全87件 (87件中 1-50件目)
10月31日を以って、現在勤務している会社を辞める事になりました。とは言っても、何か問題事を起こしたわけでもなく、解雇になったわけでもありません。超円満退社です(^_^)また、11月1日からの新しいスタートもすでに待っています。これも運命の大きな流れでしょう。更に前に向って!ステップアップしたいと思います。しかし、はっきり言って不安がないというわけではありません。「情熱・期待・希望・やる気」7割、不安3割というところでしょうか。それが本心です。と言うわけでありまして、暫くの間、この日記はお休みさせて頂きます。(メールアドレスが変わるかもしれませんので、その時は別の場所でスタートさせます。ここに来て頂いている皆様にはご報告致しますね)本当に今までありがとうございました。(終わるわけではないかも知れないけれど...)それと、来月、ブラジルに行ってきます。しばらくは、東奔西走、夜討ち朝駆けの日々です。(^_^;)【皆さんへ御礼】⇒cyapunosukeさんまたお会いしましょう。ネットの世界は、君に任せる!「元寇」もね(^^)v⇒男はつらいよ2005さん社長、詳しくは今度お会いした時に。⇒keiko8807さん素敵な自分探しができるよう、祈っています。ありがとうございました。⇒morry1007さん勉強熱心で、上品で...。本当に色々と学ばせていただきました。ありがとうございました。 ⇒ぱお~ん(*^。^*)さん 「ぱお~ん芋」は衝撃的でした!(@_@)これからも御活躍を祈っています。同じ福岡、どこかで「すれ違う」かもしれませんね。(^.^)/~~~⇒きらりんgoさんいつも日記、楽しく読ませていただきました。これからも「きらりん」で「Go!」ですね。またお会いしましょう。再開した時は、御連絡します。 ⇒上海起業ストーリーさん遠い地、上海での御活躍をお祈りしています。いつかお会いできるといいですね。もちろん、上海で?\(^o^)/⇒かおるび5さんかおるびさんの日記は、いつも可愛いイラストが描いてあり、読むのが楽しみでした。その内本を出したらどうですか?買わせていただきます。(^^)v ⇒くまぷうさん、Yayoiさん紅白歌合戦!必ず出てください。最後まで応援しています。もし、出場できたら、テレビの向こう側のあなた方に、心から拍手を贈らせて頂きます。でも、たとえ出られなくても、たくさんの人が、二人の事を応援している事を、忘れないで下さいね。ここにも一人いる事も。(^.^)/~~~⇒善成(よくなる)さん善成さんの日記は、本当に勉強になりました。ありがとうございました。これからも宜しくお願いします。⇒いけPさん「本の師匠」は、いけPさんでしたね。いつかお会いできたらいいなぁと思います。その時は、いけPさん、数万冊読んでいるかも(^^) ⇒ミラクル☆りんだ姉さん本当に「ミラクル」が起きるような行動力!素晴らしい!落ち着いたら連絡します。今度ゆっくり話しましょう。⇒suzupc22さん一度お会いしたかったですね。いや、これからきっとその機会が訪れる事でしょう。それを楽しみにしています。いつも共感してくれるので、嬉しかったです。お酒はほどほどに。お体に気をつけて。それでは、皆さん、しばらくの間さようなら。また、いつかお会いしましょう。
Oct 26, 2005
コメント(80)
災害ボランティアの体験談をシリーズで書いたが、最後に感動した話で終わりたい。淡路島のボランティアには様々なところから、「何とか力になりたい」と自ら足を運んで「人助け」をしている人がいた。僕はそれまでボランティアに対してある種の偏見を持っていた事も事実だったのであるが、(「災害ボランティアを考える(その1)」)淡路島のボランティアで出会った人達は、本当に素晴らしい人達であった。先に話した庄島君、彼とは結局一週間一緒に過ごした(その内、海辺の野宿二泊)のだが、彼の生命力は凄かった!人のカップラーメンの残り汁はすするわ、飯ごうの底にこびりついた「おこげ」は残さず削り取るようにして食べるわ...。 「すごいねぇ庄島君...」と言うと、「いやあ、色んなところでボランティアやっていると、なかなか自分の食べるものまで面倒見れないんですよ。被災者の人達に食べ物先に食べさせてあげるもので...。だから、残り物ばかり食べてたんですけど、残り物でも何でも、食べられる時に何でも食べておかないとですねぇ」さすがである。災害ボランティアをする人の中には、「どこに泊まればいいんですか」とか「私たちの食事はどうなっているのですか」などと言って、ボランティアされる人がいるという。被災地に行って、自分たちが面倒見てもらわなければならない人が多くいるという。情けない話だ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆熊本から来た、カップルの坂下君と光安さん。 この若い二人は、部屋でテレビを見ていた時に、兵庫県の水害の模様が流れたそうで、その時に坂下君がぽつりと言ったそうである。「ねぇ、俺たちにも何かできる事ないかなぁ」その一言で、二人は「自分たちも何とかこの困っている人達の力になりたい」と、二人でバスに乗り、はるか熊本から淡路島までやってきたのである。素晴らしいのは、彼女の光安さんである。坂下君がその思いを口にした時、彼女である光安さんが「何言ってるの!やめてよ!」などと言っていれば、坂下君は来る事ができなかっただろう。素晴らしい彼女だ。坂下君と光安さんのいつもの写真も掲載! なかなかの美男美女だ!結婚しろ~!その他、会社の休みを返上してボランティアに駆けつけた、サンヨー電気の女の子三人組 最初は、文句を言ってばかりだったのに、30分もすると、一生懸命に、本当に一生懸命に、泥まみれになり、一人暮らしのおばあちゃんの家を、きれいに片付けた、地元中学生のみんな。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆最後の御宅で、こんな光景が見られた。一緒に行った、久次社長が、ふと見ると、おばあちゃんの家の裏で、おばあちゃんを目の前にして「土下座」している。「何かあったのかな?」と心配しながら、その場を離れた。 後で久次社長に聞いてみると、次のように言った。「窪山君、さっき、ばあちゃんが俺にね、『ありがとう、ありがとう』って言って、エプロンのポケットから泥まみれの千円札を何枚か俺に渡すとよ。『これでみんなでジュースでも飲みなさい』ってね。俺は涙の出てねぇ、ばあちゃんに言ったとよ。『これは受け取れません』って。けどばあちゃんがね、どうしても受け取らせようとするものだから、土下座して謝ったよ。『どうしても受け取れません』って言ってね」おばあちゃんは、本当に嬉しかったのだろう。今、色んな事件が世間を賑わしている。信じられないようなことがおきる事もあり、この日本はどうなっていくのだろうかと、将来が不安になる事もある。しかし、「日本もまだまだ捨てたものではない」心からそう思う事のできる若者たちと出会う事のできた、淡路島の災害ボランティアであった。
Oct 24, 2005
コメント(0)
書いているうちに興味深くなってきて、途中でやめるのももったいない気がしてきたので、この際徹底的に書いてみたい。僕らが御世話になった、洲本町の千福寺というお寺は、住職がボーイスカウトもしながら、青少年の健全育成の為に部屋を貸したり、お寺の敷地を利用して自然クラブのような体験学習も行なっていた。 「千福寺」は、真言宗のお寺で、住職の山階さんは、ボーイスカウトを52年も続けており、地域の子供達の育成をしている。その宿泊などにも使われるこのお寺には、宿泊用の広い部屋がいくつもあり、今回災害ボランティアの方々が宿泊できるようにと、無料でお寺を開放しているのだった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆全国からさまざまな支援物資や、義援金が送られてきている。送る側はそれが被災地で困っている方々に「有効に使われている」と思っている。しかし実際には、被災地に送られてくる物資が、本当に必要としている人の手に渡ることは少ない。また、義援金の使われ方に関しては「どのように使われているか」の報告などない。全国から集められた義援金がいくらで、それがどのように使われたかということは誰も知らない。それを寄付した「善意の人々」にも知らされない。 被災地に送られてくる生鮮物などを腐らせてしまうことも多いという。誰にどのように配分するべきかという事を話し合っているうちに腐らせてしまうのである。しかしそれも仕方のないことであるかもしれない。ボランティアを取り仕切っている人達は「行政の責任者」ではなく、社会福祉協議会の有志の人であったり、ボランティアをしている団体の方だったりするからである。要は各団体がそれぞれの立場で主張はするけれども、意思決定権者がいないので物事が決まらないのである。しかしそれが当然なのだ。善意の集団なのだから。この事は一切知らされない。自分たちが善意で送ったものが被災地の弱者の手に渡ることなく腐ってしまったというようなことがわかれば大変なことになるからである。しかし、このことに関しては、誰も責めることができないし、責任の所在がないからこのようなことになるのである。非難されるべきは行政のリーダーシップへの怠慢である。宿泊させて頂いた千福寺の住職のもとには、高野山真言宗の僧侶の方々が8名ほど集まって来られていた。彼らは何故集まってきているのか。何をしようとしているのか。その話を聞いた。 高野山真言宗では、先の阪神淡路大震災の時に、何とか力になりたい、被災地の方々を助けたいと、組織で2億ほどの義援金を送ったのであるが、その使い道が何に使われたか調べても全くわからなかった。自分達の大切な浄財である義援金が有効に使われたかどうかが不明であったという経験を生かして、今回は「人間を送る」「自分達で自らボランティアをして力になる」として、千福寺を中心に行動していたのである。すでに新潟地区にも行かれたそうである。家屋の修復、泥だしなどから、「心のケア」まで、高野山の僧侶の方々は、「自分達にやれること」を実践されていた。しかし、それでも行政との情報がうまく伝達できず、非常に効率の悪い活動にならざるを得ないというのが、「災害復興時」の現状である。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆災害ボランティアセンターの苦悩もある。ボランティアセンターとしては「ボランティアの申請」が無ければ数百人のボランティアの方々を派遣させる事はできない。心無い方がいるもので、ほとんど災害を受けてもいないのに、ボランティアの青年を20名も呼び、庭の草刈をさせたというのである。しかし、申請があれば送らざるを得ない(苦情に対応できないのである)。一方で、すべてが水没してしまい、電話すらかけることもできず、ボランティアが来ているということの情報すら知ることのできないお年よりもいるのである。ボランティアからの帰り道、一輪車を押しながら沿道を歩いていると、おばあちゃんが、「役場の方ですか?うちもだ~れもおらんもんで、全く手がつけれんのですよ、助けてもらえんですか。」と話しかけてきた。胸が締め付けられるような思いがして、センターの方に、その事を話すと、「わかります。でもセンターとしては申請がないと動けないんですよ。わかって下さい」と言われた。皆善意でやっている任意の集団である。しかし、勝手に動く事はできない。その災害ボランティアセンターは、その数日後、一応の状況沈静ということで「閉鎖」されてしまったのである。最後の日、千福寺の住職が「窪山さん!町を歩いていて、まだまだ手がつけられていないところがたくさんあります。『千福寺に連絡してください』ととにかく伝えて下さい」そのように繰り返し言われ、僕らもその通りした。たくさんの、特にお年寄りの家ほど、全く壊滅状態で、たくさんの御年寄りが途方に暮れている現状があった。
Oct 23, 2005
コメント(0)
最初の夜をお寺で過ごす事になったのだが、そこには僕らだけでなく、同泊者がいた。彼の名は庄島君といい、21歳であるという。 僕らが驚かされたのは、彼はその時、新潟の震災からそのまま淡路島に来たと言うのだ。新潟の大震災に駆けつけたが、まだボランティアの入れる状態ではない、と言う事でわずかな手伝いのみであったので、新潟の方で数日ボランティアをした後、移動中のバスの中で兵庫の話を聞き、夜行バスでそのまま来たと言うのである。彼が持参しているのは、簡易テントと寝袋、懐中電灯に炊飯セットなどの簡単なもののみであった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 翌日ボランティアセンターに行くと、近畿中部地方を中心に多くの方々がボランティアに来ていた。(その日は約800人)御高齢の方もこられており、「こんな方も来ているのだなぁ」と思い、話しかけてみると、その方は次のように言った。「私はね、神戸から来ているんですよ。以前の阪神淡路大震災のとき、私もボランティアの方々に助けてもらった。本当にありがたかったのです。だからこんな私なのですが、私も力になりたいのです」と仰られたのには感動した。「私も助けていただいたのです。今度は私が助ける番なのです」その年配の方は、長靴をはき、タオルを巻いて明るく笑っていた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆僕らが最初に伺った御宅は、岡本さんのお宅であった。岡本さんの御宅に行くと奥さんが出てこられた。御主人は単身赴任で、息子は地元を離れている。今ではおじいちゃんと二人で住んでいるため、途方に暮れていた。 水害というのは一見、外見上は全く被害を受けていないように見えるが、一階がすべて水没し、水が引いた後に、床下に大量の粘土状の汚泥を蓄積してしまう。この粘土状の泥が強烈なニオイとカビを発生させ、そのままにしておくと結局人が住めない状態になってしまうのである。 作業は、床下に入り込んで行なう。バールで床板をはずし、わずか数十センチの隙間での作業である。汚泥と一口に言うが、はっきり言えば、大小便も含まれているのである。くみ取り式の便所であれば、水が氾濫した際に一緒に「し尿」も地表に出てくるのである。 床下での作業は、全身「その泥」まみれになる。腹ばいになり、「手の甲」に汚泥をのせ(床下の高さが低いため、腹ばいになっての作業しかできない)それをひも付きのちりとりに載せて、合図と共に引っ張ってもらいながら交互に作業をしていくのである。上の写真はフラッシュ撮影したものであるが、実際の床下は、したの写真のような感じである。 床下作業は午前中から始めて、午後5時ごろまでかかったが、何とか床下の汚泥をすべて取り除く事ができ、消毒まですることができた。男4人が総がかりで作業をして、やっと一軒の家の床下作業が終わるのである。どれだけの時間がかかるか計り知れなかった。しかし、作業が終わったあと、岡本さんの奥さんが涙を流して喜んでくれたのにはこちらが感動した。「九州から来ていただいて、見ず知らずの私たちにこんなにして下さって、本当に、本当にありがとうございます」おじいちゃんとも握手をし、僕らは最初のボランティア体験が、非常に喜びに満ちたものになったことに感動したのであった。 しかし、この後、僕らは「ボランティアの現状と真実」に直面して、どこに向けようもない憤りと怒りを感じる事になるのであった。(その3へ続く)
Oct 22, 2005
コメント(3)
