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最近あるTV番組で、3時間くらいの特集をしていました。番組の内容は、認知症について。高齢の方が増えるとともに、いろんなところで特集が組まれています。新聞などでも、認知症になった方、それを支援する家族やグループなどが交流会を開いて、様々な取り組みについて交流したり、それをもとに新たな実践をしていったりといったことに関する記事をよく見るようになりました。これからの社会で直視すべき一面を、私たちは報道を通して知ることが出来ます。ところで、脳のいろいろな部分の機能が障害を受けて、生活に障害を来す、ということは、生き物としては、どういう現象なんだろう?って考えてみました。動物であれば、ほっておけばみるみる内に弱ってしまって、自分で何も出来なくなったら、それは死に直結します。そう考えると、そうならざるおえないものが、からだの中に発生しているという印が、認知症を起こすということなのでしょうか?専門でも何でもないので、単なる推測なのですが、人とて生き物なので、そうなる理由は、それぞれの人の中に存在しているはずです。その番組の中では、ある取り組みがについて紹介されていました。それは、自分がした行動を振り返って、それを文章にする、というものでした。そして、それを皆さんに聞いてもらうのです。その中身は、その方の思い(感情)が文章に綴られています。そして読み終わった後、みなさんが拍手をします。そこには、自分がそこにいる存在感というものが感じられる気がします。入院したり、家でもいいのですが、存在感を感じられないとか、自分の感情が解放されない状態が続いたとしたら、それは、人ではなく、動物としての機能だけが残り、結果として進む道は明らかに見えている気がします。だから、ここでのキーワードは感情ではないか、と思います。感情は記憶に作用し、行動に影響し、そして生活を左右します。感情は、記憶を呼び、記憶が感情を呼び戻します。その部分へのストレスが、果たして認知症とどのくらい関係があるのか?ということで、何か手がかりが得られるのではないか、と思います。
2006年05月31日
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そういえば、自分自身も、最近全然土を触ってないなって思います。触っている土もあるのですが、土と言っても、肥えた匂いのする土と、栄養のない土は全然違いますね。ここで言う全然触っていない土というのは、肥えた栄養のある土です。詳しいわけでもないのですが、これが土なんだな・・・ということは、なぜかからだのどこかに記憶している感じがして、その土の匂いを嗅ぐと、とってもいい感じがします。新聞に、中学生が宿泊農業体験をした、という記事が載っていました。その記事を見たときに、ある意味そんなことをしてでも、体験って大事だなって思いました。なぜなら、最近のこどもたちは、本当の土を触った経験がどのくらいあるのだろう?って思うのです。まるでホッカイロのようなあたたかい土、なんて言っても、今のこどもたちはピンってくるのでしょうか?思いこみなら、いいのですけど、今の都会のこどもたちには、そんな経験ができない環境かもしれません。もともと人は野生に生きてきたので、本来嗅ぐべきにおいを体験しておく必要があるのだと思います。これは食べていいのか?とかこれは飲んでいいのか?など生きるために必要なことは、外からの正しい刺激で覚えていきます。いくら文明が進んで、都市化したとはいえ、動物なのですから、間違った刺激で生きてしまったら、からだの動きがだんだんとずれてくるのかもしれません。自然にある本物を、できるだけ小さいときから体験させておくことって、本質的に大事なことのように思います。
2006年05月30日
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人がもし感情を持っていなかったら・・・こんなことを考えるのもナンセンスなのかもしれませんが、そう思ったりしたことがある人もいるんじゃないでしょうか。何かが起こると必ず感情が生まれ、そしてその感情をコントロールできずに苦しんでいる人が多くいる昨今です。ところで、その感情を苦しむためのものとしてみるのと、自分の振り返りに使うのとでは、かなり、その見方が変わってくると思います。いつも人の言動や行動が気になって、その中で動いている自分がいるとしましょう。自分がこう思ったとしても、周りの意見がどうもそうでないみたいなので、我慢しよう、となります。そこには、その人たちへの感情、自分の意見が通せないという感情、など様々な方向に向かって感情が分散していくようです。そしてそれが、複雑に絡み合ってくると、何にどんな感情が出ているのか、なんてことすらわかんなくなってくるかもしれません。そうなると、いちいち感情を出す前に、そのまま聞いたことを、そのまますればいい、とかどうでもいい、なんてことになってくるのかもしれません。あるいは、その感情について、思い悩んでしまって、自分がどうすればいいのか、という本題をすっかり忘れてしまっているかもしれません。とてもたくさんの感情についての問題を、ずっと考え続けるのです。それはやがて膨大な数になるのだけれども、ずっと考え続けるのですね。そうやって、感情は、数限りない迷路を用意しています。そして、迷路だけではなく、時には嵐のように猛烈なストレスを持ってきたりします。よく考えて、しっかりとその場の景色を眺めてみれば、あれれ?と自分のはまっていたものに気が付くのかもしれませんが、それまでの歴史を見てみると、思わずすくんで元に戻ってしまうなんてこともあるのだと思います。感情は、時には嵐のように、時にはじわじわと、変幻自在にやってきます。でも、これがないと、成長がないんです。上手くかわすには、もしくは上手く付き合うためには、または・・・・どんな方法があるかな・・・
2006年05月29日
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偶然、知っている学校の先生方と話す機会がありました。中学校の先生方は、ちょうど体育会も終わって、一休み、本当に大変だったんだな、と話を聞いているとわかります。先生の数が増えて、こどもの数が減って、そして教師の高齢化も進んでいます。そして、先生の仕事は、ある意味肉体労働です。でも仕事は変わらないわけですね。そういう意味では、歯を食いしばってがんばっているんだって思います。そんな先生たちなのだけれど、いろんな所で学校への批判が増えてきています。結論から言うと、これは大人のエゴそのものだと思います。もちろん先生も含んでいると思います。先生たちは、経験を重ねるほど、成功したこと、失敗したことなどを糧にしますから、やはりこうあるべきだ、という気持ちが先生によってあるわけです。そして、一方地域の方や、保護者は、学校の外で起こっていることを見ながら、それを学校に還元してくれようとします。時代は変わっているわけですから、あるべき学校の姿も、変わる必要があるのかもしれません。そんな大人同士の考え方の相違がすり合えばいいのですが、そんなに簡単にいかないのです。お互いの主張が食い違うから、その違いを見つつ、どうすればいいかという方向へ流れにくい現状があります。そこを変えていった学校と地域は、こどもも元気にがんばれるんじゃないかなって思います。知らないようで、案外こどもって大人同士の関係なんかもしっかり見ていますよね。先生たちの思いも大事、地域の人の思いも大事。保護者の思いも大事だから、じゃあどうすればいいか、ということをエゴを抜きに話が進むといいな^と思いました。もちろんガス抜きもいるんだろうけど・・・
