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第四十一回「真の子女の日」記念礼拝の御言
成約八年 2000年10月27日
(陰暦十月一日)京畿道九里市水澤洞 中央修練院


 第四十一回「真の子女の日」記念礼拝で真のお父様が語られたものです。み言に先だって、一九六六年の第七回「(真の)子女の日」のみ言の「訓読会」が行われました。

 (先ほど「訓読会」で)子女が行くべき道理に関するみ言、深刻な内容のみ言を聞きました。自分たちが本当に、神様の前に真なる子女になれるのかということは、恐ろしい内容です。
 神様が、どれほど大きいのかというと、この宇宙よりも大きく、無限に大きいのです。また、神様がどれほど高いのかというと、限りなく高く、どれほど広いのかといえば、計り知れないほど広く、どれほど深いのかといえば、考えることもできず、そこに及ぶこともできないほど深いのです。そして、そのおかたが、人格的な神様であるというのです。それは、人間のような神様であるということです。
 それゆえに、わたしたちが「子女」という名分を持つためには、そのおかたの愛を通して生命が結ばれ、血筋が連結されたという因縁を持っていなければなりません。ですから、その血筋の中には、膨大な大宇宙の権威を持たれた神様の愛が植えられているのです。
 それは、どういうことかといえば、その神様の愛の中で、その愛を敬い尊ぶ、父と母の主体・対象関係によって生命が連結されているということであり、その愛を中心として連結された生命体によって、分かれていた上下、左右が一つに連結され、そこに血筋が連結されているということです。そうして、その血筋を受け継いで生まれたのが子女なのです。
 その子女という一つの分子、男なら男、女なら女の価値は、どれほど大きいでしょうか? この想像もできない膨大な大宇宙を中心として、それも主体と対象が一つになった、神様の性相と形状の実体的人格を中心とした本性的男性と女性の価値は、どれほど貴いかということを、皆さんは知らなければなりません。
 その男性と女性が生まれた動機とは、何でしょうか? 自分のために生まれたのではありません。女性が生まれた動機、男性が生まれた動機は何でしょうか? 今、話した根本的因縁の代身存在として、原因的存在の前に結果的存在として現れたのです。その結果が男性であり、女性です。
 原因から分立されて男性と女性が生まれたのですが、これは、何のために分立されたのでしょうか? それは、愛のためです。その愛とは、どのような愛ですか? 過ぎ去っていく愛ではありません。永遠の愛を懸け橋とするために、男性と女性に分立されたのです。
 それは、先祖から千年万年、継続してきました。そして、いくら先祖がたくさんいたとしても、その先祖たちも、分立された男性と女性を中心として、さらに先祖から神様の愛が運搬されて受け継がれていき、そのようにして神様の愛を受けることのできる完成した男性と女性の先祖から連結されてきたのです。
 そうして、それが今日、生きている”私”が生まれる背後の血統となり、その背後の血統が統一教会となり、”私自身”を形成したのです。このような事実を思うとき、男性なら男性、女性なら女性という存在が、どれほど偉大であるかということを知らなければなりません。
 その偉大な”私”、驚くべき”私”! 皆さん、そのように思うでしょう? 男性も最も高い、最も偉大な最高の位置に立つことを願い、女性も最高の位置に立つことを願い、だれもが、男性も女性も、すべての人が最高の位置を願うのです。
 その最高の位置に到達することができるものとは何かというとき、それは、簡単に愛だけではありません。男性は、愛も持っていて、生命も持ち、血筋も持っています。女性も同様です。ですから、いくら「至高の代身たる性相と形状に分立された男性と女性である」と言っても、そのおのおのの分性的存在においても、絶対的に必要とし、また、断ち切ることのできない神様との愛の関係が、”私”に介在しているのです。愛を持っているでしょう?

 天地父母を中心として、霊界にいる”私”の生命体、つまり父母の生命的実体が連結されています。そして、その生命体であられる父母の血筋は、父親の血と母親の血が一つになり、それが調和の過程を経て、”私”という存在が生まれてきたのです。
 そのような事実を考えてみるとき、また、その一つの実体が、どれほど偉大な歴史的過程を経て成された実体なのかということを考えてみたとき、それこそが歴史的な宝物であるということを、皆さんは知らなければなりません。
 宝物なのですが、男性一人で完全な宝物ですか、女性一人で完全な宝物ですか? このふたりが一つになってこそ、完全な宝物になることができるのです。ですから、男性も”半分”であり、女性も”半分”です。
 そのような完全なものになれば、神様の愛を中心として完全な愛を成すことができ、神様の生命を中心としても完全な愛を成すことができ、神様の血筋を中心としても「完全である」と言うことができるのです。
 そのような実体存在としてつくられたのが男性と女性なので、男性と女性が完全に一つになる、その位置を通して神様の愛の化身体が現れることができ、神様の生命の再復活体として現れることができるのです。そして永遠なる歴史を同伴してつづられてきた神様の血筋が、未来の世界にまで同伴する、その橋梁が自分の血筋を通して連結されるのです。
 このような、とてつもない事実を考えるとき、男性と女性が分聖殿となり、その半分の者同士が夫婦として一つになることができる価値的基準は、どれほど貴いものであるのかというのです。
 ふたりが一つになって”合徳”する位置、また夫婦として愛し合うその位置は、神様の愛が完成した一つの結実体であり、神様の人格の生命体が完成した結実体であり、今まで神様が歴史を創造してこられた内的動機の起源であった血筋の結実体なのです。
 そのような事実を考えるとき、神様ご自身も、そのようになった実体のふたりを取り替えることはできません。神様ご自身も彼らを絶対に必要とし、また、そのような立場で、男性と女性の半分同士が一つになることができるその位置は、神様とも取り替えることができない貴い存在なのです。

