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2022.01.07
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「韓国統一」 (その1)--1989年、年頭標語

1989年1月1日


 祈 祷

 愛するお父様 ただ今、一九八八年が過ぎ、新しい一九八九年を迎えることができました。今までの四十三年間を中心としたお父様の御苦労をもう一度回想しながら、恨の多かった個人的事情、家庭的事情、氏族、民族、国家的事情、さらには世界的事情を、天のみ旨の前に収拾してささげなければならない一九四五年から一九四八年までの歴史的使命を中心とした韓国が、その責任を果たすことができなかったし、キリスト教とアメリカが責任を果たすことができなかったことにより、四十三年間という、恨の多い歴史路程をたどりつつ、民主世界は数多くの被害と数多くの受難の道を経ながら、伝統的歴史とキリスト教のすべての内的、外的基盤を喪失してしまいました。民主世界を代表したアメリカと、アメリカの伝統的キリスト教と、そのキリスト教を受け継がんとするアメリカの家庭、後世のアメリカの将来の責任を負うべきすべての若い青少年たちが、サタンの支配下で被害を受け、世界を失って、国を失って、教会を失って、家庭を失って、父母を失って、夫婦自体も失ってしまい絶望状態に至ったこの現世にあって、天は被害を被った歴史を収拾するために四十三年の間、受難の道を孤児の位置からたどっていかれて、天の王子の権限を立てるその位置まで、血の凍る闘争の四十三年路程を経てこられました。

 その間、統一教会は身を置くことのできる一坪の土地もない立場から、どこに行く当てもなき追放された荒野であえぎながら、四十年の荒野路程を歩むようになりました。これらのすべての事実を思い、その間、お父様が行かれた四三〇〇年の受難の道をたどっていきながら、地上に実現しなければならない横的に四十三年路程として蕩減をしなければならなかった息が詰まりそうで絶望的な、恨みに満ちた歴史時代を回想する時、過ぎし日が夢のようであり、受難の曲折がありましたが、天の保護のもとに勝利の日々を受け継いで、今日、この世界的な頂上に統一教会を導いてくださいましたお父様に、心より感謝申し上げます。

 お父様、私たちは天が立てなければならない家庭をもつことができず、氏族をもつことができずに、民族をもつことができず、国家をもつことができなかったこの哀れな群れたちでしたが、今や天の家庭をもち、氏族をもち、民族をもち、国家を立てることのできる勝利的時代に至りましたことを、感謝申し上げます。

 今日までアメリカを中心として戦ってきましたのは、世界史的なすべての蕩減をするためのものでありました。それと同じ位置に立って、四代の大統領の主権を中心としました戦いの路程の上に、勝利的な一つの基準を立て今回、帰国することによりまして、すべての世界史的な運勢を韓国にもたらし、今や南北統一を成就させて、韓国を信仰の祖国として、神様の願われる本郷の地になさなければならない、そのおびただしい使命に決着をつけるためこの韓国を訪ねてまいりました。

 お父様、これからは一九八九年を中心としまして、私たちの時が訪れることを知っております。歴史的転換式となる、新しい天の国を中心としました世界統一国を宣布いたしましたので、今や神様がこの地上に臨まれ、すべての主導的な権限を整えられまして、平面的な世界の運勢を収拾できる時代を迎え、私たちの経綸のすべてがお父様のみ旨の前に保護を受け、万事思うごとくになり得る時代に至りました。今や統一家に属するすべての群れは強く、大胆になり、サタン世界を主導していくことのできる長子権を復帰できますように、また各自の権威と威信をもちつつ、この国民とこの国の前に、この全人類とこの世界の前に、神様の主権を立てなければならない責任召命を受けました者として恥ずることのなきように、一九八九年の新しいこの日から出発できますことを許諾してくださいますように、お父様、切にお願い申し上げます。

 全世界二十一カ国がここに集まり、またここに全国の統一の子女たちが集いましたので、韓国を中心としてすべての二十余カ国が一つになりまして、南北を統一し天の祖国を成就しささげることのできるその使命を、今年から実践しなければならない私たちの責任召命が残っていることを知っておりますので、これから前進しますすべての道の前に、天と地が一つになり協助してくださいまして、全体的摂理を周旋して、お父様の恨みを解き、この地とこの世界から天の国の解放の主導的な責任を、この統一の群れをして成さしめてくださいますことを切にお願い申し上げます。



 南韓から北韓を統一し、さらには韓国を中心としてアジアを統一して、アジアを中心として世界を統一することのできます天的時代に臨みましたので、私たちすべての天の子女たちが一心同体となりまして、このみ旨を完遂するために総進軍しますことを天の前に宣誓するこの時間としておささげいたしますので、お受け取りくださいますよう、切にお願い申し上げます。

 これから四年間、一九九二年までのこの期間を、お父様がこの国とこの民族を立てられて、アジアの主体国として恥ずかしくない主導的な道を選ばせてくださいますように。そして、世界が行くべき方向を整えまして、二〇〇〇年代には全人類の解放と共に、天上世界の解放、統一的心情主権世界を解放してくださいますことを切にお願い申し上げます。願いのごとくにみ旨が成就されますことを切にお願い申し上げながら、この新しい年、この元旦の朝、お父様に対しますすべての内容を喜びでもって受けてくださいますことに感謝申し上げながら、真の父母様のみ名によって宣布いたします。アーメン。(アーメン)。アーメン。(アーメン!)。アーメン。(アーメン!)。

 神様の愛を中心とした創造理想世界

 明けましておめでとうございます。新年の福をたくさん受けてくださるようにお願いいたします。昨年の年頭標語は「祖国統一」でした。その「祖国統一」が「韓国統一」に変わったというその背景は、決して生易しいものではありません。復帰摂理というものは、既に皆さんも知っているように、まず神の真の愛を中心として、真なる血統による個人、家庭、氏族、民族、国家、世界へ発展するようになっていたのです。しかし、今日の私たち人類の誕生は、神の本来の創造理想である真の愛を中心とする真なる生命と連結された、愛の生命的血統を受け継ぐことができなかったのです。これが堕落なのです。そして、人類は堕落した結果どうなったのかというと、神様の代わりにサタンの愛、サタンの生命を中心とする、サタンの血統を受け継いだのです。この驚くべき悲惨なる歴史的事実を、今日まで誰も知らなかったのです。

​ ところが、 統一教会がこの地上に現れたことによって、初めて人間の根本がどのようになっているのか、また神がいるのか、いないのかということなどを明確にして、無知なる人類の前に確実に神がいることを知らせたのみならず、今までのように漠然としたものではなく、人格的なる神であり、その人格神に理想的体系を連結させた理想世界を示したのです。 それは、一つの完全な父母の位置で子女をもち、子女の位置で家庭を得て、そのような氏族、民族、国家、世界の形態による地上世界と霊界を一致させることが創造理想であったのです。そして、地上に生きる人々は、本来誕生と同時に、神の真の愛から真の父母を通じて、真なる子女を中心とした血縁関係の因縁を経て、縦的な血縁的基盤を世界的に拡大していくことにあったのです。そのような主体的家庭を中心に相対的家庭を連結して、地上世界と天上世界を成就しなければならなかったのが、神様の愛を中心とした創造理想世界であったのです。これは既に原理によって私たちが学んだことです。​

 そのような観点から見た時、私たちが生きているこの世界は、サタンの愛を中心とする根拠によって成り立っており、私たちの生命も、サタンの愛の根を中心とした生命であるというのです。ですから、私たちが生きている環境も、すべてサタンの環境であるというのです。もし、神様を中心とする真なる愛によって、真なる生命、真なる血縁関係の世界的な連結体ができていたならば、これは真なる神様の愛を中心とした一本の木と同じく、一つの根のような一つの血族によって、この世は一つの世界になっていたことでしょう。そして、その世界の内容は、すべて生命をもった一人一人であり、その生命の内容が愛であると同時に、その生命を支える生活の内容も愛であったというのです。ですから、生活を切り盛りする私たちの日常生活のすべては、愛を調和させ、愛を完成させる一つ一つの足場にならなければならなかったのです。本来すべてのものは始めから終わりまで、神様の真なる愛に同化される世界であるべきだったのです。根が一つであることによって幹が一つであり、幹が一つであることによって、すべての枝が東西南北にその方向は違っていても一つの木に属する一つの体のように、すべて連体になっていたのです。既に皆さんが知っているように、木の葉の中にある細胞一つを取ってみても、そこには根の要素もあり、幹もあり枝もあり葉もあるのです。ゆえに細胞繁殖して成長するというのです。そしてどれ一つを取ってみても、それは愛の分子なのです。根の部分を取ってみてもそこには真なる愛の分子があり、幹あるいは枝や葉を取ってみても、すべてが愛を中心とした生命体なのです。愛を中心としてすべてを連結させようとする活動、作用体であるというのです。

 このように見る時、理想的人間とはいったい何なのかという問題もすべて解決されるのです。理想的人間とはいかなる人かというと、真の愛による細胞の一つ一つと同じなのです。細胞と細胞の位置や立場が異なっているとしても、またいかなる環境にあるとしても同化されるし、和合できるのです。東西南北、前後上下左右のみならず、どこであっても主体、あるいは相対的内容でもって、自らの立場を選び分けて自動的に統一的形態を成すことのできる愛の連体なのです。それを私たちの一つの体を中心にして見ると四肢五体があり、また六十兆の細胞があるけれども、その細胞は生命を中心としての生活の舞台で同化される主体であり、そこに感じられるすべてのものは、相対圏として現れるのです。それらをいかに喜びとして消化できる主体になることができるか、またいかにそのような生活をするかということが、私たちの日常生活において誰しも必要とする生活様式なのです。

 それと同様に、私たちの本然の神性に従って、本然の心情に従って、神の真の愛を根拠にもつならば、そのように人格化された真なる人間の行くべき生活舞台で展開されるすべての環境的与件は、それらがどんなに異っていても、また歴史が過ぎ去り、時代が過ぎ去っていくとしても、そのような人々が生きる生活の内容は、同じ公式となるのです。ですから、父がいるとすれば、その父も千年前の父であれ、万年後の父であれ、その父の立場は同じでなければならないのです。また母がいるとすれば、その母の立場も、同様でなければならないというのです。母が変わったり父が変わったりすることはあり得ないのです。それは夫婦においても同様です。

 太古の私たちの先祖の夫婦の真なる愛の因縁も、億千万年が過ぎても変わることができないものであったのです。そのような夫婦による真なる愛から生まれた子女というのは、一人一人がなくてはならない人々であるのです。そして、家族とは父母の展開体なのです。このように見た時、家族の中に長男がいるし、長女がいます。また次男、次女がいます。このような息子、娘たちの中でいかなる人が真なる息子、娘であるかというと、すべての兄弟に対し父母の実体を展開した存在のように感じることのできる人が真なる息子、娘だというのです。これは何の話かというと、父母になるためには、男性は男性なりに成長して、また女性は女性なりに成長して、成熟して出会って父母になるのであり、最初から一つになっていたのではありません。

 それでは、私という存在は父母から始まったのでしょうか? それは歴史的な伝統を通じてきたものなのです。では、そのような歴史的伝統の生命の因縁をどこから受け継いで生まれてきたのかというと、男性という父を中心として、その父の骨髄の深い中に種として保管されていたものなのです。父が成熟して母に会うことによって、初めて授け受けの調和を成して、そこで生命が連結されて生まれてきたのです。一人では生まれてくることができません。必ず生命は愛によって連結されているのです。

 神様の創造の絶対的要件

​ このように、私の生命を中心として見た時、私の生命が先なのか、私の愛が先なのかという問題を考えてみると、私の生命は父母から始まったのですが、その父母も生命が先ではなく、愛が先になって生命を受け継いだ結果なのです。ですから、私は愛から生まれたというのです。それでは、このように考えていって、私たちの父母、そのまた父母の最初の先祖までたどっていった時、聖書に記されているところのアダムとエバはどうだったのでしょうか。アダムとエバの母がいるとすれば、それはどんな人だったのでしょうか? それも同じだというのです。神様の愛が合わさった因縁を通じて、神様と一つになることのできる生命が発生しなければならないというのです。このようになってこそ理論に一致するのです。神様の愛を中心として一つになることができるそのような存在が必要なのです。神様は二つではありません。一なる方です。​

 しかし、神様には相対の二つの存在が必要なのです。神様が愛であるという時には、神様一人で愛の理想を成すことができないゆえに、愛の対象圏を必要とするのです。ここから万物の創造を出発するという論理展開を成さざるを得ないというのです。ですから、神様がこの世をつくられる時、趣味でつくられたのではありません。作者が絵を描くとか、何かを彫刻するとか、芸術品を作るような考え方から始めたのではありません。神様はこの世界を絶対必要、絶対不可欠の立場で創造されたのです。これが神様の創造です。これが何かというと、愛を享受することのできる絶対要件なのです。そうですね!

 では、神様がもっていないものが何かありますか? 私たち人間が必要とするお金ですか、知識ですか、権力ですか? 今日、若い学生たちは知識をもって戦っています。誰が学士、博士になるかという戦いです。また堕落した世界を中心として見た時、誰が大統領になり、誰が何々の長官になるのかという権力構造の世界です。神様には、そのようなものはすべて必要ありません。神様はお金もいつでもつくることができるのです。黄金もつくることができます。ダイヤモンドもです。それらはすべて神様の掌中にあるものです。必要であればいつでももつことができる立場であるのです。しかし、神様も一つだけ自由に展開できないものがあるとすれば、それは愛の問題なのです。神様が人格的であられるならば、神様には愛が必要ですか、どうですか? (必要です)。私たち人間が神様の息子、娘として生まれたのならば、神様を父と呼ぶのならば、父が必要とするものは私にも必要なのであって、また私が必要とするものは父にも必要でなければなりません。

 このように見た時、この地上のすべての男性であれ、女性であれ、歴史始まって以来、誰一人として「私に、愛は必要ありません!」と宣言できる者はいないというのです。そのような人を見たことがありますか。どんなに偉い人であろうとなかろうと、貴賤を問わず、愛を否定し、愛に反対するという人はいないのです。もし女性が成長すれば、必ずその女性の体全身、四肢五体が愛に同化しようとするのです。愛に拍子を合わせようとするのです。またいかに立派で、いかに世界を統一する権限があり、万国を思いどおりに動かすことのできる権力者の男性がいたとしても、その男性のすべての力に先立って、「私は愛が必要だ」という前提を必要とするのです。どんなに素晴らしいものが備えられた生活をしても、愛を除いては幸福の位置を得ることはできません。ですから、「愛は嫌だ!」と言ってデモを行う人はいないというのです。

 ですから、私たちの祖父、祖母を見て、もし泣き崩れることがあるとすればその原因はお金を失ったり、身代を潰し身を滅ぼすということよりも、愛する子供がいなくなった時なのです。それは愛を感じたことのない人には分かりません。どんなに説明しても、これは分かりません。どんなに心が痛むことでしょうか。妻を失ってしまい、夫を失ってしまったその悲痛は、当事者でなければ分からないのです。その次には、父母を失ってしまった時の悲痛な事実です。子供や妻を失ってしまった愛の悲痛な事実は方向性を失ってしまうことなのです。東から西を眺める時は妻を思い、上から下を見下ろす時は、子供を思うのです。そして下から上を見上げる時に、上が父母の位置なので、もし父母がいなくなる時には自分の保護圏も喪失してしまうのです。自分の愛の囲いが崩れるのです。そのように感じるのです。

 そしてこのことがいかに悲しいのかというと、妻が死んだことよりも、夫が死んだことよりも、また子供が死んだことよりもうつろで物寂しいのです。そのようなことを感じる愛に対する伝統的悲しさは時代を経ても変わるものではありません。娘が死んだり、息子が死んだりして父親が大声で泣くのを見る時、現代の人間だけがそのように泣くのだろうか、千年前の人はどうだろうかと考えてみるのです。そのころは、子供は必要ないという世の中だったでしょうか? 「生むのをやめよ」「一人で生きよう」という時代だったでしょうか?