2006年05月28日
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人のからだは、人が思っている以上に、いろんな場合を想定してからだができあがっていると思います。全てにおいて、限界の状態でからだができあがっていたら、例外が起こった場合、対処できない事態が起こってしまいます。事故で脳がやられてしまった時でも、損傷のあった脳の機能の部分がもう戻ってこないかというと、それはリハビリなどで回復する見込みが十分に残っているのですね。ところで、自分の先祖をずーっとたどっていくと、あるところにたどりつきますね。その間には、その時の生きてきた環境によって、遺伝子は、よりその状態に適応するように変化してきました。その結果、今に至っています。その沢山のパターンが、いろいろなタイプの人を創りだし、上手くバランスをとっている?のでしょうか。そうだとすると、今までにバランスに耐えられなかった遺伝子のタイプは、消えてしまったということになります。動物などでは、種が絶滅の危機にさらされているものがありますよね。いずれにせよ、人は、いろんな可能性に対応できるように、様々なタイプに分かれていて、一見羨ましいように思える場合があったとしても、全体としてみれば、そんなに変わらないのだということでしょうか。ところで、人の脳とからだのつながりのタイプに、こんなパターンがあります。(人の脳とからだのつながりについての分類は、32あり、詳しいことは、4月、5月の10日までくらいの日記に書いています。)優位な脳・・・論理脳(普通は左にある左脳)優位な腕・・・左優位な目・・・右優位な耳・・・左優位な足・・・左以前の日記で書いたパターンとやや似ているのですが、ストレスを感じた状態の時に、目だけがしっかりと動いている、というパターンです。このタイプの人は、目が生きているということですから、追いつめられた感じの時にこの人を見ると、まるで目だけがぎらぎらしていて、何か反発しているようにさえ感じるかもしれません。これは、実は目で外の情報を集めているだけで、あとは脳としっかりつながっていないのです。何かを見ても、言葉が出なくて、動けなくて目だけがそれを見つめているんですね。怒られたときには、しっかり目だけはこっちを見て聞いている感じがあるかもしれませんが、耳からは情報があまりはいっていない可能性があります。怒られた理由を話すように言われたりすると、しどろもどろで話せないかもしれません。自分に当てはまっているなーと思う人は、このタイプの脳とからだのつながりかもしれません。
2006年05月27日
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まだ、カウンセリングって言う言葉があんまり知られていない時?に、なんだか自分の状態が知りたくって、思い切って精神科に行ったことがありました。その医師はおじいさんで、正直何が始まるんだろう?と座ってみると、ただ座ってこちらを見て、ニコニコしながらお話を聞かせて下さい、というような(言葉は発していなかったと思う)フリをされました。私は、その感覚が妙にしっくりいったので、最初からすっと話をすることができました。(今の自分の状況や、自分の思いなど)しばらく話を聞いて、今思えば、話の問題点を整理されていきました。私が問題だと思っているところを見つけていってくれたのですね。それで、ここが問題だ、ということがハッキリしたときに、じゃあ~だから、この薬を飲んでみますか?とその薬の内容を説明してくれました。その間は、30分くらいだったと思います。やりとりは、ほとんどなくて、ただひたすら私の話していることを聞いておられました。それだけで気持ちがなんだか落ち着いた、というかすっきりした感じがしたのを覚えています。その医師との相性が良かったのかな?という感覚はあったものの、その後の話の展開をよく考えてみると、医師自体がしたことと言えば・・・薬の説明だけだった気がするのです。今思えばですが。そうだとすると、自分の話を聞いてもらえる人がそばにいたら、心は常に安定しているということになると思いました。それだけだと、きっと至る所にそういう人はいるんじゃないかな、ということになり、みんながカウンセラーか?という話なのですが・・・そうはなってないところを見ると、そこにはもう一つ大事なことが隠されているということになります。今だから分かるんですが、それは・・・・・・・相手に聞いていると心から思ってもらえることじゃないかなって思うんです。聞いているフリをしながら、そうかー・・・だったら~したらいいなどと言ってしまったら、それは聞いているフリをしながら、実は自分の思いを相手にぶつけてしまうという、ひどい仕打ちをしてしまっているのかもしれないのですね。助けを出すというよりも大事なことがあります。それは・・・自分で動く方法を自分で見つけるってことこのことを、その医師は私に気づかせてくれていました。最近気が付いたのですが・・・
2006年05月26日
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日にちがちょっと前の日記に書いていますが、また今年も、中学校の体育会を見る機会を頂きました。練習中の光景を見て、しばし足止めをくった人もいたと思うんですが、本当にこの時ばかりは、学校が一丸となって頑張っている様子が見て取れます。今年は、去年と違ってやや曇り空でしたが、考え方によっては体育会日和。その最高のクライマックスはリレー?それとも昼食後の応援合戦?人によって違ったかもしれませんが、こどもたち、とくに中学校最後の3年生にとっては花道のようなものなのでしょう。直に見ていると、その気迫がぐぐっと伝わってきます。集団演技などは、自分たちで踊りを考えるそうで、ある人の目から見れば茶番と写るのかもしれませんが、なんか見ていて伝わってくるものがあります。きっと毎日、学校の授業の合間や放課後に練習を重ねていたのだと思います。こういう姿を親が見ると、どんな思いになるのだろう?この時ばかりは、いつも憎たらしいこどもでも、ぐぐっとくるんだろうな・・・言葉にはならないけど、こう言うところを見ることで、なんか元気をこどもからもらえそうですよね。そんな力をお裾分けして頂いた感じです。さあ、明日もいい日だ・・・
2006年05月25日
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前日に書いていたことで、コメントを頂いたのですが、それでまた思ったことがあるので、書いておこうと思います。はるか昔、文明が起こる前は、人は自然と共に生きていました。自然と共に生きていたので、生かされているんだということを、本能的にわかっていました。文明が起こってからも、近代の目覚ましい発達が起こる前は、多くの人々が自然と共に生きていたので、まだ生かされているということをうすうす知っていました。しかし、一部の人はそこをなんとかしようと、いろいろなものを生み出そうと努力しました。そして、科学というものは進歩しました。だんだん町は都市化し、人は何でも出来るという錯覚が生まれていきました。そうやって、人はだんだん自然から離れていきました。自然から離れれば離れるほど、本来持っていた本能を忘れていきました。そして、忘れれば忘れるほど、奇異な現象が起こったり、争いが絶えなくなってしまいました。そんな時代でも、自然を持っている人は存在します。それがこどもなんですね。自然を見れば見るほど、自分を見つめ直せます。そして自分のあるべき姿を探し始めます。