宮崎に住む友人の家が、水害で全滅した。一気に水位の増してくる泥水に、彼は家族と一緒に屋根の上に登り、必死で自分の着ている白シャツを振り回し、自衛隊に救出されたのである。自然災害というものは、本当に恐ろしいもので、本当に全てを奪ってしまう。僕らは仲間うちで義援金を募り、彼に渡した。彼は「本当にありがとうございます」と心から感謝していた。僕は、以前のある事を思い出していた。それは2004年の台風23号、淡路島での水害の時の事である。2004年。台風23号は、兵庫県を中心に、凄まじい被害の爪痕を残した。 毎日のようにテレビでは、屋根の上まで水が浸水した家屋の映像が流れていた。我々の企業でもそうだが、多くのスーパーなどからも義援の商品(水・毛布・食品)などがおくられた。ある所で宿泊のセミナーがあった時のこと。京都に住む私の尊敬する先生の一人が言った。「兵庫の惨状は、テレビで見るようなものじゃない!もっと凄まじい。こういう時こそ何とか、皆が力になれないものだろうか、何とかならんのか!」その言葉を聞いた時、「本当に力になりたい」と思った。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆話は変わるが、僕はボランティアと言うものがあまり好きではなかった。世にボランティアをする人達は大勢いるが、その中には、「同情心」や「優越感」でしている人が多く、その態度からは「してあげているのよ」というような態度言動が伺える人がいるからである。要はそのような人は、自分自身の優越感の自己満足の為にボランティアをしているのである。しかし、今思えば、自分自身の心にこそそのような心があったのかもしれない。人を見て嫌だなぁと思う時には往々にしてそれが自分自身にあったりする。僕自身の心の中にある、「同情心」や「優越感」に嫌悪感を感じていたからこそ、僕はボランティアと言うものがそのように見えていたのかもしれない。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆水害ボランティアで大切な事は、「即、動くこと!」である。全国でボランティアをして人の為に役に立ちたい!という方がいらっしゃれば、この話をよく聞いておいて下さい(というより「読んで下さい」だった)京都の先生の言葉を聞いて、何とかしたいと思った僕は、福岡に戻り何人かの友人にその話をした。お金ではなく、自分の足でその事を体験し、何かを感じ取りたいと言う気持ちがあった。我慢できなかったので、社長に「兵庫の水害のボランティアに行きたいのです。一週間休みを下さい」とお願いすると、社長は暫く考えて、「窪山君、そんな事は自分だけで行かず、何人か連れて行きなさい。素晴らしい体験と勉強になるだろう」と言ってくれた。色々と声をかけたが、最終的に4人で行く事となった。ボランティアに行く自分達がボランティアしてもらう事になってはいけないので、知り合いから四駆を借り、それにテントなどを積んで「野宿」するつもりで出発した。 福岡を出発して、兵庫に向かう予定だったが、兵庫の方は水害の被害もずいぶんと沈静化したということで、僕らは、淡路島へ回る事となった。淡路島の洲本町に到着したのは夕方の8時くらいであたりはすでに暗くなっていた。何も勝手がわからなかった僕らは、とりあえず災害ボランティアセンターへ行った。災害ボランティアセンターと言うのは、民間のボランティアの団体の方々が、「災害情報の収集」の中心にする為に簡易的に建てたり借りたりしている情報センターのようなものである。僕が驚いたのは、災害のボランティアだから、てっきり行政が動いて取り仕切っているものと思っていたのだが、じつは、行政は金を出すだけ(実際は管理するだけ、口を出すだけ)で、何もしないのである。民間のボランティア団体の方々が、この日も夜遅くまでミーティングをしていた。 ミーティングをしていた皆さんは、夜遅くにごそごそとやって来た「九州人」に親切にしてくれた。今日泊まる所がないという僕らの話を聞いて、「千福寺と言うお寺があって、そこの住職に頼んでみましょう。もしかしたら泊めてくれるかもしれませんよ」願いがかなって、僕らはボランティア初日を野宿せずにすんだのである。 このあと衝撃の体験をする事になった。続きは(その2)に書きたいと思います。
Oct 22, 2005
コメント(0)
「世に読書人多くして真の学者なきものは、学を為すの初め、その志すでに誤ればなり」〈世の中に本を読む人が多いのに真の人物がいないのは、学問をする最初にその志がすでに間違っているからである〉これは幕末の維新の志士、吉田松陰が言った言葉である。正しい志とは人間としての正しい道、つまり正しく人生を歩む為の道を明らかにする学問・勉学である事を思い定める事であって、いかに読書し勉強しても正しい道を知らないのなら、学問・勉学したとはいえないのである。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆本当にその通りだと反省した。よく学生時代に(社会人でもそうだけれども)多くの「資格を取る」人がいる。聞いてみると「たくさん資格を持っていると、何かの役に立つものよ」などと言っていた。しかし、そういう人の多くは「資格を取る」のが目的であって、後に聞いてみると、その資格のほとんどが役に立っていない場合が多かった。(資格をとる為に努力をする、その努力の姿勢は素晴らしいが)それに反して、全くそれまで資格などもっていなかった人が、ある仕事に携わり、その仕事の中で必要な資格を実践の中で身につけていった方が仕事上でも人生の上でも自分の身になっているようである。読書にも同じ事が言える。「本を読む事」が目的となってしまい、何の為に読んでいるのか、また自分自身が「何をしたいのか」「何故それをしたいのか」もわからず「志(こころざし)」というものが心に無ければ、どのような読書をし、学問をしても所詮は、人の意見に感銘し共感をする程度のものではないか。猛反省をさせられた。確かに、読書は人との出会いに良く似ている。どのような人(本)とめぐり合うかによって人生の豊かさが変わってくることも事実だろう。しかし、人と出会って、人に感動しているばかりでは、いつまでたっても真の自分自身とはめぐり合う事はできない。自ら学問し、実践し、自分自身の生き様の中でそれ(自らの歴史)を作り上げていくからこそ、人が感動するのである。果たして自分自身の志はどうであったか。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「井を掘るは水を得るためなり。学を講ずるは道を得るが為なり。水を得ざれば掘る事深しと言えども、井とするに足らず。道を得ざれば講ずること勉むと言えども、学とするに足らず」〈井戸を掘るのは水を得るためであり、学問をするのは人の生きる道を得るためである。水を得ることができなければ、どんなに深く掘っても井戸とは言えぬように、たとえどんなに勉学に励んでも、人の生きる正しい道を知ることがなければ、学問をしたとは言えない〉何故人は勉強するのか。何故自分自身は読書するのか。学問するのか。今一度自分自身に問いかけてみる機会を得たことに、感謝したい。
Oct 20, 2005
コメント(2)
非常に嬉しいものを頂きました。\(^o^)/前から欲しいなあと思っていたのですが、作ってもらったら20万ぐらいはするんではないかというシロモノ。皆さんはこれを見たことがありますか? これは「宥座の器(ゆうざのき)」というものです。この置物にはこういう物語があるのです。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆中国の孔子という人が桓公の廟(おたまや)に参拝したところ、そこに傾いてつるしてある「器」がありました。 孔子は廟守(びょうもり)に「この器は何というものでしょうか」と尋ねると、廟守は「これはたぶん『宥座の器』というものでございましょう」と答えました。それを聞いた孔子は、「宥座の器ならば、中が空ならば傾き、程ほどならば正常になり、一杯に充満すれば転覆すると聞いています」と言って、傍らのお弟子さんに向って、「器に水をついでごらん」と言った。 御弟子さんが水を器に注ぎました。中ほどのところでは正常の位置になり、水が一杯になるとガクリと転覆し、水がこぼれて空になると、またもとの傾いた状態になりました。そこで孔子は言いました。「世の中の万事、すべてこれと同じだ。結局満ちて覆らないものはない」虚なれば即ち傾き中なれば即ち正しく満なれば即ち覆る 何事も「足るを知る」という事ではないだろうか。広く世の中を見てもそうだが、「足るを知る」という事を自分自身の心の中にもてない人というものの欲望は際限がない。欲望と言うものは時に本人の中では、「成功の目標」や「成長の目標」である場合がある。それ自体は何の問題もないのだが、(正しいものであるのに)この「足るを知る」という事を心に養っていないが故に、失敗してしまう。時にはすべてを失ってしまうものである。夫婦、男女の恋人同士や、職場の人間関係などすべてにそれはあてはまる。「相手がもっとこうあってくれたらよいのに」と思う気持ち。「何でこんな風にしてくれないのか」などという気持ちは、同じような事かもしれない。他人の欠点を指摘し批判する事はたやすい。それよりも、「他人の欠点我これを補充する」のこころで接してやる事ができれば、どんな人間関係も結果温かいものとなるのだ。
Oct 20, 2005
コメント(3)
この日記に色々と自分の考えている事を書いているのだけれど、どうやら50名ぐらいの方が定期的に見に来てくれているようだ(嬉)昨日、尊敬している知り合いの社長が「ブログに日記を始めました。窪山君知ってるよね」という話をされ、あのF社長が始められた事に驚きと喜びを感じた。(話は変わって)昨日勉強させていただいた事にこういうことが書いてあった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆『論語』に「道に聴いて塗に説くは、徳をこれ棄つるなり」とあります。これは、道で人からよい話を開いて、それをすぐほかの人に説明するのは、自分の徳を捨てているようなものだ、という意味です。つまり、よいことを聞いても、心にとどめてそれを実行しなかったならば、自分の身につかないということです。私たちは、道徳などの何かよい話を聞くと、すぐ自分が実行したかのように他人に説いて聞かせようとしがちです。しかし、自分が実行しないことを他人にいくら説いても、それは徒労に終わります。ただ知的にその原理を知るとか、他人に説明するとかというのでなく、これを聞くと同時に、たとえわずかでもみずから実行することが大切です。単に自分の知識を示したいとか、先輩や同僚あるいは聴講者に気に入られたい、ほめられたいなどというような心づかいで話をすることは、道徳的に見れば効果が乏しいといえます。また、個人的に相談を受けた場合でも、相手の感情に引き込まれていたずらに同情したり、相手の行為が自分の感情や利害に反するためにこれを諭すというような心づかいで助言や指導をすることは、同様に良い結果をもたらしません。なぜなら、そのような講話や指導は知的、感情的なものにすぎず、その動機、目的が利己心にもとづいているからです。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ついつい、このような「誰も知らない場所」でさえ本当の自分の足取り、「あゆみ」を書き込めていない自分がいることに気がつく。(反省)人間の「自分をよく見せたい」という欲望が、こんな場所でも頭をもたげる。何かの会があり、人にその説明をしようとしたとき、人はその会がどのような会であるかという事を「その人」を通して見る。とどのつまりは「恥ずかしながら自分自身を見てください。私がこの会の代表です」ということではないか。会社も同じ事だろう。「その会社」「その組織」「そのサークル」が何をやっているか、ではなく、自分自身がどのような人間であるのか、と言う事が結果問われるのだ。そんなつまらないこの「場所」にも、時折でも遊びに来て、読んで言葉を残してくれる方々がいる。その事に気づくと、ふと心が温かくなる。本当に感謝したいと思います。ありがとうございます。
Oct 18, 2005
コメント(6)
皆さんは「ちり銭」というものの考え方を知ってますか?内容を聞けば「ああ、なるほど」と思い出され、うなずかれる方も多いのではないでしょうか。これは、日本人独特の文化でもありますが、人から応援される人間になりたいと思う人は、知っておくと得をしますよ。(^_^)僕も身につけたいと思っている習慣の一つです。今でもそうですが、家に来客があると、うちの母親は決まってその方が帰る時、「これ頂き物だけど...」とか「たくさんあるから...」などと言いながら、果物やお菓子やジュースを御土産に渡している。これが「ちり銭」を大切にする生き方です。つまり、自分が得たものの一部を他人にお返しする行為、生き方の事です。例えば自分が何かをしようとする時、「これ少ないけど何かの足しにして」などと言ってお金をくれた人がいたとするならば、その人にわずかでもいいから御土産を買って帰るなどという形でお返しする事です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今、企業にはこれが必要だと思う。自分が得た利益の一部をお客様に対して返す、あるいは地域の方々に返す、この考え方が企業を永続させる秘訣の一つではないだろうか。自分が得た利益は確かに自分の利益である。けれどもそれを出してくれた人がいるからこそ、その利益が生じたのであって、何もないところからお金は湧いてこない。店で言うならば「お客様の支持があるから」こそ利益が生まれるのである。人生にもこれはあてはまる。自分が幸せに生活できるのは、様々な人達のお陰である。親であり、家族であり、親戚縁者であり、会社の仲間であり、上司であり、恩師であり、友人である。自分が得たものは自分が頑張ったからだ、自分がどう使おうが自分の勝手だろう。などという人がいるが、無人島で商売しても誰も何も買ってくれないように、支えてくれる人がいるからこそ生きていけるのである。ハンカチ一枚でもいい、御礼のハガキ一枚でもいい、自分が毎日の生活の上で支えてくれている人のありがたさに気づいたならば、その人達にたとえ小さな形であっても、お返しができる、それを自然に、あたり前に、習慣としてできるようになりたいと思うと同時に、その心を養う事ができるようになったならば、今度は多くの人が自分を支えてくれるようになるだろうと思うのである。「ちり銭」を大切にする生き方。身につけたいものである。追伸:読み直してみると「です、ます」調と「である」調が混同した文章になっていました。御了承下さい。m(__)m
Oct 16, 2005
コメント(0)
昨日に引き続き、長崎の後輩からもらった斉藤一人さんのCDを車の中で聞いていた。「自分はこういう信念で生きている」と思っている事や、「自分はこう考える」と思っている事に対して、現代の成功者は勿論だけれども、歴史上の人物や、自分自身が尊敬する人物が、「このことはこうであるんだよ」と話しているのを聞いたり、書物で読むと、非常に共感すると共に、自分の次の一手に自信がつく。情熱が湧く。僕はよく、歴史上の人物で言えば吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、勝海舟などの話を聞くことが多い。幕末の維新を生きた青年達の話は、現代の日本の状況となんら変わることなく、その情熱、目標達成の為の洞察力、計画力、実行力は本当に見習う事が多いのである。(ところが残念な事に現在の日本の教育の中においては、これらの教育はされないのが残念な現状なのであるけれども...。)話を元に戻そう。斉藤さんの話の中に、「どうでもいい生き方をしている100人の人間が集まって何かをやるくらいなら、本気で目標を達成しようと考える人間が10人でやった方がいいんだよ。戦になったら、どうでもいいと考える人間は、途中で逃げるんだよ。でもね、本気でやろうと言う人間は、逃げないんだよ。だから10人でやった方がいいんだよ。100人いると、頭数に入れて作戦を立てちゃうんだよ。だから負けるんだよ」全くその通りだと思った。企業も起業も同じである。何かを目標達成しようとする組織も、そうである。「枯れ木も山の賑わい」という言葉もあるが、戦の時には「逃げる人間」は要らない。人生かけて生死を共にする。そんな仲間がいれば、物事が達成できないはずはないと思うのである。ふと、今、この日記によく訪問していただいている方々が、「輪和」という行動を起こしていて、色んな情報が入っているけれども、こういう仲間が、情熱の集団こそが、小さな動きかもしれないけれど、大きなうねりとなっていく事と考えるのである。追伸:偉そうに書きましたが、すずさん、りんだ姉さん「輪和」のことなんですが、私は非常に感心を持っています。しかし、何をどうすればいいかがよくわかりません。(^_^;) 善成さんにも、メール等を頂いてますが、MIXIの方もどう対処したら言いかがわからず、日々が過ぎて...。(^^;ゞどうぞ、長い目で見守ってください。(^.^)/~~~
Oct 13, 2005
コメント(2)
一昨日、長崎の後輩が、「斉藤一人さんのCDが手に入ったので、持ってきます」と言って持ってきてくれた。(感謝)早速行き返りの車の中で聞いている。斉藤さんの本やCDを僕も読んだり、聞いたりしているし、身内に近しい人の中でも、「ツイてる」という言葉のプラス発想を実践している人がたくさんいます。(勿論私も言っていますよ(^^)v)昨日の車の中で聞いた話の中で、今回「面白い」と思ったのは、「あなたが仕事を選んでいるんじゃないんだよ、 仕事があなたを呼ぶんだよ、 今の仕事がつまらないと言っている人間は、 今の自分がつまらないからその仕事を選んでいるんだよ。 つまらないと思う仕事でも、 一生懸命にやれないつまらない人間だから、 その仕事があんたを呼んでんだよ」この話は面白いと思った。全くその通りである。今の生活に「幸せ」を感じることができない人は、どんな生活を手に入れても幸せになることができない。それは原理原則を考えればわかる簡単な事なのだが、「心」が「感謝する」という習慣を習得していないからだ。わざとらしく難しい表現をしたけれど、人間これは「心のクセ」だから、一朝一夕には、習得できないものだ。車が自分の前に割り込んでくれば、「なにやってんだよ!」と心が反応してしまう。しかし、「前の車は急いでいるんでしょうね、 事故を起こさなければいいんですが」と考える事のできる人もいる。(これは実際の話)つまり「幸せ」になるには、幸せになるための「心の反応の仕方」を自分自身で習得しなければならないと言うことである。お金を手に入れて、不幸になる人、地位を手に入れて結果身を滅ぼす人。企業も同じである。日本でも永続している企業と言うのは、研究していくと必ず「ある法則」にしたがって経営されている。そしてその「徳育」が、脈々と父・母から息子娘へと受け継がれているということは、広く一般には知られていない。企業であれば、一代で潰しても構わないかもしれない。ダイエーのように一代で栄枯盛衰の極みを見るような経営であってもいいかもしれない。しかし、家族の場合は別である。子供に幸せになってもらいたいと思わない親はいない。ある大成功者が言った。「金を残すと言うのは、後世の者には下の下」どなたかが書いた別の成功者も言っていた。「私は息子には全く金は残さない。私は苦労してこれだけのものを得た。素晴らしい人の縁、自分自身の努力、その過程で得ることの出来るたくさんの物事...。金を残す事で息子からその事を奪うほど、私は野暮ではない」これぞ本当の経営者であり、親であるなぁとおもったものである。
