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2月上旬に娘と出かけた長崎旅行、ついに最後の観光地へと向かいました。いやぁ~本当に中身の充実した旅でした。日程を見てこれは行きたい!と、目を輝かせた団体旅行でした途中、遠くに巨大な観音像が見えた福岡県久留米市の成田山分院に立つ62メートルの救世慈母大観音像で胎内めぐりも出来るそうだそしてやってきたのは大宰府(だざいふ)車窓から政庁跡が見えた。古代において大和朝廷が東アジア諸国との外交、交易軍事上、重要な拠点であるこの地に出先統治機関を設置していたのだ天智天皇が母の斉明天皇の追善の為に発願したという観世音寺は、たび重なる火災や風害により、創建当時の堂宇や仏像は失われ往時の面影は残されていない。しかし国宝の梵鐘は、妙心寺と同じ木型を用いて鋳型を造った兄弟鐘と推定され日本最古級のものだ道真は「都府の楼には纔に瓦の色を看る観音寺にはただ鐘の声をのみ聴く」との事天平勝宝5(753)年、仏舎利を携え来日に成功をした鑑真が、太宰府を訪れこの地で初めての授戒を行ったそうである「戒壇院」は西戒壇として、中央戒壇(東大寺)東戒壇(下野薬師寺)とともに「天下三戒壇」の1つである。本堂内の戒壇には天竺(インド)、唐(中国)大和(奈良)の土が納められているとの事だまた大宰府政庁跡のあたりには、令和で有名になった坂本八幡宮がある。かつては太宰帥の大友旅人の邸宅があり、そこで開かれた歌会の様子が万葉集に残されており、そこから令和という元号が生まれたそうである。とは言え今回はスルーです個人旅行であれば大宰府政庁跡や、坂本八幡宮戒壇院、そして水城などもまわってみたいけど今回は団体旅行だしね。とか言いながらも以前個人旅行で大宰府に来た時も、↑あたりは行く事もなかった。九州国立博物館が目的だったしその個人旅行でも出かけた、福岡に来たらまず外せない「太宰府天満宮」が、今回の旅行での最後の観光先である。2月上旬という事もあり前に来た時には見れなかった、梅の花が今回は見頃で嬉しかった。やっぱ旅行はタイミングが重要だ太宰府天満宮についてウィキペディアでは>右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に>左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の>大宰府に員外帥として左遷され、翌々年の>延喜3年(903年)に同地で死去した。その>死後、道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると>葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、>これはそこに留まりたいのだという道真の>遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の>境内に味酒安行が廟を建立、天原山庿院>安楽寺と号した。一方都では疫病や異常気象>など不吉な事が続き、さらに6年後の延喜9年>(909年)には藤原時平が39歳の壮年で死去した。>これらのできごとを「道真の祟り」と恐れて>その御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を>奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の>墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に>竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である>それでも「道真の祟り」は収まらず、延喜23年>(923年)には皇太子保明親王が21歳で死去。>狼狽した朝廷は、延長と改元したうえで、4月に>道真の官位を生前の右大臣の官職に復し、正>二位の位階を追贈した。>しかしそれでも「祟り」が沈静化することは>なく、保明の遺児慶頼王が代わって皇太子と>なったものの、延長3年(925年)には慶頼も>わずか5歳で死去した。そしてついに延長8年>(930年)6月、醍醐天皇臨席のもとで会議が>開かれていた、まさにその瞬間、>貴族が居ならぶ清涼殿に落雷があり、死傷者が>出る事態となった(清涼殿落雷事件)。