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2022.01.08
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『第22回「神の日」の御言』

1989年1月1日


 神の救援摂理の秘訣

 きょうは二十二回目の「神の日」であり、また満二十一年目に当たる「神の日」でもあります。

 統一教会において四大名節をお祝いしていますが、最初は「父母の日」であり、次に「子女の日」、「万物の日」、「神の日」の順に定めたのです。既に私たちがよく知っているとおりです。

 ではなぜ、神の日が最初ではなく、父母の日が先でなければならなかったのでしょうか。子女の日が先でなければならなかったのでしょうか、万物の日が先でなければならなかったのでしょうか。このようなことを考えた時、これらの日々は本来一つの日でなければならなかったのです。一日でなければならなかったのです。神の日であると同時に父母の日であり、父母の日であると同時に子女の日であり、子女が生まれるべき日なのです。父母から子女が出発するのです。さらに万物の日は、子女が主管するべき環境的土台なのです。ですから父母によって因縁を結んだ子女、子女によって因縁を結んだ万物、これらは自動的に神に属するとともに、父母に属していたのです。このように父母の日や神の日という各々の日は一つになっていたのです。こういうことを考えてみたことがありますか。

 それではなぜ父母の日を初めに選び、次に子女の日、万物の日と決められたのでしょうか。こういう問題を考えた時、堕落は長成期完成級で起きたのであり、本来の父母となるために必要な七年路程を残した位置であったことを、皆さんは知らなければなりません。七年路程が残っているのです。

 三次七年路程。三掛ける七イコール二十一年間を考えてみた時に、七年間を残した年齢で人類始祖は堕落したのです。それを復帰するためにも、まず父母を復帰すべきなのです。そのためには堕落圏内で、サタンと戦わねばなりません。既にサタン世界が国家基準と世界基準を中心としているので、このような外的な攻撃、怨讐の版図圏内を中心として戦って、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的な勝利圏を築き上げなければなりません。そして サタン世界の主権者や、民族が愛するいかなる国家よりも、神様のみを愛することのできる中心存在となった時、これをアベル的人物というのです。 そのような中心存在によって個人が生まれてくるべきであり、次にその個人を中心とした家庭が出現しなければなりません。ですからこのような個人が現れる時には、サタン世界が全力を挙げて攻撃してくるのです。個人的中心存在は、必ずその個人の勝利的基盤の上に、家庭を探し求めていこうとすることを知っているので、サタン世界は次に家庭を破壊するためのあらゆる工作をするのです。今日まで統一教会が家庭を破壊するという悪名を残したのは、このためなのです。

 さて、サタン世界においても家庭、氏族、民族、国家が横的に連結すれば世界となります。そして、今日までサタンは世界的に神に反対して、すべて一体化することに反対してきました。個人的にも、家庭的にも、氏族的、民族的、国家的にも妨害してきたのです。そして宗教の行く道に、全面的に反対して宗教の生死権を奪ってきたのが、その時代の外的世界の国家主権だったのです。ですから、すべての宗教の指導者たちが受けた迫害の矢は、個人の矢、家庭の矢、氏族の矢、民族の矢と、すべてに国の主権と法を中心として打ってきたのです。このように、戦いの背後には必ず国家があったのです。イエス様が死ぬようになったのも、ある個人や家庭が殺したのではありません。ピラトの法廷を中心とする国家の力によって殺されたのです。

 このようにサタンは、常に自分の勢力基盤をもって、まず個人的に四方八方において反対させているのです。それでも阻止できない時には家庭で反対するのです。その家庭を動員してもできない場合には、氏族が合わさって反対するのです。それでもできなかったら、民族が動員されて国の力を借りて反対して破綻させてきたのが、今日までサタン世界が利用してきた宗教世界に対する戦法でした。ですから、国家的基準をどのようにして越えるかということが、神の救援摂理の秘訣なのです。国家的基準を越えて、国家的勝利を成して、次の世界の勝利は、四方から攻撃してくるサタンの国家的基準を倒すことができれば、一度に時代を変えてしまえるのです。統一教会でいうところのカイン・アベル長子圏復帰の基準が立つのです。

 そこにおいて、仕方なしに主権者も次子の立場に立ち、神の主権者が長子の立場に立って、歴史時代において神側に反対してきたすべての基準を神が占めて、サタン世界を一時に改革することができるのです。それが神とサタンを中心とした戦争、戦法となっているのです。

 また、個人を中心として見た時に、いかなる人であってもそのような戦いを経るのです。それぞれ個人においても戦うべき、個人的サタンの舞台がないとすれば、家庭はあり得ません。個人が合わさったのが家庭なのです。このように考えた時、家庭的サタンの舞台がなければ氏族的サタン舞台がないというのです。また、氏族的サタンの舞台がなければ、国家的なサタンの舞台もないという結論が出てきます。 問題は、個人の背後にある神に反対する攻撃的なサタンの舞台が何であるかということです。それが心と体なのです。心は神の縦的、父母の立場にあります。もし人間が堕落していなければ、その心は理想的真の父母の立場に連なり、アダムとエバは横的な父母の立場に立って、愛で結ぶことのできる血統的因縁を相続する人間として一なる本性的縦的な血統を受け継いで生まれ、常に縦的基準につながっていたのです。それが心だったのです。



 しかし、縦的な心の命令に対して今日、体の角度が一致しないのです。縦的な心の命令は九十度の角度を通して一〇〇パーセントの効力を現すことができるにもかかわらず、人間が堕落したことによってその角度が縦的な基準の前に九十度にならなければならないのですが、ある者は二十度、三十度、あるいは六十度、七十度であり、ある者は欲心が多くて世界の分度器を超越してしまって一〇〇度、一一五度にもなっているのです。そのように角度の違うあらゆる人間でも、垂直の心をもっているので自分の体を九十度に合わせなければならないのです。そして人間のみが、三六〇度の方向に対峙できる立場に立っているのです。しかし各々が違う立場の角度をもっているので、垂直な心が自由に往来できないのです。

 血 統

 さらに重要な問題は血統です。血筋の問題なのです。皆さんたちの先祖は誰ですか? これは何のことかというと、皆さんの種はどのような種なのかということです。歴史というものは、伝統の根本を掘り起こして、今日の人間を分別するために使用する言葉です。血筋は神様なのですが、その神様は無形なる存在です。無形なる神様と有形なる世界がいかにして結合するのかという、このような問題を考えた時、これは理論的にも難しいことです。ある有形なものが母体となって、霊的な部分の自分と肉的な部分の自分を結んでいるのです。では霊的な父母と肉的な父母、霊的な神と実体的な私たち人類の最初の堕落していない父母とは、何を中心として結ばれるべきでしょうか。それは縦横が必ず一致しなければならないものです。では何を通して縦横が一つになるのかというと、これが先ほど話した真の愛という最短距離によるものです。この最短距離を通過するものです。このように見た時、天上におられる神様がこの地上に訪ねてくる最短距離が何かというと、この垂直の位置なのです。それでこの垂直の位置が、全存在の安定点の標準の中心になるのです。中心標的になるのです。ですからまず、垂直に合わせなければなりません。先に、平面に合わせるのではありません。まず、垂直を合わせてから次に平面を合わせるのです。いくら平面が合うとしても、先に垂直に合わせなければなりません。

 垂直は一つです。体と一つです。そこで見えない無形なる神様が人間といかにして結ばれるか、その中心点が何かという、この問題を今日の人間は考えられないのです。皆さん、このような話を聞いたことありますか。無形の神様と有形の人間が何を中心として連結するのか、いかなる橋を通して連絡を取るのかというこの問題を考えられないのです。それはお金でも、知識でも、権力でもありません。また美女の美しさでもなく、その人の年齢が問題でもありません。この世界は時差を超越した世界なのです。

 ある有機性の星があれば、その星の軌道に従って、数十年、数百年の星もあるのです。さらに一周が数十年という星もあります。ですから今日人間が一年として数えるその日々は、太陽系を回る地球星の一年を標準にしたものですが、私たちの基準は地球星が毎日不変の軌道を巡回しているので、その圏内に現れる時空によるものなのです。これは既に私たちがよく知っていることです。無形世界とはその時空を超越したもので、そこには昼も夜もありません。地球星はぐるぐる回るのですが、神様を中心として永遠なのです。それで夜があり昼があるのです。そして永遠なのです。皆さんが霊界に行ってみれば、広大無辺であり、限りのない世界です。そこは円形的な形を無限に拡大したものです。そのような世界が、何を中心として今日の人間の世界と連結できるかという問題を考えた時、そこには真の愛しかありません。共産主義者が唯物論でもって見ても愛は見えないし、「神も見えないのでこれは観念的な存在である」と言っていますが、しかしそのような神様がいかにして実体的世界において作用をするのかということの説明ができないでいるのです。

「神」という名も無形世界も観念であり、「愛」というのも観念です。見えないのです。誰か愛に触ってみたことがありますか。愛を見たことがありますか。愛は丸いものなのか、角張っているものなのか分かりますか。愛は、丸いといえばそれ以上に丸いものがないものです。愛は観念的なものです。しかしこの観念的な無形的その存在が、実質的な生活に絶対的力をもっているのです。これが正論です。現実的な人間のすべての生活の中において、歴史的にも力をもっているのです。それは友愛であったり、同胞愛であったり、さらに民族愛、世界愛、天地愛なのです。これらの愛を見たことがありますか。愛は観念的な名詞ですが、実際の生活においては、その観念が問題なのです。見えない世界の内的な力を拡大し、これを延長した歴史性があるからです。それは水平だけではなく、球形の中にも無限に通じるものなのです。

 では、実体の権力の世界と連結できる可能性のあるものとは何でしょうか。それが愛であるということを、推理的論理からも結論を下すことができるのです。共産主義世界では愛は何だと言っていますか。愛は観念的、哲学的な名詞であり、見えないのです。触ることも説明することもできません。しかし愛は観念世界のすべてを超えて、私たちの実体世界の最初から存在し、人間の一生の路程、すべての歴史を通して、千年、万年と、いついかなる時にも、愛を取り除いた人生の行路はあり得ないという事実を見た時、愛はその方向を指して動く骨髄のようなものであるということを私たちは否定できないのです。愛し合う男性と女性が互いに目と目を合わせるといっても、先に目だけが行くのではありません。目と共に体全体が歩調を合わせ動き出し、目よりも先に足が動くのです。そうですか、どうですか? (そうです)。それはなぜかといえば、目でも舌でも、全体が自然に一つの統一されたものとしてのある力をもっているからです。

 もし地球に愛があるとすれば、地球がその相対を愛そうとすれば、その主体や対象を探していく時に、地球の目だけが先に行くでしょうか。地球全体が一つになって行くでしょうか。どうですか。それは地球全体が一つになって行かなければならないのです。この宇宙に愛というものがあれば、この宇宙が愛を好む主体であるとすれば、愛の目があり、愛の手があり、愛の五官があって、愛の対象を訪ねていく時、目だけが先に行くのでしょうか、それとも五官全体が一つの焦点に合わせて行くのでしょうか。心と体が一つになって、その対象にぶつかって行かなければなりません。その時、その速度はいかに早いことでしょうか。愛の速度と稲光の速度とはどちらが早いでしょうか。また、愛でもってささやく力と稲光が発する力とはどちらが強いでしょうか? (愛です)。なぜですか。二人が真の愛によって出会って、心と体が興奮して話す時には、他の話は何も聞こえません。雷が落ちる音よりも愛のささやきのほうが強いというのです。