 しかし愛は、偉大な力をもっているのです。無限に拡大できるのと同時に、無限に縮小できる力をもっているのです。無限に伸びていくこともできるし、無限に縮むこともできるのです。一度その愛のひもを引っ張っておくならば、常にその人が一番なのです。愛は権力があろうとなかろうと、思いのままに拡大し、思いのままに縮小します。知識があろうとなかろうと思いのままに拡大し、縮小します。愛はすべてのものを思いのままにすることができるのです。愛によれば、億千万金を与えることもできるし、億千万金を受けることもできるというのです。ですから、女性は何の功がなくても、美人であるという一点で百万長者の妻になることもできるのです。そうすれば、百万長者のすべての基盤に完全に乗って、思いのままに生きることができるのです。夫の同位、同参圏に入っていくことができるのです。

 そして愛は、拡大も縮小も自由自在にできる力があるのと同時に、副作用もないのです。真なる愛においてのみ自由があり、解放があるのです。そうですね! 母の部屋に入る時、「ああ、どうしようか?」と言って、気をもみながら祈祷して入っていきますか。皆さん、どうですか? 自分のなりふりがどうであれ、「お母さん!」と言って、そのまま岩が坂道をころがっていくように、母の胸に抱かれる時、お母さんが「この子ったら、なぜそうなの?」と言いますか? すべて受けてくれるのですね。なりふりがどうであれ、行いがどうであれ、愛の心のままに、「お母さん!」と言うのを誰も妨げる者はなく、ただ歓迎するだけであるという結論が出てくるのです。ですから、真なる愛の時雨に合えば、すべての人々が、自分の細胞のすべてでもって愛の時雨を受けてびっしょりと濡れたいというのです。これを理解できますか? 愛にはそのような力があります。既に結婚している男女はそうでしょう?

 その次に拡大と縮小はいかになされるのかというと、まず中心を立てなければなりません。中心を立てずして縁を回っていくならば、気持ちが悪くて耐えられません。ですから、拡大したり、縮小する時は、必ず中心を立てなければならないのです。

 この宇宙の中心は何か

 さて、愛は無限なる動作をするのですが、主体と対象によって拡大、縮小するための中心がなければなりません。では、この宇宙の中で何がそのような中心になることができるかというと、それは、いかに著名なる思想家でもなく、学者でもなく、権力家でもなく、聖人でもありません。いかに聖人の教えが貴いとしても、その教えだけでは駄目なのです。人間の真なる愛を教える宗教にならなければなりません。

 このように見た時、宗教の中でも真なる宗教は、愛の道理を中心として父子の関係、夫婦の関係、子女の関係を明確に教えてくれるものであり、変わることのない、永遠なる愛の法度に治められ得る愛の内容を教示できなければなりません。そのような宗教の教祖であってこそ、真なる聖人として全人類が従っていけるのです。分かりますか? 自然科学の理論がどうであれ、原子の構造がどうであれ、世界体制がどうであれ、このことは変わることがないのです。このように見る時、理想論とは何を中心として論ずるべきかというと、知識をもって論ずる理想論は一時的なものです。そこには方向性しか生まれてきません。また権力をもって論ずる理想論も一時代のものです。永遠なる歴史を積み重ねていくことはできません。お金をもって論ずる理想論も、拝金主義、黄金万能主義を唱えるのみで一時的なものです。愛の理想論により、愛の権力、愛の知識、愛の価値を論ずるべきです。愛のみがすべてのものに勝ち、永遠に残ることができるからです。愛とは、一時代のみに終わることなく、永遠に続き子孫万代に引き継がれる伝統的内容であるということを知らなければなりません。そのためには、真なる宗教を探し求めていかなければならないのです。そして真なる人間にならなければなりません。今まで人類は、「人間は何なのか?」「人間の完成は何なのか?」ということが分からなかったのです。

 人間は何でもって完成するのでしょうか。お金ですか? (違います)。知識ですか? (違います)。思想ですか? (違います)。いかに素晴らしい思想をもっていたとしても、その思想を愛と取り替えることはできません。自分の夫と取り替えることはできません。息子と取り替えることはできません。皆さんは思想や理念を取りますか、息子や娘を取りますか? 思想と息子や娘を取り替えることはできません。思想と妻や夫を取り替えることはできません。父母と取り替えることもできません。しかし、愛をもってすれば、千年前の祖先も今日に侍ることができます。無限に拡大し、無限に縮小されるので、千年後の後孫の権威を今日に代身することもできるのです。その後孫の価値は、永遠不変、万代に同等なのです。そのような位置に立った男性の価値と、その位置に立った女性の価値をもって、その男性と女性がすべての細胞によって心身とも一つになって、神が願ってきた相対的愛の主体性、相対的愛の相対性を備えることのできるこの男女の愛の理想郷こそが、万国を治めることができ、万国の代表として立ったとしても、誰も抗議することができないというのです。そうですか? (はい)。



 さて、私たちの身体の中での神経作用と愛の感触作用の速度はどちらが速いでしょうか? 皆さん考えてみてください。若い青年男女が恋愛をすると、何の病気にかかると言いましたか? (恋煩いです)。恋煩いには女が多くかかりますか、男が多くかかりますか? (男性です)。(女性です)。(笑い) どちらが多くかかりますか? 同じでしょう。同じですね。(笑い) 同じなのです。これに反対する者はいません。先生は同じだと思います。違うという人がいれば説明してください。説明するからには、その人が体験したものでなければなりません。では、男性が女性を恋しく思うのと、女性が男性を恋しく思うのとは同じでしょうか、違うでしょうか。どうですか? 同じでなければ大変なことになるのですね。男性に鼻を触られることがどんなに嫌な女性であったとしても、もし相手の男性が愛する人であれば、もっと触ってほしいと願うのです。愛にはそのような力があるというのです。愛は外へ出ていったとしても、自動的に内的世界の深い所まで入って占領できる内的力を備えたものなのです。ですから、すべての人間は愛を好まざるを得ないというのです。分かりますか? (はい)。

 最近、世界的に権威ある学者たちが、レバレンド・ムーンは愛の主、救世主だと言うのを聞きます。(アーメン)。「愛の救世主であり、愛の哲学を論ずるのみならず、実践している素晴らしい人である」と言っているのです。それで、「レバレンド・ムーン、あなたはなぜそのように世界中で悪口を言われ、世界中に波紋を与えて、どんな家庭でも、どんな国でも、なぜ問題を起こすのですか? 今やあなたのゆえに問題の起きない家庭や国がないほどに、なぜうるさく騒ぎ回っているのですか。目的は何でしょうか?」と言うのです。なぜそのように揺するのかというと、それを揺することにより、ぎしぎしと穴が生ずるのですが、その穴に愛の空気を差し入れ、愛の水を差し入れようというのです。揺すっておくほどに愛を差し入れた時、それ自体が強く固まるのです。

 このような真なる愛に属した夫が、その妻に対して愛をもってたたいた時、家庭不和が起こるでしょうか? (いいえ)。嫌いでたたけば、そこに家庭不和が起こるのであって、「ああ、いいですね」と言いながら一度たたいたからといって、妻が「あなたは、なぜ私を打つのですか!」と言うでしょうか? 「あなたはよく調和して、まるで稲妻みたいです」という心をもたなければならないのが、愛に浸った夫の心情であり、妻の心情だというのです。これは正しいでしょうか、間違っているでしょうか? (正しいです)。私たち人間がそうだとすれば、神様も愛が必要でしょうか、必要ないでしょうか? (必要です)。

 それでは、神様は愛の対象をどこで探し求めるのでしょうか。愛は一人では成せないのです。では、文先生に愛がありますか、ありませんか? (あります)。見たのですか? (見ました)。何をもって見ましたか? (心をもってです)。男性と女性を見た時、男性に「愛がありますか?」と言えば、「ありますとも!」と言い、女性に「愛がありますか?」と言えば、「ありますとも!」と言うのですが、それは何をもって証明するのでしょうか? 問題は簡単です。男と女が違う点は何かということです。

 さあ、それでは文先生は愛がありますか、ありませんか? (あります)。何を見てそういうのですか。天地万物の中のすべての調和というものは、凹凸を中心としているのです。鉱物の世界もみな同じなのです。対になっているというのです。これが分かっていれば、どんな研究をすることにおいても何の問題も心配ありません。化学の実験室に入って研究するとしても、これが分かれば、その相対が何なのかを探して作動させるならば、すべてがぴったりと決まるのです。神様が「作動するな!」と言ったとしても、「何ですか、あなたがこのように造ってくださったので、私はこうして作動するのです。これこそ神様が喜ぶことではありませんか!」と言いながら、ポンとけ飛ばして作動するというのです。神様の前でも堂々とそのような動作をすることのできる力をもっているというのです。では、神様も愛が好きでしょうか、嫌いでしょうか? (好きです)。それを見ましたか? どうして分かりましたか? 男に愛があるということ、女に愛があるということがどうして分かるかというと、自然の道理を見るとよく分かるのですね。いかに男性が立派だといっても、凸が凸を訪ねていって一つになるということは気違いなのです。それは敗北者です。落伍者なのです。それは合格側の圏内に入れません。男として生まれたならば、女性を探し求めていかなければなりません。

 体と心の幸福の基地

体と心がいつ統一されるのか考えたことがありますか。これは深刻な問題です。一生涯続く体と心の戦いを止めることのできるものは何なのか。これが問題なのです。私たちの父母も止められません。私たちの国の王様も止められません。いかなる師も止められません。聖人も止められません。このような体と心の戦いを止めることのできる主人はどこにいるのでしょうか。誰か深刻に探してみましたか?

 それが愛だというのです。真の愛のみが可能にするのです。これは統一教会の人たちが体恤していかなければならない貴重なみ言です。そのために先生はどれだけ深刻に考えたことか知れません。今日まで生の問題を解決するために苦しみ、みんな自分の生命を断っていってしまいました。このような、ありとあらゆる道において敗者の烙印を押されて死んでしまった人生の歴史があったのですが、それがどこから出発したのかというと、体と心が統一点をもてず、体と心の幸福の基地をもてず、体と心に希望をもてず、理想をもてなかったためです。では、何をもって体と心を統一しなければならないのでしょうか。お金をもって統一できますか? 力ですか? 知識ですか? 違います! 愛のほかに道はありません。愛しかありません。愛です! ですから、愛は永遠でなければなりません。私たちの心は永遠を願う主体性をもっているのですが、その私たちが永生を願う欲望以上に、愛はもっと大きい永生を願う力を備えているのです。ですから偉大な愛だというのです。このことに異議がありますか?

 皆さんもそのように生活してみなさい。心と体が一つになれば、ここで心がドンと打てば体に共鳴するのです。反対に体をドンと打てば心に共鳴するというのです。私たちの頭脳もそうです。この手の先はそっと触れれば響きますか、響きませんか? 体の全身に響くと同時に心にも響くのです。神経器官がそのようになっているのです。外的に神経器官の動く外的触感と共に、内的根本まで響かすことのできる力があるならば、それが愛の触感だというのです。愛する夫が妻の髪の毛を一本そっと抜くと「痛い」と言い、二本抜く時も「痛い」と言うのです。では、三本抜く時はどうでしょうか? 女の人たち、どうですか? 「また、抜いてください」と言いますか。どんなに愛されている妻であっても、三本以上抜くならば怒ってしまうのです。なぜかというと、自分が被害を受けたと感じるからです。そのような女性であれば、自身を保護するためにはその品性も何もありません。しかし愛をもって解釈するならば、そのような人が幸福なのです。

 それと同じく、神様も愛が必要です。文総裁も愛が必要であるようにです。では、神様は男なのでしょうか、女なのでしょうか? 私たちの原理では、どう教えていますか? それが問題なのです。先生は、神様が男なのか女なのか、何としてでも理論的に究明しなければならないのです。あいまいな神様であってはならないというのです。女が先ですか、男が先ですか? (男です)。男たちは、男が先であると言い、女たちは女が先であると言うのですね。ではアメリカの女性たちに聞いてみましょうか。「女が先ですか、男が先ですか?」と言うと、「女です」と言うのです。「すべて男たちは、女から生まれたからです」と。そのように考えているのです。即座の感情は相通じるのですね。いかに立派な男であっても、その人を生んでくれたのは、父か母かというと父なのですね。父が動機にならなければ生まれないのです。しかし生まれる時は、母の胎中から出てきたのですね。母が生んでくれたので、女が先であるという話も妥当みたいだというのです。では、女は畑でしょうか、種でしょうか? (畑です)。そうです。悪口ではなく、畑なのです。それが真理なのです。ですから男が先なのです。畑がどんなに良いとしても、栗を植えれば栗畑というのであって、もしその翌日に豆を植えれば豆畑になるのです。(笑い) 種によってその呼び名が違ってくるのですね。(笑い)

 ですから畑であれば、種を植えなければならないのです。では、どんな種を植えるのですか? (良い種です)。女の人たち何が良い種子なのか、悪い種子なのか分かりますか? それが分からないのですね。しかし、先生にはそれがよく分かるのです。ですから、今回もまたみなさんの祝福を行ったのですが、誰も不平を言わずに「一番良い相対と会った」と喜んでいるのですね。初めて会ったのに、世の中で十年共に暮らしてきた夫婦よりもっと仲の良いのを見た時、「レバレンド・ムーンは実に素晴らしい人だ」と分かったのです。(拍手)

 さて、神様は女でしょうか、男でしょうか?  答えてください。このことで先生がどれほど悩んだのか分かりますか? それは、実に深刻だったのです。統一教会の『原理講論』を読む人は、国会議員たちが他人の書いた演説文を読むような方式をもって読んではとんでもないことです。皆さんは杖なしに歩き回る盲人を見たことがありますか? (ありません)。良い盲人であっても、悪い盲人であっても、杖をつくのが統一的行動なのです。何の話か分かりますか? 統一教会の人たちが、先生ほどに深刻ではないということです。命を懸けて、すべての人生問題において神様がいるのかいないのかという、切実なこの問題を深刻に考えたことがありますか。

 このように見る時、皆さんはあまりにも遠い関係なのです。皆さんが「神様」と言った時、まるで隣町の神様みたいです。そのような隣町の神様をつくってみたいですか、それとも我が国の神様をつくってみたいですか、我が家の神様をつくってみたいですか、私の神様をつくってみたいですか? (私の神様です)。私の神様というこのことは、実に深刻な問題なのです。もしそういう神様であれば、私たちの町内の誰よりも深刻でなければなりません。神様を私たちの町内から奪ってこなければならないからです。また私たちの国から奪ってこなければなりません。四〇〇〇万民族の誰よりも深刻に神様を必要としなければなりません。もし人類の神様を私の神様だとするならば、人類の深刻さを越えて、それ以上の深刻な位置に立ってこそ、私の神様にすることができるのです。これは理論的なことです。より必要とする人が、それを所有するようになるのであり、必要とする人に、この自然も供給するようになっているのです。おなかの空いた人に御飯が必要なのであって、おなかの満腹な人に御飯は必要ありません。それと同じことです。

 私はこの前、誰かにこのような話をしました。李相憲(先生)が勝共理論を書いたことについてです。学者たちの中で李相憲ほどに深刻に考えた人はいません。尹博士もそのことを知らなければなりません。これが分からなければなりません。大学を出たとか、何々の博士になったとか、自分が知っている常識をもって評価してはなりません。私もそのような人は嫌いです。なぜかというと、先生は生死の境を逆転させてきたからです。生死を懸けて、命を懸けて逆転させ、選び分けてきたのです。それをできない人が、何の評価をするのですか。黙していなければなりません。統一教会の原理を評価してはなりません。文総裁を評価すれば、死ぬことにもなります。今に見ていなさい。これまで私に反対した人たちで、成功した人はいなかったし、私に反対した国で栄えた国はないのです。既成教会も私に反対したがために、あのように滅びて落ちていくのです。今や共産党の巣窟になってしまいました。聖書に記されているように、狼が羊の服を着て入っていって略奪しているのです。

