2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全31件 (31件中 1-31件目)
1
これは、石坂千穂さんのサイトに投稿したものと同じものです。 「どのように決めるのか」という問題は、中身よりも重要なときがあります。「くじ引き」というと、「賭博」が連想され、それだけで拒否反応をおこす人がいるでしょう。しかし、これは古代アテネから連綿と続いてきた政治手法なのです。現代においても、柄谷行人氏をはじめ、提案している人は多くいます。 まず、多数決というものを、わかりやすくダム問題を例にとって考えてみましょう。これを住民投票にかけるときに、どのような設問をとるかは大問題でしょう。 単純に、1、ダム建設に賛成ですか というような設問で投票すれば、現状であれば、「反対」が圧勝するでしょう。しかし、本当の問題は、治水をどうするかです。そこで、設問を次のように変えたらどうなるでしょう。 あなたは、○○川の治水について、どのようにした方がよいと思いますか。 1、大規模な河川改修をする 2、危険が予想される範囲だけをやる 3、自然保護の観点から、河川には手を加えない 4、ダムを造る さて、どういう結果になるでしょう。圧倒的な得票をとると予想される項目はないと思います。ひょっとしたら、4が30%程度で、上位に来るかもしれません。設問は結果を左右するのです。さらに細かくすれば、いくらでも操作は可能です。ですから設問を誰が決めるのかも大きな問題なのです。 「多数決」が「設問」によって、左右されることは、おわかりいただけたでしょうか。 さらに問題があります。それは投票のやり方です。 例えばひとつの議題に、3つの案があり、そこからひとつを選ぶとき、決選投票というやり方を選ぶことがあります。最初に全案について投票し、上位について決選投票をするという場合などです。その結果が、一回目の投票を覆すことがあるのは、皆様よくご存じかと思います。オリンピックの開催地の決定などによく見られます。 例えば、A案・B案・C案の3つにそれぞれ、a・b・cの支持者がいて、1回目の投票をした結果、A=42% B=33% C=25%だったとします。C案は廃案となり、AB間で決選投票した結果、C案支持者cが、B案に流れた場合、B案が、通過することになります。 これが通常の選挙のような方式であれば、当然最多得票のA案が通過するはずですから、やり方次第で結果は違うのです。 これをどう考えるかは、古代からそうそうたる学者の頭を悩ませてきましたが、解決方法はありません。人間の思考は多様であり、利害の他に感情も入り交じり、やり方次第でコントロールも可能だからです。「決め方に最良はない」のです。 弁舌さわやかな個人が、ある案について大衆を煽り、あるいは敵を貶め、さらには投票方法を操作することで、大衆をコントロールしてゆくことが可能です。投票とは、政治への参加を疑似体験させるシステムです。投票したことによって、「自分たちが決めた」と勘違いさせる制度なのです。まず投票を疑いましょう。あらゆる投票は、ファシズムへの危険性につながります。 さて、古代アテネの人たちは、長年の試行錯誤の末、専制政治の出現を排除する方法として、「くじ」による「500人評議会」というものを運営しました。アテネの民主政治が、もっとも成熟したといわれる時期です。やがてはこの精神も、衆愚政治に堕してゆくのですが、それは時の趨勢というもので、致し方のないことでしょう。 私はこの「くじ」の制度を、現代政治の急所に配することによって、民主政治が、より公平なものになるのではないかと考えています。もちろん最初から、すべてくじに頼るわけではありません。徹底した情報の公開と、予備的な選別の後に、どうしても篩いきれないものを、くじによって決すとるいうことです。議論を尽くした後に残ったものは、それなりの妥当性があるものと思います。もちろん、どんな案も、やってみなければわからないのですから、ことの善悪などは誰にもわかりません。だとすれば、くじというのは最も公平な手段ではないでしょうか。なにより、買収、暴力、世論操作などの、非民主的手法が無意味になることが利点です。 以上長々と述べましたが、結論だけを言えば、選挙は、立候補&推薦→予備投票→上位者のくじ引き、と言うようなやり方、住民投票に関しては、提案→議論→予備投票→上位案のくじ引き、というような方法で決定することが望ましいと私は考えています。また、行政官僚の登用についても、この方式は有効です。地縁、血縁、財力を排除する、最も有効な手段です。 またこの提案は、「自分(達)の案を、なにがなんでも通したい」「どんな手段をとっても当選したい」と考える人には、都合の悪い制度でしょう。そういう人たちがどういう人か、よく考えれば、この制度の意味するところがわかるでしょう。
2002.10.31
コメント(6)
あまり反響はないけれど、まあ思い出話のつもりで書いているこのコーナー、飽きずに更新です。
2002.10.30
コメント(0)
【日朝国交正常化交渉は29日夕、初日の協議を終えた。焦点の拉致事件について、北朝鮮側は9月の首脳会談で本質的には解決済みとの認識を示した。核開発についても、日本側が求めた開発計画の即時撤廃には応じなかった。】 さあ、いよいよ日朝交渉の第1Rが始まりました。まずは軽いジャブの応酬でスタートしましたが、とりあえずは、ノンタイトル(日本)と、引退をかけた(北朝鮮)試合、相手はあらゆる手段を尽くしてくるでしょう。 頑張ってほしいものです。 今日は、寒いのでこのへんで・・・・
2002.10.29
コメント(1)
さて今日は昨日の続き。 国会議員など「抽選」で充分です。地方議員も知事もです。 別にふざけているわけではないし、議員はその程度と言っているわけではありません。なぜなら、民主主義を突き詰めていくと、究極は無政府状態になるわけですが、その前段として、「誰でもいい」状態が来るわけです。それはつまりこういう事です。 民主主義の原則と言われるものに「最大多数の最大幸福」というものがあります。利己的な行動を抑制し、最大多数が最大の幸福をえられれば良しとしようと言う主張です。それには前提があります。人間がすべて等価値であるという前提です。この辺が私が嫌うところですが、それは置いておくとして、その前提からすれば、だれが政治をやろうと、誰が軍事をやろうと、全く同じと言うことになります。 つまり、民主主義の考え方が行き渡り、道徳的にも、知的にも、資産的にも等価値になった人間には、差がなくなるのであるから、「抽選で充分だ」だというわけです。まあ現代がそうだとはとても言えませんので、ある程度の選抜は必要でしょう。無作為抽出では、いくら何でもという気はします。私もそこまで暴論は言いません。少なくともやる意志のある人から選ぶべきでしょうし、明らかな犯罪者は避けるべきでしょう。 今回の補欠選挙の候補者のうち、何人が欠格でしょう。ほとんどいないでしょうね。さらには抽選となれば、「地盤も看板もないけど、やる気とアイディアだけはある」という人たちが大勢立候補できます。また、いくら人気があっても確実ということはありませんから、二世議員や、買収は意味をなさなくなります。政党政治も終わりになるでしょう。自民党の派閥も解散です。改選のたびに、顔ぶれががらりと変わるのですから、そんなことは無意味です。 しかし最初から抽選では、今度は、とんでもない奴まで対象になってしまいますから、予備選ぐらいは必要でしょう。そして、上位何名かの候補者が、最後は実況中継の中、ファンファーレと歓声に包まれて、壇上に登場し・・・・・・というような演出もいいでしょう。 ついでに、官僚の選抜も、希望者の中から抽選でやりましょう。もちろん、多少の予備選抜は必要です。まあ高校卒業程度でいいでしょう。官僚に必要なのは、「知識」よりも「常識」です。 「不真面目だ」といいますか? じゃ、陪審員制度はどうですか?くじ引きで裁判官をさせるのと同じですよ。 古代ギリシャの、直接民主制をご存じの方は、そんなことは言いませんよね。 「抽選」こそが、絶対権力者から身を守るために。市民が考案した、「最終兵器」なのですから・・・・・・
2002.10.28
コメント(0)
子に問う 「選挙とはなんぞや」 子曰く 「盲の王を選ぶものなり」 そろそろあちこちで、選挙のきな臭い話がわき上がってきます。何度も書いていますが、私は議会制民主主義=選挙=無記名投票というものを信用していません。したがって、住民投票=国民投票というものも信用していません。それについて、多少愚考しましたので、今日はそれについて書いてみます。 投票「無記名の秘密投票」は、正確な民意の反映ではありません。それは皆様ご自分を顧みればわかることです。ひとつのことに結論を出すとき、一度考えたことを、絶対変えないと言う人は、少ないと思います。一晩中、さんざん悩んだ末に出した結論も、朝になると「まてよ・・・・」と思い直すことも多いでしょう。そうして投票した結果が、真の民意といえるのでしょうか。また、投票する対象を、よく知らなければ、どっちでもいいという人が大半で、おもしろ半分に投票した票が、結果を左右したとき、それが真の民意といえるのでしょうか。 それは選挙についても言えます。権力者を投票で選ぶことには、常に危険が伴います。身分制度の下では、権力者は常に監視下にあるも同然で、疑惑と反感の中にいますが、選挙において圧倒的多数を集めた者は、もはや神に近い存在となります。選挙制度のもとにあっては、国民は常に、自らの主人を選ぶという、民主主義の対極の行為を行うという矛盾の中にいるのです。 さらに官僚においては、官僚自らが官僚を選ぶという、もはや特権階級に等しい行為が、何のチェックも受けずに機能しています。腐敗はもはや、誰も止めようがありません。 これを打破するためには、ひとつの提案があります。それは「抽選」という方法です。私はこれが究極の民主主義ではないかと考えています。
2002.10.27
コメント(0)
