と女性が一つになって「ああ、離れてはいきることができない」と言う、愛の化身体となったカップルの写真が傑作賞を受けるのです。どうですか?(アーメン)。前にいてアーメンと言う人は口を慎みなさい。後ろにいる人に対して聞いたのです。前の女の人たちが朝から運勢の悪い声で「アーメン、アーメン」と言うのですね。愛の痕跡のない芸術はいくら美しく、いかに立派だと言っても価値がないのです。そのように日常生活を中心として見た時、愛の花の香りの中に浸って生きた男性的姿、女性的姿をもって、天地が和動する中において、葉なの中の花として二人が出会って和合した花の蕾のようなその姿は、宇宙博物館において最高の王者の立場に立つことのできる傑作品に違いありません。どうですか?(おばあさんの食口が「アーメン」と言う)。 文総裁の生涯は愛を中心とする歩み 皆さんは、先生の手がどうして黒人の手のようになったのだろう、と思っているかもしれません。私は黒人と共に生活してきたので黒人になったのです。それで黒人の手のようになったのです。真っ黒でしょう。黒人世界で生きてきたのです。外の人たちが休養している時に、この文総裁は海へ出ていって、海中のすべての魚類を調査したのです。これからは人類の食糧問題が重要であり、この食糧問題を解決するため、万国の基地を造らなければなりません。その養殖問題を中心とした教材を作ってあげようとして海に行って研究したのです。 あの中国などでは河が多いので飢え死にしないのです。アメリカは海岸地帯のフロリダやマイアミなどには高層ビルがあり、ニューヨークやワシントンではパーキングビルがあります。自動車の家です。そのような高層ビルに、これからはフィシュビルディングが生まれてきます。魚の養殖ビルです。ボタンだけ押せば二十階、三十階でも、なまずを育てることができる養殖ビルが建てられるのです。今やそういう構想を実践に移す時です。 アメリカにおいて生産される肉の中で、常に王座を占めている肉は何でしょうか。人間が最も好む肉はどのような肉なのか全部研究して、生産するには原価を少なくして、生産価格を操縦しなければなりません。そのために、私が教えてあげなければならないのです。私は海に出て行って魚釣りをすれば、常にチャンピオンなのです。この私が呼べば、日本のどんな社長も教授たちもやって来るようになっています。そのように有名な人々を皆呼んできて、全部研究させるのです。その人たちは肉をよく食べるし、つりの好きなフィシュマンが多いのです。釣人は一度や二度で底がついたら駄目です。無窮、無尽でなければなりません。どんな魚をどのように釣るかということを知っていなければなりません。 これからは水産観光の時代です。人間は文化生活をすればストレスが溜まります。ストレスが溜まればじーっとしていられないのです。中心がなくなるし、手と足だけが大きくなるのです。それで、そういうことをなくすために教育しなければなりません。何の話か分かりますか。これからの若い人は全部船に乗ることになります。女性たちも女船長です。そのために女性たちをアメリカで訓練しています。ツナは一〇〇〇ポンドのものもいます。アメリカの女性たちは、このようなツナを捕ると言えば家庭で大騒ぎするのです。今に統一教会のお嬢さんたちが半ズボン姿でツナ釣りをするようになれば、その様子を見て、魔女が生まれたと言うのです。それで、「そういう人たちを指導している文なにがしは妖邪な人だ」と、どれほど迫害を受けてきたか分かりません。文総裁はそのような面における戦いを経て、今日の基盤を造ってきたのです。すべて、戦って勝利して基盤を造ってきたのです。分かりましたか。 では文総裁の生涯と、世界の歴史上の人々を見たとき、世界の歴史は人々の欲心のゆえに流れていく、常識的人間たちの習慣性によって流れていく歴史でした。しかし文総裁の歴史は違うのです。最初から最後まで違うのです。世の中の歴史は何年かたてば違ってくるし、何十年もたてばすべてが異なってくるのです。そして最後には皆流れてしまうのです。しかし、文総裁は最初から最後まで変わりません。それは何を中心としてかと言うと、愛を中心としているからです。人類はこうなければならないという愛を中心としているのです。 歴史的に人間が歩んでいった道を、愛という課題をおいて見た時、いったい誰が合格するかといえば、文総裁だけが合格するのであって、皆落第なのです。現代の五十億人類が愛を中心として生きていくことにおいては、過去も文総裁の生き方が標準となり、現在も未来も文総裁の生き方を標準としなければなりません。それはなぜかというと、お金持ちだからでも、先生に権力があるからでもありません。ただ一つ愛を持って生きているからです。これからも一生そういうふうに生きていくのです。統一教会の人々は、そういう伝統を受け継いで、これからの歴史においてすべての人々がついてこざるを得ないような主流的な隊列を整える群れとならなければなりません。そのような愛の家に住み、愛の環境に満ちた国の民となっていくのです。それは世界でも同じであり、天と地でも変わらないというのが結論です。いくら文総裁の歴史が短くても、人間世界の数千年の歴史があっても、そういう愛を中心として生きたという歴史を代表した文先生の人生を除外することはできません。 霊界に行った人々も、「文先生の人生は私たちが願っていたことです」と言い、この地上の五〇億人類も、「私も文総裁の生き方についていきたいし、これからもそうすることが私たちの願いです」と言うのです。「歴史を代表して、人類歴史上に初めてそのような道を行く代表者が文総裁です」と言った時、過去の人々はノーメンと言いますか、アーメンと言いますか?(「アーメン」です)。五〇億人類はノーメンと言いますか、アーメンと言いますか?(「アーメン」です)。数千年後の我が後孫たちはその時になって、「文総裁の言葉は間違っていたか、正しかったか」と問題になった時、「ノー」と言うでしょうか、「イエス」と言うでしょうか?(「イエス」です)。ですからいくら豊かに生活する人であっても私には自慢できません。自分はアメリカの大統領であると言っても、アメリカの大統領はレバレンド・ムーンの協助を受けていることを天下は知っているのです。先生を知らない人々は「文総裁にどのような力があるのか」と言いますが、私にはある力があります。愛の頂上で根っ子まで引っ張るようになれば、それに引っ掛からない人はいないのです。 レバレンド・ムーンの愛の伝統 韓国も政治、経済界が問題です。ビジョンがないからです。野党とか労組の機嫌を伺おうとするからです。そうではなく、哲学を持たなければなりません。先生は七十を超えたのですが、それでも青年には負けません。そういう若さがあるというのです。お母様のほうが先生の世話になっているのであって、先生はお母様の世話にならないのです。(笑い)力から見ても、何から見てもそうだというのです。愛のある人にはおじいさんも喜ぶし、おばあさんも喜んでいます。朴勝☆氏も喜んでいますか?(はい)。彼があの李承晩博士時代に国会議員をやっていた時、文総裁に侍っていたらどうなったでしょうか?(彼は知りませんでした)。知らないとは何を知らなかったのですか。天下に噂が広まって五代長官が私を殺そうと謀略し、中傷して牢屋に入れた梨花女子大事件を知りませんでしたか? 今になって年を取って死ぬようになったので訪ねてきたのではないでしょうか。文総裁はいくら世の中で悪口を言われたとしても、前後の道を全部整えながら歩くのです。愚か者ではありません。ですから、国会議長も私を訪ねてきて相談しなければならないのです。今はそういう時代です。 今回、私にアメリカの大統領の就任式の招請状が来ました。個人としての招請状をもらった人は四人だけです。レバレンド・ムーンはその中の一人だったのです。(拍手)それで大統領就任式に参席しようと大騒ぎし、韓国の誰々が行くと言って誇っているのですが、先生は{私がなぜブッシュ大統領の就任式に行くべきなのか、彼のほうが私を訪ねてこなければならないのだ}と言って、行きませんでした。そういう招請を受けたならば、韓国の国会議員は五代新聞とか七大新聞に誇ったりして大騒ぎするのに、このレバレンド・ムーンは静かに漢南洞で過ごしていたのです。レバレンド・ムーンはそこに参席しなかったのです。そうすると特使を送ってきたのです。それは韓国の世界日報創刊記念晩餐会の三日前でした。それで「文総裁が韓国の世界日報を提唱したので、あなたはブッシュ大統領の特使として賛美する立場である、米国大使館の大使が祝賀をできないならばあなたが来て祝賀していかなければならないのではないか」と言ったのです。それで当日、彼に、「歴史が動いているということを一言話しなさい」と言ったのです。韓国の政治家の中にはいろんな人物がいますが腹のある人がいないのです。それで先生はこの男を一度テストしてみたのです。「今度の選挙の内容がどのようになっていったかということを韓国に公表しなさい。大韓民国の人々は、このレバレンド・ムーンのことを分かっていないのです」と言いました。 すると、彼は壇上に立って、「ブッシュ大統領は、レバレンド・ムーンの支援がなかったならば大統領にはなれなかったでしょう」と宣言しました。ですからあの時、朝野の人々が、「ああ、文総裁の話は事実だったのだ」と知ったのです。そのように先生は生きているのです。素晴らしく生きているのです。分かりますか。 先生が大統領たちの右の頬を打てば、「左の頬を打ってください」と言う時代になったのです。分かりましたか。彼のほうから「どうか私の家に来てください」と言うのですが、私がなぜホワイトハウスに行く必要があるというのですか。ブッシュやレーガンにはいつでも会うことができるのですが、私のほうが会わないのです。自慢したくないからです。彼らが先生の写真を持って誇りたいがために、写真を撮ろうとして訪ねてくることは仕方がありません。そういうことを誰が知っていますか。統一教会の皆さんも知っていましたか? そのように見た時、愛の標題を中心とした人生において、先生は歴史上を東西南北に駆け巡りながら悪い噂も出ましたが、結論は愛であったということをアメリカの国民が知るようになったのです。先生がダンベリーから出てきた後には、アメリカの法務省に問題が生じたのです。「レバレンド・ムーンを捕らえて監獄に入れたのは、アメリカの過ちであった」と言っているのです。西洋文化を創建し、これからも主役になろうとするアメリカ国民も、レバレンド・ムーンをよく知ってみると、普通の人ではないと気付いたのです。今や謝罪をしなければならないという声が高まっています。 私がダンベリーでどのように生活していたかと訪ねていってみると、その責任者が、「一人の人の影響がこれほど大きいとは知りませんでした。レバレンド・ムーンが監獄に入ってくる前は道義的基準がありませんでした。しかしその後は、酒を飲もうとする人たちは皆隠れて飲むようになりました。また麻薬のようなものを吸う時も、私に見つからないようにと森の中に入って隠れて吸っているのです。以前はまた、けんかをすることも多かったのですが、どうして囚人たちがおとなしくなったかその時は分からなかったのです。しかし、レバレンド・ムーンが出ていって三日もたたないうちに昔の姿に帰ってしまったのを見た時に“ああ、一人の人が偉大な力を持っていたために、監獄世界で言葉なくこのような影響を及ぼしていったのだ”と、そのことがいつまでも話題になっているのです」と言うのです。本来こういう話は私がすることではありません。これは刑務所の調査官たちがダンベリーに入って調査した結果の報告です。 先生はこのように監獄に行っても野原に行っても、どこへ行っても愛を中心として何かを残そうとして身悶えしながら辛い生活をし、悪口を言われてきたのです。監獄に入ってもこのように生きたのです。そういうような辛い人生を歩んでいるのです。そういう世界史的代表者がレバレンド・ムーンなのです。もし愛を知らなかったならば最もかわいそうな人です。分かりましたか。 愛を中心として生きる歴史的代表の人を挙げなさいといえば、レバレンド・ムーン以外にはないのです。神様も愛を中心として人類と共に生きたいという、内心的情理を中心として見た時に、「私もレバレンド・ムーンのように生きたい、レバレンド・ムーンに似たい」と言っても、失礼にならないというのです。こういう時アーメンと言うのです。この者!(笑い)こういうときこそ手を挙げて、声を張り上げてアーメンと言えば、東西南北、天地が順応し、天と地が共にアーメンと言うのです。(アーメン)。そこから、笑いと喜びと平和の世界の新しい朝の黎明が始まるのです。そこで「感謝、アーメン」と言えば、すべてが終わるのです。(アーメン)。世の中の出来事がすべて終わるのです。私はそのようにして生きてきました。 監獄生活の中では、先生に銃を向けないような人は誰もいませんでした。「あいつ、殺せ!」と言ったのです。しかし、今になって分かってみると、レバレンド・ムーンは自分たちと無関係の人ではなく、自分の父母であったのです。それが結論です。そのように迫害を受けてきた代表者が、私の骨髄の起源となり、人間の理想の基盤となったのです。父母の血肉を受けた息子たちが、そういうことをしたのです。ですからその父母に対して深刻に悔い改めなければなりません。この事実を知った時には、五〇億人類すべてが痛哭するでしょう。そして、その痛哭の後に希望の天国が訪ねて来るのです。そのためにイエス様がこの地上に来られる前に洗礼ヨハネが現れて、「悔い改めよ、天国が近づいた」と言ったのですね?(はい)。ところがユダヤ民族は悔い改めず、自分の父母を殺したのです。分かりましたか?(はい)。 今は正しい指導者が必要である そのために万国はこれからレバレンド・ムーンの前に痛哭せずしては会うことができないのです。それはすべての国の歴史がそうであるからです。大韓民国の歴史もそうなのです。今まで大韓民国の大統領でありながら先生を迫害した人たちは、霊界で痛恨しているでしょう。梨花女子大学の金闊蘭、延世大学の白楽俊などもそうです。白楽俊という人物は、定州の人でありながら、統一教会を潰すために先頭に立っていた人です。このごろでは、北韓から来た群れが朝鮮日報を中心に一つの群れになっていますが、先生の故郷も北なのです。まるでフンブとノルブのようです。フンブとノルブは二人の兄弟ですが、勝手に騒いで最後はどうなりましたか? ちょうどそのように今日も迫害を受けてきましたが、最後には神様のそばに座って、この地上の人間が希望とする天国の王宮に入っていく時、先生が愛の兜を付けて神様と最初に出会えば、すべての事情が晴れて解放の世界と天国が始まるでしょう。 ですから、まず金日成に付いていく群れのみが偉そうに闊歩するようにつくられているのです。皆さんの責任もないとは言えません。そうではないでしょうか。今、主体思想が乱舞しています。今日、韓国の戦いは何かといえば、盧大統領と金日成との戦いです。盧大統領も金日成の狡猾さには勝てません。それはすべてが皆知っていることです。最近の密入国問題も金日成の術手にあることです。今まで三十四年間、以北五道民を私に預けて防御しなければ、韓国の未来が困難であると言い続けてきたのですが、当時この文総裁の価値を誰が分かってくれましたか。 最近では、先生は世界的なネームバリューを持って、大韓民国がいくら追い出そうとしても追い出すことのできない、そのような基盤を造ってきたのですが、あのころ先生の言うことを聞いていれば、大韓民国はこんなことにはならなかったのです。大学についてもどんなに警告したことでしょうか。数十年前から、「大学生たちは思想武装しなければならない」と言ってきたのですが、ああだこうだと理由を付けて拒んでいるうちにこのようになったのです。もし全大統領が私の話を聞いていたならば、今や韓国は世界の主体国となって、未来の太平洋時代において世界の崇拝を受けられる歴史的国家になっていたはずなのです。先生に世話になっていながら背反した者がどこに落ち着いて生きられるでしょうか。その時彼らは、「国の主人が二人いれば、船頭が二人いれば、その船は陸に上がっていく」と言って、「全大統領こそが主人であり、レバレンド・ムーンとの関係を切る」と言って、先生に反対してきたのです。先生がドイツにいた時です。このレバレンド・ムーンをおろそかにしてはなりません。なぜ先生がこのような話をするかというと、今や困難な政局に直面しているからです。韓国も金日成も、どうにもできないのです。文総裁しかできません。このことをよく知って、これからは皆さんが先生がどのように生きてきたのかを学んで、伝統を受け継いでほしいのです。先生は悪口を言われて生きてきたのですが、それは素晴らしい生き方でしょうか、どうでしょうか?(素晴らしい生き方です)。では皆さんもそのように生きなければなりません。(はい)。 それで、これから韓国統一教会の祝福家庭は、全部世界に出ていくでしょう。皆さんが出ていって統一教会は滅びるでしょうか、栄えるでしょうか。それが世界救援のための一番の早道であるという時には、たとえ国が反対し世界が反対したとしても必ず実行するのです。ですから、祝福を受けた家庭の二世たちは、み旨に従っていかなければなりません。先生はそういう人です。父母はその国を生かすのであり、神様を解放するのです。根っ子が病気になれば枝を治療するのではなく、枝を何百、何千切ってでも根っ子を治療しなければなりません。分かりますか。これが結論です。そのように生きることです。 最近、学者や退役将軍たちが「韓国を生かすことのできる人は文総裁のみである」と言って集まってきたのですが、それらの人々に向かって、「この無知なおじいさんたち!」と言ってあげたのです。大学教授たちが無知であるとは、いかに時代感覚に反した話でしょうか。しかし、文総裁を知らないということは、足の裏のように無知な人々であると言うのです。そのようにして、頭を下げさせてしまったのです。先生の本当の価値が現れるようになったのです。既に世界中の人々がレバレンド・ムーンを必要としているのです。ソ連や中国が私を必要としています。それはレバレンド・ムーンに侍って一つになればアメリカを追い越すことができるからです。それで韓国はどうですか。私は韓国の人ですか、日本の人ですか?(韓国の人です)。韓国は自国の人を奪われても、それは仕方がないのです。今まで問題が多かった人なので仕方がないのです。皆さんは決死的に先生を奪われまいとするのですか?(決死的に奪われまいとします)。(先生が笑われる) この文総裁は四十年間に何回監獄を行き来したことでしょうか。そうしながらも、その中において決して死なずに、出てきては、さらに大きなことを言っているのです。ここに既成教会の牧師たちがいれば気持ちが悪いことでしょう。「彼はまた大きなことを言っている」と言うでしょう。私は大きなことを言うに値する人間です。あなた方は全部共産党組織の嘘にだまされてしまったのです。ですから、立派な総裁に侍っていかなければなりません。この青坡洞教会は立派ですか?(はい)。場所が立派なのですね。 日本の著名な博士たちは私に合うことを唯一の願いとしているのですが、私は一人も会ってあげないのです。ICUSの議長を三回も歴任した英国の有名な博士も、「もしニューヨークに行けば、文総裁に一度は会えるだろう。イーストガーデンを訪問できるかもしれない」と思ってやってくるのですが、先生はいつも彼をそのまま帰すのです。今までにイーストガーデンに来た人は数人しかいません。そのために彼らは、イーストガーデンの文総裁を一度訪問することが夢なのです。それで一度でも訪問できれば、それが百万ドル千万ドル一億ドルの価値となるのです。その世界で、「文総裁のイーストガーデンに行きました」ということで大騒ぎになるのです。私はそれを知っているので、外の人たちには会ってあげないのですが、先日ユダヤ人には会ってあげたのです。アングロサクソンは駄目です。あなた方は少し待っていなさい。アジア人が懐かしくて涙を流しつつ、待っていなさい。会うことはできません。 文総裁に会おうと、かつてダンベリーへ列を作って面会に来ましたが、アメリカの有名な人たちにも先生は会ってあげませんでした。先生は歴史を直視し、正しいことと間違ったことを判断する男です。そこに合う相対価値を持たずしては、レバレンド・ムーンに会うことのできる資格者とは見なしません。漢南洞公館にも誰も入ることができません。この間政治家の中で先生に会おうとする人がいましたが、人間は人間らしく生きなければなりません。先生は正義と悪の死の境地においても、自分の責任を遂行できる信念を持った男が必要であって、雑巾のような使い古したカードは必要ありません。 今や、言論界においてもそうです。文総裁の思想と関連する内容を持って特集記事を組もうとするのですが、誰にも会ってあげないのです。先生の必要な時には会ってあげるのです。そのように生きている先生なのです。なぜこのような話をするかといえば、今は正しい指導者を探さなければなりません。何の指導者、何の先生でしょうか。この世にはお金を持った指導者も多いのです。会社の社長も多いのです。大学教授も多いのです。しかし、最近のお金持ちの社長たちの姿はどうでしょうか。従業員たちはデモをして騒いでいるのです。お金を持っても一人で食べてはいけません。必ず分けて食べなければなりません。大学教授とは死ぬことができないから生きている人です。学生たちの気配を伺いながら自分の立場を守らなければならないのです。今や大学教授は弟子たちにら致されて、ぶたれてその威信など話にもなりません。会社の社長たちも同様です。会社の運営を間違っているのです。最初はお金を得ることを人々は最も好みます。しかし、自分が社長になってみると、次の二世たちが唾を吐き、こぶしを振り回す標的になるのです。また教授や学者がいいと思って、そこに就職をしてみると、全部そういう姿になってしまっているのです。政治家も全部そうです。 最近世界中の大学がこぞって先生に博士学位を与えようとして騒いでいます。自分の学校の名前が出てくるので、お互いに博士学位を与えようと騒いでいるのです。先生は博士になることを願いません。先生は博士を教える立場なのです。私が博士学位を与えなければならないのに、それを私がなぜ受けるのですか。これからノーベル賞を与えようとする先生なのです。受ける必要はないのです。 こんな先生は素晴らしいですか? 女性から見た時、もしお嫁にいくとすれば先生のような男性の所にお嫁にいかなければなりません。そうですか?(はい)。それで、お母様はよく世話をしてくれます。しかし時に正座をして目を真っ直ぐ見る時は怖いのです。それを知っているのです。それは立派に教育しておいたからです。そのようにお母様は多くのことを学んでいます。しかしもうおばあさんです。孫が八人もいるのです。十年後には一〇〇人くらいにはなることでしょう。この世界で女性として権威を誇ろうとしたら、お母様について来ることができなければなりません。お母様ほどに内外共に整った女性となっている人を知っていますか。女性たちは知っていますか。それは何かというと、侍ると言うことなのです。皆さんはこのことをよく知らなければなりません。今日の説教はこれまでにしましょう。(笑い) 皆さんはこのように生きてきた文総裁に出会って良かったですか、悪かったですか?(良かったです)。そのように生きてきた文総裁は、最近、男女を結婚させています。宗教の看板を立てて、世界の若者たちを祝福してあげているのです。先生は今まで約二五〇〇〇双以上を祝福してあげました。ですから、もし私が夜中に彼らの家を訪問して、二人で眠っている布団を取って、「この者たち!」といって起こしても、「この人は誰ですか」とは言えないのです。そこで、「私はあなた方に会いたくて、このように真夜中に訪ねてきたのになぜ戸を閉めて寝ているのですか。待っていなければなりません」と言うと、「ああ、おいでくださるとは知りませんでした」と言うのですね。アメリカ式では、「電話でもしておいでくださればいいのに」と言うのですが、「この者! 愛の世界になぜ電話が必要なのか」と言うのです。(笑い)そうなれば万事がOKです。 この前他界したアメリカの有名な弁護士がいました。こう言えば皆さんは直ぐに分かるでしょう。共和党のレーガン前大統領の顧問弁護士もやった人です。彼が、「どうか私に一度だけでも会ってください」と言ってきたのです。それで私は、「あなたを個人弁護士にしようと思うので、興味がわいたら一度来てみなさい」と言いました。すると、彼はやってきました。それで約一時間半ほどの間に、彼を完全に溶かしたのです。それは武力で溶かしたのではありません。静かにいろんな話をしながら一時間半ほどの間にすっかり溶かしたのです。こうして一度その味を知った彼は、しきりに「土曜日ごとに会いたい」と言ってきたのです。彼は穏やかで、すっきりした人でした。有名な弁護士なのですが、「文総裁に一度会ってからは、私は女性が男性に恋すること以上の思いです。ですから、どうか一度あってください」と言ったのです。そうしているうちに彼は会えずに世を去ったのです。霊界に行ってみて初めて、「ああ、レバレンド・ムーンを普通の人のように思っていたが、霊界ではどういうお方であるのかを知りました」と言っていることでしょう。何の話か分かりますか。先生が好きになる妙薬があるのですね。(笑い)男性たちにもそうです。男性たちを千名集めておいて、約一時間だけ話をすれば、直ちに先生が主人になるのです。時間だけあれば誰でもそうなります。先生の中にそういう何かがあるために、アメリカの歴史すべてと、この世界を主管することができるというのです。 統一教会とは、教会と名の付くもの全部を含む 既成教会は四十年間反対してきましたが、このレバレンド・ムーンをうち倒せませんでした。追い出すことなどとんでもありません。そのような不肖な私ではありません。そういう複雑な過程の中で、四十年間も迫害を受けながら、銃弾一発も射たれずに今日まで生き残って、大きいことを言っている人は歴史上にレバレンド・ムーン以外にいないというのです。分かりますか?(はい)。それでこそ統一教会の食口なのです。このように有名な先生が現れたので、皆さんは故郷に帰り、おじいさんより三代を従えて、文総裁の教育の場に連れてきて訓練を受けさせることのできるリーダーにならなければなりません。 統一教会とは、すべて教会という名の付くもの全部を含んでいるのです。キリスト教、カトリック、イスラム教、ユダヤ教などすべて集まることができるのです。そうして宗教を統一しようとするのです。最近、先生はシリアのモスレムの指導者に会いました。 彼は四十年前、第二次世界大戦直後に啓示を受けて篤実なる信仰生活に入ったのですが、その時「ユダヤ教とキリスト教とイスラム教を統一することにおいて、連合運動せよ。そうせずしてはこれからモスレムの世界は残らない」という啓示を受けたそうです。それで四十年間連合運動してみると、モスレムの人たちが歴史的怨讐として見えてきたというのです。十字軍戦争の時も、キリスト教と戦って勝敗を決したのがモスレムでした。それで彼は、そういう怨讐的見方を持ったために、モスレム世界の監獄に入れられてあらゆる迫害を受けたというのです。またユダヤ教から、「あの人は気が狂ったのではないか、私たちを見てどうしてモスレムと一つになれというのか!」と言われたというのです。キリスト教でもそうであり、どこに行ってもそうでした。そうして四十年を経て、今こそ宗教が一つになる時が来たと思ったというのです。先生が世界宗教議会を中心として、宗教指導者たちを集めて世界的な大会を開いて、宗教一致運動を始めているということを知っていたのです。先生がそこで何をしようとしているかということを知って、これはただごとではないと分かったのです。自分が四十年間運動をしてきても何の基盤もないのに、先生は既に世界的基盤を造って、また政治、外交、文化、言語などのあらゆる分野における基盤を持っているし、宗教界やあらゆる面においての旗手であるということを知ったのです。それらを見て感嘆したというのです。 それで約二万名の責任者たちが集まったモスレムの集会で、「私は四十年間宗教一致運動をやってくるなかで多くの迫害を受けてきたが、今やこの世界は一つの世界に向かっていかなければなりません。宗教が一つにならずしては世界を収拾することができないことを神様が知って、こういうことを全部準備せよと言われるので、私もそうしてきたのですが、今やそのことを実践して、世界的版図を中心としてすべての宗教が反対しても従わざるを得ない基盤を造った方がおられます。その方こそレバレンド・ムーンなのです」と言ったのです。そして「私が今まで提唱してきた道を完結する現代の代表者がレバレンド・ムーンです」と結論づけたのです。(アーメン)。(拍手) 先生はその人に何か強制したのではありません。霊界が、レバレンド・ムーンのみが今後宗教界のすべての壁を崩していくことのできる力を持った人であると教えてくれたのです。それで、彼なりのキリスト教に対する何かがあって、決死的に先生に会おうとしてやって来たのです。ですから、先生は会わなければなりませんでした。初めて彼に会って、国を代表した宗教指導者として彼をイーストガーデンに招待して神の摂理について話しました。 先生は、そういう時には簡単に話をするのです。先生が説教するようになれば内容が深くなってしまいます。この前はワシントンで十二時間半も話しました。今日はその内容を簡単にまとめて話そうと思うのに韓国の人は受ける資格がないようですね。私の口調がなぜこのように冗談ぽくなっていくのか、先生の口を誰がコントロールするのでしょうか。畑を耕す牛を引っ張っていくように、引っ張られる方向に従っていくようになっているのです。 それで先生は、こういうみ旨を持って歩んでいるということを話しました。その次に、内部の責任者たちが報告したことの話をしました。それで彼は、「自分はシリアの大統領の所へ行って何でも指示できる基盤を持っているので、帰国してからアラブ国家のすべての総帥たちを集めます。その時、文総裁が会ってくださるならば私は連れてまいります。それで許してくださいますか」と言うのです。それは許諾して良いでしょうか、しなくて良いでしょうか。そうすると国が引っ掛かってくるのです。モスレムの国です。イランとの戦いや中国とソ連の外交政策においてシリアが問題になっていたのですが、この人の手中で皆回ってしまうのです。こういうモスレムの頂上にいる人が先生に侍るようになったのです。彼らが贈り物をラクダに積んでやってくる時に通行禁止にすればいいでしょうか、通行禁止を解除しなければならないでしょうか。皆さん、どうですか? 門を開けなければならないでしょうか、閉めなければならないでしょうか。先生は民主主義の代表者ですので、私たちは民主主義に決定しましょう。門を開けなければなりませんか、それを閉めたらいいですか?(開けなければなりません)。開けなければならないという人は手を挙げてみなさい。それ以上の人たちは全部何ですか。手を挙げなかった人たちは手を挙げてみなさい。朝から悪口を浴びせてデモをするような人は一人もいないですね。(笑い) この統一教会に入ってきて文総裁を知った人は、教会を離れても一人で生きることはできません。反対する人に、「あなたは文総裁を憎みますか」と聞いてみれば、「文総裁は尊敬するのですが、幹部たちが嫌です。教会長が私に辛くしたのでこのような姿になったのです。誰々が私をこういう姿にしてしまいました。文総裁がそうするはずはありません。私は文総裁を今でも愛しています」と言うのです。いつだったか思い出せませんが、これは実際に起きたことです。急に道路にある人が飛び出してきました。それが誰かと言うと、元ムーニーです。私を見て涙を流して逃げていきました。その人はなぜ涙したのでしょうか。先生は直ちに分かったのです。「ああ、彼か」と。先生の前で話しもできず横道へ逃げていくその姿を見た時、“ああ、教会を離れてかわいそうな人になったなあ。再び訪ねてくれば先生が分別してあげよう”と思ったのです。先生は悪い人ではありません。一度手を挙げて約束すれば、原理を中心として約束したことを条件として、愛するために従おうとする人であり、反対したり排斥できない人です。それが原理の道だからです。先生自身がそうですから、彼らは先生を射つことができないのです。人は霊物であります。 今日、既成教会の牧師たちは反対しているのですが、その信者たちは皆統一教会に来るようになるのです。そうなるか、そうならないかを見ていなさい。なぜ連日のように文総裁に反対するのですか。自分たちに何かくれと言うのですか、それとも自分の妻を強奪されたのですか。(笑い)むしろ彼らが貧しい時、隠れて学費を与えたりして、先生は既成教会にどれほど多くの投資をしてきたことかしれません。数十、数百億以上です。世界を回りながら反対する怨讐の子供たちのために犠牲となりました。今や世界はそれを知っているのです。それで信者がだんだん多くなって、これからは新芽が出てきて実を結ぶようになるでしょう。 「愛の軌道に従って走る勇者となれ!」 きょうの話はこのくらいにして題目だけ教えてあげましょう。(黒板に書かれる。白墨が折れる)ああ、これを見てください。書くなと言っていますね。しかし、このチョークに皆さんのために書けと言うのです。では誰の話を聞けばいいでしょうか。皆さん全部がそれを願いますか。きょうこれくらい話をすれば、これからの世界の動きがどのようになって、皆さんの行くべき道は分かったでしょう。簡単に話せば、歴史に残して行かなければならない道は何かと言うと、「愛の軌道に従って走る勇者となれ!」ということです。それが結論です。きょうの説教はこれで終わったのです。こうしてみると、先生は亡国の種にならなかったのです。分かりますか。亡国ではなく生国の種になったのです。個人は生きることにおいて、レバレンド・ムーンのようにならなければならないし、家庭も生きることにおいて、先生の家庭のようにならなければなりません。 さて、もう一度み言の題目を書きましょう。新しいチョークはどこにありますか。この折れてしまったチョークは除きなさい。「シーッ」。(笑い)気持ちが悪ければ「シーッ」とするでしょう。(はい)。「サタンよ! 食べて出ていけ」と言うのです。(笑い)こうして蕩減復帰条件を立てるのです。(「韓国は人類の祖国」と書かれる)韓国が事実このようになれば、韓国の民は気持ちがいいでしょうか、悪いでしょうか?(いいです)。みんな泥棒のような根性を持っていますね。(笑い)功績もなく、それを得ようというのですか。 チャンピオンは二人でしょうか、一人でしょうか?(一人です)。そうです。それが我が韓国の生んだ愛のチャンピオンです。歴史を代表し、宗教、文化、すべてが愛の因縁や内容を離れては存在しないために、人間の歴史において愛の論理を語るようになる時には、文総裁の生活や生涯は人類全体の各分野において過去現在における傑作品であるために、歴史を代表した世界的チャンピオン賞は大韓民国がもらようになるのです。分かりましたか。その傑作品の賞は人類の願いであるために、人類を代表して大韓民国がもらうようになるのです。また天と地のすべての願いの焦点でもあるので、天と地を代身して大韓民国がもらうようになるのです。(アーメン)。(拍手)このことは、世界の学者たちが研究しなければなりません。 それで最近、有名な言葉が生まれました。レバレンド・ムーンは愛の鉄人だと言うのです。何の話か分かりますか。鉄人とは、鉄をはめられた人のことではありません。鉄の印を押した人のことをいうのでもありません。判子でもありません。(注:人と印は、韓国語では同じような発音である)愛の鉄人ということは、この学者世界ではレバレンド・ムーンであるという看板が背後にあるために、それを最も適切な言葉で表したのです。絶対に必要な内容の表象として登場する述語が何かといえば、真の男であり、成長して真の夫となり、真の父母となるのです。分かりましたか?(はい)。 真の男になりたいですか?(はい)。このような愛の基準を通して成熟し、最も理想的な相対を迎えることのできる男性を真の男だというのです。そのような真の男を失った世界において、成長して配偶者を迎えようとする時に、互いに永遠を中心とする賛美の基盤の上で立って結ばれる夫婦が真の夫婦なのです。天と地が朝夕、四季を通して、そのような二人の家庭を軸として回りたいのがこの宇宙の動きであるために、そのような夫婦を中心として大きく回れば国となるのです。そして家庭には父母があり、子供たちがいるように、民が子供と同じ立場なのです。それが世界的な基準となった時、世界の中心的な王の立場がなければなりません。その次に民の立場が必要なのです。天と地を中心として、これは霊界においても同じなのです。この人類世界を見た時、そこには中心的な父母と同じようなものがあり、子女と同じようなものがあって、その因縁を中心として、その基盤や環境が愛の包括圏内から離れたくなく、そこで永遠に起居生存したいというのが存在世界の永遠なる理念なのです。 先生は今やこのようなチャンピオンシップを取って、世界を一つにする作業をしているのです。ワシントンに行っても、「何! 文総裁が再臨主であっても何だというのか」と言うのです。今はそういう時代です。「その方がそうなのか」と言いながら政治家は目の色が変わってくるのです。日本も先生の言うことを聞かなかったので今やリクルート事件のために抗議を受けています。さらに今度は中国が大きな混乱を受けました。結局保守派が再び奪われた政府を取り戻したのです。今度保守派とリベラル派が戦うようになったのも、レバレンド・ムーンが一つの動機となっているのです。今やソ連もアメリカも全部が私の指導の下にあるのです。若い人たちは気持ちがいいですか? そういう秘密を先生が皆知って、この天地を握っているのです。韓国の指導者も先生が何か一言言えば、全部めちゃくちゃになるのです。ここに情報関係者たちも来ているでしょう。文総裁がこういう話をしていたと報告してもいいのです。 ここの超党的な宗教指導者たちを全部先生がアメリカに連れていった時、夕食を招待して、「私たちと戦うのではなく、あなた方の身長がどのくらい大きいか、幅がどのくらい大きいか、自分自身をよく知って、世界に尽くしなさい」と言いました。世界は、そのように簡単ではないのです。今朝も食事が終わった後に、宗教協議会からの感謝の杯を贈りたいと言ってきました。先生はそういう感謝杯はあまり受けたくありませんが、どうか受け取ってくださいと言うのです。今後先生は世界の問題の人々を指導しているのですから、そういう内容の人が感謝状をくれなければならないのです。 先生がアメリカを離れる時、もしブッシュ行政府が先生の言うことを聞かないようになれば、このアメリカは滅びます。先生の話を聞けばどうなるのか三年間見ていなさい。韓国の問題も簡単です。私たちは言論機関を持っているので、一週間の間にすべてが終わるのです。「共産党を好んでいる人は、北の共産国家に行って視察してきなさい」と言えば良いのです。「金日成と会ってきなさい」と言うのです。そこで大学教授などを全部、飛行機に乗せていくようにするのです。一度行って見れば、皆「金日成が一番悪い」と言うはずです。自由世界のアメリカの言論人たちにも、ソ連を視察するようにさせました。今度、七回目にソ連のモスクワを訪問するのです。今まで共産党の手先をしていた熱心な分子たちも、行ってきて一八〇度変わったのです。これは私がテストしてみた結果です。ソ連に行ってきて変わった人も北に行ってみると、卒倒してしまうでしょう。(笑い)目玉が飛び出して死ぬことになるでしょう。先生は北を知っているのです。監獄に入って彼らの組織の骨組みを全部知っているこの先生はだませません。先生は既に中国に七十八年から摂理を始めてきました。そして、八一年度に中国の高速道路を中心とする技術の平準化運動を提示しました。中国は共産主義から脱せずして十二億人口の生きる道がないのです。 さらに一九八三年に、「ソ連帝国主義滅亡せよ」という大会を行ったのです。その時、科学者たちの中で「先生、なぜ大会を行うのですか。共産党は何百年たっても滅びないでしょう」と言っていたのです。「滅亡だ! 自信を持ってやりなさい。五年後の世界はこのように変わっていくのです。見ていなさい」と。題目を書いてあげたのです。ダンベリーに入っている先生に、その議長団たちが三回も訪ねてきて、その問題について相談しました。郭錠煥牧師も来て叱られたりもしました。「ソ連帝国は滅亡する」というタイトルを「滅亡するであろう」と書き換えたので、「この者! あなたは、議長団をやめなさい!」と、三回も気合いを掛けられて仕方なく発表するようになったのです。さらに、ソ連専門家たちや世界のキラ星が反対して騒ぎ立てたのですが、「見ていなさい。今にそのようになるか、ならないか見ていなさい」と。このようにして出発したのですが、このごろではみんな感謝しています。このように世界が変わったのです。ソ連帝国が滅亡することを知って、レバレンド・ムーンが天地を懸けた運勢を注いだので、そのごとくになったのです。誰も天地運勢を主管していく先生であるということを知らないのです。何の話か分かりますか?(はい)。 このごろではどんなことが起きているかというと、ソ連は平和攻勢だとか、自由世界解放問題だとか言って、現在のゴルバチョフ政治改革が問題になっています。しかし、これを収拾せずしては自由世界に接近する道がないのです。ゴルバチョフは、自由世界の反対を受けていたレバレンド・ムーンが、不思議にも自由世界から歓迎を受ける基盤を造って今や、アメリカの指導層はすべてレバレンド・ムーンの修練所に入って教育されていると言うのを知っているのです。我々の自由世界経済体制と共産主義、社会主義体制は何が違うかといえば、所有権制度が異なるのです。個人所有と国家所有の差異です。この体制の異なった国同士をどのように変更していくかというのが問題なのです。それを折衷せずしては西欧社会との連結も不可能なのです。どんなに反対を受けたとしても、このレバレンド・ムーンを研究し、その人的構成要員を見ると全部が賢い人たちなのです。 眠気が来るけれども先生の話を聞きたいでしょう。そういう時は口を開いて、「すみません」と三回あいさつをして蕩減条件を蘇生、長成、完成と立てれば大丈夫です。 「郭錠煥!」ダンベリーで先生に気合いを掛けられながら、「五年後には共産主義が滅ぶ」と話したことを思い出しますか?(はい)。「これから五年以内には世界がどうなるか、分かりますか?」。ですから今やっておかなければなりません。そうすることによって、レバレンド・ムーンがいかに偉大であったかという歴史的基準が生まれるのです。「絶対に不平を言ってはならない!」と言ったのですね。 最近では、議長団のカプラン博士が両極体制論において政治学世界で有名になりました。両極論を中心としてみれば、「韓国は六.二五動乱から両極になったのですが、一九八八年からは両極がプラス化されている」と言うのです。なぜそうなのか、なぜそうしなければならないのか。それは分からないというのです。知っている人は先生だけです。ハーバード大学政治学者であっても、歴史学者であっても何も知りません。ですから先生に学ばなければなりません。そのような高度な話を、きょうは皆さんにしてあげているのです。韓国は何ですか?(人類の祖国です)。この韓国がどのようにして人類の祖国になりますか。現在の韓国の指導者を中心として人類の祖国になることができますか?(できません)。 先生は本当に不思議な人です。宗教指導者としていつの間にかすべての分野に基盤を造ったのです。そのようにしながら、これからは韓国の未来を中心として、橋を渡ることなく彼岸の世界へ飛び越えて、幸福の船の帆を上げているのです。気持ちがいいでしょう?(はい)。気持ちが悪い人は手を挙げてみなさい。(笑い)既成教会の牧師が聞いていたら気持ちが悪いことでしょう。既成教会の羊たちはかわいそうです。彼らは飢えています。羊たちが家を訪ねて父母の愛の餌を食べて、愛で太って、愛の喜びを持って幸福の安息所を捜すのですが、偽りの牧師たちにいくらついて行っても捜せません。見ていなさい。今に信者が全部既成教会を離れるようになり、大韓民国四〇〇〇万を失うでしょう。これから執事長老たちが全部先生についてくるようになります。今やアメリカにおいて、多くの人々を飛行機に乗せて、遊覧教育をしているのです。ですから、どんどん集まってくるのです。教授たちも、学者たちも、退役軍人たちも、著名人士もです。残る人はいません。全羅南道の有名な高等学校を卒業した人は何千名もいるのです。卒業式も五十九回目です。そしてその学校の卒業生は出世した人が非常に多いのです。そのような人々が今ワシントンに一八五名行っています。それで道では問題になっているのです。局長や課長が競って申請をしているからです。 全州高等学校出身で出世した人たちをアメリカに一八〇名連れていったのです。行政庁や道の局長、課長たちは文総裁と席を共にしないと言っていたのですが、帰ってきた時には全部変わってしまったのです。ここにそういう人たちがいれば皆報告しなさい。きょうは清算するために話すのです。自分の今までの事情を話すのです。これは歴史に残ることなのです。 日本を立てて、アジアの旗手としての基盤を造りました。もし日本ができなければアメリカを立てて、アジアの旗手とするでしょう。そういう基盤を造りました。今回、帰国した時、税関長が先生の所に来てあいさつをしたいと言うのです。そういうのは嫌ですね。「私は税関長です。文総裁よくお帰りくださいました」と言うのです。そして私のカバンを奪うようにして持っていくのです。(笑い)その人が先生にもっと早くに侍っていたならば、この国は栄えただろうに、なぜ今になってこうするのですか。よく見ると利用価値があるからなのです。彼らはどの雲から雨が降るのか分からないのです。この世の人はそういうようになっています。私はたくさんだまされました。苦い味、甘い味を皆味わって生きてきたので、この世をよく知っています。ですからやすやすとはだまされないのです。ですからそういう税関長を見た時、数十年の歴史の悲しい事情がちらつくのです。一言で、「よくやった文総裁。文先生、統一教会の教祖、世界の問題の指導をよくやりました」というのです。(アーメン)。(拍手) 真の愛という力 宗教の教祖の誰にでも先生は会うことができます。しかし、私は訪ねていきません。彼らが訪ねてくるようになっているのです。そのように生きている文総裁です。それは良いことをしてきたからですか、してこなかったからですか?(良いことをしてこられたからです)。ここにいる皆さんはどれほど立派なので、統一教会に入ってきたのですか、どうですか。このように年を取って、苦労の風呂敷がいっぱいぶらぶらと下がっていますが、入教して知ってみると、もう出ていくことができない人たちなのですね。片目を開けて出ていこうとすれば、この目が讒訴するのです。「出ていけばお前は死ぬだろう」と。鼻の穴を押さえて出ていこうとすると、風邪を引いたり病気になったりするのです。足で出ていこうとすると、この体が麻痺状態になったりするのです。これが統一教会の病気です。 この文総裁に出会ってかかった病気は、治す薬がありません。文総裁の診断と処方に従っていく道以外にはありません。ですから世界が統一されざるを得ません。それでは、その処方の薬剤が何であるかというと、それは真の愛という薬剤なのです。統一教会の文総裁には魅力的な力があるのです。その力が何かというと、真の愛という力なのです。分かりましたか?(はい)。 真の愛とはどれほど大きな力でしょうか。先生は、それを知って霊界に行けばどうなるかということを知っているのです。この世がどうなるかもみんな知っているのです。私は死に対しても既に生きて解決してきた人です。二十代において死の問題を皆解決しました。私には怖いものがありません。霊界がどうなっているのかということを明らかに知っています。そうでなければ私たちは生きられません。息苦しくて生きることができません。先生は昔、子供の時もそうでした。村のあの山の向こうに何があるのか行ってみなければ、気になって生きられなかったのです。あの先はどうなっているのか、周辺に何があるのか、そのような気掛かりをそのままにしておいて、どうして生きられますか。そういう性格の先生を神様が選んだところを見ると、神様は本当に知恵のあるお方です。本当によく私を利用しました。(笑い) それで私は、人生問題に対して多くの苦労をしてきました。人はなぜ生まれたのか。神様はいるのかいないのか。その根本を掘り起こしてみなければ死んでも、死に切れなかったのです。そうしているうちに統一教会の文総裁になったのです。原理の世界、膨大な秘密の世界、夢のようなその世界の真実を、現実社会の発展的歴史過程において数理的に合う今日の実践の場を発見した時に、人生がいかにあるべきかということを確実に悟ったのです。そのために、統一教会の皆さんたちは今や太平天地なのです。「私たちの先生の教えは間違いない」と信じているのですね。そうでしょう?(はい)。信じていますか、知っていますか? 二つの中の一つです。信じているか、知っているかです。「信じています」と答えれば落第です。皆知っているのです。 それで今日先生が、このような統一教会の教祖として、神の摂理のみ旨を成就していく仕事をしているのです。信じてやっているのですか?(知ってです)。知ってですか? 既成教会の牧師たちは天国に行くと信じてやっているのですか、知ってやっているのですか。(信じてです)。目がすべて麻痺状態になっているのです。五感六感が麻痺して、神様が分からないのです。どうしてかと聞いてみても誰も答えられません。先生の所に来て大きいことを言っていた宗教指導者たちも、「もしもし、こういうことを知っていますか」と聞けば倒れてしまうのです。 「私が知っているので教えて上げましょう。五分くらい時間をください」と、このようにして弟子を復帰することができるのです。数百年、数千年をとおして病気になっていた痼疾の指導者たちを瞬息の間に、私の前に跪かせることのできる秘法を持っているのです。皆さんは針を知っていますか。一回だけ刺せば麻痺した手が伸びるのです。それと同じです。ですから、世界中至る所で文総裁が必要なのです。ですから皆さんをして、私の代わりに行ってもらおうとするのです。そのためには、私に似なければなりません。 皆さんは先生のように生きていますか?(はい)。夫婦同士で喧嘩などしていませんか。隣の人々から悪口を言われないで住んでいますか。「彼らは、二十四時間寝ないで、なぜあのように音をたてたり、讃美歌ばかりを歌って、祈祷する時には泣いてばかりいるのだろうか」と言われなければなりません。先生がそのように生きてきたからです。先生はどれほど憎まれてきたかというと、青坡洞教会で私たちが礼拝をしているのに、寝ていた人が裸になって出てきて、「こいつらの団体滅びろ!」と言われたこともありました。その人はこれから悔い改める日が来るでしょう。礼拝しながらなぜ泣いたのかというと、御飯を食べられないから泣いたのではありません。眠れないから泣いたのでもありません。この国が、このような姿になり、世界がこのようになったので泣いておられる神様を知ったからです。慟哭して泣かざるを得なかったのです。ですから私が代わりに悔い改めてあげようとして、代わりに鞭打たれようとしてきたのが統一教会なのです。ですから今までは苦労ばかりだったのです。しかし真の人生の道を求める人は、この教会を誰でも尊敬することができたのです。それは正しいからですか、間違っているからですか?(正しいからです)。(アーメン)。 今や統一教会の時代が来た さあ、こういう話は長く話しても一言で話しても同じです。今や時が来たのです。来るなと言っても統一教会の時代がやってきたのです。では先生は自家用飛行機に乗らなければなりませんか、乗ってはいけませんか?(乗らなければなりません)。なぜ、何のためにですか? 神の威信、神の国の威信、神の歴史的伝統を残してきた昔の先祖たちの威信のためです。先生は個人的に飛行機を持ちたい人ではありません。この世のサタンの子供たちは父を売って自分の好きなものを買うのですが、うちの孝進(様)は、「私は働いて、ご父母様が乗られる世界で最も有名な自家用車を買って差し上げたい。統一教会の幼い者たちを指導され、苦労されるご父母を慰めなければならない」と言って、この度ベンツ五六〇を買ってくれました。その次に英国の一番良い車は、何ですか?(ロールスロイスです)。それが世界第一の高級車ですね。その二台を買ってきて、「私はこれを買ったのですが、いかがでしょうか」と言うのです。 孝進(様)は良いことをしましたか、しませんでしたか?(良いことをされました)。(拍手)先生は車がないのではありません。いろんな車が数台ありますが、私はいつも最も悪い車に乗るのです。宗教指導者として良い車に乗って足を組んで咳払いをすることなど死んでもできません。それらを売ろうと思うですが、どうでしょうか? 私の息子が精誠を込めて、毎日街頭に出て働いているのです。そうしてお金を作ってくるその手を見て、父親はその車をもらわなければならないのかどうか、今苦悶しています。心が許さないのに、その車にどのようにして乗れますか。統一教会の信者の皆さんが代わりに払ってくれるならば乗ることもできますが、それ以外は乗る道理がありません。息子が街頭で血と汗を流しながら、雨の降る日も、雪の降る日も、土曜日も休みなく街頭で働いて毎日集めて、十年になるか二十年になるか分かりませんが、そのようにして月賦で払っていかなければならないことを考えてみた時、私がその車に乗ることができますか、できませんか? その車には死んでも乗ることができません。 この前、ロールスロイスに乗って、一回りしました。すると、「なぜベンツの車に乗られないのでしょうか」と、孝進(様)がお母様に聞いていました。私には聞くことができないのです。父親を恐れているのです。私はそれほど恐れる父ではありません。面白い父なのです。しかし十代、二十代の成長期に自らが父親に対して縁遠くしたので、申し訳ないと思っているのです。それで、正面から私と目と目を合わせることができないのです。そのように恐れているのです。しかし、そうしながらも誰よりも私を愛しているのです。私が銃で射たれるような場にいるとすれば、自分が代わりに射たれる準備をしているのです。それを見ると統一教会には将来性があるというのです。そうでしょう?(はい)。それではその車に乗らなければならないですか、乗らなくても良いですか?(乗らなければなりません)。先生の心にはそれが重荷なのです。息子を苦労させて車に乗らなければなりませんか。それとも父親が月賦のお金を払ってあげなければならないのでしょうか。 「郭錠煥!」(はい)。どう思いますか、そういうことを考えてみましたか?「金協会長!」。三軍の総司令官のような立場になってそういうことを考えてみましたか。 先生の歴史は愛の資料である この前、六五一六双の結婚式の時、世界の人々がベンツ五六〇を一台贈ってきたのですが、なぜ飛行機一機ぐらいの贈物をして、もしそのお金がなければ、「先生お金が足りないので、少し貸してください。十年、二十年後になればお返しします」と。そういうことをしないのですか。ジャンボ機はどのくらいしますか。何千万ドルもするでしょうが、そのようにすればどれほど世界的に賛美されることでしょうか。「あの飛行機は六五一六双の国際結婚した人の贈り物です。それに乗って来ました」と言って、先生がインタビューに応じた時、その国の人々はどれほど喜ぶことでしょうか。そういう頭は回りませんか。「その時の祝福に参席していたのは私の国の誰々だ」と言ってあげられる氏、先生の滞在中は毎日のようにそのことが新聞などに報道されて、統一協会の食口になることが万年の栄誉になるのです。その宣伝価値だけでも、ジャンボ機の何十倍の価値があるのです。そういうことを考えた人がいないのですか。どうですか? 尹博士! そういうことを考えてみましたか。 これは(先生が黒板の文字を示される)何ですか? (「韓国は人類の祖国」です)。人類とは何ですか? (世界の人々です)。それは、どれほど気分がいいでしょうか。悪いでしょうか?(いいです)。人類の祖国には数多くの国が入っていて、数多くの民がいるのですが、どこが最初の国ですか?(韓国です)。ああ、韓国の人たちは、平ぺったい顔をして多くの恵みを受けたのです。西洋の人は輪郭がはっきりした顔ですが、韓国の人は板のような顔をしています。(笑い)。何かを作っている途中でやめたように平べったい顔なのです。どうして目はあのように小さいのでしょうか。先生も小さくて、私が生まれた時には母親も目があるかどうか心配してジーッと覗き込んだというのです。めくらを生んだのかと思ったようです。私はどんなに目が小さかったことでしょうか。(笑い)よくよく覗いて見るとこれくらいの穴が開いていたというのです。それで、「ああ、目があるのだ」と言ったという逸話があるのです。 目の形も観相学的に見ると、天下を主管できるかどうかを知ることができるのです。先生が見ると特にはっきり分かるのです。そして自ら、「私はこのように生きなければならない」ということを知ったがために、このように生きているのです。アメリカの人々にこういう話をすれば、つまらない話でも面白くてメモを取るのです。図書館にもそういう話はないからです。先生が図書館の泉となっているのです。結論はすべて私に学ばなければなりません。そういう意味において最も有名な人になったのです。では、先生は臭い匂いを出すことで有名な人ですか、香水の香りを出すことで有名な人ですか?(香水の香りです)。その香水の香りが統一協会の香りなのです。統一協会の香りは、いかなる地を回りながら、どんな悪口を言われたとしても、どんなに迫害を受けたとしても、どの村に行ってもこの香りがするのです。 かつて先生がある村に入って行けば、その村の人が死ぬか病気になるか、そうでなければ豚が死ぬか牛が死ぬか、必ず何かが死んだのです。本当に不思議です。ですから多くの部落を訪ね回って、追い出されたことも多いのです。どんどん病気になっていくのです。この韓国も、私が帰ってくると病気になるのです。今病気になって大騒ぎしているのです。それで誰がその病気を治す処方を知っているかというと、先生だけがその処方を知っているのです。私の薬を与えればすべての病気は治るのです。 ところが、統一協会の薬は嫌だと言って李政権も、朴政権も消えてしまったのです。先生のお母さんは北韓で虐殺されたという情報を聞いていますが、先生は父母が死んだことを恨んではいません。父母が息子のために殺されたのであれば、天上世界で生前に功を立てた聖人の名をもって褒めたたえられる何十倍もの立場になるという跳躍の動機を知っているために、私は父母のために一度も祈祷したことなどありません。何の話か分かりますか。 子供たちに対してもそうです。今もこの場に子供たちが来ていますが、私が統一教会の教祖として世界の家庭の手本となっているために、子供たちにも十二歳になるまで、大きい娘も小さい娘も、寝る時間になれば毎日眠っている所に行って、祈祷してキスしてあげたのです。今はそれが忙しくてできません。お母様も子供たちに何もしてあげられません。しかし国のために、世界人類のために生きてきたと自負しています。ですから統一教会の文先生の生きた歴史の倉庫を見れば、個人の歴史時代に越えてきたすべての資料がいっぱい詰まっているのです。すべて愛の資料です。家庭はこのように生きなければならないという資料でいっぱいになっています。 文氏一族に対してもそうです。カイン・アベル問題を教えてきたために、自分の息子、娘を愛する前にカイン家庭を千家庭、万家庭愛してこそ、自分の息子、娘を愛することができるということを教えてあげたので、それを率先して実践しているのです。先生は文氏宗親会の宗長になったのですが、それは大韓民国の時代が来たのでそういうことになったのです。今や文氏の宗中が大韓民国を収拾しなければならない時なのです。 新しいアジアの建設に向かって 韓国には文氏が四十万名います。彼らが先生に宗長として侍り、そのとおりに動けば収拾できます。先生の教えどおりに動けば、大韓民国は問題なく生き返るのです。それを宗長たちができないので、大韓民国の宗氏たちが集まった族譜会連合会、プリチャッキ連合会の総裁に私を引き入れたのです。それは霊界に教えられて造られた団体です。これから大統領選挙に出馬しようとする人は、この集まりを無視することはできません。宗氏長たちを全部合わせると全国の根が皆連結されるからです。それで出世のために、互いに争う場となり、孫会長が八年間総裁としてやってきましたが、他の人々が互いに総裁になろうとするのです。 孫会長はすぐれた人です。理事会の時、理事の中の一人が、「きのう私は不思議なことに出会いました。この世では誰も信じることができない話ですが、不思議なことなので話さずにはいられないのです。私はきのう啓示を受けたのです。それは、この会の総裁問題を解決できることなのです。でも私の話を聞いて、気が狂った人として思われたらどうしましょうか」と言うのです。「一度話をして見なさい」と言うと、「きのうの夜、夢うつつに教えられたことは、総裁になる人は、一五〇カ国に基盤を持った五〇〇〇年歴史以来の愛国者であり、すべての先祖たちが崇拝することのできる現実的基盤を持っている文鮮明総裁しかいません!」と言うのです。夢うつつに、そういう啓示を受けたという話をしたのです。二十六名の理事たちはその話を聞いて、満場一致で総裁を文鮮明氏に決定したというのです。先生は世界でも長という名前が最も嫌いでした。しかしこの民族を愛するために、これを因縁として関係を結ばなければならない天運が訪れてきたのを知っていたので、「ああ、そうですか」と言って、受諾しました。 それで六月二十三日、私は大韓民国の宗氏たちの総宗長となったのです。それは誰の名によってですか。文総裁の名によってですか?(神様の名によってです)。神様の名によってなるのです。先生はそのことの内容を聞いて、「ああ、神様がこの国を愛しておられる。私が責任を負わなければならないのだ」と思って、その推戴を受けて、今やその就任式のために来ているのです。それが終われば私は再び帰ります。世界的摂理をするために先生は行かなければなりません。 それは、お嫁に行っていた女性が、離婚して、再びお嫁に行って子供を生んで帰ってきても、「もう一度親と一緒に住みたい」と言うのと同じようなことです。これは一つの先生の会心を今割引するように話しているのです。先生が韓国へ訪ねてくるのがうれしくて、「良く分かりました」と願わなければなりません。このような心がなければ金日成は去りません。デモが終わらないのです。私はそう言っているのです。それを誰が解いてあげることができますか。今日大韓民国は、それを分かっても解くことができないのです。アメリカの国民二億四〇〇〇万人、日本の国民一億二〇〇〇万を越えて、ヨーロッパすべての国を代表した最高の立場で、第三イスラエル圏を相続するための一つの民族の伝統が、天の糸がここに降りていることを知っているために、そこに相対的配偶の資格を具備せずにはいられません。先生の包みを全部解いて置きたくないと言うのです。分かりましたか?(はい)。 ですから、きょう先生は割り引いて話をするので、なかなか口がよく開きません。ここにいる人々は全部雑多な妖邪な群れです。この人たちは全部落第の群れです。個人で落第であり、家庭でも落第です。先生に祝福を受けたのですが、全部手直ししなければなりません。 アジア建設のためには、鍬を持って新しい開発に先立たなければなりません。先生が興南の収容所で肥料の山を掘っていた時に、怪我をした脛の傷が治るのを待つ間もなく私の近くの人たちを通して、持っているものを全部祖国の基盤を造るために、世界万民の解放のための仕事に投入したのです。ですから先生がどんなに悪口を言ってプッシュしたとしても、「あの老人、早く死ねば良いのに」などと言う人は一人もいないのです。皆さんは先生が結婚させてあげた人々なのですね。そうでしょう?(はい)。こうしてよく見ると、自分でいくら新郎を得ても、先生が決めてあげた人と生きることよりもはるかに劣るのです。三年間はトラブルもありますが、三年を過ぎれば皆ピタッと合うようになっているのです。 それで、これから文化オリンピックを中心として、世界の約一五〇カ国の若い人々を集めて結婚式をして挙げればどうなるでしょうか。それを中国の地でやらなければなりません。 先生はそう言う考えもしているのです。分かりましたか?(はい)。 考えはまたそのごとくに成るのです。人々が成すのです。たとえ能力がなくても成すことができるのです。今シベリヤの土地は、宋の時代に全部中国の満州の土地だったのです。早く本当の主人を捜してあげなければなりません。渤海の民族が中国の大陸を全部占めていたのです。万里の長城を造った人々は韓国の先祖たちではなかったでしょうか。その祖先たちの土地を捜していくのに誰が何を言うことができるでしょうか。韓民族の古い土地を回復しなければなりません。それは、レバレンド・ムーンの思想と統一運動を通して可能ならしめるのです。韓国が人類の祖国になるということは、統一原理がなければ不可能であり、ソ連と中国が共産主義を捨てることも、統一思想のみが可能にすることを知って、皆さんが受け持ったそれぞれの任務に、さらに尽力してくれることをお願い致します。 もし日本の食口が、祝福において韓国の貧しい家庭の男女と一つになれば、日本人としての歴史的な誇りとなることでしょう。韓国人口の三分の二の人々は、平均以下の生活です。それが嫌で泣く韓国の女性に対して蔑視するような日本の男性がいたとするならば、日本は悲惨な状態になります。日本の位置が落ちるのです。分かりましたか。 今回、韓国の女性と結婚した日本の男性の中で東大の卒業生が十三人いました。そのほかも大部分の人々が有名大学の卒業生なのです。そんな優秀な若者たちが韓国に来て新聞配達をしたのです。これはどんなに立派なことでしょうか。歴史的出来事なのです。このような歴史的なことを成し遂げたということは、日本にとって千年万年も自慢できることです。これは日本精神の一大事件として称賛するに値することです。 ここにヨーロッパのメンバーは何人いますか。手を挙げてください。私たちはこのように、世界一家族となって生きるのです。分かりましたか。先生は今、教皇庁の指導者たちと交流しています。今や世界的に自由の風が吹いて、若い男女が自由に結婚してしまうので、カトリックの神父や修道女たちがいなくなってしまったというのです。そこで先生はその解決方法を提示してあげました。それで今、新しいカトリック教派を設定する動きが起きているのです。(アーメン)。先生は今だからこそ公式的にこんな話をするのです。分かりましたか。 先生の生きてきた道 今、モスクワに統一教会の信者たちがどれくらいいるか知っていますか。ソ連の主要都市には皆入っているのです。先生はそれらの報告を受け取っているので、モスクワの実状を誰よりもよく知っているのです。そのため、情報世界でも私を利用しようとしています。地下宣教運動をしている統一協会員の中には、捕らわれて刑務所に入っている人もいます。皆さんは知らないでしょうが、先生はその日が来ると、お祈りせざるを得ないのです。そのような人々に対しても、先生は何一つ借りがありません。霊界に行けば皆愛してあげる道を開いているからです。このように、先生自身が命を懸けて戦ってきたのですから、先生に従う皆さんも、そうあるべきです。今でも雨が降ったりすると、先生はよく独り言を言うのです。そして、「世界中に広がっている統一協会員たちが、先生の名のゆえに軒先で雨にぬれて、寂しさに涙ぐみながら先生を慕い、先生に会いたくて、先生のために祈っていることを忘れてはならない。それは天地が知っており、空気が知っており、海が知っている。人の高潔さを要求しながら、その血肉に絡まって、精神に刻み込まれているすべてのものを無価値にしてしまうような指導者になってはならない」と誓うのです。 彼らは、銃で撃たれて死ぬ前に「文先生万歳!」を唱えるのです。ただ一言、「文先生、長生きしてください。どうか千年万年長生きして、このような歴史的悲運が長引かないように私を身代わりとして、処置してください」と、願いながら死んでいくのです。そのような恨の祈りが残されているのです。そのような人々の上に立っている責任者であるということを忘れてはなりません。何の話か分かりますか?(はい)。 考えてみれば、先生は誰よりもかわいそうな人なのです。なぜそのようにしてまでも先生は生きなければならないのでしょうか。神様を知り、人類がどこに行くべきかということを全部知ったがために、生きてきた結果が、このようになりました。何かを語ろうとすれば涙が先立つ心で、人類を見つめて、恨みの歴史の道をただ一人で歩んできたのです。 金サッカ(注:金笠、本名は金炳淵、李朝時代の放浪の詩人)の歌がありますね。(先生が歌を歌われる)「竹杖に、笠をかぶり…。放浪三千里。白い雲の峠を越えていく人は誰か。十二の大門の離れの部屋に住んで、乞食をし、一杯のお酒を飲み、一つの詩を残して去っていく。金サッカ」。これはまるで私のようです。先生はそんな生活をしてきました。父も母も兄弟も、皆私が冷たくして、この道を出発したのです。万国の歓迎を受けようとすること自体、間違っていることだと考えてきました。 先生が北朝鮮の監獄にいた時に、母がやってきて「なぜ私の息子がこんな苦労をしなければならないのか」と言って、涙を流しながらハッタイ粉を差し入れしてくれました。しかし、その母が見ている前で、それをみんなに分けてやったのです。毎月私には父母が訪ねてきてくれるのですが、興南には一年たっても誰一人訪ねてきてくれない人々がいるからです。しかし、そのようなことを知らない母は、目の前でハッタイ粉を人に分けてやっている息子を見てどんな気持ちがしたでしょうか。また、絹のパジとチョゴリを差し入れたにもかかわらず、いつも息子が着ている服は監獄で支給する囚人服であり、それも内も外も皆破れて風が吹けばひらひらするし、どんなに寒くても下着は一枚しか着ていなかったのです。そんな息子の姿を見た父母は、どんなに血の出るような思いをしたことでしょうか。涙を流して、「こんなことがあっていいのか!」と叫ぶのです。その時私は、母にこのような話をしました。「これは何ごとですか! 私は文なにがしの息子ではありません。その前に、大韓民国の息子なのです。また大韓民国の息子である前に、天地の息子なのです。ですから、彼らを愛してから母の言うことを聞くというのが愛の道理なのです。この私が決してろくでなしの息子ではなかったことを知って、どうか私にふさわしい母としての行いをしてください」と言ったのです。そのような母が生きている間に、私は足袋一つ、ハンカチ一枚も買ってあげられなかったのです。自分が住んでいるどんなに小さな草屋まで売っても国に忠義の道理の教えを残さずしては、振り返ることができないのです。先生はそのように生きてきたのです。 統一教会では霊界解怨をしますね? (はい)。先日霊界から論山ハルモニが現れて、「霊界を解怨する」と言うので、先生は許可しました。先祖の恨みを晴らして、良い所に行けるようにしてあげるのです。私の母親も今は霊界に行って、中間級にとどまっています。何かしてあげればもっと良い所に行けるのですが、先生は自分の母のために祈ることはできません。国を取り戻し、世界が安定するのをこの目で確かめて、「もういい」という結論を下すまでは、自分の母のために祈ることはできません。霊界は母だけの霊界ではなく、万民の霊界なのです。 文家の家訓 以前、文長老も霊界に通じて、こんなことがありました。愛国者の第一級の首謀者として生きてきた私の大叔父さん(文潤国翁)がいました。その人は立派な牧師であり、崔西南善と友達でした。李承晩博士が独立宣言書の起草をする時、大叔父さんも参与したといいます。大叔父さんは神学を勉強したので文筆を大変得意としました。しかし、愛国運動のために全財産を売り払ってしまい、牧師としてもやっていけず、官憲に追われて一生を逃げ回った人です。また独立軍のための資金が必要なとき、兄の家までも皆売り払ってしまった人です。上海臨時政府の軍資金として、当時のお金で七万円を贈りました。これは、当時としては大変な額です。また、おびただしい米やラジオなどを買って、ソウルを中心にして独立運動の組織も造りました。ある時には正にギャンブルのように、鉱山を買い、独立運動をして、兄の財産すべてお売り尽くして夜間に逃避しました。その時代は他に方法がなかったのです。私の母はそのような大叔父さんを見て、祖先の財産をすべて売り尽くしてしまったと思うのです。 先生が幼いころ見たその大叔父さんの姿は、とても背が高くて美男子でした。李博士とも友達であり、李博士が大統領になった時、旌善(ゾンソン)警察署からヘリコプターを二度も三度も送って、「李政権を助けてくれるように」と頼んできたそうです。その時に、李博士を助けてあげていれば、李起鵬が(注:当時副大統領であり、朴マリアの夫である。一九六〇年「四・一学生義挙」時、息子に殺される)あのようにはならなかったことでしょう。大叔父さんは宗教がどこに向かっているのか正しく知りませんでした。世界を救うために宗教家としてどうあるべきかが分からなくて、協助を拒んだのです。それで、私のような者が苦労することになったのです。 それで大叔父さんは霊界に行ったのですが、その功労のゆえに旌善の文氏の宗家で勲章を授与されています。そこには漢学者が多く、慶尚北道、江原道の東海岸一帯に住んでいましたが、彼らがつくった詩を大叔父さんは批評してあげていたからです。そのようにして他界したのですが、そのことを誰も知らなかったのです。それがある時、文長老の夢の中に大叔父さんが現れて旌善のある人の住所を教えて、「私はその人の庭のどこどこに埋葬されているから、訪ねてくるように……」と告げたのです。そこでその住所に手紙を書いて出したところ、返事が来たのです。 文氏の家系にはこのような霊的な出来事が非常に多いのです。それで文長老は大叔父さんお墓を移葬したのです。先生はこの大叔父さんを無視することができません。それで文社長と文長老を通して、坡州(パジュウ)に安住させるようにしました。今、坡州にあるお墓は、その牧師の大叔父さんの墓なのです。もし、上海の臨時政府に送った大叔父さんの手紙や記録が残っていれば、銅像を立てなければならないのです。先生はそういう愛国者の家の出身なのです。分かりましたか?(はい)。 先生がそのような家系に生まれ育った当時、私の家では日本人に追われて満州に移民していく人々をいつも助けてあげていました。数千、数万もの人々が列を成して定州を通過する時、私の家で御飯を食べていった人々の大部分は全羅道の人々でした。慶尚道の人々もいましたが、全羅道の人々のほうが多くいたのです。それで、統一教会の指導者も全羅道の人々のほうが多いのです。そのように、往来する多くの人々をお世話することで私の家はいつも人でいっぱいでした。母は彼らを接待するのに大変でした。朝早くから御飯を炊いていました。そのようにしてもお金は受け取らず、すべて奉仕したのです。これが我が家の家訓なのです。 八道江山のかわいそうな人々に御飯を食べさせる家は、八道江山を率いる主人になるのです。ですから、今日、先生のような人が生まれてきて、このような仕事をしているのです。当時の私の里の人々や、私の家系を知っている人々がもし統一教会の文総裁を「異端だ」と言うのを聞けば、口を引き裂くでしょう。彼らに聞いてみなさい! 私の家がどんな家だったのか。二十里以内の乞食たちも私の家を宿に決めていたというのです。乞食たちが来て御飯を乞うと、おじいさんは母に「お膳を持って行け!」と言うのです。嫁が恥じ入るくらいに、息子が恥じ入るくらいに、私の家に来るすべてのお客を接待したのです。 ですから、先生もそのような伝統によって世界の人々に御飯を食べさせているのです。今もイーストガーデンには百数十カ国のお客が泊まっていきます。しかし私の家で食べるときはあいさつなどしないようにするのです。またその中でみすぼらしい人がいると、お母さんは先生の洋服まで着せてあげるのです。「主人として、かわいそうな人々には御飯を食べさせて、服がなかったなら服も買ってあげなさい」と先生が言ったら、絹の服ばかり買ってあげようとするのです。これでは費用がいくらかかるか分かりません。(笑い)それでこの前、「普通の服を買ってあげなさい。このままでは全財産までなくし、統一教会までも売り尽くすようになってしまいます」と警告をしたのです。 氏族的なメシヤ権を与えられて 私は祖先の前に立っても堂々としていられるのです。また私は、母にも忠告したのです。「あなたの息子だと言うのですが、私はあなたが見て喜ばれるような息子ではありません。学校に行く時も常に警察に追い回されたり、日本に行く時も要注意人物として監視されてきました。また、様々な友達の学費も自分で全部稼いであげたし、あらゆることをしてきました。しかし、私は父母にハンカチ一枚も買ってあげませんでした。私は実に不孝な息子です。しかし、国の名と共に、世界の名と共に私は生きてきたのです。あなたの息子は親不孝だったと言われるかもしれませんが、私は親不孝だとは思っていません」と。これが皆さんが仕える先生の生活哲学なのです。 このような先生が霊界に行って解怨成就すれば直ちに良くなることを知っているので、文長老が霊界に通じるのです。私が行くと文長老に母が乗り移ってくると言います。母の霊が、息子が自分を見捨てたので寂しがっているというのです。そして悪口を浴びせかけてくるのです。それでこの前も現れて、「こんなことって、あってよいものか!」と言うのです。しかし私の霊界での立場を知ってからは変わりました。兄さんが、私が大事な人だということを教えたからです。 時を経て、今や宗族的メシヤとして先生が一族を率いていかなければならないし、文氏一族をしてこの韓国を指導してあげなければならないのです。それで、文氏を立てるまでは龍基(文長老)に、「あなたは絶対にアメリカに来てはならない」と言い、今まで招請をしませんでした。数多い韓国人がアメリカに来たのですが、彼は来れませんでした。しかし、今や時至ったので、アメリカに連れていって見物させてあげました。このようにして全アメリカを見物させて、ヨーロッパも見物させてあげました。かわいそうに彼の奥さんは、今まで私のためにどんなに被害を受けてきたことかしれません。それで、今回ヨーロッパまで見物させてあげたのです。お母様にも特別に頼みました。「今度は特別に親類なのだから…」と言ったのです。これは文氏一族を代表してやってあげるのです。それで私が帰ってきても、いつもお母様がいないのです。「どこを出歩いていたのですか」と尋ねると、「あなたが親族のお兄さんに良くしてあげなさい、と言われるので、一緒に市場を回って歩いていたのでこんなに遅くなりました」と言うのです。文長老の奥さんにも今まで布巾の一枚も買ってあげなかったのですが、今や摂理の時が訪れたのです。 これから、氏族的なメシヤ権を与えられて全国に配置される立場に立つために、イエス様が国境を越えて往来できる自由の権限を持つ世界版図圏をつくりました。ですから、先生はどこに行ってもそこが故郷になるのです。それで先生は韓国に住みましょうか、日本に住みましょうか?(韓国です)。もし先生が日本に住もうとすれば、日本のお城を買って上げたいというのが日本人の心なのです。どんなことをしてでも文総裁の住居には輝かしい建物を準備したいというのが日本人の切実な心なのです。日本人は数千年を通しての伝統的な武士道精神を誇る民族なのです。 ですから、先生はどこに行って住むのがいいでしょうか。日本に行って住むほうが苦労もないし、夜も昼も静かに休めるのではないでしょうか?(韓国です!)。韓国人は夜も明けぬうちからやって来て、私の家のドアをドンドンと叩きながら、「先生、私が来ました! 三十年前からこんなに信じていた私が来ました。分かってください!」と言うのです。(笑い)それで、その人の身なりを見れば気違いでもないし、鬼でもないし……と、そんなことを先生は毎日見ているのです。同じ息子、娘であったとしても、身なりを整えて常に毅然とした態度で臨み前後のことを良くわきまえて、天の面子を考えることができなくてはとても日本人には勝てません。 先生が公人としてこのような話をするのは、四〇〇〇万、いや六〇〇〇万の韓国人が、また韓国にいるすべての外国人がレバレンド・ムーンの話を聞くようにするためです。最近、編集している私の説教集は、今や一七〇巻を越えました。さらにカセットテープも作っています。「統一教会の人々は買ってはいけない」と言われても買って聞くことでしょう。それらの内容を知らなくては、これからは何一つ行動できないからです。そのために今度、「国際会議は、九〇年代からはすべて韓国語で行う。決して通訳を通さない。だから外国の食口には、会議に出席できるように韓国語を学習するように」と、再度宣言しました。これは五年前宣言していたものです。 先生が約束したことは、天の国に記録されるし、世界中の言論人や政治家に知れわたるのです。ですから先生の威信上、九〇年からの国際会議は韓国語で行います。英語や日本語では行わないと言うことです。通訳も使いません。それが嫌だと言う人は手を挙げてみなさい! 一人もいませんね。では、そうすべきだと言う人は手を挙げてみなさい。 そのように通告するのです。それでイーストガーデンには、韓国語の分からない人は入れません。それでもいいですね。どうしてこのような話をするかというと、文総裁が韓国語の説教集を世界に普及させる意味は、この国家や民族、全人類を上げても買えない宝がそこに入っているからです。それは世界的な学者たちが知っています。今やレバレンド・ムーンの研究のブームが起きているのです。 既成教会の信者たちは今も反対していますが、このことは今後、自分の後孫たちがその墓を掘って捨て去るようになるのです。それを避けることはできません。このように歴史に恨みを残すかもしれない者たち! どこに行って顔を上げることができますか! 万国が讒訴する中であなたの後孫たちは、その墓を探しに行くでしょう。お彼岸になってもその墓の周りの草刈りもして上げられません。その手で墓を掘ってしまうような日が来るでしょう。血族の名を消し去って、名字までも変えて外国に行って隠れて生きるそのような悲惨さが、彼らの後孫の行く道になるというのです。 先生はこのようにして、この民族の前に四十年間生きてきました。しかしまだ私が話していない多くのことがあります。これから、もし世界でレバレンド・ムーンを邪険に扱ったならば、かつての金サッカのように放浪の人にならないと誰が言い切れますか。そこの太った人はどこから来ましたか?(鍾路(チヨンノ)の教会から来ました)。鍾路教会の食口ですか?(はい)。何をするために統一教会に入りましたか? 統一教会に入ったからには、先生の従兄弟のようになり、先生に似るべきです。先生はこのように、韓民族の秘密を全部知っている人なのです。大統領の知らないこともです。 韓国では、今年は雨が降らないので凶作になるのではないかと言って騒がしかったのでしょう。先生は、韓国がこんな状態の時に金日成が南下しないようにと心配してきたのです。それで雨が降ったので、また間違いなく豊作になるだろうと騒いでいますが、皆さんは外的な豊作よりも内的な豊作を望むようにならなくてはなりません。 昔先生は貧しくて栄養失調になったかわいそうな人々のために、毎日二十里、三十里の道のりを池を探し歩いて、蛙を捕らえては食べさせてあげました。先生は幼いころからかわいそうな人を見るとそのままにしておけない性格なのです。今考えると、このような私の性格を神様が必要としたのです。今でも、世界のかわいそうな人々を見捨てておけないのです。ソ連の獄中にいる人々の所に行って、先生は門を開けてあげたいと思っています。この前、言論人体会にソ連の代表十二名が参加しました。私が彼らを招請したので、そのお返しにソ連の政府は、「レバレンド・ムーンが選ぶ言論界で有名な十二名の人々をモスクワに招待し、貴賓として案内したい」と言ってきました。また先生は最近ギャンブルについての研究もしています。最後にすべての悪を処理する審判官の席に立つために、それらの事情が分からなくてはならないからです。さらにアメリカでは、全食口にキス禁止令を出しました。そのように一メートルいないに近づけないようにして、自己防御するのです。 世界を指導する主体国民たれ では、いよいよ本論に入りましょう。もう十時になりました。きょうの題目は何ですか?(「韓国は人類の祖国」です)。韓国は人類の祖国だと言う、その言葉は実に素晴らしいものです。しかしその内容はどうでしょうか。この言葉を実現することは、韓国の大統領にも、韓国の政府にもできません。六〇〇〇万の国民が文総裁と共に歩調を合わせる主権が現れる時、この言葉が成就するのです。分かりましたか?(はい)。今は言葉だけが嘆いています。「私の定着地は大韓民国の韓半島」と言っているのです。 この祖国創建のためには、数多くの外国人が来なければなりません。彼らが祖国創建のために血と汗と涙を流す姿をこの韓民族が厳粛に受け入れて、真なる心から深く讃揚し、歴代の後孫たちの前に、血族の前に遺言とする民族にならなければなりません。そのような民族になった時、韓民族は第三イスラエルとして、世界を指導する主体国家になれるのです。そのことを、ただ信じる人であってはなりません。皆さんは知っている人なのです。先生がそのようなる外的環境を全部造っておきました。もしそれができないようであれば、その旗を日本に持っていってあげれば、日本はどうなると思いますか。その旗をアメリカに揚げれば、アメリカはどうなるでしょうか。その結果は七年以内に出ます。今のアメリカの上院、下院の国会議員たちや政財界の要人たちで、レバレンド・ムーンと関係ない人はいません。そういった人々が、今や「文先生には、私たちがいる限り責任を持って支援しますので、韓国からいらしてください」と言っているのです。 このようなすべての問題を解決するために、今回帰ってきたのですから、そのための歴史的背後をきれいに整える責任があるのです。分かりましたか?(はい)。それができれば、韓国情勢はすべて溶けていくことでしょう。いかなる人々がどんなに反対してきたとしても、先生は堂々として正義に立脚して宣告するのです。分かりましたか。 皆さんは永遠を追求する心を持っているのです。そのような皆さんの本心が永遠に根のようになっているのを悟るために、先生はそのような話をして、その永遠なる本心に深く刻んで保管できるような主人になることを望んでいるのです。分かりましたか。それで、先生によって捜し出されたこの祝福の恵みの宝物を、すべて後孫たちに残す相続人とならなければなりません。相続人とは何か分かりますか。皆さんが真なる相続人になることを願って、このような話をしてのです。このことを良く悟って感謝の生活をすべきです。 皆さんはそれを受けられる収容能力を備えるべきです。金氏であれば金氏を代表して統一協会員になったことを誇りにできる人にならなければなりません。最近は日本人も変わりました。昔は「文鮮明のやつが日本を滅ぼそうとする」と言っていましたが、それが発展して「文鮮明先生」と言うようになりました。これからはどうなるかというと、「お父様」と言うようになるのです。お父様とは何のことか知っているのです。そこまで発展してきました。また、アメリカもそうです。私を監獄に入れて殺そうとしていたアメリカ人たちも変わったのです。ソ連も同様です。かつては先生の暗殺計画を金日成と組んでいたのです。「一九八八年十二月までには、文総裁は地上からいなくなる。それまでは、国際的な会議は待つように」と言っていたのを知っています。それで二十五名を投入して先生を暗殺しようとしたのですが、皆捕まってしまいました。神様が守ってくださったのです。その一人は路上で検問中に風呂敷のようなものを持っていて、中に爆弾が入っていたので捕まりました。その人が首謀者でした。それは一斉検問で捕まったのです。ニュージャージー事件として、先生に報告がありました。それはCIAで全部調査して浮かんできた事実です。このように、先生は命がけで生きてきたのです。分かりますか?(はい)。このように共産世界にとっての一番の危険分子は先生なのです。先生は金日成の計画するその秘密を全部知っているのです。そんな意味で先生は怖い人なのです。彼らには怖い人であっても統一教会の人々にはお父さんなのです。 これからは、歴史上に愛を中心として人類の前に一つのプレゼントをしなければなりません。統一教会は真の親を捜してあげるのです。分かりましたか?(はい)。親をなくした人々に再び親を捜してあげるのです。彼らは、孤児の立場から親の懐に抱かれる喜びを与えてくれる栄光の恩師を、どのように迎えるべきでしょうか。「これからは感謝の涙で、万国の統一、天国統一、理想世界に向かって前進します!」と言った時、「ノーメン」と言う人は一人もいませんね。すべての人々が頭を垂れて、涙を流しながら「アーメン」と言うそのような環境を造る資格を持った代表こそが真の親なのです。分かりましたか?(アーメン)。(拍手) いまだ個人的な鏡を求めてさまよう青年男女は、文先生の若いころの鏡を見習いなさい、お母様の若いころの鏡を見習いなさい。さらに家庭の鏡、社会生活の鏡を見習って従ってきなさい。私に勝利できなかったことは何一つありません。先生は思想闘争においても、共産主義の理論を消化する基盤を造ったのです。アメリカに行って、有名な学者たちに先生のことを聞いてみなさい。科学技術の世界においても、言論界においても、さらに情報世界においても、すべての方面において先生は多くの悪口を言われる中で収拾してきたのです。今日ではそれらの団体が開催する多くの大会で、「総裁を一度お招きして講演を聞きましょう」と言うので、先生は大忙しなのです。ですから、皆さんはこのような先生を持ったことを誇りとして、内外を整えて実績ある統一協会員にならなければなりません。先生の名を汚すような者になってはいけません。 さて、きょうここに集まった人たちはどういう人たちですか。皆さんは本物でしょうか、偽物でしょうか。本物と偽物の中間は何ですか、何と言いますか? 間抜けと言うのですね。(笑い)韓国の辞典で「間抜け」というところを引いてみると、「ボーッとして自分の身持ち一つできない灰色分子」と出ているのです。きょうここに参席した皆さんは、「間抜け」という言葉を使っても構いません。このように先生は、英語でもたくさんの造語を作っておきました。日本語も多く作っておきました。これから世界辞典の中に、先生の造っておいた単語が五分の一は出るようになるでしょう。新しい言葉を作ったのですから、私たちの図書館にしかないのです。気持ちがいいですか、悪いですか。もう昼食の時間になりましたので、私が中国料理でもごちそうしてあげるべきでしょうか?(結構です)。言葉だけで終わらせてしまうのは寂しいでしょう。(笑い)きょうは、「中国料理をごちそうしてください」と言われれば、先生はごちそうしてあげます。なぜかというと、きょうは六月十八日だからです。これはサタン数のすべてを清算する日なのです。一九八九年、九数なのです。六月十八日の数は、サタン世界のすべてを除去し解放の門を解放する話をするべき日だからです。 氏族的メシヤとして祝福家庭を全世界へ配置する これから、いよいよ韓国がこの地球星に登場するのです。レバレンド・ムーンいわく、「韓国は人類の祖国」と。この言葉を否定して、世界中に歓迎されるこの群れを止めることのできる自信のある人は出てきなさい! 今後、「レバレンド・ムーンの提唱することは、西欧社会でも正しいことです」と言われるようになった日には、すべて終わりです。分かりますか! これから先生は、「再臨主・文鮮明」としてワシントンに入ると言えば、「Ok」と答えるようになっているのであって、「ノー」と言う人は誰もいません。イエス様はイスラエルで勝利できず、ローマのピラトの法廷で十字架に掛けられて亡くなりましたが、このレバレンド・ムーンを捕らえて十字架に付ける人は誰もいません。これからは『ワシントン・タイムズ』を通じてホワイトハウスに入っていくのです。 それで、これからは黒人の大統領が何代も続くのです。有色人種を大統領として立たせるのは、このレバレンド・ムーンの責任なのです。スペイン系の人々は六カ月もあればすべてレバレンド・ムーンの懐に入ってきます。黒人も皆レバレンド・ムーンの懐に入ってきます。その次に、少数民族が同様に私の懐に入ってくるのです。このように、先生はアメリカでも有名人名人なのです。ニューヨークなどでは、アジア人を見ると「あなたは韓国人ですか?」と聞かれるほどです。それで中国人であれば、「私は違います」と言います。そして聞かれた人は「どうしてそのような質問をするのですか」と言います。すると、「レバレンド・ムーンを知っていますか」という答えが帰ってくるのです。 先生はこの手でもって、すべての基盤を築き上げてきました。船が必要であればどんな船でも造ることができます。これからは雨の日も晴天のような生活ができるように、家庭的小型潜水艦の住宅を造ってそこにも住むのです。さらに、これから空中で暮らそうとすれば、まず一年分の食料を準備しなければなりませんが、火熱で御飯を炊いてはいけません。科学的化合物の食料でなければなりません。そのような栄養素を持っているものは魚しかないのです。そこで、すべての魚を養殖して世界に第二生活革命を起こすのです。住宅問題でもそうです。先生はすべてを成してきました。その代わりに統一教会員には苦労させましたね。それを歓迎しますか、しませんか?(歓迎します)。そういう統一協会員は本物の統一協会員ですか、偽物の統一協会員ですか、間抜けな統一協会員ですか。どちらですか?(本物です)。それは皆さん自身が知っていることです。神様が知っていることです。皆さんそうですね。白昼、先生の前で天地が見ているのです。 それで先生のきょうの話の結論は、「大韓民国は人類の祖国である」ということです。このことは皆さんが成さなければ、日本人が成すし、西欧人が来て成すのです。今やそうせざるを得ない時が来たのです。これから民族の大移動が始まるのです。この統一教会に反対する人は韓国の地から移住していかなければなりません。 かつて先生がヨイドに一二〇階の世界宣教本部を建てようとしたのを、当時の政府が反対したのです。それで仕方なく今は準備して待っているのですが、その時が来たならばアッという間に建設するでしょう。先生は毎日のように国際会議を開くので、狭い土地に建てたくはありません。先生は広い場所を選んで本部を建てたり、学校を建てるために、一九八〇年までに全部準備しておきました。大学校を建てたいと何回も認可を申し込みましたが、認可が下りませんでした。しかし文総裁は何度でも立ち向かって戦います。平民党など問題ではありません。今やアメリカもソ連もレバレンド・ムーンを恐れているのです。先生はそのような実力を持っています。『ワシントン・タイムズ』を持ってすれば、韓国政府のすべての機関は三週間で消化できます。政府内の隠されたすべての秘密を明らかにするのです。 また、ドイツも機械工場を通して、レバレンド・ムーンを後援しなければ生きる道がありません。かつてアメリカの悪名高いある言論人が問題を起こして、レバレンド・ムーンを故意に苦しめるような結論を自分の弟に話しました。その言葉が遺言となってその人は四ヶ月の後に機械に挟まれて即死することになったのです。 そのようにドイツを中心として、十年の歳月をかけて、ドイツの工業技術、日本の電子技術を準備しておきました。ですから、これを韓国と日本に連結しなければなりません。 今日まで先生は多くの資材と組織を投入して、夜昼なく忙しく働いてきましたが、それはなぜかというと、神様のみ旨の中心であるこの国が人類の祖国となるために、内外の容貌を整えなければならないことを知っていたからです。今日直ちに隊列を組んで進軍命令を下せるように、すべて基盤を整えました。皆さんはこれから大きなことを成さなければなりません。その自信がありますか! 先生がなぜこのような話をするかというと、気をしっかり持たねばならないからです。統一教会は流れ去る教会ではありません。銀でも金でもありません。白金なのです。 それで今回先生は、すべて氏族的メシヤとして祝福家庭を全世界に配置します。それはなぜかというと、イエス様は十字架で亡くならなければ将来ローマ帝国へ行って、地上天国の先祖となり、伝統的イスラエル選民権を全世界に拡張する基盤を造られたのです。サタンはそこで後退するようになっていたからです。 今日、ソ連や中国が崩れていくのです。すべての国々、すべての人々の生きる道は、レバレンド・ムーンの道となるのです。そのようなレバレンド・ムーンに対して、この国は蔑視してきたのですから、皆さんがその責任を果たさなければなりません。そうでないと全部外国人に渡してしまわなければなりません。南米のブラジルに、「今から国を準備せよ!」と言った時に、もし受け入れ態勢ができていれば、先生が今日まで準備してきたすべてをそのままその国に渡してあげるのです。 この大韓民国は、先生に対してお金を一銭でも出して助けてくれるのでもなくただ反対しているだけです。先生が準備してきたすべてを大韓民国から全部移していくかもしれません。中国はそれを知っているのです。「どう見てもレバレンド・ムーンは独自的であり、西欧社会の反対を防ぎ、アメリカの反対を防ぎ、ソ連の反対を防ぎ、日本の反対も防いで堂々と生活されている心の大きいお方である」と言うのです。中国はまるで、夜中に男の部屋に訪れる女性のように必死なのです。それは死ぬか生きるかの戦いなのです。これはこのような経験のない女性には分かりません。「あなたを主体として、私はあなたの願いのとおりに生きていきます」という姿なのです。それで、三十年間約束したのです。「三十年間、私の手に任せてください!」「OK!」となったのです。 中国政府は、大韓民国の政府よりも先生を信じているのです。聖書には、「和解させるものはサタンの子である」と記されていますか?(いいえ)。では何と記されていますか?(神の子です)。それで、漢南洞公館会談を提議しているのです。そうなると、一夜で国会議員たちが先生と一つになるのです。先生はそのように生きているのです。 私という存在は父母の愛の同参者である 統一教会の皆さんは、いつまでも自分たちの知っている先生のみを思ってはいけません。先生は農村に行けば農村の指導者であり、船に乗って海に出れば船長を指導する人になるのです。この文総裁にはできないことはありません。鉱山に行けば、鉱夫となって支柱の立て方も教えてあげられる人なのです。炭の焼き方一つをとっても先生にできないことはありません。ですから、統一という看板を掲げて今日まで戦って勝利してこられたのです。皆さんが助けてくれたので勝利したのではありません。皆さんが助けてくれなくても勝利できたのです。これが先生の誇りなのです。 先生は十五年間韓国にいませんでしたが、この間韓国にいた皆さんが先生を助けてくれたのでアメリカで成功したのでしょうか?(違います)。では誰が先生を助けてくれたのでしょうか。西洋人たちが反対する中で、今日の成功の道はどこにあったのでしょぅか。神様が先生を助けてくれたので、今日成功したのです。皆さんはこのことを正しく知らなければなりません。先生はそのことを知っているから勝利できたのです。 韓国もアメリカも、世界中のどの国も先生を助けてはくれませんでした。いかなる指導者たちも、いかなる教団の責任者も先生を助けてくれませんでした。むしろ先生から盗んでいこうとする人が韓国人の中には多かったのです。統一教会で先生を利用する多くの人々が出てきました。皆レバレンド・ムーンを偽ってあらゆることをしました。先生は多くのことを経験しました。先生を利用しようとした者たちは、統一教会の者なのです。だからといって先生は復讐することはできません。愛するためにはそのような経験を経なければならないのです。そのようにして、先生は生きる道をすべて整えてきたのです。もはや私には、この世界、霊界のどこに行っても神様が歴代の聖人たちを動員して道案内をさせるようになっているのです。何の話か分かりますか?(はい)。ここで先生が決定してお祈りすれば、それが天の憲法になるのです。これほど恐ろしい人はいません。先生は今まで一度もこのような話はしませんでした。しかし、今日は決定的な話をするのです。 韓国がどうなるのですか?(人類の祖国です)。何の祖国ですか? (人類です)。それは、亡国の人類ではなく、生きる国の人類なのです。では、何を中心としてですか? (真の愛です)。真の愛ですか、この宇宙は神様の愛から出発したのです。(先生が板書される)。皆さんはここから起因されているのです。「私」という存在はどこから生まれてきたのかということを考えてみた時、お父さん、お母さんの生命から生まれてきたのではありません。私の起源は愛なのです。愛から生まれてきたのです。私とはお母さんとお父さんの愛の同参者なのです。これは偉大なことです。有史以来の人間の最高の秘密とは、私という存在は父母の愛の同参者であるということです。父母を連結させた核の同参者です。中心なのです。父母が死ぬほどに私を否定すれば、天地の道の前に因縁がなくなり、堕落世界の悲惨が演出されるのです。万世に続く愛の伝統は父母の道を通して連結されなければなりません。ですから親は命を懸けて子供を守り抜く責任があるので、子供のために死をも選んでいくのです。それは愛の伝統を残していくためです。分かりますか?(はい)。 皆さんの生命の起源は生命が先ではありません。愛なのです。愛を核として、お母さんの生命とお父さんの生命が一つに交わって、すべての精髄を吸収して自分という血統を受け継ぐのです。血統の起源は愛であり、父母の生命なのです。皆さんがもし数千万代の後孫として生まれた場合、父母を通じた先祖の愛の因縁の細胞が私の生命に生きるのです。私の血と共に生きているのです。このようなる愛の脈拍を通じた夫婦の愛の統一的な基盤の上に、皆さんの生命が転授されていくということを知らなければなりません。血統が転授することを知らなければなりません。ですから、親は子供を捨てられないのです。そうなると、自分の生命を断たなければなりません。それは、自分の愛の起源を無視することになるからです。その存在価値を否定し人間として没落する親に対して、無視するような人は存在の環境に対処できないことを知らなければなりません。これが公式的な結論です。絶対、父母に侍らなければなりません。分かりましたか?(はい)。 このように自分の生命は絶対的なのです。ですから女性も、絶対的な夫、真の男を得たいと言うし、男性は真の女を得たいと言うのです。それはなぜかというと、根本が真の男女の愛から出発したものであり、それが起源だからです。そのような伝統的万世人類を通じて、垂直的に下りていかなければならないのです。横には行けません。ですから、親は子供の前に垂直の道を行く責任があるのです。このように親は生命を越えて愛するのです。これはすべての動物世界でも同じことなのです。 私たちが自慢できるものは血筋のみです。今日まで大韓民国はアジアにおいて、世界の諸国の民族の中において特殊な民族でした。それはなぜかというと、大韓民国は白衣民族の血筋を持っているからです。「族譜崇尚(ジョクボスンサン)」(先祖を崇めたたえる)を第一とする民族は韓民族しかいないのです。これは閉鎖的な思想ではありません。天理が訪れるための人類歴史の残された課題を解いているということを知らなければなりません。この課題の答えが出そろう時には、愛の根源の神様が、結実するために安息地へ訪れるというのです。分かりましたか。 この中で、親不孝を願う人は手を挙げてみなさい。もし愛において、自分の生命の起源を無視して生きている存在があるとすれば、そのような男女の生命体は、不孝と見なければなりません。愛は転から降りてきた、親の血筋を通じて受け継いだ生命なのです。そして、私が子孫に受け継がせるべきものなのです。このように血筋を通じて受け継がれていくことを知らなければなりません。愛が爆発するところには、必ず生命が生まれてきて、その血が激動するのです。 女性も恋をするようになれば顔中を真っ赤にするのです。胸がドキドキするし、雷が鳴り、大雨が降り、稲妻が走るように、すべての出来事が自分で収拾できないほどになります。何がそうさせるかというと、愛の力がそうさせるのです。愛の力だけが男性の生命と女性の生命を同位権に格化させます。最高の頂上の座に登っていき、プラスとマイナスになって、二人が愛して死ぬか生きるかという時には、稲妻が走るようになるのです。雷が鳴って、地上に生命を育てる雨が降るのです。その時すべての万物は、水を通じた因縁の中に蘇生するのです。それは、浄土と同じなのです。 神様は縦的な父母であり、地上の真の父母は横的な父母である このような原理を知ってみると、雨が降る時には天地調和において、陰陽の理において、陽電気と陰電気が新郎と新婦を迎えるためにさまよっているというのです。雷が鳴ったり、稲妻が光ったりするのはなぜかというと、自然界を通して人間に最高の理想的な愛を教えてくれる教材なのです。自分の後孫に生命の因縁を受け継ぐために、雨が降るように、愛のプレゼントをあげれば、地上に緑の万物が蘇生できる栄光の基が連結されるのです。分かりますか?(はい)。 ですから多くの息子や娘を持った人は不孝ではありません。このことを知っているので、文総裁には子供が多いのです。ちょっと大変なようですけど正月生まれの子がいて、二月生まれの子がいて、三月生まれの子がいて、六月、七月と、それぞれに春夏秋冬と季節は皆違うけれど、性格は似ているのです。しかし皆特性があるので、親の立場から見れば本当に楽しいことばかりです。皆がそれぞれ自分の個性を持っていても、父母を中心として春夏秋冬、四季を通して一年三六五日、十二カ月に分かれていても、すべて父母に歩調を合わせて、父母が東に行けばみんなついて来るのです。好き嫌いもすべて父母に似るのです。私の子供のころに似て顔立ちがいいし、スマートなのです。よく自分の子供の自慢をするのは親バカだと言うけれども、それでもいいのです。なぜかというと愛らしいからです。(笑い) 先生が韓国に来ている間に、アメリカの享進(様)から電話が来たとお母様から報告を受けました。父母に朝のあいさつをするのは我が家の伝統なのです。いつも子供たちが学校に行く前、ドアを開けてあいさつする習慣があるのです。それでドアを開けて入っては、「お父さん、お母さんがいらっしゃらないけれど、どこに行かれたのですか?」「どこにって? 昨日から韓国に行くからみんなにあいさつしたでしょう」「いやー、そうだった。お父さんは、韓国に行かれたんだ」と言ってしょんぼりして学校に行ったそうです。この子の名前は享進(様)というけれど、とても聡明なので、これから統一教会において大きな仕事をするだろうし、とても必要な息子になると私は見ています。それで先生は彼をロープと呼んでいます。家でも学校でもロープと呼んでいます。また絵を描けばいつでも一等なのです。三十万児童が参加した全世界芸術大会で一等になって金賞をもらいました。歌もうまいし、話しも上手だし、多方面で父親に似ているのです。(笑い、拍手) それで享進(様)を見て好ましく思わない人はいません。ボストンの先生も好意を持って、わざわざ学校に電話を掛けてきて、享進(様)のことを全部聞いたそうです。それで、学校の先生たちが、「あなたの安否を問う電話が来たよ。ボストンの先生に電話を一本入れたらどうですか」と言ったのです。それで電話を掛けると、その先生がとても喜んで「私の愛する人よ」と言って、大騒ぎしたのです。そして、「一度ボストンへ遊びに来てください」と言われたそうです。享進(様)の目は、内的感じが異なっているのです。愛がそうさせるからです。その目を見ていると享進(様)のために何かやってあげたくなるのです。それが、宇宙の宝物を伝授するための因縁を結ぶ最上の位置なのです。 そういう意味においても、イエス様は誰よりも人々を愛したのです。それでは、その愛はどこから生まれてくるのでしょうか。これが問題なのです。そのためには、哲学的に愛の本質を明らかにしなければなりません。愛の本体論を研究しなければなりません。このことが今日まで解決できなかったのです。それは、神様がいかなる方であるのかが分からなかったからです。しかし今や、そのことを統一教会の文先生は五分以内に理論的に全部教えてあげるのです。 統一教会の女性たちはアメリカの五十州において、あらゆる活動をしています。そんな中で統一教会の男性たちは大変なのです。妻が愛を持って見つめてくる時、そこに焦点を合わせてあげなければならないのですが、その焦点が正しく合わない場合は、いかに愛の因縁を結んでも破壊の生命が連結されるのです。ですから、真の父母を通して愛を伝授しなければなりません。天が真の父母を通して歴史を引き継いだがゆえに、すべては統一教会の文先生のみ言を中心としているのです。神様は縦的な父母であり、この地上の真の父母は横的な父母なのです。このような縦横の父母が連結して、激動して、血肉的に生命の因縁を連結させたのが新しい生命なのです。そして宇宙最大の発動の作用によって、愛の決着地として生まれてきたのが私たちの生命であるというのです。このことは誰も否定できません。ですから、そこにおいて、九十度の角度で出会わなければなりません。そして、転を愛するように父母を愛さなければならないし、天と父母を愛するごとくに兄弟を愛さなければなりません。自分の家庭と父母を愛するごとくに万民を愛する人が、天国の民の資格者を得て入籍することのできる人です。分かりましたか?(はい)。 先生はこのようなことを教えたあげることにおいて最高の人になったのです。この地上において、全教育資格を持っているのです。もし「あなたはそういう教理を語っていますが、そのように生きてきましたか」と問われた時、「私はこれからそのように生きようとしています」と言った場合、私について来る人がいるでしょうか。ですから、文総裁はすべて自ら体験した後で教えてあげるのです。そのことを知らなければなりません。統一教会の原理の内容は、すべて先生が体験してから教えたものです。既成教会の牧師たちは献金のために説教するのですが、先生にはその必要がありません。雀たちは、食べたいと思えば自分自身で虫を捕まえて食べるのです。自主的に経済力と愛において、宇宙的な主体性を持っていかなければなりません。 金日成は、人間の主体性、自主性、創造性、意識性だとか言っていますが、そこに愛という言葉は一言もありません。神様や宇宙という言葉は一言もありません。金日成は自分が生命の中心だと言っています。そんな言葉で人間を愚弄しているのです。それなのに、韓国で何も知らない人々は、「金日成、万歳!」と叫んでいるのです。今やアメリカでは、大学街で文総裁の写真を持って歩く運動が起こっています。文総裁の思想を知らなければキャンパスの中で話もできない時代が来るのです。これは宣伝ではありません。 これから皆さんは、生命をどこに投入するべきでしょうか。愛をどこに投入すべきでしょうか。それは息子、娘に投入するのが定説です。自分は世界を代表した生命を持っており、世界を代表した愛の主人公であるということを知らなければなりません。そのようにして、主体なる神様に仕えて縦的な血統と、横的な真の父母の愛を中心として、天と人の統一的愛の基盤の下で、生命の因縁を通した血統的伝授者としての父母たる資格を誇ることができなければなりません。女性の体は、女性のものですか、男性のものですか、幼児のものですか。女性の胸が大きいのは自分のためですか、腰が大きいのは自分のためですか。女性のためにできているものは何一つないのです。それらは皆幼児のために、夫のためにできているのです。先生がこれらを全部突き止めたのです。人はどうして男性と女性に生まれてくるのでしょうか。なぜ万民平等権を主張するのでしょうか。それもすべて愛によるのです。女性は絶対的に男性のために生まれたのです。これは否定することのできない論理です。そして、愛のためなのです。そのような愛の主人の男性が現れるまで、二十四時間いつでも秘密の王宮の鍵を掛けて待っていなければならないのが女性の責任なのです。 このような天の理論的な家庭を通した公式的な論理的愛の規範に従って、音楽の曲調に会わせるごとく人生行路の軌道を前進するところに、進軍のラッパが鳴り響き、人々の美しい踊りがあり、芸術が生まれるのです。このように自らは、すべての環境に結んできた愛の展示場なのです。「海よ、踊れ! 風よ、吹け! 荒涼たる野原よ、広がれ! 山よ、厳しくあれ!」と。すべてに「OK」なのです。先生はそういう理想主義者です。それは何の理想主義者かというと、妄想的理想主義者や敗北的理想主義者などではありません。万国が粛然となって尊敬せざるを得ない愛の理想主義者なのです。(アーメン)。皆さんも一度はそうなりたいと思う人、拍手してみなさい。(盛大な拍手) 万国に愛の家を建てる 先生がうれしければ皆さんもうれしいのですね。もう先生の下腹は力がなくなりました。ここで昼食を食べてまた話を続けましょうか。(笑い)先生は皆さんが良ければ、いったん話し始めれば最後まで語り続けるのです。皆さんには初めて会ったのになぜか別れ難いですね。それはどうしてかというと、民族愛、人類愛、世界愛、宇宙愛がここに絡まれているからです。その愛の中に入れば入るほど、夜も昼も問題ではなく、年を取るのも問題ではなくなります。万民はこのような統一の世界を望んでいるし、万国はこのような平和の世界を望んでいるのです。 何を持って一つの世界にできるのかというと、権力ではありません。ナポレオンもムッソリーニもチンギスハンにもできなかったのです。それは愛の偉大なる力をもってこそ可能なのです。文総裁は今それを成しているのです。万国に愛の家を建てるのです。それらはだんだん大きくなっていきます。そして、この家を壊すことのできる人は誰もいません。そこに入ってみると、誰もが好きになるような何かがあります。これに背を向ける理由がないのです。幼児も好み、青年も好み、今に死にそうな老人もこれをつかんでいこうとするのです。 先生は愛の天理を知っています。天理の運命の道に順応する父母の崇高な精神の前に、私は承服したのです。その時、母は私が統一教会の教主になる道を行くことをどんなに反対し、叱ったことでしょうか。しかし、母がどんなに反対しても私はこの道を歩んだのです。もし私がそのような母の言うことを聞いて孝子になっていたならば、この統一教会は地上に生まれてきません。もしそうなれば、人間は苦海から解放されることができず、息詰まる中で死んでいくのみです。誰もがこの世の中の人たちを解放してあげることはできません。 皆さんはこの文総裁によって開放された人なのですね。そうですね? では、統一するには何をもって教育するのでしょうか?(愛によってです)。何の愛ですか?(真の愛です)。それは縦的な父母が公認し、横的な父母が公認する愛でなければなりません。 神様はいかなる方かというと、私の縦的な父なのです。今日までこれが分からなかったのです。これが結論なのです。もし縦的な父の前に九十度の角度で合わせることのできる真なる横的な父母が共同して、縦的横的愛においての相続を受けていたならば、人間に苦しみはなかったのです。これが万国を治め、万世を主管できる根っ子となったのです。この根っ子の伝統的な精神を通してのみ幹が伸びていくのです。さらに、そのような幹に従って枝が伸びていきます。ですから、人間は悲しい存在ではありません。本来は愛のために生まれてきたのです。愛から生まれて、愛の中で育って、愛の中で愛し合いながら生きて死んでいくのです。神様がすべての人々を実りとして刈り入れるために、愛する万国の人々のために、一番正しい標本として捜し求めてきたのがメシヤ思想なのです。そのメシヤ思想を中心とした一つの男性の核、女性の核が真の父母なのです。それで統一教会の文先生は何の父母だといわれているのですか?(真の父母です)。愛を中心としての縦的な父が神様のです。縦的な位置は一つであり、絶対的です。それで、神様がアダム、エバを生めばいいのです。アダムとエバは横的です。縦的な基準を横的に広げると三六〇度になるのです。もし、縦的な位置が動けば天地が乱れてしまいます。 神様は、永遠なる真の愛を中心とした宇宙の太初から、万古の中心であり、不変の終末まで循環の原理を永遠に持ちこたえることができる縦的な軸の起源の真の愛の方です。これを変えることのできる人は誰もいません。その神様も、この愛には従わなければなりません。神様は絶対的な大王なのですが、愛の前では相対的なのです。 男女が夫婦となって生活をする時には、お互い愛を与えたいでしょうか、受けたいでしょうか。与えて受けるのが原則なのですが、与える前に受けたいでしょうか?(受けたいです)。その受けたいという思いはどこから来たのですか。神様は愛を与えたいでしょうか、受けたいでしょうか。これと同じなのです。神様に「あなたは愛を与えたいですか、受けたいですか」と聞いた時、どう答えるでしょうか?(受けたいです)。そうです。神様も受けたいのです。その愛を中心として絶対的な立場に立ちたいというのが、愛の原理、世界の原則なのです。それゆえ、神様が絶対者だという時には、愛における絶対者なのです。愛を絶対的に立てたので、神様も愛の法度に従って生きることを好きにならなければならないのです。分かりましたか?(はい)。 では、神様が最も絶対的な価値として、永遠に保存される属性とは何でしょうか? それは愛の属性なのです。それはどうしてかというと、全部絶対として与えなければならないので、損をするのですが、愛のみに受けることのできる要素があるために、自ら均衡を取ることができるのです。これは論理的にも正しいことです。 神様はいかなる方かというと、縦的な真の愛を中心とした父母なのです。ですから堕落しなかった立場として、人類を真の愛の縦的基準に結ぶためには、九十度の角度で連結させなければなりません。七十度で連結させてはいけないのです。そこにおいての理想的な連結とは、球形になることが一番好ましいのです。丸いボールのようにです。それには、愛の前に最高の理想の距離を中心として九十度線上に水平線を描かなければなりません。分かりますか。理想的な縦的決着地を、横的に探し求めて一つにならなければなりません。男性と女性が、神様の縦的基準の前において九十度の角度で愛を結び接ぎ木されることが、神様の願う最高の理想的な定着地なのです。これが宇宙の根本なのです。 それで、堕落しない真の愛を中心として縦的な父母の前に、九十度で連結された真なる父母がその愛を経て、縦的に激動することにより、横的な父母の激動となり、そこから縦横の種となって結実して生命として生まれてきたのが私たち人類なのです。そして本然のアダムとエバの息子や娘となるべきだったのですが、アダムとエバが堕落したがために、これらが狂ってしまったのです。縦的基準の前に十五度になったりして、駄目になってしまったのです。 ですから再創造歴史を通して、再び新たなる男性が現れてこなければなりません。そして、神様の九十度の愛の中で垂直に立たなければなりません。垂直は一つしかありません。では、愛というものはなぜ垂直が必要なのかというと、それは愛が最短距離を通るからです。愛する人たちは最短距離で出会うことを願います。愛は最短距離を通り直行するのです。ですから、神様は愛が訪れてくる時には最短距離を通さなければならないのです。 そのことを論理的にどのように解明するかということが、先生が最も苦心した問題です。愛は最短距離を通るということを知った時に、先生はうれしくて狂ったように踊り回ったことを今でも忘れることができません。宇宙とは、このようになっているのです。そのような縦的な因縁を結ぶためには、男性は東に女性は西に行って、神様が九十度の線を正確に整えた時、そこで平等的に接触するのです。もしその時、一歩でも後になれば失敗です。同時に爆発するように、統一的な生命の激動点を中心とする神様の愛の生命自体、父母の愛の生命自体となって、愛の定着地を迎えて、それを引き継いで生まれる男性や女性にならなければなりません。 愛において、良心とは何でしょうか。どうして良心があるのでしょうか。良心とは、神様の愛を中心として縦的父母を引き継ぐことのできる血統的相続の基準なのです。そして体は何かというと、縦的な真の父母の前に九十度の角度で、横的な真の父母と愛で一体化できる基準に歩調を合わせるためのものなのです。ですから体は縦的な自分の前に、絶対的に横的な水平線を描くことができなければなりません。体とは横的な自分であり、良心とは縦的な自分なのです。また、良心の命令が体の主体となります。これらを全部、哲学的に理論的に明らかにしたのです。 愛の出発は為に生きることから それでは、このような統一はいつから始めるのでしょうか。自主的愛というものを神様が絶対として定めなければ、神様は統一的基盤を持つことができません。孤独な神様になってしまいます。それゆえ、一つの理想的なモチーフが必要なのです。愛を中心とするところにおいては、自らすべてのことを成して、その後には受けたいと思うものです。先に為に生きてこそ正しいのであり、愛の出発は為に生きることからです。その後には戻るべきであり、その時が成熟期なのです。 皆さんが、お父さんやお母さんに育てられて、大きくなったらお父さんやお母さんを愛することと同じです。すべてに成熟する時が訪れるようになると、相対的価値を求めて世界のどこにでも東西南北の四方のすべてに因縁を結ぼうとするので、縦的な神様も横的な体のようなものが必要になるのです。このように見た時、アダムとエバは愛を中心とした神様の外的な体であったというのです。分かりましたか?(はい)。ですから、「天之人主義」とか、「人之天主義」というのもそこから出るのです。 祈祷をする時に、「神様、どこにおられるのですか」と祈ると、ここに来られているというのです。心の中にいるのです。どうして心の中に入っているかということの論理的説明は、文総裁が苦心して探求した結果の特許品ともいうべきものです。愛の道とは最短距離であり、紹介者は必要としないのです。愛する妻を訪ねていく夫に、愛する夫を訪ねていく妻に紹介者は不必要なのです。ただ、「あなたがここに来て一つになれば、天下のすべての生命の相続を受け、すべての物質の相続を受けるのです」という道理、原則が待っているのです。それは宇宙の理想的相対を通じた愛の因縁に従って、その生命の結果に従って調和と統一の喜びと愛とが生じるのです。六十兆にも及ぶ細胞の内外に、男性と女性と神様の愛を完全に統一できる力というのは、造作された愛ではありません。神様の縦的な愛、真の愛でなければできないことです。心と体をいついかに統一するかという問題は、真の愛でなければできません。 その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。これは理論的にも一致するのです。このように見た時、人の目は垂直になっていなければなりません。鼻はアダムとエバを象徴しているし、目は神様を象徴しています。歯は万物の象徴です。三十二本の歯は、四掛ける八,イコール三十二であり、万物世界の表示的象徴なのです。そして、これらすべてのものは生殖器で結実しているのであり、これは生理学を研究すれば分かることです。そこはすべての生命の激動の始まる所であり、結実する所なのです。それが一〇〇パーセント解放されて、完全統一されるのは男性と女性がお互いに主人を求める生活から始まるのです。それでは、男性の体は誰のものでしょうか。男性たち答えてみなさい?(女性のものです)。男性のものの主人は誰ですか?(女性です)。女性のものなのです。他人のものを自分のものとするのは盗賊です! 他人のものを自分のもののように振る舞う人は盗賊です。盗賊は万国の逆賊です。 このような真理のすべてを、先生は血と汗とを流して捜し出したのです。皆さんは価なしにそのような真理を持っていくのです。神様は偉大な方です。すべてを与えてくださったのです。分かってみると、すべて私のうちにあったことです。このようなことも知らないで一生涯を過ごした人は、どれほど苦しかったことでしょうか。人生問題において、今日まで神様が誰なのかということが分からなかったのです。神様と人間がどのように関係を結ぶべきかということが分からなかったのです。私の生命の祈願であり、私のすべての血統的祈願であり、万世、私と切り離すことのできない神様であるということを知らなかったのです。愛によって神様と結ばれているということを知らなかったのですが、その道理の合格者になるには霊界において十二の真珠門を通らなければなりません。 ですから男女平等権という言葉も、垂直を通して、九十度を備えた理想の愛による決着点を描いて行動する男女の愛の中心として出てくるのです。分かりましたか?(はい)。息子や娘たちは前後の九十度です。ですから、この九十度にすべてを合わせなければなりません。そして理想的家庭を築かなければなりません。すべて家庭には三代が住んでいます。おじいさんがいて、壮年がいて、少年がいるのです。分かりましたか? 隣人を自分のお父さんやお母さんのように愛さなければなりません。万民を自分の息子や娘のように愛さなければなりません。神様を愛するごとくに万国を愛さなければなりません。このような心情で私たちは統一の国を恋い求めなければなりません。それは私たちが永遠に生きることのできる愛の中心とした理想天国だからです。アーメン。(アーメン)。そこにおいてすべての幸福が得られるからです。 心と体の統一を果たせば、霊人体と体が九十度で爆発して、回り回って宇宙に来てぶつかり合ったとしても、お互いが助け合うし、破壊力を持たない一番安全なものとなるのです。皆さん、サッカーボールを水に浮かべておくとどうなりますか。それがサッカーボールであることを知らせずに、槍を持って突くことができるでしょうか。少しねじれると突くことはできません。しかし、ただ一つの真理の道理を通して、その底辺にある軸の垂直に通じるところでのみ突くことができるのです。「家和して萬事成る」という言葉は、そのような論理から出てくるのです。そこが一番安全であり、永遠に誇りを持って存続できる席となるのです。 それで男性と女性が一つになって、丸い宇宙を造って神様に似るのです。愛し合った後には、神様に帰るのです。縦的な愛の版図における喜びはすべて、永遠に横的な愛の版図に帰るのです。神様の愛の圏内で、神様の体になるのです。その統一圏はどのようにして始まるのかというと、夫婦がお互いに「ああ、愛する神様を私が先ずつかまえます」と言って始まるのではありません。神様も、「アダムとエバよ、縦的であれ、何であれ永遠に私を愛せよ」と言って始まるのではありません。私が縦的であるのは横的なもののために存在するのです。 主体である男性は、自らの前に対象として立つ女性のために存在しているのです。そして、すべて愛を中心としているのです。神様は知恵の王であり、どんなに戦ったとしても決して離れられないようにお互いの一番貴いものを置き換えて造ったのが男性と女性の愛の至聖所なのです。モーセが律法の柩のために建てたものが至聖所であり、これに触れると雷に当たるようになっているのです。子孫万代が滅亡します。ただ一人、その主人である祭司長のみが入れるのです。この律法に従いつつも、過去に罪を犯した人たち、子孫たちは、失敗した歩みを行ったならば、直ちに悔い改めて、天上に順応できる道を行かなければなりません。 そのような原理による統一教会の結婚は、アメリカ人と東洋人、黒人と白人を一つにするのです。黒人の愛は真っ黒で、白人の愛は白いのでしょうか? 愛には色はありません。このようにして、万国が統一され、万国が一家族となる平和理論が設定されたのです。 では、統一的理論からして、神様は自分を好きでしょうか? 神様が存続されるのは愛のためなのです。その相対となる人間は、横的な父母のために存在するのです。そして男性は女性のために存在するのです。神様自身も、「お互い愛するということは、私がまずあなた方を必要としたのです。それは私のためではなく、あなた方のためなのです」と言われるのです。それは、どれほど美しい真の愛の言葉でしょうか。男性と女性がお互いに神様をつかもうとするのは、それは自分のためなのです。そして、そこからどういうことが始まるかといえば、「私があなたよりも先に神様をつかみたいのは、私のためではなくあなたのためなのです」と言う時に、万事が解決されるのです。ここで統一がなされるのです。神様も、「あなた方をつかむのは私のためではありません。あなた方のためなのです」と言われます。これと同じ論理なのです。すべてがあなたのために神様をつかむのです。先生が苦労してつかんだものを捧げたいその人は、先生の愛する人なのです。良いものがあれば、それをすべてお母様にあげるのです。お母様が喜んで、「ああ、私のことをこんなに思ってくださったのですか。本当にありがとう」と言って、うれしい顔になります。天下がすべて蘇生するような気持ちになります。そして、さらに良いものがあれば、すべて「あなたもどうぞ」と、言います。そこで「あなたが喜ぶ姿を見て、私もうれしい」と、そのような家庭になるのです。ここから、理想論の統一祈願が芽生えるのです。 愛によってのみ、天地創造の起源が生まれ、その愛の伝統は為に生きるという立場で粛然と伝承されていくのです。そのような論理を知っているので、統一教会の文総裁の生活は為に生きる生活なのです。分かりますか? (はい)。もし先生にお金があっても、それを自分のお金だと思って使ってはならないのです。統一教会の人々にあげてもなりません。そのように、愛の道をたどっていくことは無慈悲でもあるのです。鞭で打たれ頭が壊れ、足が折れてギブスをしながらも、この道を歩み通して父母様の愛の懐に抱かれて、骨が溶けて細胞が柔らかくなってくると、一〇〇〇年休んだ以上にすべての疲れが取れるのです。そのような秘訣を知っているので先生は眠らなくても生きられるし、食べなくても生きることができるのです。 どうですか、文総裁主義は素晴らしいでしょう! (はい)。そのような愛を中心とした主義を頭翼というのです。人間世界と関係を結ぶために現れる神主義は愛を中心とするのです。分かりますか?(はい)。このように先生は、愛に狂って生きてきたのです。 先生は滅びることのない民族を立てる 神様をこの地に迎えて、万国の人類の祖国として、万人類の祖国として出帆するその日にこそ、恨みに覆われた人類始祖たちの解放の日であり、神様を解放する日であり、イエス様の死による二〇〇〇年の血が滲む殉教の恨みの祭壇が晴れる日であるということを知らなければなりません。数多くの人々が絶望して、方向感覚を失っているこの時代に、すべてを解決して平和の王国へ直行できる方向性がこの中にあるのです。そのような恵みを受け継ぐことのできる民族は不幸な民族でしょうか、亡国の民でしょうか。先生のみ旨を受け継げばこの韓国は滅びません。先生は滅びることのない民族を立てることができます。そのような種を蒔くことのできる基台を築いたのです。万宇宙を代表して賛美するに値するような、神様の身代わりとして愛の継承者として、褒め称えられる墓を残して去った人には地獄がないのです。そこから、地獄の解放が始まるのです。そのようなる美しい生涯を残すことはたやすいことではありません。まず、怨讐を愛さなければなりません。個人的怨讐、家庭的怨讐、氏族的怨讐、民族的怨讐、国家的怨讐、世界的怨讐を愛さなければなりません。この文総裁は、怨讐のアメリカを救ってあげようと思います。怨讐である中国とソ連を救ってあげようと思うのです。韓国は怨讐の国でありますが、この国を救ってあげるために先生のすべてを投入しています。疲れて、既に倒れて、流されて、消えてしまったのに、愛の絆は永遠なる存続性を持っているのです。ですから、今日も七十歳の老体に鞭を打って既に何時間話していますか。五時間、六時間話しても、先生は疲れも知らずにさらに喜んで話し続ける力はいったいどこから出るのでしょうか。愛の源泉と連結させる時に、偉大なる力が存続することを悟りました。このような事実を皆さんに伝授しますので、大事に相続して祝福された皆さんの家庭の血統的伝統を立てて、新しい生命の絆と新しい愛の絆で接ぎ木して万世無窮に存続できるようにお願いします。 このような内容は、アメリカに行ってすべて勝利してきたのです。先生は、歴史がどのように流れてきたのかをはっきり教えてあげるために帰ってきたのです。それできょう説教に臨んだのですが、題目のみで、他の話を多くしました。このようなことも必要なのです。先生の胸に秘められた心的、霊的ストレスを解消しなければなりません。先生がもし韓国が滅びるように呪えば、大変なことになります。ですから、先生はどんなことがあっても怨讐を呪うことはできません。呪うとそのとおりになるからです。本当に先生は恐ろしい人です。先生が何か一言いうと、八カ月以内に実現するから、金日成も呪うことができないのです。金日成が神の摂理に必要であるということです。なぜかというと、善なる王とは、たとえ怨讐たちが踊りを踊ったとしても、そのダンスパーティの途中で「怨讐たちよ止めなさい」と言うことはできないのです。分かりますか。神様は偉大なる方です。怨讐たちが踊りを踊っていても、その怨讐たちのために拍手を送り、粗な後片付けをするのです。そのような両面戦法を適用する主人公なのです。神様はすべてを好まれますが、サタンは一方的に片付けてしまうのです。 もし私が金日成に会えば、彼を救ってあげるべきでしょうか、どうでしょうか? (救ってあげなければなりません)。なぜですか? (いつも愛であられるからです)。それでは、どのように救ってあげなければならないからというと、救ってあげるには代価を支払わなければなりません。先生はそのような問題を深刻に考えて生きてきました。怨讐の国アメリカを救ってあげ、日本も怨讐であるため救ってあげました。大韓民国も私の怨讐でしょう? (はい)。レバレンド・ムーンを殺そうと今日までどんな働きをしてきましたか。李承晩政権、朴マリア、金活蘭がそうしました。彼女らは霊界に行ってみるとつまらない者になっているのです。「私はどうしてこんな所に来ているのだろう? 梨花女子大学を建てた総長なのに、なぜこのような所に連れてこられたのだろう」と言っているのです。自分が愛の主人を裏切ったことを知らなかったからです。今やそのことを知ることができる時代になりました。世界が、先祖たちが皆文先生を尊敬するので、これからは悟るようになるのです。先生はこのような時代が来ることを知っていたので、じっと四十年間耐えて来たのです。分かりますか?(はい)。 これからは悟れない者たちはそのままにしておきません。すべての世界を一つひとつ速やかに整理しなければなりません。先生はそのような能力を持っています。そうすることのできる基盤を持っているのです。先生のこの目を見てください。先生の目は恐ろしい形をしていますか、優しい形をしていますか? (恐ろしい形です)。恐ろしい形もするが優しいのです。愛とはそのようなものです。愛は恐ろしくもあり、優しくもあるのです。ですから、家庭に入るとお母さんは柔らかく、お父さんは堅いので家庭が調和されるのです。息子、娘たちがお父さんに話したいことがある時には、「お母さん、お父さんに伝えてください」と言うでしょう?(はい)。すべてはそうなっているのです。原則なのです。 ですから、皆さんが滅びることのない群れになるように、きょう初めて会った皆さんにも切にお願いするのです。韓国が将来人類の祖国、天地人の祖国になるためには、その祖国の定礎を置かなければなりません。そのためには宿命的な課題を解決して、天の前に報告し、人類の前に示してあげなければなりません。そのために皆さんは、踊りの会場に行けば踊らなければならないし、笑う会場に行けば笑わなければなりません。また、畑を耕さなければならない時には畑を耕すのです。千体万象の環境に自ら合わせて、真の子女たる道理を果たすことのできる人にならなければなりません。そうなれば、祖国の栄光は皆さんを通じて万国に伝達されることでしょう。アーメン。(アーメン)。では祈祷しましょう。 お父様、再び忘れようにも忘れられない韓国に帰ってきました。忍び切れない恨みと、曲折と、忘れられないことが交差する環境を眺めながら、復帰歴史を目の前において、摂理史を率いてきたユダヤ教とキリスト教の大転換の相続が新しい角度から展開した時代に、責任者として選ばれたイエス・キリストの悲惨な十字架の血の歴史によって、悲しみを受けられたお父様。そのすべての恨みを晴らすために、きょう韓民族を五〇〇〇年に近い歴史過程で、受難を受けてさすらいの実となるようにしてこられたすべてのことは、この国を万国の安息所として立てるためのお父様の愛であったことを思う時、我が先祖たちの生まれを呪い、この大地の上で生きていることを呪ったすべての恨みを晴らすことのできる福音のみ言であったことをはっきりと知りました。 きょうは長い時間をかけて、いろいろな話をしました。このみ言の中で、統一教会の先生という人は、あなたが探している真の愛の道のために、為に生きる祭壇を万国に拡張させて、行ったその祭壇の上に新しい子女を立てて、その子女を保護することのできる神様が先立って、また、子女の後ろでこれらを保護するための歴史的な行路があり、人類を代表して愛で抱くために、一つの天に侍り、地に侍り、縦横に侍る上下、前後、左右が自然に循環して位置を決めることのできる同一的価値を持つための歴史的な行路であったことを考えた時、心から感謝申し上げるものです。 この幼い私を召されたのもあなたであり、数多い訓練路程で誰も耐え得ることのできないような立場においても耐え得るようにと、このような内容を教えてくださったのもあなたであり、この世において隠されてきた宝物を相続させてくださったのもあなたの愛であったことを知ったので、今日までありとあらゆるものを捧げながら、この場までやってまいりました。 私が、いつこの世の頂上で自由世界を気ままにしようと思ったことがあるでしょうか。いつ自分を中心としてすべてのものを占めようと思ったことがあるでしょう。あなたなしに何もできないことを御存じであるお父様は、あなたが立つべきその立場に私を立たせて、代わりになって守るようにと命じられ、あなたが率いるべきその立場に私を立たせて、代わりになって率いてくれるように願われた愛の心が、私の生涯のすべての路程とその回りに結ばれていることを御存じであるお父様はここを離れることができず、私と共におられたことを知っております。 死なざるを得ない境地に立つ度に、いつもあなたが権能の服を私に着せて、解放の旗印を揚げさせ、歴史時代を経ながら万世の跳躍のプレゼントを、伝え授けてくださったことを、再三にわたって知っております。 今や韓国に帰ってきましたので、これからあなたが計画するすべてのことがみ旨どおりに行われますように。私たちに対して、すべての人々が、天理に順応できる春の園で、すべての万物に春の光が訪れて甦って色を誇ることができるように、新しい愛の春光によって復活の歴史がこの韓国の彊土に染み込んで、新しい種の基盤となることができるように切にお願い申しあげます。 残された世界の相続者として、それを伝え授けることのできる継承者として、歴史の代表者として恥ずかしくない後継者を残すための師として、父母をとして、指導者として、恥じることのない現実の実践の場を主導できる、愛の主人となれるように承諾してください。上を見ても恥じることなく、下を見ても恥じることなく、前後を見ても恥じることなく、左右を見ても恥じることなく、父母の前でも、妻子の前でも、神様の前でも、昼も夜も恥じることのない、愛しながら過ぎ去る立場、愛しながら鞭打たれて横たわっている立場であることをよく知っております。あらゆることに投入して、お父様の前に公にいただいたその道で愛のみを残していこうとする人の将来は、あなたが保障し、あなたが保護されるということを知っているので、統一教会の人々はこのような師の伝統の生活的哲学に従って順応して生きる人々となれるように承諾してください。 自分の前に現れた夫たる者は、歴史の中の神様の復活体であり、再臨主の化身体であり、おじいさんの化身体であり、お父さんの化身体であり、お兄さんの化身体であり、弟の化身体であります。自分の前に現れた妻たる者は、歴史の中の神様の化身体として、おばあさんの理想体として、お母さんの分身として、お姉さんの分身として、妹の分身として、自分と直接因縁を結んで、その愛の厚徳を家庭の上に広い妻の毛布で被せてあげるための因縁の中に施された恵みであることを悟り、愛から始まって、愛に生き、愛に眠り、愛に起きるように、お父様が共にあって守ってくださり、目覚めさせて導いてくださいますように。そうして、あたかも師がそうであるように、そのようになれる因縁を厚徳の恵み共に施してくださいますように、切にお願い申しあげます。これから三日を越え、明日よりの新たなる熾烈な戦いを展開する道の前に、お父様が共に協力してくださいますようにお願いし、統一教会が行くべき将来において活動の場で、また哀切な愛の道を探して故郷へ帰っていく路程で、疲れて倒れる絶望者になることなく、喜びの勝利者となって、錦衣行して天国を受け入れることができるようにお願いしつつ、このすべてのみ言を真の父母のみ名によって祝願致しました。アーメン。(アーメン)。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.10
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「復帰と解放」1989年2月12日 真の自由と解放を求めて きょうは「復帰と解放」という題目で話しましょう。この世は過去にも多くの人々が生きてきたし、今も多くの人々が生きています。また、これからも多くの人々が生きていくことでしょう。そして最近は、多くの人々が自由を求めて、自由主義などと叫んで世の中を騒々しくしています。しかし、その自由を求めたのちはいったい何をしようとするのでしょうか。中世封建時代以来、人本主義を中心として自由思想が勃発したその日から、「自由を選ぶか、それとも死を選ぶか」と言い、たとえ死を選んでも自由を得ようとしてきたのですが、そのようにしてまで自由を得て、次に何をしようとするのでしょうか。 自由には、まず個人的自由があります。そうですね。そしてこの世は男と女がいるのですが、男の自由とは何かというと、男の願う欲望と、その欲望の意を中心としてすべてを成し遂げて、「私を見習いなさい」と言って、中心の座に着くことです。それでは、男の欲望と女の欲望は同じでしょうか。それは根本的に違うのです。女の欲望は方向性が一方的なのに対して、男の欲望は四方性をもっているのです。東へ行ってみ旨を成したとしても、それだけでは終わらないのです。東西南北のすべての方向のみ旨を成し遂げ、中央の位置に自分の座を得て解放されなければならないのです。このように見た時、男の欲望を中心として、女の欲望を中心として解放される道を探し求めていく立場で、それぞれに自由を主張してきたのです。 ですから、個人的自由が、家庭的自由と異なってしまったのです。家庭の中には祖父がいて、祖母がいて、父がいて、母がいて、その次に自分がいて、妻がいて、息子、娘がいるのです。ですから、祖父の自由、祖母の自由、父の自由、母の自由、自分の自由、妻の自由、息子、娘の自由というすべてが解放されなければならないのです。孫はおじいさんに対しても思いどおりにできるし、おばあさんに対しても思いどおりにできなければなりません。また、おじいさんは孫に対しても思いどおりにできるし、また孫嫁の前でもおじいさんは思いどおりにできるし、おばあさんも思いどおりにできなければなりません。義母も嫁に対して思いどおりにできるし、また、嫁も義母に対して思いどおりにできなければなりません。そのように解放された家庭的自由が必要なのです。 その次は国家の自由です。最近の国家を見ると、与党、野党が互いに争っているのです。そのような国で国民は自由でしょうか。自由のために争うのは良いことですが、一方的な党の主張や、右翼や左翼などのような主張が、果たして相手側にも自由をもたらすことができるでしょうか。それは、真に解放をもたらすことのできる自由となるのでしょうか。そのような自由を探し求めていったい次に何をしようとするのでしょうか。彼らは、「解放されれば幸福になる」と言うのですが、解放とはいったい何ですか。人を拘束する場合、ひもで右のほうだけを縛っても、拘束したことにはなりません。右と左とを交差させて縛ってこそ拘束できるのです。 今日、この世界を見る時、共産主義と民主主義が世界の万民を代表して、世界の幸福を追求していくという中にあって、今、彼ら自身はどのような立場にいるかというと、彼ら自体も既に拘束されているのです。また、アメリカを見ても全部国家の欲望や様々な法を中心として、国民の願わない課税を行い、共産党よりもっと多くの搾取をしているのです。国家が搾取しているのです。労働者や農民、労使関係の搾取ではなくて、国家という大きな枠が国民を苦しめているのです。アメリカは今や、相続税が七五パーセント、時には九五パーセントにまでなっているのです。このように、先祖から受け継いだすべての相続所有権をだんだん崩しているのです。 このような現状を見た時、自由世界と民主世界は、人間を解放するのではなく拘束しているのです。アメリカ人の中で、今デモを行っているのは苦しい立場にいる人々なのです。また、家族制度の冠を被せられて、「これこれを抜け出してはいけない!」と拘束されるので、「これは嫌だ!」と言って、若い人々が自由世界でデモを行うのです。それでは、共産世界はどうかというと、その反対なのです。共産世界では、共産主義を中心としてすべての財産は国家の所有なので、個人の財産など認められていません。社会主義体制と資本主義体制は全く違うのです。民主世界では個人の所有を認めるのに対して、共産世界は社会主義体制なのですべてが国家所有なのです。ですから、全部が国家のものだというのです。人までもが国家のものだというのです。民主世界はそうではありません。国家に対して常に対等な立場で自己を主張できます。しかし、共産世界では物はもちろんのこと、人までもが国家のものだというのです。そこには、もはや自由がありません。党が「死ね」と命令を下せば、その人に生きる自由はなくなります。死に場所に行かなければなりません。もし、行かなければ切られてしまいます。民主世界では死に場所に行けと言われた時、「行かない」と言っても切られることはありません。このように見た時、どちらがより自由ですか。共産世界ですか、民主世界ですか? (民主世界です)。 共産世界の平和とは、完全に反動分子を粛正してしまったあとに訪れてくるものであり、反動分子がいなくなったあとに語るのが平和論なのです。民主世界の平和とは、赤、白、黄色など烏合の衆のように様々なものが混じり合っていても、みんなで幸福になろうというのです。しかし共産世界は一方通行であり、すべてを赤化したそのあとに平和だというのです。このように、平和の概念が全く違うのです。 金日成が、「南半部を解放して統一しよう。赤化統一して解放しよう」と言っていますが、赤化統一とは何か分かりますか。反動分子を完全に切ってしまって、自分たちだけの立場から南半部を統一するということです。そのためには、赤化に反対する者をすべて打ち崩したあとに統一して自由になろうというのです。概念が全く違うのです。共産党式では人まで切ってしまいますが、民主主義式は政府が命令しても、国民はいくらでも嫌だと言えるのです。では、私たちの統一教会ではどうでしょうか。前後左右すべてに統一された統一教会になっていますか。前だけの統一であってはなりません。今は、後ろにはサタンがいるし、右側は民主世界、左側は共産世界ではありませんか。上は天であり、下のほうは未来の後孫でなければなりません。そういう統一教会でなければなりません。「統一」と言う時には、前後左右の四方すべてが統一されていなければなりません。 統一教会も解放を求めてきた きょうのみ言の題目は何でしたか? (「復帰と解放」です)。今日まで数多くの人間が、様々な形をもちながらもこの地上で生きることを願ったのは、解放を迎えて幸せになりたかったからです。しかし、それが、いまだに解放されていないのです。それでは、この統一教会はどうでしょうか。統一教会も解放を求めて生きてきたのです。皆さん、七・四事件の当時を思い出してください。先生を監獄に入れて、五つの長官たちが文総裁を亡き者にしようとしたのです。李起鵬と朴マリヤ、李承晩博士とフランチェスカを中心として、行政力を動かして文総裁を完全に抹殺しようとしたのです。罪に陥れようとして、ありとあらゆる工作をしたのですが、先生は何一つとして引っかかるところがないのです。 以前私は北から南下する際に髪を刈って来たのです。昔は軍隊に入る時に髪を刈っていたのです。北からソウルに入った所に昌景園という地があります。そこに若い兵士がいて、今考えてみると海兵隊員だったと思いますが、南下してくる人々を全部分けていたのです。私は監獄から出てきたばかりであり、髪を刈っていたので、「どこから来たのか?」と聞かれました。軍隊の逃亡兵ではないかと疑われたのです。「どこから来たって、北から来たよ!」と答えました。その時は大勢の人々が避難している状態なので、スパイも逃亡兵もめちゃくちゃに混じり合っていて何が何だか分からないので、先生もスパイではないかと思われたのです。スパイを入れては自分たちの生命も危なくなるので、身体検査を行って、その結果丙種という兵役落第の判子を押した証明書を出してくれたのです。 それがあれば万事に「OK」なのです。それだけが先生の証明書になったのです。監獄から出てきた先生には住民登録など当然ありません。ですから行く先々で取り調べを受けるたび、いつもそれを出して見せたのです。その札は丙種なのですが、どこに行っても通じたのです。その後、住民登録を行いましたが、梨花女子大事件が起こって先生も監獄へ入れられるようになったのです。「ああ、兵役忌避したんだって、丙種だって」と言いながら、彼らはありとあらゆることの調査を始めたのです。それですべてを調査をしてみた結果、先生は体格的にも非常に丈夫そうなのです。「拷問を何回も受けたとしてもびくともしないほど丈夫な人なのになぜ丙種なのか、兵役法違反ではないか」と言って、先生を打とうとしたのです。私は丙種を盗んだのではありません。彼らが出してくれた丙種なのです。このようにしていろんなうわさがみな吹き出してきたのです。そして満三カ月を経て、無罪釈放ということになったのです。本来ならば、そこで大韓民国が私に謝罪しなければなりません。大韓民国が有罪だと宣布しても、レバレンド・ムーンは無罪釈放となったのですから。神様の法に逆らって罪のない人を苦労させたので、大韓民国自体が有罪となったのです。 大韓民国において、先生に反対する分子たちは誰ですか? (クリスチャンたちです)。キリスト教徒は何ですか? キリスト教徒は神様に反対する者たちですか。そのようにするので、「汝の家のものが怨讐である」と聖書に記されているのです。アメリカの牧師たち数千名を集めて、「クリスチャンの中で一番神様に近い人は誰ですか?」と聞いたのです。すると、牧師たちもこうするのです(先生がしぐさされる)。(笑い) ですから誰が一番近いかというと、ここにいる人が一番近いのです。その一番近い人が無罪であれば、一番遠い人は当然有罪なのです。キリスト教が罪を犯してしまったのです。罪を犯した人を擁護する者はすべて共犯者になるのです。ですから、大韓民国が滅びキリスト教が滅びても、このレバレンド・ムーンは滅びません。 先生の摂理的観で見た結果は、必ずそのようになっています。私が大韓民国と共に二十年過ごせば、私が下りていくでしょうか。大韓民国が下りていくのでしょうか? (大韓民国が下りていきます)。では、既成教会と統一教会はどちらが下りていきますか? (既成教会が下りていきます)。終わりの日に天地に明らかになって、正義が歴史上に自然に現れるようになる時には、大韓民国が私のもとに来て頭を下げなければなりません。クリスチャンたちが、私のもとに来て頭を下げなければなりません。(アーメン)。(拍手) 皆さんは、解放されて何をするのですか? (自由になります)。解放されて何をするかというと、幸福になるのです。幸福になるにはどこに行って、何をどのようにして幸福になるのでしょうか。解放されて成功して幸福になるのです。幸福になって故郷を訪ねていって、父母、祖父母、後孫たちまでが喜ぶような平和の基地をつくるのです。クリスチャンたちは「イエス様を信じて天国へ行こう」「教会へ行けば天国へ行ける」と言いますが、統一教会の教えとどちらが正しいでしょうか。統一教会に来れば天国に行けるという話と、イエス様を信じれば天国に行けるという話はどちらが正しいと思いますか? イエス様を信じて誰か天国へ行けましたか。天国に行ける者もいるし、行けない者もいるのです。三つの者がいるというのです。天国に行こうとする者たち、天国に行けない者たち、天国に行ける者たちです。どの立場の者が多いと思いますか。イエス様は「怨讐を愛しなさい」と言ったのに、夫婦同士が互いに愛し合うことができずして天国に行けるでしょうか? (行けません)。また、息子や娘と父母がけんかしていて、彼らは天国に行けるでしょうか。お互いに、義父や義母と争っている嫁が天国に行けるでしょうか? (行けません)。天国は平和な所なのです。幸福な所なのです。では幸福と自由はどちらが先でしょうか。自由が先ですか、幸福が先ですか? (自由です)。自由になったあとに幸福になるのです。それでは何が幸福にさせますか。自由が幸福にさせてくれますか、何が幸福にさせてくれますか。男にとっては女が幸福にしてくれるのです。女にとっては男が幸福にしてくれるのです。 解放されたとしても、人間は幸福ではありません。一九四五年に大韓民国は解放されたのですが、大韓民国は幸福になったでしょうか。アジア全体が解放された時に、この大韓民国も解放されるべきなのです。どんなに大韓民国が解放されたとしても、アジアが解放されなければアジア圏内にある大韓民国は不幸なのです。このように見た時、いかにアジアが解放されたとしても、世界が解放されなければ、アジア自体も不幸なのです。大韓民国の中においても今日、与党と野党が争っている状態では、国民は決して幸福ではありません。与党と野党がお互いに解放されて、仲睦まじく和解して一つになったとしても、南北が分かれた状態では不幸なのです。同様に、おじいさん、おばあさんがいくら幸福だとしても、父、母が不幸な時には、孫やその家族は幸せではないのです。上、中、下が一つに和合して、お互いに公平に授受できるような立場にならなければ、三代の家族は不幸な所へ下がっていくのです。 このように見た時、地上が不幸であれば霊界も幸福ではないのです。すべて相対圏としてつくられたこの世界は、上下前後左右を中心とした関係で存続するすべての存在物は、ある一面へ傾くようになると決して幸福になることができないというのです。例えば、おじいさんやおばあさんが貧しく生活しているのに、「ああ、私は金持ちだ。黄金を体に巻きつけている。金持ちなのだ」と言って、息子が金持ちになれば父母は幸福でしょうか? (いいえ)。息子の身に付けている黄金を全部奪っていこうとするのです。もしその家に十人が住んでいるとすれば、十分の一ずつしか持っていけません。それで幸福でしょうか? そこで、自分の欲望の解放を得るために、祖父母も、父母もみな、「私によこせ!」と言うことでしょう。そして一人は幸福になるかもしれませんが、残りの九人は、「この者、一人で上がっていくのか!」と言って互いに不幸になるのです。なぜこのような話をするのかというと、天地がいかに大きいといっても、その天地も同様に自由を願っているというのです。ですから秋になるとすべての昆虫たちは歌を歌います。なぜ歌を歌うかというと和合するためです。動物たちは様々な言葉でみな歌を歌います。「チイ、チイ」「チュウ、チュウ」「ワン、ワン」「ヒン、ヒン」などと、すべて相対的にできているのです。 誰によって何から解放されるのか さて、それでは人間が解放され、幸福の世界が訪れてきたその時に、すべての人々は旗を振って「私はうれしい! 解放された。解放された。何々から解放された!」と言いながら、秋の虫のように歌を歌うでしょうか。さらに人権が解放されたとすると、人権解放を主張してきた男女は、果たして平等になれるでしょうか。私がアメリカで女性に厳しく対した時、「レバレンド・ムーンは女性反対運動者だ」と言われました。それでみな険しい顔で先生を訪ねてくるので、「まず、私の話を聞いてみなさい」と言ったのです。しかし、先生の話を半分も聞かないで目を白くして出ていこうとするのです。いったい誰の話が正しいでしょうか。先生のほうが正しいというのです。年を取った人たちは誰の話を聞きますか。博士たちは誰の話を聞きますか? 一番先生の話を聞かないのが教授たちです。また一番話を聞かないのが怨讐の国々なのです。しかしこの日本人はなぜ、怨讐の国の人であるレバレンド・ムーンの話を聞くのでしょうか。また、共産党はなぜレバレンド・ムーンの話を聞くのでしょうか。今まで憎くて仕方がなかったレバレンド・ムーンと統一教会なのですが、この統一教会に潜伏して修練を受けてみると、一週間もたたないうちに逃げ出すのです。統一教会の人たちは、共産党の人たちとは違うからです。「今まで、我々はこういう人たちをなぜ滅ぼそうとしてきたのか」と思うと、自分自体が天罰を受けそうな気がしてみな良心の呵責を受けて逃げ出すのです。そして、共産党の中で仲たがいを起こす人々も多く出るのです。ですから、そのような共産党を解放できるのは、この統一教会しかありません。 最近、韓国では共産党が何と言っているかというと、「独裁政権よ、出ていけ!」と言っているのですね。それで火炎瓶を投げたりしているのです。それで投げようとすると、まず片足を挙げなければなりません。しかし、先に足を挙げる者が、相撲では十回なら十回とも負けるのです。それはなぜかというと、このように先に手を出すほうが常に悪人だからです。 皆さんは誰の解放を受けたいですか。自由を求めて、仮にこの大韓民国において平民党の人々がデモをして自由を得たとしましょう。平民党から大統領を選んだとして、それでこの国は良くなるでしょうか。とんでもないことです。同じことです。今まで飢えていたのでもっと食べようとするかもしれません。何でも拾って食べようとするかもしれません。全斗煥前大統領は滅びたくて滅んだのでしょうか。盧大統領は何がしたくてこうしているのでしょうか。良くしたくても仕方がないのでこうしているのでしょう。この文総裁も悪口を言われたくて言われてきたのではありません。仕方なく言われてきたのです。(笑い) これは率直な話です。宗教指導者は率直なのです。「苦いのは苦い、甘いのは甘い、良いのは良い、悪いのは悪い」と言うのです。政治家は「こうでもいいし、ああでもいい」と言うのですね。そのような政治家の話にだまされてはなりません。彼らのトップはこういう文総裁の話を聞くたびに、「文総裁はあまりにも率直なので困る」と言うのですが、困るなら先生を訪ねてくる必要はありません。彼らが訪ねてくるので話してあげているのです。そのことによって私が行くべき道を妨げることはできません。困らなくてもいい人が困難を受けているのですから、困難を受けるべき人は当然受けなければなりません。それが天地の道理なのです。 おじいさん、おばあさんも、解放されると全部がこうしたいし(先生がしぐさされる)、父も、母も解放されるとこうしたいし、息子も娘も解放されるとこうしたいし、家庭全体がこうしたいし、そして狂いたいというのです。(拍手) そのような解放なのです。今日、民正党も野党も「解放しよう!」と言っています。また、以北も「南韓を解放する」と言うし、我々も「北韓を解放する」と言うのです。では、どのようにして解放するのでしょうか。このように解放させるのですか(先生がしぐさされる)。このようにするのですか。いろいろあるでしょう。 さて、このように地上の幼虫までも神様が見た時、解放の風が吹いた時、ハエの幼虫があまりにもうれしくて、「私も解放のハエだ!」と言って、神様の鼻を刺した時、神様は「痛い、痛い!」と、解放のハエを捕まえて殺すでしょうか。「そうそう君の喜びが分かるよ」と言われるのです。神様もそれを願っておられたのです。天地万物がすべてそのような解放の日が訪れたらどんなに良いことでしょうか。そうなれば、おじいさんが一番喜んで、おばあさんが一番喜んで、「おじいさんの解放であると同時に、私の解放だ!」と言うのですね。「ああ、父母の解放であると同時に、私の解放だ!」と言うのです。さて、そう言うのは誰でしょうか。そのような解放は何の解放でしょうか。 今まで宗教が教えてきたものは、何の解放かというと罪からの解放なのです。神様もそれを願い、私たちのおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、息子、娘も、すべての五十億人類も、またこれから生まれてくる後孫までも、罪から解放される日を待ち焦がれているのです。しかし、すべての人々は罪から解放されましたか。罪から解放するというのですが、その罪の根っ子は何ですか。その罪の根っ子を掘り出してしまわなければなりません。根は何ですか。これは深刻な問題なのです。 今日まで、この文総裁は世界中から悪口を言われて、多くの厳しい風雪を経てきましたが、それは何のためだったのでしょうか。お金をもうけるためにそのようなことをしてきたのでしょうか。七十歳になった時、そのお金できれいな服を着るためですか。お金をかけて良い服を作れば合わないことはありません。しかし、そのような服を着る時は良いですが、着てみると寂しさと哀れさが生まれてくるのですね。服を着た最初は、蝶が飛んできて五色にきらめく香りがするほどなのに、その色があせて、あかが染みたようになると、通りすがりのハエしか訪れないというのです。お金とはそのようなものです。では、何から解放されるのが一番良いでしょうか。もしすべての先祖であるところの神様から、末端の万物まで「解放だ!」という一声が一度聞こえたならば、もはやこの世界は、このように呻吟したり、複雑でなくなるでしょう。 解放されるためには蕩減を払わなければならない それでは今日、この統一教会は何を統一しようというのでしょうか。統一しなければならないことは何ですか。きょうのみ言の題目は「解放と復帰」なのですが、解放が先ですか、復帰が先ですか。病気になった人は病院に入って、苦い薬を飲んでこそ、病から解放されるのです。そのようなものです。私たち人間は罪から解放されなければなりません。苦しくて、苦い罪の根が私たちを取り巻いて固く縛りつけているのです。ここから解放されなければなりません。さて、それでは解放されるためには何をしなければならないかというと、固く縛りつけられている状態の反対のことをしなければなりません。宗教を信じるのもこの世から解放されるためなのです。しかし、この世から解放される前に氏族から解放されなければなりません。氏族から解放される前に家庭から解放されなければなりません。家庭から解放される前に男女から解放されなければなりません。男女から解放される前に自分から解放されなければなりません。しかし、国から解放されることを願う人々は多いのですが、自分から解放されることを願う人々は少ないのです。この大韓民国自体も罪に陥っているのです。 そのように、自らが解放されるためには、今日この統一教会でいう蕩減を払わなければなりません。病気にかかったならばそれを治すために、病気にかかった反対の道を行かなければなりません。上がっていこうとして病気になったのであれば、反対の道を下がっていかなければなりません。豊かに生きようとして病気になったのであれば、貧しく生きるべきです。それでこそ蕩減になるのです。すべての人々がそのように生きれば解放されるのです。世の中をこのように見た時、上がっていこうとする人が一〇〇人いても、下がっていこうとする人が一〇〇人いればいいのですが、全部が上がっていこうとするのです。また、病気にかかった人たちが、御飯をたくさん食べて、たくさん遊んで、眠りもせずに健康な人と一緒に同じ生活をしていて病気が治るでしょうか? (いいえ)。みな上がっていこうとして病気になったのですから、病気から解放されるためには下がっていく運動をしなければなりません。その運動が宗教なのです。 その宗教界の中でも、最も難しい宗教が統一教会なのです。そしてこの世の人々が上がっていこうとする時、渦巻きの中をゆっくりと下がっていくのです。ぐるぐる回りながらゆっくり流されて、渦巻きの中にスーッと入って、それで終わりなのです。それでは、この統一教会はどうかというと、渦巻きの穴に沿って入っていこうとするのです。渦巻きの中に入っていく時、足が先に入るべきでしょうか、頭が先に入るべきでしょうか? 頭が先に入っていけば出た時に転ぶことはあったとしても、ばらばらにはなりません。足が先に入ってみなさい、四肢五体がみな引き裂かれてしまうのです。ですから、頭が先に入るべきです。 では、宗教を信じて上がっていこうとする人たちの前に、この統一教会は「下がっていく」と言うのですが、皆さんの周りの人は「下がっていきなさい」と言いますか? (いいえ)。目を真っ赤にして反対するのですね。「そんなに急がないで、適当に信じればいいのに」と言うのです。そのような人は川の表面の水になることはできても、一〇〇〇年たっても川底の水にはなれません。水が入れ代わるためには岩がなければならないのです。それで神様は知恵深いお方なので、渓谷に流れる水を岩に突き当てて全部、上下左右、東西南北に混ぜ合わせるのです。ですからそのような水は、どこに行って飲んでも病気になりません。平地を流れる水は、むやみに飲むと病気になるのです。表面だけを流れる水は腐るのです。表面から腐っていくのです。きゅうりやすべての果物も表面から腐っていくのです。動物は骨が先に腐りますか、肉が先に腐りますか? (肉が先に腐ります)。そうです。では、表面を回りたい人は手を挙げてください。底辺を回りたい人は手を挙げてください。これは尋ねるまでもありませんね。 人はすべて底辺に入るのを好みますか、頂上に上がっていくことを好みますか? (上がっていくことです)。愚かな者も上がっていこうとし、優れた者も上がっていこうとすればどうなるのですか。もし、優れている者の上に愚かな者が立てば、手荒い扱いを受け苦労するのです。ですから、この統一教会は渦巻きに沿って下りていかなければなりません。下りていくためには、たとえ祖父母や父母、夫や妻、兄弟姉妹などの反対を受けるようなことがあっても、一度に越えていかなければなりません。一つずつ越えてはいけません。聖書にも「終わりの日には汝の家のものが怨讐だ」(マタイによる福音書第一〇章三七節)ということが記されています。聖書のみ言が成就する時には、おじいさんも反対するし、おばあさんも反対するし、父や母、夫や妻、子女たちまでもが反対するのです。それを勝利しなければなりません。ですから世界的に、歴史的にそれを勝利できた宗教団体は、望ましい団体なのです。 宗教という文字は、山の背の「宗」と、教える「教」の字から成っています。「山の背になる教え」が崩れてしまったならば、すべてが滅びるという意味です。この宗教が無力なので、大韓民国もこのありさまなのです。本来は宗教は国を従え、世界を従えていくべきです。国に引っ張られていく宗教になってはなりません。今日、統一教会を御用教会と言う人がいますが、御用の反対は何ですか、そこの大学教授どうですか? (実勢です)。実勢という言葉は初めて聞きました。それでは何の意味か分かりません。統一教会は、今まで御用団体と言われてきました。共産党の者たちがそう言うのです。民正党、民自党の連中が統一教会を御用教会だといって、国民と仲たがいさせようとしているのです。また、キリスト教と仲たがいさせようとしているのです。私は今黙っているのですが、今に見ていなさい。これがもし回り始めて三六〇度を回ってゼロになった時には、止まらなければなりません。でなければ追放されるのです。この世の道理がそうなっているのです。悪なる者は一度三六〇度回ってしまえば、もう行く道がありません。しかし正義の人は三六〇度回っても、また、いくらでも反復できるのです。しかし、悪い人は「早く行って滅べ! 早く行け!」と言われるのです。次に行く道がありません。一方通行なのです。最後にはすべて除去されてなくなるのです。 それで文総裁は、韓国人で初めて世界を一周してきましたが、何を韓国に背負って帰ってきたのかというと、多くの悪口なのです。また、多くの傷をもって帰ってきました。この文総裁の服を脱がして見ると、日本の鞭で打たれた傷、アメリカの鞭で打たれた傷、ドイツで打たれた傷、イギリスで打たれた傷、フランスで打たれた傷、どの国もこの文総裁を打ったのです。ですから、先生の服を脱がした時には、いかなる父母も、兄弟も、姉妹も、妻子も慟哭するのです。それで、先生はもっと泣きなさいと言うべきですか、もう泣かないようにと言うべきですか。「おじいさん、おばあさんもう大丈夫です」と言わなければなりません。そして、「なぜそのように打たれたのですか?」と尋ねられた時、「私はよく食べて、良い暮らしをしようとしたためではありません。私は打たれるべき者ではなく、反対に世界が打たれなければならない代わりにこの私が打たれてきたのです」と答えるのです。人々がそれを知った時にはどうなると思いますか。その時は父も母も泣いて頭を下げるのです。また、それまで泣いたこともない息子が涙ながらに、「世の中で私を分かってくれる人は一人もいないけれども、私にとってこのような故郷の母が必要なのであり、おじいさん、おばあさんが必要なのであり、妻子が必要なのであり、兄妹が必要であるということが分かりました」と言うのです。そして世界万民が私に報いたいと願ったことを、自分の父母に報いてあげるようになることでしょう。このようになった時、すべて氏族の中心存在として登場することができるのです。何の話か分かりますか? 世界中を回って再び故郷に帰るこの道 統一教会の文総裁は世界中から追われてきたのですが、今日、韓国に帰ってくると、日本人も先生に付いてこようとするし、アメリカ人も、世界の人々が先生に付いてこようとするのです。そして、「先生の願いに対して、私たちに責任をもたせてください。先生の責任が重くて死にそうなのでしたら、私たちがそれを守ります」「この国が滅びそうなので先生が心配されるのでしたら、自分が滅びても私たちはこの国が滅びないようにします」と言うのです。このような運動が若い人たちの胸の中から世界的に燃え上がってくるようになった時、果たしてその国は滅びるでしょうか? (滅びません)。そして、先生を訪ねてきた人々は、先生がいなくても行くべきこの道を行こうとするのです。それが死地であっても行くでしょうし、以北であってもソ連であっても行くことでしょう。先生が世界中を回って難しいこの道を経て故郷に帰ってきたように、私たちも故郷を発ってその道を経て、世界中を回って再び故郷に帰るのです。そして、故郷の我が家を訪ねていって、そこに先生に侍る場所を準備して、「先生、お迎えにまいりました」と言ってこそ忠孝の道理にかなうのです。しかし、その準備ができていないのです。 文総裁は韓国に帰ってきて、約一年間何をしましたか。大韓民国を売り飛ばす詐欺師のようなことをしましたか? (いいえ)。かわいそうなこの民族のために学校を建ててあげようとしたのに、それを大韓民国が嫌だと言うのです。神様の臨在なさる教会を建ててあげようとしたのに、既成教会は嫌だと言うのです。そこで日本人や外国人が先生に付いてきて、教会を建ててあげようというのです。私には嫌だと言うけれど、日本人に対してはどうでしょうか。また、アメリカ人に対してはどうでしょうか。どんなに私を嫌う民族であったとしても、もし、私に従ってきた日本人を私の代わりに愛するのならば、それを見て私は彼らを許すでしょう。アメリカ人がこの国に来て、私の代わりに「ために生きよう」とした時、彼らを歓迎するならば、それを見て私は過去のことを忘れて許してあげるというのです。大韓民国が滅びないためには、このような外国の人々に良くしてあげなければなりません。日本のメンバー! (はい)。先生が今何を話しているか分かりますか。(笑い) 言葉が通じなくてかわいそうですね。日本にいれば自由なのになぜ韓国に来ましたか? おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、お姉さんたちがいて、どこかに行って帰ってくると「お帰りなさい」と言ってくれるし、言葉が通じるのですが、この韓国では一日中働いて遅く帰ってきても言葉が通じないのですね。 さて、先生がたくさんお金を使う時に、皆さんが先生のために使うお金と、先生が皆さんのために使うお金と、大韓民国が先生のために使うお金と、先生が大韓民国のために使うお金はどちらが多いですか。大韓民国が私に負債を負うでしょうか、私が大韓民国に負債を負うでしょうか。皆さんが私に負債を負うでしょうか、私が皆さんに負債を負うでしょうか。どっちですか? 負債を負った人は僕にならなければなりません。でなければお客でしかありません。二つに一つです。負債を負わせる人は主人になります。統一教会には多くの人々が集まってきていますが、君たちが先生に負債を負ったのですか、文総裁が君たちに負債を負ったのですか? 誰が誰に負債を負いましたか? (私たちが先生に負債を負いました)。 人生において原理のみ言がいかに尊いものか分かりますか。それは先生が命を懸けて、まるでぼろ布のようにこの身を投げ出して探し求めてきたものです。その時、誰か一人でも先生を協助してくれましたか。これからはますます原理の価値が大きくなっていきます。大統領が訪ねてきて原理のみ言を崇拝し、国王が訪ねてきて原理のみ言に万歳して、「不変なる真理であり、私の国と取り替えることもできないほどの尊い真理なので、この原理を教えてくれる先生の前に国をささげたい」と言う国王がこれから多く出てくることでしょう。 日本の人たちは、先生に負った負債を返すためにすべてをささげようと思っているのです。それなのに韓国の男や女たちは、先生に負債を負ったのにそれを切ってしまおうとしています。日本のメンバーは先生に負債があるとそれを必ず返そうという決意をもっているのですが、韓国の人は負債を返そうとしないです。言葉は通じなくても日本人の行動は、天に近いものをもっているのです。韓国人の負債を負ったものをすべて返しても余りあるものになっています。言葉が通じなくても先生のみ言が分かっているのですね。 このことは、日本語で日本人に語ったほうがもっと反応がいいですね。(笑い) この中で韓国人は手を挙げてみなさい。日本のメンバーは手を挙げてみなさい。(はい)。どちらが多いですか。多くの人々が聞くのが善ですか、それとも少ない人々が聞くのが善ですか? (多くの人々が聞くのが善です)。多くの人々が聞くのが善ですって? ではこれから日本語で語りますよ。(笑い) 君たちは先生が好きですか? (イェー)。雪の上を走るあのスキーですか? (笑い) どちらのスキーですか? 宗教の道は十字架の道 きょうの先生の話の題目は何でしたか? (復帰と解放です)。復帰と解放の意味が分かりましたか。内容は簡単なのです。罪のない世の中にするには、復帰路程を通らなければなりません。復帰路程を通るためには、蕩減条件を払わなければなりません。ですから、宗教の道は十字架の道なのです。イエス様もよく語っておられるように、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイによる福音書第一〇章三七節)ということです。それが条件なのです。各自の十字架という蕩減の道が残っているのです。先生もその道を越えてきたのです。このことを日本語で話したほうが良いですか、韓国語で話したほうが良いですか。この結論をつけなければ先生は行ったり来たりしなければなりません。(笑い) 日本人にとって一番の牢屋は韓国語を語る所ですね。さあ、もう二時間もたちました。私がこのように話をしていては限りがありません。 それでは、我々堕落した人間は何を背負っているのですか。堕落した人間は重い荷物を背負っているのです。それでイエス様は「すべて重荷を負うている者は、わたしのもとにきなさい」(マタイによる福音書第一一章二八節)と言われたのですね。(はい)。そのような重荷を背負っているのです。何の荷物かというと罪悪の荷物なのです。これが問題なのです。今日のクリスチャンたちはそれを正しく知らなければなりません。何の罪悪の荷かというと原罪の荷なのです。それはサタンの血統をもっているということです。サタンの血統なのです。分かりますか? (はい)。悪魔の血を根っ子として生まれたのです。このことは、サタンの血統から解放されなければならないということです。サタンが我々の先祖になっているのです。ローマ人への手紙第八章に記されているように、サタンが我々の父になったし、我々の母になったのです。本来ならば神様の血統と、神様の王子、王女の血統を相続しなければならないのに、神様の僕である悪魔、天使長の血統を受け継いだのです。天使長が悪魔になりました。その僕の血統を受け継いだのです。 永遠の福地伝統を相続する価値ある血統とならなければならないのに、何ですか! 韓国でいうならば、両班の血統を相続しなければならないのに、何ですか! 僕の中の僕が何なのか知っていますか。皆さんは屠殺業者というものが何か知っていますか。昔は謀反を起こした罪人などが屠殺業者になったのです。伝統を無視したり、伝統を破壊する者はこのような最も厳しい罰を与えられたのです。この世における法ですらもそのように厳しいのに、我々は神様の天理の道において何の罪を犯したかというと、天の国の王子、王女、天の国の皇族とならなければならなかったのに、僕の僕となったのです。そのような滅びるべき者となったので、終わりの日には滅びてしまわなければなりません。ですから、何の罪から解放されなければならないかというと、サタンの血統から解放されなければなりません。 さて、皆さんは誰に付いていきますか。サタンの血統に付いていきますか。女たちの唇はどこに付いていきますか? サタンの唇なのです。サタンの血で真っ赤になった唇なのです。また四肢五体はサタンの血を受けてサタンの血に骨髄までも埋もれているのです。有史以来誰一人として、このサタンから逃れることができなかったのです。 仮に、何千年と経た大木があるとします。古い枝の葉はたくさん落ちて、枝もたくさん腐って、たくさん死にました。五十億の人類はこのように一つの大木なのです。すべてが血筋で連結されているのです。これを全部脱しなければなりません。ですから「世に勝て! 歴史のすべてのことを克服しろ! サタン世界の悪なるすべての歴史にぶつかっても壊れるな! 絶望するな!」と宗教は教えてきたのです。「どんなことがあっても、絶対に自殺するな」というのです。自殺をしてはいけません。自殺をすれば地獄の底へ逆さまに落ちていくのです。それが分からないから自殺するのです。