 「主なる汝の神を愛せよ」

 統一教会の文総裁を一番憎んでいるのが誰かというと、キリスト教であり、そのキリスト教の中でも民衆神学、解放神学を中心とした者たちなのですが、彼らは正に共産党の手先なのです。神を探すことのできない者が、民衆神学を立てることができますか! 神がいないという彼らには、神学を立てることはできないというのです。何が解放神学ですか! 神学という言葉もくっつけるなというのです。神学は神様に対する学問であり、宗教とは自己開拓、自己啓発のための教えなのです。自己啓発をするためには、今まで罪となった歴史的なすべての結実である自分自身をいかに罪から解放できるかということです。パウロのような人であっても、 「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」 と嘆いたのです。野良犬のように自己解放を受けられなかった者が民族解放、大衆解放をいかに成すというのですか! 話にもなりません。宗教というものは、自己解放のために立てられたものです。個人完成が世界的基準まで至った人を何千年の歴史をかけて探し求めて苦労してきた神様の歴史なのです。アダム再創造の歴史なのです。

 経済哲学は、すべての人間の理想を包括して導いていく標題になることはできません。その標題は、愛を中心とした理想論でなければならないのです。そのようなことを全部深刻な位置で処理しておかなければならないというのです。何の話か分かりますか。神様も必ず愛の対象が必要であるということを知らなければなりません。では、その愛の対象は、どのような人でなければならないのでしょうか。体と心がバラバラになって、四肢五体が自分勝手に、五官が自分勝手に放蕩する人ですか、そうですか? (違います)。四肢五体が確実に統一されて、一つの生命体になって、五官の方向がすべて統一的方向に帰一され、行動的な面においては、永遠なる理想を慕いながら、そこから真なる愛を描いていけるような人であれば、神様も愛の対象的な存在として考えることができる条件、内容があるとみなすのです。もしそうでない輩は滅びるのです。皆さんは何のために統一教会に入りましたか? 妻を食べさせ夫を食べさせるために、子供が祝福を受けるために入ったのですか。皆さんはまず自分自身を解決しなければなりません。

 ここに立っている文総裁は、自分自身を解決するために骨を溶かした人なのです。涙も何瓶も流した人なのです。鞭で数千万回も打たれた人なのです。世界中のすべての矢を受けても倒れなかった人なのです。それはなぜかというと、愛があるためです。愛は打った人の位置を越えて永遠に成長するのです。ですから、統一教会は打たれながら、文総裁は迫害を受けながら、今日の世界的発展をどのように成してきたかというと、愛の主体たる神様が文総裁を必要としたからです。一回打たれるたびに、損害賠償まで責任を負ったので、打たれるたびに大きくなってきたのです。これが先生の一生です。監獄に入っても、出てくるたびに統一教会は発展したのです。アメリカの監獄に行って出てきた時、自由世界が私の前にひざまずいたのです。

 共産世界のソ連に対しては、金日成執権下の北韓の監獄にも入ってきたのです。ですから、今や私が行く先々で彼らの足場がみな崩れているのです。何のことか分かりますか? 神様が私を必要とするからです。正義のためです。商売をするだけの根性で歩き回るような人を、神様は必要とするでしょうか。自分自身をよく反省してみなさい。聖書に 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる汝の神を愛せよ」 とありますが、これは命を懸けて成しなさいということです。そこにはお金も必要ないし、権力も必要ないし、知識も必要ありません。愛こそが一番であり、最初の戒めなのです。それで何を成そうとするのかというと、天地の大主宰たる、絶対的な一なるお方の愛の対象として、立ててあげるというのです。そのような内容を神様がもたなかったとするならば、神様は独裁者です。

 そのような観点から見た時、このような聖書のみ言は正しいですね。 「主なる汝の神を愛せよ」 というのが最初の戒めであり、最初の戒めを守ることができない人は、たとえ二番目以下の一〇〇の戒めをすべて守ったとしても、そのような人は愛の法度の世界、愛の真理の世界に入れないのです。二番目の戒めは、 「汝自身のごとく、汝の隣人を愛せよ」 というものです。では、汝の隣人とは誰ですか? まず身近には妻であり、子供であるのです。そういえば実感がわくでしょう。ではその妻はどこから来ましたか、子供はどこから来ましたか? 妻は外から、子供は祖先から来ましたね。子供は私から来たのではないというのです。すべて隣人のような関係にあるのです。神様を愛するように、思いを尽くして隣人を愛さなければなりません。そのような心をもって神様を愛し、隣人を愛した人は天国をすべて占領しても余りある人だというのです。このような観点から見た時、合格する人がどれだけいますか。これは深刻なことです。先生がいかに深刻だったか分かりますか。ただ座って原理の道を探し求めたと思いますか。切り取りナイフで、一つ一つに接して切り取るようにしながら探し求めたのです。このような原理のみ言をなおざりにしたり、無関心に冷遇する悪党のような群れがこの統一教会にも多いということを私は知っているのです。そのようにつまらなく、くだらなく考えるような人々は、先生のみ言もくだらなく考え、先生もくだらなく思うのです。八八年までのすべての行動を一掃しなければなりません。でなければ、神様の絶対的愛の対象圏とは関係がありません。

 深刻でなければならない!

 私が四十三年路程を終えて、皆さんに語ることは、「深刻でなければならない!」ということです。皆さんも片方の目が痛む時は、どんなに深刻に悩むことでしょうか。それは、そこに最も関心をもつからです。また指一本を傷つけてもどんなに深刻になることでしょうか。人類始祖が堕落したことによって、私たちの全身は満身創痍なのです。その痛さが麻痺して、混迷状態になっているのを忘れて生きているのが今日の人間たちなのです。それを神様が御覧になった時、どんなに悲惨なことでしょうか。寸時を争いながら、生命を競い合って落伍者になり、流れて消え去る人生を考えた時、人生の価値はそのように無価値なものであってはならないのです。

 神様が大声をあげて「私の息子よ! 私の娘よ!」と泣き叫びながら、何万年、何十万年、何百万年経てきたという事実を知らなければなりません。 そのような神様の前に「父よ! 父よ!」と声が嗄れるほどに呼んだことがありますか。舌が渇き、息が詰まり、目を開けることができないくらいの切実な心をもって、どれだけ「父よ!」と呼んでみましたか。生命の主体なるその価値を抱くために、どれだけ逆転しただろうかというのです。その逆転した基準が、皆さんの人格基準として見ることができるのです。このように見た時、誰が本物なのか、偽物なのかすべて先生には分かるのです。そのように先生は見ているのです。これは深刻な話です。先生に従ってきて、先生が備えた福の位置に同参し、勝利したすべての基準を相続するための欲心をもった皆さんですが、正義に対する、天に対する、愛に対する深刻な位置でどれだけ監獄に出入りしたことがありますか。どれだけ悪口を言われてきましたか。この者たち!

 誰も監獄に入ることなど考えてもいないというのです。そのような者たちが、このような高貴な位置をそのまま相続できるでしょうか。もし失敗すれば死ぬのです。間違えて行動すれば滅びるのみです。何の話か分かりますか。神様が愛の対象をつくられる時、いかに深刻だったのか、皆さんは知らなければなりません。万物の創造についても、既成教会ではすべて神様はみ言で創造されたというのですが、それは間違いです。愛の力を通して、神様はすべてを投入されたのです。神様は愛を犠牲にして万物を創造されたのです。神様は内的愛を完全に投入されたのです。

 それで、完全に真空状態、完全な零の状態になるのですが、愛は消耗しません。愛は与えることにより、プラスされて戻ってくるのです。この宇宙も均衡がとれているのです。ですから、この宇宙で悪党たちが活動することは、いかにロスの多いことでしょうか。電気で言うならば絶縁体のようなものです。通じないものを通じさせようとするのですから、どんなにロスの多いことか知れません。しかし、発電所の発電機は故障して壊れるまで送電線があろうがなかろうが、配電線があろうがなかろうが関係なくその力を発揮するのです。神様は今まで何千年間も発電機のようにただで回っていたというのです。ですから、皆さんも「私は、深いこの洞穴で回っているけれども、私の力は光明なる天地を轟かせ、万民の幸福の基地になっている」と言いながら、そこで踊り歌い、万民の理想的生活を追求するこのような福地の起源になろう、と考えることができなければなりません。それが発電機としての幸福なのです。

 さて、神様の真なる愛のジェネレーターは、人間を創造したその時から回り始めたのですが、中間で止まるのでしょうか、続けて回るのでしょうか。尹博士どうですか? (はい、回ります)。それは続けて回るのですが、常に空虚に回っているのです。愛の相対圏がない位置で、愛の主動的な本質を消耗させる悲しさにどんなに恨んで嘆かれたことでしょうか。皆さん、一人で生きる男やもめを考えたことがありますか。常に「ああ、私の幸福よ」と言い、また「ああ、私の運命よ」と嘆くのです。子供を死なせた父の心を誰が消し去ることができますか。それを消し去ることができるのは、息子が再び生き返ること以外にはありません。絶対的なのです。また、妻が死んだ悲しさも誰も消し去ることはできません。妻が再び生き返ることだけが夫を解放できるというのです。同様に、神様は愛の対象として人類始祖をつくりましたが、その人類始祖を中心としての対象圏を失ってしまった神様の悲しみを誰か慰めることができるのでしょうか。それ以上の存在が出てきて、「あなたはこのような事情のお方であり、このような歴史的な恨みを積み重ねてこられた悲しみのお方であることが分かりました。あなたが探し求めてきた道は、こんなにも多くの曲折があったのです。そのような千年万年の歳月を経て、あなたはいかに心を痛め、思い焦がれたことでしょう。そのような歴史的な悲痛な事情は、この私一人を愛でもって解放するために創造主として、救世主としての永遠不変なる姿勢であることが分かりました」と言いながら、千年万年賛美しても、お慰めしても解くことのできない神様の本然の愛を失ってしまったことを、誰かが探し出して、神様を解放しなければならないのです。

 皆さんには、どんなに神様の悲しみを話してもその実感はわかないでしょうが、この文総裁は違うのです。誰か一人でもそのような神様の話をすれば、たとえ踊りの会場であっても、激しく痛哭する先生なのです。ですから皆さんは、統一教会を改めて信じなければなりません。統一教会を再び学ばなければなりません。先生を再び学ばなければなりません。先生はどんなに深刻かというのです。この偽者たち! 夜を徹しながら、この道を探し求めるために、先生はどんなに痛哭し、どんなに逆転してきたか知れません。皆さんには分からなくても神様だけが知っておられるのです!

 今日のこの位置を探し求めるために、先生はどんなに心を痛め、思い焦がれてきたことでしょうか。倒れ、また倒れ、また倒れて、何度倒れたとしても、神様が倒れないその姿を見て、この愛の貴さが分かり、神様をお慰めしなければならない子供たる道理を知ったために、銃剣が脇腹を裂いていくとしても、「神様、私は大丈夫ですから、私を心配しないでください!」と言って慰めてきたのです。これは、堕落した後孫たちが行かなければならない運命の道なのです。にもかかわらず既成教会の牧師、長老たちは、「福は、自分たちがみな受けます」「自分たちが正統です」と言うのです。そして「文総裁は異端の頭だ」と言うのです。誰が本当の異端の頭なのか見ていなさい。異端の頭は滅びるのですが、正統は栄えるのです。今や、日本でも「統一教会の人だけが希望だから、統一教会の人を送ってください」と大騒ぎなのです。アメリカでもそうだし、韓国でもそうです。統一教会の人たちだけしか信じることができないというのです。

 今日、互いに南北統一をすると言っています。それで先生は後ろでじっと見ているのです。この南北統一は私が最も主張してきたことなのです。今こそ南北統一すべきなのに、彼らは反対に騒乱を巻き起こしているのです。もし簡単なことであれば、既に私が成し終えていることでしょう。今も時を待っているのは、まだ残っている峠が多いからなのです。私は愚か者ではありません。かといって天地を意のままに統轄して歩き回る人ではありません。先生は神様の背中に乗って歩き回る人なのです。(アーメン)。何が「アーメン」ですか? (笑い) そのような資格を得て「アーメン」と言わなければならないのであって、資格もない者がなぜ「アーメン」ですか。

 いったい誰の神様をつくるのですか。アメリカの神様をつくるのですか、大韓民国の神様をつくるのですか、私の神様をつくるのですか。どういう神様をつくるのですか? (私の神様です)。欲が深いですね。(笑い) そのためには民族以上に神様のために努力しなさいというのです。誰よりも神様のために努力しなさいというのです。文総裁以上に神様を愛して、そのために生きなさいというのです。神様が文総裁を好きであるとするならば、その文総裁以上になれば、神様は間違いなく皆さんを好きになるのです。それは間違いない公式です。これには異議がありませんね。先生が願うことは、先生よりもっと神様を慰め、神様のみ旨のためにもっと奉仕し、功を立てることのできる人になることです。万一、この私が私よりもできない人がいることを願うとするならば、それは独裁者なのです。何の話か分かりますか? (はい)。誰よりも私の神様をつくりたいですか? (はい)。ここで自分の神様をつくりたい人は手を挙げてみなさい。これはすべての人々が願うことですね。

 私の神様をつくらなければなりません

 私は、私の神様をつくるために多くの悪口を言われて歩き回りました。分かりますか。アメリカの神様ではありません。イギリスの神様ではありません。ドイツの神様ではありません。ある牧師のための神様ではありません。私の神様をつくろうとしたのです。ですから、私の教えは神様の心情についてです。神様の心情による人格について語っているのです。そのような人格を中心とした心情の夫婦について語っているのです。心情の家庭、心情の氏族、心情の民族、心情の国家、心情の世界、心情の天宙圏について語っているのです。皆さんはこのみ言が何のことなのかまだ分かっていません。先生のみ言は、このような内容を知らずしては理解ができないのです。内容があまりにも膨大だからです。しかし、このみ言が分からなければなりません!