Oct 12, 2005
コメント(3)
これは別の場所で遠い昔に書いていたものだけれど、あらためて見直して感動しました。何度も読み返したい無名の少年の話です。◆「少年の涙」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ベトナムのとある村で宣教師たちが運営する孤児院が、爆撃されてしまいました。宣教師たちと2人の子どもが即死し、多くの子どもたちが重傷を負いました。重傷になった子どもの中でも、ある8才の女の子は最も危ない状態でした。無線で助けを求めると、しばらくしてアメリカ軍の医師と看護婦が到着しました。少女は大量に出血しており、すぐに輸血しないと命を落とすことになります。でも輸血用の血液などありません。医師は、心配そうに集まっている周りの人たちに、血液を提供して欲しいと、言葉が通じないためジェスチャーを混じえて必死に伝えました。沈黙の時間がしばらく続いた後、大人たちに混じって見ていた一人の少年の細い腕が恐る恐るあがりました。急いで血液を調べ、輸血の準備をし、苦しむ少女の隣に少年を寝かせて、輸血用の針を腕に刺しました。少年は黙ったままじっと天井を見つめています。しばらくすると、少年は眼に涙を浮かべ、そのうち、自由になっている手で顔を覆うと、しゃくりあげるように泣きはじめました。注射針が痛いのかと思った看護婦は、やさしく微笑みかけ少年をなだめました。いったんは落ち着いた様子でしたが、またしばらくすると今度は大粒の涙をこぼしていました。「どこか痛いの」と尋ねましたが、そうではないようです。医師は気になりましたが、再び尋ねても、痛くはないと言います。そこへ、別の村からベトナム人の看護婦が救援に現れました。医師はその看護婦に少年に何が起きているのかを尋ねるよう頼みました。現地の言葉で看護婦がやさしく話しかけると、少年の悲しそうな表情はゆるみ、ようやく平静を取り戻しました。そして、少年は、こう答えたのでした。「僕はまだ死にたくない!」「僕は血を抜かれて、まもなく死んでしまう...。でも僕は血だらけになったこの女の子を僕の血で助けるんだ!」それを聞いた看護婦、そして周りにいた大人たちは皆愕然としました。針の痛さのせいではなく、まもなく死ななければならない悲しさと、自分が少女を助けるんだという使命感との葛藤の中で、少年は大粒の、最期の涙を流していたのでした。輸血に対する知識が全くない少年が、自らの命をも引き換えに少女を助けようとした行為...。20年近く前にキリスト教の牧師が早朝のテレビで話していたこの話を、私は今でも思い返しては自分の心に問いかけています。見返りを求めずに善行を積むことは非常に尊いことです。また、他人に対して深い思いやりの心を持つことも大切だとわかってはいます。しかし、それでいても、対価を求めず私財を提供する、あるいは、無償で労力を提供することは、口で言うほど簡単にできることではありません。ましてや、「無償の愛」の境地にまで達することは非常に難しいものです。寄付とか、ボランティアといった慈善行為は、もっと偉くてお金や時間に余裕のある人がするものだ、と私も心のどこかで思っていたのが正直なところです。しかし、そうではないのだということが、最近だんだんと分かってきました。他人に対する思いやりに、どんな理由がいるのでしょう。あるいは、どれだけの財産、時間があれば他人のことを思いやる余裕ができたというのでしょう。この少年には、財産や時間的余裕、ましてや特別な才能があったわけではありません。しかし、純真な心をもって、自分の一番大切なものを人に与えたのです。「無償の愛」とはこういうことではないでしょうか。寄付をするのもいいでしょう、ボランティアに参加することも決して悪いことではなく、むしろ推奨されるべきです。しかし、名誉欲や社会的地位など、欲求や願望が些かなりとも介在してしまっては「無償の愛」にはなっていないということです。周りにいた大人たちが表現できなかった、少年が私に教えてくれた「無償の愛」を、いつも心の底にもち続け、日常を過ごしていきたいと思っています。「無償の愛」はこの少年のように特別な誰かだけがもっているものではなく、人間の心の中の深いところに誰もが持っているものだそうです。この前テレビで興味深いことをある男性が言っていました。氾濫した川におぼれている人を助けに飛び込んだ男性の話なんですが、「無償の愛」とは意味合いが違うけれど、その人がこんなことを言っていました。「何で飛び込んだかって?そんなのわからないよ。普通に考えれば危ないし、自分の命も失うかもしれないよね。けど、人間は皆そんな状況に遭遇すると、僕がとった行動と同じ事をするんだよ。そんな風に作られているんだよ、人間はね」「そんな状況」までに陥らずとも、この少年のように自分を犠牲にしてでも、目の前で死んでしまおうとしている少女を助けてやりたいという思いは、親であれば誰でもが持つ自分の子供に対しての「無償の愛」と同じようなものなのかもしれません。
Oct 11, 2005
コメント(0)
今をときめくIT産業の成功者。一日で何千万の買い物をした、とか、年収数億円とか。世の中には凄い人がいますね。そんな人とは別の世界で、「人のために行動することが喜び」という人がいる。皆さんはどのような人、どのような生き方を通して、「幸せ」というものを考えますか?今日はそんな話です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 幸せであるかどうか、自分で見きわめるのはむずかしいものです。人から見て「あの人は幸せそうだ」とか「幸せとはいえない苦労をしている」と思われることはあるでしょう。また自分がつらい、きびしい、しんどいことを「不幸せ」と考えてしまうことはあります。「幸せ」というのはどんな状態をいうのでしょうか。経済的な安定、世間から評価される職業に就く、健康、好きな趣味などの時間が持てることなどもあるでしょう。よく、つきつめて考えていくと、自分はだれかのために何かをしている、自分は前に出なくてもだれかの後ろに立っている、そのことで得られるよろこびが、根底にないとなかなか幸せとはいえないのではないでしょうか。つまり自分が生きていることは、まわりのだれかのためになっていることです。さらに自分とともに歩んでいる人がいるという状態なのです。最近ボランティアをする人たちが増えていますが、人のために自分の力を使うという実感がよろこびに結びついているようです。家族や恋人などの身近な人、職場という小さな社会にいる人たち、地域の人、友人たち、自分のまわりにいる人によろこびを与え、幸せを感じて生きていきたいものです。====================どんな富を得ても、地位を得ても、名声を得ても、それを分かち合うことのできる、喜んでくれる、共に歩んでくれる人が誰もいないというのは、無人島で王様の生活をしているようなものだろう。自分を支えてくれる人、自分と共に歩んでくれる人、自分の喜びを共に喜んでくれる人、共感してくれる人を大切にして生きたいものである。
Oct 7, 2005
コメント(3)
今日は、人生3★回目の誕生日。朝からたくさんの人達が「おめでとう」とメールをくれたりして、「嬉しいなあ」と一人喜んでいた。考えてみると、小さい頃は誕生日が待ち遠しかった。幼稚園ぐらいか、小学校の低学年ぐらいかな。今では「ケーキ」や「バナナ」など「いつでも食べられるもの」だけれど、僕らが小さかった頃でさえ、「ケーキ」と言ったら「特別な日」だけにしか食べられなかった。一つ下に弟がいるのだが、その弟と一緒に、「おにいちゃん、今日は誕生日だからケーキが食べれるね」「そうだね、祐ちゃんにもあげるから、二人で食べよう」などと会話して、走って帰った記憶がある。小学生も高学年ぐらいになると、友達が誕生日を一緒に祝ってくれるのが楽しみで、待ち遠しかった。色んな友達が自分の誕生日を祝う為に「プレゼントを持って」自宅に集まる。母親が自分の誕生日を祝う為に「美味しい料理を作ってくれる」子供としてこれほど嬉しい事があるだろうか。年をとるにつれて、自分の誕生日など忘れてしまう毎日を送るようになってしまっていた。しかし母親だけは毎年いつも「誕生日おめでとう」と祝ってくれていたような気がする。反抗期の頃などは「おめでとう」と言われる事にさえ、苛立ちを覚える頃もあったような気がする。時が過ぎ、社会人となり、仕事をするようになってからは、自分の誕生日などもすっかり忘れてしまい、銀行に現金を引き出しに行った時に預金引き出し機(キャッシュディスペンサー)に「お誕生日おめでとうございます」と表示されるのを見て「そうかぁ、今日は誕生日だったなぁ」と思い出す程度の毎日だった。ある時、そんな毎年の誕生日の話をしている時、ある方が、「窪山君、それはちがうよ。誕生日というのは自分が祝ってもらえるから嬉しい日じゃないんだよ。親が自分を生んでくれた事に感謝する日なんだよ。君がこの世に生まれた事に感謝する日、その生んでくれた親に感謝する日、それが誕生日なんだよ」そう言われた。子供ができ、父親となり、親の気持ちが少しずつでもわかるようになった今日この頃、少しずつではあるがその事をしみじみと思うようになってきた。「おかあさん、ありがとう」素直にそう思い、言える様になってきたのは、年のせいだけではない。今、家族と一緒に母と住んでいるが、本当に幸せな毎日を送らせていただいている。巷では、嫁と姑の諍い問題がテレビなどでもよく取り上げられているが、実の母と娘以上に仲のよい二人を見て、「ありがたいなぁ」と感謝している。本当に母に助けられている事が多い。会社でも、そうであろうが、自分中心の「与えられる喜び」「育ててもらう喜び」「教えてもらう喜び」から、自分自身がそのように人から育て、教えられ、多くのものをもらった恩に気づいたならば、その恩に感謝するだけでなく、恩を返す「報恩」を次は自分がしていかなくてはならない。「人を育てる喜び」「人が育っていく喜び」それを感じる人間に成長していきたいものだと思うのである。そういう気持ちで過ごしていれば、来年もきっとさらに素晴らしい「感謝の誕生日」が迎えることができるだろうと思うのである。
Oct 6, 2005
コメント(6)
日記を書くときのテーマというのを選べるようで、ここ最近いくつか選んで書いているのだけれど、4つぐらいのテーマでしか書いていないことがわかった。(^^ゞ要するにその事に今一番興味関心があるから書いているのだろうけれども、同じような考え方の人の周りには同じような人が集まるというのも、面白い事で、これを『同類親和の法則』という。意識するしないに関わらず、同じようなオーラ(生き方)を発している人を人は求め、縁を繋いでいくのだ。話は変わって...。どうやら「人生の転機」が来ているようである。これまで蓄積してきた事が、また次の一歩になりそうである。非常に険しい人生の選択であるかもしれないが、今非常に、「ワクワク」している。そう。今の気持ちを表現すると、「ワクワク」と言う表現が稚拙かもしれないが、一番ぴったりしている。たった一度きりの人生。自分自身と自分自身を育ててくれた「縁を頂いた人々」、本当に感謝です。何かまとまりのない日記になりました。また、後日詳しく書きたいと思います。是非
Oct 2, 2005
コメント(4)
一枚の「詩」が、思いもかけず出てきた。それは非常に大きな衝撃と感動を僕の人生に与えた「詩」である。昔あるセミナーで御一緒した女性の方が、盲目の方だった。何日目かの夕方、海が一望に見渡せる食堂で、夕食を食べている時だった。水平線の彼方に、信じられないほど美しい夕日が今、沈んでいこうとしていた。誰もが目を奪われ、落ちていく夕日に見入っていた。そして、覚えず、ある人が言った。「うわ~ぁ...きれいな夕日ねぇ...」瞬間、多くの人たちが同時に「気づいた」盲目の女性が自分たちの席に座っているということを。これもまた同時に、振り返り何人もの人が彼女を見た。すると、彼女は泣いていた。目から涙がぽろぽろとこぼれていた。しばらくして、彼女が言った。「私にも見えます...、海に沈んでいく夕日が。私は、今日まで過ごした皆さんの温かい心遣いが本当に嬉しくて、ありがたいと本当に思います。だからその皆さんが見える夕日が、私の目にも見えます!」誰も食事をせず、ただ黙っていた。泣いている人もいた。翌日、その女性がみなの前で紹介してくれた「詩」がある。それが部屋を整理しているときに、「久しぶり」に出てきたのである。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「あたりまえ」こんなすばらしいことをみんなはなぜよろこばないのでしょうあたりまえであることをお父さんがいる、お母さんがいる手が二本あって、足が二本ある行きたいところへ歩いてゆける手をのばせばなんでもとれる音が聞こえて声がでるこんなしあわせがあるでしょうかしかし、だれもそれを喜ばないあたりまえだと笑ってすますこんなすばらしいことを、みんな喜ばないそのありがたさを知っているのはそれをなくした人たちだけなぜでしょうあたりまえ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆そのありがたさを知っているのはそれをなくした人たちだけなぜでしょうあたりまえ最後のフレーズは、まだ若かった僕の胸に突き刺さった。親も兄弟も友達も...、目が見えることも、水が飲めることも、全てが「あたりまえに」あると思っていた...本当に、今自分に「あたりまえ」にあることに、もう一度感謝したいと、あらためて思った。ありがとうございます。
Sep 29, 2005
コメント(6)
久しぶりに、自宅に早く帰ってきた。4歳になる長女「花」と2歳の長男「新之助」が、ちょうど今から風呂に入るところだった。「お父さんが帰ってきたよ~!」聞くと、「今日はどうしてもお父さんと一緒に御風呂に入りたい」と娘の花が言っているという。「お父さんはねぇ、今日もたぶんお仕事で遅いよ」家内がそういうと、娘が、「それだったら、サビシイなぁ」と言っていたそうである。「よし!花!一緒に御風呂に入ろう!」それはそれは二人は大喜びだった。三人で一緒に風呂に入り、久しぶりに楽しんだ。「お父さん!花ねぇ、水に顔をつけれるようになったんだよ!」いつの間にか、十秒もお湯の中に顔をつけれるようになっていた。「花~!すごいなぁ~!お父さんびっくりしたよ~!」湯船を出て、二人の身体を洗ってやると、娘が、「お父さん!花が背中洗ってあげる~!」「る~!」(※2歳の新之助は言葉の「語尾」しか話さない) 二人が笑いながら、騒ぎながら、背中を洗ってくれた。思えば、自分の子供に背中を洗ってもらうという体験を今までしたことがなかった。僕にとっては、父親として初めての体験である。家族を養う為に、また、自分自身の夢の為に、毎日を一生懸命生きている。仕事で大きな壁にぶつかる事もあれば、大失敗に頭を悩ます事もある。様々な突然の不幸や災難に、苦しむ事もある。しかし、本当に今日は「幸せ」を感じた。自分の死んだ父も、このような幸せを感じたのだろうか。人生で本当に必要な事は何か。成功もしたい、夢も叶えたい、お金も欲しい。人を助ける事のできる力も身につけたい...。しかし、今日子供と一緒に体感した「喜び」と「幸せ」この「喜び」と「幸せ」があるのなら、他には何もいらないような気がしたのである。
Sep 28, 2005
コメント(3)