天皇は>助かったが、このときの精神的な衝撃がもとで>床に伏せ、9月には皇太子寛明親王(朱雀天皇)に>譲位し、直後に死去するに至った。>承平元年(931年)には道真を側近中の側近と>して登用しながら、醍醐と時平に機先を制せ>られ、その失脚を防げなかった宇多法皇も死去>している。わずか30年ほどの間に道真「謀反」に>かかわったとされた天皇1人・皇太子2人・右大臣>1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。>猛威を振るう「怨霊」は鎮まらず、道真には>太政大臣追贈などの慰撫の措置が行われ、>道真への御霊信仰は頂点に達した。ついに>正暦元年(990年)頃からは本来は天皇・>皇族をまつる神社の社号である「天満宮」も>併用されるに至った>寛和2年(986年)、道真の曾孫菅原輔正に>よって鬼すべ神事が始められるようになった。>寛弘元年(1004年)、一条天皇が初めて>北野天満宮へ行幸されて、太宰府へも勅使を>つかわせて以来、士庶の崇敬を広く集めた>菅原道真は、平安京朝廷内での藤原時平との>政争に敗れて遠く大宰府へ左遷されることと>なった延喜元年(901年)、屋敷内の庭木の>うち、日頃からとりわけ愛でてきた梅の木・>桜の木・松の木との別れを惜しんだ。その時、>梅の木に語りかけるように詠んだのが >東風(こち)吹かばにほひをこせよ梅花 >(うめのはな)主なしとて春を忘るな >道真を慕う庭木たちのうち、桜は、主人が>遠い所へ去ってしまうことを知ってからと>いうもの、悲しみのあまり、みるみるうちに>葉を落とし、ついには枯れてしまったという>しかし梅と松は、道真の後を追いたい>気持ちをいよいよ強くして、空を飛んだ。>ところが松は途中で力尽きて、摂津国八部郡>板宿近くの後世「飛松岡」と呼びならわ>される丘に降り立ち、この地に根を下ろした>一方、ひとり残った梅だけは、見事その日>一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んで>ゆき、その地に降り立ったという。太宰府>天満宮の神木で、樹齢1000年を超えると>される白梅で根本は3株からなる。太宰府>天満宮に植えられた梅のなかではいちばん>先に咲き始めるとされる。>飛梅は元来、菅原道真の配所(府の南館)>跡に建立された榎社の境内にあったが、>太宰府天満宮が造営されると本殿前に移植>されたといわれている。このほか、後代に>道真を祭神とする神社に株分けされたものが>各地に現存する。>太宰府天満宮での御神酒は梅酒である。 >また参道には梅ヶ枝餅と呼ばれる餡入りの>焼き餅を販売している店が並んでおり、>製作している風景も楽しめる。小豆餡を>薄い餅の生地でくるみ、梅の刻印が入った>鉄板で焼く焼餅である>出来上がると中心に軽く梅の刻印が入る>ようになっている。その名称は太宰府>天満宮の祭神である菅原道真の逸話に>由来しており、梅の味や香りがする訳>ではない参拝の後にぱくりと食べてみました道真は幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだ程の秀才で、祖父の菅原清公以来の私塾、菅家廊下を主宰し朝廷における文人社会の中心的な存在であった事から、学問の神様とされている九州だという事で、熊本のくまモンのグッズなども置かれていた。2020東京オリンピックスタジアムでもある新国立競技場を設計した隈研吾氏により「自然素材による伝統と現代の融合」というコンセプトで設計されたスターバックス大宰府天満宮表参道店筑紫庵本店では大宰府バーガーというものがあったが、人が並んでいたので集合時間もあるので、購入をする事が出来なかったなにぶん、団体バスの新潟や静岡組の人は夕刻の飛行機の時間があるので、大宰府のフリータイムは駐車場から、天満宮参拝をする位で、買い食いの時間は残されてない色んな観光地を効率よく回る場合にはかなりタイトな時間、設定にもなってくるというのに、すぐ前に座っていたご近所さんでのオヤジ数人グループが3日目は朝からお酒にも酔っぱらっててバス内は声が大きくうるさくて、添乗員さんに注意されていたがこちらは佐世保バーガーを諦めたというのに、フェリーの下船後にトイレだけを済ませてスグにバスへと言われてたのに脇の売店で唐揚げをお買い上げで、数分以上は待たされここ大宰府でもみんなバスに乗り込んでいて集合時間を過ぎているのに、あぁ~今度はソフトクリームを買ってるよ。