最近韓国では、大学受験の問題で自殺する高校生が多いのですね。生命は自分だけのものではありません。お母さん、お父さんのものです。大韓民国のものであって、自分のものではありません。自殺するのはお母さん、お父さんの体を打ち、国を打ったことになるのです。ですから、自分の存在基盤がなくなるのです。 それで私は今回、世界日報に「自殺したい人は一度世界日報に相談するように」という広告を出しなさいと言ったのです。もう広告は出しましたか? (今、準備しております)。毎日のように出さなければなりません。そうして自殺しようとする人を訪ねていって、どんなに悪口を言われてもその人の話を全部聞いてあげれば、もしその人が死んだとしても恨みは残らないのです。お父さんも、お母さんも知らないうちに死んだとすれば、それはどんなに悲しいことでしょうか。ですから新聞社の看板を付けて、世界を代表して聞いてあげるのです。そして最後に、「私たちの話を聞いてみなさい」と言うのです。ですから私たちのセンターを造らなければなりません。(はい)。これからは世界の有名な博士たちやノーベル賞の受賞者もみな、「韓国に行きたい。私の故郷は韓国です!」「私はすべてのものを捨てて、韓国に行って死にたい。韓国の土になりたい」と言うようになるのです。そのような証をテープに取っておくのです。(はい)。自殺しようとした人に、そのようなテープを見せてあげるのです。 また文総裁は自殺防止の特効薬をもっているのです。(笑い) それは本当なのです。今日まで私は自殺しそうな人々をどんなにたくさん助けてきたことでしょうか。西洋の人々も、日本の人々も、韓国の人々もそうですね。このように死ぬべき人々を助けてあげてきたのになぜ大騒ぎするのですか。現実にはまず夫が反対したのですね。「お前が死ねば私はもう一度結婚できたのに、お前が統一教会に入ったので死なずに生きている!」と言って、迫害したのですね。 さて、私たちは何から解放されなければなりませんか? (罪です)。何の罪ですか? (原罪です)。歴史的な重い罪を背負ってしまった私たちは、この恨めしい荷物をいつ下ろすのでしょうか。千年万年たっても自分自身では下ろすことができません。ですから、私たちには救世主が必要なのです。何の救い主ですか? 罪悪から解放して、サタンの血統から解放してくれる救い主なのです。ですから、真の橄欖の木が出てくるのです。イエス様も「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の生命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう」(ヨハネによる福音書第六章五四節)と言われたのです。それはサタンの血を除去して、天国の本然の血を受け継がなければならないということなのです。この死亡の世界に来られたイエス様は、自らの死を通して私たちに生命の血を与えてくださったのです。そのような方が救い主だというのです。 サタンの血を受けた人は自分のみを考えるのです。サタンの血を受けた人は、自分を主とした人なのです。今日、アメリカのキリスト教文化圏がなぜ、あのように個人主義の国家になり、すべての人々がヒューマニストになってしまったのでしょうか。そして、最近は世界中を混乱させています。末梢神経を刺激するのが幸福であり、幸福を探し求めていくと言いながらも、最後は全部癩病になっているのです。夜昼愛し合っている者はエイズにかかってみな枯れて落ちるのです。罪の値は何ですか? (死亡です)。その意味するところは何かというと、サタンの血統から解放されなければ地獄に行くということです。 私は霊界についてすべて知っています。ですから、このような業を行うのです。このままにしておいてはいけないので、私はメスを突き付けるのです。キリスト教も門を開かなければなりません。大韓民国も門を開かなければなりません。四十日以内に、すべて回っていかなければなりません。先生がこのような特効薬をもっているので、悪魔は先生に食い下がるのです。「あれは全部、異常だ! 文総裁の薬は異常だ!」と言うのです。皆さんは先生の教えによって全部死んだのですか、生かされたのですか? (生かされました)。死のうと思ってここに来たのですが、反対に生かされたのですね。それは不幸ですか、幸福ですか? (幸福です)。統一教会に入って幸福になりましたか? (はい!)。皆さんは父母にも冷遇され、先生にも冷遇されるのに何が幸福なのですか? (それでも、幸福です!)。 皆さんがどこに行っても、なぜお母さんやお父さんは、「こいつめ。統一教会を信じるとは!」と悪口を言うのでしょうか。さらにまた、先生も皆さんに対して、「ああ、寒いでしょう、冬に出かけて活動することはどれほど寒いことでしょうか」と言いますか。反対に皆さんが帰ってくると、「この者たち! なぜ時間になる前に帰ってきたのですか! 今、十二時前なのになぜ帰ってきたのですか!」と叱りつけるのですね。なぜそのようにするかというと、罪の飾りものを脱がせるだけではなくて、罪の骨をえり分けなければならないからです。ですから、昔の中世キリスト教や寺院でも苦行を強いてきたのです。しかし、それらは、人間自体の解放を探し求めることができなかったのです。その理由がどこにあるかということが分からなかったからです。 血統をすべて取り替えなければなりません。誕生してみると、A型でなければならないのにB型になってしまっていたというのです。それでB型の血をすべて抜き取ってしまい、A型の血を満たさなければなりません。 しかし一度にA型の血を満たしてはなりません。少しずつ、少しずつ満たすのです。宗教を通して一生の間、修理過程を経なければなりません。自分の思ったとおりに生きようとしたり、今までの習慣をもって生きようとする者は地獄へ行くのです。 この原理を探し求めるために さて、きょうは先生の誕生日なのですが、皆さんは何のためにここに集まったのですか。お祝いをするためですか? (はい)。それではお祝いの感謝献金をもってきましたか。 原理の道がどんなに難しくて、この原理を探し求めるためどんなに先生の骨髄が溶けたことか分かりますか。先生の性質は火のようなのです。そのような性格をもった先生なのでこのみ旨を成してこれたのです。この原理の内容は実に膨大です。最近ではアメリカの国会議員たちも、この原理を受講して、異口同音に「ハッー」と、(先生しぐさされる)このようにしているのです。教授たちもこの原理を聞いてみな、降参したというのです。両手を挙げて、東西南北がこのようになるのです(先生しぐさされる)。今まで無視されてきたこの統一原理が、このように世界的に歓迎されるようになるということをいったい誰が知り得たでしょうか。また、冷遇されてきたこの文先生に対し世界の王たちが仕えるようになることを誰が知り得たでしょうか。 それでは、きょうの先生の誕生日を祝うためにどのような家が準備してあるのですか。(本部教会の隣にある新しい建物を御覧になりながら)あれは、誰の家ですか? (天主教です)。統一教会ではなくて天主教なのですか。天主教はどんな所なのですか? (修道女のいる所です)。修道女たちは何をすべきかというと、神様の前に孝女になるというのですね。ではこの統一教会は何をするのかというと、文先生は何をする人かというと、神様の孝子になろうとするのです。そして、孝子になって何をするかというと、神様のすべての愛を相続するのです。そのようにして神様の愛を受けたならば、あらゆる人々を食べさせて、助けてあげなければなりません。この先生も統一教会の食口たちを食べさせて助けているでしょう。(はい)。それでは、何を食べさせてあげるのですか。御飯を食べさせて助けるのですか、霊的糧を食べさせて助けるのですか? (霊的糧です)。既成教会はそれを食べないで、統一教会の悪口を言い、みな反対してきたのですね。病院で患者が注射を受けようとしなければ、医者はその患者を縛りつけてでも注射をすることは、悪でしょうか、善でしょうか? (善です)。ですから先生は、統一教会に入ってくる人には悪口を言うのです。しかし、「どんなに悪口を言われてもついていきます」と言う人々は、この世の人々よりも素晴らしい人々なのです。(アーメン)。良い学校であればあるほど生徒に厳しいのです。統一教会の食口たちも、そのようにして訓練するのです。 では、神様の前に誕生日のお祝いの感謝献金をいくらしますか。先生が死ぬ前までにどのくらい献金するのか約束してみましょう。紙に書いて出してください。まず献金をどのくらいできるのかを計算してから、のちに自らの暮らしを立てていくのです。そのように、一度紙に書いて出してみましょうか? (はい)。「私はこれくらい献金します」と書いてみてください。そして合計を出してみましょう。何の話か分かりますか? (はい)。 先生は七十歳になりました。キリスト教においては七年ごとに一年休むのです。先生は七十年ですから何年休まなければならなかったのですか? (十年です)。十年休まなければならなかったのですが、誰のためにこの十年を休めなかったのですか? (統一教会のためです)。統一教会のために十年休めなかった値を蕩減しなければなりません。 結論は何から解放されるのかというと、サタンの鉄の網から解放されなければなりません。皆さんはサタンの血筋で縛られているのです。そこでイエス様が来られて、それを切ろうとされたのですが、その時代には何も語ることができませんでした。今日、民主主義の時代、自由言論の時代が訪れたのですべてを語ることができるのです。イエス様は「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイによる福音書第一〇章三七節)とだけ語られたのです。世の中にそのような話がどこにありますか。そのように独断的で、特権的な独裁者がどこにいますか。「あなたの家族が怨讐だ」と言われたのです。なぜ、サタンは血筋によって首を縛りつけるのかというと、情があるからです。この情がサタンの血筋のひもなのです。サタンはその情のひもで縛りつけるのです。ですから宗教の世界においては、「独身生活せよ」と言ったのです。情を通じてくるのが禍根だからなのです。分かりましたか? (はい)。ですから、自分を捨て、家を出て入山修道したのです。人間と相対すれば情が通じるからです。血筋で揺れるのです。ですから、情が通じない山の中に入って動物たちと自然を相対にして、本性の位置を探し求めて、人生の最後の決断をかけて勝利の解放を求めていったのです。そのような道が残っていたために、今日まで逆説的な道を経てきたという事実を知らなければなりません。そして二十世紀の文明圏内においては、サタンが都市ごとに高層ビルを建てて金持ちを中心として、みな敷地を陣取っているのです。 このままではサタンを救うことができません。ですから、神様は文総裁を立ててこれをみな収拾しなければならないというのです。 統一教会のみ言を聞くようになる時には、一気にすべてが解決します。しかし、この道を行くとき、自分の父母が怨讐となり、自分の国が怨讐となり、自分の兄妹が怨讐となり、さらに自分自身が怨讐となるのです。自分を一番愛そうとするので、自分の中の体と心が戦うのです。体が心を主管してはなりません。心が体を思いどおりに主管しなければなりません。反対する体を打たなければなりません。それゆえ、先生は三十歳まで御飯に飢えることを習ったのです。お腹の空かなかった日はありませんでした。統一教会の若者はそれを知らなければなりません。ヤコブが歩んだ道をイスラエルの一族が行かなければならないし、モーセが歩んだ道をイスラエルの民族が行かなければならないし、イエス様が歩んだ道をキリスト教の信徒が行かなければなりません。さらに統一教会の先生が歩んだ道を統一教会の食口たちは行かなければなりません。これが原理なのです。 人間は堕落したので逆の道を行かねばならない 先生は三十歳まで、おなかの空かなかった日はありませんでした。それはお金がなかったからではありません。三、四月に家から学費を送ってくると、五月を過ぎる前には全部使ってしまったのです。みなかわいそうな人々に分けてあげたのです。そのような逸話がたくさんあります。新聞配達もしたし、いろんな商売をしてきたので、すべてに精通しているのです。先生はこのような蕩減の道を行かなければならなかったのです。 故郷の平安道からソウルに来てみると、言葉も、風習も不自由で、最初の休みがどれほど待ち遠しかったことか知れません。母も私の帰ってくることを待っていたのです。私の母はどんなにこの私を愛していたことか知れません。死ぬほどに愛してくれたのです。しかし先生はみ旨を知ってから、神様のみ旨のゆえに、まずその母をどのように切るかということが問題でした。姉や妹たちも先生を愛していたのです。それらをどのように切るべきでしょうか。ですから、父母が願うことの反対の行動を取らなければならなかったのです。休みになるとすべての生徒が自分の故郷に帰っていきます。隣近所が慌ただしく、学校が忙しいにもかかわらず、一人で部屋の戸を閉めて、御飯を炊いて自炊をしたのです。それはどれほど悲惨なことだったでしょうか。自炊生活をしながら学校に通ったのです。近所のおばさんに御飯の炊き方を習ったのです。私は米をとぐのがとても上手だったし、女性のやることで先生のできないことは何もなかったのです。編み物などすべてのことができました。女性がいなくても生きていける訓練をしたのです。 先生は決して醜くなかったので、女性たちもやたらと騒ぎたてたのです。また私は日曜学校の有名な先生でもありました。先生が話をするというと、十二キロ、二十キロも離れた所の若者たちも訪ねてきたのです。ですから妖邪な出来事も多かったのです。それで先生は常に汗の匂いのする服を着ていたのです。昔は学生相手の古着屋が多かったのです。そこで買ったソウルの若い人々の着古しの汚れたもの、匂いがするもの脂垢が付いたつるつるする服をいつも着ていたのです。非常に匂いがするのです。その次は、話をしなかったのです。自分の行く道を準備して立てるべき道を立てておかなければならないのに何を話すことがありますか。夜も昼も私は行くべき道を準備することに忙しかったのです。若い人々はそのような先生を知らなければなりません。神様がいるのか、いないのか。どれだけ考えあぐねたことか、分かりますか? 私の手でそれを解決しなければならなかったのです。正しいことを教えなければならなかったのです。 そのために私はすべてのことを知らなければなりませんでした。人間は進化して生じたのですか。猿の後孫なのですか? (違います)。神様が創造されたのです。そのように根本から掻き分けていったのです。神様がいるとすれば、すべてのことが解決できるのです。そこで、神様はどうして人間を創造されたのかということの問題を解かなければなりませんでした。そのように身もだえして、やっと人間の責任分担五パーセントという言葉が出てきたのです。皆さん、責任分担という言葉がただ出てきたと思いますか。結果主管圏や、直接主管圏という言葉が、空想家の妄想のように生じたと思いますか。学者たちが字を書くように書いたと思いますか。とんでもありません。このことを探し出すためにはどんなに身もだえして、命を懸けて戦ってきたのか知っていますか。大韓民国の歴史がどのように編まれてきたのか知っていますか。統一教会の先生がどういう歴史を歩んできたのか知っていますか。先生の良いところばかりを相続して、嫌なことは国や世界に残しておいてはいけません。先に国と世界のことを清算してから、自分のことを清算しなければなりません。人間は堕落したので逆の道を行かなければならないのです。自分の解放は世界の端に行ってするのではなく、世界を回って帰ってきて、本郷路を成就したあとにするのです。 神様が先生の七十歳の誕生日をどんなに待っておられたことか、考えてみたことがありますか。神様はこのまま死ぬまで苦労ばかりさせたいのでしょうか。それとも、もう苦労させたくないのでしょうか? (苦労させたくありません)。自分の責任を成し遂げて、死んでも恨みがないようにして、その国に行くためには七十歳が怨讐なのです。七十歳が過ぎる前に祖国の光復の基盤をつくらなければなりなせん。このように左右の混乱する世界を分別し、主体的な立場に厳然と立って、万民が思慕し希望となるようにしなければなりません。もはや、嫌でも何でもこのレバレンド・ムーンの思想にすがらなければならないのです。 命を懸けて闘争歴史を引き継いで回っていく そのような時代になったのです。民主世界、共産世界がいくら考えてみても、レバレンド・ムーンの思想を消化し、撃破する内容をもつことはできないのです。レバレンド・ムーンの思想は民主世界と、共産世界をみな撃破しても余りあるものです。皆さんは統一教会に入ってきて、驚くべき勝利的伝統の基盤の上に、ただそのまま座ってはしゃいで、歳月を過ごすようになってはなりません。命を懸けて闘争歴史を引き継いで回っていくのです。先生の歩みにギアを挾ませて回っていくのです。エンジンが早く回れば、そのギアも早く回らなければなりません。皆さんは食べて寝て、遊んでいる間にも、この先生は血が凍る闘争をしてきたのです。監獄の向こう側を清算するために、あらゆることをすべてやってきたのです。監獄の門の向こう側に残した天の心情の前に秘められた先生の人格、積みあげた功績は、この世の何をもって比較しようとしても、比較することはできません。それゆえに、霊界も先生に頭を下げるのです。イエス様も、皆さんの先祖もみな、頭を下げるのです。有名な先祖たちが、立派な人々がみな頭を下げるのです。その先生の前に、皆さんたちは何ですか! 大韓民国は何ですか! 既成教会は何ですか! 自分勝手に先生を無視して反対してきたのです。統一教会の者たちも同様です。ですから、国に対して、既成教会に対しても警告します。これからは今までのようにただ打たれてはいません。今までは息子が死にそうでどうにもできない状態でした。水に溺れかけた息子をサタンがひっくり返すのです。映画なんかでもそうでしょう。息子がワニと戦っている時、銃を向けることができますか。失敗すれば息子に当たるのです。しかし、ある段階を越えればそれができるのです。 遠くない日に正義の審判が下ることを知らなければなりません。それで、きょう私は統一教会の幹部たちにこのような話をしたのです。「二世たちが帰ってくる時、その列は強固でなければなりません。これを二つに分けてその列に沿っていかなければなりません。その列の前をあなたの家庭が横切り、あなたの国が横切り、あなたの世界が横切っても、途切れないように列を組まなければなりません。統一教会の伝統は父母や教会長の言葉に従っていくものではありません」。このような話をしたのです。分かりますか? (はい)。そして列の先頭に立たなければなりません。これからは二世の時代なのです。二世の皆さんが自主的に責任をもって出発する時には、一世のお母さんやお父さんは解放されるのです。皆さんが先発隊になって一線を守らない時には、皆さんの親も死に子孫も滅びるのです。両方共に滅びるのです。このことをはっきり知らなければなりません。そういう時代です。 このことは博士たちにも話しました。博士の息子や娘たちもみ旨に立たせなければなりません。これは、ただ単に言っているのではありません。そうしなければ両方とも倒れてしまうのです。自分たちが死ねば息子や娘たちも原理を知らずに終わるのです。先生も七十歳を越えたので、皆さんをつかんで、血が固まるくらい、血管が腫れて話ができないほどに、また、喉がひきつって話ができないほどに、悲しみを抱いて血を吐くように勧めるべき時なので、このような話をするのです。博士たち、分かりましたか! 霊界に行ってごらんなさい。私はある老人がアカデミーの功臣なので、その人の家もみな責任をもち、借金もみな私が清算してあげたのです。ですから死ぬ前に統一教会に来て感謝するような後孫を残しておかなければなりません。 統一教会の文先生は過ぎ去る一人の金持ちなどではありません。白氏というその一族を中心として学界を代表して私が面倒見てあげたのです。黒石洞に住んでいたので、この前先生は行ってみたのですがもういなかったのです。引っ越ししたというのです。この人の代わりに誰か学者が蕩減しなければならないのです。尹博士! やる自信ありますか。李博士はそういうことを知らないでしょう。歴史は生きているのです。正義の旗のもとに歴史は生きているのです。ダンベリーに訪ねてきた時、彼は涙で「先生」と呼んだのです。私はそれを忘れられません。ですからその一族を率いて、王が忠臣を愛するように、忠臣のゆえにその一族を愛さなければならないのです。そうすることによって善君、善王になるのです。 今回、私は七十歳になったので黒石洞を訪ねてみました。昔、学生の時代に住んでいた黒石洞の家々を全部訪ねようとしたのですが、探し出せなかった家もありました。ずっと以前に住んでいた統一教会はどこだろうかと探してみたのです。これからは、統一教会の歴史を訪ね求めてくる人々が黒石洞にやって来ます。そして黒石洞が白石洞になるのです。暗黒の谷間、昔ここで私が住んでいた所が、世界万民に光明の光を照らす伝統の基地になるのです。昔はそこに川辺もあったのですが、今はその面影は何もありません。黒石洞には教会がないというので教会を建ててあげたのですが、それは黒石洞に統一教会の食口が多くいるからではありません。昔、黒石洞に住んでいた人々にはもう会えないのですが、その後孫たちが多くいるからです。かつて先生と因縁をもった人々の息子や娘たちに会えれば、それはどんなに感激的なことでしょうか。このようにして歴史は復活するのです。このような昔の話をしながら歴史を復活させて、時代の花を開かせるのです。そのような展開を通して、歴史を学ばなければならないし、偉人たちを尊敬しなければなりません。 愛があればすべて良い 高価で貴い宝物の価値は、それを買った主人にしか分かりません。お金もちの息子たちは、お父さん、お母さんが宝物を残しておいても全部安物のように売ってしまうのですね。統一教会の若者たちはどうですか。今はみな先生が素晴らしいと言って集まっているのですが、先生が死んだのちにはどうなるのですか。皆さんは誰に付いていきますか。これが問題なのです。統一教会の良いものを取り外して、売り飛ばすという者たちさえ出てくるのです。 昨日、私はお母様に「一生の間、共に生活して、贈物一つも買っていただけないのですか?」と言われました。そこでよく考えてみると、お母様の言うことが正しいのです。それで、「では、何か買ってあげましょう。それはどれほど大きなものですか?」。私はお母様が何か大きな買い物をしたいのかと思っていたのです。しかしお母様は、「ハンドバックを一つと、靴を一足買ってください」と言うのです。それは、品物よりもその心が尊いのですね。先生に仕えてきた愛する妻の心はお金で計ることなどできません。愛があればすべて良いのです。 それで、私は初めてお母様を連れて宝石店に行ったのです。この大韓民国において今や、この私のことを知らない人は誰もいないのです。その店に入ると店員が、「いらっしゃいませ!」と言ってさっとやって来ました。彼らはみな「先生のことを知っています」と言うのです。ですから安いものを買うこともできません。かといって、高い物を買えば買ったですぐにうわさになるのです。また夫妻そろって門の前に立って先生に敬礼するのです。ですから、「この安物を下さい」などと言えますか。統一教会の文総裁の体面もあるのですね。それで今さら逃げ出すこともできずにいると、「奥の部屋で良い品物をお見せいたします」と言うのです。そういう時、入るべきですか、入らなくてもいいですか。そういう時にはさっと入らなければならないのです。お母様は以前にもこの店に来たことがあったのですが、私は宝石の名前も何も分かりません。「これはいくらですか?」と尋ねると、一個が一億八〇〇〇ウォンだというのです。それはこれくらいの青いものが付いたのですが、一軒の家よりも高いのです。その次に、ちっちゃなものがあったので、「これはいくらですか?」と尋ねると「九〇〇〇万ウォン」。またその次にネックレスがあったのですが、それは聞いてもみませんでした。このくらいの真珠の玉が連結されているので、きっと高いものに違いないのです。それで一番安そうなものを、「これはいくらですか?」と聞くと、「いくらいくらです」と言ったのです。私はそれが気に入っていたので「これを下さい」。(笑い)値段はいくらなのかみな忘れてしまいました。夕食も食べないで行ったので忘れてしまったのです。そのようにして一個買ってあげました。 先生はいくらくらいの物を買ってあげたと思いますか。それは謎なのです。私たち二人だけが知っていることです。歴史を忘れてはいけません。私がお母様を素晴らしいと思うのは、私が世界一周して初めてオランダに行った時、生まれて初めてのダイヤモンドを買ってあげたのですが、お母様に聞いてみるともうなくなったそうです。どこにいったのか尋ねても「あげたものはどこにいったか分からない」と言うのです。みなあげてしまったそうです。買ってあげればすぐに、みなあげてしまうのです。そして、あげた人も誰なのかみな忘れてしまうのです。 先生の見立ては、センスが良く芸術的なのです。私の誕生日には統一教会の者たちが群がってくるのです。それで何もあげるものがないので、昨日ネクタイを選んであげたのです。その場に参加できた人々は幸運に恵まれたのです。また人は覆物が良くなければなりません。昔はよく帽子と靴を見ればその人がどんな人か分かったのです。最近は帽子を被らないので、靴を見るのです。履物が色あせていて汚れていると駄目な人なのです。先生のドライバーも靴がバラバラになっていたので買ってあげました。それでネクタイのほうを選んでいて、ふと見ると教区長たちがみな来ていたのです。それで一つ、二つ買ってあげようと思いました。みんなのネクタイを見ると、自分に合わない物ばかりを選んでいるのです。自分の性格がそうだからです。ネクタイは男にとって、女の指輪やイヤリングと同じなのです。それがあのように暗くては誰が関心をもちますか。それで一本ずつ買ってあげることにしたのです。それで、いくつ買ったかというと、五十本買いました。(笑い) 本当は一〇〇本くらい買いたかったのですが、それでは文総裁のうわさが立つのです。「文総裁があのように多くの人々を連れてきてネクタイを選んでいたのは、きっと貧しいからだろう」と。また「文総裁は多くのネクタイを買っていって商売しようとするのだろうか」と思うのです。それにもかかわらず、ただ触りながら「これ下さい。これ下さい」と言いながら、いい柄をみな私が選び出したのです。それをじっと女店員たちが見ていて、「みな良いものばかり、どのようにすれば選び出せるのですか?」と言うのです。それはあなた方の目より、私の目のほうが良いからです。ですから、お母様もよく市場に連れていくのです。先生の選んだ服を着ると、春にも似合うし、夏にも似合うし、秋にも似合うし、冬にも似合うのです。それはどれほど便利なことでしょうか。そのようにしてさっとネクタイも買っておいたのです。 きょうの夕方に来ますか、来ませんか? 五〇〇名も来たならば、五十本を分けてやる方法を考えなければなりません。抽選にすればいいのですね。(笑い) 女性が来てもいいのですが、夫のいない女性はいけません。このような話をなぜするかといえば、歴史はそのように綴られているのです。与えて、受けて忘れていくのです。分かりますか? (はい)。ですから、日本人と韓国人がこのように連結すれば良い関係が結ばれるのです。昔の人と現代の人を連結すれば良い関係が結ばれるのです。それと同じように統一教会も、昔の統一教会の伝統と歴史を、私たちの現代の生活と連結させなければなりません。それが正しく相続できない時には、歴史が皆さんを叱責するのです。分かりましたか? (はい)。 統一教会を無視することはできません 統一教会を無視することはできません。統一教会を無視するということは先生を無視するということです。私は今朝も三十六家庭の人々を集めて語りました。息子、娘たちが大学院へ行くのは良いですが、先生の息子、娘たちは大学院へ行けなかったのです。原理原則がそうなっているのです。もし、王家に赤ちゃんが生まれないで、悩んでいるというのに、自分たちの息子が生まれたからといって、連れてきて挨拶させることができますか。そんなことができますか? (できません)。先生は苦難を受けながらみんなに勉強させようとして、自慢できるような学校を建てて準備しているのに、なぜ外部世界の学校に行くのですか! そんな所は全部サタンや共産党がうようよしていて、殴られていつ殺されるかもしれないのです。真の統一教会の勇士であるならば、殴られて殺されるかもしれません。 先生が大学院に行かないようにと言うのは、皆さんが憎いからでも何でもありません。先生は学校をつくり、大学院をつくって、私の息子や、娘たちと一緒に行かせようと思っているのに、それが嫌だというのですか。これ以上の栄光はないのです。一〇〇〇年後のことを考えてみなさい。私たちの第一代目の先祖は、先生の子女様たちと同窓生であったということを自慢できるということが分からないのですか。何だってソウル大学へ行くのですか。ソウル大学は今戦っているのです。高麗大学、延世大学も天の鞭が振り下ろされるのです。「今朝、三十六家庭、七十二家庭は、回れ右!」と言えば、全員が回れ右できますか。私が学校を建てるならば、全員がその成和神学校に転校できますか。自分が行くべき道を正しく知らなければ滅亡します。 この先生の話は正しいですか、間違っていますか? (正しいです)。先生がきょうまで何を準備してきたか分かりますか。私が統一神学校をつくってから何年目になりますか。もう六年目になるのです。しかし先生はそこに一度も行きませんでした。なぜかというと、学校を建てる前に国を探して立てなければ、共産党の讒訴を受けるからです。国を立てておいて、蕩減条件に引っかからないようにして、後孫が勉強できる環境をつくっておくというのが先生の考えです。ですから、私は統一神学校には行かなかったのです。だから尹博士は、学校を建てる前に設計図を作って先生の承認を受けなければならなかったのです。全部自分勝手に建てたので、失敗して二度も壊したでしょう。それはどうして壊れたのか分かりますか。歴史始まって以来初めてできる教育機関なので、すべて壊れてしまってもその痕跡は残しておかなければなりません。そのような礎石を築いてから始めようとしたのですが、この大韓民国が妨害したのです。 汝矣島の本部から始めて、我々は学校をどんなにたくさん建てたことでしょうか。水沢里に、清平に、さらに利川に。それらが今残っていたならばどんなに素晴らしいことでしょうか。先生が大学を建てようとすると、政府が全部奪っていったのです。そうであればあるほど、私は一番立派な学校をつくろうと思うのです。先生が梨花女子大学や延世大学と戦った時、梨花女子大学や延世大学以上の大学を必ずつくりますと神様に誓ったのです。ソウル大学も問題ではありません。それ以上の神学大学に皆さんを行かせなければならなかったのに、これは何ですか! 今年までに入った人は、私が特別に成績の良い人を集めて全員勉強させます。何の話か分かりますか? (はい)。 この統一教会を無視してはなりません! 先生を無視してはなりません! 神様が願われる基準に至ることができなければ無視したことになるのです。先生自身がどんな位置に行かなければならないのか、先生は知っているのです。その先生の立場を知らないで反対するならば、それは無視したことになるのです。大統領に対して町長扱いするのは無視することです。異端の教祖程度の考えもない悪賢い者たちが先生を無視するのです。統一教会を信じていた者が、統一教会を離れていって、泥棒のような心をもって何をして食べているのですか。その者たちの将来がどうなるのか見ていなさい。何? 統一教会の文先生は再臨主ではなく、洗礼ヨハネだというのですか。洗礼ヨハネでもかまいません。私は再臨主でありたいなどと思っているような人間ではありません。再臨主は簡単になれるものではありません。道楽者のボスたちが統一教会の原理を利用して、自分たちの教団をつくっても、彼らがあとでどうなるのか見ていなさい。善は利用することができません。善をのみ込むことはできません。のみ込んだら死んでしまいます。何の話か分かりますか? (はい)。 サタンの血統から抜け出さなければならない それでは、皆さんは蕩減を受けて何をしようというのですか。まず、サタンの血統から抜け出さなければならないし、その次はサタンの血筋から抜け出さなければなりません。さらにはサタンの家庭から抜け出さなければなりません。皆さんがどんなに抜け出したとしても、もし、皆さんの妻がまだ抜け出せないでいる時には、その妻と一つになれば皆さんも悪の側に落ちてしまうのです。なぜならサタン側は世界的に連結されているからです。皆さんはまだ家庭的です。家庭的基準しかありません。サタンの家庭から解放されなければなりません。分かりますか? (はい)。そのようなサタン側からの解放を受けなければなりません。夫婦の立場で解放を受けなければなりません。二世を通して、今まで綴られてきた愛の血筋を交換させて、真の生命の種を植える夫婦の因縁の真の愛の中で、サタンの血筋を抜け出した立場で妻となり、夫とならなくてはなりません。深刻な問題です。夫婦から解放されなければならないし、家庭から解放されなければなりません。おじいさんやおばあさんが、お母さんやお父さんが、「全部いいです」と言えるようにならなければなりません。 サタンの血筋を抜け出して本性の立場に立ったおばあさん、おじいさんになりましたか。お母さん、お父さんになりましたか。そのようなお母さん、お父さんになっていないし、おばあさん、おじいさんになっていないのです。そのような時には、真の愛を受けることのできない怨恨の穴がその間に掘られているのです。死亡の罠が仕掛けられているのです。それが分からなければなりません。真の愛以外の血筋が絡みついた家庭的なこの網をいかにして抜け出しますか。その次は氏族です。文氏であれば文氏族を通して、綴られてきた環境を、いかに抜け出しますか。そして国家です。白衣民族、檀君を中心として綴られてきたこの血族をどのようにして抜け出しますか。 人類の始祖アダム・エバより始まった罪悪の血筋の根を、どのようにしてでも抜いてしまわなければなりません。このことを考えた時、かつてパウロは、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは何というみじめな人間なのであろう」(ローマ人への手紙第七章二二~二三節)と嘆いたのです。そのような悪の法が私をして、歴史の根までもつれさせているのです。この網からどのようにして抜け出すのか、これが深刻な問題なのです。ですから、個人を懸けて、家庭を懸けて、氏族、民族、国家、世界を懸けて、天と地を懸けて神様に談判しなければならないのです。 そのように歴史の初めより今日まで、後退することを知らない根強い悪魔の力の勢力圏はいったいどこにあるのか。この根を抜き取るまで人類の解放は訪れないのです。その根を抜き取るための戦いの記録が、この統一原理なのです。分かりましたか。ですから、原理の人とならなければなりません。原理の人とは、アダムに勝つ人です。アダムによって汚された血筋を受け継いだために、アダムに勝つ皆さんにならなければなりません。次にノアに勝つ皆さんにならなければなりません。さらにアブラハム、イサク、ヤコブに勝つ皆さんにならなければなりません。モーセに勝つ皆さんにならなければなりません。民族的なサタン的血統がまつわり付いているのです。イエス様に勝つ皆さんにならなければなりません。イエス様は、国家を中心としてのローマ帝国から解放すべきみ旨を成せずして死んでいったため、このサタンの網を破って再び国の解放の日を尋ねてこなければならない道があるのです。このようなサタンの死亡の網から、いったい誰が私を救い出してくれるのでしょうか。そのためには、死を懸けた戦いをしなければなりません。何の話か分かりますか? (はい)。 私のお父さん、お母さんはこの私をとても愛してくれました。お母さんは八人兄弟の中でも私をより愛してくれました。そのお母さんが、生きていらっしゃる間に、私はハンカチ一枚も買ってあげることができませんでした。しかし統一教会の食口のためには今まで家を買ってあげたり、洋服を数万着も作ってあげました。そのほかにもいろいろなことをしてあげましたが、私の愛する両親にはハンカチ一枚も買ってあげられなかったこの不幸が、他人にいろんなことをしてあげたからといって、善に変わるでしょうか。 原理原則において、天国に入ることを願う人は自分の息子、娘よりも、将来生まれる、罪を犯すことのない息子、娘をより愛さなければなりません。そのためには、その位置に至るまでサタンを打ってしまってはなりません。神様は先に天使をつくられ、天使を愛しながらアダムとエバを創造されたのです。ですから、天使を愛する神様の立場に立たなければなりません。神様の代わりにアダムとエバを創造された位置に立って、アダムとエバが完成したのちに天使を連れて天国に入らなければならないのが神様のみ旨なのです。カインを前に、未来の息子や娘を愛して、愛の道理を残していくことはできないのです。私は今こうしてお母様と一緒に暮らしていますが、一九六〇年に結婚したのちの三年間は、お母様に外泊させたのです。それはなぜかというと、統一教会の狼の群れのような女たちをみな生かしてやるために、その十字架をお母様が背負われたのです。そのような網を抜け出さなければなりません では、世界的な網をどのようにして抜け出しますか。このような環境をどのようにして抜け出しますか。この文総裁も同じなのです。解放後すぐに結婚できれば良かったのに、なぜ一九六〇年になって結婚したのでしょうか。解放後、李承晩政権が私を支えなければならなかったのです。それが反対してきたことにより、十四年間尋ね求めていかなければならなくなったのです。アダムとエバは、第二次七年路程を経たのですが、第三次七年路程は越えることができなかったのです。そうして十四年後に、国を相手に戦いながら上がってきたのです。個人から、氏族、民族、国家と上がってきたのです。そのためには監獄に入ってもいろんなことをすべて成したのです。先生は結婚式の前日まで、内務部で調査を受けたのですが、よく考えてみると、統一教会を信じたことのある者たち十二名が反対していたのです。イエス様を殺すための十二弟子の反対をすべて蕩減復帰の原則より受けて、激しく殴られなければならなかったのです。 そのような戦いを経て探し出してこなければならないのです。三十六家庭は戦って探し出してきたのです。正にけんかなのです。他人の息子、娘を連れてきてお父さん、お母さんには相談もさせませんでした。サタンは神様に相談しましたか。本来は神様の息子、娘とならなければならないのに、サタンは自分勝手に繁殖させてしまったのです。ですから蕩減法則により、親の最も愛する息子、娘をみな連れてきて祝福したのです。サタンの血統世界に因縁づけられてはなりません。それで結婚式の一週間前に、父母に招請状を出したのです。「お父さん、お母さん希望でしたらおいでください。参席する場合にはこれこれの条件があります。まず礼服を着てこなければ会場に入れません」というような内容なのです。世の中にどこに自分の息子、娘が結婚するのに両親が式場に入れないなんていうことがあるでしょうか。今までは自分の息子、娘であったのですが、既にもう出発が違ってきたのです。 愛する娘たちが、息子たちがみな統一教会に入っていたことを知らなかったのです。まして自分の娘や息子が結婚するなんて、正に青天の霹靂なのです。それも、誰が結婚式の通知を送ってきたのかというと、この文先生なのです。「お前のような者が通知を出すなんて何だ!」と言うのですが、蕩減復帰の原則を知らなければなりません。私は神様が守ってくださっているのです。私は神様の命令に従って乞食をしたとしても、悪魔の命令には従わないのです。親たちはみな「誰が何々を着て来いと命令するのか。私の息子、娘なのに」と言いながらもやって来たのです。そこに反対派のおかしな連中が来たので、「龍山署警察官たちを連れてきて警護しなさい」と言ったのです。殺人事件でも起きたら警察署の責任だというのですから、警察官も警護しないわけにはいかないのです。そこで見張り番を立てて、その中で結婚式を行ったのです。先生は、死んでいなければ生きているだろうという賭をして、多くの反対の中で命を懸けて決行したのです。そのようにしてサタンは滅亡し、天は発展したのです。 反対する群れの中の四人から、先生はありとあらゆる悪口を言われました。しかし、今となっては悪口を言われるのも悪いことではありません。ありとあらゆる悪口を言った人は、必ず罰を受けるのです。悪口を言ってはならない人に悪口を言ったならば、その罰を受けなければなりません。 今や四十年間の恨みを解かなければならない 文総裁が指をさされるのはつかの間です。四十年過ぎてみると、私を指さす人もいなくなったのです。この間、大韓民国で新聞社を一つ設立しました。東亜日報がどんなに大きいといっても、朝鮮日報がどんなに大きいといっても何ですか。独裁者面して、正義を全うせずにこの者たち! 歴史を代表して社会の正義を分別していかなければならないにもかかわらず、文総裁が行う世界的事件や、何か良いことをしてもそれらはみな隠してしまい、野良犬のような人々の出来事を新聞に出しているのです。正義の刃は、陰の中から現れるのです。世界日報が必要なのです。その世界日報と東亜日報はどちらが大きいですか? (世界日報です)。なぜ、世界日報が大きいですか? (「世界」的だからです)。小さな耳の当たりが「東亜(日報)」です。「朝鮮(日報)」は既に過ぎ去りました。旧韓国時代の苦痛を受けたのが朝鮮です。ああ、考えただけでも恐ろしいことです。私は朝鮮人として監獄に入ったのです。大韓民国の人間として、監獄に入らなければならなかったのですが、日本人によって朝鮮人として監獄に入れられたのです。あの過ぎ去った朝鮮と世界とどちらが大きいですか? (世界が大きいです)。そして「韓国(日報)」、恨みの多い韓国、今まで滅びた国と言われるほどに希望がなく、絶望状態で水だけを飲んで、何日ももたない状態の韓国、そのようなものが韓国日報です。 今や、四十年間の恨みを解かなければなりません。そこで今回、韓国に帰ってきて、「韓国統一」の標語を打ち出しました。かつて統一南北を望み見た夢は壊れ去り、分立された歴史の中で、ぼろ布のように転がっていた文総裁は死ななかったのです。今日、南韓の血を収拾し、分断された北韓を統一するために帰ってきました。南韓の恨み、北韓の恨み、私のお母さん、お父さん、私の氏族。北韓の五つの道に結ばれた因縁。六・二五動乱で流された悲惨な血。私は忘れてはいません。その血が必ず私の胸を通して、復活の血として吹き出してくる日があると信じてきたのです。先生はそういう人間です。私の行く道には、私のお母さん、お父さんが虐殺され、多くの兄弟姉妹も虐殺されました。その人々の身代わりになって、意気揚々と、すべての面を準備して、たとえ若者たちが血を流す道であろうとも、意に介することなく前進できる勇士が、このような根を通して生まれてくるのです。 それがこの統一教会の二世たちです。お母さん、お父さんが流した血を、憤りを冷まさなければなりません。六・二五動乱により、三〇〇万人の国民が犠牲になり殺害されたすべての血の代価を、四十年生涯を通して探し求めてきたのです。今こそ、天の血筋につながり南北を解放して、金日成をも解放できる統一祖国をつくらなければなりません。既に、私は七十歳になりました。私の中に満ちた正義の血気が中天空高く燃え上がる時代はすべて越えてきました。そして今日、このように韓国統一を叫ぶようになろうとは、当時いったい誰が信じましたか。今も南北統一を、北韓の解放を叫んでいるのですが、誰が信じてくれますか。しかし見ていなさい。 かつて四十余年前に、「一九八八年になれば転換期が訪れる。我々の時が訪れる」と私が叫んでいたのを皆さんは知っているでしょう。蕩減法は神様が知っておられ、悪魔が生きている限り鉄則なのです。厳粛な鉄則のルールなのです。今や南韓を通過して北韓に連結され、世界に通じる復帰の軌道が完成しているのです。皆さんはそこに機関車のごとく、自由天地の解放の勇士として走る自由の世界が訪れたのです。 そのような解放の日のために、宿命的な事業を完成するために私たちは前進しているのです。女として生まれたのは運命ではありません。それは宿命なのです。ですから女が男になることはできません。私たちは白衣民族として南北の統一を宿命的な任務として受け入れなければなりません。何の話か分かりますか? (はい)。誰々の娘として生まれたということは、それを変えることはできません。正義の道理を備えていく以外には解放される道がありません。同様にサタンの血族なのです。ですから、サタンに歓迎されず、冷遇されればされるほど、天の前に近づくのです。分かりますか? (はい)。 善悪を分別するためには、迫害が常に付いて回るのです。文総裁一人に対しても、この大韓民国が反対してきたのです。しかしみな過ぎてみると、今や「文先生総裁は五〇〇〇年の歴史で初めて現れた愛国者だ」と言っているのです。この国の多くの先祖たちは、万国を指導していく中心国家となる統一王国で住みたいという気持ちをもっていたのです。この六〇〇〇万人の国民も同じです。また将来この国に生まれてくる数多くの後孫たちも、同様に統一王国で暮らしたいというのです。天地に代わって、世界に代わって、すべての宗教に代わって、すべての国家に代わって中央の地に住みたいという願いは、人類すべてがもっているのです。 そのような本然のみ旨を抱いて、その使命を成そうとする先生の行く道を、悪魔が東西南北に激しく打ってくるのです。これが第一線なのです。世界的な責任をもった者は、世界的な個人の第一線であり、サタンも世界的個人、世界的家庭、世界的氏族、世界的民族、世界的国家を通して攻撃してくるのです。世界的なある団体の名目をもったすべての人々が、サタンの名のもとに「死ね! 死ね!」と迫ってくるのです。ですから、迫害とは何かというと、福を奪うための一つの方便的作戦なのです。何の話か分かりますか。迫害は怨讐世界のすべての福を奪ってくるための方便的作戦なのです。ですから、世界的迫害を受けて滅びない時には、公義の神様は「次はお前が打つ番である」と言って、公判場に現れるのです。そして「おい、サタンめ! 歴史始まって以来私に対して頻繁に讒訴してきたお前は、私の息子であるレバレンド・ムーンに対してもありとあらゆる讒訴や様々なことをするために、世界を動員し、天地を動員してすべての迫害をしてきたが、お前ができることは今やすべて終わった。個人的に殺そうとしたし、家庭的に殺そうとしたし、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に殺そうとしてきた。米国がそうであったし、日本がそうであったし、ソ連がそうであったし、中国がそうであったし、英国、フランスすべての力を動員して文総裁を打って消そうとしたが、それはできなかった。なぜならば、愛の戦いをしたからだ。仇を仇で返さないで、愛で報いてきたからだ」と言うのです。 仇を仇で返す世界の法は適用できません。そのように、迫害とはサタン世界の福を奪ってくるための神様の作戦なのです。分かりましたか? (はい)。ですから、統一教会に、皆さんの息子がこの道を行く時に、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんが全員反対すれば、その人に家庭の福を全部移すのです。その次に一家が行く時、サタン側の一族が反対してきても、最後まで挫折しない時には、その福が移されるのです。 そのようにして氏族、民族、国家を越えて、統一教会の文先生が一人で始めたこの歴史は今や、一六〇カ国以上もの一族を連結させて、二万一〇〇〇双以上の家庭を世界の前に確立したのです。しかし、それは遊び半分でできたのではありません。命を懸けて、千辛万苦で勝ち取ってきたのです。雨が降っても、雪が降っても、季節が変化するのも忘れてやってきたのです。夜も昼も忘れて、御飯を食べるのも忘れて、眠ることも忘れてやってきたのです。皆さん、このことを知らなければなりません。一生の間生きるか死ぬかの賭をして、身もだえしながら越えてきた先生のことを知らなければなりません。 しかし、この先生の苦労など何でもありません。神様は人類歴史一五〇万年以上の間冷遇されながら、神様の威信と権威とすべてを忘れて今日までみ旨を進めてこられたのです。息子や娘を失ったかわいそうな神様の立場は誰に哀訴すべきなのでしょうか。息子が勝利して解放してくれるまでは、その胸に募った神様の恨みは解くことができません。打たれた釘を抜くことができないのです。もし釘を抜くとすれば、愛の涙で、愛の血で、それが肉となるように抜いてあげなければなりません。この神様の恨みの心情をいったい誰が解放してあげるのでしょうか。 自分の解放の前に神様の解放を 自分の解放を優先する前に、神様の解放を成さなければならないということを知らなければなりません。これが宗教人たちの追求すべき究極的な解放の道であるということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。私は監獄に入った時、「神様、おなかが空いて死にそうです」というようなお祈りは一度もしたことはありません。私はそのような勇気はありません。 最近もそうです。私はある国を助けるために今たくさんの万物が必要なのです。それもある期間で成さなければ、この国の運命もアジアの運命も大変なことになるというのです。「この国がこうであっていいのか。イスラエル圏を引き継ぐ、第三イスラエル祝福の教会を引き継ぐこの教会がこんなことでいいのか。少しだけ我慢してください。待っててください」と言ってやってきたのです。このことをお母様が知っていますか。子供たちが知っていますか。誰が知っていますか。だから私は孤独なのです。しかし、この道は私が知って、私が探してきたのです。神様が教えてくださったのではありません。巨石を積み上げ積み上げていけば必ず満州が北京が見え、さらにモスクワを眺めることができるということを知っていたのです。誰かがこの塔を築き上げてくれたのでもありません。私が積み上げました。そのような死ぬか生きるかの道であったということを知らなければなりません。そのような蕩減の道を行かなければなりません。蕩減の道を経て、復帰の道を越えていかなければならないのです。 神様の本然の世界になれば、解放は必要ありません。真の愛を中心として、その真の愛の血筋に連結されれば、世界の新しい呼吸を躍動させる地上の真の愛の天国が実現するのです。そのために、サタンと過去のすべての因縁を清算して越えていかなければなりません。それを思えば、高齢の人々は夜を徹しながら、天を悲しませてきた歴史を命を懸けて悔い改め、祈祷しなければなりません。そのような厳粛な時代がやって来るのを早く悟らなければなりません。先生は勝利しましたが、皆さんは勝利しましたか。勝利のあとに解放が来るのです。そのために、サタンの血統の世界において勝利しなければなりません。サタンに勝利しなければなりません。 すべての歴史的過去の垣根を壊して、勝利者とならなければなりません。文総裁にはそのような日が訪れたのです。私がアフリカに行っても諸王たちが私を歓迎する日も遠くありません。南米に行っても諸王たちが私を歓迎するようになります。ヨーロッパも同様です。アジアも同様です。それを神様が望まれるからです。何の話か分かりますか。これから大韓民国はだんだんと難しくなっていくのですが、死ぬか生きるかという立場に入って、死ななければ生きられるのです。今や与党も野党も、すべて困難をきたしています。 それでは、結論を下しましょう。何の解放を受けなければならないかというと、堕落したアダムから解放されなければなりません。その次に、堕落したエバから解放されなければなりません。そして、堕落したアベルから解放されなければなりません。堕落したカインから解放されなければなりません。さらに、サタンから解放されなければなりません。そうして最後に、神様の前に解放されなければならないのです。では、勝利したアダム、勝利したエバ、勝利したアベル、勝利したカイン、勝利した神様はどこにおられるのでしょうか。それを探し出せなければ、サタンを除去することができません。これが結論です。植えたごとく刈り取らなければなりません。 第二次世界大戦の収拾は、第二イスラエル王権を探していく道です。主様に仕えるために、地上に統一王国時代を迎える準備時代だったのです。第二次大戦後にどんな国ができなければならないかというと、神様が統治できるアダム国、エバ国、アベル国、カイン国が生まれなければならなかったのです。カインは天使長であって、サタンではありません。天の前に順応できるカインなのです。天使長の国が天の前に順応しなければなりません。そのような天側のカイン、天側のアベル、天側のアダム、天側のエバの国家を既にサタンが知って反対の行動を取ったのです。英、米、仏に対峙して、戦争を起こした日本とドイツとイタリア。日本はサタンに属したエバ国家なのです。ドイツはサタンの側のアダム国家なのです。イタリアはサタン側の天使長国家なのです。これらが何をしたかというと、天の側のアダム国家をのみ込むのです。四十年間日本がガブリと噛みついたのです。そのように四十年間苦労した国に、再臨主が来られるのです。なぜかというとアダムとエバが失敗して、四〇〇〇年の歴史を経てきたため、収穫の時には蕩減復帰の原則に従って、世界的な形態を取って四〇〇〇年の歴史を四十年でもって、アダムがエバを転覆させるのです。主管権を転倒させなければならなかったのです。これを英、米、仏がしなければならなかったのです。イギリスは何の国家かというとエバ国家です。アメリカはアダム国家です。フランスは天使長国家です。この英、米、仏がサタン世界を打ち破って、戦後に何をすべきだったかというと、エバ国家、カイン国家、アベル国家として、アダム国家を探し出さなければならなかったのです。アダム国家を探し出すことを妨害するためにサタンが四十年間握ってきたものを打ち破って、自分たちの王国の先祖として仕えなければならないのです。これが第二次大戦直後に、エバから苦難を受けていた韓国の実情だったのです。 第二次世界大戦の収拾 その時、先生を中心としてキリスト教会とアメリカが一つになっていたならば、七年間ですべてが終わっていたのです。しかし四〇〇〇年歴史を四十年かけて蕩減してきたのに、すべて失ってしまったのです。アダム国もすべて失ってしまって、レバレンド・ムーン一人だけが残ったのです。アメリカが失敗したためです。アベルの立場に立ったアメリカが、ユダヤ教を引き継いだ第二イスラエル圏になれなかったためです。分かりましたか。アメリカの失敗がアダム国を失い、エバ国イギリスを失い、フランスもみな失ってしまったのです。なぜアメリカに世界の指導国家として世界を任せたのか、第二次大戦直後になぜ国連ができたのか分かりますか。国連を治めるべき国はアメリカでもなく、ソ連でもないのです。それはメシヤの足場なのです。 今日、民主主義の祖国のアメリカにおいて、上院下院を中心としていかに統一国を連結させていくのか、国連を再編成していくのか。そのためにも、失ってしまったすべてのものを再び探し求めなければなりません。サタンがすべて取っていってしまったのです。このことを韓国もアメリカも、日本も知りません。そこで、サタンの世界中で一番愛する天の側を打つことによって、サタンが最も愛する日本をイギリスの代わりに立たせたのです。日本の文明はイギリスの伝授文明なのです。その次に、ドイツがカインになるのです。なぜアメリカがカインではないかというと、アメリカを切ってしまえばキリスト教の文化圏の旧約歴史、新約歴史がすべて崩れるのです。ですから、アメリカを立たせるためには、アメリカの誤りを蕩減してあげなければなりません。そこで、レバレンド・ムーンが韓国で基盤をつくって、韓国が執拗に反対するのを越えてきたのです。 再臨時代の父母に侍る氏族的基準を編成して、民族的基準での条件を整えて、イエス様が失敗した国家基準を越えて、イスラエル民族を収拾するために、十四年間の路程を蕩減したのです。そのようにしてアメリカの大統領を立たせ、そのアメリカで何を成したかというと、韓国、日本、アメリカ、ドイツなど四大国の人々を一つにして、アメリカ人がアメリカを愛する以上にアメリカを愛したのです。そのような愛を示さなければサタンは屈伏しないのです。 韓国と日本が怨讐であり、日本とアメリカが怨讐であり、アメリカとドイツが怨讐であり、怨讐の国同士なのです。怨讐が一番愛していた人々を天の側に立てて、怨讐の国に連れていって、天を代表して誰よりも怨讐の国を愛したという条件を立たせたのです。それは同時に、失った大韓民国、失った日本、失ったドイツを回復できるのです。 今や先生が世界の頂上に戻るようになる時、アメリカは落ちていくのです。なぜかというと、アベルはいりません。子女として父母に仕えなければなりません。これからアメリカに続いて、自由世界が落ちていきます。日本もアメリカに続いて落ちるのです。全部下がっていくのです。そのように下がっていく国々を韓国へ連結しなければなりません。そこで、四〇〇〇年間鞭打たれ、四十年間鞭打たれ、反対される中で、すべての福を引っ張ってきた日本を代表し、アメリカを代表し、ヨーロッパを代表して、今や七〇〇〇名の群れを連れてきて移していくのです。 これからの統一教会の人々は、「決意し、強く大胆であれ!」「韓国民よ! レバレンド・ムーンのように、統一教会のように強く大胆であれ!」「外国から入ってきた七〇〇〇余の人々に負けるな!」。この人々が徹夜作業をするのならば、その時彼らの御飯を炊いてあげたり、寝床を整えてあげなさい。そうすることにより本然の祖国を訪ねてくる人々の福を、この地に根づかせ、永々世々に王権を誇ることのできる万世の指導国になれるのです。これが、神様が韓民族を訪ねてこられて、お父様と共になさる祝福であることを、統一教会の人は明確に知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。 昔、個人的にアダムとエバが結婚して世界を滅ぼしたので、国家がすべてひっくり返ったのです。それを今回全部交差してあげたのです。それも国家基準においてです。アダム・エバ国家圏を中心として、この心情圏はサタンの讒訴する何の条件もありません。神様の名で国家を越えて、かつての怨讐国の二世たちが愛の国家として結ばれるのです。これから、反対されることもなく越えていくその時には、その国こそが神様の愛を中心とした祝福時代へと展開される地上の天国であるというのです。(アーメン)。ここに参加した五色人種はすべて異義ありませんね! 皆さんはもうアメリカ人でも日本人でもありません。数千年前に別れた兄弟姉妹たちなのです。このようなことを分かってみれば、今まで怨讐であった日々が恨めしくなります。今や、怨讐の痛みを越えて、愛の夫や妻を得ているという驚くべきこの事実を、私たちははっきりと知らなければなりません。父母の伝統的愛の根っ子につながっているこの事実を知って、涙ながらに御飯を分かち合って食べて、「私はおなかが空いていても、あなたが食べてください」。また夜も、「私は眠れなくても、あなたは休んでください」「私は貧しく暮らしても、あなたは豊かに暮らしてください」と、ために生きる心の生活が、夫婦愛、忠臣愛、国民愛、世界愛となり、その交差する世界から地上天国が現れるのです。 この文総裁は七十年の人生を、この首をまるで絞首台にロープを掛けたようにして今まで走ってきたのです。そのような先生の生涯をおろそかにしてはいけません。ですから、血涙を全部絞り出して、民族に解放の愛の動機を与え、万国に解放の愛の動機を与えて、天国に入るために、閉じていた悪魔の鍵を開け放すのです。このような心情圏は、もはやサタンと関係ありません。そこにおいて、初めて永遠の解放平和の時代がやって来るのです。(アーメン)。 それでは、復帰のために誰を標準として一つにならなければならないかというと、この文総裁なのです。先生を見て涙ぐむようにならなければなりません。先生の愛する家庭を見て涙を流すようにならなければなりません。なぜかというと先生の生活は国のために、世界の人類のために、また天地の罪悪の重荷を解放するために追われ、鞭打たれてきたのです。このような恨めしい出来事を忘れてはいけません。分かりましたか? (はい)。 先生も七十歳になってみると、若い青春が懐かしいです。神様の前に、勝利を賛美するためにこの手を挙げていると、五分間でも震えがくるのです。これが恨めしいのです。数時間立って語っていると、足が震えてきます。今こそ、力に力を加えて、千年事情の喜びを賛美するためにこののどが張り裂けても、力を出し切ってもまたわいてくる力が必要な時なのです。今や解放の歌を歌い、その解放が正に、万民の愛の赤い血の上に、復活的泉のごとくにわき出てくるように燃え上がる愛により、万民の平和が訪れるのです。万国が幸福になるのです。おじいさんも、おばあさんも、自分のために生きるのではありません。神様が人間のために成してこられたように、神様が罪人を救ってあげるために鞭打たれてきたように、その神様の伝統を受け継ぐ人々が必要であるということを知らなければなりません。そのような先生につかまって、先生のみ言と共に行く人々こそ解放の場に参加できる人々であることを知って前進しましょう。 今年の標語は韓国統一ですが、韓国統一という命題の前に「統一教会よ! お前は私の涙を知っているか。私の血を知っているか。私の恨みを知っているか。お前だけは知らなければならない。たとえ韓国は知らないとしても」と、私は統一教会をつかんで泣いてきました。統一教会をつかんで戦ってきました。統一の理念の中には、そのような先生の血と涙がにじんでいるのです。それを忘れてはなりません。統一教会が喜んでばかりいてはなりません。自分の一身を祭物のようにして喜んでささげることのできる大胆で勇ましい、神様が褒めたたえ、「これこそ愛する我が息子だと」と、首を抱いて祝福を惜しまない皆さんになってこそ、万国を指導し解放できる統一の基準がこの韓国の地に成されるということを、きょうの先生の誕生日をお祝いしながら忘れないように、各自の肝に命じてくださることをお願いします。分かりましたか? (はい)。では、お祈りしましょう。 お父様! お昼の時間もはや過ぎ去りました。世間知らずのこの息子を呼び立てたお父様の悲しい事情は、誰も知りませんでしたし、また、復帰の事情の中で流された涙と血のにじんだ闘争の歴史も、誰一人として知りませんでした。あなただけが、これを指導なさり、この理論を指導なさり、人類を指導してこられた四十余年の苦労がどれほど大変であったかということを思い、もう一度深い心でもって感謝申し上げます。 お父様! 今、再び韓国に訪ねてきて、泣き叫ぶようなあなたの御心情をもう一度体恤させるべく、統一教会の今後の行くべき道に責任をもってくださるようにお願い申し上げます。祝福してくださった二世たちの行く道の上に、その伝統を忘れることのないように許諾してくださることを、お父様、切にお願い申し上げます。 今日、この時間に十二時を過ぎる時から、七十歳という限界線を越えて、八十代に向かう十年間も、血のにじむような闘争の歴史が残っていることを知っております。一九九二年までに、韓国の南北統一のみ旗を揚げ、二〇〇〇年代までに、この世界に神様の統一のみ旗が翻るその日のために、休む間もなく、さらに残された限界線に向かって前進することを誓い、復帰摂理の路程において決して脱落者にはならないと、今内心から決心する自分を見つめながら、明日の戦場を望みながら、前進に前進を誓う勇士の姿勢を自らがはぐくんでいける、天の自主的な息子、娘になれますように許諾してくださることを切にお願い申し上げます。 誰かの世話になって、解放の子になるというのではなく、御父母様と共に、父母の愛に燃える心で一体となっていく道こそが、解放の天国まで連結されるということを知りましたので、今日のこの決意とともに、自らを明らかにして、お父様の前に生きた祭物として、愛の一つの勝利的標準者として恥ずることなくおささげすることができますように誓う、この時間となりますように許諾してくださることを切にお願い申し上げます。 御父母様がそうであるように、これから御父母様に侍っていく個人においても、家庭においても、氏族においても、すべての民族、国家においても一体となって、お父様を愛し、御父母様を愛し、お父様の氏族を愛しながら、万国を越えて、統一国を愛する万民のために忠臣なる息子、娘となって、前進することのできる全世界の統一教会の食口となれますように許諾してください。 御父母様が誕生されたこの日を祝うこの場に、あなたの愛と深い恩寵が共に望んでくださいまして、彼らを慰めてくださり、祝いの雰囲気がさらに盛り上がるように再びお願い申し上げながら、すべてのみ言を真の父母様のみ名を通しておささげ申し上げます。(アーメン)。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.10
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HJ天宙天寳修練苑ホームページからです。HJグローバルニュース (2022年 1月 8日)からその映像をご覧ください。真の父母様のみ言壬寅の年は、天の権勢が前面に現れるべき時です。この前、日本の指導者から書信を受け取ったのですが、「壬」の字は、妊娠した女性を象徴するといいます。壬寅の年は、女性を象徴するというのです。それは何でしょうか?独り娘です。独り娘の権勢が60年前にも、これからおよそ20日以後に迎える、壬寅の年に現れなければなりませんか?現れてはなりませんか?今や、堂々と教育しなさい。何を躊躇するのでしょうか?私たちには誇るべきことがとても多くあります。そのような点で、壬寅の年を迎える皆さんは、躍動する天の祝福を、大きく広く広げることのできる年を迎える準備を果たす、指導者の皆さんとなることを願います。私は言いました。私と共に呼吸するこの現実。歴史上において、皆さんの人生において、黄金期であると言いました。皆さんの努力と結実により、天の前に誇ることのできる、この素晴らしい祝福された位置(にいるのです。)収穫期に収穫をすることができない牧者は哀れでしょう。多くの実を収穫しなければならないでしょう。そうしてこそ、未来があるのです。ですから、天一国時代の天一国を安着するこの時点において、皆さんはすべて、退職たるものはありません。老若男女を問わず、人生の黄金期に、大きな実を結ぶ皆さんとなることを祝願します。壬寅の年は、躍動する黒い虎、勇猛な虎が、知恵深い虎が、動物の王国においても最高ですが、人類の前にも敵う者がいないので、堂々と真の父母を、独り娘・真の母が地上に私たちと共にしているこの時期に、この季節に、この年に、全て同参し、祝福を受けるこの民族、神統一韓国、神統一世界を作るにおいて、最高点に到達することを願います。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.08
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「氏族的メシヤ」1989年1月8日 神を求めた人類歴史 人間は宗教を通して、長い歴史をかけて神を求めてきました。原因的存在である神を探し求めてきたのです。宗教によって人類は信仰し、祈祷し、修道する生活をしながら、神に帰ろうとしてきたのです。 人間が神の実在に疑問を抱くのは、神と関係がないからです。しかし、原因があれば結果があり、結果があれば原因があるように、人間がどこまでも結果的存在である以上、原因的存在である神と無関係に過ごすことはできません。 人類始祖アダム・エバの堕落がなければ、宗教は必要ありませんでした。宗教のない世界は神を中心とし、神の愛によって超国家的な理想圏の中で人類が生きる世界です。人類の生活や歴史は、神の理想を受け継いで縦的な歴史と横的な社会に連結されたはずです。その世界では、人間が神を中心として世界を包括していかなければなりませんでした。 広大無辺な神の創造は、まず環境から始まりました。初めに天と地がつくられ、その次に動植物の環境、最後に人間が造られました。皆さんが知らなければならないことは、環境の中には必ず主体と対象の関係があるということです。個人においては、心と体がそれぞれ主体と対象の関係を結びます。家庭には父母と子供たちが、国家には主権者と国民がそれぞれ主体と対象の関係を結びます。主体と対象が授け受けしていくことを通して発展していくのです。 では、なぜ主体と対象という関係があるのでしょうか。それは神が愛を願われるからです。神の愛は、相対的関係を通してこそ感ずることができます。神御自身すら、御自身のもっておられる愛を感じるには、相対を通さなければなりません。ゆえに、宇宙は動植物界も鉱物界もすべて、相対関係をもっているのです。人間においてはそれが男性と女性とに現れています。 それゆえ男性と女性は結婚しなければなりません。それは、それぞれの愛を相対を通して感じることができるようにするためです。対象を通じてのみ愛の刺激を感じます。一つが上へ行くなら他は下へ戻り、一つが右へ回るなら他は左へ戻ります。そのような作用が起こるのです。 対象が現れることによって、すべてのものが美として現れます。人間の造作はみな、目、鼻、耳、口、それに手足があって、どこといって変わったものはありませんが、そこに愛の因縁、愛の関心があるならば、永遠にその姿を美しく見ることができるのです。その愛を中心として喜び、調和を成して生きるのです。 愛で造られた人間 つまり、愛とは神の創造を理想化させる力です。上下、左右、前後関係が互いに作用し合って球形をなし、千態万象の妙味を備えて回ります。愛が加味されるとそうなのです。運動も円形を描いて運動するほど消耗が少ないのです。 愛が前後、左右、上下の関係を円滑に処し、円満にしていきます。円満という言葉の中には人間はもちろん天地全体が入るのです。前後、左右、上下を善でくまなく覆い、互いに和動できるようにするのが愛です。 神は創造主です。創造主とは根源、つまり主体ということです。創造物は対象です。画家が自分の構想どおりに展開させて自分の心にかなう傑作品をつくるように、この被造世界が神の構想どおりになり、神の心にかなうべきだったのです。心にかなうものは、心に適した存在ですから、その体を代身したものとなります。つまり、目にかない、鼻にかない、耳にかない、すべての細胞まで和合できるようになるということです。その時心と体が一つになっているというのです。 心と体の和動は真なる愛によります。真なる愛とは根本的な愛です。 神は愛ゆえに人間を創造されました。男性と女性が神と一つになって相和す内容は、すべて愛で因縁づけられるのです。夫婦関係、親子関係、兄弟関係、社会関係、政府関係等々と、すべてのものが関係づけられています。必ず相対と一つになって協力し合うことによって、現在より高い次元に至る、つまり発展が展開されます。 発展ということは現在の状態に新しい何かがプラスされるということです。プラスさせるものが創造です。自分を中心とした一つの創造です。そこには必ず愛する心が先立たなければなりません。 神が愛で天地を創造されたのと同様に、愛の心が先立ち、そこに前進的な結果をもたらすというのが第二創造です。お金や知識、権力では第二創造をすることはできません。 愛で活用する時、調和が起こり、発展していきます。例えば、知識を愛してきた教授が自分の心と体が愛で和して一つになった位置で知識の内容を語るなら、その言葉や表情によって学生たちは感動を受け、新しい次元に発展していくのです。発展するために恵みが与えられます。 調和の幅を備えた人 環境の中には主体と対象があり、それらは愛を中心として授受して連結され、発展していきます。こうして運動が持続されるのです。ですから、皆さんの生活環境をどのように世界に連結するのかが問題です。環境に主体と対象の関係があることを知って収拾しなければなりません。 鉱物界も動物界、植物界も同じです。愛を中心として和して、花を咲かせ、発展していきます。男女間の愛は、自分を中心としていた愛から、互いのために愛するようになり、さらに子女が生まれるならば、夫だけ妻だけ愛する時代は過ぎ去ります。このように愛の範囲は広がり、発展していくのです。 ですから、「愛は始まりであり、終わりである」というのです。コリント人への第一の手紙第一三章には「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と記してあります。 男性と女性が結婚するのは、愛が必要だからです。愛を中心として主体と対象になる日、宇宙は保護するようになっています。対象は主体のために、主体は対象のために生き、この宇宙に永遠の安着地を探し求めるためなのです。その安着地は、運動しながら生きる愛が宇宙から永遠に保護を受けるところなのです。 大きくも小さくも、どこに行っても、どんな状況でも調和させることができる人ほど有能な人と言えます。上下、前後、左右に通ずる人が素晴らしい人です。王様ならば大臣たちも愛するけれど末端にいる民をより愛するのが素晴らしい王です。どこまでも上っていき、どこまでも下っていって包んであげられる人が素晴らしいのです。知識や権力で動くのではなく、愛によって動くのです。収拾方法は愛だけです。愛を中心とした場合のみ、永遠に幸福に生きることができるのです。 愛が創造の根本となり、愛を動機として神は天地を創造されました。それゆえ、すべての存在が相対関係でつくられたのです。中心的愛を人間に与え、万物世界がそれを取り囲んで人間の愛と完全に一つになって生きるのが神の創造理想でした。神の創造理想、神のみ旨は愛の終着点です。 それでは、愛にはどのような属性があるのでしょうか。互いに一つに統一されるという属性があります。そして共におり、どこへでもついていって同席することができるのです。愛のみが統一することができるので、相続圏が生じます。愛には生命を越えて立つことのできる力があるのです。 堕落によってアダム、エバ、カイン、アベルが怨讐になりました。夫と妻が、兄弟が、父母と子供が怨讐になりました。個人においても心と体が怨讐になりました。みなばらばらです。サタンの愛を中心としてサタンの血統を受け継いだ人間になってしまいましたから、どれ一つ同化される内容がありません。 堕落は、自分を中心としてすべてのことを推し量ることから始まりました。自我自覚を先にしました。 しかし、完成するということは、自我完成です。自我完成は自分を知ることによってではなく、神を知ることによってなされるのです。神を知ることによって高い位置に行くことができるのです。 神のみ意の「意」は、「立つ」という字に「曰く」「心」と書きます。み言に心を立てるのです。心に真なるみ言が愛です。人間は万物の中で最も尊いと言いますが、それは愛、縦的な愛を中心としてのみ言える言葉です。ゆえに、神を知るようになるのです。 救いの摂理は復帰摂理、復帰摂理は再創造摂理、再創造摂理は、創造理想を再現させる道です。つまり愛を再現させるのです。 それゆえ、創造理想完成は四位基台完成であるというのです。愛は上下関係や左右関係の秩序を破ったりしません。愛は無限です。愛は聖人の道理です。それは、世界を越え、天理を抱きます。 神のみ言聞く祈祷 堕落しなければアダムは神と一つになっていました。神を中心として、心で一つになるのです。祈祷は心と対話することです。天の指導に従って心は、その人の思いや行動を指示してくれます。 心の言葉を聞くことのできない人は神の言葉を聞くことができません。仏教などで禅を組んだりするのは心の言葉を聞くための修行なのです。 心は縦的な「私」、体は横的な「私」です。縦的な私のとどまり得る所が、神と「私」の関係に愛が連結される道です。そこを占領できるただ一つのものが真の愛です。 真の愛でのみ垂直が生じ、神様の愛がてっぺんから直線的に下ってきて、人間と関係を結ぶのです。また相対同士が愛する時は、直線的に水平に行くので、垂直に下りてくる神の愛に対して九十角度を取ります。縦的な私と横的な私は、自然に九十角度を成します。 ところが、縦はそのまま垂直に下りていきますが、堕落によってこの角度が狂ってしまい、生涯そこから抜け出すことができなくなりました。 心の命に従うべき体が逆に心を従えましたから、体を犠牲にさせて心の命令に従わせるための生活が宗教なのです。無理矢理に合わせようとするために苦しい生活になります。 人類始祖が完全に縦的な神様の愛に結ばれ、完成して、正しい姿勢で四方に通ずる時、天地の運勢が回っていきます。「正」という字は「止」の上に「一」です。天を上にいただいて侍らずしてはとどまることができないし、とどまるとしても正しくはないのです。また「天」は「二人の人」、「仁」も二人です。ですから良いものは、みな二人です。「善」は「羊」に刃を受ける中に「口」と書きます。それは犠牲になるということです。「自ら犠牲になりなさい」と語る人が善です。「義」も「羊」に「我」と書きます。羊のような人になれ、自分を犠牲にさせて生きよというのです。 アダムは愛の主人です。実体存在として、縦的な無形の神の愛を受け継ぐ中心的存在です。神と九十角度、中央で会って神と一体となるならば、完成します。 修養が必要です。活動だけではいけません。活動してはとどまり、そして上下、左右、つまり夫と妻、父と子などの関係世界を一つにする生活をしなければならないのです。そうすることによって本質的基準で縦的軸の位置にとどまることができるのです。 誰でも認める善の基準が九十角度を中心とした愛の結束点です。アダム・エバが成熟して愛で束ねられた種になり、そこから人類が生まれたなら、真の父母の血統で生まれた子女となるのです。縦的な私の心に神が臨在して縦的な真の愛の父となるのです。 そのためには心を合わせて祈祷しなければなりません。すると自分の生活にも雑念が生じません。 そのようにして個人、夫婦、家庭、氏族、民族、国家、世界が一つになっていき、統一的な世界が形成されるのです。この九十角度の点は、どの角度にも合います。互いにためにするところで愛を中心として一つになるのです。 愛を説く宗教は永遠 神の嘆きは、愛を横的に展開する個人基盤がないということです。堕落によって破壊されてしまったからです。それでメシヤを送って、歴史をかけて個人を収拾し、家庭、氏族、民族、国家、世界を収拾しようとしてこられました。メシヤが来られる時一時に収拾されるように、世界的文化の中心として準備してきたのが宗教圏です。 宗教中の真の宗教が何か、真理中の中央的真理が何なのかを知らなければなりません。真理中の真理は愛の真理です。神は愛の真理の主人です。愛ゆえにお金が必要であり、愛ゆえに知識が、愛ゆえに権力が必要なのです。愛を中心とした権力は永遠です。父母の愛に満ちた行為は永遠に心の中から去りません。愛を通じたすべてのことは永遠に行くのです。 宗教中の偉大な宗教は法を教えるものでしょうか。違います。法的宗教は真理を教えてくれません。真理は永遠不変ですが、法は変わります。人間は法ではなく真理で生きるものです。法の世界から真理の世界に移動し、真理の世界から愛の世界へ移動するのです。法や真理を論議する宗教よりも、愛を論議する宗教が真なる宗教です。 ですから、ヨルダン川の川辺の小さい国でたった三年間教え、反逆者として追われて亡くなったイエス様の思想は、世界を支配するようになりました。イエス様の思想はどのようなものだったでしょうか。イエス様は、神を父、自分をひとり子と語りました。「私は神のひとり子である」というのは偉大な宣布です。そして「私は新郎である」と言いました。偉大な宣布です。 真の愛を中心として縦的な父母としていまし給うお方が神です。イエス様は永遠の愛をもってひとり子だと宣言されたのです。メシヤはひとり子として来て、ひとり娘を探し求めなければなりません。アダムとしてエバを探し求め、真の家庭を築かなければなりませんでした。しかしイエス様が死んでしまわれたので、クリスチャンは新婦の立場に立って二〇〇〇年間、イエス様に侍ってきたのです。 二性性相の神から分かれたアダムとエバが神の愛で一つになることによって、人間が神の愛の強さを知る時に、神は無限の愛の刺激を感じられるのです。人間は相対に会う時、神の内性的愛を感じ神の愛を理解するようになります。神が縦的真の愛の父であり、完成したアダムとエバは横的な真の愛の父母です。そこに子女が生まれて、家庭、氏族、民族、国家へと大きくなって、天国になるのです。 それが堕落してサタンの血を受け継いでしまい、父の愛、夫の愛、兄の愛を失いました。つまり三代の愛を失ったのです。蕩減復帰の原則においては、失ってしまったものを探し求め、原則にぴったり合う位置にもっていかなければなりません。それが救いです。 個人において心と体が神の愛を中心として固定されると、神も心も喜びます。これが家庭的、氏族的、民族的、国家的に縦的な神の愛を中心としてつくり直さなければならないのです。完全なプラスが現れる時、完全なマイナスが生じるのは天地の道理です。天国は愛を中心とした能動的直感の世界です。直感の世界であると同時に実践の世界です。 キリスト教は再臨主のためにありました。再臨主が現れることによって初めて、二〇〇〇年のキリスト教の全責任が果たされるのです。再臨主、それは真の父母です。真の父母が被造世界を収拾し神の前にささげようとする時、サタンが反対してきます。しかし、本心に満ちた心をもつならば、神から来るのかサタンから来るのかすぐに分かります。説明は必要ありません。 今年私は「韓国統一」を語りました。既にその囲いをつくっているので問題ありません。開放の門は既に開けてあります。世界に摂理的転換式を発表し、八八年十月三日、世界統一国開天日を宣布しました。ここから回っていくのです。神が統一教会を保護してくださっています。 新生(重生)は真の父母から きょう、氏族的メシヤになれという話をしています。世界を救うのがメシヤですから、氏族的メシヤとは氏族を救うためのメシヤです。全氏族の内的な中心、代表者にならなければなりません。韓国統一は、氏族が連合して南北統一するためです。 先生の使命は、縦的な神の前に、横的九十角度を成せなかった愛の父母をつくることです。縦横の角度を垂直に合わせなければなりません。縦的な神が横的に臨在すれば、縦的基準は骨になり横的基準は肉になります。そのように人間は神から骨を受けました。骨は私たちの良心です。心と体が九十角度で連結されるのです。アダムとエバが横的な真の父母になれば世界的になります。世界的基準は一つですから、自動的に天国になります。 人間がこのようになった歴史的な根を知らなければなりません。それでまず根本を明らかにし、神を明らかにし、サタンを明らかにしました。天倫の秘密を解き明かしました。 生命に対して愛が先立ちます。父母の愛の調和でその血肉を受け継いで人間は生まれました。血統の根本は愛です。愛を中心として生命が生まれるのです。堕落したので、真の父母に接ぎ木されて新生しなければ実を結ぶことができず、天国には行けません。また、サタンとなった天使長を愛して原則的な道を行ってこそ、天国に入ることができるのです。これらのことをすべて明らかにしました。私は死ぬまで自分の責任を果たします。 私は自分のためにではなく、人を幸福にするためにだけ生きてきました。私の母は私を大変かわいがり、よく餅を作ってくれました。ところが私は、町内のかわいそうな子供たちに、それをみな分けてあげたものでした。たくさん作っておいても一日のうちになくなってしまうのです。幼い時からこのような性格でした。 興南では一番貴重なのは食べ物でしたが、それらも他の囚人に分けてあげました。しかし、食料を差し入れてくれた人の恩を私は忘れることができません。 ダンベリーでもアメリカを生かすために「ワシントン・タイムズ」や「インサイト」「ワールド・アンド・アイ」等の新聞や雑誌を次々に創刊しました。それが今アメリカの指導者層の指針となっています。 キリスト教を覚醒させるために七〇〇〇名の聖職者らを招き、神の摂理を説き明かしました。それでキリスト教指導者たちが一つになったのです。右側の強盗と左側の強盗が争わずに、統一が起こったので、今後、共産世界と民主世界の統一が起こるのです。 迫害越えて伝統樹立 キリスト教が第二次大戦の時に先生と一つになったならば、世界は統一されたはずです。一九五二年までに七年間で世界を統合していました。しかしそのみ旨が失敗してしまったので、私は韓国史四三〇〇年に四十三年を合わせて蕩減復帰したのです。 統一教会は激戦を超えて、生き残ってきました。私は蕩減条件をすべて立てました。そして、父母の日、子女の日、万物の日を制定し、一九六〇年に結婚し、六八年の一月一日に神の日を制定したので、家庭が自然に移動することができるのです。さらに七〇年からは四三〇家庭を開拓伝道に送り出しました。今や二万を越える祝福家庭が世界各地で歩んでいます。 私は、刃を持って打ちかかってくるサタンを涙で心配し、愛し、尽くしてきました。一方、私の子供たちは大人になって分別がつくようになるまでは、両親は統一教会の両親であって自分の父母ではないと思っていました。 それはどうしてでしょうか。サタンを愛してからこそ、自分の息子、娘を愛するという蕩減復帰の原則があるからです。神もサタンを愛さなければ、子女を愛することはできません。 私は本物の位置で伝統を残そうとしました。誰よりも神様の前に精誠を尽くし、だれよりも祈祷し、だれよりも国を愛しました。今や故郷に帰って愛することができる時代になりました。 世界中から打たれましたが、それが私に福を与えるのです。迫害はそのまま、サタン世界から福を伝授させる方法です。神は打たれて奪ってくる作戦をし、サタンは打って失ってしまうのです。怨讐を愛しなさい。怨讐を愛さずしては、天国に入れません。「共に神様に侍り、天の宮殿で一緒に住もう」と愛しながら入っていくのです。それが原理です。 既に、氏族的のみならず国家的、世界的メシヤの責任を果たしました。皆さんは氏族的メシヤになると誓いました。虎の子は虎にならなければなりません。猫の子になってはいけません。 先生は怨讐を愛しました。さらに怨讐の国を愛しました。韓国を愛し、日本を愛し、アメリカを愛し、世界を愛しました。全世界の福を受ける条件を立てて、それを大韓民国に全部植えました。韓国を中心として連結するのです。韓国に七〇〇〇名の牧師たちが来、西欧社会から七〇〇〇名が入ってくるのです。私のあとに神様がついてきます。 今年「韓国統一」を宣布しました。そして一月三日、午後二時三十分、氏族的メシヤを宣布しました。 皆さんは氏族的メシヤとして立ち、真の父母に縦的に侍り、横的な父母つまり自分の父母に侍らなければなりません。自分の氏族に侍り、自分の一族に侍らなければなりません。 氏族の中に位置を確保しなければなりません。十二名以上、十支派以上を備え、八十四名、一二四戸以上の基盤を築かなければなりません。世界中に出ていき、いかなる反対や迫害があっても神の名に従って上へ戻っていきましょう。 先生は、国を生かすために我が子同然の統一教会の皆さんに苦労させています。それが原理的だからです。神は今まで神側のアベルを犠牲にしてサタン世界を愛してこられました。そうしてこそ、サタン世界の讒訴を免かれることができるのです。 こうして天国の出帆が始まります。まずカインの国を愛して故郷に戻り、故郷をカイン以上に愛していく時が来ました。大韓民国に戻ってきて「韓国統一」を宣言したのです。 今からは、正義の剣を抜きなさい。国のために闘うならば、みなさんの家族、親戚はみな支持します。韓国統一される前にみな統一しなければなりません。行動しなければなりません。国中から悪口を言われ追い出されても、宣布してしまわなければなりません。 皆さんは故郷に帰り氏族を教育しなければなりません。ラッパを吹きならしなさい。先生が既に道をみな築きました。ここから、統一教会の名をもって前進しましょう。 統一教会が迫害されてきたのは、これまで長子復帰時代だったからです。長子を復帰する苦労を思うならば、皆さんは父母を復帰することにおいてもっと苦労しなければなりません。 旧約時代は、万物を犠牲にして息子を迎え、新約時代は息子を犠牲にさせて父母を迎える時代でした。再臨時代は、父母を犠牲にして神をお迎えするための時代です。そのために真の父母は、十字架の道を行くのです。 全世界に氏族的基盤をつくって配置しましたので、サタン世界は自動的に壊れていきます。統一教会は神の真の愛を中心としますので、怨讐がありません。長成期完成級です。既に完成期完成級です。完全な解放時代を迎えています。 反対のない位置に立っており、氏族復帰は問題ありません。氏族復帰には氏族的メシヤが必要です。それによって民族復帰が自動的に始まるのです。氏族復帰さえすれば、国家も世界もここから解決されるのです。 神臨在する氏族に 氏族を中心としてイエス様の解怨成事を行うならば、歴史的な二〇〇〇年の恨み、歴史的な神の恨みを解放する起源が生じます。真の父母を通して血統が転換されるのです。氏族的メシヤとしてあなたたちの家庭が行くならば、そこに皆さんの本郷の地が生じます。イエス様の本郷の地が生ずることになるです。 韓国統一を神が協助してくださいます。先生が神と一つになってサタン個人を愛し、家庭を愛し、氏族、民族、世界、霊界、地獄までも愛したのです。ですから先生の行く所はすべて天国です。サタンは讒訴できません。み言と一つになる時、サタンは皆さんから完全に離れます。 先生は皆さんのように故郷をもてませんでした。青春時代に自分の父母、兄弟、一族を率いていく自由な環境をもてませんでした。自分の家族にさえみ言を語ってあげられなかったのです。 私の兄は立派な人でした。自分の弟が歴史始まって以来の初めての偉大な弟であることを知っていました。もし兄にみ言を語ることができるならば、自動的にカイン復帰がされたのです。しかし私を信頼していた兄に対して、み言を一言も語ることはできませんでした。 私は世界を振動させながら、民族、国境を越えて導き、天国の民を新生するために苦労の限りを経験し、生涯をささげてきました。しかし、自分の家族のためには何もすることができず、機会をすべて逃してしまいました。キリスト教が反対し、韓国が責任を果たせなかったことによって……。 ですから、皆さんが故郷に入るその栄光と価値は、先生よりましな位置です。そこで皆さんは、父母を愛する真実の涙を流して同化させ、愛で一族に侍り、祖先にならなければなりません。これが天地開闢の時となります。先生が家庭においてみ言を語れなかったすべてのことを、先生を代身した皆さんがその父母のために精誠を尽くすことをもって蕩減するのです。このようにさえなるならば、北韓統一は自動的にできるのです。 その運動が韓国で展開される時、完全統一が起こります。氏族的メシヤの行動は、イエス様以上に、そして先生以上に、です。天の血統を受け継いだ伝統は、何よりも尊いのです。再び堕落させることはできません。先生以上の愛の心情で故郷を愛さなければ、北韓を自然屈伏させることはできません。 問題は統一教会自身です。皆さんは家長になって、一つの国を探し求める大運動を展開するのです。それが韓国統一です。南北統一ではなく、韓国統一です。韓国統一をして、完全に統一教会とこの国が愛で和して完全な主体が生ずるならば、北韓は自動的に消化されるのです。 カイン・アベルが一つになるところには、神が臨在するようになっています。氏族が一つになる時、神はいつでも訪ねていくことができます。 アダム時代、イエス時代、再臨時代のすべてのものを一代で収拾し、家庭基盤を確立しました。この基盤の上に氏族圏を準備したのです。 こうして統一世界は展開され、地上天国が出帆するのです。先生を中心として縦的な基準を代表した権限が霊界や地上界全部に樹立され、基盤が築かれました。既に世界基盤まで築いています。ですから、この圏内にはサタンは侵犯できません。皆さんが努力さえするならば、一挙に拡大していくのです。 皆さんが帰郷する時には、先生が築いた道があるので、迫害なしにいつでも戻っていくことができるのです。そうすることによって、蕩減復帰の恨みに満ちた歴史を無難に撃破し、家庭に位置を確保し、天に侍り、サタンが迫害することのできない解放時代へ前進するのです。氏族的メシヤの責任を果たしていく時、解放が始まるのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.08
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『第22回「神の日」の御言』1989年1月1日 神の救援摂理の秘訣 きょうは二十二回目の「神の日」であり、また満二十一年目に当たる「神の日」でもあります。 統一教会において四大名節をお祝いしていますが、最初は「父母の日」であり、次に「子女の日」、「万物の日」、「神の日」の順に定めたのです。既に私たちがよく知っているとおりです。 ではなぜ、神の日が最初ではなく、父母の日が先でなければならなかったのでしょうか。子女の日が先でなければならなかったのでしょうか、万物の日が先でなければならなかったのでしょうか。このようなことを考えた時、これらの日々は本来一つの日でなければならなかったのです。一日でなければならなかったのです。神の日であると同時に父母の日であり、父母の日であると同時に子女の日であり、子女が生まれるべき日なのです。父母から子女が出発するのです。さらに万物の日は、子女が主管するべき環境的土台なのです。ですから父母によって因縁を結んだ子女、子女によって因縁を結んだ万物、これらは自動的に神に属するとともに、父母に属していたのです。このように父母の日や神の日という各々の日は一つになっていたのです。こういうことを考えてみたことがありますか。 それではなぜ父母の日を初めに選び、次に子女の日、万物の日と決められたのでしょうか。こういう問題を考えた時、堕落は長成期完成級で起きたのであり、本来の父母となるために必要な七年路程を残した位置であったことを、皆さんは知らなければなりません。七年路程が残っているのです。 三次七年路程。三掛ける七イコール二十一年間を考えてみた時に、七年間を残した年齢で人類始祖は堕落したのです。それを復帰するためにも、まず父母を復帰すべきなのです。そのためには堕落圏内で、サタンと戦わねばなりません。既にサタン世界が国家基準と世界基準を中心としているので、このような外的な攻撃、怨讐の版図圏内を中心として戦って、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的な勝利圏を築き上げなければなりません。そしてサタン世界の主権者や、民族が愛するいかなる国家よりも、神様のみを愛することのできる中心存在となった時、これをアベル的人物というのです。そのような中心存在によって個人が生まれてくるべきであり、次にその個人を中心とした家庭が出現しなければなりません。ですからこのような個人が現れる時には、サタン世界が全力を挙げて攻撃してくるのです。個人的中心存在は、必ずその個人の勝利的基盤の上に、家庭を探し求めていこうとすることを知っているので、サタン世界は次に家庭を破壊するためのあらゆる工作をするのです。今日まで統一教会が家庭を破壊するという悪名を残したのは、このためなのです。 さて、サタン世界においても家庭、氏族、民族、国家が横的に連結すれば世界となります。そして、今日までサタンは世界的に神に反対して、すべて一体化することに反対してきました。個人的にも、家庭的にも、氏族的、民族的、国家的にも妨害してきたのです。そして宗教の行く道に、全面的に反対して宗教の生死権を奪ってきたのが、その時代の外的世界の国家主権だったのです。ですから、すべての宗教の指導者たちが受けた迫害の矢は、個人の矢、家庭の矢、氏族の矢、民族の矢と、すべてに国の主権と法を中心として打ってきたのです。このように、戦いの背後には必ず国家があったのです。イエス様が死ぬようになったのも、ある個人や家庭が殺したのではありません。ピラトの法廷を中心とする国家の力によって殺されたのです。 このようにサタンは、常に自分の勢力基盤をもって、まず個人的に四方八方において反対させているのです。それでも阻止できない時には家庭で反対するのです。その家庭を動員してもできない場合には、氏族が合わさって反対するのです。それでもできなかったら、民族が動員されて国の力を借りて反対して破綻させてきたのが、今日までサタン世界が利用してきた宗教世界に対する戦法でした。ですから、国家的基準をどのようにして越えるかということが、神の救援摂理の秘訣なのです。国家的基準を越えて、国家的勝利を成して、次の世界の勝利は、四方から攻撃してくるサタンの国家的基準を倒すことができれば、一度に時代を変えてしまえるのです。統一教会でいうところのカイン・アベル長子圏復帰の基準が立つのです。 そこにおいて、仕方なしに主権者も次子の立場に立ち、神の主権者が長子の立場に立って、歴史時代において神側に反対してきたすべての基準を神が占めて、サタン世界を一時に改革することができるのです。それが神とサタンを中心とした戦争、戦法となっているのです。 また、個人を中心として見た時に、いかなる人であってもそのような戦いを経るのです。それぞれ個人においても戦うべき、個人的サタンの舞台がないとすれば、家庭はあり得ません。個人が合わさったのが家庭なのです。このように考えた時、家庭的サタンの舞台がなければ氏族的サタン舞台がないというのです。また、氏族的サタンの舞台がなければ、国家的なサタンの舞台もないという結論が出てきます。問題は、個人の背後にある神に反対する攻撃的なサタンの舞台が何であるかということです。それが心と体なのです。心は神の縦的、父母の立場にあります。もし人間が堕落していなければ、その心は理想的真の父母の立場に連なり、アダムとエバは横的な父母の立場に立って、愛で結ぶことのできる血統的因縁を相続する人間として一なる本性的縦的な血統を受け継いで生まれ、常に縦的基準につながっていたのです。それが心だったのです。 そのような心が何かというと、縦的な自分自身なのです。そして体が横的な自分自身なのです。そして心は骨のようなものであり、体は肉のようなものです。骨は変わりませんが、肉はそうでありません。同じように外的な体は、心の基準の指導を受けなければなりません。縦的基準に合わせて常に善なる立場の自分の位置を取って、昼夜に自分を管理して指導するのが良心なのです。その良心が縦的な自分なのです。この時、縦的な関係で横的なものを処理しなければならない天理の法則があるのです。自然的法度として、たとえ命令がなくてもいつでも自然に命令系統を取ってくるのはどうしてかというと、一つの場において縦横の因縁が連結される本性の基準があるからです。この本性作用によって、心は即座に正道に照して処罰できる立場にあるのです。 しかし、縦的な心の命令に対して今日、体の角度が一致しないのです。縦的な心の命令は九十度の角度を通して一〇〇パーセントの効力を現すことができるにもかかわらず、人間が堕落したことによってその角度が縦的な基準の前に九十度にならなければならないのですが、ある者は二十度、三十度、あるいは六十度、七十度であり、ある者は欲心が多くて世界の分度器を超越してしまって一〇〇度、一一五度にもなっているのです。そのように角度の違うあらゆる人間でも、垂直の心をもっているので自分の体を九十度に合わせなければならないのです。そして人間のみが、三六〇度の方向に対峙できる立場に立っているのです。しかし各々が違う立場の角度をもっているので、垂直な心が自由に往来できないのです。 血 統 さらに重要な問題は血統です。血筋の問題なのです。皆さんたちの先祖は誰ですか? これは何のことかというと、皆さんの種はどのような種なのかということです。歴史というものは、伝統の根本を掘り起こして、今日の人間を分別するために使用する言葉です。血筋は神様なのですが、その神様は無形なる存在です。無形なる神様と有形なる世界がいかにして結合するのかという、このような問題を考えた時、これは理論的にも難しいことです。ある有形なものが母体となって、霊的な部分の自分と肉的な部分の自分を結んでいるのです。では霊的な父母と肉的な父母、霊的な神と実体的な私たち人類の最初の堕落していない父母とは、何を中心として結ばれるべきでしょうか。それは縦横が必ず一致しなければならないものです。では何を通して縦横が一つになるのかというと、これが先ほど話した真の愛という最短距離によるものです。この最短距離を通過するものです。このように見た時、天上におられる神様がこの地上に訪ねてくる最短距離が何かというと、この垂直の位置なのです。それでこの垂直の位置が、全存在の安定点の標準の中心になるのです。中心標的になるのです。ですからまず、垂直に合わせなければなりません。先に、平面に合わせるのではありません。まず、垂直を合わせてから次に平面を合わせるのです。いくら平面が合うとしても、先に垂直に合わせなければなりません。 垂直は一つです。体と一つです。そこで見えない無形なる神様が人間といかにして結ばれるか、その中心点が何かという、この問題を今日の人間は考えられないのです。皆さん、このような話を聞いたことありますか。無形の神様と有形の人間が何を中心として連結するのか、いかなる橋を通して連絡を取るのかというこの問題を考えられないのです。それはお金でも、知識でも、権力でもありません。また美女の美しさでもなく、その人の年齢が問題でもありません。この世界は時差を超越した世界なのです。 ある有機性の星があれば、その星の軌道に従って、数十年、数百年の星もあるのです。さらに一周が数十年という星もあります。ですから今日人間が一年として数えるその日々は、太陽系を回る地球星の一年を標準にしたものですが、私たちの基準は地球星が毎日不変の軌道を巡回しているので、その圏内に現れる時空によるものなのです。これは既に私たちがよく知っていることです。無形世界とはその時空を超越したもので、そこには昼も夜もありません。地球星はぐるぐる回るのですが、神様を中心として永遠なのです。それで夜があり昼があるのです。そして永遠なのです。皆さんが霊界に行ってみれば、広大無辺であり、限りのない世界です。そこは円形的な形を無限に拡大したものです。そのような世界が、何を中心として今日の人間の世界と連結できるかという問題を考えた時、そこには真の愛しかありません。共産主義者が唯物論でもって見ても愛は見えないし、「神も見えないのでこれは観念的な存在である」と言っていますが、しかしそのような神様がいかにして実体的世界において作用をするのかということの説明ができないでいるのです。「神」という名も無形世界も観念であり、「愛」というのも観念です。見えないのです。誰か愛に触ってみたことがありますか。愛を見たことがありますか。愛は丸いものなのか、角張っているものなのか分かりますか。愛は、丸いといえばそれ以上に丸いものがないものです。愛は観念的なものです。しかしこの観念的な無形的その存在が、実質的な生活に絶対的力をもっているのです。これが正論です。現実的な人間のすべての生活の中において、歴史的にも力をもっているのです。それは友愛であったり、同胞愛であったり、さらに民族愛、世界愛、天地愛なのです。これらの愛を見たことがありますか。愛は観念的な名詞ですが、実際の生活においては、その観念が問題なのです。見えない世界の内的な力を拡大し、これを延長した歴史性があるからです。それは水平だけではなく、球形の中にも無限に通じるものなのです。 では、実体の権力の世界と連結できる可能性のあるものとは何でしょうか。それが愛であるということを、推理的論理からも結論を下すことができるのです。共産主義世界では愛は何だと言っていますか。愛は観念的、哲学的な名詞であり、見えないのです。触ることも説明することもできません。しかし愛は観念世界のすべてを超えて、私たちの実体世界の最初から存在し、人間の一生の路程、すべての歴史を通して、千年、万年と、いついかなる時にも、愛を取り除いた人生の行路はあり得ないという事実を見た時、愛はその方向を指して動く骨髄のようなものであるということを私たちは否定できないのです。愛し合う男性と女性が互いに目と目を合わせるといっても、先に目だけが行くのではありません。目と共に体全体が歩調を合わせ動き出し、目よりも先に足が動くのです。そうですか、どうですか? (そうです)。それはなぜかといえば、目でも舌でも、全体が自然に一つの統一されたものとしてのある力をもっているからです。 もし地球に愛があるとすれば、地球がその相対を愛そうとすれば、その主体や対象を探していく時に、地球の目だけが先に行くでしょうか。地球全体が一つになって行くでしょうか。どうですか。それは地球全体が一つになって行かなければならないのです。この宇宙に愛というものがあれば、この宇宙が愛を好む主体であるとすれば、愛の目があり、愛の手があり、愛の五官があって、愛の対象を訪ねていく時、目だけが先に行くのでしょうか、それとも五官全体が一つの焦点に合わせて行くのでしょうか。心と体が一つになって、その対象にぶつかって行かなければなりません。その時、その速度はいかに早いことでしょうか。愛の速度と稲光の速度とはどちらが早いでしょうか。また、愛でもってささやく力と稲光が発する力とはどちらが強いでしょうか? (愛です)。なぜですか。二人が真の愛によって出会って、心と体が興奮して話す時には、他の話は何も聞こえません。雷が落ちる音よりも愛のささやきのほうが強いというのです。 このように愛は絶対的な能力をもっているのです。さらにまた愛国心が燃え上がるようになれば、その国の国民全体が立ち上がるというのです。このように国民を燃え立たせ、世界を燃え立たせて、一つの目的に向かって総動員の命令を下すことのできるのは知識でもありません。もし知識でもって成すならば、比較するのみです。知識は良いか悪いか、すべてを比較するのです。愛は比較するのではなく、統合する力です。愛は味見するのではなく、口に入るや否や、のみ込んでしまうものです。愛は味わってからのみ込むものではありません。 では、愛は霊界において必要のないものでしょうか。人間世界においてのみ必要なものでしょうか。愛は両方で必要とするものです。愛をもって両方の世界を引っ張る時、霊界と肉界が引っ張られるのであり、可能性を追求できるのです。そうでしょう。神と霊界に通じる理想的な女性がおり、また神とこの地上に通じる理想的な男性がいるとすれば、真の愛の棒は霊界の端から地上の端まであり、これを引っ張れば、愛を好むすべてが引っ張られてくるのです。そしてぐるぐる回るのです。 真の愛による往来 私は昨日テレビでサーカスを見ましたが、どんな曲芸であっても人間にはできないことはありません。もし人間にできないことがあるとすれば、神様にもできないということになるのです。それはなぜかといえば、神様は関心をもたないことの訓練などなさらないからです。皆さんはいろんなことができますか。もちろんできると思いますが、神様も思いを集中させなければできないのです。しかし訓練しておけば集中しなくてもピタリと合うのです。このように見た時、皆さんは立派な統一教会の人たちなので、先生は訓練を間違ったのかと思いました。(笑い) 空中のブランコに乗って、棒をつかまえて降下しなさいと言えば、降下しますか。そんな自信がありますか、どうですか。しかし、相手が飛んで来たら調子を合わせ、サッと一つになれば、正に神技です。そこに、すべての人々が惜しみない拍手を贈るのです。 霊界においても愛が必要だとすれば、その愛の力でもって、サタン世界のすべてに地上の生活で影響を与えるならば、神様をその愛の棒の先端に結んで、文総裁も先端に結んで引っ張ろうとすれば、文総裁は引っ張られていくでしょうか、どうでしょうか? (引っ張られていきません)。引っ張られていけば気持ちがいいでしょうか。中央の垂直棒が引っ張られていくならば、(先生がしぐさされる)これをどんどん下げなければなりません。それでこの位置に下りてくるのです。そこで自分の位置を譲歩しようとして、仕方がなく曲がるようになるでしょう。これをどこまで引っ張っていくことができるのかというと、これを二つ合わせた長さです。 では、(先生がしぐさされる)あちらに行くべきものが、足でけったらどうなるでしょうか。弾丸のように直線に進んで、このように曲がってくるので半弦になるのです。では、男性もこれを引っ張り、女性もこれを引っ張るのですが、女性と男性が二人で一緒に引っ張り合えば、いつも女性が負けるようになるのです。一〇〇人中一〇〇人、女性は弱いのです。これでは気持ちが悪くなります。それで男性はあちらで、女性はこのようにするのです(先生がしぐさされる)。それでどうなるかというと、男性は長く引っ張るので、垂直線も曲がってくるのです。そうではありませんか。ひもで結わえて九十度に引っ張るのです。男性と女性で引っ張るのです。男性は力が強いので垂直線がこのようになるでしょう(先生がしぐさされる)。そうなったらどうなりますか。それは合わないのです。そこで女性は「下げて、下げて」と言うのです。ではそれを下げるのには、意地の悪い心があったらできません。下げてあげたい心はどこから出てくるのかというと、お金から出てくるのでしょうか。知識から出てくるのでしょうか。「女よ! あなたよりも私のほうがより多くのことを知っているのです。私の部下になり、屈服しなければなりません」。このような考えが知識の観です。また「この女よ! 私はお金持ちなので、あなたは乞食のように屈服しなければなりません」。また権力者も、「この女よ! あなたは私の前にひれ伏さなければなりません」と、上から押しつぶそうとするのです。そこで横から動かすのです。では何がそうさせるのでしょうか。それが愛なのです。このような真の愛は何かというと、いかに思いのままに引っ張っても常に垂直であり、男性と女性を一つに合わせることのできるものです。時が至ればぴったり合わせることができるそのような所に、真の愛が往来するというのです。 さて、そこでは何をもって生きようとするのでしょうか。お金でもってですか、知識でもってですか。大統領のいとこやはとこになって権力を振るったり、大統領として生きることですか。そういう生き方はすべて一時的なものです。永遠なるものではありません。歴史には何のプラスにもならないのです。いかに自分たちの大統領が立派であるといっても、国民を愛する愛の作用がなければ、その大統領は消えてしまうのです。すべての人々は、自分が死ぬような立場になった時や危険な時に、「神様!」と言うのです。それは神様は自分のためにも生きる、そのような存在であられるので、私たちの心が神様を求めるのです。死にそうになった時、そうなるのです。「お父さん、お母さん、私を助けてください」と呼ぶ人はあまりいません。皆さんはそういうことに出遭ったことがありますか。「神様、私を助けてください」と言うのは、神様のみが愛のために生きる方であるからです。 しかしこの世では、自分の父母や兄弟を愛していますね。ですからある人は「お兄さん!」と死ぬ時には言うのです。それはなぜかというと、愛の主体的立場に立って、国を越えて霊界を越えて、若い青春時代から一生をために生きる愛の因縁によるのです。ですからその人の所に行って頼りたいし、共に生きたいし、共に抱き合いたいというのが、私たち人間の心情です。それで男性も女性も必然的に愛が必要になるのです。 きょうは「神の日」です。神の日について知る前に、まず神様はどのような方なのかということを知らなければ、神の日を迎えて神に侍ることができないのです。それでこのような話をするのです。分かりますか。 この肉界も霊界も、愛に従って動いているのです。そのようなる天的な縦的愛の主軸を中心として引っ張られた二人は、自分から自動的に拍車をかけることはできません。皆さんは毎朝、天気予報を聞いていますか。高気圧圏がどうだとか、低気圧圏がどうだとか解説をしていますね。同様に、高気圧圏によって低気圧が引っ張られる愛の世界なのです。ですから、人間世界にも愛の低気圧圏が生じることがあるのです。一人で生きている女性はいくらおとなしそうに見えても、別れた夫を思い出す世界があるのです。一人で生活しているおばさん、とても夫を思い出す時があるでしょう?(はい)。そうですね。それが愛の低気圧地帯なのです。このようになったら涙の泉がわくのです。男性も同様です。愛の低気圧時代があって、愛の高気圧時代が訪れるのです。その低気圧と高気圧が何かというと、それが相対関係なのです。最上まで上がっていき乾くようになり、宇宙は回るのが法度であり、それ以上は上がれないのです。理論的にそうなっているのです。これ以上に上がっていくようになると、存在の価値がなくなるので循環するのです。循環の軌道の上で、存在や状態、すべての現象が維持されるのです。例えば低気圧圏が高気圧圏に、「ああ、来なさい。来なさい」と呼ぶのを聞いたことがありますか。呼ばなくても時が満ちるようになれば、自動的に高気圧圏は訪ねていくのです。このように上がっていったならば、(先生がしぐさされる)このようにぐるっと回って訪ねていくのです。道を回って訪ねていくのでなく、方向を合わせてその道を前進していくのです。 愛し合う同士が出会って愛する時には、お互いがその中心を回りながら行動するのです。先生のこのような理法を中心として見た時、すべての世の流れが明らかになります。その人の動作を見てどのような人かがすべて分かるのです。その人の力の入れ方を見て、どういう御飯を食べたのか、みんな分かるのです。 情の方向性が愛 神様が一番好まれるものは何でしょうか? それはマンドゥクック(水ギョウザ)です。先生はマンドゥクックを食べたでしょうか。雑煮を食べたでしょうか。神様が好まれるものは何でしょうか。そのような神様が王の服を着て宝座に座られて、「この万民たちよ! かわいそうなこの万民たちよ! お前たちは私に仕えよ」と命令するでしょうか? (いいえ)。では、神様も笑われる時があるでしょうか、ないでしょうか? (あります)。それでは神様が泣かれる時はあるでしょうか、ないでしょうか? では、神様を笑わせるものは何でしょうか。お金ですか? お金はいつでもできます。ダイヤモンドですか。ダイヤモンドもいつでもできます。地球星ぐらいのダイヤモンドを神様に差し上げれば、「ああ、正に六〇〇〇年間、私が願っていたものがここにあるのだ。すべてに万事がOKだ」と、神様はおっしゃるでしょうか。神様にはそれらはすぐにでもつくれるものなのです。では、知識でしょうか。神様は無識者でしょうか。知識者でしょうか? 知識者という言葉は、無識者の反対の言葉なのですが、神様は知識者ですか、無識者ですか? 神様は知識の王様であられます。今日人間たちは誘導弾を造ったりしますが、こういう高速のものは途中で燃え尽きないように、海中の魚の形をまねて造ったのです。例えばツナなどを見ると完全にそうです。またジェット機のようなものも、すべて鯨や鮫の形をまねて流線型になっているのです。そういう魚を見て学んだのです。また、お膳の脚などは何をまねたかというと、鳥の足をよく見てみなさい。それは実に素晴らしい美しい足なのです。いかに芸術的なことでしょうか。また女性を見てみなさい。その曲線が非常に美しいのです。それはいかなる画家であっても描くことができないほどです。静と動のその妙は表現することができないほどです。そのような曲線美をもっているのです。 皆さんは一生の間に一度神様を笑わせてみたいですか、みたくないですか? (笑わせてみたいです)。笑わせてみたいだけでなく、泣かせてみたくはありませんか? (喜ばせたいです)。なぜそのように落第の答えをするのですか。だから悪口を言われるのですよ。神様を喜ばせることだけ知って、神様を泣かせることを知らないそういう人と、神様を喜ばせ泣かせることも知っている人とどちらが素晴らしい人でしょうか。上がっていく時にも、次に下っていくことを考えると涙が出るのです。すべて悲しいから泣くのではありません。喜びが満ちあふれたら出てくるものが涙なのです。それは悲しみの副作用の悪なる水が入っている涙ではありません。それは飲んでも害になりません。あまりにも悔しくて流す涙には毒が入っているのです。そういう毒が入っている涙を飲むといろんな病気になるのです。先生はそのように思います。どうですか。先生の話は正しいか、間違いか一度試してみなさい。 さて、泣かせることもできて、笑わせることもできる愛の力をもつ方がおられるとすれば、それはどれほど素晴らしいことでしょうか。打って泣かせるのではなく、愛の心をもって何か一言を語れば、涙がぽろぽろと出てくるのです。そうですね。互いによい言葉を語れば、我知らず涙が出てくるのですね。何がそういうことをさせるのでしょうか。いかなる力がそういう涙を流させるのか考えてください。いったい、いかなる力がそうさせるのでしょうか。知識がそうさせるのでしょうか、お金がそうさせるのでしょうか、権力がそうさせるのでしょうか? (いいえ)。すべての人間に涙を出させるそのような力の作用はいったい何かというと、それはただ一つ、情緒的な因縁によるものだということを知らなければなりません。情の方向性を愛というのです。父母の愛、父母の情を中心として、父母が子女を愛する時には一つの方向があるのです。それを父母の愛というのです。その愛の感化の内容が、自分の心と体を治める時には、心と体が国境を越えて意識現象の世界を超越するようになります。それが復活ということなのです。そのようにして第一の次元から、第二、第三へと上がっていく現象は、このような愛の力から生じるということです。それゆえに愛は悪いものではありません。おじいさん、おばあさんが九十歳になり、一〇〇歳になって、愛によって手を取り合えば、そこには天地が往来するというのです。若い青年男女が手を取り合って愛することよりも、百歳になって気力がすべてなくなってから、手を取り合って目をパチパチさせながら、力がないので二人とも手を離しそうになる、こういう年を取った老夫婦の胸に通じ合うその愛は、いつまでも変わることがないのです。分かりましたか。 そこに愛の電線を通せば、明るい火が灯ることでしょう。その愛は若者よりももっと純情なのです。それは何百ボルト、何百ワットにもなります。分かりますか。交流電気は上がったり、下がったりしているのです。三相現象になるのです。しかし、年を取ったおじいさんたちは直流の愛です。始めから終わりまで同じ直流で、変わることなく流れていくのです。おじいさん、おばあさんの愛は直流の愛なのですが、若い人々の愛は交流の愛なのです。一時に高くなったり、低くなったりします。一度好きになって喜ばせてもすぐに、「さようなら」と言ってすべて忘れて、自分の家に帰っていくのです。しかしおじいさん、おばあさんのその胸の中には、いつまでも愛の火が燃えているのです。千年万年行ったり来たりしながら生きるのです。ですから直流の愛なのです。皆さんはどちらのほうが好きですか? (直流の愛です)。ですから無形の善なる神様がこの地上に現れるとすれば、それは金でも、知識でも、権力でもないのです。 では、この文総裁とはいかなる人でしょうか。多くの人々から悪口を言われていますが、この私のために命をささげようとする人々も多いのです。ここで命をささげようと思っている人は一度手を挙げてみなさい。先生は目を閉じています。「ああ! それは本当ですか?」。この世は偽物の世であり、うその世であるのに本当に信じられるでしょうか。一度、死刑場をつくってみてはどうでしょうか。本物の人を選ぶために一度そういう試験をしてみます。まず飛行機に乗るのです。そして私たち全員が太平洋の上空で、みんなが見ている所で行うのです。「あと何分すれば死ぬのだ」と時間を定めて、みんなの気持ちを確めるのです。あと五分ほどになった時、「みんな死ぬ準備をしましたか?」と言えば、目をパチパチさせて、「ああ、大変だ! ああ、大変だ! 」と。これで本者と偽者がはっきり分別できるのです。先生はそういうことを研究しているのです。統一教会の本者と偽者は誰かと。では、この文先生のためになぜ死のうとするのでしょうか。先生はその匂いが少し違うのです。何の匂いでしょうか。愛の匂いです。香水の香りに千、万の種類があっても、愛の良い香りが一つあれば雑多な匂いはすべて足の下にしてしまうのです。 このような先生の話を聞いていると、おもしろい話が多いのです。おじいさんであっても、おばあさんであっても、先生はすぐに友達になるのです。先生はおばあさんたちにも、一年十二カ月毎日続けて話をすることができるのです。どんな人の奥座敷にも入って、主人の役ができる能力ももっている先生なのです。すべてに愛をもって行うのです。愛が恋しくて集まった者たちがこの統一教会の群れなのです。何を中心として愛すべきなのかというと、神様の愛と父母の愛を中心としなければなりません。そのような愛をもって統一するのです。では何のために統一するのでしょうか。統一したその人々の幸福のためではなく、統一は不幸な人々を解放するためなのです。そのように愛を広げるためです。広げなければ、愛は戻ってこないのです。世界まで行けば、この愛は再び戻ってくるのです。電気の世界におけるように、愛する人がいる所まで行けば、次に愛する相対を探して帰ってこなければならないのです。本然の位置へ帰ってこなければならないのです。これが愛が往来することの理論です。循環法則と同じ軌道に沿って動くのです。 神様の愛とは取り替えられない もう一時間たちましたね。お母様が三十分間だけ話をするようにとのことですので、これでやめなければなりません。(笑い) もっと話せというのですか、もうやめましょうか。先生は一睡もしていません。今朝お母様が御飯をもってきたのが、八時二十分だったのです。「食事をしたあとに少し休みなさい」と言うのですが、先生は習慣になっているので眠れませんでした。今が昼なのか夜なのか、体が言うことを聞かないのです。昼に眠ることはできません。リズムが合わないのです。寝返りばかり打って眠れませんでした。自分が怨讐だなあと思うほどに、少し眠らせてくれればいいのに眠れないのです。仕方がなくて少し按摩をしてもらいました。肩をもんでもらいました。それで少し楽になったのです。誰か按摩のできる人がいますか? 先生の肩を一度触ってみてください。 神様を感動させる男性がいるならばどれほどよいことでしょうか。そのような男性と女性が競争するならば、何の競争においてチャンピオンシップを決定するというのでしょうか。それは何でしょうか。神様を握る競争をするならば、何をもって神様を握るのでしょうか。他でもなく、愛のひもをもってすれば、いくらでも神様を固く縛りつけることができるのです。分かりましたか? (はい)。いくら固く縛りつけても、そのひもは自然に解けるのです。愛とは「ためにする」愛なので、いくら縛っておいても、一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間とたたないうちに縛った人が解きに来るのです。その時にはひもの跡がついていると、その跡を擦りながら泣くのです。そのような千年の深い事情のゆえに、そこにおいても喜びがあるのです。ですから愛は良いものです。神様もそれがお分かりなので、いくら固く縛られていてもそのまま黙っておられるのです。さあ、皆さんは統一教会の文先生を一度愛で固く縛ってみますか。少しも身じろぎできないように、どんなに四肢を強く縛りつけられても先生は安心です。しかし、それを信じることのできる統一教会の信者が何人いるでしょうか。 それでは、神様が一番好まれるものは何でしょうか。それはお金でもありません。皆さんが一番喜ぶものは何ですか? (愛です)。どういう愛ですか? (真の愛です)。それが問題なのです。皆さんは何を喜びますか、お金ですか。お金と神様を取り替えることはできません。知識も神様とは取り替えられません。権力でも駄目です。または、この三つ以外のいかなるものをもってしても、神様とは取り替えることができません。神様も神様の愛とは取り替えることができません。神様を取り替えることができたとしても、神様の愛は取り替えることができないのです。何の話か分かりますか。たとえ一番好きな人だといっても、一番好きなその人を永遠に迎えることはできないのです。けれどもその人に素晴らしい愛があるならば、いつまでも生活を共にしても疲れないというのです。もし、先生が皆さんの家庭を訪ねていって、一週間いようとするのに「もっと一年間いてください」と引き止めますか。それとも引き止めないほうがいいですか。一度聞いてみましょうか。どんなにむさ苦しい所でも先生はその家に行きますよ。先生は監獄に入った時、糞尿を浴びても生きてきたのです。そういう訓練を受けてチャンピオンになった先生なのです。先生の知らないことはもはや何もありません。いかなる踊りも全部知っています。それで、統一教会の信者はそれなりに暮らしているでしょう。ひさごを伏せておいてその中に入って暮らしても、先生が好きだと言うのですね。好きだと言うので一度訪ねていったとして、いったい何の罪になるでしょうか。食べ物がなければ先生が昼御飯を買ってきてあげますよ。着るものがなければ服を買ってあげますよ。それは嫌いですか。とても粗末な家であったら家も買ってあげるかもしれないのに、嫌ですか? 文総裁はお金も卒業した人です。お金があっても生きられるし、なくても生きられるのです。先生には、うらやましいものは何もありません。私は学者たちであっても主管しているのです。それも世界的なのです。先生が「来なさい」と言えば、尹博士もアメリカに行く途中からでもサンフランシスコの地も踏まずにそのまま帰ってくるのです。どんな博士や総長たちも先生が何か話をすれば、もはやそれらの人々は話せなくなるのです。彼らは専門分野の三〇パーセントしか知りません。先生が何か尋ねても、いくつか答えて、それですべて終わりなのです。この先生は四方膨大なのです。労働者が何の御飯を食べるとどうなるかということもすべて知っています。すべてに精通しているのです。それをどうして学んだかというと、すべて体験したのです。ですから先生にはできないことがありません。田舎に行くと畑の草取りもできます。田んぼを耕すこともできます。先生にはできないことがないのです。先生は最高の農民であり、最高の労働者です。ですからお金のことなど関与しないのです。お金がなくとも、一カ月間で一年間生活できるくらいのお金はどこに行ってもつくれます。 知識も問題ありません。神様についての知識でも私以上の人はいません。霊界についても未来世界についても、私以上に知識のある人はいません。霊界がどうなっているかすべて分かるのです。アメリカの霊通人協会の会長で、アサボスという人がいます。彼は西欧社会においては有名な人です。ヨーロッパからの問い合わせにも、相手の運命を判断して電話で答えるような人です。そこへ見すぼらしい韓国人として先生が訪ねていったのです。すると先生がどういう人なのかについて証をするのです。そして、「モーセが神からの愛を受けて、その光明があまりにも明るく輝くので、全体がびっくりして倒れる時と同じように、文先生がここに臨在されたので私は靴を脱いで敬拝しなければならない」と言うのです。こういうことは誰にでも話せることではありません。小学校の卒業生に対し専門の高等数学を教えても分からないのです。それだから先生は問題の人物なのです。 十二支派の編成 お母様が時間が長くなったことを合図していますが、正月の一日に、楽しい話をして少し時間を超過してもいいでしょうか? (はい)。これくらいにしてやめたほうがいいでしょうか? (いいえ)。きょうの話の題目の内容は簡単なことです。一分間あれば話せる骨子なのです。それだけ話して終わってしまえば、その人は話下手なのです。しかし、一日中、三六五日話し続けても喜びで尽きない先生なのです。先生はワンマンショーでも、中、高等学校の時にチャンピオンでした。(笑い) 先生が通う学校で、学園祭があるとよく出場して、後輩と一緒に思い切り踊りました。そういう先生だったので、今日統一教会の教主を務めることができるのです。教主を務めるということは易しいことではありません。それを七十年も務めてきたのです。このように七十年も務めてきた先生を追い出そうとする人は一人もいません。分かりましたか。神様が喜ばれる、また神様が悲しまれるその道に付いていける何かが一つあるならば、それは愛しかないというこの事実が分かりましたか? (はい)。神様がそういう方でいらっしゃるということが分かりましたか? (はい)。 さて、きょうは神の日です。神の日ということについて先ほども話したように、人間始祖が堕落したゆえに、父母の日、子女の日、万物の日などこういう日が必要になったのです。本来は神の日でもあり、また子女の日なのです。そうでしょう? 息子、娘の日がお母さん、お父さんの日でもあり、またそこにおいては、万物も褒めたたえることのできる子女の日が芽生えているのです。さらに子女の日の前に、新たに芽生えているのが万物の日です。そのように愛の中に結ばれた一つの連体現象なのです。 先生の髪の毛は、先生に似ているでしょうか、似ていないでしょうか? (似ています)。そうです、似ているのです。髪の毛を見ると何もないようですが、大切な関係があるのです。それですべての万物も、自分なりの愛の表示体として精誠をささげているのです。花も音楽を聞かせて、情緒的な環境をつくってやれば円満な花を咲かせるのです。そのようなつぼみを結ぶのです。鶏などを飼う時にもよく音楽を聞かせるでしょう。そうすれば良い卵が生まれるというのです。このようにすべての相対的な周辺の環境と歩調を合わせ、和合した環境の中で育つようになる時には傾かないのですが、四方に和合できないまま育つようになる時にはいびつになってしまうのです。 この先生は、たくさん監獄生活もしたし、たくさん悪口も言われましたが、あまり苦労した人のようには見えないでしょう。いつも生き生きしているでしょう? (はい)。先生のそういうところに皆さんも少しは似てもいいですね。また、先生には若いころからできない運動などありません。ある時はボクシングが好きになって、一度あまりにも力を込めて打ってみると、家が壊れたのです。今もそうです。先生の話を聞かない者がいると、「エィー!」と転がしてしまいます。皆さんも護身術を習わなければなりません。分かりましたか? (はい)。そういう訓練をしてきたので、先生の全身が自然に動くのです。手足のこわばることもなく、全身の動かないところはないのです。手足がピッタリ合うのです。体格もいいのです。ありがたいですね。(拍手) きょうは元旦です。先生は餅を食べてきたのに、皆さんに餅を買って上げることができなくて申し訳ないですね。(笑い) 父母の日を思うたびに、子女の日が恋しくならなければなりません。復帰路程がそういうことになっているからです。長成期の完成級で人類始祖が堕落したゆえに、その位置において、父母の日を定めたのです。それはまだ子女と父母と万物が堕落圏内の攻撃を受けている時でした。そこで統一教会の祝福聖礼式を行いましたが、その聖礼式は教会内での聖礼式であって、国家の聖礼式ではなく、世界の聖礼式でもなかったのです。それゆえ、祝福も教会の祝福、国家の祝福、世界の祝福を受けなければなりません。さらに天国に行って、永遠なる祝福を得ないと本然の世界に入る道がないということを知らなければなりません。皆さんが統一教会の祝福を受ける時、こっそりと先生に分からないように受けたとしてもそれは通りません。国の祝福を経てこそ、すべての歴史に連結できるのです。このような道があるのです。 これから皆さんは、世界祝福を通過しなければなりません。そして天上に行って大入籍式を挙げて、十二支派の編成を成すのです。それは真の父母が神様を中心として、天国のみ座の位置を定めてこそ、すべての万民の席順が定まるのです。国家においても、新しい内閣の編成が発表される時には、その時は既にすべての閣僚が決定されているのです。それを発表することを通して公表するのです。その国家指導者は、それぞれの閣僚に対して既に何十年も前から何をやらせようかと考えているのです。すべてにそのような経過があって、決定された編成の発表なのです。それも発表されて初めて分かるのです。同様に将来、世界統一国ができた時、そういう現象が起こった時にこのみ言が分かるのです。それ以前には誰にも分からないのです。しかし、知る人のみ知るというのです。 負債を残さない生活 私が君たちの父親であればどうするでしょうか。君たちを学校に行かせるためにこのような姿になったのです。そういう父親に対してどうすればいいのでしょうか。また、君たちの兄が君たちのために犠牲になって、君たちを学校に送るために苦労してきたのにどうするつもりですか。ですから先生は、統一教会の青年たちが三十歳になるまでは助けてあげないのです。どんなに苦労しても、三十歳を越えるまでは頑張りなさい。 先生の指導に従って、先生の家門の伝統を引き継ぐ息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘になってこそ、先生の後継者として天国を引き継ぐことができるのです。そのように天国を引き継ぐことができれば、すべての人々が諸手を挙げて、東西南北から頭を下げて感謝して、「千年、万年長生きしてください」と祝福を受けるような道を残すことができるようになるのです。なのにこの者たち! 何ですか。この中で三十歳未満の若者は手を挙げなさい。何の話か分かりましたか? (はい)。 正月には縁起物のくまでを売る商売もあるでしょう。それもやってみなさい。新聞配達などもやってみなさい。先生はすべてにやらなかったことはありません。ですから先生はアメリカなどいかなる国に行ったとしても、すべてについて教えてあげることができるのです。「こうこうするのです」と。すべてに先生が教えてきたのです。日本においても多くの基盤をつくってあげました。今やその世界において恐れられるようになっているのです。ですから先生はここにこうして座っていながらも、命令一つで多くの万物も短期間の内に集まってくるのです。それだからといって、先生は常にそのように命令ばかりするのではありません。先生は万物のために生きるのではありません。先生は万物を集めて国のために用いるし、世界のために使うので、そういう命令をすることができるのですが、自分のために命令することはありません。 レバレンド・ムーンは、自分に対し一番のけちん坊であり、守銭奴です。先生の子供たちに対してもです。物心がつくようになって、「幼い時に満腹であったら、三十歳を越えてはいけません」と、きっぱりと命令をするのです。「孝進(様)、何の話か分かりましたか?」。子供たちをそのように教育してはいけません。今は先生も黙っています。アメリカの環境がそうなので、仕方がありません。ハンバーグを食べて育ったので、御飯が嫌なのですね。それを知っているので仕方なくそうするのですが、御飯とパンを共に食べることができなければなりません。アメリカにいると先生は忙しいので、全国を巡回するためには、一日に何百万マイルを走るのです。リンカーン・リムジンに乗って走ります。このようなリムジンに乗っている人々は、中国の一級料理の店か、日本の高い寿司屋に入って食事をするべきなのです。それがそのような立場にいる人々の社会的常識なのです。しかし、先生は昼食をするのにどこに行くかというと、リムジンに乗っていつもマクドナルド・ハンバーガーの店なのです。そして五分以内に食べ終わるのです。みんなが私に注目して、「あのようなリムジンに乗ってきた人はどういう方なのだろうか、なぜこのような私たちが入って食べるマクドナルドの店に来て食べるのかなあ?」と言うのです。先生の行く道は忙しいのです。時間が惜しいのです。み旨のためには時間が必要なのです。その時間を得るためには、一番速い昼食の方法を取っているのです。それでマクドナルドの本店からは、「レバレンド・ムーンが自分たちの客になった。統一教会が自分たちの客になった」と思って、お正月になると、プレゼントを送ってくるのです。 このように、先生は自分に対しては何と言いましょうか、まるで守銭奴のようなのです。今でも、家にいる時は下着が汗にぬれても、さっと掛けて乾かして、夕方もう一度着るのです。それで体が腐ることはありません。夕方また汗を流せば、お風呂に入ればいいのです。その数時間も我慢できないのですか。先生がぬれた服を掛けておいて乾くのを待っていると、お母様が来て「洗濯します」と言って、持っていこうとするのです。それも妻として当然のことであり、仕方がないのだと私は思うのですが、だからといって洗濯をさせることもできません。洗濯は簡単ではないです。そこでタオルを使うようにしたのですが、先生はお風呂場でも、ホテルでも、大きいタオルを使ったことがありません。いつも小さいタオルを使うのです。それが節約です。分かりますか。便所に入ってちり紙を使う時も、二巻きにして節約をしなければなりません。必要以上に使わないのです。それも国のためです。霊界から、「統一教会の教祖がなぜあのようにするのか」と眺めているのです。神様が見ておられるし、霊界の先祖たちが見ているし、多くの霊界の聖賢、聖哲たちが、今もそばで見ているのにどうして自分勝手にすることができるでしょうか? できません。ですから、先生には何一つ恥ずべきことはありません。国に対しても、誰が何と言っても恥じることはありません。世界のどの国に行っても先生は恥じることはありません。その国に負債を残して回る先生ではありません。ですから神様が、世界の五十億の人類を御覧になられて、その結果、この私を用いる価値があると決定されたので登用しているのです。神様の登用はいつまでも続くと思いますか、どうですか。もう終わる時になりましたか、まだ継続しなければなりませんか? 皆さんはいつも先生をこき使って、今でも先生を削り取って食べて生きているではありませんか。先生に負債を残して生きているのですね。それはいけないことです。負債を残して生きる人はその僕になるのです。反対に負債を負わせて生きる人が主人になるのです。この鉄則は歴史的真理です。それゆえに私は負債を残しては生きません。これだけは間違いないことです。神様はそういう人が好きなのです。創世記にあるように神様は、すべての人類と万物世界を創造しましたが、神様は負債を残したことはありません。神様は今日まで負債を負わせて生きてこられたので偉大なのです。ですから主人になるのです。堕落した人間たちが、今まで負債を残そうとして、「ああ、神様!」「ああ、我が家! 我が教会!」と、長老教会のように祈祷するのを見るとまるで泥棒のようです。「我が教会に福を下さい。統一教会を滅ぼしてください」と、趙庸基牧師は毎日のように騒いでいるそうですが、いったい誰が滅びるか見ていなさい。私に悪口を言って福を得る自信がありますか。私はすべての悪口を受けてあげる用意があります。そしてその悪口を記憶せずに、すべて忘れてあげます。私は忘れてしまいますが神様が記憶されるので、それが恐ろしいというのです。神様が記憶していて、きれいに整理してくださるのです。十年と歳月がたたないうちにそうされるのです。 本来、神の日であると同時に万物の日であり、万物の日であると同時に子女の日となるべきなのです。そういう日をもつことのない堕落した人類になっていたという、悲しい事情に処していることを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。 ところで、神の日まで行くためには七年が必要です。お母さん、お父さんの七年路程を越えなければなりません。神様がつくられたものはすべてが直接圏内なのですが、原理結果主管圏、この(三数の)三段階成長期間を通過してから十数目を越えるようになる時に、神様と愛を中心として連結できるその日を探し出すためには七年の期間が必要なのです。そこで一九六〇年の父母様の聖婚式以後にアダム、エバを立てて、すべての日々を定めて満七年が過ぎた八年目の一九六八年一月一日、初めて「神の日」を定めたのです。そこから統一教会の文先生は世界的に伸びていくことができたのです。分かりましたか。統一教会が世界的な宗教として伸びていけるようになったのです。それできょうの第二十二回目を迎えたこの「神の日」を記念するためには、これらのすべての日々を切り離して考えてはいけません。先生にとっては、父母の日を決定する時、既に神の日を考えていたのだということを知らなければなりません。分かりましたか。 なぜ子女の日を立てたのか。なぜ万物の日を立てたのか。これらはすべてが神の日を決定するためなのです。どれ一つも除いてはなりません。私たちが記念するためにそれらの日を立てたのではありません。歴史的な段階の過程を経ながら、神の日を立てるために無慈悲な闘争を経てきたのです。この日を奪うため、サタンは千万の巧妙な詭計をたくらんで攻撃してきたという、この事実を知らなければなりません。こういう国家と戦ってきたのです。既成教会がすべて反対して、政府を動員して文総裁を押し込めようとしてきたのです。毎日のように、今も仲たがいさせようとしているでしょう。「文総裁があのようにするのは、すべてが将来大統領になって現政権を取ろうとしているからだ」と、先生すら考えてもみなかったことを、やたらとでっち上げて話しているのです。それが長く続くでしょうか。彼らは、知らないうちに自分たちの柱の下が崩れ始めているということを知らなければなりません。神様の戦法は打たれてから奪ってくる法です。善なる立場で一〇〇度打たれたらその価値が大きいか、小さいかによって(蕩減)期限の短縮がなされるのです。一〇〇度打たれる時、それは一〇〇年後に受ける福を考えながら打たれるのです。そして一〇〇年を待てる人であれば、一〇〇年後にその利子まで加えて、その福を引き継ぐことができるのです。もしその人が死んだならば、その後孫に福が訪れるということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。 神様の戦法は打たれて奪ってくる 神様の戦法は打たれて奪ってくるのです。反対に悪魔の戦法とは打って失ってしまうのです。歴史はこのようにして、発展するのです。簡単なことです。悪魔サタンは、聖なる神様の戦略的戦術を知らなかったのです。皆さんはそれを知らなければなりません。それゆえに、この文総裁は今まで公的な立場において、恥じることのない立場で世界中で打たれてきたのです。打たれるその限界線が四十年を越えなければならないために、歴史的に打たれた恨み多い鞭の跡が残っているのです。四十年間口惜しく怨めしいことが積り積っていたのですが、どんなに復讐したくてもすべてを忘れなければなりません。そのようにして忘れてみると、十年後、二十年後には大きく変わるのです。さらに三十年、四十年たってみると、世界のすべてが先生の前にひざまずくようになり、既に七合目を越えました。分かりましたか? (はい)。 今や、共産世界もソ連の国民も先生の側です。ソ連に行ってきた人々の報告によると、ソ連はTVの全国放送を通して、一時間半も文総裁について放送していたというのです。そこで「共産主義体制の根本を反対する怨讐が文なにがしだ」と言っているというのです。そこで、あることないことを並べ立てているというのです。それを見ているソ連の人々は、「あのように私たちの味方をする人もいるんだなあ、共産党員たちが憎悪しているあの方こそ私たちの救世主なのだ」と言っているというのです。ソ連の人々が先生に一番近いというのです。どうでしょうか。その人のお父さんたちが「文なにがしは怨讐だ」と言うのですが、その子女たちは「自分のお父さんたちが怨讐と言う人が本当の怨讐なのか、それともお父さんたちのほうが本当の怨讐なのか?」と。ソ連の子女はよく知っているのです。これは何の話か分かりますか。今日まで、共産党は人類歴史に対して、すべてにおいて対外政策でうそをついてきたのです。その八〇パーセントがうそです。それゆえにその後継者たちの良心が訴えるのです。「私たちの父母は滅びてしまうだろう。私の父母! また亀裂分子の共産党! この偽者! 正義の背反者!」と訴えているのです。ですから共産党の後継者たちは、この文総裁を自分のお父さん、お母さんよりも尊敬して列をなして訪ねてくるようになるのです。そういうことが分かりますか? (拍手) 彼らにとっては、復讐もこれ以上の恐ろしい復讐がどこにあるでしょうか。父母が怨讐視する人の懐に入ってその子女たちが死ぬまで、忠誠を尽くすというこれ以上の復讐がどこにあるでしょうか。統一教会の行く道には、これからそういう人々が多く出てくるのです。 私たちの統一教会においても、これまでは私に反対する、夫がその妻に対して、ありとあらゆる迫害を加えてきたのですが、今やその子女たちは反対するような父と別れて、すべてを捨てて「先生と生死を共にしたい」と訪ねてくるようになったのです。泣いて痛哭するのも、まず誰を中心として痛哭するかというと、先生のことを痛哭するようになっているのですね。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。ではなぜそうなのですか? それが真の群れだからなのですね。天と地が支持して、天と地がその道を願っているために、そのようになるのです。それゆえ、世界の歴史上において、宗教問題を懸けて最も悪口を言われながら、一番苦労をした人がここに立っている文総裁なのです。分かりますか? (はい)。 先生がどんなに悲痛な事情をもっているか知っていますか。私はすべてを忘れてしまうのですが、天は忘れないのです。おそれ多いことです。何も責任を果たすことができずに、追われながら生きて、天のみ旨を成し遂げようとよろめきながら今まで四十余年間を歩んできた先生の背後で、神様が見守って保護しているということを知らなければなりません。私もよく、我知らず「彼は、あれではいけない」という話をしますが、先生がいったん言に出せば、その人は六カ月以内に木っ端みじんになるのです。私の言がどれほど恐ろしいか、私がそれをよく知っているのです。そういうことが分かりますか。これは祈祷をたくさんした人には分かります。先生にはそういう何かがあるために今日、すべてが滅びていく世の中にあっても滅びることなく栄えの道を歩くのは、神様が私を保護してくださっているためです。分かりましたか? (はい)。 悔しいことも神様が忘れてくださったために、人類を訪ねてこられるのです。それが神様の事情なのです。分かりましたか。このような事情を知らなければなりません。ただ神の日を迎えて喜ぶばかりでなく、そういう趣旨を知ってください。きょうの解放の日を迎えるために、その背後において多くの事情と曲折が神様の心の中にぼろ布のように残されているのです。それは癩病のように覆われているというのです。その心をなでて、解かして、泣いてあげられる人がいないのです。皆さんにはそれが分からないのですね。しかし、分からないのが幸いしているのです。分かっていれば大変です。たとえどんなに疲れていても行かなければなりません。皆さんはきょうのような日を迎えるごとに、そういう背後の事情を知らなければなりません。 体恤的信仰 先生は五年以上も監獄生活をしましたが、軒下の岩にも雨が降れば、雨垂れがぽつりぽつりと落ちて穴を開けるということを知っていたので、私の愛の涙の滴が神様の胸の中に絡み合った時に、恨みの盤石にも穴を開けることができたのです。そのような涙の滴の慟哭の事情を皆さんは知らなければなりません。流れいく水を眺めて、その水が神様を迎え入れる清い水として、神様が訪ねてこられて沐浴することができるようになれば、どれほど良いことでしょうか。そのような一つの巣、神様の安息所が人間から出発できるとして、そのような子息になれたならどれほど良いことでしょうか。そういう深い心情の世界を皆さんが体験できなければ、神様は皆さんの生活の中にいません。 赤ん坊を思ってお母さんの乳房が張るようになると、どんなに困難なことがあっても赤ん坊の所に飛んでいって乳を飲ませるように、そのようなお母さんの愛の心の盛り上がりのように、縦的な天と私たちの間を連結することができれば、それは誰も奪っていくことができません。神様と自分の間に結ばれたその愛の縦的な心情圏は、誰も占領することができません。もしその方が永遠であれば、私も永遠です。その方が幸福ならば私も幸福です。そして、その方のものである愛に相続権があるならば、それも私のものになるのです。愛には同位権があるのです。愛する者同士は一緒に暮らすことができるのです。共に起き、共に休み、共に踊り、すべてを共にすることができるのです。また同参することができるのです。いつもどこへでも共に行くことができるのです。愛の力は偉大なのです。 愛にはこのような力があるために、絶対者であられる神様に対して人間は被造物ですが、神様の愛の体験圏をもつようになれば、その人は神様がおられる所に、常にいつでも存在できるというのです。こういう心情に染まれば、誰もその根を抜き取ることはできないのです。その人の骨髄を通してすべての先祖たちも連結し、すべての後孫たちもここに連結させることができるのです。そのような心情的な垂直線の生活を通して、生涯の道を残していくということが、人間の真の道だということを知らなければなりません。そのためには、神の日を迎えた背後の事情とその内容をよく見極め、それを体恤する人にならなければ、神様の愛の伝統歴史を受け継ぐことができないということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。 さて、先ほども話したように、神様は私たち人間世界の家庭で一度でも生活されたかったのでしょうか、どうでしょうか? 神様を見てみると、おじいさんのおじいさんのおじいさんのおじいさんなのです。そのようなおじいさんであれば、自分の子孫たちと共に一度生活したいでしょうか、したくないでしょうか? (生活したいです)。皆さんもアメリカに行ってみるとよく分かるのですが、年を取って六十歳にもなれば、養老院に入ることだけを考えているのです。また、養老院に入っている人々と会って話をしてみると、実にかわいそうなのです。空中を眺めてため息だけついているのです。なぜそのようにするのかと聞いてみると、「息子の家に行きたい。孫や子供に会いたい。御飯を食べることよりも家族が恋しい」と言うのです。毎日毎日このような気持ちで、自分の生命が次第に減っていく痛みを感じながら生活しているのです。そういう人々は幸福な人々でしょうか、不幸な人々でしょうか? (不幸な人々です)。幸福になるためには、まず上下が連結しなければなりません。次に東と西のほうが連結しなければなりません。そうすることによって回転できるのです。回転することによって自分の所有権が大きくなるのです。 愛には所有権があります。また愛は拡大も縮小も自由自在です。愛は無限に拡大、無限に縮小するために、直線であっても円形であっても、自由自在に融通性をもって活用することができるのです。それゆえに皆さんも愛によって、神様の息子として神様を泣かせることができ、神様を笑わせることができる、そのような立場になれるとするならばどうでしょうか。先生を中心として神様が涙を流された時が一度でもあったでしょうか、なかったでしょうか? (ありました)。それを見ましたか。 皆さん、体恤という世界がなければなりません。この世界は体恤的信仰が必要なのです。それは神様が悲しい時自分でも知らずに悲しくなる世界です。また、神様が喜ばれると自分でも知らずに喜べる世界です。そして祈祷をすれば、すべてに何がどうなるのかを前もって分かるのです。そういう生活をすれば、神様がいないなどと言うことはできません。体恤的愛が必要です。 映画などを見ても、愛する息子が遠い外国に行って、勉強中に突然、不意の突発事故に遭えば、その母親は就寝中であっても、「あっ」と叫んで飛び起きるというのです。感じるのです。それと同じです。このように、縦的な愛の世界がそうであるなら、横的な愛の世界もそうであり、また、より強い主体的な縦的な世界の父子の関係においては、その情が通じる世界はいかに強いことでしょうか。そのように我知らず慟哭の生活をするのが、この道で深い生活をする人です。 文先生は他人がうらやむ生活をするようですが、実にかわいそうな人だということを知らなければなりません。この世にあっては本当に不幸な人です。何一つ勝手にすることはできません。自分の思いどおりにはできないのです。すべてに侍る生活なのです。一度でも思いのままにどこかに行って、思いのままに食べて帰ってくることなどできません。世の人々は「ああ、よく食べた」と言いながら、医師の面前でも恥じることも知らずに消化剤をごくりごくりと飲むのです。それは罪を犯した人のようです。「先生は統一教会の食口たちが今晩も海外で、あるいはアフリカの奥地でどういう生活をしているのか知っているのです。彼らがその場その場で、先生に対して福を祈っているのです。そのような祈祷時間に勝手に飲み食いができるでしょうか。先生にはできません。共産主義の衛星国に行っている統一教会の宣教師たちが何人も死んでいるのです。今も遠い第三国の人々を通して、彼らにお金を送ってあげなければなりません。しかし、その道が閉ざされて送金できなくなる時があるのです。そのような切ない事情など皆さんは知りません。それは父母が子息たちに学費を送るのと同じような世界です。月謝を払う時期が過ぎているのに送ってやることができないのです。これ以上に切ない父母はいません。連絡を受けて、何月何日の何時にと指定された場所に行って待っているのです。何の話か分かりますか。 こういう話はお母様でも知りません。負債を負ってはいけないからです。負債を負ってはいけないのです。その人以上の痛みを感じながら、彼らのためにその将来の道を先生が責任をもつと天の前に約束をしているのです。「あなたが今霊界に行くとしても、必ずこの先生が霊界に行ってから責任をもちます。父母よりも先に霊界に行く君たちの立場は苦しいだろうが、これも歴史時代においては誰かが血の値として蕩減すべきことであり、そういう道を分別して君たちが行くのであるので、天が許すこの道であることを理解して、不可避的に行かなければなりません」と、祈祷してあげるのです。そのようにしないと生きられません。数多い人々が毎日のように世界中で自動車の事故で死んだりしているからです。こういう人々を毎日のように霊界に送らなければなりません。ですから先生はこの身体を勝手に処することができないのです。このような先生の生活の背景を皆さんが知らなければなりません。そしていつでも先生の側にあって、どんなに困難な時にあっても行く道を分別して、悲しい事情を慰労したという、悲しくて、寂しくて悲痛な時をどれほどもったかという、そのような歴史的基盤なくしては先生を泣かせることはできません。これは真実です。分かりましたか? (はい)。 神様を笑わせるのも、それ以上の立場であれば笑わせることができるし、神様を泣かせるのもそれ以上の所で、神様が感じ、神様が越えた以上の痛みと悲痛を感じて、神様の摂理に対し痛哭するようになって、共に泣く神様の声を聞くことができたのが先生の生涯なのです。分かりましたか。そういう愛は億千万金を支払っても買えません。先生はそのような愛をもっているので、今日まで生き残ってきたのです。今日まで疲れ果てた時がいかに多く、弱り果てた時がいかに多く、やり切れないほど悔しかった時がどれほど多かったことでしょうか。もしその愛を知らなかったならば、先生の火のような性格は一刀のもとに数千人の人々を斬ってしまうほどなのです。先生は耐えることができない性格なのです。しかし、神様を知った時に、自分というものは何でもないことだと知ったのです。そして七十余年の年齢になるまで、天が保護してくださる中で、今日まで病気になっても休んだことがありません。どんなに疲れる生活をしても、いかに追われる生活をしても、先生はこのように生きてきました。病気で休んだ記憶がないです。既に五十年以上もです。それは福を受けた人でしょうか、不幸な人でしょうか? (福を受けた人です)。 アメリカにおける活動 先生は福を受けた人なのです。風邪を引いても、それは季節による生理的な環境の変化に対処するため、そのギャップを埋めるという理想現象なのです。今でも先生は熱がありますが、熱が出てから約二カ月近くなります。しかし、先生は約四十年余り前から風邪を引いたり、疲れることもすべて意に止めないで、今日まで継続してきたのです。しかし、まだ「あなたが必要だからいなさい」と神様は言われるのです。「あなたは必要ない。出る必要はない」と言われるまで、すべてをやるのです。先生が風邪に捕らわれて、やるべきこともできないという不肖者になったら、どうして天下を一つにすることができるでしょうか。ある苦痛に捕らわれて、自分の仕事を放り出して倒れるような者がどうして神様を慰労して、神様の手伝いをすることができるのでしょうか。とんでもないことです。今も先生は堂々たるものです。常に大胆です。 例えば「ワシントン・タイムズ」社を創設する時、「ワシントンからニューヨークまでヘリコプターで一時間の距離なので、ニューヨークにはニューヨーク・タイムズがあるために、ワシントン近郊であっても、ニューヨーク・タイムズでなければならない」というのが彼らの主張でした。ですからそれが恐ろしくてこの一〇〇年余りの間、誰もタイムズという文字を使えなかったのです。「この者たち! 天下がお前たちのものなのか!」と、先生がワシントンに行ってタイムズを探してみたのですが、一つもなかったです。そこで直ちに「ワシントン・タイムズ」を創設したのです。そこでようやく文総裁という男はそういう太っ腹の人だということが分かったのです。それで文先生はアメリカの誰よりも優秀な人であり、どんなに打たれても、必ず成すべきことを成し遂げていく人だという評判になっています。それでニューヨーク・タイムズをワシントン・タイムズが追い抜いてしまったのです。ああだこうだと言う間もなく、彼らは目をぱちぱちするしかなかったのです。公義の法度の下にあって不義なことをすると、その下を掘ってすべてを音もなく埋めてしまうというのです。 先生には恐れるものがありません。恐れては大事を成すことができません。今やアメリカも滅びるしかなくて、「文総裁! 助けてください」と言っているのですが、それは良いことですか、悪いことですか? (良いことです)。助けてあげようとすれば、お金が必要となります。しかし、お金は出さないが助けてほしいと言うのです。アメリカには百万長者もいるし、億万長者もいるのですが、一銭もこの国のために使う者がいないのです。ですから、この先生は借金をしながらアメリカを助けるために働いてきました。ところで、アメリカにとって先生は良いお客でしょうか、良くないお客でしょうか? (良いお客です)。良いお客? では先生をどのように扱ったのですか。まるで浮浪者のように扱ったのです。しかし、歴史的すべての内容が分かってからは、黙ってひざまずいたのです。先生は黙して、善と義の権威をもった東洋人として、西欧社会へ行って、西欧のすべての文化圏を主管して、先生の前に万年謝罪させるという伝統を残したのです。これがレバレンド・ムーンのアメリカにおける活動の歴史なのです。(拍手) さあ、白人たちもそうだとすれば、この韓国人もそのようにするのでしょうか。最近どんなことがあったかと言えば、アメリカの僑胞たちがやって来たのです。この者たちは詐欺師のようです。国を捨てて逃げた群れなのです。ですから「大きなことを言う人は信じるな! そのような者は相手にするな!」と言って追い出したのです。アメリカでは、韓国人はすべてが先生のような人だと思っているのです。「私たちの先生の国の人が来た」と言って、ああよく来たと喜んで握手でもしたら、すぐに昼食を食べにいこうとするのです。昼食をおごらせようとするのです。そのような不心得な僑胞たちではいけないのです。友達になっても、借金をして逃げてしまったりするのです。文総裁にとってはこれ以上の恥はありません。そういう報告を受けた時、先生は十年間アメリカの地に来て、功を立てたのが半分以上なくなっていくのを感じたのです。語る言もありません。今や既に時至ったので、先生が韓国に帰って、韓国の反対派までもすべてを収拾しなければならないという時になったので、アメリカの僑胞を全部呼び出したのです。二〇〇名近くの人々に、ワシントンとニューヨークを見せてあげたのです。彼らは一晩で変わったのです。「これほどになっているとは知りませんでした」と、こんなことも分からなかったとは灯台下暗しですね。燈台の下が暗いばかりか、すべてに不作法な者だと分かったのです。大きなことを言っても、何の内容もなく、一晩ですべてが変わって帰っていったのです。 神様に恥じることなき北韓解放を 皆さんは、神の日を迎えた心情的な背後を、神様の立場から見た心情圏、先生の立場から見た神様に対する心情圏を受け継いで、この日を記念するようになれば皆さんの神の日になるのです。分かりましたか? (はい)。そのような愛の心情圏を相続していない限り、このような日々は皆さんの足手まといになり、妨害なる日々になるのです。「また神の日が来たなあ」と、皆さんは言うでしょう。「先生は疲れているので、協会長が話をしたり、朴普煕総裁に証をさせたらどうでしょうか?」と言うのですが、いけないことです。疲れていても、倒れていても先生は、はってでも出てきて、自分の責任を果たさなければなりません。召命を受けた者が行く道は違うのです。何の話か分かりましたか。自分の責任は死ぬ前までに果たさなければなりません。たとえ休んでも、疲れることは同じです。既に五時間も話したので疲れています。下着がぬれて、服までもぬれたのです。そういう実証的相続の舞台の上に立って、このような記念すべき神の日を迎えているのです。この日のためにどれほど苦労されたか知れない縦的な父母や、横的な父母を思いながら、まだ多くの課題が残されていることを考えなければなりません。今や南北統一の先頭に立つべき神様であり、先生であるという現実の前に、もし神様が私を残して去るようなことがあれば、私はここにはいません。神様が南米に行かれたならば私も南米に行くでしょう。しかし、神様は愛のゆえに私の故郷を思ってくださったのです。私の父や母は虐殺されたのですが、多くの嘲弄の中で悲しさを抱いて生きていたのです。愛の神様はそのような私の父と母を見ておられたので、再びこの山河に訪ねてこざるを得ないのです。そのような神様を思う時、とめどもない、深く、重い心を抱いて今度も訪ねてきました。ですから、そういう神様を追い払うような皆さんになってはいけません。分かりましたか? (はい)。 そのような神様に恥じることのないように、北韓解放を叫んで出発した私たちなのです。ですから必ず北韓を解放しなければなりません。銃と剣で解放するのではなく、祈りでもって解放しなければなりません。自分の父母の前に尽くした心情以上の愛の心をもって、神様を感動させることにおいてのみ、北韓解放の門が開放されるのです。そのような門を四方に開放してこそ、すべての塀を倒すことができるのだということを知らなければなりません。私たちの祈祷するその精誠にしたがって、神様が対応してくださるのです。そのように努力する道に、もしその相対が順応しなければ、必ず天が取り除いてしまうようになります。ですから、「金日成が死ぬように……」などと祈祷してはなりません。彼を生きたまま救ってあげなければなりません。彼が生きているうちに、神様の前で「私は悪魔の魁首でした。私は罪人の中の罪人でした。人類と歴史の前に許しを得ることのできない罪人でした。しかし、偉大なる神様の愛と、父母様の愛の恩恵に浴して、贖罪を受けることができました。解放の愛の世界を受け継ぐことができました」と、恵みを受けたことを慟哭しながら証す時、すべての人々も慟哭してついてくるのです。そのようにして解放させたい神様の心があるということを知らなければなりません。何の話か分かりましたか? (はい)。 精誠を尽くすようになる時すべてが終わるのです。ですから早く民族のために精誠の度数を満たさなければなりません。北韓に対しての南北統一の度数を満たさなければなりません。「神様はこの人類をどのように救われるのでしょうか?」と、殺人を犯した怨讐たちも霊界に行って額を合わせて話をするでしょう。悔い改めることのできるような道を与えて訓練する所が、あの世にはあるのです。何の話か分かりますか。神様においては愛の姦夫が悪魔なのです。愛の姦夫のこの悪魔が、今まで讒訴してきたのです。ですから全人類の前に、愛したという条件を立てるために、これまで耐えてこられた神様の心情があるのです。それはなぜかというと、もし堕落しなかったならば、天使長も神様が愛して天国に入れたというのです。神様の息子、娘たちだけが天国に入るのでサタンは讒訴するのです。「私は悪魔になったが、神様の創造本然の原則的基準は残っているので、神様も私を愛し、神様の息子、娘も私を愛さなければ天国に行けないのではないか?」と言うのです。このことで今まで讒訴してきたのです。ですから聖書に「怨讐を愛せよ」とあるのです。怨讐を愛さなければ天国に行けないのです。 それゆえ、文先生は今まで日本人を教育しながら、日本と韓国の怨讐を一つにしました。その次にアメリカ人と日本人、さらにアメリカ人とドイツ人という怨讐関係にある四カ国の食口を集めて、アメリカを救うために、「いかなるアメリカの国民よりも、いかなる愛国者よりもアメリカを愛したという伝統を立てなさい」と教えてきました。皆さんも怨讐から、「この人々は私たちを愛してくれた人々だ」という証を得なくては天国に入れません。信ずれば天国に行けるというようなばかげた話はやめなさいというのです。それは自分たちの弁明なのです。天の法則を知らない者の弁明にすぎません。イエス様の十字架さえ信ずれば天国に行けるのではありません。もしそうであれば、先生がそういう良い方法にどうして従わないことがあるでしょうか。これまで既成教会の反対を受けながらこのようなことをなぜするのでしょうか。これでなければならないために、神様は既成教会を捨て、統一教会の文総裁を用いたのです。 これからは、全世界的に先生や神様に反対すれば復帰摂理のすべての型まで全部吹っ飛ぶしかないのです。こういう境地に立ったのです。ですからどんなことがあっても、神様は私を用いるべき立場に立っているのです。だからこのように福を受けることができるのです。ですから私は滅びそうで滅ばないし、死にそうで死なないのです。すべて吹っ飛びそうでも決して飛ばないのです。反対に吹っ飛ばないように思えるものが吹っ飛ぶというのです。すべてがそのようになって、主人になることができないような人が主人になって帰ってくるのです。私が主人になって帰ってきたのです。韓国でも、この私についてくる人々がどれほど多いことでしょうか。一度全国で民族大会を開いて、みんなで北韓解放を叫んだプラカードを掛ければ、どれほど多くの人々が詰めかけることでしょうか。 かつて先生が、一九七五年に希望の日のバンケットの大会を開催した時、行く先々で体育館が全部満員で、入場できなかった人々がなだれ込んできたのですが、もし今日そのようになったら、圧死事件が起こって惨死するような人々もどれほどたくさん出ることか知れません。私はそのようなことは起こしたくありません。有名になることが私の望みではありません。泥棒のような根性をもったものたちは、たとえ有名になっても、途方もないことをたくらんで、大統領にさえなろうとするのですが、私は大韓民国の大統領など考えてもいません。神様の息子には大統領など問題ではありません。先生は大統領を教育してあげるのです。このような先生の話を聞けば滅びることはありません。しかし、教育してほしいと言って訪ねてこないので、今は黙っているのです。いつ滅びるかどうか見ているのです。もし、この統一教会に反対すればどうなるのか、その行く末を見ていなさい。この統一教会はどんな人が打ってきたとしても決してなくなりません。 今や、すべてを解放する統一天下の国として宣布するのみです。このような祖国光復の新しい朝の黎明を迎え、万国の五色人種の人々が、一軒一軒を訪問してくる時、既成教会がいつまで敵対できるでしょうか。外国の人々がそのように訪問して回れば、統一教会は既成教会に負けるでしょうか、負けないでしょうか? (負けません)。汝矣の趙庸基牧師が「私たち数千万の信者よりも、統一教会の一人の食口のほうが優れている。なぜならば、彼らはすべて、おじいさん、おばあさんであっても、五十歳を越えた家庭の人々でも、文総裁が伝道に出掛けるようにと言えば、即座にすべてを捨てて出掛けるのに、私たちの教会には数十万もの信者がいても、そういう人は一人もいない。ゆえに統一教会の一人よりも劣っている」というような説教をしたという話を聞きました。皆さん知っていますか。(笑い) 負けることが確かなのに反対するのは愚かな者です。自分をいかに弁明をしても、誰が分かってくれるというのでしょうか。今や世界的でなければなりません。世界に尊敬されるようにならなければなりません。 素晴らしい統一教会 既に二時間半が過ぎました。神様の日を迎えるごとに、その日の成就することをどれほど待ち焦がれたことか。また、先生は生涯を通していかに努力し、どれほど苦労をしてきたことか皆さんはそれが分かりますか。どれほど待った日であるか。一九八八年韓国においてオリンピックを中心として、外的な二世たちが世界的な外的チャンピオンたちがすべて集合したのですね。その外的、肉体的なチャンピオンたちが韓国に来て、みな帰りたくなくなったのですが、仕方がなく帰りました。共産世界のソ連から来た選手たちも、「韓国がこれほど良いとは知らなかった」というのです。金日成の話どおりであれば、彼らが韓国に行ったならば、きっと自分たちの前に何か食べ物をもらおうと列をつくって、コカ・コーラやビスケットなどを求めてついて回るだろうと思っていたというのです。すべてにそういうことだろうと思ってきたのに、彼らのほうがこじきのようになったのですね。ザ・リトル・エンジェルスにボリショイ・バレエ団が来て訓練したのです。世界的に見れば、共産党は怨讐です。ソ連は怨讐なのです。私を捕らえて殺せと暗殺命令さえ下しているのです。KGBと金日成が一つになって、「十一月以後は文総裁はこの世にいない」と決定していたのです。私が報告を受けたところによれば、十一月まで文総裁はこの世にいないので、会議も何も行われないということなのです。彼らの世界ではそう見ていたのです。もう十一月は過ぎましたか、過ぎていませんか? (笑い) どんなに狙われていても、先生はこのように生きているのです。私という人は不思議な人です。 皆さんは先生に従ってきて幸せになりましたか。先生に教育されて幸せになったのであれば、先生に授業料を払いましたか? (笑い) 皆さんは授業料も払わないで、先生の大切な「愛する」という美名を用いて、金塊を盗んでいくようなものです。どうですか。そういう者たちが多いのでこのような話をするのです。 昔、韓国に李という四柱推命の大家がいたのですが、「彼は精一杯やっても一日、一人も相性を合わせることができないこともあり、一週間力を尽くしても、三人の相性を合わせるのがやっとだったのに、この文総裁は一時間に数百名を、今度は一日、三六〇〇名を結んでしまいました。(拍手) 皆さん、結婚させることは易しいことでしょうか? (いいえ)。この統一教会のお婆さんたちは、私が結婚させてあげたので、そういう苦痛は受けなかったのです。その苦痛を受けなかった値を考えなければなりません。(はい)。今度の結婚式の費用で結婚させてあげられる父母がこの世のどこにいますか。 雷のように早く祝福してあげたというのに、あの人々はあのようにぴったりと姉弟のようでもあり、兄妹のようでもあるし、笑うのも一緒に笑うし、首をうなだれるのも一緒にうなだれるのです。どうすればあのようにすることができるのかというのです。(笑い) 先生が公席でこのような話をするのはこれが事実であり、現実なのです。いつまでも夢のように思っていてはいけません。さあ、先生はよくやった人でしょうか、反対する人々のほうがよくやりましたか? (先生のほうがよくされました)。よく見ていなさい。反対する父母たちが結んだ結婚と、先生が結んであげた家庭と、どちらが素晴らしい子女を生むことができるでしょうか。先生はこのような責任を負った教主として、統一教会の後世の種子を正さなければならない責任があるのです。そのために国際結婚もするのです。皆さんはそのような種を願いますか。ですから約婚して三年間はああだこうだと言ってはいけません。三年間先生の話を信じて生活してみると、三年後には天下を治めることができるような聖人が生まれるというのです。このような内容の祝福なのです。ですから先生の教えどおり生活してみなさい。(アーメン)。先生もそうしてきたのです。アーメン。(笑い) こだまが和音になるのです。アーメン。(アーメン)。もう一度言いましょう。アーメン。(アーメン)。アーメン。(アーメン)。アーメン! (アーメン!)。誰の声が一番大きいですか。先生のアーメンの声に負けまいとして首を振り回して(先生がしぐさされる)このようにすれば気持ちがいいですね。もう一度言いましょう。アーメン! (アーメン!)。これが統一教会なのです。素晴らしいでしょう。(拍手) 統一教会はこのように笑いがある所です。活気に満ちた所です。(アーメン)。年を取っても、青春がある所です。先生も年老いてもまだ青春なのです。これも息をせずにグイと飲みます。一度試してみましょうか。(先生が飲み物を飲まれる)(笑い) 年を取ると大変ですが二杯、三杯まではただ一息で飲めます。(笑い) こういうことで、責任者が実際にやって見せるなど恥ずかしいことですね。(笑い) 祖国をもたなかった人々はかわいそうです。神様を中心として祖国をもたなかったので、神様を信じてきた人々はかわいそうな人々です。皆さんも入籍する国がないので、身元の保障ができません。ですからクリスチャンたちは今日も流れ者の民なのです。それを知っているので、神様が文総裁を立てて、祖国光復を命令しているというのです。分かりますか? (はい)。それで今年の神の日から、私たちは恨みを晴らして神の日を祝うのです。私たちにはこれから苦労がありません。見ていなさい。ですから先生の教えどおりに四年間ひたすら精誠を尽くしなさい。祈祷しなさい。 私たちの統一教会の歴史の中で、日本の京都知事選挙において、二十八年間も知事を勤めていたのを、私たちの勝利によって終止符を打ったのです。統一教会は偉大なる教会なのです。その時、私たちの青年たちはすべて女性たちも髪を短くしました。それは中学生か高校生のようでした。そのようにして、市中に出て勝共理論を中心として共産党も知らないような深い内容を中心として、一大雄弁を振るったのです。何度も何度も人々の前に立って叫んでいるうちに、準備した原稿に従って感動を込めて語るのです。そのような旋風を起こす訓練をして、出で立つ時、自分の部屋で寝ていた人々も、その雄弁を聞いて涙を流したのです。彼らが表に出てみると、みんなが中・高等学校の二年生、三年生の学生のようなのです。そのようにして、一人が一日に訪問した家庭はどのくらいかというと、平均三〇〇軒以上で、記録としては一三〇〇軒以上ずつ訪問したのです。このようにして、一つの市から共産党を追放するために成し遂げたこのことは、統一教会の歴史が続く限り残っていくのです。 千秋万代の歴史を通して、神様の怨讐であり、人類歴史の善なる人々に怨恨を残した元凶であるサタン魔鬼を追放するために、私たちの動きがいかにあるべきかということを考えた時、「日よ、沈むな! 私たちの行く道が忙しいので、どうか日よ沈むな」と言いながら、涙とともに働く時には、天軍、天使が夜昼動いてくれるのです。そのような一人一人となり津々浦々、至る所において多くの家々と、多くの人々の胸の中に涙を流させることのできるように行動しなければなりません。そのような最後の切追した韓国統一という標語であることをお互いに銘記しなければなりません。何の話か分かりましたか? (はい)。 民族救道の先鋒に 皆さん、先生が統班撃破を命令してから既に四年の歳月が流れました。これが国を愛することなのに、皆さんは先生がお金を出してあげなければできないのですか。血を売って、土地を売って、家を売って、先生はやってきたのです。妻子やすべての兄弟、自分の一族をすべて犠牲にしながら国を愛するのです。そのような伝統の道を行くべき統一の群れなのです。自分の姿勢と処世を忘れて、行くべき道が分からなくなると亡国の情になってしまいます。それほど恨みの多い先生の一生です。先生は今日まで休めなかったので、少し休まなければなりません。眠ることができなかったのです。このような先生の怨恨を誰が晴らしてくれますか。お母様もこの事情は知りません。先生は今日まで昼寝をしたことがありません。一九四五年からの四十年路程は非常に疲れてだるくても、一時間眠ると、その代わりに夜一時間寝なかったのです。私の心が許さないのです。ゆったりと手足を伸ばして昼寝をすることができないのです。心が許しません。そういう先生の目の前であなた方は自分勝手に自由に、気ままに生きてきたのですね。先生が涙を流し、先生が身もだえするそのような事情を編んでいく歴史的路程に召命を受けた者として、皆さんは体面を立てることができない過去の恥を知らなければなりません。その恥を、今年一年を中心として蕩減すべき決意を誓う日々であってこそ、共に神の日を出発することができるのです。そのような使命を前にして出発するきょうが、正に記念の日であり、祝賀の日としての意義があるのです。このことを忘れてはなりません。分かりましたか? (はい)。 皆さんが電車に乗ってどこかに行く時、「あ、電車よ、なぜ早く行くのか。あの家々をあとにしながら、私にこの家々を訪問できる道がないのかなあ、私にそういう才能と知恵があればどれほど良いだろうか」と考えたことがありますか。「あの家々に訪ねていって、すべての門の鍵を開けて、室内に入って主人に会うことができる道はないだろうか、そのようにできればどれほどよいだろうか」と。天が必要とした人であれば、夜を明かして慟哭しながら伝道するのです。過去にそういう戦いをしてきましたし、今もそうしようという心でいっぱいです。私を待っている人々がいるのです。そのように天はすべて準備しているというのです。私が行けなければ天が準備した人々が流れてしまうし、積み上げた天の基盤がすべて崩れてしまうということを皆さんは知らなければなりません。天は準備しているのです。分かりましたか? (はい)。 韓国統一という命題を神様が、先生が掲げる時には、既にそのような準備がすべてできているというのです。見ていなさい。皆さんの力が足りなければ、周辺国家のある大国が、その主権者が霊界から命令を受けて、銃と剣を突きつけて文総裁に従えと命令するような運動がいくらでも起こってくるのです。統一教会の歴史はそのようなことが多いのです。神様は生きておられるのです。ですから、そのような第三の爆発的な作用を起こして、ここから押し上げて爆発させて上がっていくのです。そのように思って、共産党以上に努力しなければなりません。すべてが金日成以上に計画的でなくてはなりません。準備することを知らなければなりません。もし戦争が起きれば、統一教会の食口を雪岳山に集めて、そこに穴を掘って、五十歳以下の祝福を受けた人々に軍事訓練をさせるつもりです。女性をそのようにするならば、男性たちはなおさらです。そのようにしても国を愛さなければなりません。悪人は自分たちの力が強い時には退きません。すべてを包囲されて、退くほかない時にしか後退しないのです。そういう準備をしなければなりません。分かりましたか? (はい)。 私たちは銃や剣をもって戦うことはありません。私たちの武器は愛の武器なのです。北韓の人々が金日成のために尽くす以上の真心をもって、天のために尽くす統一教会の群れになってください。大韓民国のいかなる政党や、総裁のために働く以上に働き、誰もまねることのできないような何十倍、何百倍の誠心を尽くして仕えるだけでなく、崇拝し、賛美することができるこの道にあっては、もはや滅びることはありません。そこに永生があるのです。永遠なる神様の偉業が皆さんを待っているということは、私の生涯を通して証された間違いのない事実なのです。そういう福を受けて滅ぶことのない皆さんとなって、皆さんの一族と共に民族救道の先鋒になることを願います。分かりましたか? (はい)。 これから統班撃破の活動を 決意をしなさい。これから統班撃破の活動において、国民連合と勝共連合を総動員させます。今年からすべて故郷に帰るのです。この前、先生が餅をあげたでしょう。(はい)。そして宴を開くように話したでしょう。(はい)。先生はそのために二十二億ウォンを出したのです。皆さんは故郷に帰って宴を開くのです。そこで全国の人々が統一教会の餅をもらって食べることになるのです。二十二億ウォンといえば大変なお金です。四〇〇〇万人で分けるとすれば、一人当たりいくらになるでしょうか。計算してみてください。(五十ウォンです)。間違いありませんか。五十ウォンでは餅が何個買えますか? (笑い) 二個で一〇〇ウォンであれば、一個五十ウォンですね。四〇〇〇万人が一個ずつもらって食べたことになります。食べる時どうでしょうか。「おいしいのでもっと食べたい」と言いましたか。「一個とは何ですか。三個は欲しい」と言われたでしょう。先生はこのように一個ずつやったのですから、皆さんは二個ずつ加えなければなりません。そうですね。そのようにして三数を合わせるのです。三数は完成数です。すべてがそのようになっているのです。皆さんそうしますか? (はい)。 さあ、先生が恵みを与えたので、これから皆さんは故郷に帰るのです。既に錦衣還郷の宴を開いたのですね。開きましたね。そして、次に故郷に帰る時はどうすればよいのでしょうか。統一教会に入って活躍していても、一人になって故郷に帰った時、何と言われましたか。「何だあれは、見すぼらしくなったなあ、ペッペッペッ」と言われましたか。ですから、今度は全国のすべての責任者を動員して、故郷において大復興会をするのです。一カ所に一二〇名以上はどうしても集めなければなりません。自分の親族たち、いとこやはとこを中心に、村中の人々が集まれば、すぐに一二〇名ぐらいは集まるでしょう。そこで、その村でも有名な私たちの教授がソウルからやって来て、皆さんたちを紹介するのです。「私がここに来たのは、この村の愛国者であり、この村が称賛すべき人物が誕生したためです。その人が誰かというと、皆さんが今まで冷遇してきた、これまで不平の心で接してきたこの人であります!」と、このように皆さんを紹介するのです。その場を通して皆さんの証をするのです。皆さんが国を救うために活動した証をするのです。涙を流しながら皆さんの証をするのです。母と父が悔い改め、兄と姉が悔い改め、近隣の村々すべての人々が悔い改めて、泣き声となるような天の人を歓迎する運動を起こさなければ、この統班撃破運動は不可能なのです。共産党を追い出す基盤をつくることも不可能です。一族が、このようにならなければなりません。分かりましたか? (はい)。 そのために皆さんは、その準備として今から一〇〇軒、一〇〇〇軒を回りに回って、必ず瞬時の間にこれを成すのです。しかし皆さんが家庭教会の基盤をもっていないので、代わりに機動隊を動員して行うのです。彼らが、皆さんの父母や兄弟たちの前に立って、「彼は共に苦労して因縁を契った友達だ!」と皆さんを証するのです。その中には外国人もいます。七〇〇〇名が活動するのです。その中には韓国語がよくできない人もいるでしょう。「ハラボジ」と言う時、「ハーラーボージ」とか「ハールーモーニ」とか、とても変な語調で西洋人が話しかける不思議な姿を見ることでしょう。このようにして黒人や白人、五色の人種が出てきて皆さんの氏族復帰をしてくれるのです。そして共に団結して共産党を防御しようという時に、嫌だという人がどこにいるでしょうか。もし嫌だと言おうものなら、すべての人々に悪口を浴びせかけられるのです。「こいつめ! 国を救おうとする活動に対して何ということだ。とんでもない息子をもった者だ!」と言うのです。そのようにおじいさん、おばあさん、すべてが一つになって攻撃してくる時、それでも堂々と「私は正しい!」と主張し続けられる人々がどこにいるでしょうか。それでも反対する人は追いやって一つの枠の中に入れて、早く組織編成を急がなければなりません。急がなければ大変なことが起こるというのが先生の予感です。分かりましたか? (はい)。 先生はただ急いでいるのではありません。皆さんは天が見ても恥ずかしくなく、先祖たちが見ても恥ずかしくない天の祝福を受けた息子、娘たちとして誇れる行動が必要です。そのようにして、統班撃破という共産党防御のための総選挙時代に向けての橋頭堡を編成するのです。このような恐るべきことを成しているということに誇りをもって、前進に前進を誓いましょう。アーメン。(拍手) それを誓う人は手を挙げてください。皆さんはきょうの「神の日」、一九八九年一月一日、最初の先生の「神の日」の記念辞と共に手を挙げたことを忘れることなく、誓ったそのごとく遂行してください。先生はそのように信じています。では祈祷しましょう。 祈祷 愛するお父様、私は今、韓国の地に帰ってきて、この場に立って新年を再び迎えました。恨み多い歴史の中で、このような日々を迎える時に、責任を全うしていないという恥ずかしい姿で、自分の姿勢を支えることのできないような、心のあえぎを止められないような、同じ心情がきょうも再び継続する思いです。このような立場に立っていることをかわいそうにと見ておられるお父様、明日も前進して、私たちの日を誇りの日として、お父様の前にささげる何かを探すために、近道を行くためにあえぎながら、その群れが津々浦々の街々の角に現れる時、いかなる嘲弄や誹笑に対しても、私たちは決して気落ちする群れになってはいけません。今まで受けた嘲弄と誹笑があまりにも多かったので、それ以上の嘲笑を受けても、私たちは越えることができる体験をもった群れなのです。 今朝、南韓と北韓を一つにするために、「韓国統一」という命題を出しました。四十三年前にキリスト教とキリスト教の国々が、天の前にその責任を果たすことができなかったすべてを、再び蕩減しなければならない時が来たので、南北は分かれてしまったけれど、今や祖国光復を成し遂げるために、南韓の地は統一教会と統一教会の文総裁の思想でなければならないということが、今や朝野のすべての喊声として聞こえてくるこの時代、この時点に臨んでいることを知っておりますので、私たちは鼓舞堂々と、大胆なる心をもって、強くて雄々しい実体となって、いかなる怨讐の敵陣の前にあっても、強く雄々しい勇将の姿勢をもつ息子、娘になれるように許諾してください。天の兵士になれるように許諾してください。 どこの誰よりも天が誇ることに、恥じることのないだけではなく、神様が愛することにも恥じることのない、深い心情的内容をもった息子、娘となって、その息子、娘が寓居する家に訪ねて行って、共に一夜を明かすことができる所を神様がどれほど願ったことか、またどれほどそういう息子、娘を探しておられたかということを知っておりますので、走って、また走って、疲れて倒れて、夕飯をも忘れて、服を脱ぐこともできずに横になってしまう、そのような姿を天が心から慰労するというこのことを、ここに参席した人々が忘却しないように許諾してくださることを懇切にお願い申し上げます。 私がそういう日を恋しく思い、忘れることができずに一生をささげて、受難の道も山の峰々を越えつつ耐えてきて、神様の前に褒められることのできるような歴史的事実をすべて清算したことを、忘れないように許してください。このように、この人々の心情的紐帯を感じて体恤できる以上は、その道を引き継いで、彼らが天と地の前に恥ずかしくない神の息子、娘たちになることができるように助けてくださることをお父様、懇切にお願いいたします。 全世界に広がって、父母様を思い焦がれ、多くの人々が会いたくて夜を明かしながら泣き叫ぶ声を聞くごとに、天の哀惜なる心情を晴らすことができなくても、彼らを慰労しなければならないことを思う時に、この場にも、そのような群れが共にあり、天が訪ねてくださり、保護してくださり、守ってくださることを、忘れないように許諾してください。 死の場をも自ら探して行く者においては、死なんとするもの生くるというみ言のように、み言と事実が一体化することを私たちの生活の中で数多く体験し、数多く見てきました。そのような昔過ごした記憶すべき日々を忘れずに、残された今年からの四年路程、一九九二年度までキリスト教を収拾し、この国を収拾して、天の主権を回復させて、天の前に立てなければならないという、その責任がキリスト教と統一教会にあるにもかかわらず、キリスト教は深く寝込んでしまい、自分たちの行く方向にかかわらず統一教会を怨讐視し、この団体を崩すために昼夜あえぐ狼のような群れになっている事実を見た時に、私たちの努力と精誠がそれ以上及ぶために、さらに努力をしなければなりません。そして彼らを感化させ、愛の炎を至る所にともさなければならないという、天の命令を担当するということを、責任をもつ群れたちが忘却しないようにお父様! 切にお願いいたします。 今年の初日を出発しましたので、三六五日、その日その日々が統一教会にあって気を抜くような日が一日もないように、統一教会の食口たちが誇れる日々として、その一代において輝かしい歴史に残せる日々として、記憶する日々を残せるように祝福してくださることを、切にお願い申し上げます。 決意したすべてのことを、これからその胸深くに秘めて、故郷に帰ってから粛然とした姿で子息たちを集めて、父母たちの前に自分の一家に、師の懇切な勧告がこの国を助けることのできる道であり、この国を守ることのできる守護の道であることを、真正に告白しながら、彼らを収拾して天の眷属圏内に結束できる責任遂行を許諾してくださるように切にお願い申し上げながら、これらのすべてを真の父母様のみ名によってお祈り申し上げました。(アーメン)。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.08