 統一教会の食口たち! 私の神様をつくるのですか、文先生の神様をつくるのですか? (私の神様です)。私の神様をつくろうとするのならば、先生よりもっと熱心に活動しなければなりません。先生より安らかに眠ってはなりません。あなた方の息子、娘が行くべき道に垣を築いてはなりません。くぼみを掘ってはなりません。垣があるならば垣を崩し、くぼみがあるならば橋を架けなければなりません。そのようにして、私の神様をつくらなければなりません。絶対的な神様が私の神様にならなければなりません。私たちの家庭の神様にならなければなりません。私の神様をつくることが難しければ、自分の妻の神様をつくらなければなりません。自分の息子、娘の神様をつくらなければなりません。そのようにして連合的な神様の権威を立てなければなりません。そうすることによって神様が喜ばれるからです。そのような神様のみ旨なのです。

 そのような家庭、そのような氏族を成し、私の神様から氏族の神様、国家の神様となるのであって、氏族の神様から始めてはいけません。国家の神様から始めてはいけません。これが分かりますか? 自分が重要な問題なのです。外的に立派だという人を評価する前に、まず自分自身を評価しなければなりません。外的怨讐がいる前に、自分自身が怨讐であることを知らなければなりません。外部の怨讐は、私たちの目の前に現れて、一時的に攻撃してくるのですが、私の心の怨讐は一生涯、億万年くっついて私を矢で射ているというこの事実を知らなければなりません。

 このような怨讐をいつ征服するかという問題が、堕落した血統を通じて、私の中に根を下ろしているという事実が分かっていないのです。ですから、この私たちが手を出すこのことも、サタンの手になっているというのです。また愛を探し求めていく時に、男女が交際する時も、サタンが混乱を起こしているという事実を知らなければなりません。今日、よこしまで怪しげなる欲望の地獄門の前であえぎ苦しむ人類像を眺め、神様の真なる愛をどこから求めるのかを考えてみなければなりません。心が冷え冷えするようなこの現実なのです。

 今日、この腐り切ったアメリカ社会のフリーセックスなど、サタン悪魔によって地獄化された中で、その反対の絶対的天国化の愛の理念をどのように立てるのかということが、文総裁の仕事なのです。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。神様は縦的父母であります。真なる愛を中心として見なければこれが分からないのです。今日の統一教会の原理を通じて、文総裁が昨年一年間ですべてを明らかにしたのです。神様はいったい何なのか、今まで誰にも分からなかったのです。いかなる考えをもってしても分かりません。実験を通してみて、「間違いなくそうである」と、自ら間違いのない位置で語ることができるのです。統一教会の文総裁のみ言どおりに間違いなくそのようになるのです。それがこの世の指導者と先生の違うところです。先生はこの世の指導者たちのように応用する人ではありません。常に実践しながら生きると同時に、証明する一つの標本像として生きているのです。ですから先生の話は「このようであろう」ではなく、「こうである!」というのです。

 さあ、そのようなことを知った皆さんは、自分をもう一度チェックしなければなりません。そしてもし悪魔世界の博物館の展示場に一つでも提出するようなものがあるとすれば問題です。そのようなものが残っていてはなりません。そのようにして、サタン世界から解放され得るということを知らなければなりません。何の話か分かりますか? (はい)。常に深刻でなければなりません。先生は三十歳になるまでは、むやみに話をしませんでした。私の責任と、私の行く道をいまだ定めることのできないような男が、いかに口を開き、いかに自分を主張できますか! 恥ずべきことなのです。ですから先生は、三十歳以前はおなかが空かなかった日がありません。父母が学校に行きなさいといってお金を送ってくれたならば、全部友達に分け与えて、服も古着屋で垢の染みついた一番古いものを買って着ました。ですから、皆さんを三十歳までは苦労させるのです。分かりますか? (はい!)。統一教会の人々は、三十歳までは報酬を得ようと思ってはなりません。それをもらえる人は、神様の相続を受けられる人でなければなりません。神様の所有圏に同席することのできる資格者でなければなりません。

 そのためには原理でいう、責任分担完成をしなければなりません。 責任分担を完遂して、神様の愛のみ前に連結されることによって、神様の愛を中心として一つになり愛の同位権、同参権、相続権を得るのです。 このように見た時、世の中の怪しげな人間たちを掃き捨てなければならない時が来ます。今まではそのような人たちも、先生が父のように手助けしてやり、相談してあげたのですが、いつでもそのような先生であると思ってはなりません。これをはっきりと知らなければなりません。分かりますか! 私を利用してはなりません。これからは、私のほうが皆さんを利用しなければなりません。私が皆さんを利用するのならば、皆さんは生きることもできますが、皆さんが私を利用しては生きる道もありません。

 神様の作戦

 今まで統一教会のいろいろな非理も、私は全部知っていても知らないふりをして、だまされてやっているのです。知らずにいるのではありません。一九八八年までは、私が責任を負ってきたのです。いかに難しかろうが、楽しかろうが、すべてに私が責任を負った時代でした。人類を代表し、歴史的なすべての国々を代表して、数多くの国民、数多くの国の為政者たちを代表して、私が責任を負ってきたのです。今では、その責任をすべて遂行したのです。サタンはその責任遂行を妨害するために、ありとあらゆることを常にやってきたのです。先生の妻子をみな奪っていきました。父母を奪っていきました。一族をみな奪っていきました。皆さん、それを知らなければなりません。文総裁が離婚したのでしょうと言うのですが、私が離婚したのではありません。サタンがすべて奪っていったのです。サタン世界と既成教会なのです。子供を滅ぼしたのも私ではありません。その母親が既成教会員なのです。私の一族も全部、犠牲になったのです。ですから一族を失ってしまったように、一国も失わなければなりませんでした。国を捨てなければなりませんでした。この世界を捨てなければなりませんでした。そして、私だけが残り、一人追放された立場で、荒野のような世界に立って、そこに石垣を積み、生命の橋を架けて上がってきたのです。再び韓国の地に上陸して、すべての試練と激しい攻勢を受けながら、黙って打たれながら奪ってきたのです。何のことか分かりますか?

 神様の作戦を知ることができたからです。悪魔が打てば打つほど、国全体が一つになって打ってくる時、その国全体の降伏する日が早く来るというのです。世界全体が一つになって攻撃すればするほど、世界全体の降伏する日が早く来るというのです。それで個人から家庭、氏族、民族、国家、世界まで、迫害の路程を歩んできたのです。分かりますか? ですから、アメリカのような国では、ショーのクイズにも出てくるのです。「この世の中で一番悪口をたくさん言われる人は誰ですか?」と。すると直ちに「その人はレバレンド・ムーンです」と答えます。

 この歴史上で一番悪口をたくさん言われた人は、ヒトラーでもないし、ムッソリーニでもないし、スターリンでもないし、共産党でもありません。彼らを世の中のすべての人々が反対したのではありません。しかし、この先生は初めからそうでした。四十三年間が何ですか。迫害は解放前から始まったのです。その当時から今日もなお迫害を受けている先生なのです。ですからいつも四肢を伸ばして心置きなく眠れないのです。今も天に対して四肢を伸ばして眠れないのです。それが習慣になったのです。右のほうに横になるか左のほうに横になるかです。罪人の身を抜け出なければならない一日を願って生きているのです。私の家庭を解放しなければならない解放の日を願って生きているのです。いまだに氏族を解放させなければならない解放の一日をもてません。南北統一、韓国統一を中心として、民族と国家解放の一日をもてないのです。

 韓国統一はこのままでは成せません。アメリカやソ連、日本や中国によらずしては成せません。誰が何と言っても駄目なのです。今に見ていなさい。下手をすると死ぬのです。現政府に共産党を消化できる能力があるでしょうか。なぜそのように急ぐのですか? 先生は準備しておいたとおりのことをゆっくりと行うのです。正しく大きく育ってこそ、その実も正しく結実するのです。急いで御飯を炊けば、生煮えの御飯になります。中間で全部崩れてしまうかもしれません。私は慌てません。私以上に忙しい人がいないし、私以上に深刻な人はいませんが、まだこのようにしているのです。しかし政治の背後においても、誰よりも深い谷間から私は準備してきたのです。多くの人々が私の世話になっているのです。既成教会は解放神学だといって、今や共産党の巣窟になっているのです。そして、文総裁一人をへし折っておけばよいと世界万国共産党と合作して攻勢しているのです。このようなことも知らずに皆さんは、この前も何だと言ったのですか? 「あの団体を後援したならば既成教会が反対するので、大変なことになる」と言いましたね。

 先生は四十年間、また生涯を通じて、既成教会に対して正面から命を懸けて戦っているのです。そのような先生が恵沢を与え、そのような先生が協助しているのです。恩恵を知らない人は滅びるのみです。私がこのように自信をもって話をするのは、先生に「滅びよ」と言った者たちで、滅びなかった者がいなかったためです。だからといって、私が呪ったのではありません。これは原理なのです。「元亨利貞」は天道の常だということです。ですから、統一教会の食口たちは神様を先生の神様として置いておきますか。皆さんの神様につくるために涙をどれだけ流してみましたか? 私は涙を流して、朝昇ってくる太陽の光を見ることもできず、頭を下げて生きた男なのです。木が私を慰め、芝が私を慰め、岩が私を慰めてくれたのです。このように、その事縁が深くしみ込んだ事情に従い、天が私を尋ねてきて慰めたのです。自然が慰め、海が慰めてくれたのです。その世界に戻ってみると、すべて見えます。すべて語ります。すべてが「解怨成事。万福があることを願う」と語るのです。そのようなる福寿が地上から天上に染み入るようになる時、神様が挙動し始められるというのです。ですから、先生はむやみに祈りません。先生は行ったあとで祈祷する人なのです。分かりますか。体験してから教えるのです。

 さて、きょうの表題は何でしたか? (韓国統一です)。南北統一もそのために準備してきたのです。準備できなかった個人は流れていくのです。国家も、準備できなかった国は流れていくのです。万一、この韓国が滅びても、再び韓国は蘇生します。私が教えてきた、私が立てた天の法度と、天の秩序に従って蘇生します。この国、この民が南北を統一できなければ、世界中のすべての統一教会の食口たちが南北を統一するのです。何の話か分かりますか? 私たちが統一するのですか、それとも外国の人たちが統一してくれることを願うのですか? (私たちが統一します)。韓国自体が統一できなければ、その福を韓国は失ってしまい、統一を主導した外国の人たちの福になるのです。その福を受け継ぐ国が先生の国になるということを知らなければなりません。何のことか分かりますか? (はい)。

 最近は、太平洋時代だと言いますね。太平洋時代とは、私が四十年も前から教えてきたことです。それが今やすべてに一致しているのですね。一九七八年から十二年間は日本の全盛時代になりますが、一九八八年を過ぎてからは下っていくのです。韓国を助けなければ下っていくのです。それで今度、日本の人々をして下っていかないようにしたのです。今度韓国の人と祝福を受けた人たちの中で、東大出身者だけでも十四名です。その人たちが花嫁を得るのに、また新郎を得るのに何を見てしましたか? 空中を見てしました。空中です。(笑い) それが蕩減なのです。この目をもってだまして食べてきた堕落の血統たちが相対を得るにあたって、全部神様の前に任せて、「神様が一番であり、絶対であります。この世を見返りません」と言って目を閉じたので、蕩減復帰できたのです。

 それで今回の祝福を見た外部の人たちは、統一教会の信者たちの結婚は、みな言葉が通じるものと思っていたのです。しかし、結婚式に多くのカップルが参席しても言葉が少なくとても静かでしたね。(笑い)「お昼を食べましょう」という言葉は何と言いますかとか、「便所に行きます」と話ができましたか。それで仕方なしに便所までついて来るのですね。(笑い) どこに行ってもぴったりくっついて歩くというのです。仕方なしにそのように親しくしなければならないというのです。ですから、言葉ができる人たちより立派なのです。それで、日本の中でこのことの分かる賢い人は、もう文先生に負けたと考えるのです。このように、最も賢い青年たちが、言葉も分からなくても喜んで結婚するのです。また、それが世界史的な主体性をもって、人類の幸福の起源を探し求めていく家庭基盤の上でなされたという事実は、驚くべきことなのです。このような歴史の奇跡ともいうべきこの事実を見ても、無感覚になってしまったような食口は、早く悔い改めなければなりません!

 先生の生涯の生活哲学

 このように、社会的に平準化される時まで千辛万苦、先生が悪口をどんなに言われ、どんなに血の汗を流してきたのか分かりますか。あなた方を解放してやるために、あなた方の家庭に、福地天国の基盤を築くために先生がどれだけ悪口を言われてきたか分かりますか。数多くの家庭から、「多くの統一教会の幼い子供たちを全部奪って、全部煮て食べてしまう」などと、ありとあらゆる悪口を言われました。しかし、このごろになって、「そのような息子、娘たちが、一番優秀です」と言いながら、その父母たちが全部、統一教会の食口になりました。あなた方の妻が、今後あなた方が迎える妻子が、いかに貴い人かということを知らなければなりません。「統一の世界の文化の曲折を越えたい! 越えたい!」と思ってきたのが神様の願いです。地上の人類たちは「神様を探し求めて、孝子の道理を探し求めて越えたい! 越えたい!」と思いながら願ってきたその一時は来たのです。それがいかに大切なことか分かりますか。

 神様が御覧になって忘れることができない、抱かざるを得ない、責任を負わざるを得ないそのような環境による夫婦となったにもかかわらず、その祝福の位置を捨てて、亡国の種となった、無責任に破綻させるような人たちは今後全部引き裂いて殺されたとしても、その罪を避けることができないという恐ろしい事実を知らなければなりません。何のことか分かりますか? この道は遊びではないのです。先生が一生の間、全生命を投げ出してこのことを成しているのです。解放理念を越えて立つ時までどれほどの期間がかかったかというと、十四年の歳月をかけた闘争をして、男を整えて女を整えてこの基盤をつくってきたのです。サタンの前を逃れずしては結婚ができない運命において、血のにじむ闘争歴史にぼろ服を着て越えてきたのです。絹の服を着ることができませんでした。サタン世界の血の流れる歴史時代に生きてきた先生は、ぼろ服に血が付いたとしても、新しい服にサタンの血の痕を残すことができないのです。

 このような哲学をもって、誰にも理解できない生活を経て、一国を解怨成事するために、万国解放を中心とする一つの旗手となって、勝利的解放者として足取りも堂々と、自分の国に入城するその日を眺めながら今も歩んでいるのです。そういう戦場の将軍であることを知らなければなりません。その戦争はまだ終わっていません。

 そのような神様を私の神様としてもちたければ、まず神様の前で先生をもちなさい。私の先生を探し求めるのだと思わなければなりません。先生の生涯の生活哲学を自らの哲学とし、自分はそれ以上やるのだと思わなければなりません。先生が四十三年間に成したことを、私は一生涯すべてそのように生きたならば、いかに良いだろうかと思わなければなりません。そのように生きなければなりません。先生は生まれてからすぐに戦うことができませんでした。準備する期間が必要だったのです。しかし、これからの統一教会の後輩たちには、もはや迫害がありません。今日まで先生が迫害の期間をみんな越えたのです。ですから皆さんの一代において、死ぬ前に、全世界に統一教会の旗の立っていない所がないように努力しなければなりません。皆さん一代でこれを成さなければ、各国の各民族の前に平面的世界の平準化の理想圏を植えてやることができないのです。歳月の過ぎ去ることが遅いことを願いながら、一日を千年のように考えながら、今晩中にもあすの仕事を成さなければなりません。きょうの仕事をあすに残してはなりません。

 蕩減復帰歴史はアベル的人物が必要であり、条件物が必要であり、期間が必要です。この期間を短縮させなければなりません。どのように短縮させるのかというと、先生は三次七年路程を四年間も短縮させたのです。そのためには血のにじむ闘争をしなければなりませんでした。矢を受けても死ぬことができませんでした。そのような戦いを経て、一九八八年を韓国の年としたのです。既に皆さんに語ったように、「転換の年である」というのです。当時、それを誰が信じましたか! 解放直後、今から四十余年前に「一九八八年を越えよう! その時こそ私たちの時が来る!」と言いました。しかし、世界の迫害を文総裁の双肩にしたその戦いの場にあって、勝利の覇権を手に入れずしては、一九八八年に解放の時が来なかったのです。その日のために死よりも、もっと大きい峠に向かって投入して入っていったのです。ですから、アメリカに行くようになった時も、監獄の峠を越えることを覚悟して、命を懸けて行ったのです。このような出発の事情を誰が分かりましたか! ですから、その局面まで引き込まなければならないのです。そこで汝が死ぬか、我が死ぬかという判定を下さなければならないというのです。

 それで、原告がアメリカ合衆国であり、被告は文鮮明です。私の一代で全世界を代表するアメリカと戦ったのです。私がダンベリー期間を経たのは、監獄の門を解放するためなのです。天上世界と地上世界のふさがれた垣を打ち壊す道を開いたのです。そこにおいての一年一カ月という期間は、イエス様の十三数の悲惨なる歩みを、地上世界と天上天国、地獄と天国の門が閉じられていたのを、その場で地上地獄、天上天国、霊界地獄、霊界天国の門を開く業をする期間だったのです。イエス様が三日間地獄に行ったのもなぜかというと、その道を開くためだったのです。しかし、イエス様は霊的のみであって肉的でなかったのです。しかし、私は霊肉を中心としてその戦いを成したのです。それで四十日が終わるや否や、すべての監房解放が始まったのです。開放してすべての人たちに見物させたのです。そのような、平面的なすべての監獄生活を全部開放させるという運動が始まったのです。