2006年05月24日
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目に見えない力ってどんなのがあるでしょうか?人によって違いがあるかもしれませんが、人の心が与える勇気や笑い、励ましなんかは目には見えないですけど、ものすごく力があるものですね。人の気持ちは、目には見えないですし、耳には聞こえないですけど、心には感じられるものです。人同士で支え合うことで、人の中で力を分かち合っている感じがします。近しい人から、全く知らない他人まで、ある時、分かち合える瞬間を感じる力を、私たちは持っていますね。他には何があるでしょうか?力という言葉に語弊があるのかもしれませんが、自然の力はどうでしょう?山に登ったり、海に行ったり、自然の音を聞くことで、なにか力を感じることがあるとしたら、それは自然から頂いた力ですね。それを感じたいときに、人はそこへ向かいます。そう思っていないときでも、自然にそこへ向かっているなんてこともありますね。こんな風にして、見えない力というものは、人を支えているんだって思いたいんですけど、自分が人だからそう思うだけであって、あんまりそんなことは関係なく、何かが動いているのですね。それぞれ、どこが主体になるかで、まったくその力への見方は変わってくるのだと思います。そんな力を信じていると、気持ちよく時は流れるのかもしれませんが、物質がこれだけ氾濫してくると、あるものが全てと思ってしまって、上手く流れなくなります。何か上手くいかないな・・・って感じるときは、案外そんな状態なんだなって最近思います。
2006年05月23日
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きっと誰しもあることなのかな?と聞いてみたいことがあります。それは、こうしようとか、これしないと、と思っていて、あとで気が付いてハッとすることです。それも、その時に自分でかなり意識していたことで、忘れないようにと目印などを付けておいたにもかかわらず、そうなってしまうという・・・なさけない。この間、会議があったのですが、その場でそんなドジをしてしまいました。その日は、別の場所に仕事で行っていて、ちょっと高価な小道具を携帯していました。そして、その大事な小道具を、最初はずっと手に持っていたのですが、ちょっとした動きの中でカバンの上に置きました。そこまではよかったのです。そして、会議が進み、なんでかわからないんですけど、忘れないようにと思って、わざわざもう一度持って、そしてそれを机の中の棚に置いたのです。そして、忘れないように、とわざわざ確認をしました。終盤は少し忙しく動き回り、会議が終わりました。一息ついて、そして帰りの電車の中で疲れたなー、とほっと一息ついたときに、自分が持っているカバンがなぜか軽いことに気が付きました・・あーっと思わず声を上げてしまい、周りの注目の中その忘れ物に気が付きます。その後の予定が詰まっていたので、泣く泣く次の所へ向かったのですが、1日ずっとその忘れ物が気になって、あまり眠れない始末・・・結局次の日、そこまで朝1で取りに行きました。あったので良かったですが、これで無くなっていたらと思うと・・・ぞっとします。その話を、あとで仕事の仲間に話すと、それってその会議の集まりがあんまりよくないんじゃないか?って言われました。忘れてしまうような空気を出しているから、縁起が良くないんじゃないかということみたいです。まあ、自分の頭の運動をもっとしよう、と心に決めました。(もう無理か?・・・)
2006年05月22日
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時間があったので、久々にお昼のワイドショーなんかを見ていました。すると、その番組のコーナーで、ドクターハラスメントのことについて、ドラマ仕掛けで紹介されていました。事実に基づいて作られているとは思いますが、やはり見る人によって感じ方が違うと思うので、ひどいなーと思う人から、作り話だろなんて思う人などいろいろだと思います。冷静に見ているつもりでも、思わずひどいなーと思わせる部分だけが印象に残ってしまうと、感情で動いてしまいますね。やっぱり見ている人がいかにそのことを受け止めるか、ということも大事だなって思います。反対に、医師の意見なんかも放送されていました。すると、その中でその医師は、「ハラスメントだと言われているものの大部分は、お互いの思いの違いが、形として出た結果ではないか」と話していました。それと、患者でも信じられないことをする人もいる、ということを話していました。立場で行くと、圧倒的に患者が多いわけですから、どうしてもその立場で見てしまうのですが、問題点は、その医師が言っていたお互いの思いのすれ違い、という部分がかなりポイントを得ているように思います。そういう意味で考えると、確かに医師としての責任と立場をしっかりとわきまえて欲しい、という部分は当たり前のことなのですが、私たち患者として考えておくべきこともあるのだと思います。今は、いろんな所で病院に関する情報を手に入れることが出来ますし、患者として医師に伝えられる環境も少しづつ増えてきていると思います。選ぶのは私たち自身なのですから、そういう意味で、もっと積極的に自分にあった病院や医師をみつけておくということが、今の時代にはできるのかもしれません。やっぱりお互い人間ですから、意思の疎通が大前提なのかもしれません。そのためには、主治医という考え方は大事なのだと思います。
2006年05月21日
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4月の初めくらいと、5月の初めくらいに、脳とからだのプロファイリングというものを、ずっとご紹介していますので、よかったらその辺りを見て頂いて、今日の日記を読んで頂くとおもしろいかもしれません。このプロファイリングというものを知って、いろんな人にパターンを試させてもらっています。今日はその中の1例で、とっても典型的だなって感じたものを書くことにします。プロファイルをしたのは女性。このお話をしたら、とても興味を持って下さって是非してみてほしいと言うことだったので、やってみました。その結果ですが・・・脳・・・論理脳(一般的には左側)腕・・・左手目・・・左目耳・・・左耳足・・・左足と言う結果でした。優位な部分が調べた全てで左だったのです。優位な脳の反対側が優位な部分であれば、ストレスがかかったりしたときも、どんな状態でもちゃんとその器官が作用するのですが、彼女の場合は、全て同じ。それが意味していることは、リラックスしているときと、ストレスがかかったときの彼女の動きは、かなり違っていると言うことを意味しています。具体的に言うと、とても快活で、積極的なのに、何か問題が出てくると途端に足踏みするタイプであるということです。そして、その現実はそんな話をする間もなく登場しました。今まで明るく身振り手振りで話していた彼女が、突然ぴたっと全ての動きを止めたのです。電話がかかってきたのですが、一旦出て行って戻ってきたらそうなっていました。どうしたの?と聞くと、いやーうーんと考え込む(思考が止まっている感じ)。目もうつろ、声をかけても、聞いていない感じになりました。あとで、その時の状態のことを伝えると、ハプニングの時は、いつもそんな感じになってしまうのだそうだ。プロファイルの結果を伝えると、すごく自分の状態になっとくして、それでだったのねー、と腑に落ちた感じでした。いろんな人がいろんなタイプを持っていて、それがわかるととてもコミュニケーションがスムーズになるのかもしれません。