あなたは自分自身に「誇れるもの」がありますか?あなたが「誇らしい」と思うときはどのような時ですか?例えば、企業に勤務する人間であるならば、自分の会社をほめられたりそこで働いている事を誉められたりした時に「誇らしく」感じることがあるだろう。「誇らしい」と思う心をじっと自分自身で見つめてみると、そこに「今を生きる力」を見つける事ができる。自分自身の生き方の力と根っこがそこから生まれる。若い人達の自殺が多いと聞くが、この「誇らしいもの」が自分自身の中に見つける事ができないというが理由にあると思う。今の日本人に足りないものは、この「誇り」だと僕は思う。自分の中に「誇り」をつくる為には努力が要る。ボーッと生きていても、何も見る事はできない。自分自身を大切にできない人間は、他人を大切になどできない。今現在の中に喜びと感謝を見出す事ができない人間は、いつまでたっても幸せにめぐり合う事などできない。幸せというものは人に与えてもらうものではないからである。ここに一枚の写真がある。この写真はいつの写真で、どこで撮られたものか。これは、終戦直後の長崎。そう、原爆が投下された直後の長崎での写真である。写真を撮影したのは、「ジョー・オダネル」というアメリカの従軍カメラマンである。ジョーオダネルは19歳の時にアメリカ海軍に従軍し、太平洋戦争(大東亜戦争)に参戦する。当時パールハーバー攻撃を知り、敵国日本に敵愾心を燃やしていた青年ジョーオダネルは、日本の敗戦アメリカの勝利を太平洋の洋上で聞く。 「ざまあみろ!ジャップめ!」「ようやくこれでアメリカに帰ることができる」そう思っていた矢先、彼は、敗戦直後の日本の調査を行う事を命ぜられる。その後、彼ら一行は、敗戦後の日本へ上陸してくるのであるが、そこで彼らが見たものは、自分たちが想像していたような日本人たちではなかった。自分たちアメリカの攻撃によって徹底的に痛めつけられ、家族・親類縁者・友人・知人を失ってもなお、彼ら「日本人」は、アメリカ人の自分達に対して温かく、親切に接してくれるのであった。その体験が、彼(ジョーオダネル)を変えていく。そして、そのような時に出会ったのが、写真の少年である。 この少年の背中に背負われた小さな弟。彼はすでに死んでいる。少年の足元に「線」のようなものが見えるが、その「線」の前に何があるのか?そこでは今まさに、原爆や爆弾によって殺された人々の死体が焼かれていた。つまり「死体」を焼く『焼き場』の前にこの少年は立っているのである。この写真は、戦争ですべてを失い、両親も失い、そして最後の最後に自分自身がたった一人で守ってきた弟も死んだ、その弟をたった一人で焼き場に「埋葬」に来た少年の写真なのである。この少年に出会った時の事を、ジョーオダネルは次のように書いている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆焼き場に十歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じつと前を見続けた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。 私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆僕が感じた事、言いたい事は何か。この写真は、ある「平和を訴える施設」に掲示されているという。「戦争というもので犠牲となるのは、常に弱者である。この少年も犠牲者の一人である」僕は戦争を賛美するつもりは全くない。しかし、この少年の写真から学ぶべき事は何か。たった一人となっても、自分の弟を丁重に埋葬しに、敵の中にやって来た「勇気」「強さ」、そしてたった一人となっても、生きていこうとする事のできる「生きる力強さ」その事ではないかと思うのである。今の日本人には「日本」という国に対しての誇りが全くないという。しかし、考えてみればそれは当たり前のことで、「教えてもらっていないこと」には「思いを感じる事」もできないし、誇りを持つ事もできない。その心をはぐくんで来たことのない人間は、その心が育っていない。ただそれだけの事である。要は、「学んでいない事がある」「教えてもらえなかった事がある」ということである。人間は「誇り」なくして生きる事はできない。誇れるものが心の中にあるからこそ、人は力強く生きていけるのである。自分の父親がこんな生き方をしたのだ、自分の母親はこんな母親であったのだ、自分の会社にはこんなに素晴らしい先輩がいたのだという事を知ったとき、人が誇りを持つ事ができるのと同じように、日本の先人達の中にも、世界に誇れる素晴らしい「日本人」がたくさんいたのである。この写真の少年も、生きていれば70歳以上である。まだ御存命かどうかはわからないが、この方は、写真に撮られたということさえ知らないであろう。しかし、その一枚の写真に残った「生き様」が、人の人生を変えるほどの力があるという事を教えてもらったような気がしたのである。
Sep 24, 2005
コメント(22)
先日、以前にも話しましたが、素晴らしい校長先生に御会いしたので、その後紹介をさせていただきます。この話は、生徒の心がすさみ、教室のガラスが頻繁に割られていたという、ある中学校での出来事です。■前に進まないA子ちゃん■ある夏、学校で競泳大会が行われ、クラスから四人の選手を出すことになりました。A子ちゃんのクラスでも話し合いがもたれ、三人の選手はすぐに決まったのですが、もう一人が決まりません。だれかいないか、という声に、番長ともいえる生徒が、「A子がいい!」と言いました。瞬間、クラスの皆が笑いました。クラスのみんながどっと笑ったのは、A子ちゃんが体に障害を持っていたからです。けれども、指名した生徒がこわかったせいか、反対の声は上がりません。いよいよ競泳大会の日がきました。ピストルの音を合図に、スタート台から選手たちが次々と二十五メートルプールに飛び込んでいきます。プールサイドでは全校の生徒が選手たちに声援を送っています。順番が進み、A子ちゃんの番がきました。スタート台に上がったA子ちゃんの顔は明るく輝いていました。「ドン!」ピストルが鳴ると、選手たちはいっせいに飛び込みました。水しぶきが横一列になって進んでいきます。けれども、水しぶきを人一倍あげて泳ぐA子ちゃんは、なかなか前に進みません。その姿が滑稽に映るのか、プールサイドの生徒たちは声を上げてはやし立てます。A子ちゃんはそしらぬ顔で一生懸命に泳いでいます。■全校生徒のエールの中で■その時、一人の「おじさん」がプールサイドにやってきました。ひとりA子ちゃんが必死で泳いでいるのを見ると、その「おじさん」は生徒をかき分けてプールサイドに立つと、何も言わずに服のままで、ドボーンと飛び込みました。バチャバチャやっているA子ちゃんに近づき、A子ちゃんといっしょに泳ぎながら、おじさんは言いました。「腹立つねえ!でも!自分で泳げよ!」A子ちゃんが沈んでしまわないようにエスコートしながら、しかし、手を出して助けることはしないで、おじさんはいっしょに泳ぎます。『腹立つねえ、でも、自分で泳げよ』と言いながら。必死で泳ぐA子ちゃん、服のまま寄り添って泳ぐおじさん。その光景にまわりで騒いでいた生徒たちはいつしかシーンとなり、ついで新たな声が上がり始めました。「がんばれ、A子!」「がんばれ、A子!」やがて、その声は大合唱になりました。全校生徒のエールの中、長い時間をかけてA子ちゃんは二十五メートルを泳ぎ切りました。プールサイドに上がったA子ちゃんは、おじさんにしがみついて泣きました。まわりの生徒たちも、だれかれとなく抱き合って、喜び合いました。その「おじさん」は校長先生でした。そして、このことがあって以来、生徒たちの心は徐々に落ちついてきて、一年もたたないうちに、教室のガラスが割られるようなことはなくなったということです。障害のあるA子ちゃんがなぜ競泳大会に出ることができたのかを考えたとき、その背後にはご両親の深い愛情があったに違いないと思いました。おそらく選手に選ばれたA子ちゃんは、家に帰り、「お父さん、お母さん、わたしね、選手に選ばれたの」と言ったことでしょう。そのとき、僕が親だったら、「なんであんたが泳がないかんの?やめとけ!学校に言うてやる」ときっと言うだろうと思うのです。ですが、A子ちゃんのご両親は、「よかったな、おまえが選手か。大したものじゃないか。偉いなあ」と、障害があるということをどこにも感じさせなかったのでしょう。でなければ、A子ちゃんはあんなに明るく飛び込めなかったのではないでしょうか。このA子ちゃんのお父さんとお母さんの深い愛と立派さを思うと、胸がつまる思いです。この校長先生も素晴らしい教育者だと思います。世間体を気にするような校長であれば、『親や世間から何を言われるかわからん!障害を持つ子を選手に誰が指名した!担任はだれか!早く助けてやれ』などと言っておしまいでしょう。しかしこの校長先生は、まわりではやし立てる生徒を叱ることもなく、無言でプールに飛び込みました。校長先生は、だれも責めなかったのです。人を責めてよい方向にいくことはありません「腹立つねえ、でも自分で泳げよ...」この言葉はほんとうにすごいと思います。A子ちゃんの心をまるごと受け止めています。そして、障害は病気でもなんでもない、一つの個性だ、その個性を人からとやかく言われ、腹が立つことがあっても、どんなに時間がかかっても、自分の人生は自分で泳ぎ切るしかない。自分の力でしっかり生きなさい。そう言っているのです。校長先生は「いつでも助ける用意」をしながら。競泳に出たA子ちやんは、両親の愛と校長先生の愛の言葉でフールを泳ぎ切りました。その姿は学校全体をも変えました。愛こそが人間を支える力であるように思います。人は人を助けることはできない、支えることもほんとうはできないのかもしれません。けれども、私たちが愛をもって人に接するとき、私たち自身の力ではなく、愛というものが持つ強い力で、人はみずから支え、みすから成長するように導かれるのではないでしようか?家族を、そして縁ある方々を、大事にしたいですね。「あなたを愛しているからですよ」ただそれだけの心で。
Sep 19, 2005
コメント(8)
今日ご紹介するのは、「笑顔の種蒔き」をライフワークとしている福田純子さんの体験です。福田さんは福岡市で文化団体「笑顔共和国」を創設、その大統領として、講演活動やセミナーを全国で展開しています。ある日、講演を終えた福田さんは、豊橋から博多に戻る新幹線に乗りました。車内に入ると、ハッとするほど美しく輝いた女性が目に留まりました。すてきな人だな、と思いながら、自分の座る指定席を探していると、なんとその女性の隣でした。席に座ってしばらくは黙っていましたが、車内販売にコーヒーを頼むときに偶然口をきき、それをきっかけに親しくなりました。笑顔の美しいその人は、千葉に住む浅倉志津子さん。ご主人が広島に単身赴任しているとのことです。笑顔に関心の探い福田さんは、「どうしてそんなに笑顔が美しいのですか」と尋ねてみました。浅倉さんは、にっこりほほ笑んで言いました。「ありがとうございます。うれしいです。もし私の笑顔がそうならば、それは母のおかげだと思います」浅倉さんのお母さんには、二つの習慣があったそうです。一つは、朝起きるといちばんに、大きな鏡に向かって、「今日も一日笑顔でがんばりましょうね」と誓うこと。もう一つは、日に何十回となく「私はしあわせ」と言葉に出して言うことです。よい言葉を繰り返す浅倉さんのお母さんの晩年は、孫もたくさんできて、自分の息子や娘の家に順番に移り住む暮らし振りぶりだったそうです。いつも笑顔を絶やさず、「私はしあわせ」と言って明るく振る舞うので、子どもたちの間でもひっぱりだこでした。次の家に移るときは、子どものほうから電話が入り、「そろそろ、こちらに釆ませんか」とお呼びがかかり、「ハイハイ」と言って移っていったそうです。八十歳になったとき、お母さんは病で二日ほど入院しました。その間にも、多くの人たちが次から次へと見舞いに訪れます。たくさんの人に見守られる中、お母さんは、「ワタシハシアワセ」とひとこと言って、そのまま安らかに天国に旅立ったそうです。そのときの顔は観音様のようだったといいます。「あのおばあちゃんのような生き方がしたい。あのおばあちゃんのような顔で死にたい。それが私ども親戚一同の願いなのです」と浅倉さん。福田さんは感動し、この話を全国に伝えて歩くようになったといいます。「私はしあわせ」なんと簡単な言葉でしょう。けれども、言葉には大きなエネルギーがあります。暗い言葉、嘆きの言葉、人を責める言葉を繰り返すのではなく、自分を幸福にし、周囲の人を豊かにする、簡単で楽しいプラスの言葉を繰り返し唱えたいものですね。(^^)v
Sep 16, 2005
コメント(9)
■未来を信じた生き方に学ぶ■台湾の少年「周大観」くんは、小児がんのため九歳でこの世を去りました。その間に詩作四十二編を残しました。それらの詩には、病という苦難と真正面から向き合って生きつづけた大観くんの気力がにじみ出ています。「九歳の誕生日」では、自分の成長を夢見て、次のようにつづっています。これまで、ぼくは誰とも争わなかった争うことなど何もなかったからだけど今、僕は癌の悪魔と闘っているさらに、大観くんは手術で右足を失います。そのとき詠んだ詩が「ぼくには まだ一本の足がある」でした。ベートーベンは両耳が聞こえなかった鄭龍水(ていりゅうすい)は両目を失明しただけども、ぼくにはまだ一本の足がある地球の上に立ちたいからヘレン・ケラーは両目を失明した鄭豊喜(ていほうき)は両足が不自由だっただけど、ぼくにはまだ一本の足がある美しい世界を歩きまわりたいから(*鄭龍水も鄭豊喜も、重度の障害を克服した台湾の人)この詩からは、失ったことへの不満ではなく、与えられた可能性や未来を信じて生きようとする気持ちが伝わってきます。大観くんはみずから申し出て、治療チームの会議にも参加しました。会議では再手術を断念するという結論が出されました。それは大観くんにとって死の宣告を受けたに等しいものでした。そのとき彼は言いました。「先生、看護婦さん、これまでぼくのお世話をしてくれてありがとう。みなさん、一生懸命にやっていただきました。だから、ぼく、みなさんにお礼が言いたいんだ」と。 そして両親やきょうだいに向かって、「ぼくが死んだら、ぼくが、がんばってがんと闘ったことを、ほかのがんにかかった子どもやその両親に伝え、彼らが勇気と強い意志をもってがんに立ち向かってくれるよう伝えてください」と書き残しています。自分の境遇を、うらむのではなく、むしろ素直に状況を受け入れています。それどころか、親や周囲に対して感謝の気持ちを表している大観くんの姿から、私たちは大切な心のあり方を学ぶことができます。(『ぼくには まだ一本の足がある』 宋芳綺著・千島英一編訳/麗澤大学出版会刊より)僕たちが日常の生活の中で「あたりまえ」と思って気にも留めていないこと。それをありがたいと感謝しているのは、それを失った人達だけなんですよね。当たり前に目が見えること、当たり前に人と話ができること、当たり前に歩けること。感謝の気持ちを忘れたくないものです。
Sep 16, 2005
コメント(4)
ある「詩」と出会った。今までの人生の中で一番というほど感動して、思わず立ち尽くした。ご紹介します。「祈りと謙」◆◆◆◆◆◆大きな事を成し遂げる為に力を与えて欲しいと神に求めたのに謙虚を学ぶようにと弱さを授かった偉大な事ができるように健康を求めたのによりよき事をするようにと病気を賜った幸せになろうとして富を求めたのに賢明であるようにと貧困を授かった世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに得意にならないようにと失敗を授かった求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた神の意に添わぬ者であるにもかかわらず心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた私は最も豊かに祝福されたのだ
Sep 15, 2005
コメント(2)
大学生のL君がこの夏休みに、名の知られた中華料理店で皿洗いのアルバイトをしました。次から次へと運び込まれてくる油で汚れた大量の食器を洗う仕事です。その単調な仕事にL君は、ほんの二、三日でもういやになってしまい、「こんなバイトなんてするんじゃなかった。もっとやりがいのある仕事に変わろう」と思いました。そんなL君の気持ちを見抜いたかのように店長が声をかけました。「君は皿洗いなんてばからしい仕事だと思っているのと違うか。でも、それは違う。君がぴかぴかに洗ってくれた食器に盛りつけるからこそ、料理人が心をこめて仕上げた料理がいっそう映えるのだ。お客さまもよろこんでくれる。君の仕事は、うちの店にとって大事な仕事なんだ」 L君はこの言葉に、頭をがつんとなぐられたような衝撃を受けました。そして、自分の仕事に対する取り組みの姿勢を恥じたそうです。世に「雑用」と言われたり思われたりしている仕事が多々あります。でも実際には、そんな仕事などないのです。携わる人がその仕事を雑に思い、それが行為に反映されると、雑用になるのです。自分が与えられた仕事を「雑用」と思うか、心を込めて「仕事」をすることができるか。その事こそが大切なことなのですね。自分の好む仕事であろうが、気のすすまない仕事であろうが、今目の前に与えられた「自分の仕事」をしっかりとこなし「役に立った」ときにこそ、結果として信頼や信用が後からついてくる、そう思うのです。
Sep 14, 2005
コメント(2)