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「韓国統一」(その2)--1989年、年頭標語1989年1月1日 個人的十字架の道 先生の歩む道において、神様は歓迎しませんでした。放ったらかしにされたのです。協助することができなかったのです。もし協助した日には、キリスト教を救うことができなくなるのです。分かりますか。キリスト教を再び救うことができないというのです。私はそれが分かっていたのです。ですから、神様は私を打ちながらキリスト教を保護してきましたし、私に苦労させながら韓国キリスト教を育ててきたのです。それはなぜかというと、もしキリスト教が打つこの私を神様が保護した時には、もはやキリスト教は神様に保護されないからです。二つを保護することはできないのです。それで先生を放っておいたのです。ですから先生は迫害を受ける中で、本来の立場まで上がっていかなければなりませんでした。 個人的迫害、家庭的迫害、氏族、民族、国家、世界的迫害を受けなければなりませんでした。個人的迫害であっても世界を代表したサタンが総動員して打ってくるのです。ですから、監獄が個人基盤を築く縦的基盤になったのです。縦的神様の愛を中心として、地上地獄の上に神様の縦的心情圏を残すために監獄に入って戦ったのです。これが神様の前に一番の最短距離なのです。このような場に入って個人的に勝利しなければなりません。そこでは個人的にこの体と心を中心として、苦痛を否定する戦いだったのです。 体と心がここで、九十度の角度で出合わなければなりません。縦的基準を中心として、すべての世界的版図圏である横的基準を、心の縦的基準に合わせた九十度の角度による生活圏をもたなければならないのです。そうして、その環境のすべてのものを自分の兄弟のように愛し、自分の家庭に神様が願ってきた願いを代表する家庭の一員のように、獄中生活をしなければならないというのです。その獄中にいるすべての囚人たちがお兄さんであり、お姉さんであり、弟や妹であり、お父さんであり、お母さんであり、おじいさん、おばあさんであるように侍る心情がにじみ出なければなりません。このことを勝利せずしては、個人解放がされないのです。ですから、父母の位置を代身した統一教会の文先生は、個人的十字架の道を行かなければなりませんでした。それで韓国において、個人的に国家の十字架の環境を克服しなければならなかったのです。何の話か分かりますか? (はい)。 一九五五年七月四日の梨花女子大事件を通して、国家が総動員して、文総裁を捕らえようとしたのです。当時、東亜日報は支持していたのに、反対する五人の長官が文総裁を捕らえて殺そうと計画したのです。李承晩政権を中心として、そのようなことをしたのです。しかしどんなに調べてみても、先生には罪がないのです。ありとあらゆる凶悪な罪に陥れようとしても何一つ罪に引っかかるものがないのです。そこで、兵役法違反だとか言って、罪に陥れようとしたのですが罪にならないのです。それで無罪で釈放になったのです。しかし、無罪で釈放されたというその事実を、既成教会の信者たちは一人も知らないのです。その時、今日のように宣布しなければならなかったのですが、今のような時代ではなかったのです。このように、私が行く道には、世界的基準を中心として背負わなければならない十字架が残されていたのです。 個人的十字架において敗者にならず、勝利者になったからといって自慢してはなりません。その個人的勝利の基盤の上に家庭的十字架が訪れてくることを忘れてはなりません。自己満足をするなというのです。その時、劉協会長や幹部たちが声明を出し、反旗を掲げて攻勢することもできたのです。誰もが攻勢することのできる個人的闘争時代だったのです。さらに家庭時代を経て氏族、民族時代を越えていかなければなりませんでした。 ですから、大韓民国において、国を愛する一番の愛国の宗教団体は統一教会だけであると言わせなければなりません。さらに、歴史始まって以来の愛国者は文総裁であるということが、世の中に広がらなければなりません。知識人たちもすべてそのことを聞いて、心から頭を下げるようにならなければなりません。そのような時代が来たならば、統一時代が訪れたということを知りなさいというのです。 神様の御加護によって、縦横の理想が初めて訪れてくるのです。水平線満潮時代が訪れてくるのです。水が引いていくのを見る時は、「やあ、水よ。早く引いていけ、早く引いていけ」と言うけれども、それらがみな引いていってしまうと「おい、引いていくな! 止まれ、止まれ!」と言うようになるのです。止まれ、止まれと言うその時は、既に潮流が満ちてくる時なのです。止まるなと言っても止まらなければならないのです。そのように力が止まって歓迎する時代になったならば、統一教会の文先生の時代が訪れたことが分かるのです。(アーメン)。(拍手) その潮流は西洋や東洋が問題ではありません。世界的潮流が国家的環境を越えていく時には、アジアに流れ込んできていた西欧文明を反対に押し出すようになるのです。世界の潮流が変わっていくのです。 世界的潮流の逆潮時代 それで、文総裁がアメリカに行って成したことは何かというと、世界的西欧文明の潮流をすべてアジア的潮流へ引き込んだのです。今までは全部アジアから盗んでいったのですが、これからはアジアに引き込むのです。引き込むとき、一番目の国がどこかというと、日本なのです。日本がエバ国家としての祝福を受けたのですから、アダム国家を訪ねていくためには、日本を経なければなりません。かつては、エバが堕落したことによって、すべての万物と権威をみなサタン世界に奪われてしまいました。その回復時代を迎えて世界潮流の逆潮時代に入ってきたのです。昔、英国が陽の沈むことのない国だと言われたように、これからこの日本の圏を中心として、すべての権限がアジアに集中してくるのです。これからの世界は、日本に従い、韓国を経て、大陸へ向かうようになるのです。その競争が始まるのです。 それがなぜそうなるのか分かりますか? もし二〇〇〇年前、イエス様が十字架上で亡くなられなかったならば、どのようになっていたことでしょうか。その当時を考えてみなさい。イエス様が生まれる前に、エジプト文明圏、メソポタミア文明圏、中国文明圏、インド文明圏などが準備されていたのです。イエス様の誕生の五、六〇〇年以前から、イエス様が天下を統一することのできる宗教的環境をみなつくっておいたのです。ですからその時に、もしイスラエルの国とユダヤ教がイエス様を信じたならば、そして一つになっていたならば、当時ローマ帝国の前に中東地域は政治的疲弊が起こって弱化されていたので、現在のアラブ圏はイエス様によって、完全にイスラエルの十二支派を中心として一つになっていたのです。 インドと中国は、強国ローマに対抗し、中東を支援するようになっていたのです。このようにイエス様を中心として、中東のアラブ圏が統一されるのと同時に、大陸のインド文化圏と中国文化圏が、カイン・アベルとして統一王国圏に向かっていくようになっていたのです。ところがイエス様を不信したことによって、アジア圏を全部を失ってしまったのです。外的なイエス様の体を失ったことによって、反対にサタンのローマに引きずられていったのです。本来インドと中国の保護を受けて、エジプトやメソポタミア文明圏などのすべての宗教圏の支持を受けなければならなかったにもかかわらず、自然神を中心としたローマに全部売られていったのです。 そしてそこで戦って、どこに戻っていかなければならないかというと、ローマの西側に向かってアジアへと戻っていかなければなりません。それで、ポルトガル、イギリス、アメリカを経て、回り回って、今日ようやくアジアへと戻ってきたのです。そこで、イギリスと対になるのが日本であり、イタリアと対になる半島文明圏が韓国なのです。ですから今日、世界情勢において韓国が問題になってきているのです。もしこの韓国が滅びるようなことになれば即、世界も滅びるし、韓国が栄えるようになれば世界も栄えるようになるのです。このようなすべてのことが、今回のオリンピック大会によって、内外すべてにぴったりと合うようになったのです。そのことを詳しく話すには時間がありません。 このようにして、逆潮現象により西欧文明がアジアの権威に吸収されて、今ではアメリカが付いてくるし、すべての西欧の人たちが付いてくるのです。日本人たちまでも、「行きたい、行きたい」と言うのです。何を中心としてかというと真の愛を中心としてなのです。愛の故郷に帰りたいと思う、本源地、人類の理想の本源地と本拠地を失ってしまったのです。しかしそれを再現して、神様は立てようとされるので、人間は必ず、愛による家庭を中心とする一つの本郷地である祖国を探し求めて彷徨するようになるのです。それで統一教会においても、韓国の人でなければ結婚したくないという風潮が起こってきたのです。愛の潮流が位置を確保し、このような愛の潮流による故郷を中心とした氏族編成を連結した、民族を形成し、さらに国家形成時代へと世界の潮流は急変してきているのです。 かつて日本人は韓国人を怨讐視してきたのですが、今や自分の民族以上に愛する心をもたずしては、天国に行けません。その原理を越えるために、日本人が愛する相対として韓国人を選んだということは、自分の国よりも怨讐の国を愛するという条件を立てたことになるのです。蕩減原則に従って、それを成さずしては天国に入れないのです。そのために自然的な環境与件を整えて、地上世界の現実的舞台に実現したということは、神様の理想圏が地上に臨んだという事実を証するものです。 それでは、そのような結婚の主体が誰なのかというと、エデンにおける神様なのです。「あなた方はお互いに好きなのでしょう、そうでしょう? あなた方を対に結んであげましょう」と誰が言いますか。アダムが言うのですか? 誰かが結婚させてくれなければならないのです。それとも自分勝手に結婚してもよいのでしょうか、どうですか? しかし自分勝手に、そのようなことが起こったのです。アダム・エバが個人的に堕落したことによる、偽りの愛によって始まったのが今日の世界的なフリーセックスなのです。このような愛の混乱時代を迎え、悪魔の巣窟になったこの世界の上に、新しい本然の伝統的愛を中心として、世界の潮流を越え、民族的伝統を越え、歴史的背景をけ飛ばして、万国の人々が、万国家が、共に集うことのできるような地が現れるならば、その地が人類の本郷の愛の泉がわき出る地であるということを知るべきです。また、愛を探し求めてさすらう人類の祖国になるということを知るべきです。そして、その地こそがまさしくこの韓国であったというのです。 今日まで先生は、「韓国統一」いう言を語ることができませんでした。今や「祖国統一」という言は可能になったのです。定着時代が訪れてきたのです。これからは「韓国統一」なのです! それで先ほども語ったように、旧約時代の七〇〇〇名、新約時代の七〇〇〇名の蕩減として牧師たち七〇〇〇名がやって来たのです。これから二世たち七〇〇〇名を中心として、世界から韓国に接ぎ木されに来るのです。それで十日までに、七〇〇〇名が家庭をもつために韓国に来るのです。分かりますか。家庭基盤の上に立った七〇〇〇名が必要なのです。イエス様の結婚理想によるところの、新郎新婦理想を成す七〇〇〇の群れの理想圏を中心として、氏族編成、民族編成、国家編成、世界編成の代表者を立てるのです。神様はこれを失ってしまったのですから、これを蕩減せずしては統一教会の文先生がどんなに素晴らしいといっても、天上世界の道理をこの地上世界に連結させることはできないのです。すべては蕩減法によって解決されるのです。牧師七〇〇〇名が終わったので、これからは二世たち七〇〇〇名がやって来て、結婚するのです。 きょうは聖日ですね。(はい)。五時まで話して終わりましょうか。(笑い) いっそのこと、私が「きょうは神の日だ! きょうは神の日だ!」と両手を挙げて宣言さえすれば、一分間ですべてが終わります。神の日は、何か特別のことがあるのではありません。愛のみ旨を成すために神の日を立てたのです。 さて、世界的潮流から見た時、個人的家庭を中心として堕落していた者が、亡国の僕から愛国の僕に変わるために、国家的愛の果実となって、アダム国家とエバ国家の二世を中心として何千名もの者が一度に結婚したのです。今や国家的結婚時代が来たのです。ですから、亡国の僕ではなくて、愛国の僕になるのです。これから神様の愛の摂理によって戻っていくのです。エデンの園において真なる夫婦として出発したならば、このようなこともなかったのです。しかし偽りの父母となって種を蒔いたので、この万国に広がったものを蕩減復帰するために、国家的次元でアダム・エバ国家が完全に一体となり、その愛の基盤の上に世界国家が立つならば、絶対にサタン世界はそれ以上、上がることができないのです。そしてこの道理を歓迎する民族はすべて解放されるのです。 それで文化オリンピック大会の開かれる一九九一年には、世界の人たちを集めて、国際合同結婚式をするというのです。分かりますか? (はい)。それを伝統にするのです。統一教会の結婚式が一番素晴らしいのです。二人で鳩のようにちょこちょこ歩き回わるのです。それが数千名もいるのですから、どんなに素晴らしいことか分かりません。先生がそのような伝統をみな立ててきたのです。 統一教会の冬の季節 さあ、このようにして旧約時代、新約時代を経て、成約時代に至って、御父母様がこの地上に来られるようになり、アダム・エバによる千秋の恨みを解いて、この地上に春の日を迎え、花が咲き、実を結ばなければならない時が来たにもかかわらず、冬の季節を迎えてしまったのです。かつて統一教会は冬の季節を迎えました。 それで再び、誰かがこの人類歴史の道を行かなければならないのです。しかし誰も行く人がいないのです。この道を引き受ける人が、誰一人としていないのです。キリスト教の牧師でもできないのです。誰もいません。この道を行くことのできるのは国の主権者でもありません。先生だけが行けるのです。他に行ける人がいないのです。このような再蕩減の四〇〇〇年路程を行くにも、四十三年間でもって行かなければならなかったのです。 この復帰の道を行くには、まず僕の僕の道を行き、その次には僕の道を行き、養子の道、庶子の道、直系子女の道、さらにお母さんの道とお父さんの道を歩んで、神様への道を歩んで行かなければならないというのです。このような八段階の道を越えていかなければなりません。このことは既に学んだでしょう? (はい)。これを縦的に逆に上がっていかなければなりません。逆に上がっていくためには、まず一番深い層に落ちなければなりません。 それが分かったので、先生は三十代までそのような訓練をしたのです。農村に行けば農民を中心としてこのみ旨を成すのです。工場に行けば労働者、職工を中心としてこのみ旨を成すのです。そのような歴史があったのです。私はどこに行っても、グループをつくることにおいて天才的な感化力をもった男なのです。分かりますか? うん、分かりますか、何の話なのか? (はい)。飯場に行っても、三日もたてば、私は仕事をしなくてもよくなるのです。なぜかというと彼らのすべての事情を誰よりもよく分かるからなのです。またある時は、私が観相も見てあげたのです。そして、「あなたのお父さん、あなたのお母さんはこういう人だ」と言ってあげたのです。霊界の焦点さえ合わせておけば、すべてが見えるのです。ですから、先生には国の運勢を測り、世界の運勢を測ることのできる素質があるのです。何の話か分かりますか? (はい)。そのように歴史を貫いて見るのです。 そう、先生の目は小さいでしょう? (笑い) 自然に引き締まっているのです。(先生がしぐさされる)このように飛び出していて目が小さい人は、精神力もぼんやりしているのです。そして、目が大きくともこのように裂けている人の目は、鳳凰眼といって万民を従える能力があるというのです。こんなことは知らないでしょう? (笑い) 私は観相学を勉強したのではありませんが、どんな観相学、肖像学をも話してあげられるのです。私はおもしろい先生ですか、おもしろくない先生ですか? (笑い) 昼間会ってもおもしろいし、夜に会ってもおもしろいし、夕方に会ってもおもしろいし、いつ会ってもおもしろいのですね。また、誰を見てもよく当たるのです。ちらっと見ただけでもすべてその人が分かるのです。 私のような人がもし悪い人になったならば、既に世界を滅ぼしていたかもしれません。そのような素質をもった先生なのです。神様は私のような者をよくも選んで、利用されたものです。神様はそのように立派だというのです。どうして私のような者を世の中から奪ったのでしょうか。神様は一度捕まえたら無慈悲で死ぬまで放さないのです。死んでも放さないというのです。ですからこのみ旨を引き受けても、今日までこのように自ら実践して勝利の版図を築いてきたのです。(アーメン)。(拍手) しかし今日まで、栄光の父母ではなくて、すべてにおいて追われてきたのです。父の位置を失ってしまい、亡国の僕となって、怨讐の世界に行って、監獄に閉じ込められ、飯場に押し込められ、捕虜と同じように利用されてきたのです。私の背には労働者の名前があるし、農民の名前があるし、すべての悲惨な人々の事情をみな受け継いでいるのです。そのような所から上がってきたのです。こういう事情を知らなければなりません。ですから養子の悲しみが分かる人なのです。庶子の悲しみが分かる人なのです。 こうして縦的に逆に上がっていくその仕事を誰がするのかといっても、誰もする人がいないのです。私しかいないのです。父が歴史を滅ぼしたので、父が責任を負わなければならないのです。父が責任を果たせなかったことにより、母が滅びたので、父が責任を負わなければなりません。それで父の名前をもって僕の僕として来たのです。それを知らなければなりません。サタン世界の皆さんの父母や、皆さんの知人が私を足でけ飛ばしてきたのです。皆さんがそのことをしたと同じなのです。そのような僕の僕を経て上がってきたのです。 ですから、皆さんが雪の降る日、あるいは霙の降る日に、道端の詫びしい姿の労働者を見たならば、その人が先生であることを連想しなければなりません。「私たちのお父様があのようなことをなさったのだ」と思うのです。そのようにして、軒下で夜を明かしたことがどれだけ多くあったかを知らなければなりません。家がなくてそうしたのではありません。荒地に追い出された逃避者の身の上で本郷の地を訪ねていくその道が分からず、羅針盤もないし、教えてくれる師がいなくても行かなければならない運命のゆえです。それを考えれば眠ることが何ですか! 夜が何ですか! 皆さんは、それが分からなければなりません。先生は乞食の真似もしたのです。乞食の巣窟に入っていって、乞食たちに先生が稼いで食べさせたりもしました。このような話をする必要もありませんが……。 このような血のにじむような歴史過程を踏んで、勝利の栄光の位置を追求してきたのです。そのような歴史を考えながら、その歴史の同調者に全部なれなくとも、賛美者にならなくてはなりません。そのためには、涙を流して形だけでも真似ていかなければならないというのです。そのような縦的基準を築いていけば、これからはサタンがどんなに打とうとしても打てないのです。先生は縦的な道において、僕から養子、庶子と、神様の心情まで上がっていく中ですべて打たれてきました。しかし、どんなに打ってもこの私を屈伏させることはできませんでした。 北韓の興南の肥料工場に行って仕事をした時、冬になるとアンモニアでこのようになるのです(先生がしぐさされる)。興南はどんな所かというと、風が吹くと砂利が飛んでいくのです。朝八時に出発するためには、約一〇〇〇名に近い人を全部検査しようとするので、四時に起きなければならないのです。四時に起きてその運動場に並び、風が吹く所で薄い服を着ていると、寒くて震える音がぶるぶるがたがたと聞こえるのです。その悲惨さを何にたとえることができるでしょうか。そのような共産主義を私の手で滅亡させると誓ったのです。 私はその哀魂を知っています。そこで、私が精誠を尽くして涙をもって教えていた人たちが、獄中でたくさん死んでいったのです。そんな所でも、この先生の名を呼びながら「私の父母にこのような頼みを……。私はこのように死ぬけれども、先生と一緒に良い日をもてたことを、思い出してくださる日の来ることを願っています」と言って、死んでいった人たちがたくさんいました。どんなにひどくおなかが空くのかと言えば、飯を食べる時、口に入れて噛みながら死んでいったのです。そうすると、その横にいる人々がその飯を互いに口から引っ張り出して食べるのです。それは皆さんには理解できないものです。 そのような位置から父母にならなければならないし、そのような位置からお兄さんにならなければならないし、そのような位置から、私がこのように生きているのであなた方も倒れるなと言える標本にならなければなりませんでした。ですから先生は、そのような場で毎回表彰を受けてきたのです。一番難しい仕事があれば私がその仕事をしたのです。互いに楽な仕事を求める中で、私は一番難しい仕事を探して回ったのです。 監獄の中で救世主になれなくて、平和な時代の救世主であるという人は偽りの救世主なのです。監獄の中でも、平和の救世主の権威を備えることによって、平和の世界では、救世主ではなくて君主になれるのです。王権を中心として万国を指導できる永遠なる基台となれるのです。「獄中の聖者」だといって、興南監獄にいた人が私について書いた本があることを知っています。私には牢獄は恐ろしい所ではありませんでした。どれだけ鞭が恐ろしく、どれだけその環境が残忍だとしても、真の愛を慕う私の心を占領することはできませんでした。神様を呼び、父を呼び、神様のために生きる、神様に向かう私の心を折ることはできませんでした。その力とその愛の欽慕に彼らが折れたのです。 先生の勝利圏を中心として その力を中心として私は、縦的な段階を解放するための強固な基台を築いたのです。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界的な基準まで全部築いて上がってきたのです。このような勝利基台をもった先生に対して、アメリカは打とうとしたので自ら飛んでいったのです。その次に民主世界が先生を打とうとしたので吹っ飛んでいったのです。このようにアベル圏が先生の勝利圏を中心として飛んでいくようになる時には、共産党は下がっていかなければならないのです。原理的に見た時、今後韓国民族が先生を慕って、一つになる時が来れば、アメリカと大韓民国がカインとアベルになるのであり、アメリカとソ連はカイン・アベルになりません。ですから、ソ連は自動的に下がっていかなければならないのです。 そこで私が一九八〇年度に、高速道路を中心として中国に宣布したことが何かといえば、「科学技術の平準化」なのです。 私たちは、国家の世話になって天の復帰摂理をするのではありません。私たちの力で成さなければならないのです。なぜ国の世話になりますか。私の父母であっても、その世話にならないために私は家を捨てて出てきたのです。さらにこの大韓民国の世話にならないために、私たちは外国に出ていって基盤を築いてきたのです。そうですね。(はい)。そのように基盤を築いてきたのですが、今では私に必要ありませんから、この基盤を大韓民国の人たちにあげて、それで食べたければ食べさせるのです。勝手にしなさいというのです。もしいらないのであれば、世界の人たちに分けてあげるのです。「世界の人たちに分けてやる」と言うと、一昨年からは「ああ、先生、そうなると韓国が大変なことになります。世界に築いた基盤をどうされるのですか。韓国を助けてください」と言ってきているのです。韓国を助けて何をしますか。泥棒になるのですか。正義に燃える国民になるまでは、私も助けてやることができません。正義に燃える男たちをして、前線に押し立てて、悪党の群れを追い出して統一韓国をつくるというのが先生の主張なのです。それに協力しますか? 反対しますか? (協力します)。協力するのですか、反対するのですか? (協力します!)。日本のメンバー!(日本語で)「聖書の教えは簡単である。地球をすべて犠牲にさせても南北統一、韓国統一国家を願うものである。犠牲になってもそれでいいと言うんだね」。(イエス!)。ヨーロッパのメンバー!(先生が英語で同じことを語られる)同じでしょう? 全部が「イエス」なの? (イエス!)。 韓国の者たち! 先生の代わりに南北を統一する愛の勇士に成ることができますか! どうですか! (成ることができます!)。成ることができますか! (はい!)。今まで、いつでもできると言ってきて一度でも成し遂げたことがありますか! 先生はやると言えば必ずやり抜いてきたのです。それでも先生の息子、娘ですか! 虎の子ですか、猫の子ですか、カマキリの子ですか! (虎の子です!)。(笑い) ずうずうしいね。(笑い) 誰にも負債を負ってはなりません。なぜ負債を負いますか! 第五共和国の全斗煥も私が下ろしたのです。朴普煕、覚えていますか、思い出したでしょう。(はい)。アメリカに行っても、アメリカの政治史の背後を私がつくったのです。日本の政界もです。これらは世界の背後の秘話ですが、歴史は必ず明らかにされるのです。文総裁はアジアに生まれて、近代政治世界に、経済世界に、文化世界に除くことができない歴史を残してきたのです。 大学街にしてもそうです。私がアメリカに行く時、すべての大学基地をつくっておいたのです。ヨイドに私たちの宣教本部用地をつくっておいたのです。清平に国際修練所の基地をつくっておいたのです。私として成すべき責任はみな果たしたのです。もし私が死んだとしても、それらのものはこの大韓民国に残されているのです。天地が見ても恥ずかしくない自らの自主的責任を成し遂げておいてこそ、出世を願い発展を願うべきであって、自分の責任が果たせないのに欲が先立ってはいけないのです。分かりましたか? (はい)。若い人たち、一線でやりますか? (はい!)。先生は三十歳までは苦労させようと思うのです。目が馬みたいに飛び出るほどに……。上等な馬がそうなのです。目がポンと飛び出ているのです。目がスーッと入り込んでいるのは良くない馬で、それは使えないのです。使える馬は目が飛び出しているのです。目を見れば分かるのです。君たち、三十歳前までは教会から報酬をもらって使うことなど考えてはなりません。まず先生のことを考えなければなりません。そして激しい戦いを一人で戦う決意をして出ていかなければなりません。分かりましたか? (はい!)。 この先生は、どんな飯場に行って荷物を背負っても、誰にも負けませんでした。今でもそうです。けんかでも誰にも負けなかったのです。ですから街でチンピラたちがけんかしていても止められるのです。私はやってみなかったことはありません。悪い意味ではなくて良い意味です。人はどこに行っても自立しなければなりません。世話を受けて生きる人は滅びるのです。僕になるのです。分かりましたか? (はい!)。 私は今年七十歳です(数え年)。七十歳の高齢のおじいさんのような立場になったのですが、私の心はおじいさんではありません! 今回もハワイでアメリカ人や日本人など、各国の人々を全部集めて連れて回ったのですが、みな私が眠らせないものだから、私よりも先に居眠りしているのです。船に乗りながらこうしているのです(先生が居眠りの真似をされる)。「この者たち! これ! 何ですか!」と言いながら、訓練をしてきたのです。私の顔は真っ黒に日焼けしているでしょう? (はい)。なぜ日焼けしているのか分かりますか? 韓半島を太平洋に引っ張り上げ、アメリカ大陸までくっつけて、その次に島嶼と海洋を中心として全世界を覆いかぶせて帰ってきたからです。魚と人はみな神様の所有なのです。 人類の本郷の地は韓国 それで韓国統一が祖国統一なのです。今までは祖国だと言ってきましたが、韓国という言を言えなかったからです。今からは韓国統一です。分かりますか? (はい)。祖国がどこですって? (日本語で「日本のメンバー、祖国はどこですか?」。(韓国!)。)(英語で「ヨーロッパのメンバー! 祖国はどこですか?」。(コリア!)。)コリア。今この時間に、初めてコリアが全人類の祖国だということを宣布します。分かりましたか? (はい!)。すべての人類の本郷の地は韓国なのです。しかし、それは自然にそうなったのではありません。韓国民族は五〇〇〇年歴史を通して、犠牲になった民族なのです。多くの血を流したのです。解放以後も四十年間黙々として常に様々な国々の被害を被りながら、文化の侵略、経済の侵略、権力の侵略の中でいつも苦しみあえいできたのです。これには神様のみ旨があったのです。もはや私が滅びない限り、韓国は滅びることがありません! そのようにして一九七七年を越えてきたのです。そしてアジアの時代が訪れたのです。それでアメリカにおいて一九七六年度から十二年間、一九八八年までに私が西欧社会に足を踏み込み天地の度数に合わせ、アジアに向かう道を切り開いてきたことによって、今や韓国の時が訪れたのです。十二年間でこのように韓国が発展してきたのは、韓国人が優れているからだとでも思うのですか。大統領が成したとでも思うのですか。神様の保護によるところの、神様が再び世界の祖国基準を探し求めるみ旨があったがゆえにそうなったのです。福が何ですか? 滅びるしかなく、追い詰められるしかない一番貧しい民族なのです。他が良くなることを嫌う民族なのです。ですから、文総裁はその反対に他が良くなることを願ってやってきたのです。 大韓民国の人は他が良くなることを嫌がりますが、私は世界の人々が私たちよりも良い生活をすることを願ってきたのです。このような主張こそが、歴史的韓民族の自主的な主張を越えて、天の側になることができたのです。韓国を代表として立てて、天地の運勢を韓国に着陸させることができたのです。(アーメン)。ですから、今後この国は、私の言うことを聞かなければ滅びます! 結論は簡単なのです。私の言うことを聞かなければ滅びるのです! これからアメリカも私の言うことを聞かなければ滅びるし、そして日本も私の言うことを聞かなければならないし、中国も私の言うことを聞かなければなりません。今や日本も私の言うことを聞く段階に入ってきました。アメリカも入ってきました。中国も入ってきました。韓国もそうなる時が訪れたことを知らなければなりません。 この国を十四年、十五年間任せられていたその位置にあって、責任を果たしたならば、この国はこのように悲惨な国にはならなかったのです。アカデミーに対しても私はどんなに願いを託してきたか知れません。もう何年になりますか? (十五年になりました)。十五年間という歴史は簡単なものではありません。それが分からなければなりません。このアカデミーによって、私が利益を得たものは何かありますか? 私は統一教会のためにやってきたのではありません。国を生かすためなのです。ですから皆さんたちの息子、娘がみな一体となって、国家を協助することができていればどんなに良かったことでしょうか。今日私が、故郷復帰のための郷土学校をつくるという仕事もしなくてよかったのです。 もし私が死んだとしても、世界のすべての国の人々が、私の墓に訪れてくるようになる基盤を築いておいたのです。学者の世界でもそうだし、政治家の世界においてもそうだし、みなそのようになっているのです。労働者も、農民もそうなのです。そのような世界の運勢が、韓国に押し寄せてくる時代にあって、この大韓民国の国民として生まれたということは、五〇〇〇年の伝統的歴史過程で誰よりも血のにじむ犠牲の代価を払ってきた神様のゆえなのです。その神様は、多くの国の中でこの国を選び、また私たちのような人間を選んだのです。そのために何世紀も前から準備していたという事実を考えた時、この民族は、ひざがすり減るほどにひざまずいて合掌し、天に感謝しなければならないのにもかかわらず、反対してきたというのです。そこでもし私が憤ったならば、この民族は既にめちゃくちゃになっていたのです。知らずして反対するのではなく、胸襟を開いてすべてを知ったのちにおいて、反対するならば反対せよというのが先生の願いでした。この政治家たち! これは深刻な問題なのです。 このことは旧約時代、新約時代においてもそうだったのです。ですから今日まで、御父母様の名で私がこの地にやって来て、十字架の道を行ったのです。愛の十字架の道を行ったのです。愛でもって万民の前に分けてやるのです。これに反対すれば、人類は許されない罪を犯したとみなされるのです。しかし、父母を父母と分からないのですから、私が教えてやらなければなりません。分からないうちに罰を与えることはできません。父母がどのような内容であり、またどのようにしてその子供になったのか分からないのだから、ただ打つことはできないのです。そのような心情をもって分かるようになる日まで待っているうちに、四十三年がたち七十歳になったのです。 今では韓国も大きく変わったのですね。今や先生が死んだとしても、統一教会の後世たちに殉教はありません。今までは殉教した人々が何人もいるのです。それをどうするのかというのです。そこで先生は殉教した人の名前を忘れてしまおうとしたのです。その国の名前は記憶するにしても、殉教した人の名前は忘れてしまおうとしました。それはなぜかというと、その国のために送った人であるならば、その国を救ったのちに死ななければならないのに、救えずして死んだのでは責任を果たせなかったということになるからです。そのように見るのです。ですから、この国が開放される時まで、私たちの責任であると見ているのです。 私の前には多くの怨讐がいます。既成教会の怨讐も多いのです。しかしみな忘れてしまおうと思います。悪口を言われたことも忘れてしまおうと思います。鞭打たれたことも忘れてしまおうと思います。すべての憤ることを忘れてしまおうと思うのです。それはどんなに苦痛なことか皆さん分かりますか。しかし忘れざるを得ないのです。でなければ救援摂理が拡張されないのです。 それで、この地上における父母としての責任を果たそうとして、愛の十字架を背負い、個人からけ飛ばされ、家庭からけ飛ばされ、氏族からけ飛ばされてきたのです。それは正に、共産党の行う人民裁判です。個人的な人民裁判を受けているかのように冷遇されました。家庭的にも、統一教会の家庭だということで、アメリカにおいて先生の家庭が苦痛を受けたのです。父母はもちろんのこと、息子、娘たちまでもが学校に行けば、他の子供たちがついて回り、「ムーニー、ムーニー」と言って冷遇したのです。このように、家庭が十字架を背負わなければなりませんでした。私個人の十字架はもちろんであり、お母様も個人的十字架を負わなければなりませんでした。さらにまた、家庭を中心としての世界的十字架を負わなければなりません。そのために一九六〇年度から三次の七年路程の間、先生は家庭を率いて、世界の十字架の舞台に出て立ったということを知らなければなりません。皆さん、三次の七年路程が何んだか分かりますか? そういうことも知らなかったでしょう? 四大名節の決定とお母様の十字架の道 なぜ、一九六〇年度に先生が結婚しなければならなかったのか。なぜその前にはできなかったのか分かりますか、もし、この国で迫害を受けたならば、最後まで法廷闘争を勝ち貫かなければなりません。法から解かれて解放されるまでです。そのような運命だったのです。ですから日本でも国家的戦い、アメリカでも国家的戦い、イギリス、フランス、イタリアはいうまでもなく、すべての国の法廷で戦って勝利したのです。その過程で、そのままサタンが後退するのではありません。皆さんはそれが分からなければなりません。先生は二十一年をかけて父母の日から、子女の日、万物の日、神の日まで探し求めて立ててきました。このような四大名節は先生の血のにじむ闘争史の記録なのです。分かりますか。父母という名前を得ても子女をもてなかったのです。 子女の日を立てるためには、先生の子供たちに苦労させなければなりません。万物の日を立てるためには、先生に一切の所有があってはなりません。私の家のものは私のものであってはならないのです。全部、神様のものなのです。負債を負って私が使っているのです。今も莫大な負債を負っているのです。このように、先生も負債を負っていきますから、皆さんたちにも苦労をさせなければならないのです。それが分からなければなりません。父母の日、子女の日を立てるためにどれほど血を流してきたか知れません。神様の家庭を探し求めるためには、父母がこの地上で国の基準を越えて立つことができなければなりません。それが一九六八年の一月一日の神の日なのです。その間にあって、先生の家庭と統一教会に対して、サタンが行った凶悪な陰謀を皆さんは知っていますか。歴史を忘れてはなりません。分かりましたか? (はい)。 一九六〇年までの満十四年の間、これは蘇生、長成です。二次の七年路程と同じく、堕落した家庭の男性基準での責任分担と、女性基準での責任分担を果たす立場に立たなければなりません。世界のいかなる国家が反対したとしても、その本質的基準において変わらない愛的伝統を備えた男になってエバを愛さずして創造することができません。神様はまずアダムを造り、次にエバを創造したでしょう。ですから、何も分からないお母様を連れて教育してきたのです。最初から立派な女を得ることができないのです。 その時、いかに女性が多かったことでしょうか。博士の女性、修士の女性、多くの有能な女性がいました。しかし、その中で何も分からないお母様に侍って教育してきたのです。そのお母様の家庭においても、一族が多くてはいけなかったのです。また、どんなにお母様も不自由だったことでしょうか。お母様をお母様として待遇することができなかったのです。三年間は一緒に住めませんでした。外泊されていたのを知っているでしょう? (はい)。いい加減な多くの女性たちを全部収拾するために、お母様を後ろの部屋に住まわせながら、カインの女たちをお母様以上に愛しました。それはこの世的な愛ではありません。泣きわめく女たちが天的愛の因縁を失ってしまわないようにするためにそうしたのです。分かりますね? (はい)。これがお母様の十字架の道です。「このお母様は偽物だから、私がお母様の位置に座らなければなりません。お母様の位置を渡しなさい」と、お母様の部屋に来て大騒ぎする女たちがいかに多くいたことでしょうか。当時の先生は霊的に美男子だったのです。(笑い) 錫温の老婆がいたでしょう。もし今生きているならば八十歳を越えているはずです。この老人は顔中を皺いっぱいにして、目が覚めればすぐに早朝からやって来て、部屋で待っているのです。私が出ていくと「先生、いらっしゃいませ。私は来ております」と言うのです。「この老人め! 誰がうれしいものか! なぜ早朝から来ていたのか!」と叱ると、「霊界から行けと言うのです。ほかにどうすれば良いのですか?」と言います。また地方へ巡回に行けば、先生の行く先々を知って、さっと先に行って待ち、「先生、今来られたのですか? 私は先に来ていました」と、こうです。(笑い) それで「この老人め!」と悪口を言っても彼女は嫌がらないのです。ですから「この老人め!」と目をいからせて親不孝な孫、親不孝な孫娘のように対処しても、喜ぶのです。 私からひどい待遇を受け、たとえ鞭打たれても、自分の夫から鞭打たれるよりも良いと言うのです。そのような事情の蕩減復帰歴史は実に複雑なのです。当人が知る知らずにかかわりなく、すべてそのように処理して引っ張っていかなければならないのです。ですから、今までこうして残っていられるのであって、そうでなければみな壊れていたのです。このように、おばあさんからお母さん、孫娘まで、三代がぶら下がって助けてくれと言うのです。これは何の話か分かりますか。「ああ、私はこのように精誠を尽くしたのです。お母様はこのようにしなければならないのではないでしょうか?」と、こうなのです。この者! 泥棒のようだというのです。誰がお母様を選ぶのですか! それは、サタン世界の風に乗っている女です! お母様は、神様が中心となってお父様が選ぶのでしょう。そうではありませんか。 すべてのありとあらゆることがみな起こりました。もし私が原理を知らなかったならば、どんな拍子にでも合わせて踊りを踊らされ、吹っ飛んでいって小鬼の餌にでもなっていたことでしょう。先生が愚かでなかったので今日まで鬼の餌にもならなかったのですね。そうでしょう。何の話か分かりますか。ですから先生によく学んで、よく従ってこなければなりません。先生はほら吹きではありません、分かりますか? (はい)。ここにいるおばさんたちみな分かるでしょう。 お母様はアダムを通じて造られたエバと同じように、何も分からないところから出発しなければならないのです。親戚が多くてはいけません。三代があとを付いてきてはいけないのです。他の縦的な基準があってはいけないのです。正常であってはいけないのです。ですから、まさしく今のお母様がそのような方なのです。そうではありませんか。お兄さんもいないし、お父さんもいないし、一人なのです。母娘の二人しかいません。また、その母親は主様に侍るために精誠を尽くすことにおける韓国の代表です。「主様が人として来られる」と言って、腹中教の時代から従ってきた人なのですね。また、このお母様は、よく知ってみると実にそのようなすべてのエバ的責任を果たした韓国の歴史を代表するおばあさんたちからすべての祝福を受けているのです。 そのようなお母様に皆さんはよく侍りましたか、侍りませんでしたか? (よく侍りました)。さらに、子供の数においてもお母様はチャンピオンになる資格があるというのです。そのように十四人も生んだのに、子供たち一人一人見ても全員が立派なのです。(拍手)譽進(様)など、太りたいと思えば一週間で太るし、ほっそりとなりたいと思えば一週間でほっそりとなるのです。その時は食べることをしないのです。それが普通なのです。子供たちがみなそうなのです。そのように厳しい子供たちなのです。一度決心すれば、必ず最後まで成し遂げるのです。それは誰に似たのですか? (お父様です)。そういうことはお母様に似てはいけないのですね。(笑い) 一度決心したあとは、もう誰の言うことも聞かないのです。 ですから今後、皆さんも先生の一族たちと姻戚関係を結びたくありませんか? 何の話か分かりますか。皆さんも姻戚関係を結ぶことができるのです。うちの息子、娘、孫たちとです。そうでしょう。姻戚関係になるかもしれないですね。婚家の奥様になるか、岳母になるかもしれないですね。それには、歴史の中において自分がどのように働いたのかという事実を誇れなければなりません。私は、苦労した家の息子、娘を嫁に迎えようと思い、婿に迎えようと思うのです。(アーメン)。そのような人とはどんな人かというと、ために生きるという人なのです。ですから皆さんたちが知らなければならないことは、先生は「何々をこのようにしてください」ということを一番嫌うのです。それは自分が成すべきことなのです。私は「このようにしてください」などと一回も祈祷したことがありません。 自分の果たすべき責任を果たす 今や命を懸けてもこの韓国に来て暮らしたいという、統一教会の食口がどんなに多くいるか知っていますか。そのような中から世界の七〇〇〇名の群れが来るのです。皆さんはその七〇〇〇名の先頭に立つのですか、中間にいるのですか、後ろに従うのですか? どうしますか? (先頭に立ちます)。それをはっきりとしなければなりません。先頭に立とうとするならば、皆さんは愛を中心として、体と心が共鳴体にならなければなりません。神様を私の神様にしなければなりません。それが秘訣なのです。その人が、私の神様をつくれるようになる時には、先頭に立つなと言っても先頭に立つようになるのです。どんなに後ろに行っても、いつの間にか自動的に先頭に戻っていきます。他の人が先頭に立ったとしても、じっとしていればみな掃き捨てます。でなければ死んでしまうというのです。何の話か分かりますか? 時が熟せば、すべては一度に成就します。慌ててはいけません。問題は何かというと、準備して、自分の果たすべき責任を果たすということです。私は全部準備しておきました。南北統一はいかにして成すのか。もし私に任せたならば、完全に南北統一をしてみせます。彼らは自分たちが素晴らしいと言うのです。では、南北統一をしてみなさいと言うのです。神様も「お前が思うとおりにしてみなさい」と、言われるのです。できないのであれば、あとで私を訪ねてきなさい。アメリカも共産党を消化できず、淪落する青少年たちを消化できないのです。しかし、私に任せるならば、私はアメリカのヒッピーや、イッピーみたいなごみ箱のような者を連れてきて、愛国者にみなつくり変えてあげるのです。それは自他共に公認するものです。 彼らをそのようにするためには、彼らのお父さんとお母さんにならなければならないのです。また、彼らのお兄さんや、お姉さんになり、弟の代わり、妹の代わりをしてあげなければならないのです。そのように尽くすことにより、彼らが夜も昼もいかなる争いの場にあっても、自分の父母を思うよりも、自分の兄弟よりも、自分の学校の先生よりも、皆さんを訪ね求めてくるようになるのです。すなわち御父母様を訪ね求めてくるのです。ですから、アメリカ人たちにとってもこの先生は、万事大歓迎なのです。分かりますか? (はい)。「綿を背負って火の中に入れ」と言っても入っていくようになるし、「塩を背負って水に入れ」と言っても入っていくようになるのです。 今では何を言っても、聞く時代が訪れました。そして、この韓国との縁を切ろうにも切れなくなっているのです。では、先生は韓国に戻ってきて住めば良いですか、太平洋の海に住めば良いですか? 今や私は豪華船をも造れる能力をもっているのです。現在、海洋教会を中心として船を三十隻造ろうとしているのです。私には成すべきことをすべて成し遂げることのできる力があるのです。このような先生の言うことを聞いて皆さん得がありますか。得がなくても、それを成さなければ平安ではないのです。生きられないのです。私がそうでしたから、皆さんもそうしなければならないのです。私はこのみ旨の道を知ってから、眠ってはいけなかったのです。夜であれ、昼であれ、神様が目を覚ましておられるので、私も目を覚ましていなければならないのです。何かに寄りかかって仕方なしに眠るのであって、敷物を敷いて眠る安らかな生活などはできなかったのです。 旧約時代、新約時代、成約時代の歴史において、成約時代の御父母様が、栄光の父母となるべく送られた神様のみ旨の前に、苦難の父母になってしまったのは韓国の人たちの責任であり、アジアの責任であり、人類の責任であり、さらには宗教を代表したキリスト教の責任であり、今日の統一教会の信徒たちの責任でもあるというこの事実を知らなければなりません。 しかし、今や、世界的統一時代に向かって秩序を整えなければなりません。世界の水が流れていく時、一番最後の水が韓国でした。世界の一番最後の水が韓国だったのです。しかし、満ちてくる時には、一番初めに韓国に入ってくるようになるのです。その運勢を失ってはなりません。これから、西欧のすべての男女が愛の潮流に従ってやって来るのです。亡国の愛が、サタン世界を通して地獄へ向かう時、一番あとに付いていったのが統一教会の人々なのですが、今や愛の潮流が新しい理想世界に向かって入ってくるようになる時、この統一教会の人々が先頭に立たなければならないのです。分かりますか。その水は先頭を満たしますか、満たしませんか? 韓国人が行く所を残していきますか、どうですか。水は必ず水平を保つので、すべてのものを満たすのです。低い所はいつでも埋めていくので、もし韓国の人が低い位置にいるならば、それを埋めて誰かが先頭に立っていくのです。分かりますか。では、そのような先頭に立っていきますか、どうしますか? (先頭に立って行きます)。そうあらねばなりません。 今後七〇〇〇名の人々が訪れてくる時に、彼らの前に伝統を残してあげることのできる、祖国の魂を備えることのできる守護者にならなければなりません。決して忘却者になってはなりません。このことをはっきり知らなければなりません。分かりますか? (はい)。これは、何の話かというと、先生は栄光の父母の位置を失ってしまったけれども、皆さんはこの時代に、「栄光の父母となるために、環境的与件に責任をもった者になれ」と言うのです。そのためには、南北統一の先導者にならなければならないし、一線の将兵にならなければならないのです。何の話か分かりますか? (はい)。 今後、もし金日成が南韓を侵略するならば、統一教会の食口たちを一線に立てる先生の計画です。今、先生は金日成と対峙しています。このごろある情報を通じて私が報告を受けたところによると、「金日成が文先生を非常に憎んでいる」と言うのです。それはそうでしょう。盧政権は何にもできないと見るのですが、勝共連合の組織を中心として、国民連合を中心として、教学統連を中心として、先生によって背水の陣が敷かれているというこの事実に、金日成がいら立っているということは当然なことです。ですから強く、大胆であれと言うのです。 歴史時代において、天の万物と、子女と、父母まで略奪していったサタン勢力の基盤を、私はこの目で見たのです。それを忘れることなどできません。朝の太陽が昇る前に、新しい日が訪れる前に、このような悪党の群れを地球星から早く除去しなければなりません。そのような責任が私にあるのです。その責任を果たせない時には、夕方は悔い改めて眠らなければなりません。そして朝の太陽が昇る時は、恥ずかしさで迎え、「きょう、この朝に新しく決意します。天が願う解放に向かって前進するため、自分の体を鞭打つのです」という、固い決意をしてこそ、次の日を迎え、また次の日を迎えることができるのです。そのような生活の連続の上に、新年の路程を経ていかなければならないのが、祖国光復をもてなかった私たちが行くべき運命であることを知らなければなりません。分かりましたか? (はい!)。 今までは祖国光復をどんなに叫んでも、その国がいったいどこにあるのか分かりませんでしたが、今やすべてが分かりました。この韓国です。一九八八年が過ぎ去ったので、今やすべてを明らかにするのです。ですから昨年この国において、摂理的転換式を宣布しましたし、世界統一国開天日を宣布しました。オリンピック大会を前後して、世界の二世たちと統一教会の二世たちが連合して、新しい世界の舞台に向かうのです。内的な結束の条件をもって、新しい転換時代の希望的な世界へ向かって前進することを宣布したのです。この基台は地上の世界はもちろん、霊界も同じなのです。このようなことを私が宣布したことによって、日本の祖先たちも韓国に来て手伝うことができるのです。分かりますか? 怨讐の国同士が互いに愛し合うことのできる愛の時代に入ってきたのです。日本は韓国の独立のために、善なる日本の霊たちが自国を犠牲にしても韓国の独立を後援するようになっており、またアメリカやイギリス、あるいは他のいかなる国であれ、国の善なる霊たちは、すべて韓国統一のために後援するという霊的な勢力基盤が、この地上に接続されたという事実を知らなければなりません。 皆さんが何かの困難にぶつかった時も、信じて前進するならばすべて解決されるという時が来たのです。そこで、私の神様として侍るためには、体と心が一つにならなければなりません。成熟した男性は、はっきりと神様が分かるのです。神様の愛観が分かるのです。その神様の愛の観を中心として、いかに処理するかということが分かるのです。人間が成熟し、責任分担を完成することによって、原理結果主管圏と直接主管圏の限界線がなくなっていくのです。縦横の世界が一つの世界へと変化するのです。そうですね? 原理がそのようになっているのです。何の話か分かりますか? (はい)。皆さんは、体と心を一つにしなければなりません。そこに焦点を合わせなければなりません。もし祈祷する時、体が心に呵責を感じることがあるならば、悔い改めなければなりません。悔い改める時は一人ではできません。東西南北を整えなければなりません。自分の一番近い父母の前に通告しなければなりません。師の前に通告しなければなりません。その次に、自分の息子、娘に、また自分の弟子に通告しなければなりません。「私にこのようなことがあるのですが、許しを受けられるでしょうか」と。そうしてすべての人々が心を合わせて後援できるような道を行かなければなりません。 皆さんは、心と体が二つになってはいけません。今まで生活習慣において常に心が願わないのに、口が「ペチャクチャ、ペチャクチャ」と言ったのですね。ですから、沈黙の時間が必要だというのです。神様のみ言を代身できる者になってから、語るのが本然の口の願いであり、そのようになって見るのが目の願いなのです。しかし、そのような人がいないので、自分自身がそうならなければなりません。自分自身を第二の愛でもって再創造するという、実践路程を経ていかなければなりません。何のことか分かりますか。祈祷は自己統一のためにしなければなりません。 復帰の摂理を進めてこられた神様の心情 今までは、父や母が反対したのですが、今やそのような時代は過ぎ去りました。今ではみんなが「統一教会を信じなさい」と言うのです。しかし、まだその真の価値が分からないのです。ですから、そのような父母たちを、神様の縦的な愛を中心として、垂直の九十度に合わせなければなりません。この中で祝福家庭は手を挙げてみなさい。皆さんは九十度の角度に一致した家庭的愛の基台の上に立っていますか、どうですか。 御覧なさい。男女の中で欠点のない人がどこにいますか? 「ああ、私の理想的相対はこの人ですか? 私が願っていた人とは正反対で怪物みたいです」と、そのように見れば、理想相対は存在しません。しかし、縦的な神様の愛の眼鏡を通して見る時には、その憎たらしかった女性が花のようになるのですね。何の話か分かりますか。そのように憎たらしかった男性が、縦的な神様の愛の目を通して見る時には、神様を慕うように愛したいアダム・エバの本性の愛の骨髄が流れるようになるのです。その時には醜いものでも醜くなくなるのです。「ああ、これは、そのようにもなり得るのですね。これがこのようになるならば、このようになり得るし……」と、すべてがそれなりに美しいというのです。そうですね。 絵を描く時、夕日が沈むのを描こうとすれば、前面よりもこの側面を中心として、影のようなものがあるかないか、そこにその絵の魅力が生じるのです。余韻が残っているかどうかということです。何の話か分かりますか。すべて愛を通して見るようになる時、醜い人はいないのです。空を飛んでいく鳥たちを見ても、話しかけたくなるというのです。それはまるで狂った人のようにです。愛に狂って一人でひそひそ話をするようにです。それも訓練を積むとひそひそ話ではなくなるのです。口の中で舌は動くけれども、唇は開かないのですね。何のことか分かりますか? 心は踊りを踊っても、手足は踊りを踊らないのです。そのようになると、サタン世界でも心と体を主管することができるのです。心の思いのままに主管することができるのです。どんなことでも体を主管することができなければなりません。どんなにくすぐったい時も、それを主管できなければなりません。 たとえ美人一〇〇人が部屋で裸になって誘惑するとしても、それをみな、笑い種として越えていくことのできる男にならなければ、復帰された男になることができないのです。サタン世界の愛の痕跡を踏み越えて立ったといえる男になれないのです。分かりますか。これは何の話なのかというと、自分の愛する妻を怨讐の所に連れていって、福を祈ることのできる雅量がある男にならずしては、神様の息子、娘になることができないという結論にまで至るのです。エバは何なのかというと、神様の妻であり、それをサタンが主管してきたのです。それも六〇〇〇年間、いいえ人類歴史を一〇〇〇万年と見ているように、六〇〇〇年ではなく何万年もなのです。その間サタンが讒訴しても、神様は今まで相対してきたのです。神様のその痛い心情の谷間を誰が分かりますか。ですから、自分の愛する妻を自分の怨讐に与えて、福を祈れるという心情圏を通過する経験をもたない人は、神様の心情を知ることができないのです。 ここにいる旦那たちはどうですか? 初めて聞く話でしょう。自分の子供を一時に全部失ってしまい涙を流したならば、神様はどのように復帰摂理をするのでしょうか。涙をのみつつ、休むことなく復帰の摂理を進めてこられた神様の心情を知るようになる時に、もし愛する子供が目の前で急死するようなことがあったとしても、その子供を愛する心を中心として、天を慰め、このような立場にいた天であったことを知って、「私がこのような立場に立つことによって、天のその心情を知ることができる時間を下さってありがとうございます」と言ってから、初めて子供に対して涙でも流してこそ、天の前に自由になることができるのです。 例を挙げるならば、私は興進(様)が亡くなっても涙を流しませんでした。昇華式をみな終え、父母としてできる霊界の手続きをきれいに終えて、その次には、誰にも分からないように入ってきて、神様の前に、「あなたの心情的深い事縁を体験することができる一日を下さってありがとうございます」と言いながら、「この息子はあなたの息子ですから、あなたのみ旨のままになさってください。私があなたのためにする心と同じ心をもって、この息子も私のために、神様のためにしようとするので、この息子の行く道がどのような道であるかを知って、処理してください」と祈って、「愛勝日」を決定したのです。 涙を流してはならないのです。父母が、死んだ息子や娘に対し、三日間の間に涙を流しては愛勝日を宣布できないというのです。一週間以内に、そのことよりも天と人類をもっと愛したという条件を立てて涙を流し、天を愛することができなかったことを悔い改め、そうして自分の子供のために心配する、それが天の国の順序にかなう道であることを知らなければなりません。 ですから、皆さんの心と体が一つの共鳴体となり、さらに夫婦がそうならなければなりません。心と体を中心として、夫婦を中心として、さらに氏族を中心として四方へ幾重にも広がって一つの愛の球形体を成すのが人類に対する神様の願いであることを知り、まず自分から始めなければならないのです。それができなかったならば天国に行けないのです。分かりますか? (はい)。ですから、妻を愛する前に、私の心が私の体を愛さなければならないし、私の体が私の心を誰よりも愛さなければなりません。そのような位置は、真の愛、神様の愛、縦的な愛と横的な愛が九十度で交わる位置であり、そこから見るとすべて通じるのです。 釈尊も一時このような位置に入った時、「天上天下唯我独尊」と言ったのです。その深い内容を知らず、そのようなことを言ったのですね。しかし説明することができないのです。統一教会の食口たちには福が多いです。この位置に入ればすべて通じない所はありません。万国がみな、私の眼前に見え、天上世界と地上世界のすべてのものが、この愛の力を通じた因縁の中に公開されるのです。なぜかというと、愛の根は一つの血脈に通じるからです。そうでしょう、分かりますか。血脈を通じて全体に及ぼすように、愛の血脈全体を掌握するのが真の愛であり、そこに入るようになれば体の器官、目の器官すべてのものを全部予測することができるのです。このような驚くべき力をもったこの愛の主体的な力の作動世界があることを知り、そのような愛に一体となる体と心を備えなければなりなせん。 ですから、体が好む服を求めるのです。ここの女たちも、二十代になると花のような服を着たがるでしょう? 他の人とは違うように現したいのですね。自慢したいのですね。もし私が着飾って、飛んだり跳ねたりしたならば、すべてのありとあらゆる女たちがみな、従ってきたというのです。そうでなくとも死のうとする女たちが多かったのです。そのような実におもしろい逸話が多いのです。私は女がこのように恐ろしいものとは知りませんでした。こんなにもエバは、堕落し得る素質が多かったということが分かったのです。(笑い) 女にはいつでも注意しなければなりません。 氏族を中心とする民族の糾合 さあ、そのように皆さんは体と心が一つにならなければなりません。分かりましたか? (はい)。そのような男になって「私の言うことを聞きなさい」と言った時、もし妻が夫のような立場にまで至っていなければ、夫に対して「はい!」と言わなければなりません。もし妻がそうでなければ、夫は「お前がそんなことをするとは?」と言うのです。そこで妻は、「ああ、私はそうなのですね。私はこれをどうしても直さなければなりません。あなたが少し後押しをしてください」と、このように相談しなければなりません。何の話か分かりますか。このような夫婦にならなければなりません。体と心が一つになったそのような夫婦が、真の愛でもって一つになれば、その息子や娘は、天地の運をもって誕生するのです。ですから統一教会の皆さんが祝福を受けて、先生の教えどおりに精誠の限りを尽くして、たとえ苦労しながらも互いのために生きる夫婦の間で、愛を中心として生まれた息子、娘たちの運勢を、一度四柱推命で見てもらいなさい。お父さんやお母さんの運勢は意気のないものですが、その息子や、娘たちは天地の運に乗って生まれているのです。この統一教会の運勢が分かりますか。 この先生が祝福してあげて、「あなたの息子、娘はこのようになるのです」と言えば、そのとおりになるのです。こそこそと自分の思いで結婚する人は今に見ていなさいというのです。このことを、統一教会の食口たちはよく知らなければなりません。祝福の場がどんなに恐ろしいものかということを知らなければなりません。皆さんが妻に対して、天地の前に恥ずることなく「お前!」と言う時は、「はい!」という返事を聞くことが最高の幸福なのです。また夫に対しても、天地が尊敬できる立場にたって、「あなた! おとうさぁーん! あなぁーたぁー!」と呼ぶ時、夫が「はい、どうした!」と答えてみなさい。そこには天地が共にあるというのです。そこには神様が運行するのです。分かりますか。 そのような家庭を中心として、氏族を連結させなければなりません。そのような氏族が一〇〇軒あるならば、その一〇〇軒の家に私の手を差し伸べなければならないのです。昼であれ、夜であれ、神様の代身としての父母の心情をもって、彼らのために生きる位置に立たなければなりません。そうしてこそ、サタン世界の情しか知らなかったすべての家庭が、「ああ、誰それのお姉さんの家は、実に福が多いですね。幸福そうですね。どうすればあのようになるのですか?」と、そう言うのです。「ああ、あの息子や娘のようにどうすればなれるのですか? あの年ごろになれば、ティーンエイジャーになって、お父さんやお母さんに悪口を言われるのがお決まりなのに、どのようにしてあのようにちゃんとできるのですか?」と言うのです。そのようにして、私たちの和動の中に同和されて入ってくるのです。 皆さんはこのような氏族になって、国を生かすために投入しなければなりません。犠牲にならなければなりません。神様の創造は、自分の愛のすべての精髄を抜いて投入されたのです。神様が最も貴いものを先に投入されたように、自分の財産や自分のすべてを代身したいかなるものよりもさらに貴いものが愛なのですから、自分の物質を愛する以上に、その物質を犠牲にさせて人々を愛し、次に自分の息子、娘を愛する以上に彼らを愛さなければなりません。ですから、今は息子や娘たちには理解できないのですが、しかし、そのために万国の保護を受けるようになるのです。万国が自分の息子や娘までも抱くようになるというのです。このようになれば、息子や娘はあとについてくるのです。そこで万国を抱き私が後ろ向きになった時には、私たちの息子や娘は、万国の中心になるのです。分かりますか。上、中、下の中でいつでも中が問題なのです。 ですから、自分の二世のみを愛する人は、絶対に大きい福を受けられません。自分の息子や娘を愛して、町内の息子や娘はすべて無視し、自分の息子や娘を国よりも愛してはなりません。まず自分のおじいさんやおばあさんたちを愛してから、息子や娘を愛さなければならないのです。これが伝統なのです。それができない人は、そのおじいさんやおばあさんの愛と、父母の愛を受けられず、お兄さんやお姉さん、弟や妹の愛をも受けられないのです。そのような愛を受けられなければ、その息子や娘は、その家庭の愛の伝統を相続できないというのです。 氏族を中心として、民族を糾合しなければならない私たちの責任から見ても同じ原則なのです。この統一教会が統一氏族になれば、民族を動かすためには先生を中心として、幾重にも取り巻いて団結していかなければなりません。皆さんはそのようになっていますか。幾重にも取り巻いて団結して丸くなっていますか、尖っていますか? (幾重にも取り巻いて団結しています!)。幾重にも取り巻いて団結していかなければなりません。日本でも先生を中心として、幾重にも取り巻いて団結しています。アメリカに行っても先生を中心としてそのように団結しました。韓国ではどうですか、幾重にも取り巻いて団結しますか? (はい!)。 そのように先生を取り巻いて団結する人々は内になりますか、取り巻かず団結しない人々が内になりますか? (団結する人々が内になります)。団結することを通して内のほうへ行くことができるのです。団結しなければ外のほうへ行くというのです。ですから、極めて旺盛に生死を懸けて南北統一を成そうとする人たちは、南北統一の愛を受けることのできる骨になるのです。 神様は縦的な父母の愛であり、真の父母は横的な父母の愛なのですが、それを受け継いで、皆さんの心と体は、縦的な神様と父母の愛を受けた伝統的な結実体なのです。体は横的な真の父母の愛を受けた伝統的な結実体であり、互いに横的家庭の基盤となって縦的愛を中心として球形を成そうとする時に、息子、娘を生まなければならないというのです。そのようになって息子、娘を生まなければ罪だというのです。息子や娘のいない人になってはいけません。それは骨がない肉のようなものです。そこには位置が確立されないからです。 また、皆さんの良心とは何でしょうか? 良心は縦的な何ですか? 良心は縦的な私なのです。これが分からなければなりません。今日、仏教で参禅する人々に「良心とは何か」と問うてみなさい。誰も答えられないのです。良心とは、縦的な父母を代表して、永遠なる縦的基準の結実体として生まれたものです。それが良心の位置なのです。良心とは縦的な位置を占めた私なのです。そして体は横的な位置を占めた私なのです。そして良心は、九十度の角度にならなければなりません。少しでも一方に偏ってはなりません。心が願うとおりに体が一つになって動かなければなりません。分かりますか。そうしてこそ球形になれるのです。 それで体と心が天の真の愛に浸るようになる時に共鳴するのです。体を打てば、心が鳴るのです。共鳴体です。分かりますか? (はい)。真の愛の棒切れで頭を「ポン」と打つと、心も「ポン」と響くのです。もし天が心を「パン」と打つならば、既に体は自分の行く所が分かっているのです。誰も指導する必要がありません。先生も必要ありません。自分が行く道をすべて知るようになっているのが万物の霊長である人間なのです。にもかかわらず、本然の真の父母と本然の真の愛を中心とした縦横の父母を血統でもって受け継ぐことができなかった罪によって、私たち人間は常に彷徨し、悲惨なる生涯を経てきたということをはっきり知らなければなりません。ですから、イエス様も「真理を知るであろう。そして真理はあなた方に自由を得させるであろう」と語っておられるのです。今やそのみ言が成就して、真理を知ることによって解放されるというのです。 神の心情的統一圏、共鳴圏に向かって 解放というのは簡単に起こるのではありません。出ていくことのできる穴があれば、その穴にすべてのものを合わせるように準備しなければなりません。でなければ、はしごをかけなければなりません。体が大きければ御飯を断ってでも出ていけるようにしなければなりません。それが堕落した人間たちの成すべき宗教生活だということを知らなければなりません。ですから、統一教会が一つの一族になれば、次に民族をかき抱き、この民族を共鳴体につくり変えなければなりません。そうでなければこの民族の発展する道がありません。 今日、この大韓民国の統一をいかに成すかという問題を前にして見た時、数多くの宗派があり、数多くの集団があり、数多くの家庭と数多くの団体があり、数多くの政党があるけれども、その政党自体が愛に和したものとなり、自らを投入し共鳴体的相対を創造する行動をしていないのです。政党が行かなければならない道は国の富を助け、国の利益を助けるために、その国全体の代表であるにもかかわらず、東の側、西の側という、一方的な党の利益のみを中心とするならば、この国が繁栄する時にはそのような政党は消えていくのです。 韓国にこのような中心がないので、今回、先生が帰ってきて何をするかというと、全世界の統一教会の食口たちをこの地に連れてきて、一つに和した世界の新しい氏族編成を中心として、民族編成を完結して、国のための統一運動を起こして、南韓全体を愛の共鳴圏にしていかなければなりません。愛の共鳴圏に感染させるその運動を一九八九年の今年から始めなければならないのです。そのような運動から統一韓国が誕生するのです。それ以外には道がないのです。そのようになってこそ、神様が個人を訪ねて、家庭を訪ねて、氏族を訪ねて、民族を訪ねてきて、大韓民国の主権を掌握して、神様が君臨されるようになるのです。そのような真なる神様の主権が出てくるようになれば、金日成は偽りの父母ですから自ら退いていかなければならないのです。万が一、居座っていたならば、天が連れていってしまうのです。一夜のうちにめちゃくちゃなことが起こるのです。今に見ていなさい。ですから、カイン・アベルを中心として、南韓をかき抱いて戦わなければなりません。 統一教会のこの世界宣教師たちは既に一つなのです。彼らは既に国境を越えています。分かりますか。日本人、イギリス人、フランス人、怨讐たち全部が国境を越えました。黒人、白人、すべて人種を超越しました。すべての宗教を超越しました。すべての文化背景を超越して、神様の心情的統一圏、共鳴圏に向かって前進するこの時代に、サタン世界は何一つ対抗することができません。そして、今やありがたいことに、大韓民国の人々が文総裁を尊敬する時代に入ってきたというのです。文総裁が行く先々に関心をもつ人が多いのです。そうでしょう? (はい)。必要以上に関心をもって多くの人々が付いて回っています。先生が何をするのか気になるというのです。しかし当の文先生は現れず、世界中の五色の人々が来ているので、彼らをじっと見てみるとすべての行動が驚くべきことばかりなのです。大韓民国の中のいかなる人と比較してみても、このような人々を探すことはできないし、真似ることができないほどに彼らは愛国的なのです。分かりますか。ですから、国民は彼らに頭を下げなければならなくなるのです。自動的に屈伏しなければなりません。鞭でするのではないのです。何かの計略でするのではないのです。愛の実践の前に、彼らが涙を流しながら恐縮して、自分の門の前に訪ねてくる人々を王様のようにお迎えしたいというようなことが起こるならば、この大韓民国は滅びません。 今から七〇〇〇名の群れを中心として、私たちが南北統一を主張する時、この選抜隊が家庭を訪問するにしても、長い歴史時代の恨みがこの家庭に根を下ろしているのを抜き取るという心情をもっていく時、自分でも知らないうちに父に会ったように、師に会ったように、世の中にこのような聖賢たちがどこにいるのかと思うほどに、我知らず涙が流れ出るという環境を通じて、この国に蘇生の光が輝き始めることを知らなければなりません。 このために、七〇〇〇名の群れがやってきますが、韓国の皆さんは彼らから何ものも得てはなりません。皆さんがもっている物質すべてを犠牲にしても、皆さんの息子や娘を飢えさせるようなことがあったとしても、彼らを飢えさせてはなりません。彼らのために犠牲にならなければなりません。 外国での生活がどんなに孤独か分かりますか。先生は長い外国生活をしてきましたが、実に孤独なのです。それでも、この人たちには多くの兄弟がいますが、先生はそうではありませんでした。皆さんには兄弟がおり、同志がいるけれども、先生は一人の同志もいません。いかに孤独であったとしても誰にも相談できない先生だったのです。まず縦の伝統を立てておき、横の道を選び分けていかなければならない立場なので、その孤独さは語ることすらできません。 先生が外国生活でいかに孤独であっても、誰からも同情されなかったことを、皆さんが代わりに彼らの外国生活を同情することによって、先生が外国で涙を流していたことが蕩減されるのです。このことを知って、彼らと一つになるために自主的にお母さんの責任、お父さんの責任、お兄さんの責任、お姉さんの責任、弟や妹の責任を果たさなければなりません。今日までの歴史上において、お兄さんやお姉さんは、弟や妹たちのために死んだし、弟や妹たちはお兄さんやお姉さんのために死んだし、また息子や娘のために犠牲になった父母、父母のために犠牲になった子女たちが多いことを考えた時、遠い国から来たこれらの人々が、六〇〇〇年前に分かれた歴史的兄弟であったということを知って、歴史的な恨みの窪地を愛の道で埋めなければなりません。そうしてこそ、神様が君臨し、天上天下のすべての天軍天使たちが協助するハイウェーがここに築かれるということを知って、そのように前進しなければなりません。そして、すべての天地の運勢はここから起こるのです。世界の民族と韓国の民族が、東西南北を覆って一つの球形になる時、これらの反応が世界へ響き渡るのは間違いないことです。ですから言論機関をつくったのです。 大韓民国の五〇〇〇年の歴史の中で、愛による歴史を新しく創造する責任が、この統一信徒たちの上にあるということを知らなければなりません。これによって、統一の韓国が誕生するのです。これが南韓で始まれば、北韓は問題ではありません。統一世代は回っていくようになっているのです。今後は北韓を食べさせて、生かさなければなりません。皆さんが北韓に行って、北韓の人を食べさせて生かさなければならないのです。そのような心で愛の布陣を広くして白頭山を越え、満州、あのシベリア平原、世界中至る所の部落にまで、私たちの愛の光の浸透しない所はあり得ないという、主役的な責任を果たすことによってこそ、韓国統一はもちろんのこと、ここからアジア統一、世界統一の根源が決定されるのです。 もし南北統一がなされるならば、東西ドイツの統一も簡単です。何の話か分かりますか? (はい)。西ドイツ、東ドイツは、今やヨーロッパ全体の問題なのです。民主主義と共産主義に分かれているのですから、韓国が統一されるならば、それと同じ方式によって三年以内に東西ドイツも統一されるのです。そうなるとアジアの韓国は縦的であり、ヨーロッパのドイツは横的なのです。そうでしょう。南北が縦的でしょう? (はい)。東西は横的なのです。この二つを愛でもって完全統一してしまえば、自由世界と共産世界の統一はみな終わるのです。韓国が蘇生、ヨーロッパが長成、世界が完成です。このようにして天地の統一は始まっていくのです。分かりますか。ですから、すべて愛によらずしては何もできないのです。 サタンの愛以上の愛をもって出陣していくこの時に、今回成された日本と韓国の交差祝福ということは偉大なことなのです。皆さんには分からなくても、今までこのように行っていていた道が(先生しぐさされる)このように回っていくのです。アダム国家が韓国であり、エバ国家が日本なのですが、これらを中心として、天使長国家である中国を手助けしようとするのです。そのために今、数千名が準備しているのです。三年間でみな言葉を習い、五年後には出陣するのです。韓国と日本が中心となって中国を開発するのです。アメリカやヨーロッパが中国を助けなくても、私たちアジア人同士で中国を開発していこうと、私は万全の準備をしているのです。分かりますか、何の話か? (はい)。中国で造った車が、韓国のどの車よりも良いものになるようにするのです。そのようなプログラムを組んで活動するのです。 そのようなあとに、皆さんはどうしなければならないかというと、戻っていかなければなりません。中国の次に、インドから中東、ヨーロッパ、ソ連まで、その影響圏に入れていくのです。ですから、中国を指導できないような主義は、世界を統一することはできません。ソ連が中国を主管することができず、アメリカもできませんでした。彼らは、政策的力をもって成そうとしたけれども、力をもって成すことはできません。また、知識的な、統計的な公式基盤に展開される科学技術をもってしてもできません。知識をもってもできません。お金をもってしてもできません。それは真の愛によらずしてはできないのです。 真の愛によって、中国は統一教会の前に完全消化されるのです。中国を消化する国は世界を指導するのです。その実現として、韓国を統一できるか、できないかという問題が平行線上に展開されているのです。すべてが国家基準の戦いだというのです。この戦いにおいて落伍者になることなく、必ずや勝利の王子権を獲得しなければなりません。そのような決心をする人は、この時間、手を挙げて誓いましょう。はい、ありがとうございます。(拍手) 愛はこのように偉大だということが分かりましたか?(はい)。先生がもっている武器は、愛のみです。アメリカも、この私がダンベリーに入っていながら助けてあげたのです。ダンベリーの中から『ワシントン・タイムズ』をつくり『インサイト』をつくり、『ワールド・アンド・アイ』をつくり、アメリカを救う六つの政党、団体をつくりました。それで今日このような基盤を築いてきたのです。先生が外国へ行ってそうしたように、この韓国でもこのような団体をつくるのです。先生は外国でもってこのようにつくってきたのです。皆さんは同じ氏族をもってなぜできないと言うのですか。これから先生の指導のもとに荷物をまとめて出陣しなければなりません。 先生がつくった大学へ 若い人たち! 昔、この統一教会の初期においては学校であれ、何であれ、みな捨てて出発したのです。今や、学校であれ、何であれ、行けなくなるかもしれません。三年間くらい休んでも、私たちの大学に入ればよいのです。他人の大学へなぜ行くのですか? 先生がつくった大学を卒業しますか? うん? どちらの大学、先生のつくった大学に行きたいでしょう? (はい)。そうですね。日本人もそうだし、他の外国人たちもそうなのに、出来の悪い韓国人になってはいけません。先生がつくった大学は、ソウル大学など比較にしません。今からは勉強するにしても、骨が溶けて肉のようになるほどに勉強するのです。先生の命令を奉り、そのように勉強して私が与える学士、博士の学位を受けるならば、歴史すべてが称賛するのです。私は統一神学校をつくっても二回しか行きませんでした。行きたくないのです。何ですか! 草ぶき屋根のような家で……。そのような所で天の息子や娘たちが勉強したら駄目になるというのです。世界で一番の学校をつくらなければなりません。そうですね。(はい)。 そのような意味で、一年生たちは一学期を終えたら、みな第一線に行かなければなりません。今日の韓国の兵士たちは信じることができません。最近私が聞いた報告によると、軍隊に左翼系の者たちが浸透してきて、主体思想だとか言って大変なことになっているというのです。その韓国の軍隊を誰が守るのですか? 皆さんが守らなければなりません。今後、国防部で将兵たちを教育するために、皆さん統一教会の食口が入っていくようになれば、一兵卒であっても堂々と教師の資格をもって、佐官級とか何々級とかいう将校たちを引き連れて教育していかなければなりません。そのような責任者を必要とする時が訪れたのです。 ですから、学校が重要ではありません。学校を卒業しなくとも、国を探し求めなければなりません。分かりましたか? (はい)。これからは、昔のようではありません。一九四五年に七年をプラスすると一九五二年ですね。(はい)。それを蕩減復帰しようとするならば、一九八五年にプラス七年すると何年になりますか? (一九九二年です)。もう既に三年が過ぎました。この三年間に縦的基盤を立て終わりました。四数は東西南北、四方性です。この四年間に南北統一が完全に解決されなければなりません。それで、十二年間に世界の頂上(首脳)すべてが文総裁を中心として動かなければならない時代が訪れるのです。二〇〇〇年代に、私が八十歳になる時、モーセがカナンの福地に向かって入っていったことと同じことが展開されるのです。 先生の歴史がそうなっているのです。解放されてから十四年目に家庭を中心として出発し、二十一年路程を中心として世界的試練を受けてきたのです。それで世界中で先生を追い出し、け飛ばしてしまおうとしたのですが、今では「行かないでください」「この国全体に必要です」と言って中心に立てて侍ろうとするのです。そして今や、韓国のゆえに先生は戻ってこなければならない時になりました。これから四年間、私が一気にプッシュするのです。学校であれ、何であれ、全部ストップさせて、総出動命令を出すかもしれません。だからといって学校を捨てよと言うのではありません。分かりますか? (はい)。 今や先生が大学、大学院までの道をみな開いてやったのです。今、著名な世界の硯学たちも先生を知っている人が多いです。私が皆さんを連れていって「首席弟子にせよ」と指示するならば、そのようにするという大学が多いのです。先生の話によく従うならば、今後私が指導者に育てますが、先生の話を聞かない連中は割って薪にでもするのです。今後そうします。祝福家庭の子女たち、分かりましたか? (はい!)。腰を切ってしまわなければなりません。ここにいる父親、母親たちに注意しなさいというのです。 さあ、お母様おいでください、五時間話したので良い新年を迎えることができました。眠らず精誠を尽くして、み言を聞いたのですね。皆さんはここに参席したので式を行いましょう。敬礼し、宣誓をいたしましょう。さあ、立ち上がってください。きょうは「神の日」でもあり、「聖日」です。 祈 祷 愛するお父様。きょう一九八九年元旦を迎えましたこの朝、また新年の最初に迎える安息日ともなり、新年を初出発するこの日、お父様を中心としまして、統一的な、内外が一致するこの日に、祖国光復というはるかなる歴史的願いをもって訪ねつつ、韓国まで巡ってきて、韓国を設定し統一することによりまして、祖国光復の基地にするという驚くべき事実を私たちはもつようになりました。これを成すためには、まずお父様の愛を中心としまして、心と体が一つになり、サタン世界のいかなる愛の因縁よりも高い次元で、欽慕と情熱の心情をもって天に侍り、人類を抱くことができる子女の姿、父母の姿と一つになれますようにお許しくださいますことを、お父様、切にお願い申し上げます。 堕落によってサタンの血統を受けましたので、この否定的な体が今日、死亡の基地になって、外的家庭、外的社会、外的世界を中心として、愛の伝統を完全に踏みにじり、ずたずたに引き裂いてきました。ここに、人類が涙の海であえぎ苦しみ、死亡の谷間で呻吟する絶頂を眺められる神様の心情を考えます時、御父母様の心情を考えます時、このような群れではなくて、伝統的愛を中心に世界と和合し、天国に向かって平らな大きな通りを直行することができる、平和の役軍として進軍すべき群れになっていなければならなかったことを思います時、反対の頂上を立ててきたのは、悪魔の行動であることを知りまして、これを私たちの家庭から、環境を越え、国境を越え、世界を越えて、再生産しなければならない統一家の召命の責任があることを知りました。今、決意した心情をもちまして、隣人に、この国に、世界の前に、心情的に負債のない私たちになることができますように努力いたしますことを宣誓しましたので、どうぞ大韓民国を抱き消化させることのできる愛の主人公になれますようにしてくださいますことをお願いいたします。 歴史的な祖先を代表し、歴史的な真なる自分の父母を代表し、兄弟を代表しまして、伝統を示し実践することによりまして、サタン世界の誰もが黙して屈伏できる環境的主体性を備えてこそ、平和の王権の基盤が拡大されるということをはっきりと知りましたので、そのような息子、娘の責任を果たすことができますようお許しくださいまして、さらには、この国における民の責任を果たすことができ、また、天地にお父様の愛を植えていける新しい主人たちになることができますよう、祝福してくださいますことを切にお願い申し上げます。 きょうこの日を記念するために、世界中から集まってまいりましたあなたの子女たち、韓国を自分たちの祖国として受け入れ、今や、この地の上に精誠を尽くすことが、自分の祖国のために忠誠を尽くすことよりももっと大いなることを知りまして、すべてのこの精誠と忠誠を、御父母様に従い、天の前にささげることができる、情熱の役軍となれますよう、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。そして国を探し求め、万国の前に伝統を打ち立て、天を中心としました愛でもって処理することができる平和の王権時代を迎えますようにお許しくださいますことを切にお願い申し上げます。お許しくださいましたみ旨の前に、新年を迎えまして、三六五日をお父様の愛でもって束ねまして、あなたにおささげし、南韓統一を中心としまして、北韓統一をもたらすことができる統一の役軍たちになれますようお許しくださいませ。そうして、韓国統一という標題を中心としまして、日がたち月が重なり、食べる時も、寝ても覚めても、いかなる場に処しても、お父様のみ旨を中心とする統一的韓国を慕う手助けとなり、主導的役軍となり、ありとあらゆる力を注ぎ、努力をすることのできる統一の役軍たちになれますようお許しくださいますよう、切にお願い申し上げます。 これらの人たちの前にお許しくださいましたお父様の祝福の中で、万国を代表する栄光の一時の前に召命されたことはもちろんのこと、彼らの前に立てまして、あなたが愛する息子、娘であると、親しく首を抱き、口づけすることのできる息子、娘になれますように、お父様、努力することができますようにお許しくださいますことを切にお願い申し上げます。そうして愛を中心として、私たちが解放の国を成しまして、天上世界の神様を解放できる私になりましたと、自ら安んじることのできる自分を整え、賛美と共に褒めたたえられる群れになれますようお許しくださいますようお願いいたします。 万世の願いであるこの驚くべきみ旨、万国が願うところの願いの一つの中心、すべての歴史が願ってきたその終着点の結実としまして、愛の種としまして、愛の糸を束ねまして、お父様の前にすべてささげることのできる希望の世界が訪れてきますことを知りまして、前進、前進、前進を固く決意することができますようにお許しくださいますことをお願いいたします。 南韓と北韓を統一させることのできる運勢を中心としまして、これと反対のすべての要件を防ぎ前進する統一の役軍たちが、一九八九年から四年間、走り行く舞台を祝福してくださいますことを、さらに二〇〇〇年代まで、お父様が引き続き祝福してくださいますことを切にお願い申し上げながら、このすべての祈りを真の父母様のみ名によって祝願いたしました。アーメン。(アーメン)。アーメン。(アーメン)。アーメン。(アーメン)。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.07
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「韓国統一」(その1)--1989年、年頭標語1989年1月1日 祈 祷 愛するお父様 ただ今、一九八八年が過ぎ、新しい一九八九年を迎えることができました。今までの四十三年間を中心としたお父様の御苦労をもう一度回想しながら、恨の多かった個人的事情、家庭的事情、氏族、民族、国家的事情、さらには世界的事情を、天のみ旨の前に収拾してささげなければならない一九四五年から一九四八年までの歴史的使命を中心とした韓国が、その責任を果たすことができなかったし、キリスト教とアメリカが責任を果たすことができなかったことにより、四十三年間という、恨の多い歴史路程をたどりつつ、民主世界は数多くの被害と数多くの受難の道を経ながら、伝統的歴史とキリスト教のすべての内的、外的基盤を喪失してしまいました。民主世界を代表したアメリカと、アメリカの伝統的キリスト教と、そのキリスト教を受け継がんとするアメリカの家庭、後世のアメリカの将来の責任を負うべきすべての若い青少年たちが、サタンの支配下で被害を受け、世界を失って、国を失って、教会を失って、家庭を失って、父母を失って、夫婦自体も失ってしまい絶望状態に至ったこの現世にあって、天は被害を被った歴史を収拾するために四十三年の間、受難の道を孤児の位置からたどっていかれて、天の王子の権限を立てるその位置まで、血の凍る闘争の四十三年路程を経てこられました。 その間、統一教会は身を置くことのできる一坪の土地もない立場から、どこに行く当てもなき追放された荒野であえぎながら、四十年の荒野路程を歩むようになりました。これらのすべての事実を思い、その間、お父様が行かれた四三〇〇年の受難の道をたどっていきながら、地上に実現しなければならない横的に四十三年路程として蕩減をしなければならなかった息が詰まりそうで絶望的な、恨みに満ちた歴史時代を回想する時、過ぎし日が夢のようであり、受難の曲折がありましたが、天の保護のもとに勝利の日々を受け継いで、今日、この世界的な頂上に統一教会を導いてくださいましたお父様に、心より感謝申し上げます。 お父様、私たちは天が立てなければならない家庭をもつことができず、氏族をもつことができずに、民族をもつことができず、国家をもつことができなかったこの哀れな群れたちでしたが、今や天の家庭をもち、氏族をもち、民族をもち、国家を立てることのできる勝利的時代に至りましたことを、感謝申し上げます。 今日までアメリカを中心として戦ってきましたのは、世界史的なすべての蕩減をするためのものでありました。それと同じ位置に立って、四代の大統領の主権を中心としました戦いの路程の上に、勝利的な一つの基準を立て今回、帰国することによりまして、すべての世界史的な運勢を韓国にもたらし、今や南北統一を成就させて、韓国を信仰の祖国として、神様の願われる本郷の地になさなければならない、そのおびただしい使命に決着をつけるためこの韓国を訪ねてまいりました。 お父様、これからは一九八九年を中心としまして、私たちの時が訪れることを知っております。歴史的転換式となる、新しい天の国を中心としました世界統一国を宣布いたしましたので、今や神様がこの地上に臨まれ、すべての主導的な権限を整えられまして、平面的な世界の運勢を収拾できる時代を迎え、私たちの経綸のすべてがお父様のみ旨の前に保護を受け、万事思うごとくになり得る時代に至りました。今や統一家に属するすべての群れは強く、大胆になり、サタン世界を主導していくことのできる長子権を復帰できますように、また各自の権威と威信をもちつつ、この国民とこの国の前に、この全人類とこの世界の前に、神様の主権を立てなければならない責任召命を受けました者として恥ずることのなきように、一九八九年の新しいこの日から出発できますことを許諾してくださいますように、お父様、切にお願い申し上げます。 全世界二十一カ国がここに集まり、またここに全国の統一の子女たちが集いましたので、韓国を中心としてすべての二十余カ国が一つになりまして、南北を統一し天の祖国を成就しささげることのできるその使命を、今年から実践しなければならない私たちの責任召命が残っていることを知っておりますので、これから前進しますすべての道の前に、天と地が一つになり協助してくださいまして、全体的摂理を周旋して、お父様の恨みを解き、この地とこの世界から天の国の解放の主導的な責任を、この統一の群れをして成さしめてくださいますことを切にお願い申し上げます。 これから統一国を中心としました実践路程を前進するこの一九八九年の元旦の、この時間から天が直接掌握し主導してくださいまして、すべての勝利の権限を全天宙に顕してくださいまして、あなたが創造理想で願ってこられました本然の祖国復帰のための行軍の装いを許諾してくださいますよう、切にお願い申し上げます。御父母様とこの韓国と、全世界の国家を合わせまして、天を中心として、神様と霊界におりますすべての千万聖徒の先祖たちを合わせまして、善主権の回復のための総進軍を、この日より命令してくださいますことを切にお願い申し上げます。 南韓から北韓を統一し、さらには韓国を中心としてアジアを統一して、アジアを中心として世界を統一することのできます天的時代に臨みましたので、私たちすべての天の子女たちが一心同体となりまして、このみ旨を完遂するために総進軍しますことを天の前に宣誓するこの時間としておささげいたしますので、お受け取りくださいますよう、切にお願い申し上げます。 これから四年間、一九九二年までのこの期間を、お父様がこの国とこの民族を立てられて、アジアの主体国として恥ずかしくない主導的な道を選ばせてくださいますように。そして、世界が行くべき方向を整えまして、二〇〇〇年代には全人類の解放と共に、天上世界の解放、統一的心情主権世界を解放してくださいますことを切にお願い申し上げます。願いのごとくにみ旨が成就されますことを切にお願い申し上げながら、この新しい年、この元旦の朝、お父様に対しますすべての内容を喜びでもって受けてくださいますことに感謝申し上げながら、真の父母様のみ名によって宣布いたします。アーメン。(アーメン)。アーメン。(アーメン!)。アーメン。(アーメン!)。 神様の愛を中心とした創造理想世界 明けましておめでとうございます。新年の福をたくさん受けてくださるようにお願いいたします。昨年の年頭標語は「祖国統一」でした。その「祖国統一」が「韓国統一」に変わったというその背景は、決して生易しいものではありません。復帰摂理というものは、既に皆さんも知っているように、まず神の真の愛を中心として、真なる血統による個人、家庭、氏族、民族、国家、世界へ発展するようになっていたのです。しかし、今日の私たち人類の誕生は、神の本来の創造理想である真の愛を中心とする真なる生命と連結された、愛の生命的血統を受け継ぐことができなかったのです。これが堕落なのです。そして、人類は堕落した結果どうなったのかというと、神様の代わりにサタンの愛、サタンの生命を中心とする、サタンの血統を受け継いだのです。この驚くべき悲惨なる歴史的事実を、今日まで誰も知らなかったのです。 ところが、統一教会がこの地上に現れたことによって、初めて人間の根本がどのようになっているのか、また神がいるのか、いないのかということなどを明確にして、無知なる人類の前に確実に神がいることを知らせたのみならず、今までのように漠然としたものではなく、人格的なる神であり、その人格神に理想的体系を連結させた理想世界を示したのです。それは、一つの完全な父母の位置で子女をもち、子女の位置で家庭を得て、そのような氏族、民族、国家、世界の形態による地上世界と霊界を一致させることが創造理想であったのです。そして、地上に生きる人々は、本来誕生と同時に、神の真の愛から真の父母を通じて、真なる子女を中心とした血縁関係の因縁を経て、縦的な血縁的基盤を世界的に拡大していくことにあったのです。そのような主体的家庭を中心に相対的家庭を連結して、地上世界と天上世界を成就しなければならなかったのが、神様の愛を中心とした創造理想世界であったのです。これは既に原理によって私たちが学んだことです。 そのような観点から見た時、私たちが生きているこの世界は、サタンの愛を中心とする根拠によって成り立っており、私たちの生命も、サタンの愛の根を中心とした生命であるというのです。ですから、私たちが生きている環境も、すべてサタンの環境であるというのです。もし、神様を中心とする真なる愛によって、真なる生命、真なる血縁関係の世界的な連結体ができていたならば、これは真なる神様の愛を中心とした一本の木と同じく、一つの根のような一つの血族によって、この世は一つの世界になっていたことでしょう。そして、その世界の内容は、すべて生命をもった一人一人であり、その生命の内容が愛であると同時に、その生命を支える生活の内容も愛であったというのです。ですから、生活を切り盛りする私たちの日常生活のすべては、愛を調和させ、愛を完成させる一つ一つの足場にならなければならなかったのです。本来すべてのものは始めから終わりまで、神様の真なる愛に同化される世界であるべきだったのです。根が一つであることによって幹が一つであり、幹が一つであることによって、すべての枝が東西南北にその方向は違っていても一つの木に属する一つの体のように、すべて連体になっていたのです。既に皆さんが知っているように、木の葉の中にある細胞一つを取ってみても、そこには根の要素もあり、幹もあり枝もあり葉もあるのです。ゆえに細胞繁殖して成長するというのです。そしてどれ一つを取ってみても、それは愛の分子なのです。根の部分を取ってみてもそこには真なる愛の分子があり、幹あるいは枝や葉を取ってみても、すべてが愛を中心とした生命体なのです。愛を中心としてすべてを連結させようとする活動、作用体であるというのです。 このように見る時、理想的人間とはいったい何なのかという問題もすべて解決されるのです。理想的人間とはいかなる人かというと、真の愛による細胞の一つ一つと同じなのです。細胞と細胞の位置や立場が異なっているとしても、またいかなる環境にあるとしても同化されるし、和合できるのです。東西南北、前後上下左右のみならず、どこであっても主体、あるいは相対的内容でもって、自らの立場を選び分けて自動的に統一的形態を成すことのできる愛の連体なのです。それを私たちの一つの体を中心にして見ると四肢五体があり、また六十兆の細胞があるけれども、その細胞は生命を中心としての生活の舞台で同化される主体であり、そこに感じられるすべてのものは、相対圏として現れるのです。それらをいかに喜びとして消化できる主体になることができるか、またいかにそのような生活をするかということが、私たちの日常生活において誰しも必要とする生活様式なのです。 それと同様に、私たちの本然の神性に従って、本然の心情に従って、神の真の愛を根拠にもつならば、そのように人格化された真なる人間の行くべき生活舞台で展開されるすべての環境的与件は、それらがどんなに異っていても、また歴史が過ぎ去り、時代が過ぎ去っていくとしても、そのような人々が生きる生活の内容は、同じ公式となるのです。ですから、父がいるとすれば、その父も千年前の父であれ、万年後の父であれ、その父の立場は同じでなければならないのです。また母がいるとすれば、その母の立場も、同様でなければならないというのです。母が変わったり父が変わったりすることはあり得ないのです。それは夫婦においても同様です。 太古の私たちの先祖の夫婦の真なる愛の因縁も、億千万年が過ぎても変わることができないものであったのです。そのような夫婦による真なる愛から生まれた子女というのは、一人一人がなくてはならない人々であるのです。そして、家族とは父母の展開体なのです。このように見た時、家族の中に長男がいるし、長女がいます。また次男、次女がいます。このような息子、娘たちの中でいかなる人が真なる息子、娘であるかというと、すべての兄弟に対し父母の実体を展開した存在のように感じることのできる人が真なる息子、娘だというのです。これは何の話かというと、父母になるためには、男性は男性なりに成長して、また女性は女性なりに成長して、成熟して出会って父母になるのであり、最初から一つになっていたのではありません。 それでは、私という存在は父母から始まったのでしょうか? それは歴史的な伝統を通じてきたものなのです。では、そのような歴史的伝統の生命の因縁をどこから受け継いで生まれてきたのかというと、男性という父を中心として、その父の骨髄の深い中に種として保管されていたものなのです。父が成熟して母に会うことによって、初めて授け受けの調和を成して、そこで生命が連結されて生まれてきたのです。一人では生まれてくることができません。必ず生命は愛によって連結されているのです。 神様の創造の絶対的要件 このように、私の生命を中心として見た時、私の生命が先なのか、私の愛が先なのかという問題を考えてみると、私の生命は父母から始まったのですが、その父母も生命が先ではなく、愛が先になって生命を受け継いだ結果なのです。ですから、私は愛から生まれたというのです。それでは、このように考えていって、私たちの父母、そのまた父母の最初の先祖までたどっていった時、聖書に記されているところのアダムとエバはどうだったのでしょうか。アダムとエバの母がいるとすれば、それはどんな人だったのでしょうか? それも同じだというのです。神様の愛が合わさった因縁を通じて、神様と一つになることのできる生命が発生しなければならないというのです。このようになってこそ理論に一致するのです。神様の愛を中心として一つになることができるそのような存在が必要なのです。神様は二つではありません。一なる方です。 しかし、神様には相対の二つの存在が必要なのです。神様が愛であるという時には、神様一人で愛の理想を成すことができないゆえに、愛の対象圏を必要とするのです。ここから万物の創造を出発するという論理展開を成さざるを得ないというのです。ですから、神様がこの世をつくられる時、趣味でつくられたのではありません。作者が絵を描くとか、何かを彫刻するとか、芸術品を作るような考え方から始めたのではありません。神様はこの世界を絶対必要、絶対不可欠の立場で創造されたのです。これが神様の創造です。これが何かというと、愛を享受することのできる絶対要件なのです。そうですね! では、神様がもっていないものが何かありますか? 私たち人間が必要とするお金ですか、知識ですか、権力ですか? 今日、若い学生たちは知識をもって戦っています。誰が学士、博士になるかという戦いです。また堕落した世界を中心として見た時、誰が大統領になり、誰が何々の長官になるのかという権力構造の世界です。神様には、そのようなものはすべて必要ありません。神様はお金もいつでもつくることができるのです。黄金もつくることができます。ダイヤモンドもです。それらはすべて神様の掌中にあるものです。必要であればいつでももつことができる立場であるのです。しかし、神様も一つだけ自由に展開できないものがあるとすれば、それは愛の問題なのです。神様が人格的であられるならば、神様には愛が必要ですか、どうですか? (必要です)。私たち人間が神様の息子、娘として生まれたのならば、神様を父と呼ぶのならば、父が必要とするものは私にも必要なのであって、また私が必要とするものは父にも必要でなければなりません。 このように見た時、この地上のすべての男性であれ、女性であれ、歴史始まって以来、誰一人として「私に、愛は必要ありません!」と宣言できる者はいないというのです。そのような人を見たことがありますか。どんなに偉い人であろうとなかろうと、貴賤を問わず、愛を否定し、愛に反対するという人はいないのです。もし女性が成長すれば、必ずその女性の体全身、四肢五体が愛に同化しようとするのです。愛に拍子を合わせようとするのです。またいかに立派で、いかに世界を統一する権限があり、万国を思いどおりに動かすことのできる権力者の男性がいたとしても、その男性のすべての力に先立って、「私は愛が必要だ」という前提を必要とするのです。どんなに素晴らしいものが備えられた生活をしても、愛を除いては幸福の位置を得ることはできません。ですから、「愛は嫌だ!」と言ってデモを行う人はいないというのです。 ですから、私たちの祖父、祖母を見て、もし泣き崩れることがあるとすればその原因はお金を失ったり、身代を潰し身を滅ぼすということよりも、愛する子供がいなくなった時なのです。それは愛を感じたことのない人には分かりません。どんなに説明しても、これは分かりません。どんなに心が痛むことでしょうか。妻を失ってしまい、夫を失ってしまったその悲痛は、当事者でなければ分からないのです。その次には、父母を失ってしまった時の悲痛な事実です。子供や妻を失ってしまった愛の悲痛な事実は方向性を失ってしまうことなのです。東から西を眺める時は妻を思い、上から下を見下ろす時は、子供を思うのです。そして下から上を見上げる時に、上が父母の位置なので、もし父母がいなくなる時には自分の保護圏も喪失してしまうのです。自分の愛の囲いが崩れるのです。そのように感じるのです。 そしてこのことがいかに悲しいのかというと、妻が死んだことよりも、夫が死んだことよりも、また子供が死んだことよりもうつろで物寂しいのです。そのようなことを感じる愛に対する伝統的悲しさは時代を経ても変わるものではありません。娘が死んだり、息子が死んだりして父親が大声で泣くのを見る時、現代の人間だけがそのように泣くのだろうか、千年前の人はどうだろうかと考えてみるのです。そのころは、子供は必要ないという世の中だったでしょうか? 「生むのをやめよ」「一人で生きよう」という時代だったでしょうか? しかし愛は、偉大な力をもっているのです。無限に拡大できるのと同時に、無限に縮小できる力をもっているのです。無限に伸びていくこともできるし、無限に縮むこともできるのです。一度その愛のひもを引っ張っておくならば、常にその人が一番なのです。愛は権力があろうとなかろうと、思いのままに拡大し、思いのままに縮小します。知識があろうとなかろうと思いのままに拡大し、縮小します。愛はすべてのものを思いのままにすることができるのです。愛によれば、億千万金を与えることもできるし、億千万金を受けることもできるというのです。ですから、女性は何の功がなくても、美人であるという一点で百万長者の妻になることもできるのです。そうすれば、百万長者のすべての基盤に完全に乗って、思いのままに生きることができるのです。夫の同位、同参圏に入っていくことができるのです。 そして愛は、拡大も縮小も自由自在にできる力があるのと同時に、副作用もないのです。真なる愛においてのみ自由があり、解放があるのです。そうですね! 母の部屋に入る時、「ああ、どうしようか?」と言って、気をもみながら祈祷して入っていきますか。皆さん、どうですか? 自分のなりふりがどうであれ、「お母さん!」と言って、そのまま岩が坂道をころがっていくように、母の胸に抱かれる時、お母さんが「この子ったら、なぜそうなの?」と言いますか? すべて受けてくれるのですね。なりふりがどうであれ、行いがどうであれ、愛の心のままに、「お母さん!」と言うのを誰も妨げる者はなく、ただ歓迎するだけであるという結論が出てくるのです。ですから、真なる愛の時雨に合えば、すべての人々が、自分の細胞のすべてでもって愛の時雨を受けてびっしょりと濡れたいというのです。これを理解できますか? 愛にはそのような力があります。既に結婚している男女はそうでしょう? その次に拡大と縮小はいかになされるのかというと、まず中心を立てなければなりません。中心を立てずして縁を回っていくならば、気持ちが悪くて耐えられません。ですから、拡大したり、縮小する時は、必ず中心を立てなければならないのです。 この宇宙の中心は何か さて、愛は無限なる動作をするのですが、主体と対象によって拡大、縮小するための中心がなければなりません。では、この宇宙の中で何がそのような中心になることができるかというと、それは、いかに著名なる思想家でもなく、学者でもなく、権力家でもなく、聖人でもありません。いかに聖人の教えが貴いとしても、その教えだけでは駄目なのです。人間の真なる愛を教える宗教にならなければなりません。 このように見た時、宗教の中でも真なる宗教は、愛の道理を中心として父子の関係、夫婦の関係、子女の関係を明確に教えてくれるものであり、変わることのない、永遠なる愛の法度に治められ得る愛の内容を教示できなければなりません。そのような宗教の教祖であってこそ、真なる聖人として全人類が従っていけるのです。分かりますか? 自然科学の理論がどうであれ、原子の構造がどうであれ、世界体制がどうであれ、このことは変わることがないのです。このように見る時、理想論とは何を中心として論ずるべきかというと、知識をもって論ずる理想論は一時的なものです。そこには方向性しか生まれてきません。また権力をもって論ずる理想論も一時代のものです。永遠なる歴史を積み重ねていくことはできません。お金をもって論ずる理想論も、拝金主義、黄金万能主義を唱えるのみで一時的なものです。愛の理想論により、愛の権力、愛の知識、愛の価値を論ずるべきです。愛のみがすべてのものに勝ち、永遠に残ることができるからです。愛とは、一時代のみに終わることなく、永遠に続き子孫万代に引き継がれる伝統的内容であるということを知らなければなりません。そのためには、真なる宗教を探し求めていかなければならないのです。そして真なる人間にならなければなりません。今まで人類は、「人間は何なのか?」「人間の完成は何なのか?」ということが分からなかったのです。 人間は何でもって完成するのでしょうか。お金ですか? (違います)。知識ですか? (違います)。思想ですか? (違います)。いかに素晴らしい思想をもっていたとしても、その思想を愛と取り替えることはできません。自分の夫と取り替えることはできません。息子と取り替えることはできません。皆さんは思想や理念を取りますか、息子や娘を取りますか? 思想と息子や娘を取り替えることはできません。思想と妻や夫を取り替えることはできません。父母と取り替えることもできません。しかし、愛をもってすれば、千年前の祖先も今日に侍ることができます。無限に拡大し、無限に縮小されるので、千年後の後孫の権威を今日に代身することもできるのです。その後孫の価値は、永遠不変、万代に同等なのです。そのような位置に立った男性の価値と、その位置に立った女性の価値をもって、その男性と女性がすべての細胞によって心身とも一つになって、神が願ってきた相対的愛の主体性、相対的愛の相対性を備えることのできるこの男女の愛の理想郷こそが、万国を治めることができ、万国の代表として立ったとしても、誰も抗議することができないというのです。そうですか? (はい)。 ですから、一番良いことが何かといえば、愛ということなのです。そうですね。最近この地上の人間たちの間では、愛の話をすると、何か汚らわしい下卑たことだと思うのですが、本来はそうではありません。人類始祖が卑しく汚らわしい下卑た愛に落ちたために、下卑たことになったのです。この世は堕落した世界なので、賑わい栄えるほどに善の世界が破壊されていき、社会制度と人倫道徳も破壊されていくのです。本質的愛を中心としたのでなく偽りの愛の世界なのです。この愛が一番恐ろしいのです。いつも大変な被害をもたらすので、下卑たものになったのです。一度、間違えれば家庭も滅び去るのです。愛の道を間違えて踏み外すならば、その人の一代で一族も滅びるのです。また、いかに世界を治めることのできる国家であったとしても、その国家の責任者の一族の中で、もし愛の秩序を破壊する者がある時には、その国もふっ飛んでいってしまいます。このような愛の秩序を正しく確立するようになった時には、いかに激しい被害や困難があったとしても、これらを防止してもなお余り得る力となるのです。このような愛の結束こそが最高に偉大なるものなのです。真なる愛の結束は、神様にも命令できる能力があるのです。何の話か分かりますか。いかに小さい国であったとしても、この真なる愛の権威をもってすれば、神様までも動かすことができるというのです。 さて、私たちの身体の中での神経作用と愛の感触作用の速度はどちらが速いでしょうか? 皆さん考えてみてください。若い青年男女が恋愛をすると、何の病気にかかると言いましたか? (恋煩いです)。恋煩いには女が多くかかりますか、男が多くかかりますか? (男性です)。(女性です)。(笑い) どちらが多くかかりますか? 同じでしょう。同じですね。(笑い) 同じなのです。これに反対する者はいません。先生は同じだと思います。違うという人がいれば説明してください。説明するからには、その人が体験したものでなければなりません。では、男性が女性を恋しく思うのと、女性が男性を恋しく思うのとは同じでしょうか、違うでしょうか。どうですか? 同じでなければ大変なことになるのですね。男性に鼻を触られることがどんなに嫌な女性であったとしても、もし相手の男性が愛する人であれば、もっと触ってほしいと願うのです。愛にはそのような力があるというのです。愛は外へ出ていったとしても、自動的に内的世界の深い所まで入って占領できる内的力を備えたものなのです。ですから、すべての人間は愛を好まざるを得ないというのです。分かりますか? (はい)。 最近、世界的に権威ある学者たちが、レバレンド・ムーンは愛の主、救世主だと言うのを聞きます。(アーメン)。「愛の救世主であり、愛の哲学を論ずるのみならず、実践している素晴らしい人である」と言っているのです。それで、「レバレンド・ムーン、あなたはなぜそのように世界中で悪口を言われ、世界中に波紋を与えて、どんな家庭でも、どんな国でも、なぜ問題を起こすのですか? 今やあなたのゆえに問題の起きない家庭や国がないほどに、なぜうるさく騒ぎ回っているのですか。目的は何でしょうか?」と言うのです。なぜそのように揺するのかというと、それを揺することにより、ぎしぎしと穴が生ずるのですが、その穴に愛の空気を差し入れ、愛の水を差し入れようというのです。揺すっておくほどに愛を差し入れた時、それ自体が強く固まるのです。 このような真なる愛に属した夫が、その妻に対して愛をもってたたいた時、家庭不和が起こるでしょうか? (いいえ)。嫌いでたたけば、そこに家庭不和が起こるのであって、「ああ、いいですね」と言いながら一度たたいたからといって、妻が「あなたは、なぜ私を打つのですか!」と言うでしょうか? 「あなたはよく調和して、まるで稲妻みたいです」という心をもたなければならないのが、愛に浸った夫の心情であり、妻の心情だというのです。これは正しいでしょうか、間違っているでしょうか? (正しいです)。私たち人間がそうだとすれば、神様も愛が必要でしょうか、必要ないでしょうか? (必要です)。 それでは、神様は愛の対象をどこで探し求めるのでしょうか。愛は一人では成せないのです。では、文先生に愛がありますか、ありませんか? (あります)。見たのですか? (見ました)。何をもって見ましたか? (心をもってです)。男性と女性を見た時、男性に「愛がありますか?」と言えば、「ありますとも!」と言い、女性に「愛がありますか?」と言えば、「ありますとも!」と言うのですが、それは何をもって証明するのでしょうか? 問題は簡単です。男と女が違う点は何かということです。 さあ、それでは文先生は愛がありますか、ありませんか? (あります)。何を見てそういうのですか。天地万物の中のすべての調和というものは、凹凸を中心としているのです。鉱物の世界もみな同じなのです。対になっているというのです。これが分かっていれば、どんな研究をすることにおいても何の問題も心配ありません。化学の実験室に入って研究するとしても、これが分かれば、その相対が何なのかを探して作動させるならば、すべてがぴったりと決まるのです。神様が「作動するな!」と言ったとしても、「何ですか、あなたがこのように造ってくださったので、私はこうして作動するのです。これこそ神様が喜ぶことではありませんか!」と言いながら、ポンとけ飛ばして作動するというのです。神様の前でも堂々とそのような動作をすることのできる力をもっているというのです。では、神様も愛が好きでしょうか、嫌いでしょうか? (好きです)。それを見ましたか? どうして分かりましたか? 男に愛があるということ、女に愛があるということがどうして分かるかというと、自然の道理を見るとよく分かるのですね。いかに男性が立派だといっても、凸が凸を訪ねていって一つになるということは気違いなのです。それは敗北者です。落伍者なのです。それは合格側の圏内に入れません。男として生まれたならば、女性を探し求めていかなければなりません。 体と心の幸福の基地 きょうの題目は「韓国統一」なのですが、このような話をしていては、十時間、二十時間たっても終わることができませんね。もうやめて帰りましょう。(笑い) 皆さんは愛の話が好きですか? (はい)。愛の話をすると目も笑い、鼻も笑います。耳も、口も、額も笑い、すべての細胞が笑います。花がパッと咲くようにです。しかし、体と心がいつ統一されるのか考えたことがありますか。これは深刻な問題です。一生涯続く体と心の戦いを止めることのできるものは何なのか。これが問題なのです。私たちの父母も止められません。私たちの国の王様も止められません。いかなる師も止められません。聖人も止められません。このような体と心の戦いを止めることのできる主人はどこにいるのでしょうか。誰か深刻に探してみましたか? それが愛だというのです。真の愛のみが可能にするのです。これは統一教会の人たちが体恤していかなければならない貴重なみ言です。そのために先生はどれだけ深刻に考えたことか知れません。今日まで生の問題を解決するために苦しみ、みんな自分の生命を断っていってしまいました。このような、ありとあらゆる道において敗者の烙印を押されて死んでしまった人生の歴史があったのですが、それがどこから出発したのかというと、体と心が統一点をもてず、体と心の幸福の基地をもてず、体と心に希望をもてず、理想をもてなかったためです。では、何をもって体と心を統一しなければならないのでしょうか。お金をもって統一できますか? 力ですか? 知識ですか? 違います! 愛のほかに道はありません。愛しかありません。愛です! ですから、愛は永遠でなければなりません。私たちの心は永遠を願う主体性をもっているのですが、その私たちが永生を願う欲望以上に、愛はもっと大きい永生を願う力を備えているのです。ですから偉大な愛だというのです。このことに異議がありますか? 皆さんもそのように生活してみなさい。心と体が一つになれば、ここで心がドンと打てば体に共鳴するのです。反対に体をドンと打てば心に共鳴するというのです。私たちの頭脳もそうです。この手の先はそっと触れれば響きますか、響きませんか? 体の全身に響くと同時に心にも響くのです。神経器官がそのようになっているのです。外的に神経器官の動く外的触感と共に、内的根本まで響かすことのできる力があるならば、それが愛の触感だというのです。愛する夫が妻の髪の毛を一本そっと抜くと「痛い」と言い、二本抜く時も「痛い」と言うのです。では、三本抜く時はどうでしょうか? 女の人たち、どうですか? 「また、抜いてください」と言いますか。どんなに愛されている妻であっても、三本以上抜くならば怒ってしまうのです。なぜかというと、自分が被害を受けたと感じるからです。そのような女性であれば、自身を保護するためにはその品性も何もありません。しかし愛をもって解釈するならば、そのような人が幸福なのです。 それと同じく、神様も愛が必要です。文総裁も愛が必要であるようにです。では、神様は男なのでしょうか、女なのでしょうか? 私たちの原理では、どう教えていますか? それが問題なのです。先生は、神様が男なのか女なのか、何としてでも理論的に究明しなければならないのです。あいまいな神様であってはならないというのです。女が先ですか、男が先ですか? (男です)。男たちは、男が先であると言い、女たちは女が先であると言うのですね。ではアメリカの女性たちに聞いてみましょうか。「女が先ですか、男が先ですか?」と言うと、「女です」と言うのです。「すべて男たちは、女から生まれたからです」と。そのように考えているのです。即座の感情は相通じるのですね。いかに立派な男であっても、その人を生んでくれたのは、父か母かというと父なのですね。父が動機にならなければ生まれないのです。しかし生まれる時は、母の胎中から出てきたのですね。母が生んでくれたので、女が先であるという話も妥当みたいだというのです。では、女は畑でしょうか、種でしょうか? (畑です)。そうです。悪口ではなく、畑なのです。それが真理なのです。ですから男が先なのです。畑がどんなに良いとしても、栗を植えれば栗畑というのであって、もしその翌日に豆を植えれば豆畑になるのです。(笑い) 種によってその呼び名が違ってくるのですね。(笑い) ですから畑であれば、種を植えなければならないのです。では、どんな種を植えるのですか? (良い種です)。女の人たち何が良い種子なのか、悪い種子なのか分かりますか? それが分からないのですね。しかし、先生にはそれがよく分かるのです。ですから、今回もまたみなさんの祝福を行ったのですが、誰も不平を言わずに「一番良い相対と会った」と喜んでいるのですね。初めて会ったのに、世の中で十年共に暮らしてきた夫婦よりもっと仲の良いのを見た時、「レバレンド・ムーンは実に素晴らしい人だ」と分かったのです。(拍手) さて、神様は女でしょうか、男でしょうか? 答えてください。このことで先生がどれほど悩んだのか分かりますか? それは、実に深刻だったのです。統一教会の『原理講論』を読む人は、国会議員たちが他人の書いた演説文を読むような方式をもって読んではとんでもないことです。皆さんは杖なしに歩き回る盲人を見たことがありますか? (ありません)。良い盲人であっても、悪い盲人であっても、杖をつくのが統一的行動なのです。何の話か分かりますか? 統一教会の人たちが、先生ほどに深刻ではないということです。命を懸けて、すべての人生問題において神様がいるのかいないのかという、切実なこの問題を深刻に考えたことがありますか。 このように見る時、皆さんはあまりにも遠い関係なのです。皆さんが「神様」と言った時、まるで隣町の神様みたいです。そのような隣町の神様をつくってみたいですか、それとも我が国の神様をつくってみたいですか、我が家の神様をつくってみたいですか、私の神様をつくってみたいですか? (私の神様です)。私の神様というこのことは、実に深刻な問題なのです。もしそういう神様であれば、私たちの町内の誰よりも深刻でなければなりません。神様を私たちの町内から奪ってこなければならないからです。また私たちの国から奪ってこなければなりません。四〇〇〇万民族の誰よりも深刻に神様を必要としなければなりません。もし人類の神様を私の神様だとするならば、人類の深刻さを越えて、それ以上の深刻な位置に立ってこそ、私の神様にすることができるのです。これは理論的なことです。より必要とする人が、それを所有するようになるのであり、必要とする人に、この自然も供給するようになっているのです。おなかの空いた人に御飯が必要なのであって、おなかの満腹な人に御飯は必要ありません。それと同じことです。 私はこの前、誰かにこのような話をしました。李相憲(先生)が勝共理論を書いたことについてです。学者たちの中で李相憲ほどに深刻に考えた人はいません。尹博士もそのことを知らなければなりません。これが分からなければなりません。大学を出たとか、何々の博士になったとか、自分が知っている常識をもって評価してはなりません。私もそのような人は嫌いです。なぜかというと、先生は生死の境を逆転させてきたからです。生死を懸けて、命を懸けて逆転させ、選び分けてきたのです。それをできない人が、何の評価をするのですか。黙していなければなりません。統一教会の原理を評価してはなりません。文総裁を評価すれば、死ぬことにもなります。今に見ていなさい。これまで私に反対した人たちで、成功した人はいなかったし、私に反対した国で栄えた国はないのです。既成教会も私に反対したがために、あのように滅びて落ちていくのです。今や共産党の巣窟になってしまいました。聖書に記されているように、狼が羊の服を着て入っていって略奪しているのです。 「主なる汝の神を愛せよ」 統一教会の文総裁を一番憎んでいるのが誰かというと、キリスト教であり、そのキリスト教の中でも民衆神学、解放神学を中心とした者たちなのですが、彼らは正に共産党の手先なのです。神を探すことのできない者が、民衆神学を立てることができますか! 神がいないという彼らには、神学を立てることはできないというのです。何が解放神学ですか! 神学という言葉もくっつけるなというのです。神学は神様に対する学問であり、宗教とは自己開拓、自己啓発のための教えなのです。自己啓発をするためには、今まで罪となった歴史的なすべての結実である自分自身をいかに罪から解放できるかということです。パウロのような人であっても、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と嘆いたのです。野良犬のように自己解放を受けられなかった者が民族解放、大衆解放をいかに成すというのですか! 話にもなりません。宗教というものは、自己解放のために立てられたものです。個人完成が世界的基準まで至った人を何千年の歴史をかけて探し求めて苦労してきた神様の歴史なのです。アダム再創造の歴史なのです。 経済哲学は、すべての人間の理想を包括して導いていく標題になることはできません。その標題は、愛を中心とした理想論でなければならないのです。そのようなことを全部深刻な位置で処理しておかなければならないというのです。何の話か分かりますか。神様も必ず愛の対象が必要であるということを知らなければなりません。では、その愛の対象は、どのような人でなければならないのでしょうか。体と心がバラバラになって、四肢五体が自分勝手に、五官が自分勝手に放蕩する人ですか、そうですか? (違います)。四肢五体が確実に統一されて、一つの生命体になって、五官の方向がすべて統一的方向に帰一され、行動的な面においては、永遠なる理想を慕いながら、そこから真なる愛を描いていけるような人であれば、神様も愛の対象的な存在として考えることができる条件、内容があるとみなすのです。もしそうでない輩は滅びるのです。皆さんは何のために統一教会に入りましたか? 妻を食べさせ夫を食べさせるために、子供が祝福を受けるために入ったのですか。皆さんはまず自分自身を解決しなければなりません。 ここに立っている文総裁は、自分自身を解決するために骨を溶かした人なのです。涙も何瓶も流した人なのです。鞭で数千万回も打たれた人なのです。世界中のすべての矢を受けても倒れなかった人なのです。それはなぜかというと、愛があるためです。愛は打った人の位置を越えて永遠に成長するのです。ですから、統一教会は打たれながら、文総裁は迫害を受けながら、今日の世界的発展をどのように成してきたかというと、愛の主体たる神様が文総裁を必要としたからです。一回打たれるたびに、損害賠償まで責任を負ったので、打たれるたびに大きくなってきたのです。これが先生の一生です。監獄に入っても、出てくるたびに統一教会は発展したのです。アメリカの監獄に行って出てきた時、自由世界が私の前にひざまずいたのです。 共産世界のソ連に対しては、金日成執権下の北韓の監獄にも入ってきたのです。ですから、今や私が行く先々で彼らの足場がみな崩れているのです。何のことか分かりますか? 神様が私を必要とするからです。正義のためです。商売をするだけの根性で歩き回るような人を、神様は必要とするでしょうか。自分自身をよく反省してみなさい。聖書に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる汝の神を愛せよ」とありますが、これは命を懸けて成しなさいということです。そこにはお金も必要ないし、権力も必要ないし、知識も必要ありません。愛こそが一番であり、最初の戒めなのです。それで何を成そうとするのかというと、天地の大主宰たる、絶対的な一なるお方の愛の対象として、立ててあげるというのです。そのような内容を神様がもたなかったとするならば、神様は独裁者です。 そのような観点から見た時、このような聖書のみ言は正しいですね。「主なる汝の神を愛せよ」というのが最初の戒めであり、最初の戒めを守ることができない人は、たとえ二番目以下の一〇〇の戒めをすべて守ったとしても、そのような人は愛の法度の世界、愛の真理の世界に入れないのです。二番目の戒めは、「汝自身のごとく、汝の隣人を愛せよ」というものです。では、汝の隣人とは誰ですか? まず身近には妻であり、子供であるのです。そういえば実感がわくでしょう。ではその妻はどこから来ましたか、子供はどこから来ましたか? 妻は外から、子供は祖先から来ましたね。子供は私から来たのではないというのです。すべて隣人のような関係にあるのです。神様を愛するように、思いを尽くして隣人を愛さなければなりません。そのような心をもって神様を愛し、隣人を愛した人は天国をすべて占領しても余りある人だというのです。このような観点から見た時、合格する人がどれだけいますか。これは深刻なことです。先生がいかに深刻だったか分かりますか。ただ座って原理の道を探し求めたと思いますか。切り取りナイフで、一つ一つに接して切り取るようにしながら探し求めたのです。このような原理のみ言をなおざりにしたり、無関心に冷遇する悪党のような群れがこの統一教会にも多いということを私は知っているのです。そのようにつまらなく、くだらなく考えるような人々は、先生のみ言もくだらなく考え、先生もくだらなく思うのです。八八年までのすべての行動を一掃しなければなりません。でなければ、神様の絶対的愛の対象圏とは関係がありません。 深刻でなければならない! 私が四十三年路程を終えて、皆さんに語ることは、「深刻でなければならない!」ということです。皆さんも片方の目が痛む時は、どんなに深刻に悩むことでしょうか。それは、そこに最も関心をもつからです。また指一本を傷つけてもどんなに深刻になることでしょうか。人類始祖が堕落したことによって、私たちの全身は満身創痍なのです。その痛さが麻痺して、混迷状態になっているのを忘れて生きているのが今日の人間たちなのです。それを神様が御覧になった時、どんなに悲惨なことでしょうか。寸時を争いながら、生命を競い合って落伍者になり、流れて消え去る人生を考えた時、人生の価値はそのように無価値なものであってはならないのです。 神様が大声をあげて「私の息子よ! 私の娘よ!」と泣き叫びながら、何万年、何十万年、何百万年経てきたという事実を知らなければなりません。そのような神様の前に「父よ! 父よ!」と声が嗄れるほどに呼んだことがありますか。舌が渇き、息が詰まり、目を開けることができないくらいの切実な心をもって、どれだけ「父よ!」と呼んでみましたか。生命の主体なるその価値を抱くために、どれだけ逆転しただろうかというのです。その逆転した基準が、皆さんの人格基準として見ることができるのです。このように見た時、誰が本物なのか、偽物なのかすべて先生には分かるのです。そのように先生は見ているのです。これは深刻な話です。先生に従ってきて、先生が備えた福の位置に同参し、勝利したすべての基準を相続するための欲心をもった皆さんですが、正義に対する、天に対する、愛に対する深刻な位置でどれだけ監獄に出入りしたことがありますか。どれだけ悪口を言われてきましたか。この者たち! 誰も監獄に入ることなど考えてもいないというのです。そのような者たちが、このような高貴な位置をそのまま相続できるでしょうか。もし失敗すれば死ぬのです。間違えて行動すれば滅びるのみです。何の話か分かりますか。神様が愛の対象をつくられる時、いかに深刻だったのか、皆さんは知らなければなりません。万物の創造についても、既成教会ではすべて神様はみ言で創造されたというのですが、それは間違いです。愛の力を通して、神様はすべてを投入されたのです。神様は愛を犠牲にして万物を創造されたのです。神様は内的愛を完全に投入されたのです。 それで、完全に真空状態、完全な零の状態になるのですが、愛は消耗しません。愛は与えることにより、プラスされて戻ってくるのです。この宇宙も均衡がとれているのです。ですから、この宇宙で悪党たちが活動することは、いかにロスの多いことでしょうか。電気で言うならば絶縁体のようなものです。通じないものを通じさせようとするのですから、どんなにロスの多いことか知れません。しかし、発電所の発電機は故障して壊れるまで送電線があろうがなかろうが、配電線があろうがなかろうが関係なくその力を発揮するのです。神様は今まで何千年間も発電機のようにただで回っていたというのです。ですから、皆さんも「私は、深いこの洞穴で回っているけれども、私の力は光明なる天地を轟かせ、万民の幸福の基地になっている」と言いながら、そこで踊り歌い、万民の理想的生活を追求するこのような福地の起源になろう、と考えることができなければなりません。それが発電機としての幸福なのです。 さて、神様の真なる愛のジェネレーターは、人間を創造したその時から回り始めたのですが、中間で止まるのでしょうか、続けて回るのでしょうか。尹博士どうですか? (はい、回ります)。それは続けて回るのですが、常に空虚に回っているのです。愛の相対圏がない位置で、愛の主動的な本質を消耗させる悲しさにどんなに恨んで嘆かれたことでしょうか。皆さん、一人で生きる男やもめを考えたことがありますか。常に「ああ、私の幸福よ」と言い、また「ああ、私の運命よ」と嘆くのです。子供を死なせた父の心を誰が消し去ることができますか。それを消し去ることができるのは、息子が再び生き返ること以外にはありません。絶対的なのです。また、妻が死んだ悲しさも誰も消し去ることはできません。妻が再び生き返ることだけが夫を解放できるというのです。同様に、神様は愛の対象として人類始祖をつくりましたが、その人類始祖を中心としての対象圏を失ってしまった神様の悲しみを誰か慰めることができるのでしょうか。それ以上の存在が出てきて、「あなたはこのような事情のお方であり、このような歴史的な恨みを積み重ねてこられた悲しみのお方であることが分かりました。あなたが探し求めてきた道は、こんなにも多くの曲折があったのです。そのような千年万年の歳月を経て、あなたはいかに心を痛め、思い焦がれたことでしょう。そのような歴史的な悲痛な事情は、この私一人を愛でもって解放するために創造主として、救世主としての永遠不変なる姿勢であることが分かりました」と言いながら、千年万年賛美しても、お慰めしても解くことのできない神様の本然の愛を失ってしまったことを、誰かが探し出して、神様を解放しなければならないのです。 皆さんには、どんなに神様の悲しみを話してもその実感はわかないでしょうが、この文総裁は違うのです。誰か一人でもそのような神様の話をすれば、たとえ踊りの会場であっても、激しく痛哭する先生なのです。ですから皆さんは、統一教会を改めて信じなければなりません。統一教会を再び学ばなければなりません。先生を再び学ばなければなりません。先生はどんなに深刻かというのです。この偽者たち! 夜を徹しながら、この道を探し求めるために、先生はどんなに痛哭し、どんなに逆転してきたか知れません。皆さんには分からなくても神様だけが知っておられるのです! 今日のこの位置を探し求めるために、先生はどんなに心を痛め、思い焦がれてきたことでしょうか。倒れ、また倒れ、また倒れて、何度倒れたとしても、神様が倒れないその姿を見て、この愛の貴さが分かり、神様をお慰めしなければならない子供たる道理を知ったために、銃剣が脇腹を裂いていくとしても、「神様、私は大丈夫ですから、私を心配しないでください!」と言って慰めてきたのです。これは、堕落した後孫たちが行かなければならない運命の道なのです。にもかかわらず既成教会の牧師、長老たちは、「福は、自分たちがみな受けます」「自分たちが正統です」と言うのです。そして「文総裁は異端の頭だ」と言うのです。誰が本当の異端の頭なのか見ていなさい。異端の頭は滅びるのですが、正統は栄えるのです。今や、日本でも「統一教会の人だけが希望だから、統一教会の人を送ってください」と大騒ぎなのです。アメリカでもそうだし、韓国でもそうです。統一教会の人たちだけしか信じることができないというのです。 今日、互いに南北統一をすると言っています。それで先生は後ろでじっと見ているのです。この南北統一は私が最も主張してきたことなのです。今こそ南北統一すべきなのに、彼らは反対に騒乱を巻き起こしているのです。もし簡単なことであれば、既に私が成し終えていることでしょう。今も時を待っているのは、まだ残っている峠が多いからなのです。私は愚か者ではありません。かといって天地を意のままに統轄して歩き回る人ではありません。先生は神様の背中に乗って歩き回る人なのです。(アーメン)。何が「アーメン」ですか? (笑い) そのような資格を得て「アーメン」と言わなければならないのであって、資格もない者がなぜ「アーメン」ですか。 いったい誰の神様をつくるのですか。アメリカの神様をつくるのですか、大韓民国の神様をつくるのですか、私の神様をつくるのですか。どういう神様をつくるのですか? (私の神様です)。欲が深いですね。(笑い) そのためには民族以上に神様のために努力しなさいというのです。誰よりも神様のために努力しなさいというのです。文総裁以上に神様を愛して、そのために生きなさいというのです。神様が文総裁を好きであるとするならば、その文総裁以上になれば、神様は間違いなく皆さんを好きになるのです。それは間違いない公式です。これには異議がありませんね。先生が願うことは、先生よりもっと神様を慰め、神様のみ旨のためにもっと奉仕し、功を立てることのできる人になることです。万一、この私が私よりもできない人がいることを願うとするならば、それは独裁者なのです。何の話か分かりますか? (はい)。誰よりも私の神様をつくりたいですか? (はい)。ここで自分の神様をつくりたい人は手を挙げてみなさい。これはすべての人々が願うことですね。 私の神様をつくらなければなりません 私は、私の神様をつくるために多くの悪口を言われて歩き回りました。分かりますか。アメリカの神様ではありません。イギリスの神様ではありません。ドイツの神様ではありません。ある牧師のための神様ではありません。私の神様をつくろうとしたのです。ですから、私の教えは神様の心情についてです。神様の心情による人格について語っているのです。そのような人格を中心とした心情の夫婦について語っているのです。心情の家庭、心情の氏族、心情の民族、心情の国家、心情の世界、心情の天宙圏について語っているのです。皆さんはこのみ言が何のことなのかまだ分かっていません。先生のみ言は、このような内容を知らずしては理解ができないのです。内容があまりにも膨大だからです。しかし、このみ言が分からなければなりません! 統一教会の食口たち! 私の神様をつくるのですか、文先生の神様をつくるのですか? (私の神様です)。私の神様をつくろうとするのならば、先生よりもっと熱心に活動しなければなりません。先生より安らかに眠ってはなりません。あなた方の息子、娘が行くべき道に垣を築いてはなりません。くぼみを掘ってはなりません。垣があるならば垣を崩し、くぼみがあるならば橋を架けなければなりません。そのようにして、私の神様をつくらなければなりません。絶対的な神様が私の神様にならなければなりません。私たちの家庭の神様にならなければなりません。私の神様をつくることが難しければ、自分の妻の神様をつくらなければなりません。自分の息子、娘の神様をつくらなければなりません。そのようにして連合的な神様の権威を立てなければなりません。そうすることによって神様が喜ばれるからです。そのような神様のみ旨なのです。 そのような家庭、そのような氏族を成し、私の神様から氏族の神様、国家の神様となるのであって、氏族の神様から始めてはいけません。国家の神様から始めてはいけません。これが分かりますか? 自分が重要な問題なのです。外的に立派だという人を評価する前に、まず自分自身を評価しなければなりません。外的怨讐がいる前に、自分自身が怨讐であることを知らなければなりません。外部の怨讐は、私たちの目の前に現れて、一時的に攻撃してくるのですが、私の心の怨讐は一生涯、億万年くっついて私を矢で射ているというこの事実を知らなければなりません。 このような怨讐をいつ征服するかという問題が、堕落した血統を通じて、私の中に根を下ろしているという事実が分かっていないのです。ですから、この私たちが手を出すこのことも、サタンの手になっているというのです。また愛を探し求めていく時に、男女が交際する時も、サタンが混乱を起こしているという事実を知らなければなりません。今日、よこしまで怪しげなる欲望の地獄門の前であえぎ苦しむ人類像を眺め、神様の真なる愛をどこから求めるのかを考えてみなければなりません。心が冷え冷えするようなこの現実なのです。 今日、この腐り切ったアメリカ社会のフリーセックスなど、サタン悪魔によって地獄化された中で、その反対の絶対的天国化の愛の理念をどのように立てるのかということが、文総裁の仕事なのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。神様は縦的父母であります。真なる愛を中心として見なければこれが分からないのです。今日の統一教会の原理を通じて、文総裁が昨年一年間ですべてを明らかにしたのです。神様はいったい何なのか、今まで誰にも分からなかったのです。いかなる考えをもってしても分かりません。実験を通してみて、「間違いなくそうである」と、自ら間違いのない位置で語ることができるのです。統一教会の文総裁のみ言どおりに間違いなくそのようになるのです。それがこの世の指導者と先生の違うところです。先生はこの世の指導者たちのように応用する人ではありません。常に実践しながら生きると同時に、証明する一つの標本像として生きているのです。ですから先生の話は「このようであろう」ではなく、「こうである!」というのです。 さあ、そのようなことを知った皆さんは、自分をもう一度チェックしなければなりません。そしてもし悪魔世界の博物館の展示場に一つでも提出するようなものがあるとすれば問題です。そのようなものが残っていてはなりません。そのようにして、サタン世界から解放され得るということを知らなければなりません。何の話か分かりますか? (はい)。常に深刻でなければなりません。先生は三十歳になるまでは、むやみに話をしませんでした。私の責任と、私の行く道をいまだ定めることのできないような男が、いかに口を開き、いかに自分を主張できますか! 恥ずべきことなのです。ですから先生は、三十歳以前はおなかが空かなかった日がありません。父母が学校に行きなさいといってお金を送ってくれたならば、全部友達に分け与えて、服も古着屋で垢の染みついた一番古いものを買って着ました。ですから、皆さんを三十歳までは苦労させるのです。分かりますか? (はい!)。統一教会の人々は、三十歳までは報酬を得ようと思ってはなりません。それをもらえる人は、神様の相続を受けられる人でなければなりません。神様の所有圏に同席することのできる資格者でなければなりません。 そのためには原理でいう、責任分担完成をしなければなりません。責任分担を完遂して、神様の愛のみ前に連結されることによって、神様の愛を中心として一つになり愛の同位権、同参権、相続権を得るのです。このように見た時、世の中の怪しげな人間たちを掃き捨てなければならない時が来ます。今まではそのような人たちも、先生が父のように手助けしてやり、相談してあげたのですが、いつでもそのような先生であると思ってはなりません。これをはっきりと知らなければなりません。分かりますか! 私を利用してはなりません。これからは、私のほうが皆さんを利用しなければなりません。私が皆さんを利用するのならば、皆さんは生きることもできますが、皆さんが私を利用しては生きる道もありません。 神様の作戦 今まで統一教会のいろいろな非理も、私は全部知っていても知らないふりをして、だまされてやっているのです。知らずにいるのではありません。一九八八年までは、私が責任を負ってきたのです。いかに難しかろうが、楽しかろうが、すべてに私が責任を負った時代でした。人類を代表し、歴史的なすべての国々を代表して、数多くの国民、数多くの国の為政者たちを代表して、私が責任を負ってきたのです。今では、その責任をすべて遂行したのです。サタンはその責任遂行を妨害するために、ありとあらゆることを常にやってきたのです。先生の妻子をみな奪っていきました。父母を奪っていきました。一族をみな奪っていきました。皆さん、それを知らなければなりません。文総裁が離婚したのでしょうと言うのですが、私が離婚したのではありません。サタンがすべて奪っていったのです。サタン世界と既成教会なのです。子供を滅ぼしたのも私ではありません。その母親が既成教会員なのです。私の一族も全部、犠牲になったのです。ですから一族を失ってしまったように、一国も失わなければなりませんでした。国を捨てなければなりませんでした。この世界を捨てなければなりませんでした。そして、私だけが残り、一人追放された立場で、荒野のような世界に立って、そこに石垣を積み、生命の橋を架けて上がってきたのです。再び韓国の地に上陸して、すべての試練と激しい攻勢を受けながら、黙って打たれながら奪ってきたのです。何のことか分かりますか? 神様の作戦を知ることができたからです。悪魔が打てば打つほど、国全体が一つになって打ってくる時、その国全体の降伏する日が早く来るというのです。世界全体が一つになって攻撃すればするほど、世界全体の降伏する日が早く来るというのです。それで個人から家庭、氏族、民族、国家、世界まで、迫害の路程を歩んできたのです。分かりますか? ですから、アメリカのような国では、ショーのクイズにも出てくるのです。「この世の中で一番悪口をたくさん言われる人は誰ですか?」と。すると直ちに「その人はレバレンド・ムーンです」と答えます。 この歴史上で一番悪口をたくさん言われた人は、ヒトラーでもないし、ムッソリーニでもないし、スターリンでもないし、共産党でもありません。彼らを世の中のすべての人々が反対したのではありません。しかし、この先生は初めからそうでした。四十三年間が何ですか。迫害は解放前から始まったのです。その当時から今日もなお迫害を受けている先生なのです。ですからいつも四肢を伸ばして心置きなく眠れないのです。今も天に対して四肢を伸ばして眠れないのです。それが習慣になったのです。右のほうに横になるか左のほうに横になるかです。罪人の身を抜け出なければならない一日を願って生きているのです。私の家庭を解放しなければならない解放の日を願って生きているのです。いまだに氏族を解放させなければならない解放の一日をもてません。南北統一、韓国統一を中心として、民族と国家解放の一日をもてないのです。 韓国統一はこのままでは成せません。アメリカやソ連、日本や中国によらずしては成せません。誰が何と言っても駄目なのです。今に見ていなさい。下手をすると死ぬのです。現政府に共産党を消化できる能力があるでしょうか。なぜそのように急ぐのですか? 先生は準備しておいたとおりのことをゆっくりと行うのです。正しく大きく育ってこそ、その実も正しく結実するのです。急いで御飯を炊けば、生煮えの御飯になります。中間で全部崩れてしまうかもしれません。私は慌てません。私以上に忙しい人がいないし、私以上に深刻な人はいませんが、まだこのようにしているのです。しかし政治の背後においても、誰よりも深い谷間から私は準備してきたのです。多くの人々が私の世話になっているのです。既成教会は解放神学だといって、今や共産党の巣窟になっているのです。そして、文総裁一人をへし折っておけばよいと世界万国共産党と合作して攻勢しているのです。このようなことも知らずに皆さんは、この前も何だと言ったのですか? 「あの団体を後援したならば既成教会が反対するので、大変なことになる」と言いましたね。 先生は四十年間、また生涯を通じて、既成教会に対して正面から命を懸けて戦っているのです。そのような先生が恵沢を与え、そのような先生が協助しているのです。恩恵を知らない人は滅びるのみです。私がこのように自信をもって話をするのは、先生に「滅びよ」と言った者たちで、滅びなかった者がいなかったためです。だからといって、私が呪ったのではありません。これは原理なのです。「元亨利貞」は天道の常だということです。ですから、統一教会の食口たちは神様を先生の神様として置いておきますか。皆さんの神様につくるために涙をどれだけ流してみましたか? 私は涙を流して、朝昇ってくる太陽の光を見ることもできず、頭を下げて生きた男なのです。木が私を慰め、芝が私を慰め、岩が私を慰めてくれたのです。このように、その事縁が深くしみ込んだ事情に従い、天が私を尋ねてきて慰めたのです。自然が慰め、海が慰めてくれたのです。その世界に戻ってみると、すべて見えます。すべて語ります。すべてが「解怨成事。万福があることを願う」と語るのです。そのようなる福寿が地上から天上に染み入るようになる時、神様が挙動し始められるというのです。ですから、先生はむやみに祈りません。先生は行ったあとで祈祷する人なのです。分かりますか。体験してから教えるのです。 さて、きょうの表題は何でしたか? (韓国統一です)。南北統一もそのために準備してきたのです。準備できなかった個人は流れていくのです。国家も、準備できなかった国は流れていくのです。万一、この韓国が滅びても、再び韓国は蘇生します。私が教えてきた、私が立てた天の法度と、天の秩序に従って蘇生します。この国、この民が南北を統一できなければ、世界中のすべての統一教会の食口たちが南北を統一するのです。何の話か分かりますか? 私たちが統一するのですか、それとも外国の人たちが統一してくれることを願うのですか? (私たちが統一します)。韓国自体が統一できなければ、その福を韓国は失ってしまい、統一を主導した外国の人たちの福になるのです。その福を受け継ぐ国が先生の国になるということを知らなければなりません。何のことか分かりますか? (はい)。 最近は、太平洋時代だと言いますね。太平洋時代とは、私が四十年も前から教えてきたことです。それが今やすべてに一致しているのですね。一九七八年から十二年間は日本の全盛時代になりますが、一九八八年を過ぎてからは下っていくのです。韓国を助けなければ下っていくのです。それで今度、日本の人々をして下っていかないようにしたのです。今度韓国の人と祝福を受けた人たちの中で、東大出身者だけでも十四名です。その人たちが花嫁を得るのに、また新郎を得るのに何を見てしましたか? 空中を見てしました。空中です。(笑い) それが蕩減なのです。この目をもってだまして食べてきた堕落の血統たちが相対を得るにあたって、全部神様の前に任せて、「神様が一番であり、絶対であります。この世を見返りません」と言って目を閉じたので、蕩減復帰できたのです。 それで今回の祝福を見た外部の人たちは、統一教会の信者たちの結婚は、みな言葉が通じるものと思っていたのです。しかし、結婚式に多くのカップルが参席しても言葉が少なくとても静かでしたね。(笑い)「お昼を食べましょう」という言葉は何と言いますかとか、「便所に行きます」と話ができましたか。それで仕方なしに便所までついて来るのですね。(笑い) どこに行ってもぴったりくっついて歩くというのです。仕方なしにそのように親しくしなければならないというのです。ですから、言葉ができる人たちより立派なのです。それで、日本の中でこのことの分かる賢い人は、もう文先生に負けたと考えるのです。このように、最も賢い青年たちが、言葉も分からなくても喜んで結婚するのです。また、それが世界史的な主体性をもって、人類の幸福の起源を探し求めていく家庭基盤の上でなされたという事実は、驚くべきことなのです。このような歴史の奇跡ともいうべきこの事実を見ても、無感覚になってしまったような食口は、早く悔い改めなければなりません! 先生の生涯の生活哲学 このように、社会的に平準化される時まで千辛万苦、先生が悪口をどんなに言われ、どんなに血の汗を流してきたのか分かりますか。あなた方を解放してやるために、あなた方の家庭に、福地天国の基盤を築くために先生がどれだけ悪口を言われてきたか分かりますか。数多くの家庭から、「多くの統一教会の幼い子供たちを全部奪って、全部煮て食べてしまう」などと、ありとあらゆる悪口を言われました。しかし、このごろになって、「そのような息子、娘たちが、一番優秀です」と言いながら、その父母たちが全部、統一教会の食口になりました。あなた方の妻が、今後あなた方が迎える妻子が、いかに貴い人かということを知らなければなりません。「統一の世界の文化の曲折を越えたい! 越えたい!」と思ってきたのが神様の願いです。地上の人類たちは「神様を探し求めて、孝子の道理を探し求めて越えたい! 越えたい!」と思いながら願ってきたその一時は来たのです。それがいかに大切なことか分かりますか。 神様が御覧になって忘れることができない、抱かざるを得ない、責任を負わざるを得ないそのような環境による夫婦となったにもかかわらず、その祝福の位置を捨てて、亡国の種となった、無責任に破綻させるような人たちは今後全部引き裂いて殺されたとしても、その罪を避けることができないという恐ろしい事実を知らなければなりません。何のことか分かりますか? この道は遊びではないのです。先生が一生の間、全生命を投げ出してこのことを成しているのです。解放理念を越えて立つ時までどれほどの期間がかかったかというと、十四年の歳月をかけた闘争をして、男を整えて女を整えてこの基盤をつくってきたのです。サタンの前を逃れずしては結婚ができない運命において、血のにじむ闘争歴史にぼろ服を着て越えてきたのです。絹の服を着ることができませんでした。サタン世界の血の流れる歴史時代に生きてきた先生は、ぼろ服に血が付いたとしても、新しい服にサタンの血の痕を残すことができないのです。 このような哲学をもって、誰にも理解できない生活を経て、一国を解怨成事するために、万国解放を中心とする一つの旗手となって、勝利的解放者として足取りも堂々と、自分の国に入城するその日を眺めながら今も歩んでいるのです。そういう戦場の将軍であることを知らなければなりません。その戦争はまだ終わっていません。 そのような神様を私の神様としてもちたければ、まず神様の前で先生をもちなさい。私の先生を探し求めるのだと思わなければなりません。先生の生涯の生活哲学を自らの哲学とし、自分はそれ以上やるのだと思わなければなりません。先生が四十三年間に成したことを、私は一生涯すべてそのように生きたならば、いかに良いだろうかと思わなければなりません。そのように生きなければなりません。先生は生まれてからすぐに戦うことができませんでした。準備する期間が必要だったのです。しかし、これからの統一教会の後輩たちには、もはや迫害がありません。今日まで先生が迫害の期間をみんな越えたのです。ですから皆さんの一代において、死ぬ前に、全世界に統一教会の旗の立っていない所がないように努力しなければなりません。皆さん一代でこれを成さなければ、各国の各民族の前に平面的世界の平準化の理想圏を植えてやることができないのです。歳月の過ぎ去ることが遅いことを願いながら、一日を千年のように考えながら、今晩中にもあすの仕事を成さなければなりません。きょうの仕事をあすに残してはなりません。 蕩減復帰歴史はアベル的人物が必要であり、条件物が必要であり、期間が必要です。この期間を短縮させなければなりません。どのように短縮させるのかというと、先生は三次七年路程を四年間も短縮させたのです。そのためには血のにじむ闘争をしなければなりませんでした。矢を受けても死ぬことができませんでした。そのような戦いを経て、一九八八年を韓国の年としたのです。既に皆さんに語ったように、「転換の年である」というのです。当時、それを誰が信じましたか! 解放直後、今から四十余年前に「一九八八年を越えよう! その時こそ私たちの時が来る!」と言いました。しかし、世界の迫害を文総裁の双肩にしたその戦いの場にあって、勝利の覇権を手に入れずしては、一九八八年に解放の時が来なかったのです。その日のために死よりも、もっと大きい峠に向かって投入して入っていったのです。ですから、アメリカに行くようになった時も、監獄の峠を越えることを覚悟して、命を懸けて行ったのです。このような出発の事情を誰が分かりましたか! ですから、その局面まで引き込まなければならないのです。そこで汝が死ぬか、我が死ぬかという判定を下さなければならないというのです。 それで、原告がアメリカ合衆国であり、被告は文鮮明です。私の一代で全世界を代表するアメリカと戦ったのです。私がダンベリー期間を経たのは、監獄の門を解放するためなのです。天上世界と地上世界のふさがれた垣を打ち壊す道を開いたのです。そこにおいての一年一カ月という期間は、イエス様の十三数の悲惨なる歩みを、地上世界と天上天国、地獄と天国の門が閉じられていたのを、その場で地上地獄、天上天国、霊界地獄、霊界天国の門を開く業をする期間だったのです。イエス様が三日間地獄に行ったのもなぜかというと、その道を開くためだったのです。しかし、イエス様は霊的のみであって肉的でなかったのです。しかし、私は霊肉を中心としてその戦いを成したのです。それで四十日が終わるや否や、すべての監房解放が始まったのです。開放してすべての人たちに見物させたのです。そのような、平面的なすべての監獄生活を全部開放させるという運動が始まったのです。 さて、先生の神様をもちますか、私の神様をもちますか? (私の神様です)。あなた方の花嫁、あなた方の花婿をもちますか。それとも、ただ父や母だけ見て生きますか。あなたの父母の願いは、あなたは独身で一人で生きて結婚するなというのですか? 同じことです。先生の神様を私の神様として侍り、それによって結婚が始まるのです。そうですね。それで先生が根であるならば、あなた方は幹となり、その幹から枝が出てきて、次に枝から葉が出てこなければなりません。では、実はどこから出てくるのかというと、根から生じるのではありません。皆さんを通じて成されるのです。統一教会を中心としての大韓民国が勝利するのは、皆さんを通じて勝利しなければならないのであって、先生を通じて成されるのではありません。 内的、外的還故郷 二世時代の次には、何の時代が来るでしょうか。何ですか? 二世の次は三世です。その三世においては、サタン世界の痕跡すらない家庭的囲いをつくらなければなりません。一番重要視するのは血統問題なのです。他のことではありません。愛の問題なのです。愛の門は二つではありません。一つなのです。 今までは男たちがみんな浮気をしましたが、それはエバが二人の男を経ていったために、男も二人の女を経ていく時代だったからです。これからは許されません。男の貞操を尊重する時が来たのです。何の話か分かりますか? これが一番の罪なのです。それは、神様の体を侵す罪であり、真の父母の体を侵す罪になるのです。それをはっきりと知らなければなりません。今までは、先生がすべてのことに責任を負っていたために、皆さんのこともすべてカバーしてきましたが、これからは皆さんが主導しなければなりません。きょうからは、中心を正しく立てて、その国家的基準を中心として、東西南北の四方を整えなければならない時が来るのです。今後、一月十日まで西欧社会から三〇〇〇名が来るのです。日本から四〇〇〇名、計七〇〇〇名が来るのです。この国に来て、先生が涙を流して戦ってきたことと同じ悲惨な戦いがあったとしても、それが自分たちの願いを成すための一つの福地基台として涙を流し、精誠を尽くし、血の汗を流すことを誇りとする歴史時代が訪れたのです。 そのような人たちが来て努力するその前に、落ちるような人たちは葉になるのですか、枝になるのですか? それとも双葉になるのですか、新葉になるのですか? 双葉になるというのです。この人たちがなぜ韓国に来るのだと思いますか? 皆さん今や時が来たために、皆さんにも先生が帰郷を指示したのです。分かりますか? 彼らは内的な還故郷である韓国を尋ねてきたのです。ですから先生が責任を負い、皆さんにも故郷へ帰るようにと話したのです。彼らはカイン的面で、外的な面で故郷に帰ってきたのです。そして、なぜ七〇〇〇という数なのかというと、旧約時代に北朝イスラエルと南朝イスラエルに分かれて、北朝イスラエルの十支派と南朝ユダの二支派が、カイン・アベルに分かれて戦ったからです。 聖書を見るならば、善なる預言者は全部南に送られたのです。北朝はカインなのです。そして十支派とは、ヤコブ時代に十人の兄弟がヨセフを売り飛ばしたことによるのです。それと同じことが歴史には起こるのです。そこから二支派はベニヤミンとヨセフを中心としたものです。このようにユダヤ教の北朝十支派、南朝の二支派に分かれて戦いが始まったのです。そうなると、ヨセフの二支派は天側であり、十支派はサタン側なのですが、この天側の二支派によってサタン側の十支派を消化しなければならなかったのです。その戦いが旧約の歴史なのです。ですから、旧約時代は全部が戦いの時代なのです。 それで神様はすべての預言者たちを、南朝ユダの国に送ったのです。そうして、北朝を救おうとしたのです。北朝は全部アシラの木像、偶像であり、外的神たちなのです。見える実体神です。そうしてバアル神は淫乱の神なのです。そうです、昔の占い師や巫女たちは全部、貞操を売っていたのです。このような行動が良くないのです。悪魔の巣窟がそうなのです。このような時に、エリヤが出てきて慨嘆したのです。十支派の偽神を崇める祭司長たちと神様が送った真の神を崇めるエリヤと戦ったのです。八百余神たち、北朝の偶像崇拝の神たちと戦って、エリヤは真の神が誰なのかということを見せるために祈祷をしたのです。エリヤが祭壇にひざまずいて祈祷した時、天から火が下ってきてみな燃えてしまいました。そうして、八百余のバアルの神を一度にへし曲げて捨てたのです。そこから北朝は悔い改めて、神様の前に立ち帰らなければならなかったのに、怨讐となって南朝の前に屈しなかったのです。しかし神様は信じるけれども、南朝を好きではないというのです。それが問題なのです。 伝統や習慣として残されてきたものを、新しい時代に転換しようとする時も、今までの惰力によって、そのまま引っ張られていってしまうのです。転換して戻っていかなければなりません。歴史はそのように見るのです。ですから、終わりの日には、自分たちが好み、自分たちが崇拝してきた歴史と伝統のすべてがその国を滅ぼし、自分の一族と、家族全体を破滅させるような転換の時期が来るということを知らなければなりません。 そして、エリヤを捕らえて殺そうとするので、エリヤは逃げていって神様の前に訴えたのです。「私の生命を引き取ってください。あなたが行えと言うとおりに私は全部果たしたのです。このようにすれば願いが全部成就すると思ったのに、彼らはむしろ私を捕らえて殺そうとします。神様なぜですか?」と言いながら祈祷した時、神様は、「まだバアルに屈しない七〇〇〇の群れが残っている」と言われたのです。北朝に、バアル神の前に屈しなかった七〇〇〇の群れが残っているゆえに、この七〇〇〇の群れを中心として統一的な願いの基準を残していくようにと語られたのです。それが天の警告だというのです。 七〇〇〇の群れ 旧約時代においてそうだったので、再び新約時代においてメシヤが来られる時には、エリヤを送るということは、そのような使命を再び成すためのエリヤ的責任を中心として、洗礼ヨハネを送るということなのです。洗礼ヨハネが成さなければならなかったことは何かといえば、よこしまなユダヤ教とユダヤの国における外的な風習、バビロニヤで浸ってきた異邦神のすべての風習的汚いものを清算することなのです。すべて火に燃やして、エリヤが主張したように、神様へ立ち帰ろうという主張で一致しなければならなかったのです。そのような洗礼ヨハネであったにもかかわらず、洗礼ヨハネはその責任を果たせなかったのです。ですから、イエス様が来られる時、ユダヤ教とユダヤの国がイエス様を捕らえて殺そうとしたのです。イエス様に反対するようになっていたのです。ここに橋を架けて、メシヤの道を収拾しなければなりませんでした。もし、カイン的ユダヤの国とユダヤ教の前に七〇〇〇の群れを治めていたならば、イエス様は死なないで済んだのです。洗礼ヨハネがそのように、七〇〇〇の群れだけでなく、イエス様と一つになったならば、三年間に七万名でなく、七十万名もつくることができたのです。 その中から、天の国を探し求めようと願う氏族編成、民族編成を成し、国家代表を立てて祭祀をささげなければならなかったのです。歴史始まって以来、宗教を通してのこのような蕩減原理によって、神様のみ前に万国の解放のための祭祀をささげなければならなかったのです。その祭司長が洗礼ヨハネであり、祭物にならなければならないのがイエス様であったにもかかわらず、洗礼ヨハネがイエス様と一つになれなくて、イエス様に十字架の道を歩ませてしまったのです。洗礼ヨハネは、七〇〇〇の群れどころか、七〇〇名も治められず、七十名も治められず死んだのです。これを先生の時代になって復帰したのです。これを蕩減復帰するために、先生はダンベリーに入って獄中で七〇〇〇名の牧師の教育を実施したのです。しかし、アメリカのカイン圏とアベル圏、内的な教会と外的な国家、これが一つになることができなかったので、先生が中心になって教会の牧師と国会の上下院、さらに州上下院を完全に一体化させたのです。 ですから、アメリカのキリスト教会の七〇〇〇名を韓国に連れてきて、韓国に接ぎ木するのです。彼らは韓国に来たので、もはやアメリカ人ではないのです。このように、昨年まで七〇〇〇名を中心としてその業を終えました。そして、国防省の将星たちを全部を教育して、さらに在郷軍人会を教育して連結させたのです。そこで教会と地方が連結したのです。その次には、政界を教育してしまったのです。 それで、再びアメリカが戻ってくることができるのです。軍隊は二世と同じなのです。外的二世なのです。一世は国家を保護する一線を代表した者たちです。防衛軍は内的な軍隊なのです。この内的な軍隊を中心として、内的な若者と一体化させるための組織を編成して、これから運動を展開するのです。政治的行路、方向性を示すのです。その次には何かといえば、教会です。教会が行かなければならない方向を示さなければなりません。 そうしてAFCという組織を中心として、今回国家的なすべての機関に影響を及ぼすことのできる内的なすべての業がなされたのです。お客さんである者が、永住権をもったアメリカの大統領を救ってあげなければならなかったのです。それは易しいことではありません。そのような目的があるゆえに、先生はアメリカに着くや否や悪口を言われたのです。千年恥辱、万年惨敗で始まったのです。しかし、恥辱はいくら受けても敗北者になってはいけないのです。分かりますか! それが分かっていたので、唇を噛み締め、歯を食いしばりながら、過ぎゆく歳月を引き止める切実なる心をもって、暗い荒野のようなアメリカ大陸をさまよいつつも、この若者たちを先頭に立てて、外的環境を築くためにひたすら歩んだのです。 だからといって、アメリカの人々の前に、一九八七年までは、このような話をすることはできなかったのです。そうでなくても、政治を口にすると大騒ぎするのです。このように成しながら私一人で外的基盤を築いて一九八七年一月にAFCという超党的な活動の基盤が築かれたのです。その後一年半以内に、アメリカ大統領が私たちによって当選せざるを得ない基盤となったこの事実を忘れてはなりません。これらは、アメリカの朝野も言論界も拒否することができない事実なのです。それでニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュの四代を経て、本来の位置を確保したのです。今や四年後には、ブッシュ行政府と私たちが一つになって、アメリカと韓国とアジアを指導していくのです。四年間にできない日には、ブッシュはふっ飛んでいくのですが、私はふっ飛びません。そのような時代が近づいているのです。 この四年間は何かといえば、神様のみ旨の中で一九四五年を中心として見た時、当時の韓国は国もないし、何にもなかったのです。無風地帯だったのです。国のない民であり、民といってもその民はどこにも根拠がありませんでした。