今回の石井紘基議員の刺殺事件、北朝鮮による拉致被害者の報道を見て、少し考えるものがありました。 石井紘基議員なる人物を、恥ずかしながら私は知りませんでした。当然彼の行っていた活動も全くわかりませんでした。今回刺殺され、事件が報道されて初めて、彼の活動内容を知ったのです。このような人は結構多いのではないでしょうか。 彼は単独行動が多く、あまりニュースバリューもなかったので、おそらくメディアは、知りながら無視していたのでしょう。 翻って、拉致事件についてはどうでしょう。事件そのものは大変なことであり、時間をさくのはわかりますが、その内容たるや、被害者、お跳び親族のインタビューがほとんどで、その中には国政や外務省に対する不満や、北朝鮮に対する非難の部分が大半を占めています。 しかし私は、そのような報道姿勢に、メディアの怠慢を感じるのです。彼らは被害者であり、保護され、それなりの補償を受けるべき立場にありますが、発言を取り上げるべき人物ではありません。ただの一国民に過ぎません。言いたいことはあるでしょうが、それを報道に乗せることは、慎重に扱うべき事です。それでも発言を垂れ流しにするということは、メディアが、国政を批判するにあたって、被害者の立場を利用しているだけのようにおもいます。また、被害者らも、その報道を当然のごとく受け入れ、発言を繰り返すのは、偶然訪れた自分の立場を利用しているのだと感じます。私が以前、彼らの言動を「醜態」と言ったことがありますが、これまでの報道をみて、その感覚はますます強くなりました。 私は、いつもバランスを取っていたいと思います。報道によって、何者かが、他の人に勝る特権を持ってはならないと考えています。少なくとも彼らに、国政に関して、国民の負託をうけた国会議員以上の発言を許してはなりませんし、外務省の批判をするなら、外務省の言い分をきちんと報道すべきです。さらに言うなら、朝鮮総連、大韓航空機爆破事件の被害者、韓国の拉致事件の被害者、さらには、国交正常化により、飢餓と貧困からの救済が可能となる北朝鮮国民、彼らについても、同列に報道すべきでしょう。それがないなら、メディアは、単に被害者らを利用して、国政批判をしているだけだと断定されても致し方ありません。
2002.10.26
コメント(5)
今日は、裁判所で特定調停というのをやってきました。 特定調停というのは、支払える能力はあるのに、債権者が多くて、期日を守れなくなった人が、支払えるように各債権者と調整し、期日を延ばしたり、金利を減免するための方法です。 今日の相手は、さる大手電力会社の社員で、年収1,200万円! 冗談じゃありませんよね。そんな人が払えないなんて! 一緒にいた某信用金庫の職員が、声を荒げて 「お金がたりないだって!毎日すしやウナギを食えないから、『金がない』というのか!冗談じゃない!」 少しアホなことばかり言って、進行の妨げになっていた人でしたが、このときばかりは見直しました。 しかしその後の話の長いこと・・・・・・・2時間の調停時間のうち1時間30分を使って、そのほとんどが、調停委員と、書記官の説明でした。要するによくわからないのですね。信用金庫の仕事はよくわかっているのですが、法的にはどうでもいいことにこだわり、話が進まないのです。結局、事務的なことにこだわりすぎて、詰めの甘い調停となったようです。 その人があまり長いので、途中気の毒がってくれた調停委員が、私の時間を挟んでくれ、10分ほどでけりを付けました。調停条項まですべて書いておいたので、相手に確認するだけの作業です。まあ、こんな仕事に詳しいのも、あまり褒められたものじゃないんですけどね。 しかし、債務者の様子は、まだ事態をよくわかっていないようでした。「そんなに払えない」だの「条件が厳しすぎる」だのと、まるで交渉の余地があるかのような口ぶりで、終いには書記官が、 「あなた、そもそも約束を破ったのはあなたなんですよ、わかってるんですか?今の状態は、すべてをここに出して、何とか返済できる手段を考えていこうと、ご協力をお願いしているんです。債権者が、そこまでしてくれるのは、あなたに対する信用じゃない。あなたの会社に対する信用なんですよ」 普通、書記官は、ここまでは言いません。よほど腹に据えかねたんでしょうね。 今日はホントの日記みたいでした。
2002.10.25
コメント(0)
あぶく銭は「持ちなれないものが持つと、わけも分からず使ってしまう」と言う好例だと思います。思うに、日本には身分制度がなくなり、本当の金持ちがいなくなりました。それに伴い、「旦那」というものが、社会的に生きにくくなっています。 金を与えるという行為は、優れて文化的行為です。芸術家ひとり育てるために、必要充分な量の金を与えることは、大変難しいのです。いわれるままに与えれば、堕落します。食えなきゃ芸術どころではありません。いつ、どのように渡すかも難しいですね。その金が生きるか死ぬかは、「旦那」の判断です。 「おまえは、なにがしたい」 「金沢の雪が見たいのです」 と言ったとして、旅費だけ与えるのでは、しみったれです。 いっぱいやって、若女将を口説くぐらいの金がないと、恩恵は感じないものです。しかし、そのまま1か月も酒と薔薇の日々では、モチベーションは保てないでしょう。その加減が、普段遊びなれ、しかも創造の心が理解できないとわからないのです。 公共事業にもそういうことがいえます。 なにより、住民が、いまなにを必要としているか、ではなく、将来へのインフラの整備をしておかないと、無駄な投資をすることになります。それが理解できる人は、現在に利害がある人ではなく、未来に利害がある人でしょう。「投資が理解できない人は、政治に関わってはいけない」と思います。それができるようになるためには相当期間の訓練と、環境が必要です。 私が身分制度に郷愁を感じるのは、まさにこのことを考えるときです。 私は、道路はいくら造ってもいいと思います。というより、現在の、必要なところを作る→他で渋滞が起きる→そこを直す→別のところが渋滞する→そこを直す→前のところが渋滞する・・・・という悪循環は、グランドデザインがないためにおきるものだと思っています。 道路に限っていえば、「必要だから造る」のではなく「造れば使う」ものだと思っています。どんな田舎でも例外なく、6車線の道路を造る。災害、戦争、いかなる事態でも、自衛隊が素早く移動できる環境を造ること、そこから、地方の発展は生まれます。
2002.10.24
コメント(0)
新しいものをUPしました。 今回は、年上の女性とのお話です。
2002.10.23
コメント(0)
皆さんは、「印紙税」というものをご存じでしょうか? そうです、あの切手みたいなもので、よく3万円以上の買い物や、契約書などに張るものです。普段は、あまりお目にかかることがなく、おそらく買ったことがない方もいるでしょう。よく、「印紙ってどこに売ってるんですか?」という質問を受けます。 さて、あれは税金の一種です。ではなんのための税金なのでしょう? 今年、我が社に税務署がやってきて、印紙税を400万円ほどふんだくっていきました。業務に使用すべき書類や、顧客に対する貼用印紙の不足分です。しかし、納得がいかないのですよ、なぜ払わなければいけないのかということです。 いろいろあたってみましたが、明確な答えはありませんでした。所得には所得税があります。経済行為の利益に対して課税する直接税です。あれはまあ、経済行為全体を国家が保護していることは紛れもない事実ですから、ある程度やむを得ないかという気がします。酒税、たばこ税も、なくていい上に、人様の迷惑になるものですから、渋々納得します。消費税は、いずれ所得税に代わるという条件付きで納得します。相続税は、以前も書きましたように、承服できませんが、課税理由については、理解はできます。 しかし、印紙税については、どうも納得できる理由がないのです。領収書の印紙は、別に貼ってないからといって、有効性になんの支障もありません。貼ってあっても貼ってなくても、裁判上は等価の証拠です。同じく、借用証、売買契約書、請負契約書なども、契約自体にはなんの関係もないもので、貼付の有無で、内容が左右されることはありません、強いて挙げれば「見栄えがよい」という程度のものです。 そこで考えました。 その結果、ひとつの仮説に行き着きました。 「あれは通貨の使用料なのではないか」と・・・・・・・・根拠その1 領収書の印紙は、商取引に限られる。個人の偶発的取引には課税されない。根拠その2 通貨を大量に使用するほど、貼用印紙金額が大きくなる。根拠その3 通貨を直接使用する取引に課税している。(クレジットカードによる取引には課税しない)根拠その4 通貨の使用量を明記していない取引は、印紙税額は極端に安い(200円)。 どうもおかしいと思った。リヴァイアサン(国家)が、国家の根本である通貨の使用を、タダでさせているはずがないと思っていたが、これで取っていたのか! 基本的には個人には課税していないので、一見お目こぼしかと思いましたが、裏を返せば、一般国民は、いくらがんばっても、使用料を取るほどの金は動かせまい。ということでしょう。個人であっても、商取引と認めれば取るんですから。 しかし、いろいろ考えると、消費税とどう違うのでしょう。なんだか2重取りされているような気がします。固定資産税と、土地保有税、贈与税、相続税の関係みたいです。なんだかだんだん腹が立ってきました。 皆さんは、「自分にはあまり関係ない」と思っていませんか?直接払っていないから、実感がないのでしょうが、企業もバカではありません。皆さんが払う代金や手数料には、皆、織り込み済みなのですよ。例えば金融機関から「為替」で送金するときの手数料には、ちゃんとその分が入っています。3万円未満と3万円以上では手数料が違うでしょう?あれが印紙代なんです。これはわかりやすい例ですが、そのほかにもたくさんあります。結局ほとんどすべて、消費者が負担していると言ってもいいでしょう。 今日は、少し冷静さを欠いていますが、結論としては、印紙税は廃止し、消費税に一本化すべきだと思います。
2002.10.22
コメント(0)