 ですから、そのような価値的結実体をつくることができるものは、いくら男性が、一人で千年間、誠意と努力を注いでも成就させることはできません。いくら女性が千年間、誠意と努力を注いでも成就させることはできません。 千万年の間、誠意と努力を注いでも捜し出すことができない二つの存在が、お互いに完成を成すことができる一つの位置を訪ねていくのが祝福である、ということを知らなければなりません。
 今日の西洋の人々を考えてみると、結婚というもの、家庭というものは、真昼のうちに過ぎていく”一時だけの因縁を結ぶものだ”と思っているのですが、そうではありません。それは歴史とともに、宇宙とともに永遠に存続することができ、神様の理想とともに存続しているのです。
 そして、一挙手一投足のすべてが、宇宙の喜びの象徴体であり、また、全宇宙が喜楽を連結させることができる和動の実体が、私たちの家庭にあったのです。そのような事実を思うとき、無限の価値を持った”私”の家庭であるということを考えることができなければなりません。
 その夫婦の愛の中で神様が暮らすことができ、また、夫婦の生命の中で神様の生命が連結され、その夫婦の愛の血筋が連結される中で宇宙が存続することができるのです。過去、現在、未来、そのすべてが、この血筋によって幸不幸が左右されるのです。
 より発展的で、より理想的な未来を希望していく、そのようなわき上がる血筋を備えた人がいるとすれば、神様の希望の相対的実体になることができます。神様の喜びの刺激を充足させることができ、何よりも輝く神様の愛の対象圏を備えることができるのです。そのような立場が、自分たち夫婦であるということを知らなければなりません。
 このような家庭をすべて失ってしまわれた神様のみ前に、だれが、再びその家庭を取り戻してあげることができるのでしょうか?
 アダムとエバが、このような価値的内容を形成し、幸福の起源を完成したものを神様にお返しし、神様が「この家庭以上のものはない」と誇られ、そこで”永遠に一緒に暮らしたい”と思っておられたにもかかわらず、その家庭を失ってしまわれたのです。そのとき、神様の悲しみは、どれほど大きかったでしょうか? そのことを、皆さんは考えなければなりません。
 そのような意味で、男性というものがどれほど貴く、女性というものがどれほど貴いかというのです。
 もし、男性の前に女性がいなかったとするならば、どのようになっていたでしょうか? 千万の男性が暮らす男性の世界の中で、女性が一人もいないというときには、その千万人はどのようにするでしょうか? 千年万年、夢を見て、億万年理想を描いても、一代以内ですべていなくなるのです。そうですか、そうではないですか? (「そうです」)
 世の中に女性ばかりがいて、男性が一人もいなければ、千万年間、歴史の夢を持った女性たちがいたとしても、男性が一人もいないというときには、女性は絶望してしまうのです。一代ですべていなくなるのです。
 神様の立場で考えれば、今、六十億の人類の中で三十億の男性と三十億の女性がいますが、三十億の女性を前にして、神様が「わたしの息子だ」と訪ねていくことができる男性が一人もいないというとき、その一人の男性を捜し出すためには、三十億の女性を犠牲にしたとしても余りあるということを知らなければなりません。何のことか分かりますか? (「はい」)
 三十億の人類の中に一人の女性しかいないというとき、三十億の男性をすべて犠牲にしたとしても、その女性が相対することのできる人を、神様は必要とされるのです。もし、いなければ、堕落していないのであれば、つくることができるのです。分かりますか? (「はい」)

 このように見るとき、「神様が願われる真なる男性、神様が願われる真なる女性とは、だれなのか」という問題は、深刻な問題です。いくら人がたくさんいても、人として扱うことができないというのです。それは、”完成品”ではないということです。
 そのような者を「未完成品である」と言うとき、それを未完成品として烙印を押してこそ、その人は正当な人であり、神様の公認を受けることができる人です。
 ところが、「これは悪いものですが、良いことにします」と言えば、「良いことにする」と言った人も、悪い人の同参者になるということを知らなければなりません。
 このように見るとき、”私”一人解放し、”私”一人完成し、”私”一人喜ぶということは、”自分一人だけ喜びなさい”ということではありません。関係世界を中心として、包容することができる膨大な宇宙史と常に関係を結んできたということを思いながら、「私」と言うときには、宇宙の朝日を代表して、暗闇の世界に射し込む光のように現れる”私”である、と考えなければなりません。
 真っ暗な夜の時代において、暗闇の世界に蛍の光でもあれば、その蛍の光は、すべての暗闇の世界の注目の対象になるのです。堕落した暗闇の世界において、小さくても”神様の前に、蛍の光のように輝くことができる代表的な存在にならなければならない”という心を育てていってこそ、暗闇の世界の全体を照らす灯台のように現れることができるのです。それは理論的です。

 さあ、そのようにすることができる神様の息子を神様が見付けだし、愛して生命の実体に連結させ、血筋を同化させようと喜んで行動してみた、そのような愛の家庭があったでしょうか? ありませんでした。なかったのです。
 それで、そのような家庭を失ってしまわれた神様は、それを取り戻さなければなりません。それを成し遂げなければなりません。いかなる犠牲があったとしても、この世の中をすべて一度に引っ繰り返して打ち込み、人間をつくる前の本来の状態に戻すことができるのならば、一瞬のうちにそのようにしたいと思われたかもしれませんが……。
 本来、人間というものは、神様の息子、娘として、神様の愛を中心として、神様の生命体と神様の血筋と連結することができるという理想を中心として創造されました。神様は、この結果的存在をもって、地上に理想的家庭、理想的天国、理想的天上世界と解放圏を成し遂げようとされたのです。

 それでは、皆さんの中で、一人の男性なら男性が、再創造の価値的存在という命題を成し遂げて、すべての歴史時代を否定せざるをえないような立場に立っておられる神様のみ前に、希望的な実体として立ち、神様が、「あなただけが必要だ」と言われることができるような存在に、どれほどなったのかというのです。そのような存在を、どのようにして確定させるのかということは、どれほど途方もない問題でしょうか?
 男性と女性を一緒につくればよいのですが、堕落したときには、女性が男性を堕落させました。ですから、今度はその反対に、そのような男性をつくることによって、迷宮にいる女性を再創造しようというのです。アダムから創造したので、復帰もアダムから先にしなければなりません。
 復帰するためには、アダム自体をそのまま犠牲にすることはできません。つくられた万物を保護すべき立場としてつくられたアダムを、だれが絶対的に必要とするのかというと、女性が必要とするのです。それゆえに、歴史において、どれほどたくさんの女性たちが犠牲になったことでしょうか?
 考えてみてください。アダムとエバが堕落してから、今まで数千万年……。何が「数千年」ですか? それは、数千万年です。
 今朝、お母様が言うには、「テレビで放送していたのですが、ゴキブリの歴史は三億五千万年だそうです」と言うのです。わたしは、その話を聞いて、「何と三億五千万年? まあ!」と言いました。ゴキブリは小さいので、そうです。ゴキブリが、そのような歴史を経てきたといいますが、鯨やさめのような大きいものも、二億五千万年から三億年の歴史を持っています。
 それでは、そのような長い歴史が存続してきたというとき、万物の主人であり、愛とともに相対的関係によってつくられたアダムとエバが六千年前につくられたとすれば、それを計算した神様の頭は、天才的な頭ですか、愚かな頭ですか?
 人間がつくられてから今に至るまでの人類歴史は、どのくらいになると思いますか? 考古学を通しても何千万年。百七十万年ではなく、何千万年です。それは、正確な継数を数えることができないので、そのように言うのです。これを考えると、人間の先祖は何千万年前から先祖であったということを否定することができません。
 それでは、その堕落の力はどれほどすさまじく、どれほど恐ろしいものでしょうか? 何千万年の間、この天地を創造された神様を拘束してしまうほどのすさまじい力の……。力の何ですか? その力の罠で縛られたのです。獣を捕まえる罠のようなものをかけられたというのです。それは、何千万年の時間をかけても解くことができない、驚くべき神様の事実です。
 十代にわたる一人息子が死んだ場合でも、国がそれに対して慰労してくれる、というのですが、アダムとエバは、億千万年の一人息子、一人娘です。それも一度しかない、何千万代を代表した一人息子と一人娘です。
 何千万年も神様の中で標準として立てられ、神様が、その息子、娘から慰労を受けることができる、そのような価値を持った息子、娘を失ってしまわれた神様の心と、今日、この人間世界で七代の一人息子や百代の一人息子を失ったこととを比較しようというのかというのです。
 堕落した世界では、そのような無念で悔しいことがあっても、それは蕩減法においては当然のことでしょう。
 しかし、蕩減が必要ない神様のみ前において、億千万代の一人息子と一人娘を失ってしまわれた神様の悲運の歴史は、どれほど胸を痛めるものであったでしょうか? それを想像してみてください。
 この時代において、日本の国民が一億二千五百万人であるとすれば、男性と女性はそれぞれ何人になりますか? 約六千三百万です。六千何百万人が一人息子、一人娘だとして、その息子、娘が一度に死んでしまったとすれば、どのようになるでしょうか? 痛哭するでしょうか、しないでしょうか? 正気でいられるでしょうか、いられないでしょうか? それは一億二千万です。六千何百万ではありません。
 人類全体が、何千億の人々が死んだという、そのような孤独と悲しさと無念と悔しさで、神様はどれほど胸を痛められただろうかというのです。そのようなかたを父として侍り、そのようなかたの孝子にならなければなりません。
 ですから、今までの歴史過程にいなかった孝子を願われる神様なのです。孝子に出会うことができなかったがゆえに、それを願っていらっしゃるという事実を思うとき、神様が「わたしの孝子だ!」と言って認めてくださることができる、歴史的な人間の種があったと思いますか? あったと思いますか、なかったと思いますか? (「ありませんでした」)

