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《そこには、ちょうど黒い大きな車がやってきて停まったところだった。兵隊さんみたいな制服を着た運転手さんがぐるっと回り込んで、後部座席のドアを開ける。中から男の人が出てきて、ボビーおばさんをじろじろ見て、つぎに公爵を見て、それから目をあげてぼくのほうを見た。その人は黒い小さな口ひげをくっつけていた。パパのとおんなじようなやつを。》 1939年、少年は十五歳になった。
「奴らの至高の能力を、我々は知らずにいたのだ。汲めども尽きせぬ泉のごとく湧き上がるその無駄口、あるいは惚れ惚れするような嘘の腕前である。ついに私は奴らを憎むようになった。」(ヒトラー「我が闘争」) 少年の隣人、「黒い小さな口ひげ」は帝国の総統になりあがり、こんな言葉をまき散らしていたが、人々は大喜びで彼を支持し、すでにオーストリアもチェコスロバキアも帝国に併合し、世界戦争は目の前に迫っていた。
「ユダヤ人から身を守ることは、ひいては神の創り給いしものを守るための闘いなのである。」(ヒトラー「我が闘争」)
《パパと連れ立って広いミュンヘンの駅を歩いていく。僕用のちっちゃなトランクを下げたパパ、パパの貸してくれたスーツを着ている僕。マフラーの網目から入り込む風がひやりと首をなでて僕は上半身をぶるっと揺すった。兵士たちが数人がかりで書類を確認する。ぼくのロンドン行の片道切符と、パスポートと、正規のビザ。パパのはオランダ国境の町エメリッヒまでの往復切符。眉一つ動かさず「行け」の合図をする兵士たち。ぼくはここ数日で間に合わせに詰め込んだフレーズを頭の中で何度も繰り返した。
「My name is Edgar」「How do you do?]「How old are you?」そしてもうひとつ。でもこれは、もう決して発するはずのない言葉。「I am a jew」。僕はユダヤ人。」》
《さあ、国境だ。ここで降りるパパを見送りに乗車口まで行くと、SSの兵士がパパの書類を確認して、それからにこりともせずに、なんでこのユダヤのガキと一緒にドイツを出て行かないんだ、と言いながら偉そうに僕を顎で指した。パパは答えなかった。僕も答えなかった。だけど僕にはわかっていた。パパはいま初めて、心の底から、怖くなんかないと思っている。今日の僕たちに怖いものなんてない。もうあと少しすれば僕たちはドイツ人じゃなくなるんだ。二度と、一生。》 2012年、少年は八十歳を越えた。
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