中東は、アメリカによるアフガン制圧後も、何かときな臭くなっています。今回は、テロリズムについてかねてからの私の考えを書いてみたいと思います。 そもそもテロリズムは、歴史的にはごく最近の流行です。テロは民主主義国家が出現するまでは地球上になっかったもので、そういう意味では、アメリカ合衆国の出現とともに現れた、新しい人間の行為であると思います。正式にテロが歴史に出現したのはフランス革命からだそうで、それ以前にはなかったものです。理由は次のように考えられます。① 主権者の交代(国家とは君主のことであった封建制度ではテロを行うより、君主を暗殺する方が手っ取り早い。逆に民主制は、指導者の交代がいくらでもきくので、民衆自体を標的にしなければならず、無差別テロという形態をとらざるを得ない)② 武器の進化(機関銃、大砲、ミサイル、時限発火装置などの近代兵器の発明により、より少人数での破壊行為が可能になった。刀剣によるテロでは、民衆に恐怖を与えられない)③ 戦争形態の変化(軍隊がなくなれば戦争は終了するという定義は、封建制の君主国家のみに当てはまることである。近代国民国家は、国家民族の総力をかけた全面戦争となるので、民族の存亡をかけることも起こりうる。また相手が弱体化すれば、チベットのような民族浄化ということもある。これは近代民族戦争においては、全員が軍人となりうることを前提とした行為である) 以上の点から、私は現代においては、2度の世界大戦の教訓と、核への恐怖から、国家間の全面戦争は消滅し、局地的なテロが世界中に頻発するようになったのだと考えます。 つまりテロリズムは、独裁と同じように民主主義の鬼子なのです。 繰り返しますが、主権者が単数もしくは少数であるならば、戦争は有効な手段ですが、主権が民衆に移ったときから、戦争は国家、民族の存亡をかけた全面戦争にならざるを得ず、それを避けるには、国内ならば充分な軍事力を持って革命を起こすか、テロを行いながら、政治的主張を行わなければならないし、国際的にはもはやアメリカを凌駕する軍事力が出現しない限り、テロは唯一の軍事手段となるということです。 ついでながら私感では、アメリカは、テロを行っているのでもなく、戦争をしているのでもなく、ただ犯罪を取り締まっている感覚しかないのではないか、と感じます。その傲慢さには恐怖を感じてしまいます。それは一種のテロリズムではないでしょうか。
2002.10.21
コメント(4)
では昨日のチェックの結果を発表しましょう。 ただし、あまり真剣に受け取らないでね。「Yesの数が」9個以上 あなたは民主主義者ではありません。もし、自分が民主主義者だと思っているのなら、人前で民主主義を語るのはやめましょう。6~8個 あなたは日本以外では生きていけない人です。本当の民主主義国家にいったら、すぐ逃げ帰ってくるでしょう。3~5個 あなたは民主主義者とはいえません。というより、政治に興味がなく、誰かが適当にやってくれればいいと思っていますね。1~2個 かなり民主主義者ですが、本当に民主主義の世の中になったら、息苦しいと感じるでしょう。0個 あなたは、本物の民主主義者です。かわいそうに・・・・解説 この設問は、多くの性格診断や、相性テストのように、勝手読みして適当に考えてくださればいいと思います。クイズではありませんので、ご自分の感性でYesかNoでこたえてもらえればよいのです。もちろん、この程度のいい加減な設問で、本当の民主主義度がはかれるものではありません。tenbosu33さんは深読みしすぎです。でもバランスのとれたいい答えでした。個人的には好きです。Amamiさんは、真の民主主義者です。日本は生きづらくないですか? そのほか、書き込みしなかった方も、下の解説を読んで、どんどん反論を書いてください。下の解説は、あくまで私の民主主義の理解です。 そして、その下でぶつぶつ言ってるのは、日本人の深層心理です。設問1「時代劇が好きである。特に遠山の金さんのような人がいればいいなと思っている」 これは、権力の分散をどうのようにやるかという問題です。その代表が「遠山の金さん」。 彼のように、警察による捜査、公安の内偵、検察官による起訴、裁判官による判決をひとりでやってしまい、しかも時には弁護士までするというような人が存在したら、民主主義は終わりです。民主主義は、権力の集中を、いかに抑えるかというものでしょう。 遠山の金さんのような、「無謬の権力者」を想定出来るメンタリティーは、身分制度への郷愁です。 「ひとりごと」・・・・でも、おれたち日本人は、それで結構うまくやってたんじゃねえか。設問2「自己もしくは地域の利益のために役立つ人に投票する」 これは設問が漠然としていて、どうとでもとれますね。要は、公約の掲げ方を問題にしたかったのですが、省略しすぎました。 「ひとりごと」・・・・人情ってえのを判ってねえなあ、民主主義ってえのはよお、「浮世の義理」ってえのがあるんだよ。設問3「軍隊はいらないと思っている」 国防を、自らの手で行うのは民主主義の基本です。軍隊のない民主主義国家はありません。特に現代のように、戦争が、全面戦争から、テロに移行しつつある状態では、軍事力の保持は不可欠です。 「ひとりごと」・・・・なまじ主権者なんておだてられて、いい気になってるから、戦争に出かけることになるんだよ! 自業自得だあな!設問4「国会は今のままでいい」 いいわけがありませんよね、国会は議論する場所です。党議拘束によって、議論を無視して投票するなら、犬でもできます。民主主義の神髄は議論にあります。 「ひとりごと」・・・・どうせお芝居なんだから、もっとうまい芸を見せろよな(既出)設問5「政治を必要悪と感じている」 民主主義は、行政をいかに効率よく、均等に行うか考え、人間関係から外交まで、およそ人が行うすべての行為を政治によって解決しようとする社会形態です。そして暴走する権力をいかに制御するか考える思想です。「必要悪」とは「できれば、ない方がいい」と考えることで、そういう考えでは民主主義に参加することはできません。 「ひとりごと」・・・・んなしちめんどくせえ事を、年がら年中考えたくねんだよ。おりゃ、その場その場でお祭りがしてえだけなんだからよ。あらよっ!設問6「「新しい歴史教科書」に、反対運動がおきるのは当然だと思う」 言わずとしれた言論の自由の問題です。内容とは無関係に、教科書の刊行を問題にすること自体、ナンセンスです。さらに採択に口出しするに至っては、言語道断です。好き嫌いで政治的圧力をかけられたのではたまったものではありません。 「ひとりごと」・・・・たりめえだ、ばーろい、んでもって、○○書籍だの××出版だの、あんなのは全部発禁にしちまって、その支持者は全部つかまえて、○半島に・・・自粛・・・ってんだ設問7「日本人は日本国民だと思っている」 国民とは、ある国と、国民になる契約を交わした人間を言います。人種・民族の範疇としての「日本人」と「日本国民」は無関係です。でもこの設問は、それぞれの言葉をはっきり定義してないので、引っかけめいていますね。 「ひとりごと」・・・・んなややこしい事いってんじゃねえよ、わけわかんねえア○○カみてえな人造国家の方が異常なんでえ。設問8「日本は、韓国、北朝鮮に謝罪すべきだと思っている」 これは、精神的な、贖罪意識の問題です。国際関係において、謝罪などという関係はありません。「国家が謝罪する」という行為が存在すると誤解するのは、個人の罪悪感を国家にまで広げようとする妄想で、本来謝罪したい人は勝手に行って謝罪してくればよろしいのです。まして韓半島は日本領でしたから、元自国民に謝罪するバカはいません。西ドイツが東ドイツに、北朝鮮が韓国に、謝罪しますか? 日韓とも単一民族幻想に凝り固まっているための、無意味な議論です。本当の意識としては、「日本民族は朝鮮民族に謝罪すべき」となるのですが、それでは誰が誰に、いつ、どのように謝罪するのか、わからなくなるので、国家間の問題にすり替えているのです。 「ひとりごと」・・・・あやまりましょう、あやまってすむもんなら、いっくらでもあやまりましょう。で、あちらさんはそれですまそうってんかい? え? すむわきゃあねえよなあ・・・設問9「基本的人権は、人間がみんな持っている権利である」 基本的人権は、全知全能の神が、人間に与えたものです。ですから神は、人間から取り上げることもできるわけです。人間なら誰でも持っているわけではありません。 「ひとりごと」・・・・おりゃねえ、「人権」てえのが、でえきれえなんだ。そういうとってつけたような理屈を言うやつに限って、人を大事にしてねえ。 神仏を大事にする。親を大事にする。先輩は立てる。妻はいたわる。幼子は慈しむ。それが「ひ・と・の・み・ち」ってんじゃねえのかい?設問10「落ちこぼれは、無くさなければいけないと思う」 「平等」に対する誤解です。落ちこぼれを無くすことが、何かいいことのように感じるるというのは、大変な過ちで、民主主義の基本精神「神の下の平等」に反します。ひとつの基準(教科の理解度)を、全員に強要することこそ、人権の軽視です。 「ひとりごと」・・・・人間みな、おちこぼれだあな。するってえと「落ちこぼれはいなくなる」てえ寸法だ。どうでえ。
2002.10.20
コメント(2)
私は常々、民主主義は嫌いだと公言していますが、実は、そういう人は日本には、非常に多いのではないかと思っています。 そこで、次の項目のうち、いくつ該当するか考えてください。あなたの民主主義度をチェックしましょう。 1、時代劇が好きである。特に遠山の金さんのような人がいればいいなと思っている。 2、自己もしくは地域の利益のために役立つ人に投票する。 3、軍隊はいらないと思っている。 4、国会は今のままでいい。 5、政治を必要悪と感じている。 6、「新しい歴史教科書」に、反対運動がおきるのは当然だと思う。 7、日本人は日本国民だと思っている。 8、日本は、韓国、北朝鮮に謝罪すべきだと思っている。 9、基本的人権は、人間がみんな持っている権利である。 10、落ちこぼれは、無くさなければいけないと思う。 いかがでしょうか。 いくつ該当していましたか?