今GOTOキャンペーンで沖縄旅行や、都会から田舎にへの帰省も、多くの人は人の事まで慮って我慢をしているというのに好き勝手をしている人がいるのを不満に思う人も多いのではないだろうか。本来ならば、大宰府の後に土産物屋に寄るというのも時間が押していて、すっとばし福岡空港で新潟、静岡組を下ろしました新幹線組の方はまだ時間があるそうでみんなで寄るはずだった土産物屋さんにGO。新幹線の中で食べるといって娘にねだられて、博多グルメを購入無事にJR博多駅に到着しました。もう暗くなってきましたが利用する新幹線まだ先なので1時間以上は時間があり一度解散をする事になりましてここで夕飯を食べようと、グルメエリアをうろちょろしまして、ケンミンショーでもやってましたが、博多はうどんが名物だと聞いていたので因幡うどんうどん博多デイトス店で、私はごぼう天うどん。噂どおりぶよんぶよんな麺だ娘はほろ酔いセット。小鉢3皿とお酒がついて650円。他に天ぷらを頼んで二人でつついて、集合時間までのんびりする事が出来た夜7時半に新幹線に乗り込み、名古屋に到着するのは午後11時近くで、終電も間に合うとは思うけど、そのまま名古屋駅前の前泊したホテルに泊まり、次の日名古屋でショッピングをして帰りました新幹線の中では先程、買ってきた博多名物の鶏なんこつ天をおつまみにして娘はビール。私は博多、小倉駅内限定販売の能古島甘夏チューハイをごくっお土産は初日の道の駅で買った、ド・ロ様そうめんと、パスタは切り出しで格安価格他に棚田かりんとう長崎市内の土産物屋で、中華菓子のよりより。おいしかったので大袋を買えば良かった。あとカステラ屋で特売品富士山の箸置きは、有田ポーセリンパークで貰いました。あとキーホルダーと根付を旅の土産に・・・2月8日からの3日間(早朝出発、深夜帰着の為に名古屋で前、後泊しました)娘と出かけた旅行はこんな感じでした費用は確か7万円位だったと思いますと、ホテル代と名古屋までの交通費でプラス一人1万円前から行きたいと思っていた長崎ランタンフィスティバル、ハウステンボスのイルミネーションとチューリップ、柳川のさげもんそして大宰府天満宮の飛び梅の花と、その時期だからこそ楽しめる内容でした5月末から合計13回に渡って、長崎&福岡旅行のブログ日記にお付き合い下さり、ありがとうございました。完 2020年2月10日に福岡県で撮影にほんブログ村
2020年08月11日
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2月上旬に、娘と出かけた長崎旅行も最終日。九十九島を遊覧をして佐世保から佐賀県に入って、有田で昼を食べ次は福岡県の柳川(やながわ)ですここでは希望者は、有料でどんこ舟にあとの人は1時間程のフリータイムです柳川は前に一度、来た事がありますが今回はちょうど雛飾りの時期だったのでどんこ舟には乗らず、前回も見学をしたお屋敷を拝見しようと思いました柳川(柳河)藩主であった立花家の広大な御殿とお庭を有料で見学が出来るのだ。元文3(1738)年、第5代藩主立花貞俶が柳川城の南西隅にあたる御花畠(ここ)に別邸を築いたそうである明治となり立花家は伯爵となっていたが立花家の第14代当主立花寛治によってゴージャスな迎賓的な邸宅が明治43年に完成し、今も当時の姿を残し地元の人から御花(おはな)と呼ばれて親しまれている立花家についてウィキペディアで説明すると>南北朝時代に、大友貞宗の子の大友貞載>が筑前国糟屋郡立花城に拠り立花を称した>ことより始まる>以来大友氏の重臣として重きをなしたが、>立花鑑載のとき大友義鎮(宗麟)に背いた>ため、同じく大友氏支流の戸次鑑連(立花>道雪)により攻め滅ぼされ、鑑載の子・>立花親善の代で断絶した。>大友義鎮は大友氏の一族、戸次鑑連を立花>鑑載・親善にかわって立花城に入れ、立花氏の>名跡を継がせた(鑑連はのちに入道して道雪と>号す)。鑑連自身は主家である大友家から>立花姓の使用を禁じられたため、立花姓を>名乗ってはいないが、立花道雪の名で知られる>道雪は男子がなかったため、初め娘の誾千代>(ぎんちよ)に立花城を譲り、晩年に道雪と>同じく大友氏の庶流であった高橋紹運の息子、>統虎を誾千代の婿に迎えて養子とした。