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顏淵季路侍。子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘與朋友共、敝之而無憾。顏淵曰、願無伐善、無施勞。子路曰、願聞子之志。子曰、老者安之、朋友信之、少者懷之。 マア、読めなくても大丈夫です。 この文章に対して、 山田先生 はこんな前振りをして解説を始めます。
「空気が読めない」という言葉がある。「KY」と略したりするようである。 そういう人なんですね、 山田先生 は。続けて、書き下し分と、口語訳がついています。
若者が「お前空気読めよ」といっているのが聞こえてくると、イヤな感じがする。
顏淵、季路、侍す。子曰く、蓋(なん)ぞおのおの爾(なんじ)の志を言わざる。子路曰く、願わくは車馬衣軽裘、朋友と共にし、之を敝(やぶ)るとも憾(うら)むこと無けん。顔淵曰く、願わくは善に伐(ほこ)ること無く、労を施すこと無けん。子路曰く、願わくは子の志を聞かん。子曰く、老いたる者は之を安んじ、朋友は之を信じ、少(わか)き者は之を懐(なつ)けん。 続けて口語訳
顔淵と子路(季路とも)とが先生のそばにいたときのこと。先生「こうありたいという願いをいってごらん」。子路「乗り物や着物や毛皮を友達と共有したら、たとえ使いつぶされてもイヤな顔をしないようにしたいです」。顔淵「どんなに善いことしても自慢せず、ひとさまに迷惑をかけないようにしたいです」。子路「先生の望みもお聞かせください」。先生「年寄りとはリラックスしておしゃべりし、友だちとはざっくばらんにつきあい、若いひととも気がねなくやりたいね」。 かなり、くだけた調子ですが、問題ないでしょう。さて、ここからが解説です。
子路はもと遊侠の徒だったからガラがわるい。しょっちゅうドジをやらかすんだけど、どこか憎めない。
「おまえの望みをいってみよ」といわれて、「待ってました」とばかり子路はいう。オレの愛車や革ジャンをダチに貸してやって、それがボロボロにされてもはらをたてないような、そんな男になりたいっす。
孔子と顔淵とは困ったような顔をしている。いやはや、子路らしいな、と。お里が知れるといったところである。子路にしてみれば、どうしして困られちゃうのか、さっぱりわからない。子路は、果たして空気が読めない男なのだろうか?
それにひきかえ顔淵の答えは、いかにも優等生である。模範的な答えで、もちろん文句のつけようはない。その文句のつけようのないところが、どうしようもなくダメである。自分の答えがつまらないことに(そして孔子も頭の片隅でつまらないとかんじているということに)顔淵は気付いているのだろうか?もし気づいていないとしたら、顔淵もまた空気が読めない男なんじゃないだろうか。
子路にせがまれ、孔子はいう。先輩からは「こいつにまかせておけば安心だ」と信頼してもらえ、同輩からは「かれといっしょならやってみたい」と仲間にしてもらえ、後輩からは「このひとのようになりたい」と慕ってもらえるような、そんな自分でありたいと。
子路は、孔子の望む人間像とは正反対の男である。先輩からは危なっかしがられ、同輩からは煙たがられ、後輩からは軽んぜられるという、どうしようもない問題児である。けれども、そんな子路のことを孔子はこころから信頼している。
と、まあ、 山田先生
の論は、 「KY」
という流行語をネタに、秀才 顔淵
と比較しながら、 子路
の発言にあらわれた 「空気を読まない」
、 「空気が読めない」
ことの正直さを考えることを読者にうながし、 「自分のことを好きになろう」
というテーマに向かって、
「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」
という結論へ進むわけですが、ぼくがおもしろいと思ったのは、別のことで、 「そんたく」
という最近の流行語にを思い浮かべたことでした。
「忖度」
と漢字で書くこの言葉が、はやりはじめた詳しい経緯は知りませんが、ここ十年、高校の教室でハヤッテいた「空気を読む」をいう同調圧力の共有による、ニヤニヤ笑いの「平和意識」が、いよいよ一般社会でもあきらかな汚職の「合法化」用語として出回り始めているのだなと思うのですが、現在の「ものわかりのいい」諸君は、少なくとも、世事は知っている、正義漢 子路
どころか、「理想」に対して朴訥無双の 顔淵
からもはるかに遠いところにいることに、思わず気づかされたというおもしろさでした。
落ち着いて考えれば、暗澹とする世相ですが、まあ、 「論語」
あたりから読んでみるのも面白いのかもという、思いがけない発見の書だったということです。
皆さんも 「論語」
とかいかがですか?
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