2002.10.19
コメント(6)
前回「少年法に関する議論」の中で、述べたことの続きです。 私の考える「刑事罰としての教育」は手っ取り早くいえば「マインドコントロール」と呼ばれるものです。 と、こう書くと、それだけでものすごい反感を買うと思うのですが、あえて書きます。 そもそも学校教育は、訳が分からない子供に「愛国心」と「公共心」と「知性」をたたき込む場所です。それ以外の目的は、公教育には必要ありませんし、それがない教育は、国家が血税を投入して行うべきではありません。 「よき国際人とはよき愛国者であり、よき愛国者とはよき国際人である」 ここにすべての教育目標があると私は考えています。 自らのバックボーンを信頼していないものが、宗教も言語も違う人々から信頼を得られるわけがありません。 私は「未熟」の多くは、この教育が家庭および学校で不徹底だったのではないかと考えているわけです。そこで刑事罰としての「教育」は、その「愛国心」「公共心」「知性」を徹底的にたたき込むことを主眼としています。 いうなれば、国家的教育事業の実験を、刑務所でやるということです。 人権や自由を相当抑制した中で行われたことが、結果として良ければ、それを教育現場にフィードバックしてゆくのです。 元々教育は、鞭をもって行うべきものです。 これは常識です。それができなくなったことが、現代教育の荒廃をうんでいるのです。 そして誰も「鞭をもって教育する」事を忘れてしまいました。 しかし、現在の学校教育現場に、いきなり「鞭」を持ち込んだところでそれが有効に機能することはないでしょう。皆、「鞭」の使い方すら忘れているのですから。 私はその手始めとして、「鞭の使用」が許されてしかるべき場所(刑務所)でまず始めるべきといいたいのです。 教師も、一度はその現場に立ち会うべきだと考えます。 少年法の問題は断じて「精神の病」ではありません。少年の凶悪犯罪のほとんどは、自我を保持している状態でなされています。その上で罪の意識がないのです。 「自分がなにをやったかは解っている」 しかしそれが 「なぜ悪いのか解らない」 これが典型的「未熟」の状態です。 「罪の意識」を形成するのに必要な「上位自我」がない状態を、彼らは克服しなければなりません。 現在よく言われている、「コミニュケーション」(ただの親子の会話や友達とのおしゃべり)によってそれができることはないのです。 親子や、社会との絶望的な距離感を、実感として感じさせることしか、それを克服する方法はないのです。 コミュニケーションは、その絶望的距離感を感じるものだけにしか、有効に利用する方法は見つからないのです。
2002.10.18
コメント(0)
少しヒントが甘すぎたようですね。ヒトラー、ムッソリーニ、アル・カポネで正解です。 まあ、特にクイズが目的ではないのでいいのですが、次はもう一ひねりしましょう。 さて、3日もかけてやったのは、別に大した目的があるわけではありません。「甘い言葉に気を付けよう」と言うわけでもありません。おおむねAmamiさんが掲示板にかかれたとおりです。善悪の彼岸というものを、少し考えていたのです。 歴史上の偉人というものは、ほとんどが、悪人でした。当然多くの人を殺し、成功したが故に英雄となり、失敗したものは、悪の権化とされました。たぶん彼らには、さしたる違いはないのです。主観的には、彼らが善意であることは疑う余地はありません。 権力者が善意を持ち出すとき、あるいは福祉を持ち出すとき、政治にやさしさを求めるとき、それは疑ってかかるのが、正しい大衆のあり方だと私は考えています。そういう政策を第1に掲げる権力は、おそらく大衆を、愚民と見ています。民衆を信じ、真の民主主義を行うことを決意したとき、権力者は、政治の無力を悟ります。 「英国の若者よ、英国政府は君たちに何もしてあげることはできない」~マーガレット・サッチャー 「国家が国民のために何をするのかではなく、国民が国家のために何ができるのかを問い給え」~ジョン・F・ケネディ この二つの言葉は、民主主義の基本中の基本、主権在民をわかりやすく説明しています。政治家がどうの、政府がどうのという前に、自らできることを誠実にやる。これこそが正しい国民のあり方だといっているのです。 福祉や公共事業を、公共のサービスと思うところから、利権が発生し、汚職が育まれ、血税が浪費されるのです。必要ならば自分が要求する。必要としないものはNOと言う。賛同者が多ければ実現し、少なければ実現しない。そしてそのことを恨まない。そんなシンプルなところから、政治を考えることが肝心なのではないでしょうか。 本来、民主主義には、リーダーも、指導者も必要ありません。それはなぜ出現し、大衆が熱狂するのか。民主主義的思考は、その大衆の心理を欺く装置なのではないか。近代民主主義国家の、悪魔のような優しさの欺瞞に、気がつかないのか・・・・・・悪は悪ではなく、善は善ではない。権力によって達成された福祉には、硝煙の匂いがする・・・・。 田中知事が、自らをマキャベリストといい、どうせならムッソリーニと言って欲しい、と述べる心境を、そろそろ分析すべきでしょう。
2002.10.17
コメント(12)
これだけでは難しいですよね。 では、少しだけヒントです。 1、2 1889年生まれ 3、4 1883年生まれ 5 1899年生まれ 1、2と3、4は、お友達です。 5はアメリカの禁酒法時代の人です。 言っている内容と、人物の先入観を取り除くことです。
2002.10.16
コメント(7)
今日はクイズです。 次の言葉は、誰が言ったものでしょう?1 社会主義は公共の福祉を扱う科学だ。2 健全な精神は健全な精神に宿ると信じている。精神が健全であるためには、政治的統一体としての国家が健全でなければならない。3 今日牢屋に入っていないものの、実質的に私は囚人同然です。4 共感をもっと、優しさをもっと。優しさをずっとずっとたくさんです。5 今日びの人は、敬いの心を忘れちまってます。昔は、美徳とか、名誉とか、真実、法、そういったものを大切にしたもんです。 1と2、3と4は同一人物です。さてこの3人の名前を当ててください。 答えてくれる人いるかな。締め切りはありません。
2002.10.15
コメント(4)
今日は、高校時代の友人が、夫婦で遊びに来ました。 高校からの長いつきあい、ともに夢を追い、遊び回った友人です。もうひとりの友人の話になり、最近雑誌に載っていたそいつの写真の話で大盛り上がり・・・・ 3人の中で唯一夢を追い続け、小説を書き、現在は文芸評論家として何とか芽を出してきた彼は、私たちの誇りでもあり、夢の続きでもあります。 夢を追うこと、生活すること、見切ること、こだわること、それそれの人生ですから、それそれが勝手にやればよいと私たちは思っています。応援もしませんし、邪魔もしません。彼らがそうする理由は、言わなくてもわかります。 彼から、かつて高校時代に我々が創刊した雑誌が、いまだに続いているとの情報がありました。瓶拾いや、段ボール集めをして細々と手書きで出していた雑誌です。次の年には、その雑誌をネタに、生徒会をダマクラかして、予算を倍額ふんだくり、全部自分たちの読みたい本につぎ込んでしまったこともありました。 そんなものは、自分たちで終わりだと思っていたら、まだあったというのです・・・・・不思議な感動でした。 なんか今日は、ホントの日記みたいでしたね。
2002.10.14
コメント(2)
最近つまらない「笑う犬・・」 やっぱり、三島由紀夫や、新宿ゴールデン街や、テリー兄弟を知らないとわからないギャグは、メジャーになれないのでしょうか。 でも、笑う犬を支えていたのは、そういうファンなんですがねえ。 個人的には「てるとたいぞう」「生きる」「小須田部長」などが好きだったのですが・・・・・ 私、小須田部長の携帯ストラップ、持ってます・・・・
2002.10.13
コメント(0)
少し読みにくかった「サザン~追憶」をHTML化しました。 新しいものもアップしてます。 こうして過去を振り返っていると、懐かしいやら、まぶしいやら、悔しいやら、惜しいやら・・・・・・若かったんでしょうね。 サイトを開いて、12日目になりました。沢山のご来場ありがとうございます。これからも、何でもありのへんてこなサイトを作っていきたいと思いますので、ご協力下さい。
2002.10.12