統虎>改め立花宗茂は斜陽の大友氏を支え島津氏>との戦いに活躍し、豊臣秀吉の九州征伐の後、>筑後国柳川に13万2000石を与えられた。>立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に参加したため>(大津城攻めのため本戦には参加できなかった)>所領を没収され流浪したが、1604年に徳川氏に>より取り立てられ、1606年、陸奥国棚倉で>1万石を与えられて大名に返り咲いた。>その後、大坂の陣でも戦功をあげ、1620年、>関ヶ原の戦い以降に筑後柳川32万石を支配>していた田中氏が絶家したのをきっかけに>柳川10万9千石を与えられ、旧領に戻った。>関ヶ原で改易された武将が再び「大名」と>して復活できた例は少なく、その中でも旧領に>戻ることができたのは立花宗茂ただ一人である。>江戸時代の立花氏は柳川藩主として明治維新>まで続き、維新後は華族に列して伯爵を授け>られた。現在の立花家は、柳川市の自邸立花氏>庭園(松濤園)を改装した料亭・旅館・宴会場>「御花」を経営している。との事でして。戦国期の女性は時代に翻弄をされたお市の方や三姉妹、細川ガラシャなど人気がありますが、岩村の女城主のおつやや大河の井伊直虎のように、立花家のお姫様の誾千代もまた女城主であった>大友氏の有力家臣(加判衆)であった戸次鑑連>(立花道雪)の一人娘として筑後国山本郡(現・>福岡県久留米市草野)の問本城にて誕生。名前に>含まれる「誾」の字は“慎み人の話を聞く”という>意味合いを含めて肥前の僧侶、増吟が名付けた。>天正3年5月28日(1575年7月6日)、誾千代が>7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を>譲られている。道雪は後継者となるべき息子が>おらず、一人娘に城督を継がせるため、通常の>男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家で>ある大友家の許しを得た上で、姫を立花城の>城督とした。大友家の重臣の子であった宗茂が、誾千代と結婚し立花道雪の婿養子となって、誾千代に代わって家督を譲られたのだが>宗茂が不在の間、城の守りは妻である誾千代が>任せられていた。そのため侍女たちとともに>武装し、敵からの攻撃に備えていた>『大友文書』によると、「戸次伯耆守は>大友宗麟の重臣なれど、矢傷にて脚が>くさり衰えたり。されど娘ありて勇壮。>城内の腰元女中、五十名ほど訓練し、>戦初めには一斉射撃をなして敵の心胆を>奪う」という記述がある。>宗茂が文禄・慶長の役で不在の間、秀吉は>誾千代を言葉巧みに名護屋城に呼び寄せ>手込めにしようとしたが、それを察知した>誾千代はお付きの女中に鉄砲を構えさせて>護衛させ、また自らも武装をして乗り込んだ>為、それに恐れをなした秀吉は手も足も>出なかったとされる。>関ヶ原の戦いの時には、居館から甲冑を着て>出撃、先に柳川西側の渡船口にて鉄砲隊を構え>射撃して鍋島水軍を近づけず、そして南側へ>往き、自分が別居中の宮永村にて攻め寄せる>加藤清正軍を威嚇して、加藤軍の進軍を改道>させたとされている。なかなかの女城主ぶりだ。しかし夫婦仲が良くなかったようで、彼女は後年は、別宅に住んで子供もいなかった。宗茂の実弟の子を養子とし後世に繋いだようであるこちらは立花伯爵家のお嬢様。この邸宅が完成した同じ年に誕生された立花文子嬢は林野局にお勤めのお婿さんと全国をまわり終戦後には柳川に一家で戻り、お婿さんが立花家16代当主となったのだが華族制度は廃止され、膨大な財産税を払う為に、東京の不動産を処分しても借金が残ってしまったそうだ。そこでこの柳川の大きな屋敷で、料理旅館を始めたそうですよ昭和25年に料理旅館「御花」を開業し伯爵家のお嬢様だった女将の文子さんの口癖は「なんとかなるわよ」との事で今でも「御花」は料理旅館をしながらお屋敷も有料で公開をしており春先には、艶やかな雛飾りが座敷に飾られている。こういったものもその時期に行かなければ。柳川のさげもんも見たかったしね。ウィキペディアによると>さげもんは、福岡県柳川市に伝わる風習。>吊るし飾りのひとつ。女児の生まれた家庭>では、その一生の幸せを願い雛壇は父方の>実家から、さげもんは母方の親戚、母、>祖母が用意する。