 それでは、わたしたち統一教会はどうですか? 真の父母とは何ですか? 真の父母とは、人類の代表です。神様の屈辱と悲しみの歴史を否定し、そのすべての主体と対象、内外、前後、左右、上下を否定し、「代身的勝利の標的として現れた」と言うことのできる代表的存在が、真の父母にならなければならないということです。(「アーメン」)。アーメン。「アーメン」と言ってください。(「アーメン!」)。(拍手)
 それでは、真の父母が必要とするものは何ですか? 真の父母が必要とするものは、何でしょうか? 真の父母も、真の父が必要なのです。分かりますか? その真の父とはだれですか? (「神様です」)。神様です。
 神様は、天地を創造される前から”真の父母”というものを考えられて天地万物をつくられたので、創造される前から共にいるべき存在であり、希望としてもいなければならない存在が”真の父母”であったのです。
 つまり、真の父母をつくっておかれて、それが実際の生活環境にもいなければならず、理想を描く希望の夢の中にもいなければならないという存在が、真の父母だったのであり、歴史過程を通しても、忘れないように、心の中で喜びの象徴として、いつも生きていなければならないのが真の父母だったのです。そうではないですか? そうですか? (「はい」)
 それでは、真の父母が次に必要とするものは何でしょうか? ”真の子女”です。どのようなものが”真の子女”ですか? 目があり、鼻があり、口があり、耳があり、ただ五官がある、それが真の子女ですか?
 歴史において、悲しみと苦痛と苦役を被った、そのすべての事実を真の父母によって忘れてしまい、真の父母を見て、すべてのことを慰労される位置に立たなければなりません。そうすることによって、真の父母からわたしたちに、すべてのものが、そっくりそのまま相続されるのです。
 それでは、真の父母から相続したものよりも良いものを残すことを願わなければならないでしょうか、劣るものを残すことを願わなければならないでしょうか? (「良いものを願わなければなりません」)
 わたしも、おじいさんになってみると、子供のときには思いませんでしたが、孫を抱いてみると、”自分の息子、娘より優れた者になるように”と願うのが、おじいさんの心です。先生も人なので、そのように思うでしょう? ここにいる年を取ったおじさん、おばさんたち。孫を抱いて、本当にそう思うか、そう思わないかを考えてみてください。
 そして、”何代後の後孫は、今の一代の後孫よりも劣っていればよい”と思うおじいさんがいると思いますか、いないと思いますか? (「いません」)。「います!」(「いません!」)。おじいさんもしかたなく、「あなたの話が正しい」と言って、頭を下げるのです。
 それを、どのようにして連結させるのかが、問題です。昔のおじいさんとおばあさん、あるいは、今の皆さんの年齢の父母、八十歳前の父母、若くて元気だった父母、そして八十歳になるまで好きだった父母を好むのであって、年老いて霊界に行こうというおじいさんを、どうして好むでしょうか?
 孫も、「おじいさんのここにキスしなさい」と言っても、そこにキスせずに、別の所にキスするのです。これは、大きな問題です。ですから、この歴史的伝統を父から息子、三代、四代、千万代まで、どのように継続させるのかということが、大問題なのです。
 それゆえに、神様を知らなければなりません。神様を深く知らなければならず、天の国を知らなければなりません。そして、その価値ある天の国という存在は、どのように成されるのかといえば、血筋が神様よりももっと良くなることを願う位置であればあるほど、神様を中心とした、より高い天国を成し遂げていくというのです。
 天国に行っても、理想を描くのです。李相軒氏の報告を見れば、霊界に行っても原理講義をしているでしょう? 原理を学ばなければなりません。その心情的深みに、いまだに到達できていないので……。
アウグスティヌスが霊界に行って、初めて神様と出会ったときに、神様が訓示されたことは、「アウグスティヌスはアウグスティヌスだ。あなたは、あなただ。あなたは、わたしではない。あなたはあなただが、わたしにならなければならない」ということです。
 それはどういうことですか? ”神様のようになりなさい”ということですか、”神様よりも優れた者になりなさい”ということですか? (「”優れた者になりなさい”ということです」)。”神様よりも優れた者になりなさい”ということです。
 それでは、優れた者とは何ですか? 神様は、すべての被造世界を愛によってつくられました。そして、”愛を受けて生き、愛を受けて死んでいきなさい”という心情でつくられたのです。分かりますか? (「はい」)
 考えてみてください。神様が花をつくられるときに、花の種を一つつくって植えられたでしょうか、木の中心である根から数多くの根、幹、枝が生え、芽が出て一つ、二つと、このようにつくられたでしょうか?
 一つの種をつくられたでしょうか、根を下ろして大きな木になって花が咲き、そして種を刈り取るまで待ち望んでから一つの種を刈り取られたでしょうか?
 種をつくられたでしょうか、種を植えてからすべての過程を経て、大きな花が咲く木をつくられたでしょうか、すぐに種ができる木をつくられたでしょうか? (「種をつくられました」)。本当ですか? (「はい」)。わたしを見て学ぶのですね。種が必要なのです。
 アダムとエバを中心として種をつくられたのです。男性と女性が成長し、凹凸を一つにして種が植えられ、そこから芽が出て、子供が生まれるのです。その子供は何ですか? 真の父母の子供です。「父母の日」を迎えた父母の世界において、最も必要なのが子女です。それは何ですか? それが種です。
 家庭のコンピューターを見れば、それにはプログラムを入れなければなりません。上下間の父子関係、左右間の夫婦関係、前後間の兄弟関係、この三つの関係が一つになって立体的な球形を成すようになっています。その球形の中心は、すべてぽんと空いて、空気で満ちています。
 皆さん。サッカーボールを見てみれば、このようになって丸くなっています。丸いということは、中から表面を同じ力で押しているということです。そして、この中は完全に空いているのです。たくさんの力が重なって押しているので、表面まで膨れ上がってくる、ということを考えなければなりません。
 続けて投入すれば、完全に力でぎっしりといっぱいになってしまうのです。このようにして、宇宙は形成されたと考えなければなりません。
 このように考えるとき、真の父母がいれば、真の父母の子女というものは、真の父母よりも優れていることを願うでしょうか、劣っていることを願うでしょうか? (「優れていることを願います」)。
 真の父母がまぬけならば、「こうでも良く、ああでも良い」と言うのです。それは、まぬけでしょう? 「こうでも良い、ああでも良い、生まなくてもよい、いなくてもよい」と言うのではないですか?
 知恵深い父母ならば、良い所に良いものを加えなければならないでしょう? 良い所に悪いものを加えることを願うでしょうか? 悪い所に良いものを加えて、後で手術して良いものを抜き出してしまえばよいでしょう?
 しかし、そのようにしても傷ができるというのです。根本から良いものをプラスし、さらにプラスして、真の父母よりももっと良い実を願うというのは、神様が成される復帰摂理の決定的な希望の論理です。
 このように考えるとき、皆さん。真の父母を中心として真なる子女になろうとして、生涯、精魂を込めてつくられた自分自身は、真の父母と比較してみるときに何パーセント優れた存在になれそうですか、なれそうにありませんか? (「なれると思います」)。後ろにいる人たちは、どうですか? 聞こえますか? (「はい」)。大きく答えてください。(「はい」)
 それでは、”より良い価値的存在、より良い善なる人間は、どこから連結されるのか”ということを、皆さんは知らなければなりません。愛です。夫婦の愛です。どこからですか? (「愛からです」)。夫婦の愛からです。
 きのう、百度で愛したというとき、次は千度で愛すれば、千度の愛の価値的存在が生じるので、百度とは比較できません。きのうよりも、より良い愛、きのう暮らしていた環境での愛よりも、天宙を抱いてあまりある余裕しゃくしゃくな愛。神様までも、その愛のふろしきに入ってきて昼寝をすることができ、一年じゅう寝ていても安息所だと夢を見ながら……。
 生きて感じることができなければ、夢の中ででも、”理想的だ。千年万年幸福な安息所だ”と思うことができる、愛のふろしきになるということを知らなければなりません。分かりますか、分かりませんか? (「分かります」)