コメント(6)
昨日も長すぎて日記に返答を書きましたが、今日もそうなってしまいました。皆様すみません。ドラム缶さんへ>「規定すらあいまい」の8文字は、貴方が「植民地支配を認めない」と書いたことが記憶にないようでしたので記したまで。8文字の前後の記述をもって、否定したと書いたのです。 朝鮮併合に対する考えは、前回記したとおりです。 私の失念ということもありますので、前後の文脈を含めて、どのように記述していたがご指摘願えませんか。もし「植民地支配を認めない」とはっきり書いてあれば、私の本来の認識とは違いますので、訂正させていただきます。>なぜ、別問題なのですか。ヒトラー評価では不可欠の問題ではないですか。なぜ別問題にしたか、この辺からよく考えて下さい。 政策を行う政治家としての評価と、犯罪者としての人格の評価は別だと思います。カエサル、野口英世、などは、借金踏み倒しの常習犯でしたが、そのことに言及して事績をおとしめることは通常していません。 スターリン、毛沢東は1千万人単位の自国民虐殺を行いましたが、政治家としての偉大さは評価に値します。ヒトラーが大悪人のように喧伝されているのは、それをユダヤ民族に対して行ったからで、彼らの政治的プロパガンダにまんまと利用されているのです。>「田中康夫はヒトラーだ」は、批判ではありません。中傷です。私から見ても、田中康夫知事の政策、発言に批判はありますがネ。 あなたがそう感じるのは自由です。何も言うことはありません。 しかしながら、あなたが何を言いたいのか、よくわからないときがあります。田中知事に批判があるのなら書いてみたらいかがでしょう。私を批判するなら、前回の投稿のようなものでは、到底批判の意図すら伝わりません。意識の表層をなぞっただけの文章です。 前回の返答にも書きましたが、ここは石坂さんの掲示板と違って、長いと文句を言う人はいませんから、あなたの全人格をかけて書いてみてはいかがでしょう。もちろん短文の投稿も結構ですが、はっきりした主張や批判をしたいのなら、相応の長さが必要です。そうでなければ、世の中の出版、言論はすべてバカのタワゴトとなるでしょう。「なんか気にくわないんだろうなあ」と感じる程度の文章では、私は返答をためらってしまいます。 私は、参加者が増え、論争が起きるのなら、長い文章も可能な、別の掲示板を用意しようかとも思っています。どうか主張を書いてください。お願いいたします。 もちろん長文は、それだけツッコミどころも多くなりますので、批判に応えるのは大変です。論理の破綻も起きますし、用語の間違いや、充分なことばを尽くせないこともあるでしょう。しかしその批判にさらされなければ、自分の主張は磨かれません。勉強する意志も枯れてくるでしょう。 最後に、私の言論のスタンスを述べておきます。私の主な主張は、原理原則を追求することにあります。政治的「理」を探求することです。 私は、以前も石坂さんの掲示板で書きましたが、何といわれても、私は私の考えと違うところで主張を続けます。 政治に対して、「気にくわない」「気持ち悪い」「金儲けはよくない」「人殺しは悪人」「戦争は悪いこと」といったレベルで語ることは、原因を分析する努力を放棄した状態だと私は思います。 人間はもう少し複雑です。政治における「理」は、その複雑な人間の各自の概念を超克するためにあると思います。そのためには、日常生活における善悪を、極力等価として理解し、犯罪と善行を同レベルで論じなければならないのです。排除しても、嫌悪しても、糾弾しても犯罪は消えません。国家・民族がある限り戦争は起きます。犯罪が個人的レベルであれ、国家的レベルであれ、それは「おきるもの」として対処しなければならないのです。人類の英知を尽くしても、消滅した犯罪はありません。ならばあるもとして、その発生原因を探り、少なくするよう対処するのが賢明なのではないでしょうか。 しかし、単に取り締まる、より大きな力で押さえ込むだけでは、新たな犯罪を生みます。犯罪の原因は社会構造にあります。例えば「窃盗」を悪いこととして取り締まることは簡単です。しかし突き詰めていえば、「所有」という概念が問題であることがわかります。「所有」のないところに「窃盗」はありません。それを語ることが、大切なのではないでしょうか。 それが政治の「理」を語る上での私の基本的スタンスです。
2002.10.11
コメント(0)
これは、tenbosu33さんとの議論への回答です。長くなりましたのでこちらに書きました。>言わんとするところはわからないではありませんが、現状では無理でしょう。議員立法が満足にできない議員が大半を占めるようでは。http://www.kiyomi.gr.jp/kokaiki/special/19980320.html 辻本は、私は個人的に嫌いですが、この論説の内容はいいと思います。また彼女だけだけでなく、そのほかの若手国会議員の中にも、そういうことを考えている人たちはいます。 国会をあきらめたら、国は成り立ちません。 また、議員のレベルは国民のレベルです。現在の議員のレベルを嘆くのは、国民のレベルを嘆くのと同じで、その国民に直接投票をさせても、意味があるとは思えません。 その程度のレベルの議員しか選べない国民が、直接政策に関与するのはどうかと思います。効率を考えたら、1億2千万の国民のレベルアップを図るよりも、国会議員を減らして、充分な金と人材を与え、レベルアップを図ることの方が効率的だと思います。 もちろん、投票を考えることによって、国民の政治に関する関心が高まり、レベルアップしてゆくことは考えられますが、残念ながら現在の状態を、国民はそう酷いものと考えていません。何となく、このままではいけないと考えてはいますが、とりあえず食える状態では、真剣になりません。その結果が、青島都知事や横山知事、大橋巨泉や田嶋陽子、辻本清美、(今後の実績によっては田中知事も)などの当選につながるのです。「何か人と違う」という感覚だけで投票する大衆を、どう信じろと言うのでしょう。この状態で直接投票などの仕組みを作ったところで、すぐ飽きてしまうでしょう。>主権者たる国民の位置づけはどのようにお考えなのでしょうか? romromさんにとって国民は「大衆」「衆愚」なのですか?romromさんが「大衆」を信用していないように、私は「有力議員」の信念、常識を信用していません。 議会制民主主義の原則からいえば、主権者たる国民の代表が、国会議員です。したがって、彼らが自由に考え、決定して良いのです。その決定権を公約による制限付きでゆだねるのが選挙です。 私は確かに大衆を信じていません。というより、現在の議会制民主主義を信じていません。国民主権など幻想だと思っています。 「民主主義は最悪の政治形態である」とチャーチルは言いました。至言です。常に現在の状態を最悪と認識するメンタリティーがなければ、民主主義は機能しなくなります。いつか民主主義は捨て去られるという認識がなければ、民主主義ではない。その矛盾の中にこそ民主主義の真骨頂があるのです。 畢竟、史上存在した、政治形態は等価です。民主主義は、軍事、経済に強いので生き残っているだけで、特に優れているわけではありません。アメリカのひとり勝ち状態になった今は、議会制民主主義を超える政治形態を考える時期にきているのではないでしょうか。>蛇足ですが、日本国憲法改正の手続きは、憲法第96条第1項「この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」 はい、わかっています。憲法を規定する法律はありません。憲法を作るための法律も廃止するための法律もありません。ですから、理論上は、新憲法を作り、前憲法を廃止すれば、そのような手続は不要です(改正より緩い方法で改廃ができていいのか、という議論もありますが)。改正といっても、特に現在の日本国憲法を基にするというわけではありません。>長良川河口堰、吉野川可動堰、諫早湾干拓事業、神戸市営空港、静岡空港、熊本川辺川ダム。。。これらは全て必要な公共事業だとお考えなのですか? 正直なところ、私にはわかりません。ただ、もっと安くできるだろうとは思います。>専門家とは行政側にしか存在しないと考えておられるのですか?市民側においても大学教授他専門家は存在します。