 このように愛は絶対的な能力をもっているのです。さらにまた愛国心が燃え上がるようになれば、その国の国民全体が立ち上がるというのです。このように国民を燃え立たせ、世界を燃え立たせて、一つの目的に向かって総動員の命令を下すことのできるのは知識でもありません。もし知識でもって成すならば、比較するのみです。知識は良いか悪いか、すべてを比較するのです。愛は比較するのではなく、統合する力です。愛は味見するのではなく、口に入るや否や、のみ込んでしまうものです。愛は味わってからのみ込むものではありません。

 では、愛は霊界において必要のないものでしょうか。人間世界においてのみ必要なものでしょうか。愛は両方で必要とするものです。愛をもって両方の世界を引っ張る時、霊界と肉界が引っ張られるのであり、可能性を追求できるのです。そうでしょう。神と霊界に通じる理想的な女性がおり、また神とこの地上に通じる理想的な男性がいるとすれば、真の愛の棒は霊界の端から地上の端まであり、これを引っ張れば、愛を好むすべてが引っ張られてくるのです。そしてぐるぐる回るのです。

 真の愛による往来

 私は昨日テレビでサーカスを見ましたが、どんな曲芸であっても人間にはできないことはありません。もし人間にできないことがあるとすれば、神様にもできないということになるのです。それはなぜかといえば、神様は関心をもたないことの訓練などなさらないからです。皆さんはいろんなことができますか。もちろんできると思いますが、神様も思いを集中させなければできないのです。しかし訓練しておけば集中しなくてもピタリと合うのです。このように見た時、皆さんは立派な統一教会の人たちなので、先生は訓練を間違ったのかと思いました。(笑い) 空中のブランコに乗って、棒をつかまえて降下しなさいと言えば、降下しますか。そんな自信がありますか、どうですか。しかし、相手が飛んで来たら調子を合わせ、サッと一つになれば、正に神技です。そこに、すべての人々が惜しみない拍手を贈るのです。

 霊界においても愛が必要だとすれば、その愛の力でもって、サタン世界のすべてに地上の生活で影響を与えるならば、神様をその愛の棒の先端に結んで、文総裁も先端に結んで引っ張ろうとすれば、文総裁は引っ張られていくでしょうか、どうでしょうか? (引っ張られていきません)。引っ張られていけば気持ちがいいでしょうか。中央の垂直棒が引っ張られていくならば、(先生がしぐさされる)これをどんどん下げなければなりません。それでこの位置に下りてくるのです。そこで自分の位置を譲歩しようとして、仕方がなく曲がるようになるでしょう。これをどこまで引っ張っていくことができるのかというと、これを二つ合わせた長さです。

 では、(先生がしぐさされる)あちらに行くべきものが、足でけったらどうなるでしょうか。弾丸のように直線に進んで、このように曲がってくるので半弦になるのです。では、男性もこれを引っ張り、女性もこれを引っ張るのですが、女性と男性が二人で一緒に引っ張り合えば、いつも女性が負けるようになるのです。一〇〇人中一〇〇人、女性は弱いのです。これでは気持ちが悪くなります。それで男性はあちらで、女性はこのようにするのです(先生がしぐさされる)。それでどうなるかというと、男性は長く引っ張るので、垂直線も曲がってくるのです。そうではありませんか。ひもで結わえて九十度に引っ張るのです。男性と女性で引っ張るのです。男性は力が強いので垂直線がこのようになるでしょう(先生がしぐさされる)。そうなったらどうなりますか。それは合わないのです。そこで女性は「下げて、下げて」と言うのです。ではそれを下げるのには、意地の悪い心があったらできません。下げてあげたい心はどこから出てくるのかというと、お金から出てくるのでしょうか。知識から出てくるのでしょうか。「女よ! あなたよりも私のほうがより多くのことを知っているのです。私の部下になり、屈服しなければなりません」。このような考えが知識の観です。また「この女よ! 私はお金持ちなので、あなたは乞食のように屈服しなければなりません」。また権力者も、「この女よ! あなたは私の前にひれ伏さなければなりません」と、上から押しつぶそうとするのです。そこで横から動かすのです。では何がそうさせるのでしょうか。それが愛なのです。このような真の愛は何かというと、いかに思いのままに引っ張っても常に垂直であり、男性と女性を一つに合わせることのできるものです。時が至ればぴったり合わせることができるそのような所に、真の愛が往来するというのです。



 しかしこの世では、自分の父母や兄弟を愛していますね。ですからある人は「お兄さん!」と死ぬ時には言うのです。それはなぜかというと、愛の主体的立場に立って、国を越えて霊界を越えて、若い青春時代から一生をために生きる愛の因縁によるのです。ですからその人の所に行って頼りたいし、共に生きたいし、共に抱き合いたいというのが、私たち人間の心情です。それで男性も女性も必然的に愛が必要になるのです。

 きょうは「神の日」です。神の日について知る前に、まず神様はどのような方なのかということを知らなければ、神の日を迎えて神に侍ることができないのです。それでこのような話をするのです。分かりますか。

 この肉界も霊界も、愛に従って動いているのです。そのようなる天的な縦的愛の主軸を中心として引っ張られた二人は、自分から自動的に拍車をかけることはできません。皆さんは毎朝、天気予報を聞いていますか。高気圧圏がどうだとか、低気圧圏がどうだとか解説をしていますね。同様に、高気圧圏によって低気圧が引っ張られる愛の世界なのです。ですから、人間世界にも愛の低気圧圏が生じることがあるのです。一人で生きている女性はいくらおとなしそうに見えても、別れた夫を思い出す世界があるのです。一人で生活しているおばさん、とても夫を思い出す時があるでしょう?(はい)。そうですね。それが愛の低気圧地帯なのです。このようになったら涙の泉がわくのです。男性も同様です。愛の低気圧時代があって、愛の高気圧時代が訪れるのです。その低気圧と高気圧が何かというと、それが相対関係なのです。最上まで上がっていき乾くようになり、宇宙は回るのが法度であり、それ以上は上がれないのです。理論的にそうなっているのです。これ以上に上がっていくようになると、存在の価値がなくなるので循環するのです。循環の軌道の上で、存在や状態、すべての現象が維持されるのです。例えば低気圧圏が高気圧圏に、「ああ、来なさい。来なさい」と呼ぶのを聞いたことがありますか。呼ばなくても時が満ちるようになれば、自動的に高気圧圏は訪ねていくのです。このように上がっていったならば、(先生がしぐさされる)このようにぐるっと回って訪ねていくのです。道を回って訪ねていくのでなく、方向を合わせてその道を前進していくのです。

 愛し合う同士が出会って愛する時には、お互いがその中心を回りながら行動するのです。先生のこのような理法を中心として見た時、すべての世の流れが明らかになります。その人の動作を見てどのような人かがすべて分かるのです。その人の力の入れ方を見て、どういう御飯を食べたのか、みんな分かるのです。

 情の方向性が愛

 神様が一番好まれるものは何でしょうか? それはマンドゥクック(水ギョウザ)です。先生はマンドゥクックを食べたでしょうか。雑煮を食べたでしょうか。神様が好まれるものは何でしょうか。そのような神様が王の服を着て宝座に座られて、「この万民たちよ! かわいそうなこの万民たちよ! お前たちは私に仕えよ」と命令するでしょうか? (いいえ)。では、神様も笑われる時があるでしょうか、ないでしょうか? (あります)。それでは神様が泣かれる時はあるでしょうか、ないでしょうか? では、神様を笑わせるものは何でしょうか。お金ですか? お金はいつでもできます。ダイヤモンドですか。ダイヤモンドもいつでもできます。地球星ぐらいのダイヤモンドを神様に差し上げれば、「ああ、正に六〇〇〇年間、私が願っていたものがここにあるのだ。すべてに万事がOKだ」と、神様はおっしゃるでしょうか。神様にはそれらはすぐにでもつくれるものなのです。では、知識でしょうか。神様は無識者でしょうか。知識者でしょうか? 知識者という言葉は、無識者の反対の言葉なのですが、神様は知識者ですか、無識者ですか? 神様は知識の王様であられます。今日人間たちは誘導弾を造ったりしますが、こういう高速のものは途中で燃え尽きないように、海中の魚の形をまねて造ったのです。例えばツナなどを見ると完全にそうです。またジェット機のようなものも、すべて鯨や鮫の形をまねて流線型になっているのです。そういう魚を見て学んだのです。また、お膳の脚などは何をまねたかというと、鳥の足をよく見てみなさい。それは実に素晴らしい美しい足なのです。いかに芸術的なことでしょうか。また女性を見てみなさい。その曲線が非常に美しいのです。それはいかなる画家であっても描くことができないほどです。静と動のその妙は表現することができないほどです。そのような曲線美をもっているのです。

 皆さんは一生の間に一度神様を笑わせてみたいですか、みたくないですか? (笑わせてみたいです)。笑わせてみたいだけでなく、泣かせてみたくはありませんか? (喜ばせたいです)。なぜそのように落第の答えをするのですか。だから悪口を言われるのですよ。神様を喜ばせることだけ知って、神様を泣かせることを知らないそういう人と、神様を喜ばせ泣かせることも知っている人とどちらが素晴らしい人でしょうか。上がっていく時にも、次に下っていくことを考えると涙が出るのです。すべて悲しいから泣くのではありません。喜びが満ちあふれたら出てくるものが涙なのです。それは悲しみの副作用の悪なる水が入っている涙ではありません。それは飲んでも害になりません。あまりにも悔しくて流す涙には毒が入っているのです。そういう毒が入っている涙を飲むといろんな病気になるのです。先生はそのように思います。どうですか。先生の話は正しいか、間違いか一度試してみなさい。



 そこに愛の電線を通せば、明るい火が灯ることでしょう。その愛は若者よりももっと純情なのです。それは何百ボルト、何百ワットにもなります。分かりますか。交流電気は上がったり、下がったりしているのです。三相現象になるのです。しかし、年を取ったおじいさんたちは直流の愛です。始めから終わりまで同じ直流で、変わることなく流れていくのです。おじいさん、おばあさんの愛は直流の愛なのですが、若い人々の愛は交流の愛なのです。一時に高くなったり、低くなったりします。一度好きになって喜ばせてもすぐに、「さようなら」と言ってすべて忘れて、自分の家に帰っていくのです。しかしおじいさん、おばあさんのその胸の中には、いつまでも愛の火が燃えているのです。千年万年行ったり来たりしながら生きるのです。ですから直流の愛なのです。皆さんはどちらのほうが好きですか? (直流の愛です)。ですから無形の善なる神様がこの地上に現れるとすれば、それは金でも、知識でも、権力でもないのです。