日本人であると言うこともできないし、大韓民国の人であると言うこともできなかったのです。空中に浮いたこの人たちが先生を中心として、そこにキリスト教とアメリカが協助さえしていたならば、七年後の一九五二年までに世界のキリスト教は収拾されていたことでしょう。七年もかからなかったのです。三年以内に世界を全部収拾して、先生は四十歳になって、世界のトップクラスの為政者たちを指導して回ったことでしょう。しかし、それが今日このようなありさまになってしまったのです。 すべてが反対してきたことによって追い払われたこの先生は、四十三年ぶりに四三〇〇年の歴史と蕩減の路程を経て、縦的にふさがれたすべての垣と、横的にふさがれたすべての垣を打ち壊したのです。縦的垣、横的垣をすべて打ち壊して平準化させる業をたった一人で行ったというこの事実は驚くべきことなのです。これは、今まで神御自身にもできなかったことです。 天の国の本貫の入籍を この前誰かが、これは霊界から教えられたことですが、「文先生は私(神)ができなかった歴史上のすべてのことを一人で責任を負ってきました。私より立派です」と言うのです。神様も今までできなかったのですね。神様も人を通さなければできないのです。何のことか分かりますか? そのような先生をもった統一教会の栄光とその価値がいかに大きいかということを忘れてはなりません。ですからむやみに生きることはできません。女がどれだけ美人だとしても、大家の嫁に行けば、その大家の法度に従わなければならないのです。もしその法度に従わなければ、追放されるのです。生活も合わず、習慣も合わず、風習の通じない所で規律のびっしりと詰まった行事に従って生きていきながら、そこに拍子を合わせることは易しいことではありません。しかし、拍子を合わせなければ追い出されるのです。そうですね? (はい)。 これからは、天の国においての皇族圏を中心として編成していく時代なのです。分かりますか? あまり良くない人たちは、今後ブルドーザーで押し出す日が来るというのです。私が教えたすべての原理のみ言を中心として、世界へ行く時には、その世界で伝統を邪魔する統一教会人がいてはなりません。そのような者の根を抜いてしまわなければなりません。目を閉じて断行しなければなりません。その時には私が父母を捨てて出発した、妻子を捨ててきた無情な歴史時代を回想しながら、天国の伝統のために剣を振るうのです。その剣を当てられても動じない肝っ玉がなければなりません。私の目を見なさい。私の言がいかに速いかを聞きなさい。それは強い主張をもつからなのです。間違った日には許しがありません。そのように今後、世界に向かう時代が訪れてくることを思う時、厳粛に過去を再び悔い改めながら、自分の一身を整備し、家庭を整備しなければなりません。皆さんの一族が崇拝、尊敬できるような人にならなければなりません。 なぜかといえば、先生は反対してくる環境で崇拝され得る業を成してきたからです。父母たちが反対したのですが、彼らの子供たちは反対する父母をけ飛ばしてきたのです。尊敬ではなく、崇拝して先生に従ってきたのです。しかし、これから皆さんが行かなければならない道は違います。もはや反対はありません。先生がすべて防いでやったからです。みな崩してやったからです。ですから、皆さんは先生をどれくらい崇拝しなければなりませんか? 皆さんの後孫に対し、皆さんが迫害時代に先生を崇拝してきたその何百倍もの崇拝する家庭の伝統を残さずしては、天の国の本貫に入籍することが難しいということを通告します。 皆さんの息子、娘たちが、皆さんが先生に侍ったその何百倍以上に侍ることのできる基盤をつくっておかずしては、落ちて流されて出ていくのです。考えてもみなさい。今後世界の人たちがやって来て、「ああ、これが本当の統一教会の原理なのか? 再臨主の理論なのか?」と言うのです。それは皆さんたちの生活が習慣になって、盲になって、うすのろのようになり、麻痺しているからです。今まで生涯血の涙を流しながら、「あ! 雲に乗って主が来て私を救ってくれるし、空中に上がって婚姻の祝いをする」ということを夢のように信じ、幻影のように信じてきた人たちが、今まで反対していても、この事実を知るならばどれだけ驚くことでしょうか。そして、どんなに皆さんの位置がうらやましく、どんなにその位置を得たいと思うことでしょうか。 また、今まで統一教会の先生に祝福を受けたあとで落ちていった者たちの中にも、このごろは再び入ってくる者がいます。入ってきて、自分の同期生たちに会うたびに、胸に矢が刺さる思いなのです。自分が立派であると思い、意地を張って出ていったのですが、統一教会がこのように立派になるとは知らなかったのですね。ところが、自分のざまは何ですか。祝福を受けてありとあらゆることを全部やって、「統一教会が何日もつか?」と言い捨てて出ていったのに、今や世の中に追われて、再び入ってこざるを得ない身の上になったのです。そのような人を隣町の親戚も、父母も、原理を知って黙っておくでしょうか? 「こいつめ! お前はどうして統一教会に入っていながら出てきたのか!」と言うのです。お爺さんがいるならば、首をつかんで「こいつめ! 背中に刀を突き立てたいほどだ。こいつめ! 一族に恥をかかせるにも限度がある。こいつめ! 何だ!」と言うのです。原理を知るようになるならば、誰しもがそうなると思いませんか? その恥ずかしさと困難を回避する道はありません。そのような者は私と関係ありません。しかし、私が国を訪ねて帰ってきたので、私の親戚の面倒を見なければならないのです。私の遠い親族までも面倒を見なければならないという心をもっているので、ここにいる皆さんの姻戚の遠い親族たちをも世話しなければならないというのです。ですから訪ねていって、そのような話もするのです。 父母の心情で万民のために生きる愛 それは手段とか方法ではなく、心情なのです。それで自分たちの橋を架けるのです。高い橋を架けるのです。低い橋を架けるのではありません。子供が高い橋にならなければならないのです。そのようにして上っていくのです。このようなことをはっきりと知らなければなりません。私の神様をつくろうとするならば、何でもって神様を捕まえるのですか? お金をもってもできません。学士、博士号をもってもできません。権力をもってもできません。では何をもって捕まえますか? (真の愛です)。真の愛とは何ですか? 言葉だけではいけません。父母の心を代身し、国王の心を代身し、神様の心を代身して、父母の心情で万民のために生きる愛です。神様の代わりにために生きるという心をもたなければなりません。かわいそうな人を見たならば、その人がお爺さんのようであれば、自分の祖父のように思わなければなりません。女性であれば、自分の祖母のように思わなければなりません。 家庭の拡大が神様の創造理想世界と通じるのです。家庭が天国生活の教本なのです。ですから、この地の上には、祖父母級、父母級、兄姉級、弟妹級があるのです。それを集めて核心的な一つの基台の上で、教材としての訓練をさせようとするのが家庭基盤なのです。分かりますか? ですから、お爺さんを見たならば、自分の祖父が来たように懐かしく接してあげ、おなかが空いているようであれば、自分の弁当も分けてあげるという心をもたなければなりません。また病気になった人がいて、その人が年上であれば、兄や姉のように接してあげるのです。道端で苦しんでいる人を見たならば、その人を看護してあげなければなりません。もしその人を捨てていけば、十分、三十分とたつうちに、心に呵責がだんだん増えてくるので、再び引き返してその人を助けてあげなければなりません。どうしても背を向ける時、涙でもってそれを蕩減することができなければ、行くことができないこの道であるということを皆さんは知らなければなりません。先生にはそのような体験が多いのです。そのような体験をたくさんしました。 私が黒石洞にいた時、その当時は電車賃が五銭でした。五銭出せば電車に乗って市内に行けたのです。しかし、私は歩いて市内へ行きました。和信デパートまで四十五分かかって行ったのです。普通の人は一時間半かかるのです。先生は速いのです。そのように夏の日、学生服を着て汗を流しながら歩いたのです。では、そのお金でもって何をしたのでしょうか。かわいそうな人にお金をあげたのです。「皆さんに早く福地をつくってあげたいのですが、今はあなた方に民族の代表としてこのお金を差し上げますので、どうか受け取って幸福の種にしてください」と思いながらあげたのです。また、先生は学生時代の初めての夏休みにも、家に帰りませんでした。家を離れてみると故郷がどんなに懐かしいか知れません。身もだえするほどに恋しいのです。ですからみな家に帰りましたが、先生は一人残っていたのです。あきあきするように長い夏休みを自炊しながら過ごしました。また、真冬の三カ月間も、部屋に火を入れずに支那ドンスのふろしきを床に敷いて過ごしました。そのままふろしきが花のように床に写って一年間消えなかったのです。そのように、罪人のごとく過ごしてきたのです。この世の人々のように生活していくことができない先生だったのです。歴史的に先生が生きてきたそのような苦痛と、神様の歴史的苦痛を忘れてはなりません。 このような先生の心の深い愛を知って、あの世に行って出会った時、首に抱きついて「あなたが悲しかった事情をすべて知って、私もその度数に合わせて生きようとしましたが、とても及ばなかったことを許してください」と言いながら、痛哭する心が先立つようになる時には、神様も共に泣くことができるのです。その日がなくては、解放がないと考えている先生なのです。 妻の愛がどんなに大きいとしても、その位置には及びません。父母の愛がどんなに大きいとしてもその位置には到底及ばないことを知ったがゆえに、その日の解放のために横目をそらすことも、道草することもできなかったのです。私は三十歳になるまで映画館の前も通りませんでした。酒場も通りませんでした。遠回りして通ったのです。このごろでは、統一教会の若い人たちも映画館へ思いのままに入っていますが、それは先生によって解放されたからです。私が行きなさいと言ったからです。また、いかに醜悪な行動を見てもそれに感染されず、彼らを指導できる主体性を備えるためには、いつかその場も経ていかなければならないのです。学生帽をかぶり、二十歳以前に、私娼家の女たちにも会って、諭してあげたことも忘れられないことです。ですから、そういう世界もよく分かる先生なのです。それも分からずして、どうしてその世界を救えるでしょうか。そのような人々の深層部に隠されたすべての哀訴の事縁を知って、彼らを救ってあげなければなりません。 地上天国の開門を ですから、先生はどこに行こうともよく友達になったのです。路地に入っていけば、その路地のチンピラたちのことも私はよく分かるのです。土方仕事をする人の世界もよく分かります。あの山奥で炭を焼く人たちも私の友達なのです。鉱山の坑夫の世界であってもです。私は労務者収容所で賞を受けたのです。坑柱もつくることのできる人なのです。私がしてみなかったことはありません。けんかをしても負けたことがありません。もし一発でもたたかれれば、夜も眠れないので、その一族を降伏させずしては帰ってこないのです。そのような激しい先生だったのです。ですから、文社長のお父さんが昔こう言いました。「うちのお兄さんの家の小さい奴は、時代を間違えて生まれてきたのだ。逆賊でなければ王になるタイプだ。極端だから、日本の統治下においては監獄に行って死ぬしかないだろうな」と嘆いたのです。そのような先生の道を辱めてはいけません! 国のために涙を流すことにおいては誰も私の前に立つことのできる人はいません。神様を愛することにおいても、私の前に立つことのできる人はいません。これが事実です。 霊界であれ、どこであれ、先生はすべてを体験した人なのです。比較してみた人なのです。そうでなければ、この仕事を始められません。そのように万国が歓迎し、天上天下の万物が合同して歓迎するべき男が、一生の行路を、天の栄光の中に生きていくべき生涯を、悲しさと、悲惨さと、恥辱と惨敗の恨みを抱いて、追われるこの道を歩んできたのです。この事実を誰が解いてくれますか。神様は解いてくれません。あなた方が解いてくれなければなりません。私が神様を解いてあげなければならないのと同じく、先生にこびりついたものは皆さんが解いてくれなければなりません。神様が私を解いてくれることはできません。何の話か分かりますか? (はい)。 あなた方が先生の歴史的行路における恨みを解いてくれなければなりません。そのようにして先生の解放者としての証言を得て、また神様の解放者であることの証言を得てこそ天国に入れるのです。そうでなくして鉄面皮のごとく体面もなく、天国に入ることはできません。先生が開拓してきた天国に、そのように辱められた自分の姿をもって、どの顔を上げて入れるのでしょうか。私は行けません。私はできません。皆さん、これが分からなければなりません。今後、このような道が永遠なる行路として残っているということを知った時、皆さんの生きている間に尊い時間を奪われることなく、世界をかけて「私は愛国者である」と主張できなければならないし、「私は家庭においても真なる夫であり、真なる妻であり、真なる息子であり、真なる娘であり、真なる父母である」と主張できるようでなければなりません。皆さんの家庭が、真なる家庭として、天の前に立つに恥ずることなく、皆さんたちの氏族が天の前に立つに恥ずることなく、その氏族が願うのは民族であり、その民族が願うのが国家であるゆえに、その国家が栄光の国家となり、自慢できる国家となることができる時には、神様も自慢して栄光のその国家を迎えることができるのです。そのようになってこそ地上天国が開門されるのです。 きょう一九八九年の正月初めに、襟を正し、自らを強く決意して、歴史的な神様の愛を中心として恨みの峠を越えていくにあたって、度量の狭い男のように、足なえになって他人に引っ張られて越えていってはなりません。不具者になって、父、母に引っ張ってもらって峠を越えるのですか、何で越えるのですか? 反対に孝子として「お父さん、お母さん、私のあとについてきてください」と言うことのできる、その家門を受け継ぐことのできる、堂々とした息子、娘として行くのですか、どちらですか? 父母に助けられて越えていくことは恥ずかしいことです。 神様を私の神様として侍り、私の天国を建設して、その天国で千年万年生きなければならないのです。「月よ、月よ、明るい月よ」という、私たちの民謡にもあるようにです。父母に侍ってどうするかというと、「千年万年生きましょう」というのです。民謡はその民族、その国の伝統的精神文化の中心であります。「草ぶきの小さい屋根の家を建てて、父母に侍って千年万年生きましょう」という、そこにはどんなに小さい草ぶき屋根の家であっても、花の香りに満ちた調和の実を結ぶのです。これが天地調和です。香りがなければ調和することができません。それは、貴い実になれないのです。分かりましたか? (はい)。 神様は真の愛を中心とした縦的な父母 私たちは、まず私の神様を探し求めなければなりません。ですから、きょうの題目は「韓国統一」なのです。私の神様をもたなければなりません。神様は何だと言いましたか? (真の愛の神様です)。神様は真の愛を中心とした縦的な真の父母なのです。縦的な軸は一つであり、その位置も一つしかありません。永遠不変なのです。既成教会では「神様は父である」と言うのですが、どのような父なのか、それが分からないのです。ただ父だと言うのです。それ以上質問してはいけないというのです。それは分からない者たちの逃避です。分からなければ説明できないし、説明できないことは実現させることができません。神様とは、真の愛を中心とした縦的な真の父の位置、真の父母の位置にいるお方です。これが分からなければなりません。神様は、別にいるのではありません。ですから、真の愛をもたずしては神様と関係がないのです。では、その縦的な真の愛を中心とした真の父母の前に、アダムとエバは何なのかというと、真の愛を中心とした横的な父母なのです。このように真の愛を中心とした横的な位置が、真の位置なのです。分かりますか? (はい)。 神様についてはっきりと知らなければなりません。答えてください? (真の愛を中心とした縦的な真の父母です)。そう、その神様、縦的な父母が真の愛の父母になれば良いのです。では、なぜ神様は創造したのでしょうか? 縦的なものは一つしかなく、神様には足場がないからです。活動しなければならないのです。一つの方向だけに行ったり来たりするのではなく、永遠に一人の活動で終わってはなりません。そこで、横的足場が必要なのです。縦的なものが、横的足場を中心として授け受けする時に次の運動が始まるのです。堕落以前の人類の祖先を通して、神様は何をつくろうとしていたのかというと、自らの愛の対象をつくろうとされていたのです。それは、どんな対象かというと、縦的な主体であられる創造主の前における横的主体なのです。東と西をつないでいける横的な主体者になることによって、九十度の角度で結ぶ中央線での位置を与えようとされたのです。 そのように考えるならば、キリスト教の十字架も決して憎いものではありません。イエス様がなぜ十字架にかかったのかというと、イエス様は縦的な愛と横的な愛を中心として、神様と人間世界、無形世界と実体世界とを結ぶ主体的位置に立って、真に満ちた愛の理想の位置の表象体になっておられるのです。そして右側の強盗と左側の強盗は、その種として蒔かれたのです。それで今後、再臨主が真の愛をもってこの世界を訪ねくるその時には、イエス様の時と反対のことが起こるのです。イエス様の時は右側の強盗と左側の強盗が争ったのですが、再臨の主が来られる時には、右側の強盗と左側の強盗が一つにならなければならないのです。 そのようなことを全部合わせるために、第二次大戦の時、英、米、仏が選ばれ、イギリスは母であり、アメリカはイギリスの息子の立場なのです。そして、フランスは天使長格なのです。ですからフランスは行ったり来たりしたのです。このような霊肉圏の天側のアダム国家、天側のエバ国家、天側の長子国家が一つにならなければならなかったのです。母親格であるイギリスと息子格であるアメリカが母子協助により一つになって、来られる男性としての再臨主、父に侍らなければならなかったのです。そのように父である再臨主に侍るならば、天使長は自然に従ってくるのです。それが、種として蒔かれたアダム、エバ、天使長の失敗を、国家的次元で蕩減できる実なのです。収穫期の結実として、アダム国家、エバ国家、天使長国家を中心として蕩減して戻っていくのです。それに反対したのが日本とドイツなのです。日本は女性なのです。天照大神は女性神なのです。そしてドイツは何かというと、男性なのです。おもしろいことに、イギリスとアメリカが対であるのと同じく、日本とドイツが対になって反対したのです。イギリスと日本、ドイツとアメリカが全部怨讐関係なのです。 第二次大戦の直後は、キリスト教の理想世界を立てようとするキリスト教文化圏によって全世界が統一される時であり、正にその時が、主様が来られる時なのです。ですから第二次大戦の直後に「主様が来られる! 主様が来られる!」と多くの人が叫びました。主様が雲に乗って来られると思ったのです。しかし絶対に雲に乗っては来られないのです。もし雲に乗って来られるとすれば、すべてが滅びます。人類は父母を失ってしまったので、蕩減復帰原則に従って、真なる父母として来なければなりません。幻の父母であってはなりません。空中で婚姻の宴をするという聖書の教えは比喩で語られたものです。 もしその時、イギリスとアメリカとフランスが一つになっていたならば、直ちに韓国はアダム国家になっていたのです。天の国、縦的国の主権を中心としたアダム国家として、イギリスをエバ国家として従え、さらにアメリカを長子として従えていたのです。そしてアメリカはアベル圏としての世界主導権、世界版図を従えていたのです。世界国家的な主導権を、アベル的立場に立ったアメリカが初めてもっていたのです。それ以外の国々はカイン的立場であり、カイン的立場はアベル的立場のアメリカに従っていくのです。ですから、長子権復帰の世界化時代に合わせて、統一的なキリスト教文化圏時代の上に主様が来られて、母子協助の基盤と連結させていたならば、すべての問題がみな解決されていたのです。しかし、それでは日本が、焼け跡から四十年間でこのように復興できないのです。キリスト教がみな反対するゆえに、天は仕方なく一番の怨讐である、怨讐の中の怨讐にすがるようになったのです。ですから、イギリスの代わりに、アジアにおける怨讐の国、日本がエバ国家になり、ドイツがアメリカの代わりに長子圏に立ったのです。 しかし、アメリカのユダヤ教とキリスト教を中心として、統一教会が完成級になるので、キリスト教を捨てることができません。ですから、アメリカを長子圏基準のアベル的存在として立てておいて、ドイツをカイン的存在として立ててきたのです。これらの国々は全部が怨讐たちなのです。韓国と日本が怨讐であるし、日本とアメリカが怨讐であり、アメリカとドイツも怨讐なのです。このような問題が起こってきたのです。統一の国家と世界を一つにしなければならない時代を失ってしまったので、統一圏で再び怨讐たちを全部集めて、エバ国家、天使長国家を探して立ててきたのです。 そこで、天使長国家は何かというと、長子権を回復した国なのです。堕落した天使長が長子権をもっているので、天の国を支持する天使長がいないのです。そこでアベル的位置で長子権を回復した世界統一国家のような国がアメリカであり、そのアメリカが最後にならなければならなかったのです。なぜかというと、第三イスラエル民族としては、アメリカがユダヤ教と連結された第二イスラエル民族になったので、アメリカを連結させるために、アメリカをアベルの位置に立て、ドイツをカインの位置に立てたのです。このような四大国家は、すべて怨讐たちなのです。このような難しい問題があったのです。歓迎と祝福と栄光の宴から、勝利の天国へ進展するべき再臨理想の足場が、キリスト教文化圏と、韓国キリスト教と、韓国主権者と、アメリカ主権者と、アメリカ宣教師たちの失敗によって、すべて崩れていったのです。 長子権の復帰 父母を救援するためには、エバを先に救援することはできません。まず、アベルを通じて長子を復帰しなければなりません。長子を復帰する前には、父母は復帰されないのです。長子の立場はアメリカなのですが、韓国における父母の基台を中心として復帰すべき祭物的責任を果たせなかったのです。そのために、二次的な受難の道へ、サタンの前に立つようになったので、共産党が出てきたのです。その時、もし先生を歓迎していたならば、共産党が出てくることはなかったのです。そして、五十歳までにはすべてが終わっていたのです。キリスト教すべてを完全に復帰できたのです。今でもそうです。三日も原理を聞けば、牧師たちがみな変わってしまうでしょう。そうでしょう。もし当時、牧師たちが歓迎したと思ってみなさい。 それで、この失敗を再び収拾するために、先生は二世を立てて、延世大と梨花女子大を中心として出発したのです。李承晩行政府とアメリカ宣教師に対処しようとしたのですが、李政権と宣教師とアメリカ行政府が組んで、統一教会の文先生を除去しようと運動を起こしてこの国を滅ぼしたのです。当時、このような事情は誰も知ることができなかったのです。今日、先生の話を聞いて初めて分かったのであって、その時は誰にも分からなかったのです。ですから当時、梨花女子大生と延世大生が先生のもとに集まってきたのです。先生と完全に一つになったのです。こうして朴マリヤ(当時、梨花女子大の副総長であり、李起鵬副大統領の夫人)を中心として、李博士のフランチェスカ夫人を通じての交流を始めたのですが、宣教師たちが裏でひそひそ話をして問題を起こしたのです。今日そのためにキリスト教が全部、統一教会の怨讐の立場に立っているのです。しかしこれを捨てることはできません。なぜ捨てることができないかというと、キリスト教が怨讐になればドイツをアベルの位置に立てなければならないのですが、ユダヤ教を継承した第二イスラエル圏としてアメリカを立てたので、アメリカを捨てることができないのです。どんなことがあっても捨てることができないので、統一教会はキリスト教を収拾しなければならないのです。ですから、今まで悪口を言われても収拾してきたのです。 それはいつまでに収拾するのかというと、国を探す時までです。今やその時が訪れました。今からは国を探し求めていくにあたって、既成教会がもっている基盤、既成教会の信者たちがもっているような基盤をすべてもつのです。また、彼らがもてない世界的な基盤をももつのです。今や、財力においても、若い青年の力においても、彼らに負けるものは何もありません。何の話か分かりますか? (はい)。もはや既成教会には何の希望もありませんが、統一教会には多くの希望があるのです。 昨日、決定的な報告を受けました。昨年の三十一日までに、朴普煕がよくぞ帰ってきたというのです。彼が三十一日を越えて帰ってくるようではすべてが駄目になったのです。本当は四日前までには帰ってこなければならなかったのですが、昨日帰ってきたので、すべての報告を受けました。もはや、失敗しようにも失敗できません。今まで埋めてきたものがすべて、ラッパを吹く日には、一度に天地と共にひっくり返るのです。その時、昨日まで大韓民国で立派だと言われてきた主権者たちや財閥人たちはどのようになるでしょうか。 世界の政治家たちも、今後世界がどのようになるのか分からないというのです。私は世界の政治家ではありませんが、これからは、彼らが私を訪ねてこなければならないのです。経済人たちも私を訪ねてこなければなりません。宗教人たちも私を訪ねてこなければなりません。既に宗教人の行くべき方向を準備しておきました。今、一つの聖書を作る編集をしているのです。一つの聖書がなければならないというのです。それでは、何を中心として一つの聖書を作るのかというと、統一教会の原理を中心としてです。一つの仏典観、一つの聖書観、一つのコーラン観が生まれてくるのです。そのような仕事をしているのです。そして、その次は文化革命をしなければなりません。新しい百科事典を作るための準備もしているのです。文化世界創造のための大革命基地を築き上げなければなりません。さらには経済分野においても、金融関係においても、私の教えを受けなければならないというのです。 私は経済人から冷遇され、学者たちからも冷遇されたのです。尹博士、冷遇しましたか、しませんでしたか? いつぞや九十六名だったか、一度は支持声明を出しておきながら、それらが全部踵を返して、「私はそのようにしなかった。文総裁、統一教会の人たちがみな、そうさせたのだ!」と、反対したあの時のことを覚えていますか! 郭錠煥! 覚えていますか、どうですか? (覚えています)。忘れてはいけません。私は忘れません。そのような博士たちも私は最後まで引っ張ってきたのです。彼らの誤りを知りながらも、天の前にいかに立たせようかと祈祷して、今まで捨てずに引っ張ってきたことを、彼らは分からないのです。今や、私の責任はすべて果たしました。もはや老博士たちを立てる時ではありません。李博士もそれを理解しなければなりません。既に二世の時代になりました。今年の夏からは、若い人たちで行わなければなりません。分かりますか? (はい!)。六十歳では駄目だというのです。五十二歳までは許します。 私の神様を探し求めなければなりません。私の神様を探し求めるまでは、私の神様の真なる愛を探すまでは、私を主張してはいけません。私は真なる愛から始まるのです。真なる愛を通さずしては、真なる生命を受け継ぐことができないのです。直接に神様から生命を受け継ぐことはできません。生命を受け継がせるために、神様は人類の真なる父母をつくられたのです。 真なる愛の縦的基準の前に、横的な基盤でもって、東西南北をきちんと整えて、九十度の角度に合わせなければなりません。その位置において、愛を中心として内的愛と外的愛が一つになることによって、縦的基準の前に横的愛の版図が拡張されるのです。そのようにして神様は、横的愛の版図を拡大させるために、私たち人類の始祖を愛の対象としてつくられたのだという、驚くべきこの事実を知らなければなりません。これが宇宙の根本なのです。これを知った時、宇宙の根本がこのように簡単なこととは、私も思ってもみませんでした。 愛は最短距離を直行する さて、愛はどのような道を通るのかというと、最短距離を通るのです。分かりますか。愛は回っていくことを嫌います。いかに父母が反対するとしても、直撃弾なのです。そうでしょう? 愛の道は回って行きたいですか、直行したいですか? (直行したいです)。いかに障害が多いとしてもすべて追い払って、け飛ばしてしまうのです。愛の道の前には、すべて消えていくものなのです。愛は直行するのです。ですから、神様が縦的な高い所におられるならば、どのような立場を通してこられるのかというと、垂直の一番最短距離なのです。上から下に降りてくる道は、このような垂直線しかないゆえに、最短距離だというのです。これがもし少し外れても、最短距離にはなりません。真なる愛は垂直に決着づけざるを得ないという、論理的起源を知らなければなりません。これは重要なことです。皆さんは今、何の話だろうと思って聞いていますが、先生は深刻だったのです。理論的根拠、思想的体系を中心として、個人的人生観、家庭、氏族、民族、国家、世界観、宇宙観に一致させなければならなかったのです。方向性が間違ってはいけません。その一致され得る方向性は何をもって探すのかというと、民族精神をもっては探せません。民族の伝統的知識や文化背景をもってしても探せません! それは愛の伝統以外にないという事実を知らなければなりません。これが直行なのです。 では、その愛の伝統は二つでしょうか、一つでしょうか? (一つです)。それは直線でしょうか、曲線でしょうか? (直線です)。直線なのです。同じなのです。それでは、真なる愛を中心とした直線の歴史を経てくる、直行的伝統、愛の伝統はどこにあるというのでしょうか。それは、サタン世界にはありません。愛はすべて曲線的、混線的なもので編まれてしまっているのです。その道を通って、すべて落ちて滅びてしまったのです。分かりますか。ですから真なる父母が訪ねてくる道は、垂直線以外にないというこのことを理論的に整理しておかなければなりません。分かりましたか? (はい)。 東西にいる男性と女性が、真なる愛の道を探し求めていくとするならば、どこへ行くのでしょうか。最短距離の直線であれば、どこへ行くのでしょうか。東と西があり、同じ力の愛であれば、どこへ行かなければならないのでしょうか。それは直線上です。男の行く線が中央線に届き、女の行く線に届くと、それは上下の歯のように合わないでしょうか? (合います)。なぜ合いますか? それは凹凸だからなのです。女性が恋しく思うことは、神様を探し求めていくことではなく、男性を探し求めていくことです。また、男性は女性を探し求めていくことです。そのような男女がどこで出会うのかというと、真の愛の中で出会うことができると神様は言われるのです。これは驚くべきことなのです。今日まで、このことが分からなかったのです。ですから、男性がなぜ生まれたのか、女性がなぜ生まれたのかということが分からなかったのです。 男性と女性は愛のゆえに生まれたのです。分かりますか。それはどんな愛なのですか? (真の愛です)。天地の大道を通じて、天地のすべての権限を所有し、すべてのものがその愛に一体化されることによって、そこには相続権があり、また同居することもできるのです。さらに、そこにはいつも同席することもできるのです。夫が行く所に妻はいつでもついていくことができるのです。そこには同席権もあり、また同居権もあります。その同居権は外的なのです。 もし駅前などで、長い間別れていた夫婦が出会った時にはどうなるかというと、妻は走っていって夫の首に抱きついて、立ったまま二人が回りだすのです。何を中心としてそのように回るのですか? (愛です)。それは何の愛ですか? 縦的な神様の愛を平行的基準に合わせるために、男性も女性もそのようにして回っていかなければならないのです。そこにおいて天地調和が起こるのです。天であるとともに地であり、地であるとともに天でもあるのです。正に天地が地天になり、父母が母父になり、子女が女子になるんですね。逆も通じるのです。愛においてのみ可能なのです。 この話は何のことかというと、愛するおじいさんの帽子を孫がかぶったといって、おじいさんは孫を殴るでしょうか、どうですか? その次に、愛する孫がその帽子を脱いで、おじいさんの背中に這い上がってきたとしたら、「こいつめ! 亡国の僕め!」と言うでしょうか。「この孫はどうしてこうなのか」と言いながら、おじいさんはどんなに喜ぶことでしょうか。「早く上ってくれ、早く上ってくれ」と言って、足を押し上げてくれるのです。 愛は最短距離を必要とするのです。男性と女性はどこに行って会うのかというと、二人が中央線に来なければぴったりと合いません。男性が少し行っても、「なぜ少し行くのですか?」と言い、女性が少し行っても、「なぜ少し行くのですか? 二人がぴったり一緒に行かなければなりません」と言わなければなりません。そのように中央線に来て、縦的基準を中心として二人が出会うようになれば、必然的に愛は直線最短距離を通るので、この垂直線に対して、九十五度になるべきですか、九十度になるべきですか? (九十度です)。絶対的に九十度なのです。これが宇宙の真の愛と通じる公式的な道であり、原型的モデルだということを知らなければなりません。モデルが何か分かりましたか? (はい)。 ですから、このような縦的父母である神様は、縦的な立場におられますが、横的な父母に成熟するためには、誰が教えてあげなくても自らの体と心が共鳴して成熟するのです。 真なる愛の風 思春期になり、男たちが訪ねてくるようになると、おとなしい女たちもいつの間にか感情が動くのです。「ああ、その人はどんな顔立ちなのだろう?」と、女たちの目がそうなるのですね。そうではありませんか? そうでないとすれば、その人は偽者です。そうでなければならないのです。角度を九十度に合わせて出会えば、すべて良いのです。その角度は一つしかないのです。その出会いが失敗したゆえに、この世の男女はしょっちゅう離婚したりして変になっているのです。彼らはどんなに合わせてみても、九十度になっていないのです。堕落した人間なので合わないようになったのです。 人間世界、堕落の世界には、理想がありません。真の愛など夢のような話です。しかし、文総裁が語る真の愛というものは、少し違ったものなのです。私たちの統一教会の草創期においては、先生一人を中心として男性も女性も、全部狂ったというのです。何の話か分かりますか。男も先生に会いたくて涙を流さなくてはならないようになっていたのです。皆さんは、そのように先生に会いたくて涙を流してみましたか? (はい)。本当に流しましたか! それでこそ正常なのです。当時は、この世の男女が互いに恋する以上に、先生のことを慕わしく思えて涙を流すようでなければ、統一教会の食口ではなかったのです。それがなぜかということは、今まで分からなかったのですね。しかし、今や説教を聞いたのですべてが分かるようになったのです。縦的なる力と横的なる力が九十度の角度で通じ合うならば、周辺すべてに影響を及ぼすことができるのです。そして、全体にも影響を及ぼすことができるのです。 そのような真なる愛の風が吹くようになるので、人というすべての種子は花開くのです。苦菜も花開くのです。そうでしょう? 苦菜にも蝶が飛んできたり、蜂が飛んできたりするのです。同じように統一教会にも心情的春の園が開かれたのです。ですから、七十歳になった老人も男であれ女であれ、全部が先生に会いたくて夜も眠られず、「ああ、いつになったら会えるのか」と、このようになったのです(先生がしぐさされる)。男にも、女を慕う初恋以上の愛の風が吹いてきて、このようになるのです。すべて一つの方向に一致するのです。堕落した人間世界における年齢の差を超越し、男であれ女であれ、一つの方向に集中するのです。その愛の動きはすべて、九十度の角度に合わせなければならないのです。その角度が七十度や六十度や五十度の角度であっても、その垂直は同じなので、神様に対する因縁の中で、全部がそのような方向へ、この先生を中心として大騒ぎになったのです。 その中で一人のお母様を選ぼうとするので、統一教会の女性たちの中において、愛の競争が起こるのです。すべてのおばあさんも自分が宇宙の母であると言うのです。そうですね。夫と死別したやもめのおばあさんもそうですし、すべての娘たちまでもが、自分が宇宙の母であると言って、「先生が一人で住んでいるので、私が先生の妻にならなければならない」という、愛の風が吹いたのです。このような風のことをこの世の中では何と言いますか? 恋煩いにかかると言うのですね。恋煩いでおばあさんが病気になると言うのです。先生は縦的愛を全うしようとするのですが、横的愛の風が吹きまくるのです。ですから先生は家を捨てて出てきたのです。 ある女性などは、恋愛結婚をして一週間にもならなかったのに、統一教会に入って原理のみ言を聞いてからは、夫を見ると蛇に見えると言うのです。蛇がスーッと戸を開けて入ってくると言うのです。部屋に入ってくる前には夫に見えたのに、自分の横に入ってくると蛇のようになって、自分の体をするすると巻くのが見えるようになると言うのです。ですから、「ワァー!」と叫ぶのです。そのような体験を誰もがしたのです。ですから、夫と愛の関係をもつことなど死んでもできないのですね。腹を裂かれて死んだとしてもできないのです。ですから夫が会社に出掛けると、溜め息をついて「フーッ、もう帰ってこなければよいのに……」と思うのです。そしてまた夜になると大変なのです。逃げていこうにも、先生が悪口を言われそうなので逃げていくこともできず、また、夫にいくら教会に行くなと言われても、教会に行かないわけにはいかなかったのです。ですからもう大変だったのです。 夕方になったので、先生が女性たちに「家に帰れ!」と、悪口などを言って大騒ぎをしたのです。どんなにたくさん悪口を言ったことでしょうか。正門のほうへ追い払うといつの間にか裏門のほうへスーッと入ってきて、朝になるとそこで眠っているのです。(笑い) それで足で強くけって、「こいつめ! 昨日追い出したのになぜまた入ってきたのか!」。すると「私も知らずに入ってきたのに、先生がそんなにおっしゃれば、私はどこに行って生きればいいのですか?」と言いながら、死にそうになるのです。当時、そのようなありとあらゆることがあったのです。(笑い) ただ、悪口を言われることしかなかったのです。 また塀を乗り越えてくるのです。夜に家を出てくるのです。先生の所以外に訪ねていく所がないので、「先生、私来ました」と言って訪ねてくるのです。ですから先生はすべての悪口を言われてきたのです。悪口を言われても仕方がないというのです。どんなに悪口を言われても、先生はかわいそうな人たちを解放するために来たのだから、先生は避けて通ることができないのです。ですからどんな悪口でも言いなさいというのです。こうして、女たちの群れを収拾するために、私は悪口をたくさん言われてきました。七十歳の老人までが大騒ぎしたのです。(笑い) ですから若い者はどんなに騒いだことか知れません。刃物をもって、「先生が私を分かってくれなければ……」と、大変なことだったのです。しかし、先生は神様のみ旨が分かるので、どうすることもできなかったのです。 そのような中でお母様を連れてきたのですから、おばあさんをはじめ、女性という女性は目がひっくり返るようだったのです(先生が表情で示される)。(笑い)「お母様に自分の相対を奪われた」と言うのです。そのようなことが起こったのです。それで、この渦巻きを鎮めるために、八十代の渦巻きから七十代の渦巻き、六十代の渦巻き、五十代の渦巻き、四十代の渦巻き、三十代の渦巻き、二十代の渦巻き、十代の渦巻きまで下がってこなければなりませんでした。十代の渦巻きから再び編んでいって、七十代、八十代までの女の堕落した世界のすべての曲折を解くことができたのです。これは、誰も解けません。 そのことをお母様が知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか? ですから先生の言にお母様は、絶対服従しなければなりませんでした。「東の方へ行きなさい」と言われれば、東の方へ行き、「西の方へ行きなさい」と言われれば西の方へ行き、「南の方へ行きなさい」と言われれば南の方へ行きました。「今晩は帰ってこずに、外で眠りなさい」と言われれば外で眠りました。先生に絶対服従しなければならなかったのです。そのようにしながら、すべての女性たちの行く道を全部、アベルの位置で引っ張り出して解放させてあげなければならなかったのです。人々に悪口を言われたからと言って、もし先生に反対したとするならば、お母様の位置が吹っ飛んでしまったのです。分かりますか? それで岳母(お母様の母親)にも、「絶対三年間、正門から出入りしてはなりません。母親だからといって訪ねてきてはなりません。エデンの園においては、エバに母親はいません。ですから正門から出入りしてはなりません」と言ったのです。こんな話があるでしょうか。世の中の常識から見るならば、岳母の前に婿の立場の者が、「娘の部屋に来る時には、裏門から訪ねてこなければなりません。正門から来てはいけません。三年間」と、そう言ったのです。 ところで啓示はすべておばあさんが受け、今何をすべきかすべて見せてくれたのです。お母様に教えてくれるのです。「今後、こんなことが起きるので注意しなさい」と教えてくれるのです。それは母子協助なのです。横的に連結させるためには二代にわたって協助しなければならないのです。そのような複雑な内容を全部収拾しなければなりません。ぼろの着物をまとった女たちの包みに、不用な布を金の糸で縫って、金の座布団にして、差し入れてあげなければならないような仕事をするのがお母様だというのです。分かりますか。女たちはこれが分からなければなりません。なぜならば、先生に悪口を言ったのが女たちだからです。 そして、男たちはそのような女たちに対して、石で打ち、棍棒で打ち、斧で打ち、頭を割り、脚をへし折り、顔を傷付け、ありとあらゆることをすべてやってきたのです。私はそのようなことをすべて見てきたのです。文先生が何で私たちの女房を奪っていって、なぜ一緒に住むのかと言うのです。もし多くの女性たちを先生が連れてきて、一緒に住むというのであれば、それはどのようにして住むのでしょうか。この者たち! ありとあらゆることをみなやって、悪口という悪口をみな先生に浴びせかけ、すべてのことをやってきたのです。獄に閉じ込め、足でけ飛ばし、袋だたきにして、ありとあらゆることをしてきたのです。やりたければもっとやれと言うのです。アダムの主管性が転倒したために、女にも正しいことを教えることができなかったので、この恥辱の道が生じたのだから、女に対する怨みを解くためには、男の代表たるこの私を打てと言ったのです。そういうことが分かりますか? 統一教会の歴史を考えると、皆さんの今日は夢のようです。夢のような事実が現実に適用されて、実践場として現れたという事実は驚くべきことだと考えなければなりません。その先生の伝統を知り、その歴史に対する時、誰しも涙なしに対することができないし、姿勢を正して天地の前に恥辱の姿を解放してもらうために努力せずしては、天国に入る道がないということをはっきり知らなければなりません。統一教会の食口たちは、今まで勝手に生きてきましたが、それは私が放っておいたからです。しかしこれからはまっすぐに生きていかなければなりません。これからは、真なる神様を私の神様とし、先生を私の父としていかなければなりません。 真の父なる根よ来たりませ! 旧約時代は、物質を犠牲にして息子の道を築いてきたのです。分かりますか。万物を犠牲にして息子、娘の道を築いてきたのです。人間のゆえに万物が供え物になってきたのです。そして新約時代は、父母が来られる道であるために、子女たちが供え物になる時代なのです。これが新約の歴史なのです。神様がこの地上に愛をもって万物を主管し、愛の子女を抱き、愛の妻と夫を抱き、父母の位置を設定するのが創造理想であったのです。そこで、偽りの愛をもって誘惑されたこの世を救うためには、最低から蕩減しなければなりませんでした。万物が血を流さなければなりませんでした。偽なる愛の血を蕩減しなければなりませんでした。半分以上を抜き捨てなければなりませんでした。この道は死を懸けていかなければならないのです。ですから裂くということが起こったのです。旧約時代は、万物を犠牲にさせて息子を呼ぶための歴史でありましたし、新約時代は子女たちを犠牲にして父母をこの地に呼ぶための歴史であったというのです。 既成のキリスト教会では、「主よ、来たりませ!」と言うのですが、その主とは誰かというと、それが真の父なのです。今日まで偽なる父の歴史の根をもった人の世の嘆息だったのです。「真の父なる根よ来たりませ!」という、これがメシヤ思想なのです。今日のキリスト教徒たちは、それを知ることができないのです。メシヤが何なのか分からないのです。日本語で言えば「飯屋」だというのです。救世主が何なのか分からないのです。愛の救世主なのです。愛の伝統を中心として縦横の万国、どのような環境にも解放圏をもたらすことのできる救世主であり、その伝統的中心が愛なのです。救世主は愛の求道者なのです。 ですから旧約時代は、万物を犠牲にして愛の息子、娘を探し求めてきました。この世の息子、娘たちの恨みが何かというと、父母に侍ることができなかったことです。父母に侍れなかったので、子女たちは血を流し肉を切られてでも、真の父母様が来られる道を築かなければならないのです。それがキリスト教二〇〇〇年の歴史なのです。 もし御父母様が来られるならば、その時は、万国すべてが一つの国になり、外的万物と内的人間が一つになるならば、カイン・アベル圏が一つになれるのです。カイン・アベルが愛で統一されたところには、いつでも神様が臨まれるようになっているのです。ですからすべてが相対的になっているのです。目もそうだし、体もすべて相対的になっているのです。 それで、この地上に父母として来られる方が再臨主であり、その再臨主がこの地に来られたのに、キリスト教が反対したのです。キリスト教とキリスト教の国々が、父母になられる方に対して万国の祖先として侍り、有史以来の貴いお方として侍らなければならなかったのです。自分の財産や、自分の子供や、自分自身を犠牲にしても取り替えることのできない貴い方が来られたというのに、キリスト教全部を与えても、世界全部与えても取り替えることができない貴い父母が来られたというのに、天地の中心たる起源となられるその主人が来られたというのに、彼らはすべて反対したのです。 統一教会の怨讐がクリスチャンたちなのです。趙庸基牧師はなぜそんなに統一教会を嫌うのでしょうか。私は、趙庸基牧師よ、「滅びよ」というような話など、一度もしませんでしたし、私は夢にもそのように考えたこともありません。その反対する者たちに、私の救いの手がまだ届かなかったので、私がその教団に行って教えてやることができなかったので、私は審判することができません。法廷を選んで、よしあしを区別し、審判しなければならないのです。 趙庸基牧師よ、ここに来て一度説教してみなさいというのです。自分勝手に審判することはできないのです。そして今や、いったい誰が滅びるのか見ていなさいというのです。打った者が滅びるのです。第二次世界大戦の時も、先に打った国が滅びましたし、今日、共産主義が思想的にアメリカを打ったので、滅びの兆しが見えて、滅びつつあるのを私たちは見ているではありませんか。統一教会が静かにしているのになぜ怒るのですか。私が何をしましたか? 羊もそうです。羊は主人が餌を食べさせ損なうと、おいしい餌を食べさせる主人に付いていくのです。それが自然の道理なのです。分かりますか? 自分たちが誤って教会員の首を締めておいて、奪われたと言うのですか。奪うとは何ですか。奪うのではありません。死にそうになっていれば、生きる道を訪ね求めていくのが道理なのです。食べられないから、食べるものを探し求めていくのです。それは自然的革命なのです。それを制裁しようとする者は滅びるのです。 既成教会に若い人たちがいますか? 統一教会は若い人たちの天地なのです。若い人たちが統一教会を必要とするのです。では四十歳以上になる人たちは必要ないでしょうか。(笑い) なぜ笑いますか? 私の言うことをよく聞いてみなさい。不必要なことを語るとでも思いますか。 新約時代には、息子、娘が父母に侍るために、歴史を通じて血を流しました。そのようにして、御父母様が来られる日を願ってきたのがキリスト教思想なのです。主様とは何ですか? 父として来られて、サタンが新婦を奪っていったので再びサタン世界に行って新婦を探し求めなければならないのです。それは強制されて探すのではないのです。万国が歓迎する中で、「早く、早く、来たりませ! この地上からお選びください!」と言う中で探し求めなければならないのです。すべての人々は主様の後援団体にならなければならないのです。そうなる時、サタンも離れていくのです。 そうなることによって、家庭を中心とする基準が確立できるので、カトリックで独身生活をする神父、修道女はみないなくなるのです。今までアメリカでは神学校や修道院に何百名、何千名という人々が入学していたのですが、最近では、一人が入学したといって大騒ぎしているのです。そのようになるのです。僧侶もそうです。妻帯僧が仏教界を指導しなければなりません。そのようにならなければなりません。ですから、相対をもつことのできない存在は、この地上から除去されるのです。なぜそうなるのかというと、すべての存在が相対主義だからなのです。そうですね。すべて虫も雄がいれば雌がいるのです。蝶もそうでしょう? (はい)。蛇はどうですか、魚はどうですか? すべて雌雄になっているのですね。人間も同じです。 真 愛 それでは、神様はなぜ人間を造ったのでしょうか? 神様は人間の誕生とともにすべて教育してきました。季節に従い、春になって、花咲く時が来たならば、愛することを教えるためにすべての動物たちをして、子を産み始めさせるのです。下等なものはそうではありませんが、大多数がそうだというのです。花咲く春が来れば、蝶や蜂や、すべての万物が和動し、雄と雌が出合って子を産むのです。 人間はどうでしょうか。結婚はなぜしますか? (愛するからです)。なぜ愛するかというと、愛する後継者を残すためなのです。その愛は私だけではなくて、おじいさんやおばあさんが、父母よりも孫をもっと愛するというのです。それは不思議でしょう? この話をしていたのでは時間がたくさんかかりますから、それは飛び越えましょう。もう三時間たちました。 先生が一つ一つ決定して出発命令を下さなければならない時が来たので、話が少し長くなっても仕方がありません。お母様には、「私は少し長く話をします」と言ってきたのです。個人的なお母様よりも、公的な多くの人たちのために生きるお母様のほうがより善であります。おなかが空いて、下腹に力が抜けても公のためには仕方がありません。(先生が水を飲みながら)水を飲み、汗を流しても仕方がありません。(笑い) 先生の悪口を言いながら泣く人が出たとしても仕方がないのです。真実である時には通じるものです。「真実」プラス「愛情」は「真愛」なのです。真愛という言は初めてですね。真愛に通じれば万事が「OK」だというのです。 おじいさんやおばあさんの杖を、孫の嫁たちは見たくないというのです。なぜかというと杖を突くようになると早く死ぬというからです。しかし、愛のある嫁は「ああ、あの杖がなくなる日には、私の目から雨垂れのような涙が流れ出るでしょう。ああ、千年、万年生きれば良いのに……」と思うのです。そのような嫁は偽りの嫁でしょうか、真の嫁でしょうか? 偽りの孫の嫁でしょうか、真の孫の嫁でしょうか? どちらですか? (真の孫の嫁です)。皆さんはみなそうですか? 現実に流されて簡単に生きようとするような人は、東西南北のない人なのです。東西南北を備えることのできない人は、中央を探し求めることもできません。 堕落した世界がなぜこのようになったのかというと、中央を失ってしまったので自分を中心として生きるしかないからです。それで縦的、横的基準がこのようになってしまい、十字でいうならば、(先生がしぐさされる)このように大地に立っているのです。ですから堕落した世界の夫婦は、何日もたたないうちに全部が別れていくのです。 真愛によってこそ、暗い闇も晴れ、すべてが行ったり来たりできて、どこに行っても損がないというのです。全部が同じなのです。こちらにいた力があちらに回っていっても同じであり、こちらに回ってきても同じなのです。みな同じなのです。東の方へ行っても、西の方へ行っても額を合わせぶつかる時、ただぶつかるのではなく互いに道を譲り合うのです。そのような時、愛は拡大性があるのでパッと膨れるのです。ですから、縮小して道を譲ってあげればどこに行くにも衝突はあり得ないというのです。 真の父母をこの地上に迎えて、すべての万国の解放を整えるのが宗教の使命であるにもかかわらず、キリスト教はそれができなかったのです。キリスト教が今日、このように自滅していくのはなぜかというのです。統一教会の文先生に反対したことによって世界が南北に分かれ、東西に分立されたという、とてつもない事実を最近になってようやく分かったのですね。四十年前このような話をした時、誰か先生の話を信じましたか? 「追い出されたので仕方なしにあんなことを話しているのだろう。うそを言うにしてもあんなにずうずうしく、よくも話すものだ」と言ったのです。しかし、先生が語ったとおりになったのですね。それを見ましたか? (はい)。それで、先生は栄えましたか? 滅びましたか? (栄えました)。では、先生のように生きれば栄えますか、滅びますか? (栄えます)。先生のように生きてこそ栄えるのです。それが統一教会の人の責任ある人生路程なのです。 では、先生はどのように生きてきましたか? 上から下がってきましたか、下から上がっていきましたか? (下から上がっていきました)。キリスト教を通じて、すべてが先生に従ってきたならば下から上がっていかなくてもよかったのです。横的な基準で万国のキリスト教が協助する中で、国家が協助する中で、先生がお母様に出会って、祝福、結婚式を終えたならば、万国が統一されていたのです。そうすれば、今日のような迫害はなかったのです。 それらのすべてのものが反対してきたので、先生は天の国を中心として、神様と父母が地上に臨むことができるように、キリスト教の全歴史と旧約時代の祭物を犠牲にして準備してきたのです。そしてその基台の上に父母が来られたのですが、お母様に侍り、家庭に侍り、万国の王権を立てることができなかったために、再び追われる立場から探し求めて戻っていかなければなりませんでした。しかし、いかに追い出される立場に立っても、神様は私についてこられたのです。キリスト教にはついていかれなかったのです。 神様が離れた今日の牧師たちを見てみなさい。長老たちを見てみなさい。全部がお金の籠をもって歩き回って、自分の息子、娘だけを愛し、日曜日にはけんかをしたりして、ありとあらゆることを行っているのです。正に、亡国の僕たちです。しかし、私は彼らと違ってすべてを捨ててきたのです。神様に従い、国を捨ててきたのです。ですから当然のこととして、神様のみ旨をすべて知っているのです。世界万国の祝福を一つに成し得るこの特権をもっていた先生が、没落し、万国が踏みつけにし、神様までもが呪うような立場に立ったとしても、私は「たとえ、あなたが私を呪うことがあっても、私はあなたを呪うことはできません。あなたが立てられた本然の時を迎えるための蕩減条件を立て、四十年、四十三年間に、再び歴史的基準を回復します」と、先生はこのように思って戦い続けてきたのです。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.07
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「六五〇〇双「韓・日」祝福家庭へのみ言」1988年11月7日リトルエンジェルス会館韓国で行われた六五〇〇双国際合同結婚式の参加者のうち「韓日」カップルを中心として、ソウルのリトルエンジェルス芸術会館で特別集会が行われました。以下紹介するものは、その席上、日本語で語られたみ言を収録、編集したものです。 愛の戦争 国際合同結婚式を行ったその日から、一週間になりました。今回、初めて韓国に来た者もいるかもしれませんが、韓国のいろいろな事情が分かってきたでしょうし、相対者の故郷にも行って来た者もいるでしょう。いろいろな背後の複雑な関係も、さまざま伝え残すようなこともあったと思います。 若いときは、平坦な体験より複雑な体験がいい。それから、小さい拳で打たれるより、大きい拳で打たれるほうがいい。そういう意味から、日本で結婚するよりも、国境を超えて韓国で結婚したということは、生涯において貴重なことです。このように国を超えて日本海を間にして行ったということは大きな衝撃でしょう。その反面、喜びと言えば喜びでしょう。それは、青年時代においては、大概の者は頼もしく思う。君たち、どう思いますか?(「頼もしく思います」) 君たちは、今から兵隊です。徴兵されて行く兵隊の運命は、私的運命ではありません。公的運命です。国家の運命と並行して自分の運命がつなぎ合わされるのです。もし戦争に負けたとすれば、国も自動的に敗北するし、君たちも自動的に敗北した立場に立たざるをえません。このように考えてみた場合に、「兵隊」という言葉は難しい。あるいは恐ろしい言葉です。兵隊がよく戦ってくれれば、その国はより安全な世界に向けて進展し、前進して行くことができるけれど、もしも勝利を得なかった場合には、後退して、どうにもならない運命に巻き込まれてしまうのです。 これは、日本の国と韓国の国において初めてのことです。何の戦争かというと、武器を持っての戦争ではありません。愛の戦争です。男、女がともに理想として願う愛の道において、勝利者になるか敗者になるかを決める、その歴史的な先頭に立っているというのです。 愛というものは、すべてを統合する力を持っています。だから、良心と肉身という内外の存在としての人間は、ある一つのものに共鳴することができます。その二つの焦点を合わせて、一点に結びつける作用をなすものは、人間世界においては外にありません。金でそれはできないし、知識とか権力でもってそれをなすことはできません。ただ一つ、愛だけがそれを可能にします。 君たちは霊的五感と肉的五感があることを知っています。これらがいかにして一体となるかというと、ただ、愛によってのみできるのです。この世の習慣性に満たされた愛ではなくて、本然の真の愛を中心として考えてみた場合には、その心身ともに一致した基準というのは、触覚、あるいは焦点で合うとともに、全身で合うのです。焦点だけ合っても面白くありません。それは、刺激的な一時の喜びになるかもしれないけれど、焦点から全体が一つになったとするならば、大変なことになります。そういう力を持つものは、神の創造理想世界において、神につなぐ真の愛以外にはありません。 このように考えてみたとき、本然の基準が、真の愛に、自動的に、必然的につながるようになっています。そこでは、激烈な闘争をなして勝利の基準を築き、悪の世界を絶やしてしまって、その上において、初めて本然の愛の接続点を考えることができるのです。しかし、今までそのままの立場で来たために、一大転換、あるいは革命を起こさなければ、それは基点に帰れません。これは一大戦争です。 その愛の戦場はどこかというと、愛の闘いの相対となるものは、他人ではなく、自分に一番近い人です。君たちにおいては、旦那さんになり、あるいは奥さんになる。その背後にある彼らの父母たち、その背後にある親族、さらにその背後につながる国です。 自分が相対している夫婦関係というものは、ただ自分一人ではありません。それは国家を代表し、氏族を代表し、家族を代表し、男女を代表して自分の前に立っているために、これは一つの国の、最高に統合された先端に立っているというのです。 今、君たちは韓国人と結婚しました。もしみ旨がなく、自分たち同士で、何かの因縁によって、この世的な国際結婚をなして、日本を離れて韓国の地に渡って来て、相対者を迎え合うということを考えてみた場合、それは次元が違うのです。思いもよらない、夢だに思わないような環境でそれを乗りえようとしても、どういう方法を講じて乗り越えるか見当もつかない、見通しも利かないような立場で、非常な苦悶に巻き込まれるでしょう。 一大革命的な自分 しかし、ここにいる君たちは、外的な、この世的な人々とは違う立場にいます。天と真の父母を中心としての、世界と国家と氏族と家庭につながる男、女たちです。それは、み旨全体を代表した男、女です。 韓国人として韓国全体を代表するのはもちろん、その背後にみ旨を中心とした、天地につながる広い基準を中心として連結された代表的存在なのです。韓国人でありながら、統一教会人です。日本から言えば、日本人でありながら統一教会のメンバーです。み旨を中心とした基盤は、日本の基盤と韓国の基盤よりもっと広く、高く、永遠的な背後関係を持っています。愛で組み合わされたその因縁を探り出してみると、国による必情圏より、もっと本然に近い因縁でつながっています。そう考えてみると大変なことです。 霊界から見た場合には、天国と、それから日本の先祖と君たちと、地から見た場合には、日本の国と君たちの一族と家庭を代表しています。それが、韓国を総合した代表者たちと語り合う、そういう者たちが集まったということは、歴史的に相会うという立場だけではなく、天宙的な点において、歴史を代表した基準において会うような立場ではないかと思います。 そこで会って何をするかというと、遊ぶのではありません。この社会の青年男女がするような普通の結婚ではありません。それは特別の結婚です。その内容は特別です。 この世的な結婚は、歴史的、伝統的につながってきた方法によって、男女が結ばれています。それによって何を残すかといえば、歴史的に相続されてきた心情圏そのものをつなげるのです。その子供というものは、特別なものではありません。それは、日本だったら日本の歴史を通してきた、普通の、並の血統圏をつないで生まれるものですが、今度は違います。 日本人同士ですれば環境が狭くなりますが、日本と韓国というようになれば、それは倍になる。日本から見れば、太平洋がつながるし、アジア大陸につながります。それは、三十二億が住んでいる莫大な大陸につながっています。そこには、世界のあらゆる宝物や資源が横たわっています。陸地を中心として、日本が韓国を通して中国大陸、アジア大陸につながる道を考えてみても、これは摂理的であり、歴史的です。 神の摂理上、さまざまな宗教がありましたが、宗教界を通してみても、このようなことはありません。宗教界は、「出家」を教えています。俗世間を離れなければならないと、高次元に立つ宗教は皆、そのように教えています。 この世界から離れ、国から離れ、あるいは家から離れ、父母から離れ、愛から離れる。「愛というものは関係してはいけない」と言うのです。男女関係というものは、宗教では怨讐視しており、一番汚いものとして説いています。なぜそうなったかという根源は分からないのですが、ただ霊的世界から指導されてきた結果がそのようになってきたために、そのように信じてきているのです。 こう見た場合に、統一教会は宗教団体でありながら、宗教世界が今までたどって来たような方向を完全に引っ繰り返しました。 自分が家庭を代表しており、自分が国を代表しており、自分が世界を代表しており、自分が摂理を代表しています。国も自分の下です。昔は皆「小さくなれ、小さくなれ」と捨てて、捨てて、自分一人を中心とした運動を展開して、聖なる道をたどって行こうとしたけれど、今は違います。すべてを下に置いて、大きい基盤にまで、粒々のような小さなものを一番積み上げた一番高い所にさーっと立って、「我に従え、君たちも、我に従って結婚しなければならない」。こう見た場合に、これは一大革命的な自分だということを確信するのです。それを自覚しなければなりません。 歴史的伝統の情の基台 日本も今、世界的な潮流に覆われて、駆け上がって行かなければならない運命に覆われています。いかに多く金を持っているとしても、金が人間生活、人類歴史を左右するのではありません。日本の方向を決める政策というものは、金を中心として立てるものではありません。人を中心として考える。愛なる考え、善なる考えを中心として政策を立てるのであって、経済は付随物です。それが中心ではありません。 日本人として、普通の日本の学生であれば、「韓国」と言えば、それは「監獄」と同じように考えています。発音が通ずるのです。日本人が知っているのは、韓国という牢屋でしかないから、そういうような所ではないかと一度に結論を出して、島国で駆け回って来た男、女たちが韓国に来てみて、韓国は何でもないと思ったけれど、何でもなくもありませんでした。 何でもないような韓国人が、日本人一人ひとりと闘った場合には、もう一日で絶対勝つ。主管しうるというのです。一年はもちろん、十年はもちろん、百年、千万年でも、一人ずつの場合には、日本人は韓国人に負けるというのが韓国人の一般的な結論です。日本人もそういうことを知っています。 日本人は一人だったら負けるけれど、何人か組んでやった場合には負けません。それが日本人の特徴です。もしも、オーストラリアみたいに大きな島が日本だったらどうなったでしょう。なぜ独り立ちできなかったのでしょう。こう見た場合、狭いから、風があまり吹きかけるから、東西南北から吹くから一人では寒い。だからしかたなしに捜して二人組んだ。日本に行けば火鉢や炬燵があるでしょう。このような歴史的伝統の情の基台は、そういう島国の生活環境から生まれてきたのではないかと先生は考えます。 アメリカなど見ても、観光客として、ワシントン議会とか有名な所を旗を掲げて回ってくるものは、ただジャパニーズだけです。それは有名になっています。そう見た場合には、一人では負けるけれど、団体では勝てる。そういう意味において、日本は今問題になっています。 ところで「結婚」というものは、団体で行うものではありません。たった一人で成すものです。韓国を見た場合、「先生、そんなに言って、日本の若い男、女たちと一度に結んでしまうようなことでは困るではありませんか」と思ってもしかたがありません。「どうせ負けるはずですから、あらかじめそういう覚悟をして、朝から出発して夕方まで、生涯そういうふうに決めていきましょう」と言う場合には、完全無事通行ということになります。 けれども、「経済的生活や背後の文化的関係から見た場合には、世界情勢につながる日本の文化基準はアジアの盟主として堂々たるものだから、韓国人は日本人に従え」と言うことは良くないのです。 中和文明の時代 君たち、世界的に有名な戦略家はだれですか? 西洋にはナポレオン、東洋にはジンギスカン。西洋のナポレオンがいくら有名だからと言って、日本を占領したことはありません。一方、東洋のジンギスカンは世界を占領して、生涯懸けて戦争に負けたことがありません。しかし、たった一か所で負けたのです。それが韓国であり、その歴史的資料が江華島という所です。それは歴史には書いてありません。 「半島」というものは強いものです。それはなぜ強いのでしょう? 「男」を象徴しているからです。半島というものは、あらゆる世界の文化の交流も、男女関係の交流も、新しい理想の基台もそこにおいて成される。愛を中心として皆、つながっています。そう見れば、女が慕っていくのか、男が慕っていくのかと問えば、普通先に男性が慕う。それから女性が慕ってきます。そう見た場合に、韓国は陸地を代表しています。 それから、大陸に住んでいる者たちが考えるのは、大陸の成立時代です。日本では、志ある者は、日本列島がどのように成立したか、だれも考えません。あんな所で、わたしは世界一だと思っているけれど、少し物事を考える者は、海岸があると知っています。向こう側に行けば岸があると思えば、岸から岸へ捜して回る。そういうことを考えてみた場合、日本人は決定が早い。 しかし、大陸はそうではなく、十年、二十年たっても変わりません。問題を考えた者がどこに行って休むでしょう。蕫これは長い﨟と、我々も疲れて果てがありません。だからこう回ってみた場合に、志ある者は違った所を捜していく。その違った所は大陸につながる半島だというのです。 人というものは、陸地の見ねない深い所にいすを置いたとしても、皆、岬の先の先に行って、いすを置かなくともそういう所に座りたい。それが人の心です。なぜかといえば、人間は霊的、肉的に二重的な人格を持っているからです。霊は海に通じ、肉は陸地に通じます。その内外共に統一された考えが相対的に相応し、対応する、そういう境地で休みたい、留まりたいのが人間です。 そのために、大陸につながっている半島圏には、いつも思想的な問題が起こっています。イタリア半島、バルカン半島、イベリア半島、それから、西洋と東洋をつなぐマレー半島。こう見れば、いつも半島が問題になります。韓半島はとっぴな所です。大陸から出っ張っています。そういう所には思想家が生まれやすいというのです。韓国の歴史上に、李退渓(注:、本名は李滉()李朝中期の哲学者、文臣。朱子の学説を主とした理気二元論を主張)という者がいるけれども、中国や日本でも今研究しているのです。 半島は思想的に高い。また、気候がいい。陸地に行けば段々暑くなりますが、半島は気候が良い。そういう面においては、韓半島は世界一です。気候によって文化が発展します。 古代文化は熱帯圏、インド文明も、中国の黄河文明も、バビロニア文明も川を中心として栄えました。そして、川時代から湖時代、地中海文明、それから大西洋文明、太平洋文明と大きくなってきます。そして大空文明となるわけでしょう。それから今のスペース時代です。上がってくる。だから、陸地から立体世界へと、大宇宙をともにして行きたいのが人間の理想というものです。 それで、古代文明は熱帯圏文明、今の文明は温帯圏文明です。シベリアの寒帯圏文明に覆われて、今西欧世界は皆冷たくなって、紅葉して葉が皆落ちてしまうように、ヨーロッパ文明は枝だけ残すようになってきました。ここに、秋を迎えて、本当に実った文化の結実があるとするならば、それは固い固い皮で囲まれた実であるにちがいない。それから、冬が来た場合には、寒い氷の中で水と一つになった場合には、それが温度の釣り合いによってこれらが二つに割れて、そこから若い芽生えが出て、春の文明に向かう時代が来るでしょう。 人間が堕落しなかった場合には、もともと春の文明が始まるべきでした。しかし、堕落したために、方向もなく、自分勝手に熱帯文明を起こしたその時代から、巡り巡って新しい春の文明へ戻って行く時代に移行してきたのです。今、秋の文明に向かう現在の文明圏に総結実体として、新しい実として地上に芽生えてくる、新しい春の時代が芽を吹くことでしょう。そう見るのが摂理観です。春の時代が訪れます。それを我々は「中和文明」と呼んでいます。 真ん中の中心がすべてを統括して、新しい生命を生み出す文明圏になるでしょう。それは春の文明時代です。だから、春の陽気になったから、心も体もふわふわして一所にとどまりたくない。蝶々が飛んでどこかに行くように、自分も飛んで行きたい。歩調を合わせて、自由に花園を歩きながら喜び、飛び回りたいというようにして春が続くのです。 真の愛 気候もそうだし、信仰の世界もそうだし、思想の世界もそうです。統一教会に入れば思想的に春になります。今まで統一教会に入る前、思想的に見れば、冬のように皆、凍ってしまっていました。秋になれば、落ち葉になって落ちてしまう。これは寂しい枝ばかりだから、風が吹けばひゅーと震える。冬が近寄るような、晩秋期の文明圏に生きていた者が、統一圏に入れば春みたいになるのです。君たち、飛ぶように気持ちのいいことを経験したでしょう。目を丸くして地獄に行きますか? (笑い) 統一教会は不思議な所です。目から涙でなく、新しい芽生えが出てくる。鼻からも出てくるし、口からも出るし、皆、出てくる。そしてどこへ行きたい? 蕫日本にとどまりたくない。東京がいくら美しくても嫌だ。中国も嫌だ、アメリカも嫌だ。ただし小さな韓半島へ﨟そう思うようになっています。 それで、先生がそんなに韓国を応援し、褒めたために、日本をけってしまうのではないかと、そう思ってはいけませんよ。なぜかというと、今み旨に入ったいかなる国の若者にも、「どこの国の人と結婚しますか?」と聞く必要はないというのです。決まりきった答えを、君も私も知っているのに、なぜ聞きますか? 「どこの国の人と結婚する」と言った場合、名前はどうでもいい、内容が重要です。イギリス人も、ドイツ人も皆、韓国に対して関心を持っています。 日本人の君たちはどうですか? ここにいる君たちは関心どころではありません。君たちの父母は皆、韓国人に対しては大嫌いでしょう? 「黒人とならまだいいとしても、韓国人とだけはするな」というのが日本人の根性です。 先生がなぜここで話をするかというと、先生と君たちと呼吸が合わないといけません。遠からずして、もう別れます。相撲でもとって、プールでも入って、もっと記憶に残したいのが人情というものです。そういう意味で、先生が君たちのためにやるから、それは悪くありません。それを自分の欲望として何か与えられるのだったら、気持ちが悪いでしょう。(爆笑) 日本人のことを先生はよく知っています。君たち、電車やバスなどに乗ったとき、僑胞の人たちが横に座ったことがあるでしょう? そのとき、気持ちが良かったか、悪かったか、率直に言ってみなさい。今は韓国人がいいの? (「はい」)。それは方便で言うのか本当に言うのか、分かりません。今はどうですか? (「いいです」)。なぜか? それは何によるのでもなく、ただ、統一教会の先生がいるからです。先生がいなかったら一銭の価値もありません。日本でも、田舎から東大生が出たら、村のおじいさんが見物に来るでしょう。そういう者が何のためにここへ来たのか? 東大を卒業したからといって、特別に先生がよく会ってあげるわけでもないのに、何のためにここへ来たか? その答えはたった一つ、先生が生まれた国だからです。 先生という人はいかなる人ですか? 韓国を第一に思う人か、日本を第一に思う人か、世界を第一に思う人か? (「世界!」) 先生は言葉が巧みだから、うそを言っているのかもしれません。しかし、七十歳近い先生の生涯の歴史を通して見れば、文先生という人は、世界のため、神のみ旨のために成していると分かるのです。今、世界的に働くその基盤を作っている人は先生しかいません。それはもう公認された立場です。 その世界をどうするのですか? (「統一」)。統一して何をするのですか? (「神の国」)。「神の国」をつくって何をするのですか? (「地上天国」)。地上天国をつくって何をしますか? 今日、地上天国ができたとしても、腹が減って皆死ぬようになったらどうしますか? (「神とともに喜びます」)。神とともに何もなしに喜ぶとすれば、それは気違いです。神とともに真の愛を中心として、三点を置いて喜ぶべきであって、ただ蕫神とともにやっている﨟というのは気違いではありませんか? 礼儀正しく、四方八方周波数を正しくして、調和するような立場において愛とともに喜ぶという、その釣り合う基準が必要です。神の愛とともにけんかするとしても悪くありません。「なぜ、こんなに長い間会ってくれなかったのか?」と言って、神とともにけんかしたとしても、それは悪くありません。愛を中心として成すすべては、悪に結実しません。 親がむちでもって子供を愛するとき、それは罪ではありません。それを治める法律はありません。愛のむちは希望のむちです。愛のむちは未来の橋のむちだというのです。橋が作られるのです。 だから、愛を中心に関係したすべてのものは、いいものはもちろん、それは気合いをかけるとしても、悪いことではありません。本当です。だから、愛によって生き、愛によって死ぬのです。愛によって生きながら、愛によって死んだ者は不幸者ですか、幸福者ですか? (「幸福者です」) それは、生きる者よりもっと長く、もっと高く、もっと広いものを持っているからです。愛によって、ああいう格好をして、愛を中心として生き、死んでいったとするならば、幸福です。愛に生きるすべての結論は幸福になるというのです。失敗ということはありません。 先生を見た場合、一生涯失敗したように見えます。アメリカに行って、追いに追われて獄中生活をしてきました。日本帝政時代にも追われて獄中、韓国で獄中、いつも牢屋の生活でした。それは失敗ではありませんか? 何が望みで、何を中心として生きたいからそのような生き方をしたか。愛を求めてゆく生き方をしたいからです。 「真の愛」は地上にありません。真の愛を求めるには、地上を引っ繰り返してみなければなりません。そればかりではなく、こういうふうに縦に切ってみなければなりません。 そういうふうにして、地球上に東西南北、四方八方、いくら捜しても愛がないから、「地上から離れるべし」と結論づけた場合に、それは天から見てもOK、万民からも、歴史上の人々からも認められることであって、それを成しえないという結論を出すことができません。 だから引っ繰り返すのです。引っ繰り返したら大変と思うのはサタンです。大勢に構えて、「なぜそんな勝手なことをするか?」と。「それは愛するからだ」と、そこに悲惨な戦闘が起こるのです。彼らは権力の力によったけれど、先生は愛によって、愛を満たして打たれて行く。打たれて追い出されてしまったようだけれど、一周して行けば、結局は彼らが追われて行くようになります。彼らは一周するところまでは分からないのです。愛は一周ばかりでなく、「永周」、永遠に回る。「永周」という言葉は今までありませんでしたが、今から使いなさい。 愛によって生き、愛によって死ぬ人は幸福だと結論づければ、先生の生涯は悲惨でしたが、死にかかる未来に向けて、その愛の希望の道を、そのまま続けて行けば、その者も幸福な者になるでしょう。サタンが自分を連れて行こうとしているのではありません。神様が迎え入れて、天の王国に連れて行かれるであろうと思います。 神の国に必要な子供 統一教会の文先生に会わなかったとするならば、君たち、今いかに悲惨か考えてみなさい。ここに女の子たちがたくさんいます。顔の広い美人のいとこみたいな、これぐらいの美人だったら、日本のどこでも声をかけられるだろうという性質の良くない女がいるとすれば、悪魔の的になってしまったでしょう。そのような者たちがここにも座っています。別に顔も大したことはなくても、君たちの相対者から見れば、大したものと思われるでしょう。今は皆覆われているのです。愛の力というものは本当に不思議です。醜い者でも、愛に覆われた場合に、なぜあのように面白く、かわいい傑作となるのでしょう。それを考えると、愛の造化力、変化力、愛の和動力は偉大なものです。愛の眼鏡をさっと掛ければ、醜い者は一人もいません。 それで、韓国にたくさんの者たちが来る中で、よくも選ばれました。人間の希望は、日本人も韓国人も同じです。日本の男から見た場合に、日本の最高の美人たちが、韓国の男と皆組になって日本にはもういなくなってしまったとすれば、日本の男はどうしますか? これは大変です。それで、男たちも考えて、蕫その代わり、韓国の女を迎えたらどうか? 﨟と、そんなことを考えた者もいるでしょう。 韓国の女は、そう優しい女ばかりではありません。一週間で、そのような経験を多くしたという話があります。韓国の女は強い。強い男たちを生む女だから強くなければなりません。それは原理的であり、理論的です。活発で勇気ある女と、優しくてそわそわした女と、どちらがいい? 結束に余る女は、日本人は困るでしょう。君たちの感覚と違うのです。文化の背景が違うのです。持ち方も違うし、歩き方も違う。韓国の女はチマを、こうやって四方八方広げてもまだ余裕があります。日本は、着物という文化の産物が、活動のすべてを制限しているのです。 韓国の女は、寒いときには、さーっとチマの下に四人兄弟に、お父さんと五人ぐらい入れて、布団をかぶっているような、女王みたいな素晴らしいポーズをして気持ちいいでしょう。日本人の女はそれができると思いますか? ノミさえ入って行く所がありません。それで、よくも考えています。高く上げないと広くならないから、ここまでチョゴリをこういう風にして。(しぐさで示される。)だから、日本人の踊る踊りはいくら力を入れても、袴のすそが狭いから、一メートルを超えられません。日本人の女はそうでしょう。韓国の踊りは宙に二メートル飛んでいます。(爆笑) それだけ違うのです。文化の背景が違うために、君たちの尺度で計ったら失敗です。先生も真剣です。君たちより本当に真剣です。十年以降には、ぶどうの房みたいになった君たちの子供が見たい。 君たちを見たって、日本人、韓国人と、違う国の人です。それでは、第三番目はどこの国の人? 韓国人でもなければ、日本人でもない。もう君たちとは違うから、「天国」と言ってもいい。けれども、「韓国人、日本人の天国」と言ったらびっこになります。二つの国を持っている人がいますか? 三番目に現れる者が、未来の世界に向けて、神の国に向けて必要な子供になります。だから、今から何十年か待たなければ、神の認める、ふさわしい者は生まれてこないと考えるのです。 最も貴いもの 韓国にまで来て、こういうような背景の歴史を組み合わせたのです。先生がいなかったら、いかなる方法をもってしても、合うこともつなぐこともできないような環境にある者たちが、韓国の地に来て、どういうものを残しますか。国を超え、氏族を超え、自分の文化の背後すべてを超えて韓国に嫁いで来て、難しい環境に合わせながらすべてを切ってしまって、すべて無の状態から、すべてがあるようにとらえて、新しい地に合わせるのに、いかなる犠牲があることでしょう。そういうふうにしてきて、夫婦生活をした後に、どのようなものを残すか問題です。 特に日本の男だったら、韓国の一番悪い女を迎えたいと思う。女に対して「醜女」という言葉はありますか。それを「ブス」と言うの? 醜男たちが住む家は、蜂の巣みたいだから「ブス」と言うの? それだったら、もう醜い男ばかりをたくさん生むような女を「ブス」と。そういう女と結婚して、普通だったら嫌がるような者と結婚して、そこから、父母とは逆の子供が生まれてきた場合にはどうかというのです。そういうことも考えられます。だから、未来のことは人間には隠されているのです。 今、日本の新郎新婦たちは、何を残していくべきですか? 日本の言葉、日本の着物を残していきます? 何物も残してはならないようになっています。何を残しますか? 一番尊いものは、日本人が持てないような代表的な愛を残すことです。金を持ったとしても誇ってはなりません。何年後にはそれ以上になります。快適に食べるようになります。大学を出たといっても、人生が六十年も残っているのに、四年ぐらいの期間に勉強したことを中心として、「旦那さんは高等学校しか出ていないのに、わたしは大学を出た。気持ちが悪い」。悪いと言うその者は、とんでもない者です。勉強させたらいいではありませんか。そうしたら、日本の女は夫をこんなに愛したと、愛の量が高まり、広がっていきます。 夫に大学を卒業させるために死に物狂いで働いて、夫を偉い男として育ててゆくならば、日本の女というのは歴史に残ります。日本の女王になるような偉い人が韓国に来て去らなかった。そういう道もあるのです。 それとも、マニキュアやルージュやハンドバッグを残して、豪華な生活ぶりを残すために来た。働くこともしないで、韓国にちょっと威張りに来た。どちらですか? 何が尊いですか? (「愛」)。愛が尊い。それ以外にはありません。 それを植えた以上は、それを抜こうとする者がいたら、それ以上もっと詰め込もうとする真の愛を残した場合には、永遠の愛の主人として残ります。それを歴史に清く清く残して溜めて、深く深く、掘られないように保とうとすれば、民族愛、国家愛、世界愛につながります。分かりました? (「はい」) この手が何を動機として動いているか、聞いてみなさい。この顔を毎日鏡で見るたびに、この目、この鼻、この耳、詐欺師みたいに自分の利益をむさぼりつつ、誇り高ぶって、どうせ消えてゆく姿になってしまう己であろうかと。 それでは話になりません。自分の一身に何かを残さなければなりません。愛を中心として駆け回り、韓国人の愛より以上の何かを残したとするならば、その夫人なり、その夫なりが涙ながらに記憶して、日本の地に行って、その先祖を親戚に誇りたいというようになります。そのような何物かを残すべき使命のために、ここに来たということを忘れてはなりません。分かりました? (「はい」) 愛の支柱 先生だにアメリカへ行って、あの大きなアメリカの国を激動させ、かき回しました。それを見た場合に、自分のために成したのであれば、アメリカ人の一番劣等の者からもけっ飛ばされたはずです。太平洋の果てまでけっ飛ばされてもいいような者であるというのです。その反面、アメリカ人がやらないその愛を残すために、迫害の道を来ました。 かき回してもいいから、本当にそれを受け継ぐ相対者を求めるために、そういう難しい立場で会って、地を這いながら、心を交えながら、ともに励まし合う、そういうような基盤を願いつつ、その上に愛の柱を打ち立ててきたのです。牢屋に引き込まれても、愛のゆく世界は新しい。ダンベリーの獄中の壁の向こうに、わたしが立つべき理想郷があると、そのようにして生きてきました。 牢屋に入ったときに、アメリカ人と牢屋で一緒に住みながら、皆を先生が感動させました。そこは、アメリカ全体二億四千万の社会現象を縮小した悪の終着点でした。ぱっと一言、言った場合には、命が吹き飛ぶ。そういう所に真の愛を、ダンベリーのどん底までいくらでも打ち込むことが可能であったということを発表してきたのです。それを感じるようになったすべての者が、自分の親を超えて、妻を超えて、子供を超えて、先生に打ちかけて来るのを見ました。国も、自分の氏族も、家族も、一身すべてを犠牲にしても、そこに残したい思いがするのを見た場合には、偉大な者となる。真の愛の主人となる。それを求めてきたということを忘れてはなりません。 韓国の女の顔を求めて来たのでもなければ、男の素晴らしい体格を見詰めてきたのでもありません。先生に最も尊ばれる、永遠に残すべき、万民のすべてのモットーとしてたたえるべき、真の愛の支柱をこの地に残すために来たというのです。 ここにいる君たちは競争です! その愛の柱を済州島の南端に打ち込んだその者が、全半島で最も高い愛の柱になるであろうか。海でも、山奥でも、山頂でもいい。ただ一軒の家がある所でも、また、ない所でもいい。真の愛を象徴する所であったならばどこでも、この愛の支柱を打ち込まなければなりません。 怨讐の道によって消えていった韓国の先祖たちも、日本の帝政時代に犠牲になった人たちも、日本人によって植えられた真の愛の支柱を、「それを抜け」とは言えません。先生を中心として両方を結びつけているということを考えなければなりません。 それゆえに、霊界も先祖たちも、周辺で新しく出会うその人たちも、今から成していくこの夫婦生活の前に、あだに取り扱ってはいけません。このような道を打てば、胸が締めつけられてくる、きょう死ぬ人も出てくる。そういう現象が起こるのです。それは韓国でも日本でも、あらゆる所で実証されるでしょう。君たちが、この統一教会に入って結婚する前に、霊的に、自分はどういう者と結婚するかという体験をすることがあります。ある時代に亡くなった東洋の娘が、今度祝福を受けてみれば、その顔がそうだったりする。よくもそういう者を先生が選んで紹介してくれた。数千人も、それは偶然ではありません。このように組むのは、天地ともに抜くことのできない大きな愛の柱を打ち込むためです。外的には、憎いからハンマーを振って、その柱を打てと言って打ってみた後に、それが愛の柱だったらいかばかり偉大なことでしょう。 愛の道を行かないならば、男、女を無視して行きなさい。愛の忠告を受け入れない場合には、命を懸けて押し付けていい。それだからといって後退してはなりません。押しかけて後退すれば、永遠に後退してしまうのです。愛に屈伏させるその波動を見抜かないというと勝利者になれません。 先生もそうでしょう。世界の果てに押しかけておしまいではありません。それでもサタンが押しかけて、サタンが尊ぶ一番端の方を自分が取って、サタンは逃げて行く。先生はここに立って、今から帰って行くのです。君は帰って来る道がありません。それは蕩減の道です。押しかけて、中途半端で後退するような者になったらだめです。それは始めない方がいい。十年、二十年、三十年、韓半島の地を目指しながら、決意したその一念に覆われて正しくなされていく。そして、長く続けながら、神の御前に蕫よろしく﨟というその勝利者の言葉を残していくために、ここに立っているということを忘れてはなりません。真剣なことです。 顔はどうでもいい。顔は皮の変形したものです。顔の縮みや収縮は、変形したものです。今は整形学が発達しており、いつでも作り変えることができるではありませんか。一週間で美人になれます。 愛の道 先生は君たちといたいのに、もう帰らなければなりません。子供はいつも親の許にいたいものです。イーストガーデンにいる先生の子供たちも、「お母様といつも一緒にいたいのに、なぜいつもいないの?」と言います。それだからと言って、彼らが喜ぶことをしたら、先生はどうなりますか? そうはいきません。 君たちも先生の子供でしょう? (「はい」)。「先生が韓国にいないで、無慈悲にも顔も振り向かず、飛んで行って消えてしまった!」。泣きなさい。泣けば福が来ます。恵みが生まれてきます。雨が降れば、新しい生命が生まれてきます。泣くことの心でもって涙を残すところには、生命の基台が残されます。 笑いたいの、泣きたいの? 本当にうれしくて泣いている顔つきと、本当に悲しくて泣く顔と、顔が何パーセント違うのですか? 同じくらいです。笑ったり、泣いたりするのは、上がるのも、下がるのも、何の差別もありません。真の涙を流すところには、生命の種が、芽が生えてくる。旦那さんの泣く顔もそう悪くありません。「なぜ、君はこういうふうに泣くのか?」と聞かれれば、「真の奥さんの名前を残すためだ」と答えるべきです。 ここに二人の女性がいるとします。一人は美人で、体格もすらっとしていて、何も条件を付けるところがありません。足の爪さえ格好よく、美しい指をしています。その美人と、ブスが二人ともそれぞれ旦那様に一所懸命仕えています。ともに一所懸命語り合い、キスをするのを見た場合には、美人の夫婦が倍になります。それから、笑い転げるようなそのことが、垣根を超えて村の注目の的になりました。それなのに、ブスの夫婦はみっともない格好をして、歩き方もみっともないし、行動もみっともない。しかし、美人の女は、男が死ぬ際に、自分が先に死ねば救われるのに、命を懸けることができませんでした。他方、ブスの女は先に死んで男を助けたとするならば、どちらが烈女ですか? 同じ二人が、おのおの旦那様の烈女になろうとして、一所懸命に働く。働くのも同じです。点数も同じです。もう十年か二十年間、同じ点数で、同じく仕えてきました。しかし、一方の女はびっこになって、片輪になってしまいました。夫のために働いたから片輪になってしまったという場合には、片輪になった女と、片輪にならなかった女と、本当の烈女を求めるには、どちらを烈女として選ぶべきでしょうか? (「片輪になった方です」)。それは困難な話です。 たくさんの女がいて、皆韓国にいいことを残し、いいことをしようとしました。その中で、一番日本を代表した女、夫を愛し、夫の家庭を愛したその奥さんはどういう人でしょうか? 四季に合わせて、いい色合いの着物を着て、繁華街をずっと歩き回りながら、いい気持ちで有頂天になって住む女もいるでしょう。日本から来て、そういう成功した姿、こういうのはだれもが願う女のポーズです。普通の女はそういうふうに考えます。 しかし、一方では、日本で見たら相当偉いと思ったのに、今外国での姿は乞食にも及ばないくらいにみすぼらしい。それで、影の後をたどりつつ歩くような生活をしながら、それでも韓国に尽くす。旦那に尽くす。未来のために、み旨のためになろうとする女がいたとするならば、どちらの女を、韓国あるいは日本としてたたえるでしょうか? (「後者です」) 先生は罪なき立場で手錠をかけられて、五年の刑を受けて牢屋に向かって行くときに、それを振りかけながらガチャガチャ音がしたことを、今でも忘れられません。 その音は四季を超越し、時期を超越する。そんなみすぼらしさが花の香りみたいになって、天宙に神の心を動かすような材料になっているのです。当然、亡くなるはずの文先生が、歴史上の万人の頂上に立ちながら、未来に対して号令をかけるようになったのも、歴史が願い、天宙が願う姿やその立場だったから、そうなったということです。それは、愛の心情の基台の上にのみ可能であるということを忘れてはなりません。 歴史に残すべき実績 結婚してここに来たのは何を残すためですか? (「愛」)。真の愛。宝物を隠しておくのに、世界で一番尊いものを隠すとすれば、最もきれいで、最も願わしい所に隠す者がいますか? 最も隠れた奥地に隠したいものです。そういう世界に、王者につなぐ勝利の道があるということを考えてみた場合に、愛は平常の人間が願うような道にあるのではなくて、反対の道においてあるということは当然の話です。 日本ならば朝、たくあんとみそ汁と茶碗を準備して、「はいはい、持っていきます」と言って、女中なんかが持って来るそういうご飯を、何のあいさつも、祈りもしないでパクパク食べるその女ではなく、待ちに待った十年ぶりのたくあんとみそ汁を前にひざまずきつつ、神に敬礼し、祈りながら食べる姿を見た場合には宇宙が迎える。 先生は牢屋でそういうことをたくさん経験してきました。ご飯を食べるときふと見ると、周囲にたくさんの人がたかっている。それは霊的な現象です。今そのようなことを言っても、皆涙ぐむ。だから、先生の生涯を知った、たった一人だれか来て、「先生はこういうお方でありましょう」と一言言ったら、痛哭するような悲しみを持っているのです。その悲しみの根を引き降ろし、悲しみに共鳴する相対的な愛の持ち主は、統一教会にはまだまだたくさんはおりません。 日本から来た兄弟が、韓国にいる統一教会のメンバーにも増して、そういうふうになってほしいという思いを持つ先生です。そういうものをどうか残してもらいたいというのが先生の頼みであるとともに、未来に待つ楽しみであります。真剣なことです。 君たち女としては、病気の旦那さんとか、貧乏な旦那さんの前に、旦那さんの喜ぶ食事を作ってあげられない女の恥ずかしさを体験する女は幸福者です。そして、涙しつつお金がない。それは、千万金をささげながら賛美してたたえるよりも、もっと尊いものであります。皆見えるところでたたえられるよりも、隠れた所で、皆が頭を下げて沈黙を守りつつ、そういう環境において尊ばれる女は偉い。それは夜のお姫様であり、昼のお姫様です。日中明るい所でも、主人になるような女になるでしょう。韓国の子供を生んで、韓国の血統を抱えておっぱいを飲ませるお母さんになるでしょう。 何か残していかなければなりません。いい女の子、男の子を、いい旦那さんを、いい舅、父母を、いい義理の兄弟を。彼らが私のために、神の前にご褒美を受けられるようになったその誇り高い、その動機をなした価値はいかばかり貴いものか。君たち、標本になりなさい。今からたくさんの女たちが、韓国の地に向けてお嫁に行きたいと言うように、日本の地からの叫び声が天に届くことでしょう。それを願いの的としてたどって来た場合には、だれが先輩としての教材として扱われるでしょうか? それが先生の関心です。 鹿児島のどこそこから来ただれかの奥さんが一番の美人だった場合には、その美人の顔を誇りながら書き残して教材とすれば、いかばかりうれしいことでしょう。しかし、それは何の価値もありません。顔はどうでもいい。姿はどうでもいい。ぼろの着物でもどうでもいい。残すべきりっぱな人物。君たち、何を残していくべきか? 涙を汲みながら天宙の神に侍るような泣き叫びを後に残す。それは自分たちが選択するのです。 愛の世界は、大きい物を包容できるし、小さいものも包容できる。けれども、私は先に小さい物を包容します。それは愛の世界を最も勝利しうる道だからです。大きい物を抱えては、小さい物を抱えられません。小さい物を抱える訓練をした場合には、大きい物も間違いなく抱えられます。だから、異国の地で行く女の道は、平坦な道ではありません。 先生は異国の地でたくさんの経験をしてきました。それで先生は、その国に行っては、その国の一番貧しい人たちの友達になろう。夜を通しながら泣き続ける女たちや、かわいそうな人たちのお兄さんになろう。そういうふうに生きてきた日々が、年月が重なって今の先生の立場をつくるようになったのです。それは一時になったのではありません。いっぺんに川を跳んで渡ることはできません。一歩一歩、間違いなく訓練して、訓練していくことによって、それが可能になるということが、この地上の生活です。 そうしたら、君たち何を残したい? (「真の愛」)。愛の実績をそこに残した場合には、鹿児島から来ていれば、鹿児島がそこで復活します。鹿児島のそのときの人を代表して、鹿児島の精神を盛り上げて、こういう花を咲かせていっただれそれのお墓だ。実績を高める尊いものだというのです。涙ぐんで、悲惨な思いでもって、会いたくなって駆けつけるような、その思いは日本海に転がしてしまいなさい。韓半島の南海の海に潜り込ませてしまいなさい。 そのことを自覚して、その道に間違いなくたどり着いて、そういう実績を抱えることができるように先生は願っています。 真の愛の基準 先生もそうでした。アメリカに行ったとき、だれも知りませんでした。知っておられたのは神だけでした。一九七一年十二月十八日にワシントンに到着しましたが、それはとても苦労しながら入って行ったのです。アメリカの地で踏み出したとき、その決意はだれも知りませんでした。 さあ、今から出発します。この地で国をたどって涙を流した者、血を流した者より以上の熱い真の血を、真の涙を流さなければなりません。今から何年後、この地で消えていくような男にはなりません。歴史をかけて、西洋の文化すべてをかけても追いつけないような、神が信頼する貴い、真の愛の基準を残していく。真剣です。 四十三日駆け回って聖地を決定した、その日々のことを思い出します。それは、気違いのようでした。今になってアメリカの若者が、先生のたどって行ったその道をたどりつつ、自分もそういう車を持って、そういうスピードで駆け回りたいという、歴史をたどってみるスタイルを先生は見つつ、真に生きる人の道は永遠に残るということをつくづく感じてきました。 君たちもそうでしょう? 日本の地に先生が立ち寄って何かをしたとするならば、自分もそこに行ってそれ以上のことをして、印象を残したいという思いがするでしょう? それは、人情として東西を超えての心情圏なのです。間違いなく、真の道がそうなっているということを、経験を通して先生はよく知っているから、そのとおりに君たちもなれるのは間違いないと思うから、こういうことを忠告するのです。どうか、そういうような結果に立つようにお願いします。 そうなったら、今からすべてが解決します。だから下から入りなさい。奥さんが夫の家に入るときは、皆初めての顔です。初めて見る顔です。君たちを生んだその家族ではありません。その父母ともに一つになって生きるのは難しい。子供を生むことも知らないし、どのようにすればいいか分かりません。だから監獄の唖から始まると思いなさい。聾でないから幸福です。聾でないことを感謝しなさい。 いくら悪いといっても、統一教会のメンバーであるならば、夫は君たちの方を一から十まで何とかして助けてあげたい、王様みたいに侍られるような、いつもそうだと考えてはいけません。韓国の伝統的風習はそうではありません。しかし、男はそう言われて乗り気になって、これが韓国の風俗だと、いつもそうやってもらえると思ってはなりません。今は逆の道を行っているのです。だから、下から行くのです。 忍耐と注意 それからもう一つ言っておきます。復帰の道は蕩減の道です。なぜ蕩減の道を行かなければならないかというと、我々を破壊してしまおうとするサタンがいるからです。君たちは、サタンのいることを忘れてはなりません。 これを先生はよく知っています。今度の祝福の場合にも、サタンが駆け寄った場合には、皆乱れてしまう。だから先生は真剣です。神の目で眺めて見た場合に、両国を率いる責任者というものは、こういう心情圏に立たなければならないことを知っているからです。一人ひとりを組む上において、これは日本人だから、韓国人だからよく見ているという思いはだめです。 だから、最後まで、神が同情しうる公的人間として、きちんと正当な道を行った場合には、成そうとするすべては、東西南北どこでも神の保護の下に無事に通過できるのです。それゆえに、昼も夜も、一瞬もその思いを忘れてはなりません。 今度の祝福において、先生は結婚式を挙げる十五分前まで組んであげたのです。顔を見れば、その真剣さ、悲惨さは、親心としてはたまりきれない。それを一般の人が見れば、「規則的でない」と言うかもしれません。しかし、愛の世界は規則ではありません。規定を超越しています。そこで「OK」と言えば、「NO」と言うことはできません。 君たちも結婚して会ってみれば、よく合うでしょう。心はすーっと旦那さんと合う。それは、先生がよく組んであげたからです。(笑い)格好が良くても、いくら美人で背が高くても、嫌な人はたくさんいるのに、世界中のどこの国の人を連れて来て聞いても、文先生がマッチングした組み合わせは悪くないという結論が、世界的に好評になっています。 だから、よくも残って、そのように相対者が与えられるようになったことを幸いに思うべきです。そう思いますか? (「はい」)。そう言うことはいいのですが、今からが問題です。 いいということは、三年、五年、十年、四十年、一生涯六十年を含んでいます。それを知ってみて良かった。苦労して、六十年を過ぎてみて、天下を治める孫が生まれてくるかもしれません。それなのに、その一年前に、「ああ、これはだめだ。日本に帰ります」と言ったらどうなりますか? 人類歴史にはそういうことがたくさんあるでしょう? その、たった一年間を忍び切れずに、悲惨な結果になってしまうことがないとはいえません。だから、死ぬまで、こらえて行こう。分かりました? (「はい」) 特に女の子たちに対して、先生は注意しておきます。女の子は男の子より弱い。また、誘われやすい。強制的に引っ張られやすい。だから、それをいつも考えながら、自分の一身の誇りというものを絶対的に守っていかなければなりません。いいかげんなことができません。一度問題を起こした場合には、生涯懸けての恨みがついてきます。その悲惨さを抜け出る道はありません。 伝道に行ったり、いろいろなことで、そういうような問題に引っ掛かった女たちが、通りがかりに先生に出会ったら、横目ですれ違いながら、目許から涙が落ちるその悲惨さというものを先生は見てきております。今もないとは言えません。特別に注意しなければなりません。特に、言葉の通じない日本人の女の子たち、社会に出たり、伝道に出掛けたりする場合には、格別に注意しなさい。 だからといって、訴えることもできないのです。言葉が通じないから、どう扱ってもいいような女と思われやすい。韓国にも相当悪い者もいるんですよ。皆、神様を信じる者ばかりではありません。サタンが半分、日本人よりももっと悪らつな者もいます。先生を善なる者の極とすれば、半分は、悪の極の者がいます。もっとひどい者、悪らつな者がいるということを忘れてはなりません。 だから、いつも目をパチパチさせながら、さっと鑑定して分別し、敏速に行動して、自分の一生を守るのが、女性の道であるということを忘れてはなりません。分かりました? (「はい」) 生死を決定する足場 さて、復帰の道を行くには、蕩減の道をたどって行かなければならないというのが統一教会の教えるところです。なぜですか? (「サタンがいるからです」)。韓国語で、。日本人は「」と正しく発音できません。サタン。今から韓国語を習っていくと、英語もよくしゃべれるようになります。韓国語は、あらゆる発音が備わっている素晴らしい言語です。 韓国人の頭がいいのは言葉によります。また、何段階も形容詞があって、物事をすぐに鑑定する力も、言葉によるのです。頭がいいのは、そういう裏の脳を活用させてキャッチするような分別力を持って訓練しているからです。だから、韓国人は頭がいいし、情報に早い。先生が韓国人だからそう言うのではありません。本格的に君たちが勉強した場合には、韓国語は実に素晴らしい。だから、どこの国の言葉でも、で書いた場合には、皆発音できます。それを読めば、そのとおりに理解できるのです。 サタンを見たことがありますか? 見たことはないというのです。この世でも、自分より悪い者は皆サタンです。そういう意味からは、「サタンを見た」と言えます。自分より悪い者、良くない者は、自分にとってはサタンです。 では、神様を見たことがありますか? (「はい」)。どのようにして? (「自分より良い者を見て」)。そうです。自分より良い者が神様の弟です。弟は、兄さん、お母さん、お父さんと似ているからです。全体を見なくても四五パーセントを見れば、大概分かります。それゆえに、人を通して神様を見ることができるのです。 だから、結局は、「人を注意しなさい」というのと、「人を好きになりなさい」というのは、一つのことです。人を注意しなさい。それから人を愛しなさい。複雑です。神様のような人がいたとすれば、その人を愛しなさい。サタン的な人に出会った場合には、それを注意しなさい。憎んではいけません。憎むことと注意することは違います。注意を払いながらやりなさい。 アベル、カインはそのことなのです。カインはサタンの側であり、アベルは神の側です。そうすると、自分を中心として言えば、自分の旦那さんがカインであるか神様であるか、すぐに分かります。ただ見た場合に、自分より信仰的、あるいは心情的に劣っているという場合には、旦那さんに注意しなさい。 それだからといって、注意するように先生が言ったということを言う必要はありません。先生がひそかに言った言葉を、さっと気づいて、心に留めておくのです。いくら秘密のことでも、女に言ったら、女はラッパを吹きかけます。 先生は世界中回っていない国がありません。しかし、イギリスの女も、フランスの女も、ドイツの女も、日本の女も、中国の女も、女性は皆姿が同じように、似ているというのです。青年に話しかけるのに、おじいさんのように話したら通じません。そうでしょう? 先生は青年になりました。青年のときの気持ちは素晴らしい。 だから、生活において負ける者は、信仰の道においても敗北者になりやすいというのです。人に忠告されたり、生活環境において忠告されるような者は、サタンの方に立っているということを悟らなければなりません。生活環境において褒められる者は、神の方に立っているということが分かりましたね。そうすれば、信仰生活をどのようにすればいいか分かるでしょう。 まずもって、いかなる人にも悪い印象を残してはなりません。話をしていても、何をやっても、工場に行って働くときでも、自分は怠けて、人の働くのを見て、「なぜそんなに熱心にするのか?」と、そういうことを言ったらだめです。 これ以上教えなくても、君たちだったら、解決の方法は皆理解できるでしょう。生活環境において、サタンと神が、私を中心として奪い合っているのです。私を避けて通って行けません。神も、私を救ってやらなければならないのです。絶対的に救う。神の愛情圏が世界的になっている、それがなくなるまで絶対的に守らなければなりません。 統一教会に入って体験してみれば、明日になれば間違いなく原理を聴きに行くと約束した者は必ず、その前夜に問題になります。そういう経験をしたことがありますか? 生活上が生死を決定する足場になっているからです。 天国、地獄でそういう決定をするのではありません。この生活上において地獄か天国が決定されます。良心的なものだったら神の方に同情する。良心に逆らった場合には、直ちにどこへ行きますか? いいことをなして前進して、悪いことをして後退し、前後左右、この地上を起点として回り、前進し、駆け合っているということを忘れてはなりません。 だから、自分の話、行動、姿勢というものがいかに重大か。讒訴されてはいけません。かわいい顔をした女の子がポーズを少し誤ったりすると、とんでもないことに覆われてしまうということがいくらでもあります。そういうサタンを、神を、どこで分別するか? 霊界で分別するのではありません。どこでしょうか? (「生活!」)。自分個人としては良心と肉心。良心に近寄る内容のものは神の方、肉心にかなうようなものはサタン的です。 正しい生涯の道 それで、女は特に注意しなければなりません。一方、男は女を守ってやる使命があります。エデンの園でアダムがエバを守らなかったために失敗したでしょう。一度関係をもった場合には、永遠に責任を持つような男にならなければなりません。 それで、サタンはどこにいますか? 女の方から見た場合に、サタンの方に一番近いのはすぐ分かります。自分のために女を使おうとする者はサタンの親方です。全体のために奉仕しようとする者は、特に神の方に立つ。 だから、今この世界はサタンの世界です。サタン世界がプラスとなって、ちゃんと構えているのです。神はマイナスの立場に立って、宗教界は大きなプラスの世界を開発して来ました。先生は四十年間、一人でもって、こういう世界的な迫害の道を超えて、今、地上のいかなる主権も反対できないような基盤を造りました。それを、一生涯で成しえたということは偉大である。 今からもう少したって、文先生を中心として世界中が立った場合に、サタンの世界は残りますか? サタンが逃げてしまうの、消えていくの? (「消えていきます」)。逃げていくのは、駆けて追いつくことがてきますが、消えていくのは、だれも知らないでなくなってしまうということです。だから、「消えていく」というのです。逃げていくのではなく、サタンは消えていかなければなりません。(拍手) 先生の話を聞いた場合には、天国に行くことができますか? 先生に連れられて行った場合、皆天国に行くことができますか? 先生について最後まで行った場合には、天国に行きますか、地獄に行きますか? (「天国です」)。「来るな、来るな」と言うのに、それでも来るのが服従することですか? (笑い)それではどうしますか? (「行きます!」)。それでも行かなければ道を探れません。 先生は外交能力を持っています。よく隣にいる人に、試験することがあります。「君、何を願っていますか? 君のような者には永遠に会ってやりたくない。何も上げたくない。このやろう、消えていけ」と。上げたくて、付き合いたくても、そういうことがあります。そういうときに、試験に巻き込まれないような霊感力を持たなければなりません。 昔は、例えば列車の広告板に、「文鮮明奴、追い出せ」というような広告が出たのを記憶しています。「神も、日本を守って祝福させ給え」と、先生がそう言っているのは気違いではないかと。 しかし、今は、アメリカに行って東洋人に会えば、「どこから来ましたか?」と聞かれて、「韓国から来ました」と答えれば、すぐに、「レバレンド・ムーンを知っていますか?」と問われます。近所の日本人だったら、「文先生、知っていますか?」と聞く。すると日本人は言うでしょう。「知っていますとも。昔は、『文鮮明奴』と言われていたが、今、知っていますとも。文先生はアジアから生まれたんです」と。 霊界では、文先生のことを、「レバレンド・ムーンはどこで生まれました?」と聞けば、「地上で生まれました」と言います。それで、地上で生まれて霊界に行った者は「ああ、文先生は私の友達です」と言うのです。そのとき、「私は分かりません」と言ってはだめです。「ああ、そうか、そうらしい」と認めてあげなければなりません。そういう答えを聞きたがりながら、そういう因縁を高らかにたたえるということを忘れてはなりません。 だから、先生には怨讐がありません。それは、偉大な言葉です。それを理論的に考えてみた場合、なぜ怨讐を愛するのか理解できません。一つのものを見て、好きな部分が半分で、嫌いな部分が半分あるとすればだめです。それは、嫌いなものでも嫌いに思わない。私には一方だけだと考えた場合には、サタンはどう思いますか、「やい、これはわたしのものなのに、全体を占領しようとするのか?」と、そう讒訴します。 本心の真心で、神の心情に通じながらそう言った場合には、そこにいたサタンはちゃんと退いてやらなければならない。霊的にそうです。 文先生がそう思った場合には、悪いと思わないで、「カインもアベルも皆神の子供である。真の愛が欠けているから、そういう子供が生まれたのであって、真の愛を中心に立てた場合には、ともに同じように認めるのが、神の原理的観である」と言う場合には、サタンは頭を下げるのです。偉大なことです。そういうことを言いながら話をすると、アベルの方も、カインの方も瞬時に感動していきます。 そのように見た場合に、君たち日本人、「日本人」がいいの、「日本のメンバー」がいいの? (「日本人」)。「日本の食口」がいいの、「日本人」がいいの? (「日本の食口」)。とにかく、それをはっきり分かる先生から見た場合には、「君、日本人」と言っては済まない。「君、日本の兄弟、日本のメンバーとして」と言ったら、それは群れは一つだから、そこにはサタンの讒訴条件がありません。ちょっとの違いです。「韓国人、日本人、韓国のメンバー、韓国の食口、日本の食口」と言うよりは、「我々兄弟、我々同族」と言うほうがもっと近い。 「君臣一体」、「夫婦一体」という言葉は、主君も下臣も、夫も妻も、別々の者が愛を中心として一体となることを意味しているのです。だから、愛は偉大なものです。ただ、愛によってのみ、サタンを分別できるのです。それ以外のものではできません。 この世の中には、罪を犯した場合に、金をやって賄賂を出して罪から逃れるようなことがあるかもしれないけれど、愛の世界にはそれが通じません。地上が問題です。だから、生活環境をずーっと鑑定しながら、どこどこが悪いと見分けながら、環境に惑わされないように、正しい生涯の道を立てながら、サタンに巻き込まれないように注意しなければなりません。 最高の心情基準 「蕩減して、復帰する」と言う場合、何によって蕩減するか、それが問題です。それは、金でも、力でも、知識でもありません。真の愛。君たちが夫婦になってけんかをする場合には、「君、本当にわたしを愛していますか?」と聞くのです。「真心から愛していますか? 心身一体となって愛していますか?」と。心身別々に愛すれば問題です。真というものは、二つより、三つが一つになるほうがもっと真です。三つよりも四つが一つになるのはもっと真です。 サタンが今まで地上で成しえた、自分たち、同僚自体が結び合わさって残るための愛の基準というものがあります。この地上の歴史において、孝行息子、娘としての孝子の道、忠臣の道、それから聖人聖者の道、聖子の道、という四つの道があります。そういう場合に、いかにその心情基準が、高い基準を中心として比べたとしても、サタン以上の心情に向けて、そこに立って人を愛し、神を愛するところには、サタンが干渉することはできません。 それゆえに、「汝の心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、汝の主なる神を愛せよ」、これが、「第一の掟である」ということを知らなければなりません。神は何を一番必要としていますか? 神様自体を本当に愛する、それを願っています。本当のものはたった一つです。 だから、この言葉は命懸けで成す。一生涯の生命を懸けて、一所懸命に成す。これは統一教会が使う言葉です。「一時懸命」でなく、「一生」です。そこで、「一永懸命」と言う。さらに、「一天、一宙懸命」と。そういう言葉を使っても我々は分かるのです。日本人は「一宙懸命」に行かなければなりません。「宙」は天宙と宇宙の宙で、畑を言い、「宇」は高いことを意味します。 だから、君たちが一人で立った場合には、親孝行娘、息子になりたい。それから、お嫁に行った場合には、真の妻になりたいでしょう? 真の旦那さんになりたいでしょう? 真の親になりたい。そうでしょう? そして真のおじいさんになって、さらに真の祖父、祖父、祖父、祖父のところまで帰る。(笑い)だから、真の橋があります。それは真の愛の橋です。それは親孝行の真の橋、夫婦ともに、父母ともに愛の橋が垂直に上がっていきます。 そのようにして蕩減復帰の王者になるには、日本を愛したより以上、韓国に来て愛さなければ、韓国の国から迎え入れられません。それで、日本人を愛したより以上愛さなければ、韓国の方はサタンとして讒訴する。家庭的蕩減復帰の勝利者になるには、闘って勝たなければなりません。そうなるには、日本の兄さん、日本のお父さん、日本のおじいさん、おばあさん、いかなる者より以上に韓国に来て愛することによって、蕩減の道は消化されてしまう。 そういう心の整理ができていますか? (「はい」)。初めて会う旦那さんを、兄さんより以上、王子様のように侍ることができますか? 言葉も通じない、会う男の癖も知らないのに、自分のお母さんや、自分のお父さんに侍るより以上やれますか? (「はい」)。それが問題です。そうでなければ、国を超えて結婚する意義がないし、サタンの讒訴圏を抜け出ることができません。 父母を中心として個人的アダムと個人的エバと、父母が代表して、家庭的アダム圏、家庭的エバ圏、家庭的氏族圏、国家圏、こういうふうにして一つになった基準が立ったのです。それは今、サタン世界の心情圏を超えた立場です。 韓国で成すことは、日本で今まで抱え、たたえてきたすべての愛の問題とか、貴いすべてのものより、それ以上の神の心情に高まった基準に立たなければなりません。そうしないと、エバ国家としての立場がないし、アダム自体が感動しません。 「昔、わたしを誘って引っ張って堕落させてしまったのに、今度もそうするか」と、アダムは怒鳴りつけるでしょう。反対に、心情的に押し上げるような日本人にならなければなりません。分かりました? そうやれる自信がありますか? (「はい」)。「原理はともかく、韓国の先生だから、都合のいい方便を立てて説明している」と思いますか? これは原理の観です。 エバの心情基準を中心として、世界跳躍、世界飛躍をすべきこの時間、韓国の男を引っ張って、引っ張りだこにするような女ではいけません。「日本人同士でもっと深く相談しなければいけない」。こう言った場合には、完全にサタンの方です。それは恐ろしいどろぼうのサタンです。 君たちは、日本の国を東西南北、北は北海道から回りながら走って来たでしょう? 先生はちゃんと知っている。君たちは知らないかもしれないが、先生は真剣に考えています。こういう若者たちを街頭に寝かせる王者、文先生は罪深い男です。もしも悪い側に立った場合には、その責任、一生というものは重い。宇宙をやっても買えないような尊いものを踏みにじる大元となった、その罰を受けるべき悲惨さは例えようもありません。これをはっきり分からなければなりません。 最後の救いの道 兄さんの立場で、姉さんの立場で、母の立場で、父さんの立場で、一度抱擁したら永遠に離さない。この心情だけもった旦那さんなら満点です。いくら何と言っても、「絶対君を離さない」と言えば、それは満点です。けっ飛ばしても、ついて来て追い返さなければ、それは真の男です。しかし、「行け、行け」と言ったら、それはだめです。そういう立場に立たないように。そういうふうに成りやすい女は判断を早くします。 「君がそうやったらわたしもやる。行く所がないわけではありません。日本にはもうりっぱな親戚がいて、わたしの父母はこんなに豊かなのに、それに比べて韓国は何だ。姑さんが何だ。永遠に忘れたいような者たちと、相手をしたくない」と言って、気持ち悪くて一人でむっとして帰ろうとして、ふろしきを包んだら、もうおしまい、帰る道がありません。 女性たち、分かりました? (「はい」。日本に帰ってもだめです。サタンは許しません。ほうりっぱなしにされた、悲惨さを思わなければなりません。特に女性は注意しなさい。 男は、そういうことがあった場合には、口を開けるな。口を開けたら、韓国の男は吹っかける。「このやろう、何だ」。韓国の女もそうです。「このやろう、何だ」。一発倒れても口を開けるな。韓国の女も情が深く、義理には弱い。そういう難しい境地を超えず、讒訴条件が残った場合には、蕩減復帰ができません。 今から注意します。蕩減復帰して何をするかと言えば、サタンをなくした所で接ぎ木をする。普通であれば、渋柿の根を切って、甘柿の根とか枝を接げば済むけれども、ここはそうではありません。 渋柿の根を切ってしまって、それを埋めてしまう。それからいい枝を取って、上下切ってしまって、そこから甘柿のところに半分接ぎ込んで、もう先を残してもいい。それが安心できなかったら、こっちを接ぎ込んで、上まで接ぎ込んで一つになるようにして、それから甘柿の根か枝を接ぎ木しなければなりません。接ぎ木の仕方が違うのです。神は、根も先も見たくありません。だから、サタンの血統に覆われているものを接ぎ木しなければなりません。血統を転換しなければなりません。 なぜ、血統を転換しますか? サタン蕩減は、血統を受け取る、血統を正すためです。それはなぜか、君たちはこれをはっきり知らなければなりません。神の心情は元から相続されるものです。神から相続する。元の基準に立ち返らなければ、神の心情圏は、横から、どこでも入って来るのではありません! 世界を愛したと言ってもそれはつながりません。 アダム、エバが子供のときは、家族もなければ、親族もありません。アダム、エバしかいなかったのです。血統は、神の真の愛と、その横的立場に立つ横的肉的真の愛が一つになったその基準に生まれる。父母の血統を受け継いだその基準において、初めて心情圏が相続されるのです。 神の心情は、どこからか飛んで来るのではありません。血統を正さないというと、元から、心情の栄養分が、心情の血統がつながりません。心情圏がつながなければ、神の愛による相続圏が生まれません。心情圏に一致した場合には、その心情圏に属するすべての物は自分の物であり、その属するすべての物は、自分の相続物として許されるようになっています。分かりました? (「はい」)。その基準が立っていません。 だから、その境地で、「ああ、神は私の真の縦的親だ」。いかなる宇宙の背後からもかき乱すことのない、いかにばらしておいても、自然にその方向を中央に結びつけるようになっているという、それを乱したのはサタンです。だから、サタン的心情圏を残しておけば、心中に痛みを持ちつつ、行かなければならない。神の心情を相続するためには、そのまま血統転換しなければなりません。サタンを完全に分別しなければなりません。 蕩減復帰は、血統を求めて、それから心情圏を求めていかなければなりません。それは最後の救いの道だということを、君たち分からなければなりません。 だから、真の愛に接すれば、日本も韓国もありません。真の愛に接するには真の親しかありません。真の父母、真の子供、それきりです。そうなれば、真の神と、真の親と、真の子供と縦的に四位基台の理想圏が生まれてきます。それをいかにして本然の血統基準に一致させるかということは重要なことです。 そうした境地に入れば、すべてが入るのです。そこに立っていれば、宇宙が私の物、神は私の物、日本は私のポケットに入っても小さい、そのように思うのです。私の足よりも小さい、そういう小さな日本を中心として高らかに誇れるような男の腹というものはありません。 二百十億光年の、この広大な宇宙、それを駆け回り、働きかける神様。いかに素晴らしい速度で走り回ることでしょう。それは、思いよりも速い。電光よりも速い。瞬時の活動にかなわせる力というものは真の愛以外にはありません。真の愛に立って訴えれば、万年の昔、永遠の未来が、「イーッ」と答える。 そういうことを知った真の子女の行くべき道は、いかばかり素晴らしいものでしょう。そういう所にたどり着いた我々は、疲れを知らない雄々しさでもって、最後の勝利者になるべきであって、最後の敗北者になっては絶対いけません。 それゆえに、生涯懸けての勝利者として、日本の先祖、世界の因縁を持っている先輩たち、善人、義人たちにたたえられるべく、今から出発しましょう。 そういう目的に向かって、間違いなく勝利者になれるという自信をもった者は両手を挙げて、天地に轟くほど誓いましょう。堪えて、死に切って、最後の旗は、先生が行くときに、先頭に立って旗を振りかけるお嬢さん、男になろうという自信を持って走りましょう。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.07
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「六五〇〇双祝福式での御父母さまの祝祷」1988年10月30日京畿道龍仁郡一和龍仁研修所 愛するお父様、きょう一九八八年十月三十日、この時間を期して、ここにいる善男善女たち六五一六双のすべてが、天の真なる家庭を結ぶことのできる祝福の日を迎えるようにしてくださったことを感謝申し上げます。 ここに集まったこの子女たちは、国境を超え、世界を超え、天が願う心情の基台を中心とした一つの兄弟の因縁を結んでいくべき責任を、天の命令によって決意し、誓いながらここに集まった祝福の場であります。この者たちの将来の行く道を祝福してください。きょう、ふたりの男女が天の前に手を結んで、ふさがっていた歴史の塀を崩し、愛を中心としてあらゆるものをかき分けることができる勝利的出発をもたらす善男善女の姿を天は誇り、人類は粛然と尊敬する心をもって褒めながら、地上のすべての新しいせ界の方向を決定するに際して、家庭が基本になり、その基本的家庭を結び、社会と国家と世界の方向をお父様の許に取り戻すために、歴史的な聖なる日を、きょうこの韓国の地に承諾してくださったことを感謝申し上げます。 これから、私たちのおのおのは、神様を規範として生涯の路程を開拓して行かなければならない道があります。神様は、本来愛の理想を追求するために、あらゆる世界万物を創造されました。主体と対象的な内容として分けて、あらゆる被造万物を、部分的ではなく、ある一つのシステム(有機体)の下に置いて、愛で結び、これを人間の中心的な愛の教材として使用しながら人類を創造されたお父様の理想を知っております。 創造されたとき、あなた自らが愛を必要とされたがゆえに創造されたということを、ここにいる善男善女たちは知っております。神様を中心としてお互いに必要とする愛の対象を求めるには、神様御自身を中心として見ても、真なる愛は相手から来るがゆえに、対象的基準を絶対視し、自己のあらゆる内的外的属性を完全に投入して、愛へ移すことのできる対象的人格を立たせる創造主の理想を受け継ぐ人類の価値、人間の価値は高貴なものであることを、私たちは知りました。 神様は、私たち人間にとって、真なる縦的愛を中心としたかたであることを知っております。この対象的存在を立てて、愛の対象として真なる横的父母の因縁を結ぶことにより、縦横に結ばれた愛を中心とした球形の愛の理想を維持する真なる内的縦的父母、真なる外的横的父母を、真なる愛によって中心点で結束させ、そこから神様を中心とした新しい血統をこの人類の前に立てて、だれしも動かすことのできない絶対的基準を立てて、万世万代に人類は、神様の血統を受け継いだ勝利的愛の基盤を立てるべきでした。心と体を中心として見ると、心は縦的立場を代表するものであり、体は横的立場を代表するものとして生まれました。それは、私たちの人類の真なる愛がとどまることのできる縦的父母の心情と、横的父母の心情を受け継ぐためであり、それが本然の姿であることを知っています。 しかし、堕落することによって、縦的な父母である創造主の愛は、完全に残っている立場にあるとしても、横的な父母の責任を果たさなかったために、真なる愛の血統的因縁がこの地上に生まれませんでした。そのような恨みの歴史をよく知っている統一教会の人々が、再び新しい父母を中心として、真なる縦的創造主と、真なる横的父母を中心として愛の核を成すことによって、縦的な創造主は愛の骨のようになり、横的な真なる父母の愛は肉のようになるべきでした。しかし、これが人類の真なる父母として登場すべき本然の基準を立てなかったまま、堕落世界を成してしまいました。 この歴史的な恨みを除くために、統一教会の群れは、蕩減復帰という恨みの道を歩んできました。私たちのすべての血統の起源が悪魔の愛を根拠とした、天理にかなう真なる愛の前に、受け入れられないものだという悔しい事実を知っている統一教会の群れは、あらゆる歴史的伝統的悪のすべてを新たに転覆させ、新しい、本然の神様の血統圏内に接ぎ木をしなければならない厳粛な過程が残っていることを知っております。 この血統が汚されたのは夫婦によってなされたがゆえに、これを復帰するためには、真なる神様の愛を中心として、すべてのサタンの群れを清算させ、汚れなき天の心と体を持った善男善女とならなければなりません。そして、サタンが讒訴することができない立場で、絶対的に神様を信じ、神様を愛する、そのような基準を中心としてサタンを屈伏させることによって、誤った私たちが、真の父母の愛による接ぎ木を通して、家庭を中心として突破しなければサタン世界を超えて行くことができません。それゆえに、今日歴史的に統一教会は、家庭を中心とした世界の編成をするために、神様と真の父母を中心とした新しい真なる愛という血統的世代を拡張させて、国家を超えて世界へ拡張させる意味で、このような国際的な合同結婚式を行うことを全霊界は知って協助しています。 しかしながら、地上の人々はこのことを知りません。それが恨みであったので、私たちは前進に前進をして、新たな家庭理想を基盤として、神様の愛を中心とした絶対的な縦的真なる父母、絶対的な横的真の父母、それを中心とした絶対的な真の子女、真の子女として結ばれた真の家庭を、真の社会、真の国家、真の世界、真の天宙へ指向するための歴史的な隊列を出発させるこの場で、天は声援を送り、万民は喊声を上げて歓迎すべきこの時間であることを知っています。それゆえに、霊界にいる数千億の聖人、義人たちの善なる先祖たちは、国境を超えて一つの心情圏になることによって、一つの統一的な子女の権限を、霊界から地上世界へ拡張することができる勝利的な前進が、国境を超えて成されるように承諾してください。 韓国において、内外の基準とともに、内的勝利の基準を立てることによって、「世界続一国関天日」を宣布し、これからは統一教会の伝道においては、個人的時代を超えて民族と民族が結合して世界を同和させることのできる発展的促進が必要であります。ゆえに、今後は韓国と日本は、アダム国家とエバ国家として、全世界国家を代表して、横的心情圏内で国家を超えて一つになることのできるこの合同結婚式こそ、新たに霊界と地上を一つにし、あらゆる人頻の壁を崩すものです。そして、すべての人々が手に手を結んで、世界中の人々はソウルへ、ソウルの人々は世界へ、あらゆる国家群は韓国へ、韓国は世界の国家群の中心となって、この地上に愛の塔と愛の燈台を立てることによって、この社会のすべての闇を、愛を中心として新たなるものとして天の側へ復帰させるためのこの式典の上に、お父様の聖なる愛が共にありますように。 私たちは怨讐同士の国でありました。しかし、怨讐を自分の国以上に愛する伝統が、この地上の堕落圏内に立てられなければ、天国の出帆を成すことができないという確固たる信念の上に、国境を超え、民族を超えて、神様を中心とした愛の宣布式を持つようになったことを心から感謝申し上げます。 ここに参席した六五一六双を中心とした、霊界にいるあらゆる先祖たちと関係している聖人義人たちはもちろんのこと、これらを中心として連結されている氏族と民族と国家が共に和合して、きょうの式典を祝うことによって、サタンを地上世界と霊界から追い出すことのできる中心的な起源にしてくださいますように、天のお父様、切にお願い申し上げます。 霊界にいる数多くの善なる霊人たちが地上に再臨して、この後孫たちを収拾して、新しい天国を進展させることができる道を平らにしてください。 天使長が失敗した、サタンのすべての悪なる痕跡を消して、サタンを追い出すことのできる先祖たちになり、天国の王圏を復帰する前進的な協助者たちになることによって、霊界の恨みと地上の恨みの根を絶って、縦的世界の上下の世界へ、地上天国の一元の世界へ前進させてください。 きょう、一九八八年十月三十日、この日を期して、六五一六双はお父様の前に真なる夫婦として奉献致しますから、受け入れてくださいますようお願い申し上げます。神様の御名と真の父母の御名で、全天宙の前に勝利的家庭の出現を宣布しますから、お父様のみこころのままに受け入れて、万民の前に宣布してください。 真の父母の御名によってお願いしつつ、宣言します。アーメン。「6500双祝福式での主礼のみ言」1988年10月30日京畿道龍仁郡一和龍仁研修院 生命と愛と喜びの源泉としての幸福で、義なる真の家庭を培い、確立するということは、実に神様と人間の歴史的な願いでした。そのような観点から見ると、皆さんがきょう、神様を中心として夫婦の良き契りを結び、成婚式をささげることができるのは、本当に誇るべきことであり、喜ぶべきことであると考えます。 本来、夫婦というものは、真の愛によって結ばれた一心同体の存在であり、約束する伴侶の関係であるがゆえに、愛の本体であられる神様を中心としなければ、理想的な愛の家庭を興すことはできないのです。 私たち統一教会の新郎新婦は、正しくこの神様の愛を中心として結ばれた夫婦であり、神様の愛と真理を基盤とした家庭を作り上げるとき、愛と幸福と平和の世界が現れるのです。 神様は、長い受難の歴史を克服して、人類を一つに束ねる勝利の基盤を整えてこられました。すでに、私たちは、ソウルオリンピックを通して、東西が和合して、全人類が地球村として一家族を成す様相を見ることができます。国境と、血統と、歴史的感情や思想を超越して、一つの世界を指向する外的な摂理の基盤の上に、人類の霊魂と精神を一つに束ねる内的な摂理としての、「世界文化大祝典」を、一九九〇年から三年ごとに開催することを宣布することによって、世界統一国家たる人類大家族主義の社会が到来しているのです。 玄界灘を越えて、共に手を取り合って茫々たる大海に出帆する新郎新婦の皆さん! きょうまで、全世界の耳目が、私たち統一教会に集まってきました。しかし、今からは皆さんと皆さんの家庭に一層視線が注がれるようになるでしょう。それゆえに、皆さんは全生涯を通して次の三つの事柄を特に心に銘記しなければなりません。 第一に、祝福を受けた夫婦は、永遠に一つにならなければなりません。皆さんの結婚は、蕫死が私たちを引き離すときままで﨟というのではなくて、永遠に共に行くのです。真の幸福というものは、永遠に変わらない愛の夫婦によってのみ成り立ち、また享受することができるのです。きょうの新郎新婦の皆さんは、今から皆さんの家庭に、神様の愛を実現することによって、神様に侍り、私たち人間世界に神様をお迎えするようにしなければなりません。 第二に、家庭的な愛の伝統を確立しなければなりません。この理想的な結婚をした後には、公的な約束を守って、子女たちを原理的にも、道徳的にもりっぱに養育しなければなりません。皆さんは、責任分担と使命を完遂するために、一切の精誠を傾けるばかりでなく、特に子女教育に対して、父母としての責任を果たすことに格別に尽力すべきです。 第三に、神様の理想世界を建設するために全力を注がなければなりません。天国は、万民が互いに信じ合う、愛で結ばれた心情の世界であります。霊的にも、肉的にも、空虚と困ぱいと苦痛がある限り、真なる天国は実現されません。皆さんはすべて、神様の愛を共有する福なる天国を建設する天国の市民として、責任を果たすだけでなく、この伝統と遺産を、皆さんの子女と後孫に相続できるよう、全力を尽くさなければなりません。 どうか、きょう祝福を受けられた皆さんが、天の模範的な家庭を築き上げるよう尽力してくださることを顧っています。 成婚問答一、君たちは本然の善男善女として、天の法律を守護し、万一失敗があるならば、自分たちが責任を執ることを宣誓しますか。二、君たちは神様が喜ばれる理想的な夫婦として、永遠なる家庭をつくることを宣誓しますか。三、君たちは天の伝統を受け継ぎ、永遠なる善の父母として、家庭と世界の模範となる子女を養育することを宣誓しますか。四、君たちは理想的家庭を中心として、社会、国家、世界、天宙の前に愛の中心者となることを宣誓しますか。 成婚宣布 成婚宣布は、一九八八年十月三十日、六五一六双が、神と真の父母と、世界と天宙の前に、成婚が成立したことを宣布します。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.05
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「聖酒式前の御言」1988年10月29日このみ言は一九八八年十月二十九日夜より、翌日の未明にかけて、一和龍仁研修所で「国際祝福」を中心とした六五〇〇双に対して、日本語で語られたものです。 我々の使命 韓国の男性と韓国の女性、日本の男性と日本の女性が共に座っているときの気持ちはどうですか? 今までの両国間の立場というものは、日本人にとっては、韓国人は一番嫌いだった。また、韓国人にとって日本人は一番嫌いだった。長い歴史を通して怨讐のように考えてきました。いかにその壁を崩してしまうかということが問題である。人間の力、人間の方法、手段ではできません。また、堕落世界の心情圏では絶対不可能である。その不可能なことが、今この地上に可能になりつつある。それは神様によってです。神様は万物の創造主である。だから創造主につなぐ、真の心情圏の力によって、こういう現象が起こってきたというのです。それは何よりも偉大なことである。 君たちがこのように集まったこと自体、今世界から見た場合には、最頂点に立っている。最高の所に立っているということを忘れてはならない。だから、君たちの行動というものは、天から見たときに、一番注目の的であるというのです。サタン世界は、この絶頂に立っている者たちが何とか崩れて、転がり落ちるように願っている。天の方では、何とか一つになってこの絶頂から飛躍する、跳躍することを願っている。 この二つの境界線を迎えながら、今から君たちの生涯の運命がどういう方向に決定していくか。この頂点から下がっていくか、跳躍していくか、それが、今からの君たちの使命として、双肩に掛かってくる重大事件です。「だれか一人ぐらい、自分一人ぐらいこういうふうになるのは何でもない。たくさんのカップルのうちで全体に何のかかわりもない」というように思ったら大間違いです。それは一つの水晶玉であって、そこに傷が一点つくというのは、全体の傷になる。一人の傷ではありません。 今からは、このような怨讐国家間で、み旨を通して共につなぎ合って、今まで築き残した壁を崩さなければならない。それが我々の使命である。いかなる苦難が、いかなる迫害が増し加わっても、何としてもこれを崩壊させなければならないという使命を我々は持っている。もし、君たちがそれをなしえなかった場合には、我々の後孫を通しても、これが果たされるまで続くであろう。長く続けば続くほど、それは二重、三重、それ以上の難しい結果を来すようになる。 だから、最初の出発が何よりも貴い。そうだろう? 出発が最も貴重なものである。出発を誤った場合には、全体が曲がってしまう。そういうふうに考えて、我々全体を中心として考えた場合には、君たちは一人ではない。きょう十月三十日に式を挙げる全体は、一つの塊である。跳躍して、飛躍して行かなければならない各自の使命を、各自が固めつつそれを進めて行かなければならないということを、決意しなければなりません。分かりました? (「はい」)。全体が一つだ。各自ではない。そういうような重要な時点に立っている。 君たち、考えてみなさい。霊界から見た場合に、君たちの先祖はどう思っているか? 韓国の先祖も、日本の先祖も皆霊界に行っている。霊界では、会おうとすればすぐに会える。蕫あの者は自分にとって恩師だ﨟と思ったらすぐ会える。見たいと思えばすぐに現れる。思えばそれが果たされるような世界になっている。時間と空間を超えているのです。 君たちの先祖をずーっと考えてみた場合に、韓国と日本の先祖は今まで恨みが多い。怨讐関係を続けてきた先祖が霊界に行って、どういうような立場にあるかを考えてみなさい。それは悲惨である。そういうような立場は、日本と韓国ばかりではない。国境を境とした両国家は皆、世界いずれの国も同じです。いずれの国家も、国境が問題となる。国境問題を中心としていろいろ争いが起こって来る。 国境を越えて他の国を犯したり、被害を被らせるようなことを続けていくことによって、両国家の間は、特に悪くならざるをえない。そういう歴史性を持っている。それは、日本と韓国ばかりではない。フランスからドイツを見ても、フランスからイギリスを見ても、皆国境を控えている国々には、過去から現在、未来を通じて複雑な状況を残しながらいくのです。 もしも神が、何とかしてそういう問題を解決しようとして、「どこから始めるか?」と尋ねた場合に、日本と韓国民族は「ああ! 日本と韓国からは嫌だ!」、そう言うだろう。神が「フランスとイギリスを中心として境目を崩す」と言うと、「フランスとイギリスでそれをするのは良くない! 他の国でやってくれ!」と、いずれの国もそういうふうな考えをする。そう思いませんか? 結局、どこの国からもそういうような答えが返って来る。そうだとすれば、初めに召命される国々が悪いかというと、絶対そうではありません。それは、天に向けて最初に召命された立場に立っているということを、その人々は知らなかったからです。だから、地上の国々は、自分たちが知らないうちに、天の運勢を逃がしてしまうことがいくらでもある。 み旨の完成 こういう観点から見た場合に、統一教会は一つの世界的宗教である。天が多くの世界的な祝福を授けるために、どこかの国を立たせて、ある使命を任せたい、そういうふうに召命された場合に、大概の人は分からない。また、準備する国がない。準備する国もなければ、それを好む国もない。準備して、そういうときが来るのを待つ国民もなければ、それを好む国民がないというのです。 神のみ旨は地上を中心として完成していかなければならない。完成していくには、蘇生、長成、完成と、レベルを上げていかなければならない。それを、地上の者は皆知りません。知らない環境の中に、特別に天から召された預言者とか、先駆者たちが生まれて、「時が来た。国ともども、国民挙げて準備をしなければ国が滅びる。アジアに、世界に危機が来る」といくら言っても、それを理解する者がありません。神のみ旨に対して、はっきりした理論的な内容を、まだ、この地上の人間は分かりません。知る者がいないというのです。元をはっきり決定しない立場から堕落してきたから、その元を探って、それを明かすということは絶対不可能な境地に立っている。 数多くの預言者、宗教者たちがその境地を、峠を越えよう、越えようと努力してきた。しかし、努力したとしても、それを解決する道を見いだすことができないで、皆、失敗に終わってしまった。失敗に終わったその個人、その国自体が、未来にその道を訪ねて来る人々に対して、一つの教えの材料として用いるような基準で失敗したのではない。かえって警告をなし、これは危険だというような失敗の結末を残して去って行った。世界的に、歴史上、そういうような立場を残して行った。 だから、決意を囲めて、その峠を越えようとする者には、皆が反対する。「過去もこうだったのに、皆失敗してきた。それなのに、その失敗の道をなぜたどるや?」と。それは、個人が反対するとともに、社会から国ともに、為政者たちは皆迫害を加えて、国を挙げてブレーキをかけて来た。そのように見た場合に、神様のみ旨を果たさなければならない霊界、天と神様はいかに惨めな立場であろう。それを考えなければならない。 それと同じように、統一教会の今までの発展の路程は、そういう道を訪ねてきた。だれ一人も歓迎する者がいない。たった一人ぼっち。世界を挙げて「正しい」と主張しても、聞こうともしない。振り向くこともしない。それで済めばいいんだけれど、「これは問題になる、切ってしまわなければならない」と言って除去してしまう。そういうように、天に向かう使命を天から召命された人たちは、その時代の迫害を受けるのが常識的になっている。当然、そういうような迫害を受けるようになっていると思うような世界になってしまった。 だからと言って、「そういうような思いは捨ててしまえばいいじゃないか、手を着けなければいいじゃないか」と言うのは神のみ旨ではありません。神のみ旨は、神自身を中心として果たすようになっていません。人間とともに果たすようになっている。その人間というのは、今霊界に行っている、神のみ旨を知っているその霊人体ではありません。肉身を持っている地上の我々人間です。堕落圏に覆われている場合は、人間を適してみ旨を果たすことを求めなければならないのが神のみ旨であったというのです。 サタン世界転覆のための闘い そう考えてみた場合に、霊界と地上界は反対になっている。必ず反対になっているというのです。サタン世界は、左の世界からずーっと右の世界を全部占領している。「占領しているそれに沿うて行けばいいじゃないか」と言えば大変なことになる。「何で逆の方向を求めて行かなければならないのか。今世界的に、こういうようにいい世界になっている、皆ともどもに青年が個人の目的に向かって、自由世界に向かい合うその様子がいいじゃないか」と言う人があるかもしれない。 しかし、この世界は堕落した結果の世界だ。堕落して成しえた結果の世界であるということが間違いない結論であるとするならば、それは悪い方に包囲されている。それをいつか引っ繰り返す。引っ繰り返さなければならない。それをだれがやる? 世界的になっているものを、だれがいっペんに世界的に引っ繰り返すか。間違っているこの世界、天地ともどもの地獄になっているすべてを、いっペんに転覆させなければなりません。そういうことをやれる個人が生まれないと、そういうことを成す家庭が生まれないし、家庭が生まれないと、氏族、民族、国家、世界が生まれるようになっていない。そういうことを考えた場合、だれがそれを転覆させてしまうかという結論になる。「私がやる」という決意をして立つ者があろうとも、それを果たす時間が何年くらいかかるであろうか? 生涯を通していくらやったとしても、人間の生涯は百年、一世紀以内に消えていくものだから、数百万年の歴史を通して固執するようになった現実の社会を、いっペんに転覆させるようなことは夢みたいな話である。それは不可能なことである。そういうことをやれますか? 五十億が反対して、数百民族、百六十以上になる国家が反対しても、自分が転覆してしまうんだという決意を固める人間が、果たして歴史上に現れたであろうか? 深刻なものです。間違いなく堕落した結果の世界だとすれば、だれか一人でも、一人から転覆運動を成して、世界の果てまでもかき回して、火をつけるような、転覆させるような圏を造らなければならない。その一人も満たすことのできない歴史過程であるならば、未来の歴史はそのまま暗たんたる結果に終わってしまうであろう。それ以外に道はない。 だから、左一本の世界、これをサタン圏と言えば、そこにブレーキをかけて、反対にこれを切り抜くということが生まれないと、右の世界は生まれてきません。分かりました? (「はい」)。これを切り抜いて世界の果てまでつなげておかないと、右の世界は生まれてきません。だから、個人から、家庭から、氏族から、民族、国家、世界から天宙まで交差点をつくらなければならない。ここには闘いだ。(しぐさで示される)。交差点において闘いだ。個人の交差点の闘い。家庭の交差点の闘いである。 そういうような闘いを続けてきたのだから、人類歴史に、一般社会の為政者、国を率いる主権者たちと宗教を信ずる者たちには、闘いが続かざるをえない。だれが優勢な立場に立つかというと、サタンの世界だ。神のこれを横取りしようとする。右圏の世界を築こうとする方向に、死力を尽くして反対し続けているのがサタンの世界である。 君たちもそうである。君たちも、良心と肉心を中心として交差点をつくっている。良心ばかりの体になっていないのです。良心と肉心が闘っているだろう? しかし、今結婚する男と女が違うのである。女、男、皆こういう態度をしてはだめです。それはサタン世界の闘いの現状を維持した立場を現す環境である。男が正しかった場合、女は絶対に主張してはならない。一方きり。神のみ旨を知った以上は、絶対権限を立たせて、否認しても、服従させても、無慈悲な立場をとっても、それを維持していかなければ、個人から家庭、氏族、民族、国家発展の道をたどっていくことはできません。分かりました? (「はい!」) 習慣性の克服 こう見た場合に、今統一教会は何のために現れたか? 統一するために生まれてきた。すべての悪の世界を横切って、ふさいでしまって、新しい神の善権を中心として、サタンのすべての世界を消化するための運動が統一運動である。統一の運動はジグザグに行かない。垂直に行かなければならない。その周りとか、前後にはサタンの影もない。右の果て、左の暗い果てにはサタンが現れることがあったとしても、正面には、世界統一の理念の方向の向くところには、サタンの姿が現れてはいけない! そういう環境をつくろうとするのが統一教会の使命である。 君たちが個人で立った場合に、良心と肉心がある。良心が右とすれば、肉心が左となって水平線に立っている。垂直の方向に向けて、水平線になった状態で、いかなるものが東西南北から見ても、間違いなく水平だと認めるような、そういうラインに立って、み旨に向かう自分になっているかということが真剣な問題です。左右、内的外的になっているものが一つの水平線をなして、垂直の方向にならなければならない。なぜ垂直かというと、宇宙には垂直線は一つしかない。だから、水平線において、垂直線に向けて行く、その姿の個人をいかに発見するかという問題です。そうするには、サタンの讒訴するような習慣性や、文化の汚れを残すような自分自身になってはならないというのです。重大問題です。 そう見た場合、君たちはどういう立場か? 交差するための、一方的な方向を求めていく統一の群れか、それとも、真正面に立って、世界を方向づけて、垂直方向を固める方向に向かう、サタンがいない、神だけが前後で保護してくれながら、御旨の道を果たしていく者であろうかということを考えてみた場合に、それは大変な問題だ。 君たちの現在の位置はどういうものなのか? 悪なるものか、善なるものか、重大な問題だ。君たち日本からこちらに飛んで来るとき、「あー祝福がある」(と言って喜んだだろう)。祝福はいいことであるが、君たちはその祝福を迎えるにふさわしく、いいことを迎えるにふさわしい、いいものになっているか? いい良心、いい肉身、いい過去と、いい現在と、いい未来を保証しうるような善なる立場に立っているか、それを考えてみなければならない。 それを解決せずしてここに立ったとするならば、自分の将来をともにし、生死を分け合いながら、共にみ旨の道を成就しうるための理想相対として迎えるその夫、妻に対して無礼であり、恥ずかしい。それを隠す何物もないということの悲惨さを、君たち、日ごろ感じているか? かえって、こういう祝福の場が恐ろしい。自分以上の、善なる先祖の代表者がこの座で祝福を受けて、氏族全体にその福を分けてくれるような、そういう先祖がいれば呼び降ろして、ここに来て立たせたい思いに満たされる。そうでなければ、これはうそである。それは真剣なものです。 今君たちの考えはどこに向いているか? 韓国の女の顔を見、韓国の男の額を見たときに、自分の両親、兄弟ともども「ああ、何ということだ」と思うとしたら、それ自体が罪です。それは赦されない、恥ずかしいことである。天の宝座の御前に立たされた自分という位置を考えてみた場合に、そういう態度が成り立つか、受け入れられません。真剣なものです。出発点をはっきり知らなければならない。 君たち、右の世界を抱擁したいのか、右左ともの世界を抱擁したいのか、どっちだ? 真正面の世界を抱擁したいのか、どちらだ? 答えは簡単だ。「真正面の世界を抱擁したいのであって、それは、聞く必要がないじゃないですか?」 それは、もっともなことである。しかし、それはたやすいことではありません。 君たちは習慣性を持っている。日本人はたくあんや刺身、それからお鮨にみそ汁を好む。日本人はどこに行ってもそれを考えます。「あ・何が飲みたい、何が食べたい」。もう、アメリカへ行っても、イギリスへ行っても、世界一のりっぱな料理を食べようとするときにも、すぐ箸を持って食べ物をつまみ上げ、「ああ、鮨だったらよかったのに」と言う。二十年、三十年かかっても忘れることができないというのです。その習慣性を乗り越えるには、完全に忘れるには、何十年たっても難しい。それを取り消そうとして何十年努力しても、取り消すことができない。そういうような恐ろしい習慣性があるということを、君たちは、はっきり発見しなければならない。 生涯の真理、長年習慣づけられたその習慣、死ぬまで努力しても、なおそれに力が足らないということが実証された場合には、何百万年も続いてきた習慣性と堕落性を抜き取るということは、何世紀の人生の路程をたどってもできないという結論を出すのが理論的だ。 君たちは、「堕落的心情」とか何とか、堕落性のことを平気で言っているだろう? それは恐ろしい、恐ろしい。それは骨肉を受け継いでの、血統を受け継いでの、血肉を交えての習慣性となっている。それは、人の力では抜き取れないような、根を下ろした、世界万民を抱えるような、大木になっているようなものである。それを自分二人で抜くことが可能なことと思いますか? 絶対不可能な立場に立っているという、我々の立場を知らなければならない。 神解放の基準 それで、我々は絶対必要なる力を補給してもらう。これを取りつける力というものは、サタンの世界にはもうない。それ以外には、これを果たしうる、これを抜き取る力はないじゃないか。そこにおいて、宗教界がそれを取り抜く? そうはいきません。宗教界が「取り抜く」と言っても、これをどこから抜くか? ここに、一本の大きな木があるとするならば、こちらの枝をいくら取り抜いたとしても、何の効力もありません。東西南北からいくら引っ張っても、それは抜けません。抜く道があったとするならば、反対の方に立って、穂先からハーッと抜かなければならない。その道さえ知らない。そう見た場合に、歴史上サタン圏に固着した、その環境を抜き取るということは、いかばかり難しいことであろうか。これは真剣なものです。そういう真剣な自分自身を、その境地に立たせて、それを正面から攻撃していく天の代表者という決意と覚悟が満たされなければ、いくら「私は信仰がある」と言っても、自分の勝利圏、サタンの血統を受け継いだ罪悪世界を乗り越える道は、絶対ありえません。 そういうようなことを、天から見下ろしている神様がいたとするならば、いかに憤慨されるか。万民は自分の血統的後孫であるべきなのに、悪魔がこういうような悲惨な境地に追い込んで、それを悟ることも、怒ることも、抜き取ることもできないような現状をして、「あんたの後孫たる者は、こんな立場に追われている」と言って、救うことのできない神に対して讒訴する。「全能なる神だに、できないようなこの環境をいかにして収拾しましょう」と尋ねた場合には、神は沈黙を守らざるをえない。見ながら、目で見ないふりをしなければならない。聞きながら聞かないふりをし、感じながら感じないふりをしなければならない神様の歴史的悲惨さを君たち考えたことありますか? 世の中で、そういう者は一人も現れる道がなかった。レバレンド・ムーンという者が地上に生まれて、こういうことを言えるところまで抜き出て、話をするということ自体が歴史的なことである。天下いずこに求めても、こういうような真剣な立場において、正義を立たそうとする神の心情の根源の勝利圏を求めて得ようとする者は、今までの歴史になかった。 統一教会は、そういう観点から見た場合に、偉大な宗教である。そういうような罪の根源を抜くのはもちろん、心情圏に染められている怨讐に対しての憎しみを抱いている神様を解放したい。考えてみなさい。従順なる神様の心の前に、歴史的に赦されないサタンを迎える。サタンが何の怨讐かというと、愛の怨讐だ。神様にとって、サタンは何かといえば、愛の姦夫である。神様の奥さんを盗んでいった者がサタンだ。 神が絶対なる愛の方であるならば、なぜサタンが赦されないか。そのこと対して答える者はない。「怨讐を赦すと言いながら、その怨讐の種類が違うじゃないか」と。それは違う。怨讐を抱えているその人は赦されるけれど、怨讐は赦されない。それはなぜか。愛の敵だからである。それを赦した場合には、宇宙創造理想を完全にサタンに譲与しなければならない。宇宙創造の権限すべてを、サタンに渡してやるような神様ではありません。赦されません。 なぜかというと、神様だに愛に首をかけている。愛の目的を成すことによって、自分が安息の地に立ち、愛の目的を成さないときは、その反対の位置に立つ。神様自体の生来の運命の目標として臨んできているのが愛である。 その愛の怨讐を赦したとするならば、絶対なる神の愛の出発点が無視されなければならない。絶対なる神の愛の帰着点が絶対的に一つだとするならば、もともと神を中心として絶対的に一つであるべきであったとするならば、それが原則であって、サタン自体にその基準を譲与することは絶対にありえません。それゆえに、絶対なる愛の基準を絶対視する神においては、神の愛の怨讐であるサタンを赦すことができません。これをはっきり知らなければなりません。分かりました? (「はい」) 日本人と韓国人は歴史的な怨讐です。アメリカと日本人は、四十年前の第二次世界大戦を中心として怨讐です。アメリカ人とヨーロッパを代表したドイツ人は怨讐。そういう怨讐圏の四大国家、国民を代表して、アメリカへ行って何をしたかと言うと、アメリカを滅ぼさせるようなことはしなかった。アメリカを救ってあげる。アメリカは怨讐であるけれど、サタンと違う怨讐である。サタンに引きずられている第二の怨讐である。第二の怨讐を収拾することによって、第一の怨讐が自動的にやられる。降伏する。そういう観点です。だから、先生はアメリカの法廷闘争をしながら、ダンベリーの獄中に居ながらも、第二の相対の位置にあるアメリカ国民を救ってやることによって、第一の怨讐であるサタンがいくところがない。日本と韓国と、なぜこういうことをやるか? 日本をつかんでいる第一の怨讐がいるからである。日本は第二の怨讐圏に立っている。同じ道だ。 世界のために我々はやる。世界のサタン圏、カイン圏を我々は救わなければならない。なぜか? サタン世界のカインの親父、愛の種をまいた親父がいるから、その根を引き抜くためである。抜き取るまで、我々は励まし、闘い、開発し、発展していかなければならない神のみ旨の道に立っていることを忘れてはなりません。分かりました? (「はい」)。その点をはっきりしなければなりません。 私の手で、私の体で、第一のサタンをいかに追放するか。神はできません。それを元返すその者が、神に似た苦労をしながら、迫害を受けながら、血を流して死ぬような姿をして闘ってきた。そういう勝利的な立場において、神が感動する基準をえないというと、神自体はその場を去ることができないし、神の解放の基準が生まれてこない。 復帰摂理の原則例を挙げれば、悪者がいる、親父が一番憎む者がいる。親父は憎むんだけれど、この子供はその人を愛する。それが親は気分が悪くて、「この野郎! なぜ愛するか?」と言う。「私は何かの因縁でもって、情的、あるものの負債を被っている。それを弁済しなければならない。それで、親がいかなる辛い立場で反対しても、これを弁済した後に、親の言葉を聞くことができる。弁済する前に親切言葉を開いた場合には、その恩に反発する、恩を打つ者になる。恩を返して、親に孝行する」と言う場合には、いくら親だって、「ああ、それはそうだ」と言う。そういう場合には、親が待つことができる。赦すことができる。 恩をなして、「まあ、親の思うままにやりなさい」と言うとき、親が「ああ、このような者は直ちに殺してしまう…」と言うようになった場合に、その子供が、「そうじゃありません。私は命を懸けて愛したい。命をささげても彼を救ってやりたい」と言う場合には、神様もそれに服従するということがあるのです。愛の問題を中心として、そういうふうにしてみれば、子供によってその怨讐が救われるとともに、子供と怨讐が一つになって、親に奉仕しようとする場合には、親自体の立場が解放される。何の話か分かった? もしも、先生が神を親として、その子供の立場と考えれば、人類がそういう立場だ。皆怨讐だ。皆殺してしまいたい。 しかし、先生は七十近くになっているんだけれど、ある面においては先生に同情した者もいるのです。そうだろう? 命を懸けて、このみ旨の道を開拓するために、昼に夜に休まず、すべてを奉仕しながらも足りないと。それをあえぎながらいく人がいるとするならば、それは先生に対して重荷であり、負債になっている。これをどういうふうに報いるか。道がない。それに報いるためには、先頭を切って、正義の道を正しながら神に報告するならば、これを皆、恩返しをした場合に、そのいく途中にあって、「いいです。わしが恩返しをしよう」と言うところにおいては、「怨讐を打ったらいけません」と言うと、神は「そうだね」と言うのです。まさしく同じだ。本当に恩を返して、殺してしまうか? そうしてはいけません。共に連れて行きたい。自分のいく所、いい目的地に、共に連れて行きたい。住みたい、それが本情、本心の思いである。本心の思いは尊いものである。 そういう場合に、「いけない!」と言われれば、「それは、そうだね」と言う立場で、統一教会の、あらゆる多くの者が一つ二つ、そういう心情圏に加わった場合には、数を超えても超えても、赦すような道が拡大していく。拡大されたそのものが、国を越えて、国で怨讐になった基準と、世界に怨讐になった基準があるとするならば、国で怨讐になった基準を超えて世界の怨讐圏まで乗り越えようとするとき、神様は待たざるをえない。世界の怨讐圏まで乗り越えた後に、その者と子供と、今まで反対した怨讐圏の人が一つになって、今こそ、神に奉仕したい、あなたの子供と同じような心情で、あなたに侍りたいと言ったとするならば、神はしかたなしに、「それは最も願うところであった」というふうに答えざるをえない神の心情である。分かりました? (「はい」) 復帰の道は、そういう関係でもって拡大されてきた。日本と韓国とは怨讐だろう? それは、そっくり同じです。先生が日本を救ってあげる。そうした場合には、日本のメンバーたちは、先生に命を懸けてついて来るようになる。それ以上の、日本より大きい世界を解放するために、我々は日本の国を投入して、「神の息子のために、神の解放のためにいくのだ」とするならば、日本の国を赦して、世界に向けて追いついて行かざるをえない神の立場である。そして、世界を復帰して神に帰ろうとするならば、その同じ子供とともに、一体となって帰るカインの兄弟姉妹、カイン、アベルをともに愛さざるをえない。それを愛した後において、初めて解放がなされる。これが摂理の道なのです。 そういうふうにして、世界と万民をともに連れて、神に帰って献納した後に、サタンに宣言しなければなりません。「歴史以来数百万年の間、人類を滅亡の世界に率いて来たサタンよ! わたしが検事の立場で訴える。神の子としてサタンを処刑する」。そうしたら、間違いなく神は、「そうだ」と言って手を出すことができる。なぜかというと、サタンは、アダムによって生まれてきたものだから、アダムが処刑を願うところには、神はそれを処刑するのが、原則の道である。神のためにサタンが生まれてきたのではありません。アダムの失敗によって生まれてきた。君が失敗してきたことを、君が責任を果たして、すべてを元返したとすれば、悪の立場、心情の神の敵であるサタンを、君が検事の立場で讒訴した場合には、神は裁判長の立場でもって刑量を判決しなければならない。 これが、今宇宙をたどっていく最後の道であろう。その途上にサタンが立つ。サタンの因縁をもった数多くの霊界に行っている者たち、地上に残る者たちを、神は残して裁判をしたくないというのです。それは元の原理の道だから確かだ。霊界の霊人体も、地上のすべての悪を解放して、サタンだけを抜き取ってしまいたいのが神の思いであったということを、この時間、はっきり心に留めておかなければならない。そのサタンを、裁きの途上に引き出すために、我々は信仰している。それは、親孝行の息子として初めて、歴史以来失敗したすべてを神に元返して、神の喜びに満たされた本然の愛の主体として、万民の喜びに満たされたその父母の懐に抱かれたいというのが、堕落した人間個人個人の最高の願いであろうというつことを忘れてはなりません。分かりました? (「はい」) 神聖なる歴史の出発点 では元に返って、問題はだれから出発するか? これが問題である。だれから出発するか? 歴史はエバから出発した。その無自覚な、その恥ずかしさを忘れてはなりません。原理原則に立たずして、違反した立場から出発したその道を、堕落の道をはっきり知らなければなりません。出発はだれから? エバからした。その悔しさを忘れてはなりません。特に女の子たち! 日本は特別にエバ国家として立たせるために、世界一の苦労をしてきたのではないか? 日本の女は、男に踏みにじられたり、叩かれたり、姿も正すことのできないような絶村服従の歴史過程を歩んできた。特に、武士道の女というものは話しようがないほど悲惨なものだ。エバ国家の象徴である日本の神、天照大神も女性神だから、その国は霊肉ともに女性です。だから、日本人は一方しか見ない。 女は旦那さんをもらった場合には、旦那さん以外に考えない。目も鼻も、耳も口も触覚も、忠実な動物のように、五感は全部旦那さんに向く。しかし、男はそうでない。男は三面を振り向く。女は男の後ろについて来ながらちゃんと男を守ってくれるから、男は三面を振り向くようになっている。それが自分の世界だと思ったら大間違いです。女の喜びを探し求めて、造ってあげなければならないために三面を振り向くようになっているということを、男は忘れてはなりません。 それゆえに、男の一生の道は、もう右に行ったり、左に行ったりしてはいけない。左にいくのも、右にいくのも、ともどもに真っすぐの愛の歴史的夫婦の生涯の道を残すためであるにもかかわらず、男は男なりに、女は涙ぐみつつ、あごを垂らして男の影を追いかけていくような悲惨な、そういう路程であってはならない。 愛に一体化した基準に立てば、時には後に、時には前にも立つことができる。情的生活には男はちょっと鈍感だ。しかし、女は敏感だから触覚が鋭い。男は鈍い。だから、情的面においては、前にいく男の心情的方向を正すには女が先立つ。情的に右にも立つこともできるし、左にも立つことができる、東西南北、女が後ろから一方的に追いつきながら、前後左右に往来ができるように、その中心となるべき男であるということを忘れてはならない。中心者として立った場合に、男は中心であり、女は東西南北を回る、中心を保護する立場に立っているということを忘れてはなりません。 女が間違って出発してしまった。その間違って出発した女が、いつになれば正しい立場に立って出発するときが来るか、それが宿題である。女の世界の永遠の宿題として残っている。それは簡単な言葉でありながら、事実の言葉である。いつ、エデンの園に、女として正当な罪なき自由権限を持って出発しうるその時を元返すことができるか? それは、女として宿望の的になっている。 その次は、だれがそれを追いかけて出発したか? この男の野郎! 女のしっぽを追いかけて、なぜ行ったか? け飛ばして行ったらよかったのに。け飛ばしたらエバをつくるのは問題ありません。そう見れば、女も悪いけれども、男も悪い。この地上において、神の願う本然の理想郷に向かう出発点において、男が女を率いながら出発する出発基準を失った悲惨さ、哀れさを忘れてはなりません。先生が言うのはただの話ではありません。神の立場から見た歴史の原点に戻って、その地上を再び振り返ってみながら、事実を明らかに話す立場であるということを忘れてはなりません。分かりましたか? (「はい」) 歴史過程において、男女ともども、聖なる出発点を抱ええなかった、その悲惨な姿を忘れてはなりません。夜、昼、生涯かけてそれを忘れてはなりません。それを忘れた場合には、神を捜す道を得ることができない。君たちの信仰の道が惑わされる。行ったり来たり、下がったり、前後左右、反対になったり、自由気ままに方向もなく、軸もない回転をしてしまう、こんがらがって砕かれてしまうような結果になってしまつということを知らなくてはなりません。分かりました? (「はい」) 我、天宙に声高らかに叫ぶ。「神よ! こういう歴史的に悲惨なる女、男の出発点の汚点をいかにして取り戻すか? そういう権限を我にくれるのであれば、いかなる死力を尽くしても、我はそれを求めていく」そういう自覚が必要です。大学を卒業して、博士号を取り、国家的確威を持って首相の第一夫人になったとしても、何の効果がありますか? 失敗の雲の中で、失敗層を重ねる以外ない自分の立場をはっきり知らなければならない。 女! 気をつけろ! 男! 気をつけなさい。頑張れ!(「はい!」)。その新しい出発点は、この地上にはありません。それは事実であり、理論的です。跳躍して、世界の国境を超えて、地球星を超えて、宇宙まで超えて行かなければ、その迎える出発点は現れません。この縦的関係は、だれが責任を持って答えてくれますか? だれがそれに向けて投げ込んでしまうか? だれもいません。永遠に、そんなにしてくれる者はだれもいない。自分が、男たる者、女たる者がしなければならないという結論になる。もしも、だれかしてあげることができるのだったら、こういうような世界になっていません。世界はもうすでに善い世界になっているはずだ。神がいるとするならば、もうすでに地上天国が成されているはずだ。 なぜできないか? 失敗の、その元を取り出すには、神もできなければ、悪魔もできない。それは、男女たちがしなければならない。歴史的重大な使命、重荷が我の両肩に引っ掛かっているということをだれが感じる者がいるか? 日本に何人いると思う? 閣僚が考えるか? おりません。宗教界がそれを考えるか? おりません! たった一人、レバレンド・ムーンしかいません。だから、レバレンド・ムーンの語る言語は世界的問題になる。人類歴史上に超えて行かなければならない板場みたいなものである。分かりました? (「はい」) このはしごを渡らなければ、この問題を解決しなければ、自己解放はもちろん、家庭解放が不可能であり、民族、国家、世界、神様解放すらできないような運命圏を前にしている、悲惨な自分の立場を忘れてはいけません。いかなる決意を固めなければならないかということを、分かりました? (「はい!」) 個人個人は、悲惨なエバの立場を、歴史的に継承している。アダムたる私が現場に立って、これを除くような心情圏を、決意をいかに固めていくか。その足場を造っておかなければ、君たち、地獄のどん底に落ちて行きます。その足場の石になるのが統一原理である。分かりました? (「はい」)。その場に立って初めて自由が立てられる。この場に立って跳躍ができる。この場に立って神の心情圏、歴史的な天国が生まれてくるのであって、この場を逃がしては絶たいにありえません。 女性の位置そう見た場合に、こういう因縁でもって、ここ韓国の地まで駆けつけて来て、祝福の一日を前にして、先生の訓辞を受けることは歴史的である。 例を挙げれば、神が先生に会って、「こういうふうにしてもらいたい」というような立場とは違います。先生がしてもらうどころではありません。してもらった後に、成しえた勝利の基台、基盤の上に、こういう因縁でもって国を超える時勢を迎えて、上に上がるのではありません。平行でもって世界に向かい合う勝利的時代に入っている。だから、世界の国々すべてが村みたいになっている。「地球村」といわれているでしょう。村の親父はだれか。それは神様であり、それは真のおじいさん、真のお父さん、真の旦那さん、真の兄さんだ。それが生まれないというと、地上に平面的基盤が残りません。三代つながないと、地上の前後左右に足場を下ろすことができません。だから、真のおじいさん、真のお父さん、真の旦那さん、真の兄さん、この家庭につながせる。 エバが堕落したために何を失ってしまったかといえば、真のおじいさんの基準を破壊し、真のお父さんの基準を破壊し、真の旦那さんの基準を蹂躙し、真の兄さんの心情圏を攪乱してしまった。大きい罪です。誤った出発をなしたことによって、心情圏を蹂躙して罪を犯した。一時の言葉で慰める何の道もありません。血統が間違っている! その過ちによって神の血統を受け継ぐべき者が、悪魔の血統を受け継いだ。それが問題だ。本来、王子様になるべきなのに、ちゃんと待てばお姫様になるのに、この者が僕とくっついてしまった。僕と一つになることによって、エバの兄さんの立場にある者にそのエバが反逆したし、それから真の旦那さんをけ飛ばしてしまったし、真の親の立場をけってしまったし、真のおじいさんの立場をけってしまった。兄さん、それから旦那さん、お父さん、おじいさんと縦的に、そういう罪を犯した。それを忘れてはなりません。 このエバたち。歴史的にそういう罪を犯した末の穂先たるものが、いまだに、求めて行かなければならない真の旦那さんの道を蹂躙しつつ、妹をなくしたアダムの悲しみを、歓迎して、看護してやるのではなくて、今でも男たちを無視しながらけ飛ばしてしまう。そのお父さんの立場に立つべき希望の基を取り除いてしまったり、おじいさんの立場にある神様を否認してしまう。街に迷子になって、方々巡り回る姿を見たときの、自身を忘れた女たちは一体何か? そういう歴史の背後のめちゃくちゃな女の姿をいかに正すか。だから、ここにおいて男を崇拝しなさい。女として生まれた場合には、すべての男を自分の兄さんとして愛する。世界一の、宇宙一の兄さんであるというように崇拝しなさい。崇拝をして、それを成しえた後に、その兄さんからすベてを赦されて、元の位置に来て愛することができるであろう。 それから、旦那さんの位置を汚してしまった。妻になった場合には、絶対服従です。罪悪の根源を取り去る、その運命をかけた夫婦の行き合う道というものは、いかに深刻なものか。だから、旦那さんに対して、神様を迎えて侍るような心情を持たなければならない。それ以外に道がありません。結婚した後に、すぐにけんかをやって、荷物を包んで、門を開けて、裏足でけって飛び出したその女性が、自由に帰れる道がありますか? 何もそんなにひどくなくて、言葉一つでもって、そういう結果をもたらしても自由に帰れないのに、心情を蹂躙した女性が帰る道はありえません。それを分からなければなりません。(「はい」) 日本語が分からない韓国の女たちは知らなくてもいい。先生がどれほど深刻に語ったかを聞いた男たちには、はっきり先生の言ったとおりに教えてあげなければ、真の旦那さんではありません。間違いなく、ちゃんと心のテープレコーダーに記録して、刻々と奥さんに伝えるであろうと思っています。何を考えるよりも、先生の話を聞いたらそのまま百パーセント聞き入れなさい。 それから、親を売ってしまった。売るどころではなく、親を殺してしまった。人類歴史の親を、神様をサタンの懐に追い詰め、押し込んでしまったのである。天宙を治める王様の王圏がめちゃくちゃに破壊された。何によってこうなったか。心情、愛を中心としてそうなった。愛は恐ろしい。愛の因縁というものは恐ろしいものである。これを正した場合には、愛の因縁を通じて世界は復活の道に通ずるけれども、間違った場合には、万国の滅亡に通ずる。愛は偉大な力を持っている。分かりました? メシヤの思想 韓国の言葉では、「なぜお嫁にいくか?」と聞くと、「旦那さんから愛を受けるために行く」という話がある。娘がなぜお嫁にいくか? それは、旦那さんから愛を受けるために行くと考えている。しかし、愛はそういう簡単なものではありません。愛を受けるには、旦那さんを受け入れるには、歴史の初めにおいて悪の出発をした、その限界を乗り越えて、新しい春を迎えなければならない。堕落の失敗は、春が来たときに、本来の理想的春を迎えるべく備えられていたにもかかわらず、神の御前で前進しながら愛の道を開くべきであったのに、神に背いて、サタンに向けて反対の道を行ったことである。 いつも女性は、先生の言うことを聞かなければなりません。統一教会で教える蕩減復帰というものは、事件が起きたそのときの現状そのものを再び元返して、蕩減復帰するということである。その原理の言葉を知っているだろう? (「はい」) 重要なことだ。いつも、結婚前に君たちの親父が、こういうふうにするんだと訓示すると同じように、今先生が訓示する時間なのです。 神様はおじいさんだろう? (「はい」)。それから父母、それから旦那さん、それから兄さん、四代を失ってしまっている。それを蕩減復帰するには、神を迎えて、ずーっと侍りながらいくのです。おじいさんの神を迎えて、お母さん、お父さんを前に置いて、そのお母さんによって生まれた乙女として、その乙女の兄さんであるアダムとともに大きくなって、心情一体圏に向かって、結婚した夫婦になるべきでした。分かりました? (「はい」)。そのような基準によってエバが出発すべき原点があったということを、はっきり分かりました? 堕落はその反対に、兄さんを、旦那さんを、お父さんを蹂躙し、愛によって皆、殺してしまった。だから女が、純潔で純粋な心情圏を抱くことによって、天的旦那さんが現れ、天的お父さんが現れ、天的神様が現れて、自分と一体になって、一時に心情圏を結ぶことによって、女の解放は歴史的に完成するものである。真剣なものである。そういう兄さんを持ちましたか? そういう旦那さん、男を持ちましたか? そういうお父さんを持ちましたか? そういう神様を持ちましたか? 持っていない。 神様はそれをよくご存知だから、四方八方から、世界的歴史を通して、サタンの前にそういう準備をされてきた。それがメシヤの思想である。分かりましたか? メシヤは、女に村して、真の兄さんとして現れるための道をたどって来る。そのことをありがたく感謝しなければならない。そればかりか、蕩減復帰するためでなく、真の旦那さんになるために、親になるために、歴史を通してたどって来る。真の創造主である神様と結びつけてあげるために来られるそのかたがメシヤだと言うのです。分かりました? 今男は知らなくてもいい。女は分かりましたか。(「はい」)。女が先に悪くなったために、そこから先に解いてあげないと、男を解く道がありません。