近年の住民運動において、問題となっている公共事業においては、その設立根拠が乏しかったり、根拠とされている数値等に(意図的な?)誤りが指摘される事が少なくありません。利権がらみで、「建設ありき」で対案の考慮などなしに、官僚らの手によって作文がなされていると推測される事例が少なくありませんが、それらは行政・議会の意見に従って推進されるべきだとお考えなのですか? そういうつもりは、もちろんありません。公開されているものは、チェックし、公開されないものは、公開するよう要求すべきです。「権力は腐敗」します。何らかの牽制機能は常に必要です。しかし、現在は、それを行う側が腐敗しているのが、問題なのです。労組を束ねる社民党、民主党左派の支持勢力および共産党が、自民党以上の利権体質だというのはご存じでしょうか。末端から金を吸い上げる組織の構造は、「怪物を追うものは、自らが怪物にならぬよう注意せよ」という警句のとおりです。自民党内の、小泉対抵抗勢力のせめぎ合いの方が、牽制機能としては健全に見えるのが情けないと思います。 私が思うに、このような牽制機能は、現在の左翼勢力(共産、社民、民主左派等)に任せては、どうにもならないと考えます。彼らはその闘争史から見ても、党派内の権力闘争にあけくれ、機能しなくなるのが目に見えています。草の根レベルでの運動は、組織力が弱いために、左翼組織にいつの間にか乗っ取られ、動員マシンとなるのが常です。(彼らの評価基準は、主張の内容ではなく、動員した人数です) やはりこれは、営利団体とするしかないでしょう 。弁護士や専門家を多数揃え、自治体や企業や市民団体から報酬を受け取って、行政や議会のチェックを行い時には告発する会社です。そのためにはまず、国民や、企業、自治体のお上意識を変革することが必要です。「陳情」行政が、すべての官僚腐敗の原因なのです。陳情や、接待に使う金があったら、そういった会社に出資する方が効果的ですし、会社も充分商売になるはずです。 もちろん金額の多少によって、そのような会社は動いたり、手を抜いたりということはあるでしょう。しかし、イデオロギーをまき散らす現在の左翼ボランティア組織(市民オンブズマン等)よりは、はじめから営利目的であることがわかっている会社組織の方が、健全に機能すると思います。実績が上がらなければ、会社はつぶれますから。
2002.10.10
コメント(9)
~少年法に関する議論 少年と成人を区分する基準線をどこに引くかは、政治的な思惑に左右され、人間自体に内在するものではありません。 人それぞれ早熟晩生があり、環境によっても左右されます。ただ人それぞれをいちいち判別して成人を決定するより適当なところで区切った方が単に合理的なだけだからそうしているのでしょう。 しかし少年法という未熟な人間を保護する目的で法を作るならば話は別です。私は少年法という法律自体、一個の人間に特権を与えてしまう憲法違反の存在だと考えていますが、百歩譲って存在を前提にして考えてみます。 未成年者といえど犯罪者は犯罪者、当然全国民が受ける拘束と処罰は与えて当然です。しかしながら、明らかに未熟な小学生が、何らかの偶発的な悪意を以て人に危害を加えた場合、大人がとるべき態度は、やはり懲役刑よりも教育でしょう。 結論として少年法上の未成年者とは、その他の法律とは一線を画し、その個人の人格の成長度合いを以て判断すべきと考えます。 少年といえどすべての国民と同じ手続きを以て裁かれ、特に矯正の見込まれるものだけを少年法を以て保護すべきと考えます。 次に少年法の存在を前提としない場合を考えてみます。前にも述べましたが、私は、少年法は違憲だと考えています。私は改憲論者ですが、どのような憲法ができようと、それが民主主義に立脚するものである限り、少年法は違憲と考えます。従って、少年法は廃止すべきと思っています。 未熟な人間が犯す犯罪から、国民を保護する必要はあると思います。 その方法は刑法を改正し、刑罰の種類を追加することです。 死刑、懲役、禁固、科料に加え、「教育」(名称はもっと適切のものがあると思いますが)を新設し、何らかの再教育をすべきです。 少年に限らず、社会性に欠陥のある主婦の万引きや、心神耗弱の者などもこういう扱いをすべきと思います。それは決して禁固より軽いものであってはならず、かなり厳しい精神分析的に基づいた教育をすべきで、仮釈放に限らず、刑期満了後にも保護観察を課し、その他の刑より厳重に対処すべきです。 「罪の意識のない犯罪は、そのほかの犯罪より悪質であり、再犯の可能性も高い」からです。 具体的に対象となりうるのは、凶悪犯罪が不可能と思われる12歳未満でしょうか。(もちろん例外が出る可能性は充分あります)それ以外は、通常の刑法を適用すべきでしょう 念のため付け加えますが、「教育」は犯罪者の人権および人格を認めない刑です。 従って犯人には、犯罪の罪の重さに戦くほどの徹底した教育を行い、(仮)釈放後も厳重な監視下に置き、また犯罪の性格によっては住民に注意を呼びかける事もあります。 また「教育」対象の人間については、たとえば、以前起きた「金属バット殺人、逃走事件」のような逃走者に対しては、当然写真入りの報道はされるべきです。 少年であっても軽犯罪であっても、常習性のある犯罪、たとえば性犯罪、万引き、心神喪失状態にある者は、写真入りで報道すべきですし、住民から照会があれば、警察は居住者の犯罪歴を公表すべきとも思います。 ただ、問題はやはりその報道の仕方でしょうね。 事件の性質によって報道内容が変質するようであっては、やはり日本人のインテリジェンスを疑われても仕方がないですよね。
2002.10.09
コメント(2)
マンガは、日本の文化、ほとんどはくだらない子供だましだけれど、中には珠玉の名作も・・・ 作品に関すること、漫画家に関すること、表現に関すること、思いついたことを書いていきます。
2002.10.08
コメント(10)
日本人は、信仰心がない、宗教に鈍感だ。とよく言われます。私は、そのことに少し違和感をもっています。 たとえば一神教の方々ほどには、という意味ならばわかります。けれど、彼らは民族全体が脅迫神経症ですから、信仰心とはいえないと思うんですよね。 日本人は、何でも拝んでしまいます。それが悪霊や怨霊のたぐいでも、とりあえずまつって拝む、というくらい信仰心が厚い民族ではないかと思います。とりあえず不思議なものは拝んでしまう。その結果、神様が800万もできてしまったのでしょう。 だから、ユダヤ・キリスト・イスラムなどの一神教が異常なわけで、神様と契約するなどと言う不遜なことを教義の中心に据える連中を、日本人としては、「信仰心が厚い」とは感じないのではないでしょうか。 では、信仰とはなんぞやと言われれば、暮らしである。という禅問答のような答えしかできないのですが、とにかく私は、人間は信仰によって人間になったと思っています。本能で現実を把握しきれなくなった人間が編み出した苦肉の策、それが信仰なのではないでしょうか。本能がしっかり機能しているその他の生命体には、信仰の必要がありません。 原始の人間が、木から降り、草原で夕日を見つめながら、口を半開きし、 「俺はなぜここにいるのか」 と問うたときに、人間と信仰のつきあいが始まったのだと思います。
2002.10.07
コメント(2)
最近知ったのですが、日本国憲法は世界最古の憲法なんだそうです。 つまり条文の最後の改正から起算して、という意味で。 これは日本人の法に対する意識の低さと、所有感の乖離にあると思うのですが、これを何とか国民の手に戻す工夫として次のようなことを考えました。1 まず何でもいいから改正する。 とにかく反対できないようなところから改正するのです。 不完全な条文、核廃絶、知る権利の明文化、環境保護条項・・・ 右も左も反対できないようなところからやってみましょう2 官僚を縛る条文を作る 現在は官僚が野放しの状態で、あらゆるところでひずみが起きています。それというもの官僚が憲法に規定されていないからです。官僚の出す「通達」「指導」なるものの法的根拠を明確にし、政治主導に変えるべきです。 皆様いかがでしょうか。 むろん改正ありきの論調になってしまいましたが、私は現在の憲法が、神主の祝詞程度にしか認識されていない現状を憂いています。まず習慣法があり、基本法(憲法)があり、諸法令があり、行政がある。これが法治国家であると思います。何とか憲法を国民の手に!