 では、この文総裁とはいかなる人でしょうか。多くの人々から悪口を言われていますが、この私のために命をささげようとする人々も多いのです。ここで命をささげようと思っている人は一度手を挙げてみなさい。先生は目を閉じています。「ああ! それは本当ですか?」。この世は偽物の世であり、うその世であるのに本当に信じられるでしょうか。一度、死刑場をつくってみてはどうでしょうか。本物の人を選ぶために一度そういう試験をしてみます。まず飛行機に乗るのです。そして私たち全員が太平洋の上空で、みんなが見ている所で行うのです。「あと何分すれば死ぬのだ」と時間を定めて、みんなの気持ちを確めるのです。あと五分ほどになった時、「みんな死ぬ準備をしましたか?」と言えば、目をパチパチさせて、「ああ、大変だ! ああ、大変だ! 」と。これで本者と偽者がはっきり分別できるのです。先生はそういうことを研究しているのです。統一教会の本者と偽者は誰かと。では、この文先生のためになぜ死のうとするのでしょうか。先生はその匂いが少し違うのです。何の匂いでしょうか。愛の匂いです。香水の香りに千、万の種類があっても、愛の良い香りが一つあれば雑多な匂いはすべて足の下にしてしまうのです。

 このような先生の話を聞いていると、おもしろい話が多いのです。おじいさんであっても、おばあさんであっても、先生はすぐに友達になるのです。先生はおばあさんたちにも、一年十二カ月毎日続けて話をすることができるのです。どんな人の奥座敷にも入って、主人の役ができる能力ももっている先生なのです。すべてに愛をもって行うのです。愛が恋しくて集まった者たちがこの統一教会の群れなのです。何を中心として愛すべきなのかというと、神様の愛と父母の愛を中心としなければなりません。そのような愛をもって統一するのです。では何のために統一するのでしょうか。統一したその人々の幸福のためではなく、統一は不幸な人々を解放するためなのです。そのように愛を広げるためです。広げなければ、愛は戻ってこないのです。世界まで行けば、この愛は再び戻ってくるのです。電気の世界におけるように、愛する人がいる所まで行けば、次に愛する相対を探して帰ってこなければならないのです。本然の位置へ帰ってこなければならないのです。これが愛が往来することの理論です。循環法則と同じ軌道に沿って動くのです。

 神様の愛とは取り替えられない

 もう一時間たちましたね。お母様が三十分間だけ話をするようにとのことですので、これでやめなければなりません。(笑い) もっと話せというのですか、もうやめましょうか。先生は一睡もしていません。今朝お母様が御飯をもってきたのが、八時二十分だったのです。「食事をしたあとに少し休みなさい」と言うのですが、先生は習慣になっているので眠れませんでした。今が昼なのか夜なのか、体が言うことを聞かないのです。昼に眠ることはできません。リズムが合わないのです。寝返りばかり打って眠れませんでした。自分が怨讐だなあと思うほどに、少し眠らせてくれればいいのに眠れないのです。仕方がなくて少し按摩をしてもらいました。肩をもんでもらいました。それで少し楽になったのです。誰か按摩のできる人がいますか? 先生の肩を一度触ってみてください。

 神様を感動させる男性がいるならばどれほどよいことでしょうか。そのような男性と女性が競争するならば、何の競争においてチャンピオンシップを決定するというのでしょうか。それは何でしょうか。神様を握る競争をするならば、何をもって神様を握るのでしょうか。他でもなく、愛のひもをもってすれば、いくらでも神様を固く縛りつけることができるのです。分かりましたか? (はい)。いくら固く縛りつけても、そのひもは自然に解けるのです。愛とは「ためにする」愛なので、いくら縛っておいても、一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間とたたないうちに縛った人が解きに来るのです。その時にはひもの跡がついていると、その跡を擦りながら泣くのです。そのような千年の深い事情のゆえに、そこにおいても喜びがあるのです。ですから愛は良いものです。神様もそれがお分かりなので、いくら固く縛られていてもそのまま黙っておられるのです。さあ、皆さんは統一教会の文先生を一度愛で固く縛ってみますか。少しも身じろぎできないように、どんなに四肢を強く縛りつけられても先生は安心です。しかし、それを信じることのできる統一教会の信者が何人いるでしょうか。

 それでは、神様が一番好まれるものは何でしょうか。それはお金でもありません。皆さんが一番喜ぶものは何ですか? (愛です)。どういう愛ですか? (真の愛です)。それが問題なのです。皆さんは何を喜びますか、お金ですか。お金と神様を取り替えることはできません。知識も神様とは取り替えられません。権力でも駄目です。または、この三つ以外のいかなるものをもってしても、神様とは取り替えることができません。神様も神様の愛とは取り替えることができません。神様を取り替えることができたとしても、神様の愛は取り替えることができないのです。何の話か分かりますか。たとえ一番好きな人だといっても、一番好きなその人を永遠に迎えることはできないのです。けれどもその人に素晴らしい愛があるならば、いつまでも生活を共にしても疲れないというのです。もし、先生が皆さんの家庭を訪ねていって、一週間いようとするのに「もっと一年間いてください」と引き止めますか。それとも引き止めないほうがいいですか。一度聞いてみましょうか。どんなにむさ苦しい所でも先生はその家に行きますよ。先生は監獄に入った時、糞尿を浴びても生きてきたのです。そういう訓練を受けてチャンピオンになった先生なのです。先生の知らないことはもはや何もありません。いかなる踊りも全部知っています。それで、統一教会の信者はそれなりに暮らしているでしょう。ひさごを伏せておいてその中に入って暮らしても、先生が好きだと言うのですね。好きだと言うので一度訪ねていったとして、いったい何の罪になるでしょうか。食べ物がなければ先生が昼御飯を買ってきてあげますよ。着るものがなければ服を買ってあげますよ。それは嫌いですか。とても粗末な家であったら家も買ってあげるかもしれないのに、嫌ですか?

 文総裁はお金も卒業した人です。お金があっても生きられるし、なくても生きられるのです。先生には、うらやましいものは何もありません。私は学者たちであっても主管しているのです。それも世界的なのです。先生が「来なさい」と言えば、尹博士もアメリカに行く途中からでもサンフランシスコの地も踏まずにそのまま帰ってくるのです。どんな博士や総長たちも先生が何か話をすれば、もはやそれらの人々は話せなくなるのです。彼らは専門分野の三〇パーセントしか知りません。先生が何か尋ねても、いくつか答えて、それですべて終わりなのです。この先生は四方膨大なのです。労働者が何の御飯を食べるとどうなるかということもすべて知っています。すべてに精通しているのです。それをどうして学んだかというと、すべて体験したのです。ですから先生にはできないことがありません。田舎に行くと畑の草取りもできます。田んぼを耕すこともできます。先生にはできないことがないのです。先生は最高の農民であり、最高の労働者です。ですからお金のことなど関与しないのです。お金がなくとも、一カ月間で一年間生活できるくらいのお金はどこに行ってもつくれます。

 知識も問題ありません。神様についての知識でも私以上の人はいません。霊界についても未来世界についても、私以上に知識のある人はいません。霊界がどうなっているかすべて分かるのです。アメリカの霊通人協会の会長で、アサボスという人がいます。彼は西欧社会においては有名な人です。ヨーロッパからの問い合わせにも、相手の運命を判断して電話で答えるような人です。そこへ見すぼらしい韓国人として先生が訪ねていったのです。すると先生がどういう人なのかについて証をするのです。そして、「モーセが神からの愛を受けて、その光明があまりにも明るく輝くので、全体がびっくりして倒れる時と同じように、文先生がここに臨在されたので私は靴を脱いで敬拝しなければならない」と言うのです。こういうことは誰にでも話せることではありません。小学校の卒業生に対し専門の高等数学を教えても分からないのです。それだから先生は問題の人物なのです。

 十二支派の編成

 お母様が時間が長くなったことを合図していますが、正月の一日に、楽しい話をして少し時間を超過してもいいでしょうか? (はい)。これくらいにしてやめたほうがいいでしょうか? (いいえ)。きょうの話の題目の内容は簡単なことです。一分間あれば話せる骨子なのです。それだけ話して終わってしまえば、その人は話下手なのです。しかし、一日中、三六五日話し続けても喜びで尽きない先生なのです。先生はワンマンショーでも、中、高等学校の時にチャンピオンでした。(笑い) 先生が通う学校で、学園祭があるとよく出場して、後輩と一緒に思い切り踊りました。そういう先生だったので、今日統一教会の教主を務めることができるのです。教主を務めるということは易しいことではありません。それを七十年も務めてきたのです。このように七十年も務めてきた先生を追い出そうとする人は一人もいません。分かりましたか。神様が喜ばれる、また神様が悲しまれるその道に付いていける何かが一つあるならば、それは愛しかないというこの事実が分かりましたか? (はい)。神様がそういう方でいらっしゃるということが分かりましたか? (はい)。

 さて、きょうは神の日です。神の日ということについて先ほども話したように、人間始祖が堕落したゆえに、父母の日、子女の日、万物の日などこういう日が必要になったのです。本来は神の日でもあり、また子女の日なのです。そうでしょう? 息子、娘の日がお母さん、お父さんの日でもあり、またそこにおいては、万物も褒めたたえることのできる子女の日が芽生えているのです。さらに子女の日の前に、新たに芽生えているのが万物の日です。そのように愛の中に結ばれた一つの連体現象なのです。

 先生の髪の毛は、先生に似ているでしょうか、似ていないでしょうか? (似ています)。そうです、似ているのです。髪の毛を見ると何もないようですが、大切な関係があるのです。それですべての万物も、自分なりの愛の表示体として精誠をささげているのです。花も音楽を聞かせて、情緒的な環境をつくってやれば円満な花を咲かせるのです。そのようなつぼみを結ぶのです。鶏などを飼う時にもよく音楽を聞かせるでしょう。そうすれば良い卵が生まれるというのです。このようにすべての相対的な周辺の環境と歩調を合わせ、和合した環境の中で育つようになる時には傾かないのですが、四方に和合できないまま育つようになる時にはいびつになってしまうのです。

 この先生は、たくさん監獄生活もしたし、たくさん悪口も言われましたが、あまり苦労した人のようには見えないでしょう。いつも生き生きしているでしょう? (はい)。先生のそういうところに皆さんも少しは似てもいいですね。また、先生には若いころからできない運動などありません。ある時はボクシングが好きになって、一度あまりにも力を込めて打ってみると、家が壊れたのです。今もそうです。先生の話を聞かない者がいると、「エィー!」と転がしてしまいます。皆さんも護身術を習わなければなりません。分かりましたか? (はい)。そういう訓練をしてきたので、先生の全身が自然に動くのです。手足のこわばることもなく、全身の動かないところはないのです。手足がピッタリ合うのです。体格もいいのです。ありがたいですね。(拍手)

 きょうは元旦です。先生は餅を食べてきたのに、皆さんに餅を買って上げることができなくて申し訳ないですね。(笑い) 父母の日を思うたびに、子女の日が恋しくならなければなりません。復帰路程がそういうことになっているからです。 長成期の完成級で人類始祖が堕落したゆえに、その位置において、父母の日を定めたのです。それはまだ子女と父母と万物が堕落圏内の攻撃を受けている時でした。そこで統一教会の祝福聖礼式を行いましたが、その聖礼式は教会内での聖礼式であって、国家の聖礼式ではなく、世界の聖礼式でもなかったのです。それゆえ、祝福も教会の祝福、国家の祝福、世界の祝福を受けなければなりません。さらに天国に行って、永遠なる祝福を得ないと本然の世界に入る道がないということを知らなければなりません。皆さんが統一教会の祝福を受ける時、こっそりと先生に分からないように受けたとしてもそれは通りません。国の祝福を経てこそ、すべての歴史に連結できるのです。このような道があるのです。