 さて、先生の神様をもちますか、私の神様をもちますか? (私の神様です)。あなた方の花嫁、あなた方の花婿をもちますか。それとも、ただ父や母だけ見て生きますか。あなたの父母の願いは、あなたは独身で一人で生きて結婚するなというのですか? 同じことです。先生の神様を私の神様として侍り、それによって結婚が始まるのです。そうですね。それで先生が根であるならば、あなた方は幹となり、その幹から枝が出てきて、次に枝から葉が出てこなければなりません。では、実はどこから出てくるのかというと、根から生じるのではありません。皆さんを通じて成されるのです。統一教会を中心としての大韓民国が勝利するのは、皆さんを通じて勝利しなければならないのであって、先生を通じて成されるのではありません。

 内的、外的還故郷

 二世時代の次には、何の時代が来るでしょうか。何ですか? 二世の次は三世です。その三世においては、サタン世界の痕跡すらない家庭的囲いをつくらなければなりません。一番重要視するのは血統問題なのです。他のことではありません。愛の問題なのです。愛の門は二つではありません。一つなのです。

 今までは男たちがみんな浮気をしましたが、それはエバが二人の男を経ていったために、男も二人の女を経ていく時代だったからです。これからは許されません。男の貞操を尊重する時が来たのです。何の話か分かりますか? これが一番の罪なのです。それは、神様の体を侵す罪であり、真の父母の体を侵す罪になるのです。それをはっきりと知らなければなりません。今までは、先生がすべてのことに責任を負っていたために、皆さんのこともすべてカバーしてきましたが、これからは皆さんが主導しなければなりません。きょうからは、中心を正しく立てて、その国家的基準を中心として、東西南北の四方を整えなければならない時が来るのです。今後、一月十日まで西欧社会から三〇〇〇名が来るのです。日本から四〇〇〇名、計七〇〇〇名が来るのです。この国に来て、先生が涙を流して戦ってきたことと同じ悲惨な戦いがあったとしても、それが自分たちの願いを成すための一つの福地基台として涙を流し、精誠を尽くし、血の汗を流すことを誇りとする歴史時代が訪れたのです。

 そのような人たちが来て努力するその前に、落ちるような人たちは葉になるのですか、枝になるのですか? それとも双葉になるのですか、新葉になるのですか? 双葉になるというのです。この人たちがなぜ韓国に来るのだと思いますか? 皆さん今や時が来たために、皆さんにも先生が帰郷を指示したのです。分かりますか? 彼らは内的な還故郷である韓国を尋ねてきたのです。ですから先生が責任を負い、皆さんにも故郷へ帰るようにと話したのです。彼らはカイン的面で、外的な面で故郷に帰ってきたのです。そして、なぜ七〇〇〇という数なのかというと、旧約時代に北朝イスラエルと南朝イスラエルに分かれて、北朝イスラエルの十支派と南朝ユダの二支派が、カイン・アベルに分かれて戦ったからです。

 聖書を見るならば、善なる預言者は全部南に送られたのです。北朝はカインなのです。そして十支派とは、ヤコブ時代に十人の兄弟がヨセフを売り飛ばしたことによるのです。それと同じことが歴史には起こるのです。そこから二支派はベニヤミンとヨセフを中心としたものです。このようにユダヤ教の北朝十支派、南朝の二支派に分かれて戦いが始まったのです。そうなると、ヨセフの二支派は天側であり、十支派はサタン側なのですが、この天側の二支派によってサタン側の十支派を消化しなければならなかったのです。その戦いが旧約の歴史なのです。ですから、旧約時代は全部が戦いの時代なのです。

 それで神様はすべての預言者たちを、南朝ユダの国に送ったのです。そうして、北朝を救おうとしたのです。北朝は全部アシラの木像、偶像であり、外的神たちなのです。見える実体神です。そうしてバアル神は淫乱の神なのです。そうです、昔の占い師や巫女たちは全部、貞操を売っていたのです。このような行動が良くないのです。悪魔の巣窟がそうなのです。このような時に、エリヤが出てきて慨嘆したのです。十支派の偽神を崇める祭司長たちと神様が送った真の神を崇めるエリヤと戦ったのです。八百余神たち、北朝の偶像崇拝の神たちと戦って、エリヤは真の神が誰なのかということを見せるために祈祷をしたのです。エリヤが祭壇にひざまずいて祈祷した時、天から火が下ってきてみな燃えてしまいました。そうして、八百余のバアルの神を一度にへし曲げて捨てたのです。そこから北朝は悔い改めて、神様の前に立ち帰らなければならなかったのに、怨讐となって南朝の前に屈しなかったのです。しかし神様は信じるけれども、南朝を好きではないというのです。それが問題なのです。

 伝統や習慣として残されてきたものを、新しい時代に転換しようとする時も、今までの惰力によって、そのまま引っ張られていってしまうのです。転換して戻っていかなければなりません。歴史はそのように見るのです。ですから、終わりの日には、自分たちが好み、自分たちが崇拝してきた歴史と伝統のすべてがその国を滅ぼし、自分の一族と、家族全体を破滅させるような転換の時期が来るということを知らなければなりません。

 そして、エリヤを捕らえて殺そうとするので、エリヤは逃げていって神様の前に訴えたのです。「私の生命を引き取ってください。あなたが行えと言うとおりに私は全部果たしたのです。このようにすれば願いが全部成就すると思ったのに、彼らはむしろ私を捕らえて殺そうとします。神様なぜですか?」と言いながら祈祷した時、神様は、 「まだバアルに屈しない七〇〇〇の群れが残っている」 と言われたのです。北朝に、バアル神の前に屈しなかった七〇〇〇の群れが残っているゆえに、この七〇〇〇の群れを中心として統一的な願いの基準を残していくようにと語られたのです。それが天の警告だというのです。

 七〇〇〇の群れ

 旧約時代においてそうだったので、再び新約時代においてメシヤが来られる時には、エリヤを送るということは、そのような使命を再び成すためのエリヤ的責任を中心として、洗礼ヨハネを送るということなのです。洗礼ヨハネが成さなければならなかったことは何かといえば、よこしまなユダヤ教とユダヤの国における外的な風習、バビロニヤで浸ってきた異邦神のすべての風習的汚いものを清算することなのです。すべて火に燃やして、エリヤが主張したように、神様へ立ち帰ろうという主張で一致しなければならなかったのです。そのような洗礼ヨハネであったにもかかわらず、洗礼ヨハネはその責任を果たせなかったのです。ですから、イエス様が来られる時、ユダヤ教とユダヤの国がイエス様を捕らえて殺そうとしたのです。イエス様に反対するようになっていたのです。ここに橋を架けて、メシヤの道を収拾しなければなりませんでした。もし、カイン的ユダヤの国とユダヤ教の前に七〇〇〇の群れを治めていたならば、イエス様は死なないで済んだのです。洗礼ヨハネがそのように、七〇〇〇の群れだけでなく、イエス様と一つになったならば、三年間に七万名でなく、七十万名もつくることができたのです。

 その中から、天の国を探し求めようと願う氏族編成、民族編成を成し、国家代表を立てて祭祀をささげなければならなかったのです。歴史始まって以来、宗教を通してのこのような蕩減原理によって、神様のみ前に万国の解放のための祭祀をささげなければならなかったのです。その祭司長が洗礼ヨハネであり、祭物にならなければならないのがイエス様であったにもかかわらず、洗礼ヨハネがイエス様と一つになれなくて、イエス様に十字架の道を歩ませてしまったのです。洗礼ヨハネは、七〇〇〇の群れどころか、七〇〇名も治められず、七十名も治められず死んだのです。これを先生の時代になって復帰したのです。これを蕩減復帰するために、先生はダンベリーに入って獄中で七〇〇〇名の牧師の教育を実施したのです。しかし、アメリカのカイン圏とアベル圏、内的な教会と外的な国家、これが一つになることができなかったので、先生が中心になって教会の牧師と国会の上下院、さらに州上下院を完全に一体化させたのです。

 ですから、アメリカのキリスト教会の七〇〇〇名を韓国に連れてきて、韓国に接ぎ木するのです。彼らは韓国に来たので、もはやアメリカ人ではないのです。このように、昨年まで七〇〇〇名を中心としてその業を終えました。そして、国防省の将星たちを全部を教育して、さらに在郷軍人会を教育して連結させたのです。そこで教会と地方が連結したのです。その次には、政界を教育してしまったのです。

 それで、再びアメリカが戻ってくることができるのです。軍隊は二世と同じなのです。外的二世なのです。一世は国家を保護する一線を代表した者たちです。防衛軍は内的な軍隊なのです。この内的な軍隊を中心として、内的な若者と一体化させるための組織を編成して、これから運動を展開するのです。政治的行路、方向性を示すのです。その次には何かといえば、教会です。教会が行かなければならない方向を示さなければなりません。

 そうしてAFCという組織を中心として、今回国家的なすべての機関に影響を及ぼすことのできる内的なすべての業がなされたのです。お客さんである者が、永住権をもったアメリカの大統領を救ってあげなければならなかったのです。それは易しいことではありません。そのような目的があるゆえに、先生はアメリカに着くや否や悪口を言われたのです。千年恥辱、万年惨敗で始まったのです。しかし、恥辱はいくら受けても敗北者になってはいけないのです。分かりますか! それが分かっていたので、唇を噛み締め、歯を食いしばりながら、過ぎゆく歳月を引き止める切実なる心をもって、暗い荒野のようなアメリカ大陸をさまよいつつも、この若者たちを先頭に立てて、外的環境を築くためにひたすら歩んだのです。

 だからといって、アメリカの人々の前に、一九八七年までは、このような話をすることはできなかったのです。そうでなくても、政治を口にすると大騒ぎするのです。このように成しながら私一人で外的基盤を築いて一九八七年一月にAFCという超党的な活動の基盤が築かれたのです。その後一年半以内に、アメリカ大統領が私たちによって当選せざるを得ない基盤となったこの事実を忘れてはなりません。これらは、アメリカの朝野も言論界も拒否することができない事実なのです。それでニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュの四代を経て、本来の位置を確保したのです。今や四年後には、ブッシュ行政府と私たちが一つになって、アメリカと韓国とアジアを指導していくのです。四年間にできない日には、ブッシュはふっ飛んでいくのですが、私はふっ飛びません。そのような時代が近づいているのです。

 この四年間は何かといえば、神様のみ旨の中で一九四五年を中心として見た時、当時の韓国は国もないし、何にもなかったのです。無風地帯だったのです。国のない民であり、民といってもその民はどこにも根拠がありませんでした。日本人であると言うこともできないし、大韓民国の人であると言うこともできなかったのです。空中に浮いたこの人たちが先生を中心として、そこにキリスト教とアメリカが協助さえしていたならば、七年後の一九五二年までに世界のキリスト教は収拾されていたことでしょう。七年もかからなかったのです。三年以内に世界を全部収拾して、先生は四十歳になって、世界のトップクラスの為政者たちを指導して回ったことでしょう。しかし、それが今日このようなありさまになってしまったのです。

 すべてが反対してきたことによって追い払われたこの先生は、四十三年ぶりに四三〇〇年の歴史と蕩減の路程を経て、縦的にふさがれたすべての垣と、横的にふさがれたすべての垣を打ち壊したのです。縦的垣、横的垣をすべて打ち壊して平準化させる業をたった一人で行ったというこの事実は驚くべきことなのです。これは、今まで神御自身にもできなかったことです。

 天の国の本貫の入籍を

 この前誰かが、これは霊界から教えられたことですが、「文先生は私(神)ができなかった歴史上のすべてのことを一人で責任を負ってきました。私より立派です」と言うのです。神様も今までできなかったのですね。神様も人を通さなければできないのです。何のことか分かりますか? そのような先生をもった統一教会の栄光とその価値がいかに大きいかということを忘れてはなりません。ですからむやみに生きることはできません。女がどれだけ美人だとしても、大家の嫁に行けば、その大家の法度に従わなければならないのです。もしその法度に従わなければ、追放されるのです。生活も合わず、習慣も合わず、風習の通じない所で規律のびっしりと詰まった行事に従って生きていきながら、そこに拍子を合わせることは易しいことではありません。しかし、拍子を合わせなければ追い出されるのです。そうですね? (はい)。

 これからは、天の国においての皇族圏を中心として編成していく時代なのです。分かりますか? あまり良くない人たちは、今後ブルドーザーで押し出す日が来るというのです。私が教えたすべての原理のみ言を中心として、世界へ行く時には、その世界で伝統を邪魔する統一教会人がいてはなりません。そのような者の根を抜いてしまわなければなりません。目を閉じて断行しなければなりません。その時には私が父母を捨てて出発した、妻子を捨ててきた無情な歴史時代を回想しながら、天国の伝統のために剣を振るうのです。その剣を当てられても動じない肝っ玉がなければなりません。私の目を見なさい。私の言がいかに速いかを聞きなさい。それは強い主張をもつからなのです。間違った日には許しがありません。そのように今後、世界に向かう時代が訪れてくることを思う時、厳粛に過去を再び悔い改めながら、自分の一身を整備し、家庭を整備しなければなりません。皆さんの一族が崇拝、尊敬できるような人にならなければなりません。

 なぜかといえば、先生は反対してくる環境で崇拝され得る業を成してきたからです。父母たちが反対したのですが、彼らの子供たちは反対する父母をけ飛ばしてきたのです。尊敬ではなく、崇拝して先生に従ってきたのです。しかし、これから皆さんが行かなければならない道は違います。もはや反対はありません。先生がすべて防いでやったからです。みな崩してやったからです。ですから、皆さんは先生をどれくらい崇拝しなければなりませんか? 皆さんの後孫に対し、皆さんが迫害時代に先生を崇拝してきたその何百倍もの崇拝する家庭の伝統を残さずしては、天の国の本貫に入籍することが難しいということを通告します。

 皆さんの息子、娘たちが、皆さんが先生に侍ったその何百倍以上に侍ることのできる基盤をつくっておかずしては、落ちて流されて出ていくのです。考えてもみなさい。今後世界の人たちがやって来て、「ああ、これが本当の統一教会の原理なのか? 再臨主の理論なのか?」と言うのです。それは皆さんたちの生活が習慣になって、盲になって、うすのろのようになり、麻痺しているからです。今まで生涯血の涙を流しながら、「あ! 雲に乗って主が来て私を救ってくれるし、空中に上がって婚姻の祝いをする」ということを夢のように信じ、幻影のように信じてきた人たちが、今まで反対していても、この事実を知るならばどれだけ驚くことでしょうか。そして、どんなに皆さんの位置がうらやましく、どんなにその位置を得たいと思うことでしょうか。

 また、今まで統一教会の先生に祝福を受けたあとで落ちていった者たちの中にも、このごろは再び入ってくる者がいます。入ってきて、自分の同期生たちに会うたびに、胸に矢が刺さる思いなのです。自分が立派であると思い、意地を張って出ていったのですが、統一教会がこのように立派になるとは知らなかったのですね。ところが、自分のざまは何ですか。祝福を受けてありとあらゆることを全部やって、「統一教会が何日もつか?」と言い捨てて出ていったのに、今や世の中に追われて、再び入ってこざるを得ない身の上になったのです。そのような人を隣町の親戚も、父母も、原理を知って黙っておくでしょうか? 「こいつめ! お前はどうして統一教会に入っていながら出てきたのか!」と言うのです。お爺さんがいるならば、首をつかんで「こいつめ! 背中に刀を突き立てたいほどだ。こいつめ! 一族に恥をかかせるにも限度がある。こいつめ! 何だ!」と言うのです。原理を知るようになるならば、誰しもがそうなると思いませんか? その恥ずかしさと困難を回避する道はありません。そのような者は私と関係ありません。しかし、私が国を訪ねて帰ってきたので、私の親戚の面倒を見なければならないのです。私の遠い親族までも面倒を見なければならないという心をもっているので、ここにいる皆さんの姻戚の遠い親族たちをも世話しなければならないというのです。ですから訪ねていって、そのような話もするのです。