世界にいくら多くの女が住み、男が住んでいるとしても、神の前には一人の女と見るし、一人の男と見る。完全に、神が永遠に求め、永遠に奉仕せざるをえない、永遠に愛さざるをえないような女たるもの、男たるものがいません。 君たちに子供が生まれて来る場合には、その精子何億個かの中から力の強いものが母の胎に入って、子供として生まれてくる。まさしくそれとそっくり同じように、復活した、神と一体となれる子供、女はいずこにいるか? それを捜している。それがいない。神の血統を受け継ぐことができなければならない。神が親の立場に立つことができないような立場だから、そういうような子供の種がありません。それを考えれば、君たち恐ろしくないですか? 「神、宇宙すべてが嫌がる、サタンの怨讐の血肉が取り巻いて動いている。ああ、気持ちが悪い」と。それは、自由世界の善なるすべてを保護するため、宇宙圏に存在として残りたいという欲望なのです。深刻なものです。その境地を、そういうような死亡圏を、死亡環境を抜き出なければならない。そこには、イエス様が復活し、昇天したと同じように、堂々と神の愛を讃美しつつ、宇宙すべてに、私に従う聖なる道、栄光の通がたたえられると叫び、昇天するような道が生まれてくるというのです。メシヤが分かりましたか? (「はい」)。女の恨みを四代にわたって、四つの圏を一時に蕩減復帰するために来られるかたがメシヤである。 男は何か? 男は天使長の後継者である。だから、男は本当は妻がいない。男はサタンの子供だろう? 理想的男は再臨主である。それはアダムだからです。アダムは、その善なる、正義のエバを捜すために、再創造して復帰するために来る。そのエバは、四大心情圏を一致させて、神とともに、父とともに、旦那さんとともに、兄さんとともの愛を失った位置を蕩減復帰しうるような主体性を持つ女性である。そのような女性が生まれることによって、メシヤに迎えられる。そういう心情を、神とともに一致させるような血統的内容を持って生まれた男は、メシヤ以外は地上にいません。血統が違うのです。 だから、イエス様は血統が違うだろう? それは聖別してある。カイン、アベルを中心として蕩減復帰した、内的に交差した立場である。左が右にいくし、右が左にいく。交差点をつくって、カインがアベルの立場に立って、アベルがカインの立場に立って、勝利の間向きに、正当な道を、自分の良心、心身を中心として、方向性九〇度を合わせて、両翼ともに一致した方向性をまとめる理想を、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的に求めていく。 それで、世界も二つに割れ、各党も二つになっている。政党が分かれて闘うその国は滅びる。アメリカの偉大さは、自由世界の指導国家としてあるばかりでなく、民主党、共和党が選挙運動においては、あしざまに人身攻撃をして、怨讐視してたたき合ったとしても、いったん勝敗が決まったら、絶対にその勝者に奉仕するというのが偉い。そのアメリカは、今まで滅びなかった。それが、金力、財力、それから謀略等いろいろ交えて、混乱を来たすような現状になって、青年層、壮年層、老年層が方向を失ってしまって、どん底に落ち込むような困難な時代になったけれど、その精神はそろっている。しかし、韓国は今めちゃくちゃになっている。滅びる! 天国の中心者 きのうまでは、何時間前までは一人ほっちだったのに、今はその横におまけがついているでしょう。日本人は、おまけが好きでしょう。昔、おまけと言えば、キャラメルがあっただろう? (笑い)今もありますか? 日本のことはよく知っている。学生時代に、日本でやらなかったことはない。それは悪いことではない。乞食もやった。貧民窟から先生はずーっと上がって来た。有名人の字書きもした。先生は字がうまいのです。 それで、先生のような年齢になったら舌が固くなって、本国の言葉もよく語れなくなるのが普通なのに、日本語を早くしゃべるだろう。研究したよ。日本語を語るのに、スピードを出すのに第一番になる。けんかをする場合にも、一言に対してでも、三言語る。研究した。だから、指導者になるのは簡単ではありません。何でもする。川崎の鉄工所とか造船所とかへ行って、先生は労働もよくした。今も忘れられないが、そのとき先生は、百二十トンのりっぱな船で、四人組で八時間労働を四時間でやり遂げた。汗を流しながらやった。その時代が思われる。 先生は日本をよく知っている。日本の政財界がどういうふうに腐敗していくか、よく知っている。女性の世界のこともね。敵国を知らない者は敵と戦うことができない。国の問題を抱えた場合は、堂々と愛国者になれる。それを超えて天国の中心になる。天国の中心の峠を越えて、聖人、聖者になる。国のためにその首をささげられないような者は、忠臣になれません。聖人になれません。先生をよく分かっておきなさい。日本を知らない男と思ったら大間違いです。先生は、日本に一回も行かないのに、日本のことをちゃ・んと分かっている。 真の子女の血統 女性というものは、メシヤによって心情一体圏を、現状の堕落心情園を再表示して、再展示して、蕩減する統一心情圏を持ち返らなければ、ジャンプして境界線を越えることができません。それは、歴史以来初めて、先生によって可能となった。女性は皆、そうだ。今は、聖婚式をしてお母様を立たせているから問題ないけれど、お母様を立てる前に、先生は一九四五年の解放以降十四年間、国家基準で闘ったイエス様の、蘇生、長成圏まで上がってくるには、十四年間の闘いの期間があった。それは、一人の男として堂々たる成長をしていくとともに、理想的勝利の国家基準を超えて、理想的相対圏を確立しなければならない期間だった。 それで、統一教会に女性が入れば、世界の女性たちは″先生のような旦那さんをもらいたい″というように皆、霊通する。公式がそうなっている。「そうだ」と言う女の子は手を挙げてみなさい。横に旦耶さんを置いて語ったとしても、これは無礼なことでありません。(笑い)それが原則です。 なぜこういうような現象が起こるか世界の人々は分かりません。それで、先生に会ったときには、「いやあ、いつか会ったおかただ。目も耳も鼻もどこか見たことがある」と言うのです。しかし、いくら考えても思い出すことができない。分からない。だけど、どこか因縁があるからだれよりも近い兄さんみたいに感じる。そういう娘を先生の懐に抱えても、いかなる男性も不思議に思いません。父母の代わりの懐に帰るような思い、兄さんに向けての妹の思いが思い出されるような男が先生です。 その過程を通過した場合には、旦都さんのように、「ああ恋しい」、会いたくてしかたがない。夜も寝られません。そこまでいく。サタン世界において、その心情圏を超えなければならない。いくら命を懸けて恋愛結婚した女であっても、原理を聞いて家に帰ったら、即一週間以内に、その旦那さんがそばに来ると蛇が近寄るような思いがしてくる。″ブル、ブル、ブル″と、逃げて行きたいような思いがする。逃げて先生の所へ行きたい。それが問題だ。心情圏。 だからそういう場合には、君たちに指導する。今も皆そういう体験するだろう。兄さんのように、エデンの花園を連れ合いながら案内して、いろいろと教えてくれる。夢で何回も先生に会うだろう。時には、婚約の指輪をつけてあげたり、結婚準備の花束を上げたりする。その心情圏が何かというと、失った旦那さんの心情圏を元返す天的恩恵なのです。それから、そういう心情圏を超えて、お父さんみたいに、先生のひざの上とか、四方にいくら戯れ過ぎても嫌に思われないような関係、それは父子関係みたいな思いがする。そうすることによって神が分かる。 み旨の道は、自分を中心として止まっていない。宇宙のために祭物にならなければならない。男も女も、真の子女の血統を正すためには、世界を乗り越えて行かなければならない。世界が自分たちを歓迎してくれるような道を作らなければならない。神の願う所はここではなくて、さらに跳踵飛躍しなければならないという心情圏に至るのです。歴史以来、エバが失った四大心情圏を、宗教圏を中心として、初めて先生によって、平面的、縦的一時に体恤する七年間の期間がある。分かりました? (「はい」)。なぜ、統一教会に七年の期間が必要か? 兄さんから旦那さん、お父さん、それからおじいさんの心情圏を捜すのである。そうするには、サタン世界の東西南北を通過しなければなりません。 世の中において、踏みにじられ、迫害されながら、悲惨な涙を神のために流さなければならない。蕫ああ、兄さんの所へ行きたい﨟、蕫旦那さんの所へ行かなければならない﨟というような涙の峠がふさがっている。お父さん、そして神様の所へ行かなければならない涙の峠が積っている。それを崩さなければならない。 心情圏出発 統一教会の食口たちもそうです。先生がソウルにいるのに、ソウルの先生の所へ行かれない。あまりにも迫害がひどい、決死的である。それはもう不思議なほど、なぜ彼らがあれほど一所懸命反対するのか、研究しても分からないほどに迫害する。それは、融通を利かしてやった場合には、サタンが一遍にやられることを知っているから、死にもの狂いで闘って、反対して攻撃する。兄さんを失わせ、夫、将来のお父さん、おじいさん、神様を失うような立場に追い込むために、サタンが全力で集中攻撃する。それで、先生のいく迫害の道は世界的である。分かりました? (「はい」) 個人の迎える迫害が世界的である。先生は世界的な中心者だから、その中心者に相対する基準に立つには、当然世界的な迫害を勝利して立たなければならないのが、サタン世界の原則である。迫害を超えて来る。だから、四十年期間内に、先生は世界各展から迫害を受ける対象になろうと祈った。世界的迫害を受けなければ、勝利圏を捜すことができない。そこに、心情圏が始まる。 結婚する君たち、そういう立場に立っていますか? 女性は皆、神に属する。男性は何の権利もない。君たちは天使長だろう。天使長には女がいたか? エバを盗んでいったから、女をつくったのであって、元返ししてエバを返した場合には、男は皆、無精卵みたいな生命のない卵のように、何もない天使長のように、中間の立場に立つべきであって、相対的立場ではありません。男たるものは、エデンの園では天使長です。だから三年間女性(相対者)の話を尊重しなければならない。分かりました? (「はい」) だれが君たちを生むか、神のアダムの子供を生むかというと、堕落した女性は生むことができません。真の父母の立場で、お母さんが君たちを再び生んであげたという条件を立てなければ、相対者、妻を得ることができません。その公式を今晩行うのです。 女性もまた、神よりの血統、生命の元を受け継ぐためにつなぐ。神の子供の種は、お父様の骨肉にあります。お母さんは畑であって、生命の種、子供の種はありません。その女性が娘になるには、旦那さんを愛して一つになる道以外には、そういう立場に立つことができません。だから、夫は偉いものである。主人というものは、自分を通して生まれたかわいい乙女の、その種の親父だと言うのです。ということは、万世一系の天皇を載いたと同じように、そういう血統を受け継ぐものでなければなりません。そうでないと、その中心型がありません。堕落しなければ、人間は神の血統になるようになっているでしょう。 生命の元 きのう、創造主は何の親だと話しました? (「真の愛」)。真の愛は何? (「絶対者」)。絶対なる創造者である神は、人間にとっては真の愛をもった縦的親である。その垂直というものは一つしかない。絶対的である。二つありません。その縦的な親だけでは、そのまま置いたら倒れてしまう。大変でしょう? だから、横的親を引さ継がなければなりません。それを真の父母、アダム、エバが成就した場合には、縦的真の愛のお父様を骨とみれば、肉と同じような立場に立つのが、横的真の愛を中心とした父母である。それが真の父母である。分かりました? (「はい」)。統一教会は真の父母を持っていますか、持っていませんか? (「持っています」) それでは、真の父母は一体何者ですか? 真の神は縦的であり、真の親は横的であり、縦横一体となって結合したその中心点より、神の子と、真の父母の子供が腕を組んで生まれても、血統がそこから生まれてくるというのです。それは、神の血統であるとともに、真の父母の血統である。これは簡単な内容であっても、この世界の人々はそれを知りません。先生はそれを知るのに生涯かけて、祈り探ってきました。 答えは簡単です。「宇宙の秘密は何ですか?」と言うと、「それは父子関係だ」と、簡単です。父子は何か、それは教えられません。それを皆、詳細に解説してみれば、真の創造主は真の愛の縦的親であり、創造されたその者は、子供の立場でありながら、真の神の体になる横的父母の立場に立つ。それが内外一つになり、内外の共鳴体となることによって、そこにおいて授受作用をすれば中心が生まれるとともに、その内外共の共鳴圏の中心に核が植えられる。それが、君たちが生まれる生命の元なのです。分かりました? (「はい」) だから、堕落しなかった場合には、神の血統圏を、神の愛による一体圏の振動作用を抱えた圏(英語でring(環、輪)というが、)が縦的にパーンと振動した場合には、横的に自動的に共鳴圏がなされるようになっている。真の愛の神がパーンと打てば、真の横的父母の愛の実体は振動数が同じだから、共鳴体になってブルブルと震える。だから外的にパーンと打っても、内的神の心情圏はブーと共鳴する。そのようにして、二つが共鳴したその振動圏は球体振動圏になる。分かりました? その境地の中に、神様がずーっと座っておられた場合には、宇宙が見られる。核が動けば、副体(注:対象)はともに動くのです。副体を引っ張れば、核も一体となって引っ張られる。それに似て生まれてきたのが君たちであるから、君たちにも核があり、副体がある。その核たるものが良心である。良心の副体が体である。体は横的欲望の世界を自分のものにしようとする。考えは高貴なもの、価値あるもの、高尚なものを握ろうとします。君たちの良心はもっと高いもの、もっと価値あるものを求めるし、肉体はもっと価値あるものより、もっと多く、もっと広いものを求める。 なぜ、横的欲望の限界をまとめるための肉心、縦的限界をまとめる良心を抱えるようになったか? 神の愛と真の父母の愛が共鳴圏になって一体となるのと同じように、堕落しなかった場合には、君たちはその二つを抱えて生まれたために、君たちの良心は真の創造主の神に通じ、君たちの肉心は横的真の父母の血肉と一つになって共鳴圏を成すために、良心と肉心を持つようになったということを忘れてはなりません。 神を慕い、宇宙の理想郷の愛の共鳴圏を成す、その実体を復帰するための相対位置に、たとえ小さくとも、ちゃんと結晶体として共鳴するようになっているのがこの自分である。だから、良心を中心として、肉身が歩調を合わせなければならない。もしも堕落しなかった場合には、神の愛の血統、真の父母の愛の血統に染められている体には、サタンが存在することがない。真の愛は、神の一体圏に属する者、神に主管されるのであって、サタンに主管されるようになっていません。 堕落圏にいる君たちはそうなっていないだろう。垂直理想の神の心情圏のその原型は残っているけれど、横的原型が血統の過ちを受け継いだために、これは九〇度になっていません。七五度、あるいは一五度になっている。その差異によって良心の呵責を受けながら、苦悶の辛さを逃れることができない圧迫と圧力を受けている。そこから、解放圏を求めなければならない。 それを解放するのは、真の力? 真の知識? 真の金や権力? 真の愛をもった場合には、真の知識といえば、これ以上の知識はありません。真の真理といえば、これ以上の真理はありません。真の権限、真の金、これはいくらお金があっても買えません。今度の結婚で、「先生が誤って、中学、国民学校出の者たちも組んだ」と言う者がいるとすれば、それは、人間の価値を知らない者です。 祝福された者が、将来世界を治める大統領のおばあさんになれないとはだれも断定できません。自分が好きだからといって、大学を卒業した美人の女の子を抱えたとしても、それが悪者の王者になるかもしれません。マフィアのおじいさん、おばあさんになるかもしれません。だから、バックグラウンドの偉大なるオリジナルの権限を抱くところにおいて、幸福の基が高まり、広くなるというのです。 心情の土産 先生をどれぐらい知っています? きょう初めて会ったのでしょう。先生を初めて見る人、手を挙げてごらんなさい。九〇パーセント、皆、手を挙げています。初めて見ながらどうして先生が分かりますか? 先生が分かるようになれば、面白い先生なのです。(笑い)それ本当だ。やれないことがない。けんかもよくするし、話もうまい。話をして先生に勝った者がありません。(笑い)神様さえもそうです。質問に追われて神様が逃げて行ったけれど、隠れ場がないように追い駆けて行った男です。だから、こんな偉大な統一教会の教祖になっているのではありませんか? (拍手)君たち、会長に従いますか、先生に従いますか? (「先生!」)。なぜかというと、それは親だからです。親は一人だけ、絶対に一人、永遠に一人です。それに背くことができません。 先生が二階に上がるにも、足を使わずにスーツと飛んで上がると思ったら大間違いです。(笑い)先生は現実の指導者であって、妄想をなす空想の指導者ではありません。理論に合わなければ教えたりしません。理論にかなうように教えている。いかなる天の真理を解くにも、それに相応して実際の環境に合うように、理論に合うようにして話している。統一教会員に、理論で勝つ者はもう世の中にはいません。先生が理論で負けたとするならばここにはいません。またどこかへ行って、理論闘争しているはずです。(笑い) 将来は、首相をしていた者が、通りがかりにたくさん漢南洞の公邸へ訪ねて来るかもしれません。君たちも、なぜ日本からこちらへ来たか? 先生がいなかったら一人も来ません。女性が解放されるには、心情の堕落圏の元を求めて行かなければならないからです。そういうような者は天にもいないし、どこにもいません。韓国の地、ソウルのこの場に、こういう男の前に来なければ解放されないから、日本の女性は命懸けで太平洋を水泳しても渡って来なければならない公式になっているからです。それを知らなければなりません。 お父様の所に来るのに、お土産を持って来ましたか? (笑い)数千年前に別れて、再び迎えるお父様の前に、手ぶらで来られますか? 土産を持って来た? (「持って来ていません」)。それを恥ずかしく思ってはなりません。神は、金とか、他のものの土産を必要としません。永遠に燃え上がる心情の土産、溶鉱炉の溶鉱のように燃える心情を願う。その心情の燃える高さは天より高い。どこでも燃え上がるその光にはすべてが臨みたい、そういう心情が問題です。 だから、先生の所へ来るには、心情復活体として来なければならない。男性なら男性の心情復活体、その復活体はエデンの園で失ったアダムより以上の心情を持ちなさいという話である。エバもそうだ。分かりました? (「はい」)。それがお土産だろう。先生は何も願いません。女性は、日本海が問題ではない。太平洋が、ヒマラヤ山頂が問題ではありません。この道をたどって、人間解放の喜びを迎えるには、先生を訪ねて、先生の紹介を受けなければ、それを満たすことは絶対にありえません。南北に向かう磁石の方向性が永遠に変わらないのと同じように、本心を抱えた人々は、そのような作用をする良心を持っており、自動的に先生の方に引きずられて来ざるをえないから、このような結果になっているというのです。 ヨーロッパの人に向けて、「生活環境を皆、まとめて韓国に来なさい」と言えば、来るか来ないか? (「来ます」)。それはなぜかというと、真の愛の理想郷に率いて行かれる中心者と思うからです。思うのは自分たちが思うのですが、先生がそういうことを言えるのは、中心者であるからです。 真の血統の相続 それで、すべての人間は、何を中心として怨讐圏になったかと言うと、心情を中心として神に背いた、心情的に違反することによって怨讐圏になったということをはっさり知らなければならない。だから君たちは、異質の血統を受け継いでいる。分かりました? (「はい」)。堕落世界の人間は、皆、偽りの木として生まれている。だから、聖書にもあるように、その真のオリーブになれるように接ぎ木をしなければならない。 接ぎ木をする場合には、その根元の茎を切って、根元をそのままにして、真のオリーブの芽とか、枝を接ぎ木するのですが、ここで言う接ぎ木はそうはいきません。根元が腐っている、根元が間違っているために、その根を掘ってしまわなければならない。それから、アダムの先を切ってしまわなければなりません。そして、真のオリーブの茎と根のところに挿し込んで、その茎をこういうふうに曲げて、穂先の方も幹の方に挿し込んで、その曲がったそのものに、真のオリーブの芽とか枝を挿し込まなければなりません。接ぎ木は複雑です。 堕落したために根元が腐った。根も先もそのまま切ってしまうのです。先は何も必要ありません。だから根元を切って、こういうふうに一つ下にして、別個の枝みたいにして、穂先をその幹にまたつけて、その他のところに、オリーブの芽とか枝をまた接ぎ木しなければならない。そうしないと、君たちが真の木になる道は生まれてきません。 それは何を意味するかと言うと、日本を切ってしまい、先祖も皆、切ってしまい、自分の大学とか、そういうものは何も要りません。中間をザァーットと切って、両方を曲げて弓矢みたいにつけて、生かしたものにして、そこに真のオリーブの枝か芽をつけなければならない。二重接ぎ木だということです。分かりました? この日本人たち、接ぎ木をするとき、「あ・、痛い、あ・嫌だ」と話しかけたら日本人になる。死んでも、「日本人だ」という話をしてはいけない。「痛い」と言ってはいけない。死んだような形で、なすがままに、やるがままに従う以外に道はありません。自分の主張は一切しない。主張した場合には、接ぎ木が延長される。無条件に投下されるような立場、投下するのではなくて、投下される以外に道がない。そういうふうにして、一つの体みたいになったところに、その真のオリーブの枝か芽とかを接ぎ木する方法が、真の血統を受け継ぐ接ぎ木の方法です。それを知らなければなりません。それは、自分でできますか? (「できません」)。そんな接ぎ木をこの世の中でやったら、接ぎ木の親父がけっ飛ばして逃げてしまう。そういう接ぎ木の親父が先生だというのです。 永遠の共鳴圏 悪の血統を受け継いだその罪がどうして赦されますか? それが赦されるためには、真の兄さん、真の旦那さん、真の父母、真の神が君たちと一つになって、赦してやるような立場に立たないと、赦される道がありません。そういうふうにしながら、本当に世の中に解放圏を求めようとして、自分がそれを実行すると考えてみなさい。いかばかり難しいであろう。 真の兄さんと真の旦那さんの間に、大きなヒマラヤ山脈のような峠がある。また、親とその旦那さんにも峠がある。お父様と神様にも峠がある。だから先生も四十年間、生涯をかけて苦労してきた。神に向かい、神に帰るには、世界の峠を先生でさえも越えなければなりません。そういう峠がいつも残っている。この話は空想ではありません。サタンはそういう峠を作って、「この者、上がって来い。君の通る道はここしかない」と言って、山頂の窓口で待っている。それが復帰の道だ。だから大概の者たちはそこでやられてしまう。 それにもう一つ、サタンをいかにして屈伏するか。それが問題です。サタンは時空を超越している。いかにそれを屈伏させるか。時空を超越するのは、この世の中にたった一つ、愛しかない。愛、それは偉大な話だ。愛の力はいかに速いことだろう。一秒間に三十万キロと、地球を七周半回るような速い光でも、膨大な大宇宙を行くには二百十億光年もかかるのに、愛は一瞬に飛ぶ。偉大なものです。時空を超越する力は愛しかない。分かりました? (「はい」) 愛が時空の中に住みたいか? 時空が愛の中に住みたいだろう。宇宙の環境は、愛の環境になりたいと願う。霊界へ行けば愛の環境に変わります。愛の偉大さを我々は知っている。愛に立ち寄る以外には、それを切り抜く道はありません。それは時空世界を主管する王様ということができる。サタンを屈伏させるには、時空より偉大な愛の権限圏を持つことによって、自動的に愛によって治める以外に方法がありません。その愛は、心身共が振動して、一つの焦点に集まって走る道である。心身共に百パーセント振動して、相合わさって進んで行こうという、その方向性に愛は行くというのです。 だから、良心と肉心が完全に一つになって、目的に向かう突進力の方向とともに愛は走る。だから、心身共鳴圏によって、はっきり絶対的方向性を抱える所には、愛があるという話です。君たちの喜びは、体と良心が共鳴圏になるところに生ずるでしょう。英語で言えばレザナンス(resnance)、それを知らなければならない。共鳴圏に立たなければ愛が生まれてきません。だから、君たちは良心と肉心が永遠に共鳴圏に立っているかということを重視しなければなりません。今後結婚すれば、女性として君たちが主人になりますか、なりませんか? 主人はだますのがいいことか、悪いことか? (「悪いことです」)。だましても分からないでしょう。しかし、宇宙が分かる。すべてが分かるのです。皆、話すのです。愛を中心として、真の愛を通して皆、友たち。岩も話す、そういう境地になる。「君、何歳だ?」と聞くと、ちゃんと言ってくる。どういうふうに生まれて、創造されるときの自分の存在圏、すべての生態、すべてを語る。神様が知らないはずがありません。こんなに大きい盤石の山にしても、姿が煌々荘厳な山といっても、神様から見た場合には「愛されたい」と言うのです。神様が山を見て、「この野郎、なぜ大きくなったか?」と尋ねたとすれば、山は、「神様を喜ばせるために、こんなに大きくなりました」と答えてくる。だから叱ることができない。愛に同化されないものは何一つない。それゆえに、宇宙はすべて愛を守る主人になっているというのです。 先生はそれを知ったのです。だから、愛の交差する交差点に入ってみれば、宇宙が、霊界が皆分かるというのです。教えられずして分かる。偉大なものだ。お釈迦様が「天上天下唯我独尊」という宣言をしたのは、そのような境地に立ったからです。ちょっと入っただけの境地に立つだけでは、永遠に存在する愛のことは言えません。「神様は自分のうちに」というような基準にはなりません。一体であるが、神もいないし核もない。骨のような中心性が分かりません。だから、人格の神が分からない。相対的位置が絶村の基準に立つということが分からない。それが仏教精神だ。人格神が分からなかった。 きょうまで女の生活は自由に振る舞ってきた。自分が中心だったように思っていて、中心性も何もなかった。しかし、今からは、そうではありません。ちゃーんと主体が生まれてきたと言うのです。自分がいくら偉いと言っても、自分が大学を卒業しているのに、今の相対者が高等学校しか出ていないからと言って無視したら、男として頬をたたきなさい。女も、旦那さんがそう言ったらほお頬をたたきなさい。愛の相対圏の価値として、君のパートナーとして立たせたい夫婦関係というものは、そういうものではありません。ちゃ・んと分かるようになっている。 堕落した場合には、子供に影響が及ぶ。悪い子供、非礼な子供が生まれてくる。統一教会のりっぱなカップルになっており、顔もいいし、美男、美女が夫婦になっているけど、子供はみっともない片輪になってしまう。だから夫婦は貴いものである。 美人の女の子、手を挙げてみなさい。「自分はこれぐらいだったら、日本の何番自になっても恥ずかしくない」という女の子、手を挙げてみなさい。それは馬鹿な女です。いくら美人だと言っても、いくら男性がその女性を好きだと言っても、顔を見るとき、目、鼻、口、耳、四つしかありません。それを一生涯にらみつけながら生きていく男はいかばかり不幸か。(笑い) 愛というぼかすものがなかった場合には、やっていけない。愛の色が染まった場合には、赤いものが黄色に見えるし、とがっているものが深くへこんだり、こういうふうに動いたりする。見れば見るほど分からないように、迷わすように魔力を持っている。愛がそういうふうにして喜ばせるから、その四つを見て生涯引っ張っていけるのであって、自分の美が引っ張っていくと思ったら大間違いです。分かりました? 女の子たち。(「はい」)。美人と言われている女の子たち、どろぼうがつくよ。本当は美人と醜男を組むべきなのに…。そうしたらいかに簡単か。目を閉じて組めばそれでおしまいです。(笑い) 宇宙的愛の統一式 実際、夫婦生活するのに、先生はいつも面白く考える。ふたりが愛して、一生涯抱えて生きていく。子供を生みながら、苦労を乗り越えて、共に助まし合いながら、生涯かけてのマラソンレースを続けているということを見たとき、どうしてあんなにやれるのか? それは金でもなければ、女の力でも男の力でもない。そこをかき回したのは、偉大な愛の力である。愛は、寝ている子供でさえ舌を巻きながら、お母さんのお乳を願うようなものです。泣きながらも舌を巻き、なめるようにしながら、母のブズム(bosom)、懐を慕うような心を持つ子供の立場と同じです。そんなに貴重なものだ。 愛するその娘のために、愛する子供のために愛する奥さんのために罪を犯す男はいかばかりだろうか。それは被害が多い。自分の妻とか、自分の子供、娘、そして母とか、愛する者をより大切にしてあげるために、自分一身を犠牲にしてその道をたどっていく。その冒険のために、罪人のように扱われる先生は、刑務所にいる専門家だね。そうだろう? 今まで何回も刑務所に入っている。刑務所をよく知っている。入ってみれば、皆、愛が動機になっている。そう考えてみた場合には、罪人と思われない。偉大なものだ。刑務所が悪い所ではありません。もしも、天命によってそういう罪を犯したとするならば、地獄に行きません。そこに国が加担し、天が加担する。自分を絶対圏においてなすときには、国を犠牲にしたことが罪になったとしても、愛を第一と思って成していくところに、すべてが解放圏になる。愛だけがすべてを解放する。それを信じるのではなくて、徹底的に分からなくてはならない。分かりました? (「はい」) 手を挙げてこのように宣誓した場合には、その宣誓は、ただの宣誓というのではありません。男も女もこう宣誓して、結婚を成した場合には、手を挙げたというだけの宣誓ではありません。宇宙の愛、マイナス(-)の愛、プラス(+)の愛を統一して宣誓したことになる。その表徴的手の挙げ方は、いかばかり素晴らしいことか。 明日の結婚式は、ただ礼服を飾って、澄ました顔つきをしてほほえむそのような姿を見せるだけの式ではありません。先祖より伝来している無限なる力を、無限なる栄光の道をたどって行こうという、その栄光の座に歩調を合わせるための式なのです。新郎新婦が、歴史の方向に歩調を合わせるその歩調は、日本だけにとどまりません。韓国だけにとどまりません。アジアを通して、もっと大きい世界を通して、天宙を通して神の心情圏の中核点に向けて回転しながら、永遠に動き回りながら戻って来られるような、その道をいくというのです。だから、地球も、大きくなったり、小さくなったり、呼吸する。皆、呼吸する。それは愛の授受作用の表徴なのです。すべて姿として現れなければ、存在しないというのです。 男の手をちょっと触ってみなさい。今触ってみなさい、男の額も女の右手でともに触ってみなさい。気持ちがいいかどうか。それは、日本人の手でもなければ、韓国人の手でもありません。愛の手だよ。分かりました? 何の手ですか? (「愛の手」)。今から愛の手だ。その体は、日本人、韓国人の体ではありません。素晴らしい結論です。 もしも男が女を殴った場合には、それを韓国人の手と思うのではなく、愛の手と思いなさい。それから女は、爪をとがらせてかきむしり、傷をつけても、「日本女の馬鹿」と言うのではなくて、愛の爪と考えて、深くかいてくれれば、もっと一時に血が吹き出るが、そうなればいいと思うのが愛の奇跡だと考えなさい。 天地がそこにとどろく。とどろいた後に驚く。泣くよ。(笑い)泣き合った後は、抱き合って転がる。それはいかに素晴らしいか。そういう夫婦になると、いかにけっ飛ばしても感謝する。それを今晩先生に約束しますか? (「はい」)。約束しない者、手を挙げてください。もう約束しましたね。(笑い) 究極の思想 さあ、一幕が終わりました。結論は、愛は偉大なものである。偉大なものは偉大な行動をする。だから、歩くときも偉大な行動をする。動くときも偉大、話すときも偉大な愛を兼ねて語るとき、偉大なことが起こる。 偉大な遺産は愛によって残される、先生の生涯はそれです。先生は何も持っていません。先生が今誇れるものは、愛の心情。愛の心情圏は先生によって発明されたし、開拓されました。その世界は、今はまだありません。自由世界にもなければ、共産世界にもない。共産主義は物本主義、唯物主義です。民主主義は神本主義。その神本主義は、キリスト教文化圏が神をさておいてしまって、世俗的な人本主義になってしまった。それは動物的な人本主義、動物的な人間になってしまっている。もはや神は主人ではありません。だから、この両方の世界はもう中心をなくしたから、共にもみ合って、衝突し合って、二つとも疲れてしまった。 その真っただ中に、レバレンド・ムーンの思想が世界的思想として、学者世界で問題になっている。文先生は「愛の哲学者」、「愛の思想家」、「愛の宗教者」という三大名称が残るようになっている。愛の哲学、愛の思想、愛の宗教、それから愛の実行家。そういう名前がつくようになっている。愛のことを言う場合には、文先生を差しおいて言う者はありません。 キリストさえそうですし、キリスト教さえそうです。イエス様が実際現れたとしても、先生に習わなければなりません。霊界へ行っているイエス様自体も、先生が説くような内容を知らず、先生が説いてみて初めて分かったのです。そう見れば、統一教会に入って、統一教会の信者になったということは、もう偉いことです。愛の世界に及ぶようなものになったということです。分かりました? (「はい」) 愛の哲学、愛の思想、愛の宗教、愛の実行、それ以上のものがありますか? 哲学は何かと言うと、神を捜す、神がいるかいないかということを理論的に捜し求めていくものです。神を捜し求めていく哲学は、もうすでに神の発見をせずして、落ちてしまっています。だから、神を知らない者は愛を知ることができません。そういうふうにして、先生に習わなければならない。 それから、思想というものは、個人的思想、家庭的思想、民族的思想、国家的思想、宇宙的思想があります。「思想」という名前は同じでも、思想の位置というものは皆、別個です。個人の位置においても言えるし、「理想的な夫婦」とか、家庭においても言えるし、思想と言えば、そういう個人的関係とか、氏族、民族自体の方向性が全面化される、四方方向に適用される関係を言うのです。だから思想圏と言えば、理論的体系を持たなければなりません。その体系によって、この現実に組織体制を抱えなければなりません。だから個人的な生活体制から、個人一方ではなく、それらを皆総合的理論的につながなければなりません。それを思想体系と言うのです。個人のいく道も、家庭の行く道も、氏族、民族、国家の行く道も、皆、つながった体制によってそれをまとめた理論、その理論が世界のための理論でなければなりません。 思想はまた、「共産主義の実行圏」、「民主主義実行圏」というように、実行圏を持っている。それと同じように、統一教会も思想を中心として実行圏を持っています。世界を統一する。民主主義、共産主義、左翼、右翼を消化するゴッデイズム(神主義)とか、ヘッド・ウイング(頭翼思想)とか、神本主義とはそういうものです。 それから、その思想内容は、例えば国家体制とか、そういう現実の活動舞台にならなければ、思想圏になりません。だから、人種がいかに違ったとしても、四方八方、東西南北がいかに違っても、その方向がその体制に基づいていかなければ、思想ではありません。そのように見た場合には、永遠に持続するものが理想となる。思想というものは皆、理想を求めるものです。そういう面から見て、共産主義、民主主義世界も皆落第です。 例を挙げれば、人をまとめるには、人が多く住んでいる国がいいのです。それは中国です。アメリカ人が中国を消化しえたか? 消化しえません。共産主義が中国を消化しえたか? 消化しえません。なぜかと言えば、唯物論は唯物だけであって、それは人本主義とか、神、宗教も包容できません。理論的にそうである、というのです。それでは、統一教会の統一式は中国を消化しうると思う? (「できます」)。どういうふうにしてですか? 統一思想は、神本主義も、人本主義も、物本主義も皆入っている。中世は神本主義、今はキリスト教文化、世界大戦以降は人本主義。今は物本主義もだんだん落ちて、真っ暗になってしまって、何も頼るところがなくなってしまった。 それで、統一教会は中心主義を中心に、神本主義を抱えるようになっている。その相対に、宇宙、天宙に通ずるような愛を中心としての、価値を抱えた人本主義、それから、物本主義も抱えています。体自体は良心の相対圏になっている。物を中心として皆がまとまっている。ばらばらになっていません。愛によって内外共に一つになっている。核は、真の愛によって核になっている。核の反応基盤が体であり、国家であり、世界であり、宇宙である。そういう意味においては、これ以上の世界的、宇宙的な思想はありません。分かりました? (「はい」) ために生きる 今は、先生がこういう壇上に座って、こういうことを言うと思っているけれど、今から百年後には、この場をいかに慕うであろう。あのとき言った話の内容は、こういうことであったと。先生がもし結婚式の後、明日かあさってにも死んだとすれば、これは最後の教えになるかもしれない。真理をたどって来る者たちの、その感激の波動は、いかばかり高かっただろう。それは、いかばかり大きい振動圏を抱くものであっただろう。それは偉大なものである。 神も聞いている。「君が一番好きなものは何ですか、御飯ですか?」。霊界は食べなくても生きられます。「着物ですか?」。着られなくても着るようになっています。「住居ですか?」。宇宙全体が住居です。霊界では、直感的に愛の感覚を宇宙的に拡大して、作用の中核体として持ち帰るような立場に立って、相対的に発表すれば実現されないものがありません。 だから、前にも言ったように、哲学は神を発見することに失敗した。宗教は何ですか? 神に会って、共に生活し始めるのが宗教である。イエス様の宗教の始まりも、神と生活し始めたでしょう。仏教も皆そうだ。儒教の教えは天ということを言うけれども、人格的な内容をはっきり知らなかった。その宗教は天とともに始まっているけれども、それは天と分かれている。この世界に、堕落圏の雑多な欲望が入っています。それ以外は宗教は皆同じだから、先生も神とともに生活しだして、今出発している。いかに迫害が多かったとしても、それを乗り越えている。共産主義理論、民主主義理論、いかなる理論においてもそれを乗り越えるような中核的位置にある。 それから、宗教的儀式ばかりの宗教ではありません。罪悪世界の真っただ中に閉じこもって、それを感動的な環境に治め、消化しうるような中心的、中軸的な力を持っている統一教会、これは偉大なものです。どこまで入るか? マフィアの親父の住みかまで入って、霊的現象で屈伏させる。ただ祈るよりも、ためになせというのです。祈るより、ために生きなさい。 この世の中の悪いところは、自分中心で個人主義になっていることです。神の愛の相対者になって、宇宙を代表した中心者である神に迎えられる、東西南北に通ずるような環境的人格の中心圏を求めて行かなければならないのに、どうして個人主義になりうるか。こういうふうになった世界を屈伏させて、天宙的な方向にいかに回すかということは難しいことであるばかりか、不可能である。 真の父母の分身としての結婚式 しかし、統一教会に不可能はない。日本の国と韓国の国と、この世の氏族を超えて、民族を超えて結婚するようになった。結婚するのも写真で紹介してあげたのに、皆、乗り気になって大変喜ぶようになったという奇跡。(笑い)天宙にありません。捜してみなさい。これは偉大なことです。若い者たちがなぜここに集まっているか? 偉大な発見をしたのです。黄金の金脈、世界中の金脈を発見した以上、金剛石の鉱山を発見した以上の偉大なことが起こっている。その偉大な働きをだれがやっているか? 「我々」がやっているのではありません。″わしがやる″というのです。そういう主体性を持って、わしがやる。私の結婚式に励ますために祝いの者たちがこんなに来ました。そういう考えを持ちなさい。七千双だったら、六千九百九十九、それは仲人だ! (拍手)そんなにたくさん祝いに来たのに、餅一つ作ってあげなくても感謝する者はいかばかり偉大かと考えなさい。我々は愛に第三者が介入することを許しますか? 絶対許しません。 それで、だれの結婚式ですか? (「私のです」)。「私」はまだ長い。「わし」。鷲は飛ぶ。(笑い)そう考えなさい。二羽の鳩みたいに、ウエディングマーチに合わせて、こういうふうにして歩くその姿は、いかばかりみすぼらしいか。(笑い)君たち、考えてみなさい。それはやる気になりえますか? 動機をもった、偉大な「わし」の結婚式にならざるをえません。「えない」と言ったらえません。(笑い)実感しますか? (「はい」) 「わし」の結婚式を明日やったら怒鳴りなさい。大きな声で怒鳴っておきなさい。歌でも一つ山頂へ行って歌い、「わしや・」。(笑い)そうするのです。踊って、踊って、踊っていい。座って転んで転んでいい。そう何か印象的なことを残していきなさい。(笑い)それがなければ奥さんのしっぽをけっ飛ばしてもいい。(笑い)何とか記念になるように、共に相談してやりなさい。分かりました? (「はい」)。そうしたら、その記念品を見たときに、けんかしようとしても引っ込んでしまう。それが必要です。 君たち、結婚の後に、自由自在に生活できますか、できませんか? 夫婦共の生活はだれが干渉しますか。(「神です」)。その世界にだれが干渉しますか? 愛が干渉します。 四十日を通過しないと、真の愛が来るのに、基本数が、四十回転とか四十が合わないというと、愛の通行が不可能です。基本が四十回、基本が四十合わないと平均になりません。平行にならない。だから、荒野四十日とか、四十年の歴史蕩減、四千年の蕩減とか言われてきた。それから三日式は分別式です。韓国の歴史は四千三百年を起点として、今年は二十一年目、実に原理的です。先生が、「世界統一国開天日」を発表したのが十月三日の開天節で、ちょうど(壇紀)四千三百二十一年のその日に当たります。記念に残しておきなさい。分かりました? (「はい」)。だれの結緒式ですか? (「わし」)。わしの結婚式です。その「わし」という者は、世界に村して勝利した「わし」。サタンに命令する力を持つ、サタンを屈伏する、闘いの勝者としての「わし」。それを自覚しなさい。サタンに勝ったの? (「勝ちました」)。わしたる者はだれに勝った? (「サタン」)。サタンです。サタンに命令するようなアダムに接ぎ木された「わし」。それが目的です。しかし、君たちは神の愛を中心として、真の愛につながる血統圏をつないでいません。 だから、君たちは「勝った」と言おうとしても、自分の名前でいくら「勝った」と言っても、サタンが逃げて行きません。「真の父母によって勝った」と言うしかありません。真の父母を骨とし、君たちはその骨の副体としての「わし」。分かりました? はっきり覚えておきなさい。(「はい」)。それは、貴重なものです。 自分で、「サタンの勝者になった」といくら言っても、サタンは相対しません。真の父母と神によって勝ったその基準に通じる「わし」は、その副体となっている。真の父母を骨とすれば、わしは肉みたいな一体圏になっている。父子関係、父子関係にある。「それは、だれがそうなったと言うのか」。「復帰理想の目的においては、サタンの血統をけっ飛ばして真の血統に帰るような父子関係の因縁が、堕落する前の原型ではありませんか」。それでサタンも、「ホッホッ、そうであったかな」。それをはっきりしておきなさい。 だからお父様を骨として、君たちを肉とすれば、この結婚式は、お父様の結婚式とともに自分の結婚式になるというのです。君たちの結婚式に、先生が同参してあげるという話です。真の父母が価値に同参して、参席して一体化の基準を結束してあげないというと、そういう因縁が立ちません。これをはっきり知らなければなりません。 だれの結婚式ですか? (「わし」)。わしの結婚式、それはご父母様の分身としての結婚式であるということ、これが貴重です。そうしないと、君たちの結婚式の中間に骨が立ちません。横的垂直の、親の心情圏がないことになるから、その結婚式はサタン圏に基づくものであるということになる。分かりました? (「はい」) だから、真のご父母の分身としての夫婦間係、父母様に伴っていくような夫婦生活をしなければならない。ご父母様がその真なる子供を残すために、すべてをささげて蕩減の道をさかのぼって来ながら、乗り越えて勝利の道を立たせたのと同じように、自分たちもその後を謙遜に従いついて行こうという、生涯決定の道をスタートするのが結婚式なのです。それは貴重なことです。そうしなければ、君たちの後はいつでもサタンがついて回る。 天国の王座 君たちの血統は、先生から「真の親」と教えられたし、君たちは「真の親の子女」と教えられて、はっきり分かっている。それを自覚しなければならない。それが一つの原点です。ご父母様は天に、君たちは地に、神様を囲んで一つになったというふうに、あるいは、ご父母様は右に、君たちは左に、東西南北の中核の立場に立っている分身だ。分かりました? (「はい」)。そうしないと接ぎ木になりません。だからご父母様のことを研究しなければならない。 お母様、お父様はけんかをよくしますか、しませんか? 世界一です。けんかをするにも世界一ではありませんか。(笑い)お母様と先生は、「もしも子供がいた場合には、子供たちに涙を見せてはいけません」という盟約をしている。夫婦げんかをするような姿を見せたらいけません。子供は第二の、下の神様である。神様は、上の神様。自分たちは今の神様、中間の神。皆神様である。神様の分身である。 だから、父母たる者は、自分の子供に対して嘆きの涙を見せたら、上を見上げることができません。それを記憶しなさい。君たちはいつも生きている神様だ。正義の審判をなしうる審判官だ。兄弟は左右にある神様だ。だから、りっぱな人格者となり、その息子、娘もりっぱな人格者とならなければならない。 人の親になるには、そう簡単なものではありません。これは宇宙的に難しい。一生において、夫婦げんかをして、涙を見せるようなことは絶対にしてはいけません。それを守らなければならない。いくら死ぬくらいにたたき合うような境地だったとしても、子供が、「母ちゃん!」と言えば、さっと、何もなかったような立場に返らなければならない。それがご父母様の生活様式です。だから、子供たちが今二十四歳にもなったのに、先生がけんかをするのを見たことがない。涙を流すのを見たことがない。もう手が出そうになっても、それは守らなければならない。 親の前にはいつも愛。子供の前にはいつも愛。夫婦の前にはいつも愛。その家庭を中心として生活してみればいつも愛。それを考えてみた場合には、いかばかり貴いであろう。それが天国の王座だ。そこは、神様が住まいとして、万年とどまりたい安息地になるであろう。だから、先生の子供たちは一般の子供たちと違うのです。鋭い。血統が違う。 父母として立つ道 イエス様の恨みを解放してあげなければならない。それが、地上に結婚する者たちの責任である。 イエス様は真の親として、地上天国実現のために来られた。ザカリヤの家庭とヨセフの家庭において、洗礼ヨハネとイエス様はカイン、アベルだ。洗礼ヨハネがイエス様の兄さんであり、別な腹から生まれた兄弟だった。それを知らなかった。家族同士隠していた。イエス様の家族がアベルであり、洗礼ヨハネの家族がカイン、その二つの家族が一つにならない場合には、父母の立つところがない。長男も次男も、神の愛によって生まれるのが原理原則なのに、これが反対になっている。だから、原理原則の基準を通過しない以上は、親のいくべき通が生まれてこない。これをはっきり知らなければなりません。 洗礼ヨハネの家族と、イエス様の家族が一つになることによって、アベル家族であるイエス様の家族が兄さんになり、洗礼ヨハネが弟になる。イエス様は弟であり、洗礼ヨハネは兄さんであるけれど、家族的に組まれた場合に、氏族的長子権復帰の基台として現れないというと、親としての神、天の前に恥ずかしくない立場に立つことができない。それが反対になった場合には、親の立場が堕落圏に立つことになる。原理をはっきり分からなければなりません。いつでもカイン、アベル問題が問題になってくる。 だから、君たちの家にも、悪に頼る兄弟がいるとともに、善に頼る兄弟がいる。いつも二つになっている。国家もそうです。野党と与党。民主主義世界もそうだし、共産主義世界もそうだ。無神論世界と有神論世界と、皆そうなっているだろう? だから、この世界において共産主義と民主主義がカイン、アベル、それが逆になって一つにならなければ、世界の中心として、ご父母様として立つ道が生まれないというのです。 それが、個人から家族、氏族、民族、国家、世界になっている。だから先生は今、個人的カイン、アベルを中心として世界的に闘っています。体と心を中心として世界的に関っている。体はカインの立場であり、心はアベルの立場である。神は良心の立場に立って、サタンは肉身の立場で闘う。それを逆に、長子権を復帰することによって、個人の勝利圏が生まれ、神様が親として立つ。個人的な立場に立つことになる。それが男女ともに、その立場に立つ夫婦として一つになった場合に、その夫婦を中心として、横的にカイン、アベル基準として立つ。そういう家には神様が臨在するというのです。それを、はっきり知らなければなりません。 君たちは祝福される前に、イエス様が地上に来られて失敗したそのことを回復しなければならない。だから、統一教会で今までやって来たのが″ホームチャーチ″、家庭教会だったのです。その三百六十軒を、もしも洗礼ヨハネとして君たちが立てたとするならば、ホームチャーチは洗礼ヨハネの氏族に当たり、それはカインの立場である。イエス様の立場は君たちの本家であり、アベルの立場です。だから、洗礼ヨハネ圏をイエス様の立場から一つずつ成したとすれば、自分の故郷に帰れば、自分の一族、イエス様のヨセフ一族は一週間以内にすぐ一つになるようになっていたのです。 それで、一つになった場合には、その責任者が中心になっているから、自動的に長子権を得たのと同じ立場において、その洗礼ヨハネ圏の立場にあるホームチャーチは従うようになるというのです。その基盤においてご父母様が立つようになる。ホームチャーチの目標はそのためです。分かりました? イエス様が十字架につけられたために、氏族的に蕩減されえなかったことを復帰するために、そういうような基台を造らせてきたのが、先生が今やってきたことです。 先生は、そのようにして個人的、家庭的、氏族的、民族的に、先生の家庭を引き連れながら、日本だったら日本民族、韓国だったら韓国民族、世界中の民族から、サタン世界から、ずーっと反発されながらアメリカへ行った。アメリカを中心として、カイン圏の牢屋に入りながらも、地獄に落ちるべき者を、天国へ引き上げるような道を開いてあげたことによって、先生によって救われたカイン圏のキリスト教文化圏は追いすがらざるをえない。そして、韓国まで七千人を引き連れてきました。その牧師たちは、アメリカに行って皆リージョナルリーダーになっている。皆尊敬する。そこにおいて、カイン、アベルを国家的、世界的に合わせる基準を成しえたために、先生は父母の立場に立った。 そして、新しい世界統合、世界統一のために、左翼、右翼、民主主義と共産主義を元に返して、その基盤を頼りつつ、今それが南北に引っかかっているのです。ソビエトを中心とした衛星国家、中国につながった北韓と、民主主義全体の対峙するセンターが板門店です。板門店は霊界から見ると、サタンが讒訴する「讒訴門」と同じです。 霊界に入ると、必ずサタンの検事と神様の弁護士が論争する。「おまえ、そのまま天国に入れません」。「そうじゃありません。こういうことなんだから…」。そういうふうにして今闘っている所が板門店だ。板門店は今、天国の「金門店」の表徴である。それは世界に一つしかない。金日成も、「親」と言うでしょう? 「金日成アボジ」。南の韓国にいる先生を何と言いますか? (「アボジ」)。面白い言葉だ。「ソウル」と書いて、「アボジ、ご父母様」と言えば、先生のところに手紙が来るのです。(拍手)「NEW YORK CITY」と書いて「Rev・MOON」と送れば、ちゃんと先生の所に来る。(拍手)「地球村」と書いて「文先生」と送れば、ちゃんと入るようになっている。(拍手)先生の名前の復活とともに、実体復活が伴われる。それは、原理がそういうふうになっているからです。 蕩減復帰の道 君たちは「蕩減復帰」と言うが、いつ蕩減復帰したか? 蕩減の道は、個人的蕩減、家庭的蕩減、それから氏族的蕩減、民族的蕩減、国家的蕩減、世界的蕩減、天宙的蕩減、それから神に帰って、神を解放しなければならない。神を解放するには愛の段階まで八段階行かなければならない。 サタンは言う。「いくら神を発見したって、あなたの理想世界は授けられません。神の愛をわたしに授与しないと退きません」と、堂々と言う。 イエス様は、「(汝の)怨讐を愛せ」と教えました。先生は国家的怨讐を愛して天国出現を発表しています。サタンが天の首を絞めて、讒訴しうるその力の本がここにある。サタンいわく、「わたしはこういう悪者になって堕落したとしても、全能絶対なる神様は永遠に神様でなければならない。わたしみたいに法を犯すような者では絶対にありえません」と言うと、神は、「そうだ」。「そうだったら、もともとの理想郷の基準から見た場合には、天国に入れる者は神とともに一つになって、神の愛でもって、神とともに天使長を愛するようになっているのが原理じゃありませんか?」と問う。そうすると、神様は、「そうだ」。「だから、神の子供として生まれた者が天国に入るには、神とともに、わたし(天使長)を愛さずしては天国へ入れないというのが原則だ」。そこに引っかかっているのです。 イエス様はその道を行くために、十字架につけられ、槍で胸を刺されて殺されるような怨讐に村して、神に赦しを願ったというのです。その赦しの基準が一人ではなく、国家基準でした。分かりました? (「はい」)。だから、天国に入るには、サタンの国と、サタンの世界を愛さずしては、神とともにサタンを愛さずしては、天国は生まれてきません。それが原理です。宗教界はこれを今まで分からなかった。 いつもサタンは、なぜ最後まで追いかけて回るか。個人蕩減、家庭蕩減、氏族、民族、国家、世界蕩減、天宙蕩減の愛の基準まで到達するには、天国の愛の基準に到達するその責任分担を果たさなくてはならない。愛に到達して、天上天国に入るには、サタンまで愛さなくては天国に入れないという原理原則があるからである。先生もその基準に引っかかっている。み旨にいくら頑張っても、個人蕩減の勝利圏を得て、神につなぐような道を得るには、「神とともに、わたしを愛したという条件の項目を、わたしがサインしなければ勝利圏として譲与しません」。その道である。三人以上の迫害する者を、愛でもって屈伏させなければならない。それが蕩減復帰である。 だから、蕩減復帰は逆に打たれる道である。打たれて復帰する。神の戦法は、打たれて賠償金をもらう。サタンは打って滅亡する。打って譲与する。だから、個人的にそういう蕩減の道をたどるとともに、氏族、民族、国家的にもその道をたどってきた。だから先生は全南韓において迫害されただろう。迫害しない者がなかった。世界的に完全な迫害を受けた。 それで、一九七六年を中心として全世界的に統一教会を迫害してきた。迫害する百三十七か国に宣教師を送って、カーター政府と衝突しながら、騒ぎの真っただ中に宣教師を送って迫害を受けるようにした。いろいろな迫害を受けながら最大の迫害期を迎えた。アメリカにおいて、ニューヨーク界を代表したヤンキースタジアム大会においてニューヨークを救う。いくら反対されても、神に向かう神側の群れが、君らが大使たちだったのです。 ワシントンの三十万人の大会もそうだ。「レバレンド・ムーン」と言えば、アメリカ政府でも押さえつけられると思ったのにどうにもならない。ワシントン・タイムズも″何でもない″と思っていた。彼らも法の手段をもって追求すると、四十日期間内に許可した。許可せざるをえなかった。だから四十日期間において、ああいう歴史にない大会を成しえた。そこにおいてアメリカ政府はがっかりした。アメリカ政府の力では、宗教自由圏を自認するアメリカ世界は、どうにも手のつけようがない。後退せざるをえない。反対されて、結局打たれて、最後に屈伏するようにした。何の話か分かりますか? 貴重なことを言っているのに、これが分からなかったら大変なことになる。 内外の長子権復帰 そういうふうにして牢屋まで引きずられて、「この野郎!残しておいたら大変だ。殺してしまう」と言うのです。もし法律がなかったら殺されていたはずです。しかし、再臨時代に、保護するための方便として作られた民主主義のため、殺されずに獄中に入って行った。 アメリカは文先生にとって怨讐国家であるにもかかわらず、アメリカを救うために、文先生の怨讐である日本を動員させた。それからアメリカ人はもちろん、ドイツ人も動員して、怨讐国家四か国がともに固まって、アメリカ人よりアメリカを愛する。そのアメリカは世界を指導する世界の指導国家である。世界の指導国家を握り、守る。 アメリカ人は、世界指導国家を愛さずして、アメリカを堕落させてしまうところを、我々がアメリカに立って、世界万国を愛する心情圏に結びつけて、アメリカを回復しようとする運動をした。アメリカに行っている君たちの先輩がそういう歴史を持っている。韓国人、日本人、アメリカ人、ドイツ人、この四か国が一つになって、愛国心より以上の心情圏、愛したという基準を立たせることによって、神とともに、アメリカ自体を愛したその基準においてサタンは泣かされる。愛さざるをえない。 だから、世界的に指導権を持つ基準においてサタンに勝利したために、民主主義を引き連れて、代表して南韓に出発する。韓国民族は、悲惨な、世界的な民主主義の先端国家になっている。それは、アベル圏が方向を知らずして問題になっている。渦に巻き込まれて死にそうになっている、その渦巻きを先生が引き掛けて、それをコントロールしなければならない。それが七六年、七七年、七八年の活動であった。この期間において、方向を完全にめちゃくちゃにされたその中で、文先生だけが韓国の希望だった。今や、韓国民族の前に統一教会は完全に長子権を抱えるようになった。韓国の政府自体が、先生を無視することができないような方向に今完全に入っている。 北韓はサタン世界だから破壊工作をやる。一九五〇年に六・二五動乱を中心として破壊をなすことによって、民主主義世界と共産主義世界に完全に両極に分立されて、歴史的破壊現象が起こった。北がサタン、南が神だったら和合しなければならない。それが今度のオリンピック大会を中心として、ソビエトとアメリカが、衛星国家とともに、中国とともに韓国に来て一つになりえた。完全に、衛星国家圏が韓国と一つになった。 ソビエトも今大変だ。中国も大変だ。中国とソビエトがいかにして韓国に近寄るか。そういうふうになっている。ソビエトから見た場合には、北韓に依頼することよりも、南に立ち寄った方が有利である。ソビエト、中国は南韓を自由自在に操れると思っているけれど、そこに、レバレンド・ムーンがいるということを知らなければならない。逆に消化される大物が住んでいるということを、中国は分かるようになっている。それは、日本において平和高速道路。今、大きな中国自体は重工業化が必要だし、重工業の発展が緊急に必要だ。そういうような世界の現状の中で、八一年の第十回科学者会議において、先生は科学技術平準化の世界伝道をなした。 今から八年前に先生が発表したそのものが、ちゃんと歴史的な図書館に皆入っている。大学総長、各国家の指導者たちに皆送っているから皆知っている。そういう面から見て、韓国を中心として、日本と中国とアメリカを中心として四大国家を結ぶような基準を作った。だから、アジアにおいて、日本と、アジア天使長国家である中国を結べば、カインは向かうところがない。アメリカは西洋の天使長だ。そういうような運勢をまとめているから、こういう基準を内外ともに立て、カイン、アベルの統一権限を中心として、内的長子権復帰、外的長子権復帰のために、オリンピック大会とともに、我々の百二十か国の宣教師と各国のリーダーを集めた。 そのときにも皆先生が土産を与えた。ヤコブがエサウに会ったときに、すべてをささげた。ソ連の選手団一行も、たくさんの土産品を先生からもらった。それで、このごろ、先生に各国の責任者から皆、「ありがとうございました。韓国で世界的なオリンピック大会に出て、自分たちをこのように優待してくれた先生に感謝します」という手紙が来た。そう見れば、オリンピック大会は先生がしたような立場になってくるというのです。(拍手) 世界基準を超えた祝福第二次大戦中、先生は日本の憲兵や警察に追われたり、獄中生活をしたりして、非常に迫害を受けた。やっと戦後になったとき、神のみ旨から見た場合には、「打たれて倒れた者を打つ者が、また打たれるようになる」というその言葉のとおり、怨讐であったその者を、本来ならば復讐すべきにもかかわらず、彼らを皆日本に返した。そういう後始末をして送ってあげたのです。その見返りとして、この日本の若者が先生のために命懸けで奉仕する。因果法則は厳格なものである。なぜ君たちはこういうようになったか。種をまいたその基準があるからです。分かりました? (「はい」) 日本は怨讐である。神の愛に通じて愛したその愛に報いるために、末の時期、転換期において、日本の重要な若者や頭のいい者は先生につくようになる。それは、神の原理原則に通ずる真理である。それを知っておかなければならない。 今度祝賀に来た者たちは、女も男も顔も良く芳しい姿をしている。皆韓国人のような顔をしている。それは、末の時期に、日本の革新的な第二世を引っ張って韓国に引きつけ、アジアの新しい天地の出発をなそうとするためである。分かりました? (「はい」) 先生がこの十月三日に、「世界統一国開天日」を発表した。これは「天を開く」という意味で、「紀元節」と同じです。歴史以来初めてそういう発表をしたのも、蕩減条件を立てて国家を超えて世界へ進む時代になってきたからである。今からの統一教会の交際や伝道は、頂点だけすればいいというのです。 だから、それを目指して、今、国家的次元につなげなければならない。横的世界的基準に、天的心情、天と地を結びつける両父母様の心情圏が、個人から世界に通ずる垂直線を下ろした。それに平行の韓国に村して、エバ国家である日本、アダムの心情とエバの心情が平行に立つことによって、世界は動くようになる。そのために、日本の女性は韓国人と、韓国の女性は日本人と祝福した。アダム国家の中心は先生であるというのです。アダム国家の中心が男である。アダム国家の男がプラスとすれば、アダム国家のエバは韓国の女性です。韓国の女性がマイナスとなって、プラスである日本の男性と一つになる。そうした場合には、日本の女性は逆に回って、韓国の男性と四位基台になって蕫グルグル﨟と回転運動が始まる。プラス、マイナス、こういうふうに四か所に立って、完全に自動的に垂直運動をすれば、モーターに電気回転運動が起こるのと同じように宇宙は回る。 今度の祝福は、そういうような歴史的限界を超えるためのものである。こういう国家的次元と結びつくのが原理的であるから、原理の主人である先生は、こういうことをしているということを忘れてはなりません!(「はい!」) イギリスとフランス、フランスとドイツ、それからアメリカとカナダというように、何カ国かを十万双ぐらい祝福するとすれば、世界はもう回るようになります。そういう計画の下で、先生は「文化オリンピック大会」を発表するとともに、世界的男女を集めて祝福をするということを発表している。その訓練だ。(拍手) オリンピック大会で、もしもこういうことをしたとすれば、それは素晴らしいことだ。明日以後に世界に風が吹くだろう。 「またレバレンド・ムーンがやった!」、「何やった?」、「日本の男、女たちを盗んできて、韓国の男と強制的に結婚式やった!」と言うだろう? 何も知らないで何を言うか。何の内容もないのに、いくら騒いだとしても、そのようなことは通じません。いくら騒いだとしても、それは烏合の衆になる。 先生は、こういうような歴史的な内容を明らかにしたうえで、志ある者、知恵ある者、頭ある者は、だれも否定できないという基台の上に発表している。そのことを知っている我々は、堂々と誇るべき所に立ってやっているのである。これは恥ずかしいことですか、誇るべきことですか? (「誇るべきことです」) 君たちの右を見てみなさい。君たちが求める以上の顔つきを皆している。君たちが求めたとしても、みっともない格好した者を求めただろう。自分たちにいいような者だったら、子供たちは皆ペっちゃんこ、国は将来ペっちゃんこになる。二世をりっぱに生んで、偉大にさせないと国は栄えません。 それを見て先生は真剣な立場で君たちを紹介してあげた。それも写真でなしたというのは偉大である!(拍手)写真を見て喜んだだろう? 電報受けて喜んだだろう? 写真も見ないで喜ぶ者もいた。(笑い)そういうふうに組まれたその基準が、世界基準を超えている。そのような心情圏はサタン世界では造ることができません。ただできるのは、文先生しかありません。(拍手)今から十年、百年後の世界は、こういうような波涛に漂わないものは一つもないというのです。(拍手)これをやるべきか、やらざるべきか? (「やるべきです」)。両手を力強く握ってやるべきか、伸ばしてやるべきか? こういうふうに締めてやるべきか? (「力強く」)。力強く握ってみなさい! 両手をしっかり握れ。それは悲惨なようですが、そうではありません。こういうような言葉も通じない合同結婚式をするのは、もうすでに歴史が古い。イギリスの男とドイツの女を組んだ。ドイツの女は腕白な女で、イギリスの男は、余り従順で女みたいな男だった。言葉は一も語れません。一つも分からない。そういう者を、通訳を通して先生がこういう国の見合いの写真を出して、未来のことを考えながらやるとき、先生も非常に寂しかった。それはみすぼらしい立場だった。なぜこういうことをやるか? 金がもらえるのでもなければ、讃える者もいない。皆に聞けば皆、悪口を言うはずのそのことをなぜしたか? そうしないと、神の国が生まれて来ないからである。 栄光の歴史的瞬間 天の伝統に乗って父母の前で今祝福を受け、結婚するということは、すべてを伝授する時間である。それを知らなければならない。すべてを伝授する。真の父母として、生涯かけて求めた勝利圏のすべてを、天来のすべてを真の愛によって伝授する。 真の愛に接すれば同参権がある。どこでもともに参席しうる。高い所も、低い所も、地獄のどん底でも同参しうる。それから同位権を持っている。どこの位置にも行かれる。お父様が首相官邸へ行けば、それはいつでもついて来れる。大統領官邸へもいつでも行ける。真の愛には、同参、同位権がある。最後には、相続権がある。 そういうような心情圏を抱えることによって、神様自体が私の親であり、真の父母が私の親であり、そのそうそうたるすべての天宙、すべての物が私の物になる。それを動かしている中核の母体の力が、真の愛が私を守る、私を立たせる。それは私の物になる。それ以上私に願うものがありません。「栄光」と言えば、それ以上の栄光はないし、「勝利」といえばそれ以上の勝利はない。成しうるすべてにおいて、残した物は何ものもないような勝利圏に立つという、偉大な道を迎える瞬間、今日一晩を境目として迎えようとする、歴史的瞬間の時期に立っている。それをはっきり君たち、分からなければならない。 真の愛を知った以上、その道を守っていく決意を固めて、新しく復活しえた理想的夫婦として、イエス様の悩みを解放し、真の父母の四十三年以来の恨みを解放する者にならなければならない。四千年来の文化的、摂理的イスラエル民族を通しての神の辛さを歴史的に解放してきたということが分かったために、未来、将来にわたって、その責任を果たすのに恥ずかしくないような中心者になりうるのである。今から新しい、氏族の真の先祖たちが韓国の地に、世界の地に生まれるであろう。 イエス様をメシヤとして神様は送ったにもかかわらず、祝福の家庭を求めえずして死んでいった。先生は七十年間苦労してきたが、国を超えて結婚しうる、メシヤ的、世界的基盤において、勝利の結婚を成しえた。その上に解放圏を迎えて、故郷に帰る先祖たちを派遣する偉大な日が目前に展開し、現世の世界に現れたということは、神の、天来の望みの的であったということを忘れてはならない。分かりましたか? (「はい」)。響き渡るそのラッパの昔とともに、朝日を迎えつつ、自分の故郷に、勝利の権限を持って前進する姿を高らかに誇りつつ、進んでいく末来の希望はいかばかりであろう。日本が問題ではありません。韓国が問題ではありません。アジアが我々の足に、世界が我々の懐にかかってくる時代に転換しつつある。それを相続して、跳躍、飛躍して、世界へ跳び出そうじゃありませんか!(歓声が沸き上がる)。歓迎する者、両手を挙げて。(挙手、拍手)…決意したね。(「はい」) 三大歴史過程を中心としての十字架路程 今から血統的転換式を行う。神から祝福を受けるには、神の血統を受けなくては受けることはできません。前にいた立場から接ぎ木されるには、そういうような難しい過程を通過しなければなりません。しかし、君たちの背後は知る必要がない。先生がいかに闘って、こういうような血統を、勝利圏をえたかということは簡単ではない。惨めな過程だ。 旧約時代は物を祭物にささげる時代である。それは、物を犠牲にして神の子供を救うためである。新約時代は子供を犠牲にする。それは、親の来られる道を作るためであるというのです。だから、イエス・キリストが子供として来られたのに、親の代わりにとどまることができず、カインの立場を屈伏させることができなかったのです。それゆえに、アベルの立場を引き続かせて、霊的救援の道を行かれたのです。そのとき、地上まで反対してきました。だから、それ以降のキリスト教は、数多くの血を流して、神の子供を犠牲にして、親の道を開くために犠牲になってきたのです。 今度は、親がこの地上に来て、キリスト教文化とキリスト教とアメリカ自由世界と一つになって、カイン、アベルの勝利基台に立ったとするならば、先生が四十歳のときに、すでに世界は一つになったはずです。一九四五年から一九五二年の七年間において、世界的旧教と新教、ローマンカトリックとプロテスタントを一つにして、自由世界を抱えて勝利圏をえたとするならば、共産主義は生まれてきません。キリスト教が責任を果たしえなかったために、サタンが再侵入し、共産主義出発とともに世界は乱れて、民主世界が被害を被った。責任を果たしえなかったキリスト教界と自由世界は打たれる。めちゃくちゃになった。なぜか。ご父母様の来られる道のために準備されたその基台が、サタンに侵害されたからである。 そのことによって、基台なき所に現れて、親の立場に立つべき先生は、キリスト教文化圏の代わりに統一教会を中心として統一国家を求め、世界の自由世界基盤を吸収して世界統一圏に向かおうとした。それが親の希望であり、真の父母の希望である。だから、旧約時代は新約時代を生かすため、新約時代は成約時代を生かすために世界を準備したにもかかわらず、責任を果たすべき、選ばれた者が使命を果たしえないために、すべてを砕いてしまった。それと同様に、今度先生を中心とした統一教会と世界の行く道を備えなければ、どういう結果になるか考えてみなさい。世界は滅亡する。それほど探刻です。 だから、旧約時代は物の犠牲にしてきた。新約時代は子供を犠牲にしてきた。成約時代は親が十字架につけられる道をたどって来たという、三大歴史過程を中心としての十字架の道を忘れてはならない。 物を見た場合に旧約時代を思い、子供を見た場合に新約時代を思い、自分の夫婦たちを見た場合に真の成約時代を考えなければならない。成約時代は、自分が親として立ったとするならば、子供が平面に立って一つとなり、その子供とともに、横的に万物ともどもに一つとなる。エデンの園に、アダムの家庭なるべきその基準をこういうふうにしてまとめてきた。それゆえに、君たちの食べる御飯は歴史を代表し、君が生んだ子供は歴史を代表し、自分たち夫婦は、歴史を通して神の復帰路程に投入した旧約時代、新約時代、成約時代の親の身代わりに立っているという真剣な立場を忘れてはなりません。分かりました? (「はい」) 所有権決定 すべてを、神の愛によって所有権決定を成しえて主人になるべき神様、主人になるべき真の父母、それから真の子供、真の物になるべきであったのに、それができなくて逆さまになって、物と子供を犠牲にして蕩減復帰をして、歴史を通して中心核を求めてきたということを忘れてはいけません。分かりましたか? (「はい」) 真の父母は十字架を通じてきた。アメリカのダンベリーの道は二十世紀の世界的十字架の道である。イエス様が十字架につけられたとき、ローマ兵に向かって祈ったと同じように、そのアメリカ国家に対して祈りつつ、救いの道をたどって、現世のアメリカの宣教の勝利的基盤を作ったのが先生である。 それで、世界には、多くの家族があるけれども、家族に属するそのものは、神のものではありません。その子供が神のものではありません。その夫婦が神のものではありません。こういう悪の世界にあって、我々は神を代表して、我々の抱えるものは神のものであり、我々の抱える子供は神の子供であり、我々自身は神を代表した中心家庭である。抱えるすべてのものが神のものである。そうして初めて氏族が神の氏族、国と世界がそういうふうになる。その後に、世界全体を代表した神様、真のご父母様を中心として、世界万民が、世界の万物が、すべて一つの大家族として、一体化されたそのものが、神の所有にならなければならない。 今まで、所有権というものが間道になっているだろう? 共産主義の所有は社会的所有、国家所有に、民主主義の所有は個人所有になっている。それは移行している。全世界は神のものであり、全世界は子供のものであり、それは家庭のものである。その移行する過程において、まとめなければならない。ただ神が主人なのに、(サタンが主人となった。それゆえに、再び)神が所有権を持つ主人になって、それから真の父母によって自分の子供に授けられてこそ、この所有決定権は神の世界のものになる、家庭のものになるということを分かりました? (「はい!」) 返さなければならない。返すには、君たち、原理的に習ったように、僕の僕の立場から僕の立場、それから養子の立場、庶子の立場、実子の立場、それからエバ、アダムを通して、神の方として、愛の方に八投階戻らなければならない。それは、縦的な蕩減の道をいうのである。また、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族、国家、世界復帰の、横的復帰八段階ともども必要である。分かりました? (「はい」)。心情圏を立たせるために、神はこういうような道をたどって来た。 君たちは先生を迎えて「先生」と言う前に、あなたは僕の僕の道に死なずして残り、勝利の旗を立てて僕を屈伏し、それから養子として、それから庶子圏、実子圏を持ち、そうして真のアベルの勝利圏を立たせて真の母を、エバを立たせ、エバとともに一つにならなければなりません。エバがカイン、アベルを生んだのだから、一人では帰れません。双子を抱えて子供が戦ったらいけない、け飛ばしたらいけない。共に引き裂き合う怨讐になるべきその(二人が)母の懐に入ることによって抱き合う。 日本と韓国は怨讐である。母の懐に抱き合わなければなりません。懐に抱き合う女、エバにならなければ、アダムの懐に帰ることができません。アダムは、エバとこの双子を抱き合って、四人ともに抱き合って、神に帰らなければなりません。それが先生の使命である。 エバ国家、そして天使長国家、アベル的天使長、カイン的天使長、怨讐の怨讐、死んでも離れないようなアダム、エバ、死んでも離れないようなアメリカとドイツを組まなければ地上天国は成立しません。ここから、ご父母様の成さなければならない使命が促している未来を眺めつつ、君たちの生活の出発をする。 励ますのも、急ぐのも、その目的を短縮するため以外の何ものでもありません。こういう無理なことをして何になるか? 一週間以内に七千組に近い結婚式を成しうるということは無理である。世の中にないことを初めて成した。これは一つの証拠になる。文化オリンピック大会に若者たちが申請して来た場合には、皆三年間準備するのです。原理の教えは三年間準備する。それも写真で紹介する。十万双も先生が十日以内に成す。そう見た場合に、「りっぱだ、よく組まれたものだ」とたたえざるをえないような天才的力を先生は持っている。皆分かる。神はそういうような霊的感覚を授けたから、こういうことをなしうる未来の力があったからではないか。 それで、日本人はアメリカへ行って、アメリカ人とドイツ人を一つに抱えていかなければならない。ドイツに行って、ヨーロッパに行って、アメリカに行って、そういう伝統的精神を日本が植えつけなければならない。 日本において、世界中の金が皆、集まるようになったのは、エバがなくしたそのものを元に戻すためである。そのお金は日本の国のものではありません。アジアを通して、日本が世界のために尽くさなければ、日本はペっちゃんこになる。見なさい。今年が境目である。その境目の日本を減ぼしたくないから、こういうことをやるのです。 今度、できれば結婚の後に、聖婚献金をしなければならない。一族を代表した立場で献金をしなさい。日本の財産をあなたの後に引きつけることによって日本は滅びる。下がるようになっている。分かりました? (「はい」)。一族を中心として、物と子供と国がそれを条件として元に帰らないといけない。物と君たちと家族は、天に、主人の方向に帰らなければなりません。だから、聖婚献金をするようになった。何の話か分かったの? (「はい」)。先生は金が欲しいからじゃありません。日本のためである。 先生はそういうような悲惨な歴史を、路程を経て来た。君たちには分からない。そういうことは言いたくない。親の苦労したことは、子供に対して残したくない。皆隠していきたい。怨讐たちにいじめられたことを忘れたい。皆、忘れてしまう。なぜか? エデンの園で、堕落圏の悲しみがない立場の主人にならざるをえない、その原理の要求を知ったからである。分かりました? (「はい」) いつも、ひもじい男の姿をしながらも、何もなかったように神に侍りつつ、神を慰めつつこの難しい蕩減の峠を越えなければ、平安の地上天国は生まれてきません。その代表者、公的な者は寂しい者である。分かりました? (「はい」) だれか一人立って、「文先生はこういうことをなして…」と一言言う者があった場合は、先生は痛哭するその心情を持っている。年寄りの、涙も皆、渇くような七十近いおじいさんになっているというのに、それは、哀れみの涙が流れを止めることができないような寂しさを持っている。そういう親がいたということを忘れてはいけません。分かりました? (「はい」) 純潔な血統アダムはささげて生涯かけてその道をたどって、君たち、そういう伝統を自分の後孫に残さなければ、天来の祝福を正当に受け継ぐ後孫になりません。そこには、正当な純潔な血統が残っている。純潔な血統が生まれてくる。 乱れ切った青春のフリーセックスというこの時代を、元の世界に戻さなければならない先生の使命がある。サタンが根を植えたから、秋になって収穫するように、アダム、エバがエデンの園に、こういうような淫乱の無分別な行動によって植えたそのものが、世界の終末期、収穫期になって、世界いずこにもはびこっている。それを先生がきれいに取り去ってしまわなければならない。分かりました? (「はい」) 男、女、今から覚悟しなければならない。今までのような外れた生活は、自分の気ままにやった女として、それは正さなければならない。女の生殖器、男の生殖器は皆自分たちのものじゃない。女は男のために生まれた。男は女のために生まれた。女の生殖器は、女が主人じゃない。男が主人である。男の生殖器は、女が主人である。自分勝手にする者は滅亡する。神様は自由の主であるから、それは主人を交換しておいてある。だから、妻たる者、旦那さんたる者が夫婦たる因縁を持った場合には、主人知らずして行動なすことができないような、そういう神聖なるものである。分かりました? (「はい」) モーセ路程に、「法の箱」(注:「契約の箱」を指す)があることを知っているだろう? 「法檀」だね。韓国語で、「(ポッケ)」という。そこには、マナとかアロンの杖とかが入っており、神聖視されていた。人の手で造った物を神聖視していた。神がすべてを投入して、真心を尽くして、精いっぱい努力して造り上げたのが、君たちの最も重要な生植器である。悪いものじゃありません。堕落して、神の世界を破壊するような、その利用器として使われるから悪いものとなった。そこにおいて人間の幸福がつながる。そこにおいて、人間の歴史がつながる。それが悪い? それは、もともと聖なるものである。聖書に、「至聖所」というものがあるだろう? 人間として、至聖所はどこか? 体は聖殿であり、君たちのそこが「至聖所」である。分かりました? (「はい」) それを犯す者は天罰を受ける。一族、民族が皆引っかかる。先生の生涯には、そういう誘惑がたくさんあった。学生時代、日本にいるときに、数多くの女に誘惑されたことがある。 先生が寝る部屋に、たくさんの女が飛び込んで「助けてくれ」と叫び声をあげたことがある。(そのとき先生は)「それはいけない!」(と言って諭した)。そういう面において、世界中のすべての女を任して足りるような者として神は見ているから、そういう使命を渡されている。そういうような正しい伝統を今から汚すような、愚かな女にならないように。分かりました? (「はい」) この基盤を立たすために、先生はいかばかり苦労したか、君たちは知らない。愛の十字架を背負わなければならない。引きずられながら、涙の峠を越えて来て、血だらけの、その鞭打たれる十字架の丘を越えて、その恨みの洞穴を埋めるための苦労をいかばかりしたか分からない。それは、歴史を調べれば分かる。 純潔な血統を授けるために、血統転換式をしなければならない。この転換式をするには、数多くの内容を、条件を、満たさなければならない。分かりました? (「はい」) だから、真剣な場であることを意識して、復帰という血統的復活の勝者に立ちうる瞬間を得なければ、祝福の道に出られない。三年間の路程が残っているというのです。サタン世界と習慣性、これは侵入しやすい。四十日後に三日儀式を終えて、三年間の分別期間を経ながら、そこにおいて乱れるような者たちだった場合には、女に、男に、近寄ってはいけない。そういう、真剣な過程を通過しなければ、純潔の血統の因縁に立ち返ることができない。深刻だ。この一点を求めるために、キリスト教の殉教の歴史が残っていた。分かりました? (「はい」) それは、君たちの結婚式のためだから、先生がこういうことをするのは君たちのためである。先生自体のためではなく、万民解放の門を開くためであるということを分かりました? (「はい」) 今から結婚した後には、第三者にその手を触らすな。肌を見せてはいけない。先生自体も、そういう貞操を守ってきた。興南のアンモニアの山で、汗を流しながら荷造りをしなければならない立場においても、ちゃんと長袖を着て肌を見せなかった。サタン世界に、神の願うところの基準で一身をささげたということでなければならない。それは守っていかなければならない。女ばかりでなく、男としての貞操もある。 そういう意味において、世界は、こういう理論的な原則によって正された統一教会の家庭を見て、十年、二十年、三十年、四十年以内には、世界全体の青年層は、黙っていても統一世界に潜り込んでくるようになる。それが原理が見る今後の世界だ。分かりました? (「はい」)。模範的家庭をつくる覚悟を決めなければなりません。 今度、国際結婚した者は感謝しなさい。言葉は、知らないのが幸福だ。語るのに大変、表現するのに大変です。自由自在に語った場合には、どんなことが起こるか分からない。幸福と思いなさい。君たちは難しいと思うんだけど、習慣性にとらわれて、サタンに引きずられる糸口を残さないためには、神の摂理としてこれはいいチャンスだと思う。 純潔の血統を残して、ご父母様の血統を築いた清い基盤の上に、純潔な愛によって、純潔な種を植え、純潔な子孫を迎えるその喜びを考えつつ、耐えて越えなければならない道が、山が、峠が重要なのです。そのことを望み眺めながら越えていくように先生は願っています。分かりました? (「はい」)。「そうやれる」と言う者、手を挙げてみなさい。(全員挙手) 聖酒式の意義ここには、お母さんの生命とお父様の生命の結合した内容が入っている。それを通過することによって、君たちは、サタン世界と訣別された、何の因縁も持たない、再び真の父母により生まれ返ったという信念を持たないといけない。そうしないというと、ご父母様の前で祝福は不可能だ。生まれ返って、それから父母様に侍りうる、成長した男、女として神の前に立って、神の心情圏を、ご父母様を通して再び生まれ変わったという相続権を神よりもらわないというと、結婚することができない。 それは、サタンの蕩減条件基準から見た場合には、血統転換式であり、生まれ返る方から見た場合には、天使長からエバ、エバからアダムによって逆に引かれていったその心情圏を、血統の上に植えつけることである。真の父母の愛でなければ、心情圏は植え込めない。分かりました? (「はい」) そういうふうにして、君たちが再び生まれ返ったという自覚を持たなければならない。真の父母の子女であるということの自覚を持たなければならない。そういう自覚の心情圏。それは、原理から言えば、「責任分担完成」である。責任分担は、結果主管圏の過程を通過して、愛でもって一体化する。一体化して、直接神の指導圏に入る。それ自体が、神の心情圏に属するものである。分かりました? (「はい」) そういう覚悟でもって、この式に参席しないといけない。ただの式ではない。重大な式である。サタンのトンネルを通り抜けた場合には、天国の世界に入るという思いで、蕫生まれ返る﨟という心情、絶対的信仰と絶対的愛を中心としての心情圏をつなぐような覚悟を持たなければならない。分かりました? (「はい」) それで聖酒を飲むにも、盃を天使長からお母様、つまりエバに、エバからアダムに渡す。それから君たちはどういうふうにするかというと、エバからもらう。エバがいないと、男は生まれ変わらない、復帰だからね。エバが半分飲んで、その次にエバが旦那さんに渡す。盃をもらうときには、お父様からもらう代わりに三拝するような思いでもって、一拝して、それをもらって半分飲んで、飲んだものを旦那さんに回して、それを飲んでから返してもらう。お父様からお母様、それから天使長を通して置くのです。分かりました? (「はい」) そうするとどうなるかというと、心情的に一体化する。本当はその前に、先生が女たちの手の上に手を伏せて祈らなければならない。これは一体化の祈祷である。そういう祈祷をして聖酒を飲むことによって、それが血統圏の蕩減条件、血統転換式となる。キリスト教における洗礼式のようなものです。分かりました? (「はい」)。そういう式をしなければならない。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.05
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第2回神統一韓国のための救国救世祈祷会 限定公開[FFWPU]세계평화통일가정연합チャンネル登録者数 1.43万人神統一韓国のための救国救世祈祷会2022年1月9日午前10時清心平和ワールドセンター&PeacelinkTV一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.05
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「国境を越えた真の愛の因縁」(その2)1988年10月23日龍仁メッコール工場六五〇〇家庭の約婚式のときに語られたみ言 今からは国が互いに一つになるべきとき 先生が一番初めに合同結婚をさせるとき、ドイツ人と英国人の未婚の男女がいました。ドイツの女性と英国の男性ですが、英国の男性は慎ましく、ドイツの女性は強いのです。一番最初、互いに話をすることができなくて通訳をつけなければなりませんでした。通訳をつけて話をするのですが、「愛しています」というのも、通訳をつけてしなければならないのであって、そうでなければ、何の話か分からないのです。「愛しています」と言っても、目だけぱちぱちしています。(笑い)いくら手でつついても、信号が行きません。果てには、実際は、怨讐ではないですか? ですから、極から極を合わせていくのです。 これ、日本と韓国は色も皆、同じではないですか? このように座っていれば、横の人がどの国人なのか分かりますか? どれ、韓国人、君、韓国人でしょう? (「はい」)。君、日本人区分できますか? あなたが日本人のようだし、この人が韓国の人のようです。(笑い)ですから、韓国人や日本人は、皆、兄弟と同じです。 摂理的に見ても、そのようなときが来たということが分かるでしょう? (「はい」)。なぜこのようなことをしなければならないのか、分かるはずです。互いが額を合わせるときが、男性と女性が額を合わせるときが来たと言ったでしょう? (「はい」)。国が互いに一つになるときです。国が早く一つになってこそ、世界が統一されるのではないですか? ですから、国境を超えて国が一つになるようになるときは……。 このようなことをするときに日本の人たちもどれほど大騒ぎだったでしょうか? 今まで合同結婚式するとき、七七七組だとか一八〇〇組だとかいうときは、どれほど日本が大騒ぎしましたか? 何でどうでこうでと大騒ぎしました。それで、あなたたち、大騒ぎするなら、してみなさい! わたしはわたしがすべきことをするのであって、そのように大騒ぎするといって、わたしがしないと思いますか? わたしがこれをしないようなら、一生の間、非難されることはなかったでしょう……。違いますか? ですから、するなといってもわたしはするようになっています。 それで、韓国にいる統一教会の人たちは皆、わたしに似ました。そうでしょう? 韓国の人、わたしに似たでしょう? (「はい」)。倍達民族ならば、だれに似たでしょうか? わたしに似たでしょう……。(笑い)倍達民族の中でわたしが親分ではないですか? わたしはそのように考えます、倍達民族の精髄をわたしが守っているがゆえに。(拍手)わたしがこのようなことを主張するぐらいにはなったのです。 わたしがなぜお母様がいないなら、婿入りをもう一度すればいいと言ったと思いますか? わたしが日本の新婦と結婚すると言えば、どうなると思いますか? どれほど易しいでしょうか? そうでしょう? 違いますか? 私たちの先生もしたのに、それから英国人とも結婚すればどれほど易しいでしょうか? それで、実際にわたしはそのようなことができないから、このような説明が必要なのです。違いますか? (「はい」) そのように思って、最近、あの自民党、民民党、デモする声を皆、聞いたでしょう? (「はい」)。旧時代、退けというのです。わたしたちも好きなように掻き回してそうなのに、若者たちが好きなようにするのに、だれが何というのですか? 豚の子と結婚するといってもするのであって、しかたがありますか? 豚の子とは結婚できないけれど、そうすることのできないことが起こったとしても、父母が反対できないのです。 ですから、韓国男性たち、父母が何がどうだこうだというといって、日本の女性をもらって気分が悪いと言ってはならないのです。「分かりました」(笑い)それで、死んでもだめだというなら、共同墓地に生き埋めにしますか? どうしますか? 男性がもう三十代が近づけば、二十五歳を過ぎれば、自らを処理できなければなりません。小言を言うなというのです。「よく調べてすることなので、わたしたちにいいことがあるはずなのに、何ですって?」と言いながら、闘うのです。すべてわが家がうまくいくためにこのようにするのであり、一族がうまくいき、国がうまくいくためにするのだといって。 皆さん、ごらんなさい。世界はソウルに、ソウルはどこに? (「世界に」)。聞こえませんでしたか? (「聞こえました」)。身動きできないのです。聞こえましたか、聞こえませんでしたか? (「聞こえました」)。父母が歓迎しますか、歓迎しませんか? (「歓迎します」)。それゆえ、このことをするのです。身動きできないので……。何、「手に手を取って、壁を超えよう」と言ったでしょう? (「はい」)。日本の垣根を壊そうというのです。(拍手) しかし男性たちは、本来、盗賊のようなものなのでよく分かりませんが、女性たちが慎ましいのに……。本来、この女性たちがですね……。韓国の女性は、特別ではないですか? そうでしょう? 韓国の女性は、特別だというのです。日帝のとき、そのように激しい日帝四十年間、日本人たちが韓国の女性がよくて、結婚しようといってもしませんでした。一族が皆、一丸となって反対したりしました。接近すれば、兄さん、甥が刀で刺そうとしたりしました。 道義天国は女性が立ててこそ 皆さん、そのようなこと知っていますか? そのように外国の占領を受けて寂しい支配を受けましたが、日本人と結婚した人は多くないというのです。韓国の女性の独特の節操性は尊重視したというのです。それゆえ、道義之国という話は、韓国の男性たちゆえに生まれたのではありません。女性たちが道義之国という名を立てたということを知らなければなりません。それはそうでしょう? (「はい」) 今は道義之国ではなく、道義之天です。国ではありません。天です、天。道義之天国です、道義之世界なのです。それをだれが立てなければなりませんか? (「女性が立てなければなりません」)。女性が立てるべきです、女性です、女性。 それゆえ、天が誇ろうとするなら、男性も誇らなければなりませんが、「きれいな人」と言えば、男性を先に指しますか、女子を指しますか? 皆さんが女性なので、わたしが尋ねたのではありません。それでは、「きれいな人、美しい人、かわいい人」と言えば、どちら側がもっと多いですか? (「女性!」)。女ー性! (拍手) 女性(ヨヂャ)という言葉は、少し誤れば、「開こう(ヨルヂャ)」という言葉になります。(笑い)ですから「女性」と言えば「ここに来てください」という人です。「もしもし」いうのではないですか? そのような意味です。女(ヨ)という言葉は与(ヨ)えることを言います。蕫与えるの「与(ヨ)」の字、蕫者﨟の「者(ヂャ)」の字、女性は与える人です。そうではないですか? 蕫与える﨟与の字であり、受ける与の字ですか? (「蕫与える﨟与」)。受ける与、蕫受ける﨟受(ス)! (笑い)わたしはよく分かりません。どちらですか? (「蕫与える﨟与」)。蕫与える﨟与、そうでしたか! ですから、女性は与える人だというのです。そうではないですか? 何を? 一番よいものを……。 韓国の女性がそうです。それゆえ、わたしがここ大韓民国を訪れて一番誇るべきことは何でしょうか? 韓国の贈り物が何かというと、人ですが、人の中で一番いい祭物は何でしょうか? 女性です、女性。韓国女性を世界の人々の前に供えようというのです。すみません。(笑い)ああ! そうではないですか? その家がりっぱになれば……。その家に娘たちが生まれれば、すでに町内八方その有名な官吏の男性たちが、耳を垂らし、目を鉄砲玉のようにしてのぞきみて、その女性を連れて行こうとしますが、そのような家がりっぱな家ではないかというのです。皆さん、何の話か分かりますか? (「はい」) そのように見るとき、今日の全世界の統一教会の群れたちは、皆、「先生ー、私を知っているでしょう」と、そう言います。(笑い)皆が、この次に先生のような夫を一度もらってみたいというのです。それは嫌がることができますか? 懇切に懇切に願うのに、このように懇切に懇切に願うのに……。(笑い)それで、よせ、インド人、君も食べて退きなさい、よせ、黒人の人、君も食べて、白人の人、君も食べて退きなさいというのです。そうでなければ家の中が安らかではありません。 さあ、そうしておけば、どうなるでしょうか? 東西南北四方に、女性にずうーっといかり綱を結んでおいて、船に乗って座っていれば、どうなるでしょうか? 台風が吹いても、そのいかり綱が切れなければ、先生は安全ではないかというのです。それで、いい贈り物をたくさん分け与えようと考えるのに、皆さん自分自身を贈り物として考えますか? 気分悪いでしょう? (「いいえ」)。気分悪くてもしかたありません。(笑い) 愛の調和は、並ぶものがない それで、一番最初は気分が悪いけれど、わたしが本当にみっともないことをたくさん見たのです。何が一番みっともないでしょうか? 死んでもその男性に嫁がないというのです。わたしはそのような女性を見ました。ところが、その女性が最近では自分の夫でなければ、死んでもやりきれないと言っています。何がそうさせたのでしょうか? (「愛」)。その男性には死んでも行かないと言う、そのような女性が死んでもその男性でなければだめだというのを、何がそのようにしたのでしょうか? 先生がそのようにさせたでしょうか? (「愛です」)。そうです。愛という将軍がそうさせたのです。 皆さん、愛の将軍見ましたか? 愛を見ましたか? 愛は放浪しますか、じっとしていますか? ぐるぐる回りますか? どちらですか? (「回ります」)。回るのを見ましたか? (「いいえ」)。(笑い)皆さん、愛がじいっとしてるとするなら、味が出ません。ふわふわさまよわなければならないのです。飛んで回っても見……。それで、愛の調和は、並ぶものがないのです。 それで、愛の心を持って気合を与えれば、その気合を受けるすべてのものが降参しないものがないというのです。それゆえ、皆さん、恋煩い知っているでしょう? (「はい」)。恋煩いは女性に多く起こりますか、男性に多く起こりますか? (「男性です」)。理解していませんね。歴史的な統計を見れば女性に多いというのです。(笑い)いいえ。女性は一方通行です。男性はこのようにうとうとしながら行っても、走ることができるのに、女性は「おおおおおお」といって一方通行です。(笑い)男性はびっこをひきながらも、尻、乳、ほかの所も見ながら行きますが、女性は一方通行なので、恋煩いの患者は、女性が多いのです。このような話は初めて聞いたでしょう? 行って歴史の先生に尋ねてごらんなさい。(笑い)何の話か分かりましたか? (「はい」) その恋煩いは何がそうさせましたか? (「愛です」)。愛、愛を知っているでしょう? 男性の恋煩いが激しいでしょうか、女性の恋煩いがもっと激しいでしょうか? (「男性です」)。(笑い)見ましたか、あなた! (笑い)ああ、そのように考えないのに話してはだめです。男性の恋煩いがぶり返せば、虎のように「おー! おー!」と言いますが、女性の恋煩いは、ふとんの中に入って、ただひれ伏しているのです。(笑い)それが違うのです。それが違います。 それゆえ、愛は、男性と女性では違います。女性は、愛を受けるときまでは喜びますが、受けてからは「さっ」と冷静になればだめです。愛を受けてから愛することのできる心を持たなければなりません。そうしてこそ、虎のような男性を、垣根の中から飛び出さないようにすることができるのです。皆さんは、垣根一つを巡らせますか、二つを巡らせますか? (「一つ」)。一つ巡らせば、ぱっと超えていくのではないですか? いくつ巡らせますか? (「たくさん……」)。十くらい巡らせなさい。十回愛を受けても、百回愛することのできる度胸を持たなければならないというのです。そうなれば、無事通過なのです。 わたしがこのような話をなぜするのでしょうか? ありとあらゆる人をたくさん見ました。ある人は、ここ、柳鐘泳が来ましたか? (「来ていません」)。来なかったので話さなければなりません。(笑い)その柳鐘泳を知っている人は知っているし、知らない人は知らないことでしょう。その息子、娘はここに来ましたか? その息子は来ているでしょうね。息子、来ましたか? (「来ていません」)。ああ、祝福家庭だからここには来ていないでしょうね……。 男性は、男性です。見た目はこの口がこのように分厚くて、ぽっと出て、目はカエルの目のようです。目もやぶにらみのカエルのようです。まるでさなぎのように自分勝手になったのか、格好がこのようにして歩き回るのです。(笑い)男性としては不格好です。ああ、そうかと言って本当に不格好であればだめですが。そうなれば、それを愛する目で見れば、並ぶもののない調和の美しさかもしれないというのです。これを触ってみても面白いし、これをこのように見ても面白いというのです。他人と違うのでどれほど面白いですか? (笑い)そうなのです! そうだというのです。それで、初愛で結ばれた人は、醜い人はいないし、美人でない人はいないし、ハンサムでない人はいないというのです。そのような話を聞いたことがありますか? (「はい」) それで、皆さんのお母さんとお父さんたち、皆、容姿が整っていますか? (笑い)静かに分析してみなさい。お母さんを見れば粗暴な女性みたいですが、お父さんはツンとすまして、賢くて、お粥からにおいだけ集めて食べようとするお父さんなのですが、それでもお母さんをつかんで暮らすことを見れば、おかしなことです。どうしようもない点が多い父母たちもいます。皆さん、お母さんとお父さんもそうだと思いますか? 分からないはずです。けれども、くっついて落ちないのです。落ちられない、落ちられないのです。 その何がそうさせるのでしょうか? 初愛です、初愛。初愛が行く道は、直行ですが、すべての目、鼻、耳、細胞まで感じる感情まで、その綱に乗って回ろうとするのであって、ほかの綱に乗って回ろうとはしないというのです。脱線がないのです。それが偉大なのです。初愛の相手を夫として、妻として迎える人たちは、不幸な人ではなく幸福な人です。 君、もう眠気は去りましたか? (笑い)ちょうどその場に座っていますね。グループを組みましたか? (「さっきのまま座っています」)。ああ、えーと、そのまま座っているのか、違うのか、わたしは皆、忘れてしまったのですが、そのまま行って座っていますか? 君を見てみると、その綱が分かりますが。 男女の生活が紊乱であれば滅びる このごろ、韓国でも若い青年男女たちが問題です。お母さんとお父さんたちは、息子はちょっとかまわないけれど、娘たちをもった家は、心配が山のようではないですか? お母さんやお父さんは、娘がデートする男性がいなければ心配して大騒ぎして回るのです。このような亡国之輩。米国の者たち…。米国に対して「ヤンキー・ゴー・ホーム」と、そう言うのではないですか? ついていってはならないのです。 皆さんは、先生がなぜこのような話をしているか分かるでしょう? (「はい」)。それで、皆さんにデートしろとわたしがそう言いましたか? (「いいえ」)。聞いたことがありますか、ありませんか? (「聞いたことがありません」)。男性たちは聞いたことがありますか、ありませんか? (「聞いたことがありません」)。デートが何ですか、デートが? (「会うことです」)。うん、デートが何ですか? (「会うことです」)。男性と女性が会うことですか? 手首を握って引っ張って、このようにして、前に行ったり、後に行ったりしながら歩くというのです。 それが亡国之風です。亡国之風です。そのような国は必ず滅びるのです。ローマが滅びたのは、文化背景が悪くて滅びたのではありません。男女の生活が紊乱だったからです。米国が亡びていくのも、ほかのところにあるのではありません。米国にお金がなく、能力がなく、技術がなくて、そうなのではないのです。世界で先進国としての堂々とした権威を備えましたが、滅ばざるをえないのは何かというと、未来の希望を提示し、その国を担うことのできる人がいません。なぜですか? 自分の生活を担うことのできる能力がないというのです。自分の家庭を率いることのできる能力がない人々が、どうやって国を導けるでしょうか? それは理論が合わないのです。それゆえ、米国は、滅びるとという結論を下すことができます。何の話か、分かりましたか? (「はい」) 今まで統一教会となって行くすべての道を、ふさぎました。この邪悪な世の中を分別するのに、どれほど騒々しいですか? 先生がそれをよく知っています。どれほど苦衷が多いのかというのです。 娘たちが慎ましく統一教会員になって、黙々と歩き回るようになれば、お化けのような男性たちがひっきりなしにくっつくようになっています。それが夜にも現れ、昼にも現れて、やりきれない境地になった人がたくさんいます。そうなのです。それは情操的にそうです。完全な天のみ旨の中で見れば、その人が天の側に立っているために、サタン側は、必ず引っ張られて入ってくるようになっています。 それで、私たち統一教会が開拓伝道を皆、娘たちがしました。十代の娘たちが出ていって伝道をすれば、皆、その子が見たくて来るのです。それが魅力です。大きなマグロ釣りをするときの餌のように、においのする餌を探しにくるのと同じです。そのようなある魅力があるのです。けれども、いくらそうでも、気にかけません。東西南北に転がしても、いかなる男性もその子たちを好きなようにできないというのです。先生もそうです、先生も。お母様がいますか、いませんか? すみません。(笑い) 愛がこの上なければ糞の味もみる 先生が外国に行けば、先生に対して、皆、キス禁止を命令しました。もし先生にキスしろと命令を下せば、たぶんこれを噛みちぎったはずです。(笑い)ああ、この男性はいつかまたキスするかといって……。血でも、血を出し、噛みちぎっていこうとしたはずです。キスの命令をすれば、危険千万です。それだけいいというのです。キスしろといえば、つかんで三十分ではなく、二十四時間でもつかんで、じっとしていようとするはずです、この女性は。ですから、それはどれほど縁起が悪いですか! (笑い) そうでなくても、世の中にもそのようなことがあります。わたしがこの前、フロリダに行ったところ、男性と女性が立って額をお互いにぴたっとくっつけていました。それで、立っているのがちょっと難しいから、一人はコーナーにぐっとこのように寄りかかっており、一人はぐっとこのようにしています。額を合わせてこのようにして、口を合わせて、三十分そのようにしていました。それを待つことができなくてそうなのであって、三十分ではなく、三時間もしたかしれません。 それだけ彼らは情熱的です。皆さんは三十分ではなく、三十年、三百年でもできるでしょう? (笑い)できますか、できませんか? (「できます」)。三十分できるでしょうか、三百年できるでしょうか? (笑い)「三千年でもできます」といってこそ、わたしが結婚させてあげます。三十分内で離れるなら、それは何でもありません。 ところで、日本人のにおいと韓国人のにおいは違うと思いますか、同じだと思いますか? (「同じです」)。うん? ああ、日本人は、日本人のにおいがするでしょう。それでも、愛の炎は、そのにおいを知らないのです。愛する夫、さっき足のくさいにおいの話をしましたが、愛し合えば、つま先を舌で吸うとしてもいいというのです。だれが? 新婦が……。(笑い)この女! なぜ「うえっ」と言いますか? (笑い)そのような愛がいいというのです。 さあ、男性たち、くさいにおいのする足を吸うそのような新婦をもらいますか、吸わない新婦をもらいますか? (「吸う新婦をもらいます」)。(笑い)吸う新婦もらうですって? (「はい」)。(笑い)ああ、わたしの母がどういうことをしたか知っていますか? 弟が幼いときに病気になりました。天然痘あるでしょう? それは熱が出るのです。ですから、その熱をすべて発散しなければなりませんが、発散できずにいて、死んだのです。そのとき、母が弟のうんちの味が苦ければ生きるし、苦くなければ死ぬと言って……。うんちの味を見たのです。 皆さん、何の話か分からないでしょう? 皆さん、お母さんの心情分からないでしょう? 女性でも分からないでしょう? そのような話を聞けば、口をしかめますか? 違います。それが当然なのです。愛は、それですべてカバーするのです。それが生きるということです。 実際、考えてごらんなさい。女性が優れているといっても、目二つ、鼻一つ、これとこれとこれしかありません。この四種類を見詰めながら一生の間生きようとするので、それがどれほど地獄ですか? 美しいという女性でも考えてごらんなさい。どれほど失礼ですか? わたしを見て生きてくれといいながら、別のところに行けば、だだをこねて、脱線すれば大きい事故が起こるという、そのような話をする女性たちを見れば、どれほど男性は哀れですか? そうではありませんか? しかし、それが見詰めてみても嫌わないで喜ぶので、それでいいのではないですか? 違いますか? それが嫌だといって、どうしますか? 考えてごらんなさい。二度だけ見ても、嫌なやのは嫌なずなのに、一生の間それだけ見て生きろですって? それも静かに優しくいるのではなく、えんえん泣き、愚痴までこぼします。女性たち、愚痴をこぼしませんか? こうしてもつんつん、ああしてもつんつん、つんつんして、どれほど事故が多いですか? (笑い) さあ、ですから男性に同情しなければならないでしょう? (「はい」)。分かったでしょう、今から嫁に行くからには、同情することができるはずです。昔、嫁に行くことを考える前には、自分の同情だけしますが、もう嫁に行くときになれば、人を同情することができ、垣根を超えて、さっと見るのです。垣根を超えて見れば、目がぱちぱちしているのです。皆さん、それ、見たことがありますか? 見たことのない人はここに参加しますか。見たことがありませんか? それ、見た人、手を挙げてごらんなさい。恥ずかしくて聞けないでしょう……。 見なさい! わたしを見なさい。馬のような未婚の男女が三、四人がばたばたと来れば、女性が楽しく戯れながら、行きながらも、おとなしくさっと姿態をこのようにして行きますが、すでにいつ皆、測定したのか、だれがどうで、だれがどうだということを、女性は評するのです。けれども、男性たちは、ぐずぐずしていて、どんな女性が過ぎたのかも知らないのです。何の話か分かりますか? 女性は、測定感覚が早いのです。何食わぬ顔をし、いつキャッチしたのか、「三人のうち、真ん中のやつが一番ましだな」といいながら、ぱっと選ぶのです。(笑い)皆さんも、そうではありませんか? そうですか、そうではないですか? この者たち、返事をちょっと率直にしなさい! (「そうです」)。率直な話をしてこそ、結婚を真剣にしてあげたくなるのであって、そうでなければ、すべてむやみに、いいかげんにしてやります。そうですか、そうではないですか? (「そうです」) 復帰の道を行くには理性の誘惑に打ち勝ってこそ 先生は、恋愛したと思いますか、しなかったと思いますか? (「しなかったと思います」)。(「したと思います」)。(笑い)当ててみなさい。恋愛したと思いますか、しなかったと思いますか? (「しませんでした」)。わたしは恋愛のしかたを知りませんでした。知りませんでしたが、恋愛しようという人はたくさんいました。その人たちは女性でしょうか、男性でしょうか? (「女性です」)。男性でしょう、男性! (笑い)男性でしょう! それで、先生がその女性を好きになったなら、どうなったでしょうか? 復帰歴史をすべて売り飛ばしていたことでしょう。 先生がこの道を行くときまでは、女性が怨讐です。女性が怨讐です。女性が怨讐です。女性が怨讐なのです。ですから、女性に対したものを完全に無為の世界へ返すことができる資格者でなければなりません。霊界に対する祈祷をしても、女性が出てきて誘惑します。どれほど美人たちかしれません。美人たちによって成された軍隊がさっと拍子を合わせて歌う美しい歌、花を持って華麗な歌を歌うのです。そのようにがやがやしながら来るのです。多くの人が来ながら、だんだんだんだん一列になって、後になれば、ぴたっと一人として現れます。ところが、その人が相当な美人として現れるのです。そのままそこで丸裸になって、さっときて抱かれようとするのです。抱かれなければ、後ろに、背中に乗って上がります。それが嫌でしょうか、いいでしょうか? どれ、いいでしょうか、嫌でしょうか? 男性たちならば? (「いいです」)。あなたたちは、男性になったことがないでしょう? 先生は、そのとき喜んだでしょうか、気分悪かったでしょうか? (「悪かったです」)。それは、喜んだなら大変なことになるのです。「この女め、股を裂いてしまわなければならない」と言いながら、ありとあらゆる闘いをします。 それから実際にそのように現れます。そのようなことがあるというときは、もう何日後には実際にそのような女性がぴたっと現れます。本当の女性が現れるのです。現れては、ただ依頼をします。ああ、先生が一人で暮らす部屋に、女性が脱いで入ってくるのです。そこで超えてはならないのです。そのような道を経ていかなければなりません。そうでなくては、復帰の道を見いだせません。美人百人の中で自分が真っ裸になって、一人横になっていても、男性の生殖器が動いてはならないのです。そのような立場までも修養をしなければなりません。何の話か分かりますか? (「はい」) 「怨讐を愛せ」という言葉が宗教世界に出てきた理由 それで、神様にあって一番難しいのが何でしょうか? 神様がどれくらいのおかたかということを、皆さんは知らないでしょう? 神様が怨讐を愛するにおいて、どの程度まで愛するのでしょうか? 愛する妻を怨讐の懐に渡してやり、手をつかんでやり、愛しなさいと祝福をしてあげることのできる心をもったおかたが神様です。神様が分かりますか? (「はい」) その相手はだれでしょうか? サタンです。サタンはエバの姦夫です。違いますか? ですから神様の愛の怨讐です。その愛の怨讐が、数千年間来て讒訴しても、それを少しも嫌な表情をせず、今まで真の主人の役割をしてきました。それで、神様がこの地に一人の中心を育て切るときまでは、だれでも、不平を言おうが、それに反対してはなりません。なぜかというと、天使長だったからです。 天使長、罪を犯した天使長がいう話が「わたしは堕落して悪魔という悪名をもった存在になったが、神様と神様の息子の名前をもった人がわたしと同じでありうるか? それは天理原則の本然の世界の元亨利貞の位置、原理原則の位置にいるべきではないか?」と言うというのです。ですから「アダムが完成して神様と一体になるときまでは、わたしを愛さなければなりません。アダムと神様がわたしを愛すべき原理がないだろうか? わたしを愛さなくては、神様の国を成し遂げることはできず、天国の息子、娘を入れることができないのではないか」と言うのが原理です。それを神様が「違う」とは言えないのです。「そうだ」と言うからには、そのまま行わなくてはなりません。そこに今、引っ掛かっているのです。何の話か分かりますか? うん? (「はい」)。それを知らなければなりません。 その話は何かというと、先生自身がアダムの位置に、神様の息子の位置にいるとすれば、そのアダムを愛さなければなりません。神様を愛し、もちろんエバも愛さなければなりませんが、それからだれまで愛さなければならないかといえば、堕落した天使長まで愛さなければなりません。そうでなくては、あの世に入れないというのです。それで、怨讐を愛せという言葉が宗教世界に出てきたことを知らなければなりません。分かりましたか? (「はい」) それはアダムだけではありません。とりわけ神様は、自分の愛する妻を怨讐に渡してやり、福を祈ってあげることのできる雅量をもったがゆえに、悪魔までも復帰できる、このように見るのです。愛を中心として、すべてのものを復帰できる、このように見るのです。愛を中心として、すべてのものを復帰できるというのです。ムチを持って復帰するのではないのです。分かりましたか? (「はい」) さあ、このように考えるとき、皆さんが結婚して愛する夫がいるというときに、その夫を怨讐に抱かせてやり、「愛しなさい」と言いながら、福を祈ってあげることができますか? その門前に座って守り、「おお、天のお父様、福を下さい」と、そうすることができるのかというのです。そうでなくては、天国に入れません。何の話か分かりましたか? (「はい」) それで、終わりの日の女性は、二人の男性に対するようになっています。最近、それで、悪い女性が自分の本当の夫を置いて、東西南北四方で浮気をしながら、二人の男性以上に対するようになっているのです。それがなぜそうでしょうか? 堕落した世界から天国に帰らなければならないからです。帰るには帰らなければならないのに、彼らは空回りするのです。それゆえ、本当の夫を捨ててでも、天の新郎を訪ねていくことがメシヤに会う道です。分かりましたか? (「はい」) メシヤが何ですか? メシヤに会うためには、自分の夫をどうしなければなりませんか? キリスト教で見れば、花婿たる主といいます。そうでありませんか? 新郎である主だというではないのですか? それで、主が来るようになれば、そのとき、夫に仕えて行くといいますか? 夫を離れて行かなければならないというのです。自分の夫が愛する妻に祝福をしてあげなければなりません。同じです。神様のような心をもった息子、娘になることなしには天国に入れないという事実を知らなければなりません。分かりましたか? (「はい」)。分かりましたか、何の話か? (「はい」) 皆さんが今後、国を備えて、ご父母様を中心として、世界が一つになることのできる時代が来るようになれば、そのような時代は過ぎるのです。そのときには悪魔に対し、赦す必要はありません。それは法が赦しません。しかし蕩減時代が終わる前までは、怨讐を愛さなければなりません。そうでなくては、天国に入れません。 祝福を受けた人々が行くべき運命の道 キリスト教は、怨讐個人を考えるでしょう? しかしそれは違います。統一教会では怨讐国を考えます。さっきも話しましたが、米国へ行って闘うようになるとき、どうしたと思いますか? 韓国人と日本人が怨讐の間柄です。米国人とドイツ人がそうです。その四大国の人々が先発隊となり、滅びる米国を生かしたのです。米国が怨讐の国なのに、米国国民が米国を愛する以上に愛したのです。怨讐の国の人々が行って再建されるそこに、初めて悪魔がいなくなり、天国の門が開き始めるというのです。何の話か分かりましたか? (「はい」)。分かりましたか? (「はい」) その話は何ですか? 皆さんが日本に嫁ぐなら、日本の人以上に日本を愛さなければならないという話です。日本の姑、舅、または小姑、弟、姻戚の八寸、そのだれよりも日本をもっと愛さなければならないのです。その文化をもっと愛するという心、それが重要です。それとともに「日本の人々は自分の国だけを導くが、わたしは世界と天国まで導いていく」と考えろというのです。ですから、受難の種は、もっと深く伸びていくのです。それで、掘りに掘って、道理を知って、彼らが誤っていたことを教えてあげることができなければならないという話なのです。分かりましたか? (「はい」)。わたしは嫁がせる娘たちを教育するかのように、今教育しているのです。よく聞きなさい。 また男性たちは、男性たちは反対です。日本の男性たちは反対だというのです。韓国に来て、怨讐の国の人を自分の国の天皇以上に愛さなければなりません。もちろんそうでしょう……。それ以上の愛国心を持って、互いに交代した相対的基盤の根を分別しなくては、二つの生命体がここで新しい種を受けることができないのです。何の話か分かりましたか? (「はい」)。それでこそ皆さんの息子、娘が日本人にならずに、滅びる日本人、滅びる韓国人として残されないで、永遠に残りうる息子、娘がその根の深いところから生じるのです。 合わないといって嫌がりますか、嫌がりませんか? ああ、義理の祖父、義理の祖母、姑、舅、小姑ということなく、皆、心に受け入れますか、受け入れませんか? 心に受け入れるって何ですか、言葉も知らないのに。言葉も知らないから、どれほど冷遇されるでしょうか? それでも冷遇されることがいいのです。冷遇されるにおいては、讒訴する人以上にしたというときは、そこに深い根が打ち込まれるというのです。そうして、その家がぐるっと一周回るようになるときには、皆さんが根となり回るようになります。ぐるっと家の中が振り返れば、皆さんを中心として、彼らが回るに回らなければなりません。それで、日本が新しい日本として生まれ、滅びる韓国が新しい韓国として生まれることのできる道が生じるのです。分かりましたか? (「はい」) それで、嫁に行く家がほかの家ではありません。酸っぱく辛く塩辛くて味が少し酸っぱくて渋いので、嫁ぎ先(注:読み方が酸っぱい家と同じ発音)といったのです。(笑い)何の家? (「嫁ぎ先です」)。嫁ぎ先、酸っぱいというのです。酸っぱければ、もう顔がこうでしょう? 歯は、食べなければならないので、前に行こうとして、頭は、酸っぱいからこうしているのです。歯は、差し出すのに……。食べるには食べなければなりませんから。(笑い)それはすべて拍子に合うのです。そうでしょう? 歯まで引っ込めば、生きられないのでしょう? 前に行こうとするので……。それはすべてそのようになるのです。 それで、嫁ぎ先という話は、今日このような娘の怨讐国です。娘として生まれたのですが、その怨讐国の大将の息子に嫁ぐその心がどれほど混乱するでしょうか! それを超えて世界のための神様のみ旨を中心として、消化しなければならないのです。そうして、その二つの畑を土台として、自分の愛の根を下ろし、吸収発展しなければならないというのが統一家の希望であり、国家を超えて祝福を受けた人々が行くべき運命の道です。 皆さん、運命が何か知っていますか? (「はい」)。運勢とは違います。運命の道は行かざるをえません。しかし運勢は、直すことができます。違いますか? 運命の道は、直すことができないというのです。さらには、宿命の道です。宿命は、絶対的です。たとえば、なにがしの娘が「私はなにがしの娘はしないか」と言えますか? それは宿命です。絶対直せないのです。 それで、運命の道をたどって宿命の道理を植えようとする天のみ旨がこのようなものだと知って、ぜひこのようなことをよく……。生涯の裏山前に、事情多いそのような木々の中で誇ることができる大木として残し、その国において尊敬される鬼神になるべし! (「アーメン!」)。(拍手) 今は交差する時代 さあ、それでは、今、先生のみ言を聞いて蕩減法によって、いい男性をもらわなければなりませんか、悪い男性をもらわなければなりませんか? (「いい男性です」)。(笑い) 今の時は、交差しなければなりません。交差しなければなりません。それで、交差するときには、左側にいた人が右側に行かなければならず、右側にいた人が左側に行かなければならないのです。交差時代です。これをもしだれかが防いで交差させておかないと、右側は生まれません。サタン世界の一方通行で進めば、日本に正しい国が生まれません。だれかが防がなければなりません。ブレーキをかけなければなりません。強くさっとかけるときに、この将来の世界には右側の国の世界が生まれますが、この左側の世界は、終わりになるのです。それだけ超えていけば、全体がこの国に行くのです。それは分かりましたか? (「はい」) 今までわたしたちは、愛のブレーキをかけて、左側の端を防ぐことによって、右側の世界が生まれるための作戦をしたというのです。ですからそれを防がなければならないでしょう? 交差させなければなりませんか、してはなりませんか? 交差させなければこれは一方通行です。永遠ではありません。ですから世界を代表して、世界の流れに匕首を当て、愛の伝統としてさっと分別します。これは先生だけが可能なのです。 それで、この道を行くわたしたちの世界から新しいオリンピックの世界が生じるのです。それをつくらなければなりませんか、つくってはなりませんか? (「つくらなければなりません」)。交差させなければなりません。交差しなければ、今後大変なことになります。先後が交差しなければなりません。交差時期です。 日本が韓国を支配した反対に、西洋社会がそうであるように、韓国の経済問題に日本が今、大変なことになりました。日本人の中で分かっている人たちは韓国に負けるといっているのですが、負けるようになっています。韓国人はやられません。貿易でも何でも、外交問題にやられないのです。やられません。番号が違います。洗いざらいしようとするのであって、少しはしようとしません。先生に似て。(笑い) さあ、ですからこれを交差させなければなりませんか、させてはなりませんか? (「交差させなければなりません」)。させない日には永遠に天国が現れません。ですから反対をします。反対しようと、火事が起こるでしょう。生きるか死ぬかのことが展開するのです。「この女め、家の中を壊す!」ということでしょう。家の中を壊そうと来たでしょう。交差されなければならないのです。そのときは、交差しなければなりません。神様のことを考えなければなりません。 先生も交差するために、その韓国が追い出すので、米国にまで行って交差してこなかったですか? そうでしょう? そうでしたか、そうではなかったですか? 西欧文明を交差させました。西欧文明が先に立ちませんでした。アジア文明が先んじなければならないのです。 皆さんも同じです。結婚から堕落によって反対に交差させたものを、正常な愛を立てて交差させ、制御させ、これを否定として否認してしまうことのできる版図をつくらなければなりません。そのような新しい出動が展開するために、世界統一国のスタートとともにその内容を発表したので、「今このような日本の国をだれがもっと愛するか見よう」と、日本の国民を韓国の嫁、娘たちが来て「あなたの嫁と娘がわたし以上に愛するか見よう」と、また「日本の怨讐たちが韓国に来て、韓国の息子、娘、嫁、娘婿がわたし以上に愛するか見よう」というところでは、わたしたち日本人が勝ち、韓国人が勝たなくてはなりません。そうなることによって完全に交差するのです。それによって神様が主管することのできる新しい統一の国が生まれるというのです。日本と韓国が一つです、二つではありません。そこから統一の国が出てくるのです。分かりましたか? (「はい」)。そうして、中国にブレーキをかけ、ソ連にブレーキをかければ、すべて終わるのです。世界は、わたしたちの世界になる時点が目の前に近づいたのです。ですから交差させなければなりませんか、させてはなりませんか? (「させなければなりません」) それで、国を標準として交差させなければなりませんか、個人を標準として交差させなければなりませんか? (「国です」)。個人を標準として交差させたなら、家庭的標準が残り、氏族、民族、国家、世界的標準が残るようになります。天地を代身して天の縦的な標準を中心として、国々をすべて交差させれば、最後になるのです。これからは、わたしたちの世界が訪ねてくるのです。分かりましたか? (「はい!」) 夜も昼も争わず、怨讐視するな 私たちの世界で生きますか、私たちの世界で働きますか? どちらですか? (「働きます」)。生きて働きますか、仕事をして生きますか? (「働きながら生きます」)。働きながら暮らすのです。一つです、一つ。働くのですが、この地が歓迎しなければなりません。空気が歓迎しなければなりません。日月星辰が歓迎しなければなりません。神様が歓迎し、真の父母が歓迎し、統一教会全体が歓迎しなければならないのです。 さあ、交代時代歓迎しますか? (「はい」)。交代時代歓迎する人、両手を挙げなさい。 それでは、韓国の女性は、どの国の人と結婚しますか? 答えてみなさい。(「日本人です」)。日本の何? (「男性」)。どのような男性? わたしのように日本を捨てようという男性。日本を捨ててどこへ行こうとそうですか? 韓国に来ようとする男性。そのようになっているでしょう? (「はい」)。そのようになれば、韓国人よりいいでしょう。考えてごらんなさい。いいのです。あれはいつ交差しますか? うんちのくぼみのようなものを考えてごらんなさい。交差するようにぴたっと持たせて「私をつかんでください」と言えば、神様がさっと受ければ、空中に浮き上がり一周ぴたっと引っ繰り返るはずですが、この地に根を下ろしていては、いつ抜いて引っ繰り返しますか? ですから韓国の女性は、どのような人と結婚しますか? (「日本の男性です」)。日本のどのような男性? (「日本を捨てて来る男性です」)。見栄えは良くなくとも、統一教会の者たち? (「そうです」)。(笑い)それから、韓国の男性たちは、どのような女性たちと結婚しますか? (「日本の女性です」)。なぜですか? どうしてですか? (「きれいだからです」)。韓国女性は、どうして? (「互いに交代します」)。交換するのです。互いに交代するのです。自分が合う女性は日本に与えて、日本の男性が合う日本の女性は、自分が代身するのです。ですから、どれほど近いですか! どれほど近いかというのです。分かりましたか? (「はい」) それで、今皆さん家の中でけんかをするようになるとき「ああ、気に障る!」というかもしれませんが、日本人が皆さんの代わりに福を受けろと祈祷する人たちが、統一教会側に多いことを知らなければなりません。これを汚してはなりません。夜も昼も天地にひざまずいて、「どうかどうかけんかをせず、怨讐視するな」と祈祷している先祖がいて、日本の国があり、韓国の国があることを忘れてはなりません。(「アーメン」) この者たち、後でそのような言葉だけあってみなさい。今後そのような言葉を残す人は、ここ長竿のようなもの多いでしょう? ここに毎月一人ずつ逆に刺し通す記念行事をしてはどうでしょうか? 定めればやるのでしょう。それで、定めますか? (「はい」)。定めれば本当にやるのですよ。(笑い)それはそのときになって考えることにしてですね。まだ相対も決定しなかったのに、それを定めておけば皆、逃げるではないですか? (「いいえ」) 韓国は、何国家ですって? (「アダム国家です」)。日本は、何国家ですって? (「エバ国家です」)。「アダム」とはですね。「あー、垣根(ダム)が高い」という意味です。(笑い)それで、韓国では垣根が高くて超えられないのです。今からは垣根を壊さなければなりません。今からは垣根をなくさなければなりません。中国共産党主席の名前が小平でしょう? 小平ではなく、大平にならなければなりません。小平ならばどうなりますか? 大平にならなければならないでしょう。(笑い)高く上がっていき、大きくなって平らになれば一つになるのです。ですから中国のようなところで……。「やあ、天使長がそれを知っていますね。アダムが行くことのできる大平をまねて、小平としたことを見れば、それでなければならないでしょう! 下にあるから小平でしょう。小平は、大平が出てくるときは、侍らなくてはなりません。それはメシヤが来れば侍れということなのです。中国がそうすることのできる可能性が多いのです。(拍手) 結婚相手を迎えるのをメシヤを迎えるように行いなさい さあ、これから写真で結婚させてあげようと思いますが、きょうは、記録を破るのです。男性は女性を見ることができないし、女性は男性を見ることができません。なぜですか? 先生は、男性にもなり、女性にもなります。先生信じて……。復帰時代においてその主人がだれかというと、女性の主人もわたしであり、男性の主人もわたしです。ですから、女性は、わたししか男性を見ることができないし、男性たちはわたししか女性を見ることができないのです。女性だって、何、それは霊的です。あなたたちは、実体的なので見えていいですか? 相対たちは霊的です、一段階高いために。そのように思って写真で会ったことを、この地上にメシヤを迎えるために六千年間準備して「ああ、主よ、来たりませ。切に切に……」と思いなさい。皆さんスンドおばあさんが懇切に祈祷する声を聞いたことがありますか? 腰が切れるぐらい「懇ー」。これ十年も行きます。「切」の字が五百年後に聞こえるかもしれません。そのように懇切に祈祷する、そのように願った願いのときを迎えるかのように考えなければなりません。そうでなければ、脱線します。事故が起きるのです。そうなれば、一族が滅びるのです。 これを脅迫だと考えないでください。霊界に行ってみなさい。霊界を知らないからそうなのであって、これよりもっと恐ろしい背後が待っているのです。そのようなことをすべて知っているので、先生が孤独単身、今まで闘ってきたのです。そのような意味では先生を尊敬しなくてはならないでしょう? (「はい」)。それは皆、わたしのためなのではありません。皆さんのためなのです。関係もないこの者たち。ああ、鳥のひなたちは、触ればかわいくもあるでしょう。ぎゅっとやれば、ぎゃっといって、そのようにするなとかするのであって、これはそれでも目をこのようにしてですね。みっともない連中です。そのように思って、これから始めましょう。うん? (「はい」)。(拍手) この灯を消しなさい。ビデオの照明だとか、灯をちょっと消しなさい。もう写真は皆、撮ったでしょう? 皆、消しなさい。もう消してもかまいません。 年齢の行った人を先に決定しましょうか、年齢の若い人を先に決定しましょうか? (「年齢の行った人です」)。年齢の行った人? (「はい」)。何歳から? (いろいろと答える)それでは、男性の年齢の行った人は、女性の若い人として。(笑い)そのようにすれば一番公平なのではないですか? (爆笑)また、女性の年齢の行った人は、男性の若い人と……。年齢の行った女性は、老いたことだけでも哀れでもの悲しいのに、夫まで老いた人を迎えなくてはなりませんか? (笑い)年齢の行った女性は、若い男性。(笑い)ああ、皆さんが願えばそのようにすれば一番いいではないですか? 男性は、年齢のいった順番どおりに四十歳、三十九歳、三十八歳……。このように二十二歳までずーっと立って、女性は、逆にここから、四十歳からずーっと立つのです。そうして、「さあ、前に行って捕まえて!」といえば、いいでしょう。(笑い、拍手) それでも先生がしていることに調和がついて回るのです。何の話か分かりますか? (「はい」)。先生が話すことは、話すとおりになるのです。そういうことが分かるでしょう? (「はい」)。今回、統一国開天日を宣布して「統一教会復帰摂理の転換期が来た!」と言えば、回るのです、見ていてごらんなさい。 いいときを迎えたから、このようになることによって皆さんの先祖を解怨するのです。感謝する心と怨讐を愛する心を持って……。神様がいかなるおかたなのか分かるでしょう? 怨讐を愛する神様の深い心情と同化できる立場に立てば、願うことで成されないことがありません。 同じです。先生もそのような境地で、神様の心情圏を持って生きるので、わたしが願うことを神様があまりにもよく知っています、わたしよりもっと。願うことを祈祷する必要もありません。わたしは願うことは一言の祈祷もしません。しませんが、すでにときが知っています。何かのときが来たといえば「きょう、私が祈祷します。神様、私はここをさっと走り渡ります。私はこのように行きます」と言えば、その一言で超えて立つのです。平面的に成していきます。このように深いゴールをおいてするのではありません。一歩ずつ間に行く……。ですから祈祷をしません。 そこ、門ちょっと開けましょう。開きましたか? (「はい」)。横の門を皆、開き、横にある荷物すべて頭にあります。(笑い)そうでなくするなら、下ろしておいてお尻に敷いて座りなさい。自分の祝福を受けるとき、便利に。それこそ顔がよく見えるから、よい相対を選んであげるから尻に敷きなさい。ここはなぜまだ開きません? 外は皆、開きました。人々が多くて暑いのか、部屋が悪くて暑いのか? 「人が多くてです」日が暑くて暑いのですか? 下半身は涼しいのに、汗が出ます。 さあ、静かに! きょう誕生日の人、手を挙げてごらんなさい。(拍手)このように多くの人の中で一人もいないのですか? (「ここにいます」)。(拍手)座りなさい。座って。だれがだれなのか分かりますか? だれですか? 手を挙げてごらんなさい。君、日本人ですか、韓国人ですか? (「日本人です」〔男性〕)。君は? (「韓国人です」〔女性〕)。出てきなさい。(歓呼。拍手)なぜ笑いますか? お母様とお父様も誕生日が同じではないですか? (「ここにまたいます」)。その者は、偽物かもしれません。今、出てきた者は、偽物かもしれないので信じません。わたしは見ませんでした。君、何歳ですか? (「三十二歳です」)。出てきなさい。出てきなさい。 なぜこのように騒ぎますか? (笑い)騒げばわたしが下りていきます。下っていって、ソウルに行って中国料理でも食べて、何日後に来たいときに来るのです。どれ、見ましょう。めがね外しなさい。ああ、美人ですね! 何歳ですか? (「二十八です」)。君は、何歳? (「三十二」)。さあ! (歓呼。拍手)よく合いそうです。 これからは、決まった人は、二人であそこに行って、先生がどこにいようが、後ろ姿を見ようが、どのようにしようが、あいさつするのです、ここに出てこずに。妨害になります。何の話か、分かりましたか? (「はい」)。そのように定めればまたそのようにするのではないですか? 分かりますか? ああ! 美人たちが多い。(笑い)見なさい。美人たちが多いではないですか? どれほどどれほど美しいですか! やあ、この者たち。あなたたちが日本に行って、妻をめとるといって、あらゆることをして全国回っても一人の女性も捕まえてくることができません。何の話か分かりましたか? 先生が皆、捕まえておいて結んであげるので、かぼちゃがようやく転がってきましたか? 根っこごと転がってきたというのです。生活水準で見ても何で見ても、韓国よりよくないですか? 先生が韓国に生まれたからであって、日本人が韓国を考えたりすると思いますか? そうでしょう? (「はい」) きょう、ここに初めて来た人、手を挙げてごらんなさい。きょう、ここの一和に初めて来た人たち。ここが何をする所ですか? (「メッコールをつくる所です」)。メッコールを売ってみましたか? (「はい」)。今、皆さんは、結婚すれば三年、三年半の間は、家にも入れません。メッコールだけ食べて、メッコールを着て、メッコールの枕をして、メッコールを敷いて寝なければなりません。(笑い、拍手)そのようにしますか? (「はい」)。(以後日本語で七分余り語られる) 過ぎし過誤はすべて忘れ、十倍百倍愛そうという心を持つ 今、わたしが何の話をしましたか? ここには、童男(童貞の男)、童女(童貞の女)、純情をもった男性と女性たちが集まっているというのです。彼らを中心として考えれば、彼らは、彼ら同士で結んであげなければなりません。違いますか? ところが、それ以外に、がらくたのようなものたちが多いのです。サタンが全部……。がらくたたちが多いというのです。これを論じ始めたら……。(だれか が扇風機をつけてさしあげる)それは。だめです。遠くに持っていって、全体に扇風機を回しなさい。それを論じ始めたら結婚という表題を掲げることができないというのです。原理を知っている先生として、することができないというのです。けれども、天国の憲法がどうだということを知っているけれど、天国を中心として、憲法が宣布されなかったというのです。それゆえ、それをよく知っていても、それが発表され絶対的基準が成立しないときには、それを黙認することも可能だということです。そのような条件があるので祝福が可能ですが、それをどうのこうのと話そうという立場に立つときには、結婚という、祝福という話をすることができないということを知らなければなりません。分かりましたか? (「はい」)。うん? (「はい」) ですから今日から過ぎしすべてのことを忘れてしまえというのです。忘れてしまわないけれど、赦してあげるのです。赦してあげる雅量を持つのです。その代わり、そのような過去があるとするなら、今後、自分の夫を三倍、五倍愛するという心、さらには、十倍、百倍愛するという心を持たなければなりません。 男性たちに引きずられてやられた人など、あらゆる事情が皆、あるはずです。しかしそれを聞かないことにしましょう。その代わりそのような経験がある人たち……。そして男性たちもいることでしょう。歩き回りながら、においかいだ者たちがいることでしょう。サタンの僕になって、死亡の糞の棒になって汚すことをしましたが、今み旨の前における祝福を受けるには、自分自らその何千倍愛する心を持って妻を愛し、父になろうといって、天が尋ねて賞を与え、称賛できる標本を残そうと、忠誠ある夫の道理を果たそうと考えなければなりません。分かりましたか? (「はい」) これは大変なことなのです。これを清算することが大変なのです。これを清算する前には、一双も結婚できません。さっき先生が言ったように。先生がこの道を守るのがどれほど難しいかしれないのです。先生も過去に付いてまわる女性が本当に多かったのです。わたしはそのような道を行かないようにしたのに、そうなのです。あるときは映画館のようなところに行けば、おばさんたちが先生の手を握るのです。われ知らず握ったというのです。ですから、それをどうしますか? 「これは何ですか? おばさんがなぜ他人の若者の手を握りますか?」と言うと、「われ知らずに握りました」と言うのです。大概そうなのです。そのようなことが多いのです。日本に行っているときにもそうだったのです。けれども、自分の節操を尊重視する男です。歴史的に……。それを知らなければなりません。 そのような基台の上に天が立てることができる新しい伝統的血統的基本を定着させたという事実を知って、そこから流れ出てくる生命の血統を汚す群れになってはいけないというのです。それは悪党よりひどい人だというのです。サタンの後継者になってはいけないのです。分かりましたか? (「はい」)。サタンは、長成級の父母の体を捨てましたが、この時代に完成級の父母の体を捨てれば、サタンがサタン視する恐ろしい永遠の世界の原則が待っているという事実を知って、自ら自重しながら自分の行く道を妻とともに躊躇なく協力して分別していかなければなりません。分かりましたか? (「はい」) 縦的な真の愛の父母、横的な真の愛の父母 そして、今後皆さんが夫婦になれば、夫婦になったその男性なら男性、女性なら女性が自分のものではありません。自分のものである前に真の父母のものです。真の父母のものである前に神様のものです。なぜですか? そのように始まったのです。 わたしが今回入って話しましたが、ここに初めて来た人もいるようなので話します。神様がだれかというとき、神様は縦的な真の父母です。真の愛を中心とした縦的な真の父母の位置に立っているおかたが神様です。 これ少しどけなさい、回しなさい、行ったり来たりするように。(扇風機を指されながら)わたしはそれが嫌いです、頭が痛くなります。前には暑くて、そうなれば頭が痛いのです。それをもっと行ったり来たりさせなさい。分かりましたか? 回転するようにしなさい。 神様は、何ですって? 「縦的な真の父母」真の愛を中心とした縦的な真の父母の位置にいるおかたが創造主です。既成神学では創造主は神聖であり、被造物は、俗なるものだといいます。被造物を罪人扱いしました。しかしそれは誤って考えているのです。神様が創造をなぜしたかと言えば、愛のためにしたのです。分かりましたか? (「はい」)。神様が縦的な愛の主人ならば、縦的な愛だけではこれは一点にしかなりません。一点しかないことになるのです。縦的な神様の愛をもったそのおかたが子を生んでも、長く一筋にしかならないというのです。 これをいかに横的に展開させるか? それゆえ、赤ん坊を生むのは、神様が生むのではありません。真の父母を通じて生むのです。横的な真の愛の父母の位置に立ったそのおかたがだれかと言えば、今日の統一教会で言う真の父母です。神様の前に、縦的な愛を中心とした真の父母の前に、九十度を備えた横的な愛をもったおかたが真の父母なのです。それゆえ、二人の父母の愛が必要なのです。一人のおかたは創造主である父母であり、一人のおかたは被造物の、神様の対象として理想を描きながらつくられた体的な父母です。それゆえ、神様は心的な父母の位置にいて、真の父母は何の父母の位置に? (「体的な位置です」)。体的な父母の位置にいます。このように縦的な愛と横的な愛を中心として、生まれるべきなのが人間でした。 皆さんもこれに似なければならないので、縦的な愛に自由に似るようにするために「縦的な私」があります。それが心です。分かりましたか? (「はい」)。心が何ですか? 今まで心を知りませんでした。仏教でも心を知りません。しかし統一教会では心を知っています。神様の創造理想を通して縦的な愛の前に横的な愛を中心として、それから前後の愛、球形的な理想を描いてこそ、東西南北に通じる力の消耗がなく、いつ作動してもよく、悪いことがないというのです。相反がないというのです。 永遠な夫妻になろうとするなら この道は皆、同じです。このように行こうが、このように行こうが、相反がないというのです。ここ、この核の位置が中央点なのです。それゆえ、神様は、アダムとエバの真ん中に入っているようになっています。それで、原理でいう主体と対象が完全に授け受けするところには、中心部が生まれるようになっているというのです。その中心部は、核です。核が長く行くことができる永遠な核になれば、夫妻は、永遠の夫妻になるのです。それと同じように、真の愛を中心として見れば、神様は絶対的なおかたですが、その絶対的な神様が最高に喜ぶ真の愛を中心として、その核の位置に立っているその愛は、永遠なものであることは言うまでもないのです。その永遠な愛の対象の位置につくられるので、その真の愛を中心として、永生の概念を理論化させることができるのです。何の話か分かりましたか、皆さん? (「はい」)。何の話か分かりますか、先生の話すことを? (「はい!」) 永生ということがどのようにして永生するのでしょうか? 神様の愛の対象を引き継いだので、これが縦的、横的に切ることのできない二つの……。これが、結ばれたその核の位置において愛が定着すべき内容をおいてみるとき、神様が永生するので、その愛を中心としてつくられたアダムとエバも永生しなければならないということは、理論的だというのです。分かりましたか、何の話か? 私たち人間は、それだけの価値があるのです。それを皆さんが分からなければなりません。うん? (「はい」) 皆さんの心は、すでに本来の神様の真の愛が垂直になっていて、堕落しなければこの横的な真の父母の愛は、水平線でいつも角度が合うようになっています。これをぴたっと付けておけば、分かつ者がありません。そうではないですか? これを離す者がないのです。神様の愛を中心として、理想的な立場に結託して一つになったものを、だれが離すことができますか? 神様でさえもその愛を崇拝するのです。真の父母でさえもその愛に支配を受けようとするのです。愛を支配しようとはしません。それを知らなければなりません。神様も愛のために創造したのです。分かったでしょう? (「はい」) その愛は、どのような愛でしょうか? その愛を創造したところにおいては、神様を中心としてつくったのではありません。神様がもし愛を九十パーセントだけ投入したとするなら、十パーセントは残っているので、十パーセントが残されたその愛に、人間は感謝しません。分かりましたか? 皆さん心もそうでしょう? 結婚して生きるようになれば、夫に一言だけ聞いても、「もう」と言いたいのです。「本当にわたしを愛していないのだな」と言うときは、天下が引っ繰り返るのです。 私たち堕落した人間でもそうなのに、堕落していない本然の世界において、人間がそうではないでしょうか? 神様がそれをよくご存じだったので、ご自身にある貴い生命、財産すべてのものを皆、投入したのです。アダムとエバをつくるのに百パーセント投入したというのです。それゆえ、神様が創造を始めたその日から「わたしは今までわたしのために生きたが、今からはあなたたちのために生きる。わたしが存在するのは、あなたたちを喜ばせるためにある」と言われるのです。父母の立場はそれです。ですから、父母がいいのです。分かりましたか? (「はい」)。それゆえ、百パーセント投入するところから……。(録音が少しの間中断) 完全投入で創造が始まった それゆえ、私たち人間もその世界に入っていくためには、出発と過程と目的点を通さなくてはなりません。目的がここに反対に行けば、目的を通して過程を通して、経ていかなければならなくて、ここから出てこようとするなら、ここに出てきて出発し、結実になり回って入っていかなければならず、このようになるようになっているのです。道が一つしかないために、私たち人間は真の愛の結実を成さなければならないのです。 その結実を成し遂げたその位置が何かというと、神様が創造したスタートの位置です。そのような位置に立った者にならなければなりません。それゆえ、すべての神様のエキスを完全に受けて、もった完全な結実になり、未来の存在としてささげられなければならないというのです。それが神様の願いです、分かりましたか? (「はい」) それゆえ、人を創造したのは、神様のためにつくらなかった、アダムとエバのためにつくったというのです。驚くべき事実なのです。なぜですか? 愛は、私からは来ません。相対から来るので、愛を中心として、絶対的な神様、絶対的な真の父母がその愛の前に主管を受けようとした、その位置だということは、より高い絶対的位置に立っているので、それより高い愛の理想的絶対価値基準を欽慕しながら、自分を百パーセント、ゼロの位置に立てながら、相対的立場に百パーセント投入し、第二対象をつくったというのです。 例を挙げて話せば、空気は一定ですが、神様の愛を中心としてここにあった愛を向こうに投入したということ、この百パーセント投入したということは何かというと、ここが完全に真空状態になったということです。すべて真空状態になって投入するので、完全に高気圧状態になったので、高気圧圏は自動的に低気圧を通して回って入ってこなければならないというのです。 それはなぜそのような原理的理論を立てたのかといえば、循環法度を長久化させるために、運動を長久化させるために、投入的な思想の概念を先にしたということを知らなければなりません。分かりましたか? (「はい」)。違いますか? ここにもし九十五パーセント……。九十五パーセント残っているために、ここに回って入って来れば、九十パーセントに削減します、また一周回って入って来れば八十パーセントに削減します。それで、真の愛を投入すれば投入するほど、それが出力よりも……。出力と入力を見るとき、入力が出力より大きいのが、今日、科学世界の理論ですが、愛の世界の理論は、入力よりも出力が大きいというのです。 世の中は、均衡を取っているので、消耗する生活圏内にわたしたちが必要とするものは愛です。これがなくては均衡を取れないので、幼くとも愛、大きくなっても愛、愛で生まれて愛で食べ、愛で生きながら愛の道を行って、愛の世界へ逝くのです、もう何の話か分かりましたか? まあ、このような話が分かるかどうかは分かりませんね。 それで、統一教会の「ために生きろ」という哲学、「ために生きる」哲学の論理というものは、現れた現象ではありません。根本を暴いたのです。では、統一原理をどこから導き出したのでしょうか、統一の原理を? この世が統一されるためには、どのように統一されるでしょうか? 自分を中心として、「ために生きろ」という概念が始まるところには絶対統一がありません。相手のために動くようにつくられたこの世で、自分を中心として動かそうと主張するのが悪魔です。 悪魔のその血統を受けて、そのような世界を捨てて個人主義に落ち、享楽から永遠な天国理想を埋葬してしまうことが現実、二十世紀の終端文化圏世界です。これをけ飛ばし、愛することのできる復活の道は神様のように再創造の世界に向かって能力を投入できる……。 愛の理想世界を私に与えないで、世界を超えて無限な価値の相対圏に完全に投入し、その投入した相対的価値が私に向かって自然に循環するようになるとき、私の価値も平準になり永遠に存続するという、その理論のもとでのみ統一理論の勃発が、スタートが可能なのです、分かりましたか? (「はい」) このような論理を立ててあげてこそ……。皆さん結婚するでしょう? 結婚すれば男性も女性も、一番訪ねていくものが何かと言えば神様の愛です。真のご父母様を愛することです。どちらの面を通じて? 真のプラスは、真のマイナスを創造すると言うでしょう、原理に? 真のプラスは、真のマイナスを創造します。それはどのように創造するでしょうか? 完全投入して。完全投入すれば相対が現れるようになっています。そのような原則で、皆さん夫婦が結婚生活を今からしながら、考えるに……。神様を、先生をだれが先に、先生の愛をだれが先に受けるかという闘いが起きるのです。女性は、自分が先に受けようと、自分を考えたなら大変なことになります、男性は自分が先に受けなければならないと、このような概念をもったら大変なことになるのです。 神側は、それが違います。二人の創造的理想は神様が投入するのを、互いにために生きることができる概念で出発したのですが……。皆さんが自分のために生きる概念を持てば、それは相反するのです。プラスとプラス同士は反発するのです。分かりましたか? (「はい」)。何の話か分かりましたか? それで、問題になります。神様自身がアダムとエバに対するのに、自分のために対するのではありません。あなたのために対する。愛するにおいては自分のためにするのではありません。「あなたたちを完成させるために、あなたたちのためにする」というのです。その表題が、出発がそれです。 それゆえ、「アダムとエバが神様のために愛することは罪ではない、いつでも愛し合いなさい」というのです。ところが、人々は、自分を主張すれば問題が大きくなるのに、夫が考えるに「ああ、エバが神様の愛を先に受けてはいけない」と言い、エバは、「ああ、アダムが神様の愛を先に受けてはいけない」と言うのです。違います。 そうであっては問題が起こるので、ために生きる論理において、私が神様の愛を先に受けようとするのは、あなたを完成させるためである、これです、出発点が。私を満足させるためではありません。「私がこのように先に神様の愛を占領したいのは、あなたを早く完成させるためです」と言わなければならないのです。何の話か分かりましたか? 自分ではありません。この「ために生きる」哲学が、神様がアダムとエバを一番価値的な存在として先に立てたという概念とぴたっと同じなのです。 それゆえ、私が先に貴いものを持とうというのは、エバを喜ばせるためであり、エバを満足させるためです。それによって、私は私自身も取り戻し、私も完成して……。愛で完成するでしょう? エバも完成させ、神様まで完成させることができるというのです。自分を主張したなら、自分自身も失い、エバも失い、神様とも永遠の別れになるのです。統一原理の理論的根拠をここから知らなければなりません。分かりましたか? (「はい」) では、既成教会、反対するその教会をどのように統一するのでしょうか? 反対するのよりも、もっと大きくために生きよ! 結論は、簡単なのです。分かりましたか? もっと大きくために生きる者の前に、天地は屈伏しなければ、屈伏しなければしないほど、天は地に強く打ち込むのです。損害賠償を何倍も支払わせ、何倍も強く打ち込むというのです。 怨讐を赦してあげ、愛で対しなさい それゆえ、既成教会が二千年の間に基盤を築いたものを、統一教会が十五年間、世界的に二十年間築いてきたものを反対し、二千年間、これを完全に地に埋葬してしまいました。それで、先生は? 天の側です。ために生きるほうを神様が擁護するので、この思想を信奉して万世に権威ある思想を超え、国家体制を超えて最高の位置にまで前進すべし。(「アーメン」)。本然の万物が願う……。(拍手) その日本が、日本の国もわたしと怨讐でしょう。日本がどれほど怨讐ですか。昔、日本の天皇を捕まえて殺そうと、それを皆、謀議していたのに、わたしは、「やいやい、そんなことはするな。自然に死ぬ時が来る。皆さん、焦るな」と言ったのです。それで、日本人以上にアジアのために生きなさいというのです。分かりましたか? 分かりましたか? 大東亜圏を語っていたでしょう? 日本人以上にアジアのために生きなさいというのです。そうなれば、日本は失ってしまっても、アジアを取り戻すというのです、日本の人はアジアのためには生きないから。日本のために生きろといいます。二つの世界に分かれるのです。何の話か分かりましたか? すてきな理論です。 このような相克した面においての二つ、その内部で一つは強制的に屈伏させようとしますが、一つは彼らのために、未来のために行こうというのです。日本人よりもっと努力しなさい、もっとために生きなさいと。彼らが夜に寝るなら、私たちは夜に寝ずにするなら、アジア世界は私を訪ねてくるのです。 それで、この論理をもって世界平和ができるでしょう。それ以外にはありません。捜してごらんなさい。皆さんが捜し出せるなら、わたしが先に捜したでしょう。これ以外にありません。そのような「ために生きる」哲学、完全投入の起源を創造の出発として、その出発の理想的モットーになったそのモットーは、愛の対象圏であり、愛の前には神様も屈伏するという驚くべき理論的根拠をもったがゆえに、世界統一平和の論理をここから発掘できるのです。分かりましたか? はっきり知らなければなりません。ですからこれ以上にすてきな思想がないのです。 それで、先生がこのように打たれて奪ってきました。神様の作戦は、打たれて奪ってくるものですか? うん? 皆さん、家でもそうではないですか? 父母の前において、兄弟の間で兄さんが、やたらにかわいい弟を父母が特別に愛しもしないのに、同じ愛で愛するのに、これをねたむならば、その父母が「こいつめ、おまえにある財産まで取って、弟にやる」となるでしょう? うん? 蕩減法が適用されるのです。分かりましたか? 同じです。 公的な位置に立ち、公的な立場で打たれる人は、その環境を支配するようになっています。それで、統一教会は、サタン世界に公的な立場で非難されろ、反対されろというのです。それで、反対されることは、サタン世界の所有物を伝授できる作戦法です。それゆえ、迫害は知ってみると、その場では損害のようですが、十年、数十年後には、何十倍、何百倍の贈り物として帰ってくるというのです。それが統一教会の先生を中心として、世界史的な基準で、如実に証したものであることを、否定する道理がない理想論理になっているのです。お分かりですか? (「はい」)。分かりましたか、分かりませんか? (「分かりました」) それで、日本人は、韓国人よりもっと愛さなければなりません。もっと愛したのです。わたしが監獄に入って、出てくるとき、日本の人たち、その刑事たちは皆、……。そのとき、日本のその何の姓ですか? 馬何々というそのような姓があるでしょう? それは、まれな姓です。この刑事部長のやつになり、わたしを煩わし、ばかげたことをするのです。わたしがほうっておいたなら、それは皆、死ぬのです、それは。その課長たち、それはわたしが皆、防御し、措置をしてあげたのです。 怨讐を愛で、彼らを赦してあげ、愛で彼らを解放させたので、その一族は、先生にその代価を返さなければなりません。それで、先生のために首を差し出して、死のうと……。こうすることのできる日本の国民が生まれたのも、そこからです。何の話か分かりましたか? (「はい」)。わたしが言えば、A級戦犯として完全に死ぬのです。それを皆、送ってあげ、日本に送り返したのです。それが偉大なのです。分かりましたか? (「はい」) それが、皆さんが今、日本の人たちがここに来て、韓国になぜ来ますか、韓国に? 返してあげるのです。分かりましたか? 四十年を過ぎて、これがこのように国家的に返すことができる、日本民族を代表した若者たちが国を背景として、韓国を訪ねてきて、血を皆、受け継ごうと言うことのできる、このような時代にまでなったのですが、何がこのようにしたのかと言えば、神様の愛です。 先生が教えてあげた理論的思想体制内において、それが正道に従う結果によって、このようなことが起こるのです。それで、植えなければなりません。それで、刈り取るのです。 日本でも先生が……。日本もよく知っています。先生は字もうまいし、あらゆることがうまいです。してみなかったことがありません、日本で。門下生もしてみたし、先生もしてみたし、ご飯も恵んでもらったり、だだをこねてみたし、わざと。日本の人たちのお金持ちの家に行って、下宿してだだをこねてみたり、わざと。家の中はどうか、根本を探り出してみよう、嫌だというのも、皆、……。日本がこのような国だなあと。 先に打てば滅びるようになっている そのとき、日本人たちが先生をたくさん冷遇したのです。韓国人といえば門前に入るようになると、韓国人がここから出て行きもしなかったのに、中のふしどの門を閉めて、あいさつもせずに、行ってしまうのです。そのような国を愛さなければならないというのです。その貧民群、日本の政府が皆、犬のように、犬の糞のように捨てた者たちを、皆、抱いて愛さなければならないというのです。 皆さんがそれを、今韓国に来てしなければなりません、分かりましたか? 道に立つ女、乞食のような連中、かわいそうな、ごみ箱のような者を皆愛し、天に連れていくべき同族として愛することのできる日本人が……。天国に入ることのできる国家的基盤が日本国には開きません。それで、そのことを今、始めるのです。分かりましたか? 分かりましたか、何の話か? (「はい」) 難しいと不平は言えません。二十四時間寝られないといって、出て行って……。離れることはできないという事実を知らなければなりません。先生が家を離れればどうなるでしょうか? それゆえ、神様の作戦は、打たれて何ですって? (「奪ってくるのです」)。悪魔は? 打って失うのです。それゆえ、一次大戦も打ったやつ、二次大戦も打ったやつ、三次も思想的に打ったやつ、共産党が滅びて……。既成教会と統一教会をおいてみるとき、だれが打ちましたか? 統一教会が打ちましたか、既成教会が打ちましたか? (「既成教会です」)。それで、この前にときが皆、来たので、「やあ、こいつら、打つな!」というのです。今から打ったら、雷が起こるというのです。 今からは潮水が張り合ったので、このように流れません。反対に流れるのです。分かりましたか? 水平が反対に流れるときに来たというのです。このようなときを中心として……。ですから西洋、今まで日本の人々が西洋を追求してきたでしょう? 西洋といえば、言葉も皆、なっていない発音をして、英語で……。ああ、そうしてあらゆる言葉を皆、使うではないですか? 西洋崇拝の怪物が日本の人たちです。その代わり一番近い国である韓国を一番嫌いました。それは知っていますか? それで、この前にもそうではないですか? 一八〇〇組の結婚のときにも、「ああ、あなたたち、行って黒人と結婚するならしていいが、絶対に韓国人とはするな」と言ったのです。うん? 父母たちが訓示したそのような話をわたしが皆、報告を聞いています。(以後日本語で少し語られる) ああ、何もしなくて、わたしは休めばいいです。(笑い、拍手)なぜそうなのかというと、先生の心が、先生の心がぷうっと浮かなければならないのです。何の話か分かりましたか? 無理にすればよくありません。心がぷうっと浮かんでこそ、ここにさっと見ればすでに光が来て、あそこにだれがいるなということが、すっと見えます。あの遠くのところでくるくるくるくるして、ここに来てさっと現れるのです。ここにいる悪い人は、くるくるっと振り返り、いなくなります。それ、いなくなるのは、悪いものです。 先生、目がおかしいでしょう? 気分がそうです、さっと見れば。「あの女はだめだな……」というのです。それゆえ、無駄口をたたかずについて行けというのです。分かりましたか、分かりませんか? (「分かりました」)。もうこれ以上話さなくてもいいですか? (「はい」)。百二十点ですか? (「はい」)。女性たち? (「はい」)。(拍手) ああ、わたしが女性たちにどれほどたくさんだまされたかしりません。(笑い)ただ女性、女性は本当に恐ろしいです。女性にたくさんだまされました。今でも信じることができません。わたしがあの興南監獄に入っていくとき、ついて来る女性も多かったのです。先生のためなら、天上で、死ぬとすれば、また再臨復活し、蘇生し、何代を生きても、先生のために所願成就をする女性だと、花ならば百合の花になり、花ならばバラの花であってかぼちゃの花ではありません、とどれほど……。そのような女性がいたでしょうか、いなかったでしょうか? 純真な先生は、それを百パーセント信じました、信じてみたら国が亡びるようになったというのです。 信じるのが罪ですか、信じないのが罪ですか? (「信じないのが罪です」)。信じないのが罪です。そうなのです。その人たちは皆、統一教会を利用し、先生を利用しようとしましたが、皆、亡くなってしまい、利用された文先生は、依然として残って、天下に対して号令できる高い位置に上がっているのです。そうでしょう? ですからわたしの話を聞かなければなりませんか、聞いてはなりませんか? (「聞かなければなりません」) 自分の欲望で相対を探してはいけない わたしが今から結婚させるときは、どのようにするでしょうか? 顔がお金のように平たくて小判のような女性は、平たくてお金のような男性に出会えばそれは何になるでしょうか? お金のような男性、平たい女性が生まれるのでそれは使い物になりません、使い物になりません。そのようなときは反対です、後ろが出て、前が出て、見た目が忌まわしい斧の頭で、ハンマーの頭のように忌まわしい人……。鼻もにょきっとしなければならないし、その代わり口も目立たなければなりません。 では、自分たちとしては理想であった男性格ではありません。八十パーセントが違うはずです。がっかりするでしょう? がっかりしてもしかたありません。皆さんもいいというものは、八十パーセントは滅びるのです。友人と間違ってつき合ったら、車に乗って行くようになれば、監獄に行くようになれば、その監獄の初めから同伴者になり、連累者になり、同じ型で生きるでしょう? 同じ道理であることを知らなければなりません。結婚を誤れば一家が滅びます、一家が。 見れば、人は衰運にある人、下降運にある人がいます。女性も男性も同じです。男性も女性も上がっていく運勢に……。それは同じです。それゆえ、世界は、水平線を中心として、高く上がっていくときと下りていくときがあります。それでは、これをどうしなければならないかと言えば、これは高いものは置いておき、低いものを持ってきてこのように合わせなければなりません。これで一つにして、これが長く延長されなければならないのです。未来に下りていくことのできる道をつくってあげなければならないのです。 その未来というものは、統一教会で言うなら、復帰摂理の限界線を超えるのです。それゆえ、わたしたちは関係ないと見るのです。先生はそのように見るのです。何の話か分かりましたか? (「はい」)。ですから先生がやれというとおりにしないで結婚した三十六家庭、七十二家庭、百二十家庭、四百三十家庭を皆、わたしが見てみると、全部悪いのです。病身にならなかったなら……。息子、娘を見れば顔がゆがんでいます。病身、皆、みっともないです。それは恐ろしいのです。 因果原則は、厳然たる法則です。それを原因と結果を円満にさせようというのが先生のみ旨です。それで、統一教会の後孫が顔形が整っていなければなりませんか、優秀でなければなりませんか、劣らなければなりませんか? (「優秀でなければなりません」)。今の時代は、これ、劣っていますが、後代だけは優秀でなければなりません。それが先祖が願う願いであって、一家を率いる責任者とその父母たちが願う願いです。ここに来て結婚し……。滅びるために送った人はいないのです。わたしがよく知っています。 そうなれば、十年後、二十年後に、何十年後に繁栄するはずです。ある人は、五年後に繁栄する人もいるでしょうが、五年後に繁栄する人は、一つの面を支配する人……。十年後に、百年後に発展するようになれば、一国を支配するとすれば、どちらを我慢して待ちますか? 一つの面を先に見いだしますか、一国を先に見いだしますか? これが問題です。どちらですか? 一国です、一国。もっといいものは、長く待たなければなりません。 それで、先生は今現在、祈祷をしません。この複雑な皆さん、数千人の生命にわたしが責任を負ったのです。そうではないですか? この後孫が誤るようになれば……。先生の意図、計略によってしたなら、霊界に行って黙っているでしょうか? 先祖がただたいまつを持ってデモするのです。後孫が千秋をかけて……。皆、分かります。 ですから、原則をもって対するのです。原則をもって対するにもかかわらず、原則どおりにしないものは、わたしは責任を負いません。責任を負えといっても、負えないのです。原則でやったときは、終わりまで……。皆さんが死んで皆さんの子孫もその原則に従うときは、永遠をおいて責任を負うことのできる立場で立ちますが、そうでないときは、それで終わるのです。 それで、前例から見て……。自分の欲望を求めていった人は、皆、滅びます。三十六家庭もそのような連中が多いです。わたしは話しませんが。うん? 自分の欲だけ張っていれば……。先生は、すでに過去にだれが何をしたかということが皆、分かります。絶対忘れません。間違えば間違ったことを清算し、このような問題に、息子、娘すべて祝福当時に見るとき、皆、比較するのです。選別するのです。 この先生がそのように頭が悪くないのです。一度記憶をすればコンピューターのようです。先生に記憶されるこのようなこと、原理原則に外れるこのような……。記憶されるようになれば、それはそれで終わるということでしょう。そのように思って、過ぎ去ったこととする場合には、先生の気分を良くしてください、はい? (「はい」)。(拍手) それで、わたしが昨夜から、昨夜からわたしがこれを、何日間か、ずーっと一週間前からすでに準備してきたのです。深刻だというのです。皆さんよりもっと深刻です。父母が子女たちの配偶者を結んであげるのに、どれほど深刻かというのです。もしかしたら誤るかもしれないと思って、深刻だというのです。それゆえ、天の前にすべてゆだねて……。 さあ、目をつぶってやりますから……。それ、考えてみてください、目をつぶって。それでも、皆、りっぱにしっくり合うと思うのが先生だというのです、目をつぶってしても。それは目、手ならば手が、先生の手が先生の手ではありません。天が直接役事するのです。(日本語で少しの間み言を語られる)(婚約準備しながら整頓なさる) 先輩たちの精神を投入し、後輩たちの基盤を築いてあげ やあ、これ、本当に男性たちはハンサムですね。(笑い)違いますか? 日本で一番優秀な、優れた男性たちです。統一教会にいる人々は、家庭に運がなければなりません。韓国に行って合う運を持たなくては……。ほとんど韓国人です、これが。先生はそのように思っているのです。八十パーセントが皆、韓国人です。わたしたちの尊属を捜さなければならないでしょう。そうなのです。今はもう日本……。わたしたちの先祖は、韓国なのです。 しゃべっている人たちは、横でハンカチを取り出して口をふさぎなさい! 皆さんがおしゃべりするようにはなっていないではないですか。じっとしていなさい、死んだように。ハンカチを皆、取り出していなさい。取り出して、横でおしゃべりしたらやめさせなさい。なぜ騒ぎますか? 事務処理が……。今、八時ですが、夕方も食べずに片づけてしまわなければなりません。命懸けなのです。祝宴の日には、お客さんが訪れれば、皆、夜を明かして、その翌日をすべて使って祝宴しなければなりません。わたしがメッコール一本ずつ皆、分けてあげましょうか? (「はい」)。かまいません。二千ボックス分け与えましょう。分けてあげて、私たちの先生が婚約の贈り物としてこれを一つくれたのですが、婚約対象者は、霊界にいる人なので、来ないで、写真で代わりに訪ねてきたので、りっぱな男性だと……。 皆、日本の大学出身です。日本のその東大出身だとか日本の国立大学出身は、日本政府が皆、掌管できるそのネームバリューがすべてくっついているのです。 そしてまた、わたしが中国語……。ここに来ては五年間韓国に来ています。二年間皆さんの家に行って暮らしながら……。食べさせてあげなければなりませんか? 妻がもうけて食べさせなければなりません。その品目は何でしょうか? メッコールを売ります。その次は新聞配達、その次は消費組合、それで、その生活基盤を築いてあげようと思います。これさえ築く日には、今後、何十万の日本の人々が結婚して来ても、生活問題は問題ないのです。この基盤をどんなことをしてでも築かなければなりません。先輩たちの精神を投入し、私たち後輩たちの基盤を築くことのできる責任を負い……。わたしたちの一生を投入しなければならないのです。それは三年だけすれば、十分、三年だけすれば十分に築かれるようになると見るのです。 新聞社は、一年半内に東亜日報、朝鮮日報を撃破できなければだめです。(「アーメン」)。(拍手)それで、韓日合同です、韓日。韓日合同して神様の御名で……。(「アーメン」)。日本の先祖を動員し、日本人を動員して、ソウルでたいまつを掲げて、日本が皆、感嘆し、韓国が感嘆できる問題を起こさなければならないのです。善意の問題なのです。 それで、金日成に南北三八度線を開いて……。それで、希望を持って一度やってみるのです。それゆえ、わたしが静かに見ると、皆さんが見ると、ああ、これ、ねたみが生じるのです。この者たち、わたしが苦労し、あの見たくないものを集めて、福のふろしきを分け与えることを考えると、胸がずきずきするのです。皆さん、日本の男性たち、あの大学を卒業し、そのような男性をどこに行って捕まえると思いますか? どれ、君、名前は何ですか? (姜ヨンファです)。姜ヨンファ、だれの娘です? お父さんとお母さん、教会に来ますか? (「来ません」)。兄さんも来なくて? (「姉さんが来ます」)。姉さん? (「はい」)。そのお姉さん、祝福を受けたこと、そのお姉さんの夫に対して、皆、喜びますか? (「はい」)。皆、喜ぶでしょう、統一教会の食口のような男性がどこにいますか? いないでしょう? それを知っていますか? 統一教会の男性食口のような男性はいないのです。 平和の世界は、五色人種が一つになってこそ そうなれば、君は追い出されないでしょうね? (「はい、許可をもらいました」)。日本の男性でもかまわないと? (「はい」)。では、黒人を一つもらってあげましょう。黒人はどうです、黒人? 黒人も兄弟ではないですか? (「お父様がしてくださるなら……」)。六千年間別れてアフリカで暮らしてみると黒人になったのであって。宗旨が違いますか? アジア人、あなたたちよりもっとりっぱな男性が多いのに……。皆、そうなのです。黒人は悪いのではありません。情を寄せれば、黒人と暮らす面白みはもっと刺激的なのです。もっとために生きて、そうなのです。 この日本の女性たちを黒人とこの前、五十組ほどしてあげたのですが、皆、わたしに感謝すると言っています。女王のように迎えてくれるというのです、一家が。そうではないですか? 馬のようなものも黒毛があるでしょう? 黒毛が褐色よりももっとすてきなのです。太陽の光が出るときは、きらきらとどれほど……。つやが出て、そこに眉毛も真っ黒く、白目だけ白くて、そのぱちぱちするのが、とても芸術的です。そして、女性が黒人と暮らせば、幸福でくたびれてへとへとになります。そのようなこと知らないでしょう、何の話か? ですから統一教会女性たちは……。 神様は色盲です、神様は。それは何の話か分かりますか? 色を見ようとはしません。真の愛の目は色盲です、色盲。知っていますか? 色盲、知っているでしょう、色盲? (「はい」)。色盲が何ですか? (「色を区別できない……」)。色を見分けられない、神様の目は色盲です。神様は、かえって黒人たちを愛するのです。今、それゆえ、今までこの体育の外的なすべての力の権威をもった人は皆、黒人です。米国選手たちの三分の二が皆、黒人です、金メダルを受けた人。知っていますか? (「はい」)。白人たちは何人にもなりません。これはすでに奪われたことを意味します。 クレネ人のシモンがイエス様の十字架を背負ったでしょう? それで再臨時代、終わりの日の時代においては黒人たちが体力的には、祝福されるときが来るのです。これをよく指導して、精神的に祝福される道さえ開いておけば、白人が問題ではありません。白人を十人使うのよりも、黒人一人使うほうがましなのです。 黒人は、絶対従順です。白人たちは驕慢です。今、本然の国を創建できるあらゆる重要な責任は、黒人たちが負わなければならないとわたしは見るのです。分かりましたか? (「はい」)。イエス様が十字架で亡くなるとき、クレネ人のシモンが十字架を背負い、黒人が行く道を手助けしませんでしたか? その福を受けるのです、主が来るときになったがゆえに。 それで、なぜ黒人世界が……。ボクシングや何かの運動では、陸上やあらゆる面で黒人がなぜ先んじるかと言えば、天国の祝福を体として受けるときであるからです。イエス様を手助けしたように人類の真の父母の受難の道を初めて協助した人は、その人しかないのです。それで、アフリカ時代が今……。すべての運動では今、チャンピオンになります。 これをうまく教えてあげたら、白人よりも黄色人種よりももっと忠誠を尽くす人が多く現れます。涙を流して忠誠を尽くすことのできる人々が黒人たちです。これが、イスラム圏内に入っているのに、これをわたしが垣根を壊すためには、イスラム司祭たちと有名な世界的な大家たちと今、連絡し、この統合運動をしているのです。 それで、平和の世界というものは、黄色人種だけではできないのです。違いますか? 五色人種が一つにならなければならないのです。今、わたしが世界平和の旗手として来たからには、これを祝福という、結婚という問題を中心として、平準化させなくては、世界は谷間に行くようになるでしょう。平地が生まれてこないのです。水平線が現れません。そこには涙の跡が残されるので、そこには水が流れないために腐ります。それは世の中のがんのような基盤になるというのです。 もっと、(写真)持ってきなさい、もっと、これをもっと持ってきなさい。(「はい、分けているところです」)。皆、持ってきなさい。それでこそさっさと早くできるのです。わたしがしろと言うとおりにだけしなさい。 後代を思いながらペアを組んであげる それで、君は、なぜ今まで……。一九六二年度に入って、今までなぜですか? どこかに行っていたのですね、統一教会を捨てて。(「いいえ、終始ポムネッコルにいました」)。うん? (「釜山のポムネッコルにいました」)。ポムネッコルにいましたか? ポムネッコルにいても、皆、嫁に行くときは行かなければならないのではないですか? ポムネッコルを守っていましたか? (「いいえ」)。うん? 君も星回りが悪い女性と思っていますか? うん? 君は、東西南北を歩き回らなければなりません。それを知らなければなりません、東西南北。君が定着して暮らせば、周辺にいる人が病気になります。まひ病、小児まひ。まひ病になる人が多く生じるのです、それはどういう話か、おかしくないですか? 君、そのような経験をしませんでしたか、家で? (「はい」)。そのようになるのです。見ていなさい。 それゆえ、君の新郎は、やんちゃな新郎、一日に一、二度ずつ頬をなぐることができる夫をもらわなければなりません。そのような、統一教会の食口の中にそのような男性はいないけれど、そうすることのできる性格、火のような性格……。激しくけったり、つばを吐くことができる男性、そのような男性をもらってこそ、生活の道を探し求めて息子、娘を生み、それでも死ぬとき、うちのお母さんはりっぱなお母さんだと称賛できる息子、娘が残されるのです、これが。それゆえ、いい夫をもらおうと考えてはいけません! わたしが話をしてあげるのです。君もそのように考えますか? それが君の運勢なのでそうなのです、その男性が。 その男性もハンサムではなかったでしょう? げんこつがこのような男性でしょう? そうでしたか、違いましたか、話してみなさい? 気に入らなかったでしょう? げんこつが大きくて、やんちゃのようだったでしょう? (「あまりにも小さくて嫌でした」)。小さくて、小さくて? そうでしょう、小さくてもふつう以上に小さくなければならないのです。君が首以下、ここに来なければならないのです。そうでなければだめなのです。あなたが幸せだというと、だめなのです。 皆、そのような何かがあるのです。どうして分かるのか知りませんが、先生は生まれつきです。先生は八歳のときから仲人の役をしました。近所の姻戚の八寸までです。わが家は五山の家なのです。わたしは五山の家の小さな子供であり、次男です。五山の家の小さな子供です、わたしたち一族の……。今後、わたしたち門中を生かすことができ、わたしたち門中で誇らしい天のかわいい子として生まれたと言われました。尋ねれば皆、分かります。 写真を持ってきてみて、置いた写真でそのまま結婚した人は、皆、息子、娘をよく生んで、よく生きるのです、しばらくは悪いかもしれませんが。そのときから、八歳からやったので、今は八十歳近いからさぞやこの専門家になったでしょうか? わたしは見て分かります。離してみるって、何を離してみますか? においをかいで皆、分かるのです。さっとみれば、すでに皆、分かります。さっと座るのを見て、笑うのを見て皆、分かるのです、はっきりと。さっと見て「あの女性、かわいそうだなあ……」というのです。 それで、一生の間に七人まで食い殺す女性がいます。食い殺します。カマキリがいるでしょう? 愛し合ってから男を食べるでしょう? そのような性格の女性。愛し合ってから、男性を食い殺します。そのような女性がいるのです。そのような女性は、屠殺できる牛を毎日のように打ち殺すことができる、このような男性をもらわなければなりません。あまりにもひどいでしょう? うん? あまりにもひどいでしょう? しかしそうでなければだめです。そうでなければ子女ができません。それで、先生が結婚させてあげるのは、後代を考えて結婚させてあげるのです。三分の二が後代のためにです。 先生もお母様に侍ってきたのはですね。お母様すみません。お母様に侍ってきたのも息子、娘を考えて……。それで、わたしたち息子、娘は皆、優れていますか、劣っていますか? (「優れています」)。あまりにもハンサムでわたしが心配です。(笑い)女性は、あまりにも闊達です。どこか男性世界に行って外交をさっと……。 恩進だけでも、今あのコロンビア大学を出て、教授世界に行き、皆、説得してぴたっと……。説得するのです。このようにして、「だれだれこのような学生が、コロンビア大学の私たち政治科のために、政治外交科のために入学させるのが誇りなので、やらなければいけない」と説得するのです。このようにして……。 それで、お母様によく侍ってきましたか、侍ってこれませんでしたか? (「よく侍ってきました」)。ああ、この小さいお母様……。お母様お一人に侍り損なえば、どれほど版図が変わったでしょうか? そうでしょう? (「はい」)。どれほど変わったかというのです。お母様が小さくて、百五十未満ならば、その子たちがひなのようで、どう使えるでしょうか? あのガチョウの子は、空中を飛ぶのです、いくら大きくても。それで、空中を飛びます。空中を闊歩するときは、天地が震動しながら、悠々と飛んで行くことのできる、このような勇者のような息子、娘を生まなければならないのではないですか? それは女性として願いますか、願いませんか? (「願います」) 君もそうです、小さい女性? そうですか? 小さいほどもっと切実でしょう。そうではないですか? 優秀なほど切実でなく、小さいほど切実でしょう? このように見れば皆、美人のようです、今晩には? 美人のようですか、美人ですか? きょう婚約しようと集まった人々、その乙女の心は、美人、乙女に近いのです。それゆえ、きょうは、際立って顔がさっとこのようにあかりに反射して見えるから、反射の色が出て、とてもかげろうが立ちこめた中で仙女が笑う顔のようです、皆。 それ、一枚だけ下さい、一枚だけ。一枚だけ下さい、お母様。お母様が。(「一枚下さいですって? 何とおっしゃいましたか?」)一枚だけ下さい、そこから。それはお母様が協助したという条件を立てないと。(笑い)(以後からは継続してペアを組んでくださる)一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.04