2002.10.06
コメント(0)
サザンが好き、と言う言葉はあまり使いたくありません。 好きとか嫌いとか言う前に、日本のポップスでは、このバンドをきけば、シーンがわかる。と言う怪物バンドです。 恋の追憶は、美しくも恥ずかしい思い出です。人に話すことはどうかと思いますが、これでも物書きの、端くれの先に、皮一枚でぶら下がっている身。 何か書かずにはいられません。 まあつまらない思い出話ですが、つきあってやってください。
2002.10.05
コメント(2)
今日は小説の締め切りで、特に用意しなかったので、かつて、ある「労働組合の機関誌」に書いた拙文を転載します。(私は現在、労働組合の執行委員長です) 日本には厳密な意味での「労働者」は存在しません。 「資本」の出損者がすなわち株主であり、「労働」の提供者が社員であるとすれば、社員株主はどのような立場になるのか、少し考えればわかることです。不満のある社員は、賛同者を集め、役員になるなどして経営に直接参画することが理論的には可能なのです。 現在はほとんどの企業で、労働者たる社員は、将来経営に参画することを目指し、現実その中から経営者が選ばれることが多いでしょう。 これが日本の労組の可能性と限界です。 次に「運動」そのものの可能性と限界について愚考を述べます。 欧米においては、労働運動は自由主義経済の台頭により壊滅状態にあります。企業の業績悪化の最大要因が労組であり、それが労働者自身の首を絞める結果になることに気づいたからです。 労働者の権利は、労働者ゆえに持つ権利があってはなりません。それは権利ではなく特権です。民主主義はその様な特権は認めません。 すべての労働運動の可能性は、国家や社会への忠誠と責任の認識の先にしか見いだしえないのです。 現代民族国家に暮らす運動者として、そのことは自覚しておかねばならないことです。
2002.10.04
コメント(2)
1、そもそも当時の「クニ」を、現在のネーションステートと混同するところに誤解が生じるのであり、朝鮮対日本の不毛の論争を繰り返す原因にもなる。韓半島、日本列島には、様々な人種の部族勢力が混在しており、百済は百済人の単純構成ではないし、日本列島も同じく日本民族の単純構成ではない。おそらく勢力争いに敗れたり、新天地を求めた半島の部族が日本列島にも多数いたであろうし、同じく半島にも、列島から渡った部族が多数混住していたであろう。各クニはそれらの部族の集合体であり、王族は、その中の最大部族にすぎない。従って、各部族は、部族の利益に従って、連合先を選別し、従属していたのであり、国境などないに等しい。現在表示されている勢力図は、その一時の連合部族の勢力範囲であり、それは常に変動する軟体動物のようなものであったと考えられる。2、従って鉄器なども日本列島に生産拠点がないからと言って使用していないことにはならない。たとえば半島に その技術を持ちながら、食料生産に窮する部族がいれば(鉄の精錬には大量の木材が必要であり、当然その部族は山間地に住むことになる)大量の食料援助でその部族を取り込み、鉄を手に入れることを考えるであろう。権謀術数は何も近現代の特徴ではない。古代といえど人間の能力にそれほど差があるはずもない。その程度のことは当然考えるであろう。そのようにして各部族の連合体たるクニは勢力争いを行っていたのである。従って「当時半島に日本の勢力が侵攻していた」という説明は、何ら重要性のない議論で、そういうこともあったし、逆もあったのではないか。という程度の問題である。3、当時の風俗習慣を見ると、百済と新羅・高句麗は、別部族で、百済はほぼ日本列島にいた部族との共通点が多い。日常の会話はほぼ不自由のないくらいであったと推測されている。現在の日本語がほぼ固まったのは、日本書紀、古事記の、テキスト成立後であり、それが列島に浸透したのは律令制がしかれたあとのことである。それまでは同じ列島内でも、遠隔地同士の一般人が直接会話を成立させるのは困難であった。おそらく九州の部族は、関東圏の部族よりも百済圏の部族の方が、コミュニケーションが容易であったはずである。4、問題は支那大陸との関係で、当時の柵封体制とどの程度の関連を持っていたかと言うことが議論となる。 各クニは、巨大国家「秦」「魏」「隋」「唐」などとの関係を、いかに構築するかが命運を握っていたであろうか。答えは「否」である。支那大陸の国家は、基本的に体制下のクニがどうなろうと関心はなく、余程の危機感がなければ、体制下のクニを救済すると言うことはなかった。かの国が軍を動かすときには、基本的に自国の領土を拡張するか、侵略を受けたときに限られ、「白村江」への出兵などは例外中の例外である。それだけ当時の新興国「日本」の武力が驚異であった証である。(でなければ新羅は見殺しであろう) であるから、体制下にあるか、ないかが、そのクニの存在を脅かすことになるのは隣国に限られ、そこから離れればあとは使節・留学によるメリットがどの程度あるかにより判断されるわけで、日本列島にあるクニは、ほとんど気の向いたときにしかしない程度であった。
2002.10.03
コメント(4)
税制は国の根幹である。国家権力の源泉であり、税のない国家はない。というより国家とは徴税のことだと言ってもよい。 かつて帝政以前のローマは、市民制をとっていた。市民とは有事の際に戦士としてローマの軍事に携わる貴族をいう。いわゆる血税である。 ローマの市民権は命と引き替えであった。ローマ市民は命と引き替えに自由を得ていたのである。(塩野七生「ローマ人の物語」) 近代の帝政、王政になると、常備軍が発達し、血税という概念は消失したが、変わって保護税が課せられるようになる。安全保障とその維持費の交換である。 帝政や王政を、絶対者の搾取という見方をしがちであるが、それは一部の暴政であって、安定した王権を維持するためには、徴税に見合った安全を提供する事が不可欠であった。(なお中世ヨーロッパの領主制は、各諸侯の相互安全協定であり、国家ではない。) 民主主義においては、税の必要性は日増しに希薄になる。民主主義国家には、社会主義的統制経済をとる国家と、資本主義的自由経済をとる国家に大別されるが、税制に限って言えば、前者はすべてを税として取り上げ、再配分するシステムであり、後者は必要な分だけを徴収するシステムである。 社会主義的統制経済が、現実的に不可能であることは昨今の共産圏の崩壊で明らかになりつつあるが、問題は資本主義的自由経済である。 「必要な分だけ金を取る」のは非常に難しい。ことに日本のように、民衆が政権を作ったことのない非民主主義国家の場合は、往々にして政府の言いなりになりやすい。日本人はこれまであまり非道い政府を持ったことがなく、3千年間の歴史のほとんどは善政であった。 戦争のほとんどは政権闘争であり、階級を越えた革命戦争など皆無であったといってよい。 これ善政の証明である。 そんな中で税の問題を考えるのは非常に難しい。 「ちょっと余計かもしれないが、まあうまくやってくれるだろう」とほとんどの日本人が楽観的に思っているのである。現代の税制の問題点 1 所得税 所得税は、経済行為の保証金である。 秩序ある経済行為をなすために、国家が法律を制定して、秩序を維持していくための必要経費である。 そこには当然軍事力を維持するための経費も含まれている。 日本の国土内での経済行為が、他国の侵略によって危機にさらされたときの自衛行動は最低限行われなければならない。 では現在の所得税にはどのような問題があるのであろうか。 まず第1点は、税負担の不公平さと、複雑さである。 所得税といっても現実には多岐にわたる。実際には原則は単純なのであるが、課税する側ができるだけ解りにくくし、さらには収益を悪徳と見なす儒教的倫理観から高額所得者から多額に取り上げる仕組みになっている。しかも選挙対策で、優遇措置を乱発しすぎて、もはや所得税は一般には理解不能の怪物となっている。 それはまた、熟知した人間にとっては脱税天国でもある。 櫻井よし子氏が指摘しているとおり、官僚のような退職金で財をなす公務員はほとんど無税といってよいほど優遇されている。 現在必死で働いているときには課税し、永年勤続の功労金には課税しないシステムなのである。 第2点は譲渡所得税の問題である。 そもそも譲渡所得、給与所得、事業所得など、所得を区別すること自体がナンセンスである。すべては本人が何らかの行為をすることによって得られるものであり、所得は所得、本質的に何らの差異もない。 しかしながら、経済行為からの利益を、悪徳とする徴税者は、たとえば不動産の譲渡所得を「不労所得」と考えているのである。このことは後に述べる相続税とも絡んでくるのであるが、徴税者の目には、土地の売買益は相続税逃れと写るのである。 第3点は源泉徴収の問題である。 源泉徴収制度は、ナチスドイツが軍事費の捻出のために案出したシステムで、さすがドイツという感がする。 国家総動員態勢が生み出した源泉徴収システムは、個人の税に対する感覚麻痺と、企業の過剰な消耗を発生させる。そのためか、日本の法人税は過半数の企業が、税務上欠損を出し、税金を払わないと言う、不条理な仕組みになってしまった。 国税当局が、個人からの徴税を企業に肩代わりさせる変わりに、企業の法人税に、多額の控除を認めているからである。 確かに個人からすべて申告させ、徴税することは大変な労力なのは間違いない。現在の税制では、税務署がパンクすることは必定である。だからこそ源泉徴収は廃止しなければならない。 つまり、自分たちがやるなら、こんなに複雑で摩訶不思議な税制にはしないだろうということである。国民も税に対する認識を改めることになるであろう。2 相続税 相続税はあらゆる税の中でもっとも野蛮で、卑劣な税である。 さらに相続税は、贈与税という鬼子を生み出した。 相続税の根底に流れるのは嫉妬である。持たざるものが持つものに対して嫉妬する。 しかしそれでも、なぜ財産が移動するだけで馬鹿高い税金を支払わなければならないのか、納得ゆく説明はない。所得には所得税、保有を保護するためには固定資産税、不労所得たる預金利息には利子税が課税される。さらに相続に課税するのはなぜであろうか。 よくある答えは、譲り受ける者が、その財産を取得する努力をしていない、ということである。だからといって課税する側にその財産を切りとる権利があるわけではない。相変わらず固定資産税も、利子税も課税していくのである。財産に対する課税なら所有者が誰であろうと関係ないのである。 また不労所得ということであるなら、それは現行民法の問題である。かつての家督相続の時代には、相続する者は家督を継ぎ、一族の長として様々な義務を果たすことが課せられていた。ところが現在は何らの義務なくして、相続権者というだけで、財産を受け取ることができるようになった。