>元々は奥女中の嗜み教養のひとつとして、>お姫様が生まれると琴爪入れなどに使う>袋物を姫様の健やかな成長を願い繕い>贈ったのがはじまり。やがて吊るし雛へと>型を変え柳川まりとともに伝承されて>きた風習である。>また彼女らの里帰りを通して庶民にも伝え>られた。裕福な家庭は雛壇をさらに豪華に>ひきたてる為、部屋中にさげもんを飾りつけ>客人を招いた。あるいは雛壇を用意できぬ>家庭でもその代わりとして布団ハギレで縫い>合わせ心をこめた初節句の祝いとした。>人生50年と言われた時代に女性は一歩引いて>49年と配慮した意味を含ませ、さらに中央に>特大柳川まり2連を加え計51個とする事により、>人生50年よりも長生きできるように願をかける。>これを初節句の際、雛壇の横に左右対で飾る。>これに類する風習として静岡県東伊豆町の>「雛のつるし飾り」、山形県酒田市の>「傘福」(笠福)がある。との事で、艶やかな雛飾りをじっくりと楽しむ事が出来た。立花宗茂と誾千代夫妻地元では大河ドラマ化も狙っているらしい誾千代以上に立花宗茂も人気があるようだ何でも秀吉と家康を魅了した、戦国最強の武者が浪人になり、再びの返り咲きウィキペディアで彼の事を紹介すると >(九州平定)戦後、秀吉はその功を認めて筑後国>柳川13万2000石を与え、大友氏から独立した直臣>大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を「その>忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。」「九州の>逸物(原文:誠九州之一物ニ侯)」と高く評価した>文禄の役でも立花軍が明軍を食い止めたために>戦機が生まれ、小早川隆景などの日本軍が明軍を>撃破した。宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、>二つの首を鞍の双方に付け、刀は歪んで鞘に戻せ>なくなったという。>『甫庵太閤記』に「鬼神も敵す可らざる御功績も>あり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の>異名で呼ばれた。小早川隆景は「立花家の3,000は>他家の1万に匹敵する」と評価し、秀吉からも「日本>無双の勇将たるべし」との感状を拝領した>小田原征伐に従軍、岩槻や江戸に参陣。>2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、>「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西>無双」と評し、その武将としての器量を>高く褒め称えた>徳川家康は宗茂を畏敬し賞賛していた。二条城に>上洛した際、本多正信に、直々に絶賛した記録が>残っている。武田信玄、上杉謙信、織田信長等の>名だたる武将と比肩して。正信は、殿がそのように>褒めるお方は誰にと問えば「家康公の仰に、天下に>隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」(翁物語)>『名将言行録』では、宗茂のことを「人と>なり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて>誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。>流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、>民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、>義を以てす。>故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、>奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば>必ず勝てり」と記している。文武両道の名将で、>連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・>笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作>など多彩の技芸にも長けていた文化人とされるいやぁ~。なんだかすごい。