2006年05月20日
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今日は、朝からお寺に行く用事があり、いつも通りに支度をして、乗り慣れない電車に乗って二丈町にある龍谷禅寺に向かいました。以前1回行ったことがあるのですが、自分の感覚にピッタリ合う場所って感じがします。駅に着いたときから、すでに空気がとてもおいしくって、お寺に着くと、まるで心を包んでもらっている感じがします。行くだけで心が和みます。そんなお寺で、タッチフォーヘルスのミニコースを開きました。コースと言ってもお話が多かったような感じもしますが、とても楽しい一時でした。お話の中で、場所やいる人が違うと、自分の気持ちのありようも変わっている、とおっしゃった方がおられました。同じことをしていても、する場所やする人、いろんな条件によってお互いに影響し合いますね。そんなことに日々気が付いたり、そこから自分で何かを変えようと思ったりすると、毎日が楽しくなるのかもしれません。平凡な変わらない毎日が、脳にとって心地よいのだけれど、それだけではなくて、刺激を欲するが人間らしい感じがします。刺激というと、いきなり冷たい水につかる、なんてのも刺激ですが、朝日を浴びる、森林浴をする、深呼吸をするといったことも刺激なんですね。刺激的な毎日は、わくわくした心を引き出してくれますね。
2006年05月19日
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触れ合うって大切ですよね。それは、文化によって感覚がかなり違いますけど、いろんな意味でのふれあいははどこにでもあります。言葉でも、からだの触れ合いでも、気持ち的には同じになるのかもしれませんね。じっとそばにいて、空間でふれあうことでも、日本人の場合においては、とても安心できるものであったりします。それでも、赤ちゃんの頃からの触れあいは、やはり肌に触れる、ということでの直接の肌刺激が一番です。次に言葉ですね。生まれた赤ちゃんが、そのような触れあいがなかった場合には、死と直結する場合があるのは、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。それだけ肌の刺激などの触れあいは、大切なんですね。触れるのは、もちろん肌に触れるわけですが、触れられた感覚というのは、脳へは刺激として伝達されます。そして、刺激は脳の中のニューロン同士で行き交います。そしていろんな感覚として、認知されるようになります。触れあいがあることで、脳の活動が活発になるのですね。活発になるということは、触れると言う作業だけで、脳内での活動を活発にさせることが出来るわけです。(もちろん、不快な触れあいは、不快なだけですが)活発な刺激は、いろんな刺激と交錯して、脳の中に様々なネットワークを築いていきます。そういう意味で考えると、脳を衰えさせないための1つの手段として、触れ合うことが有効だということが言えます。現実に、触れ合うことでの若返り体験をされた方も多いことと思います。様々な情報を、刺激として取り入れるためには、いろんな触れる度合いがあって面白いと思います。こする、なでる、タップする、置くなどです。音楽などに合わせてやってみると、面白いかもしれませんね。
2006年05月18日
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血圧が高いのと、動脈に異常があるのとで、血圧の薬を飲んでいます。今まで薬を飲んで、あきらかに副作用だ、って経験はありませんでした。それでも、最近はインターネットで副作用なんかも簡単に検索できることもあって、一通り自分が飲むものは見ておきました。見ておいたのですが、自分はあてはまらない、って思いこみがあったのか、書いてある内容が脳にしっかり届いてなかったみたいでした。それというのも、その薬を飲み出して1年ほど経ったときから、皮膚のかゆみがでて(学生の時もそうだったのですが)それがもう2年くらい続いています。医師にも伝えたのですが、副作用との関連を否定されていたので、HPにある副作用が、自分に当てはまっているかも?という疑念が飛んでいました。ところが、この前どうしてもかゆいので、見てもらおうと思って違う病院に行ったのです。そして、自分の飲んでいる薬と症状を話すと、それは副作用じゃないか?という話になりました。それを言われた瞬間、やっぱり?とどこかをさまよっていた疑念が表にやってきてくれました。早速、もう一度HPを開いて、データが出ているところを見ていると、皮膚炎の副作用報告結果が、明らかに多いという事実を見つけました。勝手に変えるわけにも行かないので、早速次回通院したときに、薬の変更を話してみようと思うのですが、すんなりいくかなーとちょっと心配。でも、かゆさがかなりきついので、これでてんびんにかけられると、ちょっときついな・・・長いお付き合いなので、できれば自分に合う薬を早く見つけておきたいなと思いました。
2006年05月17日
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タッチフォーヘルスの体験会をしました。健康法で、道具なしで、場所をとらずに誰でもが簡単に出来る、すぐれものです。いったいどんなことをするの?と言われると、やっぱり実際に体験してもらうのが一番だと思います。タッチフォーヘルスについては日本タッチフォーヘルス協会のHPをご覧ください。こちらでも説明しています。タッチフォーヘルスにって何だろう?その体験会で、参加の動機を聞くと、興味があってという方もいらっしゃれば、仕事の幅を広げるため、とおっしゃる方もおられて、本当に多種多様です。それでも、共通していることがあります。それは、人を癒すという世界に入りたい、と思っているということです。最近、人の福祉に関する学校、学部が増えています。心理系の学科も増えています。人に関わって、人を癒したいと思っている?人が多くなったと考えていいのでしょうか?そこでもおもしろいのは、仕事をしていた方が、退職をして新たな方向に進む道として、福祉、医療方面を選ぶということです。ある医療系の専門学校の知人に聞くと、学生の年齢は、18才から45,6才まで幅広い年齢層の方がいらっしゃるのだとか。その中でも、仕事を中途退職して、勉強をし直す人が多いということです。こんなことを見ていると、人の中でもバランスをとっている感じがします。一方では、ストレス社会だとか言われて、競争社会に勝ち残れ!とばかりに仕事をしている人がいます。そして、そういう人が増えれば触れるほど、逆に、そういう人たちを癒したい、と思う人が増えるという現象です。こうやって、人自身もバランスをとり、社会の中でもバランスをとろうとしていると見れば、全てを含めた世界がそうやって動いていて、バランスが取れているということになります。とっても不思議ですけど、この流れは変わらないもののような気がします。ものすごく偉大な感じがします。