 父母の心情で万民のために生きる愛

 それは手段とか方法ではなく、心情なのです。それで自分たちの橋を架けるのです。高い橋を架けるのです。低い橋を架けるのではありません。子供が高い橋にならなければならないのです。そのようにして上っていくのです。このようなことをはっきりと知らなければなりません。私の神様をつくろうとするならば、何でもって神様を捕まえるのですか? お金をもってもできません。学士、博士号をもってもできません。権力をもってもできません。では何をもって捕まえますか? (真の愛です)。真の愛とは何ですか? 言葉だけではいけません。父母の心を代身し、国王の心を代身し、神様の心を代身して、父母の心情で万民のために生きる愛です。神様の代わりにために生きるという心をもたなければなりません。かわいそうな人を見たならば、その人がお爺さんのようであれば、自分の祖父のように思わなければなりません。女性であれば、自分の祖母のように思わなければなりません。

 家庭の拡大が神様の創造理想世界と通じるのです。家庭が天国生活の教本なのです。ですから、この地の上には、祖父母級、父母級、兄姉級、弟妹級があるのです。それを集めて核心的な一つの基台の上で、教材としての訓練をさせようとするのが家庭基盤なのです。分かりますか? ですから、お爺さんを見たならば、自分の祖父が来たように懐かしく接してあげ、おなかが空いているようであれば、自分の弁当も分けてあげるという心をもたなければなりません。また病気になった人がいて、その人が年上であれば、兄や姉のように接してあげるのです。道端で苦しんでいる人を見たならば、その人を看護してあげなければなりません。もしその人を捨てていけば、十分、三十分とたつうちに、心に呵責がだんだん増えてくるので、再び引き返してその人を助けてあげなければなりません。どうしても背を向ける時、涙でもってそれを蕩減することができなければ、行くことができないこの道であるということを皆さんは知らなければなりません。先生にはそのような体験が多いのです。そのような体験をたくさんしました。

 私が黒石洞にいた時、その当時は電車賃が五銭でした。五銭出せば電車に乗って市内に行けたのです。しかし、私は歩いて市内へ行きました。和信デパートまで四十五分かかって行ったのです。普通の人は一時間半かかるのです。先生は速いのです。そのように夏の日、学生服を着て汗を流しながら歩いたのです。では、そのお金でもって何をしたのでしょうか。かわいそうな人にお金をあげたのです。「皆さんに早く福地をつくってあげたいのですが、今はあなた方に民族の代表としてこのお金を差し上げますので、どうか受け取って幸福の種にしてください」と思いながらあげたのです。また、先生は学生時代の初めての夏休みにも、家に帰りませんでした。家を離れてみると故郷がどんなに懐かしいか知れません。身もだえするほどに恋しいのです。ですからみな家に帰りましたが、先生は一人残っていたのです。あきあきするように長い夏休みを自炊しながら過ごしました。また、真冬の三カ月間も、部屋に火を入れずに支那ドンスのふろしきを床に敷いて過ごしました。そのままふろしきが花のように床に写って一年間消えなかったのです。そのように、罪人のごとく過ごしてきたのです。この世の人々のように生活していくことができない先生だったのです。歴史的に先生が生きてきたそのような苦痛と、神様の歴史的苦痛を忘れてはなりません。

 このような先生の心の深い愛を知って、あの世に行って出会った時、首に抱きついて「あなたが悲しかった事情をすべて知って、私もその度数に合わせて生きようとしましたが、とても及ばなかったことを許してください」と言いながら、痛哭する心が先立つようになる時には、神様も共に泣くことができるのです。その日がなくては、解放がないと考えている先生なのです。

 妻の愛がどんなに大きいとしても、その位置には及びません。父母の愛がどんなに大きいとしてもその位置には到底及ばないことを知ったがゆえに、その日の解放のために横目をそらすことも、道草することもできなかったのです。私は三十歳になるまで映画館の前も通りませんでした。酒場も通りませんでした。遠回りして通ったのです。このごろでは、統一教会の若い人たちも映画館へ思いのままに入っていますが、それは先生によって解放されたからです。私が行きなさいと言ったからです。また、いかに醜悪な行動を見てもそれに感染されず、彼らを指導できる主体性を備えるためには、いつかその場も経ていかなければならないのです。学生帽をかぶり、二十歳以前に、私娼家の女たちにも会って、諭してあげたことも忘れられないことです。ですから、そういう世界もよく分かる先生なのです。それも分からずして、どうしてその世界を救えるでしょうか。そのような人々の深層部に隠されたすべての哀訴の事縁を知って、彼らを救ってあげなければなりません。

 地上天国の開門を

 ですから、先生はどこに行こうともよく友達になったのです。路地に入っていけば、その路地のチンピラたちのことも私はよく分かるのです。土方仕事をする人の世界もよく分かります。あの山奥で炭を焼く人たちも私の友達なのです。鉱山の坑夫の世界であってもです。私は労務者収容所で賞を受けたのです。坑柱もつくることのできる人なのです。私がしてみなかったことはありません。けんかをしても負けたことがありません。もし一発でもたたかれれば、夜も眠れないので、その一族を降伏させずしては帰ってこないのです。そのような激しい先生だったのです。ですから、文社長のお父さんが昔こう言いました。「うちのお兄さんの家の小さい奴は、時代を間違えて生まれてきたのだ。逆賊でなければ王になるタイプだ。極端だから、日本の統治下においては監獄に行って死ぬしかないだろうな」と嘆いたのです。そのような先生の道を辱めてはいけません! 国のために涙を流すことにおいては誰も私の前に立つことのできる人はいません。神様を愛することにおいても、私の前に立つことのできる人はいません。これが事実です。

 霊界であれ、どこであれ、先生はすべてを体験した人なのです。比較してみた人なのです。そうでなければ、この仕事を始められません。そのように万国が歓迎し、天上天下の万物が合同して歓迎するべき男が、一生の行路を、天の栄光の中に生きていくべき生涯を、悲しさと、悲惨さと、恥辱と惨敗の恨みを抱いて、追われるこの道を歩んできたのです。この事実を誰が解いてくれますか。神様は解いてくれません。あなた方が解いてくれなければなりません。私が神様を解いてあげなければならないのと同じく、先生にこびりついたものは皆さんが解いてくれなければなりません。神様が私を解いてくれることはできません。何の話か分かりますか? (はい)。

 あなた方が先生の歴史的行路における恨みを解いてくれなければなりません。そのようにして先生の解放者としての証言を得て、また神様の解放者であることの証言を得てこそ天国に入れるのです。そうでなくして鉄面皮のごとく体面もなく、天国に入ることはできません。先生が開拓してきた天国に、そのように辱められた自分の姿をもって、どの顔を上げて入れるのでしょうか。私は行けません。私はできません。皆さん、これが分からなければなりません。今後、このような道が永遠なる行路として残っているということを知った時、皆さんの生きている間に尊い時間を奪われることなく、世界をかけて「私は愛国者である」と主張できなければならないし、「私は家庭においても真なる夫であり、真なる妻であり、真なる息子であり、真なる娘であり、真なる父母である」と主張できるようでなければなりません。皆さんの家庭が、真なる家庭として、天の前に立つに恥ずることなく、皆さんたちの氏族が天の前に立つに恥ずることなく、その氏族が願うのは民族であり、その民族が願うのが国家であるゆえに、その国家が栄光の国家となり、自慢できる国家となることができる時には、神様も自慢して栄光のその国家を迎えることができるのです。そのようになってこそ地上天国が開門されるのです。

 きょう一九八九年の正月初めに、襟を正し、自らを強く決意して、歴史的な神様の愛を中心として恨みの峠を越えていくにあたって、度量の狭い男のように、足なえになって他人に引っ張られて越えていってはなりません。不具者になって、父、母に引っ張ってもらって峠を越えるのですか、何で越えるのですか? 反対に孝子として「お父さん、お母さん、私のあとについてきてください」と言うことのできる、その家門を受け継ぐことのできる、堂々とした息子、娘として行くのですか、どちらですか? 父母に助けられて越えていくことは恥ずかしいことです。

 神様を私の神様として侍り、私の天国を建設して、その天国で千年万年生きなければならないのです。「月よ、月よ、明るい月よ」という、私たちの民謡にもあるようにです。父母に侍ってどうするかというと、「千年万年生きましょう」というのです。民謡はその民族、その国の伝統的精神文化の中心であります。「草ぶきの小さい屋根の家を建てて、父母に侍って千年万年生きましょう」という、そこにはどんなに小さい草ぶき屋根の家であっても、花の香りに満ちた調和の実を結ぶのです。これが天地調和です。香りがなければ調和することができません。それは、貴い実になれないのです。分かりましたか? (はい)。

 神様は真の愛を中心とした縦的な父母

 私たちは、まず私の神様を探し求めなければなりません。ですから、きょうの題目は「韓国統一」なのです。私の神様をもたなければなりません。神様は何だと言いましたか? (真の愛の神様です)。神様は真の愛を中心とした縦的な真の父母なのです。縦的な軸は一つであり、その位置も一つしかありません。永遠不変なのです。既成教会では「神様は父である」と言うのですが、どのような父なのか、それが分からないのです。ただ父だと言うのです。それ以上質問してはいけないというのです。それは分からない者たちの逃避です。分からなければ説明できないし、説明できないことは実現させることができません。神様とは、真の愛を中心とした縦的な真の父の位置、真の父母の位置にいるお方です。これが分からなければなりません。神様は、別にいるのではありません。ですから、真の愛をもたずしては神様と関係がないのです。では、その縦的な真の愛を中心とした真の父母の前に、アダムとエバは何なのかというと、真の愛を中心とした横的な父母なのです。このように真の愛を中心とした横的な位置が、真の位置なのです。分かりますか? (はい)。

 神様についてはっきりと知らなければなりません。答えてください? (真の愛を中心とした縦的な真の父母です)。そう、その神様、縦的な父母が真の愛の父母になれば良いのです。では、なぜ神様は創造したのでしょうか? 縦的なものは一つしかなく、神様には足場がないからです。活動しなければならないのです。一つの方向だけに行ったり来たりするのではなく、永遠に一人の活動で終わってはなりません。そこで、横的足場が必要なのです。縦的なものが、横的足場を中心として授け受けする時に次の運動が始まるのです。堕落以前の人類の祖先を通して、神様は何をつくろうとしていたのかというと、自らの愛の対象をつくろうとされていたのです。それは、どんな対象かというと、縦的な主体であられる創造主の前における横的主体なのです。東と西をつないでいける横的な主体者になることによって、九十度の角度で結ぶ中央線での位置を与えようとされたのです。

 そのように考えるならば、キリスト教の十字架も決して憎いものではありません。イエス様がなぜ十字架にかかったのかというと、イエス様は縦的な愛と横的な愛を中心として、神様と人間世界、無形世界と実体世界とを結ぶ主体的位置に立って、真に満ちた愛の理想の位置の表象体になっておられるのです。そして右側の強盗と左側の強盗は、その種として蒔かれたのです。それで今後、再臨主が真の愛をもってこの世界を訪ねくるその時には、イエス様の時と反対のことが起こるのです。イエス様の時は右側の強盗と左側の強盗が争ったのですが、再臨の主が来られる時には、右側の強盗と左側の強盗が一つにならなければならないのです。

 そのようなことを全部合わせるために、第二次大戦の時、英、米、仏が選ばれ、イギリスは母であり、アメリカはイギリスの息子の立場なのです。そして、フランスは天使長格なのです。ですからフランスは行ったり来たりしたのです。このような霊肉圏の天側のアダム国家、天側のエバ国家、天側の長子国家が一つにならなければならなかったのです。母親格であるイギリスと息子格であるアメリカが母子協助により一つになって、来られる男性としての再臨主、父に侍らなければならなかったのです。そのように父である再臨主に侍るならば、天使長は自然に従ってくるのです。それが、種として蒔かれたアダム、エバ、天使長の失敗を、国家的次元で蕩減できる実なのです。収穫期の結実として、アダム国家、エバ国家、天使長国家を中心として蕩減して戻っていくのです。それに反対したのが日本とドイツなのです。日本は女性なのです。天照大神は女性神なのです。そしてドイツは何かというと、男性なのです。おもしろいことに、イギリスとアメリカが対であるのと同じく、日本とドイツが対になって反対したのです。イギリスと日本、ドイツとアメリカが全部怨讐関係なのです。

 第二次大戦の直後は、キリスト教の理想世界を立てようとするキリスト教文化圏によって全世界が統一される時であり、正にその時が、主様が来られる時なのです。ですから第二次大戦の直後に「主様が来られる! 主様が来られる!」と多くの人が叫びました。主様が雲に乗って来られると思ったのです。しかし絶対に雲に乗っては来られないのです。もし雲に乗って来られるとすれば、すべてが滅びます。人類は父母を失ってしまったので、蕩減復帰原則に従って、真なる父母として来なければなりません。幻の父母であってはなりません。空中で婚姻の宴をするという聖書の教えは比喩で語られたものです。

 もしその時、イギリスとアメリカとフランスが一つになっていたならば、直ちに韓国はアダム国家になっていたのです。天の国、縦的国の主権を中心としたアダム国家として、イギリスをエバ国家として従え、さらにアメリカを長子として従えていたのです。そしてアメリカはアベル圏としての世界主導権、世界版図を従えていたのです。世界国家的な主導権を、アベル的立場に立ったアメリカが初めてもっていたのです。それ以外の国々はカイン的立場であり、カイン的立場はアベル的立場のアメリカに従っていくのです。ですから、長子権復帰の世界化時代に合わせて、統一的なキリスト教文化圏時代の上に主様が来られて、母子協助の基盤と連結させていたならば、すべての問題がみな解決されていたのです。しかし、それでは日本が、焼け跡から四十年間でこのように復興できないのです。キリスト教がみな反対するゆえに、天は仕方なく一番の怨讐である、怨讐の中の怨讐にすがるようになったのです。ですから、イギリスの代わりに、アジアにおける怨讐の国、日本がエバ国家になり、ドイツがアメリカの代わりに長子圏に立ったのです。

 しかし、アメリカのユダヤ教とキリスト教を中心として、統一教会が完成級になるので、キリスト教を捨てることができません。ですから、アメリカを長子圏基準のアベル的存在として立てておいて、ドイツをカイン的存在として立ててきたのです。これらの国々は全部が怨讐たちなのです。韓国と日本が怨讐であるし、日本とアメリカが怨讐であり、アメリカとドイツも怨讐なのです。このような問題が起こってきたのです。統一の国家と世界を一つにしなければならない時代を失ってしまったので、統一圏で再び怨讐たちを全部集めて、エバ国家、天使長国家を探して立ててきたのです。

 そこで、天使長国家は何かというと、長子権を回復した国なのです。堕落した天使長が長子権をもっているので、天の国を支持する天使長がいないのです。そこでアベル的位置で長子権を回復した世界統一国家のような国がアメリカであり、そのアメリカが最後にならなければならなかったのです。なぜかというと、第三イスラエル民族としては、アメリカがユダヤ教と連結された第二イスラエル民族になったので、アメリカを連結させるために、アメリカをアベルの位置に立て、ドイツをカインの位置に立てたのです。このような四大国家は、すべて怨讐たちなのです。このような難しい問題があったのです。歓迎と祝福と栄光の宴から、勝利の天国へ進展するべき再臨理想の足場が、キリスト教文化圏と、韓国キリスト教と、韓国主権者と、アメリカ主権者と、アメリカ宣教師たちの失敗によって、すべて崩れていったのです。

 長子権の復帰

 父母を救援するためには、エバを先に救援することはできません。まず、アベルを通じて長子を復帰しなければなりません。長子を復帰する前には、父母は復帰されないのです。長子の立場はアメリカなのですが、韓国における父母の基台を中心として復帰すべき祭物的責任を果たせなかったのです。そのために、二次的な受難の道へ、サタンの前に立つようになったので、共産党が出てきたのです。その時、もし先生を歓迎していたならば、共産党が出てくることはなかったのです。そして、五十歳までにはすべてが終わっていたのです。キリスト教すべてを完全に復帰できたのです。今でもそうです。三日も原理を聞けば、牧師たちがみな変わってしまうでしょう。そうでしょう。もし当時、牧師たちが歓迎したと思ってみなさい。