 これから皆さんは、世界祝福を通過しなければなりません。 そして天上に行って大入籍式を挙げて、十二支派の編成を成すのです。それは真の父母が神様を中心として、天国のみ座の位置を定めてこそ、すべての万民の席順が定まるのです。国家においても、新しい内閣の編成が発表される時には、その時は既にすべての閣僚が決定されているのです。それを発表することを通して公表するのです。その国家指導者は、それぞれの閣僚に対して既に何十年も前から何をやらせようかと考えているのです。すべてにそのような経過があって、決定された編成の発表なのです。それも発表されて初めて分かるのです。同様に将来、世界統一国ができた時、そういう現象が起こった時にこのみ言が分かるのです。それ以前には誰にも分からないのです。しかし、知る人のみ知るというのです。

 負債を残さない生活

 私が君たちの父親であればどうするでしょうか。君たちを学校に行かせるためにこのような姿になったのです。そういう父親に対してどうすればいいのでしょうか。また、君たちの兄が君たちのために犠牲になって、君たちを学校に送るために苦労してきたのにどうするつもりですか。ですから先生は、統一教会の青年たちが三十歳になるまでは助けてあげないのです。どんなに苦労しても、三十歳を越えるまでは頑張りなさい。

 先生の指導に従って、先生の家門の伝統を引き継ぐ息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘になってこそ、先生の後継者として天国を引き継ぐことができるのです。そのように天国を引き継ぐことができれば、すべての人々が諸手を挙げて、東西南北から頭を下げて感謝して、「千年、万年長生きしてください」と祝福を受けるような道を残すことができるようになるのです。なのにこの者たち! 何ですか。この中で三十歳未満の若者は手を挙げなさい。何の話か分かりましたか? (はい)。

 正月には縁起物のくまでを売る商売もあるでしょう。それもやってみなさい。新聞配達などもやってみなさい。先生はすべてにやらなかったことはありません。ですから先生はアメリカなどいかなる国に行ったとしても、すべてについて教えてあげることができるのです。「こうこうするのです」と。すべてに先生が教えてきたのです。日本においても多くの基盤をつくってあげました。今やその世界において恐れられるようになっているのです。ですから先生はここにこうして座っていながらも、命令一つで多くの万物も短期間の内に集まってくるのです。それだからといって、先生は常にそのように命令ばかりするのではありません。先生は万物のために生きるのではありません。先生は万物を集めて国のために用いるし、世界のために使うので、そういう命令をすることができるのですが、自分のために命令することはありません。

 レバレンド・ムーンは、自分に対し一番のけちん坊であり、守銭奴です。先生の子供たちに対してもです。物心がつくようになって、「幼い時に満腹であったら、三十歳を越えてはいけません」と、きっぱりと命令をするのです。「孝進(様)、何の話か分かりましたか?」。子供たちをそのように教育してはいけません。今は先生も黙っています。アメリカの環境がそうなので、仕方がありません。ハンバーグを食べて育ったので、御飯が嫌なのですね。それを知っているので仕方なくそうするのですが、御飯とパンを共に食べることができなければなりません。アメリカにいると先生は忙しいので、全国を巡回するためには、一日に何百万マイルを走るのです。リンカーン・リムジンに乗って走ります。このようなリムジンに乗っている人々は、中国の一級料理の店か、日本の高い寿司屋に入って食事をするべきなのです。それがそのような立場にいる人々の社会的常識なのです。しかし、先生は昼食をするのにどこに行くかというと、リムジンに乗っていつもマクドナルド・ハンバーガーの店なのです。そして五分以内に食べ終わるのです。みんなが私に注目して、「あのようなリムジンに乗ってきた人はどういう方なのだろうか、なぜこのような私たちが入って食べるマクドナルドの店に来て食べるのかなあ?」と言うのです。先生の行く道は忙しいのです。時間が惜しいのです。み旨のためには時間が必要なのです。その時間を得るためには、一番速い昼食の方法を取っているのです。それでマクドナルドの本店からは、「レバレンド・ムーンが自分たちの客になった。統一教会が自分たちの客になった」と思って、お正月になると、プレゼントを送ってくるのです。

 このように、先生は自分に対しては何と言いましょうか、まるで守銭奴のようなのです。今でも、家にいる時は下着が汗にぬれても、さっと掛けて乾かして、夕方もう一度着るのです。それで体が腐ることはありません。夕方また汗を流せば、お風呂に入ればいいのです。その数時間も我慢できないのですか。先生がぬれた服を掛けておいて乾くのを待っていると、お母様が来て「洗濯します」と言って、持っていこうとするのです。それも妻として当然のことであり、仕方がないのだと私は思うのですが、だからといって洗濯をさせることもできません。洗濯は簡単ではないです。そこでタオルを使うようにしたのですが、先生はお風呂場でも、ホテルでも、大きいタオルを使ったことがありません。いつも小さいタオルを使うのです。それが節約です。分かりますか。便所に入ってちり紙を使う時も、二巻きにして節約をしなければなりません。必要以上に使わないのです。それも国のためです。霊界から、「統一教会の教祖がなぜあのようにするのか」と眺めているのです。神様が見ておられるし、霊界の先祖たちが見ているし、多くの霊界の聖賢、聖哲たちが、今もそばで見ているのにどうして自分勝手にすることができるでしょうか? できません。ですから、先生には何一つ恥ずべきことはありません。国に対しても、誰が何と言っても恥じることはありません。世界のどの国に行っても先生は恥じることはありません。その国に負債を残して回る先生ではありません。ですから神様が、世界の五十億の人類を御覧になられて、その結果、この私を用いる価値があると決定されたので登用しているのです。神様の登用はいつまでも続くと思いますか、どうですか。もう終わる時になりましたか、まだ継続しなければなりませんか?

 皆さんはいつも先生をこき使って、今でも先生を削り取って食べて生きているではありませんか。先生に負債を残して生きているのですね。それはいけないことです。負債を残して生きる人はその僕になるのです。反対に負債を負わせて生きる人が主人になるのです。この鉄則は歴史的真理です。それゆえに私は負債を残しては生きません。これだけは間違いないことです。神様はそういう人が好きなのです。創世記にあるように神様は、すべての人類と万物世界を創造しましたが、神様は負債を残したことはありません。神様は今日まで負債を負わせて生きてこられたので偉大なのです。ですから主人になるのです。堕落した人間たちが、今まで負債を残そうとして、「ああ、神様!」「ああ、我が家! 我が教会!」と、長老教会のように祈祷するのを見るとまるで泥棒のようです。「我が教会に福を下さい。統一教会を滅ぼしてください」と、趙庸基牧師は毎日のように騒いでいるそうですが、いったい誰が滅びるか見ていなさい。私に悪口を言って福を得る自信がありますか。私はすべての悪口を受けてあげる用意があります。そしてその悪口を記憶せずに、すべて忘れてあげます。私は忘れてしまいますが神様が記憶されるので、それが恐ろしいというのです。神様が記憶していて、きれいに整理してくださるのです。十年と歳月がたたないうちにそうされるのです。

 本来、神の日であると同時に万物の日であり、万物の日であると同時に子女の日となるべきなのです。そういう日をもつことのない堕落した人類になっていたという、悲しい事情に処していることを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。

 ところで、神の日まで行くためには七年が必要です。お母さん、お父さんの七年路程を越えなければなりません。神様がつくられたものはすべてが直接圏内なのですが、原理結果主管圏、この(三数の)三段階成長期間を通過してから十数目を越えるようになる時に、神様と愛を中心として連結できるその日を探し出すためには七年の期間が必要なのです。そこで一九六〇年の父母様の聖婚式以後にアダム、エバを立てて、すべての日々を定めて満七年が過ぎた八年目の一九六八年一月一日、初めて「神の日」を定めたのです。そこから統一教会の文先生は世界的に伸びていくことができたのです。分かりましたか。統一教会が世界的な宗教として伸びていけるようになったのです。それできょうの第二十二回目を迎えたこの「神の日」を記念するためには、これらのすべての日々を切り離して考えてはいけません。先生にとっては、父母の日を決定する時、既に神の日を考えていたのだということを知らなければなりません。分かりましたか。

 なぜ子女の日を立てたのか。なぜ万物の日を立てたのか。これらはすべてが神の日を決定するためなのです。どれ一つも除いてはなりません。私たちが記念するためにそれらの日を立てたのではありません。歴史的な段階の過程を経ながら、神の日を立てるために無慈悲な闘争を経てきたのです。この日を奪うため、サタンは千万の巧妙な詭計をたくらんで攻撃してきたという、この事実を知らなければなりません。こういう国家と戦ってきたのです。既成教会がすべて反対して、政府を動員して文総裁を押し込めようとしてきたのです。毎日のように、今も仲たがいさせようとしているでしょう。「文総裁があのようにするのは、すべてが将来大統領になって現政権を取ろうとしているからだ」と、先生すら考えてもみなかったことを、やたらとでっち上げて話しているのです。それが長く続くでしょうか。彼らは、知らないうちに自分たちの柱の下が崩れ始めているということを知らなければなりません。神様の戦法は打たれてから奪ってくる法です。善なる立場で一〇〇度打たれたらその価値が大きいか、小さいかによって(蕩減)期限の短縮がなされるのです。一〇〇度打たれる時、それは一〇〇年後に受ける福を考えながら打たれるのです。そして一〇〇年を待てる人であれば、一〇〇年後にその利子まで加えて、その福を引き継ぐことができるのです。もしその人が死んだならば、その後孫に福が訪れるということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。

 神様の戦法は打たれて奪ってくる

 神様の戦法は打たれて奪ってくるのです。反対に悪魔の戦法とは打って失ってしまうのです。 歴史はこのようにして、発展するのです。簡単なことです。悪魔サタンは、聖なる神様の戦略的戦術を知らなかったのです。皆さんはそれを知らなければなりません。それゆえに、この文総裁は今まで公的な立場において、恥じることのない立場で世界中で打たれてきたのです。打たれるその限界線が四十年を越えなければならないために、歴史的に打たれた恨み多い鞭の跡が残っているのです。四十年間口惜しく怨めしいことが積り積っていたのですが、どんなに復讐したくてもすべてを忘れなければなりません。そのようにして忘れてみると、十年後、二十年後には大きく変わるのです。さらに三十年、四十年たってみると、世界のすべてが先生の前にひざまずくようになり、既に七合目を越えました。分かりましたか? (はい)。