 さあ、それでは、「堕落」という言葉は、どれほどとてつもない事実であるかということを知らなければなりません。天宙を一瞬のうちに暗黒天地に引っ繰り返してしまったということを知らなければなりません。
 皆さんが、数千ボルトの電気を流すスイッチを瞬間的に切れば、「ばちっ!」と大きな音がして「わあ!」と瞬きするのですが、”自分が瞬きしたから明かりが消えた”と思いますか、それとも”明かりが消えて音がしたから、自分の目が瞬きした”と思いますか? どちらが先ですか?
 瞬きするのが先ですか、明かりが消えるのが先ですか? 明かりが消えるのが先です。手を引っ繰り返せば、天国と地獄が引っ繰り返るということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい」)
 わたしたち統一教会は、「絶対”性”」を論じています。「『絶対”性”』に絶対愛がある」。そうですか、そうではないですか? (「そうです」)
 きょうは、何の日ですか? (「『真の子女の日』です」)。「(真の)子女の」です。「(真の)子女の日」が、四十周年になる記念日です。絶対、絶対、絶対、四十年の所願成就が結実する時です。
 このように思うとき、そこで「絶対”性”」を守ってきた家庭は、どのような家庭なのでしょうか? 永遠な夢を抱かれた神様のみ前に、夢の世界が成し遂げられる焦点となる位置にいるのではないでしょうか? 分かりますか? (「はい」)
 その焦点位置は、”私”が祝福を受けて立つことができる位置だったのです。”私”の位置だったのです。考えてみましたか? その位置が、真の父母よりも、もっとりっぱな真の父母になる位置ではないですか? そうでしょう?
 一点を中心として……。皆さん、自分を中心としてすべての世界を自分のものにしたいと思うでしょう? 同じことです。神様もそうです。焦点位置に、千人なら千代になるのであり、万家庭ならば万代になるのです。
 それゆえに、そこに障害物はありえず、躊躇して心が流れることはありえません。どこに行っても、その喜びは全宇宙の喜びになるのです。
 天上天下のすべてに共鳴する喜楽を感じることができ、その位置は、そこを一つの主体として全体が”付体”となり、立体的な喜びを享受する位置なのです。それが永遠を保証する喜びの位置です。それは、神様も「アーメン」と言われます。その位置が、皆さんが祝福を受けた位置です。
 今朝、だれか話をしたでしょう? 今朝が、どのような日として天地に記録した日なのか知らないでしょう? 郭錠煥氏? (「はい」)。言ってみてください。先ほど、「訓読会」をした後に、一言でもそれについて話してから降りていかなければならないでしょう? 「この時代における、きょうこの日は何々の日である」と、天地に宣言した日です。それは何ですか? (「家庭王圏出発の日です」)
 四十年の間、先生が語ったみ言とともに、真の父母が祝福したのは、真の父母の家庭の種を中心として、もっとりっぱな、歴史的な種となる家庭を願ってきたので、その家庭が定着することができるのは、きょうを期して、今からは祝福を受けた家庭の皆さん、真の父母の家庭と一つになることができる皆さんの家庭になるのです。
 それで、”真の父母”という存在は、どのような存在ですか? 成約時代とはどのような時代ですか? 結婚式を完成した時代です。理想的な結婚の内容を備えて定着する時代だというのです。
 その理想的な家庭定着を代表した家庭が、だれの家庭であるのかと言えば、”私”の家庭です。皆さんの家庭です。真の父母の家庭よりもりっぱで、素晴らしい希望の家庭ですが、その家庭とは何でしょうか?
 天地父母を直接にお迎えして暮らす家庭は、自分の家庭一つしかありません。数万数千の家庭があったとしても、神様は”私の家庭”の父なのです。その父とは、どのような父でしょうか? ”家庭の王”であられる父なのです。分かりますか? (「はい」)
 数多くの家庭は、同じ兄弟です。ですから、神様の位置は、「兄弟の前における王たる父」ということです。それでは、その王という位置の価値も、父という価値も、それが千万家庭に分けられているとしても、その家庭の内容は、すべてイコールなのです。
 神様の息子、娘、王子、王女の王であられる神様の家庭を中心として、王子王女の家庭は、神様の家庭的希望の花が咲く家庭にならなければなりません。そのようにすることができるように、新しく出発した……。
 アダムが堕落せずに復帰完成し、理想的天地を舞台として、新しく出発することができる起源とは何かというと、神様を王として侍り、真のご父母様を王として侍り、完成したアダム家庭として育ち、花を咲かせるために出発するわたしたちの家庭なのです。分かりますか? (「はい」)
 ここに今、統一教会の家庭が何千人と集まっていますが、何千人も必要ありません。皆さん自身が、ここで一番になることを願っています。そうでしょう? 一等になることを願うでしょう? だれでも一等になることができます。
 もし、”一等になることができる人になった”というとき、一等になることができる人に一点だけでも加えれば、また一等が生まれるでしょう? それには限界がありません。限界を無限に克服することができる、真の愛の道理が生じるのです。
 オリンピックの百メートルの記録も、昔は十二秒近くもかかっていましたが、最近では九秒八くらいですね。これを見ると、だんだんと記録を破れば、昔の一等が九等、十等になるというのです。そうですか、そうではないですか? (「そうです」)。九秒かかるものを三秒でさっと飛んでいけば、どうでしょうか? 神様が、それに一等賞を下さるでしょうか、下さらないでしょうか? 下さらないでしょう? (「下さいます」)。下さいません、この者たち。(「下さいます」)
 このようなときは、「この先生め。『下さる』です」と、悪口を言っても引っかかりません。それに反対するのが、どうして「先生」ですか?