全国組織の「トイレ掃除に学ぶ会」というのがある。僕も福岡のこの組織、というよりも、会社ぐるみでこれに取り組んでいる。鍵山先生曰く、「トイレ掃除ではない、『トイレ磨き』である」との事。トイレ掃除というのは非常に面白い。本当に多くのことを教えてくれる。ほとんどの人が、鍵山先生の話を聞いて「俺もやるぞ!」と「トイレ掃除」をはじめる。しかし、これまた「ほとんどの人」がすぐにやめる結果となる。面白いのは、だいたい同じ道を皆たどるのが面白い。(動機)鍵山先生などの話や、「トイレ掃除をやっている人」を見て、 「よし!俺も明日からトイレ掃除をやるぞ!」と思う。(実践)まずはとにかく始まる。(変化)※周りから 「どうしたんですか!いきなりトイレ掃除なんかし始めて!」 「またまた~!どういう心境の変化~?」◆このように周りや家族にからかわれたりして、3割ぐらいの人がやめる。(最初の人数を10人として「残り7人」)(数週間後)「おいおい!俺がトイレ掃除しているのに、誰も手伝おうともしないというのは何だよ!」「まったく、こういうことに誰も気がつかないからな~!」「毎日掃除しているんだから、少しはきれいにしようと心がけろよ!」「レベルの低いやつばかりだ!」◆このように「いい心がけ」ではじめたのに、人を責め始める。 そして、嫌気がさして3~4人がやめる。(残り3人)(約一年後)「よし!俺はもうこの掃除を通して『悟った』!だからもう続ける必要はない」◆そうして2~3人がやめる。大切なことは「無意識にやれるようになるまで続ける事」だと思う。つまり意識しないでもやれるようになれば、それはその人の人間性である。「あたり前のことを、人が見ていないところでも、あたりまえにすることができる」鍵山先生が掃除を通して得た一番のことはそれであり、「トイレ掃除の会」や「トイレ掃除」を始めて僕らが学ぶべきことはそのことである。という僕自身、自分が失敗したからそう思うんですが。(-_-;)「心を磨く、トイレ磨き16か条」1.便器は素直である。いつも私の心を写している。2.磨けば磨くほどトイレは美しくなり、 心も美しくなっていくようだ。3.トイレットペーパーを三角に折ることは、 次なる人への心遣いである。4.磨くことは自分の為であって、誰の為でもない。5.トイレ磨きは心を磨く。6.トイレ掃除と磨きの違いは、心で磨くかによって決まる。7.トイレ磨きを一度だって嫌だと思ったことはない。 それは私の日々の活力だから。8.常に私を励ましてくれたのが便器であり、トイレ磨きだった。9.磨けば磨くほど、心の罪が少しずつ消えていくようだ。10.跪(ひざまず)くことは、心の足元を見つめることだ。 トイレ磨きは、自分を見つめさせてくれる。11.トイレ磨きができるようになると、人間としても一回り大きくなる。 それは今までに体験したことのない世界であるからだ。12.トイレは誰にとっても大切なものでありながら、 いざ掃除となるとあまり好まれないことがある。 人間の勝手な気持ちの現れである。13.心に迷いがあった時、 トイレを磨けば必ず解決の糸口が見えてくる。14.トイレを磨くことができれば、どんな下座(げざ)の仕事でも すんなりと手を差し伸べることができる。15.トイレ磨きは私を育ててくれた師である。16.トイレはいつも私にささやきかけてくる。 「ありがとう」という言葉が伝わる。 「凡事徹底」の著者 鍵山秀三郎氏 語録より「俺はよい事をした」「俺はよい事をしている」そう思った時に、その「よい事」は色あせてしまう...。よい事をしてなお「自分を振り返ること」ができるか。これが自分自身を成長させる「カギ」ではないでしょうか。
Sep 13, 2005
コメント(8)
上司や目上の人が訪問してきたとき、部屋のなかは暑くないか、飲み物は冷えているか、食事は何がいいかなどいろいろと気をつかうものです。相手に気分よくすごしてもらえるよう気配りすることは、人をもてなすうえで、とてもたいせつなことですね。けれども相手がどう思っているか気にしながら、過剰にエネルギーをつかうのも考えものです。それに気をつかわれる側も負担に思ってしまいます。カウンセラーの江原啓之さんは「気をつかう」と「気をきかせる」は違うと説明していました。気をつかうというのは、自分がよく思われたいという自分中心の行為であり、気をきかせるとは、相手が何を望んでいるかを感じとり、それに応えようと努力する相手中心の行為である。必要のないサービスをあれこれ受けるより、して欲しいことを的確にしてくれるほうがうれしいものです。ちょっとした気のきいた行為に、人は心を動かされるものです。反対に親切な行為でも押しっけがましければ、不快に感じてしまいます。相手の気持ちを敏感にキャッチして、心から満足してもらえるよう、気をきかせる努力をしたいものですね~。
Sep 12, 2005
コメント(5)
今日の朝出勤していて、「妙な渋滞」に出会った。50m先ぐらいの「ある場所」に来た車が、左へ右へと「何かを避けるように」動いているのである。その為、後続の車が渋滞しているのである。「何しているんだろう」と少しイライラしながら、自分の車が「その場所」に来たとき、渋滞の理由が分かった。2、3台前の車が車を右へ左へとよけている「もの」は、「小さな小さな子猫」だったのである。手のひらにも乗るほどの小さな子猫だった。小さな子猫は、怪我をしているのか、恐怖で動けないのかは分からないが、アスファルトを這うようにして、もぞもぞと動いている。近づいてきた車はどの車も子猫と分かると、ハッとして車を右へ左へ旋回させていたのだ。「あっ!危ない!」スピードを出して近づいてきた車が、子猫の上を通り過ぎた。前にまだ2台ほど車がいたのだが、見かねて降りて子猫を道路わきによけてやろうと思って、ドアノブに手をかけた時・・・。すぐ前の車から、降りてきた人が子猫を抱えて道路わきへそっと置き、車に戻ってくると、後続の車に「ペコリ」と頭を下げて、車に乗り込んだ。思わず、こちらも「ありがとうございます」とペコリと頭を下げた。良いことをするには勇気がいる。心の中で思っても「何もしない」のでは、思わなかったのと一緒である。何十台という車が『その場所』を通り過ぎたが、どの人も「危ない!」「子猫は大丈夫か」と思っただろう。しかし、実際に子猫を助けたのは、「私の前の車の人」ただ一人である。自分がしなくても、誰かがしてくれるだろう、とみな思いがちである。「子猫を助けたいと思うこと」と「子猫を助けた」という事は、全く違うことなのだ。がけの上から「お~い大丈夫か!」と叫ぶ人と、がけの下まで降りて行き、「大丈夫か」と声をかけることとは、生き方の胆が違う。小さな善行を、人が見ていないところでも実行できる「普通の勇気」を自分自身も持ち続けたいものだと、車を走らせていた。
Sep 12, 2005
コメント(1)
唐突ですが、今日ラジオに出演しました。ラジオ放送局は、福岡のFM放送局の「FM-MIMI」「ラジオに出演の話が来ているけれど」御世話になっている方が電話をされてきた。「私がお役に立てるのであれば」ということで出演する事にした。前日に打ち合わせがあった。てっきり私は「15分ぐらいの『脇役』もしくは、『通行人』程度の出演だろう」と思っていたのだが、何と!2時間半!それも「窪山さん、どうぞその辺は言いたい事を言っていただいて結構ですから」と、かなり「自由時間」があるようであったのには驚いた!「こんな事公共の電波で話していいんですか」と聞くと、「大丈夫ですよ、あとの事は私達が責任取りますから」と先方の方は言う。(^_^;)今の技術は本当に進んでいて、「ラジオが見れる」のにも驚いた!インターネットの局のサイトにアクセスすると、現在スタジオで収録中の番組が「見れる」のである。これは面白い!身内が公共の電波で話す事を見るのも面白いが、「生放送」である。少々過激な事も言ってやろうと画策していたので、知り合いに電話とメールで知らせた。当日、スタジオに行ってみると、「ここですか?」というような、何と言おうか、その辺の「喫茶店の従業員さんの休憩室」みたいな感じのところで、収録というのである! 最初は緊張していたが、30分もすると慣れてしまい、結局最後はベラベラと公共の電波ということも忘れて、喋ってしまっていた。(^_^;)出演者をリラックスさせる為か、経費削減のためかはわからないけど...。まるで自分の部屋のようなスタジオ。あれが今風なんでしょうかね。初のラジオ出演の話しでした。お粗末でした!(^^)v
Sep 11, 2005
コメント(4)
昨日、楽天日記でも有名な「よびりん」先生こと、市川義彦先生の講演会を開催した。「大分のオグ」さんとも久しぶりにお会いして、懇親を深めた。いつもながら「よびりん」先生の講演は「激しく」「可笑しく」「勉強になる」とにかく、真剣に聞き入り、そして「笑った」。2年間無給で働き、その苦労も笑い飛ばす「よびりん」先生の人間的魅力から来る「経営哲学」は、私も目指すところである。その「よびりん先生」の講義と、著書「小さな会社生き残りのルール」から今日はご紹介します。(おススメ度★★★★★)「よびりん」先生の「小さな会社シリーズ」は、仕事に、人生に役に立ちます。経営者となりたい人は、是非とも読んでおきたい一冊ですね。特に大企業でなく、中小企業、そして学歴も大したことの無い人間が、経営者としてまさにタイトルどおり「生き残っていく」為にはどうしたらよいか。その経営者としての考え方が身につく本です。愛の経営と半分の法則◎「これからは『守る経営者』の時代が来ます。『守る経営』とは見栄や体裁や売上、営業所や従業員の数などを、他社と競い合わない経営をすることです。ようは、継続的に利益を上げ続ける『体質』を作ることです」◎「吹けば飛ぶような会社の社長は、とにかく長時間労働をするしか強者には勝てない」◎「儲からないのは社長の責任だ」従業員と一緒になって十分に検討すれば、必ず成功に結びつくのである。儲けている人の周りには儲けのヒントがある。◎「半分の法則」で財務体質を強化せよ!収入を今の半分であると考えて、半分の収入で生活できる支出を考える。◎社長にも社員にも「走るタイプ」「守るタイプ」「創るタイプ」がある。 「走るタイプ」は、売上至上主義の「イケイケドンドン」、織田信長タイプ。「創るタイプ」は、技術畑、職人畑の社員が花形。オンリーワンの商品作りが至上命令。「守るタイプ」は、帳簿管理が至上命令。数字に明るく、金の管理に厳しく、無駄な金は使わない。これからは「守るタイプ」の会社で無くてはならないが、「守る会社」の弱点は、営業力と企画力です。守るタイプの会社の営業マンは、絶対に走るタイプでなくてはならないのです。また、企画力技術力の強化をするには、「創るタイプ」の社員が絶対に必要なのです。あえて自分の反対ばかりを言う「変人」を入社させる。「最高の商売とは互いに得をすることである」「目標は売上の多寡ではなく、利益の優先である」「安易に異業種に参入するな!儲かる仕事はとっくに他社がやっている!」「現金をモノに変えるな!公私共に必要最低限の経費で経営しろ!」「不況のときでも元気な会社は、例外なく経営者が働き者です」「商いは『笑い』から。『笑う門』には福来る」とにかく笑う練習をしましょう!どんなに苦しいときでも、明るい会社には必ず光が差してきます。ですから苦しいときにこそ笑うのです。新庄になるのだ!彼は二軍に落ちても笑顔を忘れず回りを楽しませようとしていた!だから周りが彼を守り立ててくれる。これが生き残ると言うことなのだ!「お金には3種類あるのです。最上位のお金を『キン』と言います。これは、正しい仕事をして得たお金の事です。中位のお金を『カネ』と呼びます。これは不労所得のことです。土地を転がしたり、株や先物投資、宝くじ、ギャンブルでもうけたお金です。最下位のお金を『銭(ゼニ)』と言うのです。これは人を泣かせても、苦しめても自分さえ良ければよいと言う腐ったお金のことです。」人は額に汗した『キン』で生きるのだ。「中真面目な生き方が大事」!「クソ真面目」「不真面目」では成功しない。特に「半分の法則」は本当にいろいろな意味で教訓になります。「どんな成功者の話であっても『半分だけ』聞くのです!全部クソまじめに聞いて、クソまじめにやろうとするから失敗するのです」黒板いっぱいに「あっほ~~~~~~~~」と書く講師の先生は、日本中探しても「よびりん」先生だけだろうと思う。
Sep 10, 2005
コメント(2)
日記に遊びに来られている、親愛なる「すずさん」(^^)より、「シリーズで書いて下さい」と書き込んでいただいているのを見て、「そうだな、僕自身の勉強になるなぁ」と思い、社長の事をもう少し書いてみる事にしました。(^^)v社長との御付き合いの中でメモした大量の記録もあるし、それを整理するいい機会だなあと思い、書く事がなくなるまで書いてみようと思いました。それがいずれ自分が経営者となったときの、指針と戒めになるかもしれないとも思うのです。自らを助くるものと滅するもの◆◆◆◆◆今回は、杉社長が助けたある企業の話です。この話は今でも伝説となっていますが、その会社は現在その地域で「ダントツの勝ち組企業」となりました。しかし、当時は全く「売れない店」で、自衛隊出身の社長は「このままでは潰れてしまう」と藁をもすがる思いだったのです。当時、強力な競合店が近くにいたS社長は、毎日悩み、このままでは自分の店がつぶれてしまうと考えていました。ある時、福岡の方に杉社長という人がいて、経営が難しくなった店を次々に甦らせている、という話を聞いて、S社長は杉社長と会う事にしました。話を聞いた杉社長は、S社長の店に行き、従業員さんたちと話し、競合店を見て言った。「社長、まず皆さんの給料を上げてやって下さい」S社長は驚いた。今の給料も悪いとは思わない。というより他と同じである。ことさらに自分の店だけが低い賃金と言うわけではない。ましてや、自分の店は売れない店で経営が苦しい。下げると言うのならわかるが、上げるというのはどういうことか。しかし、いったん杉社長に任せてお願いしようと決心した以上、やってみよう。S社長は、そのようにする事を決心した。「S社長、『給料を上げてやる』のではないですよ。『上げさせて頂く』という気持ちでやるのです。本気で従業員さんに感謝してみてください。この店には本当に素晴らしい従業員さんがたくさんいらっしゃいます。その一人一人に社長自ら語り、『これぐらいしかしてあげられなくてごめんね』という気持ちで『上げさせていただく』のです。すべての従業員さんの『親』になってあげる事です。」S社長は杉社長の言葉に感心し、共感した。実際S社長の店が甦ったのは、このS社長が杉社長の「言われるとおり」素直に実践したのがよかったのだ、という。頭がいい人は「そりゃおかしかろう」などと成功者のアドバイスを切り返し、結局自分流でやってしまい失敗してしまう。S社長はその後、一人一人の従業員たちと話し、給料を「上げさせて頂いた」。その後どのようになったか。会社が苦しいのは皆知っている。しかし社長はそれでも自分達の給料を上げてくれようとしている。これでこの心に応えない従業員はいなかった。皆が燃えた。時間を惜しみ働き、喜びの和はお客様へと伝わり、感謝の心は感謝の行動、思いやりの行動としてお客様を感動させた。見る見るうちに店の売上が二倍、三倍と増えた。「幸せのスパイラル現象」とでも言おうか、まさに「喜びが喜び集めて喜びに来る」というような現象がおきた。お客様がお客様を連れてきた。そんな時、ある事件が起こった。競合店の店長をしていた男性が、責任取らされ会社を辞めさせられてしまい、彼はノイローゼとなり、自宅に引きこもってしまっているという事を杉社長は知ったのである。杉社長は、すぐにS社長を呼んでいった。「Sさん、確かに競合店があったから、あなたの会社は潰れるかもしれないという事になった。しかし、競合店があったからこそ、これだけの成長をさせてもらったんですよ。その店の責任者であった男性が、ノイローゼで自宅に引き込んでいるらしい。その家に伺って、御両親にお詫びし、彼を雇ってあげなさい」S社長はその考え方に驚いたが、共感もした。S社長は「彼」の自宅に行き、御両親にお詫びをし、彼を目の前にして言った。「良かったらうちで働いてくれませんか。給料は今までの2倍出させて頂きます。」「彼」は玄関先で大泣きしたという。その後、この店がどうなったかは、想像に難くないと思います。経営者と、従業員が本当に一致団結した店が、「負けるわけ」がない。そうして、競合店はその後潰れてしまい。S社長の店は九州でも坪売上ナンバーワンの店となったのでした。
Sep 9, 2005
コメント(3)
この日記に訪問してくださった方々が、非常に共感していただいたのと、昨日社長に御会いして、また色々感銘させられたことがあり、もう少し「杉社長」という方の事を書きたくなりました。それにここに記録としても残るので、ひとつ書いておくのもいいかなぁ、と思った次第です。(水不足と朝市)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昭和53年の事。福岡市を深刻な水不足が襲った。来る日も来る日も雨が降らず、水の節水はもちろんの事、何日かは水道から水が出なくなった。当時、全く売れなかった、お客様が来なかった状態から、社長が変わり、従業員さん達が変わり、心から皆が一致団結して事にあたり始めた頃から、少しずつお客様が増え始めてはいたが、それでも売上は現在の十分の一ぐらいである。ある日、営業会議が開かれた。テナントさん達も全員集まっての会議の中で、杉社長は尋ねた。「お客様が喜ぶ事は何だろう?」 すると、あるテナントの店長がこのように言った。「そりゃ、社長!水ですよ!水! みんな今一番欲しいのは、水ですよ」店長は、冗談に皮肉を交えて言ったらしい...。「水...?」次の日、店に出てみると、店頭に行列ができている。「おっ!何か話題になるような売出しでもしたかな?」杉社長は、そのように思い、近くにいた従業員に尋ねた。「何かやっているのかい?」従業員は答えた。「社長、あれは水をもらいに来た行列ですよ。うちは冷蔵庫を冷やすのに井戸水を使っているでしょう?その井戸水をもらいにお客様が来られているんですよ。商品も買ってくれたらいいんですけどねぇ」その時、社長は身体に衝撃が走ったと言う。「今こそお客様に恩返しするときではないか!」すぐに店長以下テナントさんや従業員を集めて緊急会議を行った。「店内の冷蔵庫をすべて停止して、 すべての水をお客様に配給する!」店長以下、驚いて目が飛び出した!「社長!そんな事をしたら、肉や魚は腐ってしまいますよ!それに冷蔵庫の中の商品も全部ダメになるじゃないですか!どうするんですか!」社長は言った。「どうせ売れないんだ!午前中のうちに全部売って、午後から店を閉めろ!それよりも大切なのは、今いつも店を利用してくれているお客様が『水』で困っているんだ!ここで助けないでどうする!」社長の情熱が、次第に皆をプラス思考に変えた。 「よーし!やろうやないか!」「午前中に売ってしまえ!」「お客さんが水を汲みやすいように、蛇口を増やせ」翌日から、店の前に『行列』ができた。もちろん水をもらいに来たお客様である。そうして「朝市」が始まった。 「お客さん!いつでも水ばもらいに来なっせ!」「お客さん!安いよ!買っといて」「午後から来ても、商品ないよ(笑)」数ヵ月後...。店はお客様であふれかえっていた。「社長!この前は本当にありがとうね!」「あたしゃ、他の店が安くてもここでしか買い物せんバイ」「主人がですね『他で買い物したら承知せんぞ!』って言うんですよ。もちろん私も他では買い物しませんけどね」当時競合店がひしめく小さな地域で、誰もが潰れると思っていた。ある業界紙などは、実名で「次に潰れるスーパー」と書いていた。その企業に奇跡が起こった。しかし、その奇跡というのは、一人の経営者が、本当に心の底から「地域の人々」を思い、そしてその思いを感じた従業員が一致団結して為しえた、奇跡だったのである。