 それで、この失敗を再び収拾するために、先生は二世を立てて、延世大と梨花女子大を中心として出発したのです。李承晩行政府とアメリカ宣教師に対処しようとしたのですが、李政権と宣教師とアメリカ行政府が組んで、統一教会の文先生を除去しようと運動を起こしてこの国を滅ぼしたのです。当時、このような事情は誰も知ることができなかったのです。今日、先生の話を聞いて初めて分かったのであって、その時は誰にも分からなかったのです。ですから当時、梨花女子大生と延世大生が先生のもとに集まってきたのです。先生と完全に一つになったのです。こうして朴マリヤ(当時、梨花女子大の副総長であり、李起鵬副大統領の夫人)を中心として、李博士のフランチェスカ夫人を通じての交流を始めたのですが、宣教師たちが裏でひそひそ話をして問題を起こしたのです。今日そのためにキリスト教が全部、統一教会の怨讐の立場に立っているのです。しかしこれを捨てることはできません。なぜ捨てることができないかというと、キリスト教が怨讐になればドイツをアベルの位置に立てなければならないのですが、ユダヤ教を継承した第二イスラエル圏としてアメリカを立てたので、アメリカを捨てることができないのです。どんなことがあっても捨てることができないので、統一教会はキリスト教を収拾しなければならないのです。ですから、今まで悪口を言われても収拾してきたのです。

 それはいつまでに収拾するのかというと、国を探す時までです。今やその時が訪れました。今からは国を探し求めていくにあたって、既成教会がもっている基盤、既成教会の信者たちがもっているような基盤をすべてもつのです。また、彼らがもてない世界的な基盤をももつのです。今や、財力においても、若い青年の力においても、彼らに負けるものは何もありません。何の話か分かりますか? (はい)。もはや既成教会には何の希望もありませんが、統一教会には多くの希望があるのです。

 昨日、決定的な報告を受けました。昨年の三十一日までに、朴普煕がよくぞ帰ってきたというのです。彼が三十一日を越えて帰ってくるようではすべてが駄目になったのです。本当は四日前までには帰ってこなければならなかったのですが、昨日帰ってきたので、すべての報告を受けました。もはや、失敗しようにも失敗できません。今まで埋めてきたものがすべて、ラッパを吹く日には、一度に天地と共にひっくり返るのです。その時、昨日まで大韓民国で立派だと言われてきた主権者たちや財閥人たちはどのようになるでしょうか。

 世界の政治家たちも、今後世界がどのようになるのか分からないというのです。私は世界の政治家ではありませんが、これからは、彼らが私を訪ねてこなければならないのです。経済人たちも私を訪ねてこなければなりません。宗教人たちも私を訪ねてこなければなりません。既に宗教人の行くべき方向を準備しておきました。今、一つの聖書を作る編集をしているのです。一つの聖書がなければならないというのです。それでは、何を中心として一つの聖書を作るのかというと、統一教会の原理を中心としてです。一つの仏典観、一つの聖書観、一つのコーラン観が生まれてくるのです。そのような仕事をしているのです。そして、その次は文化革命をしなければなりません。新しい百科事典を作るための準備もしているのです。文化世界創造のための大革命基地を築き上げなければなりません。さらには経済分野においても、金融関係においても、私の教えを受けなければならないというのです。

 私は経済人から冷遇され、学者たちからも冷遇されたのです。尹博士、冷遇しましたか、しませんでしたか? いつぞや九十六名だったか、一度は支持声明を出しておきながら、それらが全部踵を返して、「私はそのようにしなかった。文総裁、統一教会の人たちがみな、そうさせたのだ!」と、反対したあの時のことを覚えていますか! 郭錠煥! 覚えていますか、どうですか? (覚えています)。忘れてはいけません。私は忘れません。そのような博士たちも私は最後まで引っ張ってきたのです。彼らの誤りを知りながらも、天の前にいかに立たせようかと祈祷して、今まで捨てずに引っ張ってきたことを、彼らは分からないのです。今や、私の責任はすべて果たしました。もはや老博士たちを立てる時ではありません。李博士もそれを理解しなければなりません。既に二世の時代になりました。今年の夏からは、若い人たちで行わなければなりません。分かりますか? (はい!)。六十歳では駄目だというのです。五十二歳までは許します。

 私の神様を探し求めなければなりません。私の神様を探し求めるまでは、私の神様の真なる愛を探すまでは、私を主張してはいけません。私は真なる愛から始まるのです。真なる愛を通さずしては、真なる生命を受け継ぐことができないのです。直接に神様から生命を受け継ぐことはできません。生命を受け継がせるために、神様は人類の真なる父母をつくられたのです。

 真なる愛の縦的基準の前に、横的な基盤でもって、東西南北をきちんと整えて、九十度の角度に合わせなければなりません。その位置において、愛を中心として内的愛と外的愛が一つになることによって、縦的基準の前に横的愛の版図が拡張されるのです。そのようにして神様は、横的愛の版図を拡大させるために、私たち人類の始祖を愛の対象としてつくられたのだという、驚くべきこの事実を知らなければなりません。これが宇宙の根本なのです。これを知った時、宇宙の根本がこのように簡単なこととは、私も思ってもみませんでした。

 愛は最短距離を直行する

 さて、愛はどのような道を通るのかというと、最短距離を通るのです。分かりますか。愛は回っていくことを嫌います。いかに父母が反対するとしても、直撃弾なのです。そうでしょう? 愛の道は回って行きたいですか、直行したいですか? (直行したいです)。いかに障害が多いとしてもすべて追い払って、け飛ばしてしまうのです。愛の道の前には、すべて消えていくものなのです。愛は直行するのです。ですから、神様が縦的な高い所におられるならば、どのような立場を通してこられるのかというと、垂直の一番最短距離なのです。上から下に降りてくる道は、このような垂直線しかないゆえに、最短距離だというのです。これがもし少し外れても、最短距離にはなりません。真なる愛は垂直に決着づけざるを得ないという、論理的起源を知らなければなりません。これは重要なことです。皆さんは今、何の話だろうと思って聞いていますが、先生は深刻だったのです。理論的根拠、思想的体系を中心として、個人的人生観、家庭、氏族、民族、国家、世界観、宇宙観に一致させなければならなかったのです。方向性が間違ってはいけません。その一致され得る方向性は何をもって探すのかというと、民族精神をもっては探せません。民族の伝統的知識や文化背景をもってしても探せません! それは愛の伝統以外にないという事実を知らなければなりません。これが直行なのです。

 では、その愛の伝統は二つでしょうか、一つでしょうか? (一つです)。それは直線でしょうか、曲線でしょうか? (直線です)。直線なのです。同じなのです。それでは、真なる愛を中心とした直線の歴史を経てくる、直行的伝統、愛の伝統はどこにあるというのでしょうか。それは、サタン世界にはありません。愛はすべて曲線的、混線的なもので編まれてしまっているのです。その道を通って、すべて落ちて滅びてしまったのです。分かりますか。ですから真なる父母が訪ねてくる道は、垂直線以外にないというこのことを理論的に整理しておかなければなりません。分かりましたか? (はい)。

 東西にいる男性と女性が、真なる愛の道を探し求めていくとするならば、どこへ行くのでしょうか。最短距離の直線であれば、どこへ行くのでしょうか。東と西があり、同じ力の愛であれば、どこへ行かなければならないのでしょうか。それは直線上です。男の行く線が中央線に届き、女の行く線に届くと、それは上下の歯のように合わないでしょうか? (合います)。なぜ合いますか? それは凹凸だからなのです。女性が恋しく思うことは、神様を探し求めていくことではなく、男性を探し求めていくことです。また、男性は女性を探し求めていくことです。そのような男女がどこで出会うのかというと、真の愛の中で出会うことができると神様は言われるのです。これは驚くべきことなのです。今日まで、このことが分からなかったのです。ですから、男性がなぜ生まれたのか、女性がなぜ生まれたのかということが分からなかったのです。

 男性と女性は愛のゆえに生まれたのです。分かりますか。それはどんな愛なのですか? (真の愛です)。天地の大道を通じて、天地のすべての権限を所有し、すべてのものがその愛に一体化されることによって、そこには相続権があり、また同居することもできるのです。さらに、そこにはいつも同席することもできるのです。夫が行く所に妻はいつでもついていくことができるのです。そこには同席権もあり、また同居権もあります。その同居権は外的なのです。

 もし駅前などで、長い間別れていた夫婦が出会った時にはどうなるかというと、妻は走っていって夫の首に抱きついて、立ったまま二人が回りだすのです。何を中心としてそのように回るのですか? (愛です)。それは何の愛ですか? 縦的な神様の愛を平行的基準に合わせるために、男性も女性もそのようにして回っていかなければならないのです。そこにおいて天地調和が起こるのです。天であるとともに地であり、地であるとともに天でもあるのです。正に天地が地天になり、父母が母父になり、子女が女子になるんですね。逆も通じるのです。愛においてのみ可能なのです。

 この話は何のことかというと、愛するおじいさんの帽子を孫がかぶったといって、おじいさんは孫を殴るでしょうか、どうですか? その次に、愛する孫がその帽子を脱いで、おじいさんの背中に這い上がってきたとしたら、「こいつめ! 亡国の僕め!」と言うでしょうか。「この孫はどうしてこうなのか」と言いながら、おじいさんはどんなに喜ぶことでしょうか。「早く上ってくれ、早く上ってくれ」と言って、足を押し上げてくれるのです。

 愛は最短距離を必要とするのです。男性と女性はどこに行って会うのかというと、二人が中央線に来なければぴったりと合いません。男性が少し行っても、「なぜ少し行くのですか?」と言い、女性が少し行っても、「なぜ少し行くのですか? 二人がぴったり一緒に行かなければなりません」と言わなければなりません。そのように中央線に来て、縦的基準を中心として二人が出会うようになれば、必然的に愛は直線最短距離を通るので、この垂直線に対して、九十五度になるべきですか、九十度になるべきですか? (九十度です)。絶対的に九十度なのです。これが宇宙の真の愛と通じる公式的な道であり、原型的モデルだということを知らなければなりません。モデルが何か分かりましたか? (はい)。

 ですから、このような縦的父母である神様は、縦的な立場におられますが、横的な父母に成熟するためには、誰が教えてあげなくても自らの体と心が共鳴して成熟するのです。

 真なる愛の風

 思春期になり、男たちが訪ねてくるようになると、おとなしい女たちもいつの間にか感情が動くのです。「ああ、その人はどんな顔立ちなのだろう?」と、女たちの目がそうなるのですね。そうではありませんか? そうでないとすれば、その人は偽者です。そうでなければならないのです。角度を九十度に合わせて出会えば、すべて良いのです。その角度は一つしかないのです。その出会いが失敗したゆえに、この世の男女はしょっちゅう離婚したりして変になっているのです。彼らはどんなに合わせてみても、九十度になっていないのです。堕落した人間なので合わないようになったのです。

 人間世界、堕落の世界には、理想がありません。真の愛など夢のような話です。しかし、文総裁が語る真の愛というものは、少し違ったものなのです。私たちの統一教会の草創期においては、先生一人を中心として男性も女性も、全部狂ったというのです。何の話か分かりますか。男も先生に会いたくて涙を流さなくてはならないようになっていたのです。皆さんは、そのように先生に会いたくて涙を流してみましたか? (はい)。本当に流しましたか! それでこそ正常なのです。当時は、この世の男女が互いに恋する以上に、先生のことを慕わしく思えて涙を流すようでなければ、統一教会の食口ではなかったのです。それがなぜかということは、今まで分からなかったのですね。しかし、今や説教を聞いたのですべてが分かるようになったのです。縦的なる力と横的なる力が九十度の角度で通じ合うならば、周辺すべてに影響を及ぼすことができるのです。そして、全体にも影響を及ぼすことができるのです。

 そのような真なる愛の風が吹くようになるので、人というすべての種子は花開くのです。苦菜も花開くのです。そうでしょう? 苦菜にも蝶が飛んできたり、蜂が飛んできたりするのです。同じように統一教会にも心情的春の園が開かれたのです。ですから、七十歳になった老人も男であれ女であれ、全部が先生に会いたくて夜も眠られず、「ああ、いつになったら会えるのか」と、このようになったのです(先生がしぐさされる)。男にも、女を慕う初恋以上の愛の風が吹いてきて、このようになるのです。すべて一つの方向に一致するのです。堕落した人間世界における年齢の差を超越し、男であれ女であれ、一つの方向に集中するのです。その愛の動きはすべて、九十度の角度に合わせなければならないのです。その角度が七十度や六十度や五十度の角度であっても、その垂直は同じなので、神様に対する因縁の中で、全部がそのような方向へ、この先生を中心として大騒ぎになったのです。

 その中で一人のお母様を選ぼうとするので、統一教会の女性たちの中において、愛の競争が起こるのです。すべてのおばあさんも自分が宇宙の母であると言うのです。そうですね。夫と死別したやもめのおばあさんもそうですし、すべての娘たちまでもが、自分が宇宙の母であると言って、「先生が一人で住んでいるので、私が先生の妻にならなければならない」という、愛の風が吹いたのです。このような風のことをこの世の中では何と言いますか? 恋煩いにかかると言うのですね。恋煩いでおばあさんが病気になると言うのです。先生は縦的愛を全うしようとするのですが、横的愛の風が吹きまくるのです。ですから先生は家を捨てて出てきたのです。

 ある女性などは、恋愛結婚をして一週間にもならなかったのに、統一教会に入って原理のみ言を聞いてからは、夫を見ると蛇に見えると言うのです。蛇がスーッと戸を開けて入ってくると言うのです。部屋に入ってくる前には夫に見えたのに、自分の横に入ってくると蛇のようになって、自分の体をするすると巻くのが見えるようになると言うのです。ですから、「ワァー!」と叫ぶのです。そのような体験を誰もがしたのです。ですから、夫と愛の関係をもつことなど死んでもできないのですね。腹を裂かれて死んだとしてもできないのです。ですから夫が会社に出掛けると、溜め息をついて「フーッ、もう帰ってこなければよいのに……」と思うのです。そしてまた夜になると大変なのです。逃げていこうにも、先生が悪口を言われそうなので逃げていくこともできず、また、夫にいくら教会に行くなと言われても、教会に行かないわけにはいかなかったのです。ですからもう大変だったのです。

 夕方になったので、先生が女性たちに「家に帰れ!」と、悪口などを言って大騒ぎをしたのです。どんなにたくさん悪口を言ったことでしょうか。正門のほうへ追い払うといつの間にか裏門のほうへスーッと入ってきて、朝になるとそこで眠っているのです。(笑い) それで足で強くけって、「こいつめ! 昨日追い出したのになぜまた入ってきたのか!」。すると「私も知らずに入ってきたのに、先生がそんなにおっしゃれば、私はどこに行って生きればいいのですか?」と言いながら、死にそうになるのです。当時、そのようなありとあらゆることがあったのです。(笑い) ただ、悪口を言われることしかなかったのです。

 また塀を乗り越えてくるのです。夜に家を出てくるのです。先生の所以外に訪ねていく所がないので、「先生、私来ました」と言って訪ねてくるのです。ですから先生はすべての悪口を言われてきたのです。悪口を言われても仕方がないというのです。どんなに悪口を言われても、先生はかわいそうな人たちを解放するために来たのだから、先生は避けて通ることができないのです。ですからどんな悪口でも言いなさいというのです。こうして、女たちの群れを収拾するために、私は悪口をたくさん言われてきました。七十歳の老人までが大騒ぎしたのです。(笑い) ですから若い者はどんなに騒いだことか知れません。刃物をもって、「先生が私を分かってくれなければ……」と、大変なことだったのです。しかし、先生は神様のみ旨が分かるので、どうすることもできなかったのです。

 そのような中でお母様を連れてきたのですから、おばあさんをはじめ、女性という女性は目がひっくり返るようだったのです(先生が表情で示される)。(笑い)「お母様に自分の相対を奪われた」と言うのです。そのようなことが起こったのです。それで、この渦巻きを鎮めるために、八十代の渦巻きから七十代の渦巻き、六十代の渦巻き、五十代の渦巻き、四十代の渦巻き、三十代の渦巻き、二十代の渦巻き、十代の渦巻きまで下がってこなければなりませんでした。十代の渦巻きから再び編んでいって、七十代、八十代までの女の堕落した世界のすべての曲折を解くことができたのです。これは、誰も解けません。

 そのことをお母様が知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか? ですから先生の言にお母様は、絶対服従しなければなりませんでした。「東の方へ行きなさい」と言われれば、東の方へ行き、「西の方へ行きなさい」と言われれば西の方へ行き、「南の方へ行きなさい」と言われれば南の方へ行きました。「今晩は帰ってこずに、外で眠りなさい」と言われれば外で眠りました。先生に絶対服従しなければならなかったのです。そのようにしながら、すべての女性たちの行く道を全部、アベルの位置で引っ張り出して解放させてあげなければならなかったのです。人々に悪口を言われたからと言って、もし先生に反対したとするならば、お母様の位置が吹っ飛んでしまったのです。分かりますか?