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「国境を越えた真の愛の因縁」(その1)1988年10月23日龍仁メッコール工場六五〇〇家庭の約婚式のときに語られたみ言 全部で何人ですか? (「二千人です」)。この人たちは皆、責任を果たし、原理の道をすべて行った人たちですか? 全部、開拓などはしなかったのではないですか? (「皆、三年以上で、信仰の子女が三人いて、二十一日修練を皆出た……」)。二千人? (「はい」)。平均年齢はどのくらいですか、平均年齢は? (「三十歳以上が……」)。平均年齢? (「平均年齢は二十五歳、二十五、六歳です」)。平均を出しませんでしたか? (「二十三歳から……」)。(「男性は満二十三歳からです」) 「一和」という名が持つ意味 この場所は一和工場の食堂ですか、この場所が? (「講堂です」)。講堂ですか、食堂ですか? 講堂にすれば講堂になるのであり、食堂にすれば食堂になるのであり、それから、このように私たちが約婚すれば約婚の会合場所にもなるのであり、また祝福をすれば祝福の場にもなるのです。総合的な意味があるのです。一和という意味は、そのような意味です。すべてのものを和するようにする、和(ファ)するというとき、化(ファ)ということは、自分の本質が変わって、和するというのです。しかし、一和というときの和するの和(ファ)の字は、自分の姿だとか本質をそのまま持って、和するのです。 それゆえ、どちらが難しいかといえば、本質が変わって、皆、このようにするのよりも、本質がそのままあって、一つになるのが難しいのです。ですから、人というのは、本質が変わって一つになることはできないのです。それゆえ、皆さんが各自の天性に従って、人格を中心として合わせなければならないのです。一つにならなければならないのです。 一つになる所はどのような所でしょうか? 高い所でも一つになり、低い所でも一つにならなければなりません。また真ん中でも一つにならなければならず、左右、それから前後関係どこでも、一つにならなければならない、このような話が成立するのです。 では、韓国がどこかというと、このアジアにおいて東北地方の一つの半島です。そのような地域的な関係を中心として見るとき、韓国という言葉は成立しますが、一和、一つの統一というこのような目的を中心として見るときは、韓国全体が南方に、南ア連邦に行っても、和しなければならないというのです。また、北極に行っても、和さなければならない、あるいは白人社会に行っても和さなければならない、黒人社会に行っても和さなければならない……。 それから、韓国と日本は怨讐の間柄です。歴史的な怨讐になっているというのです。このような民族的歴史を知る人においては、心情を、心を開いて議論することができない、そのような立場にあるのです。けれども、一和という「和」を考えるときには、怨讐まで和合しなければならない、このような話が成立します。分かりましたか? (「はい」) 今の時は、一つにならなければならない時 では、私たちが復帰摂理を推進させてきた神様の摂理的観点から見るとき、今の時はどのような時でしょうか? 一つにならなければならない時だというのです。アメリカはアメリカを中心として一つにしようという、このような自由世界の主導国家として、国連をつくり、自分の民主主義体制を中心として、世界化運動をしてきましたが、失敗に終わったというのです。 共産主義は七十年余りの歴史を持ってきましたが、彼らが絶対的ユートピア世界、一つの世界を標榜し、民主世界というものを打倒しながら、独裁的プロレタリア世界を形成するために、今まで闘争してきました。しかし、そのすべての実践基盤も、すでに皆、失敗に帰してしまったというのです。今は前進も後退もできない、跳躍しようとしても跳躍する力もない、困難な立場にあるのが、現世界で私たちが見ている代表的共産圏主導国家のソ連や中共なのです。 中共は、すでに体制的な変化を起こし、昔の共産主義の見本、自分たちが主張したその世界に帰れないのです。いくら身もだえしても、帰ることのできない現状にあり、ソ連を中心として見ても、経済的にこのような混乱状態に陥って、自分自身を収拾できない悲惨な段階に落ちているのをわたしはよく知っているのです。 それゆえ、ゴルバチョフの今後の政策の方向も、中共より早く変化しうる、そのような内容も持ちうるのです。なぜでしょうか? 共産主義世界はソ連が主導しましたが、体制変更をするにおいては、中共の前に負けることはできないというようになるのです。急進的な変化をもたらしうる、そのような立場に立っているということを知らなければなりません。 何によって一つになるべきか では、何を中心として一つになるのでしょうか? 民主世界を中心として一つになりうる時代も過ぎ去り、共産世界を中心として一つになりうる時代も過ぎ去ったと見るのです。では、その周辺国家、日本なら日本を中心として見るとき、日本は世界的な主導的思想体系を持つことができなかったので、世界に主張できる立場に立てなかったので、日本はそこから外れるのです。 さあ、このように見るとき、韓国を囲む周辺国家を中心として見るとき、今からは何でもって一つにならなければならないでしょうか? これが問題です。今まで共産主義や民主主義は神様を除けていたのです。現在、アメリカの民主主義は、皆さんがご存じのように世俗的民主主義です。その世俗的民主主義とは何でしょうか? それは動物的ヒューマニズム、人間第一主義に、人間の享楽を標榜した民主主義です。 このような観点において、アメリカが今後、進むことのできる希望的基盤は、すでになくなったのです。それゆえ、退廃思想の一路を行くことによって、若い層が世界的な問題を提示する、このような難関にぶつかる実情を、私たちは直視しているのです。それゆえ、アメリカ自体の若者が、今後、希望を持てない若者として残ったということは、アメリカ、あるいは自由世界それ自体に希望を失わせたと言えるのです。未来世界への実践方案を喪失したと結論づけても妥当なのです。 このように見るとき、人本主義を中心としたアメリカの世俗的民主主義をもってしては、世界を収拾できないのです。共産主義はなおさら……。共産主義唯物論を中心として、物質が根本であると見るとき、ここで欠如したものは何かというと、神様を中心としていないのです。 本来、私たち人間は第一存在ではありません。いくら民主世界の指導者や共産世界の指導者であるといっても、その人は自分自身がつくり、自分自身が生まれたのではないのです。ある動機によって生まれた立場なので、これは、どこまでも第二存在の立場に置かれているのであって、第一存在ではありません。 このように見るとき、根本を見いだすべき今の時点においては、その根本を明らかにしなければならないのです。根本とは何でしょうか? 私たちが言うところの神様です。その神様に対してよく知らないのです。数多くの宗教を信じてきたすべての人たちが、今まで神様を信じてきたにもかかわらず、神様を失った段階に……。 アメリカはキリスト教国家であるにもかかわらず、イエス様を中心とする世界的宗教的背景を中心としたキリスト教文化圏の国家であるにもかかわらず、その人たちがどうして人本主義に陥ったのでしょうか? それは、神様をよく知らなかったからだということです。 また、共産主義もやはり同じです。中世において人本主義の勃発とともに、人と力の万能を主張しながら、神様を否定し、人が一番だと言いました。これが中世の封建社会を超えながら、そのような主張を中心として、人間第一主義を中心とするようになるとき、根本問題が問題となるのであって、神様が根本かという問題を中心として見るときは、物質が根本だという主張を中心とした共産主義体制も、すでに結末を見るようになったというのです。 私たちの歴史を見れば、神様も失ったし、人間も失ったし、物質も失ったというのです。このような立場に立って、この世界は混乱の中、明日の希望を喪失したまま、方向を失い、現在、壁にぶつかるという実情に直面しているのです。 ここで一つの主張が統一教会の主張だというのです。統一教会の主張は、何をしようというのでしょうか? 神様を中心として一つになろうというのです。分かりますか? 人間を中心として一つになることを主張するのではありません。神様を中心として、また物質を中心として、一つになることを主張するのではありません。神様から一つになって、人間を経て一つになり、物質まで主管しなければならない、このように見るのです。 では、第一がどこかというと、神様です。第二がどこですか? 人間です。第三は何でしょうか? 万物、物質だというのです。このように見るとき、創造的根源を中心として見るとき、根源がだれかというと、神様であり、その次に被造万物です。被造物が何かというと、人であり、万物です。人と万物と神様がいかに一つになるかという問題、これが深刻な問題です。 結婚とは根本に帰るためのもの どのように一つにならなければならないのでしょうか? このように見るとき、神様と人間が一つになるためには、そこに神様が必要とする絶対的内容がなければなりません。神様は何を絶対的に必要とするのでしょうか? 神様には物質は必要ありません。物質はいつでもつくることができます。そうではないですか? 全知全能であられる神様としては、物質をいつでもつくることができるのです。また、知識を必要とするのではありません。神様は全知全能であられるおかたです。知識の王です。また、能力の王です。人間世界において、人間の生活で必要とする物質を神様は重要視されません。きょうもそうでしょうね。未婚の男女が今、何、どこの大学を出たのか、そう言うことでしょう、今。分かりましたか? そういうことが問題になるのです。 現在、皆さんの目からみていい夫といえば、第一にお金のある夫です。特に女性たちは。それから、二つ目は? その次は? 勉強できる人、知識のある夫。それから三つ目は? 出世した夫、権力を持ちうる夫。このように思っていること、これは、神様の体制圏内では受け入れることができません。そのような思考方式を持った人は、ここに、きょう参席できないということを知らなければなりません。 ここは何をする所でしょうか? 未婚の男女を集めて、結婚させてあげる所ではありません。それを知らなければなりません。分かりましたか? 先生という人は、結婚させてあげるために現れた人ではありません。何の話か、分かりましたか? (「はい」)。未婚の男女を集めて、約婚なんかをしてあげ、結婚させてあげるのが先生の責任ではありません。 結婚はなぜするのでしょうか? これは問題が大きいのです。私たち統一教会は、結婚観が違います。結婚というものは、根本に帰るためのものです。それが何のことか、分かりますか? では、今日、神様と人間と万物がどうして全部分かれ、神様は神様として、人間は人間として、万物は万物として、このように混乱した姿を現しているのでしょうか? そのような根本的内容がこの世界の中、歴史、文化世界の中になぜ提示されたのかという問題が深刻なのです。それは、だれが提示したかといえば、神様が提示したのでもなく、物質が提示したのでもなく、人が提示したのです。人々がやったのです、人々が。 それゆえ、人がやったその中、人が家をつくり、理想とするその中……。人は千年万年生きられません。永遠には生きられません。この地球星で七、八十年生きる人たちが、構想したその住まい、家の中で天地の大主宰たる神様が住めるかというのです。 自分勝手にはなっていない膨大な宇宙 皆さんが考えるとき、この宇宙はどれほど大きいですか? この宇宙はどれほど大きいでしょうか? 今日、科学者たちが語れば……。ここに尹博士が来ていたでしょう、さっき。博士の話を聞けば……。尹博士行きましたか? (「下にいます」)。下にいますか? いなければ、しかたがありません。博士たちの話を聞いてみれば、わたしが博士たちをたくさん知っているのです。(笑い)知っていますが、その人たちが語るこの宇宙の生成、この宇宙がどれほど大きいかといえば、その生成はもちろん、原則の力によってなったと見ますが、どれほど大きいかというと、その宇宙の構成体がどれほど大きいかというとですね。 果てから果てまで距離がどれほど大きな距離かというと、二百十億光年です。そのような話は初めて聞くでしょう? 何億光年ですって? (「二百十億光年」)。二百十億光年です、二百十億。二百十億光年です。億でも多いでしょう。皆さんが百ウォンを一生の間数えても、億を数えられません。百ウォンなら億は数えられるでしょうね。いずれにせよ、そのように多いのです。(笑い)だれか数えてみた人たちがいないので、そうでしょう。 さあ、ところで、果てから果てに行くにおいて……。光の速度がどれほどかというと、一秒間に三億メートルです。三億メートルなら、地球の七回り半になるのです。速いのです。カチカチいう瞬間に地球を七回り以上回るのです。そのように速い光が一日だと言いましたか、一秒間だと言いましたか? (「一秒間と言いました」)。一秒間にそのような速い光が一日行く距離がどれくらい遠いでしょうか? 皆さんが一度、ついていくといえば、そこにくっついて残ると思いますか? 皆、飛んでいってしまうことでしょう。焼けて燃えてしまうことでしょう。それはすごいのです。 一日でもそれくらいなのに、これが一年でもありません。十年でもありません。一生の間、あの光が出発していくのに、百年間暮らしながら行っても、まだ終わりにならないのです。これが何億光年かというと、二百十億光年です。二百十光年ではなく、二百十億光年です。億が二百十個入っているのです。(笑い) では、神様はそのように大きくつくって、どうするのですか? 神様は何をしようというのでしょうか? そうなれば、これを管理しようとすれば神様の速度はどのくらい速くなければならないでしょうか? 考えてごらんなさい。その主人となるおかたがこのようなものをつくったなら、その主人がそれを管理する能力があるでしょうか、ないでしょうか? (「あります」)。あるなら、その世界の大宇宙を見詰めて計算し、これを管理すると考えるとき、神様はどれほど速く行き来するでしょうか? そのようなことを考えたことがありますか? 考えたことがありますか? そのように膨大な宇宙です。 そのような宇宙がただそのまま、勝手には生じませんでした。皆さんは勝手に生まれたでしょうか? うん? 皆さん。勝手に生まれましたか、勝手にの反対は何ですか? (「ありのまま、原則的に」)。原則的に? 似ています。勝手に、原則的に、うん、少し似ています。そう、原則的に生まれましたか? 非原則的に生まれた人たちが多いことでしょう、ここに。 皆さん、お母さんとお父さんを持っているでしょう? お母さんとお父さんが原則的父母ですか、非原則的父母ですか? 分からないでしょう? (「非原則的です」)。堕落したとするなら、非原則的ですが、この世的に見ると、全部、未婚の男女同士で結婚したお母さんとお父さんだと思いますか、ぼろのひさごをかぶって覆って束ねたお母さんとお父さんだと思いますか? 分からないでしょう? しかし、思いでは清い父母、一番いい父母だと思うのです。間違っていますか、合っていますか? (「合っています」)。間違っていますか、合っていますか? (「合っています」) 合っているって、何ですか、この者たち、話をよく理解しなければなりません。ふろしきをかぶっておいて、いいというお母さんとお父さんが本物だとは何ですか? 偽物か本物か分からないではないですか? そのような連中の息子、娘たちが来て、「自分が一番だ」というのです。きょう、ここに来て、「おお、自分の顔がこの程度なら、どんな男にも思いどおり対して問題ないだろう」と言いながら、顔を見て、小ぎれいにして来たでしょう? (笑い)そうでない女性たちはいますか? 宇宙と似た人間 さあ、皆さんは勝手に生まれたでしょうか? 皆さんが生まれるときは、だれに似ましたか? だれに似ましたか? 宇宙に似たのです。何が宇宙に似たのでしょうか? 宇宙の中にはあらゆる生物がいるのです。神経器官に皆、似ています。では、動物世界、昆虫世界まで合わせて、それはだれに似たかというと、自分に似たというのです。動物世界に目があるでしょう。目がありますか、ありませんか? (「あります」)。では、皆さんのお母さんとお父さんの目が先に生じたでしょうか、動物世界の目が先に生じたでしょうか? 考えてみなさい。それも分かりませんか? アダムとエバを先につくりましたか、昆虫世界と動物世界を先につくりましたか? (「動物世界です」)。では、目の先祖はだれですか? アダムとエバですか、アダムとエバよりも小さい昆虫たちですか? (「昆虫です」)。昆虫です、低いものから上がってくるからです。それゆえ、目の先祖は皆さんのお母さんよりも、万物なのです。 鼻がありますか、ありませんか? (「あります」)。鼻があります。口がありますか、ありませんか? (「あります」)。耳がありますか、ありませんか? (「あります」)。耳だけでなく、角まであります。皆さんは角はないでしょう? 角を何というか知っていますか? アンテナです。(笑い)それから、手がありますか、ありませんか? (「あります」)。手のようなものはあるでしょう。蝿はお膳にとまれば、こすって、これ……。それが皆、手の役をするでしょう。それから羽もあるのです。皆さん羽はありますか? そうしてみると、動物にも及ばないものがたくさんあります。 また歌がうまいのは、せみが歌がうまいですか、皆さんが歌がうまいですか? 皆さんはせみに及ばないでしょう? 走るのは子犬がよく走りますか、皆さんがよく走りますか? (笑い)皆、及ばないでしょう。さあ、だれに似ましたか? (「宇宙です」)。万物、宇宙に似ましたが、そのうち、人が一番優れているのでもありません。それを知らなければなりません。及ばないことがたくさんあります。牛がよく走りますか、馬がよく走りますか? (「馬です」)。では、皆さんは馬に乗りたいですか、牛に乗りたいですか? (「馬に乗りたいです」)。分かるには分かっていますね? (笑い)いいことを皆、求めようとします。 このように見ると、動物世界も皆、同じです。動物世界もそれは知っているのです。いいことを知っています。へびもいくらはい回っているとしても、親戚、姻戚の八寸まで自分の同僚たちを皆、知っているというのです。知っていると思いますか、知らないと思いますか? うん? 知っていると思いますか、知らないと思いますか? うん? (「知っています」)。あそこの後ろ、聞こえますか、聞こえませんか? (「聞こえます」)。よく聞こえるでしょう? (「はい」)。顔が見えなくておぼろげですね。(笑い)目のようなものが見えたり、顔のようなものが見えるだけです。(笑い)気分がいいですか、悪いですか? (「いいです」)。あの後ろは気分が悪いでしょう? はっきり見えてこそ、気分がいいはずですが……。(笑い) それはそうです。それはなぜですか? 比較してすべてのものがはっきりしなければなりません。よくなければなりません。よいものは、はっきりしなければなりません。はっきりして私と密接な関係を結ばなければなりません。それでこそいいというのです。ぼんやりとしたこと、いくらいいといっても、それはぼんやりとしたことにしかならないのです。 さあ、それゆえ、人はいいことについていくようになっていますが、動物世界や植物世界、あるいは鉱物世界はどうでしょうか? すべて同じだというのです。皆さんが感じることのできるこのセンス、感覚、精神ならば精神、活動分野の次元が違うだけであって、等差において違うだけであって、低い動物、すべての鉱物世界もすべて運動しているのです。 婚約式場に参加したのは宇宙の形態に合格するため 鉱物世界は結婚するでしょうか、しないでしょうか? (「します」)。見ましたか? (笑い)鉱物世界は結婚すると思いますか、しないと思いますか? (「すると思います」)。そうです。結婚するというのです。それゆえ、電子なら電子が、陽子を中心として回るのが結婚です。中性子が飛び交うのがこのように、すべて一つの体系、一つの球形をつくって生きなければなりません。 それゆえ、皆さんがここになぜ来たかといえば、男性だけでもだめだし、女性だけでもだめなので、ある形態に合格させるために、合格するためなのではありませんか? ある宇宙の模型形態に合格するために来たのです。 それでは、宇宙のある形態が皆さんに入ってきて合格しなければなりませんか、皆さんがあの形態に入っていって合格しなければなりませんか? ですから、皆さんは、第二存在です。主体ではありません。対象的存在だということを知らなければなりません。対象的な存在は、主体環境圏内に補助と内容として吸収しうる作用をしなくては、対象的存在基台が形成されません。先生が言うことが皆、分かりますか? (「はい」)。理解できなかった者たちは荷物をまとめて行きなさい。 それで、女性でもだめな人をもらおうというのが男性たちの欲望である。(笑い)なぜ笑いますか? だめな男性をもらおうとするのが女性の欲望である。皆さん、なぜ黙っていますか? 先生が間違いましたか、皆さん、考え違いしていますか。(笑い)合っていないのです。そうでしょう? そうです、前後が合っていないのです、皆さんが答弁をする前には。 では、今まで言ったことを中心として、答えをどうしなければならないでしょうか? 女性たるものは優秀な男性を求めなければだめでなくはない。(笑い)それはどういう話ですか? 求めるという話ですか、求めないという話ですか? わたしはそれは分かりません、皆さんが求めなさい。(笑い)ですから、言葉にならない言葉ですが、話は「求めなければだめでなくはない」と言いましたが、「だめでなくない」という言葉は使いましたが、求めなければならないという話です。それだけは、間違いないというのです。ですから、いくら否定が多くとも、いいというようになるときは、それは残される、関係を結びたいというのが人間であり、この万宇宙の欲望です。分かりましたか? では、この大宇宙が大きいのは一人で生きるために生まれましたか、一緒に生きるために生まれましたか? (「一緒に生きるためです」)。では人は? 人は? 動物のために生まれて……。そうすれば話が道理に合うのです。人は、あの馬追虫のために生まれた。馬追虫、知っていますか? 馬追虫。人は、蟻のために生まれた。それは話が道理に合うというのです、蟻。そうなれば、蟻たちが気分いいでしょうか、悪いでしょうか? (「いいです」) 例を挙げれば、皆さん、きょう、なぜこのように会ったかと言えば、「全体のために、二千人のためにわたしが集まったのではなく、きょうは、わたしのために集まった」と言えば、気分がどうですか? わたしの相対を決定するのに付属品として千九百九十九人が集まるというとき、気分がいいのです。それを願いますか、二千分の一の目的を達成するために集まったというのを願いますか? (「前者〔チョンヂャ〕です」)。電子〔チョンヂャ〕、電子工学? (笑い)前者です。 さあ、それはどういうことでしょうか? 皆が笑うところを見ると、皆、理解したのですね。ですから、いいことは皆、願うというのです。それがいいといっても、どれほどいいのかというときは、問題が大きいのです。どれほどいいかというときは、この中でもどれほど、それからまたどれほどいいのでしょうか? 大韓民国中でもどれほど? 世界の中でもどれほど? 宇宙の中でも? この太陽系を経ってみれば、これが一つの星と同じではないですか? 太陽系の中でどれほど? どれほどというときは、これは問題が大きいのです。 どれほど大きな宇宙ですか? 大宇宙です。さっき言ったように、複雑多端にこれが二百十億光年の大きさであるこれが、運動しながら回っており、一つの目的に向かって行幸していらっしゃるというのです。うろうろと。大宇宙中で一番になることができるならば、これは夜に生きるものや昼に生きるものや、すべて願うというのです。 結婚は、天地が引っ繰り返り一家の興亡盛衰がかかる重大事また人間として生まれたとするなら、地上に行った人や永遠の後に生まれる子孫がいても、このような存在は、すべて願うのです。皆さん、願いますか? (「アーメン」)。何の話ですか? アーメンの返事をわたしが知っていますか? 皆さん願いますか? (「はい」)。(一人だけ答える)願いますか? なぜ返事をしませんか? 願いますか、願いませんか? (「願います」) エバに、堕落したエバに何をするのかというとき、黙っていたのと同じです。何をするって、何をしますか? 「ここですべていちじくの木の葉を取って堕落し、このようにひざまずきました」と答弁できなかったでしょう。その後孫たちそのものです。それなのに、なぜ返事をしませんか? どれほどじれったいかというのです、この者たち。返事をしないので、今から返事しないので、どうやって使いますか? 尋ねるのを明らかに皆、聞いて、理解できるように話して尋ねているのに、返事しないから、この人たち、どうして働きますか? うん? もどかしい者たち。もどかしいでしょうか、もどかしくないでしょうか、この者たち? うん? (「もどかしいです」)。もどかしい、もどかしくない? (「もどかしいです」)。もどかしいのは皆、けってしまわなければならないでしょう。わたしもいいものを取らなければなりません。悪いものは皆、放り出し、追い出してしまわなければなりません。 きょうの昼食は食べさせません。(笑い)昼食一つで蕩減できれば、それは安いでしょう? そうでしょう? そういえば、このように集まれば、昼食一食、二食、昼食を考える人は、それは結婚する資格がありません。(笑い)昼食を何度か抜きながら、夜寝れずに目がくぼみ、鼻が乾いて、逆にならなければなりません。(笑い)耳がだらりと垂れ、目が……。(笑い)人のいとこのようになってこそ、それは深刻な人なのです。 結婚がどれほど深刻ですか? 結婚がのらくら調ですか? 深刻ですか、深刻ではないですか? (「深刻です」)。天地が引っ繰り返るのであり、一家の興亡盛衰がかかるのです。天地がうまく回るか、回らないか? それは油を与えるのと同じであり、一家の成敗がかかるのです。あの女性をもらうことによって、今はだめだが、その女性の子孫を通して何代目の子孫には、天下を治めることのできる両班が出てくるかもしれません……。 皆さんには、分からないではないですか? 分かりますか、分かりませんか? (「分かりません」)。さあ、うちの父母は、わたしがこのように世界的な人になるとは思っていたでしょうか、思っていなかったでしょうか? 生んでみると、そのように生まれたのです。そうです、知らない父母は、生んでみるとそのように生んだといいますが、宇宙は、そのまま生んでみると、生まれたと見ますか? (「違います」) 神様の復帰摂理は、道に従って、千態万象の姿と山谷を超えて大洋を渡って荒野を渡って、谷間、洞窟も通過し、一つに合わせて、このようにすべての背後に連結されたものは分かりませんが、そうして、生まれたのに、特別に生まれても生んだのは同じです。目二つ、鼻二つ、鼻? 鼻の穴二つ。(笑い)口一つ、耳二つ、このようにして……。その四肢五体は、全く同じです。 平面的に見れば何でもないのに、その背後と立体的な歴史、縦的に見るときは、相当な内縁がつづられているので、私たちのような人がこのような大変なこともするのでないかというのです。大変なことですか? 大変なことですか、悪いことですか? (「大変なことです」)。大変なことですか? きょうは、皆、……。わたしがぽんびきでもないのにです。ぽんびきがどういう意味か知っていますか? うん? ぽんびき知りませんか? (「知っています」)。知らない人は、学んでもかまわないです。(笑い)男性たち、ぽんびきが何か知っていますか? 「ぽーん」として「びーき」するのがぽんびきでしょう。(笑われる) さあ、そのように考えるのです。この中に先生がうまく結んであげると、今後、さまざまな息子、娘が生まれるかもしれません。そのようなことを考えたことがありますか? 目のない男性に会ったならばどうですか? 不幸ですか、幸福ですか? (笑い)霊界に行っても、このような目があるでしょうか、ないでしょうか? 霊界に行ったそのときは、神様いわく「おまえの目は、百年間見ることができなかったので、千年万年の世界では億千万里を見ることのできる目にしてあげる」というとき、(笑い)そのような目を持って暮らす夫と生きるとき、地上で生きたように、「ああ、わが夫は不具だ」と考えられますか? そのときは、威張ることでしょう。一方の足を持ち上げて威張ることでしょう。倒れないから。それをだれが知っていますか? 先生が、そうすることのできる内容があるのです。そうですか、そうではありませんか? (「そうです」)。そうですか、そうではありませんか? (「そうです」)。うそでないなら雷が落ちる内容になるのかもしれません。女の体一つ売ってそうできる恩恵を受けることができるならばという、女性という怪物たちはいくらでもいます。 嫁ぎ先は、遠くてこそいい さあ、嫁ついでいこうとするなら、わたしのような人に決めてもらえば、どこに損することがありますか? わたしが決めるなら、自分の友人たちに嫁がせるのであって、盗賊に嫁がせますか? 違いますか? 先生の友人の中には学者も多いでしょう? ノーベル賞受賞者も多いし、世界の著名な友人も多いではないですか? そのような友人に嫁がせればいいではないですか? うん? 悪いですか、いいですか? (「いいです」) さあ、では、遠くに嫁いでいきますか、近くに嫁いでいきますか? (「遠ーくです」)。(笑い、拍手)飛行機に乗って、ここ済州島……。ああ! 最初に乗る飛行機のときは、済州島……。飛ぶ途中でやめて落ちるというのです。それはどれほど気分が悪いですか? 大洋を渡り、ブーン、一晩寝ても、「ああ、日が昇ったな。また飛ぶか? また飛んでみろ」と、二日飛んでも「また飛んでみろ」、「やあ! これはすてきだ。考えてみると、遥かな天地が……。」このように。(笑い) そうです、詩を詠んでも、遥かな内容の詩を詠んでこそ刺激的であって、横切って園があるのを見て話せば、詩になりますか? 「あそこに木がある、花が咲いた。赤い。ああ、黄色い。においがする」それが詩になりますか? 遥かな煙幕の中でそれを幻想的に考えるときに、その味を感じて事実を体験できるところで、それがすてきなのです。それ、遥かな遠くの故郷の道がいいですか、近い故郷の道がいいですか? (「遥かな遠くの故郷の道がいいです」)。(笑い)昔から言うことに、「遠くの遥かな、それもまた遥かな昔の中の昔」と言ってこそ味があるのであって、「遥かな昔」と言っても味がないのです。かんでこそおいしいのです。そうではないですか? ですから遥かな昔の話。それで、遠いほどよくなくはない。(笑い) さあ、そこ合格! 笑う人は合格で、笑わなかった人は落第です。笑わなかった人、手を挙げてみなさい。(笑い)今日は、皆、わたしの話を聞かなければいけなくなっているのです。この女たち! この女たち! 先生に非難されるから気分がいいですか、悪いですか? (「いいです」)。きょう初めて来た人たちは、「あの何々先生はりっぱだと思っていたのに、悪口だけ言うので何がりっぱですか」と言うかもしれませんが、(笑い)わたしは悪口を言うのに一等です。悪口を言う場合は王の子にも悪口を言い、王にも悪口を言えば十分でしょう。それは神様しかできないことなのに、わたしは神様の弟になるのに。そのように考えればいいのです。分かりますか? (笑い、拍手) そうです、このように話してみると、言葉とは本当におもしろいでしょう? (「はい」)。上がっていけば、上がっていきながらも拍子が合い、下りていけば、下りていきながらも拍子が合い、横に行けば横に行きながらも、やってみると、拍子がすべて合います。ぐるぐると回しても拍子が合うのです。ですから悪くなくないというのです。「よかった」と言うので、口を開き、踊って「ああ! わたしの日が来たな。調子を合わせて、音調に合わせて踊るべし!」。アー。(「メン!」)。わたしは「メン」と言いませんでした、あなたたちが言ったでしょう。(笑い、拍手) さあ、こうなればもう、三分の一くらいは整理できました。交通事故がもう起こらないでしょう。わたしが目をつぶって運転するのですが、きょう、ここに対立する人、手を挙げてみなさい。(笑い、拍手)どう、無事通過ですか? (「はい」)。ああ、気分いい! (歓呼。拍手) さあ、それでは、きょう、ここから「ひゅっと飛んで大宇宙を一度旅行したい」ですか、「ひゅっと飛んで、ああ、前庭から裏庭に旅行する」ですか? どちらですか? 大宇宙ですか? 小……。小宇宙もだめでしょう。それは何ですか? 小さな庭です。(笑い)(「大宇宙です」)。大宇宙でしょう? (「はい」)。かと言って、大宇宙だといって大宇(グループ)の宇宙ではないのです。大宇宙があるのです。 幸福の道は一人では行くことのできない道 さあ、ではだれと? だれと? 一人で行きますか、だれといきますか? (「真のご父母様」)。旅行するのに、だれと旅行しますか? (「神様です」)。神様は皆、喜ぶのです。皆さんの後ろに行きますか? だれとしますか? だれと旅行しますか? (「お父様」)。この者たち! (笑い)はっきり分からずにいますね。女性一人で旅行しますか、男性一人で旅行しますか? (「男性と一緒にです」)。うん? (「一緒にです」)。一緒にって、独り者たちが何を一緒にです? (笑い)一緒にすることのできる方法は、だれが決定するのですか? (「神様です」)。皆さんが決定すれば、どれほどいいですか? 運転手を選び損ないます。(笑い)飛行機を選び損ないます。そうです。 それゆえ、女性は、絶対的に幸福の道を一人で行くことはできないのです。女性は、女性だけは絶対一人で行く道に幸福はないのです。男性は、どうですか? (「同じです」)。それは女性がいう話でしょう。(「違います」)。(笑われる)わたしは男性の話を聞きませんでした。男性たち、どうですか? 男性だけは一人で行くのが幸福でしょう? (「違います」)。この者たち! (笑い)先生の理論に反対していいですか? (拍手)ああ、それはわたしも学びました。わたしも学んだので、一人で来てはいけないので、お母様に仕えてきたでしょう。(笑い、拍手) そうです、それは先生から始まったのですか? 歴史が生じる前から始まったのです。それを知らなければなりません。結婚というものは歴史が始まった以後から生じ始めたのではなく、歴史が生じる前から結婚の伝統の根は、ぱっと打ち込まれてあったのです。その伝統がそのようになっていなくて、女性と男性と、一つは男性の脚、一つは女性の脚、おっぱい一つあり、男性はここにあり、さっと片方の手で二つを触れば、どれほどいいですか? (行動で表現してみせられる。笑い)男性と女性が近いところにいればどれほど便利ですか? ああ、そのようにさせることもできるでしょう、神様がしようとするならです。(笑われる) 皆さん、もし……。皆、物心がついたので、このようなおかしな話を一つしましょうか、そのまま退屈な話だけしましょうか? (「やってください」)。ああ、皆さんがしろと言ったので、わたしの罪ではありません。(笑い)下品な話をしようが、何の……。さあ、男性にぶら下がっているものがここの額にくっついたならばどうですか? (笑われる。笑い)女性が見て気分悪くて逃げますか、逃げませんか? それゆえ、それは見えないところに、奥まったところに持っていって、宴をしなければならないので、よく見えないところに持っていって、ぴたっと埋めておいたのです。(笑い) では、手の端っこにぶら下げておけばどうでしょうか? 考えてみなさい、わたしの話がどうなのか? それも考えなくて話しますか、原理を捜し出した人が? そこしかくっつけるところがありません。そのようにくっつけてみると、男性も女性も一番薄暗い所です。家にも薄暗い所、においがする所があるでしょう? 父母が、お客さんが来るようになれば、いいものを皆、薄暗くてにおいがする所に持っていって、しわくちゃにして埋めるでしょう? 見るとその後ろやそばにはにおいがするラッパ穴がありました。(笑い) 一番いいというものと一番悪いというものは額を合わせます。皆さん、肛門は嫌いですか? 肛門がなぜこのようにくっついていますか? 便利にこのようになっていないでです。ここらへんにあればどれほどいいですか? (笑われる)それ、考えてみてください。どこにくっつけるか、いくら研究してみてもそこしかありません。そうして、そこに肉がついて埋められてあるからそうなのであって、これが開いて手の端っこのように出てくれば、どこに行って座りますか? においがするでしょうか、しないでしょうか? いくら水でよくふいても、最近は水たわしが出てきてちょっといいけれどもです。いくらふいてもにおいがするでしょうか、しないでしょうか? (「します」)。かいでみましたか? (笑い)かいでみても、見なくても、それはにおいがするようになっているのです。 自分を絶対視するところでは和合がなされない さあ、このように見ると、生命の源泉は、においがするところから始まる、それはどういうことでしょうか? すべての草木の生命の源泉は、肥料であるので、肥料というものは、においのしないものがない。合っていますか、合っていませんか? (「合っています」)。そうです、統一教会の食口たちを生命ある王子にするためには、においがする所で生きるようにしてあげなければならないのである、どうですか? (「いいです」)。それが道理に合うのです。ですから苦労しなさい! 男性の汗のにおい、それがどういうにおいだと言いますか? 韓国語を皆、忘れてしまいました。パルコラク(足のくさい)のにおいと言いますか、パルクリン(足のくさい)のにおいと言いますか? パルクリンのにおいは、何かのカスが多くて出るにおいであり、パルコラクのにおいは何もなくてもにおいがすることをいうのでしょう? それがいいですか、悪いですか? 女性は、そのような男性を嫌うのです。「ああ、においする、洗ってこい」と言うのです。 お母様はどうだと思いますか? お母様は、女性ですか、男性ですか? (「女性です」)。女性はそうだというから、お母様もそうでしょうか、そうではないでしょうか? お母様は抜かして? (「いいえ」)。それを願いますか、願いませんか? 願わないならば道理に合いません。お母様も間違いなくそうなのです。今晩帰ってそうかもしれないでしょう。そうでないならです。(ピイー!)(スピーカーから騷音が出る)ああ! ああ、そうだということですね(笑い、拍手) ティッシュをこのように濡らして持って歩き回る女性は、運勢がありません。そのような女性が幸せかどうか見てごらんなさい。一人で生きるか、さもなければ未亡人になって寂しく暮らすというのです。史吉子が代表的な女性でしょう。洗え、洗え! 一日に手を何度洗いますか? 史吉子! (「はい」)。一日に手を何度洗いますか? トイレのそばを行き過ぎて、手を洗ってです。田舎道を行けば、犬の糞、牛の糞、鶏の糞がどれほど多いでしょうか。毎日のように手を洗わなければならないというのです。牛の糞をつまんで食べ、鶏の糞をつまんで食べればどれほどすてきですか。ああ、それはどうですか? それが万病に効く薬になることを知っていますか? それは薬になるか、ならないか、やってみましたか? 薬は、皆、反対のものでなされるのです。それは味見することが万病に効く薬になることもあるというのです。それを信じれば治るというのです。ですから世の中万事が面白いというのです。優秀な人も自分の趣に生き、だめな人も……。 さあ、木が言うことには「おい、おい、青い光を持って生まれた世の中のすべての植物たちはわたしに似ろ」と言ったとするなら、どのようになりますか? かぼちゃのようなものが蔓のないものになればいいですか? 笑いますか? ヒヒヒとこいつと、悪口を言うのではないですか? またすいかも「こいつ、世の中を知らないやつ、わたしがなければ、夏が訪れるとき、大変なことになるだろうに」と、悪口を言うでしょうか、言わないでしょうか? (「言います」)。これは、ポプラのように背丈だけ趣もなく大きくなって、わたしに似なさいだって? 「おまえがわたしに似ろ」と、そういうことが言えますか? 違いますか? 優れているという人は、優秀だとふんぞり返りますが、「おい、こいつ! 優秀だとふんぞり返るな。わたしの足もとにきて押し込められろ」と言うのです。世の中万事が平等でないようですが、皆、平等だというのです。意地を張って上がっていく者がいるかと思えば、むやみに伸びていくやつがいないかというのです。 またあるものは、「わたしのように香りを漂わせて、実が開くべきであって。ナシのようにリンゴのように開くのであって、これは何だ? なぜ、地中に隠れて実になるか?」。そうすると、地中にあるものが、「こいつ、おまえ一人生きるって? 昆虫だとか地中で暮らすものは、わたしたちのようなものを食い荒らして生きなければならないではないか? おまえのようなものをどうして食べて生きるか?」と言うというのです。そのようにすべてのものは、和して一つになるのです。そうです、一和だと言ったでしょう? (「はい」)。自分自体を絶対視するところにおいては和合というものはありません。自分自身を四方化させるところに和合というものがあります。分かりましたか? (「はい」) 趣の真の意味 皆さん家に入るとき、広い家がいいですか、狭い家がいいですか? (「広い家です」)。それゆえ、女性は、いくら高くても自分を低くして、広い、何と言うか、ざぶとんを敷いて床をつくらなければならないのです。そうするためには、どれほど細くなければならないですか? 薄いのではないですか? 薄くてもいいというのです。女性は軽薄ですか、ぶ厚いですか? (「軽薄です」)。それゆえ、すぐ中身が透けて見えます。三時間、静かに見れば、もう分かるというのです。三時間が何ですか。十分だけ額を合わせて見れば、「こいつなぜ見るか。行け」というのです。「ああ、母に似ているので見詰めるのであって、わが国の皇后に似ているので見詰めているのであって、いい考えを持って見詰めているのに、やたらに気分を害しますか?」と言えるではないですか? 「神様の顔を見たのに、あなたの顔が神様の顔のようで、わたしが見詰めているのに、なぜ気分を害しますか? 神様を見詰めれば気分を害されるでしょうか? そうではないと思いますが、なぜですか?」と言えば……。そうです、薄っぺらだというのです。 男性は見詰めれば、雄牛、知っているでしょう? (「はい」)。暑い日、尾を揺さぶりながら床にぴたっと立ち、日が照りつけても……。(まねをされる)声を張り上げようが、飛行機が飛んで行こうが、こくりともせず、こうしているのです。カササギの子が来て背中に乗ってじっとしているのに、女性はそうではありえません。軽薄なのが女性だというのです。気分が悪いですか? (「いいえ」)。気分が悪ければ、わたしに言いなさい。(笑い) では、男性は、軽薄ですか、厚みがありますか? (「厚みがあります」)。どれほど厚みがありますか? どれほど分厚いのか、女性が小さい手でこのように殴っても……。(頬をなぐるまねをされる)それでもだめなら、このように乗ってこのように力いっぱい押しても、じっとしている君子のような夫をもらおうというのです。そのような人を探すのです。軽薄な夫を願いますか、悠然とした夫を願いますか? (「悠然とした夫です」)。ああ、気分がいい。(拍手) さあ、ごらんなさい。東洋の女性たちが悠然とした夫を願うのに、あのアフリカの太った黒人男性たちはどれほど悠然としていますか? (笑い)なぜ? 悠然としているでしょう。彼らも男性です。ここには西洋の男性たちも来ましたね。西洋の食口たちも来たのです。韓国の男性たちと西洋の男性たちと、どちらが大きいですか? (「西洋の男性です」)。西洋の男性が悠然としているでしょう? 目まで大きいです。それから鼻まで大きいのです。西洋の人たちで一つ驚くべきことは、西洋の女性たちの口はまたどれほど細くて大きいか、笑うのにわたしのげんこつが出たり入ったりできます。このように、話をするのに、どれほど複雑で、かっこいいか驚きました。口を見ても何を見ても、すべてのことが図体が大きくて、歩くこともてくてく……。「てくてくてくてく」と「てっく、てっく」とどちらがいいですか? 「てっく、てっく」がいいではないですか? さあ、年寄った雄牛に乗って行きますか、年の幼い雌牛に乗って行きますか? 答えてみなさい。(「雄牛です」)。年を取って経験が多い雄牛? (「はい」)。それなら年を取った新郎をもらいますか? (笑い)(「年を取った新郎をもらいます」)。知ることは、知っているのですね。苦労してひげがくねくねとし、どれほど苦労すればひげがくねくねするでしょうか? 事情が多いでしょう。すなわち、ひげの新郎をもらいますか、くねくねしたひげの新郎をもらっていきますか? すなわち、髪の毛よりくねくねとした髪の毛、どれほど気が焦ればくねくねとするでしょうか? それは考え方によるのです。人は、考えるにおいて、天下を友達とし、生きるようになっているのです。考えが偉大なのです。 人は神様に似たといいますが、神様に似たものは、ほかのところにありません。顔も神様に似たかもしれませんが、神様のような心を持つことができるというのです。皇后の心、王の心。その広い心の中においては、腹が減った男性が入ってきてご飯も恵んでもらうことができるというのです。ご飯を食べなくてもいいというのです。そこに入ってきて、スカートのすそを握って、スーッといびきをかきながら寝る男性を見詰める広い心の女性の視線には、どれほど詩的な情緒が宿っていますか? 考えてごらんなさい。それが趣です。 韓国人がもった言葉の中に一番貴い言葉があります。モ(趣、味わい、味)! 日本語にもなく、英語にもありません。趣というものは韓国の独特な言葉です。モッチダ(すてきだ、素晴らしい)と言えば、いいことをいうのではありません。大小のものが釣り合うことをすてきだというのです。相対にならないようですが、釣り合う趣がもっと大きいというのです。 博物館に置いておくことのできる人 それで、韓国民族は、文を書くにも彫刻をするにも特定の民族の趣を持っているので、小さい国である韓民族を神様が惜しんで、今まで滅びないように保管なさったのです。今後、博物館に置いておこうと……。中国人を博物館に置いておくのがいいですか、韓国人を博物館に置いておくのがいいですか? (「韓国人」)。毎日のように千人、万人ががやがやする博物館とは違います。十年に一人ずつ来ては行く博物館と、毎日のように超満員である博物館とどちらがもっといいと思いますか? 神様が博物館に入っているなら、神様を見ようと毎日のように世界の人々が皆、行くでしょう? (「はい」)。世界の人々が皆、喜ぶそのような神様になりますか? そうなれば、神様の生活が世界の人々よりも劣るでしょうか。だめなのです。神様が博物館に現れようとすれば、一番人々が来ない薄暗い日、何万年ぶりに……。神様の価値がそうです。そのように訪ねてくる人に会うことができるように訪ねてこられるのです。それは何の話か分かりますか? (「はい」) 同じです。皆さん、大きくてりっぱな夫をもらいたいでしょう? それは侍りやすいでしょうか? 拍子を合わせる自信がありますか? (「はい」)。どういたしまして。わたしがお母様にいつも気合を入れられるのが何かというと、「ああ、あなたは、よく分かっていない。自分の夫人が一時、二時まで待っているとは思っていない。それでどうして夫か?」。そのように、くされをたくさん聞きます。(笑い)聞いても聞かないふりをして、さっと、それでもお母様のそばにさっと行って寝そべれば、足でけりません。(笑い)言葉とは違います。それは何がそのようにしたのでしょうか? お母様の心よりも、母の愛がそのようにしたというとき、気分がいいです。母の心はそれほど広くないけれど、愛は広いです。分かりますか? 女性の心は、皆、同じではないですか? しかし、そこに染まれば、五色に染まるので、だれも見ることができません。無事通過です。あるにはあるのですが知らないのです。塀も超えることができ、紅海のようなものがあっても、それを渡ることができるそのような調和の橋が愛だというのです。ですから、愛が偉大なのです。ですから、愛を捜していってみたいですか? (「はい」)。本当に? (「はい」)。どれほど本当にですか? (「本当にです」)。死ぬくらいに本当にですか、神様が来られてわたしを見ないくらいに本当にですか? どちらの本当にですか? 本当に皆さん、その限界は無限なのですか? さあ、では、便利な夫をもらいますか、りっぱな夫をもらいますか? (「りっぱな夫です」)。不便でも? (「はい」)。それならいいです。どのようなものが順理ですか? 愛国者の中で一番りっぱな愛国者、最近で言えば、「毎日のように先生が乗ってきたリンカーン・コンチネンタルのようなものに乗って、万民が歓送する愛国者、どこに行っても十分に食べて着て暮らすことのできる立場の愛国者と、やつれて締め付けられて、ゴムひもを乳首と思って吸う貧乏人の愛国者と、その心情の幅においてどの愛国者の心情が深くて広くて高いか?」と聞くようになるとき、どの愛国者ですか? (「後者です」)。それがいいですか? (「はい」)。本当に? (「本当にです」) それ、病身で手の不自由な人、国を愛する途中で目が片目になり、足が一つなくなり、下肢がなくなったそのような愛国者、展覧会があるならばです。同じ級ならば四肢が完全な人を博物館に置いておきますか、国を愛する途中で手が不自由になった人を博物館に置いておきますか? 同じ級ならば? 指をもう一つ切られたものが、傷が一つ余計にあるのがより愛国者です。そのような夫をもらっていきますか? そのような夫でもいいですか? (「はい」)。ご飯は、あなたがもうけて食べさせて? その返事は悪くないですね。無条件に「はい」と言いましたね。 このようなとき、わたしが一言言えば……。恥さらしになるので、話せないですね。お話を一つしましょうか? (「はい」)。先生に対して悪口を言おうと? (「いいえ」)。女性は信じられません。その反面男性は、女性よりちょっとよいです。その代わり、どろぼう根性があります。(笑い)いいものがあれば、先生のものでも奪って財布に入れようとします。強奪の勲章がいつも付いてまわるのです。ですから、皆、信じられないのです。 皆さんは、皆さんを信じることができますか? 皆さんが皆さんを信じることができるかというのです。信じることができる人、手を挙げてみなさい? 「おお、億千万年過ぎてもわたしを信じ、神様がわたしを信じざるをえないくらいに信じる」と言う人、手を挙げてみなさい。目を見ると、そうではないようですね、この者たち! (「そうです」)。スムニダ(そうです)というのに、マッ(そのとおり)という文字がないですね。スムニダがどういう意味ですか? マッスムニダ(そのとおりです)と言わなければなりません。スムニダというので、そのとおりでないという意味です。それで、あなたを信じることができますか? (「はい」)。あなた、このごろ、何をしていますか? (「はい」)。何をしているのかと尋ねているではないですか? (笑い)(「経済の一翼を担当しています」)。経済? (「一和に勤めています」)。一和に勤めるのが経済ですか、あなたが生きるためにするのでしょう? (笑い)月給をもらっていますか、もらっていませんか? (「もらっています」)。それが何の経済ですか? もらえば教会にすべて献金しますか? (「十一条をしています」)。十一条が何ですか、こいつ! それは国のためにするのですか、自分のためにするのですか? 自分の体を売ってしても、負債を負いながらしても不足であるはずなのに……。 神様の御名で愛の根を下ろすようになるとき、真の息子、娘になる さあ、お嬢さんたち! 「お嬢さんたち」と言うので気分がいいでしょう? (「はい」)。「この女たち」と言うよりもです。(笑い)どちらがいいですか? お嬢さんがいいですか、この女がいいですか? この女という言葉は、将来、魔法性があって高くもなり、低くもなります。王女にもなることができ、皇后にもなることができるのです。お嬢さんは、一つの道しかないのです。「お嬢さん」と言えば、あの官吏の「お嬢さん」と言えば、天民と結婚できますか、できませんか? 私たち統一教会で「女たち」と言うときは、高い人としてもかまわないし、低い人としてもかまわないでしょう? 女たちがいいですか、お嬢さんがいいですか? (「女たちがいいです」)。(笑い)あなたは年を取っているみたいですね、何歳ですか? 嫁げなければ、ここに来て先生が尋ねるのにうまく答えて、先生が記憶するようにして自分を忘れないように、そのように教育しようとするでしょう? (「いいえ」)。分からないですね、何歳ですか? (「二十七です」)。それくらいにはなっているはずです。(笑い) さあ、飛行機は乗って遠くに飛んで行かなければならないし、嫁ぎ先は近くに行かなければならない。嫁ぎ先は? (「遠く行かなければなりません」)。韓国人に嫁ぎますか、中国人に嫁ぎますか? (「韓国人」)。どうせなら大きな家に嫁に行かなければならないでしょう。韓国が大きな家ですか、小さな家ですか? (「小さな家」)。小さな家ではありません、わら家! みすぼらしいから、わら家。それは大きな家の中国人がいいでしょう? 中国よりより大きい大きな家がどこですか? (「大韓民国です」)。えい! (笑い、拍手)アメリカ人は、どうですか? このように考えるとき、わたしは愛のいかり綱をこの町内に架けて生きる、太平洋にかけて往来しながら生きる、どちらが素晴らしいですか? (「太平洋です」)。考えてもみるなというのです、太平洋でしょう。どうせ橋を架けようとするなら、すてきに架けてこそ、世界万民が訪れて、後日に称賛するのではないですか? 「偉大な女性よ、見栄えはわたしより良くないが、心は偉大です」と言うので、偉大だという言葉が、そこから出てくるのです。いくら優秀だといって、そのようになるのではありません。 それで、先生は優秀な人ですか、だめな人ですか? (「優秀な人です」)。わたし、先生、優秀な人は、息子、娘になろうという人にまだなっていません。皆さんが先生の息子、娘ですか? (「違います」)。こいつらめ、先生の息子、娘ですか、違いますか? (「違います」)。違います! 皆さんを今、何かの息子、娘たちにしようと、ここに座らせるのですか? 皆さんが結婚しなくては、息子、娘になれません。堕落とは何でしょうか? サタンの息子、娘が結婚することによって始まりましたか? これを踏み超えて神様の御名で、真のご父母様の御名で、愛の根を下ろすようになるときに、天国を相続し、真の父母の所有権を相続されうる真の息子、娘になるのです。何の話か分かりましたか? (「はい」) それゆえ、統一教会の結婚式は、最大に神聖なのです。この神聖な式典を汚したり染めるなというのです。これをきれいにするために、先生は一生を使い果たしたし、一生を投入しました。神様は、数百数万年を投入しました。数多くの宗教人たちが行く道を探せないまま、今まで犠牲になってきました。人類歴史の背後で徘徊して、曲折の犠牲の垣根を高めて、サタンを防ぐために闘争をしてきたのです。この背後でどれくらいの犠牲の代価を払ったでしょうか? その値段というものは形容できないというのです。高さにすればエベレスト山が低いです。神の宝座にまで入って引っ繰り返すくらい高いというのです。 皆さんが自分勝手に生きないで三年……。先生もですね、先生が何歳のとき結婚したでしょうか? 昔、結婚したのに、またしたでしょう? 結婚して反対しなかったなら、私たちのお母様が異なっていたでしょう? 聖進の母親がお母様になっていたのではないですか? この者たち、えんえん泣いて、夫が行く道に反対して、哀れなことになったでしょう。それが、よく考えてみると、統一教会の食口たちが聖進の母親にお母様として侍ったとするなら、ちょっとひどい目に遭ったことでしょう。門前を好きなように出入りすることもできなくて……。すべて、それは天地の度数によく合わない行動をしたがゆえに、天が作戦上追い出すために反対させましたね。このごろ、わたしはそのように思っているのです。何の話か分かりますか? 皆さんも作戦上その家庭にふさわしくない女性になるときは、心がよじれて、この人と生きたくなくて、逃げたいというのです。そのようなときは、その夫が偉大な先祖になるのか、そうでなければ、悪党の先祖になるのか、二つのうちの一つになるのです。 聖進の母親の心がなぜそのように、わたしに対して、悪く考えたのでしょうか? ですから、その心の中には二種類あります。一つは偉大な未来があり、一つは悪党ですが、その二つのうちの一つだというのです。しかし先生が悪党になることはできません。先生は善良な人です。善なのと善良なのとどちらがいいですか? 善なる人になりますか、善良な人になりますか? (「善なる人になります」)。善良な人には、いつでも会えますが、善なる人にはいつでも会うことはできません。それで、先生が善良な人だという話は、失礼な言葉ではありません。善なる人は、国を代表でき、世界を代表できます。皆さんに善良な人だといっても、気分を害するなという話です。分かりますか? (「はい」) 神様の息子、娘になることは容易ではない 皆さん、神様の息子、娘になることは容易ではありません。真の父母の息子、娘になることは容易ではありません。そうなるためには皆さんの背後にサタンがついてきて讒訴できる歴史的な内容があってはならないのです。またこのように統一教会で宗教を中心として祝福をさせますが、今まで高次的な宗教では若い男女たちが結婚してはいけないと言いました。仏教もそうだし、キリスト教のパウロが教えていたのも宦官になれと言ったのです。宦官として生きろと言ったのです。そういうことを知っていますか? この前、何の道天人なのか、その人は、生殖器を切って捨てたと言っていました。原理を知っていれば、うんうんうなりながら、はい回りながら、泣いて回ることでしょう。結婚してはいけない、悪い種を繁殖してはいけないというのです。 統一教会では、わたしが結婚をしてくれるのですか、してくれないのですか? 宗教団体がこのように若い青年男女を集めて、合同結婚式をしてくれる歴史がありましたか、ありませんでしたか? (「ありませんでした」)。このような歴史は、宗教史の中で統一教会が最初です。それは驚くべきことです。先生はだめな人ではありません。偉大な人であり、優秀な人であり、すてきな人なのです。歴史上ですてきな仕事をしたのです。このように入ってきて、さらに霊界に行ってみれば……。これがどれくらいの価値があるか皆さんは、分からないことでしょう。この者たち、堕落して自分勝手に引きずって回る者たちを皆、……。そのどん底まで骨まですべて、がん細胞が繁殖して穴をあけてしまう悪い行動をし、あらゆることをします。糞犬のようなものたち、そのような連中は、こここの町内十里の外に見え隠れすることもできないのです。ここに正々堂々と座って先生の祝福を受けようと言うことはできないというのです。 ですから、かわいそうな人々は、天国に行く道がないのです。それゆえ、先生が皆さんの代わりにそのようなことをして道を開けるのです。まったく、踏まれ継ぎはぎのふろしき包みになり、においのする道を皆、出たり入ったりして、ふいてあげて、皆さんがここに来て座っているのであって、皆さんの個体としては到底望めないのです。 考えてごらんなさい。エデンの園でもこのように糞犬のような者を皆、集めて……。神様がエデンの園に堕落しないアダムとエバをつくっておいたのに、そのように結婚することを願うのが神様の理想でしょうか? サタン世界で五万種類の垢がついて汚された者たちではないですか? 皆さんの父母の中に殺人強盗がいないでしょうか、どろぼうがいないでしょうか? 何代か見れば皆、同じです。そうでありませんか? 君、お母さんとお父さんいますか? (「はい」)。おじいさんとおばあさんいますか? (「はい」)。それから、そのおじいさんとおばあさんもいるでしょう? (「はい」)。皆、善良だと思いますか? 善良だと思いますか、悪いと思いますか? 善良な人が多いと思いますか、悪い人が多いと思いますか? 善良な人が多いと思いますか? (「善良な人々が多いと思います」)。この女たち! 皆、同じです。 皆さん、一日でも心が行ったり来たりするでしょう? (「はい」)。過去の聖賢たちは「人心は、朝晩変わり、山の色は、古今同じである」と言ったのです。人は、朝晩で変わる心を持っているけれど、山の色は、変わることがありません。それを人が知らなくそうなのでしょうか? 皆さん、そうではないですか? 心がそうではないですか? 今いいといっても十年後に悪いということができ、今悪いといっても十年後にいいということができるというのです。ですから、それをどうして信じますか? そして、生まれがですね、韓国の歴史の中に、僕と両班の制度があるのですが、それが合わないのではありません。韓国はものすごかったのです。それは合うというのです。僕の何がそうですか? 堕落した血を受けたのです。血統が違うと、このように見るのです。両班は血統が違います。天道から、太初からこの宇宙が始まるとき、正統的純潔の血統を受け継いだ主流がなければなりません。そのような観点から、その主流を中心として、その傍系は、中央に入れないというのです。 それから、十代以内のおじいさんとおばあさんを皆、写真を撮ってみるならば、大したものではないというのです。皆、つまみ投げるべきものなのです。そこからつまんで使うに値する先祖たちがいないということを知らなければなりません。 では、先生の時代にもそのようなものを残したいでしょうか、なくしてしまいたいでしょうか、考えてごらんなさい。神様がそのようなものを残したいでしょうか、なくしてしまいたいでしょうか? どうですか? (「なくして……」)。なくしたいはずです。なくしたいのに、そのようになっています。ですからどうしますか? 神様もやむなく自らの血肉を削って洗う運動をしなければならないというのです。これが蕩減復帰です。分かりましたか? 家庭が行くことのできる世界的道を開くために経た苦難 それで、先生が今まで家庭が行くことのできる世界的な道を開くために、あらゆる主権者たちから迫害を受けながらも、国を超えて世界へ行くのです。世界へ行っても、監獄生活をしながら、このことをして回るのです。愚かでそうなのではないのです。分かりましたか? 米国へ行っても監獄生活をしたでしょう? レーガン行政府で「文総裁に特赦を下す運動をしよう」と言いながら大騒ぎをするのです。そのようにしなければ、今後、千年万年、白色人種が黒人種にひざまずいて僕になるのです。それをその人々は知っているのです。賢いのです。 それで皆さんの根源は何ですか? 僕の子供たちですか、何ですか? 種が何ですか? 僕たちですか、両班たちですか? (「僕たちです」)。こいつ、日本の者たちも悪口を言えば分かるではないですか? それは何の話か分かりますか? 日本食口たち、先生の話が理解できる人、手を挙げてみなさい。ここに来て今、大学に通っている人、手を挙げてみなさい。大学生たちが多いのに、先生の話を理解できなければ、皆、成績は零点もらいそうですね。 皆さん、結婚がどれほど難しいかということを知らなければなりません。聖進の母親が先生の尻さえぴたっと捕まえて、絶対服従していたならどうなったでしょうか? 今日、統一教会が迫害されるでしょうか、されないでしょうか? 四十年間に世界を皆、平らげたはずです。先生は優秀な男性でしょうか、だめな男性でしょうか? (「優秀な男性です」)。何を見て優秀だと言いますか? 鼻を見てそうですか? 違います。何を見て分かりますか? 思想、その思想を中心として、神様にまでも慰安を与えることができるのです。顔で慰安を与えるのではありません。考えが偉大なのです。 それで、皆さん、ここに来て座っている資格がありますか、ありませんか? (「ありません」)。あるという者たち、手を挙げてごらんなさい。聖進の母親が反対したので、始めるには十四年間蕩減しなければならないのです。それで、解放後十四年目にお母様を迎えたのです。そうでしょう? 一九六〇年度、十四年間……。それ、皆、知らないでしょう? その期間には先生が一人の男性として、サタン世界を代表した国の反対を受けなければならないのです。反対するのです。女性も反対し、男性も反対し、先祖も反対してすべてが反対です。その矢を受けて倒れてはならないのです。倒れてはならないのです。 それゆえ、監獄です。以北に行くようになれば、以北の監獄に入るのです。以北のすべての民たちがあざ笑い、嘲弄するのです。皆さんが行く終着点と先生が行く終着点は違います。大韓民国のすべての主権者たちと第五共和国までわたしを利用し、反対したでしょう? 米国を救いに行ったのに、米国が反対して監獄にほうり込みました。行く所ごとに監獄です。皆さん、監獄に行ってみましたか? 先生は、監獄に何度行ってきましたか? (「六回です」)。皆さん、一回でも行ってみましたか? (「行きませんでした」)。この者たち、一回も行ってみなかった者たちが、何をしにここに来ましたか? 監獄の友達が来なければならないはずなのに……。 それで、先生がだめでそうだったのですか、優秀でそうだったのですか? (「優秀で、そうでした」)。いくら優秀でもじっとしていれば、監獄に行かないでしょう。じっとしていれば行かないはずなのに、口を開き、激しくののしって「この者たち、滅びる」と呪詛するから、それはだれが喜ぶでしょうか? 嫌います。騒々しいから、処断するでしょう。それが先生の伝統です。個人的に文総裁が語るのを聞くことが嫌です。サタン世界が歴史以来、一番嫌わなければなりません。家庭的にそうでなくてはなりません。サタンが代表的個人を立てて一番嫌うのです。それで、主権者たちがそのことをしました。 それから家庭を前面に立て、氏族を前面に立て、民族を前面に立て、国家を前面に立て、世界を立て、世界にまで行って闘って、だれが勝ったでしょうか? 個人的にだれが勝ちましたか? サタン世界が勝ちましたか、先生が勝ちましたか? (「先生です」)。先生が個人的にも勝ち、家庭的にも勝ち、氏族的にも勝ち、民族的にも勝ち、国家的にも勝ち、世界的にも勝ちました。米国と闘ってだれが負けましたか? (「米国です」)。法廷に立つようになったとき、原告はアメリカ合衆国、被告は文鮮明。自由世界を代表した二億四千万アメリカ合衆国がわたし一人、大韓民国の民族でもありません。文鮮明一人だったのです。ぶつかりなさいというのです。(拍手) すべての先祖の軸は一つ さあ、それでだれが勝ちましたか? (「お父様が勝利されました」)。お父様が勝ったのです。勝ってわたしがいいと誇りましたか? 死にそうになった米国を生かしてあげるのです。今回、ブッシュ副大統領も先生ゆえに大統領になるのです。わたしが手を着ける前には二七パーセントの差がありました、デュカキスとブッシュと。しかし、わたしが引っ繰り返しました。キーック。ここに来て、先生が引っ繰り返したのです。ここに来ていながらも世界の仕事をするでしょうか、できないでしょうか? (「します」)。皆さんもできますか? (「できません」)。なぜできません? しかし、欲深い皆さんは、欲深いので先生よりもっとりっぱにしたいでしょう? やりたくないですか、やりたいですか? (「やりたいです」)。やりなさいというのです。 では、皆さんは、祝福の位置がどれほど怖いか、一つ知らなければなりません。蕩減復帰の原則において、アダムの失敗はイエス様が蕩減復帰しなければなりません。イエス様の失敗は、再臨主が来てしなければならないし、再臨主の一族は皆、イエス様が失敗した基準以上に立たなければなりません。分かりましたか、何の話か? ところが、イエス様が結婚したでしょうか? (「いいえ」)。皆さんは、ここに何をしに来ましたか? 神様の摂理的なみ旨から見るとき、アダム、イエス様、再臨時代、三時代を見るとき、皆さんの位置はイエス様よりりっぱでなければなりません。ところで、皆さんは国を持っていますか? イエス様が国を持っていたでしょうか、持てなかったでしょうか? イエス様が故郷を持ったでしょうか、持てなかったでしょうか? イエス様が何と言いましたか? 「空の鳥には巣がある。しかし、人の子には……」。それは家があるという、故郷があるという話ですか? 国があるという話ですか? (「ないという話です」)。文総裁も同じです。空を飛ぶ鳥には巣があり、きつねにも穴がありますが、先生にはありません。しかし、すべてを復帰してくるのです。その穴のくぼみを崩し、鳥の巣を崩し、その穴のくぼみの代わりをすることができ、鳥の巣の代わりをすることができる安息の場をつくるのです。それゆえ、安息の場、基盤を築いてきたのです。統一教会の行く道を、永遠に行くことのできる故郷の道を用意するのです。分かりましたか? (「はい」) イエス様が何と言いましたか? 預言者は、故郷で大切にされないと言ったでしょう? ところが、統一教会の文先生は、皆さんにどこへ行けと言いましたか? (「故郷です」)。反対なのです。故郷に行って先祖になれというのです。そのような歴史はありません。聖書にそのような教えはありません。故郷で大切にされないと言いましたが、今はもう、故郷で大切にされるときが来たというのです。それは聖書にはないでしょう? それは先生のみ言であり、間違いなく天の経綸中に現れなければならない言葉です。それゆえ、故郷に行きなさいというのです。 皆さん、祝福を受ければどこに行きますか? 考えてごらんなさい。故郷がある前に国があったでしょうか、国がある前に故郷があったでしょうか? どちらが先ですか? (「国です」)。(「故郷です」)。堕落しなければ、自分の故郷と国と世界が連結されるのです。故郷の家は、そのときの国を代表した家です。分かりますか? アダムとエバの故郷、私たちの先祖が本来出発した家は、その国の中心です。その世界の中心です。その宇宙の中心です。それゆえ、故郷がある前に、神様はすでに宇宙をつくっておき、環境をつくったのです。 国をつくり、国の中に氏族をつくり、氏族の中に家庭ができるようになるのです。逆さまになっているのです。このように来て、これがくぼみになりましたが、国の基盤の上にこのように代表者を立てたのです。堕落することによって、くぼみに落ちたのです。それで、すべてを失ってしまいました。分かりますか? (「はい」)。皆、失ってしまったのです。それゆえ、復帰なのです。それで、国、世界的に……。世界的な基準を蕩減し、国家的基準を蕩減し、それから氏族基準を蕩減し、その次は家庭的に蕩減してこそ、本来の家庭の位置に上がるのです。皆さん、それを全部やりましたか? 世界的な蕩減をしましたか? 国家的蕩減をしましたか、しませんでしたか? 氏族的蕩減をしましたか? だれがしましたか? 先生がしました、先生。 アダムが失敗することによって、すべてのものが誤ったので、アダムの身代わりとして来た先生は、父母の位置ですべての後代の後孫たちの行く道で、受難の道を残さないために、自分が犠牲になりながらこの道を乗り超え、今では世界の蕩減基準の上にすーっと……。世界の中には国家があるでしょう、国家基準。個人、家庭、氏族、民族、国家、こうして世界がこれくらいなったとするなら、国家はこのくらいです。それから氏族はこのくらいで。このようにするのです。 しかし世界の中心も、国家の中心も、氏族の中心も、家庭を離れてはなりません。これが直系です、直系。分かりましたか? (「はい」)。それは何かと言えば、そのようにすべての先祖の軸は一つです。血統の軸は一つです。二つではありません。堕落することで、これがないのです。これが生まれなかったというのです。ですから、軸がないから、数多くの国家があるでしょう。 血統転換式をしてこそ心情圏が連結される 九月二十七日は、何を語ったかといえば、「摂理的統一式」をし、十月三日は何かというと、「統一天国開天節」を宣布しました。それはどういうことかといえば、統一教会での心情圏をいいます。 心情圏というものがどこから来るかといえば、皆さんが蕩減してもできません。いくら蕩減の道を行き、死んでまた息を吹き返しても、心情圏を連結させられる道はありません。心情圏はどこを通じるかといえば、血統を通じてのみ伝授されるのです。原理のみ言をはっきり知らなければなりません。(「はい」)。分かりましたか? (「はい」) 心情圏の接触をするためには、血統的な転換過程をたどることなくしては、結婚しなくては……。それで、そのためには血統転換式をしてこそ心情圏が連結されます。分かりましたか、何の話か? (「はい」) この者たち、サタンが後ろからあなたたちを讒訴しうる内容がないでしょうか? 絹織物の巻きひもをどれほど付けていますか、この者たち? ここに来れば、昔愛した恋人も父母もありません。自分の根を考えてはいけないのです。根はただ一つ、真の父母しかありません。 堕落の血統を受けたものを割いて、血を出し、苦労をさせなくてはなりません。統一教会で苦労しなければならないのです。三年間苦労しなければなりません。七年路程を行かなければならないのです。結婚してふたりでこの汚された血統を清くするために……。 純種を残すことのできる自信があるときは、愛し合って子女を生みます。清い血統を汚しかねない行動をすれば、繁殖してはいけないのです。何の話か分かりましたか? (「はい」)。結婚の後に三年路程が残っているのです。このような観点から見れば、今までに統一教会の祝福を受けた家庭、ブルドーザーで崖に運んで、け落とすべき家庭が多いのです。はっきり知らなければなりません。分かりましたか? (「はい」) イエス様が二千年間果たせなかった新郎新婦の理念を、初めて地上に真の父母が現れて蕩減し、それを連結させてイエス様がこの位置で解放的権限を持って、先祖の前に恥ずかしくない血統的交差式を経て、皆さんを祝福の位置に立てることによって、その愛が本然の位置で根を下ろし、すべて新しい木として育つことができると見るのが、統一教会の結婚です。 これを抜けばサタンの根が出てきてはなりません。自分を考え、一族を考え、サタン世界の習慣的な、自分が豊かに生きようとする、このような者たちは、今後、皆、ブルドーザーで押し出すのです。はっきりと知らなければなりません。分かりましたか? (「はい」) それゆえ、蕩減が必要です、蕩減。死なんとする者は生き、生きんとする者は死にます。生死の境をかけてこの道を超えなければならない運命の道が、堕落した人間が行くべき道です。必然的な道になっています、これが。堕落した人間が行かなければなりません。あの世に行けないのです。 この原則は、永遠に生きています。それゆえ、祝福を受け、皆さんが皆、あの世に行っても天国に入れません。煉獄のように、家庭的な煉獄圏が生じるのを知らなければなりません。 「父と母は、わたしたちをなぜこのようにしたのか? 生まなかったらよかったのに」と息子、娘が言うように、サタンはするというのです。先祖が「こいつ、おまえがうまくすればわたしたち一家が、七十二代がすべて解放されるところを、何だ? こいつ」と言いながら……。下のサタンが、上のサタンが、先祖たちが讒訴し、息子、娘が讒訴する恐ろしい世界が、誤れば直行する道の上に芽生えるということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。それを知っているので、先生は一人でこの道を開拓するのです。途方もない背後に避けることのできない運命の道を、人類を代表した立場に立つ人が、責任を負わなければならない人が、開拓すべき責任があるからです。 その開拓が簡単なことがありません。世界の矢をすでに超えたにもかかわらず、皆さんは、個人的矢、環境的な難しさを避けて回りながら、天の願いに従いませんか? こんな人はありえないということを知らなければなりません。はっきり知らなければなりません。分かりましたか、何の話か? (はい)。この時間にも、そのような面ではっきりとした考えを持たなければなりません。 国境と怨讐をなくすことが世界平準化の絶対的条件 先生が思いのままに、でたらめにしたとするならどうなりますか? 世界が滅びるのです。こうして故郷に帰ってくるのです。世界まで行ってサタンと闘い、帰ってくるのです。帰ってくるとき、サタンがついてくることはできません。ですから還故郷を宣布するのです。南北統一を宣布するのです。 金日成、ソ連共産主義、いくら大きい国でも、民主世界、共産世界もわたしの前にあっては大口をたたけません。そのようなときなのです。全権をもって激しく押せば、すべて押されるようになっているのです。何の話か分かりますか? (「はい」)。そのような力があるのです。 今、皆さんが地方の長官たち、何かの党首たち、四党の代表たち、あのごちゃごちゃしたその人々の前に恥ずかしい生活をしてはいけないのです。堂々としていなければなりません。わたしを見習いなさいと言って、わたしに従えば生きられるという教材になるのです。 ところが、この世の出世とか、世の中の学閥だとか、世の中の何か金の力だとかいうものを所有しようという連中がいてはならないのです。何の話か分かりますか? (「はい」)。私たちは、天運に従わなくてはなりません。 これは交差時代に太平洋と大西洋が一つになって、皆、一つになって、私たちが行く道には国境がありません。世界的蕩減基準を立て、水平線をつくらなければならないので、一番近い国境と国境、怨讐と怨讐が兄弟にならなければならないし、夫にならなければならないし、妻にならなければなりません。その因縁を結ぶことが、世界平準化運動で絶対的起源であるので、先生がそのような行事のためにこれを始めたことを知らなければなりません。何の話か分かりましたか? (「はい」) 韓国人が韓国人と結婚すると言えば、統一教会の先生が実践していく、立てておいたその理想的基盤に反対するのです。厳粛に世界の先祖を取り戻している天の前に、ひざを正して、一身をささげて順応できる美しいバラの花になり、ユリの花になれというのです。何の話か分かりましたか? (「はい」)。韓国人が怨讐です。皆さんの親戚が怨讐です。今残っているのが怨讐です。私たち同士、怨讐の前に……。 なぜですか? 今、ときは、世界統一国開天節を宣布したがゆえに、私たちのために国境を論ずる人は、サタン側です。サタンは、国境をつくろうというでしょう? うん? 国境をつくろうというのではないですか? 「日本と韓国と国境をつくって」というのは大怨讐です。それは、そのままいればサタンが生きることのできる道が生じるのです。日本も生き、韓国も生きます。「キーック」けりつぶさなければなりません。三八度線撤廃です。それゆえ、緩衝地帯のような所を先生は認めません。 さあ、サタン側を女性が処理しなければなりませんか、男性が処理しなければなりませんか? (「女性がです」)。韓国に女性軍をつくり、金日成の徒党を「キーック」。きれいに清算できる力がなければなりません。天の前に威信を保つことのできる神様の娘になり、真の父母の娘になるべきことを知らなければなりません。軍隊の訓練を受けなさい。受けなさい。婚約した人が皆、帰れば、生活し始める前に軍隊の訓練をしなければなりません。女性軍訓練、女性軍訓練。女性軍訓練に行って出てくることはできませんか? どうですか? 出てくることができるでしょう? 女性軍の訓練をしなければなりません、今回の時期に皆、それくらいの気概を持つのです。 それで、全世界の統一教会の女性たちはすべて……。一つの国です。天の願いならば地の果てに着くのです。それは便利でしょう? それで、手続きを踏んであげられる人々が必要なので、先発隊を派遣しなければならないのです。これは愛の先発隊です。 地球の塊の半分が分かれて、これがずれています。水平線が合いません。水平線がぴたっと合わなかったので、皆、分かれたのです。がらくただとか、国だとか、何だとか、ぱっと支えておけば、これがすべて四方に引かれていって、転がり落ちるというのです、地球が丸いから。分かりましたか? それで、怨讐と怨讐同士、神様の御名で心情的統一圏を……。自分の国の兄弟を愛する以上に怨讐を愛することのできる基盤でのみ、天国のスタートが可能なのです。分かりましたか? (はい)。それで、先生が米国へ行ってしたことが何かというと、日本人を連れ、米国人を連れ、ドイツ人を連れて……。彼らは、第二次大戦のとき、大怨讐たちです。怨讐の国を中心として集まり、米国人以上に自由世界を愛し、米国を愛することができるように……。迫害を受けながら働いたがゆえに、天国のスタートが始まるのです。分かりましたか? ですから怨讐たちが結んだすべての垣根、すべての障壁は、皆、先生の前に来て崩れます。今、このようなことをしていく先生の道の前には、怨讐サタンが力を使えないのです。使ったなら追い出されるのです。そのようなときが来たのです。そのような自負心を持たなければなりません。分かりましたか? (「はい」) 血統を伝授されるためには、反対される道を行ってこそ それで、何をするのでしょうか? 神様の心情圏を所有するために、相続を受けなければなりません。神様の心情圏を所有するために相続を受けるには、神様の血統的因縁を連結させなければなりません。血統的因縁が連結されないことは、心情的……。お父様の心情が子女に、子女の心情が千年、万年伝授されません。分かりましたか? そのような心情圏を伝授され、血統を伝授されたその基盤の上で、初めて所有権が生成するのです。所有権が発生することを知らなければなりません。それは原理にすべて……。 郭錠煥、何をしていますか? 寝ていますか? 何の話をしましたか? 話してみなさい、わたしが話したことを! (何と答えたか聞こえない)そのようにしようとするので、私たちは蕩減の道を行かなければなりません。血統を、血統を……。この目から出る涙が四方で皆、出なければなりません。汗と涙の出るすべてのものは、サタン世界から反対されながら、その道を行かなければなりません。それが蕩減です。 血統を伝授されようとするなら、サタンが讒訴するその基盤ではだめなので、私たちは反対される道を行くのです。それゆえ、「あなたたちの母や父や娘や子女よりも、わたしをもっと愛さなければわたしにふさわしくない」とイエス様が言ったように、自分の家庭を捨て、国を捨て、先生を愛し、神様を愛そうとしているのです。そうでしょう? (「はい」) それゆえ、統一教会は、蕩減の道を行かなければなりません。蕩減をなぜしなければならないのですか? 蕩減の道をなぜ行かなければならないのですか? 蕩減の道をなぜ行かなければならないのでしょうか? サタンが付いて回るので、サタンを切ってしまわなければなりません。サタンを切ってしまうことなしには、血統圏内に、真の父母の血統圏内に接触できません。真の父母の血統と接触しなければ、神様とサタンと和合し、そこから皆、チャンポンになるのではないですか。何の話か分かりますか? (「はい」) それで、蕩減をしなければなりません。皆さんの父母が、皆さんの兄弟が皆さんを殺そうとし、反対しなければなりません。考えただけでもうんざりするくらい反対されなければなりません。さっと切ってしまわなければなりません。それが生きる道です。それゆえ、聖書に「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」という言葉があるように、逆説的な論理が形成されるのです。このような曲折の内容について述べた言葉ですが、それを解くことができませんでした。分かりましたか? (「はい」) 蕩減の道を行かなければなりませんか、行ってはなりませんか? (「行かなければなりません」)。何年間、行かなければなりませんか? (「七年間です」)。七年間行かなければならないのです。七〇〇〇年歴史を中心とした七年間、七〇〇年歴史を中心とした七年間を行かなければなりません。それゆえ、皆さんは祝福を受け、自分勝手には生きられません。三年路程を行かなければなりません。三年路程を行って、「間違いなくわたしたちは、サタン世界の血縁的な因縁を超越して、天の心情圏に一致しているので、今からは神様の心情を伝授させる息子、娘を生んでもいい」という立場で生むべきであって、そうでなくて息子、娘を生めば、霊界に行って父と母を讒訴するサタンになります、サタン。アダムとエバを讒訴したのと同じように「お母さんとお父さん、なぜ、この立場でわたしを生みましたか? きれいに清算して生むべきであって、こんな子をなぜ生みましたか?」と言うのです。サタンとの境界線が天ではありません。このように中間に来て暮らすのです。そのような子を生みますか、生みませんか? (「生みません」) 種を植え損なえればサタン扱いされる この時間に皆さん、昔、恋愛して何か愛の関係があったものはすべて、関係したそのような瞬間は、夢にもなかったと考えなければなりません。そのようなことを考えてはだめなのです。この者たち、分かりましたか? ここの協会長は、そのような面で、皆、はっきりしなければなりません。(「はい」)。朴普煕もそうだし、郭錠煥も皆……。適当にではいけないのです。原則は、千年万年、あの世に行っても適用されるのです。皆さん、ここにごまかして座っていてごらんなさい。皆さんがごまかして祝福を容認してごらんなさい。一族の範囲で引っかかります。皆さんの父母まで、皆さんの先祖まで、皆さんの子孫まで、逆賊の子孫になるのです。逃れるのが難しいのです。ですから、ここは厳しい位置です。分かりましたか? (「はい」) イエス様が二千年間国家を求めていき、蕩減させておいたその国家に、イエス様が行く道に反対する人が一人もいないようにしておいて、行って結婚できるその立場なのです。分かりましたか? (「はい」)。種を植え損なえば大変なことになるというのです。先生も同じです。先生も無責任な種を残しません。分かりましたか、この者たち? (「はい」) 統一教会は、このような血統的結婚を結ばなければなりません。このような婚約祝福式が皆、その式です。 男性は一人です。女性は一人です。二人はありえません。離婚はありえません。 このような歴史を見るとき、これをどのように避けるか? 先生は、今も心配なのです。心配なのです。それは幸せになるか見ましょう。祝福受けて、出ていって、自分勝手に行って、どこかに行って……。世界が皆、わたしたちの天地です。追っていってくぼみに掃き入れて、出来損ないまでも見えないように火で燃やしてしまうのです。その父母が火で燃やしてしまうのです、父母が。わたしは手をつけないのです。父母が、兄弟が燃やすことが起こるかもしれないというのです。邪悪なサタンがばらまいた、この悪魔の根本がすべて結実したこの淫乱の世界を清算しなければなりません。それは先生の使命であり、皆さんの使命です。分かりましたか? (「はい」) それにもかかわらず、皆、それをぶら下げて回りながら、そのような行動をできるかというのです。わたしがじっとしていても、霊界に行き……。霊界に行ってみなさいというのです。悪魔が張り飛ばすのです、悪魔が。サタンが「こいつめ、わたしは長成期完成級で堕落したが、おまえは完成期完成級で、ご父母様の血統まで蹂躙した者ではないか、こいつめ」と言いながら……。何の話か分かりましたか? (「はい」) サタンが悪魔扱いします。恐ろしい立場です。分かりましたか? (「はい」)。祝福してもらうことを希望したでしょう? 願いましたか、願いませんでしたか? 願う前に自分自身が不足なことを清算するためにせかなければならないはずなのに、この者たち、祝福ですって? 先生がそれで、深刻なのです。この野良犬のような者たち、この女たちが汚したものを、東西南北に道を先生が開いてあげないと生きる道がないのです。先生を皆さんが絶対信じ、絶対服従し、絶対愛し、絶対行動するところにおいてのみ、皆さんの行く道が生まれるのです。ここに異議がありえません。これをはっきり知らなければなりません。(「はい」)。そのような意味で、そのようになった位置で和するのです。そのようになった天の人を中心として和する、偽りのサタン世界、それ自体を中心としては和しはしません。 では、サタンと神様と、あの妻一人を中心として、昼にはサタンが愛し、夜には神様が愛することができますか? エバは体の父母です。外的な母です。神様の夫人です。アダムは何でしょうか? アダムは神様の体です。ところが、これを犯したというのです、これを。 今まで未完成だったがゆえに、それを皆、切ってしまい、えぐって、付けるのです。肉が残っているというのです、肉が。肉は何かというと、真の父母の肉です。真の父母の愛が残っているので、それが復帰できるのであって、それがなければできません。到達する道理がありません、すべてぺちゃんこで。何の話か分かりましたか? 蕩減の道を行く理由 蕩減の道をなぜ行かなければなりませんか? (「……」)。蕩減の道をなぜ行かなければなりませんか? (「サタン分立をするためです」)。サタン分立をして何をしようというのですか? (「神様の血統を受け継ぐためです」)。真のご父母様の血統圏に加入しなければなりません。皆さん、今、ある堕落圏が何ですか? サタンの血統圏です。それを超えるのがそのように難しいのです。その峠で数多くの聖人、数多くの民族、数多くの義人が皆、虐殺されました。先生もそのうちの一人です。サタンが行く道とサタンを包囲できる方法を知っていたがゆえに、今まで生き残ったのであって、その道を知らなければ死にます、死ぬ。先生は何を残しておきたいでしょうか? 殺したいけれど、殺せないように、先生がうまく抜け出すので生き残ったのです。 蕩減の道をなぜ行かなければなりませんか? (「サタン分立……」)。サタン分立をして何をするですって? (「真のご父母様の血統を受け継がなければ……」)。血統を受け継いで、何をするですって? (「心情圏……」)。心情圏、神様の愛を相続し、千年万年神様とともに暮らすことのできる位置に安着するのです。サタンを分立し、血統を転換しなければなりません。百八十度転換しなければなりません。皆さん、ここ入って、今後は、父母、お兄さんたちも訪ねてくることもできません。先生は、そのように生きました、先生も。分かりましたか? そのようなときは、わたしの肌や何も、サタン世界に見せはしませんでした、先生も。先生を腕以上に見た人はいません。このごろは皆、脱いでいるでしょう? 膝以上を見た人はいません。監獄生活をしながら汗を流したり、皆、しましたが、自分の肌を見せはしませんでした。節制があり、節操がなければならないというのです。 それで、お母様に対してわたしが解放してあげないと、お母様も今、思いのままにできないのです。女性は、まだらなものを着てみたいでしょう? クジャクは、クジャクの姿を備えなければならないのであって、クジャクがコウノトリのようになってどうしますか? それはクジャクでもありません。それゆえ、すべて自分が置かれた立場に立つことのできる格位を備えることができなければなりません。分かりましたか? 統一教会は、皆さんの堕落圏的な思いのままに生きられません。やー! 君、名前は何ですか? 眠気が来ますか? 君、いつ入ってきましたか? えい、君、いつ入ってきましたか? 君? ああ、白いネクタイ。その横、どこから来ましたか? 君です。君! どこから来ましたか? うん? どこから来たか尋ねているではないですか? (「大邱から……」)。大邱から来たので、うとうとするのですね。(笑い)わたしが何の話をしたのか分かりますか? うん? 何の話をしたか分かるかと言っているのです。(「……」)。これ、深刻です。深刻だというのです。先生が話しているのは、深刻な話をしているのです。先生がこのようなことを知ったので、どれほど気がふさがりますか? これを知ったので、聖進の母親も皆、一つの峠を超えながら再び訪ねてこなければなりません。七年路程を歩まなければならないというのです。赤ん坊とともに母子協助し、この地上において、エバの運命がすべて縦的基準立てられなかった夫を訪ねていく、この地球星においてそのような七年間、赤ん坊を抱いてその赤ん坊をこの地上のいかなる王子よりも大切に育てなければならないというのです。自分が死ぬとしても、残してあげなければならないというのです。皆、超えていかなくてはなりません、険山峻嶺を。国家を代表し、世界を代表して超えていくべき七年路程が残っているということを、自分の婚約段階で皆、話したのです。このようなわたしなので、このような公的な道を行く人なので、この道を行けるかと、そのとき、すべて話しました。それが実際そのようになるとは思わなかったでしょう。ぴたっとそのままするのです。 男の行く道と女性の行く道 皆さんも同じです。夫が七年間け飛ばせば、不平を言えないのです。赤ん坊を父母のいる子女以上に育てなければならないし、そのようなことをしなければならないのです。何の話か分かりますか? (「はい」) この男性たちを動員し、皆、以北に七年間派遣すれば、派遣するのであって、中国大陸に派遣すればするのであって、嫌だと言えますか? (「言えません」)。では、皆さん(女性)は赤ん坊を皆、家もなく、食べるものもなくても、もうけて食べさせなくてはなりません。 聖進の母親もそれはしました。聖進を背負って回りながら、リンゴ売りもしたしですね、警察に追い回されたり、皆、しました。そのような話を聞きながらも、わたしは心が動きませんでした。男が行く道と女性の行く道は違います。「国を選んで行かなければならないのが男の道であり、家庭を選んで行くべきなのが妻の道なので、あなたは妻の道を行きなさい。わたしは国を選ぶことのできるそのときのために行って、選ぶことができれば会おう。七年路程には会うとは考えるな」と言ったのです。何の話か分かりますか? (「はい」) それで、深刻なのです。先生は、そのようなことをするのがよかったでしょうか、悪かったでしょうか? 明らかに知っていながらもしかたないのです。公人はそういうものです。公人が私人と、私的な人と異なるのはそれです。公的な責任を優先させて行こうとするのが公人です。公的な人です。分かりましたか? (「はい」) 皆さんも今、家庭を中心として、結婚するには、昔には皆さん同士で結婚しましたが、今は国家と国家が額を合わせなくてはなりません。日本と韓国と額を合わせなければなりませんか、合わせてはなりませんか? (「合わせなければなりません」)。それ、額を合わせれば、女性と女性の額を合わせなければなりませんか、女性と男性と額を合わせなければなりませんか? (「女性と男性です」)。またそのようにしておいて、女性と女性、それから男性と男性、このように合わせてもかまわないというのです。そのようなときが来たのです。 皆さん、頭がどこに触れなければならないですって? 米国、ソ連、中共、四大強国に頭を合わせなければなりません。ソ連のゴルバチョフの息子が結婚すると言えば、韓国の女性とかちんと結婚させてあげるのです。(笑い)祝福さえ受ければ、共産世界は一朝一夕に統一教会の食口になるのです。 それをなぜしませんか? それはしたいですか、したくないですか? (「したいです」)。ソ連の言葉も知らないのに? ソ連のやつら、共産党のやつが乗ってきて愛そうとしても、それは愛することができますか? ああ、怖いというでしょう。見ることもできない、目が真っ青な北極熊がですね、熊が来て乗って座ろうとするのに、歓迎できますか? 神様の御名によってオーケーするのです。いつでも歓迎です。そうでなければなりません。(拍手) お母様もですね、わたしが年上ですか、お母様が年上ですか? (「お父様が年上です」)。何歳上ですか? (「二十三歳です」)。二十三歳上より、四十歳ほどなら、ぴたっといいのです。四十年がぴたっと違って一度結婚すればいいはずですが、二十三歳はあまりにも惜しいです。(笑い)四十年の差だというとき、お母様が十六歳、十七歳くらいになって、結婚するとき、オーケーするでしょうか? どうですか? 皆さんは、どうですか? 皆さん、どうですか? 皆さんできますか、できませんか? 幼くてしませんか? (「します」)。幼くてもしなければならないでしょう。では、すると思いますか、しないと思いますか? (「します」)。先生でなく、世の中の男性なら? (笑い)いや、統一教会の男性なら? (「しません」)。(笑い)なぜしませんか? 同じではないですか、先生の息子、娘なのに。しなければなりませんか、してはなりませんか? (「しなければなりません」)。年齢が問題ではありません、年齢が。 蕩減は同じ立地条件を立てておいてする 年齢がなぜ問題ではないかといえば、私たちは母も失ってしまったし、姉も失ってしまったし、妻も失ってしまった人です。私たちはお父さんを失ってしまったし、それから兄さんを失ってしまったし、新郎を失ってしまった人々です。男性がいれば兄さんのように、夫のように、お父さんのように愛せというのです。それを提唱する人です。それ、何の話か分かりますか? 蕩減をしなければならないのに、蕩減のような環境において、同じ立地的条件を立てておいて蕩減する法が蕩減法です。分かりましたか? では、エバが堕落することによって、いくつ心情を失ってしまいましたか? お父さんの心情を失ってしまいました。それを知らなければなりません。兄さんの心情を蹂躙しました。夫の心情を蹂躙しました。 この三大心情をどこで蕩減しなければならないでしょうか? 木石を立てておいてこれを蕩減できる道ならば、千秋の願いをかけていくべきエバの身を考えると、年齢が問題ですか? かかしのような男がいても、その心情が復帰されるという、恨を解くことができる道があるなら、どんなことでもできないでしょうか、このような心を持たなければなりません。何の話か分かりましたか? (「はい」) ところが、しませんか? (「します」)。この女たち、股を裂いて皆、焼いて、はげわしの餌に……。深刻な話です。分かりましたか、この統一教会の女たち? 「女(カンナ)」というのは嫁に行ったか(シーチブ カンナ)という言葉なのです。(笑い)嫁に行ったか(シーチブ カゲンナ)のいとこが、行ったか(カンナ)です。嫁に行ったか(シーチブ カゲンナ)、行ったか(カンナ)、どちらがいいですか? (「嫁に行ったか〔シーチブ カゲンナ〕です」)。皆さんは嫁に行ったか(シーチブ カゲンナ)ですか、嫁に行ったか? 嫁に行ったかも偽物です。 三大心情圏を蕩減復帰すべきこれは三人種を中心として、三大人種を超えなければなりません。三大国境を行き来しなければならないし、三大道を行き来しなければならないし、三つの郡を行き来しなければなりません、この七年路程では。それで、愛を中心としては、四大人種を超えなければなりません。 ところが、皆さんがそれをできないので、皆さんは、今後、韓国人と結婚すれば、娘婿は、白人をもらわなければなりません。それからスパニッシュ系、それから黒人……。一戸の中にそのように五色人種を率いて暮らせることが、神様の心情圏に新しく勃発する氏族になるのであり、民族になるのだというのです。 ところが、日本人同士、韓国人同士、中国人同士、何同士? とんでもないことです。分かりましたか、分かりませんか? (「分かりました」)。「分かりました」という人、どれ、目をつぶって、いや、目を真っすぐに見開いて、両手を挙げなさい! それ、手を見ると、手がとてもかわいいので、手を皆、切ってわたしが財布に入れて下げていけばよさそうですね。(笑い、拍手) 小山田や日本食口にすでに、わたしが米国から来るときから、今回韓国に行けば、結婚は、韓国男性は日本女性をもらわざるをえないし、(笑い)また日本男性は韓国女性をもらわざるをえないとしたのに、皆さんは、彼らにどう対しましたか? 母として対さなくてはなりません、母として。 復帰世界が正しくなることならば犠牲の場でも行ってこそ 堕落は何かというと、神様の母を犯したのです。ですから、母のように尊敬し、姉のように尊敬してから妻のように愛さなければならないのです。それ、何の話か分かりますか? さあ、「私を嫁がせてくれ」という人、手を挙げてみなさい。(笑い)下ろしなさい、下ろしなさい! (笑い)挙げなかった人、手を挙げなさい。この女たち、それは冗談ではありません。挙げなかった人、手を挙げなさい! これ、もう一度しますか? (「はい」〔女性〕)。しません。(笑い) さあ、男性たちはどうですか、男性たちは。男性たちはどうしますか? 今、わたしが何かを尋ねているではないですか? うん? (「結婚させてください……」)。(「結婚させてください」)。(笑い)それ、「結婚させてください」という人、手を挙げてみなさい。下ろしなさい。挙げなかった人、手を挙げなさい。だれのために挙げませんでしたか、だれのために? 女性が挙げなかったがゆえに、叱責受けてはだめなので、叱責を受けないように、女性ゆえに挙げませんでしたか? (「違います」) ですから、女性に同情してどこにでも婿に行きますか? うん? この者たち! 女性に同情しても婿に行きますか? この者たち、どうですか、行きますか、行きませんか! 結婚させてあげれば結婚するかと尋ねたのに、なぜ返事をしませんか? 結婚すると言ったでしょう? (「はい」)。女性を同情する立場で結婚しますか、結婚しませんか? (「結婚します」〔小さな声で〕)。結婚しますか、結婚しませんか? (「結婚します!」) では、結婚しないという人、手を挙げてみなさい。(笑い)では、結婚するという人、手を挙げてみなさい。この者たち、手を挙げてみなさい。(笑い)その話は何かというと、女性を同情し始めるときは、男性は二十二歳であり、女性は四十二歳でも婿に行くという話なのです。(笑い)なぜ、なぜ……。この者たち、なぜ大騒ぎしますか? 先生もですね、先生が四十歳になって十七歳のお母様を連れてきたので、それはどろぼうでしょう? それを先生は知らなかったでしょうか、分かっていたでしょうか? ああ、花嫁がどれほど多いですか? おてんばな女博士がいないでしょうか、ただ列をつくって「わたしは宇宙の母だ」と、けんかをしながら、三代が束になってありとあらゆる大騒ぎをするのですが、何も知らない純真な乙女を、嫁ぎ先も知らない乙女に「君、わたしに嫁ぎなさい」というなら、それがどれほど失礼で、どれほどたちの悪い男性ですか? うん? その女性が気分悪いでしょうか、気分いいでしょうか? そのとき「いいえ」と一言言ったとするなら、どうなるでしょうか? ここに来て座っているでしょうか、座っていられないでしょうか? (笑い)座っているか、考えてごらんなさい。(拍手)一言で天下が行ったり来たりします。 わたしが、もし四十を超えて結婚するきょうこの日に、「ああ、それは年を取っていてだめだ」という女性がいてです。それからとてもハンサムな男性がいるから、しかたなくしてやったとすれば、先生の心が気分いいでしょうか、気分悪いでしょうか? (「いいです」)。それでは、どうでしょうか? 祝福を手厚くしてあげるのです。「この息子、娘たちが一人娘を生んだり、一人息子を生むようになれば、この国で皇族になるべし」と祝福をしてあげる心の囲いがあるということを知らなければなりません、この者たち! 何の話か分かりましたか? (「はい」) このような話を聞けば「ああ、わたしも年を取った新婦をもらわなければならない」と、どろぼうたちは考えるでしょう。うん? (「違います」)。違うという人は、もらってあげます。どうしますか。ああ、十年くらい―元弼、元弼兄さんが何歳上ですか? 鄭達玉が? 何歳上ですか? (「八歳上です」)。八歳上です、八年上。 私たち統一教会の先生とお母様と何歳上ですか? (「二十三歳上です」)。二十三歳くらいの差は、こちらへ行っても大丈夫だし、あっちへ行っても大丈夫なのではないですか? 違いますか? こいつ、君、何歳ですか、なぜ笑いますか? あのお母さんのような人と結婚できる役事が展開してこそ、復帰世界が正しくなるなら、どうしますか? (「しなければなりません」)。しなければならないのに、なぜするのを尋ねますか? それは、「おばあさんのような人と結婚しなさい」と言えば、どうするつもりですか? (「しなければなりません」)。(笑い)三代です。三代をつづらなければなりません、三代。復帰歴史は、三段階を切ってするからです。皆さんがおばあさん復帰歴史。その次には、お母さん復帰歴史、それから娘復帰歴史、このように三代歴史、三時代を分けてするといいながら、皆さんにおばあさん圏蕩減新婦をもらえといえば、どうしますか? 嫌ですか? 嫌なら追放されるのです。 多くのひよこの中で、祭物が何羽になりますか? 多くの鳥のひなの中で祭物が何羽になりますか? (「一羽です」)。ひなは? (「一羽です」)。「その一羽の中に、何かの罪が多くて、何かの罰をわたしが受けるだろうか」このような話をすれば、罰を受けるのです、本当に。「一羽中でわたしを選べばどれほどいいだろうか」そのように考えたくないでしょう? かわいらしい女性であるほど、ごたごたと色とりどりな色合いを持つほど、そのような心を持ちたくないのが女性の心だというのです。そうですか、そうではありませんか? 一羽のひよこになりますか、千羽のひよこになりますか? 千羽の中の一羽になりますか、千羽を代表した一羽になりますか? どちらですか? (「代表した一羽です」)。目ん玉を抜いて、鼻を切って、これをすべて切って血が流れるはずですが、いいですか? (「いいです」)。そのような心が必要です。そのような心を持たなければならないのです。心の姿勢が。心の姿勢が。体がそのような犠牲の位置に行っても、わたしの心の姿勢は、そのような犠牲の位置に行かなければなりません。 心情圏が作られれば環境の基盤は、自然に生じる それで、国を収拾しなければなりません。日本の国と韓国の国と怨讐になれば、これどうなりますか? 日本人は韓国と根が同じですか、同じではないですか? 最近ではすべて知らされたでしょう? (「はい」)。小山田、何古墳? (藤ノ木古墳)。藤ノ木? (「はい」) それで、皆さんは、日本の男性をだれのように考えなければならないですって? お父さんのように、兄さんのように、新郎のように考えなければなりません。統一国宣布をしたこの基台の上において、国家と国家、大韓民国と日本が怨讐ですが、このような国々が愛で神様の心情圏を溶かし出すことができる伝統的根を下ろしておくことによって、日本は自然についてきます。分かりましたか? (「はい」)。愛する人を打つことはできません。それをここでするのです。 それから、エバ国家である日本についていくべき米国は、日本を逃すことができません。ぴたっとそのようになっているのです。貿易逆調になってこれがすべて……。エバ国家の所有権を失ってしまったでしょう? 世界的にこの世界の物質的なすべてを持ってきました。これが、今、どこへ行くかと言えば、カイン、アベルを通して、アベルを通し、カインを通し、エバを通じて、母を通じて父を通じて神様の前へ帰るのです。 それゆえ、相対的基準でアダム国家の前に、日本は日本の基盤を持って帰ってこなければなりません。分かりましたか? それで、先生が日本の基盤を持ってきて、韓国に植えるのです。そうだというのです。心情に従って、すべてのものは動いていかなければなりません。ですから、この心情圏をつくることによって、これからアジアに一つの定着地になって、男性と女性が東西南北で回るのです。そうなれば、ここに環境の基盤は、自然に生まれます。 大韓民国が十二年間、このように発展した恩賜は、その環境的基盤を準備するためです。日本の国とアダム国家が出会うことのできる環境を準備するために、ソ連と中共までも、米国と日本までもすべてこの版図に弄ばれているのです。それで、ソウルオリンピック大会を中心として、それが内外にぴったり合って、世界統一国を宣布したのが、今回の先生の宣布なのです。分かりましたか? (「はい」)。具体的な内容はよく分からないが、とにかくそのように信じますか。(「はい」)。時間がないのです。今から、何時間後に二千人をあっという間に結んであげ、日が沈む前に夕食をわたしが食べなければなりません。(拍手) さあ、それで、日本ではですね。それで、ここに集まった男性たち、ここに集まった女性たち、先に結んであげましょうか? 韓国語だいたい理解できるでしょう? うん? (「はい」)。理解できるでしょう? (「はい」)。韓国がもっといいですか? (「はい、いいです」)。(笑い)韓国は、ちょっと違うのです。日本と違うのです。違うでしょう? 韓国は男性です。男性的なのです。日本人より男性的だというのです。 それゆえ、日本の女性は、韓国の男性をもらうことことによって、思いどおりできません。これがちょっと違うのです。また韓国の女性は、日本の男性たちに対して思いどおりできません。また違うのです。ですから、異変が生じます。その代わり、だれについて行かなければならないかと言えば、韓国の男性が日本の女性について行ってはだめです。また、韓国の女性が日本の男性について行ってはだめです。(笑い、拍手)違います、それは。考えてみなさい。 それはわたしの話ではなく、原理のみ言です、原理。(笑い)日本人といえば二人の人です。日本の国がエバならば、二人がエバではないですか? この二人の男性と女性が、一人は右側であり、一人は左側ではないですか? 縦的に見れば、上下であり、そうだというのです。 男性世界に来て女性世界の男性でも、女性と一緒に暮らさなければなりません。男性と一緒に暮らせば反発するのです。プラスとプラスは反発するではないですか? (笑い)それが原理観なのになぜ笑いますか? ですから日本の男性でも、韓国の女性はアダム国家の女性なので、そこに来てくっつくためには、そのマイナスの前に絶対服従しなければなりません。こわばって立ったなら反発するのです。(笑い)プラス、マイナスの道理がそうではないですか? (拍手)また、日本の女性たちは、韓国の伝統的なアダム文化圏を繁殖させなければなりません。分かりましたか、分かりませんか? (「分かりました」) きょう、韓国語と日本語を話すので、わたしが変になりました。(笑い)よく分からないといいながら七十パーセント分かるというので、はっきりと分からせるために、わたしが日本語も話し、韓国語も話すので時間がたくさん過ぎました。どこに行きましたか、ハンカチ。そこにわたしが置きましたか、お母様が置きましたか? わたしがここに置いたのに、そこに行っていたから、捜せませんでしたか? (笑い) さあ、皆さんの心の状態に複雑なすべての環境は、すべて消えてしまって、今み旨を行く道だけが残っているというのです。分かりましたか? (「はい」)。そうでしょう。そこに順応しようという人、手を挙げてみなさい。はい、ありがとうございます。ありがとうございます。(笑い、拍手) 昼食食べよう、やめよう? (笑い)昼食、食べさせてください、食べよう? (「食べさせてください」)。(笑い)「食べさせてください」と言うより「食べよう」と言うのがもっと近くないですか? 「愛してください」がいいですか、「愛します」がいいですか? どちらがいいですか? (「します」)。(笑い)結婚すれば、自分の夫に「愛します」と言えば、もう分かるのです。それは何の話か分かりますか? 女性が「愛します」と言うときは、「私を完全に占領してください」ということです。 そうなれば、男性は目を真っ赤にして、「そうか」といって理解するのです。それで、女性もだれかが占領してくれることを願うでしょう? 何が? 愛の親分が。これは男性も同じです。愛の前に占領されたいのです。女性は、横になっていても男性を占領しているというのです。それは愛だけが可能だというのです。分かりましたか? ときには男性が上に上がってもかまわないでしょう? そのようなことを知っていますか? なぜ笑いますか? それで、女性は胸が分厚いですか、平たいですか? (「分厚いです」)。分厚いのに月経のとき、このように適期になれば、これがむずむずするでしょう? 「ああ……」面白い話をするのに、何です、この者たちは! (笑い) さあ、女性は胸が真ん丸いですか、真ん丸くないですか? (「真ん丸いです」)。丸いですか、丸くないですか? (「丸いです」)。丸いです。ですから、月のものが来るときは、ここがむずむずするでしょう? (「はい」)。そうですか、そうではありませんか? これが、真っ黒になり。うん? (「はい」)。それはどういうことかと言えば、花で言えば、つぼみが生じて、ぱーっと咲くようになれば、ちょうちょや蜂を迎えることができる徴兆が現れた。「君、注意しなさい」という言葉なのです。 ところで、むずむずするその胸を男のような手が行って、ぱっと握ってあげるのがいいですか、握ってあげないのがいいですか? (笑い)ああ、これ、露骨に話すのです。(笑い)今まではこちんこちんの唐変木のようにしましたがです。これが、今さっとークリも旬になれば、クリのいがが開き、「中に隠れている宝物を奪って食べてください」というように、広げてくれるのと同じように、女性がボタンをいくつかかけ、ピンをいくつかつけたものを皆、外すのです。 こうしておいて、寝るときはです。嫁に行きたいときは、ボタンをすべて外しておき、自分の手でもみながら、このように寝るのです。そうでない女性は、事故の女性です。そうでない女性は、おかしな女性なのです。(笑い)そのようなものです、生理的に。ああ、この雌牛も春の季節になれば、大きくなれば、もうにおいをかぐのです。さっと、雄牛のにおいを「ふうーん」と。においは、女性がかぐようになっています。 そして、雄牛のにおいがすれば、小便くさいにおいなのかわたしは知りません、何のにおいなのか。においがすれば、頭が割れても、垣根を乗り超えて直行するのです。そのようにさっと行って、こすりつけます。こすりつけるのです。(笑い)世の中万事がそうなのに、万物の霊長がそうではないでしょうか? ですから、「私の胸をだれが触ってくれるか?」と言いながら、恋しがりませんか? 恋しいですか、恋しくないですか? (「恋しいです」)。(笑い)それは、恋しいという女性は、純真な女性ではありません。(笑い)「恥ずかしくて、恥ずかしくて、口がすでに恋しいですが、どうして答えますか?」と言うべきでしょう。そうなのです。そのようなものなのです。 それゆえ、あの盗賊のような人々が待っているのです。(笑われる)愛に占領されるのは幸福なのです。 そのように思って……。愛が貴いのです。完全に男性や女性やその共同世界につまみ入れて、低くてもいいし、高くてもいいし、これくらいの女性が……。大学を卒業してこそ男性なのかという言葉があるではないですか? 愛ならばそれでいいという韓国の歌もあるではないですか? そのように思って、口を開いてはだめです、乙女たち! そのように思ってよく準備しなさい。(拍手)(昼食) 植えたとおり結実するようになっている世の中 皆さん、韓国語ができない人がいますか? 韓国語は皆、できますか? (「はい」)。どれくらいになりましたか? 最近来た人たちは、何か月になりましたか? (「一か月以上になりました」)。一か月以上になったですって? (「はい」)。君も一か月前に来ましたか? (「はい」)。一か月なら分からないでしょう、一か月なら分からないではないですか? 皆さん、韓国の男性たち連れていこうと韓国に来ましたか? 韓国に何をしに来ましたか? ここの女性たち、二列ですか? 二列ですか? (「はい」)。何人ですか、二百人になりますか? (「それほどにはならないと思います」)。ならないですって? (「日本の女性が九十一人です」)。日本の女性が九十一人ですか? (「はい、それから日本の男性が百七十一人です」)。それで、全部で何人ですか? (「二百六十二人です」)。二百六十二人? (「はい」) この人たちは、皆、年が幼いではないですか? 君、何歳ですか? (「二十六歳です」)。年齢が一番幼い人は何歳ですか? 君、何歳ですか? (「二十四歳です」)。君も婿に行きますか? (笑い)何の話か分かりませんか? 男性と女性と何が違いますか? (「……」) それで、よく見てみると皆、女性のようです。(「違います」)。女性みたいです。ところで、統一教会の女性は皆、美人です。(拍手)違います、違います! 統一教会の女性は、皆、美人だったのです。統一教会に入れば、神様のように思えるくらい、顔が大きかったものも小さくなり、また余りにも小さければふつうによくなり、皆、そうです。皆さんは知りません。一日、二日、心がそのように円満になれば,自然に棟梁の垂木のように似ていくのです。 この世を見詰めれば、さっきも少し話しましたが、世の中すべてのものは、植えたとおりに刈り取るのです。植えたとおり世の中は実を結ぶようになっています。エデンの園でアダムとエバが物陰で堕落したでしょう? 今、そのようなことが全世界的に露出するときです。世界の青少年たちが皆、アダムとエバのように、堕落したそのような段階の世界的な実を結ばせたのです。 今日、これがむやみにこのようになったのではありません。秋になったので、悪い実は抜き取ってしまわなければなりません。秋になったので、悪い実は皆、刈り取って、火に放り込まなければなりません。そして、いい実は、主人の食卓に上がらなければならないのです。 それと同じように蒔いたとおりに刈り取るのです。それで、秋の季節になったがゆえに、今日の世界の青少年たちが問題です。若者たち、十代、ティーンエージャー時代が問題なのです。それがむやみにそうなのではありません。それが最近、ストリーキングといって、丸裸になって走るのです。いくらか前にも、米国で丸裸になって走ったりしたのです。そのような運動が今からは過ぎ去ります。そのような期間が二十年行きます。二十年ほど続きます。 それから今、米国も見れば、今、学生たちが保守世界に帰りつつあります。七十年代、八十年代、今九十年代が近づくので、保守世界に立ち入っています。それだけ昔、旧時代に反対し、すべて新しい何かを追求していくと大騒ぎした自由主義型大学の学生たちが、今では旧時代に帰らなければならないというのです。それで、今、保守世界に帰りつつあるのです。 それが何かというと、摂理のみ旨に従うことのできる神様の準備であり、混乱したこの世を審判してしまうためのものだというのです。そのようなものを刈り取ってしまって、新しく今、新しいものを植えるための天の作戦だということを知らなければなりません。何の話か分かりましたか? (「はい」) そうなれば、実を植えるにあって韓国は韓国に植え、日本は日本に植えたといって、それがあたかも韓国のものだと考えてはいけないのです。それは世界的でなければなりません。 国際平和高速道路が置かれれば これから世界は、どんどんどんどんと交流するようになります。先生がそれで、今まで国際平和高速道路を施設することを提唱しました。すでに一九八一年度に提唱しました。それはどういうことかといえば、国境なく往来することです。国境がないのです。四車線の道路を中心として、左右側の四キロメートルずつ、八キロメートル外には干渉できますが、日本なら日本が平和高速道路に通じるその左右側八キロメートルの外は干渉できますが、それ以内には絶対に干渉できないようにするのです。その地帯をどこでも絶対不可侵地域として設定させ、世界のすべての人々が往来できるようにするのです。そこにさえ入れば国境がないというのです。いくら走ってもだれも反対しません。 このごろ、交通事故ゆえに反対するといいますが、ドイツに行ってみれば、ドイツは速度制限がありません。それゆえ、どれほど速力を出すかしれません。速力を出すといえば、自動車に乗った四人、五人が皆、緊張します。注意を喚起して「さあ、最高速力!」と、そのようなときは、皆がつかまって、こうしています。それゆえ、運転手が少しだけ目をうっかり誤ればくたばるのです。分かりましたか? (笑い)そのようにすべてが一つになって乗るので、事故がもっと起こらないというのです。事故がもっと起こらないということです。 そして、そのようないい車、ベンツのようないい車に乗ってぱっと踏み始めれば百二十から百二十五マイル、百七十五マイルまで出ます。ですから飛行機のようです。飛行機が百マイルなら飛びますから。ですから道端に小さな、よくない車は三車線なら、その車線には入れません。入ってくれば、すぐ出なければなりません。そのように各自が皆、注意するので、事故がないというのです。それと同じように、今後、平和高速道路さえ生じるようになれば、勝手に走りなさいというのです。ありのままに走りなさいというのです。そこは黄色も青色も、白人も黒人も区別なくです。あなたたちは黒人なのであちらへ行って、あなたたちは白人なのでこちらへ行って、それがありません。ですから、その話は何かというと、人種もなくなるというのです。 皆さん、一時間に二百マイル走れば、日本には数時間以内に行くようになります。どこでも一日あれば行きます。ここからどこへでも行くことができるのです。ですから、時間を制約する環境時代は過ぎ去るというのです。それで、その高速道路を通過するところは文化の差がなくなります。皆、そこに入れば同じ同族です。 そのように見るときに、ここから中国にも一日で行ったり来たりし、ここからロンドンまでも二日ならば行くことができるはずです。二日ならば行くでしょう。そうでしょう? そのような時代が来るはずです。飛行機のチケットがないといって、行けないのがありません。お金をたくさん出して行く必要がないのです。ガス時代においては行ってなくなれば、入れればいいのです。そのように走ればいいのです。そのような時代が来るのです。 ですから国境に制限されるそのような時代は過ぎるというのです。それは世界が皆、願います。しかも私たちのみ旨から見れば、これは絶対的にそうでなければなりません。先生がこのように始めましたが、あえてだれかが止めるでしょうか?一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.04
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※ 10月14日はお父様の興南出監記念日です。その日に語られたみ言ですが、この中には「神様=天の父母様」についても語られていました。また、6500双の韓日・日韓の交差交代祝福式の話もされていました。「神のみ旨を中心とする宗教圏の統一」1988年10月14日 宗教の道と哲学の道 宗教生活は一般の生活と違うということを、私たちはよく知っています。宗教とは神に出会って、神と共に生きる道であり、哲学とは、すべての知識と文化的背景による世界観や思想的観を中心として、神を探し求めていく道なのです。ですから、今日まで歴史を動かしてきた人々は、哲学者ではありません。既に、皆さんが御存じのように、歴史上には四大聖人がいましたが、彼らはいかなる人々であったかというと、それぞれの宗教の教祖でした。イエス様がそうであり、釈迦がそうであり、孔子がそうであり、マホメットがそうです。彼らがなぜ歴史上の数多くの人々の中において、四大聖人という名をもつようになったかというと、彼らは、ただ単に人間と共に生活することにあこがれをもって生活した人たちではなく、神の遠大なるみ旨にあこがれて、そのみ旨に歩調を合わせて生きた人だからです。 人間、その志すものはいつしかみんな流れ去ってしまいます。優れた人、愚かな人、人それぞれに生きる道は違いますが、すべては流れ去ってしまうものです。しかし、愛国者の生活伝統は、その国が存続する限りいつまでも残るのです。しかし、そのような愛国者の志も、いつか国家の興亡とともに流れ去ってしまうものです。それはなぜかというと、人間世界の歴史は、国家や社会や家庭を背景にした志を分別していく道であり、ある国家や社会、家庭、また個人の目指す道は、神のみ旨とは一切関係がないからです。それは堕落圏内にある世界だからです。 神のみ旨の立つべき位置は、堕落した世界を越えなければなりません。ですから、この世界の全人類を理想的世界へ、より次元の高い世界へと導くための道を収拾してきたのが、歴史的な代表者としての四大聖人なのです。そのような聖人たちを中心として、ヨーロッパにおいては、キリスト教を中心とした文化圏をつくり、インドにおいてはヒンズー教を中心とした文化圏をつくり、さらに極東においては、儒教、仏教、仙教による文化圏をつくり、中東においてはイスラム教を中心とした回教文化圏を形成してきたのです。そのような文化圏は今日まで、神の理想的生活圏の土台を形成するためのものだったのです。ですから、そのような宗教同士の中でも、互いに紛争が絶えなかったのは、それぞれに自分たちの宗団を中心としてのみ、神の理想的生活土台を形成するということを願っていたからです。そのような願いの上に立っているので、今日も宗教同士の戦争が絶えないのです。このように宗教紛争が絶えないということは良くないけれども、宗教の目的とする基準が成就されない限り、どんなことがあっても神様は、宗教を残していかざるを得なかったのです。分かりましたか。 このように見た時、神と共に生きた四大聖人の残した世界は、その民族や背景によって、それぞれが異なった文化圏なのです。そのような各々出発地の違う東洋と西洋を収拾しなければなりませんが、神が四大文化圏を形成してこられたその目的はどこにあるかというと、宗教によって世界を破綻させるためではなく、宗教を連合させて、その基盤の上で世界の全人類を救うためなのです。 それでは、世界の全人類を救ってどこへ連れていくのでしょうか。仏教を信ずる人々は、仏教の世界へ行くことを願います。キリスト教を信ずる人々は、キリスト教の世界へ行くことを願います。さらに回教を信ずる人々は、回教の世界へ行くことを願うのです。そして、各自が処しているそれぞれの宗団を中心として世界的な生き方を願うのが、すべての教祖たちの所願であると同時に、神のみ旨もその一点にあるのです。しかし今日まで、各々の教祖に分からなかったことは、各々の文化圏を形成してきたのですが、その終末においては本来の出発である神のみ旨を中心として、個人的なみ旨、家庭的なみ旨が合致する時、氏族、民族、国家、世界、全天地が一つになるということです。世界的な文化圏を形成して次に何をするかというと、国家を中心として、民族を中心として、氏族を中心として、家庭を中心として個人が一つになれる軸による統一をするのであり、それを成すのは、神のみ旨のみです。個人が歩むみ旨、家庭が歩むみ旨、それぞれに範囲は違っても、その道は同じなのです。 ですから統一されなければなりません。神様は絶対的な方であられるのです。四大文化圏の一人一人がみ旨を受け継いで、世界の文化的背景の異なる四方の地域から、結局は山頂に至るようになるのです。そこで「あ! あなたは東から来たのですね。あなたは南から、あなたは西から、あなたは北から来たのですね」と。このように出会ってみると、それぞれに誰しもが神を求めてきたというのです。山頂に至るまではそれが分からないのです。それは、山頂に登ってくる人々を見下ろして、摂理されている神様以外には誰も分からないのです。ですから宗教間において、歴史上に多くの複雑な問題も残してきたのです。キリスト教は、すべてにキリスト教を中心として、「自分たちが第一である」と言うのです。それは一側面からだけ見ているのです。頂上から見れば違った答えになるはずです。すべて頂上に登らなければなりません。谷間にいながら頂上にいるような行動を取れば、それらはみんな肥やしになるだけです。 ですから、神のみ旨のみを中心として生きるのが宗教の道です。そして、神のみ旨の道とは、絶対者のみ旨であり永遠に一つなのです。二つはないのです。では、絶対的な一つのみ旨を中心として、個人がその絶対的な神のみ旨のみを中心として生きれば、その人は個人天国に属することができるのです。それが家庭であれば、神様と共に生きる家庭天国となるのです。そのように民族を越え、国家を越え、世界を越えて、神のみ旨を中心として世界が一つになっていくのが地上天国です。分かりましたか。 それでは、統一教会とはいったい何をする所なのでしょうか。統一教会も同様な道をたどっているのです。統一教会はレバレンド・ムーンという人によって始まったのですが、その教えは自分を中心として生きるということではありません。神のみ旨の道にあって、すべての宗教が様々に混乱している現状から、最終的には、本来の神のみ旨を中心としてすべてを合わせなければなりません。数多くの工場から部品を集めて、青写真によって、一つの製品として組み立てていくように、もし神様が最も喜ばれる一つの製品を作り出すブループリントによって世界を一つにする運動の理想がないとすれば、宗教を立ててこられた神御自身も不正当な方だとなるのです。ですから聖人を訪ねて、共に生活を指導してこられたというのは、個人のためではなかったのです。彼らと共に、世界的生活理想圏をつくるために、時代を経つつ、彼らが同じ喜びをもって世界的に生きることを願い、宗教を通して歴史と世界を収拾してきたのです。 世界の統一は宗教圏の統一から さて、世界の統一はいかにして成されるのかという問題を考えた時、まず宗教圏の統一が成されなくては、この地上世界は統一されません。それはなぜかというと、この世界は堕落した世界だからです。堕落した世界は戦いの歴史があるだけです。堕落した世界は、自分を中心とすることをまず第一主義に考えるのです。何事においても自分を中心として生きようとするのです。エバが堕落したのも、自分を中心としたからであり、天使長の堕落の動機も、自分を中心としたからです。すべてにおいて、自分の利益のために相対的環境を処理したのが堕落なのです。 では、このような世界から逃れるためにはどうすればいいでしょうか。まず第一に、神のみ旨の道を尋ねていかなければなりません。神のみ旨とは何かというと、悪魔の道と正反対の道です。この世で生きようとする者は、天の国においては死のうとする者です。このように正反対なのです。ですから聖書にも、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と記されているのです。そのように逆説的な論理なのです。皆さんは、聖書がなぜそのようになっているのかというその根拠を知らなければなりません。先生の話は大まかな歴史的結論だけです。 では、これからの世界を統一できる宗教になるにはどうすればいいのかというと、人間は死ぬ時はいかに死すべきかという個人としての死を知り、家庭を犠牲にしても氏族、民族、世界を犠牲にしても、必ず神に帰るという思想をもった者とならねばなりません。そのような者が神様に出会うことができるのです。ですから、統一教会で活動することは、統一教会のためではありません。より大きなもののために投入して、犠牲になるためです。大きいものが生まれるためには、まず小さいものを投入しなければなりません。これが原則です。発展的原則であり、分野的原則でもあるのです。 それでは、神様の創造理想は何かというと、大宇宙は統一的世界を構想しているので、この宇宙形成の理想圏を促すためには、宇宙形成圏から何かを取り出すのではなく、この宇宙も何かを取り入れなければならないのです。まず宇宙目的が形成されなければ、宇宙はこのまま存在することはできません。宇宙の目的を包むことのできる何かが存在し、その中に宇宙自体も入らなければなりません。そこに入ってからは、千年、万年、じーっとしていなければなりません。自分自身を主張しようとする人は、宇宙の大理想圏が形成できません。そのような中で、忠臣とはどのような人かというと、別に特別な人ではありません。歴史を代表するいかなる人が投入したより以上を投入する人が忠臣なのです。そして孝子とはいかなる人かというと、父母のために自らを投入することにおいて、誰よりも投入した人がより孝子なのです。 では、これらの四大聖人の中で、一番の聖人とはいったいどのような人でしょうか。それはより犠牲的な内容をもって、この世間の道理のゆえに否定されるという論理の上に立っている人でなくてはなりません。でなければ、この堕落した世界にあって、完全にXとYを変えることはできないのです。何の話か分かりますか。左が右に行こうとすれば、必ず左右が交差しなければなりません。これと同じように、世の中の万事が堕落のゆえに逆になっているのです。堕落した世界が正しくなるためには、左と右が今までと反対に交差すれば神側に立つようになるのです。ですから聖書にも「誰よりも人をより愛せよ」とあるのです。イエス様も「父母、兄弟よりも私を愛さない者は、私の弟子にふさわしくない」と言われたのです。それに加えて、「自分の十字架を背負って私に従ってこない者は私の弟子にふさわしくない」とも言われたのです。 さて、皆さんはこの社会の中で、父母、夫や妻、子供と共に生活しているのですが、一国の愛国者の道理や世界を中心とした聖人の道理に従っていくことによって、果たして理想世界ができるでしょうか。これが問題です。終末になってなぜ宗教が疲弊してきたのかというと、世の中と歩調を合わせているうちに、右も左も分からなくなってしまったからです。左が問題なのであり、右は問題ではありません。左を取り替えなければなりません。そのためには、誤ったものに制裁を加えることのできる反対のものが出てきて、ぶつかっていかなければ新しいものは出てきません。それで終末とは、交差時代のことをいうのです。今日のキリスト教はそういうことが分からないのです。そこで、統一教会の責任をもっている文なにがしという人が出てきて、この世界をどのようにするかというと、まっすぐに走って、直線にサーッと切ってしまうのです。 まず、世界的個人と対決して勝利しなければ、世界的個人の代表として、神様を迎え入れて共に生きることはできません。先生はこのように世界的個人の代表として、個人解放圏を準備するための土台を再現したのです。それは単一民族です。その単一民族の中でも、歴史上最も混合されていない民族でなければなりません。それがこの韓民族なのです。韓国の人たちは他の人の意見をなかなか聞き入れません。喜んで聞いているように見えても、全く別のことを考えているのです。そして、その人の後頭部を打とうとさえ思っているのです。このように最もややこしい民族が韓民族なのです。サタンもそれを知っているし、神様もそれを知っているのです。そのような意味から、北側のサタンの群れと、南側の神の群れに分かれて戦っているのです。そして南の人々は、積極的に神様を受け入れようとし、北の人々は積極的に神様に反対しようとしているのです。そこで共産党は、「神はいない」と言うのですが、それは、父親が元気に生きているのに、その息子に対して「あなたの父は死んだ」と言うことと同じです。皆さんはそんなことを言われて黙っていますか。そんな人は気の狂った人です。 皆さんは、全世界の民族に対して影響を与えなければなりません。全氏族に対して影響を与えなければなりません。全世界の人々に影響を与えることのできるそのような立場に立って、共産党を追い出し、サタンを追い出すための働きをしなければなりません。統一教会は共産党を打ち砕くことのできる先駆者なのです。南韓で一番金日成を嫌う人は誰でしょうか。大統領ですか、誰ですか? それは文総裁なのです。それは既に世界的にも知られていることです。しかし文総裁は、共産党を打ち砕くのに銃をもって行うのではありません。一人も殺すことなく、すべての共産党の人々を解放しようとするのです。このような主義を主張できる人は、歴史始まって以来先生しかいないのです。そういう意味で、共産党を擁護しようとするどんな個人も、家庭も、氏族も、民族も、国家も、世界も許すことはできません。なぜかというと、神様がそれを許すことができないからです。神の本来の理想の中にはサタン、悪魔、共産党は存在しなかったのです。神様が嫌うような存在はありませんでした。神様が嫌う世界的な主義、主張は悪魔のものです。今日、終末が来るまでは全部サタンの思うままでした。サタンは神様の代わりの立場で全人類に侍られてきたのです。しかし、神様が人類を半分に右翼、左翼を分け、万民を神様の前に帰そうとするので、悪魔の失策的転換が共産主義理論となったのです。よく見ると人類が神側に戻ることは明らかなので、自分(サタン)にも、神にも侍られないようにするために詐欺的術策として作り出した哲学です。すべてが偽りなのです。 ですから、世界の三分の一までしかサタンは食べることができません。それで、あとの三分の二に影響を及ぼそうとしているのです。しかし神様は、「これは私のものだ」と言うのです。そこで共産党は反対に、「これは自分のものだ」と言うのです。金日成は四十年間「南韓は自分のものである」と言い続けています。ひどい話です。統一教会は全世界的に防衛線を張って、これを収拾しようとするのですが、それは武器ではできません。真理でもできません。聖書には「真理を知る時、真理はあなた方を放す」と記されており、人々を自由にすることはできますが、解放することはできません。それは神の真の愛のみです。 神様の創造された広大なる宇宙 神様は宗教をつくって、今日まで人類と共に生きたいと願ってきたのですが、それは何を中心として生きようとされたのかというと、神様は物質によって良い暮らしができるようにすることなどは関心がありません。霊界に行けば食べる心配も、着る心配もないのです。それを知っていますか。先生が霊界の話をすれば、これから死にたいと思う人が多くなるので、このことは話しません。(笑い) 果たしてキリスト教において、主様を選挙で選び出せるでしょうか、どうでしょうか。主は天から来られるのです。対象が主体を決定することはできません。何の話か分かりますか。対象は主体が自分のようでなければならないという概念をもつことはできないのです。対象は第二の存在なのです。自分で権限を評価できない対象圏の位置にいるのです。これは少し難しい話です。 さて、神様はお金もうけもせず、ただ黙って座っておられる無識の大王なのです。神様は黙って飢えている大王なのです。じっとしている無力の大王なのです。誰でも来て打つことができるのです。神様は黙っておられるのです。仮に、一番の知識の大学者がいたとしましょう。歴史始まって以来の大きな権力をもつ為政者がいたとしましょう。世界一お金を持っている人がいたとしましょう。皆さんは、これら三人の中で誰の手が先に伸びることを願うでしょうか。神様も考えてみられるのですが、皆さんであればどのような人の手が伸びることを願いますか。女性はお金持ちの人の手が伸びてきたらいいと思いますか。お金があればどんなにおいしいものでも食べることができるのですね。知識の手が伸びてきたらいいなと思う人は、知識をもって何をするのですか。何をしますか。それが問題です。先生の前ではみんな泥棒のようなものです。先生の手がいかに大きいか、それは全世界を代表する大きな手なのです。神様の手も大きいのですが、その神様もすべて握ることのできる大きな手なのです。さらに、子供のような小さな指がそこについています。それはどんな手かといえば、お金もないし、知識もないし、権力もないけれども、ただ一つ母親の愛だけは知っている手なのです。その手は愛を求める手です。では、神様はどの手に最も関心をもつでしょうか? (子供の手です)。それはカニの足のように小さく見え隠れするような手なのに、神様は関心をもつのです。 この宇宙がどれほど膨大なのかといえば、ある科学者などは二一〇億光年かかる大きさだともいっています。以前、一五〇億光年の星を発見できる電波望遠鏡があるということを聞いたことがありますが、この宇宙はどれほど大きいことでしょうか。光の速さは、一秒間に三億メートルです。三億メートルといえば、地球を七回半回る距離です。それが一秒間に進む光の距離であれば、一分間ではどんなに遠くまで進むことでしょうか。さらに一時間たてばどうでしょうか。光が進むその距離は、どれほど遠くなることでしょうか。それが一時間でもなく、一日でもなく、一年かかって進む距離を一光年というのです。そのような速さをもった光が二一〇億光年かかる距離は、これから皆さんが千年、万年を生きて数えようとしても数えきれるものではありません。そのような距離をもつ膨大な宇宙も一つに連なっているのでなく、それぞれ分かれて運動をしているのです。そして互いに関係を結んで大きな固まりになって、回転運動をしているのです。それは自然に生じたものでしょうか、それとも誰かがつくったものでしょうか。自然に生じたのですね? (いいえ)。どうして「いいえ」ですか? すべての存在は、根源があって生じたものであり、何の動機もなくて生じることはないのです。 そのような宇宙を動かすことのできる神の力がうらやましいですか。「宇宙には、ダイヤモンドの星が一〇〇〇個、一万個存在する」と言っても、「無い」と言い切れる人はいません。黄金の星、ダイヤモンドの星、五色に輝く星が数多くあるというのです。それは誰がつくったのでしょうか。神様に宝石が必要でしょうか。神様が好きなダイヤモンドは何カラットでしょうか。英国のロンドンの博物館に行けば、世界で一番大きいダイヤモンドは五一七カラットだといわれています。卵ほどの大きさです。皆さんが結婚する時、一カラットのダイヤモンドでも喜んで受け取るのですが、神の創造においては、五一七カラットのダイヤモンドなど問題ではありません。ダイヤモンドの星もあり得るというのです。そのような広大な宇宙も、共産主義者は自然に生じたというのです。そして、宇宙はそのまま存在するものとして論法を立てていくのですが、そうではなく、宇宙の根本を訪ねていかなければなりません。 神様はどれほど素晴しい方でしょう。そのような神様にも、いとこやはとこが必要なのでしょうか。人間は、いとこやはとこを必要とします。人間は国も必要とします。神様はどうなのでしょうか。皆さんは、いとこやはとこがなぜ必要ですか。困った時、お金を借りるためでしょうか。(笑い) 知らないことを教えてもらうために必要でしょうか。人間は生活の中で、親戚と共に踊りを踊ったり、歌を歌ったりして、上下、左右へと和音をつくり出していくのです。そのような親戚が数百名も集まって、コーラスするその和音には、すべての人々も引き込まれてくるのです。そのような、全体の美と全体の調和を成すことのできる、和合した美化的感覚が必要なのです。 宇宙の根本は父子の関係 では、神様に必要なものはいったい何でしょうか。それが問題なのです。神様に必要なものは食べ物ではありません。もし皆さん霊界に行けば、そこで愛に酔って憧憬するものは、すべて直角になる世界です。何の話か分かりますか。愛に酔って皆さんが要求するものは、すべて直角に現れるというのです。他のお金の力でも動きません。知識でも動きません。権力をもってしても動きません。ですから愛に同和することにおいて、四方八方に対応できる主体になれば、すべての世界は対象圏として現れてくるのです。自身が愛の対象圏になれば、すべてが主体として作用するのです。ここで「パーン!」という音がすれば、あちらではさらに大きく「パーン!」と鳴るのです。そして大きく「パーン!」と鳴ったら、次には小さく「パン」と鳴るのです。いったん上がったものは、それ以上に上がれば飛んでしまうので、再び下がらなければなりません。すべて和音にならなければなりません。そこでは神様も笑うでしょうか。誰か神様を見たことがありますか。神様にも目、鼻、口、耳、体があるでしょうか。その点では既成教会の信者たちはでたらめです。神様に目があることも知らないのです。「神様の目を見ましたか?」と尋ねても、誰も分からないというのです。「神様に鼻や、口や、耳がありますか?」「神様は誰に似ていますか?」。「神様は神様に似ているのです」。いったいそんな答えがどこにありますか。 神様は誰に似ているかというと、息子や娘に似ているというのです。ですから神は人格的なのです。人格的な神は、私たちに対して人格的最高の基準を要求しているのです。世の中には法度があり、また礼法があり、高低の均衡を取るようになっているのです。それに従っていけない人は脱落するのです。ですから先生は霊界のことをたくさん知っていても、そのことについての話はしないのです。もし先生が霊界の話をすれば、気が狂っておかしくなる人も多く出ます。婦人たちも自分の夫に対し、「なぜあのように生き永らえているのか、早く天国にでも行けばいいのに。先生がお話しされる天国はいい所だから早く行けばいいのに……」と思うのです。それでは天国には行けません。妻はまず夫を教育して愛さなければなりません。このような話をすれば時間が早くたちますね。もう何時になりましたか。 神様が好きな色とは何でしょうか。神様は白が好きでしょうか、赤が好きでしょうか、黄色が好きでしょうか? (白です)。なぜ白ですか。白は清い色ではありません。七つの色を混ぜ合わせたものです。プリズムを通して見れば、白は七つの色でできています。それらがすべて調和されるので、きれいに見えるのです。本当はきれいではありません。 神様が好きなものとは何かというと、先生が神様に会って質問したことがあります。「神様、宇宙の根本は何ですか? 世界の全人類は、宇宙の根本が何であるかを知りたいのです。そのために祈祷や、いろんなことを行っているのです」と。それに対する神様の答えは簡単です。宇宙の根本は父子の関係だというのです。そこで単純に考える人は、「父と子のいる関係が宇宙の根本なのだ」と思うでしょう。どうですか? 父母と息子といれば、それが宇宙の根本になるのでしょうか。父子の関係というのは、父母の関係でもなく、子女の関係でもありません。父子の関係というのは、永遠に切り離そうとしても切り離すことのできない、絶対的に一つになった関係をいうのです。それには何が必要かというと、真の愛なのです。文先生がそのような結論を出したのです。神様にお尋ねして、「神様、こういうものではありませんか?」。「お前(文先生)はそれをどうして知ったのか。お前は私よりも優れている」と、神様は言われたのです。アーメン。 先生はキリスト教徒の群れに会って、その牧師にこのことを話した時、「アーメン、アーメン」と彼らは言うのです。先生が一番嫌いなのは、その「アーメン」です。それは詐欺師の使う桶のようなものです。魔術師も魔法を使う時、そのような桶を置くのです。そして間違えば「アーメン」と言うのです。「アーメン」というのは、すべてを成し得たのちに使う言葉なのです。ですから神様が一度だけ「アーメン」と言えば完成であり、千年、万年も「アーメン」と言うことはないのです。父子の関係というのは、父母と息子関係でもなく、最高なる関係なのです。そして、そのような父子の関係を永遠に一つにする力が真の愛なのです。ですから神の真の愛は、一人で成就できません。今日のキリスト教信者は、「神は真の愛の主体であられ、多くの人々を迎え入れるのです」と言うのですが、それはとんでもない話です。神御自身も対象がいなければ、どんなに大切な愛も完成させることができないのです。 では、神は一人でしょうか、二人でしょうか? (二人です)。天のお父様と天のお母様という二人ではなく、神には二つの性禀が入っているのです。今答えた人は良心がありますか。ありませんか? 体がありますか、ありませんか? それら二つが合わさってあなたという一人の女性なのです。神の性禀は二つありますが、体は男性格主体となっているのです。では、男性格主体というのはいったい何でしょうか。女性格主体であればどんなにいいでしょうか。しかし女性格主体といった時には、別に男性格が存在しなければならないので二元論になってしまうのです。分かりましたか。二元論になってしまうというのです。神は永遠に一元論であられるために、男性、女性の中和体として、主体的な性禀をもった初めての男性形なのです。なぜ男性形かというと、男性は女性を治めなければならない責任があるのです。後ろからでも、横からでも、上からでも、下からでも女性を治めなければなりません。それで女性が、真の主体に出会った時、秒速三億メートルのスピードをもつ光の速力でもって、西側からぶつかっていっても、男性はグルッと数回回るだけで、それを収拾していくのです。何の話か分かりますか。回りながら収拾するのです。 ですから男性は女性を治めなければなりません。父母は子女を治めなければなりません。人々はみんなそれを願うのです。ですから神様は男性的主体なのです。その主体が好むのは何かというと、お金ではありません。皆さんがもし霊界に行けば、先生のこの話が正しいかどうか分かります。先生の話が間違っていれば、先生に抗議しなさい。もし霊界で先生に会えなくても、「文先生は本当に悪魔の魁首だから自分たちがいる天上の霊界にはいないのだ」と考えてはなりません。先生は最上の霊界にいるのです。昼は神様のおなかの中に入って眠るのです。世の中にそのような話をする人があるでしょうか。そのような話は、愛の世界においてのみ可能なのです。あなた方の中で、夫の心の中に入って眠りたくないという女性は手を挙げてみなさい。そのような女性は良くない女です。「あなたの真に愛する夫の心が宮殿のようであり、そこで手足を伸ばしてグルグル回ったり、鼻歌を歌いながら、眠りにつきたいと思う女性は手を挙げなさい」と言えば、みんなが手を挙げるのですね。 夫の心の中に入り込んで、ゴロゴロと回っている女性は幸せ者です。その愛は、そこから出たくなくて、誰が何を言っても千年、万年共に生きたいというのです。おなかが空いてきましたね。説教の途中なのになぜ「おなかが空いた」と言うのかというと、先生は皆さんのおなかが空いたことが分かるからです。朝食は食べましたか? (食べていません)。先生もおなかが空きました。きょうはこれぐらいにしましょう。このような話を始めれば、十時間、百時間でも終わりません。先生がアメリカへ行って立てた最高記録は十六時間半、立ったままで説教したことです。それほどよく話をする先生なのです。 真の愛による同位権、同参権、相続権、所有権 さて、先ほどの話ですが、世界の統一は、絶対的な神のみ旨を中心として行うのです。問題はそのみ旨が何に根拠をおいているかということです。み旨の根拠は何かというと、それは手段でもなく、お金でもなく、知識でもなく、真の愛の根でなければなりません。 真の愛の色は赤でしょうか、黄色でしょうか。どうですか? (分かりません)。「知らない」と言ってはいけません。「調和という内容をもっているので分かりません」と答えなければなりません。 皆さんは愛を知っていますか。世の中で普通に結婚して、夫を千年万年信じて生活していたのに、もし夫が隣の家にめかけを住まわせるならば、妻の心はどうなるでしょうか。夫は、自分の妻は女性の中でも最高なので、自分がどんなことをしていても「よくやりましたね」と褒めてくれるだろうと言うのですか。女性たち、どうですか。それは命を懸けても許すことができないことです。そうですか? (はい)。なぜですか。男性のゆえですか、愛のゆえですか? (愛のゆえです)。そうです、愛のゆえです。愛がいかに強いかといえば、一度に十人の首を、愛によって切っても、誰も痛いとは言わないのです。愛は命に屈伏しないのです。真の愛の道の前には、反対する者のその数百人の首を切ったとしても降伏しないのです。ですから夫の不始末を聞くや否や、心を治めることができず、大根を切るように夫の首を切りきざみたくなるのです。「この心がいったいどこから出てきたのか。なぜ、自分はこれほどまでに暴悪で、これほどまでに悪なる人になってしまったのか。数十年間祈祷を続けて、聖人の母になろうとしてきたにもかかわらず、小さなバッタみたいな者が飛び跳ねながら、少しばかりいたずらしたことに対して、なぜこうなるのか。このようになりたくないのに、どうしてこうなるのか」と思うほどです。どんなに小さな女性であってもこうなのに、もし偉大な神様が愛を踏みにじられ奪われたとすれば、神様は果たして黙っていられるでしょうか。どうですか。神様はどうされるでしょうか。神様だから黙っているのでしょうか。どうされるでしょうか。より大きな雷を落とすでしょうか。それとも「フッフッフッフッ」と笑うでしょうか? (大きな雷を落とします)。神様とても同じです。では、千年後の私たちの後孫はどうでしょうか。最近では、中、高校生にもなれば、その両親が、「私の子女たちのデートの相対がいないかなあー」と言っているのです。それは滅びの兆候です。それは真の愛と関係ありません。「あのような女性とは結婚させたくない」と、どんなに父母が言っても、一族が騒いでも、「あなたの娘は、私の一族を売ったとしても嫁に迎えたい」と言う、そのような男を婿にしたいですか、それともこじきのような男を婿にしたいですか。どちらですか? (前者です)。神様もそのような愛には気が狂うでしょうか、狂わないでしょうか? (狂います)。それを見たことありますか? では、「神様すらも愛においては気が狂う」と言った時の感じと、「神様は愛においては気が狂わない」と言った時の感じと、どちらのほうがより皆さんに近いですか? (前者です)。前者ですね。それは正しい答えです。 神様が愛に酔って、その目も真っ赤になり、五感とすべての表示体が麻痺したとしても、次に何を中心として動き出すかというと、愛を中心として動いて、愛の焦点を合わせるのです。愛の力がどんなに強いかというと、いったん愛の関係を結んだ人は、もしそれが王家の王女と僕であれば、王に対して「あなたが王様であるかどうか、私には関係ありません」と主張するほどです。愛の因縁を結べば、すべて自分のものになってしまうのです。その相対のいる所にいつでも行くことができるのです。それを妨げることはできません。愛にはそのような同位権があるのです。愛の性禀の中において常に同じレベルに立つのです。ですからお母様もここに来られて座っているのです。もし、近所のおばさんがここに来て座っているとすれば、それはいかに見づらいでしょうか。(笑い)お母様がここに来ているのはなぜでしょうか。先生を愛しているからです。美しく着飾っていても、そうでなくても、また手足の不自由な人であっても、愛で一つになれば同位権が生まれるのです。それから同参権です。 先生が急に登山に行くと言った時、お母様が「あなた一人で登山に出掛けてはいけません。私も共に行きます」と言えば、先生は、いけないとは言えないのです。また下山して、急に「韓国にいないで、私は東京に行かなければならない」と言った時でも、お母様は「あなたは行ってはいけない」とは言えないのです。「どうぞ、そうなさってください」と言わなければなりません。愛にはそのような同位権、同参権があります。そして次に相続権があるのです。 ですから、統一教会の人たちは賢くなければなりません。天国へ行くのも賢くして正しいチケットを持って行かなければなりません。もし誤ったチケットをもらえば死んでしまいます。色の黒い小さい男性が、世界一美人の立派な女性に向かって、「あなたは私の妻である」と言った時、美人のその女性は気持ちがいいでしょうか。その男性に対して、「あなたはそういうことを言ってはなりません」とは言えないのです。愛にはそのような所有権があるのです。 神様と人間が相関関係を結んで、神様が離れることができない愛で一つになった時には、すべてが終わるのです。同じ原理に照らして、神様は誰のものになりますか。答えてください? (自分のものになります)。そこで神様は前後、左右、上下においても自分のものになるのです。愛にはそのような相続権、所有権があるのです。それを否定することはできません。そこではすべてが自由なのです。 愛と自由 この社会では、男性と女性に自由はありません。通りがかりの男性が、「自由だ!」と言って、横にいる女性の手をつかんでみなさい。平手打ちされます。しかし、愛の関係を結べればそれが自由になるのです。きょうはお母さん方がたくさん来ていますね。あなた方が夫の部屋に入る時、「私は今から入ります」とノックして入りますか、それとも、サーッとノックもしないで入りますか。世の中の道理に合わせてノックして入るほうがいいですか、それともそっと入ったほうがいいですか? (そっと入ったほうです)。愛に同和すると自由が生まれます。もはや制裁はありません。何でも与えることができるし、何でも受けることができるのです。 それでは、神様と私たちが愛で一つになれば、神の宝座に共に座わることができるでしょうか、できないでしょうか。神様のひざの上に座ることができますか、できませんか? (できます)。もし神様にひげがあるとすれば、そのひげをつかんで自分の首に巻きつけたとしても、神様は「このような者は殺してしまえ」と言うでしょうか。「あ! あ! すべて自由にしなさい。天下の平和とはこのような所でも渦を巻くのだ……」と独り言の詩を歌うようになります。愛の魔術の世界には、そのような詩が生まれるし、文学の切々さがそこで交差する、のぞき眼鏡の境地が連結されるのです。愛する者同士が出会えば喜ぶように、神様との愛の関係を結んだとすれば、神様はどんなに喜ばれることでしょうか。 上品でおとなしく、ひげを長く伸ばした、聖者になるような人は、神聖さをもたなければなりませんが、その聖者には妻が必要でしょうか? (必要です)。「あ! あ! 私は聖者様の妻になったので、聖者様の妻らしく行動しなければなりません」と。部屋に入る時もリズムに合わせて入り、あいさつも儀典に従って、すべて厳守した生活をしなければならないでしょうか? 妻が、「これは何ですか?」と言って、その儀典を守らないで、聖者様の祈祷される生活にただ合わせて生きるだけではどうにもなりません。それで、毎日のようにけんかするのではなく、互いに愛でもって溶かさなければなりません。愛でもって妻を感化させて、それ以上の幅の広い聖人にならなければなりません。そのような聖人の所へ、妻が「あなた、私はこれからそちらへ行きます。自由奔放にすべてを解放して渡っていきます」と言って、服を脱いで戸を開けて入ってきたら、聖人といわれる夫は、天地の道理を悟ろうとして瞑想して座っているのに、そのような姿で妻が入ってきた時、叫び声を上げて後ろ向きになるべきでしょうか。そのまま迎え入れるべきでしょうか? (後者です)。そうです、後者です。 皆さん夫婦同士では、どんな姿で踊っても、何をしても罪ではありません。神様も愛する時は喜ぶでしょうか。笑うでしょうか。踊るでしょうか。神様はどうされるでしょうか。神様も同じなのです。神の目には、服よりもその人のすべてが見えているのです。全身の細胞が作動する運動もすべてを見ておられるのです。神の世界においては、すべてが解放圏なのです。ですから文総裁はどんな型にもはまりたくありません。先生が市場に行けば、露天商の古着屋さんとも友達になってよく服を売ってあげたりします。先生が売り子になってあげるのです。「あなたの夫の代わりになって売ってあげましょう」と。ある時は、その人が姉のような年であれば、先生が弟になってあげて売ってあげたのです。先生はそのような訓練をしたのです。ですからどこへ行っても多くの友達がいるのです。 このように、愛には世界的解放があり、自由があります。皆さんは自由と解放のどちらを願いますか? (解放です)。解放のあとに自由が来るのです。人間は堕落したため、いまだ解放されていないのです。自由がないのです。サタン圏内からの解放が必要なのです。人間は天理の大主であられる神の愛を中心としていまだに解放されていないのです。 その神様も、いったい誰に絶対的服従をするのかというと、まず神様は、「先に絶対服従してから、服従されなさい」と言うのです。それが偉大なことです。ある時、先生は皆さんに対しても無慈悲に命令したりするのですが、それは先生が皆さんに無慈悲に命令している以上に、先生は実際そのことを神様を通して知り、また行ってきたので、命令することができるのです。 真の愛を中心とする者 さて、きょうの話の統一世界を神の永遠に不変なる一つのみ旨を中心として収拾するという、その内容は何かということですが、聖書の旧約、新約を見本として、神様はプログラムをつくって、世界を収拾されるのでしょうか。人類始祖の堕落以前には、聖書の新約も旧約もなかったのです。既成のキリスト教会にいた人にとっては、このような話は本当に異端の話のように聞こえるかもしれませんが、それを疑うことが異端の魁首です。神様は聖書に従って動かれるのではありません。聖書は病人を治療するための処方箋のようなものです。自由人には必要ないものです。神様に出会って、「あなたは、旧約聖書でこのように語ったでしょう。ですから私に対してこのようにしてください」と言うことが可能でしょうか。愛はすべてを越えるものです。愛には規制がありません。ですから父母や親戚同士がどんなに反対していても、この愛の道を知れば、誰もがこの道へ直行するのです。たとえ正面衝突して、頭が飛んでしまっても直行するのです。では何を中心としてみ旨を成就するのでしょうか? (真の愛を中心としてです)。 真の父母とはどういう人かというと、自分が生まれたのも子女のためであり、生涯苦悩して生きるのも子女のためであり、死ぬのも子女のために死ぬというのです。それが真なる父母なのです。自分の生命の起源から、すべての生涯路程を経て、生死を越えてまでも、子女のために生きようとするそのような父母が、真なる父母です。では、真の子女とはどういう人かというと、全く同じ道理なのです。自分が生まれたのも父母のためであり、生活のすべても父母のためであり、死ぬのも父母のために死ぬ人が真なる子女なのです。分かりましたか? (はい)。真の兄弟も同様です。真の兄とは、弟のために生まれ、弟のために生き、弟のために死のうとする人であり、すべてにおいて生命を懸けている人です。 ここにいる年老いた女性たち、真なる妻としてそのように年老いたのですか。どうですか。女性たちが愛されるためにお嫁に行くというのは、堕落した先祖のエバと同じです。エバは愛されようとして堕落してしまったのです。本来は愛を受けようとするのではなく、愛そうとしなければなりません。そうすることによって愛が返ってくるのです。分かりますか。 では真なる教育者、真なる指導者とはどういう人でしょうか。その人に従っている千人、万人の人々がいるとすれば、その中で自分だけが楽な道を行き、千万人の人々に苦労させようとするのではなく、千人、万人すべてが休めるようにしてあげて、自ら最も苦労する道に責任をもとうとする人が真の指導者なのです。この先生を見なさい。アメリカにおけるダンベリー事件を知っているでしょう。アメリカの法務省がレバレンド・ムーンを起訴した時、先生は韓国にいたのです。法務関係の協定がないので、アメリカには行かなくてもよかったのです。アメリカの国民ですら、自分が法に触れた場合には、アメリカから逃げ出すのです。先生はそのまま韓国にいれば、アメリカへ行って刑務所生活をする必要はなかったのです。しかし先生は起訴された翌日、ドイツを回って飛行機でアメリカに入ったのです。アメリカの法務省では、判事や検事たちが集まって、「レバレンド・ムーンは絶対に出頭しないだろう。なぜなら、アメリカ人でさえも、アメリカを離れて法の網から逃げ出すのに、何の関係もない異国の人が、なぜアメリカに来る必要があるのか……」と言っていたのです。 神様に主管されて生きる先生は、アメリカの法の上で生きる人間です。法の下に生きるのではありません。それ以上のことをしなければならないのです。そこで、アメリカに入った文総裁は滅びましたか、勝利しましたか? (勝利しました)。勝利したのです。最近ではアメリカの大統領までも先生の世話になるようになりました。先生はそのような基盤をつくったのです。今や、アメリカの国民もレバレンド・ムーンを尊く思っているのです。統一教会の信者はどうですか? (尊く思っています)。では昼になったのに、なぜ昼食もさせてくれないのですか。(笑い) 待遇されようとして待遇されるのはサタン世界のことです。先生は、「あいさつをせよ」とか、「再臨主」とか教えたことはありません。先生はそういう話をしましたか? 金元弼(先生)は、「再臨主」とか「メシヤ」とか言っていますが、メシヤとは、日本語で食堂の主人のことです。(笑い) 先生にはそのように聞こえるのです。また再臨主とは、死んだ夫が天国に行って再び訪ねてくることです。先生は再臨主が偉いとは思いません。そのように思っていたら、愛の話をすることもできません。悪口も言えないのです。再臨主が悪口を言ったらどうなりますか。(笑い) 先生は、再臨主という名が嫌いです。名は嫌いですが、再臨主が今まで神聖なるこの道をつくってきたのです。何の話か分かりますか。一番苦しいことを再臨主ができなくても、先生にはできるのです。ですから、その位置においては、もし再臨主が現れれば、神様の代わりとして侍らなければなりません。これはいかに恐ろしい話でしょうか。 先生は監獄に入って、最も困難なことを成し遂げました。そこで三つの与件を出発させました。まず、共産主義の脅威からアメリカを救うことです。次にアメリカの青少年を救わなければなりません。これは最も難しいことです。それから腐敗したキリスト教を再復活させることです。このような三大与件です。これは、アメリカにおいて誰もできなかったことです。学者にも、宗教者にも、政治家にも、いかなる方法手段をもってしてもできなかったことです。お金をもってでも、世界中の科学文明をもってでもできなかったことです。先生は、アメリカを共産党の魔の手から解放する門を開きました。七〇年代には、言論機関も、共産主義によって左傾化されていました。それを先生がひっくり返したのです。このように先生は多くのことを成したのです。学者世界においても、多くの迫害を受けながら、東西四方へと散らばって戦ってばかりいる学者の群れを一つにして、その方向を提示しました。世間で学者といわれる人々は、なかなか話を聞きません。そのような群れを集めて、文総裁が「このような世界に向かわなければなりません」と、方向を示したのです。それで絶対的価値を中心として約十五、六年間教育した結果、今は議長が先生のみ言を研究するようになりました。 アメリカの神学校にも、「AR」という組織があり、年に一回牧師、神学者約六〇〇〇名ほどが集って大会を開いています。しかし私たちは、その門前にも行けなかったのです。今はその理事会の半分が先生の側です。その展示会の重要なコーナーに統一教会を紹介したとしても、「どうぞおいでください」と言うのです。反対できないのです。アメリカへ留学した群れが、韓国に帰って、「自分は神学者だ。文総裁に反対する」とか言っているのですが、あなた方の学んだ神学校の校長が、既にレバレンド・ムーンの教えを受けているのです。どうです。気持ちがいいですか、悪いですか? (気持ちがいいです)。では、反対する者が偉いですか。反対する人々の声を聞きながらも、それらを相手にしない人が偉いですか? (相手にしない人です)。それは偉くありません。悪口を言われながら、気持ち悪くも思えない人は、愚かな人ではないでしょうか。女性としてそのような息子を生みたいですか。もしある村で、殴られて帰ってくる息子がいれば、「どうして泣いて帰ってくるのか」と言うのが母親でしょう。先生の母親もそうです。先生に「どうして悪口を言われながら黙っているのか。復讐すればいいのに」と言ったのですが、先生が知った真の道がそのような教えではなかったのです。 それで今回、四十年ぶりに広告を出したのです。先生は悪いことはすべて忘れようとしますが、良いことは覚えています。刑務所の話もすべて忘れようとしているのです。思い出せば、今でもすべての話ができますが、もしすべてを話せば、皆さんは涙を流すことでしょう。昔、先生は有名な日曜学校の先生をしていたので、文学的専門用語を使って、どんな話も、童話も、長編小説もできるのです。馬に乗って荒野を疾走する内容などを話す時、当時の教会の若者たちは、先生がますます好きになったのです。先生はどこへ行くにも、説教を準備していくことはありません。何の準備もしなくても、先生は感銘を与える説教ができるのです。一日中語り続けても、数カ月は語れるし、説教だけでも生活できる先生です。 さて、統一の話ですが、宗教圏の統一は何をもって成すことができるでしょうか。それは武力ではできません。不良息子が悔い改めることができるのは、父母の愛からです。愛は死亡の世界から創造力を発揮できるのです。死の場から復活圏をつくり出せるのです。今回のソウルオリンピックの時、「一二〇カ国から宣教師と代表二人ずつ韓国に来なさい」と言ったのです。旅費は各自が準備したのです。先生に助けてくださいと言うような人は一人もいないのです。皆さん、もし先生が天国へ行って、皆さんに「天国に来なさい」と言った時、先生が準備してあげるべきでしょうか、それとも皆さんが準備して来るべきでしょうか? (準備して行きます)。それと同じなのです。先生の真の道を知ったならば、先生が行うとおりに皆さんも行わなければなりません。その道がいかに険しくとも、その道を開拓していくのです。たとえヒマラヤの山頂へ登っていく道であっても、これが公式の道なのです。その山頂を越えて天国へ入るのだとすれば、すべての人々は越えなければなりません。 ですから、先生はこのような道を知ったので、一生涯この道を行くのです。この道はただ楽に行くことはできません。サタン世界の最も深い谷底にも、神の愛を中心として、真の愛の根を下ろさなければなりません。そこに根を下ろさなければなりません。そこに根を差して、そこから出発して、サタン世界の個人的時代、氏族的時代、民族的時代と、すべてにおいてサタンが打ってくる中で、神様の本来の愛の伝統を築くのです。先生はこのようなサタン世界のすべてに迫害されながら、世界の位置にまで上がってきたのです。今や中天に名声を翻す時なのです。これからは大韓民国においても、文先生に反対する者は打たれるでしょう。 迫害は神様が恵みを与えるための架け橋 先日もこんな話を聞きました。ある喫茶店に入っていた時、ある軍人が文総裁の悪口を言った既成教会の人の胸ぐらをつかんで、殴ったのです。「この野郎! お前は文総裁に対してどのくらい知っているというのか!」と。これから先生に反対する者はこのように殴られることでしょう。そして、死ぬ者も現れるでしょう。なぜこのような話をするかといえば、一九五五年、李承晩博士の時代に、文教部、広報部、内務部、法務部、外務部の五人の長官が一つになって、文総裁を打ってきたのです。その時、李承晩大統領の妻のフランチェスカと、金活蘭と、李起鵬の妻の朴マリヤたちが一つになって打ってきたのです。そして一瞬にして、梨花女子大学、延世大学において迫害が始まったのです。このまま統一教会を認れば、賢い青年男女が、神学校の学生が数週間のうちに完全に伝道されていって、そのまま放置しておいたら、数年以内に既成教会が滅びてしまうと思い、「どんなことをしても統一教会を打ち砕かなければならない」と言って、騒ぎ立てたのです。しかし、何の罪状もないので先生を殺すことができなかったのです。 散々調べ尽くして、「兵役忌避」ということで打ってきたのです。先生は北で監獄生活をしてきたので、既に兵役の年齢も過ぎていたのです。どんなに法に照してみても問題にならないので、無罪釈放になったのです。しかし悪いことには、その時大騒ぎして連れ出したのに、無罪釈放になったことは誰にも知らされず、今になってもそのことで先生を打とうとする人がいるのです。 先生は個人的に打たれ、家庭的に打たれ、氏族的に、民族的に、国家的に、世界的に、天と地においても打たれてきました。共産主義者から、またアメリカ人から、アメリカの政党全体から、さらに仏教、儒教、すべてから打たれてきましたが、誰一人として宗教者で、この先生に同情した人はいませんでした。誰一人として男性も、女性も先生に同情した人はいませんでした。しかし先生は、そのような中でもすべての人々に、この道を教えてあげました。監獄の中でも話してあげました。そして、世の中がこれほど悪なる世界になっていることを、先生はよくよく知りました。しかし先生は、これらすべてを自然屈伏させてきたのです。 本当は監獄のことはすべて忘れなければならないのですが、殴られて痛かったことを記憶しているのです。先生の体には多くの傷が残っているのです。既成教会が与えた傷です。先生がもし人間的に生きるならば、彼らの腹を切り裂いて、禿鷹の餌にしても足りない気持ちです。先生の性格は、そのように強烈なのです。少年時代にも、もし先生の村で誰かに殴られたかわいそうな人がいれば、先生はその人を訪ねていって、責任をもってその人を殴った者を処分する魁首の役をしたのです。先生は火のような男なのです。このような先生を監獄に入れたのですから、たとえ無罪釈放したとしても、その日その時のことを、長い公文書にして発表し、謝罪しなければならなかったのです。 しかし、なぜこのように迫害されたのかといえば、恵みを受けるためのものだったのです。罪なくして打たれる人は恵みを受けることができます。打った人が長官の友人であれば、長官の友人の恵みを受けるのです。もし長官の位置で打ってくれば、長官の位置の恵みを受けるというのです。先生は濡れ衣を着せられました。「文なにがしは、大韓民国の大統領になろうとしているのだ。李博士をポケットに入れようとしているのだ」と言われてきたのです。「文なにがしはこの国を手中に入れようとするのだ」と悪口を言われながらも、先生は黙々と歩んできたのです。最近になって、ようやく「南北を統一できる代表者は文総裁しかいません。金日成にも誰にもできません。文総裁だけです」と言うのです。さらに「文総裁を南北統一の大統領にすべし!」と言う人も多いのです。