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はじめに ボクはこの 歌集 の存在を 池澤夏樹 の 「いつだって読むのは目の前の1冊なのだ」(作品社) の 2017年4月20日 の日記の紹介で知りました。
この 「震災歌集」 は 二〇一一年三月十一日午後 、東日本一帯を襲った巨大な地震と津波、続いて起こった東京電力の福島第一原子力発電所の事故からはじまった混乱と不安の十二日間の記録である。
そのとき、わたしは有楽町の山手線ホームにいた。高架のプラットホームは暴れ馬の背中のように震動し、周囲のビルは暴風にもまれる椰子の木のように軋んだ。
その夜からである。荒々しいリズムで短歌が次々に湧きあがってきたのは。わたしは俳人だが、なぜ俳句ではなく短歌だったのか、理由はまだよくわからない。 「やむにやまれぬ思い」 というしかない。(P1)
人々の嘆きみちみつるみちのくを心してゆけ桜前線 という1首を引き、 池澤夏樹 はこういっています。
あの春、ぼくは 長谷川櫂 のこの歌を知らなかった。 六年後の今 になって出会って、また別の思いを抱く。 「心してゆけ」 という自然現象への命令が 後鳥羽院 の 「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」 を引き出す。自然に命令してそれが叶えばどんないいいことだろう。 ぼくが、この歌集と出会ったのは 2023年の秋 です。数えてみると 東北の震災 から 12年 たっていました。一首づつ読み進めてるボクの中に呼び起こされたのは 1995年、1月17日の早朝 に始まったあの記憶でした。あれからボクには、 生きているということは信じられないと呟くしかないような出来事に出会うことだ という思いがありますが、その思いを揺さぶるかのように記されている歌の中から 10首 選びました。
福島について言うならば
青く澄む水をたたえて大いなる瞳のごとく原子炉ありき
が 「かつて」 であり、 「されど」 として
見しことはゆめなけれどもあかあかと核燃料棒の爛れるをみゆ
が隣に並ぶ。前の歌は 河野裕子 の 「たっぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江といへり」 を連想させるけれども、あとの歌に続く歌はない。
句集の方では
千万の子の供養とや鯉幟
にぼくは あの年の五月五日 、 花巻 から 遠野 に向かう途中で、 猿ヶ石川 の水面の風に泳いでいた無数の鯉幟を思い出す。まさにこの句のとおりの思いで見たのだ。
詩歌の喚起力 である。(P585)
二〇一一年三月十一日 長谷川櫂 には 「震災句集」 もあるようです。読むことができたときには、また案内したいと思います。
津波とは波かとばかり思ひしがさにあらず横ざまにたけりくるふ瀑布
乳飲み子を抱きしめしまま溺れたる若き母みつ昼のうつつに
かりそめに死者二万などといふなかれ親あり子ありはらからあるを
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやけし吉事大伴家持
新年をかかる年とは知らざりきあはれ廃墟に春の雪ふる
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ 宮沢賢治「雨ニモマケズ」
たれもかも津波のあとをオロオロと歩くほかなきか宮沢賢治
避難所に久々にして足湯して「こんなときに笑っていいのかしら」
被災せし老婆の口をもれいづる「ご迷惑をおかけして申しわけありません」
身一つで放り出された被災者のあなたがそんなこといはなくていい
黒々と怒りのごとく昂りし津波のあとの海のさざなみ
復旧とはけなげな言葉さはあれど喪ひしものつひに帰らず
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