 それで岳母(お母様の母親)にも、「絶対三年間、正門から出入りしてはなりません。母親だからといって訪ねてきてはなりません。エデンの園においては、エバに母親はいません。ですから正門から出入りしてはなりません」と言ったのです。こんな話があるでしょうか。世の中の常識から見るならば、岳母の前に婿の立場の者が、「娘の部屋に来る時には、裏門から訪ねてこなければなりません。正門から来てはいけません。三年間」と、そう言ったのです。

 ところで啓示はすべておばあさんが受け、今何をすべきかすべて見せてくれたのです。お母様に教えてくれるのです。「今後、こんなことが起きるので注意しなさい」と教えてくれるのです。それは母子協助なのです。横的に連結させるためには二代にわたって協助しなければならないのです。そのような複雑な内容を全部収拾しなければなりません。ぼろの着物をまとった女たちの包みに、不用な布を金の糸で縫って、金の座布団にして、差し入れてあげなければならないような仕事をするのがお母様だというのです。分かりますか。女たちはこれが分からなければなりません。なぜならば、先生に悪口を言ったのが女たちだからです。

 そして、男たちはそのような女たちに対して、石で打ち、棍棒で打ち、斧で打ち、頭を割り、脚をへし折り、顔を傷付け、ありとあらゆることをすべてやってきたのです。私はそのようなことをすべて見てきたのです。文先生が何で私たちの女房を奪っていって、なぜ一緒に住むのかと言うのです。もし多くの女性たちを先生が連れてきて、一緒に住むというのであれば、それはどのようにして住むのでしょうか。この者たち! ありとあらゆることをみなやって、悪口という悪口をみな先生に浴びせかけ、すべてのことをやってきたのです。獄に閉じ込め、足でけ飛ばし、袋だたきにして、ありとあらゆることをしてきたのです。やりたければもっとやれと言うのです。アダムの主管性が転倒したために、女にも正しいことを教えることができなかったので、この恥辱の道が生じたのだから、女に対する怨みを解くためには、男の代表たるこの私を打てと言ったのです。そういうことが分かりますか?

 統一教会の歴史を考えると、皆さんの今日は夢のようです。夢のような事実が現実に適用されて、実践場として現れたという事実は驚くべきことだと考えなければなりません。その先生の伝統を知り、その歴史に対する時、誰しも涙なしに対することができないし、姿勢を正して天地の前に恥辱の姿を解放してもらうために努力せずしては、天国に入る道がないということをはっきり知らなければなりません。統一教会の食口たちは、今まで勝手に生きてきましたが、それは私が放っておいたからです。しかしこれからはまっすぐに生きていかなければなりません。これからは、真なる神様を私の神様とし、先生を私の父としていかなければなりません。

 真の父なる根よ来たりませ!

 旧約時代は、物質を犠牲にして息子の道を築いてきたのです。分かりますか。万物を犠牲にして息子、娘の道を築いてきたのです。人間のゆえに万物が供え物になってきたのです。そして新約時代は、父母が来られる道であるために、子女たちが供え物になる時代なのです。これが新約の歴史なのです。神様がこの地上に愛をもって万物を主管し、愛の子女を抱き、愛の妻と夫を抱き、父母の位置を設定するのが創造理想であったのです。そこで、偽りの愛をもって誘惑されたこの世を救うためには、最低から蕩減しなければなりませんでした。万物が血を流さなければなりませんでした。偽なる愛の血を蕩減しなければなりませんでした。半分以上を抜き捨てなければなりませんでした。この道は死を懸けていかなければならないのです。ですから裂くということが起こったのです。旧約時代は、万物を犠牲にさせて息子を呼ぶための歴史でありましたし、新約時代は子女たちを犠牲にして父母をこの地に呼ぶための歴史であったというのです。

 既成のキリスト教会では、「主よ、来たりませ!」と言うのですが、その主とは誰かというと、それが真の父なのです。今日まで偽なる父の歴史の根をもった人の世の嘆息だったのです。「真の父なる根よ来たりませ!」という、これがメシヤ思想なのです。今日のキリスト教徒たちは、それを知ることができないのです。メシヤが何なのか分からないのです。日本語で言えば「飯屋」だというのです。救世主が何なのか分からないのです。愛の救世主なのです。愛の伝統を中心として縦横の万国、どのような環境にも解放圏をもたらすことのできる救世主であり、その伝統的中心が愛なのです。救世主は愛の求道者なのです。

 ですから旧約時代は、万物を犠牲にして愛の息子、娘を探し求めてきました。この世の息子、娘たちの恨みが何かというと、父母に侍ることができなかったことです。父母に侍れなかったので、子女たちは血を流し肉を切られてでも、真の父母様が来られる道を築かなければならないのです。それがキリスト教二〇〇〇年の歴史なのです。

 もし御父母様が来られるならば、その時は、万国すべてが一つの国になり、外的万物と内的人間が一つになるならば、カイン・アベル圏が一つになれるのです。カイン・アベルが愛で統一されたところには、いつでも神様が臨まれるようになっているのです。ですからすべてが相対的になっているのです。目もそうだし、体もすべて相対的になっているのです。

この地上に父母として来られる方が再臨主であり 、その再臨主がこの地に来られたのに、キリスト教が反対したのです。キリスト教とキリスト教の国々が、父母になられる方に対して万国の祖先として侍り、有史以来の貴いお方として侍らなければならなかったのです。自分の財産や、自分の子供や、自分自身を犠牲にしても取り替えることのできない貴い方が来られたというのに、キリスト教全部を与えても、世界全部与えても取り替えることができない貴い父母が来られたというのに、天地の中心たる起源となられるその主人が来られたというのに、彼らはすべて反対したのです。

 統一教会の怨讐がクリスチャンたちなのです。趙庸基牧師はなぜそんなに統一教会を嫌うのでしょうか。私は、趙庸基牧師よ、「滅びよ」というような話など、一度もしませんでしたし、私は夢にもそのように考えたこともありません。その反対する者たちに、私の救いの手がまだ届かなかったので、私がその教団に行って教えてやることができなかったので、私は審判することができません。法廷を選んで、よしあしを区別し、審判しなければならないのです。

 趙庸基牧師よ、ここに来て一度説教してみなさいというのです。自分勝手に審判することはできないのです。そして今や、いったい誰が滅びるのか見ていなさいというのです。打った者が滅びるのです。第二次世界大戦の時も、先に打った国が滅びましたし、今日、共産主義が思想的にアメリカを打ったので、滅びの兆しが見えて、滅びつつあるのを私たちは見ているではありませんか。統一教会が静かにしているのになぜ怒るのですか。私が何をしましたか?

 羊もそうです。羊は主人が餌を食べさせ損なうと、おいしい餌を食べさせる主人に付いていくのです。それが自然の道理なのです。分かりますか? 自分たちが誤って教会員の首を締めておいて、奪われたと言うのですか。奪うとは何ですか。奪うのではありません。死にそうになっていれば、生きる道を訪ね求めていくのが道理なのです。食べられないから、食べるものを探し求めていくのです。それは自然的革命なのです。それを制裁しようとする者は滅びるのです。

 既成教会に若い人たちがいますか? 統一教会は若い人たちの天地なのです。若い人たちが統一教会を必要とするのです。では四十歳以上になる人たちは必要ないでしょうか。(笑い) なぜ笑いますか? 私の言うことをよく聞いてみなさい。不必要なことを語るとでも思いますか。

 新約時代には、息子、娘が父母に侍るために、歴史を通じて血を流しました。そのようにして、御父母様が来られる日を願ってきたのがキリスト教思想なのです。主様とは何ですか? 父として来られて、サタンが新婦を奪っていったので再びサタン世界に行って新婦を探し求めなければならないのです。それは強制されて探すのではないのです。万国が歓迎する中で、「早く、早く、来たりませ! この地上からお選びください!」と言う中で探し求めなければならないのです。すべての人々は主様の後援団体にならなければならないのです。そうなる時、サタンも離れていくのです。

 そうなることによって、家庭を中心とする基準が確立できるので、カトリックで独身生活をする神父、修道女はみないなくなるのです。今までアメリカでは神学校や修道院に何百名、何千名という人々が入学していたのですが、最近では、一人が入学したといって大騒ぎしているのです。そのようになるのです。僧侶もそうです。妻帯僧が仏教界を指導しなければなりません。そのようにならなければなりません。ですから、相対をもつことのできない存在は、この地上から除去されるのです。なぜそうなるのかというと、すべての存在が相対主義だからなのです。そうですね。すべて虫も雄がいれば雌がいるのです。蝶もそうでしょう? (はい)。蛇はどうですか、魚はどうですか? すべて雌雄になっているのですね。人間も同じです。

 真 愛

 それでは、神様はなぜ人間を造ったのでしょうか? 神様は人間の誕生とともにすべて教育してきました。季節に従い、春になって、花咲く時が来たならば、愛することを教えるためにすべての動物たちをして、子を産み始めさせるのです。下等なものはそうではありませんが、大多数がそうだというのです。花咲く春が来れば、蝶や蜂や、すべての万物が和動し、雄と雌が出合って子を産むのです。

 人間はどうでしょうか。結婚はなぜしますか? (愛するからです)。なぜ愛するかというと、愛する後継者を残すためなのです。その愛は私だけではなくて、おじいさんやおばあさんが、父母よりも孫をもっと愛するというのです。それは不思議でしょう? この話をしていたのでは時間がたくさんかかりますから、それは飛び越えましょう。もう三時間たちました。

 先生が一つ一つ決定して出発命令を下さなければならない時が来たので、話が少し長くなっても仕方がありません。お母様には、「私は少し長く話をします」と言ってきたのです。個人的なお母様よりも、公的な多くの人たちのために生きるお母様のほうがより善であります。おなかが空いて、下腹に力が抜けても公のためには仕方がありません。(先生が水を飲みながら)水を飲み、汗を流しても仕方がありません。(笑い) 先生の悪口を言いながら泣く人が出たとしても仕方がないのです。真実である時には通じるものです。「真実」プラス「愛情」は「真愛」なのです。真愛という言は初めてですね。真愛に通じれば万事が「OK」だというのです。

 おじいさんやおばあさんの杖を、孫の嫁たちは見たくないというのです。なぜかというと杖を突くようになると早く死ぬというからです。しかし、愛のある嫁は「ああ、あの杖がなくなる日には、私の目から雨垂れのような涙が流れ出るでしょう。ああ、千年、万年生きれば良いのに……」と思うのです。そのような嫁は偽りの嫁でしょうか、真の嫁でしょうか? 偽りの孫の嫁でしょうか、真の孫の嫁でしょうか? どちらですか? (真の孫の嫁です)。皆さんはみなそうですか? 現実に流されて簡単に生きようとするような人は、東西南北のない人なのです。東西南北を備えることのできない人は、中央を探し求めることもできません。

 堕落した世界がなぜこのようになったのかというと、中央を失ってしまったので自分を中心として生きるしかないからです。それで縦的、横的基準がこのようになってしまい、十字でいうならば、(先生がしぐさされる)このように大地に立っているのです。ですから堕落した世界の夫婦は、何日もたたないうちに全部が別れていくのです。

 真愛によってこそ、暗い闇も晴れ、すべてが行ったり来たりできて、どこに行っても損がないというのです。全部が同じなのです。こちらにいた力があちらに回っていっても同じであり、こちらに回ってきても同じなのです。みな同じなのです。東の方へ行っても、西の方へ行っても額を合わせぶつかる時、ただぶつかるのではなく互いに道を譲り合うのです。そのような時、愛は拡大性があるのでパッと膨れるのです。ですから、縮小して道を譲ってあげればどこに行くにも衝突はあり得ないというのです。

 真の父母をこの地上に迎えて、すべての万国の解放を整えるのが宗教の使命であるにもかかわらず、キリスト教はそれができなかったのです。キリスト教が今日、このように自滅していくのはなぜかというのです。統一教会の文先生に反対したことによって世界が南北に分かれ、東西に分立されたという、とてつもない事実を最近になってようやく分かったのですね。四十年前このような話をした時、誰か先生の話を信じましたか? 「追い出されたので仕方なしにあんなことを話しているのだろう。うそを言うにしてもあんなにずうずうしく、よくも話すものだ」と言ったのです。しかし、先生が語ったとおりになったのですね。それを見ましたか? (はい)。それで、先生は栄えましたか? 滅びましたか? (栄えました)。では、先生のように生きれば栄えますか、滅びますか? (栄えます)。先生のように生きてこそ栄えるのです。それが統一教会の人の責任ある人生路程なのです。

 では、先生はどのように生きてきましたか? 上から下がってきましたか、下から上がっていきましたか? (下から上がっていきました)。キリスト教を通じて、すべてが先生に従ってきたならば下から上がっていかなくてもよかったのです。横的な基準で万国のキリスト教が協助する中で、国家が協助する中で、先生がお母様に出会って、祝福、結婚式を終えたならば、万国が統一されていたのです。そうすれば、今日のような迫害はなかったのです。

 それらのすべてのものが反対してきたので、先生は天の国を中心として、神様と父母が地上に臨むことができるように、キリスト教の全歴史と旧約時代の祭物を犠牲にして準備してきたのです。そしてその基台の上に父母が来られたのですが、お母様に侍り、家庭に侍り、万国の王権を立てることができなかったために、再び追われる立場から探し求めて戻っていかなければなりませんでした。しかし、いかに追い出される立場に立っても、神様は私についてこられたのです。キリスト教にはついていかれなかったのです。

 神様が離れた今日の牧師たちを見てみなさい。長老たちを見てみなさい。全部がお金の籠をもって歩き回って、自分の息子、娘だけを愛し、日曜日にはけんかをしたりして、ありとあらゆることを行っているのです。正に、亡国の僕たちです。しかし、私は彼らと違ってすべてを捨ててきたのです。神様に従い、国を捨ててきたのです。ですから当然のこととして、神様のみ旨をすべて知っているのです。世界万国の祝福を一つに成し得るこの特権をもっていた先生が、没落し、万国が踏みつけにし、神様までもが呪うような立場に立ったとしても、私は「たとえ、あなたが私を呪うことがあっても、私はあなたを呪うことはできません。あなたが立てられた本然の時を迎えるための蕩減条件を立て、四十年、四十三年間に、再び歴史的基準を回復します」と、先生はこのように思って戦い続けてきたのです。




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2022.01.07 22:30:04
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