 今や、共産世界もソ連の国民も先生の側です。ソ連に行ってきた人々の報告によると、ソ連はTVの全国放送を通して、一時間半も文総裁について放送していたというのです。そこで「共産主義体制の根本を反対する怨讐が文なにがしだ」と言っているというのです。そこで、あることないことを並べ立てているというのです。それを見ているソ連の人々は、「あのように私たちの味方をする人もいるんだなあ、共産党員たちが憎悪しているあの方こそ私たちの救世主なのだ」と言っているというのです。ソ連の人々が先生に一番近いというのです。どうでしょうか。その人のお父さんたちが「文なにがしは怨讐だ」と言うのですが、その子女たちは「自分のお父さんたちが怨讐と言う人が本当の怨讐なのか、それともお父さんたちのほうが本当の怨讐なのか?」と。ソ連の子女はよく知っているのです。これは何の話か分かりますか。今日まで、共産党は人類歴史に対して、すべてにおいて対外政策でうそをついてきたのです。その八〇パーセントがうそです。それゆえにその後継者たちの良心が訴えるのです。「私たちの父母は滅びてしまうだろう。私の父母! また亀裂分子の共産党! この偽者! 正義の背反者!」と訴えているのです。ですから共産党の後継者たちは、この文総裁を自分のお父さん、お母さんよりも尊敬して列をなして訪ねてくるようになるのです。そういうことが分かりますか? (拍手) 彼らにとっては、復讐もこれ以上の恐ろしい復讐がどこにあるでしょうか。父母が怨讐視する人の懐に入ってその子女たちが死ぬまで、忠誠を尽くすというこれ以上の復讐がどこにあるでしょうか。統一教会の行く道には、これからそういう人々が多く出てくるのです。

 私たちの統一教会においても、これまでは私に反対する、夫がその妻に対して、ありとあらゆる迫害を加えてきたのですが、今やその子女たちは反対するような父と別れて、すべてを捨てて「先生と生死を共にしたい」と訪ねてくるようになったのです。泣いて痛哭するのも、まず誰を中心として痛哭するかというと、先生のことを痛哭するようになっているのですね。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。ではなぜそうなのですか? それが真の群れだからなのですね。天と地が支持して、天と地がその道を願っているために、そのようになるのです。それゆえ、世界の歴史上において、宗教問題を懸けて最も悪口を言われながら、一番苦労をした人がここに立っている文総裁なのです。分かりますか? (はい)。

 先生がどんなに悲痛な事情をもっているか知っていますか。私はすべてを忘れてしまうのですが、天は忘れないのです。おそれ多いことです。何も責任を果たすことができずに、追われながら生きて、天のみ旨を成し遂げようとよろめきながら今まで四十余年間を歩んできた先生の背後で、神様が見守って保護しているということを知らなければなりません。私もよく、我知らず「彼は、あれではいけない」という話をしますが、先生がいったん言に出せば、その人は六カ月以内に木っ端みじんになるのです。私の言がどれほど恐ろしいか、私がそれをよく知っているのです。そういうことが分かりますか。これは祈祷をたくさんした人には分かります。先生にはそういう何かがあるために今日、すべてが滅びていく世の中にあっても滅びることなく栄えの道を歩くのは、神様が私を保護してくださっているためです。分かりましたか? (はい)。

 悔しいことも神様が忘れてくださったために、人類を訪ねてこられるのです。それが神様の事情なのです。分かりましたか。このような事情を知らなければなりません。ただ神の日を迎えて喜ぶばかりでなく、そういう趣旨を知ってください。きょうの解放の日を迎えるために、その背後において多くの事情と曲折が神様の心の中にぼろ布のように残されているのです。それは癩病のように覆われているというのです。その心をなでて、解かして、泣いてあげられる人がいないのです。皆さんにはそれが分からないのですね。しかし、分からないのが幸いしているのです。分かっていれば大変です。たとえどんなに疲れていても行かなければなりません。皆さんはきょうのような日を迎えるごとに、そういう背後の事情を知らなければなりません。

 体恤的信仰

 先生は五年以上も監獄生活をしましたが、軒下の岩にも雨が降れば、雨垂れがぽつりぽつりと落ちて穴を開けるということを知っていたので、私の愛の涙の滴が神様の胸の中に絡み合った時に、恨みの盤石にも穴を開けることができたのです。そのような涙の滴の慟哭の事情を皆さんは知らなければなりません。流れいく水を眺めて、その水が神様を迎え入れる清い水として、神様が訪ねてこられて沐浴することができるようになれば、どれほど良いことでしょうか。そのような一つの巣、神様の安息所が人間から出発できるとして、そのような子息になれたならどれほど良いことでしょうか。そういう深い心情の世界を皆さんが体験できなければ、神様は皆さんの生活の中にいません。

 赤ん坊を思ってお母さんの乳房が張るようになると、どんなに困難なことがあっても赤ん坊の所に飛んでいって乳を飲ませるように、そのようなお母さんの愛の心の盛り上がりのように、縦的な天と私たちの間を連結することができれば、それは誰も奪っていくことができません。神様と自分の間に結ばれたその愛の縦的な心情圏は、誰も占領することができません。もしその方が永遠であれば、私も永遠です。その方が幸福ならば私も幸福です。そして、その方のものである愛に相続権があるならば、それも私のものになるのです。愛には同位権があるのです。愛する者同士は一緒に暮らすことができるのです。共に起き、共に休み、共に踊り、すべてを共にすることができるのです。また同参することができるのです。いつもどこへでも共に行くことができるのです。愛の力は偉大なのです。

 愛にはこのような力があるために、絶対者であられる神様に対して人間は被造物ですが、神様の愛の体験圏をもつようになれば、その人は神様がおられる所に、常にいつでも存在できるというのです。こういう心情に染まれば、誰もその根を抜き取ることはできないのです。その人の骨髄を通してすべての先祖たちも連結し、すべての後孫たちもここに連結させることができるのです。そのような心情的な垂直線の生活を通して、生涯の道を残していくということが、人間の真の道だということを知らなければなりません。そのためには、神の日を迎えた背後の事情とその内容をよく見極め、それを体恤する人にならなければ、神様の愛の伝統歴史を受け継ぐことができないということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。

 さて、先ほども話したように、神様は私たち人間世界の家庭で一度でも生活されたかったのでしょうか、どうでしょうか? 神様を見てみると、おじいさんのおじいさんのおじいさんのおじいさんなのです。そのようなおじいさんであれば、自分の子孫たちと共に一度生活したいでしょうか、したくないでしょうか? (生活したいです)。皆さんもアメリカに行ってみるとよく分かるのですが、年を取って六十歳にもなれば、養老院に入ることだけを考えているのです。また、養老院に入っている人々と会って話をしてみると、実にかわいそうなのです。空中を眺めてため息だけついているのです。なぜそのようにするのかと聞いてみると、「息子の家に行きたい。孫や子供に会いたい。御飯を食べることよりも家族が恋しい」と言うのです。毎日毎日このような気持ちで、自分の生命が次第に減っていく痛みを感じながら生活しているのです。そういう人々は幸福な人々でしょうか、不幸な人々でしょうか? (不幸な人々です)。幸福になるためには、まず上下が連結しなければなりません。次に東と西のほうが連結しなければなりません。そうすることによって回転できるのです。回転することによって自分の所有権が大きくなるのです。

 愛には所有権があります。また愛は拡大も縮小も自由自在です。愛は無限に拡大、無限に縮小するために、直線であっても円形であっても、自由自在に融通性をもって活用することができるのです。それゆえに皆さんも愛によって、神様の息子として神様を泣かせることができ、神様を笑わせることができる、そのような立場になれるとするならばどうでしょうか。先生を中心として神様が涙を流された時が一度でもあったでしょうか、なかったでしょうか? (ありました)。それを見ましたか。

 皆さん、体恤という世界がなければなりません。この世界は体恤的信仰が必要なのです。それは神様が悲しい時自分でも知らずに悲しくなる世界です。また、神様が喜ばれると自分でも知らずに喜べる世界です。そして祈祷をすれば、すべてに何がどうなるのかを前もって分かるのです。そういう生活をすれば、神様がいないなどと言うことはできません。体恤的愛が必要です。

 映画などを見ても、愛する息子が遠い外国に行って、勉強中に突然、不意の突発事故に遭えば、その母親は就寝中であっても、「あっ」と叫んで飛び起きるというのです。感じるのです。それと同じです。このように、縦的な愛の世界がそうであるなら、横的な愛の世界もそうであり、また、より強い主体的な縦的な世界の父子の関係においては、その情が通じる世界はいかに強いことでしょうか。そのように我知らず慟哭の生活をするのが、この道で深い生活をする人です。

 文先生は他人がうらやむ生活をするようですが、実にかわいそうな人だということを知らなければなりません。この世にあっては本当に不幸な人です。何一つ勝手にすることはできません。自分の思いどおりにはできないのです。すべてに侍る生活なのです。一度でも思いのままにどこかに行って、思いのままに食べて帰ってくることなどできません。世の人々は「ああ、よく食べた」と言いながら、医師の面前でも恥じることも知らずに消化剤をごくりごくりと飲むのです。それは罪を犯した人のようです。「先生は統一教会の食口たちが今晩も海外で、あるいはアフリカの奥地でどういう生活をしているのか知っているのです。彼らがその場その場で、先生に対して福を祈っているのです。そのような祈祷時間に勝手に飲み食いができるでしょうか。先生にはできません。共産主義の衛星国に行っている統一教会の宣教師たちが何人も死んでいるのです。今も遠い第三国の人々を通して、彼らにお金を送ってあげなければなりません。しかし、その道が閉ざされて送金できなくなる時があるのです。そのような切ない事情など皆さんは知りません。それは父母が子息たちに学費を送るのと同じような世界です。月謝を払う時期が過ぎているのに送ってやることができないのです。これ以上に切ない父母はいません。連絡を受けて、何月何日の何時にと指定された場所に行って待っているのです。何の話か分かりますか。

 こういう話はお母様でも知りません。負債を負ってはいけないからです。負債を負ってはいけないのです。その人以上の痛みを感じながら、彼らのためにその将来の道を先生が責任をもつと天の前に約束をしているのです。「あなたが今霊界に行くとしても、必ずこの先生が霊界に行ってから責任をもちます。父母よりも先に霊界に行く君たちの立場は苦しいだろうが、これも歴史時代においては誰かが血の値として蕩減すべきことであり、そういう道を分別して君たちが行くのであるので、天が許すこの道であることを理解して、不可避的に行かなければなりません」と、祈祷してあげるのです。そのようにしないと生きられません。数多い人々が毎日のように世界中で自動車の事故で死んだりしているからです。こういう人々を毎日のように霊界に送らなければなりません。ですから先生はこの身体を勝手に処することができないのです。このような先生の生活の背景を皆さんが知らなければなりません。そしていつでも先生の側にあって、どんなに困難な時にあっても行く道を分別して、悲しい事情を慰労したという、悲しくて、寂しくて悲痛な時をどれほどもったかという、そのような歴史的基盤なくしては先生を泣かせることはできません。これは真実です。分かりましたか? (はい)。

 神様を笑わせるのも、それ以上の立場であれば笑わせることができるし、神様を泣かせるのもそれ以上の所で、神様が感じ、神様が越えた以上の痛みと悲痛を感じて、神様の摂理に対し痛哭するようになって、共に泣く神様の声を聞くことができたのが先生の生涯なのです。分かりましたか。そういう愛は億千万金を支払っても買えません。先生はそのような愛をもっているので、今日まで生き残ってきたのです。今日まで疲れ果てた時がいかに多く、弱り果てた時がいかに多く、やり切れないほど悔しかった時がどれほど多かったことでしょうか。もしその愛を知らなかったならば、先生の火のような性格は一刀のもとに数千人の人々を斬ってしまうほどなのです。先生は耐えることができない性格なのです。しかし、神様を知った時に、自分というものは何でもないことだと知ったのです。そして七十余年の年齢になるまで、天が保護してくださる中で、今日まで病気になっても休んだことがありません。どんなに疲れる生活をしても、いかに追われる生活をしても、先生はこのように生きてきました。病気で休んだ記憶がないです。既に五十年以上もです。それは福を受けた人でしょうか、不幸な人でしょうか? (福を受けた人です)。