2006年05月16日
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そういえば、以前全国ネットのTVで、なんで福岡の学校では、体育の時のかけ声がやーっなのか?なんてことをやってました。そして、今からの時期の福岡では、体育会なるものの取り組みがスタートしています。どこの学校に行っても、体育会の練習が始まり、近くを歩いていると、一際大きい声が、聞こえてきます。おもしろいのと、元気がもらえそうで、止まってしばらく見てしまいます。いろんな所で聞こえる、こどものだらしなさなんてどこへやら・・・その勇ましいかけ声と、機敏な動きには、体育会への熱意を感じずにはいられません。一体どっちがほんとなの?と聞いてみたくなります。日ごとに、グループごとに集まって、応援みたいな練習をしていたり、マスゲームみたいなことをしていたり・・・結構蒸し暑いし、大変だと思うのですが、見ていても、どのこどももそんなにだらけるなんてことがないんです。ある時には、多分昼休みだと思うのですが(1時半頃)、集まってミーティングみたいなことをしていました。けっこう近くだったので、そっと聞いていると、上級生が下級生を指導していました。普通だと、ご飯も食べてゆっくりしているだろうこの時間に、大変だなーというのが正直な感想です。授業中のやる気のないこども、をイメージしながら、なにが彼らをこんなに変えるのだろうと考えてしまいました。昔の自分を考えてみると、上級生にとっては見せ場だから、目立ちたいのかな?なんてふと思いましたが、これって伝統なんですよね。毎年の上級生の姿を見て、自然にできあがっている姿勢なんだと思います。こうするもんなんだって思ったら、やるもんなんですよね。見えない力が、動かしているとでもいったらいいのでしょうか。まあ、当日はたくさんの人が見に来るから、下手なことは出来ないですもんね。先生方の草抜きの姿が印象的でした。
2006年05月15日
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大人の生き方が、こどもの手本となるのは、親と子をよく知っている先生方が一番ご存知だと思います。もちろん人だけではなく、周りにある環境も関係していて、少しベテランの先生になると、こどもを見るだけで家が分かるとさえ言いますね。さて、ニュースでこどもに関する、こんなニュースが流されていました。お金について小中高生にアンケートをとったところ、お金が一番大事だと答えた小中学校生は、4人に1人、高校生では3人に1人だったそうです。これって少ない、って思ったら大変!多すぎだ・・・また、今からお金を貯めないと、って思っている小中高生は8割以上だと言っていました。小泉内閣の、改革によってもたらされた成果がこれだとしたら、痛みのある改革ではなく、滅亡する改革かもしれない、って正直思いました。最近小説でも、この類のことを書いてらっしゃる作家がたくさんいます。世間のニュースでも、この延長上に起きたと思われるニュースも目にします。本来人があるべき方向と、全く逆に進んでいるとしか思えないのですが、誰に責任があるかということを追求するといった方向にはなって欲しくないです。ところが、全体の国家予算に含まれる、教育にかける予算の少なさを見ていくと、ため息が出そうです。そして、その中で必死で頑張っている先生方には、批判が行くというこの矛盾。お互いに首を絞めあっているとしか思えません。こどもに罪はない、と言っていてもやがて大人になるので、せめて自分に関係するこどもたちには、もっと広い見方を伝えていきたいと思った。
2006年05月14日
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迷惑がかからなかったら、何でも自由だ、っていう考え方ですが、これは民主主義の考え方として正しいのでしょうか?この前TVで、そう言っていたので、果たしてそうなのかなってちょっと考えてました。この文だと、だれにという所がないので、仮に人に、としてみますね。人に迷惑がかからなかったら、人は、何でも自由に出来る。これで文らしくなったみたいなので、この文章、もっともだって思いますか?いや違うって思いますか?これもまた、人の思い一つで、どうにでもなりそうです。なぜなら、迷惑と自由の考え方や、感覚が違うからです。大人の感覚が、まだ揃っている時は、それでも秩序が保たれていたのかもしれません。最近は、大人の感覚が、違ってきているので、こどもは良い意味でも、悪い意味でも流されてしまっているように思います。そうなると、常識でしょってことが、そうでもなくなるということが起こってきますね。ある先生が、おっしゃっていたのですが、ちょっと前までは、授業の中で宿題や提出物のことを言って忘れたら、一応悪いな、と言う表情をしながら前に言いに来たりしていたそうです。ここ数年は、忘れたことも言いに来ず、そのことを指摘されると、知らなかったとか、中には憮然とした表情をしたり、くってかかったりするそうです。全員がそうだとは思いませんが、少なくても、先生がそう感じたということは、変わってきていると言うことなのだと思います。ここでわかることは、先生の言うこと(授業)に意識がいっているか、自分が思ったこと、に意識がいっているか、ということです。宿題があり、してこないといけないんだと思うか、そういわれたことを、自分の判断で勝手に解釈しているか、ということですね。これが、こどもの考える自由だとしたら、えらくはき違えてますね。これは、勝手です。大人の世界で、こんなことがあったら、仕事にならないですね。こんなことが、でも平気で起こっている現実が、実はとても身近にあるんですね。こどもがしているということは、大人がそうさせているということを、痛感しています。
2006年05月13日
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まずは、今日の松井選手の怪我のことが、こんな風にのっていました。【ニューヨーク=田中富士雄】米大リーグ、ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜外野手(31)は12日午前(日本時間12日深夜)、ニューヨーク市内の病院で、骨折した左手首の手術を受けた。 ジョー・トーリ監督によると、折れたのは1か所で、親指側のトウ骨。球団は復帰までに3か月程度を要すると見ており、シーズン前半戦の再合流は絶望となった。 手術は成功し、松井秀は13日に退院する予定。2、3週間で患部固定用のギプスを取り外し、復帰へ向けたリハビリテーションを開始する見通しだ。(読売新聞) - 5月13日10時55分更新実際の映像を見ていると、手がものすごく不自然に曲がっていて、専門家は手の骨が両方折れたのではないかと、言っていた。野球をするのに、手は要なので、予想以上に大事には至らなくて、ちょっと安心しました。今までの連続試合の記録が途絶えてしまったけれど、普通の人と同じで、そのことに気持を持っていくのではなくて、起こったことの意味を前向きに感じていて欲しいなと思います。何かのインタビューで、若い頃は健康のことや体力のことをあんまり考えていなかったけれど、年齢を経ていくことに、そのことに対して自分でいろいろと取り組むようになった、と話していました。プロなので、様々な方法を使って、精神面や体力面でケアをされていたと思います。私たちが、松井選手から、ある意味の教訓を受け取れるとしたら、それは、ベストを尽くしたとしても、起こることは起こるということでしょうか。でもそれは、だからもういいではなく、そこから何を生み出せるかと言うことなのだと思います。今まで松井選手からもらったエネルギーを、リハビリをして復帰を目指す松井選手に送ろうと思いました。
