殿上人日記

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2008年11月18日
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テーマ: 旅の写真(3471)
カテゴリ: 東京の旅

東京の秋1
         寛永13年建築の現存する旧江戸城建築遺構の
         うちで、最古の田安門(国の重要文化財に指定)

  私は、上の兄姉と15歳程も離れた末っ子だけど
  私の父親もまた、年の離れた末っ子なものだから
  私が生まれた頃には、父方、母方(こっちは単に
  短命だった)共に、祖父母は生存をしておらず
  父方の伯父や伯母などは、既に高齢でもあった


東京の秋2
          日本古来の武道を普及奨励をし、心身錬磨の大道場
          としての役割を担う日本武道館では、剣士が集う

  戦前戦中の混乱期に、戦場に向かう花婿に嫁を
  慌てて探すのも難しかったのだろうか、年の近い
  いとこなどを娶わせるのが、ごく普通であったのか
  父母もであるが、父方のすぐ上の伯母もまた戦場に
  向かう従兄弟に嫁いだそうである


東京の秋3
          公園皇居外苑、北の丸公園内のレストランで
          ヘルシーなお昼食(二日目)

  よく戦記モノなどでも名の聞く南方の激戦地から、無事に
  帰還をした伯母の夫(父親の従兄弟)は、地方自治体で
  けっこうな出世をし、10年程前に他界をしたのだが
  お葬式では、南方の戦線で共に戦ったというかつての
  戦友の送辞があった


東京の秋4
          かつての江戸城北の丸には明治政府によって
          近衛師団の兵営地が設置をされていた

  この伯母の夫(父親の従兄弟)は、戦前の若かりし頃に
  近衛師団の一員として、東京で若き天皇陛下のおいでに
  なった宮城(きゅうじょう)を、騎馬で颯爽と警護をして
  いたそうで、当時の近衛の高齢となった友の送辞もあった

  近衛兵は全国規模で特に家庭・生活・教育・健康の完備を
  した青年を選抜採用するようで、当時、近衛兵になる事は
  栄誉な事であったらしい


東京の秋9

  田舎に戻ってきてから、再び南方に向かう事になった
  らしいのだが、ネットによれば近衛師団が、南方でも
  戦っていたいたようなので、これに参加をしていたの
  であろうか? 詳しいことは私にはわからないのだけど


東京の秋6

  明治新政府は天皇の警護を名目にして、薩摩、長州
  土佐の三藩による政府直属の御親兵を創設したのだが
  その後に、近衛都督の西郷隆盛が再編をした近衛兵が
  天皇および皇居の守護をする事となった


東京の秋7

  明治24年には山縣有朋によって近衛師団へ改称をされ
  陸軍大臣管轄のもと、平時には天皇や皇居の警護などをし
  戦時下においては、戦線に参加するカタチを取る事となった


東京の秋8

  皇居北の丸には、明治43年建立の近衛師団司令部庁舎が
  残されており、今では東京国立近代美術館工芸館として
  公開をされている(国の重要文化財に指定)


東京の秋5

  先日の日記で、朝香宮鳩彦王のパリ郊外の自動車事故で
  薨去をされたと紹介をした北白川宮成久王の父宮である
  近衛師団長であった北白川宮能久親王の騎馬像があったが
  この宮様は、かなり波乱万丈の人生をおくられており
  ただただ驚くばかりであった

  >親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた
  >江戸の地で僧侶として過ごし、一時は「朝敵」の盟主と
  >なって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として
  >台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげた
  >数奇な人生は日本武尊に喩えられた (ウィキペディアより)


東京の秋11

  わが殿へのご忠義を貫いたが故に、江戸っ子の涙を
  誘った武士団と言えば、やはり今の世も「忠臣蔵」と
  して名を残した、赤穂の四十七士のものどもであろう

  この「忠臣蔵」とは、蔵一杯の忠臣ということからや
  家老の大石内蔵助の蔵にかけているといわれている


東京の秋15

  前々から出かけたかった泉岳寺は、ぐずついた天気の
  午後遅くであったのにもかかわらず、参拝者の線香の煙が
  ゆらゆら墓所をとりまき、奥には浅野内匠頭の墓所も


東京の秋13
          浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹を
          した際に、血がかかったと伝えられる梅と石

  元禄時代、江戸城の松の廊下で、赤穂藩の若き藩主
  浅野内匠頭長矩が、恨みを募らして吉良上野介義央に
  切りつけたとがで切腹となり、お家は断絶となったにも
  かかわらず、吉良はおとがめなしとされた



東京の秋14
           吉良上野介の首を、この井戸水で洗って
           浅野内匠頭の墓前に供えて、報告したという

  家老職であった大石良雄(内蔵助)を中心に赤穂藩の
  旧藩士(赤穂浪士)47名が、元禄15年12月14日
  雪の降りしきる夜中に、本所にある吉良邸への討ち入り
  本懐成就を遂げた浪士らは謹慎の上、翌年の2月4日に
  切腹となり、直ちにこの地に埋葬をされたそうである


東京の秋12
            大石主税(内蔵助の嫡男)が切腹をした松平
            隠岐守三田屋敷に植えられていた梅

  ただ間新六の遺体は遺族が引き取り、寺坂吉右衛門は本懐
  成就後に、瑶泉院などに討ち入りを報告した後に、自首をし
  麻布の曹渓寺で天寿を全うしたそうで、この二人は供養墓だ

  討ち入りを熱望をしながらも、周囲の反対にあって討ち入り
  前に無念の切腹をした48番目の義士、萱野重実(三平)の
  供養墓もあり、主君のもとで仲間と共に静かに眠っている


東京の秋10
                         皇居のお堀

        平成20年10月26日に東京 都内で撮影






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最終更新日  2008年11月19日 10時22分33秒
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