 先ほど話した、高く、広く、深く、大きい神様が、愛を慕って訪ねて来られるのが復帰路程です。何が慕わしいのですか? (「愛です」)。愛です。神様は、男やもめの立場ですか、父親の立場ですか? (「男やもめの立場です」)
父親の立場ならば、母親を慕って、愛する何かがなければならないのですが、「父親」という言葉を聞くためには、母親と愛した関係において血筋が連結させてこそ”父親”という位置が成立するのです。
​  それでは、天のお母様がいますか? 天のお母様がいますか、いませんか? (「いません」)。わたしは”いない”と思います。どちらですか? 「どちらなのか?」と尋ねているではないですか?​
 わたしは「いない」と言ったのですが、あなたたちはどうですか? (「います」)。本当ですか? (「はい」)。やあ、それは、わたしが一つ学ばなければなりませんね。どのようなものがあるのですか? どのように答えるのですか? これが問題なのです。
 それでは、「いる」という母親を、どこから捜し出してくるのですか? アダム家庭以外に母親がいたでしょうか、いなかったでしょうか? 見えない神様の二性性相と、見えるアダムとエバの四人が、このように座っているのですが、無形の実体を持った性相と形状の父母は、有形の実体である性相と形状の存在が絶対に必要です。分かりますか? (「はい」)
 神様がいらっしゃる無形世界が、いくらりっぱで良くても、それ(無形世界)を補充することができる有形世界の完全な標的を決定づける内容がなければ、無形世界もなくならなければなりません。
 皆さんの心と体は、毎日闘うでしょう? 闘っているのに、なぜ離婚できずに、数千万年もの間、闘ってばかりいるのですか? なぜ、それを解決できずに闘っているのですか?
 しかし、闘って、闘って、闘い、このように闘っては疲れ、このように闘っては疲れました。自分のために生きるので、闘いが終わらずに、それが継続してきたのですが、もう「ああ、今からは反対にしてみなければならない」というのです。どのようにすると思いますか?
 女性は女性を中心に考え、男性は男性を中心として”自分ばかりが良い”と考えるので、何千年たっても闘いが終わらなかったのですが、「ああ、もう闘い疲れて死ななければならないなあ。なくならなければならないなあ。ああ、わたしがしたことの反対のことを一度してみよう」というのです。
 その方向は何かというと、「ために生きなさい。ために存在しなさい」ということです。それは、正しい話だと思いますか、正しくない話だと思いますか? (「正しい話だと思います」)
 自分のために生きることには、もう疲れました。個人主義も疲れました。自分を中心とした独裁者になって、あらゆることもしてみて、お金を使ってあらゆることもしてみて、金銀財宝や権力であらゆることをしてみましたが、何にもなりません。
 自分を中心として暮らした生活歴史が、今まで描いてきたすべてのものは、三百六十度(全部)失敗です。そうして、「このように生きるのがつらければ、死んでみよう」というのです。そのような方向が何かというと、「ああ、自分を中心として生きることをやめ、今からは一度、全体のために生きてみよう」ということです。
 そのようにしようとすれば、「わたしが持っているすべてのものを投げ出してしまおう。哀れな存在になろう」というのです。哀れな存在になって、「ああ、神様。私が持っていたすべてのものを失ってしまいました」と言って、えんえんと泣いていると、何かがやってきて一緒にえんえん泣いているのです。それがだれかというと、神様であられたというのです。それは、理にかなった答えです。
 人間たち全部が不足であったものを皆集めて、「ええい、この怨讐め!」と言いながら、三百六十度の方向に一度に投げつけ、行く所もなく一人立って痛哭していると、”私”を訪ねてこられるかたが神様だったのです。
 そして神様は、「あなたが自分のために生きるときには離れていたが、今は”全体のために生きよう”という、あなたの中心の位置にわたしがいるだけだ。あなたが”したい”と思うすべてのことで、思いどおりにならないことはないだろう」と言われるのです。(「アーメン」)
 このように、離れていて一度入ってくると、天上の頂上まで上がっていくのです。それで、「神様、もう結構です。結構です。結構です」と言うようになります。
 もっと上がっていきたいと思うはずですが、神様が「よし、よし。もう上がっていきたくないだろう。降りてきなさい」と言われて、さっと降りてくると、地獄の底までどんどん降りていくので大変なことになったのです。
 今度は、どんどん暗くなっていくので、「もう降りていきたくありません。結構です。結構です」と言うと、神様は「おお、そうか? それでは引き揚げるか? よし」と言われて、昔の位置に戻すのです。そして、「ああ、この位置が良いです」と言うようになるのです。そのような答えが出てきます。わたしが何の話をしているのか、原理にない話をしていますね。
 神様に対して、「上がっていくのも嫌で、降りていくのも嫌です。この位置にいながら、今からは全体のために……。神様が願われることは何ですか? あなたを見ると、『全体のために生きなさい』と言うことができる代表者のようです。私がすべて失ってしまうときに慰労してくださるのは、全体のために生きることを願われるあなたなので、”全体のために生きよう”という私の決心を相対として、慰労してくださったのです。
 ですから、そのように思います」と言うとき、神様は、「おお、そうか。わたしの息子よ!」と言われるのです。そのようになれば、サタンはすべて逃げていくのです。
 そして、天の国が”私”のものになり、神様が父となるのです。そうして、神様の所願成就に適切な生活舞台において、その実を刈り取ることができるようにし、万宇宙の祝福の宝を分けてあげることができるのです。(「アーメン」)。「分けてあげることができない」のです? (「ノーメン」)。答えは、黙っているか、そうでなければ「ノーメン」です。「分けてあげることができる」のです。(「アーメン」)。「できません」。(「ノーメン!」)
 聞いて理解していたことも、すべて否定しなければならないということを知らなければなりません。そのように生きてみてください。間違いなく、神様が”私”の主人となられ、天運が”私”を訪ねてくるのです。
 姜賢實シルさんも、最近、そのようなことを感じるでしょう? 自分のことを考えれば真っ暗になりますが、全体を考えれば、光が射してくるのです。分かりますか、分かりませんか? (「分かります」)