Sep 8, 2005
コメント(7)
前回の日記で、うちの社長の事を書いたが、ちょっと思うところあったので、今日も少し社長のことに触れてみたい。僕が現在の会社に入社したのは、平成9年の10月6日。何故こんなに正確に覚えているかというと、その日が30歳の誕生日だったからである。現在の会社は複数の店舗を経営する「食品スーパーマーケット」その前は、学習塾の講師をしていた。何故全く畑違いの仕事に就いたのかは今回省略するとして、ちょっと社長の話をしたい。何故ならば、何故社長が「神様に応援される人」なのか、ということが理解していただけると思うからです。福岡市内のある食品ストアが倒産した。その中にはテナントとして数件の店舗が入っており、経営者たちは途方に暮れた。当時乾物屋を経営していた杉社長は、皆の代表として「協同組合」を作り、ショッピングセンターを立ち上げた。しかし、その当時大手スーパーが道を挟んですぐ隣にあった為、全く売れなかった。必死で様々な手を打つが「全く売れない」。更に追い討ちをかけるように、500m先にまた大きな生鮮スーパーができるという話が持ち上がった。皆、これで終わったと感じていた。社長の髪の毛が3日で真っ白になったのも、この頃である。社長がいまだに恩師と呼ばれる、片山先生(財団法人モラロジー研究所)という方が指導に来られた。道を挟んですぐ隣の非常に繁盛している競合店を見ながら、片山先生は杉社長にこう言った。 「杉さん、あんたのスーパーは『いらないスーパー』だよ。隣の店を見てごらん、あんなにお客様が入っている。地域のお客様が必要としているスーパーがあるのに、何でこんなとこに店をつくったかね」そう言われて杉社長はむっとするが、売れないのはあたっているし、つくってしまったものはしょうがない。藁にもすがる思いで、杉社長は片山先生に尋ねる。「先生、じゃあ、うちの店は潰れるしかないんですか? 生き残る道はないのですか?」杉社長の問いかけに、片山先生がこう答えた。「そうだなぁ...。杉さん、あんたのところの従業員さんが『神様の御手伝い』のできるような人達に育ったら、あんたの店は、必ず生き残ることができるよ」社長は最初意味がわからなかったが、その後、様々な勉強を従業員さん達とともに始める。そしてどのようなことが起こり始めたか。今でも語り継がれている話だが、このような事があった。あるお客様が、うちの店の自転車置き場に自転車を止め、隣で買い物をして帰ろうとしたとき、過って自転車が倒れ、中の豆腐と玉子が割れてしまった。その時、一人の女性従業員が駆け寄り、自転車を起こしてくれ、「割れた玉子と、お豆腐、新しいのをお持ちしますね」と言って、店から新しい商品を持ってきてくれたそうである。隣の店で買ったのは明らかであったので、「これは隣で買ったのだから、いいですよ」と言ったのだが、この女性の従業員は、「うちの店の駐車場で倒れられたのですから、うちのお客様ですし、そのお客様の商品が台無しになったなら御取替えするのも当たり前です」と答えたと言う。そのお客様、自転車を押しながら帰ろうとしてふと後ろを振り向くと、先ほどの女性従業員が、「ありがとうございました」と深々と頭を下げていた。その姿を見て、それ以来、この女性のお客様はすっかりうちのファンになってしまったという話である。この他にも、このような多くの話があるのだが、そのような従業員が次々と育っていったのは、ひとえに社長の「自分づくり」「徳づくり」にあったと社長は今でもいう。そして社長が成長していけばいくほど、素晴らしい従業員が育ち、心からお客様に感謝の豊かな心で接することのできる「従業員(人間)」が育っていったという。杉社長が出店をするのは、全て「人助け」である。これは本当の話である。グループの企業や、知り合いの企業が「もうどうしようもない」ということで助けを求めてきたとき、その店を借金もろとも引き受け、奇跡を起こしていくのである。神様に助けられているという所以もこのあたりにもある。舞台が百八十度回転していくように、奇跡が起こるのである。それも「人間くさく」である。社長よりもいい給料をもらっている人間がざらにいる。「俺はもう『金』はいらん、利益が出たら、従業員さんに本気で返せ」と社長はいつも言う。そして本気でそれをしている。どこの会社でも飲み会はあるだろうが、うちの会社の飲み会は、ある特徴があることに気づいた。「誰一人として社長の悪口を言う人間がいない」と言うことである。営業本部にいるから真実を知っているのだが、税理士の方々が、「あの社長は異常です」(よい意味で)という。経営の常識から外れているという。確かに「異常」かもしれない。というより、そのような経営者に税理士の先生方が出会ったことがなかったのだろうともいえる。社長は一年のうちほとんど自分の店にいない。60社ほどあるグループのほかの企業の手助けに走り回っている。「窪山君、人間をな、人間の心を知り、人間学を学べ。 企業を活かすも殺すも人間、その人間とは何なのか。 自分も人間、相手も人間、人間とは何か。 それを知りえた人間が、経営者となれるんだよ」いまだ、修行中であるが、いつか必ず社長にご恩返しのできる自分になれるよう、自分自身を成長させていきたいものである。
Sep 6, 2005
コメント(6)
今日ある会合があり、そこで1時間ほど話をした。その中でうちの社長の話をしたのだけれど、社長の話をし始めるといくら時間があっても足りない。僕は、今の会社の社長に会って人生が変わった。社長は、亡くなったうちの父とも親しく、父の葬儀の時には友人代表で弔辞を読んで頂いた。社長の話をすると多くの方が、その人間的人望の厚さから、「杉社長は『神様が応援してくれる人』だからね」という事を言われる方が多い。素晴らしい方の周りには、素晴らしい方が多く、社長のお陰で、色々な素晴らしいご縁を頂いたと感謝している。 しかし、その社長も創業時、大変な苦労をされた。社長がある日ふといなくなり、3日程して帰ってきたとき、髪の毛が真っ白になっていて、周りが仰天した、という話は有名である。それほど大変な思いをされたのである。社長は怒ると赤鬼のような顔になる。そして、静かに怒る。会社の中で社長に怒られる人間はわずかだが、本当に「恐ろしい」それ以外の人には写真のように「仏」である。船井総合研究所の船井幸雄会長は有名な方だが、船井会長も杉会長と親しく、「杉社長がもし会社を大きくする事を第一に考えていたら、松下幸之助よりも有名になっていただろう」とも言われている。そうかも知れない、と近くにいる私もそう思うのである。世の中には色んな経営者がいる。様々な考え方の経営者がいる。誰がよくて誰が悪いということではないが、間違いなく、杉社長は「神様に守られている」これは間違いない。そう断言できる。企業の社員として、何より感謝したいのは、そのような社長の下で働くことができるということであり、そんな社長との縁をくれた父に、心から感謝したいと思うのである。
Sep 5, 2005
コメント(6)
話は変わるけれど、人が聞きやすい「声」の、(よくわからないけれど)周波数?のようなもの?のようなものがあるのかも知れない。金美麗さんというマスコミにも良く登場されるが、その方と一緒に食事をした時に、「あなた、『声』がいいわねぇ! アナウンサーになったら?」と言われた時に、初めて自分の声を意識した。いまさら職業を変えることもないので聞き流していたが、その後、何人かの著名な方と近くで話すたびに、「君は『声』がいいね」と言われたことがある。(声だけですか?(^_^;)とも思ったが...)しかし、何か声の周波数みたいなものがあって、人間の人相と一緒で、聞きやすい声、好感の持てる声というものがあるかもしれない、などと思っている。先日、日本会議という大きな団体の催し物があり、1200名ほどの方々の前で司会をしたが、団体の理事長から、「窪山さん、あなたの司会は良いなぁ~(^_^) いや、『声』がねぇ、声がいいよ」と誉めて頂いた。(この時も『声』のみ?)マライアキャリーのように3オクターブ出るとか、そんな特殊な声ではないけれど、声優になってたら、もしかして売れていたかもね。今これ書きながら、昔友人がこんな事を言っていたのを思い出した。「お前の目に見られながら、 お前の声で話を聞いたらいかん! 絶対に丸め込まれて、言いくるめられて、 納得させられる! お前、もし詐欺師になったら、 日本一かも知れんぜ」失礼なやつ!と思ったが、これって何か、活かせるかもね。(^^)v
Sep 5, 2005
コメント(2)
毎日毎日、テレビや新聞で信じられないような事件が報道され、この先、この国の将来はどうなるのだろうかと不安になってしまうことがあるが、テレビや新聞で流される「情報」が全ての真実ではないと言う事を、僕らは自覚しないと、真実を読みぬくことはできない。ここに一冊の本がある。タイトルは、「この子供たちが日本を救う」 一読して、日本と言う国の将来が輝きだした。この国には、本当に素晴らしい子供たちが、確実にいるのである。本文より◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆みんながいるから 千葉市立真砂第二小学校二年 高山 なつ美 わたしがお父さんの作文を書いたら、おばあちゃんがなきました。ポロポロなみだをながしました。きっと、いつもわたしたちやお父さんのことをたくさん、たくさんかんがえてくれているからだと思います。 わたしのお父さんは、タクシーのうんてんしゅをしています。朝早い時は、五時半ごろに家を出ます。よるは、十二時ごろになることもあります。あまりねる時かんがなくつてたいへんなのに、きちんと朝ごはんを作ってくれます。作れないときは、ちかくにすんでいるおばあちゃんが、作ってもってきてくれます。いっぱいはたらいて、いっぱいつかれていてもお父さんといっしょにねる時が、少ししかないのがかなしいです。 お父さんがお休みの時は、おいしいりょうりを作ったり、おかいものにいったりします。べんきょうもみてくれます。べんきょうがむずかしくなって、だんだんわからなくなると、お父さんがきびしくなってきて、おねえちゃんがなきだすこともあります。お父さんに、おこられたくないのになあと思います。お父さんとはいっしょにあそびたいけれど、いつもしごとでつかれているので、ゆっくりねてもらいたいです。 学校で、一年生から六年生までのおともだちがあつまってあそぶ「なかよしかつどう」がありました。かえりの会になって、おなじはんだったももこちゃんがはっぴょうしました。「わたしは、みんなとなかよくできるかなって、心ばいしていたけれど、なつみちゃんがいてくれたから、あん心しました。なつみちゃんが、そばにいてくれたから、じぶんのかんがえが言えました。」わたしは、うれしかったです。わたしがいるだけで、あん心してくれたなんて、ちっともしりませんでした。いるだけでいいなんて。お父さんは、わたしがいるだけで、あん心してくれるかな。おねえちゃんは、どうかな。おばあちゃんは、どうかな。わたしはやっばり、みんながいてくれるから、あん心していられます。時どき、ばくはつしちゃうこともあるけれど、みんながちゃんときいてくれるから言えるんだと思います。 だいじなわたしの家ぞくだから、お父さんのいうことをきちんとまもります。おるすぼんもします。だから、お父さんも体に気をつけて、しごとをいっしょうけんめいがんばってほしいです。おねえちゃんも、おばあちゃんも、元気でいてほしいです。みんながいるから、わたしもがんばります。たくさんのおともだちもいるから、がんばれます。いつもわたしのそばにいてくれる家ぞくであってください。いつまでも、わたしのともだちでいてください。====================自慢できる存在 千葉市立葛城中学校三年 山田 千紗 尊敬する人。あらためて考えてみると、私にとって尊敬できる人はたくさんいる。学校の先生方、友達、先輩、芸能人……、と私は、自分自身をはつきりと表現できる人、たくさんの努力をしている人にあこがれる。 また、私を褒め、叱り、大きく成長するように見守ってくれている人がいる。それは「両親」だ。この存在が、私にとって支えになり、気持ちが安らぎ、安心できる、ナンバーワンの存在だ。 小さいころの写真を見ると、父、母のひざの上に座って、笑顔で、とても幸せそうな私がいる。このころは公園によく遊びに行って、父、母といつもずっと一緒にいた。だんだん大きくなってくると、父、母のひざの上にも隣にも、両親と一緒に写っている写真が少ない。友達と笑顔で写っている私の写真が増えた。当たり前なのかは分からないが、そのときは両親といるのが嫌だった。部屋に入ってきたり、手伝いをするのも嫌で仕方なかった。 しかし、あるきっかけで私は変わった。兄が登校拒否をしていたときに、母がすごく辛かったのを私は知っている。 ある日「自然教室へは行かない」と兄から告げられ、母は、初めて涙を流した。あの姿を私は忘れられない。あの涙にはたくさんの意味があるんだね。もう、母が泣くのを絶対に見たくない。私のせいで涙を流させちゃいけないと心に誓った。両親には生まれたときから面倒を見てもらいここまで成長させてもらってとても感謝している。辛い時にも私たちに嫌そうな顔一つしないで話を聞いてくれる、そんな両親をとても尊敬している。私もこんな存在になりたい。私の両親のように、みんなに自慢できる存在に。
Sep 4, 2005
コメント(2)