たとえ大統領に打たれることになっても、それを耐えて、その迫害が世界へ広がっても滅びないで成長していれば、その国の大統領以上の大きな位置を与えられても交換できない人になるということです。迫害は、神様が恵みを与えるための橋を架けているのだということを知ったので、先生は黙してきたのです。先生はすべての橋を渡ったのです。 もはや統一教会に対して、既成教会が全力をかけて打ってきても先生には勝てません。どんなに強い青年の闘士の群れをもって挑んできても、統一教会の人たちには勝てません。最近では円和道という武術を習っているのです。霊界から教えられたこの武術を全世界に広めるのです。円和道は素晴らしい武術です。神様いわく、「武術はこのようであらねばならない」。円和道は原理を中心とする、世界の総合的な武術とすべく今回指示を出したのです。そして、世界中の円和道の人々を再調整して、かつて三国時代に花郎道の力を発揮して、三国を統一したように、今や万国統一時代なので万国を統一できる武術を習わなければなりません。それで、共産党も先生を恐れているのです。日本でも同じです。もはや私たちの若者を思うままにすることはできません。すべての人々が円和道を習うのです。 この中で八〇パーセントの人々は、今でも先生と相撲を取ったら負ける人たちです。「七十代の老人が何を言うのだろう」と思ってはいけません。(笑い) 実際にもそうなのです。昔、漢江の岸でも先生と相撲を取って勝った者がいましたか、教会長どうですか? (いません)。(笑いと拍手) 真の愛の真理体 このごろ共産世界では、「文総裁を殺せ!」と騒いでいます。アメリカでも一部の人々が「レバレンド・ムーンは韓国に帰れ!」と言って騒いでいます。先生は何の負債もありません。罪のない先生に対して、間違っても打ってくれば大変なことになります。 ですから今は、アメリカが文総裁の前に永遠に屈伏するのです。先生はこのようにして西欧社会を、白人社会をこの韓国へ連れて帰ってきたのです。さらに最近では、アメリカのホワイトハウスの周囲にいる人々も先生の世話になっているのです。「ああ文総裁、どうかアメリカにおいでください」と。先生はアメリカに行って何をするのでしょうか。先生がアメリカを助けてあげるとでも思っているのですか。今回も、どれほど先生の世話になった人々がいたか知れません。先生が力を与えなければ誰も何もできません。こういう話を信じられますか。先生が何をしているか、どんな人なのか知っていますか。「お父様」と呼びながらも、自分の父が今何をしているのか知っていますか。今や大統領を教育する、王様を教育する先生なのです。 先生の話は膨大です。既成教会の牧師たちは、「悔い改めれば天国に行ける」と言っていますが、先生は違います。解放されてこそ天国に行けるのであって、悔い改めても解放されなければ天国には行けないのです。ですから、神の統一のための絶対的内容は何かというと、知識ではありません。皆さん、真理とは何でしょうか。真理の根本は何でしょうか。自分以上の真理はありません。天国の真理は一人の男性、一人の女性以外にはないのです。何の話か分かりますか。全世界の男性を代表する真なる男性がいれば、その真なる男性の四肢五体が真理なのです。真理は文字ではありません。真なる女性が真理なのです。そして真なる真理の父とは、真なる愛をもった人です。また真なる真理の夫婦という真の愛をもった真理体が一つになる時、真なる真理の殿堂になるのです。真なる真理の子女とは、愛を中心として兄弟が一つになった真理体です。では、何がそれを成すのかというと、生命が成すのではありません。生命よりも先に愛があったのです。 皆さんは生まれる時、父母の生命から生まれたのですか、愛から生まれたのですか? (愛からです)。生命が激動する男性と女性の生命が、燃えて一つになったものが愛なのです。自分という存在は、このような愛の同参者なのです。これは実に偉大なことなのです。父母が絶対視し、天地が公認する愛を中心として、その絶対的な愛の基盤の上に同参した存在なのです。さらにその根は神様を中心としているのです。神様の骨髄にも通じているのです。それで、もし人類始祖が堕落することがなかったならば、神様は人類の本然の善なる先祖として縦的な愛を代表した父母であったのです。 今日、既成神学では、「創造主と被造物は、相関関係を結ぶことはできない。なぜならば創造主は神聖なるものであり、被造物は俗なるものであるから」と言っているのです。俗なる人間と聖なる神の愛がいかに結ばれるのでしょうか。ではなぜ「父」という言葉を使うのでしょうか。それ自体が既に矛盾しているのです。神様がなぜ人間をつくったのかといえば、その動機は愛の対象を探すためなのです。神様は独りなので、縦的な存在のままでは何の創造力も生じないのです。横的な父母としての、堕落しない人類の真の父母を立てて、神の縦的基準に応じられる横的対象圏を広げていかなければなりません。神の国は、このような横的父母を通して生じるようになっているのです。 では、なぜ父母が必要かというと、神の子女を天地すべてに生み殖やすためです。それでは神様はいかなる方かというと、真の愛を中心とする縦的な父母なのです。その縦的な父母の前に、九十度の水平線に立った横的な父母が必要なのです。アダムとエバが、この横的な父母となるべきだったのです。一方は東から、一方は西からそれぞれに成長して、神の垂直線に対する水平線の中心的代表として、個人的な時代、家庭的な時代、氏族、民族、国家、世界、宇宙的な時代を経て、天と地を一つに連結すべきだったのです。中央線を中心にして出会うために、男性は成長して女性を訪ねていかなければならないし、女性も成長して男性を訪ねていかなければならないのです。ここで生命を受けて生まれてくる時、天地に同和できる愛の同和圏となり、すべての核がそこに集約されて、球形になって、そこから新しい芽が出て縦的に連結されるのです。 軸は一つしかありません。真の愛の軸として、神様と、堕落していない本然の先祖が一つになった軸をつくらなければならなかったのです。これが破れてしまったのです。この軸を復帰しなければなりません。それで統一教会では、「真の父母」という言葉を使うのです。真の父母とは、縦的な真の愛を中心とした父母の前に、横的な真の愛を中心とした先祖の立場に立った方なのです。このような立場で一つになる「零」の位置に、神様も下りてこられるのです。ここに天地のすべての運勢も下りてくるのです。では、そこで縦が中心になればいいでしょうか、横が中心になればいいでしょうか? 縦横の神の愛を中心として、骨のような神の愛に対して、アダムとエバが成長して体のような真の父母の愛を完成し、愛の調和体となり、天と地を主管する王権の主人として生まれるべきであったのです。もし、そのごとく人間が生まれていれば、いかに高貴な人生であったことでしょうか。そのように完成していたならば、その個人は自動的に神様の血統圏に属するのです。神様の血統、神様の心情圏を受け継いで生まれていれば、そこに宗教は必要ありません。宗教の道は、愛の道に従って生きることです。愛の道を学んで生きることです。ですから愛の世界においては、宗教は必要ありません。絶対的な愛の対象として創造された人間の代表として、真の祖先という観点に立つ時、絶対的な真の愛に一致する神の永遠なる理想圏になるのです。人間の永生論理はここに形成されるのです。 私たち人間は、神の愛の対象としてつくられたのですから、真の愛においてのみ永生するというのです。堕落したこの世界においては、これが一八〇度回って、天が地になるようにならなければなりません。そこで統一教会が現れて、個人的に世界の東西を一つにして、家庭的にも東西を一つにして、氏族的にも、民族的にも、国家的にも東西を一つにすることのできる天地の運勢を結集したのです。西洋は東洋のために生き、東洋は西洋のために生きるという愛の交流体として連合される時、ここに初めて神様が中心となって、すべての文化世界を新しい愛の世界へと包んでいくことができるのです。そのような神聖なるみ旨の成就に酔って、このような世界になっていくのです。 すべての出発は真の愛から すべて、真の愛から出発しなければなりません。そこにおいて初めて、個人の統一がなされるのです。個人が歩む理想の道、家庭が歩む理想の道、氏族が歩む理想の道、すべてこの道は愛の道なのです。ですから人類始祖がもし堕落していなければ、夫や妻が完全に絶対的な価値の愛を中心に生活するので、地獄は存在しません。すべてが天国に行くようになっていたのです。 神の国の民となって、神の国の王宮法に従う皇族になるためには、神様を誰よりも愛し、人類を誰よりも愛さなければなりません。そのような意味において、イエス様は神様を愛することにおいて狂った方であり、人類を愛することにおいて狂った方です。さらに怨讐までも愛するために狂った方です。神の国の皇族になるには、怨讐までも愛さなければなりません。それは個人のレベルにとどまらず、国のレベルまで愛さなければなりません。それで今回、統一教会で祝福を受ける人は、大韓民国内の男性や女性同士の結婚ではありません。なぜ不思議そうな目をしているのですか。もう一度繰り返しますが、今回合同結婚式で祝福を受ける人は、大韓民国の人同士で結婚できますか、できませんか? (できません)。これは何の話か分かりますか。 では、大韓民国の人はどうなるのでしょうか。外国へ行って、大統領の夫人の義理の兄弟になることと、韓国大使館の大使になるのは、活動を行う場合、どちらがより効果的でしょうか。答えてください。大統領夫人の義理の兄弟になるほうが、いかなる国の大使になるよりも素晴らしいというのです。それは、すべての国の大使を一堂に集めてどんな訓示をしても、「そのとおりでございます」となるのです。 では、統一教会の人たちはよく考えてみてください。もし先生が日本に行ったとしても、食口以外の日本人の家には行きません。日本の青年と結婚した韓国の女性が生活しているその家を訪ねていって、共に生活したいと思います。食事を作るにも、韓国の女性と日本の男性で共に協力して作るのです。その時、「仲人をした先生は、なぜ私たちをこのように苦しめるのだろうか。薬を盛って殺してしまいたい」と、話し合うのでしょうか? (いいえ)。皆さんが国境を越えて怨讐を愛することのできる驚くべき価値でもって、天上世界の因縁を新しい軌道へ向けて回転できる力の母体となっている事実を知った時、その偉大な恵沢圏に入れるようにしてくださった方に出会えたことは、どれほどありがたいことでしょうか。それは父親よりも、国の王様よりもありがたい方です。では、その方にどのような礼を尽くせばいいのでしょうか。皆さんがよく食べている魚のカレイのようにすることです。常に大地にひれ伏して、おなかが真っ白くなるほどにです。(笑い) それほどに敬礼しても、「私はまだ足りません」と言える韓国人に皆さんをしてあげようと思っているのです。なのに、何ですか! 何が不足ですか。この者たち! 先生が思うには、神様は統一原理の材料を必要とされているのです。皆さんが統一原理の真なる材料となるためには、罪のない童男、童女でなければなりません。神様は、そのような世界的に歓迎される材料を願われているのです。そして、世界が喜ぶことのできる製品が必要なのです。何の話か分かりますか。世界が誇り、世界が欽慕し、天と地が尊敬するような材料でなければなりません。何の材料になるかというと、愛の材料です。どうですか、なれますか。 韓国人同士で結婚すれば、式の翌日から口論を始めます。三年もたたないうちにけんかが始まります。しかし、日本人と韓国人が結婚すれば言葉が不自由なので、約五年間言葉を学んでいるうちに、どんなに多くの事情や曲折も越えていけるのです。どんなにつらくても苦労しても、五年間共に生活しているうちに言葉も自由に通じ合うようになり、「ああ、あなたは偉大です。どうしてこのように日本人の私を愛してくださるのですか」「あなたこそどうして韓国人の私をこれほどまでに愛することができるのですか」と言えるようになるのです。これはどれほど素晴らしいことでしょう。 このような唯一の最高の喜びを得ることのできる道があるということを、神様はよく御存じなので、この先生を通して、愛する統一教会の童男、童女に祝福を与えようとされているのです。そのような決意をもった人々が二十日以後、日本からやって来るのです。 皆さんはまだ祝福がいかに恐ろしく、またいかに尊いものかよく分かっていません。これまで祝福を受けた家庭の伝統も乱れています。先生はこれを正さなければなりません。もし今、先生が正しておかなければ、このまま曲がってしまいます。このような先生の話に反対する人は手を挙げなさい。そのような人は、「私の子女は、今回の祝福には参加できません。私は白衣民族であり、倭賊ではありません」とでも言うのですか。最近、日本人のルーツは韓国人であるということが証明されているのです。七〇パーセントがそうなのです。時がたってしまったので、分からなくなったのであり、すべての系統をたどってみれば、すべてそうなのです。 この韓国でも、北韓からの離散家族と出会った時、お互いに系統をたどっていってみると、兄弟であったと言って、目を丸くしていたのですね。分かってみると、「私のおじの名前は何々です」と言うのです。そしてよく見ると姿形までもよく似ており、「アイゴー」と言って、抱き合っている場面を見たことがあるでしょう。韓国と日本は数百年間も分かれていたのですから、私たちは骨が折れるほどに抱き合って痛哭したとしても、神様はそれを見られて、「この者、けしからんやつだ。悪いやつだ」と言われるでしょうか。「よくやった」と、神様はおっしゃるのです。それで、韓国人と日本人とは怨讐同士だったのですが、統一教会では、この怨讐同士が結婚するのです。 では、この文総裁と地上の女性は怨讐でしょうか、怨讐ではないでしょうか。うん? 怨讐なのです。アダムにはエバが怨讐であり、エバにはアダムが怨讐なのです。またカインにはアベルが怨讐であり、アベルにはカインが怨讐なのです。そしてアベルとカインの兄弟の前には、父母のアダムとエバが怨讐になるのです。このように、怨讐として分かれたものを統一しなければなりません。神の愛を否定したのですから、今日、神の愛で同和して一つにならなければなりません。分かりますか。 なぜそうしなければならないかというと、神様が愛の対象をつくられる時、「私自体はあなたのために存在するのだ」とおっしゃったのです。これが真の天理の始まりです。これは偉大なる愛の思想です。神様がアダムとエバを御覧になって、「アダムよ、エバよ、私はお前たちのためにあるのだ。私が求めている愛は、お前たちを完成させるためにあるのだ」とおっしゃったのです。 永遠なる絶対者の前に、永遠なる対象の価値を表していくために、私たちはすべての相続を受けなければなりません。相続したその愛を再び満たしていかなければなりません。完全に与えれば、そこが真空状態となり、完全に与えることによる高気圧圏をアダム、エバがもつようになるのです。そのような神の軌道の循環法度を促すために、宇宙作用の法度が回転しているのです。 真なる愛の種に 神様は天地創造をされる時、まず御自分を一〇〇パーセント投入されたのです。ですから救援摂理が復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理なのですが、再創造するためには神様がこの宇宙を創造されたように、本然の自らの愛を中心として、すべてを投入しなければなりません。文総裁もその法度に従って生涯を生きていかなければなりません。まず自分のすべてを投入することです。心と体とすべてを投入するのです。投入したあとは忘れるのです。自分が投入した苦労も忘れて、成長していく子供たちを見ながら、自分の父母が私を生むためにどれほど苦労されたか、そして、それらをすべて忘れて、成長していく私を父母が見て喜ばれるように、私も自分が投入したものをすべて忘れてしまうのです。父母の愛が貴いのは、子女のために一生を生きて、それでもまだ足りなくて、千年尽くして足りなく、なお子女のためになりたいからです。そのような父母の愛が絶対的に必要なのです。そのような神様です。 なのに不平を言ったならば、この世のどこに残れる者がいるでしょうか。ために生きて、なおために生きようとする時、三六〇度回転して、自然にすべてが解けていくのです。ですから終末が訪れたのです。ために生きる時、このように回るので(先生がしぐさされる)、このように切れてしまって、偽りは清算されてしまうのです。完全に清算するために、神様は「ために生きる道理」を通してサタンを屈伏してこられたのです。サタンを打って屈伏させるのではなく、自然屈伏なのです。統一教会も今日まで、既成教会が自然屈伏できるような道をすべてつくってきました。アメリカから牧師が数千名また来るようになるでしょう。今度先生がアメリカに行ったならば、NCCに加入するつもりです。NCCの総責任者を通して、韓国支部の者たちに指命を出します。でなければ、アメリカの大統領をして、訓示を出します。先生はいつもそれぐらいの腹をもっています。それは可能な話でしょうか、ただ話してみたくてする話でしょうか? (可能な話です)。(拍手) そこから統一が始まるのです。まず愛の種になりなさい。結論がそうです。真の愛の種になる時、宗教の歩んだ歴史時代の統一圏を越えることができるのです。分かりましたか。種には根がありますか、ありませんか。幹がありますか。枝がありますか。花がありますか。香りがありますか。蜜がありますか。実がありますか。生命がありますか。これらがすべてあるというのです。では、皆さんは種になっていますか。 温度、気候学的に見れば、古代は熱帯文明であり、中世は温帯文明です。これが一回転する四季の周期が六十年から七十年なのです。この期間内に世界を風靡する共産主義が現れたことによって、寒帯地方から温帯地方へシベリアの北風が吹き寄せ、温帯圏内のすべての枝はみんな落ちてしまったのです。冬になるとすべての実が落ちてしまいます。しかし、その中でも真の命の種は、いかに北風や寒雪が吹き寄せても、制圧されることはありません。共産主義の脅威がいかなるものであっても、それを貫いて新しい人類の平和の春の園が訪れるために、解放と希望の春の園が訪れるために、人類の新しい時代を迎えるために、この天地に蒔かれて、緑の葉を出して、再び冬を迎えることのない、解放の温帯圏へと進出するのです。それでは皆さんは種をもっていますか。 種をそのままにしておけば芽が出ません。凍りついて割れてしまいます。中に湿りがあるので、四度以下になるとどんどん膨れていって割れてしまうのです。再生のためには、迫害と艱難の歴史的試練を割って、そこに新しい生命体として、緑の芽を出して春の青山の同参者となり、生命の理論をもって成長して、世界中で一番大きい木となるのです。飛びゆく鳥もそこで休んでいくし、動物たちはその木の下で休み、鳥たちは巣を作り、すべてから尊敬されて、道の標示体ともなり、安息所ともなって、すべての幸福の条件を提示できる、そのような勝利的大木のような人物とならなければなりません。分かりましたか。文先生がこのように生きたので、今や世界中の人々が文先生の胸に抱かれて生きるようになったのです。そういうことが分かりますか。 あなた方も結婚すれば、先生の胸の中で生きたいと願いますか、どうですか。この者たち! そうですか、そうでないですか? 最近では障害者オリンピックを行うのですが、先生はそのような各国の選手たちを見て、どれほど悲しく思ったことでしょう。自転車に乗るのも手でこのようにしているのですね(先生がしぐさされる)。それは罪でないでしょうか。障害者がバスケットボールをする姿を見ても、それは罪ではないでしょうか。罪の中でも悪い罪になります。世界各国ではチャンピオンを送ったと言って、彼らがバスケットをする時、「飛べ!」と歓声をあげるのです。そして金メダルを取ればその不具な選手の前に世界が完全にひざまずくことで、統一の時代が訪れるのだとでも思っているのですか。 それで先生は先回の障害者オリンピックの時にも援助したのですが、今回の障害者オリンピックでも助けてあげなさい。郭錠煥(先生)助けてあげなさい。(はい!)。そうしなさいよ。彼らは国を結ぶための一つの祭物となったのです。四年間運動をやってチャンピオンになることはどれほど大変なことでしょうか。そうですね。それで、霊界統一のチャンピオンになるためにも、祭物的な群れがなければならないというのです。そして、それが統一教会の文先生が教育したこの群れであるということを知らなければなりません。 それで、南北統一のために自分の故郷へ帰りなさいと言うのです。そこで、まず妻を故郷に帰したのです。そして次は子女たち、二世を連れていかなければなりません。国を愛することにおいては、大学などが問題ではありません。先生が統一教会を始めた時、迫害のために大学にも行けないようになった人々とこの道を開拓してきたのと同じように、あなた方も自分たちの故郷を救うために、父母や妻子、すべてを救うために、このことを断固として成し遂げなければなりません。教会長、分かりましたか? (はい!)。先生は世界的に、皆さんの先祖のためにこのことを成し遂げましたが、皆さんは自分の故郷のために、自分が故郷を愛するように、妻が故郷を愛するように、妻以上に、夫以上に、父母以上に、子女以上に愛する時に、その故郷から新しい根が出てきて、天地を覆うことのできる大木になれるのです。自分の兄弟よりも自分の一族よりも故郷を愛し、国を愛し、国を指導できる、世界を指導できる一族になるような愛の根を下ろさなければなりません。そこに希望が生まれるのです。分かりましたか。 天国の門の鍵、還故郷 では、結論づけましょう。統一は愛によって成されるようになっています。今や先生が、すべての蕩減路程を歩み終えたのです。個人的にも終わり、家庭的な戦いも終わり、氏族的な戦いも、国家的な戦いも、世界的な戦いもすべて終わりました。それらをまとめて父母の名においてのみ相続できる時代です。しかし、相続は第三者にはできません。真の父母を中心としての父子の関係による、自然的な愛の因縁を結ぶべきです。そこから骨と肉と血が生ずるのです。それで一切の理想をそこで相続することができるのです。これが父子の因縁なのです。 ですから統一教会では、皆さんが先生を父母と呼ぶことはどれほど恵みであるか知れません。先生は六十年の歳月を犠牲にして、万民の代表として越えてきたのです。それはなぜかというと、先生は父母の立場にいるからです。すべてを与えて忘れるのです。何の代価も求めず、すべてを与えて、忘れるのです。それを失った故郷へ植えるのです。皆さんはこのような統一の木となって、先生が神の国へ結んだ、神が共に住むようないちじくの木のようにならなければなりません。統一教会の木とならなければなりません。そこで人々がおなかが空いた時、果実を求める時、かつてイエス様がエルサレムに上っていかれる時、実のないいちじくの木を呪ったことを忘れてはなりません。実を結ばなければなりません。その実が皆さんの祖父母であり、父母であり、子女であり、皆さんの一族なのです。いま正に天地開闢時代が訪れたのです。祖父が孫になり、父が息子になるのです。そのような過程を経なければ天国へ入れません。先生が行く未来の世界に入籍することはできません。故郷をもたない人たちは入籍できません。 今や宗教歴史にあって初めて故郷に帰るのです。故郷に帰って、故郷に愛の種を蒔いて、故郷の氏族と氏族を連結して民族となり、民族と民族を連結して国家となり、国家と国家を連結して世界となり、世界と世界を連結していくのです。このように氏族圏と人類が一つとなり、それによって統一が成されるのです。愛を中心として統一されるのです。分かりましたか? (はい)。 先生は何度も刑務所に入りましたが、今になってみると、それは神様が先生を教育するためだったのです。先生がもし、共産党の統治のもとで三年近くの監獄生活をしなければ、共産党の本質はいまだに分からなかったでしょう。共産党の組織の中でも最も核心的な組織が監獄の組織なのです。 また先生がアメリカへ行ってもダンベリーの生活がなかったならば、アメリカをよく知らなかったでしょう。ダンベリーに入ることによって、小さな社会ではあるが、アメリカの最も悪い面と、最も良い面が分かったのです。誤解され、また謀略によって先生はダンベリーに入った結果、彼らを心情的に最も良い人、最も悪い人に出会うことができたのです。先生は彼らを心情的に一体化させて、先生の前にひざまずかせ訓示できる立場に立ったことは、神様が未来のアメリカの国民を教育するための心情圏蕩減条件を立てさせたということです。 先生がダンベリーに入るようになった時、人々は「レバレンド・ムーンはアメリカを滅ぼし、アメリカを売り飛ばすために来たのだ」と言ったのです。そのようなアメリカの逆賊の徒党の代表の先生が入獄するというので、「この野郎! ここに入ってきたからには、もし一つでも間違ったことを行えば即刻首を切ろう」と約束していたそうです。そこでは一夜にして人一人を殺すことなど問題ではありません。普通のことなのです。それを先生は知っていたのです。先生はその社会で戦わずに通過していかなければならないのです。そして六カ月後には、彼らが先生を尊敬するようになったのです。それは先生が生活で示した教育の結果なのです。何の話か分かりますか。ですから、あなた方が故郷に帰って一族を復帰できないというような話は、この先生には絶対に通じません。 先生が西大門の刑務所に一〇〇日間入っていた時、教導所長から拘置所の課長、看守までもが先生に従ってきたのです。その時は夏だったので、教導所の牧師が桃などを買ってきてくれたのです。不思議なことに彼らは自分が何か食べようとすれば、獄中の統一教会の文先生を考えて食べ物がのどを通らなくなるというのです。 ですから先生は北韓のこともよく知っています。共産党の治下に生きることが、どのようなことであるかをよく知っています。先生は南韓についても南韓の刑務所を経たのでよく知っています。日本についても日本の刑務所に入ったので、日本人とはどのような者かをよく知っています。アメリカでも刑務所に入ったのでアメリカがどのようであるかをよく知っているのです。これが最後です。今になって考えると、それらのすべてが、神様が先生に大きな恵みを与えるための準備的役事だったのです。そのために、その国の人々が先生を尊敬することができたし、地獄にいるすべての怨讐までもが、先生を称えることができるようになったのです。解放が始まったのです。何の話か分かりますか。監獄に行って反対を受けるだけの先生ではありません。監獄の中でも懐かしく思うのは、心情の世界であり故郷の便りなのです。彼らが懐かしく思うことは食事をすることよりも、楽しい慰労の時間なのです。ですから先生はよく話をしてあげました。いろんな話を毎日のようにしてあげたのです。 そして、先生が話を始めると昼食の時間になっても食事をすることすらも忘れて、先生の話を聞くのです。これ以上の福音はないのです。人間は、飢えれば体もやせ細るのです。先生が一時間、二時間と話を続けているうちに昼食はなくなります。そのように、先生の話に酔って、食事をすることも忘れて、そこに涙を流していた人々を先生は忘れることができません。ですから今でも、彼らの思い出の中に鮮やかにレバレンド・ムーンのイメージが残っていて、電話を掛けてきたり、訪ねてきたりしようとするのですが、今は先生がそれを止めているのです。分かりますか。 一度通過する場には必ず何かを残していかなければなりません。その中でも最も貴いものはお金でもなく、手段、方法でもなく、愛なのです。そのような愛の種を蒔いていくのです。それで神様は、先生を苦労させてきたのです。日本、アメリカ、韓国、共産世界、これらの四大国が、世界の代表として先生に獄中生活をさせたことは、歴史的な根をもった最高の愛の種を植えさせるためだったのです。深い愛の根から芽を出して、最も高く成長していく茎に完成していくための、神様の愛の教育だったのです。 このようにして、サタン世界のカイン圏のすべてに、神様が今日まで種を蒔いて育ててきたのです。それらのすべてを一カ所に集めて、収穫して新しい天国時代を迎えるために、先生を苦労させてきたということを知らなければなりません。その苦労の下敷になって、贈り物になるのではなく、苦労の中から勝利して、その栄光の中から勝利的賛美の権限をもって、神様が同居できる場における贈り物を、今日、統一教会の文総裁は父母の名をもって、世界の人々に無条件に分け与えたのです。 サタンはこれを妨げることができません。それで九月二十七日を期して「世界統一転換式」を行ったのです。すべてが回っていくのです。開天節を中心として四三二一年、数字的にもぴったり合うのです。そこで「世界統一国」という、新しい地上天国への出帆を天と地の前に堂々と宣布したのです。そこで統一教会の信者は、みんな故郷に帰るのです。故郷に住むチャンスをすべて分け与えました。自分の故郷に帰って家を建てて住み、子女を育てて天の公臣となることが今回の「還故郷」です。高次元の宗教は、今日まで出家することを教えてきましたが、故郷へ帰るということは、歴史が始まって以来の出来事です。そして帰る時には、父母を伴って、父母の国家レベルの相続を受けて帰るのです。分かりましたか? (はい)。 これから、統一教会の解散命令が出るでしょう。これ以上、統一教会があって何をするのですか。故郷へ帰って、故郷の人を復帰して、故郷と直結された国を、故郷と直結された世界を、故郷と直結された天国を成し遂げるのです。それは皆さん一人一人にかかっているのです。地上で結ぶのも皆さんが結ぶのであり、地上で解くのも皆さんが解くのです。地上で結び、地上で解くことは、天上世界でも結び、解けるのだという聖書の教えのごとく、先生は「天国の門の鍵」を皆さんたちに与えたのです。それが「還故郷」です。故郷で愛の種を蒔いて氏族復帰をするのです。 きょう、このような興南出監日を記念するため、先生が今日まで苦労してきたのです。天上世界の善なる世界、また悪なる世界、すべてを知り、そこから核を取り出して、勝利の世界的な土台をつくって皆さんに与えたのです。このことを正しく知らなければなりません。きょうのこの時を迎えることがどれほど難しかったことか、それは神様から見れば、人類歴史二五〇万年以上と言われるこの長い間、数多くの人々を犠牲にしてきたものを、先生一代において縦、横に蕩減させて、解放の旗を掲げたのです。今や高らかに前進し、北韓の解放の勇士として故郷に旗を立てて、天幕を張るのです。分かりましたか。 愛の陣立てを整えて出発しなければなりません。今後の命令一下、南北の統一の日は、そう遠くないと先生は見ています。そのような喜びの日を望みつつ前進しましょう。それがきょうの興南出監を記念する日としての贈り物です。分かりましたか? (はい)。ありがとうございます。 祈祷 では祈祷しましょう。 愛するお父様。過去を振り返ってみれば、事情も多く、曲折も多く、行く手をふさがれて身もだえしたことも多くありました。しかし、お父様を愛し、お父様の息子としての責任を果たさなければならないという責任と、その遂行がどれほど重要であるかをよく御存じのお父様でありました。この息子は、千年を一日のごとくに歩むと言い、あなたのみ前に喜びの日をお返しすることよりも、憂慮の痕跡のみを多く残してきた事実を、この時間に再び回想するものです。 お父様、この大韓民国をお父様が引き受けてください。既に南と北が交流する時が来ております。物と物の交流も重要であり、人間の交流も重要でありますが、神様を中心として愛の交流をいかに成すかという問題が、最後の課題として残っており、あなたがこのことを、共産世界の瓦解、民主世界の零落のゆえ急いでおられることを知っています。 そのような中で、今日まで隠れていた統一教会が、完全に高く中天に掲げられる時となりました。レバレンド・ムーンの名が復活して、天上世界が地上世界を覆う時が来ました。名の復活によって、実体の復活圏が訪れることを考えた時、あなたが望んでおられた創造理想の愛の対象たる栄光の一時が、私たちの目前に近づいてきていることを知るものです。そのためには、真の父母と心情圏を受け継いで、真の父母と血統的因縁を結んで、真の父母の心情を相続し、万民、万国の前に、主体的な責任者として恥ずることのない、お父様の骨と血肉に連結された息子、娘として、子女の命令を果たすことのできる、神の子女とならなければならないことをよく知っています。 祝福のその日を目前に、あなたのみ前に善意のみをもって分別した歴史的な終末時代に、恥じることのない息子としての責任を果たすばかりでなく、神様の右側に立って、愛されて褒めたたえられるその場に向かって、千万の事情を耐えて、十年の苦痛も勝利していく統一の群れとなれるように、許諾してくださいますことを切にお願い申し上げます。 あなたが歩まれた道が、どれほど険しいことかを、この息子も四十数年間、血と涙の闘争の道を歩んできて、神様の悲しみと、苦しみの中にいる万民がどんなにかわいそうであるかをより分かるようになりました。ただ自分の過去を忘れることに今まで努め、記憶した悲しい事実を消し去るために努めてきた生涯の路程を知っておられるお父様。その間、あなたはその背後にあって、忘れなければならない曲折の事情が、兄弟の間、父子の間における堕落によって残された事情であることを忘れなくては、再び立てることができないということを知ったので、そのことを見つめ記憶されるお父様は、この寂しい者の友となってくださり、追われる者の垣となってくださり、石を投げる者に対して盾となってくださったことを考えます時、おそれ多いばかりでございます。 日々訪れるお父様の時が近づければ近づくほど言葉なく、沈黙を守りながら、お父様の前に、万年の深い事情から、骨髄にまで憂いの涙を流しつつ、あなたのための孝の道、忠の道が何かを探し求めることに忙しかった日々が、今や年を取ってようやく悟れるようになったこのことを感謝いたします。 秋になれば、木々の葉も色を失うとともに、すべての万物が実となって頭を下げ、自分の価値をなくしても喜びの収穫期を見つめて、お父様が人類の歴史路程を耐えられたことを感謝申し上げます。そのような恵みと恵沢圏にあって、統一教会を万国の追慕の対象として立ててくださり、そればかりでなく、中心的な立場にあって、千秋の生命的因縁を万国へ広めるための源泉として立ててくださったお父様の驚くべき恵みの前に、感謝し、賛美できる群れとなれるよう許諾してくださることを、切にお願い申し上げます。 きょう、このように集うことのできた一九八八年は、解放後の二年八カ月を足せば四十年になるこの日であります。四十年間、曲折の多い路程を訪ねてこられたお父様の恨の四〇〇〇年の歴史。その節目、節目に波打つ四位基台を整えて、四十数を越えて、四方に統一圏を築かなければならないという、お父様の摂理の統一的な事情の内なる心情がいかなることかを知る時、御苦労されてこられたお父様の労苦をさらに追慕しながら、どうか私たちの前途に三数を中心とした解放の便りが訪れるように許諾してくださいますことを、切にお願い申し上げます。 これから南北統一の召命的な責任を前にして、躊躇することなく、強く雄々しく、前進的な勇士として、先頭に立って戦っていく統一勇士として、頼もしく誇らしい姿となれるように許諾してくださることを、お父様のみ前に切にお願いいたします。たとえ死に別れても、あなたの愛の涙でその場を濡らすことのできる統一の役軍になれるようにしてくださいますことを、この日を期してお願いいたします。 日々訪れるその時が、お父様のみ前に栄光と喜びと誇りを残すことのできる日となりますように導いてくださることを、再度お願い申し上げながら、これらのすべてを真の父母の名によって祝願いたしました。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.04
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「摂理史的闘争と勝敗」1988年8月20日 人類の幸福と平和を願ってきた聖人の道 きょうの話の題目は、「摂理史的闘争と勝敗」です。 きょうのダンベリー出監(三周年)記念日に、私がこのように話をするということは、実に不自然なことであり、自分で自分の出監の日を祝う説教をするということは、実にいろいろな面で複雑な思いがします。しかし、このような事件の原因になったのも私であり、そして事件の過程を収拾してきたのも私であり、また事件を終結させたのもこの私であるために、私という存在は、統一教会においても、個人的な私ではないということです。既に、皆さんもよく知っているとおりです。 この世界を見てみますと、この世界での一般の人たちの生活と環境、すべての事件を記録した歴史というものがあります。アジアにはアジアの歴史があり、そのアジア圏内の中国には中国の歴史があり、それと同時に、韓国の歴史があり、日本の歴史があるのです。ですから、アジアの歴史に残るためには、韓国よりも、中国よりも、また日本よりも大きい、アジアのための内容を備えるようになれば、間違いなくアジアの歴史に残ることができるのです。 また、世界史の中にも数多くの国々がありますが、その数多くの国家、数多くの民族、数多くの氏族、あるいは個人が生活しているすべての背後にも歴史があるのです。しかし、世界の歴史の中における数多くの国々は、世界を代表し、世界の未来に希望をもたらして、世界的な勝利の版図を残すことを願い、またそれが、世界の人々の願いであり、世界の人々が要求するところなのです。そのようなことを成し得た人は、それがたとえ後進国の人であっても、また未開の国の人であっても、その人の歴史は、世界史的に記録されるのです。 このように見た時に、今日、この世界史の中における歴史的な人物といえば、大韓民国の偉人の中には李舜臣のような人もいます。また、宗教界においてもいろいろな人たちがいます。しかし、大韓民国を中心とした偉人たちと、アジアのために、世界のために尽くした聖人たちとは、いったい何が違うのでしょうか。アジア、あるいは自分の国を中心として生きた偉人たちは、その目的の限界が常に自分の国に局限されるし、アジアに局限されているのです。世界に影響を及ぼすことができないのです。しかし聖人たちの行った道は、国家を越えて、世界を越えて、さらには人類の歴史に影響を与えつつ、希望の観点を人類の未来に置いて、常に人類のために犠牲になり、進んで受難の道を行き、多くの苦痛を受けながらも、そのすべての困難な環境を克服して、その時代の世界人たちが記憶することのできる内容を残す道なのです。それは世界史的に、またその時代のみならず、いつまでも褒めたたえることのできる内容なのです。言い換えるならば、人類の全体に、現在のみならず、未来にまで公的な恵沢をもたらすことのできる内容を備えた人たちが、聖人であるというのです。 私たち統一教会では、さらに聖人の上に「聖子」という言葉を使っています。聖子とはどのような人かというと、神様の息子をいうのです。神様の息子とは、天の国の王宮法を知っている人です。さらに、天の国の孝道を代表すると同時に、天の国の宮中において、すべての人たちにも称賛される人なのです。また、それは天の国において、今の一時にのみ記憶されるのではなく、現在はもちろん、未来、永遠にまで天の国の愛を受けることのできる息子であり、宮中における王様の愛を受けることのできる息子の立場に立った人を「聖子」というのです。 今日、この地上の人間世界に対する聖人たちの願いは、この天の国の王宮法を知りたいということです。天の国の具体的な内容が分からないというのです。漠然として天があるということは分かるのですが、具体的なことは何も分からないのです。ですから、聖人の道理とは何かというと、聖人になるためには必ず天の国と地上の歴史を、連結できる内的因縁をもたなければならないのです。このように見た時に、聖人とはこの世界の全人類の願いである最高の理想を追求し、現実に最高の理想世界を建設する目的をもって、天が現世に何を願い、未来に何を願うのかという天の目的と一致する内容を備えた人なのです。 それで今日、四大聖人といわれる人々とは、数多くの人類の中において、天のみを中心として出発した人たちなのです。イエス様も天のみを中心として出発しました。天を中心として、歴史的現実、歴史的未来を追求することにおいての先駆者になろうとしたのです。そして彼らが努力の末に教えてきた内容は、自分の願いを展開するのではなくて、天のみ旨を展開することだったのです。その天のみ旨とは何かというと、人類の幸福と平和のためのものであり、現世と未来に永遠に続くものです。そのような理想を願って指導してきた人たちが聖人なのです。 それでは、聖人と偉人は何が異なるのかというと、偉人とは国のみを中心とした人です。そして国の愛国者たちによって伝えられてきた縦的な伝統の思想を引き継いで、それを横的に個人、家庭、氏族、民族、国家の環境へと、完全に水平線と垂直に合わせることのできる環境をつくった人です。このような道が偉人たちの道です。聖人の道というのは、縦的な基準を自分の国の理想だとか、愛国心だとか、あるいは愛国精神としていないのです。聖人は、この垂直的な縦的な思想的内容を、神のみ旨に結びつけたのです。このような驚くべき事実をもって、神のみ旨とともに伝統的内容を引き継いだ縦的基準に立って、それを横的に世界化させる道を行った人たちです。 それでは、この縦的なものをいったい何でもって結びつけるのかというと、それは知識でもないし、権力でもないし、お金でもありません。お金をもって、精神と私たち人間が願う理想世界のすべての内容を結ぶことはできません。これを結びつけるのは、真の愛なのです。そのような聖人の心の、深いその谷間で追慕するものが何かというと、もし神様がおられるとするならば、神様に愛され得る息子になることです。女性であるならば、神様の一番深い心情の中で、永遠に忘れることのできない愛の道に通じた娘の位置をもつことです。そのような内容を中心として、歴史は流れてきたのです。 真理の基準 人間には誰しも良心がありますが、誰も良心を見た人はいません。しかし「良心的に生きなさい」と言えば、既に自分の中にその標準が立てられているので、知らないうちに行動できるのです。それでは、良心はどのように成り立っているのでしょうか。良心が勝手に歩き回るとするならば、どのように歩き回るのでしょうか。このように問うてみた時、誰にも良心がいったい何か分からないので、「分からない」という漠然とした答えになるのです。 それでは、体はいったい何かというと、体はこの私なのです。この体は、良いものを食べさせるならば、もっと良いものを食べようとし、大きいものを持てば、さらに大きいものを得ようとします。右手もこのように動きながら、世界全体がそうなることを願っているのです。 その反面、良心はどうかというと、先生が大韓民国のこの四〇〇〇万、南北韓を合わせて六〇〇〇万の人々に、「一億ウォンずつあげる」と言えば、皆さんの心はどうなりますか。この世界には、ビルマやタイのようなかわいそうな国々があるので、その喜びの心をもって、全世界の前に自慢することなく、「もっとかわいそうな人たちに対して同じように分けてあげなければならない」と言った時、良心が「そうだ」と言うのです。 このように見た時、心はいかに独裁者でしょうか。どれほど無慈悲な独裁者でしょうか。全部分けてあげたにもかかわらず、それに満足せず、もっと広く、アジアの人々を思い、さらには世界の人々にまですべて分け与えても終わりがないのです。霊界に行った霊人たちにも「霊界のかわいそうな霊人たちを助けてあげたい」と言うのです。また、それのみならず「未来の後孫たちも助けてあげなければならない」と言うのです。 それでは、いったいなぜこのように二つの人格が私の中に押し込んであるのかということですが、これは今まで解決できなかった問題なのです。人間はなぜこのようになっているのでしょうか。誰がこのようにつくったのでしょうか。自分で願ってつくられたのではなく、両親が願ってそのようにつくったのでもありません。そのようになっていたがゆえに、このように生まれたというのです。それには必ず何らかの原則に従って生まれ、原理によって大きくなってこのような私になり、二重的になっていたというのです。 では、なぜ二重的になっているのでしょうか。自分というのはメーター(計り)なのです。このメーターの基本単位は何かというと、一ミリメートルです。たとえ億万であっても、その単位は一ミリメートルのこのメーターに一致しなければなりません。億万という数であってもぴったりと合って、一つも余らず、すべてのものが同じになる時、私たちは、それを世界のものとして使用できるのです。アメリカの一ミリメートルも、韓国の一ミリメートルも英国の一ミリメートルも同じです。さらに、この宇宙も同じです。 皆さん、真理とは何でしょうか。もはやこれ以上の基準はないという、この位置に立ったものを真理というのです。皆さん、ここに物理学の博士も来ていますが、物理学を勉強するならば、すべての自然世界の動きを知らなければなりません。自然世界が動く時は、漠然としては動きません。皆さん、考えてみなさい。この地球はどれだけ大きいことでしょうか。そして、この膨大な地球は、一年に一回、大陽系を回っているのですが、それは一分、一秒の差異もないのです。もし差異があるならば、大変なことになるのです。陸地と海洋が全部違ってくるのです。この地球は四十五億年間、公式基準の上に連結された運動をしているのです。そこには何かの原理か、公式か、公理というものがあるのです。 同様に真とは何かというと、一つであっても、千万であってもぴったり一致するものです。二十四金が純金であり、二十四金が真の金なのです。そうでしょう? どこに二十五金がありますか。二十六金がありますか。これが問題なのです。もしそうであれば三十金もあるはずです。このように見た時、中央を立てて、均衡になる位置を最小単位にして、その規則的な平行線上に合わせることができるものであり、垂直に合った平行でなければ、それは真ではありません。そこで、二十四金が直線になるのです。そのような基準に立っているために、二十四金が純金であるというのです。その垂直の縦的基準の前に合わせれば全部が合うというのです。 すべては宇宙の縦的(基準)の前に、平行線で立つ、宇宙の横的(基準)の上に置かれているのです。宇宙の大運動や大運勢は漠然として起こるのではなく、すべて主体と対象の授受作用による、循環法度の運動なのです。必ず垂直があり、その垂直が二十四時間、いかなる瞬間であっても変更される時には、すべて飛び散ってしまい、すべてが壊れてしまうのです。ぴったりと位置を確保しなければなりません。すべてが空間世界に自分の位置を確保し、存続の基盤をもつようになっているのです。この話は少し難しいですね。 同様に、私たち人間の基本になる計り(メーター)は何でしょうか。人間も計りがなければなりません。そうですね。数学を解くのにも、全部世界的な共通の数理的基準に従っているのです。ある国で一つという時、世界中で一つです。二つという時、二つであり、三つという時、三つです。ある基準に合格した共通的な決定基準が、世界的舞台に立つようになるとき、それが世界の基準となるのです。真理の中には、必ず東西南北の四方があるのです。真理には必ず環境があるというのです。では、環境が先でしょうか。真理自体が先でしょうか。これが問題なのです。 皆さん、この世界を神様が創造された時、真理なる人、真理なる者を立てる前に、まず環境を創造されたのです。そして環境を使用することのできる真理なる一つのモデル的標準を立て、それらが同和圏を成すことにおいて、真理の価値が生まれるのです。そのように存在的な人間を見るとき、真なる人間とはいったい何かというと、同じ原理なのです。縦横の標準がどこから見ても一致しているのです。ゆがんでいません。縦横に一致して、公式的法度上において、前後、左右、上下にも差異がなく同じでなければなりません。東に立っても合い、西に立っても合い、北に立っても合い、南に立っても合い、すべて地上世界でも、すべての霊界でも一致しなければなりません。そのようにすべてを測定できる基準がなければなりません。 女性も、男性も、みな等しく、自分を中心として「あの人は悪い」とか、「あの人は良い」と言うのですが、それは何をもって言うのかというと、「あの人は良い」という、その決定は天下を代表した位置での判断でしょうか。また「あの人は悪い」というのも、天下を代表した位置での判断でしょうか。それらを測ることのできる基準に合格した立場で判断したのでしょうか。それとも何にもないのに、ただ気持ちで言うのでしょうか。 人間は「万物唯人為貴」(ばんぶつただひとをとうとしとなす)と言われていますが、これは人間が最も貴いということです。このように宇宙を代表した最も貴いといわれる人間がでたらめになっているのです。では、人間が宇宙で最も貴いといわれるのに、北極のいかなるものとも関係を結ぶことができず、南極のいかなるものとも関係を結ぶことができず、また東や西のものとも何の関係も結ぶことができないというのならば、果たして人間が万物の中で最も貴いということができるというのでしょうか。すべてに関係をもててこそ、その中心になるゆえに人間が最高に貴いというのです。 皆さん、人間は必ず縦的な基準を受け継がなければならないし、横的な基準を受け継がなければなりません。横的な生活舞台と、縦的なすべての天地との共通的な精神的一致点を連結させることのできる土台がなければなりません。上下が垂直にならなければなりません。逆に立つとひっくり返るのです。上下関係は垂直でなければなりません。 皆さん、「義人」とは、それは縦的に義人なのでしょうか、横的に義人なのでしょうか、それとも縦横を合わせた義人なのでしょうか。無条件の義人なのでしょうか。このような意味から見た場合、聖人とは縦横を合わせた立場で、現世の理想、未来の理想、永遠の幸福へ向かって歩んでいく人です。ですから、いかに素晴らしい人であっても、いかに良い生活をしている人であっても、そこに関係を結ばなければならないのです。それを水平に、天地に不変の道理の軸を中心として回ることのできる因縁をもって生きる人が聖人です。 皆さん、心とは何かというと、心は自分にとって、縦的な伝統と未来を連結させるためのものです。良心は縦的基準の前に、天運の前に、宇宙の創造目的の前に相対できる平行線に立っているのです。もしこれがゆがんだならば、縦的なので、破壊力をもつのです。そのようになる時、その人は不合格者なのです。ですから、宇宙の大運勢による縦的なその力の道には目標があるというのです。縦的大運勢はみだりに動くのではありません。理想世界へ向かって真なる個人、真なる家庭、真なる氏族、真なる国家、真なる世界に向かって行くのです。ですから、皆さんも心と体を一つにしなければなりません。 独身の男性と女性が思春期になり、互いが慕い合いながら愛し合って結婚した時、最初の夜の会話が何かといえば、「あなたは私を本当に愛しますか?」ということなのです。この質問をしないようでは、その人は新郎の資格もないし、新婦の資格もありません。そのようなことのなかった人は、悔い改めて今度質問してみなさい。「私をどれくらい愛しますか? 本当に愛しますか? 心も体もみな一緒に、永遠に愛しますか?」と。人間は自分の生命を育てた父母の愛、祖父母の愛、先祖の先祖の先祖の、一番頂上の先祖の愛、さらに、それを越えたすべてを包括する位置の愛を受けたいというのです。途中で途切れるような愛は願わないのです。 真の愛の人を求めて、先生が「真の人、手を挙げなさい」と言えば、みな手を挙げるのですが、手を挙げれば同時に顔も上がっていかなければならないのです。「真の人、一度手を挙げてみなさい。いますか、いませんか?」。自信がないのですね。 真の人を測る計りは何かというと、「さあ、このコップは大きいですか。小さいですか?」と問われ、「小さい」と答えた人は、何を基準にして答えるかというと、自分が飲む水の量を基準にして答えるのです。コップの二倍の水を飲む人は、「ああ、このコップは小さい」と答えるのです。また、一杯のコップの三分の二の水しか飲めない人は、「ああ、このコップは大きい」と答えるのです。そのように、無言のうちに自分自身の中に標準が立っているということを知らなければなりません。 真なる愛の人 今日、統一教会で、「地上天国。理想世界」と言う時、原理原則と一致する理想世界、原理原則と一致する地上天国。天上天国でなければなりません。それが今日まで漠然としていたのです。 それで、もし千年、万年後に、いつでも共通的な計りがないというときは、千年前の先祖がどんなに良い霊界に行っているとしても、その後孫たちは、みな一番悪い霊界に行くのです。四大聖人たちがすべてを成就していれば、文総裁のような人が現れて、このようなことをする必要はありません。悪口を言われたり、監獄に入ることはどんなに気持ちの悪いことでしょうか。 いかに頭が良く、知識に優れ、権謀術に優れているとしても、それを包括して余りある永遠性をもって、永遠に縦横に連結できるような内容がなくては、現世の地上理想世界を天上理想世界に調和させることができないのです。そして、それに通じる真理が何かというと、それが愛国心なのです。そこにおいては、孝子の基準も一つであり、忠臣の基準も一つであり、聖子の基準も一つです。すべて一つの基準から出発するのです。不一致なものは、全部偽物なのです。 私たちの一番最初の先祖から、一番最後の後孫まで、すべての人々を超越してもなお、その基準が正しいと言える人が、真の人なのです。そのような真の人は、死んだのちには永遠と関係を結ぶことができるのです。そうでない人は一〇〇年生きればそれっきりで、死ねばすべてなくなるのです。人間はたとえ死ぬとしても未来に残ることを願い、現在に残ることを願うのです。 歴史時代において、数多くの宗教指導者たち、あるいは教団の代表者たちは、漠然と、「愛の神様」と言って宣教していますが、何をもって愛の神様なのでしょうか。今日、逆さまになっている神様の立場を正しめてから、私たちは逆にその神様の愛に奉らなければならないという理論的な基準を立てなければならないのです。慈悲の神様とか、全知全能なる神様とか言いますが、何が全知全能なのですか。今日まで世界を復帰できないでいる立場の神様なのです。 真の愛は何かというと、絶対的なものなのです。過去も、現在も、未来においても絶対必要なものです。それが真の愛なのです。神様に、「神様、あなたは何を願われますか?」と尋ねたとき、「真の愛を願わない」と言われるでしょうか。もしそうだとすれば、「ああ、文総裁、神様が真の愛を願わなければ、いったい何を願うのでしょうか?」と問うのですね。答えは真の愛だというのです。真の愛とは、男性と女性を代表する愛なのです。夫婦であるならば、夫婦が愛によって一体となり、死ぬのも共に死のうとする愛です。それを外そうとする人は、真の人ではありません。永遠にその綱につながれて、過去にも良かったし、現在にも良いし、未来にも良いというのが真の愛です。 最近の娘たちに「なぜ嫁に行くのですか?」と問うと、その娘たちが言うには「夫に愛されるために行くのです」。妻が夫の愛を受けるだけであり、夫が常に妻を愛するだけでは、すべてがなくなってしまうのです。あとは乞食になるだけです。ですから愛される人よりも、愛する人にならなければなりません。人から愛を受けたならば、必ずそこにプラスさせなければなりません。愛は受けるだけではいけないのです。 真の愛は過去、現在、未来を通じて包括的でなければなりません。現在の自分を越えて、家庭、氏族、民族、世界まで、無限に拡大させることのできる因縁と力をもち、そこに作用するのが真なる愛なのです。すべての歴史的人々に、「あなたの願いは何ですか?」と問うならば、男性は「愛する妻を得ることです」と言うのです。すべての夫婦がそうであり、それが世界中の夫婦の最高の願いだというのです。また「私の家庭」と言った時、それは「過去の家庭、現在の家庭、未来の家庭において、理想的なモデルの家庭です」と言うことができる家庭でなければなりません。そのためには、愛が必要なのです。 さて、このように見たとき、皆さんの心と、体の定着地がどこかというと、過去を代表しても自分を主張することができ、現在を代表しても自分を主張することができ、未来を代表しても自分を主張することができるようになり、間違いなく、過去、現在、未来の三方向が「そうだ。正しい」と、褒めたたえることができるものでなければなりません。ですからお金は、現時代において平面的に作用するものです。絶対縦的な作用はできないのです。お金をもって愛を買うことはできません。真を買うことはできません。そして、真の中でもいろんな真があります。 例えば刀には、刀を作ることにおいての基準があるのです。そこに合わせた鉄の構造によって打つ時、最高に固まった、最高の組織が完全に密着して、これ以上の刀はないというような刀になるのです。そのような基準を中心としてよしあしが決まるのです。そして、ある剣士が経験を通じて使ってみて、「こうこうであるから、これが基準だ」と、言われなければなりません。何も分からない素人たちがいい加減に作って何ができますか。そういう刀でもって何かを切ろうとしても、切れるものではありません。過去にも、現在にも、未来においても切ることができません。真理は個人を包括し、世界を包括し、すべての宇宙を包括し、被造世界の歴史すべてを包括し、神様までも包括することができなければなりません。動機と過程と結果まで、すべてのものを包括しても余りある、喜びの象徴的モデルにならなければなりません。それで真なる愛の人なのです。 今日、このような愛を中心として、神様を愛することにおいて私が、昔のいかなる聖賢よりも、もっと高く、もっと深く、もっと大きい愛を完成することができるとするならば、どんなにでも聖賢たちに教えることができるのです。さらに進んで、愛の人となり、「神様、あなたはこのようなことを探し求めてこられたのですか?」と言えるのです。愛は神様一人では成せないからです。 先生が「このように回る」と言う時にも、ある標準との相対的基準を結んでから回れば、常に何回転したかということも分かるのです。標準の基準ももたずしては、どんなに回ったとしても無効なのです。それは何のことかというと、人間は宇宙の標準を中心として、縦的であるとか、主体であるとか、相対であるとかいうことを決定して、その中で回転しつつ生きていくことにより、価値が設定されるというのです。「何回転した」と、数を数えるのと同じく、人生の価値もそれと同じ比例的基準で形成されていくということを知らなければなりません。 皆さん、心の中に真の愛を正しくもてば、縦的な愛の血統を受けて霊人体が生まれ、横的な父母の愛の因縁を受け継いで肉身が生まれるのです。この肉身と霊人体が一つになり、共鳴体にならなければなりません。ですから、この世の人々はこのような中心と一つにならなければ、どんなに生きても空しいのです。もし家庭を中心としても、家庭はいつまで私に必要なのでしょうか。家庭の前に神様の国を、神様の宇宙を、神様の世界をつくらなければなりません。 世界は神様の国のために、国は神様の氏族のために、氏族は神様の家庭のために、家庭は神様の新郎新婦のために連結されなければなりません。それは縦的になされなければなりません。父子の関係も孝子、孝女の縦的関係であり、君臣も縦的関係であり、世界の大統領と国民も縦的関係であり、神様と人間も縦的関係でなければなりません。 男性と女性が愛し合うのは、真なる父母の愛の基台を受け継ぐためです。ですから、父母の前には孝子、孝女にならなければなりません。「夫婦は一体である」という言葉があるようにです。東洋には「君師夫一体」という言葉があります。それは王様と師と夫は一体であるという意味です。それは何をもっていう言葉かというと、真なる愛をおいて言えるのです。「夫婦一心。夫婦一体」というのは、何を中心とした言葉かというと、夫婦が愛を中心として内外共に一つだというのです。理想的家庭は、愛を中心として父母、夫婦、兄弟がみな、内外、前後、左右、上下関係において一つにならなければなりません。国家も同じです。全部が愛を中心とし連結されなければ理想国家とはいえません。 人間史と摂理史 人間史は何かというと、人間たちの生活を記録した横的な歴史であり、摂理史とは縦的な歴史なのです。ですから、宗教を通して、この世の人たちが生きている幸福の基準を凌駕せずして、真なる幸福の世は生まれることができません。そのような結論を下すことができます。人間の歴史は横的な歴史なので、神様を知りません。縦的な歴史が分らなければ、自分の先祖がどのようになっているのか分からないのです。その過程も分からないのです。今日この地上に生活していても、自分の国がどこへ向かっていくのかも分からないのです。しかし縦的摂理史は、もし横的歴史が七十五度で回っていれば、自ら犠牲になって七十五度に合わせるのです。そのように、横的なものに縦的な基準が妨げられるので、神様も悲しみ、宗教人も悲しんできた歴史なのです。 神様が造られた人間は貴いものであり、縦的なこの大宇宙の愛による幸福を相続して、大宇宙と連結した横的な愛と永遠に一つになって、縦横をこの基準まで合わせていくときに苦労もなくなり、理想型となり、運動するたびに上がっていくのです。真の愛を中心として動くときには、だんだん大きくなります。真の愛というものは大きくなるのです。この自然科学世界では入力より出力が小さいけれども、愛の世界では入力より出力が何百倍も大きいのです。 仮に私を本当に愛し、本当に手助けしてくれる義人がいたとしましょう。その人に一〇〇万ウォンを借りたとしましょう。それで、私が一〇〇万ウォンを返すときに、十万ウォンを自分のポケットに入れて、九十万ウォンを返すべきでしょうか。そうではなく、一〇〇〇万ウォン、一億ウォンも与えたい気持ちになるのです。このような気持ちを感ずることができない人は、全部地獄に行きます。どれだけ精誠を尽くして生きていても地獄に行きます。恩恵に報いるときには、受けた恩恵よりも、もっと大きいものを与えるようになっているのです。分かりますか。恩恵は天地を動かし得る愛の道理と通じるものなのです。真なる愛は、運動すればするほどに大きくなるのです。ですから、愛の理想世界を追求する天は、第一に、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる汝の神を愛せよ」と語られたのです。そうすることによって、神様の心情の一番奥深くまで入ることができるのです。 第二番目は、「自分の体のように隣人を愛しなさい」ということです。この二つを成せば、万事が「OK」です。なぜ隣人を愛さなければならないのかというと、心は神様の愛で縦的であり、隣人への愛は横的なのです。縦的に神様を愛するように、横的にこの伝統を受け継ぐことのできる後孫にならなければなりません。精誠を尽くせば、隣人を中心として再び愛の伝統が継承され、そこから平等が始まるのです。 孝律(金孝律先生)は報告の中で、よくお母様がダンベリーの坂道を上がっていった様子を話すのですが、それを特別に思ってはなりません。それがお母様の愛なのです。身長一六四センチの女性が行ったり来たり、何の愛をもって動くのかというのです。お母様は宇宙的愛をもって動いたのです。分かりますか。かつてイエス様は、民族の反逆者として悲惨にもゴルゴタの山上で倒れていったけれども、彼が抱いていった主流思想は天と地を愛することでした。縦的には、神様の伝統を万世に残して、横的には兄弟の愛を万代に残したのです。これは普遍なる真理であり、普遍なる中心であり、万宇宙を照らす灯台のようなものです。 真の愛と因縁を結ばなければなりません。終わりの日には、真の愛を立てるための台風が来ます。真の愛の生命の種を残すために、台風が来るのです。庭もみな壊されていきます。父母が壊れていき、兄弟が壊れていき、人倫道徳がみな乱れていきます。愛国心が破壊されていき、聖人の道理がみな壊れていきます。真の愛一つを残すために、余分なものはすべて掃き捨てられるのです。終末時代には、真の愛の枝一つだけ残して、それ以外の枝はすべて下ろされるのです。そのような台風が来るのです。 そして最近では自分のお父さん、お母さんまでも批判したり、おじいさんを友達と思ったり、お父さん、お母さんを友達と思うのですが、この世界に、そのような話があって良いのでしょうか。これは、縦の歴史がない世の中だからです。 それでは、摂理史はどのように流れてきたのかというと、その前に人間史は一切自分の国を中心として、国の中でも自分を中心としてきたのです。自分の国しか考えられなかったのです。世界を考えることができなかったのです。このような中で統一教会が国よりも天を、天宙的な心情圏を、さらに神様の心情世界までも語ることができる立場に立ったということは夢のような話なのです。神様を知らないこの世の中にあって、神様の心情を受け継ぐことのできる人にならなければなりません。 それでは、神様も摂理史を立てて何を探し求めてこられたのでしょうか。お金を探し求めてこられたのでしょうか。もしそうであるならば、その神様は気の狂ったお方です。全知全能なる神様は何を探し求めてこられたのでしょうか。知識ですか。神様は知識の王様なのです。権力ですか。神様は全知全能なる権力の王様なのです。そのようなものは必要ないというのです。摂理歴史を通じて、神様が何を要求してこられたのかというと、それは真理に立った愛なのです。ですから真理を代表し、真理を結実しなければなりません。 真理は、父の真理、息子の真理、孫の真理、男性の真理、女性の真理、そのようになっているのです。真の人とは真理の実体なのです。父も真であり、母も真であり、息子も真であり、おじいさんも真であり、そのような真なる完全な人間たちを結びつけるものが愛なのです。しかし今日、救援摂理史に見る歴史はどうでしょうか。人間史から見ると勝敗は全部力を中心としたものなのです。 摂理史的善悪の闘争 今日の西洋社会の骨子とは何かといえば、力なのです。西洋社会は狩猟文化なのです。白人たちは、全部北極のほうから来た狩人たちなのです。弱肉強食を好むのです。クリスチャンであるにもかかわらず西洋文明は血を流してきたのです。西欧の人たちは愛を主張する民族であるにもかかわらず、アメリカに上陸してインディアンを全部迫害したのです。そして第一次大戦、第二次大戦を通じて、自主的国家体制を中心に世界的版図を成そうとしてみな失敗したのです。世界万民を中心として和合しなければなりません。いかなる民族をも超越することができなければなりません。そのような思想観が今日まで西洋にはなかったのです。 農耕文化を受け継いだ東洋には、「心とは何なのか」と、すべてに精神世界に対する深いものを求めてきたのです。儒教、仏教、仙教(道教)等の宗教を中心にして、真の善を成しつつ、精誠込めて一〇〇日、一〇〇〇日の祈祷を行いながら、天を受け継ぐために自分の心身を修めてきたのです。ですから、東洋思想と西洋思想の違いは何かというと、東洋思想は縦的なので形体がありませんが、西洋思想は知の版図を中心とするので実際的な足場が残っているのです。それで、摂理史的な観点から見て一番古い宗教歴史は、創世以後に万民を救援するための摂理をなされた神様から出発したのです。神様が主体となって、人間が相対となり永遠に生きることが理想なのです。 このような道を探し求めるためには、この世界は今まで神様が摂理できる舞台ではなく、一八〇度反対の悪魔の舞台なのです。それを知らなければなりません。左のほうのものは右のほうへ、右のほうのものは左のほうへ、堕落した世界を一八〇度回転しなければなりません。個人的にも左側と右側を回転するためには、個人的闘争がなければなりません。摂理史的善悪の闘争と勝敗を決するのです。個人を反対に回転させるための闘争歴史、家庭を反対に回転させるための闘争歴史、氏族を反対に回転させるための闘争歴史、民族を反対に回転させるための闘争歴史、国家を反対に回転させるための闘争歴史、世界を反対に回転させるための闘争歴史があるのです。今や世界が左右にぶつかり合う時代です。それを全部を回転させなければならないというのです。 人間が堕落したことによってアダムが左側になり、サタンが右側になったというのです。すなわち、サタンが長子の権限を奪っていったのです。ですから、統一教会における摂理史的善悪の闘争史によって、正道を受け継ぐのはどのような人かといえば、個人を中心として一八〇度方向転換した道理をもっている人です。蕩減路程においては、個人蕩減、家庭蕩減、氏族蕩減、民族、国家、世界、天宙蕩減。さらに神様までも解放するために、神様の代わりに犠牲になることができなければなりません。 蕩減の道は、まっすぐな状態で蕩減するのではなく、善悪の闘争の中に完全に投入して勝敗を決定するのです。分かりますか。アベルが神様の前に祭物をささげた時、み旨にかなうようにささげたか否かによって、勝敗が決定したのです。み旨にかなってささげた時には勝利するが、み旨にかなったようにささげられなかったならば敗れるのです。祭壇を中心として勝敗の役事がされてきたのです。ですから、旧約時代には、すべての万物を打ってアダム・エバを探し求めてきたのです。万物の犠牲の過程を経て、万物の中心となる人を探し求めてきたのです。そして新約時代には、神様の愛する息子、娘を打って、この地上に父母を探し求めてきたのです。歴史がそのようになっているのです。それで、イエス様が息子として祭物になり、十字架上で血を流した場からローマ帝国とユダヤ教が分かれたのです。十字架上で分かれたために、十字架上でサタンとアダムが是非の判定を下して、父の立場に立つことができたのです。それは先端の一番苦痛に満ちた位置で、死の立場を越えて天を愛し、世界を愛し、神様を愛する愛の心を中心としたので今日この道があるのであって、自分を愛し、自分の一族を愛するところにこの道はありません。 万物を犠牲にさせて神様の息子と娘を探し求め、神様の息子と娘を犠牲にさせて、カインとアベルを犠牲にさせて、父母のための道を開いてきたのがキリスト教思想です。そして父母を犠牲にさせて、神様に侍っていくのがこの統一教会の道なのです。何の話か分かりますか。統一教会は父母が祭物としてささげられるのです。父母としてこの地上に来て、神様に侍ることができなかった恨みを蕩減しなければならないのです。 十字架を通して、この地上に神様が摂理することができ、神様と真の父母が縦横に結ばれるその位置がどこかというと、国の頂上なのです。そこが正否を判断する法廷なのです。今日、世界の法廷を代表したのがアメリカであり、そのアメリカの法廷を中心として、天の側なのか否かを判決したのです。アメリカのキリスト教と国家は、カイン・アベルの関係です。それらが一つになって、「父母のために私たちが十字架を負っていきます」と言わなければなりません。キリスト教の伝統であるところの、息子が血を流しつつ、父母が行った伝統を最後まで、アメリカとアメリカ国民とキリスト教が受け継いで、その使命を果たさなければなりません。 一九五三年当時、父母が来られて世界的に横的な版図を広げることをサタンが妨害したのですが、神様の縦的な基準の根を植えなければなりませんでした。そうすれば、またたくまに、七年以内に全世界を神様が統治できる愛の勝利的地上天国になったはずです。 摂理的歴史は、常に三段階を経ているのです。万物の血を流して息子、娘を救うためのものが旧約時代であり、新約時代には、息子、娘を犠牲にさせてこの地上に父母を迎えようとしたのです。悪なる父母の種を受け継いだ人間たちが、本然の父母を探し求めることを願ったのです。それは真の御父母様が来られる道の門を開くためのものです。ですから、世界的な息子、娘、カイン・アベルが血を流す時になれば、真の父母様が来られる時代なのです。アダム、エバ、天使長の三数を中心にして、霊肉一体となり一族を復帰しなければなりません。 ヒトラーは、キリスト教をひねり潰そうとし、その根のユダヤ教を引き抜こうとしました。サタンはユダヤ人をすべて抹殺してしまおうとして、キリスト教を完全に掃き捨てようとしたのです。このように打たれて、初めて天の側の息子の長子権を復帰して、全世界が一つの世界になれたのです。それが第二次大戦直後なのです。韓国のキリスト教が文総裁に七年過程で侍っていたならば、今日の大韓民国は、世界を指導できる中心になっても余りある国家だったのです。 先生を見てください。このように世界中が反対し迫害する四十年間を、ひたすらうじ虫のようになって、ありとあらゆる窮状をみな経て、そこからはい出て、蝶になって、世界を処理する基盤を築いたのです。アメリカとキリスト教を動かすことのできる真理をもっているのです。 一九五三年からの七年間に、このような戦いを経て、新しい蕩減路程を越えてきたことを皆さんは知らなければなりません。一九五三年、一九五四年、一九五五年の三年間に統一教会が出発したのです。四三〇〇年の歴史を二十年間に縮小させたのです。四三〇〇年間讒訴してきたサタンを、父母を中心として二十年圏内でカインとアベルを一つにして清算したのです。統一教会の解放とともに、キリスト教の解放を成すことができるのです。アメリカの大統領も今や、先生の力を必要としているのです。 すべてのものを結ぶ神様の縦的なる愛 そのようにして、反対する国を愛でもって生かしてやるために、神様は愛の心をもって旧約時代、新約時代、成約時代を通じて、万物を犠牲にさせ、息子、娘を犠牲にさせ、父母を犠牲にさせてきたのです。ですから私たちはそれ以上に、自分のすべての物質を注ぎ込まなければならないし、自分の体の血と肉を注ぎ込まなければならないし、自分の愛のすべてを犠牲にしなければなりません。先生は、今もそのことを成しているのです。 家庭を捨て、国を捨て、民族も捨て、反対する国に行って、怨讐を愛するため一個人としても堂々と、家庭的にもアメリカのいかなる家庭より、神様の摂理を受け継いだ家庭としての理想を立てなければならなかったのです。そのような摂理を成してきたのです。ダンベリーに入って、怨讐の国を生かしてあげ、すべてを回転させてきたのです。その軸はどこから回っていかなければならないかというと、一番高い者が一番低い底に下って、天を引きずり下ろして地獄を復帰してきたのです。 軸となる真の父母の愛が、ダンベリーに入ったのです。アダム・エバの垣、体と心を妨げた垣、父子の垣、国の垣、天上世界の恨み、地上世界の人類の後孫という悪魔の怪異なる不義の満足に陶酔するこの悪党の歴史を、もうこれ以上延長させることができないというのです。ですから体にブレーキをかけなければなりません。私の肉の魂、私の骨に、心を中心としてのブレーキをかけなければなりません。私の肉は旧約時代を代表し、私の骨は新約時代を代表し、私の心情は成約時代を代表するものです。父母の因縁により、骨髄は骨を結ぶためのものであり、血は肉を結ぶためのものであり、汗は万物を結ぶためのものなのです。この戦いの場で、縦的な基準と横的な基盤を付け加えるようになる時、万国の勝利と統一教会の新しい未来が、朝の曙光とともに訪れてくるのです。完全に転換したのです。 互いに反発してきたアジア文明と西洋文明が、左側のアジア文明圏と右側の西洋文明圏とが合わさるのです。何を中心としてかというと、万物を愛することのできる神様の縦的愛、人間を愛することのできる神様の縦的愛、万宇宙を愛することのできる神様の縦的愛を中心にして、すべての存在の世界も結ばれていくのです。 皆さんは、先生が皆さんをどのようにして故郷に送ったのか知らなければなりません。縦的な天のみ旨を中心として、皆さんを故郷に送るようになったのです。皆さんは、この一八〇度を回っていかなければなりません。一八〇度回っていくために越える九十度が皆さんの故郷なのです。皆さんが故郷に帰っていって、先生と一緒に蕩減歴史、闘争歴史の手本となり、愛の実体として、すべての一族と後孫までが、皆さんの前に頭を下げて「あなたこそ愛の先祖です」と、敬礼する立場に立たなければ、故郷をもつことができないのです。 今度、先生が韓国に帰ってきてみると、民自党がどうだとか言っていますが、自分の欲望を中心として国を動かしてはいけません。この道は、自分よりも、より大きいものを尊重視しなければなりません。神様がいないという唯物論者たちは、とんでもない人間です。皆さん、ソ連のマルクス主義は経済哲学をもって、経済圏を中心としてユートピアを建設しようと主張しましたが、反対にとんでもない世界になってしまったのです。乞食のようになってしまったのです。 これからは、嫌でもソ連は従ってこなければなりません。文総裁は、このように成功した人です。唯物論者たちも先生には怨讐であり、民主主義者たちも怨讐です。また、民主主義は神様の名前を用いていますが、神様の愛とは遠いものです。神様の愛と因縁を結べば永遠に存続することができるし、永遠に、幸福な過去・現在・未来を統合することができる位置に立つようになります。そのような歴史性を超越できる位置をもつことができなかったために、今日神様の愛を中心としての新しい接ぎ木の運動をするのです。 アメリカも、自由世界も、キリスト教文化圏も、教皇庁も、先生の教えを聞かなければなりません。でなければ今に先祖たちが来て打つのです。堕落した天使長は、人間の先祖です。本当の先祖になるべき人間たちが先祖の役割をできなかったのです。悪魔になったのです。ですから反対に、復帰された天使世界において、皆さんの先祖たちが悪魔を打って追い払うのです。今後、統一教会を信ぜずしては生きられなくなるのです。 先生は悪口を言われながらも成功しましたか、しませんでしたか? (成功しました)。私はできなかったと考えています。すべて神様が成したと思うのです。皆さんは、これからもっと大きいことを成しなさいと言われた時にはどうしますか。みな逃げていくのですか。神様のみ前に立ってこそ、私の行くべき道です。縦的な父が世界の大統領の座に座らなければなりません。その次に、横的な大統領の影法師の役割ができるというのです。これが文総裁の思想です。分かりますか、原理原則を中心として元亨利貞、天道之常、仁義礼智、人性之綱(注¨元亨利貞、すなわち元は万物の初め、亨は万物の成長、利は万物の生を遂げること、貞は万物の成功を納めることであり、これは天道の常である。また仁義礼智は、人間の本来的性質の綱である)と言いますが、元亨利貞が何ですか? 仁義礼智が何ですか? これらはみな観念的なところがあります。 しかし、愛は抽象名詞ではありません。永遠に必要なものです。過去にも必要だし、きょうも必要だし、未来にも必要なのです。皆さんは愛の御飯を食べたいですか、呪いの御飯を食べたいですか? 愛の豆御飯と呪いの御飯の、どちらを食べたいですか? (愛の豆御飯です)。そうですね。愛の鞭打ちと、呪いの賞金のどちらを得たいですか? 答えが間違えば引っかかるので黙っているのですか。 統一教会の幹部たちを先生がどのように教育するのかといえば、簡単です。縦的に合っているのか、横的に合っているのかというのです。先生の計りは簡単です。世の中で一番便利であり簡単です。縦横がぴったりと合えば良いのです。ですから、統一教会の三大標語は伝統、教育、実践なのです。統一教会の歴史を、自分の事業以上に重要視しなければなりません。たとえどのような会社の社長になったとしても、その立場よりも統一教会の歴史を重要視し、先生が血を流した闘争の歴史を、自分の生命以上に大切にしなければなりません。 その次に、人類を自分の家庭よりも、妻よりも、子供よりも、もっと愛しなさいというのです。父母になるために、先生はすべての人類の先端に立って神様をこのように愛したのです。ですから真の息子になる道を教える役割をする父母の資格を得たのです。さらに私自身の妻を迎えるときは、自分の一族の教派に所属した女性の中から迎えてはなりませんでした。また私の子女たちは、世の中の子供とは違って、神を中心として自分の位置を正し、「愛のみ旨に従う御父母様のために、自分自身を投入して命令一下、服従します」と言えなければなりません。 私は興進(様)が死んだのちの三日間、一滴も涙を流しませんでした。神様は私が死んだのちに、私がみ旨をみな成して共同墓地に行く時に神様が泣きますか。誰か答えてください。み旨をみな成して、神様の前に一生涯苦労しながら生きたので、「ああ、かわいそうなお前、死んだのか。お前一代の責任によって、万国のすべての歴史的な人類の罪を背負って行かなければならないのに」と言われるのです。神様を解放したあとで、私が死んだ時に涙を流されるのです。神様も解放できない位置で、救援摂理に呻吟している神様の前に、「私が死んだら涙を流してください」というような親不孝者ではありません。 先生は三日間、興進(様)の死体の前で過ごしながら一滴も涙を流しませんでした。「これから、君のすることがある! 私もすることがある!」と。その一点から、愛で死亡圏を勝利したのです。天が勝ったのです。一週間先生はそのような戦いをしてきたのです。 愛を中心として結べば、その愛の前にはサタンが逃げていくというのです。ですから、死ぬことが問題ではないというのです。分かりますか。父母の責任を果たして、天を慰められるすべてのことを成して、一代で天が願う地上と天上世界の分離された事実を、心情的基準を中心に真の父母の血族を通じた因縁を結んで、この地上に平面的一二〇国家を中心としての世界的な再臨の基盤ができたのです。これから地球星は急変して回っていくのです。この三年間で世の中も大きく変わったでしょう? (はい)。先生のダンベリーと、興進(様)の血を撒いた摂理を踏みにじってはいけません。苦難の血肉の根が縦的根となり、芽が縦的芽となって統一教会は成長しているのです。 皆さんは自分自身の五パーセントの蕩減路程、摂理史的な路程を勝利しなければなりません。それは何でもって勝利するかというと、力ではありません。愛によってです。愛することができなければ敗者になるのみです。ここから天の新しい宇宙再創造歴史が展開するのです。神様の創造は、完全投入からです。責任をもって夜も昼も涙を流してやり、父母が子供の痛み以上の痛みを感じつつ訓戒する時、そこに子供は屈伏するというのです。 完全なるプラスは完全なるマイナスを創造する それで、きょう皆さんが、先生のダンベリー出監を祝うことのできる資格とは何でしょうか。もし皆さんが今死ぬならば、霊界に行って再び復活することができますか。復活するためには、宇宙力を投入させなければなりません。宇宙力が爆発するならば、そこから自動的に復活できるのです。その力の根源が何かというと、愛の力なのです。もし先生がこの国の指導者に会うことがあれば、「何ですか! このようにしてしまって」と言いながら、厳しく詰め寄るのです。審判官は冷酷です。先生は不義と正義を判断するのです。それは神様の本然の愛を中心としてです。私が行うのではありません。一切の理想と前進的な発展の原動力は愛がなくては成せません。 もし先生が四十年前の興南の監獄の話をすれば、どんなに素晴らしい人であっても骨が砕けるのです。そのような興南で再創造歴史が展開されたのです。二〇〇〇年前にカルバリ山においてイエス様を殺した怨讐のローマ兵士を愛したイエス様の十字架の死を思って戦った時、二〇〇〇年の歴史を越えて爆発的な力が発動したのです。それは神様の愛が歴史を超越するからです。聖人の思想は万民愛であり、神様の息子までも愛するのです。そこから新しい復興が始まったのです。 今日、統一教会の食口は、「縦的な愛の主体の神様が創造主である」と言いますが、その縦的な生命の主体となられる神様の愛を中心として見た時、縦的な創造主は縦的な愛の父母なのです。分かりますか。そして真の父母とは何かというと、この宇宙の横的な根本的愛の主人公なのです。さらに縦的な神様の愛と、横的な真の父母の愛の連結されるところが夫婦なのです。夫婦を中心として家庭の基盤がその中に染み込むのです。これを大きくしたのが聖人たちとその信徒たちです。また、神様の摂理の中での預言者たちです。預言者とは、万民解放圏を中心とする天地の主権を確立するための神様の国の準備をする人です。分かりますか。 旧約時代は、万物を犠牲にさせて子女に侍るのであり、新約時代は、子女を犠牲にさせて父母に侍るのであり、成約時代は、父母が犠牲になって神様に侍っていく時代なのです。この地上に、縦横の愛を着陸させるのです。縦的愛と横的愛を一つにするのです。ここから統一圏が始まるのです。 皆さんが統一教会の活動をよくするのは、いったいなぜかというと、先生が好きだからですね。先生がいれば眠くなりません。先生には完全に縦的基準があるのです。完全なるプラスは完全なるマイナスを創造するという宇宙の創造性があるからです。そのような縦的な愛の圏内に先生がいるので、先生が自然に好きになるのです。先生と共に千年、万年、生きたくなるのです。真の愛の主体は神様であり、真の愛の対象は真の父母なのです。これを血統的にいかに受け継ぐのかというと、お母さんとお父さんの生命からではありません。愛からなのです。 この要素は地球星であっても同じです。数多くの怨讐をも引っ張り寄せることのできる力が愛の本質なのです。私の体も、心も、すべての霊的な要素も引っ張り寄せるのです。天地和合の、その骨髄的主流を引っ張っていくことのできるものが真なる愛なのです。私はお母さん、お父さんのその愛の力の中から生まれたのです。自分を第一主義とするのは、お母さんとお父さんの愛の心情が神様の前に蒔かれた核心の位置に立っているからです。私を中心として父母が立ったからです。これを中心として縦的歴史が千年、万年継承されるのです。ですから、父子の関係は切ろうにも切ることができないのです。 さて、善悪の闘争歴史においては、蕩減の道を行かなければなりません。先生もそれを知ったので、今も蕩減の道を行くのです。それ以外には何も必要ありません。それで巨大なアメリカまでも攻撃したのです。すべてに善悪の攻撃をしたのです。蕩減の道を行こうと願う人は、いつでも主流にならなければならないし、主体にならなければなりません。善悪の攻撃者にならなければなりません。それが天地を代弁した立場なのです。 きょうの日を記念するのは、ダンベリーの勝利を皆さんの勝利とするためです。それは愛の道においてです。きょうの説教の題目は何でしたか? (摂理史的闘争と勝敗です)。善悪の闘争はどのようにしなければなりませんか? それが分からなかったのです。天の前に立つためには、私が正しいと思うことを中心として行わなければならないというのです。それを中心として責任を果たせというのです。環境が悪ければ、問題を起こすのです。それで先生は行く先々でいつでも問題を起こして復帰してきました。 主体的立場で、サタンと是非を決定し、愛の基準においてサタンを自然屈伏させずしては、皆さんは天国に入る道がありません。長子権を復帰する道がありません。先生であっても同じです。分かりますか? (はい)。この統一教会の者たち! 世の中が歓迎するといって決して安らかに眠ってはなりません。アメリカの人々が泣いているし、共産世界の数多くの人々が痛哭しているのに、誰がその責任を負うのですか。 私たちが右側であるならば、彼らは左側にいるのです。私たちは真の父母と一体となって、愛でもって吸収しなければなりません。そしてモスクワ大会を行うのです。分かりますか? (はい)。モスクワへ行くのです。今回のオリンピック大会という世界的大会の意義は、すべての祖先たちが霊的に訪れて、その後孫たちが実体で訪れて、愛によってこの文総裁と因縁を結ぶことにあったのです。摂理史的善悪の闘争路程は、公義に立って生きるのみです。自分のために生きてはなりません。悪は自分を中心として生きるのです。善は全体のために犠牲になります。善悪がそこから分かれるのです。 救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理なのです。再創造は神の愛を中心として完全投入なのです。それが根源です。善悪の闘争史において、チャンピオンになるためにはどのくらい自分を投入するのかというと、自分がなくなるまで目標の成就のために投入しなければなりません。先生は今日まで自分を中心として生きたことはありません。御飯を食べるのも、朝も夕も忘れて生きてきたのです。朝夕を区別することも分からずに、昼と夜を区別することも分からずに生活をしてきたのです。神様は昼と夜を区別しません。それを区別していては、神様は神様の役割ができません。 先生の伝統を相続する氏族的メシヤとなって 今まで四十年間、全世界は文総裁に反対してきました。共産党、アメリカ、アメリカのキリスト教、ユダヤ教、大韓民国のすべての団体という団体がみな、私に反対してきました。しかし、私は死にませんでした。 摂理史にプラスする人たちは、愛を目標とします。愛主義に目標を置くのです。縦的な伝統的愛、横的な理想の愛、その縦横を結んだ愛が、初めて父母によって統一圏をもたらすのです。その心情的統一を成すのは、この統一教会以外にはありません。先生は一生涯、受難の道を歩んだのです。ですからこれを相続するために、皆さんは五パーセントの責任を果たさなければなりません。皆さんは、自分の家族すべてを蕩減復帰するために故郷に戻っていくのです。故郷に帰る時が来たのです。今後はいかに立派な人であっても、その地域の統一教会の責任者の愛のサインをもらうことができなければ、先生とは関係ありません。ですから先生は故郷に戻っていく皆さんに先立ち、教育機関としての郷土学校をつくり、南北統一運動国民連合までつくっておきました。 故郷に帰っていった神様の使者たちは、自分の故郷のすべての人々に自分の生命のように侍り、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、汝の主なる神を愛せよ」と聖書にあるごとく、愛の心をもって、神様が愛するのと同じ心に立つようにならなければなりません。また、統一教会の食口たちが、そのように愛するようになる時、隣人を愛したということと同じことになるのです。そのようになれば、縦横の天地を包括できる、真の人のもつべき理想的愛の復帰基盤が設定されるのです。東に行っても、西に行っても、南に行っても、北に行っても、上下に行っても、どこにでも通じることができる理想圏です。このようなすべての球形の力は、愛によるのです。宇宙のすべての作用は、この球形の核の縦横の愛の点を通ろうとするのです。すべての作用の動機がそこにあるのです。ですから主体と対象は、必ず左右になっているのです。宇宙はペア制度になっているのです。人間も男と女、犬も雄と雌、蟻も雄と雌、細菌も雄と雌、鉱物もプラスとマイナスになっているというのです。 なぜこのようになっているのかというと、存在は必ず縦的基準と横的基準が合ってこそ相対になれるからです。そこで、自分の相対に対して自分自身を投入するようになるのです。愛を投入するようになります。ですから、進化論的観点と愛の発展と創造を中心とした発展の論理は何が違うかというと、真なる元素が愛を中心として自分の生命をどのように投入しようとするのかという問題に尽きるのです。鉱物よりも大きい生命をもったものは植物です。植物よりも大きい生命をもったものが動物です。動物の中でも一番の中心になるのが人間なのです。さらに人間の中でも、縦的な神様の愛を中心として生きるという、そのような人格者の愛の圏内に同参することが、万宇宙の存続起源にならなければならないのです。そのような愛のためには生命をささげるというのです。 先生はこのことを知ったので、自分の生命をこの愛のためにささげる覚悟をしたのです。愛が先か、生命が先かというと、愛が先なのです。愛が動機になって生命が生じたのです。コリント人への第一の手紙の第一三章を見ると、「いつまでも存続するものは信仰と希望と愛とこの三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」と言っています。愛は、全宇宙を審判することができるものです。愛の道理に合う時には、合格となり、そうでなければ審判を受けるのです。サタンが讒訴するのです。 審判は何を基準にするのかというと、真の愛をもってするのです。分かりますか。個人的な真の愛を中心として一万名の人々を審判するのです。家庭的な真の愛を中心として一万の家庭を審判するのです。氏族的な真の愛を中心として一万の氏族を審判するのです。国家的な真の愛を中心として万国を審判するのです。天宙の大主宰者が慕い、従うことができる愛の法度を通じて、天宙の大主宰の審判圏が展開するのです。そこで勝利する者は、永遠に存続するのであり、ここで敗れる者は永遠に屈伏するのです。 ですから、堕落した人間たちは必ず蕩減の道を行かなければなりません。神様の戦術戦略は、打たれて奪ってくるのです。摂理歴史はいつも打たれてきましたが、決して弁明しませんでした。自然屈伏させなければならなかったのです。自然屈伏させることのできる環境というものは、いかなる歴史時代であっても、その当代の人たちの前には現れませんでした。 しかし、文総裁は、すべての歴史時代にも自然屈伏させることのできる基盤を、一代において築いて、一代において清算したのです。今やアメリカと韓国のキリスト教を中心として、私の目前で審判が展開されているのです。この時代圏内における善悪の判決とともに、愛という基準を中心として勝敗の決定戦が展開しているのです。この伝統的基準を不信した人は、地獄に行くのであり、これを越えていく人は、天国に行くようになるのです。 そのような標準をもって、ダンベリーの中において歴史を背負い、世界を正すために戦ってきたのです。そして四十日目に、ダンベリーの歴史が始まって以来初めて監獄の門がすべて開かれて、囚人たちの父母、兄弟、親戚たちが監獄内で自由に会えるということが起こったのです。先生がダンベリーに入ることになったその日から、アメリカのために成してきたすべてのことは、今日において、もはや統一教会の文先生を無視することができない勢力基盤になったのです。その基台を築いたのがダンベリーの中なのです。その場で死ぬか生きるかという戦いをしたのです。「ワシントン・タイムズ」なども法廷闘争をしながらつくりました。 ですから、そのような先生の伝統を相続する皆さんになって、皆さんの村に帰って、氏族的メシヤになるのです。世界の五大洋六大州に皆さんの涙の跡を残さなければなりません。その解怨成就のゆえに歴史は、一日生活圏に入ってくるのです。今やアメリカの国民たちも、「我が国の第一の愛国者は、文先生だ」と言っています。 この国の愛国者の順位の中に文総裁の名前はないけれども、天上の愛国者の名簿を見れば、一番最初が文総裁なのです。そのようになるために、皆さんも国を愛さなければなりません。神様を愛するためにです。 皆さんの子供たちが痛哭しながら、「私たちの父母は、神様を愛するあまり、私たちには無情な父母であった」という言葉を聞かなければなりません。そして神様の愛のために、解放の王者として育ててくれたのだという、父母の深い愛が分かるようになった時、子供たちは痛哭するというのです。 そのように、皆さんは火山のような心を爆発させなければなりません。活火山にならなければならないというのです。活火山にならなければなりません。山の頂上から二十四時間火を吹き出すのです。そのような愛の活火山になって爆発しなさいというのです。そこでは、すべての者が死ぬようであっても、決して死にません。南北統一のため、郷土愛を確立していくことを覚悟し、決意するのが、きょうのダンベリー勝利三周年を記念する祝賀の日に統一教会の群れが成さなければならない課題なのです。(アーメン)。これが結論なのです。 天の国の王族の種に 摂理史において、敗者になってはなりません。敗者の悲痛さは比べるものがありません。先生はよく知っています。法廷の前に立つたびに、いかに悔しくてたまらないかという事実は誰にも分かりません。準備してきた一切の環境を奪われた孤児の立場がどれだけわびしいものであるかということをよく知っているのです。ですから、先生は解放された時にも、「万歳」を叫びませんでした。このような摂理の時が、今後、韓国に現れることを分かっていたからです。 今日、統一教会の歴史の背後に、深く根づいた縦的なる勝利の歴史が入っているのです。正義の血肉が入っているのです。そのような歴史のほとばしる栄養を供給された種と幹と枝と果実なのです。万世において万民が頭を下げ、尊敬し、自然的にその道を褒めたたえ、賛美するようになるのです。そのような群れとなって、天の国の息子、娘、王の皇族にならねばなりません。私が探し求める人は、天の国の農民ではありません。天の国の王族なのです。皆さんはそのような種にならなければなりません。その位置で収められ、倉庫の中で、寒い北の雪風が吹きつける冬の季節を越えて、南から来る新しい春の日差しを受けて、新しい芽となり、輝く太陽の光の方向に合わせて、自らの中に創造力を発揮し、生命力を輝かすことのできる種にならねばなりません。それが真の生命の種なのです。 文総裁の前にいかに激しい雪風が吹いても、暴風が押し寄せてきても、私は倒れません。どれだけ無慈悲にありとあらゆることが起きても私は倒れません。しかし天は打ってきたのです。私が一番愛する友達をみな、連れていきました。私を愛した人たちをみな、打ってしまいました。私のお母さんが私をどれだけ愛していたことか分かりますか。愛する妹たちも、他人の家に送りました。そして私は、神様のために家を離れ、故郷を離れ、国を離れました。そして、この地球星を去るために、神様の愛の種を蒔くために、どんなに努力したことか知れません。 今や時が来ました。統一教会という誇りをもって故郷に帰っていくのです。先生が故郷を失ったその悲しみ以上の故郷を訪ね求める父親の心をもって帰っていくのです。そのような心をもった先生の代身とならねばなりません。先生が失ってしまった家庭を、氏族、民族、国家を代わりに探し求めていくのです。この民族を通して、先生が愛することのできなかった過去を越えて、先生が愛するこの韓国において、地上天国の基地をつくるために、休む間もなく涙と共に行かなければなりません。そのような人が神側の人なのです。 先生は敗者なのですか、勝者なのですか。ここに何と書きましたか。勝利と書きましたか。読んでみなさい。何と書きましたか? (ダンベリー勝利三周年記念です)。 先日先生は、釜山に一日で行ってきました。木浦にも一日で行ってきました。江原道にも一日行ってきました。全部、一日で行ってきたのです。眠りながら回ったのではありません。なぜか分かりますか。先生は夜と昼を意のままに治めて歩む人です。そのような人なのです。疲れてもし自分でも知らずに眼がまどろむならば、先生はパッとつねるのです。眠ってはいけないというのです。「走れ、三千里半島。私と同じ心をもって生活せよ。歴史的な恨みを私が責任を負う。国土よ従え。私のあとに従え!」と、このように行くのです。 私が立場を確保するこの国、この国土にはもはや悪魔の差し出す手がなくなるというのです。共産党の群れがどこにおり、悪党の群れがどこにいますか。この韓半島を解放の基盤のために、未来に必ず祝福があることを願って、ダンベリー勝利三周年を祝賀する記念のこの日をもつのです。皆さんは敗者になってはいけません。勝者にならなければなりません。きょうの記念すべき日、先生のみ言を中心として、縦的横的な理想の愛の心情が一体化した位置で、自分が中央に立って蕩減復帰の王子、王女になるという人は手を挙げましょう。(アーメン)。(拍手) 祈祷 では祈祷しましょう。 愛するお父様。こうしていると、昔の青春時代を懐かしく思い起こします。血がわき立つ情熱が心の奥深くにしみ通り、お父様の心情の園で、切なく泣き叫びつつ、手の先まで感じたものでした。このような七十に近い老体となりて、歴史を回顧しながら、再び今日の立場を考えた時、お父様の前に心苦しくおそれ多いことばかりです。 青春の時期に、気勢も堂々と天下に号令しなければならない時代をみな失い、再蕩減という、怨恨の深いほら穴をさまよいながら、今日、この時代にこのように基盤を築きましたが、この統一家の姿も十分なる備えに欠け、いまだ足りないことをお許しくださいますようお願い申し上げます。 お父様。摂理史的なすべてのものに対して、敗者になるのか、勝者になるのかということは、必ずや戦場において戦わずしては、決定できません。これは、天のことであれ、地上世界、サタン世界のことであれ同じ道理であります。 今日、この三千里半島、この国を、誰がお父様の立場に立って愛することができ、誰が真実なる愛国者の姿を見せてくれることができるでしょうか。これを成し遂げるために今日、統一家は、還故郷という、歴史上の摂理時代になかった新しいことを成すにあたり、すべての情熱をみな合わせて投入しなければならない一人一人であることを知りました。ゆえに、このような目的と使命の前に、厳粛なる姿勢でもって、心と体を収拾し、あなたの愛の茎として炎を燃やしつつ生きる子女たちになりますよう、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。 ろうそくが光を放つために自分自身を犠牲にさせることと同様に、統一家にありましても、天地に愛の光を照らすためには、真なるあなたの子女たちが、犠牲にならなければならないということをはっきりと知りました。与えられた今日の使命と、明日の願いのために、前進するに不足のない群れになりますようにお許しください。もてる精誠と力を尽くして、恥ずべき敗者の立場に絶対に立ちませんようにお願い申し上げます。 毎朝、昇る太陽を眺めながら、きょうの日を忘れないようにお許しくださり、また夕焼けに赤く染まる夕陽を見たならば、きょうの日を反省しながら、この夕陽のように、明日を迎えるために夜の戦いに勝利し、勝利の曙光として明るく輝きますようにという、決意をすることができる、あなたの心情を代表したあなたの子女たちになりますよう、お許しくださいますことを切にお願い申し上げます。 きょうのような日には、全世界の統一の群れたちが心から祝賀しながら、父母のおられるこの地に向かいまして、心を一つにして、誠心を尽くし、両手を合わせ、精誠を尽くしますので、あなたの愛の感触がとどまりますようにお許しください。あなたの愛の因縁で結ばれて、永遠なるあなたの生命と勝利を自慢することができる自信のある群れたちとして連結させ、行くべき明日の戦線の前に恥ずることのない、誇らしく、勇猛なる、天の正義の精兵たちになれますようお許しくださいますことを、切にお願い申し上げます。 この日を記念するこの場に、お父様が共におられ、恵みとして輝かしてくださいましたことを感謝申し上げます。この場を去っても、どこにいたとしても、きょうここで決意いたしましたことを忘れずに、生涯の標準としての勝利の盾を定めくださいまして、サタンを屈伏させる勅書を持ち、お父様の保護を受けることができます息子、娘になりますことを決意いたしましたので、喜びでもってお受けください。行くべき道のすべての行いが万事成就しますように。生きて働かれるお父様が保護してくださいますことを感謝申し上げながら、すべての祈りを真の御父母様のみ名によりおささげ申し上げました。アーメン。(アーメン)。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.03
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【First Cut】2003 REBIRTH2022/01/05 21:00にプレミア公開です。CanaanStationチャンネル登録者数 639人First cut of Hyo Jin Nim's 2003 Rebirth concert.一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.02
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『ファミリー』('86.6・7月号に掲載)「昨日と今日」1986年2月16日ソウル本部教会にて きょう話す内容は、「昨日と今日」、過去と現在という意味です。一昨日は、私たちの誕生日を祝ってくださいましてありがとうございました。私にとっては満六十六歳の誕生日であり、お母様は、四十三歳を迎える誕生日でした。 統一教会においての父母様という、この二人の方について皆さんが考えるとき、先生は年を取っており、お母様は若く、その差は二十三歳という年齢の差です。では、どうしてそのような差をもつ夫婦にならなければならなかったのでしょうか。それは、ただ先生の考えを中心としてそのようになったのではなく、摂理のみ旨の中でそうなったのです。 お母様が一歳の時、先生は二十三歳でした。差が大きいのです。この世でいえば、父親のような年齢であるといっても過言ではないほどの差があります。男女の均衡を考えるとき、なぜそのような差のある年齢において、「結婚」しなければならなかったのでしょうか。そこには私たち人間としての内的な事情があったのではないのです。歴史的な摂理史、だれも知ることのできない神のみ旨の中心とした復帰摂理を成すためには、あらゆる問題点を解決してこなければならず、そしてその解決点の上に立たなければ、「祝福」という「家庭」が設定されないのです。 その「家庭」が設定されるためには、一人の男性が願う個人的な目的を中心としてそのまま「祝福」という、「聖婚」というものを適用することはできず、そこには必ず歴史的関係、歴史的内容が介在しているという事実があるのです。 東と西がいつも相対することができるのは、中央線をもっているからです。中心を備えているために、相対することができるのです。もし中央点が決定されなければ、東と西の位置は、いくらその位置が設定されたとしても全体的な均衡の世界においては認めることはできないのです。南と北も同じです。南と北が中央線上の中心点を中心として通じなければ、その相対する基準は、全体の均衡をとるとき、何ら関係がないのです。 そして、東西が合うことのできる中央点、南北が合うことのできる中央点は、二つでなく一つなのです。この二つでない一つ、この一つの立場は簡単ではありません。そこにおいては、必ず九〇度を備えなければならず、上下、左右までもがすべて相対的な立場において均衡がとれていなければなりません。 今日、神の摂理のみ旨から見るとき、一つの家庭が出現するためには、韓国であれば、その韓国の民族が経てきた歴史の方向性を知らなければなりません。そして、韓国を中心としただけではできないのです。韓国を中心として周辺の国々、世界の舞台を中心として一つの縦的な方向性が立っていれば、横的な関係が連結されたその中央点においてすべてのことを決定するのです。このことによってのみ、初めて東西が確立されるのであり、南北が設定されるのです。ですからこの中心が重要です。東西があっても、南北がいくら備わっていたとしても、その中心点、一致されるその点を中心として回るとか動くようにならなければ、そのすべての回る事実は虚無なもの、価値のないものになり、もしその中心点を離れて作用するときには破綻的、破壊的結果がもたらされるのです。そのことは、私たちが運動する世界すべてを見ても分かるように、神の摂理も同じです。 今日の人間の世界においては、霊界があります。これは縦的な世界、縦的な立場において常に私たちが合わせなければならない世界です。(一方)、横的な面において、今日の世界と常に平衡をとることのできる世界があります。 人間が真なる位置に立ったというとき、その位置はいかなる位置なのでしょうか。男性なら男性自体が、女性なら女性自体が立っているその位置は、真なる位置ではありません。真なる位置というのは、男性と女性が一つの中央点を中央にして連結される位置です。その中央点を中心として関係を結ぶその場に立つことによって真なる男性、真なる女性になれるのであって、中央点をもたないときには、その男性と女性は真なる男性、女性とはなり得ないのです。同じ道理です。 では、男性や女性は何を中心としてその中心点に接するのでしょうか。また、人間自体においても、人間を中心として横的な男女の愛、その愛は何のために中心点において一つにならなければならないか。それは天地です。天が主体であれば地は相対です。東洋思想でいう天地人の天地とは、両親と同じです。人間をいっているのです。その中央にいる人、というとき、その人は男性と女性をいうのです。天地の間の人、その人はどこにいなければならないか。天地のその真ん中にいなければなりません。その真ん中というのは、本来は男性と女性のようなもの、合わせても男性と女性のようなものです。ではその中央点において何によって一つになれるのかというとき、これはほかでもありません。縦的な愛の力、横的な愛の力によってです。そして、それらが一つになる所において、真なる男性、真なる女性、真なる天、真なる地がなされるのです。このように見るのです。 では、その観点から、神は宇宙を創造し、人間との関係においていかなる位置にいようとしたでしょうか。神が東にいても、必ず西を訪ねていくようになりますが、西に行く以前には中央線に向かっていかなければならないのです。また、南から出発したなら、神が行く道は必ず北に直行するのです。その直行する線が必ず中央点を中心として南から北へ、あるいは北から南へ行くのです。これを知らなければなりません。 それで人が生きるとき、漠然として生きるのではなく、人間としての行くべき中心点を中心として生きているということを、私たちは考えるのです。なぜ生きるのかという問題を中心として考えるとき、私が生きていることは、ただ食事をして毎日が循環の軌道に従って生きる、そのような方式によって生きるのではなく、生きるということ自体は必ずある中心点に向かって生きているのです。中心点に行けばどのようになるか。自分一人だけではないのです。そこには関係の世界が展開されるのです。一つは相対的関係、一つは縦的な関係、縦横の関係をもつようになります。そうすることによって、中央に来る以前までは平行線のみを見つめていたのが、中央に来てからは垂直線、上と下を見なければならないのです。これはなぜでしょうか。そうすることにおいてのみ、球形が成されるのです。すべて運動するものは球形に似るようになっているのです。 では今日の統一教会は、これと同じ原則において、どこに行くのでしょうか。大韓民国の内にいるとして、統一教会はどこに行けばいいでしょうか。それは、すべての人間を代表して行くのです。宗教というのは、柱になる教えです。最も重要な柱になることができることを教える所を教会というのです。宗教というのは宗のことを、家でいえば柱に当たえます。家を構成するのに柱がなければなりません。柱がないとき、空間の世界をつくることはできません。すべて崩れてしまうのです。それで家は、必ず柱を中心として連結されなければなりません。それが何かといえば、一番頂点となる教え、これが宗教なのです。宗教で教えていることは何か。人に対して教えることが中心ではありません。人間のみ旨を(中心として)成そうとして、人間が生きるための生活的関係をつくろうとして教えるのではありません。これは、最も高く、最も尊い、絶対的神に対することを教える。神を中心として自分と統一教会、神を中心として自分と韓国、神を中心として自分と世界に対する教え、このように考えるのです。 ですから、神を中心としないでは、いかなる関係も結ぶことができないのです。 それでは、一人の統一教会の男性は何を中心として行くかといえば、神を中心として行くのです。もちろん、人間が行くための日常生活の目標であり、発展していく過程での方向もありますが、最終目標は何かといえば、神を中心として、男性も行き、女性も行っているのです。 では、二人が出会う所ではどのようになるのでしょうか。まず神を中心として出会わなければなりません。神を中心として出会うとどのようになるのでしょうか。ただ立っているだけでなく、神を中心として回転しなければなりません。すべての人がそうでしょう? 回転するために、だれが先に動機をつくるか、動機となれるか。まず、与えなければなりません。それで、二人が一致する際に、神自体が、「合わさりなさい」と言ってはなりません。神は神なりに自由な環境にいるし、お互いに共同的に、共有することができる位置に立つためには、神自体を圧縮して、神を中心として回転するほかないのです。 自動車の回る車輪を見ると、必ず芯棒を中心として回転するのです。その芯棒は強いものです。剛柔を兼ね備えなければ燃えてしまうのです。剛柔が兼ね備えられていなければなりません。高低が兼ね備えられなければなりません。音楽もそうでしょう? 名曲などはすべてが和音となります。和音になるためには高低が合わなければなりません。これが小さく合っていても、大きく受け継ぐようになっても、全部ある時になればそれがマッチして、一つの波動のようになります。一つの幅の中にいくつもの音節を入れても、その幅か一つの波動となって、複雑な内容をもっていても一つの波動として感じられるので、人間は和音として受け入れるのです。 それと同様に、私たちの人間生活において宗教が行く道は、神を中心として行くのです。神を中心として行くのですが、では神の何を中心として行くのですか。神の知識だとかでなく、神を中心とした愛、神自身も愛を中心として回転するのです。心と体があって、神も同じです。私たちは神に似ているからです。神の心と神の体を中心として、中央線に立ち得る、中央点に留まることのできるものは何でしょうか。それは、神を中心とした愛です。心と体が相対的関係にあるので、必ず神の愛を中心として一つになるようになっているのであって、その他のものでは一つになり得ない原則があります。最も中心の核は何でしょうか。それは、神が留まることのできる、いつも離れることができない、中心的愛の核です。その愛を中心として固着されているのです。 ここから、神自体も移動するならば、中央線を失ってしまうのです。脱線してしまうようになります。神自体が居処することのできる場を喪失してしまうのです。場を喪失してしまえば、完全で理想的な安着点、安息所をもとうとしても、それは宇宙のどこに行ってもありません。たった一点、この点は二つあり得ません。一点しかありません。愛を中心として神の心と体が一つになった神を中心として、私たち人間自体も、神の愛を中心として、神の愛と神の人格を心に描きながら、それに似るためのものが、本来の家庭の愛です。 男性と女性が初めて定着できる所はどこでしょうか。東の端でもなく、西の端でも、南の端でもありません。それは絶対に一つの中央点です。ではそこにおいて、男性でも女性でもなく、お互いが位置を交替しながら、あなたと私の神を誇り得る、神を喜ばせ得る、その中心の作用になれるものは何でしょうか。それは神と人格と、神の人格を構成している神の愛です。神の愛と一つとなり、神を中心とした男性と女性が一つとなって、家庭の基盤をつくったなら、これは永遠の幸福です。 例を挙げて話せば、愛の大きな錨に錨綱をつなげた船のように、いくら揺れてもその船は、その錨を中心として回るようになるのです。そうなれば、その場は幸福な所です。これをだれも切ることはできません。人間自体も切ることができないし、切れば自己破滅で英雄的な男性がいるとしても、これを破壊することはできないし、いかなる人でも、強い者でも弱い者でも、ここを中心として、一つとなって回転しながら生きるのです。そのように、神と関係を結んでいて、一つになった所において拡大するのです。 中心を求めていく時においては、女性を探していきますが、そこに行って、神の人格を和合して出てくるときには拡張され、帰ってくるときには自分に神の愛があり、自分には神の人格が形成されたことを初めて知るようになります。その位置に至る以前では、中央線において一つにならなければ、完全なる人格を見いだすことはできません。あくまでも愛を懐かしく思い、どこまでも人格を懐かしく思う、一人の寂しい位置にいる男性であり、女性であるだけであって、すなわち独り子的な愛を中心とした神の人格の代身たる男性であり、それでは、愛の代身たる、愛の人格が形成されません。愛の次元を高くしながら生きていくのが人生史観です。 そうしながら家庭を中心として社会を感じるようになり、社会を感じながら国家を体験するようになり、国家を体験しながら世界を体験するようになり、世界を体験しながら霊界にまで拡大されれば、どこにでも自分の思いどおりに、孤立的立場でなく、必ず中心を中心として拡散されます。これは、一つの点を中心として円形が拡大されたのと同じく、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界にまで至り、そしてどこに戻ってくるかといえば、故郷に戻るのです。世界に向かった人は、必ず故郷に戻ってくるのです。必ず世界に行って戻ってくるのです。こちらから出ていけば、あちらから戻り、帰ってくるのです。そうしながら球形の世界に向かい、自分自身が横的に、半径を描いて戻ってくるようになるのです。このような関係を中心としたことが、今日の人生における生活となるのです。 それは個人を中心とした生活の公式であると同時に、家庭も同じです。家庭だけをつくることはできません。その家庭も神を中心とした、愛の人格と和合した父母を中心とし、子女を中心として一つとなり、彼らもやはり一つとなって家庭自体も拡散しようとするのです。家庭も拡散しようとするのです。なぜ拡散しようとするのでしょうか。愛は、大きくなったり小さくなったりして、そのような作用をするようになっているのです。呼吸するとき、吸い込む息と、吐き出す息に差異があるとすれば、彼は遠からず、この存在世界から消えてしまうのです。吸い込む息と吐き出す息の均衡を保ちながら、調和をもったリズムによる線上において私たちの生命が維持されるのです。同じ道理です。 必ず一つにならなければなりません。一つになれば必ず拡散するのです。拡散するとき、行けば行くほど消耗が始まるのです。そしてどうなるかといえば、懐かしくなってくるのです。再び戻りたいのです。どこに戻っていくかといえば、中心点を通して相対の側に向かって戻っていくのです。そして再び中心の愛と人格に接することにより、再び一つとなり、これまで経験したよりもより大きなものに向かっていくのです。そうしながら拡散されるのです。このようになるのです。 ですから、人がいくら世界の舞台に出て成功したとしても、成功したのちには、その次はどこに行くかといえば、故郷に戻りたいのです。皆さんもそうでしょう。故郷が特別なのではありません。故郷に行っても特別なものはありません。生活的環境から考えてみると、自分が現在、外国であれば外国、世界に出て成功している環境よりも劣るのです。では、そこに何があるのでしょうか。昔の、情緒的過去が生きているのです。情を中心として、昔生きていたことを忘れることができないのです。その情緒的な内容が、他郷の生活と故郷での生活とでは異なるのです。他郷でいくら生活をしても、感じ方、深い愛の内的な因縁を中心とした関係が結ばれないのです。これは環境的条件から見てもそうです。 例えば、アメリカのような所に行ったとしましょう。そうすれば人々が違い、環境が違います。そこには白人たちが住んでいて、すべての生活環境が反対です。ここでは来なさいと、こうするのに(しぐさで示される)、あちらではこのようにするし、眠るにも、東洋人はあお向けに眠るのに、西洋人はうつぶせになって眠るのです。全部反対です。そうでなければならないでしょう。するすることによって、すべてが合うのです。反対が悪いのではありません。それが、遠くに回って合うことのできる、相対的位置をとるのです。回って再び合うことを予想しながら、そのような習慣となったのです。東洋西洋の出発が違うし、生活風習が異なり、すべての文化背景が異なり、出発の基準が異なりましたが、すべての心情を中心とした歴史過程は必ず回らなければならないために、深い心情的基準においては差異がないのです。 では、行けば行くほど、どこに行きたくなるかといえば、世の端に行けば行くほど、そ界の端を懐かしく思うのではなく、中央線を越えればもう戻るようになるのです。このような作用をするのです。それで老人は、臨終時にどこで死にたいかといえば、だれでも外地では死にたくなく、故郷に戻って死にたいと言うのです。なぜそうなのでしょうか。故郷に戻って良い生活ができるからではありません。そのような情緒的な、忘れることのできない内容が、そこには残っているのです。そこに行くことによってのみ、昔自分が成長する時、父母の愛を受けていたことを再び回想するのです。昔結婚する当初に新郎に出会い、あるいは新婦に出会ったすべての因縁が、その時代の愛を中心としてつづられた自然環境というものは、その時が最初です。最初のものは貴いのです。皆さんもそうでないでしょうか。 さつまいもがあるでしょう。これは元々外来のものです。日本から入ってきたものです。先生の母の実家に行った時、先生が七、八歳のころだったと思いますが、孫が来たといって、外で祖母がさつまいもを掘ってきて、蒸してくれながら、「これは本当においしいものだ」と言いました。ざる一杯持ってきてくれました。そのことが今でも忘れられません。その皮をむく間もなく、急いで食べたのです。どこに行ってもそのことが思い出されるのです。外国に行って、物珍しいものを食べるようになれば、そのさつまいもを食べていたころが思い出されるのです。最初に味を味わったのですから、最初のものが貴いのです。ですから最初の情、人間は父母を中心として最初の情、父母の胸に抱かれてもったいろいろな事情、自分が育っていったすべての歴史時代が、生々しくよみがえってくるのです。これは何を中心としてかといえば、情を中心としてです。これが貴いのです。知識を中心としてよみがえるのではありません。経験を中心としてでもなく、情緒的な面において強く感じるのです。ですから情緒的な関係で結ばれたすべての事件や因縁は、忘れることができないのです。忘れることができません。そうですか、そうでないですか? そうでしょう? (はい)。 ですから故郷に行けば、昔の情緒的なその時代を再び回想するのです。ああ、私は幼い時こうだったのか、このようにして結婚をして、子供の母親となり、祖父母になったので、故郷に戻ってくると、すべてが懐かしくなります。故郷のすべてが自分の代身として展示され、“過去のあなたはこのようでした”というように感じられるのです。若者を見るお互いが好き合っているのを見ても、“ああ、昔私たちが好き合っていたことを忘れないようにするために見せてくれているのだ”。昔のすべてを思い起こすことができるのです。すべてが合う時は、主体となる情緒的背景がぴったりと合って、環境を情緒的に収拾することのできる因縁を、自分を中心として家庭的に、部落全体に関係を結んでいるので、その故郷を忘れることができないのです。 そして、成功するようになれば、錦衣還郷という言葉があるでしょう? 成功するために遠くに離れていて、そして錦衣還郷しても、そこには何もないというのです。十年、二十年、三十年、あるいは五十年離れていて成功して、家に帰ってみても父母も、みないないし、兄、姉もみんないないし、残っているのは、彼らの孫だけです。そうだとしても錦衣還郷して、その喜びのすべてを故郷の地に植えたいというのです。そうでないでしょうか。 先生の場合も、人々は、外国に出て複雑に闘って、何がどうだとかああだとか言って、話が多いのですが、そのすべての事情を流して、祖国がいいというのは、それだからいいというのです。祖国である大韓民国に訪ねてきて、金浦空港に降りるや否や祖国ですが、金浦空港を訪ねてきたのではありません。ソウルが韓国の中心ですが、ソウルを訪ねていってそこで住むのではなく、ソウルを通り過ぎて、すべての中心地を通り過ぎて、あの田舎、平安北道の定州という所、山と谷と海岸の、そこを訪ねていくようになるのです。それはなぜでしょうか。出発もそこから始まったので、終わりもそこに行って合わなければならないのです。戻ってくるのです。 何を中心として戻るのでしょうか。情緒的な基準を中心として戻っていくという事実を中心として考える時、人間がそうであるから神も同じです。神は情緒的なその感じを、どこで感じるでしょうか。皆さん一人で、心と体を中心として自分がいるとき、情緒的に感じますか? 一人では感じません。何かを感じるというのは鳥の一匹でも見て、美しい花を見て、ああ美しい! そこにハチが一匹でも飛んできてミツを吸うのを見る時、情緒が生じるのです。花だけ見るよりはおもしろいのです。相対的な何かがあって、作用が始まることによって情緒が誘発されるのです。それと同じです。神も同じです。皆さん一人では情緒というものが発動しません。そこには必ず相対的関係において、情緒的な関係を結ぶ 神も同じです。神が、懐かしいと思う方は、だれでしょうか。今日既成のキリスト教においては、神は尊い創造主で、私たちは俗なる被造物であると思っています。しかし神が愛したい、神か関係を結びたいものは何でしょうか。猿でしょうか。猿が人間になったというのですか? 猿と人間は四十カ所違う所があるのに……。人に似ている猿が先祖ですか? 皆さんもそうですか? あなたの祖父は猿のような顔をしているといえば、聞きよいでしょうか。(笑い)あの人は、顔は人並なのに、猿のようによく走ります。先生は猿年です。猿年だとしても、猿に似ているといえば、気持ちが良くありません。(笑い) そうしたことを見るとき、何に似ているかというと、良くとも悪くとも自分の父母に似ていると言われれば、気持ち悪がる人はいません。いくら強盗の子供であったとしてもです。自分の父母に似たというのが自然の道理であって、他の人に似ていると言えば嫌がります。ですから人間は、似ることのできる素性をどれくらい所有しているかという基準に比例して、感情を感じるのです。それでは男性と女性が一つになるその時は、何を中心として一つになるというのてしょうか。今言った、情緒的な相対関係の比例的基準によって陽陰が決定されるというならば、神も人も同じなのです。男性と女性が一つになるとき、男性、女性二人が向かい合っていることが一つになることではありません。そこには必ず一つの母体を中心として、横的な主体、核を中心として関係を結ぶのです。皆さんもそうでしょう? 霧が深いとき、向こう側に電燈があると、丸く月のように見えてくるでしょう。それはなぜでしょうか。なぜ月のように丸くなるのでしょうか。光はすべて直線に進むはずなのに、なぜでしょうか。そういうことを考えてみたことがありますか。ある媒介体を中心として、ある距離を行けば、必ず角度が変わってくるのです。一カ所から発するある色彩の光は同じ波長なので、水蒸気に反射するとき、同じ距離を行って角度が変わってくるので、月のように丸く見えるのです。このように解釈するしかないのです。それは何を意味するのでしょうか。その光自体も必ず球形的な一つの形体をもって作用することを知ることができます。必ず相対がいれば方向を展開しようとするのです。展開してどこに行こうとするかといえば、理想に向かって回っていこうと作用するのです。 男性、女性もそうでしょう? 男性、女性が出会って、二人で会って、手の平を付け合って喜ぶ人がどこにいますか。そうですか、そうでないですか? 先生はよく知りませんが。(笑い)手はどこに行くかといえば、相手の側に行きます。そして男性と女性が全く同じであれば大変です。小さいので手を付けると回っていくのです。男性が大きいので回っていくのです。体が傾いてくるのです。手が動く時は、下に行くのが原則であるので、手をつければ体がこのようになるのです(しぐさで示される)。このようになるのは、動作に便利であるように方向を決定するのです。そうでないでしょうか? 女性の手は上がるようになっていて、下がるようにはなっていないのです。そうであるか見なさい。水平線以上に上がるように、このようになっているし、男性は水平線下に下るようになっています。これはなぜでしょうか。回っていくためです。それで二人で踊る時、回るのです。このように私たちすべての人間は一つとなるのです。幸福であるということ自体が、大きな価値ある何かを中心として、私たちは一つになっているということをいっているのです。この価値あるものとは何でしょうか。最も大きなものは神の愛です。神も愛が必要です。 筋肉もそうです。大きな筋肉を作るには、筋肉細胞が集まって一つのブロックを作り、また一つのブロックを作って、だんだん大きくなっていくのです。それと同様に、神の愛を中心として、神の人格を中心とした愛を中心として、人間が一つとなって回るとき、神と人間との関係は無秩序ではないのです。統一教会でいう個性真理体、それは驚くほどの言葉です。神的個性真理体を中心として、心と体が一つになる愛の圏、愛を中心として完全に一つになれるその場を中心として、第二次的なことにおいて(他の)人間との関係を結ぶようになっているのです。心と体が神と一つにならなければ、他の人間と一つになれるようになっていません。同様に個々の人間も、心と体が一つになってからこそ夫を必要とし、妻を必要とするのです。自分の心と体が一つにならないで必要としますか? 心を外において歩く人を、人は好みますか?心が外の所にいて。二心をもって、一つは体的心と、もう一つは心的心です。三つの心をもっているということは言わないでしょう? そういう言葉を聞いたことがありますか? あなたは三つの心をもった男です。あなたは三つの心をもった女です。そういうことを聞いたことがありますか? よく言われるように、あなたは一つの心をもった男です。一つの心をもった男なら偉大な男です。その反面、二つの心をもった男ですと言うとき、それは何をいうのでしょうか。二つの心をもっているから、一つになっていないのです。 愛は一つになった所を通して、心と体が一つになった所において理想を論ずるのです。二つに分かれた所においては理想はありません。神も同様です。神も心と体が一つになった所において、愛の完成的人格、一つの主体性をもつことができるのです。その主体を中心とした、その愛の人格の神と一つになるためには、皆さんもそれに似なければなりません。心と体が一つとなって、その法度における垂直的神は、九〇度の水平線において男性と女性が合って、授け受ることができなければなりません。そのような何かがなければなりません。そうでないでしょうか? そのような何か、この莫大な宇宙も必ずそのような作用、すなわちある何かが合わさり核となって、このすべての惑星があります。それで太陽を中心として、太陽自体が自転して、地球をはじめ他に八つの惑星が回って、太陽系という一つの球形を造っているのです。このように心と体が一つになった所において、神が愛したいのはだれでしょうか。最も似ている人。男性と女性が似ていますか? 似ているというのです。男性は見下ろそうとするし、女性は見上げようとするのです。見上げるにおいて、男性か見下ろす時、女性の体を見下ろしているのではなく、女性の人格を見下ろしているのです。女性は、男性ホルモン、女性ホルモンの二つの性稟(せいひん)をもっているのです。相対的関係を、お互いがもっているのです。男性も同じです。女性ホルモンをもっているので、女性的な何かを見つめながら、内的な面において、あるいは外的な面において、自分の気に入る何かがあって相対となるのです。相対的でなければ合わさらないのです。反発するのです。それで、夫婦が生活しているのを見ると、大きな男性が大きな女性と生活することはありません。そうでないでしょうか。西洋に行ってみても、たまにいるにしてもそれは計算の誤差からのものであって、自然法則の計数からすると、平均的な結論は、大きな男性は小さな女性と一緒になるようになっているのです。相対的関係です。 太っている男性にはやせた女性。皆さんもこれから嫁をもらうとか、娘婿がどうかと写真で見合いするとき、太った男性が娘婿として来たのに、娘はより太っているときは、会いもしないで写真を返しなさい。(笑い)お互いが出会つた日から喧嘩が始まります。二人のデブが喧嘩するなら、リズムが合わないのです。(笑い) 神も意地悪な所があって、時々喧嘩するのを見たいのかもしれません。しかし、二人のデブがつかみ合って、転がり合うことを、どのようにして見るでしょうか。(笑い)同情する所がありません。早く喧嘩しなさい。だれが負けるか見ようというのです。しかし大きな者と小さな者とが喧嘩して、小さな者が下敷きになるのを見るとき、デブの下にやせっぽちの女が下敷きになるとき、神が見れば悲痛に思って「この者!」と、同情することのできる情緒的な誘発点があるのであって、デブ同士がやると、「この者たち! やるだけやってみなさい」と言うのです。(笑い)ですから、喧嘩することが悪いのではありません。喧嘩も正しくやれば発展するのです。 大韓民国は、「北韓が南侵する」と宣伝しながら発展しようとするのです。闘いながら宣伝すれば、どれほど発展するでしょうか。そうでないでしょうか? バンバンと銃の音を聞きながら、あの人たちはすべて悪党なのに、善が悪に負けておられようか、そのように激励すればどれほど発展するでしょうか。闘いが悪いのではありません。韓国が分断されたことがこのような観点から見れば、理解できます。見合いをするにしても、何十年も味わってから見合いをするのです。すべてが分かってくるのです。北韓のどのような所が善いか悪いかが分かり、北韓は南韓の善い悪いをすべて、きれいに知っているのです。(三十八度線で)あなたのもの、私のものを比較してみると、私のものに善いものが多いので、私は南韓に行かなければならない。 音楽においても、オーケストラをやるとき、このごろは破壊音というものがあって、石で石を打つ音、それがどんなに気持ちの悪いことでしょうか。しかしそれは必要なのです。石と石で打って、一番聞きにくい音も聞いてみなければならないのです。なぜかといえば、深い谷の、どれほどの深さかといえば、小さな石ころが一つしか入らない深い谷間の石と、高い山の、鳥一匹もとまることのできない頂上のとがった石と、これが相対となるのです。それらを中心として回ると思うとき、調和の幅が広がるのです。ですから破壊音だからといって悪いのではありません。相対的関係においては、大変素晴らしくなるのです。 雷が鳴る前に、ドカンという音をたてれば、その音に雷の音が忘れられるのです。それを知っていますか? 天地が騒ぐ前に、ドカンという音に全神経が振動します。振動したその振幅が終わらないで雷を聞くとき、ストップすれば絶対動かないのです。それが正常点に来て、ストップをし、また動くようになるから聞こえるのです。その時は、破壊音が走る車にブレーキをかけるのです。そのブレーキが悪いのではありません。いくら車が良くても、ブレーキが悪ければ零点です。 これらすべてにおいての、善い悪いという言葉は何を中心としてあるのでしょうか。一つの核とか、中央点を置いて言うのです。 あなた気持ちが良いでしょう? (良いです)。何を中心として気持ちが良いのですか? 漠然としていますね。なぜ気持ちが良いか。それは情緒的な核を中心として、そのように感じるのです。このように考える時、神も、愛の情緒を感じることのできない立場にいるとき、孤独なる神なのです。いくら偉大な神であるとしても、猫の子一匹を胸に抱き、「私は本当によく造ったのだ。耳をこのように造った時は、本当に気持ちが良かった。この足のつめも、ねずみをよく取れるように考えながら、このように造ってあげたのだ。はは―」。気持ちが良いのです。すべてがそうです。良いというのは、情緒的な動機を中心としてすべてが関係を結んでいるという事実を、皆さんは知らなければなりません。 今まで、神において愛せる相対が何であったでしょうか。被造物の中では、私たち人類の先祖しかいません。神様自身が、自分と全く同じ神を造ることはできません。神は全知全能ですから、神と同じような神をもう一人造っておくでしょう。それも可能であると思いますが、神がそのようにしたならどうなるでしょうか? 全く同じ二人、神が御飯を食べようと手を上げると、同じように上げ、また、立ち上がる時は同じく立ち上がり、付いて歩きながら、座れば一緒に座るし、億千万年同じように行動したなら耐えられないのです。(笑い)考えてみなさい。どれほど辟易(へきえき)する話でしょうか。一日もたたないうちに気がおかしくなるでしょう。言葉はどうでしょうか。三日間も続くでしょうか。ジージージーと言って、同じくジージージーと言ったなら、死にそうになるでしょう。すべて相対的でなければなりません。高くなっていては、いつまでも高くいられません。降りてくることによってのみ、所有権、面積ができるのです。分かりますか? ですから、直線的に行って、帰ってくることができないものよりは、くねくねしたほうがましだというのです。 このように見る時、神は寂しい神であるというのです。人間はどうかといえば、いくら男性と女性が会ったとしても、神を中心として、本来の愛の根に因縁を結ぶことができなかったのです。根をもつことができなかった草を、浮草というでしょう。そのようなものは、どこに置いても安心することができないのです。いつも不安なのです。いくら浮草が土に根を張ったとしても、台風が吹いたりすると、また元の所に戻ってくるのです。一カ所だけに行けば根は傾いてしまうのです。ですから回るようになるのです。風も東の風、西の風、南の風、北の風のように吹くかといえば、人間はそれをみだりに考えてはならないのです。自然のすべてのものが、東の風が吹いたなら、西の風が吹くことによって、まっすぐになってくるのです。東の風が数日間吹き続いたなら、根は倒れないように東のほうに傾くのです。これをそのままにしておけば、木の根はこのように育つのです。そういう時には、西の風が吹かなければならないのです。西の風が吹けば、元の根の所に戻ります。南の風が吹けば北の風が吹く、これらすべては調和をつくるためです。一つの中心点を立てるために、風も吹いたりするのです。そうでないでしょうか? 高気圧になれば低気圧になるなと言ってもなるのです。分かりますか? 女性が成熟してくると、男性を訪ねていくなと言っても目をつぶってでも訪ねていくのです。気持ちが悪いですか? 早朝からこういう話をするから気持ちが悪いでしょう。気持ちが悪かったら死んでもいいですよ。(笑い)男性も同じです。 いっぱいに満ちれば、下るようになります。金持ちが、もっと金持ちになろうとするなら、例えば世界の金持ちになるためには、世界に物資を補給してあげ、世界の金持ちになろうとするのなら、それは自然の理法にかなうことです。自分は大韓民国においてこれくらいの金持ちになったので、世界の金持ちになるときに、自分を中心として自分の一族を中心として世界の金持ちになりたいと思うなら、遠からず欲につぶされ、死んでしまいます。 このごろ、大韓民国でいろいろ言われている統一教の文某(なにがし)という人は、富者と言われています。富者と言って、父と子をいうのではありません(注:韓国語では富者と父子と発音が同じ)。先生は富者だと言われますが財布の中にはお金がないのです。自分のためには先生はケチです。お母様の誕生日には、「これから歴史的な時代が来る」と言いながら、誕生日の前日にプレゼントも考えていないのです。(笑い)プレゼント一つも考えないのです。寂しく思うでしょう。しかし先生の考えはこうです。プレゼントがいくら良くても、手段方法において偽りの心からプレゼントを送るよりは、「プレゼントをあげることができなくてごめんなさい」と真心から言う一言が、こぶしほどのダイヤモンドよりも重要なのです。愛の心をもって言いましょう。分かりますか? プレゼントを上げて、それで何をしますか? 誕生日になれば、深い愛の心をもって、「一歳年を取りましたね。あの世に行く準備が忙しいですね。愛で神の前に孝道を尽くす家庭となろう」と言うのを神が御覧になる時と、自分たち同士がプレゼントを与え、受けて喜ぶのを神が見るのとでは、後者に対しては猜疑(さいぎ)するでしょうし、“この者たち、私に最初にあいさつをしないで何をしているのだ”というように考えが違うのです。貴いものが生じたら全部集めておいて、他の人に与えようと考えるのです。それを先生の子女に使おうとは思わないのです。 ある時は、十年前になくした物が突然出てくる時があります。十年前に使えばよかったもので、それ以後には使えない物もあります。十年前にこれを使えばよかったのに、このようになってしまった。しかし後悔しないのです。自分よりも全体のために、世界の人のために与えたい心情に、神までがほれれば、天地のすべての物は先生のあとに、付いてくるなと言って蹴っても、後ろの物を蹴れば前に来て付くのです。(笑い)そうすれば、より大きなものが付くようになるのです。そのようにして占領するのです。蹴とばせば、さっと遠くになりますが、ゴムひものように(戻ってきて)、そうなってからは、それはすべて私の領土となるのです。そういうことを考えると、気持ちがいいですか、悪いですか? (いいです)。ですから先生は、悪口を言われても気持ち良く生活をしているのです。(拍手) なぜこのような話をするのでしょうか。きょうの題目は何ですか? 「昨日と今日」です。きのう生きていた私が、きょうも生きているのです。神は、レバレンド・ムーンに出会ってから、レバレンド・ムーンを中心として、神にもきのうときょうがあるのです。そか分かりますか? 皆さんもそうでしょう。結婚して夫婦が生じたとき、その結婚した夫婦を中心として、きのうときょうがあるのです。同じです。先生に出会った神は、神を中心としてきのうときょうがあるでしょう。同じです。また、結婚した夫婦においても、出会うその時からきのうときょうがありますが、夫は同じ一人の人なので、きのうときょうが連結されるのです。 それでは、きのうよりもきょうが劣っていいでしょうか? それが問題です。また、統一教会を中心として、皆さんにきのうときょうがあるでしょう。統一教会に入る時の皆さんがいるでしょう。昔入る時、三十年から四十年前に、彼らは道もなく出発しました。きょうという統一教会の舞台を中心として皆さんは、現在の立場において、必ず歴史的過去を残してきたのです。統一教会という、その鏡に写してみてください。きのうの私はこのようであったが、きょうの私はこうであるというようになります。 では、統一教会に神がいて御覧になる時、だれを見つめているのでしょうか。自分を見ているのです。同じです。大韓民国を中心として私が見る時、大韓民国のきのうときょうの歴史を書いていくのです。大韓民国という伝統と文化の背景と思想的流れをもった大韓民国の一人の人として、自分が生まれ、その国と共に関係を結ぶことにおいて、きのうときょうが違うのです。では、きのうは良かったのですが、きょうが悪かったなら、幸福ですか? きのうは悪かったのに、きょうが良かったなら、幸福がより大きいのです。より大きな幸福、より良くなれる幸福。 そのよう意味から、文某に会った神はどうでしょうか。先生は六十六歳、一昨日が誕生日だったでしょう? 一九二〇年代、韓国の情勢が悲惨な時でした。先生の六十六年間というのは、有史以来、大転換の時代でありました。患難の時代に生まれて、患難の時代を生きているのです。そうでないでしょうか? 国から見れば、患難の時代です。日本に隷属された患難の時代です。その時、一九二〇年には、己未年の万歳事件のあとであり、三年間か七年間は凶年の時でした。それで先生が母親の胎内にいる時には松の木の皮を削って食べた、という話も聞きました。じっと見ると、神が文先生を愛していたようですが、生まれる時に、それほどまでに歴史的に追い込み、追い込んで最も患難の谷間に立たせ、また、先生が生まれる時には、先生の一族が、いとこ、七親等までが蕩減を受けるのです。先生は蕩減法を知っているのでそれらのことを理解しますが、知らないで理解すると言えば、それは偽りです。事が始まると一回りしながら、良きものをすべて打って越えていくのです。それで、私の一族においては、先生一人のためにめちゃめちゃになったのです。そして先生が十五歳になるまで常に、患難が家族につきまとうのでした。このように追い込み、あのように追い込み、追い込んでくるのです。皆さんも経験があるでしょう。小牛の頭を煮る時、半煮えにしたら大変なことになります。一気に煮なければなりません。途中で風に当たれば、いくら火を燃しても煮えないのです。それと同じように、蕩減の歴史も底まで周辺をきれいに洗い流して、このように蕩減するのです。どうしてそれほどまでだったのか、考えるでしょう? 蕩減法が文氏の一族に訪れてきたからです。それは歴史的な蕩減です。 そのように谷間から始まって、先生の一生が、またそうです。先生が行く所、行く所に問題が生じます。このごろ大韓民国の機関にいる人が、「文某が来ると言えば、問題が生ずるだろう」と言います。いつも問題を起こしているのです。目を全部このようにします。「あの人が現れれば平安な日がない」。先生がある村に入っていけば、その村に大騒動が起こります。馬が死んだり、犬が死んだり、わしが飛んできて鶏を何匹かつかんでいったり、このようにして何度も追い出されたことがあります。不思議な、見慣れない人が村に入ってきたので、妖邪な人であると言って追い出すのです。個人的にもそうだったのです。ですから先生が家の中にこもっていたら、家が平安でなかったのです。外に出て歩けば平安なのです。それで幼い時は、外に出ていたのです。二十四時間、外に出ていたのです。(笑い)その時は疲れも知りませんでした。それが役事なのか知りませんが、そして不思議なことに、悪神たちがどれほど発動していたことか。皆さん、それは偽りの話ではありませんよ。先生は自ら見たのです。お化け遊びという言葉を聞いたことがあるでしょう。 先生のお母様はよく働く方でした。子供がたくさんいたので、結婚させるためによく働かれました。木綿を知っていますか? 木綿を織るためには綿花から糸車に掛けて糸を出して、二十の縒(よ)りが一単位となって、二四〇縒りで編めば木綿の織物ができてきます。結婚する前の結納として、高貴な木綿の織物を何反もってきたかによって、その家柄か評価されるのです。食べて生き、次には着る物が重要です。自給自足においては、ですからその時代は、女性たちが綿花から糸を作って、織物で編まなければならなかったのです。そういう面において、先生のお母様はチャンピオンでした。力も強いし。先生はお母様に似たのです。一日に二四〇縒りのものを二十尺編んでも余りあるのです。普通の女性は三、四尺しか編めないのに、二十尺以上も編めるのです。本当に忙しい時、例えば先生の姉が結婚する時には、一日に一反を編んだのです。忙しいから、ゆっくりやってはいられないのです。一気にやってしまうのです。先生もその性格に似て、一気によくやります。(笑い) 先生の家に行けば大きな栗の木があります。恐らく二〇〇年ぐらいたった栗の木でしょう。先生が猿年だからよく登っていたのです。栗の実がなっていると、その枝に乗って曲がって土につくことまで考えておくのです。小さな枝を一つ持ってたたけば実が落ちるのです。本当におもしろいのです。熟して開いている栗からその実だけを取って、その栗の殻は落とさないのです。栗の実だけを落とすことは本来におもしろいのです。田舎に住んだことのない人には分からないでしょう。そういうようにして数里を歩いたのです。 アカシアの木があります。そこにはかささぎの巣があります。大きな木には間違いなくかささぎの巣があります。かささぎは吉鳥と言われるでしょう? かささぎが鳴けば喜びの便りがあるといいますが、先生の所では、朝晩ガーガーと鳴いたのです。かささぎの巣に登っていくのです。いつも登っていくのですから、最後にはかささぎの生態がすべて分かってくるのです。このように話をすれば時間がないのですが、課外の話を聞くのもいいでしょう? (はい)。そのかささぎの巣を見ると、あ! 今年は風がどの方向に吹くだろうと分かってくるのです。東の風が吹く方向を別にして、出入りするし、穴を開けておくのです。木の枝とかを集めて巣を作ったのを見ると、本当に素晴らしいのです。それをだれが教えたのか。傑作品を作ります。木の枝などで編んでいるから、雨漏りもしたりするでしょう。最後には粘土を塗っておくのです。風が入り込まないように。そして、雨が降ると一カ所に流れるように、端をつないで巣に落ちないようにしているのです。それは何の話か分かりますか? できるだけそのようにしてあったのです。それで雨が降れば、全部流れ出て、巣の中に落ちないのです。それをだれが教えてあげたのか、その才能は驚ほどのものがあります。私たち人間も、そのような家を造ろうとすれば、数年学ばなければならないでしょう。口にくわえてきて作るのに、それほどなのです。 そして、何日かたつと、巣の中に卵を生んだか分かるのです。そのかささぎの卵は、薄い青色で、線がついています。ぶちになっていて大変美しいのです。鶏卵の約四分の一ぐらいの大きさです。卵を一つ生んだのちに、それ以前、すなわち、卵を生んでいなかった時にはいくら登っていっても鳴かなかったのですが、卵を生んでからは大騒ぎになります。その時、先生はちょうどいたずらっぽい時期でした。それで村中のかささぎの群れが来て、示威するのです。それがおもしろかったのです。どこに飛んでいくのか、そういうところに興味があって調査してみるのです。ですから、鳥の生態についてよく分かるのです。一度登った後、一つの卵、二度登った時、二つの卵、三度登った時には三つの卵、多く生む時は十三個まで生んだのです。そのように慣れてきたら、いくら登っても被害を与えないので、登っていくと、また来たのですかとあいさつをするのです。ガーガーと。(笑い)それで登っていっても、(鳥は)何もしないのです。ただ見て、降りてくるだけですから。 ある時は、雨が降ったりすると登っていきません。そして先生が外に出ると、どこにいて通り過ぎていくのか、ガーガーガーと信号を送るのです。なぜ来ないのですかと言わんばかりに。人が好きなのです。これはうそではありません。皆さんは趣味をもっていなかったなら、今からもとうとしても遅いです。(笑い)それがどれほどおもしろいか知れません。 また、ひながかえったらどうなるかといえば、飛べるようになる前に、巣を作ってひなを全部閉じ込めておいて、えさをくわえてきて食べさせたりします。それを見ると、鳥がひなを愛するその愛から、私たち人間は、自分の子供を愛することにおいてたくさん学ぶ点があります。飛ぶことができるように十分育っているにもかかわらず、巣の中から出さないで、ずっとえさをくわえてきて、食べさせるのです。 このようにして先生は、一匹ずつ出してあげるのです。「きょうお前に一番いい所に行かせてあげる」と言って、尾にゴムひもをつけて飛ばしてあげると、とっても喜ぶのですスィスィと飛んでいこうとしたら、いつの間にか親鳥が来て、連れていこうとするのです。ある程度まで飛んでいくのですが、尾にゴムひもがついているので、どうすることもできません。(笑い)こういうことを何度かやると、かわいそうになって放してあげるのです。その飛んでいく小鳥を親鳥が案内して、遠くの森へと飛んでいくのです。大きな木の上に止まらせて、もう一匹。数匹がいるので同じようにするのです。その鳥の世界にも、すべてそのような愛の情緒を中心として動いているという事実を知るようになります。もし雄鳥、雌鳥がそのひなを失った、我が子を失った親の心情は、人間世界の父母の心情と同じなのです。かえって今日においては、人間の世界が恥ずかしくなるほどになってきているのです。このようなことを見るとき、すべての情緒的な起源は、どこから始まったのでしょうか? それはどこから出てきたのでしょうか? ひなというひなを愛することを知っています。人間たち、私たちが教えてあげたのでしょうか。なぜそうなのでしょうか。愛さないで闘って、食べてしまわないで。小鳥を愛するその愛は、人間と比較にならないほど大きいものです。 雄と雌が、時になると神秘なことに、どちらが発動するかといえば、雌が先に発動します。目がひっくり返ったり、口ばしがはれたり、あらゆる部分がはれてくるのです。それで声さえ聞けば、それが雄か雌かすぐ分かるようになります。人は知らないけれども、牛の場合も咽の牛がモーと鳴けば、すぐに分かるのです。どこかでその声を聞けば、そちらに向かって突進していくのです。 そういう意味で、女性一人で生きることは不幸ですね。そのように、すべてが調和をなして生きるようになっているのです。初めて出会う雄に対して、自分の祖父に会った以上に、この世においてだれよりも貴い客に会う以上に、最も近い、初めて出会った雄が、何がそれほどうれしいのですか。口をつけたり(しぐさで示される)、このような公席でワンマンショーをして、すみません。(笑い)しかし、それが事実であるから仕方がないのです。それを、だれがそのように近くしなさいと教えてあげたのですか? その時には自分の母親も考えません。自分の父親や祖父など、すべて捨てて、一人で行ってそうしているのです。それらがすべて、自然理法です。すべてが時に従って、大きくなったり小さくなったりして、宇宙の理法にリズムを合わせなければ存在することができません。 それと同じように、神様も他に道理がありません。家にいる威厳のある老いたおじいさでは他に道理がありません。おばあさんの前では、「あなた私を手伝ってください」とか言ったり、あまえたりするのです。そうでないですか? 本家のおじいさんは勢力が強いようですけれども、おばあさんに対してはそうでもありません。あなたと私という、同じリズムに合わせるのです。そうでないですか? 貴く立派であるということも、すべて愛を中心として回るようになっているのです。先生も立派でしょう? 有名でしょう? 先生が立派ですか? (はい)。何が立派ですか? 目が立派ですか? 目は皆さんの目よりも小さいです。何が立派ですか? 天地のすべての情緒的な世界がリズムを合わせるにおいて、だれよりも幅が広く、深く、高いでしょう。これが違うのです。ですから神の事情を知り、歴史の事情を知り、人間世界のすべての事情に通じ、未来の人間の事情がこうであることを予想し、それを描いていく、そういう面が違うのです。他に違う所がないというのです。 学問があるとして、それを誇ってはいけないし、金がたくさんあるといって、それを誇るよりは、その人の心の中に潜んでいる情緒的な人格がどれほど深いかということが問題になるのです。そういう方を夫にしたいという、女性という女性はすべて、老いも若きも、それを訪ねて行っているのです。また、男性も同じなのです。いくら大きく、いくら立派であるとしても、醜いおばあさんがいるとしても、情緒的な土台の絆を結ぶ因縁によって、好きになるのです。すべてがそうなっているでしょう。そうでないでしょうか? それは、だれに似ているのでしょうか。神に似ているのです。神は根です。目に見えない根なのです。人間は、幹のような先祖を通して枝のように、葉のようになっているのです。そして、葉の中に幹もあり、枝もあり、根もあるのです。植物の細胞繁殖の時と同じ条件を備えて、細胞一つを葉の管のような所に植えておけば、育つのです。このごろそうでしょう? そして細胞一つの中に、このような花が出てくるのです。種がそのようになっているのです。細胞の中に幹もあり、根もあり、そこからすべてが出てくるのです。 それを考える時、私たち人間自体は、だれに似たのでしょうか? 祖先に似ているのです。種の祖先がだれなのかという時、私たちは原因的な存在ではなく、結果的な存在です。第二の存在なのです。第一の存在ではありません。絶対的な存在ではありません。相対的な存在なのです。ある根源から生じた結果的な存在なのです。根源自体が根となって、私たちは連結された関係の結実体として生まれたことは間違いないので、私自身にそのような原因的根と通ずることのできる素質があるのです。それはどうしてかといえば、私たち人間はだれに似ているかといえば、先ほど細胞がその種に似ているといったように、同じく私たちは神に似たのです。分かりますか? (はい)。 では、神の母親がいるでしょうか? いないでしょうか? 神様に、母親まで実体があったなら創造が必要なかったのです。神は男性格主体であられます。統一教会の先生がそういうことを知って結論づけたことが何であるかといえば、「二性性相の主体であられる神である。主体として現れる主体格、父格存在である。主体格であり、父格であります」。ですから母格的存在が必要なので、それを創造し始めたのです。このように考えることができます。 それでは、アダムは何でしょうか。神が無形の神としては、この宇宙を相対的な刺激を感ずることができないのです。心だけでは、心がいくらやったとしても、無形が自分の形であるから感動がありません。同じものであって回るから、刺激が表れないのです。熱い湯と冷たい水が爆発されるでしょう? 刺激が必要なのです。ですから、相対的距離をおいて刺激的、衝動的なものを必要とするので、必ず神のマイナス的相対を造るのに、神の性稟が二つありますが、プラス性稟的な相対形がアダムであり、マイナス的相対形がエバです。そのように造って、神はどこに入っていようとしたかといえば、アダムの中に入って、エバと一つになろうとしたのです。 では、エバはだれでしょうか。内的には神の夫人であり、外的にはアダムの夫人です。女性が偉くなりましたね。神は何を造ったのでしょうか。自分自身を実体化し、実体化した自分自身の夫人を実体化して造ったのが私たち人類の始祖、祖先なのです。 それで、皆さんが神霊なり世界に入れば、神を実感できます。「神様!」と言えば、どこで答えるかといえば、自分の心の中から、「何だ!」と答えるのです。そういう体験をしたことがありますか? その境地に至っていないからですけれども。それで心に尋ねれば、すべて答えが出ます。それで霊通するとか、観相とかと、占う人がいるでしょう? 低級な霊が、その人たちの心の中で教えてくれるのですが、どんどん落ちていくのです。本然の本性を中心として神が関係されれば、作用すればするほど昇華するのです。高まっていくのです。しかし、堕落することによって下っていく人間となってしまったのです。 それではアダムはだれでしょうか。アダムは絶対的創造主の体でありました。体を造ったのです。無形の神では、実体の刺激の世界に対することができません。人間自体が無形になっていたなら対することができますか? (できません)。ですから、神自身が心に入ってきて、アダムが成熟することを願っていたし、神自身がエバの心に入って成熟することを願っていましたが、成熟することを願っていたその時に堕落したのです。堕落していなかったなら、私たちは神の直系の血統を受け継ぐことのできる子女となったのです。そうなれば神が根となり、神は何の根かといえば、神は愛の根です。堕落したので、今日の人類歴史において、神の愛の根を生ずることができなかったのです。これを知らなかったのです。言葉は簡単ですけれども。それで神霊の境地に入って祈祷すれば、宇宙の根本は何かというと答えは簡単です。父子の関係です。 父子の関係とは何ですか? それに対しての解説をしなければなりません。解いて合わせなければなりません。今まで数多くの霊通者たちは、そのような世界が分からなかったのです。有史以来初めて、先生が来て体系化し、すべてを明らかにしたのです。現時代と共に、これからの未来の世界との関係をすべて解いて、病気になってしまった糸の、絡み合って、二つの端が勝手に動いているこれらを解かなければなりません。解くには二つの道がなく、たった一つの道しかありません。絶対に一つの道しかありません。絶対の一つの道を解かなければ、人間が犯したすべての歴史的な罪状を解いて元に帰らなければ、神の愛の位置に戻っていくことができません。本然の愛の位置に戻ることができません。本郷に行くことができないのです。分かりますか? それでは、統一教会とは何でしょうか。それは、神を中心として人間が教えを受けている集まりなのです。その教えの中から、何が最高の柱となる教えですか? 神と人間とを中心として関係されている最高の基準は愛です。愛に留まるのです。それが柱となって、そこにすべてがつなかるのです。それを教えてあげる教会です。その教会は、万国が必要とする教会であり、万民が必要とする教会です。その教会を中心としなければ、理想的生活圏が出てこないのです。なぜなら、根のない枝があり得ず、根のない葉があり得ないのですから人間が枝のようであり、葉のようであるなら、その本来の根を、正常なる立場において備えている枝と葉になることによって、理想的な生涯をもつことができるのです。 しかし、今日の人間たちは、神の立場から見れば逆につながっているのです。木は反対にこのように、それが天地の理法なのです。神を中心として人間は、逆に生まれて世界へ延びてきたのです。アダム・エバの幹を中心として、縦なる根と、縦的な芽があるのです。縦的な根と縦的な芽は横に行くべきでしょうか。垂直に行くべきでしょうか。神を中心として、垂直に延びた芽となって、ここに枝のように人間が生ずるようになったのです。そして、四十億人類の葉が、ここについているのです。それが全部逆についているのです。私たちは地球星に逆についているでしょう? 地球は一日一回回るのに、半分は上に上がるし、半分は逆に立っていることを知っています。宇宙の空間に逆に立っているのです。それは引力が引っ張ってあげているからです。それと同じように、神を根として、見えない根を中心として、幹を通して生まれるのです。生まれるのに、この木がどのようになっているかといえば、全部闘っているのです。その根がどのようになったでしょうか。その闘いの影響を、根が受けるでしょうか、受けないでしょうか? 受けるでしょう。それでは神が平安であるでしょうか。苦痛でしょうか。 根に通ずる津液は、いかなる枝にも行かなければなりません。根から通ずる津液というものは、西洋の白人世界にのみ行きなさい、東洋の黄色人世界、黒人の世界には行くな! あちらの陰になっている世界は黒人の世界であるから、あちらには行くな! ここの太陽が照っている陽地の世界、白人世界にのみ来なさい。そういうことが通じますか? 通じません。問題が生じます。必ず陽地の栄養素を受けて、そこに補充された栄養素は、根を通して、欠如された最も悪い病気になり苦痛を受けている所に全部供給してあげるのです。そうでないでしょうか? ここに何か出来物ができて傷になれば、その痛い所に栄養素を補給し、白血球がきて闘ってくれるでしょう? ここに供給するようになっているのです。それが天地の理法です。 それでは、白人社会で豊かに生活している人は、黒人社会の貧しい人が豊かになれるように、正常にするために供給してあげなければなりません。しかし、授受作用がうまくなですから世界は騒がしい破綻が生じ、悲惨な出来事が継続されて進んでいるのです。 では、神とレバレンド・ムーンが出会ったその時から今まで、先生の生活はどのような生活だったでしょうか。幸福な生活だったでしょうか。悲惨な生活だったでしょうか。神が喜ぶ生活だったでしょうか。神が嫌いな生活だったでしょうか。(神が喜ぶ生活でした)。なぜ喜ぶのですか? なぜ? 病気の患者が死にそうになっていて、夜を徹して手術することになったとき、病院の主人が見ていて、「夜を徹して手術をする者がどこにいるか」と言うでしょうか? あるいは、その患者を治すために、いく夜でも徹して手術をし、その患者を治したという時には、どちらの味方になるでしょうか? (主人は)夜を徹しながらよくやったと言うでしょう。レバレンド・ムーンが一生を懸けて、この摂理のみ旨に対してきたのは、それと同じなのです。医者と同じなのです。手術台で、メスを手に取って手術をする医者と同じです。 そして、その一つ一つを手術するにおいては責任が与えられるのです。責任を果たせなかったなら、問題は違ってきます。その人を生かすために(その生命を)自分の生命以上に尊重し、自分の生命を犠牲にしても回復しようというそのような公的な責任をもってこそ、天宙の前に、医者としての公証を受けることができるのであって、自分のことで疲れたといって途中でやめれば破綻を来たすようになります。 そのような生活を継続していくとすれば、自体においては不幸なのです。どれほど疲れるでしょうか。疲れますが、その人が作っておいた環境は、喜びの環境となります。自分を中心として喜び得る環境を、多くの人々のために作っておいたのです。では多くの人々はどのようにすればいいかといえば、先生と同じ立場で報いなければならないのです。それで、恩恵に報いなさいと言うでしょう。恵みに報答しなければなりません。人は、受けることのみを喜ばないで、与えることも喜びます。悪なる人は、受けることをより喜び、与えることを嫌がります。それが悪なる人です。このように分かれるのです。では、善なる人とはどんな人か。受けることよりも与えることをより喜びます。 与えるとどのようになりますか? 空気でいえば低気圧になります。与えることがなぜ良いか。善なる子供に、「我慢しなさい」と言うとき、我慢するのです。それは、自分犠牲になるのです。悔しいことを耐えること自体が、自分に被害を受けていることです。その代わりに、何かの真を与えたのです。それでは、それが一つ与え、また与え、このようになれば、真を中心とした低気圧圏が生ずるために、神が真の主体であるとすれば、神が供給して、平衡水準まで上げてあげなければなりません。自分の位置から下りてきて平衡水準にまで上げてあげなければならないので、これを満たしてあげる時には、自分が与えられた相対と、天と地との落差が生ずるのです。宇宙はそのように作用するのです。 滅びたい人がいますか? だれ一人としていません。大韓民国も現在危機に立ったと、きのうある重要な方が、夜十時に来て「大変なことになりました」とあいさつしながら、報告しました。その時先生は、「天宙の道理は自然の道理に従って、高くなれば低くなってあげなければならないし、低い所から高くなれば、そちらに与えなければならない、回らなければなりません。回らなければ腐敗してしまうのです。滅びるのです。上部においてそのようなことができなければ、国民であってもそういうことをして、授け受けようとしなければなりません。大韓民国の現在の主権が問題ではありません。だれだれが問題でなく、主権自体よりも、アジアにおいて、アジアの運勢と、主権者と共にあった運勢が離れるようになれば、その国民はアジアの運勢を取らなければなりません」と言いました。それを知らないでいるのです。統一教会は、このことをやっています。 アジアの運勢よりも世界的な運勢をつかんで、つかんだ民族となり、そこに固まるようになれば、主権者はついてきて生きられる道があります。主権者は、常に他人は与えなければならないという立場にいる時は、滅びます。高い所に上がってからは、低い所に与えなければなりません。これが道理です。そうすれば、すべてが発展するのです。発展する時は、直線的には発展しません。銃の玉も一直線に飛んでいくのではなく、回転しながら、低い位置を飛ぶのです。なぜなら、必ず授け受ける作用をするのです。呼吸作用と同じように。何の話か分かりますか? きのうときょうまで、先生を中心として見ると、一生の間悲惨な生活をしました。監獄、ダンベリーから今度出てきましたけれど、なぜダンベリーに行ったのですか? 先生のために行ったのではありません。それは、アメリカのゆえに行ったのです。アメリカのゆえです。ですから、アメリカが引っ掛かってくるのです。分かりますか? ダンベリーにったのですか? 世界を救うために行ったのです。深い穴になぜ入っていったのですか?世界的な深い穴に入っていくのです。そこに入って滅びるのではなく、世界の高気圧圏運勢を受け入れるための準備をするのです。幅をつけて、悲しみよりも希望をもって消化する立場から、世界の運勢を監獄から探し出してきても、被害を受けないで、悲しく思わない心の姿勢が必要です。先生が備えなければならないことでした。ですからいかなる鉄格子でも、先生が神のためにやる、その為にやる心は防ぐことができないし、先生が心情で授け受けて交流するその道は、だれも防ぐことができなかったのです。それは鉄格子を越えて、苦難な環境を越えて、授け受けることができるのです。そして、限界に満ちて作動する日には、既にこの水平線はアメリカを越えたので、アメリカの国民はレバレンド・ムーンを尊敬しなければならない運命に入ってしまったのです。尊敬しない時には宇宙が除去します。宇宙が打つのです。 人間は賢く、霊物ですから、大韓民国も今度帰ってみると、生死を予感するのです。統一教会の文先生をじっと見ると、大韓民国国民は全部どちらに向くかといえば、文先生に向きます。今まで悪口を言い、最も悪い人であると思っていたのに、心はどういうわけか、顔はあちらに向いているが、足はこちらに向こうとするのです。文総裁というと、関心が高いのです。どういうわけか夜にも関心をもつし、トイレに座っている時、その時が一番の空白の時です。食事することを忘れ、勉強することを忘れ、自分が何かをやっていたすべてを、その時間だけは忘れるのです。そうでないですか? その時は排水器官、処理工場に全力を注ぐのです。力を注いだのちには空虚になります。立ち上がろうとしたら虚しいのです。その時の考えが何か?人間は考えなければなりませんよ。“あ! きょうはどのように生きよう”と、そのように心を動かすのです。同様に、そのようにじっと座っていると、うわさになっている文総裁に対して関心をもつようになり、なぜか文総裁のことを思っています。妖邪なことですよ。 あなたたちもそうでしょう。統一教会に来たいのなら来るし、来たくなかったなら来なくてもいいのです。先生がどこか一度でも訪問したことがありますか? 既成教会の牧師のように。訪問するのを見たことがありますか? あるおばあさんが来て、「還暦の日に生が来てくだされば、自分が死ぬ時、恨みを解いて死ねますので、自分の還暦の日には必ず来てくださらなければなりません」と言うのです。その時、それらしく答えるのです。「そうするかもしれない。どうしてもそうであれば行くかもしれないが、自分勝手に行くことはできないので、神に尋ねて、『行きなさい』と言われれば、行こうと思っています」。先生はこれまで、統一教会の信者を訪問したことがありません。既成教会の信者のように、「どうか来てください」と、先生があそこに立って、「よく来ました」「よく来ました」と言われることはできません。そこが違うのです。 どうしてそうするのですか? 人は、利益になれば、来るなと言っても来るのです。そうでないでしょうか? 市場には、だれかが集まれと言って集まるのですか。利益がそこにあるのを知っているので、“もしや”と思ってそこに集まってくるのではないでしょうか。損害を与えることをしなかったなら、来るなと言っても来るようになるのです。先生が悪口を言っても、統一教会で先生が目をつぶって、つばをまき散らしてもあなたたちは、気の狂った人だ、二度と見たくないと言って逃げ出すのでなく、押し入ってきて、ハッハッハッと笑うのです。それが他の教会と違います。むちで打たれてもいいのです。愛の心をもっていれば、すぐに忘れてしまうのです。愛をもっていれば、直ちに忘れるのです。子供たちを見てみなさい。子供をたくさん育てましたが、時には気合いを入れる時があります。大騒ぎになりますが、一日過ぎれば全部忘れてしまいます。ですから子供たちは貴いのです。自我が発達すれば、忘れないでいつでもこう(しぐさで示される)しているのです。愛のむちは忘れるのです。同じです。父母は苦労した苦痛も忘れるし、一生の間苦労してきても、子女が誤ったなら、だれも教えないのですが、また父母は苦労しようとするし、またしているのです。 なぜこのような話をするかといえば、先生にはだれもいません。このごろになって先生には何も必要ありません。お金も私には必要ないし、権力も必要ないし、“統一教会の創始者としての私より、少しでもより頑張ってくれる人がいれば、先生は早く霊界に行けばいいな”と思っています。しかし、見回してみても、先生以上にできる人が見当たらないので心配です。神も心配され、先生も心配しています。この世の万事を、先生は苦労からめたので、この世から栄光を受け、良い生活をしながら死んでいきたくないのです。真のために苦労をしたならば、真を中心として、苦労で終わりを告げていく。有終の美ということがあるでしょう。アルパとオメガ。ここですべてを苦労で仕上げて、これから新しい世界へと、良い所から始まって良い所へと終わりを告げる世界を造るために、今までの苦労を先生において、すべて切ってしまおうと考えているのです。ですからこのごろどのようなことを考えているかといえば、私が楽な立場で病院のベッドの上で死ぬほうがいいか。それともこのように話していて死んだほうがいいかを考えます。話をしている途中で客死することがあっても、それは男として行く道であると思います。これからは準備をしなくてはなりません。分かりますか。何の話か? それで統一教会の皆さんも文先生に付いて歩けば、そのように死ななければなりません。それができますか? (はい)。 先生が今度来て、三月が終わって一つのプログラムを終えて、四月になれば、地方の巡回をして、昔のおばあさんたちのだれだれが残っているかを見ようと思います。昔大邱(テグ)に行けば、おばあさんたちが多かったのです。先生に反対が多くあった時で、涙を流しながら先生を訪ね歩いていました。大邱のような所では役事が多く起こりました。一カ月に十三回以上移転したので、毎日引っ越しでした。大邱の牧師たちが、「異端の魁首が来た、追い出せ」と言ったら、教会の信者たちはそれを聞いて、見慣れない人(先生)について歩くのです。自分の家にいることが分かると牧師が来て追い出すのです。そのような悲しみはいくらでもあります。大邱にいる食口たちが、先生はある日まである所におられたのに、きょう訪ねてみると、移転してしまっているのです。あらかじめ気配を感じたなら、先生はそっと移転します。先生を中心として生死をかまわずついて歩いている人たち、涙を流しながら、祈祷しながら、例えていえば、独り子に希望を託していたのに、その独り子が死んだのと同じ感じで、また、愛する夫が亡くなった時より以上なのです。ですから道を歩く時も、ぶつぶつ言いながら涙を流しながら、「神様! 私の先生はどこに行ったのでしょうか」。それほどまでに先生に会いたがっているので、神がどれほど心配で、気が気でなかったことでしょうか。神に対してそのように言うので、「それほどまでに先生に会いたいのか」「そうです。会いたいです」と言うと、「では行こう」と、神が導くのです。川の土手の側の小さなわらぶき家なのに、先生はきのうの夜来たばかりな朝に来て、「ここに先生がおられる」と言うので行ってのぞいてみると、先生がいるのです。そういう話が信じられますか? (はい)。昔、迫害の時は、そのようにして過ごしました。 統一教会の信者を、神は愛しましたか、しませんでしたか? (愛しました)。だれのゆえにですか? 人間の世界において、男女が愛し合い、父母と子たちが愛し合う、そのような環境とは別に、これは男性であっても女性であってもそういうことは念頭にありません。出発も異なります。あの北から来た男、南で安楽に生活していた夫人たちが、先生に出会ってからは、自分の家を捨てて先生に従うといって出てくるので、先生の行く道が苦難であったでしょうか、平安であったでしょうか? 孝律(ヒヨリユル)の母親も、統一教会に狂って、子供はアメリカに送っても、ここにひざまずいて祈祷することが好きだから、子供と離れて暮らす母となったのです。それはどれほどできの悪い母でしょうか? それでも、だれもできの悪い母親だとは思わないで、子も、自分の母が悪いとは思わないのです。私の母は立派な母。その子も立派な子であると思うのです。天理の愛の計数を中心として、そのようになっているのです。愛の計数という意味が分かりますか? 計数というのは数えることのできる単位をいうのです。 玉(オク)のおばあさんも来て座っていますね。このおばあさんの場合も、だれかが伝道して、来たのではありません。主が来られると、祈祷をして、霊界と通じてみると、主が雲に乗って来るのではなく、人として来る。「人として来られる」と、神が言うので、だれかが信じるなと言っても絶対に信じるのです。どこに来られますか? イギリスの人ですか、フランス人ですか、どこの国の人ですか? どこの国といえば、それは韓国の人である。韓国のどこですか? 平壌です。平壌のどちらですか? 来ていますか? 来ますか? 来るでしょうか、と聞くと、霊界では、そうだな! そうだな! 祈祷が足りないので祈祷しなさいと言うのです。「来た」と教えてくれるのです。どこにいますか。「景昌里のある小さな部屋に隠れておられる」と教えてくれるのです。景昌里は知っていますが、そこに隠れているというのですが、うわさにもなっていないし、探し出すすべがないのです。その時、先生が景昌里を開拓していた時です。既成教会の篤実な人は、先生の話を聞けばほれ込むようになっていたのです。おばあさんであっても、おじさんでも、おじいさんであっても、だれにでも話す才能があります。また、聞かない時には、心を試してみると、何をやっているか分かります。その時は、「この者! 以前には来ないで、今になって来て、何をやっているのか」と言うのです。一番恐ろしい人でした。今はそれができません。今は両班となって、紳士となって、冠をかぶり、礼服を着ているので、そういう行動はしませんけれど、今も、やりなさいと言えば、やれますよ。(笑い) ですから、皆さんの結婚も、双を作るのに、一分間が六十秒なのに、一分間に三十双を作ることができます。二秒に一双を作ることのできる能力をもった人です。そのようにしてあげても、「ありがとうございます」と言うようになっていて、不平を言う人は一人もいないのです。そのようにしても、先生に組み合わせてくださったものが、最も良いのです。自分たちが組んだより、優れているのです。子女を生んでも、立派な子供を生み、過ぎてみると、素晴らしいのです。 昔の、日本のある会社が倒産して、門を閉めているのに、その中でも門を開けて、自分の上司を迎え入れたのと同じように、だから先生が逃げ出して山にこもったとしても、統一教会の信者たちもそのように迎えるようになっているのであって、先生を拒むようになっていません。先生は自信をもって話すのです。拒む者は妖邪な者で、悪魔の手先です。神を崇拝し、神の心情圏を話す先生に侍るようになっているのであって、侍らなければ行くことができないようになっています。 韓国人であるレバレンド・ムーンは、歴史時代において初めてその特権をもった人です。初めての人に似れば、二番目の人、三番目の人、十番目の人、一〇〇番の人、三〇〇〇万、四〇〇〇万民になって、万国に愛の一つの礎石として配置するようになれば、この韓国の民はこのレバレンド・ムーンの心情を紹介するだけで、どこに行ってもお金をもうけなくても食べていけるのに、今日、反対しがちなのです。そうであるかどうか、統一教会を信じてみなさい。偉いと言う人たち、統一教会について調べてみたことがありますか? 文先生が何をしている人かを知りもしないで騒いでいるのです。いいですよ。春は訪れてくるのです。春が来れば、苦菜も芽を出します。