 アメリカにおける活動

 先生は福を受けた人なのです。風邪を引いても、それは季節による生理的な環境の変化に対処するため、そのギャップを埋めるという理想現象なのです。今でも先生は熱がありますが、熱が出てから約二カ月近くなります。しかし、先生は約四十年余り前から風邪を引いたり、疲れることもすべて意に止めないで、今日まで継続してきたのです。しかし、まだ「あなたが必要だからいなさい」と神様は言われるのです。「あなたは必要ない。出る必要はない」と言われるまで、すべてをやるのです。先生が風邪に捕らわれて、やるべきこともできないという不肖者になったら、どうして天下を一つにすることができるでしょうか。ある苦痛に捕らわれて、自分の仕事を放り出して倒れるような者がどうして神様を慰労して、神様の手伝いをすることができるのでしょうか。とんでもないことです。今も先生は堂々たるものです。常に大胆です。

 例えば「ワシントン・タイムズ」社を創設する時、「ワシントンからニューヨークまでヘリコプターで一時間の距離なので、ニューヨークにはニューヨーク・タイムズがあるために、ワシントン近郊であっても、ニューヨーク・タイムズでなければならない」というのが彼らの主張でした。ですからそれが恐ろしくてこの一〇〇年余りの間、誰もタイムズという文字を使えなかったのです。「この者たち! 天下がお前たちのものなのか!」と、先生がワシントンに行ってタイムズを探してみたのですが、一つもなかったです。そこで直ちに「ワシントン・タイムズ」を創設したのです。そこでようやく文総裁という男はそういう太っ腹の人だということが分かったのです。それで文先生はアメリカの誰よりも優秀な人であり、どんなに打たれても、必ず成すべきことを成し遂げていく人だという評判になっています。それでニューヨーク・タイムズをワシントン・タイムズが追い抜いてしまったのです。ああだこうだと言う間もなく、彼らは目をぱちぱちするしかなかったのです。公義の法度の下にあって不義なことをすると、その下を掘ってすべてを音もなく埋めてしまうというのです。

 先生には恐れるものがありません。恐れては大事を成すことができません。今やアメリカも滅びるしかなくて、「文総裁! 助けてください」と言っているのですが、それは良いことですか、悪いことですか? (良いことです)。助けてあげようとすれば、お金が必要となります。しかし、お金は出さないが助けてほしいと言うのです。アメリカには百万長者もいるし、億万長者もいるのですが、一銭もこの国のために使う者がいないのです。ですから、この先生は借金をしながらアメリカを助けるために働いてきました。ところで、アメリカにとって先生は良いお客でしょうか、良くないお客でしょうか? (良いお客です)。良いお客? では先生をどのように扱ったのですか。まるで浮浪者のように扱ったのです。しかし、歴史的すべての内容が分かってからは、黙ってひざまずいたのです。先生は黙して、善と義の権威をもった東洋人として、西欧社会へ行って、西欧のすべての文化圏を主管して、先生の前に万年謝罪させるという伝統を残したのです。これがレバレンド・ムーンのアメリカにおける活動の歴史なのです。(拍手)

 さあ、白人たちもそうだとすれば、この韓国人もそのようにするのでしょうか。最近どんなことがあったかと言えば、アメリカの僑胞たちがやって来たのです。この者たちは詐欺師のようです。国を捨てて逃げた群れなのです。ですから「大きなことを言う人は信じるな! そのような者は相手にするな!」と言って追い出したのです。アメリカでは、韓国人はすべてが先生のような人だと思っているのです。「私たちの先生の国の人が来た」と言って、ああよく来たと喜んで握手でもしたら、すぐに昼食を食べにいこうとするのです。昼食をおごらせようとするのです。そのような不心得な僑胞たちではいけないのです。友達になっても、借金をして逃げてしまったりするのです。文総裁にとってはこれ以上の恥はありません。そういう報告を受けた時、先生は十年間アメリカの地に来て、功を立てたのが半分以上なくなっていくのを感じたのです。語る言もありません。今や既に時至ったので、先生が韓国に帰って、韓国の反対派までもすべてを収拾しなければならないという時になったので、アメリカの僑胞を全部呼び出したのです。二〇〇名近くの人々に、ワシントンとニューヨークを見せてあげたのです。彼らは一晩で変わったのです。「これほどになっているとは知りませんでした」と、こんなことも分からなかったとは灯台下暗しですね。燈台の下が暗いばかりか、すべてに不作法な者だと分かったのです。大きなことを言っても、何の内容もなく、一晩ですべてが変わって帰っていったのです。

 神様に恥じることなき北韓解放を

 皆さんは、神の日を迎えた心情的な背後を、神様の立場から見た心情圏、先生の立場から見た神様に対する心情圏を受け継いで、この日を記念するようになれば皆さんの神の日になるのです。分かりましたか? (はい)。そのような愛の心情圏を相続していない限り、このような日々は皆さんの足手まといになり、妨害なる日々になるのです。「また神の日が来たなあ」と、皆さんは言うでしょう。「先生は疲れているので、協会長が話をしたり、朴普煕総裁に証をさせたらどうでしょうか?」と言うのですが、いけないことです。疲れていても、倒れていても先生は、はってでも出てきて、自分の責任を果たさなければなりません。召命を受けた者が行く道は違うのです。何の話か分かりましたか。自分の責任は死ぬ前までに果たさなければなりません。たとえ休んでも、疲れることは同じです。既に五時間も話したので疲れています。下着がぬれて、服までもぬれたのです。そういう実証的相続の舞台の上に立って、このような記念すべき神の日を迎えているのです。この日のためにどれほど苦労されたか知れない縦的な父母や、横的な父母を思いながら、まだ多くの課題が残されていることを考えなければなりません。今や南北統一の先頭に立つべき神様であり、先生であるという現実の前に、もし神様が私を残して去るようなことがあれば、私はここにはいません。神様が南米に行かれたならば私も南米に行くでしょう。しかし、神様は愛のゆえに私の故郷を思ってくださったのです。私の父や母は虐殺されたのですが、多くの嘲弄の中で悲しさを抱いて生きていたのです。愛の神様はそのような私の父と母を見ておられたので、再びこの山河に訪ねてこざるを得ないのです。そのような神様を思う時、とめどもない、深く、重い心を抱いて今度も訪ねてきました。ですから、そういう神様を追い払うような皆さんになってはいけません。分かりましたか? (はい)。

 そのような神様に恥じることのないように、北韓解放を叫んで出発した私たちなのです。ですから必ず北韓を解放しなければなりません。銃と剣で解放するのではなく、祈りでもって解放しなければなりません。自分の父母の前に尽くした心情以上の愛の心をもって、神様を感動させることにおいてのみ、北韓解放の門が開放されるのです。そのような門を四方に開放してこそ、すべての塀を倒すことができるのだということを知らなければなりません。私たちの祈祷するその精誠にしたがって、神様が対応してくださるのです。そのように努力する道に、もしその相対が順応しなければ、必ず天が取り除いてしまうようになります。ですから、「金日成が死ぬように……」などと祈祷してはなりません。彼を生きたまま救ってあげなければなりません。彼が生きているうちに、神様の前で「私は悪魔の魁首でした。私は罪人の中の罪人でした。人類と歴史の前に許しを得ることのできない罪人でした。しかし、偉大なる神様の愛と、父母様の愛の恩恵に浴して、贖罪を受けることができました。解放の愛の世界を受け継ぐことができました」と、恵みを受けたことを慟哭しながら証す時、すべての人々も慟哭してついてくるのです。そのようにして解放させたい神様の心があるということを知らなければなりません。何の話か分かりましたか? (はい)。

 精誠を尽くすようになる時すべてが終わるのです。ですから早く民族のために精誠の度数を満たさなければなりません。北韓に対しての南北統一の度数を満たさなければなりません。「神様はこの人類をどのように救われるのでしょうか?」と、殺人を犯した怨讐たちも霊界に行って額を合わせて話をするでしょう。悔い改めることのできるような道を与えて訓練する所が、あの世にはあるのです。何の話か分かりますか。神様においては愛の姦夫が悪魔なのです。愛の姦夫のこの悪魔が、今まで讒訴してきたのです。ですから全人類の前に、愛したという条件を立てるために、これまで耐えてこられた神様の心情があるのです。それはなぜかというと、もし堕落しなかったならば、天使長も神様が愛して天国に入れたというのです。神様の息子、娘たちだけが天国に入るのでサタンは讒訴するのです。「私は悪魔になったが、神様の創造本然の原則的基準は残っているので、神様も私を愛し、神様の息子、娘も私を愛さなければ天国に行けないのではないか?」と言うのです。このことで今まで讒訴してきたのです。ですから聖書に「怨讐を愛せよ」とあるのです。怨讐を愛さなければ天国に行けないのです。

 それゆえ、文先生は今まで日本人を教育しながら、日本と韓国の怨讐を一つにしました。その次にアメリカ人と日本人、さらにアメリカ人とドイツ人という怨讐関係にある四カ国の食口を集めて、アメリカを救うために、「いかなるアメリカの国民よりも、いかなる愛国者よりもアメリカを愛したという伝統を立てなさい」と教えてきました。皆さんも怨讐から、「この人々は私たちを愛してくれた人々だ」という証を得なくては天国に入れません。信ずれば天国に行けるというようなばかげた話はやめなさいというのです。それは自分たちの弁明なのです。天の法則を知らない者の弁明にすぎません。イエス様の十字架さえ信ずれば天国に行けるのではありません。もしそうであれば、先生がそういう良い方法にどうして従わないことがあるでしょうか。これまで既成教会の反対を受けながらこのようなことをなぜするのでしょうか。これでなければならないために、神様は既成教会を捨て、統一教会の文総裁を用いたのです。

 これからは、全世界的に先生や神様に反対すれば復帰摂理のすべての型まで全部吹っ飛ぶしかないのです。こういう境地に立ったのです。ですからどんなことがあっても、神様は私を用いるべき立場に立っているのです。だからこのように福を受けることができるのです。ですから私は滅びそうで滅ばないし、死にそうで死なないのです。すべて吹っ飛びそうでも決して飛ばないのです。反対に吹っ飛ばないように思えるものが吹っ飛ぶというのです。すべてがそのようになって、主人になることができないような人が主人になって帰ってくるのです。私が主人になって帰ってきたのです。韓国でも、この私についてくる人々がどれほど多いことでしょうか。 一度全国で民族大会を開いて、みんなで北韓解放を叫んだプラカードを掛ければ、どれほど多くの人々が詰めかけることでしょうか。