 真の父母とは、だれですか?
 皆さんは、「今日まで統一教会のために生きてきたが、反対される統一教会のために生涯生きても、誇ることは何もない」。また、「文総裁、真の父母は、『平和の世界のために生きなさい』とばかり言うが、ために生きるのを見たことがない」と感じますか?
 あるいは、「お父様もお母様も(手本を)見せてくれない。訓読会のときにお父様とお母様が一緒に座って、その時間を守れないのか?」などということを皆、感じますか? ”お父様は座っているのに、なぜ、お母様はあのようにするのか?”と。そのようなことも問題になるのです。
 あなたたちは、お父様とお母様よりも「訓読会」を一所懸命にやりますか、やれませんか? どちらですか? (「一所懸命にやります」)。間違いなく、分かっていることは分かっているのですね。夢ではありません。老人も若者も同じ答えです。千年万年たっても、この答えは変わりません。
 それでは、何のために「訓読会」をするのですか? 眠っている世界人類を目覚めさせるためです。世界人類が、天上に向かう高速道路から脱線してしまうので、自分が懸け橋になるためにするのです。そのように考えるのです。
 自分の一族全員が、罠にはまって地獄の祭物となり、めちゃくちゃになる危険な道を進んでいるので、それを防ぐために、サタンの願いとは反対の道をつくるために、そのようにするのだということを知らなければなりません。
 文総裁は元気ですか、衰えていますか? (「元気です」)。何が元気なのですか? 八十歳まで生きて、なぜ元気なのですか? たくさん年を取りました。三十代の青春ではなく、八十の老人になりました。元気な人ですか? 心はそうでしょう。心は青春でしょう?
 ところが、なぜ体は八十の老人になったのですか? それは、衰えたからそのようになったのでしょう? 天理原則に従わなければならないのです。いくら元気でも、天理原則を踏み越えていくことはできません。分かりますか? (「はい」)
 夜になっていくのに、「ああ、太陽よ。反対に西側から東側に行きなさい」と言っても、そのように行きますか? 千万人が死んでも、従っていかなければなりません。
 では、先生は元気ですか、衰えていますか? (「元気です」)。ああ、八十歳の老人になりながらも、何時間も話して疲れ切っているのに、それでも元気なのですか? 青春(時代)のように元気ならば、何時間話していても、もっと火がついていくのに、これは何ですか? 気持ちがもっと乗ってこなければならないでしょう? 元気ではありません。
 先生が一食食べなくても、おなかは空かないでしょう? (「空きます」)。おなかが空きますか、空きませんか? (「空きます」)。あなたたちも、水を一杯も飲まずに続ければ、のどが渇くでしょう? 飲まなくてものどが潤っていますか? (「渇きます」)。同じことです。
 ご飯を食べてトイレに行くのが、どれほど面倒でしょうか? 三時間に一度ずつ行くとしても、一日に八度行かなければなりません。静かに座って記念式をするのに、三時間だけすれば、それでよいでしょう? これは、どれほど面倒ですか。それは、元気な人ですか、衰えた人ですか? 衰えたこと、この上ありません。
 自然の道理というものは、自分を支配し、自分の周辺のものをすべて包み込んで身動きできないようにするのです。それに順応しなければ、存続の法度から外れていきます。それは何のためですか? 男性のそれのためであり、女性のそれのために、そのようになっているというのです。分かりますか?
 男性が優秀で、「わたしは、永遠に女性がいなくてもよい。女性の愛以上のものをわたしは持つことができる」と言うことができますか、できませんか? (「できません」)。「できる」。(「できません!」)。それができれば、それはどれほど優秀でしょうか?
 女性も、(自分が)「優秀」だと誇るなというのです。「わたしは、男性のことを夢にも思わず、娘から最後の枯れ草のようになり、真っ白になっても、わたしには男性は必要ない」と言うのですか? そのように言うのですか、言いませんか? (「言いません」)。しかたがありません。女性として生まれれば、男性を慕わなければなりません。
 ここには、女性がたくさんいますね? 男性を慕ってみましたか、みませんか? 女性として男性を慕ってみましたか、みませんか? (「慕ってみました」)。だれのために生きているのですか? 考えてみれば、深刻な問題です。
 だれのために、そのようにするのですか? おじいさんとおばあさんもそうであり、女王もそうであり、「優秀だ」という女性も全員そうです。胸があるので、赤ん坊を生めば、それを飲ませてあげなければなりません。
 女性には子宮があります。「子宮」とは何ですか? 赤ん坊が眠るので「子宮」と言い、赤ん坊が遊ぶことができる王の基地なので「子宮」と言うのです。その王の基地に、汚された血筋を通した王子がいれば、よいでしょうか、きれいな血筋を通した王子を宿して、ごろごろ動くのがよいでしょうか?

 先生のことを「優秀だ」と誇ってはいけません。あなたたちも、先生以上になりたいでしょう? 先生が「五大洋六大州のために生きた」というのですが、最近は、太平洋文化圏だといって、海洋圏を解放するために学校を立ててあげ、船を造ってあげ、太平洋文明の主役になることができるようにしてみようと言うのですが……。それが、今から何年後かに終われば、すべて終わりです。
 先生が、すべてしておいたではないですか? 学校も、有名な大学は何でも……。運動でも、一イル和サッカーチームが、今年は一等になるかもしれません。”一等になりなさい”というのが、わたしの考えです。
 「一等になりなさい」と言ったのですが、一等にならなければならないでしょうか、なってはならないでしょうか? (「ならなければなりません」)。もし、先生がこのような位置にいれば、一等になっていたでしょうか、なっていないでしょうか? (「なりました」)。できない日には、できない者たちは生き残るでしょうか、死ぬでしょうか? (「死にます」)
 一等になれなければ、横になって眠ることができないでしょう? それでは、一等になりますか、なりませんか? (「なります」)。「今年よりも来年は十倍以上し、それから十倍以上して、またさらに十倍以上して、三年以内に一等になる」。そのように言っても、間違った話ですか、理にかなった話ですか。(「理にかなった話です」)
 「三年間で南北統一しよう」。これは可能なことですか、不可能なことですか、どちらですか? (「可能なことです」)。可能です。できないときには? 火で燃やして、さっとなくなると考えなければなりません。
 いくら先生が優秀であるとしても、今後十年後、百年後になれば、だれでもできることなので、それを誇ることはできません。今だから誇るのです。(すでに)十年、三十年たったことを誇っているのです。それから何をするのですか? 分かりますか?
 韓国に暮らしている、この祝福を受けた家庭は、「天下の名勝地で自分のものでないものがない。自分が行けない所がない」と言うときの気分はどうですか? 自分の名前で行けなければ神様の名前で、神様の名前で行けなければ真の父母の名前で、真の父母の名前で行けなければ真の息子、娘の名前で行くのです。
 ですから、この宇宙が神様の家庭のために生まれたとすれば、神様の名前によって、神様の父母、神様の孫、夫婦、嫁、そのようになるのではないですか?
 そこに中心があって、その枝になろうと思えば、真の父母の下に枝が伸びますか、一代、二代の枝になりますか、三代の枝になりますか? そのようになろうとすれば、真の父母の血族と結婚しなければなりません。そのようなことを考えていますか?
 姜賢實シルさん? そのようなことを考えていますか? 息子、娘がいないではないですか? 考えだけではいけません。十二弟子よりも良い、神様の何と言うのでしょうか? 養子を選ぶことができるのです。精誠を尽くさなければなりません。それゆえに、霊界の人々もすべて祝福してあげるのです。
 霊的結婚した人が、地上で十二人のふらふらしている息子、娘を持った人よりも、もっと忠誠を尽くそうとし、”それよりも良くならなければならない”と思って精誠を尽くせば、地上において解放の恵沢を受け、真の父母の祝福を相続することのできる子女の家庭になるのです。
 その家庭においては、間違いなく額を付き合わせて二十四時間、そのにおいをかぎ、足のにおい、何々のにおい、父母が病気になって苦労したにおい、すべてを自分が喜んでもみ洗いしながら侍って暮らすことができるのです。そのような息子、娘にならなければなりません。子供になるのに、父母に侍ることができないそのような息子、娘はいません。分かりますか? (「はい」)
 それで、写真に侍る運動を何年前から始めましたか? すでに七年たったでしょう? 郭錠煥氏? (「はい」)。(「九二年から八年になります」)。わたしよりももっと記憶が良いですね。わたしは苦労しましたが、苦労しないで記憶が残っていますね。それほど過ぎたのですか?
 ですから、写真を置いて、毎日のように真のご父母様に侍り、きのう死んだ夫の墓を訪ねて、行ったり来たりしながら暮らす、そのような精誠で保護する生活をすることができませんでした。それを始めなければなりません。