人には理解しようとしてもできないことがある。「その気持ちわかるよ」などと軽はずみにも言えない事実がある。先日沖縄に行ってきた。とある団体の青年達の交流会だった。沖縄と言えば、全国的には観光の名所として知られているし、沖縄も観光を一つの産業としているので、「沖縄」と言えば、「どこまでも青い海」「白い砂浜」「きらめく太陽」「泡盛」などをすぐにイメージするだろう。僕自身もそうであったのだけれど、今回はちょっと違った。沖縄には、昔死んだ父が単身赴任で3年程いた頃に一度言った事がある。当時は昭和48年頃、アメリカから沖縄が返還されて間もない頃で、今の人達は想像もつかないだろうが、道路もあまり整備されていない頃だった。その後沖縄には一度行ったのだが、その程度であった。今回、沖縄に行くに際して、沖縄の「琉球文化の歴史」と「沖縄戦」の歴史を調べていった。特に「沖縄戦」は大東亜戦争(太平洋戦争)最後の決戦の地であり、日本の中で唯一住民が戦渦に巻き込まれた戦い(米兵が上陸という点で)であったという本当に痛ましい歴史を持つ。一冊の本を読んだ。「人間でなくなる日」この本は既に手に入らない、第一級資料集である。沖縄戦の戦渦に巻き込まれた住民の方々の実体験集である。 「父が皆をカミソリで切った」夜明け方です。外がなんとなく騒々しいので、朝鮮人軍夫でもいるのかな、と思いました。耳をすませたら、なんだか言葉が違う感じなんです。フィリピンかなと思いながら、入口を開けてみると、大変です。アメリカ兵が壕の前にずらりと並んでいるんです。さっさと死ななければ大変だ!あまりの数に私たちはびっくりして、そう思って、まず父がかたい縄で、私たち四人の首を絞めました。しかし、なかなか死ぬことができない。これではだめだと思って、今度は父が南洋から持ってきたカミソリがあったので、これで首を切ることにしました。まず最初は母の首を切り、次に私の首を切りました。私は喉元に何かさわったな、と思うと同時に、なま温かい血が流れ始めたので、その時首が切れたんだな、と思っていました。そして次には、弟、妹という噸で切っていくと、母が、「まだ死ねないから、もう一度切ってごらん」というので、父は、それでは、といって再び母の喉元を切りつけました。その時弟は、「お父さん」という一声を出して、そのまま倒れてしまい、出血多量で死んでしまいました。父は最後に自分の首を切りました。アメリカ兵と父の友人が、私たちの壕の中に父の名を呼びながら入ってくるのが、夢うつつの中に聞こえました。「どうして、このようなことしたか」というているのが聞こえました。私は騒々しさに気がついたので「まだ生きているのだな」と思いました。====================「姉さん、ごめんね」わたしは村はずれに行きました。用便のためです。それといいますのは、この福地はどこということなく人間がいっぱいで、いわば芝居見物の人のように、あっちこっちにも人が座って、用便もできなかったのです。それで、ムラはずれの畑に行って用便しょうと思ったわけです。そうしたらその畑は大変な死人です。兵隊が三、四十人も死んで倒れています。一か所に三十人ばかり死んだ兵隊が倒れたすぐ側に、女がl人いるんです。二十歳になっていたでしょうかね。右だったか左だったかは覚えていませんが、足が股から切れて動くことができないんです。生きてはおるが、歩くことはできないで倒れていました。「姉さんはどこの人ですか?」と聞いたら、中城村の南上原というんです。南上原といったらすぐそこですよ。名を聞いたら「米須」だといっていました。米須の一門の娘だったんですね。兵隊さんが死んでいる側だから、銀蝿がひどくたかって、それを手で払っていました。何ともいえないかわいそうなありさまでしたよ。「姉さん、わたしがどうすることもできないから、ごめんなさいね」といってそこを離れて、用便をすますと、わたしは家族の所に帰りました。====================「私を死なすよう頼んで下さい」糸洲の砂糖小屋に行く時ですがね、砂糖小屋の近くに池があるんです。そこに子供をおぶった女がうつ伏せに顔を水に突っ込んで、浮いているんですね。背中の子供は誕生ぐらいで女の子です。泣きはしないが手を動かしたり、頭を動かして、生きているんです。それを見てわたしの妻が、そこにも人が死んでいるね、というと、「生きていますよ。私は生きていますが、黄燐弾を浴びせられて、目が見えなくなっています。この子供をあなた方の子供にしてくれませんか。私は首里の者でございますが、そこらから友軍が通っていますなら、鉄砲で撃って、早く死なすように頼んで下さいませんか」といいますので、わたしが、「そんなことはできない。早く出てきて生きるようにしなさい」といったら、「わたくしは身体も黄燐弾で焼かれて、痛くてどうにもならないので、水につかっているんです。物も見えませんうえに、ほとんど全身がただれています。早く死にたいのです」こんなにいっていましたが、あっちにもこっちにも弾が降って、妻の妹が即死するような激しいなかでございますから、看護してあげる余裕がないんですね、あの時は。子供らも破片にさらして追いつめられて歩くんですからね。それで見捨てるほかはございませんでした。====================僕らの世代は戦争を知らない。そしてこのような悲惨な出来事に遭遇してはいない。自分自らが体験していない事を人は語れない。人はよく口にする、「あなたの気持ち、良くわかるよ」しかし、我々が想像することすらもできないほどの体験をしてきた人々と、歴史がこの国には間違いなくあるのだ。
Sep 3, 2005
コメント(0)
最近、異常に本を読んでいる。「なかなか忙しくて本が読めない」という人もいるが、たくさん本を読む為にどうすればいいかというと、簡単である。(^_^)v「いたる所で読む!」これである。「トイレ」 チリも積もれば一冊読める「車の中」 異常な時は運転しながら読む!(危険)「風呂場」 これは当たり前。お肌の美容にもいい。「居間」 子供に破られるから注意!「ベッド」 朝、晩、それなりに進む。そんな中で、他の人の日記を読んでいると、日記に書籍の感想などを書いている人がいた。(「いけP」さんなど凄い)だから良いことは真似たい。というわけで、昨日買った三冊の中の一冊。子供さんがいる方にはおすすめ「子供が育つ魔法の言葉」(★★★★)ドロシー・ロー・ノルト著 本の冒頭に次のような「詩」が紹介されている。(本の中より抜粋)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆子は親の鏡けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになるとげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもはみじめな気持ちになる子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう励ましてあげれば、子どもは、自信を持つようになる広い心で接すれば、キレる子にはならない誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つやさしく、思いやりを持って育てれば、子どもは、やさしい子に育つ守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆本当にその通りだと思う。この詩は非常に心にしみた。皆さんも読まれてみてはいかがですか。最近読んだ本からの一冊の紹介でした。(^_^)v
Sep 2, 2005
コメント(0)
「粗にして野だが卑ではない」好きな言葉だ。荒削りで、失敗だらけの、まだまだ徳も品性もできていない人間だが、卑屈な生き方はしていない。ということである。「卑屈に生きる」ということは、地位や名誉や、金や権力に、右往左往させられる人生のことである。かつて、坂本龍馬も言った。「金にも地位にも名誉にも左右されない人間が一番手ごわい」世の中には稀にだけれどもそのような人がいる。教育者の覚悟◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆かつて台湾を日本が統治していた頃、台湾はまだ「化外の地」と呼ばれ、疫病が蔓延し、原住民が住んでいるという有様だった。その台湾の教育の復興の為に命を捧げた数名の日本人教師がいた。 写真の一番右側のまだあどけなさの残る青年は、名を「平井一馬」といい、十七歳である。明治二十九年正月、留守を守る楫取道明(写真前列中央)以下、六名の日本人教師は、台北・総督府での新年の拝賀式に出席すべく、生徒らとともに山を下りようとしていた。山を下りる途中で、百余名のゲリラに遭遇し、防戦空しく六人は惨殺されてしまう。ゲリラ等は日本人の首で賞金が貰へると事で、彼らの首を奪って逃げた為、六人の首は全て無くなっていた。彼らは、生前からいつも次のように言っていたそうである。「教育と云ふものは、 人の心の底に這入らねばならぬものですから、 決して役所の中で人民を呼び付ける様にして、 教育を仕ようと思って出来るものではない。 故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば、 教育の仕事と云ふものは出来ませぬ。此の如くして、 始めて人の心の底に立入る事が出来ようと思ひます」台湾の人々の教育の復興の為に命を捧げた日本人。その中には、若干十七歳の青年が、自らの意思で情熱をもって外国の地へ赴き、掘立小屋のような場所で、人々と寝食をともにし、まさに命懸けの「教育」を行なった。我々日本人が知らないでは済まされない、知らないでは恥ずかしい歴史の事実がここにある。
Sep 1, 2005
コメント(0)
自分が「やりたい事」と自分の人生と環境の中において「やらなければならない事」がある。今の世の中は「やりたい事推奨」の世の中だなと思う。別にそれ自体は悪くないと思うし、やりたい事をやって、夢をつかみ、人生を謳歌する、非常に素晴らしい事である。やりたくない事を、マイナスの人生と捉え、「何でこんな仕事をやらなければならないんだ」と毎日を送る人間に、幸せなどやってこない。しかし、やらなければならない事を、「やりたくない」から「やらない」そういう人が増えているのが残念に思う。ちょっと別の話をすると、自分の「権利」は主張するけれども、自分の「義務」は全うしない。という事も同じ事のように思える。「やらなければならない事」を放棄して、「やりたい事」だけしかしない。これは、「幸せの法則」から外れる。自分勝手に、自分の「権利」を主張する人は、他人の「権利」も奪っていることに、早く気づいた方がいい。地域での「公」活動などに参加すると、さらに醜悪な場面に出くわす。自分の「したいこと」と自分の「やりたくない事」自分「だけ」の「都合」のオンパレードである。食べたいものは食べたい、けれど後始末は「したくない」ゴミは出す、けれど、分別は面倒だ「したくない」雑草が生えている、けれど清掃には「出たくない」子供のことが心配、けど見回りなどには「出たくない」工事がうるさい!だけど自分の前の道は早く直して!往々にしてそんな「自分の事しか考えない方」が、学校の先生だったり、役所の偉い方だったりする。人間大人になると、誰も自分を叱ってくれなくなる。偉くなればもっと指導してもらえなくなる。ある先生が言っていた。「人間はね、いつまでも『コワイ人(師)』 を持っておかないといけないよ。 人はね、知らず知らずに傲慢になるものだ」とも言っていた。このままで行くと、この国は、今の若者が熟年になった頃、「俺たちは若い頃、日本の老人の為に自分の給料から、 高い金払ってたんだから、俺らももらう権利がある」などと主張し、一方、そんな若者から育てられた「未来の若者たち」は、「勝手なこと言わないでよ! あんた達が将来のことも考えずに、 『子供のことも考えない』 『環境のことも取り組まない』 『教育も政治のことも考えない』から、 メチャクチャよ! 子供は昔の半分だし! あんたたち爺さんバアさんを養うのに、 どれだけ収めるか知ってるの!? 勝手にやってよ! 私達は、住みやすい外国に行くから!」と言って、また自分の権利を主張して、外国へ逃げていく。そんな小説の「ドタバタ」のような時代が、来る様な気がする。そんな日本にはなってもらいたくないものである。
Sep 1, 2005
コメント(1)
「その一言(ひとこと)」その一言で 励まされその一言で 夢を持ちその一言で 腹が立ちその一言で がっかりしその一言で 泣かされるほんのわずかな 一言が不思議に大きな 力持つほんのちょっとの 一言で人生の中で、誰にでも心に残るような一言があります。担任の先生の一言で音楽を志した人、家族の励ましの一言で難関を乗り越えた人。言葉には言霊が宿ると言われ、その人の人生をも変えてしまう力があるそうです。自分のちょっとした一言が、相手を励ましたり、傷つけたり...。「その一言」大切ですね。(^_^)
Aug 25, 2005
コメント(1)
時に、人間の人生を左右するほどの、味わい深い、人生の機微、人間の本質を捉えた、文章に出会い、感銘を受けることがある。パソコンの整理をしていて、出てきた、久しぶりの座右の文章との再会。この文章との出会いによってもまた、私は育てられたのだった。『名も無き民のこころ』河村幹雄◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「科学が一世を風靡している現在、人々はあらゆるものを数量的に扱うことに慣れてしまった。しかし世の中には数で量ることのできないものがたくさんある。嬉しいとか悲しいとかいう感動の度合いはどうして量るか...。だが、それよりもむずかしいものに『人の価値』がある。それはいったいどうして量るか、それは容易ならぬ問題ではあるが、これをはっきりと考えておかなければ、人の営んでいる社会、この日本の国家というものも健全な発展を遂げるということはできないだろう。だが、人々は実にこのことを粗末に考えている。食べている食事の種類で、着ている着物の価値で、人の価値を判断するということがなんと無造作に行われていることか。或いは人の肩書きによって、地位によって人の価値を決めるのは日常茶飯事な事となっている。もちろんこのようなものが、人の価値を決定する真の標準ではありえない。ではどうしたら人の価値が本当にわかるか。人の偉さが量れるか。それは誠に難しい問題のようだが、その答えはまた極めて簡単である。すなわち人の偉さは『まごころ』すなわち『心の誠』をもって量る...続けて河村先生はシャルル・ワグネの『単純な生活』を引き合いに出す。この話はどのような話かというと、シャルル・ワグネに強い影響を与えた『名も無き石工』の話である。 石工はワグネがまだ無名だった少年時代、パリで学問をしようと大きな望みを抱いて遊学の途に就いた時から知っている。その時石工は歌を唄いながら石をきっていたが、覚えず立ち止まったワグネに、「元気を出して勉強しなさい。そして偉い人になりなさいよ」と言ってくれた。それから三十年、石屋は相も変わらず石を切り続ける。その後、ワグネ少年は大人になり有名な大学を卒業して、地位と名声を得るのであった。何十年ぶりかにワグネ少年は故郷に帰る。そして依然と変わらず町の片隅に石工が石を切りつづけている姿を見た時に、人間の本当に尊い生命の尊厳を、この石工の仕事をする後姿に見るのだった。 「自分は大学を卒業した、地位も上がった、 求めぬ名も次第に世に知られてきた。 しかし、この石屋は依然として昔ながらの石屋である。 ああ、この三十年の久しい間、 どれだけの驟雨霰雪(しゅううさんせつ)が この彼の曲がれる背の上に降り注ぎしも幾たびか。 しかも彼の勤労のみは今もなほ変わらぬ...」「自分はこの石屋と面と向かふ時ほど、 明らかに自己内心に潜在する不純なる小名誉心を摘出され、 虚栄のこころなき、忠実なる勤労の生の尊さを 思わしめられることはない。 しかも石屋自身は、私が彼の尊い生の威厳に打たれている とは夢にも知らず唯笑っている。 この老石工の勤労の精神こそは、 正にこの神様の仕事に等しい尊さである」 世間の名誉にも財産にも恬淡として、唯自らに与えられた仕事に力を注ぎ、そこに悠々たる人生を切り開く、その人にいつしか現れてくる、えもいわれぬ「尊い生の威厳」そこに人間の本当の価値がある。
Aug 25, 2005
コメント(0)
僕がよくおジャマする日記の人で、「suzupc22」さんという人がいるんですが、この方の今日の日記に書かれている文章を見て、「驚きました」(@_@;)私のトイレ(スミマセン)に掲げている文章が、「魔法の言葉」と書かれていたのです。嬉しいですね~~。 辛い事が多いのは 感謝をしらないからだ。 苦しい事が多いのは 自分に甘えがあるからだ。 悲しいことが多いのは 自分の事しか分からないからだ。 心配する事が多いのは 今を懸命に生きていないからだ。 行き詰まりが多いのは 自分が裸になれないからだ。suzupc22さん!魔法の言葉、いつも唱えていますよ!\(^o^)/(トイレノナカトイウノガアマリヨクナイ?)同じような感性をもっていらっしゃる方が、よくこの場所にも遊びに来てくれています。出会いに感謝ですね。そして何だか、こういう事があると、本当に嬉しく思うのです。
Aug 24, 2005
コメント(1)
私たちは「人の縁」の中に浮かんでいる。香取は大学入試に失敗して浪人を覚悟していた。一校補欠で合格していたが諦めていた。その大学で二十名の不正入学が発覚したため、幸運にも入学できた。香取は不正をして入学を取り消された顔も知らない学生に感謝した。就職する時もそうだった。学生時代から続けていたバイト先から「社員として入社しないか」と誘いがあり入社した。入社した翌年から新しい商品が立て続けにヒットし、会社は倍々に大きくなり、香取はわずか入社二年で係長に昇進した。アルバイトの仕事ぶりを見ていて、香取を買ってくれていた人がいたのだ。社長か部長かはわからないが香取はその人に感謝した。マイホームを買う時もそうだった。駅で前を歩いている人がハンカチを取り出して汗をふいた。ひらひらと落ちたものがある。切符である。香取は拾って「落ちましたよ」と声をかけた。新幹線の切符だった。その人は何度も頭を下げた。銀行の住宅ローンの手続きに行くと、「あの節はどうも」とその人が出てきた。支店長だった。好条件で融資をしてくれた。自分は何と運がいいんだろうと思った。『袖の振り合わせも他生の縁』(尾張・上方かるた)運はお金を出せば買えるものではない。では、自然にわいてくるものか。神様が与えてくれるものか。どれも答えは否である。運は人が持ってきてくれるもの。よって、ふだん何気なく接している人すべてが、自分の人生に関わりを持っていると思うこと。袖を触れ合っただけの人であっても、いつどこで自分に関わってくるかわからない。私たちは個人中心主義になりすぎている。人のためにつくすことをいやがる。人に対する関心すら失っている。「自分さえよければいい」と患っている人に幸運は訪れない。香取は、自分が人との緑で、恵まれた人生が送れていることを実感していた。そのため、客を心から大切にしたし、部下の面倒をよく見た。するとその人々がまた香取の力になってくれた。社長になった現在、香取は社員にいつも、「世の中は人の縁で成り立っているんだ。 だから近い人だけでなく遠い人も誰でも、 たとえ袖が触れただけの見知らぬ人でも、 損得抜きで大事にしなさい」と言っている。
Aug 24, 2005
コメント(0)