 かつて先生が、一九七五年に希望の日のバンケットの大会を開催した時、行く先々で体育館が全部満員で、入場できなかった人々がなだれ込んできたのですが、もし今日そのようになったら、圧死事件が起こって惨死するような人々もどれほどたくさん出ることか知れません。私はそのようなことは起こしたくありません。有名になることが私の望みではありません。泥棒のような根性をもったものたちは、たとえ有名になっても、途方もないことをたくらんで、大統領にさえなろうとするのですが、私は大韓民国の大統領など考えてもいません。神様の息子には大統領など問題ではありません。先生は大統領を教育してあげるのです。このような先生の話を聞けば滅びることはありません。しかし、教育してほしいと言って訪ねてこないので、今は黙っているのです。いつ滅びるかどうか見ているのです。もし、この統一教会に反対すればどうなるのか、その行く末を見ていなさい。この統一教会はどんな人が打ってきたとしても決してなくなりません。

 今や、すべてを解放する統一天下の国として宣布するのみです。このような祖国光復の新しい朝の黎明を迎え、万国の五色人種の人々が、一軒一軒を訪問してくる時、既成教会がいつまで敵対できるでしょうか。外国の人々がそのように訪問して回れば、統一教会は既成教会に負けるでしょうか、負けないでしょうか? (負けません)。汝矣の趙庸基牧師が「私たち数千万の信者よりも、統一教会の一人の食口のほうが優れている。なぜならば、彼らはすべて、おじいさん、おばあさんであっても、五十歳を越えた家庭の人々でも、文総裁が伝道に出掛けるようにと言えば、即座にすべてを捨てて出掛けるのに、私たちの教会には数十万もの信者がいても、そういう人は一人もいない。ゆえに統一教会の一人よりも劣っている」というような説教をしたという話を聞きました。皆さん知っていますか。(笑い) 負けることが確かなのに反対するのは愚かな者です。自分をいかに弁明をしても、誰が分かってくれるというのでしょうか。今や世界的でなければなりません。世界に尊敬されるようにならなければなりません。

 素晴らしい統一教会

 既に二時間半が過ぎました。神様の日を迎えるごとに、その日の成就することをどれほど待ち焦がれたことか。また、先生は生涯を通していかに努力し、どれほど苦労をしてきたことか皆さんはそれが分かりますか。どれほど待った日であるか。一九八八年韓国においてオリンピックを中心として、外的な二世たちが世界的な外的チャンピオンたちがすべて集合したのですね。その外的、肉体的なチャンピオンたちが韓国に来て、みな帰りたくなくなったのですが、仕方がなく帰りました。共産世界のソ連から来た選手たちも、「韓国がこれほど良いとは知らなかった」というのです。金日成の話どおりであれば、彼らが韓国に行ったならば、きっと自分たちの前に何か食べ物をもらおうと列をつくって、コカ・コーラやビスケットなどを求めてついて回るだろうと思っていたというのです。すべてにそういうことだろうと思ってきたのに、彼らのほうがこじきのようになったのですね。ザ・リトル・エンジェルスにボリショイ・バレエ団が来て訓練したのです。世界的に見れば、共産党は怨讐です。ソ連は怨讐なのです。私を捕らえて殺せと暗殺命令さえ下しているのです。KGBと金日成が一つになって、「十一月以後は文総裁はこの世にいない」と決定していたのです。私が報告を受けたところによれば、十一月まで文総裁はこの世にいないので、会議も何も行われないということなのです。彼らの世界ではそう見ていたのです。もう十一月は過ぎましたか、過ぎていませんか? (笑い) どんなに狙われていても、先生はこのように生きているのです。私という人は不思議な人です。

 皆さんは先生に従ってきて幸せになりましたか。先生に教育されて幸せになったのであれば、先生に授業料を払いましたか? (笑い) 皆さんは授業料も払わないで、先生の大切な「愛する」という美名を用いて、金塊を盗んでいくようなものです。どうですか。そういう者たちが多いのでこのような話をするのです。

 昔、韓国に李という四柱推命の大家がいたのですが、「彼は精一杯やっても一日、一人も相性を合わせることができないこともあり、一週間力を尽くしても、三人の相性を合わせるのがやっとだったのに、この文総裁は一時間に数百名を、今度は一日、三六〇〇名を結んでしまいました。(拍手) 皆さん、結婚させることは易しいことでしょうか? (いいえ)。この統一教会のお婆さんたちは、私が結婚させてあげたので、そういう苦痛は受けなかったのです。その苦痛を受けなかった値を考えなければなりません。(はい)。今度の結婚式の費用で結婚させてあげられる父母がこの世のどこにいますか。

 雷のように早く祝福してあげたというのに、あの人々はあのようにぴったりと姉弟のようでもあり、兄妹のようでもあるし、笑うのも一緒に笑うし、首をうなだれるのも一緒にうなだれるのです。どうすればあのようにすることができるのかというのです。(笑い) 先生が公席でこのような話をするのはこれが事実であり、現実なのです。いつまでも夢のように思っていてはいけません。さあ、先生はよくやった人でしょうか、反対する人々のほうがよくやりましたか? (先生のほうがよくされました)。よく見ていなさい。反対する父母たちが結んだ結婚と、先生が結んであげた家庭と、どちらが素晴らしい子女を生むことができるでしょうか。先生はこのような責任を負った教主として、統一教会の後世の種子を正さなければならない責任があるのです。そのために国際結婚もするのです。皆さんはそのような種を願いますか。ですから約婚して三年間はああだこうだと言ってはいけません。三年間先生の話を信じて生活してみると、三年後には天下を治めることができるような聖人が生まれるというのです。このような内容の祝福なのです。ですから先生の教えどおり生活してみなさい。(アーメン)。先生もそうしてきたのです。アーメン。(笑い) こだまが和音になるのです。アーメン。(アーメン)。もう一度言いましょう。アーメン。(アーメン)。アーメン。(アーメン)。アーメン! (アーメン!)。誰の声が一番大きいですか。先生のアーメンの声に負けまいとして首を振り回して(先生がしぐさされる)このようにすれば気持ちがいいですね。もう一度言いましょう。アーメン! (アーメン!)。これが統一教会なのです。素晴らしいでしょう。(拍手)

 統一教会はこのように笑いがある所です。活気に満ちた所です。(アーメン)。年を取っても、青春がある所です。先生も年老いてもまだ青春なのです。これも息をせずにグイと飲みます。一度試してみましょうか。(先生が飲み物を飲まれる)(笑い) 年を取ると大変ですが二杯、三杯まではただ一息で飲めます。(笑い) こういうことで、責任者が実際にやって見せるなど恥ずかしいことですね。(笑い)

 祖国をもたなかった人々はかわいそうです。神様を中心として祖国をもたなかったので、神様を信じてきた人々はかわいそうな人々です。皆さんも入籍する国がないので、身元の保障ができません。ですからクリスチャンたちは今日も流れ者の民なのです。それを知っているので、神様が文総裁を立てて、祖国光復を命令しているというのです。分かりますか? (はい)。それで今年の神の日から、私たちは恨みを晴らして神の日を祝うのです。私たちにはこれから苦労がありません。見ていなさい。ですから先生の教えどおりに四年間ひたすら精誠を尽くしなさい。祈祷しなさい。

 私たちの統一教会の歴史の中で、日本の京都知事選挙において、二十八年間も知事を勤めていたのを、私たちの勝利によって終止符を打ったのです。統一教会は偉大なる教会なのです。その時、私たちの青年たちはすべて女性たちも髪を短くしました。それは中学生か高校生のようでした。そのようにして、市中に出て勝共理論を中心として共産党も知らないような深い内容を中心として、一大雄弁を振るったのです。何度も何度も人々の前に立って叫んでいるうちに、準備した原稿に従って感動を込めて語るのです。そのような旋風を起こす訓練をして、出で立つ時、自分の部屋で寝ていた人々も、その雄弁を聞いて涙を流したのです。彼らが表に出てみると、みんなが中・高等学校の二年生、三年生の学生のようなのです。そのようにして、一人が一日に訪問した家庭はどのくらいかというと、平均三〇〇軒以上で、記録としては一三〇〇軒以上ずつ訪問したのです。このようにして、一つの市から共産党を追放するために成し遂げたこのことは、統一教会の歴史が続く限り残っていくのです。

 千秋万代の歴史を通して、神様の怨讐であり、人類歴史の善なる人々に怨恨を残した元凶であるサタン魔鬼を追放するために、私たちの動きがいかにあるべきかということを考えた時、「日よ、沈むな! 私たちの行く道が忙しいので、どうか日よ沈むな」と言いながら、涙とともに働く時には、天軍、天使が夜昼動いてくれるのです。そのような一人一人となり津々浦々、至る所において多くの家々と、多くの人々の胸の中に涙を流させることのできるように行動しなければなりません。そのような最後の切追した韓国統一という標語であることをお互いに銘記しなければなりません。何の話か分かりましたか? (はい)。

 民族救道の先鋒に

 皆さん、先生が統班撃破を命令してから既に四年の歳月が流れました。これが国を愛することなのに、皆さんは先生がお金を出してあげなければできないのですか。血を売って、土地を売って、家を売って、先生はやってきたのです。妻子やすべての兄弟、自分の一族をすべて犠牲にしながら国を愛するのです。そのような伝統の道を行くべき統一の群れなのです。自分の姿勢と処世を忘れて、行くべき道が分からなくなると亡国の情になってしまいます。それほど恨みの多い先生の一生です。先生は今日まで休めなかったので、少し休まなければなりません。眠ることができなかったのです。このような先生の怨恨を誰が晴らしてくれますか。お母様もこの事情は知りません。先生は今日まで昼寝をしたことがありません。一九四五年からの四十年路程は非常に疲れてだるくても、一時間眠ると、その代わりに夜一時間寝なかったのです。私の心が許さないのです。ゆったりと手足を伸ばして昼寝をすることができないのです。心が許しません。そういう先生の目の前であなた方は自分勝手に自由に、気ままに生きてきたのですね。先生が涙を流し、先生が身もだえするそのような事情を編んでいく歴史的路程に召命を受けた者として、皆さんは体面を立てることができない過去の恥を知らなければなりません。その恥を、今年一年を中心として蕩減すべき決意を誓う日々であってこそ、共に神の日を出発することができるのです。そのような使命を前にして出発するきょうが、正に記念の日であり、祝賀の日としての意義があるのです。このことを忘れてはなりません。分かりましたか? (はい)。

 皆さんが電車に乗ってどこかに行く時、「あ、電車よ、なぜ早く行くのか。あの家々をあとにしながら、私にこの家々を訪問できる道がないのかなあ、私にそういう才能と知恵があればどれほど良いだろうか」と考えたことがありますか。「あの家々に訪ねていって、すべての門の鍵を開けて、室内に入って主人に会うことができる道はないだろうか、そのようにできればどれほどよいだろうか」と。天が必要とした人であれば、夜を明かして慟哭しながら伝道するのです。過去にそういう戦いをしてきましたし、今もそうしようという心でいっぱいです。私を待っている人々がいるのです。そのように天はすべて準備しているというのです。私が行けなければ天が準備した人々が流れてしまうし、積み上げた天の基盤がすべて崩れてしまうということを皆さんは知らなければなりません。天は準備しているのです。分かりましたか? (はい)。