 神様は、アダム家庭の王です。そうでしょう? (「はい」)。真のご父母様は、アダムの三代圏内の王です。それでは、真の父母とは何でしょうか?
 真の父母とは何かというと、霊界のすべての家庭と、地上のすべての家庭の代表的王となられるかたが、真のご父母様です。(「アーメン」)
 真の父母は、どこにいますか? 忍耐するので、真の父母と言うのです。(韓国語で「チヤムプ モ(真の父母)」の「チヤム」と「チヤムタ(耐える)」の「チヤム」が、同じ発音であることから、このように言われる)ここに立っている文総裁は、虎よりも恐ろしく、毒蛇よりもしつこいのですが、真の父母になることができますか?
 復帰路程において勝利するためには必要でしたが、平安に休む所においては、そのような性格は必要ありません。ですから、皆さんは、羊よりもおとなしく、天下太平で、それよりも従順にすることができる皆さんになってこそ、祭物なく解放的な祭壇の上において、神様がつくってくださった、血を流さない自然的贈り物を食べて暮らすことができる主人になるのです。アーメン。(「アーメン」)。このようになってこそ、解放されるのです。
 先生よりも良いでしょう? 先生の家庭は複雑です。複雑ではないですか? 複雑ですか、複雑ではないですか? 主人が野うさぎを捕まえに行ったのですが、カインを愛するために家うさぎを捨てて歩き回っていると、虎が入ってきて、家うさぎをすべて捕まえて食べてしまうようになっています。
 今、先生が「訓読会」をしているものは、先生の一生の戦勝記録だと言ったでしょう? 戦勝記録です。それは、皆さんが一生を生きていくにおいて、困難な方面を経ていきながら……。そのみ言は、先生一人のみ言ではありません。
 わたしが壇上に上がるときには、先に口を開きません。それを知らなければなりません。先に口を開くのではありません。題目を考えて壇上に立つのではありません。
 祈祷して、「きょうは、この題目で話をしなければなりません。すべて神様が願われるみ旨だったのですが、迫害を受け、反対されるとき、私だけが残りました。ですから、孤独な息子に対されるあなたの願う言葉、伝統的な言葉、このようなときにおいてよく聞き、よく記憶することができる時間ですので、あなたが私の口を通して語ってくださいますように」と祈るのです。このような歴史性が含まれています。迫害されても死にませんでした。精誠を尽くして……。
 例えば、黒いものを与えるときには、天下の真っ黒いものが現れるのです。神様の心情が込められているというのです。そこに感動する日には、感激してのどが締めつけられ、心情がすすり泣く境地に入っていくのです。それを読んでみてください。痛哭するのです。痛哭するようになっています。
 そのような立場で、皆さんが父母となり、子供たちを教育することができる心情的伝統を啓発させ、それを子供たちの胸や四肢五体に、骨髄に植え付けてあげなければ、罪人になるのです。この地に生まれた甲斐がありません。
 宿命的な課題を持った血筋が連結された子女であることに間違いないとすれば、その道を行かなければならないということを肝に銘じることを願います。分かりますか? (「はい」)
 そして、四十周年となるこの日を中心として、今朝、式をしたのですが、式の途中で先生が訓示した内容はどのような内容ですか?  今から、入籍家庭が出発したので…… 。堕落した世界を抜け出すのです。
 すべての祝福家庭は、アダム完成者として、代表の位置で天地父母に侍り、天の宮法からその国の法を残し、教えてあげるべき生活舞台が始まるのです。このような時代に入ってきたので、「第四次アダム圏の心情世界が出発した」と言ったのです。すべて同じことです。