そんな人物だからこそ、戦国を生き抜き江戸時代も将軍家からも重宝されたのだろう。もし大河をするとしても誰が演じるのだろう。誾千代とかは思いつくんだけどといった訳で、立花家のお屋敷と展示館を見学させていただき、残る時間は柳川のプチ街歩きを楽しもうかな。柳川は掘割という水路がめぐらされた水郷です。それを船頭さんに操られたどんこ舟に揺られのんびりと。2月上旬はもうマスクをつけている人もいますね。式場から披露宴会場へ移動する花嫁舟などもあるそうですよなんだか倉敷とか佐原なども思わせる光景ですが、やっぱ水郷は風情がありますね。この柳川出身の有名人は結構あるようです。妻夫木聡、徳永英明、北山たけしといった芸能人の他にも大相撲の琴奨菊、横綱土俵入りの不知火型を考えた、第十代横綱の雲龍久吉。なんでも途中で名前が変わったみたいです。小説家では檀一雄そして北原白秋もここ柳川の商家の生まれです。ウィキペディアによれば>北原 白秋(きたはら はくしゅう、1885年>(明治18年)1月25日 - 1942年(昭和17年)>11月2日は、日本の詩人、童謡作家、歌人。>本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。>詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」>「ちゃっきり節」等)の分野でも傑作を残して>いる。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い>継がれる童謡を数多く発表し、活躍した時代は>「白露時代」と呼ばれ、三木露風と並んで評さ>れる、近代の日本を代表する詩人である。どんな童謡の作詞かなと、並べれてみると雨、あめふり、ゆりかごのうた、この道からたちの花、ペチカ、ちゃっきり節待ちぼうけ、砂山などなど・・・あめふりは、ピッチピッチ チャップチャップランランランで。雨は、雨がふります雨がふるって感じです。あめふりは「コドモノクニ」という児童雑誌で発表されたそうだが、他にも野口雨情のうさぎのダンスも、この雑誌から挿絵画家には竹久夢二や東山魁夷などの名前もあって児童雑誌とはいえ侮れない復刻版とかあれば見てみたいなぁ。集合時間が決まっていたので、そろそろバスに戻らねばもう少し時間があれば良かったけど、まだこの後にも観光があるんですよ。どれだけ充実してるんだ3日目。個人だったら既に駅に向かって、名古屋行きの新幹線に乗る時間かも船頭さんによっては話が上手いとか歌が上手いとか、いろいろあるけど今回の人はイマイチだったとバスで添乗員さんが言っていた。フリーで良かったかな♪御花の売店で、八女抹茶もなかを娘と半分こ。福岡県八女市あたりの八女茶の生産高は全国6位。手頃に名物を食べるのも旅の楽しみだバスでどんこ舟組を待っていたら、一般車両の利用者さんが肩ににゃんこを乗せ車に戻ってきていた。紐をつけての観光みたいだが、猫連れは珍しい土岐アウトレットもわんこ連れが多いが一度、フクロウを連れた人がいたのには驚いた。ではでは一番最後の観光地へと出発しますか! つ づ く 2020年2月10日に福岡県柳川市で撮影にほんブログ村
2020年08月07日
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2月上旬に娘と出かけた長崎旅行の最終日午前中の観光先は、佐世保で海へ出かけた海無し県の岐阜県民には、こういった観光大歓迎ですやってきたのは、佐世保湾に浮かぶ九十九島(くじゅうくしま)、西海国立公園で、島の数は208もあるらしい九十九島パールシーリゾートからは「パールクィーン」と「海賊船みらい」という遊覧船があって、今回はパールクィーンに乗船できるという事だいつもであれば、フリータイムで町をぶらつくとか、公園だったり無料観光がお得意な団体旅行だが、遊覧船の料金込みだとは珍しいなかなか、こちらもワイルドな船だが今回、乗り込んだのはこちら。この船で50分程、九十九島を巡る船旅を楽しむ趣向だお天気にも恵まれ、格好のプチ船旅は船内でのんびりも出来るけど早々にデッキに出た。風がかなり吹いていたが、寒いといった感じでもなかった九十九島について、ウィキペディアでは>九十九島(くじゅうくしま)は、長崎県の>佐世保市、平戸市にかけての北松浦半島>西岸に連なるリアス式海岸の群島である。