 韓国統一という命題を神様が、先生が掲げる時には、既にそのような準備がすべてできているというのです。見ていなさい。皆さんの力が足りなければ、周辺国家のある大国が、その主権者が霊界から命令を受けて、銃と剣を突きつけて文総裁に従えと命令するような運動がいくらでも起こってくるのです。統一教会の歴史はそのようなことが多いのです。 神様は生きておられるのです。ですから、そのような第三の爆発的な作用を起こして、ここから押し上げて爆発させて上がっていくのです。そのように思って、共産党以上に努力しなければなりません。すべてが金日成以上に計画的でなくてはなりません。準備することを知らなければなりません。もし戦争が起きれば、統一教会の食口を雪岳山に集めて、そこに穴を掘って、五十歳以下の祝福を受けた人々に軍事訓練をさせるつもりです。女性をそのようにするならば、男性たちはなおさらです。そのようにしても国を愛さなければなりません。悪人は自分たちの力が強い時には退きません。すべてを包囲されて、退くほかない時にしか後退しないのです。そういう準備をしなければなりません。分かりましたか? (はい)。

 私たちは銃や剣をもって戦うことはありません。私たちの武器は愛の武器なのです。北韓の人々が金日成のために尽くす以上の真心をもって、天のために尽くす統一教会の群れになってください。 大韓民国のいかなる政党や、総裁のために働く以上に働き、誰もまねることのできないような何十倍、何百倍の誠心を尽くして仕えるだけでなく、崇拝し、賛美することができるこの道にあっては、もはや滅びることはありません。そこに永生があるのです。永遠なる神様の偉業が皆さんを待っているということは、私の生涯を通して証された間違いのない事実なのです。そういう福を受けて滅ぶことのない皆さんとなって、皆さんの一族と共に民族救道の先鋒になることを願います。分かりましたか? (はい)。

 これから統班撃破の活動を

 決意をしなさい。これから統班撃破の活動において、国民連合と勝共連合を総動員させます。今年からすべて故郷に帰るのです。この前、先生が餅をあげたでしょう。(はい)。そして宴を開くように話したでしょう。(はい)。先生はそのために二十二億ウォンを出したのです。皆さんは故郷に帰って宴を開くのです。そこで全国の人々が統一教会の餅をもらって食べることになるのです。二十二億ウォンといえば大変なお金です。四〇〇〇万人で分けるとすれば、一人当たりいくらになるでしょうか。計算してみてください。(五十ウォンです)。間違いありませんか。五十ウォンでは餅が何個買えますか? (笑い) 二個で一〇〇ウォンであれば、一個五十ウォンですね。四〇〇〇万人が一個ずつもらって食べたことになります。食べる時どうでしょうか。「おいしいのでもっと食べたい」と言いましたか。「一個とは何ですか。三個は欲しい」と言われたでしょう。先生はこのように一個ずつやったのですから、皆さんは二個ずつ加えなければなりません。そうですね。そのようにして三数を合わせるのです。三数は完成数です。すべてがそのようになっているのです。皆さんそうしますか? (はい)。

 さあ、先生が恵みを与えたので、これから皆さんは故郷に帰るのです。既に錦衣還郷の宴を開いたのですね。開きましたね。そして、次に故郷に帰る時はどうすればよいのでしょうか。統一教会に入って活躍していても、一人になって故郷に帰った時、何と言われましたか。「何だあれは、見すぼらしくなったなあ、ペッペッペッ」と言われましたか。ですから、今度は全国のすべての責任者を動員して、故郷において大復興会をするのです。一カ所に一二〇名以上はどうしても集めなければなりません。自分の親族たち、いとこやはとこを中心に、村中の人々が集まれば、すぐに一二〇名ぐらいは集まるでしょう。そこで、その村でも有名な私たちの教授がソウルからやって来て、皆さんたちを紹介するのです。「私がここに来たのは、この村の愛国者であり、この村が称賛すべき人物が誕生したためです。その人が誰かというと、皆さんが今まで冷遇してきた、これまで不平の心で接してきたこの人であります!」と、このように皆さんを紹介するのです。その場を通して皆さんの証をするのです。皆さんが国を救うために活動した証をするのです。涙を流しながら皆さんの証をするのです。母と父が悔い改め、兄と姉が悔い改め、近隣の村々すべての人々が悔い改めて、泣き声となるような天の人を歓迎する運動を起こさなければ、この統班撃破運動は不可能なのです。共産党を追い出す基盤をつくることも不可能です。一族が、このようにならなければなりません。分かりましたか? (はい)。

 そのために皆さんは、その準備として今から一〇〇軒、一〇〇〇軒を回りに回って、必ず瞬時の間にこれを成すのです。しかし皆さんが家庭教会の基盤をもっていないので、代わりに機動隊を動員して行うのです。彼らが、皆さんの父母や兄弟たちの前に立って、「彼は共に苦労して因縁を契った友達だ!」と皆さんを証するのです。その中には外国人もいます。七〇〇〇名が活動するのです。その中には韓国語がよくできない人もいるでしょう。「ハラボジ」と言う時、「ハーラーボージ」とか「ハールーモーニ」とか、とても変な語調で西洋人が話しかける不思議な姿を見ることでしょう。このようにして黒人や白人、五色の人種が出てきて皆さんの氏族復帰をしてくれるのです。そして共に団結して共産党を防御しようという時に、嫌だという人がどこにいるでしょうか。もし嫌だと言おうものなら、すべての人々に悪口を浴びせかけられるのです。「こいつめ! 国を救おうとする活動に対して何ということだ。とんでもない息子をもった者だ!」と言うのです。そのようにおじいさん、おばあさん、すべてが一つになって攻撃してくる時、それでも堂々と「私は正しい!」と主張し続けられる人々がどこにいるでしょうか。それでも反対する人は追いやって一つの枠の中に入れて、早く組織編成を急がなければなりません。急がなければ大変なことが起こるというのが先生の予感です。分かりましたか? (はい)。

 先生はただ急いでいるのではありません。皆さんは天が見ても恥ずかしくなく、先祖たちが見ても恥ずかしくない天の祝福を受けた息子、娘たちとして誇れる行動が必要です。そのようにして、統班撃破という共産党防御のための総選挙時代に向けての橋頭堡を編成するのです。このような恐るべきことを成しているということに誇りをもって、前進に前進を誓いましょう。アーメン。(拍手)

 それを誓う人は手を挙げてください。皆さんはきょうの「神の日」、一九八九年一月一日、最初の先生の「神の日」の記念辞と共に手を挙げたことを忘れることなく、誓ったそのごとく遂行してください。先生はそのように信じています。では祈祷しましょう。

 祈祷

 愛するお父様、私は今、韓国の地に帰ってきて、この場に立って新年を再び迎えました。恨み多い歴史の中で、このような日々を迎える時に、責任を全うしていないという恥ずかしい姿で、自分の姿勢を支えることのできないような、心のあえぎを止められないような、同じ心情がきょうも再び継続する思いです。このような立場に立っていることをかわいそうにと見ておられるお父様、明日も前進して、私たちの日を誇りの日として、お父様の前にささげる何かを探すために、近道を行くためにあえぎながら、その群れが津々浦々の街々の角に現れる時、いかなる嘲弄や誹笑に対しても、私たちは決して気落ちする群れになってはいけません。今まで受けた嘲弄と誹笑があまりにも多かったので、それ以上の嘲笑を受けても、私たちは越えることができる体験をもった群れなのです。

 今朝、南韓と北韓を一つにするために、「韓国統一」という命題を出しました。四十三年前にキリスト教とキリスト教の国々が、天の前にその責任を果たすことができなかったすべてを、再び蕩減しなければならない時が来たので、南北は分かれてしまったけれど、今や祖国光復を成し遂げるために、南韓の地は統一教会と統一教会の文総裁の思想でなければならないということが、今や朝野のすべての喊声として聞こえてくるこの時代、この時点に臨んでいることを知っておりますので、私たちは鼓舞堂々と、大胆なる心をもって、強くて雄々しい実体となって、いかなる怨讐の敵陣の前にあっても、強く雄々しい勇将の姿勢をもつ息子、娘になれるように許諾してください。天の兵士になれるように許諾してください。

 どこの誰よりも天が誇ることに、恥じることのないだけではなく、神様が愛することにも恥じることのない、深い心情的内容をもった息子、娘となって、その息子、娘が寓居する家に訪ねて行って、共に一夜を明かすことができる所を神様がどれほど願ったことか、またどれほどそういう息子、娘を探しておられたかということを知っておりますので、走って、また走って、疲れて倒れて、夕飯をも忘れて、服を脱ぐこともできずに横になってしまう、そのような姿を天が心から慰労するというこのことを、ここに参席した人々が忘却しないように許諾してくださることを懇切にお願い申し上げます。

 私がそういう日を恋しく思い、忘れることができずに一生をささげて、受難の道も山の峰々を越えつつ耐えてきて、神様の前に褒められることのできるような歴史的事実をすべて清算したことを、忘れないように許してください。このように、この人々の心情的紐帯を感じて体恤できる以上は、その道を引き継いで、彼らが天と地の前に恥ずかしくない神の息子、娘たちになることができるように助けてくださることをお父様、懇切にお願いいたします。

 全世界に広がって、父母様を思い焦がれ、多くの人々が会いたくて夜を明かしながら泣き叫ぶ声を聞くごとに、天の哀惜なる心情を晴らすことができなくても、彼らを慰労しなければならないことを思う時に、この場にも、そのような群れが共にあり、天が訪ねてくださり、保護してくださり、守ってくださることを、忘れないように許諾してください。

 死の場をも自ら探して行く者においては、死なんとするもの生くるというみ言のように、み言と事実が一体化することを私たちの生活の中で数多く体験し、数多く見てきました。そのような昔過ごした記憶すべき日々を忘れずに、残された今年からの四年路程、一九九二年度までキリスト教を収拾し、この国を収拾して、天の主権を回復させて、天の前に立てなければならないという、その責任がキリスト教と統一教会にあるにもかかわらず、キリスト教は深く寝込んでしまい、自分たちの行く方向にかかわらず統一教会を怨讐視し、この団体を崩すために昼夜あえぐ狼のような群れになっている事実を見た時に、私たちの努力と精誠がそれ以上及ぶために、さらに努力をしなければなりません。そして彼らを感化させ、愛の炎を至る所にともさなければならないという、天の命令を担当するということを、責任をもつ群れたちが忘却しないようにお父様! 切にお願いいたします。

 今年の初日を出発しましたので、三六五日、その日その日々が統一教会にあって気を抜くような日が一日もないように、統一教会の食口たちが誇れる日々として、その一代において輝かしい歴史に残せる日々として、記憶する日々を残せるように祝福してくださることを、切にお願い申し上げます。

 決意したすべてのことを、これからその胸深くに秘めて、故郷に帰ってから粛然とした姿で子息たちを集めて、父母たちの前に自分の一家に、師の懇切な勧告がこの国を助けることのできる道であり、この国を守ることのできる守護の道であることを、真正に告白しながら、彼らを収拾して天の眷属圏内に結束できる責任遂行を許諾してくださるように切にお願い申し上げながら、これらのすべてを真の父母様のみ名によってお祈り申し上げました。(アーメン)。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う 奇知の外の凡人 が徒然なるがままに書く日記です。
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Last updated  2022.01.08 09:34:01
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