芽を出すことを知らないのは死んだ枝てあるので、それらは全部火で燃せば燃えてしまうのです。しかし芽を出す草は、燃えたとしてもその根が燃えてしまわない限り、また芽を出します。根がなく芽が出てこないのは、燃えるしかないのです。審判の時、火で燃えてしまうということは、パチパチ音をたてながら燃えるということではありません。時代の落伍者になってしまうということです。 ですから過ぎてみると、昔の故郷が懐かしいのです。統一教会の故郷はここではありません。先生は外国に出て、闘って帰ってきましたけれども、外国に出ていても基盤を全部整えてきたのです。先生は、神の召命を受けて、やるべきことはすべてやって錦衣還郷したのです。それで、何が思い出されるかといえば、きのうときょう、きのうに因縁を結んだ人たちが懐かしいのです。あのころのおばあさんたち。先生が一昨日、誕生祝いのおぜんに接する時、あのころのおばあさんたちが生きているなら、牛の何十匹殺して、八道江山にこのような祝いのおぜんを設けて、そのおばあさんたちを接待できたならどれほどいいだろうと思うのでした。その人たちとは何の関係がありますか? 統一教会においては通り過ぎる客でしかないのに。過去において、自分の妻子でもなく、統一教会を中心として因縁を結んだその人を、なぜ先生という人はそれほどまで考えなければならないのでしょうか。それを心の中で否定しようとしても、否定しきれないのです。否定してしまったとしても、また現在の自分を包容してしまうことを考える時、情というものには偉大なものがあります。その情は人間的な情ではないのです。ですから皆さんが、先生に会うことを願ったりしているのです。 最近、アメリカから来る食口たちの話を聞くと、アメリカにいる食口たちは、先生が来られることを待ち望んでいるのです。先生が身近にいる時は、それほど貴いと思っていなかったのに、離れてみると世界の人々がどれほど先生に会いたがっているかという事実が分かるようになったというのです。それらすべてが教育です。いつ帰ってくられるかと騒いでいます。あなたたちは、先生が来ることを待ち望んでいましたか? (はい)。待ち望んでいて、祈祷した人は手を挙げてみてください。祈祷しなかった人のほうが多いですね。祈祷していない人は偽者ですね。 先生のために祈祷すると涙が出るのです。孝子は父母を考える時、父母と同じ立場に立っていなかったなら涙が出るのです。父母を亡くし、姉や兄が一緒に住んでいたそのような兄弟は、姉や兄を思うと、父母を思い出して涙が出ます。自分も知らないうちに、そのようになるのです。本性がそうなのです。だれかに教わったものではありません。本性の芽が出て、四方の環境を泣かすのです。それがどれほど美しく、どれほど貴いことでしょうか。そのような認識の仕方、そのような感じ方の環境には、神までもが訪ねてくるのです。神は何を探しに来ますか? お金が欲しくて来るでしょうか? (いいえ)。統一教会の昔を考えればそのような人たちがたくさんいます。先生が苦労される時は、監獄にも訪ねてきたりしたのです。だれかが訪ねてきなさいと言うわけでもないのに、訪ねていかざるを得ないこのような歴史的事実が、パノラマフィルムのようにずっと思い出される時、先生は多くの人々の前に負債をもった人であると思ったのです。そうでないでしょうか? 先生の生涯だけでも苦しかったのですけれど、先生一人を中心としてここまで進んでくるのに、環境の心情的因縁をもっている多くの人々が、どれほどつらい生活をしてきたのでしょうか。迫害も受け、ここにいるおばあさんたちにしても、追い出されたりして、先生に出会った時、いくつでしたか? (「四十八歳です」と玉おばあさんの声)。四十八歳であれば、まだきれいだったでしょう。その時、夫は景昌里にいて、名のある長老の夫人として子供十人と共に、洋々たる生活をしていましたが、定着基盤のないレバレンド・ムーンに出会ってからは、家が反対し、夫が反対し、子供十人が反対するその反対を乗り越えて、文先生に従ってきたのです。しかし、文先生は応対もしてくれないのです。五十歳を過ぎたおばあさんに対し、その時先生は青春の盛りだったのです。大変美男子だったのです。(笑い) おばあさんに会ってどうするのですか。来るなと言っても朝に夕に、おばあさんは時間さえあれば、あの貧しい家の門を、宮殿を訪ねていく以上の喜びをもって訪ねてきていたのでした。そうだったのですか、そうではなかったのですか? それは何の風が吹いたからでしょうか。春風が吹いたからです。どのような春風かといえば、神の国の春風です。それがどれほど強いかは、体験していない人には分かりません。絶対にかりません。統一教会には、そういうことがあります。 先生もそういうことを知っているので、神を愛します。先生が神を愛するように、皆さんも先生をそのように愛さなければならないという公式があります。ですから本心は、平衡基準に従って上っていこうとするのです。階段を上ろうとすれば、平衡基準が一つあるでしょう。それを一つ踏んでからでなければ、次の所に上がれません。そうしなければ滑ってしまうのです。平衡基準を作っておいて、次の所に上がっていけるのです。このようにして平衡基準が連結されるのです。そうしなくては発展することができません。では、なぜそうしなければならなかったかといえば、統一教会の一人一人が動くことは、その一人一人が使命を代表しているからです。万民が行ける共同的な責任のもので、彼らがあらかじめ先頭に立っていくべきであって、その行く形は大きくとも小さくとも同じです。 ですから、苦難の時、先生が鉄の鎖につながれて、興南(フンナム)の監獄に入る時、平壌(ピヨンヤン)に残った食口たちを中心として、先生を見送った姿が忘れられないのです。先生は涙を流さなかったのですが、彼らは全員涙を流したのです。自分の子供が死んだわけでもなく、夫が離れていくのでもないのに、涙が流れるのを見るとき、どれほど悲痛なことだったでしょうか。先生はそういうことを考えます。神の道を訪ねていく者にとっては、それは不幸な道ではないのです。先生がいくら鉄格子の中で苦難を受けようとも、訪ねてくれるその人々は全部、自分の血族を越え、氏族愛を越え、天上の心情圏を地上の監獄にまで連結させるのです。恥をかまわず、苦難を乗り越えて行動する事実は驚くべきものです。そのような事実が、統一教会には多いのです。皆さん自身はそれを知らないかもしれませんが、先生一人を中心としてはどれほど多いことでしょうか。 伝道に行って、食べ物がない時には御飯も運んで食べさせました。神は人を使って御飯もたくさん運んで食べさせたのです。そういう体験をみんなもっているでしょう。行くには列車に乗らなければならず、停留場に行って切符なしで無料で乗ろうとして、涙を流したのです。天を訪ねていく道は、これほど途方もない歩みをしなければならなかったのです。昔預言者たちが歩んだ道に従い、イエス様が十字架の道を行ったのを共に歩むのです。その心情をもって、涙で、ある駅を訪ねていくと、ある人が切符を買って待っているのです。その人は、きのう夢の中で、「この切符を買って待っていればお客がいるはずでありその方は、このような方である。それで切符を差し上げれば、あなたは禍いを受けることなく、恵みを受けるであろう」と言われたと言うのです。そのような場に突然、人に切符を買わせ、乗り物に乗っていくその時、それは何に比較できましょうか。自分が死刑台に死んでいくとしても、その時の価値がどれほど貴いものでしょうか。既に私という人間は、焦点に立っているのです。立体の神を通して、距離を超越した立場において、一人の人間によって、この焦点に心情圏を結んだという、その驚くべき事実があります。そういうことをだれが知っているでしょうか。それは経験したことのない人には知り得ません。だからといって、それをだれが信じてくれますか。全部反対していた時だったのです。 その当時、先生が監獄にいた時は、すべての黒い雲、雷と、にわか雨が直ちに降りそうな黒雲のように、みんなが集まって、台風圏内に先生を吹きつけようとしたのです。霊的にそうでした。そのような闘いをするのです。方向を誤ったらいけないのです。方向を正しめて、これを打ち倒さなければなりません。そのような闘いをしている先生を、神が御覧になった時、どれほど心配で気が気でなかったでしょうか。それに同情して、一人二人を集めてあげなければならないという神の心情があることを知っていたので、先生は今まで生きてこれたのです。そのような過去において、忘れることのできない神との心情的因縁があります。人間をどれほど愛し、御自分のみ旨のために公的に生きようとする、そのような人をどれほど愛しているのか分かりません。この世の父母には、一生を中心として七十から八十年の生涯を通してしか侍ることができないのに、時を知ったその日から、永遠に侍ることのできる父母をもったという驚くべき事実。このような心情圏において、先生は一生を歩んでいるという事実。それで、夕陽が暮れて夜が訪れても、その夜が来ることの恐ろしさより、訪れてくる新しい愛の礼物をもって神が訪ねてくださる事実を知る時、峠を行き来しながら過ごした忘れることのできない心情の内容が、統一教会の皆さんが知ることのできなかった内容が、その背後にあるということを知らなければなりません。 個人において、世界的峠がありました。歴史的な個人としての人生の道において、全部落伍者になり、敗北者の悲しみを残していった嘆息圏があります。この世界の歴史路程を、たった一人レバレンド・ムーンだけは、このような嘆息の所から希望のあすの段階に向かって飛躍しようと、身もだえしてきたのです。その所々に神が常に共にいてくださって、守ってくださった事実があったのです。父母を忘れたとしても、それは忘れることができません。自分の妻子を忘れたとしても、それは忘れることができません。自分のもっている全財産をなくしたとしても、それは忘れることができません。そのような貴い心情的歴史をもっている事実があります。昔の事実であるけれども、きょうと距離をもっていないのです。きょうと分けることのできないその時の心情は、きょうの心情に一〇〇パーセント化できる同じ力で、作用することができるのです。そのような能力が、そこには介在されているこの事実があるのです。それで、皆さんが先生に対して一言言うなら、痛哭する先生です。それは何の話か分かりますか? 一言言われても、先生は痛哭するその心情をもっているのです。神も同じなのです。ですから神の心を、私はよく知っている人です。一言言えば、神が痛哭する心情圏を知っている人です。私もやはりそうなのです。それはだれも知りません。ただ知っているとすれば、神のみが知っておられるのです。ですからその前において、皆さんは監獄が問題でなく、死の場が問題でなく、謙遜に平伏して、父母の愛の素晴らしさに感謝し、生涯を通じて行かなければならない道なのです。ここに抵抗したり、不平を言ったり、批判をして行く道ではありません。昔のことであっても、一〇〇〇年前のことであっても、心情を通して連結されている事実は、現在と少しの差異もありません。さらに、私たちが発展したその基準の上で見る時、その基準は昔のものが低い立場ではないのです。今日の発展した心情圏と常に同伴できる価値をもった内容です。ですから孝子の父母に対する心情圏は、この世の万民を愛する聖人の心と、対等な立場になれる特権的内容をもった心情です。孝子は地獄に行くことができません。忠臣は地獄に行くことができません。神の愛の圏内に、対等な立場に出ていけるこのような道であるという事実を知らなければなりません。 統一教会の古くなった人たちは、そういうことをみんな感じています。ですから、死ぬ時には、先生に背反するようになっていません。自分が死ぬようになれば、先生がいる所に向かって心を静め、祈祷しながら、「私は先に行きます」とあいさつするようになっているのです。いくら苦労をしたとしても。統一教会の宣教師たちには、十年以上たちましたけれども、手紙一通出していません。そのままにしておいたのです。その中には、殺された人もいます。死に際し、遺言の手紙、自分が倒れながらの手紙、血がついた紙に書いた手紙、「私は先にまいります。どうかみ旨を成就して、私たちが願うみ旨を成して、神の前に栄光を帰すその一日を願いながら、私は先に行くことが申し訳ございません」。そういう内容の手紙でした。そのような生涯を若者に行かせた先生自身が、無責任な立場に立つことができません。それだから深刻なのです。 先生一人によって、背反者もたくさん出ました。統一教会に入教した人たちの中で、みんな誓いを立て、神の前に誓った人たちが、多く通り過ぎたのです。出ていく時には、自分の威信を立てるために、「文某が悪いから自分は出た」とか、「統一教会が悪いから出た」と言うのです。統一教会は良い所だけど出たと言う人は、一〇〇人いても一人もいないのです。みな、先生にかみつき、統一教会にかみつき、あることないことすべて負いかぶせていったのです。先生は彼らに対して、恨みごと一つも言いません。今でも、彼らが生きる道があれば、生かしてあげようと思っているのです。ある時、道を歩いていたら、そのような人に出会うのです。その時、彼らは自分も知らずに横にそれていくのです。先生が通り過ぎたあと、背後から頭を下げ、涙ぐむ人をたくさん見ました。それはなぜでしょうか。愛し合った夫婦が離婚したとき、通り過ぎる夫に対して、怨んだり、ののしったり、嘲弄(ちょうろう)するのですが、統一教会の人だけは違うのです。先生が通り過ぎたあとで、心が我知らず自責感を感じるのです。出ていった人で、戻ってきた人も多いでしょう。心が平安ではないのです。霊界で、どんどん教えるのです。そのような事情、先生の一身にはそのような内容がたくさんあります。一番苦しい時、お金が必要でしょう? 麦の御飯も食べられなかった時がありました。乞食にでも麦御飯を与えるのに、統一教会では麦御飯も食べられないので、「行くな! 行くな!」と言われた時代もありました。一番最低の所から始まるのです。一歩一歩上がってくるのです。 先生は、最近は誕生祝いをしますが、先生がこの道を出発して、三年間、誕生日には断食をしました。皆さん、それを知らなければなりません。この地上に生まれた人の中で、誕生日を祝うことができないで死んでいった人、誕生日を知らないで死んでいく人がどれほど多いでしょうか。それを考えると、先生がそういう人に同情し、霊界に行って因縁を結ぶために三年間断食をしたのです。そして、きょうは洋服を着ていますが、昔は壇上においては洋服を着て説教しなかったのです。労働者から出発するのです。それで、労働する時の服を着て、血と汗を流して、一人しかいなくとも、ありったけの精誠を尽くして、涙を流しながら説教したのであって、通りがかりの客を迎えるようにはしないのです。そのような内容があります。そのような事情が過ぎ去って、今は懐かしいのです。過ぎ去った内容がありますけれども、振り返ってみると、そのような内容を中心として結ばれる大韓民国の人、全羅道の人、慶尚道の人、江原道の人、八道江山の人々を忘れることができません。過ぎ去った人はいるとしても。 一つ有り難いことは、先生が記憶した人が落ちていったら、その人と同じ人が南と北に、二人ないし三人いるのです。姿形も似ているし、動く動作も似ているし、声も似ている人が入ってくるのです。本当に不思議なのです。ですから神のみ旨を中心として行く、主体的心情の主体者の前には、相対圏に絶対損害が起こりません。その時入った人は程度が低いのです。今入ってくる人は全部水準が最高なのです。そういう人が、先生は言いませんが、ここに何人かいますよ。そういうことは、忘れようとしても忘れることができないのです。先生が特別にその人に接してあげていないだけであって、心の中で考える時は、昔先生の寂しさを慰めるために、神はあのような人を送ってくださったと思って感謝するのです。そういうことが多いのです。先生の現在の立場から考えると、その中には韓国の人もいますけれども、日本人もいるし、アメリカ人、ヨーロッパ人、黒人もいます。そういう人が目から流す涙は、みな同じです。皮膚の色が異なりますが、涙の色は同じです。流すようになる心情圏は同じです。それが貴いのです。 皆さんが結婚する時、夫に初めて出会った時には、気に入る男性がなく、気に入る女性がいないのですが、初恋の因縁を結んだなら、すべてを第一番として消化することのできる、愛の偉大なる力があります。神の心情も同じです。皮膚の色の違い、文化の格差、これらすべてが、神の心情圏においては、すべてカバーされるのです。すべて錦のふろしきで包んで、そこに模様を描きたいそのような心が、純粋な神の愛の圏にあり、本心はそれを知っているので、心がそちらに動いていくのです。 お母様はいつも心配されます。先生は七十歳に近いのに、休む時間も多く取らなければならないのに、十一時になっても、まだ続けているのです。お母様も疲れてきたのです。だからといって一人で部屋に入って眠るのを申し訳なく思い、それでそばで、「どうか部屋にもう入りましょう」と三、四回言うのです。それから一人で入っていくなら、良心が済まなくないようになることを先生は知っているのです。そういう話を三回聞いても、知らんふりをするのです。そうすればお母様は気持ちが良くないことを先生は知っていますが、仕方がありません。生まれつきそのように生まれてきたのです。食口が一人でもいれば、その人の事情を聞くことを楽しみにし、全く真の父母のようです。心が離れません。彼らが先生を迎えるより、先生のほうがもっとうれしいのです。それはなぜかといえば、何千年振りに出会ったからです。因縁に従って回りに回る険しい世の中で、知らないけれどもこのように出会って、神の事情を話し、神の国の家庭、神の国の国情を論議する、この場に立っていることがどれほど驚くべきことでしょうか。それで交わす言葉に、「これから良い暮らしをするようになれば、それは自分を中心としてではありません。あなたはこのように生きなければいけないし、国に対してはこのようなことをしなければならない」と言うのです。こういう話はすべて今日のことではありません。きょう語ったすべては、過去から推測して、あすの話をしているのです。 統一教会は過去、きのうという過去がありましたが、きょうを迎え、過去以上の努力を勧告し、追求したいのが、愛の世界の発展的内容であり、内的因縁であると感じます。先生は過去において、そのような内容をもっているのですが、これから先生の家に訪ねてくることができますか? 保安のため、家の前で守る人がいて、「だれですか!」と言うのです。みな先生のような人ではありませんよ。目を丸くして、「何の用で来ましたか?」。みんな疑うのです。泥棒のように連想し、さらには、共産党まで連想するのです。それでみんな、先生に害を与えるために来たのではないかと疑うのです。何の話か分かりますか? 先生の誕生日になったのに、どれほど来たいでしょうか。そうでしょう。だからとの壁をみんな崩して、全部あなたも私も、スカートのすそをつかみ合って、見えなかったなら上ってでも見なさいというようになれば、老人のごみ箱のようになるでしょう。(笑い)そうすることもできないし、仕方なく、自然とお互いが安全な法が生ずるようになります。このようにしてはいけないという法が生ずるのです。 おとといは、祝賀するといって特別な方たちが前に立っていましたね。即座に、きょうを祝賀いたしますというのです。先生はそこで何を考えたかといえば、きのうときょう、すなわち先生がこのような日を迎えて、特に劉教会長、その人は忘れられないのです。すごく事情が多いのです。不具の身でありながら、その時文教部、治安局と闘ったのです。先生が行く時は、祈祷し、このようなことがあるだろうからこのようにしなさいと言ったのです。全くそのようになるのです。そのように闘ってきたのです。ですからその人は、「先生を信ずるな!」と言っても絶対に信じるようになっているのです。その人に三年八カ月間、一日十八時間ずつ、青坡洞(チョンパドン)の本部教会で原理講義をしなさいと命令したのです。それでも、人が来ない日があるのです。来ない日は疲れているのです。食べるのも、まともに食べられません。不具の身でありながら。それで、疲れて横になっていると、先生が降りてきて、「あなたは疲れたといって横になっていられますか」と言うと、直ちに立って、一人で、聞く人がいようといまいと、霊界に向かって語るのです。そのような事情、そういうことを忘れることができますか? 世界巡回の時、オランダの空港で、韓国に向かう飛行機に乗るのに、モスクワを経由してくる道と、インドを通過する南の道とがあります。韓国の飛行機は近い道を行くと教えてもらい、行ってみると、モスクワを通るようになっていたのです。ですから大変なことです。先生のような人は、共産党においては反対の魁首のような者であるのに、よく引っ掛かってきた、といえる道なのです。それで五分から八分しか残っていないのに、他の機を選ぼうとして、杖をついて階段を降りていくのです。杖をついているし、またカバンにはプレゼントを準備して、珍しい物をどっさり入れているのです。自分の知っている、かわいそうな食口にあげると言って、捨てなさいと言っても、いっぱいにして持って歩くのです。「それは私が持って歩きますので、先生は心配しないでください」。どれほどかわいそうたちが、それを必要としていることか。彼は、乞食の母親のようでした。それほど遠い道を。今でもオランダのことを思い出します。それほど遠い所に行くのに、先生でも汗が出るほどなので、その人はどれほど苦労したことでしょうか。汗で全身創痍(そうい)となってついてくるのに。その時の考えは、“ああ、死んだらどれほどいいか”。先生までも自由に行くことができないようにしたのです。そのような同志がいるでしょう。 そしてその人は何が好きかといえば、塩辛が好きなのです。先生はにおいだけでも、ウッとなってしまいますが、その塩辛の中でも、においがする、いいだこの塩辛を、頭だけが残ってみんな溶けてしまっている、それをおいしいと言って食べるのです。それで小さな器に入れて、二、三日、はしでつまんで食べたことを思い出します。 統一教会は、今は貧しくないのです。どこに行っても焼き肉とか、アメリカに行けば、上流社会で通じるような環境があるのです。その人が今いて、気が狂ったように食べて、満腹で横たわるのを見れば、先生はどれほどいいかと思うのです。 統一教会は不思議な所です。それはだれがそうであるかといえば、先生がそうであるから、統一教会の人もそのようにせざるを得ないのです。分かりますか? 完全なプラスは、完全なマイナスを創造するのです。完全な神の愛を中心として、この人間が因縁を結んだなら、神に似るなといっても似るようになっているのです。統一教会人は、統一教会の文先生に似るなといっても、その心情は似ていくのです。先生の息子もそうなのです。先生の三番目の息子は、今度フロリダに行きましたが、ハンバーガーの店に入ると、早朝に、年取ったおばあさんが帽子をかぶって、ほうきをもって掃除をしていたのです。そういう姿を見ると、ただで見過ごしていられないのです。それを見ると、それは先生に似ているのです。おばあさんの前に現れて、おばあさん私が掃いてあげます。そのおばあさんは、東洋の美男の青年に会い、ほうきで掃く姿を見るのは初めてです。西洋の世界においては見ることのできないことです。その青年は、「自分のおばあさんなら、このようなことはやらせられません。自分が全部掃いてあげるから、ほうきを下さい」と言うのです。このように、早朝に来ているのは忙しいに違いないのに、悪いと、おばあさんは言うのですそれでも、「やらせてください」と最後まで言ったそうです。 孝律(ヒヨーリユル)が出て見ると、そのようにしていたそうです。それで、おばあさんが涙ぐんだ表情で心から貴く思う姿を見たと、誇らしく報告するのでした。それを見て、孝律も悔い改めたそうです。自分の、人間としての在り方が今まで足りなかったと。その一つのことを中心として、過去を清算し、またアメリカのガードマン二人が、夜通し話すには、「私たちがあのような方に侍ることは素晴らしいことだ。もしよく侍らなければ大変だ」と言うのでした。一つの簡単なことで、見えない革命が起こってくるのです。枝が伸びていくのです。どこでそのようなことが起こるのか。統一教会は今まで迫害を受けてきましたけれど、迫害を受けながら今まで発展したのは、何がそうさせたのでしょうか。先生の頭が良いからではありません。愛でもって、愛によってです。 昔の統一教会の人、今の人たちは先生に初めて会う人もいるかもしれませんが、会いたい会いたい方、それが先生だったのです。会っても会っても、また会いたい方、行っても行っても、行って来ても、また行きたい所、生きて生きて、また共に生きたい心、その心をだれが奪っていくことができますか? 権力ではできません。力ではできません。鉄格子がふさいでも、死亡の十字架が立ちふさがっても会いたいし、行きたいのです。それを無事に乗り越えていける力の、愛の交差路が、そこに作用した事実をこの世は知らなかったのです。 興南に三年近くいましたが、その中においても私は、私の道理を成し得たのです。神に侍る人が、監獄にいるとしてもおろそかにすることはできません。飲み水で体をふいたのです。座る場所も勝手にしないで、土曜日になると眠ったことがありません。それほど疲れる労働をしながらでも、他の人は帰ってくるや否や、横になって眠っていますけれど、先生は眠りません。監獄に一緒にいた人たちは、自分たちは重労働して疲れているので眠ってしまうのです。先生の眠っている姿を見たことがないと言うのです。早朝に、だれよりも早く起きるのです。そして、必ず夜には一人で運動をするのです。体をきれいにするのです。暑い時には、飲み水が命の水のようなのに、小さな部屋に数十名いるので、汗が出て、しぼれば水が出るのです。水をいくら飲んでも足りません。自分の体を清め、神に侍らなければならない道理、そういう意味において、先生は肌を見せなかったのです。肥料工場で働いていると、肥料がかますから飛び出してくるのです。夏の暑い中においても、足を見せなかったのです。貞節を守り通す女性以上に、そのように訓練したのです。なぜなら、他の人は自分勝手に生きれるけれど、先生は自由に生きられません。なぜでしょうか? 先生がなす本然の職分のために、本然の伝統のためにです。 いくら北韓の監獄生活が険しくとも、先生の行く道をふさぐことができないのです。彼らは、一カ月一度反省文を書くのですが、先生は反省文を書きませんでした。金日成を支持し、先生が教化されて左翼に賛同する、そういう文は書けません。監獄生活で、一番難しいことです。 口をつぐんで無言の生活をしているのに、神は先生のために伝道してくれるのです。その時の先生の番号が五九六番でしたが、全く知らない人に、監獄で、どこどこの監獄の、その番号の方の所に行って、あなたのはったい粉を全部差し上げなさいと、祖先が現れて言うのです。明朝になれば、はったい粉のふろしき包みのまま、持っていって差し上げなさい、と言うのです。何の話か分かりますか? そのようなことが、そのような所において行われるのです。 イエス様が十二弟子を失ったその数以上の人が、監獄で無言の立場において、神によって因縁が結ばれたのです。ですから朝になると、お互いが早く来て、だれが先にあいさつするかが問題です。広場の左右に部屋がずらっとあるのです。朝、「気をつけ!」と言って、廊下に四列で縦隊をつくって座るのです。その時間が十分以内です。すると、あちらの端にいる人が全部来て、先生がそうしてはいけないと言っているのに、この世で大変な事故が起こったかのように、顔をちょっとだけ見せてきて、先生にあいさつして走り抜けるのです。それがどれほどおもしろいことでしょうか。それを連想してみてください。もし、見つかれば独房に入れられます。先生が語らず、教えないのに、先生を中心としてそのようなことが起こるのは、一度や二度ではありません。それをすべて横の人は知っているのです。知っているのですが、その監房の人はみんな先生が好きで、他の人であれば全部報告するのでしょうけれども、シーシーと言って、言わないのです。 仕事をするにおいても先生は一番です。一番力のいる仕事をします。それで、共産党の群れが目をつぶることはあっても、先生に対して、ああだ、こうだ、と言えないのです。そのようなことをしました。監獄から出て咸鏡南道の局長を歴任したことのある人ですが、彼は文氏でした。文氏の霊が伝えたのかどうか分かりませんが、先生に出会ってからは狂いました。先生の所にだんだん来るようになり、先生の所に来ては、服にでも触っていかなければ心が安定しないと言うのです。ですから先生の所に来ると、触ろうとするのです。それは不思議でしょう? 彼には妻と子供が二人いて、妻が監獄に面会に来るごとに、彼が出てくる日をどれほど待っていたか分かりません。先生が出てくる時、先生は平壌への忙しい道を行かなければならないので、通り道だった彼のその家に寄ってあいさつをし、「あなたとはこれでお別れだ」と言ったら、その家から出て、先生に従ってくるのです。なぜ来たかと聞くと、自分が行く道は妻や子と共に生きる道でなく、先生に従っていかなければなりませんと言うのです。このようにして三人が従ってきたのです。これは不思議なことですよ。そのような過去があります。新しく来た人は、そういうことは知らないでしょう。 そのように、先生に会いたくて涙を流したりすると、霊界が明るくなります。堕落の心情圏によって霊界がふさがれたので、神の国の心情圏の基準が上がれば、霊界が開かれるのです。座っていても、先生が何をするかすべて分かるのです。これが先生には心配です。「先生、きのうはどこかに行かれたでしょう?」「そういうことをなぜ聞くのか紀」「きのう、水原(スーウォン)に行かれてなさっておられることが全部見えました」「では水原に行って何をしていたか?」「だれだれと会ったり話をしたりしたのが見えました。そのようにしていましたが? どうですか?霊界ではそういうふうに見せてくれます。だから、うそではないでしょう。違うなら、先生がうそをおっしゃっておられるのではないでしょうか?」。このように明らかに知っているのです。この統一教会の群れは、だますこともできないのです。(笑い) 先生が何かをすれば、世界にこのような群れが多いので、うわさを立てて、「ああ、ヨーロッパに来られると言っていたのに、韓国に行かれるそうです」と言うのです。それは、先生がそういうように思っているだけでもそうするので、だますことができるでしょうか。(笑い)先生が詐欺師のようであれば、とうの昔に終局が来ていたでしょう。数十年この位置を守るということが、どれほど恐ろしく難しいか分かりません。このように先生が死なずに生きているのは、それなりの土台があるから台というのは簡単です。お金でも手段、方法でもなく、言葉でもなく、心情です。 今回先生が韓国に帰ってきて、皆さんと会い、しばらくの間で心情圏をつくることができるでしょうか? ああ! 時代の差異が生じたのです。それが切ないのです。皆さんが先生と会うのに、今や距離が生じたのです。昔であれば、先生の家に、あいさつなどなしに、門を閉めていれば、へいを乗り越えて入り、主人のように居間の暖かい所に座って、ひさ木田界いて祈ったり、泣いたりしてもだれも何も言わなかったのです。今はその家に来て、検問しているのを見ると、あほらしくて話にもならないでしょう? 話にならないと思う人は手を挙げてみなさい。なぜ? 今の時はそういう時です。昔のようにしていては大変なことになりますよ。そのように変わってきたのです。 先生は永遠にこの地上に生きておられません。先生は自分の行くべき道を行かなければなりません。私の行く道が急がれるのです。先生はこのごろ、お母様に話すのに、「オンマ、地上のことだけを思わないで、行く道が急がれているので、急ぐ道を行く夫に侍って生きる限り、すべての準備をしておきなさい」と言うのです。だれが先に行くか分かりませんが、地上よりも霊界が忙しいのです。先生が行って、やらなければならないことは(地上よりも)もっと多いのです。このごろはそれを思うのです。ですから、行く日が近いのかもしれません。先生が霊界に行くとき、統一教会の信者たちの中には、泣かない人もいるでしょうか? 先生が亡くなったら、涙が出ると思いますか? (泣くだけではありません)。ではもっと何をするのですか? 人情は天情によってあります。天情に従っていく人は、常に寂しくないのです。それを奪う者はいません。サタン世界がいくら妨害したとしても奪い取る者がいません。ですから先生の一生の生活において、監獄の生活をたくさんやってきたでしょう? その時の生活が今も懐かしいのです。 私談になりますが、日帝時代には、しらみが多くて、韓国服の内側の縫い目に、しらみの行列ができました。(笑い) それでここをつかむと数十匹がつぶされて、血のあとができます。ですからどこを見てもそのあとです。おもしろいことにはしらみをつかまえて匹、二匹、三匹、十匹ぐらいつかまえると、最後には一つの塊になります。中に入り込もうとする習性から一つの塊になって、尾だけを出して丸くなります。そして対話をしたりするのです。先生はそういうことを、数百回もしました。しかし、今までその話をしませんでした。きょう初めて話すのです。(笑い)それは何か誇らしい話でしょうか? 昔を話るから話すのです。本当におもしろいですよ。そしてまた南京虫と遊ぶのです。大きな南京虫はお父さん、次はお母さん、お兄さん、お姉さんというふうに色別にして、紙の枠にはめておいて、針のようなもので飛べ飛べといって突くのです。それで会ってからどうするか見よう。そういう世界もおろしろいことがあります。 そのような監獄の生活をすると、普通の人なら朝から嘆きです。口を開け、目を覚ませば不平を言うのです。「この国は滅びなければならないし、悪い奴らは滅びなければならない」と言うのです。この間も、監獄に入っていて示威運動をしていた者たちが、「だれだれは一番悪い奴だ」と悪口をたくさん言い、不平を言うのです。自分は良くて、他人は悪いと言うのです。先生はそのようには思いません。ああ、ここは修練所である。他の人が知らなければ、その世界を教えてあげることができるのです。他の人が知らない世界の心情圏を、厚くもたなければ、元金を持たなければ教えられないでしょう? 労働をやる所に行けば、そこでもすべてが教育です。先生が労働者教育をしようとすれば、短時間で友になってあげるのです。外交手腕があります。 人と親しくなって、気配をうかがって、その人を見抜いて、先生が座っていても使える能力があります。統一教会の人に対しては、それも通用しません。全部知っていて見つめるからです。このような内容でつづられる、その背後の歴史が大変なものであることを知らなければなりません。機関から来た人がいれば、あの文先生は真っ赤なうそを言っていると思うかもしれませんが、それを真っ赤なうそと思う人こそ、真っ赤な偽者であることを知らなければなりません。そのような世界であるのです。その世界とは、自分たちが測定し得ない世界です。 色にも周波数があって、ある波長以上になると、色として見えないのです。これは特別な装置がなければ見えないように、先生においては、その特別な装置があります。ですから、人が見えないことを見、人が聞けないものを聞くので、闘うことができるのです。時代が変遷する時には、他の人は知らなくとも、先生はあらかじめ知っているのです。 アメリカにおいて、ニカラグア問題を中心として、アメリカの大統領が要請したのに、国会が拒否させたものを、先生が七週間で、ワシントン・タイムズを中心として監獄にいる間に処理したのです。神は、二億四〇〇〇万が住んでいるアメリカ人の中で、アメリカ人は一人も信じられないと言うのです。監獄で休んでいるレバレンド・ムーンを訪ねてきて、ニカラグアの大事件が起きたので、あなたがそれをやらなければならないとして、それを処理するようにした事実があります。それはだれも知らないことです。レバレンド・ムーンしか知りません。それで七週の間に世論をひっくり返して、規定を全部取り除くようにしたのです。それはだれがしましたか? レバレンド・ムーンがやったのではなく、神がなさったのです。 神は、この世を収拾するために、御自分の本然の目的を成すために、このように昼夜かまわず、世界を生かすために働いている事実を、先生はアンテナが異なるから知ることができるのです。その時、ワシントン・タイムズの人々は、会社が滅びると思っていたのです。見てみなさい! それを再びやらなかったなら、現レーガン政府はめちゃめちゃになっていたでしょう。世論をひっくり返してこのようにつくったのです。南米の政策において、ソ連のモスクワの外交政策において、南米を修羅場にし、言論界を再び集めることのできない環境になったので、仕方なく南米連合を中心とする闘いへと移動したのです。だれがそれをやったのでしょうか。神様です。先生はその、アンテナ作用しかしていません。こういうことができるのを、他の人は知りません。 統一教会が世界的な反対を受けているこのような状況において、その中を泳いで出ることは、アメリカ大統領の米ソ関係より以上に難しいのです。一歩間違えば大変です。歴史が、天運がかかっているのです。千年、万年の歴史が崩れるのです。どれほど深刻なことでしょうか。そのたびごとに、たくみにも滅びないできたのです。そうすることのできる素質をもった統一教会の文先生に侍っているので、それらのことが可能であって、そうでなければ、既に滅びていたことでしょう。今もそうです。そのような過去、そのようななぞめいた事実、聖書に現れた奇跡は偽りではありません。そのようなことを、先生は話わないだけです。あらゆることをやってきたのです。 ですから統一教会の昔の食口たちは、いくら先生を信ずるなと言っても、信じざるを得ません。いくら否定しようとしても、心が十度揺れたとしても、翌朝になれば、またここに来るのです。先生がすべてから反対されるので、先生のために自分が精誠を込めまいと思っていても、仕事を終えて来ている所を見ると、先生の所です。このようになるのです。自分も知らずに、このような結果を見るのです。市場に行くと言って、買い物かごをもって出てきても、市場に行かないで教会に来たのは、自分も知らずに来たのです。来てから、市場に行く予定だったのに教会に来てしまったのです。まるで、きつねにつつまれたようです。統一教会は魔術師で、その大王という名前をつけられた人が、この先生です。先生は思いも寄らないのです。思ってもいないのに、そのようになるのです。 先生が会いたくて涙し、食事することもできず、三、四日、夜眠ることができなくなると、霊界が開かれるのです。そのようになっているのです。ですから皆さんの信仰生活は、初恋以上の、切なる心がなければ、本然の世界に接触することができないのです。これは男性も女性も同じです。文先生は、今もそうでありますが、神のための、そのすべての事情を一言だけ言っても、痛哭してしまうのです。道を歩いていたとしても、歩み続けることができず、電信柱につかまって、座り込んで泣きじゃくる事情をを抱いて生きている人であると、だれが知るでしょうか。それは私だけが知り、神のみが知ることです。それを、だれが切り離すことができましょうか。それを、だれが否定することができるでしょうか。それは絶対的です。ですから統一教会は、神が保護される中で、今まできたのです。分かりますか? (はい)。 きのうがそうであったので、きょうこれから、統一教会はどこに行くのでしょうか。それが問題です。先生が死んだのちに、統一教会はどこへ行くだろうか。これが問題です。男性であっても女性であっても、若い者であっても老いた者であっても、少年たちも今成長していますけれど、物心がつけば、心情は同一なものです。統一教会がこれから永存することのできる道があるとすれば、統一教会の真理を聞いて、そのみ言を聞くようになり、我知らずになされる心情の爆発が、いかになされるかです。 皆さんがみ言を読む時、眠ることができず、涙するのですか? 劉教会長が立派なのは、原理原本をノートに写しながら、一ページごとに、涙を数百回流したというのです。こにおいて、自分は知識人として、大学に通う賢い人として、真理を探求して、疲れ果てて倒れてしまったのに、これほど深い世界の、一滴ではなく、滝のように落ちてくるそのみ言に接する時、真理の前に恍惚となり、涙なしでは記録することができないので、一ページを記録するのに一週間かかったという話を聞いたことがあります。涙をどれほど流したことか。本然の心情と通ずることのできる真手のみ言を、愛で爆発させ、再爆発させる力をもつようになり、その作用が歴史性を通して成されるようになるのです。 それで、今日の統一教会は、神霊なる教会として侍る時だけが、神霊なのではありません。統一教会はあらゆる活動に神霊の役事が起きてくるのです。不思議な教会でしょう? それをだれが止めることができますか? 国の力でもって止めることができますか? いくらでもやってみなさい。打てば打つほど横に広がっていきます。火を打てば打つほど、ガソリンをまいたように燃え上がります。これが何の火ですか? (愛の火です)。本性の愛の火ですよ。天地を燃しても余りある、永遠に燃え上がって、すべての物を溶かして、再成化することのできる力をもっているのです。堕落した人間も、そこで燃えるようになれば、再成化する人国歴生まれてくるのです。それでなければできません。 ですから、主を慕う際に、イエス様はそのような心情を分かっていたので、「だれでも父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ福音書十四章二六節)そして、「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」(同十四章二七節)と言われました。十字架があるというのです。今日、自分の十字架を、イエス様に任せるなというのです。自分の蕩減路程があるので、イエス様はそう言われたのです。それから、あなたの家族が怨讐であると言われたのです。怨讐はだれかといえば、自分の家族なのです。主を慕うことを、自分の夫よりも、父母よりも愛するので、猜疑するのです。あの人は気が狂ったのだ。自分の夫がそばに来ると、蛇が近づくような感じがします。蛇です。統一教会に入ってくると不思議ですよ。統一教会に恋愛して入ってきて、夫婦になった人が入教して、一週間原理のみ言を聞けば、夫が蛇のように感じられ、近づくと背筋がぞっとするのです。それはなぜでしょうか? 原理を知れば、すべて分かります。このようになれば、早朝に出勤して、どうか夜遅く、それとも帰ってこなければいいなあと思うのです。ですから、夫の気分はいいでしょうか。それで、殴られ、けられ、悪口を言われ、「文先生にほれて、浮気するようになったのだ。この女は気が狂ったのだ」と、殴っても全然効きめがなく、丸く固まってくるのです。 ここに仁珠(インジユ)が来ていますね。手と足で殴られ、体がはれ、目も開けていられないようになっても、それでも、“もしや先生が通り過ぎるのではないか”と、戸のすきまからのぞいてみるのです。気が狂っても、変に狂ったのです。(笑い) このごろの想思病という、そういうものではありません。変わった病いです。先生が好きなのに、それが異性的なものでもないのに、ただ好きなのです。細胞がすべて動きます。黙っていても、手がそちらに向きます。我知らず、そちらに引っ張られていくのです。引っ張られていってみると、先生の所に来るのです。その力をだれが押さえることができるでしょうか。不思議なのです。先生にはそのような何かがあるから、追い出されやすいし、反対されやすく、平安でない環境に追われやすいが、反対を受ければ受けるほど、反対を受けるのに反比例して、群れはどんどん増えてくるのです。迫害が激しければ激しいほど、悪いと言われれば言われるほど、従ってくる群れは増えてくるのです。そのようにして統一教会は、このように大きくなったのです。 しかし、これからは迫害の時代は過ぎていくのです。そうすると自由な世界です。これが困るのです。花が咲いて、香りが香ったあとには、すべて旺盛に伸びていった樹液は、吸収され始めるのです。吸収の量を中心として、樹液を吸収して実を結ぶのと同じように、統一教会はこれか実実を結ぶ時が来たので、吸収時代が来るのです。吸収時代が来るので皆さん! このような時に根をもっていない人を、何と呼ぶのでしょうか? 統一教会に来ても味がないのです。各自の行く道が忙しいのです。ですから、これが不平になるのです。統一教会では愛を語っていますが、先生を除いてはみんな偽りである、偽りではありませんか? 時が違うのです。実を結ぶためには、花に樹液があるとすれば、葉や枝などが自分を中心として吸収しなければならないのです。そうでなければ、忠実な実になれないのです。統一教会はそのような時代に入ったので、冷たく見えますけれど、それは、を結ぶ時なのです。実を実らせればどうなるか。今度は種を植えなければならない段階です。実は種をつくって、それを繁殖させなければなりません。種を植えることができなければ死んだ実です。実を結ばなかったことよりも悪いのです。第二の存在を生成しなければ、それは実にならなかったことよりも悪いのです。負債になるのです。統一教会のこのような根を通して、皆さんが樹液となって、皆さんは実を結ぶ時、各自の時を迎えたのです。それで蕩減圏もすべて過ぎました。 そして、皆さんが実を結ぶためには、ホーム・チャーチ時代になっていくのです。これからは教会が必要ありません。ホーム・チャーチ時代になっていくし、皆さんが先生の代わりに夫に侍り、先生の代わりに皆さんの父母に侍って、先生は祖父でしょう。代わりに心情圏が一致すれば、天国はそのまま行けるようになります。ですから皆さん、交差時代になるので、皆さんの方向性を確かにとらえなければなりません。私はどこに行けばいいのか。実となったので、実は種となり、芽を出し、育って、幹と枝が伸びて、花が咲くという公式路程があるのと同じように、統一教会の皆さんも、このような過去、現在、未来の公式路程の軌道を経なければ、永存できる心情圏に到着することができないという事実を、はっきり知らなければなりません。分かりますか? (はい)。 では皆さんが先生に対して慕っていたその心を中心として、祝福を受けた家庭において、夫婦が先生を慕う以上に慕い合うことを先生は願い、父母は子供を先生以上に慕うのです。それを接ぎ木してあげるのが先生の責任です。人間がそのような愛を失ったので、先生を中心として皆さんの心と体がそのように作用して何をつくらなければならないかといえば、皆さん自身を中心として連関された愛の圏をつくるのです。先生は皆さんに愛の圏をつくってあげなければならない使命をもってきたので、そのようなことをやっているのです。そして、結果としては、今日の皆さんにおいて愛の圏の種とならなければなりません。種となります。その本質は、過去からの歴史的本質を超越することはできません。そのような心情圏を中心として、根となってきたそこにおいての幹と枝の立場から、花となったなら花となって咲いたその花は、昔の心情圏の根と同じような道を受け継がなければなりません。心情圏の幹と同じであり、枝と同じような心情圏を受け継いだ花であることを忘れてはいけません。ですから、分立された存在ではなく、皆さんは歴史と共に一体となった存在とならなければなりません。 先生がこのように話すことは、過去の話ではありません。皆さんの心情、心の深い世界においては、そのような体恤的内容を常にもっているので、これが表面化できるように植えてあげるのです。いつどこの場においても、自分の芽が出て、幹を経て、枝を経て、花が咲いて、実を結ぶことのできる第二世を、発生できる自分自身とならなければなりません。これが今日、皆さんがやらなければならないことです。それですべてを整理して、このようなきのうの歴史の伝統の主流思想を受け継いで、今日の皆さんは実を結ばなければなりません。 実を結ぶ場は、ホーム・チャーチです。ホーム・チャーチ、分かりますか? そこにはだれかが介在することを願いません。すべて吸収するのです。根も助けになることを願い、枝も助けになることを願い、すべての葉も、全体が完全な種を作るために、お互いが自分の本質に該当する自分の主体の基準の前に、対象的な要素を吸収して、完全な実を結ばなければならない現実的な立場に立っていることを知らなければなりません。これができなければ統一教会は、花は咲かせたけれども実を結ぶことのできない統一教会となるのです。分かりますか? これが、過去と現在の差異です。現在の私たちがやらなければならないことをはっきり知らなければなりません。皆さんは、ホーム・チャーチを中心としてこれを再現しなければなりません。心自体において、そのような心を感じなければならないし、それを環境として再現させることができ、同化することができることによって、一つの結実体を構成するのです。それを知ってほしいので、きょうの話は、現在と過去、きのうときょうです。 きのうはきのうで分かれたのではなく、きょうのためのきのうであり、きょうはきょうだけのためではなく、きのうの継続されたきょうであることを知らなければなりません。それで真竹の節のように、最初にできた節は大きいのですが、同じ形です。このようにだんだん小さくなりますが、それは枝から実を結ぶのと同じ結果であることを知って、歴史を忘れてはいけません。分かりますか? (はい)。それを皆さんが統一教会に入ってくる昔の祖先、あるいは先輩たちから、よく学ばなければなりません。環境がどうであったかをよく知っているので、それを吸収消化して、今日の皆さんがそれを再現して、心情圏を中心として根を新たにするために、皆さんが切って挿し木をするか植えるとかして、再び本然の心情的な内容をもたなければ、実を結ぶことのできる完成した天国の民となることができないことを、はっきり理解してほしいと思ってお話を致しました。お祈りいたしましょう。 愛するお父様。韓国のソウルに訪ねてくるたびごとに、周囲のすべての山野とともに、昔の心情を中心として、寂しい道を行っていた同志たちとの交流や、そこを往来していた歴史的事情を忘れることができない、一つの第二の故郷であることを思います。 お父様、今日統一家を中心とした歴史過程において、残した心情的事情は千態万象の内容で、つづられた事実をだれも教えることができず、いかなる現実の人も測量したり、減量したりすることのできない事実を、小さい所から大きな所まで、今後無限に伸びていける地上の世界と、無限に連結しなければならない天上世界の内的な因縁を、完成させなければならない歴史的な宿命の課題を担っていく群れであることを思う時、未来の行く道の前に、神がより一層祝福してください。 正しい根と、正しい幹と、正しい枝、数多くの枝があって幹に向かっていますけれど、芽となるその芽の枝に合わせることができるよう許諾してください。そして中心となれる根、これは直線に向かう歴史的根であり、これはひたすら愛を指向する、神のために、万民のために通ずることのできる心情圏以外には、この芽と、あるいはこの中心の根と通ずることのできる道がないことを私たちが知ったので、その道を前にして私たちが東の枝であれば東の枝が芽に合わせて育ち、そのようにして根に合わせて育つことのできる枝とならなければなりません。そこに対応することのできる実を結ばなければなりません。過去は今日のためであり、未来が今日を装飾するためのものであることを知って、過去、現在、未来と連結づけて、人間の完成という心情圏を中心として、主人となれる資格者となれるようにお父様、格別に指導してください。 今日この幼き息子を立てて、それでも御苦労されながら導かれる歴史的な道が厳然として生きていますので、この心情圏に接ぎ木され、彼らもこのような生涯の路程を、誇りある生涯の路程、誇りある感謝の生活を、環境雅しくなくて楽であればあるほど、内的な心情愛においてはさらに深く、高くなれる愛のためには、黙々と自分を自守しながら、静かな場を探して、祈祷の深い生活を備えていきながら、この道を保管することのできる努力ができるように祝福してください。外的な迫害がなければないほど、内的からの保管措置をしなければなりません。そのようにして平衡的基準をとらなければならないことをはっきり知って、あすにおいて恥かしくない神の子としての姿を備えていけるように祝福してください。 今や六十六年を過ごして、初めて迎える聖日でありますので、これから行く残りの道をお父様お守りください。統一教会とともに祝福してください。すべてのことがみ旨のままに復活され、完成の基盤となれるように、統一教会を導いてくださることを懇切にお願い申し上げます。残ったこのみ旨の前に恥かしくない最後を願いながら、前進、前進を誓う統一の群れと世界のあなたの子女たちのために、祝福してくださることを懇切にお願い申し上げながら、すべてを真の父母のみ名を通して祝願いたします。アーメン、アーメン、アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.02
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「公的生活」1986年2月14日ソウル本部教会にて 皆さんの前に感謝いたします。先生とお母様の誕生を祝してくれる真心を感謝するとともに、神の前に感謝をささげます。 きょうは、「公的生活」あるいは「公的生涯」というテーマで語りたいと思います。 私たちの人間生活には、私的生活と公的生活とがあります。私的とは、自分を中心とした生活であり、公的とは、全体を中心とした生活であるということを私たちは知っています。 このように見る時、私的な道に準じて生きる道、公的な道に準じて生きる道というように、私たちの人間生活においては二つの道があります。 本来、人間が堕落しなかったならどうであったのでしょうか。堕落していなかったなら、公的な道、私的な道は一つであったはずです。私的な道がすなわち公的な道となり、公的な道がすなわち私的な道の代わりになるのです。今日人間生活において、私的生活と公的生活が分かれているということは、これは堕落の結果なのです。このように考えられます。 では私的生活とはどのようなものでしょうか。私的なものを中心として回っている生活です。公的な生活とはいかなるものでしょうか。公的なことを中心として回っている生活です。このように見るのです。 私たちがここで知らなければならないことは、私的なことは、堕落以後に、悪が土台になったのであり、公的なことは、善が土台となったということです。これが問題です。公的なことは、私を中心として相対的な方向、あちら側と連絡しなければならないし、私的なものはそうではありません。 このように見ると、公的なものは遠い未来と連結する生活であり、私的なことは遠い未来ではなく、自分の家庭であれば家庭を中心とするものであり、せいぜいのところ、自分の国家を中心として生きているのです。国家を中心として生きていくその中においても、国家全体よりも自分の家庭を中心として生きる、家庭全体よりも自分たちの夫婦を中心として生きる、その夫婦よりも自分個人を中心として生きる、私的な生活というのはこのように分けられるのです。 それでは、この動機はどこから来るのでしょうか。あくまでも堕落は、私たち人間の始祖がなしたのです。アダムとエバはそれぞれ、男性を代表し、女性を代表しているのです。そのように父母が折れ曲がっているのです。アダム、エバは本来、公的な生活、神を中心として回らなければならなかったのです。神を中心に一つとなった立場で回る生活をしなければならなかったのに、神を外して、自分たち人間のみを中心として生活するようになったのです。 人間も、男性であれば男性を中心として、女性であれば女性を中心として、自分というものを中心として分かれているのです。自分という個人を中心としてみても、二つに分かれているのです。心と体があって闘っているのです。 それでは今日、堕落の起源はどこにあったのでしょうか。自分の心から始まったのです。心から始まり、心を通して体と関係を結ぶのです。体と関係を結ぶ世界は外的な世界であり、心と関係を結ぶ世界は内的な世界です。このように二つの世界となったのです。 本来堕落がなかったなら、このような二つの世界はあり得なかったのです。一つしかなかったのです。一つを中心として、すべてが一つを基盤として、それを根としたのです。一つの根によって生まれてきた幹は、結局のところ根に似ているのです。その幹からは幹に似た枝が生じ、葉は枝に似てできているのです。ですから今日皆さんが知っているように、植物の細胞繁殖をいっていますが、細胞を取って育てれば、植物それ自体が出てくるのです。 現代においては動物までもが可能であるという報告を聞いています。いかに小さな細胞の一つであっても、その細胞の一つは全体を代表しているといえるのです。花の細胞であれば、その一つを取って植えれば、それ自体の内に葉、幹、枝、根すべてが入っているのです。赤い色の蘭であれば、その細胞は小さい中にすべてを備え、色までも備えて、蘭に似て出てくるという事実があるのです。 本質は変わることができないものです。植物世界においてこれらのことを見ることができます。もちろん、人間が移植などをして改種していくことはできますが、本質においての色というのは、根本自体においては変わらず、永久性をもっているのです。 それでは、心と体が完全に一つになっているそのような人、心と体が完全に一つになった人になっていたならば、また、心と体が完全に一つになった男性と女性が、もし完全に一つとなったならばどのようになったでしょうか。 この宇宙を創造された主人がいるとすれば、男性、女性を造って見つめるとき、彼らが立っている位置と生活は異なりますが、それ自体が東西の遠くの距離に分かれて生活するようにはなっていないのです。近くにいるようになります。遠い距離にいるとすれば、だんだん近づいて一つになれるようになっているのです。 例を挙げてみると、田舎に行くと、今はそういうものがないかもしれませんが、石臼があるでしょう。石臼は上と下があって石臼です。一方がいくら完全で、いくら黄金でできているとしても、一つだけでは役に立たないのです。たたえ黄金でなく、石で、それが浮かぶ軽石であったとしても、それが一つの双をつくって石臼になれば、完全なものとなるのです。それは役に立ちますが、そうでないときには役に立ちません。 石臼で何をするかといえば、二つが一つになって粉を作り、物をつぶすようになっているのです。一方だけでは絶対にできないのです。人も同じです。男性、女性を見ても、いくら見ても分かれて生きるようにはなっていないのです。一緒に住むようになっているのです。 生理的関係から見ても、皆さんが知っているように、男性のもっているものすべては男性を中心としたものではなく、女性を中心としたものです。女性が主人なのです。女性の生理的器官は男性のものです。その二つの器官が一つとなって、すべてが作動するようになっているのです。石臼もそうでしょう。 このような話を不思議に思う人がいるとすれば、その人は俗なる人です。先生はなぜ誕生日からそのような話をするのでしょうか? そのように思う人は俗なる人です。自然の理法がそうなっているのです。 人間世界において、男性、女性どちらが美しいかといえば女性が美しいのです。なぜ美しいのでしょうか。顔も美しいし、色も美しいし、唇も美しいし、声も、手足も、体もすべてが美しいのです。男性は美しいというより勝手にできているのです。それは不思議です。 動物世界はどうでしょうか。人間も動物ですが、鳥類はどうでしょうか。鳥の泣き声を聞けば、雄と雌ではどちらがきれいですか。(雄です)。ですから公平なのです。男性を一列にずらっと並ばせ、女性を一列に並ばせれば、女性を美しくしなかったなら大変なことが起きるのです。男性が不平を言うのです。それは間違いないのです。それで、まだらに、入り混ぜているのです。男性を見ても、醜い人と美男の群れがあります。このように二つに分けて考えるとき、すべてが平均、調和できるように、神は考えて造ったのです。 これを見るとき、今日自然科学を研究する人は、「世界は偶然にできたものである。力によってできたものである」と言います。力によって偶然にできているといえば、悪くなることもあり得るでしょう。そのようになっていないのですから、偶然という内容の中に、良くなれるという概念を入れて言っているのです。 このように考えるとき、人間自体が堕落していなかったなら、どのようになっていたでしょうか。堕落したということを公認するとすれば、堕落していなかったなら、どのようになったでしょうか。これを考えなければなりません。 病気になった人が不幸であるとすれば、病気になっていない人は幸福ということになります。病気になっていない幸福な人とはどのような状態でしょうか。病気になっている人の状態が分からなければ、病気になっている人を、治す必要を感じないのです。そうでないでしょうか。 病気になっていない、健康で自分の思いどおりに活動できる自らの状態をはっきり知り、比較できる絶対的基準、そしてだれもが尊敬する基準となり、それを体験した人は、反対の立場、病気になった立場がどれほど悲惨で不幸であるかを比較をするとき、天地の差があるのです。病気になっていない状態をはっきり知ることによって、病気になったその状況を放棄して、逃れようと努力するのです。 同様に今日、私たち人間が堕落しているとすれば、堕落していなかった状態はどうであったのでしょうか。人間始祖のその時から、その始祖が堕落したので、今まで堕落していなかった状態を考えようともしなかったのです。知ろうとしても、知るすべがなかったのです。なぜなら、堕落した人間始祖から、そこを根として生まれたので、その根の因縁に従ってすべての人類は始まったからです。その枝とか葉のような皆さんは、堕落以前の世界を知ろうとしても知ることができないのです。それゆえに今日、世界が一つにならないのです。 世界が一つになることを願い、「一つになればいい」と言います。それでは、すべての万民は、一つになれる共通分母をもっているでしょうか。このように問うとき、万民、人生を生きているすべての人間、現在生きている四十億人類という全体の群衆は、共通分母をもっているでしょうか。一つにならなければならないといえる共通分母です。そのような歴史性を超越して、常に一つにならなければならないというそのような本質をもっているでしょうか。もしその本質が共通でなかったならば、一つになったその世界も、いつでも破れてしまうのです。 ですから、一つの理想世界、一つの絶対的な幸福を追求するそのような人間であるとすれば、その人間がもっている共通分母、自分の体の内においての共通分母があるのだろうか、ということが問題です。それは歴史過程を通しても革命することができないのです。いくら歴史過程が変わり、革命がなされたとしても、私たちの心自体は革命できないのです。 (私たちの心は)善を追求し、より良きものを願い、価値あるものを願うのです。うそではないでしょうか。幼い三歳、四歳の子供を見ると、良いもの、悪いもの二つを置いておくと、いつの間にか測定して、良いものを持つなと言っても、教えてあげなくとも、自然に良いものを持つようになるのです。 また、女性と男性は何が違うのかといえば、女性は美しいもの、パールやダイヤモンドの指輪、ネックレス等が好みで、男性は呼称したタンクのほうがいいというのです。女性は真珠の首飾に手がいきますが、男性は見向きもしないのです。男性と女性は違うのです。生活必需品に対しても、このように違うのです。 このような事実を見つめるとき、この四十億人類が一つとなって、すべての幸福の世界を追求し、幸福の世界を占める、その変わることのない共通分母は何でしょうか。これが問題となります。 ですから、私たちが歴史において良心ということをいってきましたが、この良心は正しいのです。良心が正しいとか、正しくないとかということは、絶対的なある標準を置いて言うのです。正しいというのは、何を中心として正しいと言うのですか。これが問題です。それは私たち人間の良心が共通的に示す道は、正しい道です。その正しい道は、革命の条件にかかわらない、いかなる変化の作用にも影響を受けない、絶対的なものです。そうできる共通分母が必要なのです。 概して、私たち人間は、過去の人、現在の人、未来の人であっても、良心は、正しい道、方向はより良い所、より価値あるものを追求していることは事実です。より少ない価値のことは嫌がるのです。そのような方向性を自己の内に、すべての人間はもっているのです。 部屋に一つのテーブルをもっているとして、それに相対的価値をもっている装飾品があるとすれば、そのすべてが私と関係を結びたがっているのです。また、自然の景色がよければ、その自然自体と自分と、相関関係を結ぼうとするのです。 そのように、一つの地域に責任をもつ、昔の言葉でいえば、酋長(しゅうちょう)、インディアンの酋長のような立場にいるとしても、酋長だけで満足するのではありません。より大きな酋長同士が闘うのです。闘いながらより大きな版図を要求するのです。それが国を形成し、国同士が闘ってより大きな国、このより大きな国を通して一つの世界を、外的にも願い、内的にも願うのです。 それで人間自体の心の欲求に従って人類の歴史は、もちろん戦争だとか複雑多難な革命過程を経てきましたけれども、進んでいる一つの道は、より良い所へ行こう、より価値ある世界へと行こうとするのは間違いのないことですから、歴史はそちらに、遅いけれども従っていくようになるのです。ですから今の世界はどのような世界であるかといえば、一つの世界に最も近づいた立場にいる、二つの世界となっているのです。 この二つの世界と何でしょうか。善と悪があるとすれば、それはだれに必要なのでしょうか。悪魔に必要でしょうか。神な必要でしょうか。善と悪はだれに必要なのでしょうか。 神は、善と悪は必要ではありません。善が必要なのです。二つともは必要ないのです。一つだけが必要です。また、サタンは善は必要ではありません。悪が必要です。これが問題なのです。 それでは悪魔とは何でしょうか。悪魔は善を絶対的に否定するのです。では、悪魔の反対は何でしょうか。善魔という言葉がありますか。そういう言葉がないので、その言葉の代わりに神と言うのです。 悪なる悪魔は絶対的に悪なる側です。しかし、善は絶対に滅びません。悪魔は善を許すと自分自身に破滅です。善を許しただけ、自分自体の否定圏が生ずるのです。この否定圏が半分以上になると、自体が自滅します。歴史の発展はそのようになっていくのです。力の均衡は限界線を越え、飽和線を越えると、崩壊するか退化するのです。この飽和状態をいつも克服することができれば、無限に発展することができるのです。 共産党の弁証法理論を、このような論法でやれば、論理の規定が合わなくなります。闘争しながら常に発展するのであるといいますが、一度闘争すれば必ず下がるようになっています。限界線を越えれば下がっていくのです。 このように考えるとき、歴史は悪なる側を中心として勢力の均衡をなす時、善なる側に来て闘って、いつも悪なる側は位置を譲って、善なる側は継承していくのです。そのような歴史的な方向があるため、私たちの良心は本来、永遠なる素性をもっているのです。永生しようとする素性をもっているので、悪なる世界を越えて善なる世界へ行こうとするのです。歴史過程において、いかに闘争したとしても、人生の目的において善なる方向へ行こうとする限り、南のほうが神のみ旨が成就され、北のほうと一つになる時代が来るのです。それで、私たちの良心は善圏に立とうとして、善の方向に合わせようと努力するのです。このように考えます。 そして、善なる世界となった時、東のほうの世界と西のほうの世界は、衝突するのではないのです。東で善なることは、西においても善なるものです。南で善なるものは、北においても善なるものとなるのです。 今日、二十世紀の時代において、政治的な面、経済的な面、あるいは文化的面、宗教的な面において問題になるのは、南北の対決なのです。貧富の差を中心とした対決、それから文化の差からくる対決、西洋文化と東洋文化との差異に対しする対決をするのです。 闘うのは良いことではなく悪い事ですが、北で善なるものは、南においても善でなければならないのです。善なる世界はどのような世界でしょうか。北の富者たちは南の貧しい人々をそのままにしておかないで、自分たちと同じようにしなければならないのです。西洋文明は、知識文明とか、社会制度の革新を加え、人間生活の便宜を計るこのようなすべての文化の背景が(東洋文明と)異なります。しかし善なる文化として西欧文明は、東洋文明を善化することのできる本質型をつくらなければならないと思うのです。 そのようになる時、その世界の善というのはどこに行っても同じ価値を伴うことのできる内容をもっているのです。ですから、善なる側、悪なる側、このようになります。 今日の世界の問題を解決するためには、善なる世界にならなければなりません。善なる世界はなぜつくらなければならないのでしょうか。 本来の私たちの心は、善なる世界を追求するようになっているのです。ところがなぜ人間は初めから善なることができなかったのでしょうか。これが問題です。これは堕落したからです。本来心が善であったなら、その心の前に、自分を中心として、体も善化されなければなりません。心が善を追求すれば、体も善を追求する方向に行かなければならないのです。 ところが堕落することによって、体が善を追求する方向に和合できる環境でなく、内的、外的なものが一つになれる環境ではなく、内的な善なる要求と方向に、相反する舞台となったのです。相反する舞台、すなわち悪の基地がここに生ずるようになったのです。これが問題となるのです。 本来、神が創造主として人間の心を中心に体を造る時、これらが二つにならないで、東において真であれば西においても真であるように、南の真なるもの、北の真なるものが同和一体理想を実現することのできる善の本質の内容から造られたとすれば、その善を中心とした良心は自動的に体を同和一体化させて、その方向が二つの方向ではなく、絶対により次元の高い善圏に前進しなければならないのです。そのような立場に立っていたならば、人間は堕落の概念というものを容認することのできない立場に立つのです。 ところで今日、心を見ても心と体が闘っているのです。それはだれがそのようにしたのでしょうか。ヘーゲルのような人は、このような問題を中心として苦悶したのです。「人間とは何か」と探求して、心を分析してみると、心はある面においては善ですが、体との関係において心は悪なるものがあるのです。いつも闘争するのです。闘争ということを、人間生活から取り除くことはできないのです。これが一つの起源であり、人間の起源がこのようになっているとしたなら、その起源に通ずることのできる歴史発展、弁証法的発展をしなければならないと見るのです。闘争過程において、闘争を通して発展するという概念を植えつけたのです。 本来、このような概念が人間にあってはならないのです。これが堕落によって植えつけられた歴史的根、歴史的報応であったのです。この舞台は何かといえば、悪なる舞台です。悪は絶対悪です。善も絶対善を追求するので、絶対的な善を追求するその神の前に、悪は対立的立場において絶対悪を追求するために、私たちの心と体においては衝突が起こるのです。 心を中心として本来堕落していなかったなら、心がプラスであれば体はマイナスとなって和合し、自然に一つとなるようになっているのです。だれかが、「合いなさい」と言う必要もなしに、自然に一つとなるのです。しかし、心のプラスの前に別の悪魔のプラスが現れるのです。ですから、プラスとプラスで反発作用をするのです。 あなたの行く目的と、私の行く目的が違うのです。反発的要因として凝結したものが堕落した私たち後孫であることを思うとき、私たちの先祖も私と同じ立場に立ったに違いないので、今日私自身が悪であることを認め、自分が生きている社会も悪であると認める限り、起源となる私たち人類始祖も、悪なる立場に落ちているという結論に至るのです。 それはだれに似ているのでしょうか。私たちの先祖に似ているし、先祖は私たちに似ているのです。ですから、私がこうであるからアダム、エバもこのような苦痛の立場に立っていたのであり、その苦痛の場に立っている人間始祖自体が完成できなかったということは明白なことです。この意味において、私たち人類は堕落したということを結論づけることができるのです。 統一教会の原理を知れば、堕落するようになった動機について全部知るようになりますが、私たちが知っている世界と一般の人々の知る世界とは、どれほど遠いか分かりません。あの月と地球よりも遠いのです。 サタンは絶対に善を容認することができません。神は絶対悪を容認することができません。この地上において、悪魔の後孫となり、二つの群れになるのです。二つの群れに分かれる種を蒔いたので、これはどこに行っても東西南北、四方どこに行っても人類が満ちているのであり、それが二つの群れに分かれた戦場を成して生きているのです。 個人戦場の世界型、東西南北四方、家庭の戦場の世界型東西南北、民族の闘いの世界型東西南北、民族、国家の闘いの世界型、全世界が一つとなって互いに闘い合うのです。悪魔の絶対的な世界、善の絶対的な世界を願う、その過程を経ていく人間世界は、悪魔側個人絶対型、善側の個人絶対型になります。そして歴史の時代は秋となったのです。 今日の文明世界は、気候的に見ると温帯文明圏です。昔の古代文明は、熱帯文明型でした。人々が生活しやすいからです。しかし今は温帯文明圏です。あらゆる先進国家は温帯文明圏で、ほとんどが赤道以北にあります。その圏内にいるから、この温帯文明圏は気候的に見ると秋の文明圏です。秋の文明圏はやがて冬の文明圏とぶつかって、冷たい風に引き込まれるのです。 では、あの北側をだれがもっているかといえば、悪魔がもっていて、神の温帯の文明圏に対し、冬を通じて寒帯文明圏となって、すべての温帯文明圏を打ってくるのです。それで葉が落ち、台風に吹かれて枝も折れ、どんなに多くの国が次々と折れていっていることでしょうか。このように、根が抜けてしまおうとしているのです。民主世界の根を、根こそぎ抜こうとするのです。それで北側の寒帯文明圏に追いやられているのです。 しかしここに最も必要なものが何であるかといえば、善なる神側にいくら北風が吹き寄せたとしても、根こそぎ抜けない、節操を守っている竹のような木です。 竹を見ると先生は気持ちがいいのです。いくら風が吹いても、竹は折れたりません。松竹と言いますが、なぜ松を先に言ったのでしょうか。竹松と言えばよかったのに。松の木は折れるのです。竹は折れません。そして竹は育つ時、一気に育つのであって、少しずつ育つのではないのです。それを知っていますか。一度に大きくなって、それから枝が出るのです。 この悪魔の世界において、版図をどちらが先にもったかといえば、善なる側が先に版図をもったのではありません。自分の体と連結されたすべての今日の生活舞台である外的世界は、悪魔の舞台となっているのです。 人はすべて物質と関係を結んでいます。物質の供給地が自然環境の世界であるなら、その環境世界は悪魔が主管する世界となっているのです。善なる世界は心の世界です。心の世界を焦点として心が主管する世界です。それゆえに、善なる世界は心の世界であり、悪魔の世界は物質の世界です。 個人的悪魔の世界は、個人的物質、欲心、欲心、物質、欲心、お金、金、金というのです。また、善なる神の世界は、善を中心とする宗教などは愛、愛、愛というのです。善の本質は愛です。愛をなさない善なる道はないのです。目的は愛です。 人間が生まれ、女性は美しく成長していくのですが、女性の美は何でしょうか。このようにおとなしく、美しく、純粋性をもった、内外共にいつでも触ってみたいし、夜見ても触ってみたいし、居眠りしながらでも触ってみたいし、思考しながらでも会いたい、そのような女性を造っておいたなら、その女性は善なる女性でしょうか。女性がこのように足を投げ出して眠っているとすれば、それは善でしょうか。(笑い)なぜ笑いますか。アダム、エバを神が造られる時、服を作っておいて、アダム、エバを造ったのでしょうか。アダム、エバを造られてから、服を作ったのでしょうか。服を作ってアダム、エバが造られたなら、人が生まれる時、棺を作ってから生まれたということです。 西洋の食口たちが来て、“先生は自分が見たこともない服を着ておられる”。これが韓国の服です。“洋服を着るのは嫌だったが、韓国服を着るといい”と、このようには考えないのです。両方とも外形がいいのですが、変化してはならない、一つのものがあります。それは何でしょうか。愛です。愛を真ん中に立てれば、赤も黄も、まだらなものもすべてがいいのです。形容詞や副詞を数千個付けてもいいのです。東西南北を回り、東西南北を自由に回ってもすべてが通じるのです。 そして、善は善だけで定着することができません。幸福だけでも定着することはできません。幸福とは何でしょうか。幸福というのは、抽象名詞です。幸福を見たことがありますか。(見たことがありません)。見ていないのにどのようにして幸福を探しますか。(笑い)平和とは何ですか。ダイヤモンド一つを二人で見つめ合っていれば、それが平和ですか。平和を見たことがありますか。平和型は見ることができますが、平和自体は見ることができません。全部が抽象名詞です。 これらのすべての美しい名詞、抽象名詞のすべては、網がいくら大きくとも、引き網に付いていくようになるのです。いくら太平洋全体に網を投げたとしても、引き網が引っ張るほうに網が付いてきますか。どうですか。いかに大きな波が西のほうにあっても、引き網が東のほうに行けばそちらに方向を合わせるようになっているのであって、自分は網であるから絶対に動くことはできない、ということは通用しません。 同様に、今日の理想の要素や、幸福の要素、善の要素、すべての要素においての重りは何でしょうか。根になるものは何でしょうか。その根は、何よりも強く、より価値のあるもの、より変わらないもの、より絶対的なもの、それはいったい何でしょうか。 服を全部作っておいて、すべてのものが整って、視線が合う時、顔を見た瞬間、そこに変わらないものを付けたいと思うのです。昔の人の顔を見ると鼻輪というものがありました。鼻輪を見ると、それは一段階上を考えた人です。鼻が一番高いのですけれども、いくら大きくても七十年から八十年たつとなくなってしまいます。しかし、鼻にかけた真珠とかダイヤモンドは変わらないのです。自分の鼻が変わらないものに近いのです。耳もそうです。お母様の耳も変わらないものに近いのです。(笑い) 手もそうです。 では、体がそういうものを好むのに、心の指はそういうものを欲しがらないでしょうか。どうでしょうか、心(☆☆☆☆:心の俗語)という言葉がありますか。このように、先生は言葉をたくさんつくり出します。心(☆☆☆☆)はそのダイヤモンドが必要でしょうか。どうでしょうか。心のダイヤモンド、心の黄金板、心の耳飾り、それらはだれが作ってあげられるでしょうか。体(☆☆☆:体の俗語)のものは自分で作れますが、心の宝はだれが作ってくれるのでしょうか。(神様です)。そのように答えるのではなく、「神様だと思います」と言わなければ……。(笑い) 同じなのです。変わることが嫌いなのです。変わらないものを願うのです。ですから心も変わらない善を願うのです。変わらないすべての美しさを願うのです。変わらないもの、千年万年後にも変わらない姿、その変わらないすべての根となり幹となり重りとなれるものが何であるかと問うならば、それは金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。世界の大統領でもなく、世界一の金持ちでもありません。世界の大学者でもありません。学者といえば、お母様の名前がそうですが(注:鶴子と同じ発音)(笑い)寛学者(注:同じ発音)というのは韓国に学者がお生まれになったからです。(拍手) なぜみんな口を開けているのですか。朝から気持ち悪くなるように。(笑い) 先生が気持ちよいのは分かりますが、皆さんがなぜ先生の誕生日にそのように喜ぶのですか。(笑い) 喜ぶべき人が喜ばなければならないのに、他の人が喜ぶと、当人は味がなくなるのです。(笑い) きょうの話のテーマは何でしょうか。公的生活と私的生活です。このように見てみると、私たちの心も変化しないことを追求するのです。私の目も、変わることを見るのを願いません。においも変わることを願いません。永遠に変わらないにおいとは、どんなものですか。香ばしく刺激的であるよりは、刺激的の反対は何ですか。それでも香気といえば香気といえるし、辛いといえば辛いのですが、それもいいのです。 祖父、祖母について考えると、昔の変わらない顔を期待していたというのです。七十歳の老人は、私の目は変わっていないのに、あの祖母の顔はしわだらけになっているというのです。それを見たいと思うでしょうか、見たくないでしょうか。見たくないけれども、そこにはずらずらと愛の歴史の束がついているのです。昔は笑う時は一つの線しかなかったのに、八十歳になると線が二つになった。これは悪いことですか。笑う時の線が十本になった。一〇〇本になった、一〇〇〇本になった。ホ、ホ、ホ、ホと笑うその顔を笑いの線として見るとき、昔は口だけが笑っていたのに、頭のてっぺんから体全体が笑うようになった。このように思うとき、祖母のしわだらけの顔は、美しいでしょうか、醜いでしょうか。そうだろうと思えるでしょうか。(笑い) その祖母が腰を曲げて笑うとき、笑いの塊になってしまったのです。そのように見ることのできる祖父であれば、どれほど幸福でありましょうか。また、祖母もあの祖父の顔も私に似ている。私にどんどん似てくる。あのしわは私が思うのに、疲れてあのようにできたのだ。どれほど疲れて、あれほどしわになったのか。夜眠ることもできず、疲れてあのようにしわになって垂れてきたのだ。愛を中心として、何に結びついても、その内容を説明すれば、すべて、万事O何ですか、K、OKというのです。 このように見るとき、天下自体が喜ぶことのできる共通分母は何ですか。分母を知っていますか。分母を知っているでしょう。万でも億万でもいいです。共通分母は何でしょうか。善自体は他を喜ばせますが、善自体は喜ぶでしょうか。幸福自体は人々を喜ばせますが、幸福自体は喜べますか。見たことがありますか。それは共通分母であるから、善自体は喜ぶことはできないし、幸福、平和自体も抽象名詞でその王であるとしても、朝昼夜を除くことなく、すべてが喜ぶことのできるのは、愛という再葉以外にはないのです。愛は見たことがないけれども、知っているし、説明が必要ないし、何かの介入が必要ではないのです。それは既に知識以上にあるのです。常識以上です。 神は善なる方ですか。(はい)。見たことがありますか。(笑い) 善であって何になりますか。善自体が喜べる、神が喜べるものがありますか。神が喜ぶことは何ですか。神は全部自分で勝手に造ることができます。ダイヤモンドの王宮を造ることができ、ダイヤモンドの宇宙、あの星の世界にはダイヤモンドの星があるか知っていますか。数千億の星があるのに、どれほど膨大な宇宙なのでしょうか。二〇〇光年以上、宇宙が大きいというのです。それは平たいですか、どうですか。丸いのです。丸く楕円で、それで息をすることができるのです。地球も運動をします。地球運動が圧縮するのです。息をするのです。そういうことを知っていますか。大きくなったり、小さくなったりします。 では、神自体が喜ぶことは何かありますか。会いたい時いつでも会えるし、触ってみたい時いつでも触れるし、持ちたくないものまで持つことのできる神が、願うすべてを自由にできる神が、何をもって喜ぶことができますか。神が喜ぶことができるのは何でしょうか。(愛です)。愛を、なぜ神が喜ぶのでしょうか。そのように答えてはいけません。愛は相対的関係がなくては成立されないからです。絶対神一人ではそのような愛に出会うことができません。相対者を立てなければ出会うことができないので、その絶対創造主の前に、絶対相対資格を備えるためのものが創造であり、その創造の傑作品がアダム、エバ、私たち人類の始祖でありました。それはなぜでしょうか。神も愛を必要とするからです。神も同じです。 「神様、あなたも愛という分母が好きですか」。いくら復帰摂理にお疲れになっていた神であるとしても、「愛が必要ですか」と聞く人がいれば、目が明るくなってくるのです。疲れていた神が一気に飛び上がって、「そうだ、好きだとも」と答えるのです。今まではそのように聞いてくる人は一人もいなかったのに、文なにがしという人が聞くのです。文なにがしという私は、異端の魁首であり、詐欺師であると言われていますが、「神は愛が必要であることを知っている人です」と言えば、神は半分は笑わないで、右の半分だけが笑うのです。右側だけでも、笑わせるのは、笑わせないことよりはましです。仕方がなく、神も喜ぶのです。 何を喜ぶのですか。黄金、ダイヤモンド、大学出身、碩学、博士、そういうものが何の必要がありますか。ここに尹(ユン)博士がいますね。尹博士は、その博士の名称を投げ捨てても、愛の一片と交換しようというときには、間違いなく、博士の名称一〇〇個、一〇〇〇個を与えたとしても、愛のかけら一つと交換しようとするでしょう。尹博士、そうですか。(はい、そうです)。 祖父の一番喜ぶことは何でしょうか。祖母の一番喜ぶことは何でしょうか。若い妻も一番喜ぶものは何でしょうか。若い夫も一番喜ぶものは何でしょうか。娘たち、子供たちは愛が好きでしょう。だれの愛ですか。父母の愛ですね。すべてが愛です。子供の時も父母の愛、力強く飛び跳ねるときも、お互いの妻や夫との愛。(注:新妻は韓国語でセクシといいますが、セクというのは色をいい、シは種を意味します。美しい色の中で最も美しい色の種だからどれほど美しいでしょうか)。韓国語は啓示的です。 では、祖父母や死んで共同墓地に横たわっている者がもし感じることができるとすれば、愛する人たちが墓に来てくれればいいでしょうか、どうでしょうか。(いいです)。「いいです」と言うよりも、「いいだろうと思います」でしょう。死んで、いないのですから。 共同墓地で腐敗するとき、愛する人たちが見守る中で、腐敗したいでしょうか。一人で、雪が積り、訪ねてくれる者もいない中で、春になり平地には雪が溶けて水になって流れていて、それも山の頂上の一番最後の氷が溶ける、そのような墓に横たわっていたほうがいいでしょうか。そこにも愛という言葉が必要です。愛する子女たちが訪ねてきて、墓のことを心配しながら雪を片づけるその場が、どれほど幸福でありましょうか。同様です。 このように考えるとき、神が生活し、生きることができる世界は、いかなる世界でしょうか。神が最も喜ぶことのできるもので飾った世界です。それは何で飾ったでしょうか。愛を軸とする、万の種類の燦爛たる内容をもって、見るに良いだけではなく、美しいのであり、感じるのに良いだけでなく、喜ばしいのです。良いということと喜ばしいこととは違います。喜ぶことは笑うことをいうのであって、良いことはただ良いことです。 良いのは基準をいうのであり、喜ばしいことは笑いをいうのです。 見るに美しく、感じるのに喜ばしいし、暮らすのに素晴らしいのです。素晴らしく生きようということと、良く生きようということは違います。素晴らしく生きるということは、各層にいろいろとかかわっていますが、素晴らしい生活はそれらをすべて詩で消化することができ、踊りを踊りながら越えていく人です。ここにまた何かがあるのです。そして頭を上げるとき、踊りのリズムで越えていくのです。それが素晴らしいことです。ですから韓国の踊りは素晴らしい踊りです。幅が広いのです。 どのように生きるといいましたか。素晴らしくです。神の国へ行って素晴らしく生きるのに、それは何を中心としてつくられる素晴らしさですか。(神様です)。趣を詩(うた)うのはどれほど素晴らしいでしょうか。それを愛で詩うのにどれほど素晴らしいことでしょうか。そのような天国を願うのです。先生が知っているのはそのような天国です。その感じる感覚を引っ張れば、神も引っ張られてくるのです。愛の綱によって。 この世でもそうでしょう。このごろテレビ文学館があって、そこから伝説がたくさん放映されるでしょう。愛する人同士がやむを得ない事情から分かれて、どうすることもできずに死ぬようになりますが、自分の愛する人が死ぬときは、その時間を知っているのです。夢うつつの中に現れて、「私は行きます」と告げるので、知っているのです。それは何の綱でしょうか。(愛の綱です)。愛の綱は、すべての空間世界を動かすことができるのです。時空を超越して、自由自在の活動舞台をもつのです。 では、一〇〇〇年前に亡くなった祖父に愛する人がいるとすれば、一〇〇〇年後には忘れることができるでしょうか。(忘れることができません)。知識とか、金とか、その他のもので栄えたのは十年経過することも難しいのですが、愛に栄えて感じたその感じと刺激は、一〇〇〇年の歳月であっても防ぐことができないのです。その偉大な力をもっているものを何といいましたか。 それで、神も愛の前ではぐうの音も出ないし、いかなる暴君も愛をもっている忠臣の前では、ぐうの音が出ないのです。能力があり、知恵があり、聡明な忠臣であっても、ぐうの音が出ないのです。愛までは離すことはできないのです。 統一教会ではこれまで、先生が愛の哲学についてたくさん教えてあげたでしょう。細胞も愛の細胞になったでしょう。そうなっていますか。それが必要なのです。どこに行っても、統一教会の人々は、この世の人々と違わなければなりません。 アメリカと韓国との間は、どれほど遠いですか。足の真下がアメリカです。朝の今、アメリカでは何時になりますか。七時ですから、十三時間遅いのです。ですからアメリカは現在夕方です。ここできょうの夜になれば、アメリカでは朝になり、きょうの祝賀行事をするでしょう。それでこちらはプラス祝賀行事で、あちらはマイナス祝賀行事です。プラスとマイナスが愛を置いてそうなっているのです。私たちはそのように生活しているのです。 私たちの結婚式は、韓国に一人の男性を立てて、アメリカに一人の女性を立てて、写真を置いて結婚式をすることができるのです。そういうことをだれから学びましたか。歴史にないのです。いかなる国の歴史にもないのです。両班(ヤンバン)の歴史にもなく、下層の人々の歴史にもないのです。しかし、統一教会の歴史にあります。統一教会のどの歴史ですか。文先生の粗雑な活動の歴史にですか。いいえ、そうではありません。愛の歴史にです。そこには異議がないのです。真の愛の歴史にあるのです。 この世界、地球星が願うものは何でしょうか。一つの国を願うでしょう。一つの国を願い、その国の中で何を願うでしょうか。一つの中心者を願うのです。一つの宝座を願うでしょう。それはどのような宝座でしょうか。天地を動かせる、愛を中心とした宝座であるとすれば、万代変わることのない、統一王国が生じるのです。これは素晴らしいことでしょう。 なぜそうでしょうか。神の国がそうです。そうなっているのです。心がプラスであれば、神の国がプラスであり、地上世界がマイナスにならなければなりません。この二つが、縦的には東洋、西洋が一つとなり、南、北が一つとならなければなりません。 それは何によって一つにすることがてきますか。それは、お金ではなく、知識でもなく、権力でもありません。いかなる独裁者がいたとしても、歴史上に、成吉恩汗(チンギスハン)がいかに強いといっても、天下を統一することはできませんでした。いかに戦いの版図を広げ、歴史的に妖邪なことをやったとしても、イギリスならイギリス、フランスならフランス、各々の国はそのままです。全部占めることはできませんでした。 第二次世界大戦がいかに大きな戦争であったとしても、その戦争で日本が敗戦しましたが、日本の国はなくなりましたか。国民がなくなりましたか。文化がなくなりましたか。なくなっていません。それらを統一することができません。力の世界には系列があります。強い力、弱い力、この力によって秩序が形成されるのです。だれもこれを一つにすることはできません。力をもっては、上と下を一つにすることはできません。東西南北をつづることはできません。力は回ろうとしません。力は直線作用をしようとするのです。ですから、神は知恵の王であるから、地上に引力というものをつくったので、地球星の動くすべては、放物線を描くのです。 何が系列を通過させることができますか。上下、左右、前後を何によって連結することができますか。お互いに、相対同士が授け受けるように連結しなければなりません。授け受けるようにです。ですから力がある前に、作用が先になければなりません。作用がある前に、主体、対象がなければなりません。 この宇宙は力によってできていると漠然と言いますが、その力が先か、作用が先か。電気が先ですか。電気の作用が先ですか。どちらですか。(作用です)。原理的には作用が先で、宇宙の力が先ではないのです。力の背後には作用があることを認めているのです。そして、作用は独りでにできますか。(できません)。作用の前には、プラス、マイナスの主体、対象概念を認めなければなりません。 このようになるとすれば、論理的起源、原因が、そのような主体、対象として出発した作用拡大運動を標榜して一つの世界を歴史性を通してつくろうとする、その目的の世界も、主体、対象として統一圏世界なのです。 ですから、今日の民主世界と共産世界は、一つは唯心世界、他は唯物世界として、主体、対象関係として現れてきたのです。これらがお互いに闘っているのです。一つになっていないからです。これを一つにしてこそ、本来一つになれる宇宙根本力の作用原則に和合されて、マイナス極とプラス極が、南にあるプラスと北にあるマイナスが一つになるのです。統一の世界が始まるのです。 一つの世界を追求する前に、一つの作用を先に見いださなければならないし、一つの作用を探す前に一つの作用を起こすことのできる母体的社会、分母を探さなければなりません。それが何でしょうか。真の人です。どこまでも人です。理想も人を中心としていうのです。幸福もすべてが人を中心としてあるのです。人の中で、その分母とは何でしょうか。それは愛です。 人間の心と体がこのように相対的立場に立って、愛という共同分母を中心として一回転したことがありますか。回転することができませんでした。皆さんの心と体はいつ一つになれるのでしょうか。神がいるとすれば、絶対的に神と一つになれる起源があるはずです。それがいつ一つになれるかという問題を知らなければなりません。 皆さんの体は四〇〇兆の細胞からできています。この細胞に、見えない心の人がいるのです。見えない心の人と体の人がいるのです。主体と対象が一つとなって、あっ! という声を出しながら一つになるのです。体は心が自分のものであり、心は体が自分のものであるといえる。私はあなたを必要とするし、あなたは私を必要とするのです。 ですから、私の貴い愛が私にあるのではなく、あなたにあるのです。ゆえに、男性の主人は女性がもっているのであり、女性の主人は男性がもっているのです。主人を換えてもっているのです。それなのに、男性は自分のものであるかのように浮気をしたりして、妖邪にもこの世を台無しにしてしまっているのです。女性も同じです。自分のものではありません。主人は一人です。主人は自分ではありません。夫が主人なのです。女性の主人は夫であり、夫の主人は妻です。 何を中心とした主人でしょうか。愛です。愛がなぜ好きだというのでしょうか。愛する時には、すべての心と体の細胞が共に作動するのです。堕落した愛は作動しながら、だんだん落ちてきます。作動し始めると落ち始めるのです。悪なる愛は、位置が同じ所から出発しましたが、どんどん作用をしながら落ちてくるのです。それで幸福が招来されるのではなく、分裂と嘆息の連続、どんどん破壊分裂作用が起きてくるのです。破壊分裂作用が起こるのです。 ほとんどの男性に、破れた愛のかけらが胸に入っていますので、自分勝手にそれを分けていくその作用をしているので、世界の人類は定着することができず、頭を振り、体を振って、やるだけやっているのです。そのような皆さんであると知っていましたか。 祖父は、自分の家では自分が最高であるのに、そういう祖父もすべて壊れてしまったのです。国もそうであり、妖邪な国の中に住んでいるのです。ですから、これらを一気に清算しなければなりません。 神がこの世を眺める時、悪魔の土台となってしまっているので、世界的な悪魔、国家的悪魔、社会的悪魔、氏族的悪魔、家庭的悪魔、夫婦的な悪魔、個人的悪魔、すべてが悪魔の世界となってしまったのです。闘っているのです。皆さん、心と体が闘っているのでしょう。(はい)。それが神側ですか。悪魔の側ですか。 闘うことは死亡と境界線を接しているのです。和平は生命と繁殖です。発展です。ですから死亡的な愛は、地獄と通ずるのです。分かりましたか。 ですから、いつ自分が一つになるかといえば、男性と女性がいなくては、心と体が一つになれる時がないというのです。なせ、女性は男性を探していき、男性は女性を探していくのかといえば、それは、宇宙の公的な法度の規格に合う男性、女性という人間になるためです。人間といえば、男性と女性です。ここを探して、この道において一つにならなければなりません。神の天理の大道の道は愛を紹介する道です。愛へ直行できる道です。その愛の道は、個人が行く道、家庭、氏族、民族が行く道であって、それらすべての栄養素は同じです。 一つの木において、根に行く栄養素と枝に行く栄養素は違うでしょうか。芽に行く栄養素と根との栄養素の相反する要素は、根の深い所を求めていこうとするのです。そこには高低がありません。そこには東西の分立がありません。南北の格差があり得ないのです。それが合わさって一つの生命体を成し、その木が育っているのです。 縦的に流れていたすべての樹液は、西側に来るな! 西側の樹液は東側に流れるな! このようなことがどこにありますか。西欧文明を主張していた現在のキリスト教文明が、西欧第一主義を主張していたすべての要素が、生命の要素が、東洋に流れてはならないとだれが言えるでしょうか。 バラバラになりそうなので、レバレンド・ムーンが東洋から行って重りを付けて、前方の線は切れてもいいのです。後ろに線をかけて連結すればいいのです。そうすればあとから付いてくるのです。二世を通して、アジアに来なさい。ですから西欧社会の二世たちが全部、東洋、このごろでは、日本というのです。これは七年間だけです。七八年から八五年までです。七年が過ぎれば、韓国に連結しなければなりません。ですから、このごろ韓国は第二の日本であると、西欧社会で言っています。日本を消化することができるのです。日本も追いついていくことができません。なぜでしょうか。大陸を連結できる基盤がないからです。 韓国が大陸に結ばれるその日には、東洋文明の定座時代、定着時代が来ると思うのです。先生は、そのことをやっているのです。 歴史は何に向かっているのでしょうか。今まで死亡圏に向かっていると思われていました。そして、その死亡圏の中で朱鷺(とき)の息をしていたのです。朱鷺の息とは何かといえば、朱鷺は首が細く、息をすることも大変なのです。何か少しでも飲み込もうとすれば、息をする穴が塞がれるので、首をこのようにするのです(しぐさで示される)。そのような中であっても、朱鷺は愛を求めて行こうとするのです。 愛する祖父の臨終時に、最も必要な人は誰でしょうか。それは祖母です。祖父と祖母の関係は何かといえばそれはたった一つ、愛の関係しかありません。今までは食べる物が異なり、生活も別々であり、遊びにおいても別々でありました。根が異なるため、今までの生活とすべてが違うのに、何が二人を結び付けたのかといえば、愛なのです。ですから愛が切れてしまったら終わりです。 ところが今、その祖父が死にかかっているのです。愛する子供たちがみんな集まっていても、そこに祖母がいなかったならば、祖父は「お母さんはどこに行ったのか?」と問うのです。子供たちがいなくてもそばに妻(祖母)さえいれば、「これでいいのだ。いいのだ」と言うのです。妻一人と子供たち十人のどちらを選ぶのかというと、妻を選ぶのです。なぜですか。それは愛のゆえです。その愛は、子供たちから見いだすことはできません。夫婦の愛は横的な愛であり、子供たちとの愛は縦的な愛なのです。妻との横的な愛を整えてから、縦的な愛が連結されなければなりません。まず妻がいて、次に縦的なる子女たちが連結されなければなりません。 皆さんが誕生した時、その生命はどこからきましたか。皆さんの生命の根はどこから生まれたのですか。それは愛からです。父母の愛の根から生命が生まれたのです。生命があとなのです。では何が先かといえば、まず父母の内外の要素がぐらぐらと煮立っているのです。水が百度になって沸騰し、蒸発するような爆発的な瞬間なのです。そのような男性の罐(かま)と女性の罐に蓋(ふた)がしてあって、この罐を互いに近づけると暴発するので、何で連結するかというと愛の穴で二つを連結するのです。するとお互いの蒸気の力が沸き出るはずなのに、二つをくっつけてしまうとザーッと音を立てながら授け受けするのです。その時、この二つの罐がどれほど揺れ動くことでしょう。考えてみてください。互いにこのように回るのです。こちらは上に、こちらは下に回って、回転するのです。男性と女性もこのようなのです。 宇宙という罐の中に入られて、神の蓋をしっかりとされ、神の内的なものと外的なものが完全に一つとなり、「穴を合わせなさい」と言われて、ぴったり合わせ、「空気が入らないようにハンダづけをしなさい」と言われたのが、私たち人類始祖の結婚式なのです。(笑い) なぜ笑うのですか。そこで、主体と対象は全く同じであってはなりません。上が強いために下へ流れる本然の流れがあるのです。ですから回り始めると誰もそれを止めることはできません。神様にもできません。愛の旋風が入っているので、神様もそこで見物するしかありません。(笑い)そのようなパイプ罐は何ですか。これが男性と女性が結婚式をする、愛のパイプ罐です。分かりますか。 宇宙の圧縮空気が半分ずつに分かれて入っても、その体と心が暴発しない愛とはどれほど大きいのでしょうか。宇宙を抱いても、宇宙を消化しても余りある力をもち、包容力をもっているのです。これがもち運動を始めると、それに従い台風圏が生まれるのです。天と地の間に台風圏が起こる時、その台風圏にこの地球上のすべての動物、生物がみんな巻き込まれ、すべてがその方向に頭を向けて行こうとするのです。行く途中で雷が落ちたとしてもいいと言うのです。このようなことを皆さんが忘れないように、先生は誕生日のきょう、このようなショーをしているのです。 誕生日は、座って楽にしていて、誰かが舞いを舞ったりすればいいのに、これは何ですか。(笑い) お金が入るのでもなく、何も入ってこないのです。(笑い) でも喜んでいるんですね。美しい人、醜い人、しわくしゃの人、艶のいい人、すべてが喜んでいるんですね。先生がこのようなことをやっているのは、愛の風が吹きつけるからなのです。それは美しいことでしょうか、醜いことでしょうか? (美しいことです)。 あなた方の父母が一つになったその愛に、神様までもが酔って、吸い込まれてくるのです。そのような愛から生まれることができたならば、それは不幸だったでしょうか、幸福だったでしょうか? (幸福でありました)。そうです。幸福だったのです。これまで皆さんが生まれた生命の根は、堕落した父母の因縁によるものです。 天地のすべてを包括できる軸となる頂点、平衡の基点、そのアダム・エバの愛から、この垂直の神の愛に連結されて限りなく相対圏を包括していくのです。この作用が回れば、電気がこうなるのです(しぐさで示される)。このように下ってくれば縦的な作用は自然に生ずるようになります。物理を勉強する人はよく知っているでしょう。すべての存在の作用は、球形運動に似るのです。必ず、平面的作用に球形的作用が一つの核を中心として連結されるので、球形運動がなされるのです。愛のすべての力の作用が、直結する中心の位置が絶対的な神の愛であり、私たち人類の本性が願ってきた理想的愛なのです。分かりましたか? (はい、分かりました)。 お母様に約束して話し始めてもう何時間たちましたか。何時から話し始めましたか? (九時三十分からです)。九時四十分からではありませんか。九時三十分からでも、あと十分たてばもう一時間半話したことになりますね。 私的な道とは何でしたか。それは自分を中心として上がっていく道ではなく、自分を中心に喜びつつ下がっていく道なのです。なせ私的な道を行ってはならないかということを、よく知っていなければなりません。人間にはすべて商人の心理があります。先生の誕生日に朝早くから青坡洞に来て、座っているのも、自分のためになる何かが得られるからであり、ポケットにちり紙の一枚でも入るものがあると思うから来ているのです。もし自分から何かが奪われていくようならば、「また来てください」と言っても、決して再び来ないでしょう。(笑い) では何が得られましたか。(韓国では俗語として「□□」(スープ)がふるまわれることを、何かの得をするという意味で使う)これからはスープと言わないで、骨と言いなさい。(笑い)スープより骨がいいのです。骨を煮込んだらスープになるでしょう。(笑い) 私たち統一教会では、これからスープよりも、骨が得られたのかということが大切です。皆さんは今朝ここに何をするために来たのですか。損をするためにですか、得をするために来たのですか。結局は先生一人を立てて、この数百人が利益を求めに来たのでしょう。(笑い) そうですよ。先生は皆さんが利益を得ることを願っています。先生がどんどん与えれば、あなた方の益となります。先生は与えれば与えるほど、どんどんなくなってしまうのですが、「もっと与えなさい」と何かが先生を押し出すのです。それが真の愛なのです。 生水(わき水)は汲めば汲むほどますます溢れてくるのですが、渇水(ため水)は汲めば汲むほどなくなってしまうのです。同じように私的なこととは何かといえば、使えば使うほどなくなってしまうのですが、公的なこととは使えば使うほど増えてくるのです。分かりましたか。私的生活をした人は、自分の好きなことをやって悲しみの中で死んでいき、公的生活をした人は笑いながら死んでいくのです。ですから人間は、私的生活を選んではならないのです。人間は公的生活を選ばなければなりません。公的な仕事は難しく、悲惨で涙が出るし、迫害されますがその人は喜びの明日を迎えることができるのです。 文なにがしという人がこれまで生きてきた内容を話しましょう。先生が六十六歳まで生きてきたその生活はどうだったのでしょうか。先生は自分のために生きてきたのではありません。公的なことのために生きてきたのです。公的なこととは、大韓民国のためにということでも、世界的なことのためにということでもありません。宇宙的公的なことを追求したのです。それは思想の善を追求する道義的な目的であります。今日、価値問題において、哲学的価値では真善美というのですが、そこには愛がありません。ですから今日の知識を基盤とした論理的理論体系を追求していく世界は、索漠な広野を行くようなものです。博物館を建てて、展示物をすべて陳列したのですが、人がいないのです。そのような世界です。愛がないのですね。 動物たちも春になると、愛の相対を求めてさまよいます。鳥もそうですね。夏になり昆虫の泣き声を聞くと、それは二種類しかないのです。お腹が空いて鳴く声と、相対を求めて鳴く声です。それしかないのです。食べ物を求める、その信号は簡単です。先生は田舎に住んでいたので、昆虫の世界をよく知っています。先生が捕まえたことのない昆虫はありません。獣も先生が捕まえたことのないものはありません。虎はまだ捕まえたことはありませんが、山猫、狸、兎など、数多く捕まえてみました。とても興味があるのです。それらは一匹で生きているのかと思っていましたが、みんなカップルをなしているのです。私たちの両親よりも、もっと立派なカップルではないかと思えるほどなのです。 それらの昆虫世界も、動物世界もすべて何によって生きているかというと、愛です。彼らの愛なのです。愛を中心として永遠に継続しなければならない紐を残さなければならないのです。その紐が子女なのです。愛の道は必ず永遠に向かって働くので、愛を通して子女が繁殖するのは、未来と永遠に連結する道を残すためなのです。ですからその道のない人は、未来を得ることができないので、不幸な人です。父母は過去に対して授け受けすることができるのであり、夫婦は現在に対して授け入けることができるのであり、子女は未来に対して授け受けることができるのです。過去、現在、未来に対して授けようとしても授けることができず、受けようとしても受けることのできない人はかわいそうです。宇宙の合格者にはなれないのです。 宇宙の合格者とは、何を中心としているのかといえば、それは愛を中心としてです。だから孤児はかわいそうだというのです。夫がいない女性はかわいそうな人です。いくら美人であっても、立派な人であっても寂しいのです。女性は生理的構造からしてもそうなのです。もしそうでなければ、その人の生理的構造が間違っているのです。女性は情緒的に男性よりも早く感じるようになっているのです。情的なのです。涙を流していても、すぐにその態度が変わるのです。情緒的な面における変化が早いのです。自然の法則がそうなっているのです。 それでは、公的な道とは何かというと、男性が女性のために死ぬほど頑張る道でしょうか。それは自分のための道ではなく、二人の公的のためです。父母が子供のために死ぬほど苦労することも私的でしょうか。それは公的です。分かりますか。父母が子供のために命を尽くしていく道は私的な道ではありません。何の道でしょうか? 公的道でしょう。 このように見る時、この宇宙史を綴っていく人間生活とは、愛の版図を基本公式として、前後左右、四方を整えて訓練を受けて生きるべきだということを、私たちは発見できなければなりません。愛を中心として父母のために生きていく、これ以上の公的な生涯はないという結論が出ます。そのような法度を万宇宙に通過させれば、宇宙が歓迎するようになっているのです。 年老いた父母と世界の国境を越えて、その国で初めて会う人であっても自分の両親のように対してあげるのです。自分の両親を愛することを学んだのですから、その愛を世界万民の両親の年齢にあたる人に対して行える人は、すべての天地を無事に通過することのできる覇権を持った人となるのです。これが分からなかったのです。 第二次世界大戦がいかに大きな戦争であったとしても、その戦争で日本が敗戦しましたが、日本の国はなくなりましたか。国民がなくなりましたか。文化がなくなりましたか。なくなっていません。それらを統一することができません。力の世界には系列があります。強い力、弱い力、この力によって秩序が形成されるのです。だれもこれを一つにすることはできません。力をもっては、上と下を一つにすることはできません。東西南北をつづることはできません。力は回ろうとしません。力は直線作用をしようとするのです。ですから、神は知恵の王であるから、地上に引力というものをつくったので、地球星の動くすべては、放物線を描くのです。 何が系列を通過させることができますか。上下、左右、前後を何によって連結することができますか。お互いに、相対同士が授け受けるように連結しなければなりません。授け受けるようにです。ですから力がある前に、作用が先になければなりません。作用がある前に、主体、対象がなければなりません。 この宇宙は力によってできていると漠然と言いますが、その力が先か、作用が先か。電気が先ですか。電気の作用が先ですか。どちらですか。(作用です)。原理的には作用が先で、宇宙の力が先ではないのです。力の背後には作用があることを認めているのです。そして、作用は独りでにできますか。(できません)。作用の前には、プラス、マイナスの主体、対象概念を認めなければなりません。 このようになるとすれば、論理的起源、原因が、そのような主体、対象として出発した作用拡大運動を標榜して一つの世界を歴史性を通してつくろうとする、その目的の世界も、主体、対象として統一圏世界なのです。 ですから、今日の民主世界と共産世界は、一つは唯心世界、他は唯物世界として、主体、対象関係として現れてきたのです。これらがお互いに闘っているのです。一つになっていないからです。これを一つにしてこそ、本来一つになれる宇宙根本力の作用原則に和合されて、マイナス極とプラス極が、南にあるプラスと北にあるマイナスが一つになるのです。統一の世界が始まるのです。 一つの世界を追求する前に、一つの作用を先に見いださなければならないし、一つの作用を探す前に一つの作用を起こすことのできる母体的社会、分母を探さなければなりません。それが何でしょうか。真の人です。どこまでも人です。理想も人を中心としていうのです。幸福もすべてが人を中心としてあるのです。人の中で、その分母とは何でしょうか。それは愛です。 人間の心と体がこのように相対的立場に立って、愛という共同分母を中心として一回転したことがありますか。回転することができませんでした。皆さんの心と体はいつ一つになれるのでしょうか。神がいるとすれば、絶対的に神と一つになれる起源があるはずです。それがいつ一つになれるかという問題を知らなければなりません。 皆さんの体は四〇〇兆の細胞からできています。この細胞に、見えない心の人がいるのです。見えない心の人と体の人がいるのです。主体と対象が一つとなって、あっ! という声を出しながら一つになるのです。体は心が自分のものであり、心は体が自分のものであるといえる。私はあなたを必要とするし、あなたは私を必要とするのです。 ですから、私の貴い愛が私にあるのではなく、あなたにあるのです。ゆえに、男性の主人は女性がもっているのであり、女性の主人は男性がもっているのです。主人を換えてもっているのです。それなのに、男性は自分のものであるかのように浮気をしたりして、妖邪にもこの世を台無しにしてしまっているのです。女性も同じです。自分のものではありません。主人は一人です。主人は自分ではありません。夫が主人なのです。女性の主人は夫であり、夫の主人は妻です。 何を中心とした主人でしょうか。愛です。愛がなぜ好きだというのでしょうか。愛する時には、すべての心と体の細胞が共に作動するのです。堕落した愛は作動しながら、だんだん落ちてきます。作動し始めると落ち始めるのです。悪なる愛は、位置が同じ所から出発しましたが、どんどん作用をしながら落ちてくるのです。それで幸福が招来されるのではなく、分裂と嘆息の連続、どんどん破壊分裂作用が起きてくるのです。破壊分裂作用が起こるのです。 ほとんどの男性に、破れた愛のかけらが胸に入っていますので、自分勝手にそれを分けていくその作用をしているので、世界の人類は定着することができず、頭を振り、体を振って、やるだけやっているのです。そのような皆さんであると知っていましたか。 祖父は、自分の家では自分が最高であるのに、そういう祖父もすべて壊れてしまったのです。国もそうであり、妖邪な国の中に住んでいるのです。ですから、これらを一気に清算しなければなりません。 神がこの世を眺める時、悪魔の土台となってしまっているので、世界的な悪魔、国家的悪魔、社会的悪魔、氏族的悪魔、家庭的悪魔、夫婦的な悪魔、個人的悪魔、すべてが悪魔の世界となってしまったのです。闘っているのです。皆さん、心と体が闘っているのでしょう。(はい)。それが神側ですか。悪魔の側ですか。 闘うことは死亡と境界線を接しているのです。和平は生命と繁殖です。発展です。ですから死亡的な愛は、地獄と通ずるのです。分かりましたか。 ですから、いつ自分が一つになるかといえば、男性と女性がいなくては、心と体が一つになれる時がないというのです。なせ、女性は男性を探していき、男性は女性を探していくのかといえば、それは、宇宙の公的な法度の規格に合う男性、女性という人間になるためです。人間といえば、男性と女性です。ここを探して、この道において一つにならなければなりません。神の天理の大道の道は愛を紹介する道です。愛へ直行できる道です。その愛の道は、個人が行く道、家庭、氏族、民族が行く道であって、それらすべての栄養素は同じです。 一つの木において、根に行く栄養素と枝に行く栄養素は違うでしょうか。芽に行く栄養素と根との栄養素の相反する要素は、根の深い所を求めていこうとするのです。そこには高低がありません。そこには東西の分立がありません。南北の格差があり得ないのです。それが合わさって一つの生命体を成し、その木が育っているのです。 縦的に流れていたすべての樹液は、西側に来るな! 西側の樹液は東側に流れるな! このようなことがどこにありますか。西欧文明を主張していた現在のキリスト教文明が、西欧第一主義を主張していたすべての要素が、生命の要素が、東洋に流れてはならないとだれが言えるでしょうか。 バラバラになりそうなので、レバレンド・ムーンが東洋から行って重りを付けて、前方の線は切れてもいいのです。後ろに線をかけて連結すればいいのです。そうすればあとから付いてくるのです。二世を通して、アジアに来なさい。ですから西欧社会の二世たちが全部、東洋、このごろでは、日本というのです。これは七年間だけです。七八年から八五年までです。七年が過ぎれば、韓国に連結しなければなりません。ですから、このごろ韓国は第二の日本であると、西欧社会で言っています。日本を消化することができるのです。日本も追いついていくことができません。なぜでしょうか。大陸を連結できる基盤がないからです。 韓国が大陸に結ばれるその日には、東洋文明の定座時代、定着時代が来ると思うのです。先生は、そのことをやっているのです。 歴史は何に向かっているのでしょうか。今まで死亡圏に向かっていると思われていました。そして、その死亡圏の中で朱鷺(とき)の息をしていたのです。朱鷺の息とは何かといえば、朱鷺は首が細く、息をすることも大変なのです。何か少しでも飲み込もうとすれば、息をする穴が塞がれるので、首をこのようにするのです(しぐさで示される)。そのような中であっても、朱鷺は愛を求めて行こうとするのです。 愛する祖父の臨終時に、最も必要な人は誰でしょうか。それは祖母です。祖父と祖母の関係は何かといえばそれはたった一つ、愛の関係しかありません。今までは食べる物が異なり、生活も別々であり、遊びにおいても別々でありました。根が異なるため、今までの生活とすべてが違うのに、何が二人を結び付けたのかといえば、愛なのです。ですから愛が切れてしまったら終わりです。 ところが今、その祖父が死にかかっているのです。愛する子供たちがみんな集まっていても、そこに祖母がいなかったならば、祖父は「お母さんはどこに行ったのか?」と問うのです。子供たちがいなくてもそばに妻(祖母)さえいれば、「これでいいのだ。いいのだ」と言うのです。妻一人と子供たち十人のどちらを選ぶのかというと、妻を選ぶのです。なぜですか。それは愛のゆえです。その愛は、子供たちから見いだすことはできません。夫婦の愛は横的な愛であり、子供たちとの愛は縦的な愛なのです。妻との横的な愛を整えてから、縦的な愛が連結されなければなりません。まず妻がいて、次に縦的なる子女たちが連結されなければなりません。 皆さんが誕生した時、その生命はどこからきましたか。皆さんの生命の根はどこから生まれたのですか。それは愛からです。父母の愛の根から生命が生まれたのです。生命があとなのです。では何が先かといえば、まず父母の内外の要素がぐらぐらと煮立っているのです。水が百度になって沸騰し、蒸発するような爆発的な瞬間なのです。そのような男性の罐(かま)と女性の罐に蓋(ふた)がしてあって、この罐を互いに近づけると暴発するので、何で連結するかというと愛の穴で二つを連結するのです。するとお互いの蒸気の力が沸き出るはずなのに、二つをくっつけてしまうとザーッと音を立てながら授け受けするのです。その時、この二つの罐がどれほど揺れ動くことでしょう。考えてみてください。互いにこのように回るのです。こちらは上に、こちらは下に回って、回転するのです。男性と女性もこのようなのです。 宇宙という罐の中に入られて、神の蓋をしっかりとされ、神の内的なものと外的なものが完全に一つとなり、「穴を合わせなさい」と言われて、ぴったり合わせ、「空気が入らないようにハンダづけをしなさい」と言われたのが、私たち人類始祖の結婚式なのです。(笑い) なぜ笑うのですか。そこで、主体と対象は全く同じであってはなりません。上が強いために下へ流れる本然の流れがあるのです。ですから回り始めると誰もそれを止めることはできません。神様にもできません。愛の旋風が入っているので、神様もそこで見物するしかありません。(笑い)そのようなパイプ罐は何ですか。これが男性と女性が結婚式をする、愛のパイプ罐です。分かりますか。 宇宙の圧縮空気が半分ずつに分かれて入っても、その体と心が暴発しない愛とはどれほど大きいのでしょうか。宇宙を抱いても、宇宙を消化しても余りある力をもち、包容力をもっているのです。これがもち運動を始めると、それに従い台風圏が生まれるのです。天と地の間に台風圏が起こる時、その台風圏にこの地球上のすべての動物、生物がみんな巻き込まれ、すべてがその方向に頭を向けて行こうとするのです。行く途中で雷が落ちたとしてもいいと言うのです。このようなことを皆さんが忘れないように、先生は誕生日のきょう、このようなショーをしているのです。 誕生日は、座って楽にしていて、誰かが舞いを舞ったりすればいいのに、これは何ですか。(笑い) お金が入るのでもなく、何も入ってこないのです。(笑い) でも喜んでいるんですね。美しい人、醜い人、しわくしゃの人、艶のいい人、すべてが喜んでいるんですね。先生がこのようなことをやっているのは、愛の風が吹きつけるからなのです。それは美しいことでしょうか、醜いことでしょうか? (美しいことです)。 あなた方の父母が一つになったその愛に、神様までもが酔って、吸い込まれてくるのです。そのような愛から生まれることができたならば、それは不幸だったでしょうか、幸福だったでしょうか? (幸福でありました)。そうです。幸福だったのです。これまで皆さんが生まれた生命の根は、堕落した父母の因縁によるものです。 天地のすべてを包括できる軸となる頂点、平衡の基点、そのアダム・エバの愛から、この垂直の神の愛に連結されて限りなく相対圏を包括していくのです。この作用が回れば、電気がこうなるのです(しぐさで示される)。このように下ってくれば縦的な作用は自然に生ずるようになります。物理を勉強する人はよく知っているでしょう。すべての存在の作用は、球形運動に似るのです。必ず、平面的作用に球形的作用が一つの核を中心として連結されるので、球形運動がなされるのです。愛のすべての力の作用が、直結する中心の位置が絶対的な神の愛であり、私たち人類の本性が願ってきた理想的愛なのです。分かりましたか? (はい、分かりました)。 お母様に約束して話し始めてもう何時間たちましたか。何時から話し始めましたか? (九時三十分からです)。九時四十分からではありませんか。九時三十分からでも、あと十分たてばもう一時間半話したことになりますね。 私的な道とは何でしたか。それは自分を中心として上がっていく道ではなく、自分を中心に喜びつつ下がっていく道なのです。なせ私的な道を行ってはならないかということを、よく知っていなければなりません。人間にはすべて商人の心理があります。先生の誕生日に朝早くから青坡洞に来て、座っているのも、自分のためになる何かが得られるからであり、ポケットにちり紙の一枚でも入るものがあると思うから来ているのです。もし自分から何かが奪われていくようならば、「また来てください」と言っても、決して再び来ないでしょう。(笑い) では何が得られましたか。(韓国では俗語として「□□」(スープ)がふるまわれることを、何かの得をするという意味で使う)これからはスープと言わないで、骨と言いなさい。(笑い)スープより骨がいいのです。骨を煮込んだらスープになるでしょう。(笑い) 私たち統一教会では、これからスープよりも、骨が得られたのかということが大切です。皆さんは今朝ここに何をするために来たのですか。損をするためにですか、得をするために来たのですか。結局は先生一人を立てて、この数百人が利益を求めに来たのでしょう。(笑い) そうですよ。先生は皆さんが利益を得ることを願っています。先生がどんどん与えれば、あなた方の益となります。先生は与えれば与えるほど、どんどんなくなってしまうのですが、「もっと与えなさい」と何かが先生を押し出すのです。それが真の愛なのです。 生水(わき水)は汲めば汲むほどますます溢れてくるのですが、渇水(ため水)は汲めば汲むほどなくなってしまうのです。同じように私的なこととは何かといえば、使えば使うほどなくなってしまうのですが、公的なこととは使えば使うほど増えてくるのです。分かりましたか。私的生活をした人は、自分の好きなことをやって悲しみの中で死んでいき、公的生活をした人は笑いながら死んでいくのです。ですから人間は、私的生活を選んではならないのです。人間は公的生活を選ばなければなりません。公的な仕事は難しく、悲惨で涙が出るし、迫害されますがその人は喜びの明日を迎えることができるのです。 文なにがしという人がこれまで生きてきた内容を話しましょう。先生が六十六歳まで生きてきたその生活はどうだったのでしょうか。先生は自分のために生きてきたのではありません。公的なことのために生きてきたのです。公的なこととは、大韓民国のためにということでも、世界的なことのためにということでもありません。宇宙的公的なことを追求したのです。それは思想の善を追求する道義的な目的であります。今日、価値問題において、哲学的価値では真善美というのですが、そこには愛がありません。ですから今日の知識を基盤とした論理的理論体系を追求していく世界は、索漠な広野を行くようなものです。博物館を建てて、展示物をすべて陳列したのですが、人がいないのです。そのような世界です。愛がないのですね。 動物たちも春になると、愛の相対を求めてさまよいます。鳥もそうですね。夏になり昆虫の泣き声を聞くと、それは二種類しかないのです。お腹が空いて鳴く声と、相対を求めて鳴く声です。それしかないのです。食べ物を求める、その信号は簡単です。先生は田舎に住んでいたので、昆虫の世界をよく知っています。先生が捕まえたことのない昆虫はありません。獣も先生が捕まえたことのないものはありません。虎はまだ捕まえたことはありませんが、山猫、狸、兎など、数多く捕まえてみました。とても興味があるのです。それらは一匹で生きているのかと思っていましたが、みんなカップルをなしているのです。私たちの両親よりも、もっと立派なカップルではないかと思えるほどなのです。 それらの昆虫世界も、動物世界もすべて何によって生きているかというと、愛です。彼らの愛なのです。愛を中心として永遠に継続しなければならない紐を残さなければならないのです。その紐が子女なのです。愛の道は必ず永遠に向かって働くので、愛を通して子女が繁殖するのは、未来と永遠に連結する道を残すためなのです。ですからその道のない人は、未来を得ることができないので、不幸な人です。父母は過去に対して授け受けすることができるのであり、夫婦は現在に対して授け入けることができるのであり、子女は未来に対して授け受けることができるのです。過去、現在、未来に対して授けようとしても授けることができず、受けようとしても受けることのできない人はかわいそうです。宇宙の合格者にはなれないのです。 宇宙の合格者とは、何を中心としているのかといえば、それは愛を中心としてです。だから孤児はかわいそうだというのです。夫がいない女性はかわいそうな人です。いくら美人であっても、立派な人であっても寂しいのです。女性は生理的構造からしてもそうなのです。もしそうでなければ、その人の生理的構造が間違っているのです。女性は情緒的に男性よりも早く感じるようになっているのです。情的なのです。涙を流していても、すぐにその態度が変わるのです。情緒的な面における変化が早いのです。自然の法則がそうなっているのです。 それでは、公的な道とは何かというと、男性が女性のために死ぬほど頑張る道でしょうか。それは自分のための道ではなく、二人の公的のためです。父母が子供のために死ぬほど苦労することも私的でしょうか。それは公的です。分かりますか。父母が子供のために命を尽くしていく道は私的な道ではありません。何の道でしょうか? 公的道でしょう。 このように見る時、この宇宙史を綴っていく人間生活とは、愛の版図を基本公式として、前後左右、四方を整えて訓練を受けて生きるべきだということを、私たちは発見できなければなりません。愛を中心として父母のために生きていく、これ以上の公的な生涯はないという結論が出ます。そのような法度を万宇宙に通過させれば、宇宙が歓迎するようになっているのです。 年老いた父母と世界の国境を越えて、その国で初めて会う人であっても自分の両親のように対してあげるのです。自分の両親を愛することを学んだのですから、その愛を世界万民の両親の年齢にあたる人に対して行える人は、すべての天地を無事に通過することのできる覇権を持った人となるのです。これが分からなかったのです。 男性と女性が互いのために生きる公的な道はそうでなければなりません。その道は、愛を伴って、女性のために生き、生命を尽くしていく道です。それは最高の宇宙のいかなる公的なるものよりも貴いというのです。そのように生きた男性は、その年齢の世界の女性たちが自分の体の上を踏み越えて行っても、歓迎するのです。それ以上の公的な道はないということを知らなければなりません。反対に、妻が夫のために愛の心をもって尽くすことも公的な道です。そのような心を、自分の夫ぐらいの年齢のすべての男性に対して、夫を愛する愛の心を連結することができるなら、それ以上の女性としての公的な道はありません。 宇宙の道は一つです。子供が父母に対して孝行するその道以上に貴く価値のある公的な道はないという結論を下すことができます。それは、この愛が東西南北、前後左右を備えているからです。上下に対しては父母がおり、左右に対しては子供がおり、前後に対しては夫婦がいるのです。東西南北、四方を備えておく愛の公式の中に生きている人以上に貴い公的な道はないということを、世界の人々は知らなかったのです。 子供を愛することにおいて父母以上に愛し、父母を愛することにおいて子供以上に愛すれば、その愛はすべてに通じるのです。子供はこちら側で愛すれば、あちら側では父母を愛するようになります。子供を愛するように父母を愛することで、天理の球形の世界の東半球、西半球を包括することができるのです。分かりますか。妻を愛し、夫を愛することは反対に垂直で九十度を中心として東西を抱くことができます。ですから、宇宙を測定するすべての公的な最高のモデルはどこにあるのかというと、それは皆さんが生活している家庭にあるのです。アーメン。(アーメン)。それが核です。全世界の人々を父母のように愛したその愛の力もどこを通らなければならないかというと、この核を通らなければなりません。みすぼらしいおじいさん、その祖、祖、租、祖父が神様ですが、神様もここを通らなければなりません。 私たち子孫万代に、この愛の紐を通じて因縁を結んだその世界は、神が自由に通じることができる男性、女性を中心として縦横に連結された全人類はこの愛の核を通して関係を結ばなければなりません。それが宇宙創造の本分の土台であり、それは地上世界の本分であると同時に天上世界の本分となり、地上の愛の宝座であると同時に、神の国の宝座と通じることができるのです。地上の真の父母の宝座とともに、天上世界の無形の天の父母の宝座が直結される位置です。それが縦横無尽というのです。壁がないのです。この核を中心として、東西南北の四方と、前後左右に授け受けすることのできるハンドルが私たちの家庭です。このハンドルを握ると、神もその中に入るし、すべてが入るのです。 それでは、年老いたおじいさんはどうですか。不幸ですか? (幸福です)。おばさんも幸福であり、父母も幸福であり、自分自身も、子供たちみんなも幸福なのです。おばあさんが「ハッハッハッ」と笑う時、「あのおばあさんは早く死ねばいいのに、なぜ早く死なないのか」と言うような、姑に仕えたくない多くの妖邪な女性たちは、自分たちが地獄行きの列車に乗っているということを知らず、また途中でめちゃめちゃになって無くなってしまうことも知らないで生きている、かわいそうな分子たちです。消えてしまえ! アーメン。(アーメン)。その反対も同じです。子供を尋ねて永遠に探し求めて行かなければならないにもかかわらず、子供を否定する父母もやはり同様に地獄行きの列車で、最終においてはめちゃめちゃに壊れてしまうのです。祖父がいかに立派であっても、そのような息子、娘がいて、それに従っていては滅びるのです。息子や娘、孫がいくら大勢いたとしても、一人でもそのような孫がいて、それに従えば滅びるのです。どんなに仲良くしている夫婦でも、そのような両親、そのような子供がいたならば、これは滅びます。九十度を見いだすことのできない変則的な存在は消えてしまわなければなりません。宇宙が許可しません。分かりましたか、分かりませんか? (分かりました)。 公的な道の中でも最も貴い道は何かといえば、祖父母に侍り、父母と共に兄弟同士が愛を中心として、「ハッハッハッ」「ヘッヘッヘッ」「ヒッヒッ、ヘッヘッ」と笑いながら生活する家庭です。おじいさんは「ハッハッハッ」、お父さんは「フッフッフッ」、私は「ヘッヘッヘッ」と笑うのです。笑いの節がみんなジグザクで、高低、強弱があって、愛の笑いの花が咲く幸福な家庭です。神様もその家庭を見物したくて、訪問せざるを得なくなるのです。「神神!」と宇宙に向かって叫ぶ時、「私はここにいるんだよ」と神様は答えるのです。 天国はどこにあるのでしょうか。イエス様は、あなた方の心の中にあると言われましたが、その心とはどんな心ですか。夕陽のような真っ赤な心ですか、商人のような心ですか? それは天地と和動したい心です。その心が重要なのです。そのような愛の核があれば、その場には神が臨在されるはずです。このように考えなければなりません。 これで私的な道と公的な道について、はっきり分かりましたね。自分を中心として、「祖父母も自分を愛せよ。父母も自分のためにやれ!」と言ったら、唾を吐きたくなります。そんな人は追い出してしまうのです。宇宙が追放するのです。反対に公的な道を愛する人は、祖父母が一生懸命に抱こうとするし、父母も抱こうとするし、夫も抱こうとするのです。自分を中心とした愛はさらにまた一つの作用を起こし、破綻し、侵犯するので、追放されるのです。心がその目のような作用をするのです。神様は本当によく人間を造ったのです。 愛を中心としても、自分のための愛は、初めは良いようであってもだんだん落ちていくのです。しかし、より公的な愛のために行く道は無限に発展して、家庭から氏族的な愛へと繁殖するのです。さらに民族的な愛へと枝を張るのです。そして国家的愛、世界的愛へと無限に発展するのです。「あの終点に着いたら、もう戻って来るな」と言っても戻って来るのです。ですからそのような愛の共通分母を中心として、私たちは共に世界の端と連結するのです。すべての核の中に立っている私たちはあの端のほうでも回るのです。この中だけで回ろうとしてはいけません。回るときにはあちらの端でも回るのであり、目の前の一点で回っていてもおもしろくないのです。 この核を中心として、遠い位置に行ってこそ素晴らしいことです。自分が回っていながら、この世界を見た時、宇宙が自分のゆえに回っていると思えるのです。自分が回っているとは思えず、宇宙が自分のゆえに回っていると思うのです。そのような愛の心の人は、最後まで行けるのです。避雷針のようなものです。愛は端のほうを求めていくのです。それだから人間は愛を中心とした本然の欲望があるのです。その愛の欲望は最高なのです。神様の愛までも占領しようとするのです。神様も貴い愛が必要なのですが、その愛までも占領しようとするのです。そこにおいて回るようになっているのです。 私たちは他に必要なものはありません。願うものはありません。どんな苦労があろうとも世界を回るのです。生活水準の低い世界を回っても不幸に感じるのではなく、幸福に感じるのです。その道は愛においてのみ可能なのです。これはお金ではできません。皆さんの中でも、ある人は新婚の夫を紹介する時に、美男子でなければ恥ずかしいと思っているのです。(笑い)あなたの夫はどこの大学を出ましたかと問われたら、「○○大学です」「○○大学院出です」と答えるのですが、さらに博士の前に出たら恥ずかしく思うのです。では、博士と宇宙の大統領のどちらが偉いのかというと、それ以上に飛び上がる力を持っている愛の人なのです。分かりましたか? (はい!)。 きょう、なぜこのような話をするかといえば、先生は六十六歳の誕生日を迎えて、年を取るだけ取りました。(韓国では年を取ることを、年を食べるという)年を食べるだけ食べたので、これからは吐き出さなければなりません。食べ物も同じです。食べるだけ食べたのちに、それ以上食べる時は先に食べたものは出さなければなりません。それは何のことかといえば、人生を終えてこれからは、あの世に行く準備をしなければならないということです。 自分が生まれた愛の動機を中心として成長しつつ、まだ成し得てないその部分を埋めることにより、本然の基準が満ちさえすれば、神の心から人間の心に本然の宇宙愛が発動して、スパークするようになるのです。プラスとマイナスが合えばスパークするように暴発するのです。そして変化が生じ、完全に四方が球形になります。完全球形、完全抱囲です。愛のみがそうするのです。そのような個人を探し出し、そのような相対圏を探さなければならないのです。この世界は無秩序にできているのではありません。歴史上のすべてに塞がれていたものを解き明かさなければなりません。そのように混乱し、反対になっている世界の一角において、それを解き明かすためにそのような個人として生まれたのが、先生であり、一九二〇年代のきょうなのです。 そのように神に反対する世界、愛に反対する悪の世界に生まれたので、先生は行く先々で衝突するのです。先生が現れると、悪なる世界が黒雲のような力で先生を追い出そうとするのです。今日までその戦いをしてきました。目に見えない世界の悪の勢力圏と、目に見える実体世界が相対圏となった悪主管圏と、たった一人で戦ってきたのです。一生の間、この世界のどこに行っても先生は憎まれるのですが、しかしそのように憎まれたのちには、必ず先生を好きになる人が現れるのです。本当に公式的です。一度打たれて、後ろを振り返ると打たれた価値より立派なものが与えられるのです。 例を挙げると、今先生が皆さんを見ると、この中に先生が昔遊んでいた好きだった友十人がいるのです。姿形も、声も動作も同じなのです。また先生はあるおばさんを尊敬していたことがありますが、統一教会に入ってくる婦人はそのような人が多いのです。真実さにおいても、またすべての面において優れているのです。先生のために尽くすことにおいても優れているのです。すべてが蕩減復帰なのです。分りますか。 先生は今、西欧社会に行って反対を受け、一回りしながら、大韓民国は滅びてぼろぼろになるのではないだろうかと思っていましたが、こうして帰国してみる時、西欧社会よりも良いのです。明洞(ミヨンドン)街のロッテビルやデパートに行ってみると、免税の春風が吹いて苦菜の花が咲くのです。皆さんは苦菜の根が薬になるということを知らないでしょう。 西欧社会はすべてに破綻が生じています。大韓民国に帰ってくると、再び行きたい気持ちはなくなってしまいます。(拍手)服を買うにしてもこちらのほうが便利です。西欧社会は先生に合うものがありません。お母さんもそうですし、子供たちもみんなそうなのです。上から下まで探しても合うものがありません。西欧社会の服は自分たちに似せて、胴体部分が短くて足の部分が長いのです。ですから西洋の女性を見ると、三分の一の胴体なのです。足が長いので、男性が足の先から見ると、“ああ遠いなあ”と思うほどです。東洋の人は足が短いのでちょこちょこと歩くのですが、西洋の人はのっしのっしと歩くのです。 先生は悪口を言われながら西洋を回っていましたが、韓国に帰って来ると西洋の青い目の金髪の女性たちが韓国の方向を見つめながら、「先生いつ帰ってこられるんだろう」と自分の夫よりも、父母よりも懐しく思っているのです。韓国に行こうにも旅費がないし、でももしどうしても行こうと思えば、前線活動をすれば飛行機で行けるのだが、と思っているのです。先生が「来なさい」とさえ言えば、みんな二週間以内に飛んで来るのです。先生は西欧社会でそういう風を巻き起こして回っているんです。それはムーニーの群れにとって良いことですが、アメリカの国から見るとき、それは良いことですか、悪いことですか。アメリカの国から見ると先生は魁首の代表であり、憎くて憎くて、また憎いのです。それで監獄に押し込めてしまえば死んでしまうと思っていたのですが、先生は監獄から復活して、大平洋を渡って帰国して今こうしてお話ししているのです。先生はどこへでも飛んで回るのです。 アメリカからの報告によると、先生はいつお帰りになるのだろうと、自分の母親が、夫が、子供が死にかかっていることも忘れ、先生の帰国を待ち望んでいるというのです。ですから、サタン世界から見ると「これらの妖邪な病が人間世界に広まり始めたのは、誰によるものなのか? それはレバレンド・ムーンだ。一番悪者はレバレンド・ムーンなのだ!」と言うのですが、神側から見ると「ああ、文なにがしという人、鮮明とか何とか明のつく人、よくやっている。あの愛の旋風は大変なものだ。あのように堅固に建設されたニューヨークのエンパイヤ・ステート・ビルディングすら吹き抜ける力をもっている。アメリカも持ち上げることができるし、飲み込んでしまうことのできる力をもっている。地球星すら一気に飲み込んでしまう力だ」と言うのです。十五夜になるとお汁粉の中に餅を入れて食べるように、一気に飲み込んでしまうのです。どこに行っても統一教会の人々は消化されるのではなく、何でも消化してしまうことのできる能力があるのです。 西洋の女性たちは風にうかれています。何の風ですか? (愛の風です)。何の愛ですか?(真の愛です)。それが真の愛なのか、それとも偽りの愛なのか味わってみましたか。(笑い)先生一人が行き来することによって、五色の人種が涙を流すのです。先生は、黒人の涙、白人の涙、黄色人の涙を流させることのできる人です。なぜそういうことをしているのでしょうか。なぜですか。 人間の心は共通なのです。心は共通なのです。太陽が春の陽ざしをもって訪れる時、すべての眠っていた植物も新芽を出すのです。その新芽はどこに向かうかというと、太陽に向かうのです。それと同様に、皆さんの本心に新芽が芽生えなければなりません。その新芽は新しい芽を出す力の作用を受けなければ出ることはできません。統一教会の文先生に出会うことによって、人間は人類歴史において初めて愛の陽ざしを呼吸することができるのです。そのような時代圏を迎えたのです。この味を知った人は、どんなにサタン世界に戻りなさいと言っても、もう戻らないのです。しかし、統一教会から自分の子供を拉致していく人がいます。父母が子供を拉致していくとは何ということでしょうか。しかし拉致していくのです。先生はじっと立って、拉致していった父母の所からその人が戻ってくるのを待っています。拉致された人たちはそこを飛び出して、どこに行くのかというと、自分の親戚の家でも、自分の知人の家でもなく、まっすぐに先生の所に訪ねて来るのです。それでどんなことが起きるかといえば、自分の家から飛び出してくる時、ただで飛び出してくるのではありません。 かつてイスラエルの人々に、カナンの福地に愛の理想を探しに行くためにエジプトのすべてのものを持って出発する準備をしなさいと神が命令したのですが、その時は持って出発しないことが罪になったのです。では何を持って出るのですか。すべての愛の宝物です。四三〇年間というものイスラエル民族がエジプトの地で血と汗とを流し、蹂躙されつつ受けた苦行、その愛の犠牲の代価は、国をいくつ与えられても代えることのできないものです。そのような宝物を築き上げてきたのです。 先生がモーセの立場だったなら、座ったままでエジプトの国を全部吸収することができました。なせモーセはエジプト人とイスラエル人が喧嘩をするのを見て、イスラエルの味方になってエジプト人を殺したりしたのでしょう。数十年だけ待つことによって、自分が王となり、王権によりエジプトのすべてのものをイスラエル化させて、イスラエル人をエジプトに迎え入れなければならなかったのです。そのために神がヨセフを通して準備し、死の境地を七十二部族を率いてエジプトに入っていったのです。四三〇年間の苦労の上にエジプトの国をイスラエルの文化圏に吸収させてイスラエルの民がエジプトの国を治めていったならば、イエス様は殺されたでしょうか。 モーセが荒野で銅の蛇を作ったことが、イエスが十字架にかかることになる遠因となったのです。救世主はそこから現れるのではありません。それはいけないことです。神は四三〇年間かけて、国を迎え入れ、国を治めようとされたのに、この国があまりにも反対するので、この国からすべての貴い物を持って出ようというのが神の命令でした。多くのキリスト教信者たちはそういうことが分からないのです。ただ聖書だけ見て、歴史がどのように渡り石を越えて行くのか分からないのです。これを知らない人たちは滅んでしまいます。知る人のみが残るのです。無知から完成はあり得ません。それだから滅びながら統一教会を恐れているのです。覚醒をしたり、悔い改めをしないのです。それでは誰が同情すると思いますか。 沈む夕陽を見つめて、それを歌い、それを讃美する人には明日を迎える資格がありません。沈む夕陽は、朝の太陽ととして戻ってくることを知ってこそ讃えられるのです。朝の太陽として戻ってくることを知らないで、ただ夕陽を讃えている人は背道主義者です。朝それは営利主義者です。自分たちの西欧社会の文明が夕陽のようになってくるのに、朝の太陽がどこから来るのかも知らずまだ西欧文明を讃えるのですか。滅びながらまだ讃えるのですか。そういう面においてレバレンド・ムーンは賢明です。その気配をいち早く感じることができるのです。 先生は今までに、すべてのことをやってきました。まず乞食からやってみました。もしこの世界が反対する時は、乞食の王様になってでも今日のような神様の世界的版図を築くために、山に入って炭を焼くことも学びました。先生がやらなかったことはありません。農村に行っても、すべてできないことはありません。このように壇上で話をしていても、働く所に行けば先生を追い抜ける人はいません。どこに行っても三年間たてば、すべてのトップになるのです。大西洋の東部地域グロスターでも、ツナ釣りにおいて三年以内で先生はチャンピオンになったのです。先生の式にあなた方がついてくることはあっても、あなた方の式に先生がついていくことはありません。先生は賢明です。そういう先生に出会ったことは良かったのですか、悪かったのですか? (良かったです)。 (先生は)生まれは良かったのですが、サタン世界に拉致された王子として生まれたのです。サタン世界であって、サタン家庭ではありません。それを越えていくためには跳躍できる条件を立てていかなければなりません。それが蕩減復帰です。 統一教会は、はしごを架けて越えていくのであって、ただで越えれるのではありません。「統一教会を信じます」と言って、すべてが完成するのではありません。ここに提示するすべての法的項目を越えて。天意的勝利的宗教にならなければなりません。 そのような観点から見る時、一九二〇年以後、サタン世界に神の愛の紐を引っ張ってきて、作動させたのです。そのように先生が作動させるのでサタン世界は大変なのです。総攻撃をかけてきて、先生の土台を無くそうとするのです。 幼い時、先生の家庭は、先生が生まれたころには家庭が散り散りばらばらになったのです。先生が物心つくころには、先生の家庭を完全にごみ箱に押し込んだのです。それは先生を打つためなのです。先生の垣根となっている両親、愛の園である家庭の外的なものを打ち、兄弟を打ち、祖父母を、全部打ったのです。そのような中に置かれれば、先生すら消えてしまうはずだったのです。悲惨な、食べるにも窮し、生きることも難しい中に押し込めたのです。先生はそのような立場から、十代の少年として、み旨の道を知ったその時から自分の行くべき道を定めて、三十代までは準備時代としてすべての準備をしたのです。台風に流されていく泰山があれば、その泰山よりも高くなり、台風圏を防ぐことに三分の二を、あとの三分の一は世界を覆っても余りある心構えで出発したのです。分かりますか、何の話か。 (一九四五年)大韓民国の南地が解放されたと言って、人々は大騒をしましたが、先生は万歳もしませんでした。先生の行く道はさらに遠くにあったのです。南北韓の統一を終えたならば、次にアジアの統一圏をつくり、世界の統一圏へと越えていかなければなりません。そのような道が残っていたので、今受けている喜びよりも明日訪れてくる受難の道に準備しなければなりませんでした。ですから、喜びのその環境が先生には悲しみだけであったということを誰も知ることはできなかったのです。周りの人々が喜ぶ時にも、先生は反対の立場で、未来にも喜ぶことのできるような歴史的な伝統の基盤をつくることに汲々としていたのです。 物心ついてからの先生は、大韓民国の日本統治下において、誰よりも愛国者としての道を行かなければなりませんでした。そのためには、日本を知らなければなりませんでした。日本を知るために先生は日本に渡り、貧民窟から訪ねて行ったのです。今回行って見ると、すべてが都市化されてしまっていて、昔の姿はほとんど見られませんでしたが、数カ所だけが残っていました。怨讐の国であるこの日本民族を滅ぼすのではなく、次の章においてこの本が終われば、第二巻では日本民族を愛さなければならない道があったのです。ですから第一巻のこの章において、怨讐であるという記録を残すことはできないのです。記録を残さず、行動の実績も残ることのない道を行かなければなりませんでした。黙々と困難な環境の中にあって、迫害が加重されれば、先生は誰も抜くことのできないほどの釘を作って、「打て、打て、深く打て! 柱ほどの釘を打ち込みなさい。日本人よ! 打て! 打て! あなた方が打ち込んだ釘を日本民族の一億二〇〇〇万が抜くことができなければ、先生を認めなければなりません」。そして打った後においては、「早く入りなさい。反対しないで」と、このようなことをやってきたのです。「世界よ、打ちなさい。打ちなさい。この頭を打て! 打て! 打ちなさい。打って四十億人類がその釘を私から抜くことができない時には私を認めなさい」と。素晴らしい男の話ですね。女性であれば誰しもそういう男と暮らしたいと思うでしょう。 その時が、一九七六年でした。全世界の自由世界が統一教会のレバレンド・ムーンを打ってきたのです。「打て! 誰が滅びるのか、打て!」。先生の頭は何と硬いことでしょう。打っても跡が付かないのです。棒が折れてその人の足を傷つけることはあっても、先生の頭はびくともしないのです。打って、あのダンベリーまで押し込めて、「すべて終わった。すべて闇になった」と言って、レバレンド・ムーンは死ぬと思っていたのです。しかし、天と地が一つになり、レバレンド・ムーンが出てくる時には、あなた方は疲れ果てて既に倒れていました。死んだようでした。二億四〇〇〇万の人口のアメリカがいかに大きくとも、先生に反対する人は一人もいなかったのです。 初めて、皆さんは大変な目に遭ったのですね。しかしそのために皆さんと先生が結んだ因縁は解くことのできないものです。これから先生が行く先々で世界は先生の前にひざまずかなければなりません。そんな基盤をつくっている間に、長い歳月が流れ去りました。ですから三十歳まで訓練をし、四十五歳まで実践するのです。これが天倫です。天倫の歴史なのです。それで先生は四十五歳の時、初めて聖地を探したのです。そして六十歳までに全民主世界において、レバレンド・ムーンを取り除くことのできない世界的基盤をつくったのです。ですから、いかにアメリカの民主党が共和党が大きいとしても、もはや先生を取り除くことはできません。共産世界の思想的根を取り除くことはできても、レバレンド・ムーン思想の根は残るのです。そしてレバレンド・ムーンの思想の枝が出て、実を結ぶのです。共産主義は実を結ぶことはできません。 それで今回帰国することによって、新しい春がきたのです。そこで大韓民国が、世界が一つになれる愛の種を、世界のすべての民族と世界の歴史と伝統をすべて消化することのできる愛の種を今この韓半島に植えるために先生の帰ってきたその喜びの足どりが今回の旅行なのです。(拍手)そこで先生は何をしたかというと、先ほどまては学界に植え、今回は特別な済州道の人々に植えてあげたのです。今まで済州道はどれほど孤立していたことでしょうか。大陸に対して済州道は島国です。島国を愛さなければなりません。済州道には六〇〇の村があり、その村長たちを呼んで慰労してあげたのです。次は三〇〇〇名です。そして里、村、班長まで先生が接することができるようになりました。そして教授たちが伝道するのです。 また今回、ソウルも加えて、全国一六六都市を講演しましたが、これは蕩減復帰なのだと思います。一六六の中の一〇〇は一ではないのです。六十六として考えるのです。そのようなことをやってきました。韓国において死んでいった人たちを接ぎ木するのです。統一思想を中心としてレバレンド・ムーン主義に接ぎ木するのです。神の愛を中心としたこの主義に接ぎ木するのです。接ぎ木は春の季節にしなければなりません。そこで接ぎ木するための風を巻き起こしているのです。このような風はいい風ですか、悪い風ですか? (いい風です)。この風を嫌がる人は何でしょうか。この風に反対する群れがあればそれは何ですか。何の群れですか。真の群れですか、偽りの群れですか。神が真の群れの側であれば、偽りの群れは何ですか? (サタンの側の群れです)。ですからレバレンド・ムーンの話に従えば神も生きられるのです。では何をするのですか。南北の統一はレバレンド・ムーンでなければできません。金日成ではできません。金日成がいくらやっても偽りの父なのです。金の父よりも文の父のほうがいいですよ。(笑い、拍手) 金の父は「お金を象徴していますが、文の父は「文字」を象徴しているのです。父母は子供に文字を教えてあげることが良いでしょうか、お金を集めてあげることが良いでしょうか。お金は先に使うものですが、文字はあとから使うものです。ですから父母は、文字を教えてあげなければなりません。お金を与えては早く滅びるのです。未来を切ってしまうことになるのです。文字を教えてあげれば未来が生まれてきます。勉強することは難しく、お金を使うことはやさしいのですが、反対の結果が出てくることが分かるので、文の父のほうが、金の父よりも優れているというのです。(拍手と笑い) 父が二人できました。終わりの日には二つの世界が衝突して、お互いが正しいと言う時が来るのです。二つの群れが愛を中心として戦う時が来るのです。奸臣と忠臣が愛を中心として戦うのです。どちらも王様を自分がもっと愛そうとするのです。分かりますか。忠臣も王様をもっと愛そうとするのですが、その忠臣を踏みにじってより自分が王様を愛そうとして、忠臣の首を切ったのが奸臣なのです。また、忠臣の道は歴史性がありますが、奸臣の道は歴史性がありません。忠臣は歴史性、時代性をもって、民が歓迎する立場から王様を愛そうとするのです。歴史的に先祖から引き継いだ伝統と文化背景で王様を愛そうとするのですが、奸臣は歴史性を否定し、時代性を否定し、未来性を否定しながら愛そうとするのです。王と民、過去、現在、未来を中心として愛そうとはせず、自分を中心として王様を愛そうとするので、悪となるのです。統一教会の中でも、このような奸臣的信者、忠臣的信者がいるでしょう。この原則は、完成の世界となるまで、一つの世界となるまで、皆さん個人を中心として作用し、境界線をつくって戦っていることを知らなければなりません。一歩踏み間違えば地獄であり、一歩正しく踏み出せば天国なのです。一度誤れば地獄ですが、一度良くやれば天の側になります。このような立場に統一教会は立っているのです。皆さんを中心として世界が善悪二つに分かれるのです。 この善悪の世界は何を中心として生まれたのかというと、愛を中心として生じたのです。では、善と悪の愛の中心として分かれたのはなぜかというと、サタンの父母の愛から、サタンの愛の子女が生まれるという堕落が生じてきたからです。今まで神の愛を中心とした夫婦、父母、子女の基準が出てこなかったので、サタン世界の愛以上の愛の基準を立てなければ、神の世界の愛の基盤が生まれてこないのです。イエスの言われた「だれでも、父、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ福音書一四章二六節)という言葉は、このような天理を通して結論づけられたものだったのです。ですからイエスは、「あなたの家族が怨讐である」とも言ったのです。この世の自分の一族と家族を否定して出たイエスはさらに、「神を最も愛し、神から送られた人をもっと愛せよ」と言うのです。夫のいる婦人が、夫よりもイエスを愛するので、その婦人の夫と争いが始まるのです。母親は自分の子供よりもイエスを愛するので、子供が反対するのです。家庭の中で一番の家長としての扱いを受けていた祖父の言うことも聞かずに他の道に行こうとするのです。すべての家庭の家族が怨讐になるしかなかったのです。 今日、統一教会において、神側に立っているとするならば統一教会の怨讐は、皆さんの家庭の中で最も愛する夫であり、最も近い血縁関係にある人たちです。そしてまた、血縁関係にある国が統一教会に反対するのです。そればかりでなく、アジアが反対し、人類が反対する道を行かなければならない立場に立っているのです。それはイエスが「愛を中心とした弟子となりなさい」と警告した道理と相通じるものです。 真なるキリスト教の愛の理想を完成する宗教が出てくる時には、その個人の家庭が、国家が、全世界、地球星に住んでいる人々が総動員して「打ち殺せ!」と反対するような宗教でなければなりません。そして、その宗教は反対を受けても、勝利して、世界が屈服することのできる歴史的清算の道を経なければ、神が願う一つの世界、愛を中心とした統一世界は顕現することができないというのが結論であるということを知らなければなりません。 そのような使命を背負って、統一教会は歴史を経ながら世界から追われ追われて、地獄の霊からも追われる立場に立って、その総動員した追われる立場から、その環境を踏み越えて押しのけて、それ以上の立場に立たなければなりません。下がっていくのではなく、飛躍して本然の世界を指向し、永遠なる神の国と直通する天国への道を拓(ひら)いて越えて行く時となったのです。 私たち統一教会の今年の標語は「天国創建」です。再建ではありません。この地上に天国を再建できる所は一つもありません。アメリカも、韓国も天国ではなく、歴史上のいかに優れた人であっても、天国の大統領にはなれないのです。天国を再建できる人はいません。新しくつくらなければなりません。ですから一九八六年、先生が韓国に来て通告したのが「天国創建」なのです。分かりましたか? (はい)。 では、天国創建をどこから始めますか。それは今、話した公的な愛を中心とした家庭からです。その家庭は、宇宙と社会の迫害圏を越えて、探し出された家庭からです。これまでの世俗の伝統の因縁によるそのような基盤に存続し、関係するような家庭ではなく、それを克服跳躍して、新しい天地に、父母様の伝統を受け継いで始まる新しい歴史時代の、新しい家庭なのです。 先生が六十六歳まで願ってきたことは何かというと、万民が国境を越えて自由の環境の中から、このような家庭的因縁を結ぶことのできる土台を準備することでした。これが真の父母のやらなければならないことでありました。先生はそれを完成しました。 皆さん、男性は神の二性性相から、男性を中心としたすべての物質が、鉱物世界、植物世界へと拡大して、ここにすべての理想的モデルとして入っているのです。この男性の中には動物も、植物も、鉱物もすべて入っているのです。私たち自体もそうです。肺は木の葉です。血管は木の幹のようなものです。胃は木の根です。すべてが入っているのです。神の二性性相の一方の性のすべての理想的要素を神が想像し、理想としたすべての実体を結実させなければなりません。この男性が、愛の理想で実を結ぶようになる時、この宇宙存在の世界の男性圏が結実するのです。男性圏の結実は誰によってなされるかというと、人類の始祖であった、真の父となるべきアダムからです。その反対の女性の始祖は誰かというと、エバです。そしてこの二つの実が、この二人が一つにならなければなりません。皆さん、種をよく見ると一つの胞子の中に二つの片が入っているのです。それは誰に似ているのかというと、神に似ているのです。それから自分に似ているというのです。 皆さん一人一人の中にも、心と体の二つがあるでしょう。この間に生命の種が入っているのです。ですから、女性は男性に出会わなければならないし、男性は女性に出会わなければなりません。その男性の片方と女性の片方を見ると、その中に自分を中心としての男性、女性の性稟が入っているのです。すべてが神の性相に似ているのです。それが一つにならなければならないのです。そして一つになったその中から初めて子女が生まれることにより、神の願いの天国が始まるのです。それが生まれてこないうちには横的な世界が出てきません。愛を中心としての横的な世界が出てこないのです。皆さんに悪魔が入り込んでくるのです。個人的な悪魔圏、家庭的な悪魔圏、世界を代表する世界的悪魔圏、宇宙史的、天宙史的悪魔圏がつながっているのです。これに勝る、これを切ってしまうことのできる刀があるとすれば、その刀はどんな刀でしょうか。お金の刀では、いくら切っても切れません。知識の刀でもいくら切っても切れません。力の刀でも切れません。それを切ることのできる刀はただ一つです。それは真なる愛の刀です。他にありません。真の愛の刀で切ってしまえば、永久に悪魔は入り込めないのです。神の圏となるのです。統一教会によって、神圏が始まるのです。 このような家庭を世界的に平面基準につくっておくのです。もう先生が黙っていても統一氏族圏がどんどん増えていくのです。統一教会で祝福を受けた夫婦が愛し合うことは、子女が増えることです。種を蒔いたら育てなければなりません。種を蒔いたのに除去してしまうことは大きな罪です。 私たちはサタン世界を救わなければなりません。伝道して、接ぎ木して神の民にしようとしたのに、接ぎ木した根に悪質要素が残っているのです。先生が祝福した統一教会の群れは百パーセントでなければなりません。そうでない人は何かが間違っているのです。それは歴史的蕩減が残っているのです。しかし普通の基準の、先生が祝福してあげた夫婦は、出産率百パーセントです。また出産できないとしてもそれを百パーセントの型に満たして埋めていける方法も教えているのです。養子を入れても良いというのです。自分の子女を一〇〇名生んで、東西南北に養子として一〇〇の国家に分けて与えるのは、どれほどいいことでしょうか。(笑い) なぜ笑いますか。見てみなさい。もう少したてば、「七十二家庭の祝福の子女を私の家庭に与えてください」と喧嘩するように求める日が訪れます。「自分の村に、韓国の一六〇〇家庭の中の一人を迎えて、その方を王として侍って、その言葉に従いますので、一人を送ってください」と言ってくる部族が多く出ることでしょう。そうなれば、そこに配置してあげざるを得ません。今、既にそうです。この前、日本からある人をイギリスの責任者として送ったのです。すると「先生、あのような人を責任者として送ってくださ中 韓国の人であれば良いんですが、韓国の人がいなければ日本人を送ってください」と言ってきたのです。本物がなければ似ているものでもってでも穴埋めをしなければなりません。それは数日しか保たないのですが、そうでもしなければ飢えてしまうのです。 ですから、もしお母様が子女を約三〇〇人ほど出産できたらどれほど素晴らしいことでしょうか。(笑い) 各国ごとに、真の子女を迎え入れたいと思うでしょうか、思わないでしょうか。それはどの国でも同じです。先生の直系の子女を、「どろぼうして連れていってもいい」と言ったなら、お互いが奪い合いをして、韓国の祝福の子女たちは全部奪われてしまうでしょう。そこで韓国の人が言うのに、「先生はこのままにしておくのですか? 先生の民族はどこに行ってしまうのですか。先生、私たちは共に住むべきです」。とんでもないことです。もう倍達(ペーダル)民族の時代は過ぎ去りました。これからは王達(ワンダル)民族時代です。配達(ペーダル)とは(倍達と配達の韓国語の発音が同じ)配達してくれることですが、王達というのは配給してもらえないということです。配達民族というのは、神が配達してあげるので、分か与えるための民族です。それだから選民なのです。これは一脈相通じる言葉です。配達、配達、配達は好きですか。配達するには良いものを分けますか、悪いものを分けますか? 最も良いものを分けて与えるのが神様であります。最も悪いものを分けて与えたらそれは悪魔です。統一教会の三十六家庭の中に、これから黒人のお婿さんを迎えるようにしてあげようと思います。それで今探しているのです。先生は人がやらないことよやるチャンピオンですね。(笑い) 人のやらないことを始めて、今までやっているうちに、このような年齢になってしまったのです。年を取って死ぬと思っていたのにまだ元気なのですね。お母さんは、おじいさんという話をするだけで嫌がります。先生よりも、もっと嫌がります。なぜそうなのでしょう? 先生を愛するからです。愛は永遠なものであり、愛する人と永遠に共に歩きたいからです。 それでは、文先生は今まで何を与えながら回っている人でしょうか。何ですか。愛ですか。先生はうまい話をするので、詐欺師なのでしょうか、どうでしょうか。分かりますか。よく御覧なさい。目が小さいのは、遠くを見ることができるのです。いつも望遠鏡のように絞りを絞って見るのです。あの者は何をしていたのか、統一教会に入ってもしばらくすれば落ちてしまう者かどうか、よく分かるのです。そして頭が大きいのですね。よく思考するため悩みも大きいということです。(笑い) ですから、先生について妖邪なうわさもありました。悪いうわさ、良いうわさいろいろありましたが、良いうわさより悪いうわさのほうが多かったのです。 しかし、世界一のアメリカ司法省(法務省)が調査をしてみても、先生について悪いことは何一つ見つけ出すことができず、反対に良いことばかり見つけました。それでどういう結論を出したかというと、今レバレンド・ムーンを起訴すれば、アメリカに戻ってこないだろうと思ったのです。それに対して先生の答えは、こうです。「先生がどうして戻ってこないと思ったのか。そのように思うのはサタンの考えだ」。 もう三時間たってしまいました。それでは結論づけましょう。今まで話したように、公的な道を行かなければなりません。先生がこのように公的な道を整えて、すべてに愛の力を通して紐を付けました。この紐を引っ張りさえすればすべてが引きずられてきます。これから先生が島国に行って住むようになれば、そして「統一教会の群れよ、島国に来なさい!」と言えば、すべてが島国に集まってくるでしょう。「すべての統一教会信者は、島国で自由に住むことができる」と言ったら、その島国を天国にすることも簡単です。今大韓民国の人口は何千万ですか? (四〇〇〇万です)。それでは私たちの統一教会の人口六〇〇〇万がそこに集まってくればどうなりますか。六〇〇〇万と四〇〇〇万とで一億になります。その時、統一教会の信者は今の韓国の人口にあらゆる面において負けるでしょうか。勝つでしょうか? (勝ちます)。絶対に負けません。それはなぜかというと、韓国がどこに行けばいいのか知っているからです。ムーニーたちは韓国がどのようにすれば生きれるのか知っているのですが、南韓の人たちは大韓民国だけが良くなればいいとだけ思っているのです。金日成はどうかといえば、たとえ北韓の人々が減るとしても南韓と一つにならなければならないと言っているのです。それでは北韓の人々を消化することができますか。南韓の人々が消化することができますか。南韓の人々が消化されることがあっても北韓の人々を消化することはできません。北では南北韓の統一基盤の上に一つの国を願ってあらゆる訓練を重ねているのに、南韓の人々は、南韓だけが一番だ、自分たちの国土で生きていこう、と南韓だけしか知りません。 先生は悪魔の提唱を知っています。なぜ北韓が南韓を統一してくれるのか。なぜ南進統一を願っているのか知っているのです。「金日成、この者よ!」と、国の指導者たちが、この国の民四〇〇〇万がなぜ南韓の北進統一を示さないのですが。北韓の地は私たちの地であることは間違いないことです。一〇〇〇万の離散家族を中心として、北韓の人たちが一つになれば、金日成が指導する国民は半分にもならないのです。その人たちが先頭に立てば金日成以上にやれるのです。なぜしないのですか。そうすれば、残りの三〇〇〇万南韓の民がわずか七〇〇から一〇〇〇万の人々に責任を果たせないほど無能ではありません。 皆さんは知らなければなりません。いかに成吉思汗(チンギスハン)が世界を征服したとしても、一つの国だけは征服できませんでした。それが韓国なのです。皆さんはそのことを知っていましたか。優秀なこの民族なのです。神が背後にあってこの民族を育成してきたことは金日成を恐れるような民にするためではありません。金日成も一気に飛ばされるのです。北進統一です。戦わず包囲作戦によって、サンドイッチにしてぺちゃんこにして、横から取り出してシベリヤの広野に行かせるのです。なぜできないのですか。その力がないのですか。それほどまでに無力なのですか。先生はそのことを厳命し、祈祷しました。神の前に、金日成のことを祈祷したので、追放してしまわなければなりません。これは偽りの者です。ですから、南北統一のための準備を急がなければなりません。それが嫌ですか。そのような者がいたら、この民族の逆賊です。 先生は今までに誰よりもこの民族を愛した歴史性をもっています。今日年 偉いと言われる人々にも、国を愛したという歴史性においては先生に勝る人はいないと思っています。神が保護し給うて幾星霜を経て、忠臣が道理を果たしつつ行った死の境地を越えて、生きて帰ってくる時、勝利の冠をかざし、解放の旗のぼりを持って帰ってくることを夢見ながら訓練してきたのです。そうした莫大な歴史的内容を清算して、愛の旗を掲げて帰国してきたのです。今民族の難局を統合することのできる一つの愛の種として認定させるのです。今日の民主と共産で戦うこの世界を消化することのできる、国家的出発起源となる一つの国の種を植えようとしているのです。 先生は今日の連続的な民主と共産の戦いをすべて消化することのできる未来の統一世界は、愛を中心として、天と地と世界が愛の伝統文明を通して老幼男女、過去、現在、未来、天上世界の霊人であってもすべての人たちが両手を挙げて歓迎することのできるものであり、そのような真の愛の分母を中心とする公的生活の世界版図を助成するために、このようなことをやっているのです。 先生の生涯を讃える以前に、皆さんは先生の伝統の歴史を受け継がなければなりません。皆さんが住んでいる家庭にこの伝統の根を下ろさなければなりません。皆さんが生活しているこの国に、南韓の地に伝統の根を下ろして、北韓を消化して、そこに枝を伸ばし繁殖させなければなりません。そこから新しい国を出発できるのです。戦わずに勝利するのです。先生はアメリカと戦いませんでした。打たれて奪ってきたのです。これが神の作戦なのです。ですからこのような戦法により、善は打たれて奪ってくるのです。善を打ったならば損害賠償を支払わなければなりません。そのようになっているのです。十の基準の人を打ったならば、その倍を支払わねばならないのです。レバレンド・ムーンは神からの使命を受け世界を治め、世界を指導する責任をもって来たのです。このレバレンド・ムーンの世界の価値基準ぐらいは支払わねばなりません。それにはサタン世界の全部を与えられたとしても足りないのです。 先生がダンベリーから出て来たその日から、西欧文明圏とアジアの文明圏の潮流が交差したのです。交差したこの潮流をアジアの韓国にもってきて、ここを中心として共産世界と自由世界が完全に一つになる種が蒔かれたのです。その根と幹と芽が連結できる道を整えなければなりません。そこから無限に、数知れないほどの民族が伸びていき、四十億の人類が一本の愛の共通なる木となり、世界の村々に神が臨在されて平和の世界となるのです。 先生は愛の公的生涯と、愛の公的世界観を打ち立てるために、誕生以来今まで、六十六年間、生涯を捧げてきた生活が公的生活であり、今や世界的に有名になったのです。これから大韓民国も先生の手が必要であり、アメリカ、日本、中国もみんな先生の手を必要とするようになりました。残っていることは教育です。 それでは結論を出しましょう。今日、私的生活圏、公的生活圏、私的に行く道、公的に行く道、これらを考える時、何を中心として生活すればいいのかというと、愛を中心として生活すれば、私的な生活もそれは公的になるのです。分かりますか。これほどおもしろいことはありません。今までは、愛といえば私的なものとしてすべてにサタンが作用したのに、今や愛を中心とした心と体が一つになった位置は、自分のために生きることが公的なことに通じるのです。それはなぜかといえば、愛がすべての力の接触分母となるからです。すべての作用の主体となるために、その相対的作用を経ればすべてが善なるものであり、すべて統一圏内に存在するのです。ですから自分の心と体が一つとなり、このような宇宙愛を土台とするとき、自分のために生きることもその生活自体が善なる結果をもたらしてくるのです。それ自体が公的な生活となるのです。そのように生活する人は、一人で生きていても天国に行けるのです。 個人が、このような愛の理想を中心として、父母兄弟と共に生きれば、堕落することはなくそのまま天国に行けるのです。人間は天国に行くために精誠を尽くして愛を知るようにはなっていないのです。愛というものは誰かが精誠を尽くして教えてくれるので知ることができるのではありません。人間が成熟すれば、男は男になったことを知り、女は女になったことを知るのです。教えてあげなくても自然に分かるようになっているのです。自然を見て学べるようになっているのです。学ばなくとも誰もがもつことのできる共同所有権となっているのが愛なのです。 堕落しなかった立場において、このような本然の勝利圏に立って、家庭をもてる神側の男性と女性が、愛を懐しく思いつつ、一人で生きていてもそれは私的生活ではなく、公的生活に通じるのです。分かりますか。そのような立場にあれば、どのような人に従っていても天国に行けるのです。 学問を愛し、そこに酔って生きたとしても、それが公的であれば愛と通じるのです。すべて自分の本心と精心を尽くして愛の軌道を見つけて動くとき、それは本郷に行ける資格ができるのです。本郷の倉庫に貯蔵される貴い物になるためには、この愛の論理以外にはあり得ません。このようになれば、サタンも他に足を下ろすことができないという結論になります。そこから、天国創建という言葉が生まれてくるのです。 先生は今、六十六歳です。これは創造数から考えると終わりなのです。サタンの数です。六十六数はサタンの長成期完成級の数です。蘇生、長成、完成級で堕落したので三段階圏のその圏に該当するのですから、サタン世界は統一教会を侵犯できる勢力圏が塞がれてしまいました。これからは統一教会の時代が訪れます。人があまりにも多くなるからです。 お母様も四十三歳です。それは婦人を中心としての新しい世界、カナン復帰のための受難の時代を越える数なのです。先生においても新しい時代へ越えていく数であり、お母様においても四十三数は妊娠して、子供を生んで苦労することから逃れるという数です。今年が先生の六十六数と、このように合うということは、蕩減復帰摂理史から見た時、すべてが数理的になっているということです。これから統一教会の信者たちは、愛を基盤とした心と体をもってすれば、いかなることをやっても天国に通じるのです。これ以上の公的なことはありません。分かりましたか? (はい!)。 愛するということは平安な道ではなく、苦難の多い道ですが、またおもしろい道なのです。苦難の道であることが貴く、やりがいのある道なのです。そのような意味から、この新年に皆さんは多くの恵みを受けてください。では祈祷しましょう。 愛するお父様、流れていく歴史時代において、私たちの立つべき所がいかなる所であるかを知りました。本然の愛を中心として、心と体が一つなり得ない悲痛なる歴史をもっていた、歴史時代の悲しい事情が、この境界線によって、あらゆる事縁がつづられてきたということを知りました。悲しみは人類ばかりではなく、主体であられるお父様であられたことをよく知っています。このような環境を収拾するのにどれほどお疲れになり、どれほど御苦労が多かったことでしょうか。 そうしているうちにも、この哀れな五〇〇〇年の歴史をもつ韓民族を捨てないで、この民族を中心として終日の歴史的な終着点を標準として、数多くの歴史的な宗教を興亡の道へと導きながら、この韓国を中心として思想的対峙線、宗教的対峙線により、全体が韓国を中心として方向転換するという宇宙史時代に臨みましたので、統一教会がなすべきことは、他の公的な道以外を取ってはなりません。神と人とが完全に愛を中心として一つになれるのであり、歴史的なすべてが一つの渦巻きとして、ここで渦巻いて、死亡圏を水の下へと取り除き、善の流れのみがこれから新しい基準に向かって悠々と流れる、理想世界が私たちに近づいてきていることを見つめながら、行く道がいかに苦しくとも、今日のみ旨を中心として愛を中心として、私が生きている生活のすべては公的なものと通じ、宇宙摂理史的理想郷、地上天国と天上天国を統括することのできる基本的な生命であることをはっきり知って、どうかこの道に酔い、この道に生き、この道で消えながら明日への希望に満ちた誇らしい神の国を受け継ぐことのできる後継者となれますように、祝福してくださることを懇切にお願い申し上げます。 残れるその国と、その世界に恥ずかしくない今日の姿勢を取って、勝利の天国に直行することのできる愛の王子、王女たちになれますように、祝福してください。許諾された日を感謝しながら、今日を祝賀する全世界の統一の群れを共に愛の園で抱いてくださることをお願い申し上げます。イーストガーデンにいる幼い子供たちも、父母様のために祈祷しているその場を神共に祝福してくださることを、すべてを真の父母のみ名を通し、祝願いたします。アーメン。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓
2022.01.01
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