2006年05月12日
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皆さんの周りにいる人で、口から生まれた口太郎・・・なんて言われている人います?どんなときでも話していて、まるでそれをしていることが快感なのかな?と思わせるくらい話している人っていますね。よくネタが尽きないな・・・とよくよく聞いていたら、同じ話をおもしろおかしく繰り返しているだけだったり。思わず笑ってしまいます。逆に、寡黙で話しているのを聞いたことがない、なんて人はいますか?私もそんなに話をすることが得意ではないので、普段は黙っていますが、それでも、1日中黙っている人を見ると、ストレスたまらないのかな?と疑問マークがでてきてしまいます。外に出たら話すけど、家では話さない、とかTPOで変わる人は、話しているんだな・・・と思い心配もしませんが、とくに最近外に出ない、って言っている人たちは、心の奥では、本当はどうしたいと思っているのだろう。脳とからだのつながりのパターンで考えてみると、論理脳が優位で、反対の手が優位の人が、どんな状況になっても、言葉が出てくる人です。その他のパターンの場合だと、普段は話すのが大好きだけど、ある状況になると、話せなくなるという感じです。(話せるけれど、普通に話しているときの6,7割くらいになるそうです。ある状況、つまり、自分の外のものや人から入ってきた状況が、自分にとってストレスと感じたら、自分のからだと脳のつながりに支障が出てくる部分が発生します。今まで話していたのに、だんだん黙って、目を伏せるようになった、とかというのは、目になんだかのストレスがかかったことを自分が表現しています。また、その時に、じっと座り続けていたら、動くことにもストレスがかかったのかもしれません。こんな風にして、ストレスを抱えたときに、一番困るのが、コミュニケーション。これができなかったら、人は1人でいきていけるのでしょうか・・・まあそれは言い過ぎにしても、やっぱり思ったことを意思疎通して、一喜一憂するのが、人らしいですね。
2006年05月11日
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少し前に、脳死のことについて日記に記したときに、日本人が、西洋人に比べて、脳死を死と認めにくいのは、脳に心を見いだす国民性だからだ、ということを書きました。そして、実際そういうことを裏付けるような文化は、日本中にたくさん見られると思います。もし、からだにも心があるんだ、ということを言っても、どれだけの人がそれに賛同するでしょうか・・・(最近は変わってきていると思います)例えば、そのことを見てみるために、こんな経験がある人はいないでしょうか?とても緊張したときに、お腹が痛くなったり、トイレに行きたくなったりする。これは、頭だけに心があると考えたら、説明できないと思います。確かに、脳が感じて、そういう指令をからだに送っている、と言うことも考えられますが、それだけで説明することは、とても難しいことのように感じるのです。こんな風に書いてみることも出来るんじゃないでしょうか。お腹が痛くなって、自分が緊張していることがわかった。こんな風に感じたことのある人はいないでしょうか?人によっては、自分の動作で、心の状態を知る人もいると思うのですね。きっと、この話をし出したら、終わらない話になるかもしれないので、ここでは、どっちということよりも、どっちにもって考えたいんです。だから、脳にも、からだにも、心はあるんだと言う感じです。すると、上に書いた文章は、どちらでもいいんだ、その人の感じ方によって違うんだ、と言うことが言えるわけですね。すると、便秘になるのは、消化に問題があるとも考えられるけど、何か心に消化できないことがあるから、便秘なのかも?と自分を見つめる材料が増えますね。みなさんはどう思いますか?
2006年05月10日
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何か物事を決めるときに、決めるための材料がないと、なかなか決められないですよね。たまに、材料がなくても、自分の勘だけで行動している人を見ますが、なかなか勇気のいることです。普通は、自分に決められるだけの材料がそろって、その上で決めることになるんだと思います。では、材料を揃えるためには何をする必要があるかというと、情報を集める作業ですね。どこかに行ったり、誰かと話したりということです。最近は、そんなことをしなくても、ある程度のことは、インターネットで把握できますね。便利な時代です。普通は、こんな感じで、人から聞いた話と自分で調べたことなんかを総合して、これはいい、とかこれはだめだなと判断していきます。この判断の時だけは自分の決定になります。ところが、これがなかなか難しいと思う人がいると思うんです。ただ、ここがそうなってしまうと、延々決められないと言うことが起こってきます。そんな人が近くにいます。小さい頃から、全てのことを決定してもらっていた人は、自分で選ぶということをしていなかったので(できなかったのかもしれない)、大人になってからも、親の替わりになる人をいつも探しています。限りなく選ぶことを放棄させられた人にとって、決断という作業は途方もなく、大作業になるんですね。そして、ここが人間関係での誤解を生むことになります。話を聞いてもらえなかったこどもは、責任のある決断をしなくなってしまいます。そして、自分の中での話が、どんどん膨らんでしまうのですね。アドバイスは、時にはいいかもしれませんが、自己満足になっているとえらいしっぺ返しを受けるかもしれません。
2006年05月09日
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テレビで、70才を超えたおじいさん(おにいさん?)が、サッカーのリフティングをしている光景を偶然見かけて、しばらく見ていました。若い頃からやっているのかなーと思いきや、からだ作りのために、65才から始めたとおっしゃっていました。聞いたときに、思わず、よし自分もやってみようか、と思ったので、早速実践・・・サッカーが苦手なので、せいぜい3回が限度でした。ちなみにこのおじいさんは、軽く100回を超えるリフティングを、テレビの前で披露されました。しばらく前までは、年齢を重ねるごとに、様々な能力は衰えていく、と考えられていましたが、最近の研究により、それは違うんだ、ということがわかってきたのは、ご存知の方も多いと思います。そこまでは、ご存知だと思いますが、私が思うに、実はこれには小さいときの経験、体験が、ものすごく関与していると思われます。詳しい説明はちょっとはずしますが、脳とからだの使い方が、しっかりと小さいときにインプットされていると、様々なことを挑戦する力、工夫する力、やり続ける力、こんなものがしっかりと身に付いているのですね。それで、何かをしようと思うときに、あきらめずに最後までやろうとした結果、年齢に関係なくすごいことが出来てしまうのだと思います。ちなみに、小さい頃に身に付いていなかったとしても、脳とからだに覚えさせることで、いつでもそういう心を芽生えさせることができます。(本人がそう思うことが前提ですが)なんでもかんでもできるスーパーマン、とまではいきませんが、好きなこと、やりたいと思ったことが長続きするためには、人の中にあるものが入っていることが最低条件なのですね。常にヒントは、こどもの行動に隠されています。こどもに戻ってみるのもいいかもしれませんね。