扶養義務など現実には存在しない。 この問題は、詳しく検証すると現代日本の混迷の原因の一つとしてあげねばならず、相当話がそれてしまうので割愛する。 もう一つの答えは、資産の再配分という問題である。一ヶ所に資産が集中すると、機会の平等が損なわれるということであろう。 確かに自由な相続があればそういう一面はあるであろう。一定の人物あるいは家系が、富を独占していた時代もあり、その反省から分割相続、相続税という発想ができたと思われる。 しかしここ日本においては、そのようなことは起きなかった。たとえば歴史の教科書では、平安朝の時代、藤原家が日本の政治経済を独占していたような印象を与えているが、それは真実ではない。当時は通い婚、婿取り婚の時代であり、藤原家が官位を独占しても、その経済的利益はその結婚相手の家が享受するのである。彼ら藤原一族が栄えたのは、彼らがそういったスポンサーを見つける才能に長けていたためである。 下って江戸時代においても、常に将軍家、大名家を悩ましていたのは財政の逼迫であった。 彼らは決して豪奢な生活をしていたわけではない。武士階級は、唯一の軍人として、為政者として、領民に対して責任を感じており、自らの身を切りつめても領民の生命財産を守ることも少なくなかった。 当時から国内にすむ農民が、国防に対して何ら関心を示していないことは、幕末に訪れた外国人達の記録でも明らかである。領民は完全に武士階級を信頼しきっていたのである。 そんな国に民主主義を持ち込んだらどうなるかは火を見るより明らかで、今日どん百姓上がりの官僚の強欲行政、無能政治家の大量生産にいたっている。 話が少しそれてしまったが、要は分割相続と、相続税は日本になじまない制度であったということである。3 消費税 間接税は、本来経済行為の出口で課税する税である。従って消費税を実施する場合は入り口の税である所得税を減税しなければならない。それが直間比率の見直しである。そうしない場合国民は重税感がつのり、消費行為を抑制することになるからである。現在の消費不況の原因の一つがこれである。稼いでも税、使っても税である。 もしこのまま所得税も、消費税も課税したまま、消費を増進させるには消費税より税率の高い貯蓄税の導入しかない。つまり稼いでも税、使っても税、貯めても税、なら一番安い消費税、というわけである。 しかしそれではそもそもの勤労意欲が失われ、経済そのものの破綻を招くであろう。 解決案 細かい議論はまだまだあるが、以上の問題を一挙に解決するにはどうすればよいかをここに提案する。 まず、所得税、相続税、法人税を完全に廃止する。 個人への課税は15%の消費税一本とし、法人税については外形標準課税および消費税とする。 消費税の免税は、支払い者によって区分せず、品目によって決する。 また企業においても減免措置は特にもうけない。赤字であろうが黒字であろうが課税は行う。 ただしこの点は櫻井よし子氏の提案であるが、民間非営利団体(ボランティアとも少し違う)への寄付額を税額から控除するシステムを作る。これによって行政の負担は激減するはずである。たとえば公園の清掃、空き缶の収集、地域消防活動などは、行政が全く費用を負担することなく、寄付のみで作業員を雇用し、活発な活動をしてゆくことになる。これは相当な雇用の創出にもなる。 また企業や個人も、役人に訳の分からぬ使われ方をするくらいなら、地域の活動に直接寄付した方がよほど安心できるというものである。 税収は相当額減少する。その補完として① 郵政三事業を民営化し、課税する。② 特殊法人、宗教法人にも課税する。③ 寄付を受けている非営利団体の使途不明金にも課税する。 これだけで相当の税収が上がるはずである。 また当然出費は極力削減しなければならない。具体的には、① 公的年金はすべて廃止② 健康保険も廃止③ 国内にある国債の償還はすべて無期限延期。④ 私学助成はもちろん廃止、国立大学もすべて私学として再出発 いかがであろうか。 混乱する日本が見える。政権も交代するであろう。 が、騒動などたかがしれている。ましてや革命など起きる訳がない。何しろ健康保険、年金、所得税、相続税がなくなるのだから、冷静に考えればどちらが支払い税額が少ないか、馬鹿でもわかる。 また企業とて、源泉徴収事務、年金の負担、各保険の負担がなくなり、具体的には総務に関するほとんどの人員が不要になる。事務的にも費用的にも相当スリムな経営ができるはずである。 郵政三事業など民業圧迫以外の何物でもないし、特殊法人はすべて解散、宗教法人は課税の特例を認める理由など本来ない。 年金など、もはや不要。あれは国でやっているネズミ講だから、破綻する時期が来ただけ。健康保険が必要なのは医療費、薬価が高すぎるからである。本当に高額な医療は保険がカバーするであろう。 また、国債を保有しているのはほとんどが企業であるから、バランスシートへの記載を対等額で認めれば何の問題もない。 私学の助成は規制による過剰設備のせいだから、文部省が口を出さなければ、大学はそれぞれの道をとる。国立大学などは楽隠居の集まりであるからすべてなくなってもかまわない。 優れた業績を残している教授や大学は企業が放っておかないであろう。 以上の解決策を提示する。暴論と思うなかれ、私は大まじめである。またこれらのほとんどは、これまでの誰かがどこかで提案していることである。私はそれらを一度にやれといっているにすぎない。 再配分されるべき税が、官僚と代議士の食い物にされている現実を直視し、改革する勇気を持たねばならない。 税は国の根幹であり、泣き所でもある。
2002.10.02
コメント(5)
とりあえず、こんな事を書いてみた。国会を改革せよ1、定数および歳費は多いか少ないか 衆議院500名 参議院252名 私は議員定数を削減し、別のところ(憲法を改正せよ)で述べたとおり、国会議員は無給とすべきであると考えている。 これは、つい最近、国会議員の一人あたりの歳費が2億円と聞いて逆上して考えたことであるから、たぶん思いつきの域を出ていないとおもうが、まあ聞いていただきたい。 1千4百億円の議員歳費は、現状では無駄金である。 その他国会の運営費や選挙に関する費用もほとんど無駄である。 現状に満足するなら、国会議員などいなくて良い。優秀なプロデューサーが一人いれば、充分演出可能なドタバタ劇である。 どうせ虚構なら、上手な芸が見たい。 全員俳優を使い、真剣な討論や演説を見せてくれた方がいい。 今よりよほど見る人は増える。茶番劇が、朝の連続ドラマくらいにはなるだろう。 中継で収入を得ることができれば、財政赤字も解決するではないか。 政治に関与する人数は、少なければ少ない程良い。 これは私の持論である。「一人だったら独裁じゃないか」って? それでは聞く、独裁のなにが悪い。 独裁は、共産主義と並ぶ、民主主義の究極の姿である。 独裁者が、全人格的に優秀であれば、凡人が千人集まるより遙かに国民は幸福になれる。 そういう独裁者は、国民はその存在すら意識することはないであろう。 しかし現実にはそんな都合の良い独裁者はいないし、現れてもその後継者はほとんどの場合先任者より見劣りするから、その体制は崩壊することになり、国民は以前よりも非道い状態になるであろう。2、大して違いのない方法で選ばれる二院制に意味があるのか 本来二院制とは、国民の異なる意志を代表する者でそれぞれ構成されなければならない。同一の意志で二人選んだだけでは何の意味もない。 現状の衆参両議院の選挙区の違いはわずかである。少なくとも選挙民は衆議院議員と参議院議員を区別して選んでいるとは思えない。 両院の相違は解っても、「要は衆議院が強いんだろう」ぐらいの感覚しかないのが実状である。 これではこれほどの数の議員を選ぶことに意味を見いだし得ない。要するに数である。人ではないのであり、犬でもつとまるのだ。言いつけ通り国会に出向き、起立すればいいのである。3、試案を提示しよう 本当に政治をやるのであれば、国会議員は100名で充分である。 各省庁も5つあれば充分である。 余った大部分の人員の半数は地方自治体の新入職員として採用してもらう。優秀な人材なら、そこからでも充分頭角を現すはずである。 残りの半数は、公務員としては当然国防軍に入隊させる。これも何のためらいもなく一兵卒からはじめさせればよい。 具体的には次のように改正する。 1、国会議員は各々立法府の責任者であると同時に、各省庁のトップ(大臣)でもある。 したがって選挙の際には地域割りではなく、各専門割りとする。5省20名ずつの国会議員を選ぶ 主に選挙違反をなくし、族議員を排除するためのものである。投票は各部門別に5名を連記する方法で行う。 全国区で買収しようとする馬鹿はいないであろう。 2、選挙はすべて全国区とする。立候補から選挙までは1年の選挙期間を設ける その間候補者は、執筆や、講演等で全国を回り、支持を訴える。それをマスコミが追うから、じっくり時間をかけて議員を選定することができるであろう。 3、任期は5年以上、できれば7年程度が望ましい。改選は半数の50人ずつ行う これだけ時間をかけて国民の信任を得たのであるから、そう悪いこともしないであろう。 4、支持者のそもそもいない政党から立候補させないため、予備選挙を行い、上位から累計95%までの政党を公認政党とし、それ以外の党からの立候補を禁じる 泡沫候補が大量に立候補することが予想されるので、その対策である たとえば政党が50あっても、たとえば自民党40%、民主党30%、自由党10%、公明党8%、共産党5%、社民党3%の得票があったとすれば、これで公認は打ち切り、その他の政党からは立候補できないこととなる。 5、各政党内で予備選挙を行う これはどんな手段を使って勝ち抜いてもかまわないが、あまりあくどいことをすれば、マスコミがすぐに嗅ぎつけイメージダウンとなるし、その後の討論で恥をかくだけである。 結局は各党とも口の達者な、ある程度見栄えの良い者を選ぶことになるであろう。 運動期間中は各地で討論会が開催され、それそれの党がエースを送り込んでくるから、相当深い知識がないとやりこめられてしまうことになる。 候補者は相当の勉強をし、備えなければならない。 6、予備院50名を選出する 各部門別に10名の予備院を構成しておく。 予備院は各総選挙の次点で構成され任期は正規の議員の半分とする。 予備院は議決権は持たない。 不測の事態への代替要員であるが、常に正規の議会と同等の審議を行い、報道は正規の議会と同時になされる。 以上が国会の改革案であるが、なにぶん不勉強な点、間違っている点、言い足りない点も多いので、随時変更していきたい
2002.10.01
コメント(16)
全31件 (31件中 1-31件目)
1
![]()