人から受けた嫌な行為や過ちに対して、「許せない」と怒りでいっぱいになることがありませんか。「私なら絶対そんなことはしない」「相手の行為で苦しめられている」と苦悩する日々をおくっている人もいるかもしれません。嫌な思いほど頭のなかに浮かんできて、ちょっとしたことにも敏感に反応してしまうようになります。そして、ついには仕返しや復讐に発展してしまうことも。そのエスカレートを遮断するために必要なのが「許す」ことだと言われています。イギリスの聖職者フラーの言葉に、「他人を許すことのできない人は、 自分自身が渡らなければならない橋を 壊しているようなものだ。 人はだれでも許されなければならないからだ」とあります。他人が犯した過ちを自分が犯さないという保証はありません。まったくまちがいを起こさない人間などいないのです。自分もまた人に嫌な思いをさせ、傷つけ、気づかない間に憎まれているかもしれません。人を許せるということは、自分もまた許してもらえる道を残しておくことを意味するのです。そして人を憎むという悩みから解放されることになるのです。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「今日の朝礼」の話だが、振り返ってみるだけで、一体どれだけのことに「腹を立てて」「許せない」と思っているだろうか。「ムカッとくる」事まで勘定に入れれば、数え切れないほどかもしれない。しかし、忘れてしまうことがある。それは、自分も人を「ムカッとさせている」ということだ。自分のことは棚に上げて、とよく言うがまさにその通り。「他人を許すことのできない人は、 自分自身が渡らなければならない橋を 壊しているようなものだ」とは至極明言である。人を育てようとするならば、「目を離さず、手を出さず、やって見せてやらせてみる」人を許す人間であろうとするならば、まずは、自分自身を信じれる人間であること。だからこそ、自分自身の失敗や、間違いが許せる。許すということは、甘やかすことではなく、自分やその人が、次にチャレンジすることを信頼する、信じる、心の働きなのかもしれない。
Aug 24, 2005
コメント(2)
昨日の朝、「のどが痛いなぁ」と思っていると、見る見る夕方には体がだるくなり、のどが非常に痛くなってしまい、熱まで出た。今日一日、大事をとって休むことにしたのだが、とにかく寝た。寝た、寝た。風邪をひいた時には、「のどタオル」「マスク」「あめ玉」「ポカリスエット」これが絶対に必需品である。とにかくノドを冷やさないことである。そして、マスクをしてのどを乾燥させないことである。これでポカリスエットを発汗しては飲む!これをすれば一発で治る!朝起きてみると、「のどが相当痛い」これはおそらく、今が絶好調のとき(一番悪いとき)であろう。ここで無理をしてはいけない。自分の身体は自分で管理しなければならないが、悪くなったときも「自分で管理」である。昼過ぎにずいぶんよくなったが、今週末から沖縄に行かなければならないので、更に念には念を入れるため、病院へ行った。「山野医院」へ行った。====================「風邪?風邪なら山野先生がいいよ、 あの先生は親切だからね」「ふ~ん、そんなにいいの?」「行ったらわかるよ」====================行ってみてなるほどと思った。まさに「平成の赤ひげ先生」である。病院自体は小さな病院なのだが、(先生一人に看護婦さん二人~三人)今の状況を説明してくれて、今後どのようになったら、このようにしなさいとかこうなれば、こうした方がいいとか、今日はまだこの状態だから、この薬だけ出しておきます。など、本当に親切だった。もう少し詳しく書きたかったが、体がまだきついので、このへんでやめます。また会いましょう。
Aug 23, 2005
コメント(4)
いつも行ける所だから、行かない場所というものがある。同じ町であるのに、もうかれこれ20年以上行っていなかった場所である。自分が卒業した小学校である。何故行かなかったのかというと、別に理由はない。ただ行く機会がなかっただけのことである。「ただ行く機会が無かった」というだけで、20年近くも訪れなかった場所に、昨日、ふと立ち寄った。誰でもそうかもしれないが、長い間、その場所を訪れていないと、「その時」で記憶が止まっている、とでも言おうか、一瞬にして全ての記憶が鮮明によみがえってくるような、そんな体験をすることがある。目の前を、自分の友達が、自分を可愛がってくれた先生が、自分の好きだった女の子が、たくさんの友達の、笑い声や、呼び声が、記憶の中にまざまざと甦ってくる。甦ってきたのは、「あれ」を見た瞬間。「もみの木」である。 当時、小学生の僕らは、校庭にそびえる、大きな「もみの木」に、いつも纏わりつくようにして、「一緒に遊んでいた」。大きなもみの木は、子供がぶら下がる父親のように、僕らを支えていた。「どこまで登れるか、競争や!」てっぺん近くまで登って下りて来れなくなった子もいた。悲しい時も、嬉しい時も、いつも「そこ」にもみの木は立っていた。「クボ」「サク」「クマ」「かっちゃん」「ジュンくん」「やっちん」「ノミ」「キミタン」彼らとも、もう20年以上会っていない。別に理由は無い。僕が町を離れ、別の地で生活をしていたからということだけなのだが、ふと訪れた、思い出の場所に、今でももみの木はたっていたそして、もみの木の下に、確かにあの時の友達がいるのが見えた気がした。
Aug 21, 2005
コメント(2)
先日8月15日のことだが、福岡県の護国神社に参拝に行ってきた。護国神社では、毎年8月15日には「御霊祭り」が行なわれている。夜に参拝に訪れると、四角い命燈が何百と灯され、幻想的で神聖な雰囲気が漂う。「8月15日に護国神社に参拝に行っています」と言うと、「すごいね」とか「ホント?」などと言われ、何か特別な事をやっているかのように言われるが、何のことはない。「当たり前の事」をやっているだけである。最近よくテレビに細木数子さんがでている。何かの番組の中で、「あなたはねぇ、まず御先祖様の墓参りをしなさい」という事を言っているのを聞いた。その芸能人は、「はい...はい...。わかりました先生」などと神妙に聞いていた。それを聞いていたそばから、別の芸能人が、「俺もね、先生の話を聞いて、 すぐに墓参りに行ったよ」と言っていた。この人にとっては、自分の親や祖先の「墓参り」は、「特別な事」なのである。同じように、日本を守る為に戦った亡くなった、多くの方々を「慰霊する」というのも、「特別なこと」なのであろう。以前「ナポレオン・ヒル」という人が書いた、「成功哲学」という書物を読んで感銘し、今でも座右の書のひとつだが、これに面白いことが書いてあった。自分に能力がなくても、それを助言してくれる人間を持てば成功できる。例えばよくこのサイトに遊びに来てくれる方の中で、斉藤一人さんや、本田健さん、望月俊孝さんなどを、人生の師として、同じように実践されている方がいるが、あれと同じである。様々なことが起こった時に、「あの人だったら、どう考えるだろうか」というように、その人のものの考え方を、自分の考え方の見方の一つとして取り入れ、問題ごとを考えてみることだ。誰かが自分の為に何かをしてくれた。自分に協力してくれた。その時人はその誰かに感謝する。今の自分自身がこうして幸せに生活できているのも、親が自分をまず生んでくれたお陰であり、育ててくれたお陰であり、様々な「縁」を残してくれたお陰である。そう思うのだ。だから毎日、仏壇に手を合わせ、「いつもありがとうございます。 今日も一日誠意一杯生活します」と感謝し、報告するのは特別なことではない。同じように考えれば、この日本という国を守る為に、先の戦争で亡くなった多くの日本の人々に、「慰霊」を行い、毎日行なえずとも、せめてこの八月ぐらい、そして8月15日ぐらい「墓参り」することが、何か特別なことなのだろうかと、そう思うのである。
Aug 20, 2005
コメント(0)
一瞬にして、ある人が身近に感じられたり、今まで遠くのものとしか感じることのできなかったものが、近い存在として感じられたりすることがある。それは「言葉に触れること」でもあり、その人の「歴史に触れたとき」でもある。例えば誰か自分が尊敬する人がいたとする。現在生きている人でも、歴史上の人物でもそうだが、その人の生き様や言葉に触れ「共感」したり、「感銘」したり、「感動」したりし、「その人のように生きたい」「その人のようになりたい」「自分もあのような生き方がしたい」と「こころ」が動くのである。先日も書いたが、幕末の維新の人物、吉田松陰という人がいた。松陰は21歳の時、全国に遊学の旅に出る。今のように交通手段もなく、徒歩で歩いて回る。今のように情報も得られず、自分の足で歩き、人と出会い、意見を交わし、話を聞き、そしてまた、「人物」を紹介してもらい、その人に会いに行く。これが「遊学」である。まさに「人との出会い」「人との縁」そして「学び」である。その時をして、若き松陰は、次のような言葉を言った。「心はもと活きたり、 活きたるものには必ず機あり、 機なるものは蝕に従いて発し、 感に遭いて動く」人間の心というものは、もともと活き活きと脈づいているものなのだ。そうした「活き活きとした心」には、必ず「機会(出会い、チャンス)」が訪れる。そして、その「こころ」というものは、感動に出会い感動し、触発され、行動へと人間を動かしていくものである。人間というものは、まず「求める心」それが、出会いと縁を引き寄せるのだと、明治の維新の大人物も若き日にそのように言っている。この言葉を聞くと、まるで目の前に吉田松陰が、今目の前にいるような感じがして嬉しく思うのは、自分もそう思うからであろう。
Aug 17, 2005
コメント(1)
あるアンケートにこう書いてあった。「あなたが一番大切にしているものは何ですか?」その問いかけにその女性は、「着物」「子供」「主人かなぁ」と答えたそうである。その答えに対して「逆ではないか」と、その先生は書いていた。「まずは『妻・夫』そして『子供』、 その後に『モノ』がくるべきではないか」と指摘している。そしてその後に、「自然の法則」(神様)が応援してくれる事をしないといけない」と言われていた。これは様々な成功者や、歴史に名を残している人々、また広く名を知られてはいないが、多くの人に尊敬をされている人の多くも言っているが、、「成功するためには、 努力以外のものが必要である」」と言っている。千葉に本部のある、財団法人モラロジー研究所は、日本で唯一の「道徳」を研究する団体であるが、その団体の創設者の廣池千九郎博士も、その論文の中で、全ての物事には、「進化か衰退のどちらかしかない」と言っている。そういえば、斉藤一人さんも、「私に勝とうと思っても駄目です。 私は『ツイてる』だから。 神様が応援してくれているんだから、 努力で一生懸命やる人はかなうはずがありません」というようなことを言っていた。自分自身が、自分の運勢が今、「進化しているか」(前に進んでいるか)「衰退しているか」(後退しているか)」これを自分が分かることが大切だと言っている。自分では一生懸命頑張っているのに、川の流れに逆行していては、いずれ力尽きて流されてしまう。先日お会いした「村上和雄先生」も、「サムシンググレート」といって、「何かの存在」は必ずある。と言っていた。村上先生の話して興味深いのは、「今、世界中の科学は非常に進歩して、 クローンまでつくれるようになったと言いますが、 どんなに科学が進歩しても、 人間は『命』をつくることができないのです。 たった一つの大腸菌、 その全く同じものは作れても、 『動き出さない』のです。 つまり、『命』が宿らない。 ロボットは、乾電池を入れれば動き出しますが、 細胞は同じものを作れても、 『命』が入らなければ動かないのです」という話だった。ノーベル賞候補の権威、村上先生は細胞の「ミクロの世界」を研究し、垣間見たとき、「何か偉大な存在がある(サムシンググレート)」と考えたそうである。では、どうすれば神様が応援してくれる人生を、歩むことができるのか。それは意外と簡単なことである。感謝して生きること。親、祖先を大切にすること。プラス思考で生きること。伝統を大切に偲ぶこと。である。自分「個人」の主義主張ばかりを言い、自分勝手に生きる前に、自分が「ここにいる」という事が、日本の先人先輩を含め、親・祖先、これまでの人生のどれだけの人が支えてくれたのか、それに気づかなければ、神様が応援などしてくれるはずがない。素直にそう思うのである。
Aug 17, 2005
コメント(0)
今日一日を振り返り、楽天日記を見ながら、掲示板などに書き込んでいただいた方々の御意見を、「ありがたいなぁ」と読み、今日の出来事を書こうと考えていた矢先、事件が起こった。「蝿」である。一匹の蝿が、私の小さな書斎に入り込み、「ブンブン」と飛び回る。「書斎」と言っても、三畳一間である。 「男はどんなに小さな家でも、 自分の書斎を持つべきなんだよ。 そこで自分を振り返り、自分を磨くことは 大切なことだよ」との先生の言葉に、本当に小さな『書斎』を、自宅に強引につくった。その小さな書斎に蝿が入ってきた。「蝿よ、短い命をこんな小さな場所で終えるな」そんな思いで、部屋を全開して逃がしてやろうとした。かつて、対馬の「洗い髪のお妻」が頭山満に一目惚れしたのは、頭山満の腕に、一匹の蚊が止まった時に、頭山がそれをすぐに叩き殺さずに、血を吸わせてやって、「ふっ」と逃がしたやったという。それを見て、そのやさしさに、お妻は惚れたのだ。「蝿よ、逃げろ...」しかし、この蝿がいっこうに逃げない。「ほら、出て行け...」部屋から出て行ったかと思えば、またすぐに入ってくる。何故だ?何か気に入った香りでもするのか?しばらくすれば逃げていくだろうと、無視して、仕事を始めた。すると...。部屋の中をブンブンと飛び回っている。最初のうちは、「短い命を謳歌せよ」などと思っていたが、「首筋を這う」「髪の中をうごめく」「パソコンの画面に止まる」だんだんと腹が立ってきた。そしてついに、鼻に止まり、動いている。完全に調子に乗っている。しかし、立った一匹の蝿に腹を立てては、「ツキが落ちる」「徳がなくなる」何とか、こう思うことにした。「ツイてるね」しかし、どうしても人間が小さい為、無理がある。ようし!それならば、この蝿を殺さずして、何とか逃がす!ちょっとそれにチャレンジしてみようじゃないか!(と書いている間も髪の中で動いている)その時ふとひらめいた。以前友人がこのような事を言っていたのだ。「蝿ってさ、殺そうとしても、絶対逃げるやろ? あれはね、『叩き方』がまずいんだよ。 俺なら、指一本で気絶させれるよ」「どうやって?」「蝿ってね、物が近づいてきたら、 飛び立つ習性があるから、デコピンで、 蝿が止まっている『2cm』ぐらい上を、 はじけば、必ずあたるよ」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆それを思い出して、やってみた。すると、なんと、見事に命中したのだ!その蝿は、窓の外において、じっと見ていると、しばらくして「元気に」飛び立っていった。「短い命、大切にしないといけないぞ」と思いながら、蝿を見送り、こんな馬鹿なことに約1時間も振り回され、その上日記に書き込んだが、果たして、送信するべきか...。人格を疑われてしまうのでは...。と思いながら...ええい!せっかく書いたから!送信!\(^_^;)/本当につまらない雑談でした。(スコシ、オサケガハイッテイタカラネ)(^^ゞ
Aug 16, 2005
コメント(0)
朝一番の書き込みで、ちょっとこれ本当にひとりごとになるのですが、「大分のオグ」さんに、「楽天の日記が面白いよ」と紹介され、書き始めて1年ぐらいになるかなぁ。途中、前の日記がメールアドレスを変更したので、入れなくなってしまい、また新しく作って今書いてますが、色んな人の日記を読んでは、「この人すごいなぁ、こんな人いたんだなぁ」と出会いに感動しては、「日記リンク!」させていただいてます。(^.^)/~~~最初は画像すら入れるのが難しかったのですが、ようやく最近では、「字の拡大」ができるようになりました!でも、文章中の「リンク」はどうすればいいのかなぁ?誰か教えてくれませんか?(^_^;)自分の「日記リンク一覧」を見ていて、ある法則を見つけました!それは、実学を学んでいる人座学でなく、実践の中から「体験」している人であることに気づきました。「はるる」さん⇒あやしいふるほんやさん、何か凄い人。「りんだ姉」さん⇒以前からの御友達。急成長してますね!「よびりん」さん⇒言わずと知れた、人生の大先生。「善成」さん⇒いや、勉強になります「ツイてる!」「suzupc22」さん⇒いつも訪問しています。身体をこわさない様にね。「ツイてる笑人」さん⇒「ツイてる、ツイてる」と聞こえてきそう(^^)v「藤沢あゆみ」さん⇒「ハァハァ隊」って、気になるなぁ(@_@;)「なしのばかめ」さん⇒読んではいつもなるほどと、思わされます。と、ここまで書いたところで、(@_@;)ハッ!!よく考えたら、「日記リンク一覧」見てくださーい!って書けばよかったのに!まぁ、いいか。まだまだ、何人かの人としか話したことありませんが、いつか、「あぁ!あなたが○○さんですか!」などと御会いして、御互いが人生の中で一生付き合える友人になんてなれれば、この出会いは偶然ではありませんね。(^^)vいかん(@_@;)「あなたが、『幸せなスーパーマン』さん?」(ナマエ、カエヨウカナ...)
Aug 16, 2005
コメント(9)
全87件 (87件中 1-50件目)