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カバンには「ロンリー・プラネット」と旅行会社からもらった地図を入れて、かれは早朝に新宿の部屋を出た。東京駅で成田エクスプレスに乗り、第二ターミナルで下りて、東方航空の十時便に何とか間に合った。 語りはじめられた冒頭の描写です。 「声」 の主は 新宿の部屋 を出て成田から中国行きの飛行機に乗った 「かれ」 と、おそらく同一人物なのでしょうが、今、この文章を書いている 「声」の主 と、上海語の喧騒の中にいる 「かれ」 は、一応、別の存在です。
乗りこんだとき、飛行機が前より小さくなったのに気がついた。連日のテレビ・ニュースに報道されている領土問題で、乗客が少なくなったのだろう。そのことを予測していたが、小さい飛行機は逆に息苦しいほど混みあい、荷物棚には象印の五万円の電気釜とTOTOの最先端の便座がぎっしり詰められ、前列からも後列からも、ケーラー、ケーラー、ノンラーと上海語がかれの耳に大きく鳴り響いていた。(P6)
山東省のナンバープレートの上に「日産」とBLUEBIRDという文字が、月光の下で読みとれた。そして黒い皮膚の上に無数の斑点が現れるように、車体のいたるところに赤いスティッカーと「祖国の領土を死守する」というスローガン、そして小さな島にそびえる円錐形の山の後ろの真赤な拳の絵と、「釣魚島は中国のものだ、日本人は出て行け!」という意味の文字のスティッカーだった。 空港の駐車場で待っていたのは、まあ、こんな、スティッカーだらけの自動車と友人だったのですが、ここから、 中国を縦断 し、 西安 から チベット 、作中の 友人の言葉 でいえば 「大西部」 への旅が始まります。映画で言えば、ロード・ムービー、 「自動車と男と女」 ならぬ、 「自動車と男と男」 の旅です。
静まりかえった駐車場の中で、叫び声のような文字が妙に目立った。(P8)
大西部の旅のために二日間、山東省から高速道路を走りつづけた。
謝謝你(シェイシェイニー) 、とかれは弱々しい声で言った。
いや、あなたこそ遠方よりよく来てくれた。友人の声には、一瞬、おおらかさがもどった。
それからまた独り言を言いつづけた。
但是(ダンシル) 、ところが、西安を過ぎて本格的に西方へ入りこんだあたりから、面白いことに気がついた。西へ行けば行くほど、愛国スティッカーが見当たらなくなった。
友人はまわりで駐車している何台かの日本車を指さした。
ここまで来ると、そんなものは一つもないでしょう。
ターミナル・ビルのすぐ後ろにそびえる真暗な山脈を友人が指で示した。そして振りかえり、反対側で層をなす山々を指した。
北の山脈の向こうでは砂漠が敦煌までつづき、南の山脈の向こうでは高原がラーサまでつづいていた。
膨大な大西部の中には、日本そのものが三つも四つも入る
それで、私は思う、と友人が言った。
一瞬経ってから、私も思う、とかれは答えた。
友人もかれも、ほぼ同時に言い出した。
それでは、剝がしましょう。
激怒の文字がめくれ上がった。「愛国無罪」がとれた。 小説は 「高原の青い鳥」「西の蔵の声」「文字の高原」「A child is born」 の 4章 で構成されています。上に引用した始まりのシーンは、 「高原の青い鳥」 の冒頭近くの部分ですが、ここから ラーサの寺院 まで旅は続きます。語り手の 静かな「声」 が印象的な作品ですが、実は、なんの事件も起こりません。
ウオツリジマの絵がたやすく落ちた。
剥がす音とともに、北方からも南方からも、砂漠と高原の静けさが聞えてきた。
最後の五星紅旗をはがしたとき、ついでに日産の文字もけずりたくなった。母国の星条旗を剝がす自分を想像した。
その時、かれの心には「親」も「反」もなかった。ただテレビ画面からうっとうしいニュースのテロップを引きちぎっているような気持になった。
数分のあとに、ブルーバードの車体が月光の下で黒く輝いていた。
走吧(ヅォーパ) 、と漢民族の友人が言った。
さあ行こうか。
走(ヅォー) 、と答えるかれの声で、二人はブルーバードに乗りこんだ。
「国家」を剥がされた車は、エンジンが勢いよく、青い鳥の元の軽みを取り戻したように、空港の南方の、チベット高原に向ってすっと走り出した。(P12)
生者が死者をおんぶして、天葬の場所へとこの山を登るのだ。 表紙の裏に印刷されている断章ですが、本文中からの引用です。
おぼろげな記憶の中から、
死者がたどる 天路(あまじ) という古い日本語が頭に浮かんだ。
昔かれは the path to heaven と翻訳したこともあった。
草の中のこの細い登り道も 天路 なのだろうか。
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