2006年05月08日
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岡山県の学校に、朝食を置く取り組みが始められたそうだ。朝食と言っても、ご飯やみそ汁ではなく、チーズと牛乳を置いておく、と書いてあった。記事を見たときに、予防的な対応ではないな・・と思いつつも、そこまで深刻になっていることの危機感を感じた。自分の感覚からすると、朝起きてご飯を食べなかったら、いらいらしてしまうと思う。普通に食べればいいだけの話だ、と簡単に思ってしまう。ところが、それぞれの家庭の生活習慣にいったんはまると、こどもならなおさらだと思うが、朝食抜きなんて簡単に慣れてしまうのだろう。慣れてしまえば、大人だとまだ我慢が出来てしまうのかもしれない。ちょこっと抜けて何か食べたりなどもできるし、違うもので代用することも出来る。けれども、そんな感覚にこどもを合わせてしまったとしたら、実際につらいのはこどもだけ、ということになる。いくら夜型で、朝は食べなくて寝ていた、なんてこどもでも、生活習慣を戻せば、あっという間に通常の生活に近づけたという実例をいくつも見ているだけに、どうかんがえても大人の犠牲になっているこども、という風にしか思えない。こどもの中でも、自分の都合で食べない、なんてこどももいると思う。そうだとしたら、そのことを大人がちゃんと諭してあげないといけない。食に関して言えば、親がコントロールするしか方法がないので、やっぱり家庭での問題。それを、こんな形でやってしまうところに、なさけないと思ってしまった。食に関して、いろいろなことが注目されている昨今だけれど、ある意味今の日本の社会の風潮を露骨に出している感じがした。
2006年05月07日
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こんな記事があったので、ちょっとここに載せてみることにしました。民族とからだの作りの違いを念頭に置いて読んでみると、 日本の事情にそのまま置き換えることができるかどうか、に疑問が残ると思います。米国の10代の少女は年齢が上がるとともに、牛乳を飲む量が減少し、逆に炭酸飲料の量が増え、このことがカルシウム摂取量の低下を招き、肥満指数(BMI)を高める結果となっていることが、新しい研究で明らかになった。10代少女の炭酸飲料の消費量増加は、栄養学専門家の間で長年にわたる懸案事項となっており、甘味飲料の過剰摂取は、虫歯や体重増加、その他リスクの増加原因ともなっている。米医学誌「The Journal of Pediatrics」2月号掲載の研究では、米国心肺血液研究所(NHLBI)の成長健康調査に参加した少女2,371人を対象に、9、10歳から19歳まで10年間にわたり食事記録を追跡調査した。食事記録には、牛乳、標準炭酸飲料、ダイエット炭酸飲料、フルーツジュース、フルーツフレーバー飲料、コーヒー・紅茶などの摂取量も含まれており、年1回の診察時に記録の提出が求められた。その結果、調査期間中、牛乳消費量は25%減少し、炭酸飲料の摂取量は3倍近く増加、最も消費量の多い飲み物となっていた。また研究では、炭酸飲料をたくさん飲む少女ほどカルシウムの摂取量は少なく、BMIも高いことが判明した。研究共著者で米メリーランド医学研究所の上級統計学者Douglas Thompson氏は「このことは栄養上大きな影響をもたらしており、炭酸飲料を1日200gを摂取する少女では、100gの少女に比較してカルシウム摂取量が7mg少ない」と述べる。米国栄養協会(ADA)の広報担当で、米テキサスサウスウェスタン大学のLona Sandon助教授は、これらの問題解決にあたり、炭酸飲料摂取の適正化が鍵となると語る。「炭酸飲料やフルーツジュースによる体重増加で問題となるのは、全体的な食事の質だ。こうした飲料が全摂取カロリーの25%以上に達すると食事の質が低下する」と述べる。同助教授はまた、「炭酸飲料やフルーツ飲料が牛乳に取って代われば、成長や、健康的な免疫システムに必要な蛋白(たんぱく)質、骨の強化に必要なカルシウム、最適な健康維持に必要なカリウム、ビタミンD、その他の栄養素が減少することを意味する。米国の食生活指針(ガイドライン)に沿った食事を摂り、成長に必要な栄養素を摂っているならば、週に3~4回甘味飲料を飲むことは差し支えない」としている。(2006年2月24日/HealthDayNews)
2006年05月06日
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人の脳ってなんであれだけ大きくなったのでしょうね・・・それでも使っているのはわずかで、そのわずかに使っている脳で、これだけの文明を創ることができたんだからすごいですよね。人が生まれてからの歴史の積み上げで、その都度いろんな分野の人の発見があり、私たちってものすごく便利な生活をさせてもらっています。それでも、そんな文明の発展などあまり関係ない年代が、人間にはありました。それは、生まれてからの数年間です。そして、その時の毎日の生活体験というものは、実にその人のその後の生き方に深く関わっているんですね。ところが、最近の生まれてからの数年間は、かなりこども達にとって影響あるものになってきています。何が影響あるのか?ということですが、1 2次元の物体の氾濫2 加工食品3 化学物質4 メディア5 大人といったものです。最近こどもが・・・なんて言われるのは、この5つが必ず関わっています。ものすごいヒットとなった国家の品格に、こんなことが書かれていました。偉人の育った環境には、必ずと言っていいほど、自然、美しいもの、崇高なものがあったと。これを読んだときに、からだの脳の発達の過程には、必要と思われる環境が備わっていることが、条件なんだということがわかりました。とくに自然というものの存在は、人の脳の発達にとって、最大級に必要なものなんだと思いました。なんで必要なのか?ということなのですが、簡単に言うと、物事はすべて自然によって成り立っているので、それを基準に考える為には、その環境で育っていることが、すべての活動の基本になっていると言うことなのだと思います。どんどん変わっていく世の中ですが、人の作りはそんなに簡単には変わらないものだな。
2006年05月05日