 それゆえに今、国においても国境を超えた南北統一です。国連を中心として世界、国家の定着が一つの路線、一つの年に連結されています。分かりますか?
 それで、今年の十二月までに百九十一か国を中心として結縁を終えなさいと……。郭錠煥先生? 訓示したことを忘れてはいけません。分かりますか? (「はい」)。そのようにすれば、二〇〇一年から新しい舞台が展開するのです。ここに反対する人や、反対する者は、霊界が連れて行きます。見ていてください。何のことか分かりますか? (「はい」)
 今、労働者、農民がどうだこうだと言い、共産党がどうだと言っていますが、もし金キム正日イルが死んだら、どのようになるでしょうか? 北韓は何もありません。金キム日イル成と金正日しかいません。大韓民国は何大統領ですか? (「金キム大中大統領です」)。独立(=南北統一された国のこと)大統領が必要です。分かりますか? (「はい」)。何でも好きになってはいけません。
 「このような話をした」と、昔の”国政員”の人たちは報告しなさいというのです。「文総裁がこのように言っていた」と。
 天地を一人で受けていき、絶対的中心者にならなければなりません。そのためには、文総裁の所に来て、学ばなければならないでしょう? 嫌でも来て、学ばなければなりません。どのくらい行けるか見てみましょう。わたしは、じっとしているので、どのようになるのか見てください。
 今、尋常ではないでしょう? 九月十八日に国連で官僚会議だと言っていたのですが、十月十日にだれかが来て教育するのです。百九十一か国の精鋭部隊の教育を国連の名によってするのです。このような真っ赤なうそが、どこにありますか?
 そのような話をして、「それが事実だ」と主張する文総裁の生涯は、愚かに見えるでしょうか? わたしは愚かではないですか、愚かですか? 話すのを見ても、理論に合うように話すのです。数理的にも違いません。祈祷してみてください。
 自分では理解できない話をしましたが、祈祷して聞いてみれば、すべて歴史的過程にすっかり合うように話しているのです。骨がぴったりと合い、肉がくっつくようになっているのであって、いいかげんにはなっていません。分かりますね? (「はい」)
 ですから、利口な統一教会の教会員だけが文総裁についていくことができるようになっているのですが、それでも死なずにここまでついてきたのですから、利口な群れですか、偽りの群れですか? (「利口です」)
 さあ、もう終わりましょう。分かったでしょう? (「はい」)
 統一教会の教会員たちは、あまりにも良い天国に行き、神様に直接侍り、造化の神様を代身して行使して暮らすことができ、万国万年の解放の王子となることができる権限を持っているということを知って、そこに向かって飛んでいき、這っていき、走っていく。それは問題ではありません。
 走っていくときは走っていき、飛んでいくときは飛んでいき、這っていくときは這っていき、帽子を脱ぐときは何ですか? 脱ぎますか、かぶりますか? かぶらなければなりません。では、服を脱ぐときはどうですか?
 神様のみ前にあいさつに行くときには、服を着ていって、あいさつするのでしょうか、服を脱いでいって、あいさつするのでしょうか? (「脱いでいきます」)。何ですか? (「脱いでいきます」)。何ですか? (「脱いでいきます」)。それは、だれから学んだのですか? (笑い)
 エデンの園で堕落した贈り物が服です。脱いで入っていって、あいさつしなければなりません。もし、服を着て、礼服を着て入っていって、あいさつをして出てくるときには、脱いで愛してから出てくるのです。それが、あいさつです。だれとともに愛するのですか。宇宙とともに、です。神様と一つになって、宇宙とともに同化して出てくるのです。それが解放だというのです。
 李相軒氏の話もそのようになっているでしょう? 先生の話と似ていますか、違いますか? (「同じです」)。ぴったり同じですか? わたしも、ぴったり同じかどうか知らないのですが。わたしも、ぴったり同じだと思います。
 分からないので、それで一所懸命に「訓読会」をしているのです。分かりますか? (「はい」)。あなたたちは、よく知っているでしょう? よく知っているでしょう? (「はい」)。よく知っているのなら、「訓読会」をしなくてもかまいません。(笑い)
 先生よりも良くならなければならないのではないですか? 息子、娘が真の父母よりも良くなることを願うのが真の父母の願いであり、神様の願いなのですから、良くならなければならないでしょう? 分かりますか? (「はい」)
 先生よりも、もっと知らなければならないでしょう? そうですか、そうではないですか? (「そうです」)。「そうだ」と言うということは、わたしよりも、もっとよく知っているのですから、「訓読会」をしなくてもよいということではないですか?
 そのように暮らすのですか、反対に暮らすのですか? (「反対に暮らします」)。はっきりと答えてください。反対に暮らすのですか、そのように暮らすのですか? (「反対に暮らします」)
 「反対に暮らす」という人は、拍手してみてください。(拍手)拍手するのに、ここから上がっていってこそ、このように拍手できるのです。東西南北に。四方に回りながら続けて踊りを踊りながら拍手するのは、”前提訓練”であるということを知らなければなりません。分かりますか? (「はい」)
 それゆえに、わたしたち統一教会は、歌を歌い、踊りを踊り、今からは、それしかありません。何をして暮らすのですか? 食べるものはいくらでもあります。おなかが空けば、南極に行って、えびの粉を持ってきて、さーっと水に溶かせば、カップ一つで、三食食べなくても生きていくことができるのです。
 五十年間で百歳以上の苦労をして生きれば、歯が抜けたときには、また歯が生えてくるでしょうか、こないでしょうか? (「生えてきます」)。五十年以上生きることができる健康な歯が出てくると思うのです。ですから、「長生きだ」と誇らず、かといって「短命だ」と落胆もするなというのです。
 その根本が待っているので、天上世界で若者として、老人よりも元気いっぱいに仕事をすれば、それが、あの世に行ってもこのように結ばれ、あのように結ばれるので、滅んで万歳、栄えても万歳! 滅んでも感謝……、(「栄えても感謝」)。死んでも感謝……、(「生きても感謝」)。そのように思えば、すべてよいのです。
 ”死のう”というところに生きる道ができ、”生きよう”というところに生きる道はできません。最後まで行ってこそ、新しい世界が生まれるのです。それが天地の道理です。死なんとする者は、何ですか? (「生きる」)。生きんとする者は、何ですか? (「死ぬ」)。栄えようとする者は滅び、滅びようとする、つまり他の人が八時間働くのならば、八掛ける三で二十四、三倍仕事をして死のうとする人は、栄えるのです。

 今回、わたしは、海洋(国)に行って話をしました。富豪になる道は簡単だというのです。その秘訣は……。
 お金が必要なら、今からよく聞いてください。簡単です。”死ぬ前に、普通に豊かに暮らす人の三倍の仕事をしなければならない”、そして”監獄生活をする服役の時代だ”と、そのように考えてみてください。それから、”食べて、遊んで、寝て、そのような時間はわたしにはない”と考えるのです。
 寝ようにも寝る時間がなく、遊ぼうにも遊ぶ時間がなく、食べようにも食べる時間がない人です。そのように生きれば、間違いなくお金が入り、それでもお金を得ることができなければ、先生のおなかを裂き、首を切りなさい。
 わたしは、そのように生きて、この滅びる世界でただ一人、勝者の表札を掲げて宇宙の中に現れたということを知らなければなりません。「アーメン」です。(「アーメン」)。それは正しい話ですか、正しくない話ですか? (「正しい話です」)
 ”食べて遊ぼう”という者は、盗人です。先進国の者たちは、おなかが張り裂けるほど食べても余りあるものだから、「八時間労働しなさい」と言っているのです。一日に一食も食べられない国があるのに、「八時間労働」ですか? このようにして搾取していき、力のない所から良いものを奪っていくような国を、わたしは見てあげることはできません。
 それで、南方天地の太平洋圏を生かしてあげようと思うのです。それで、アメリカとロシアと中共と、それから北韓、日本、インド、四十か国を連結させ、第二世界平和の部隊を編成するための準備をしておきました。分かりますか、分かりませんか? (「分かります」)
 一年間訓練すれば、犬でも豚でも一人前になります。自慢することではありません。統一教会の教会員ならば、一年ではなく一か月でできます。できますか、できませんか? (「できます!」)。できて余りあるのです。できない者は、手を挙げてください。首を切ってしまったほうが、ましです。(笑い)そのように言っておけば、「挙げなさい」と言っても挙げません。(笑い)それでよいのです。
 わたしに、できないことがありますか、ありませんか? (「ありません」)。闘いはどうですか? (「お上手です」)。闘うのも上手なのですか? その闘いに強い人が、どうして教主になれるのでしょうか? なぜですか? サタンが闘ってくるからです。
 また、神様とも闘うのです。神様と角の突き合いをして、神様がわたしに負けたので、神様はどこにも行けずに、わたしを助けてくれるのです。そうか、そうでないか、尋ねてみてください。歴史以来、神様を泣かせた人は、わたししかいません。(拍手)
 さあ、きょうの「真の子女の日」の中で、最も喜びの日は何ですか? 天地父母を自分の家の永遠の主人、永遠の王として侍って暮らすことができる解放的家庭が出発したという、この日の前に、”そのような相続者は、私の家庭だけだ”という決意を誓うこの時間となってこそ、四十周年を記念する「(真の)子女の日」がすべて終わるのです。「(真の)父母の日」も、「(真の)子女の日」も、「(真の)万物の日」も、すべての行事もすべて過ぎていきます。
 アダムの第四次アダム圏時代に、何の国があり、何の記念があったでしょうか? そこから全体の出発がなされ、名づけるとおりに、自分が願うとおりに暮らすことができる環境になったので、地上が天国でなくても天国になったのであり、「天国がない」と言って、天上から逃げていっても、天国の中に入っていくことができるのです。
 そのような王子、直系の長孫、後継者として選択された家庭となり、神様に侍って、堂々とその王権を授与される相続者なのです。そのことは間違いないということが分かったので、万々世感謝していきます。アー! (「アーメン」)。「メン」と言って、感謝します。(「感謝します」)。「アーメン」と言って、感謝しなければならないでしょう? (拍手)さあ、祈祷しましょう。​​​​​​​​​




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Last updated  2023.12.21 19:25:50
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