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バランス良く脳とからだをつなげることってどんなことだろう?今日は、そのことについて、優位性という部分をふまえて書いてみようと思います。人は、脳、手、目、耳、足のどちらかを優位に使うように出来ています。そのコントロールは、脳になるのですが、それぞれが相互に関係しあって、動きがつかさどられています。そして、優位性の組み合わせによって、その人が普段どんな方法で情報を収集しているか、どういうパターンで動くのを好むかが分かれていきます。そして、通常の状態では、優位な部分を中心に、全体的な身体活動が行われています。ところが、一度何かストレスを抱えた状態になると、通常の状態から、行動パターンは変化していきます。それは、一瞬のうちになってしまうので、意識的にそのことに気が付くことはまれなのかもしれません。脳とからだのつながりの32のパターンは、通常では優位性はあるものの、それぞれが、ユニークな人を創り上げています。できるだけその状態を維持していければ、人間関係でも、その他いろんな事柄にプラスに作用するであろうことは言うまでもありません。できるだけストレス状態の、制限をかかる癖から外れればいいわけですね。これから、その癖にはまらないようにする、日常のお勧め活動を書こうと思います。それらは全てを含んでいますので、個人的に知りたい方は、メールにてお知らせ下さい。○ジョギング、ウォーキング、水泳、サッカー、手足を動かすダンス○声を出して本を読む、音楽を聴きながら、その歌詞に聴き入る○口を開けると動くほっぺたの部分をくるくるとマッサージする○編み物をする○耳のマッサージ、まばたきをしながらいろんな所を見る
2006年05月04日
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たくさん人がいると、いろんな状況で自分の自己紹介をする機会が出てきます。私自身、引っ越しが多かったので、転校するたびに自己紹介をしなければならなくて、ある意味嫌だった思い出が残っています。その後遺症?が残っていたのか、その後人前で自分を紹介するとか、話をすることがとてもおっくうになってしまいました。人前に立つと、初めての人であればあるほど、からだがかーっと熱くなり、話すことを忘れてしまったり、脈絡のないことを言ってしまったりしていた自分に、後で気が付いたりしていました。逆に、人前で話すのが気持ちよいと言う人も大勢います。普段は落ち着いた感じに見えていても、人前にたった瞬間、人が変わったようにエネルギッシュになった人を、何人も見たことがあります。実際に、その感覚が分からないなーと思って、どんな感じか聞いてみたこともあるのですが、全員がものすごく気持ちがいい、と言っていました。毎日生活していると、そういう場面が多い人ほど慣れてくるというのはあると思います。慣れって大きいですね。また、毎日同じ人の前で話していると、普通に話せるみたいなこともありますね。人前で話したいのかどうか、というのもありますね。こんなことも、頭とからだのつながりのパターンが関係しているかもしれません。どんな状況であっても、言葉がすーっと口から出てくる組み合わせは、脳の優位性が論理脳の方で、手の優位性が逆の人となりますが、環境との組み合わせで、変わってくる部分もありますね。上の組み合わせと逆の人が、同じように出来るかというと、それは難しいのかもしれません。経験がカバーする部分はあっても、緊張した状態が出来た場合は、一気にあがってしまうのかもしれません。いろんな場面で、人の話している様子を見ていると、ハプニングがあったりしたときに、会話の脈絡がおかしくなっている、なんて所を見たりします。話す必要性に迫られたときに、自分のパターンを知っておくと、それに対応するエクササイズをすることでカバーすることが可能になります。次回はそのことを書いてみることにします。
2006年05月03日
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日記の記入形態があたらしくなってから、リンクの仕方などがよくわかっていません。そんな状態だったもので、5月1日の日記が一部へんになっちゃいました。ごめんなさい。昨日からの続きを書こうと思います。昨日は、実際に自分の脳とからだのつながりを見ていくときに、その見方のさわりをご紹介していました。学生の時に、なんか悪いことをして先生の所に呼ばれます。いろいろと言われて、いろんな気持ちで下を向いてしまいます。そんな時「前向けー先生の目を見ろ」なんて言われた経験ってありませんか?既に怒られていて、ストレス全開なはずなこの状態では、脳とからだのパターンによっては、そのことが出来ない人がいるのですね。それでも言われ続けてようやく必死に思いで顔を上げる、多分こんな状態では、話すことすらままならないはず。これは、目の優位性が脳と同じ場合の人が、そうなります。とにかく目からはいる情報を遮断してしまうのです。また、同じ状況で耳の優位性が脳と同じだったら、先生の話がほとんど頭に入っていない可能性があります。「今先生が言ったこと言ってみろ」なんて言われたらしどろもどろになってしまうのかもしれません。手の優位性によっては、聞いていて内容をよく理解していても、言葉に出せないことがあります。1つの例を出してみました。これを、仕事のいろんな状況に当てはめていくと、自分がなぜこうなっていたのか、ということにはっと気が付くことなんかがあると思います。ちなみに私の場合は、ストレス下では、下を向いて話せなくなってしまいます。これも優位性が大いに関係していたのですね。これを知って、自分の動きが腑に落ちました。ちなみに、性格に脳とからだのつながりのパターンを見るには、筋反射テストがあったほうがいいかもしません。
2006年05月02日
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4月の中旬迄に書いた日記の中に、脳とからだのつながり、ということについて、書いたものがあります。これを使って、自分のパターンを見ていくことで、自分という人間が、どういう風に動いているのかを見つめることが出来ます。詳しくは、4月1日から15日あたりの日記を見てもらえると、わかるのですが、その中から抜粋したものがこれです。脳とからだのつながりから、実際に自分のパターンを見つけるという所までが書いてあります。脳とからだで動きが分かる脳の交差コントロールの話利き手、利き足などのお話実際に自分のパターンを見てみようそうやって調べたら、まず自分のパターンを確認して下さい。確認する項目・・・頭 手 目 耳 足そして頭がまずどっちかを確認して、あとの4つが頭の優位な方に対して、どうなっているかをみてください。そして、頭の優位性と反対の方にあるもの(頭は論理脳で、耳はゲシュタルト脳など)は、どんな状態になっていても、脳とつながっていて、反応できる部位、ということになります。例えば、頭はゲシュタルト脳で耳が反対(または頭が論理脳で耳がその反対)だとすると、どんな状況でも聞くことが出来る聴力が、その人にとっての外からの情報の取り方になります。他の部分(手、目、足)がすべてゲシュタルト脳側の優位性を持っていると、その人はストレスの状況になると、座った状態で目を伏せているのかもしれません。ここで少し確認です。(私もけっこうばらばらになってるかもしれないけど)右左を使って書くとわかりやすいのですが、人によっては、左右の脳が逆なんてこともあるので。限定が出来ないのです。そして例外もあるのです。それで、だいたいの人は、右がゲシュタルト脳、左が論理脳と思ってもらってもいいのですが、一応上には左右という書き方はしていません。あなたの優位な脳はどちらですか?自分を見つめるためには面白い方法だと思いますので、試しにしてみて下さい。次回からは、いろんな例を出していこうと思います。
2006年05月01日
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