>全域が西海国立公園に指定されている。>全て旧北松浦郡。島の総数は現在公式には>208とされている。これは佐世保市等による>「九十九島の数調査研究会」の2001年時点>調査によるものであるが、島の定義等により>異説もある。>『西海国立公園 九十九島全島図鑑』(芸文社)>著者の澤恵二による実地調査では、満潮時に>他の陸地から独立して海面上にあり、植物が>生えているという基準で216あるという>殆どは無人島や岩礁で、人が住む有人島は>黒島、高島、それに本土から橋で行き来>できる前島と鼕泊(とうどまり)島の4つ>である。途中の佐々川河口を境として北側を>「北九十九島」、南側を「南九十九島」と>呼ぶことがある。>南九十九島は遊覧船「パールクィーン」が>佐世保市鹿子前(かしまえ)の西海パール>シーリゾートから出航している他、シー>カヤックやヨット等のマリンスポーツも>盛んである。日本百景に選定されている。平戸第九代藩主の松浦静山(清)公が、秋田県の象潟九十九島(くじゅうくしま)に倣い名づけたそうである。この殿様は、隠居後に執筆をしたという随筆集の「甲子夜話」で有名で、鳴かないホトトギスを3人の天下人(織田信長、豊臣秀吉徳川家康)がどうするのかという詠み人知らずの川柳も載せられている。心形刀流剣術の達人だったそうで「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」との名言を残したそうでプロ野球の野村克也元監督の座右の銘であったとか更に九十九島は「世界で最も美しい湾クラブ」に加盟認定をされている。ウィキペディアによると>世界で最も美しい湾クラブは、「湾を活かした>観光振興と資源保護、そこに暮らす人々の生活>様式や伝統の継承、および景観保全」を目的に>1997年3月10日にドイツのベルリンで設立>され、フランスのヴァンヌ市に本部を置く>NGOで、ユネスコの後援をうけている。全く>手つかずの厳正自然状態を求めるものでは>なく、湾内にある人工物(街・橋・灯台>など)も対象となる。>加盟条件は申請する湾に、>優れた自然の美しさがあること>豊かな生態系があること>経済的潜在力があること>地域と国レベルでの法的保護体制が整っていること>世界遺産の評価基準に準じていることとの事で日本からは他に、松島湾、富山湾、駿河湾、宮津湾などもいろんなものがあるもんだなんだか奥の方の山は、富士山みたいあちこちに養殖場があったがTASAKIというと、真珠の養殖のかなウィキペディアによると>株式会社TASAKIは、兵庫県神戸市中央区に>本社を置く宝石を加工、販売する企業。>東京銀座にTASAKI銀座本店がある。>1954年(昭和29年)創業。会社(旧法人)>設立は1959年(昭和34年)。国内で真珠の>生産及び加工販売を行っている企業としては>トップクラスの実力があり、日本真珠振興会が>主催する全国真珠品評会では農水大臣賞を>7度受賞している。松浦島の三年ヶ浦は、近隣の飯盛城が落ちた際、城主ら3名が、追っ手を振りきり松浦島に隠れ住んでいたが、3年が過ぎたのでもういいだろうと、たきびをした煙が追っ手に見つかり捕まったという話や天正14(1586)年に、松浦家の武将である佐々入道加雲が、大村家の大村与市の守る彼杵城を攻めこんだが敗れてしまい、加雲は部下数名と共に船でのがれて金重島に隠れた。しかし敵の探索にあい発見をされ、加雲はついに大岩の上で自刃をした。その岩は加雲岩と呼ばれているこんな美しい島々なのに敵から逃れて捕まってという伝説を聞くと、何やら隠れキリスタンの事を思い出したそんな悲しい伝承などを聞きながらやってきたのは遊覧のメインイベント狭い無人島の間を通過しますかなりギリギリみたいです無事に通過できましたそうそう九十九島をネットで調べると岩ガキの養殖でも有名のようだ。宮城とか広島とか全国に産地があり、うちのあたりだと、伊勢の的矢がきが有名豊かな九十九島の海では、真珠や牡蠣の他にもフグ、ハマチ、ヒラス、タイなど様々なお魚の養殖もしているそうだそんな漁業をされている小さな港町遊覧船の旅もそろそろ終わりだ平成14年11月、上皇様(当時の天皇陛下)が第22回全国豊かな海づくり大会でご放流、海上歓迎行事で西海パールシーリゾートにご臨席をされた時のものではなかろうか伊能忠敬も測量をした際に歌を残している 七十に近き春にぞあひの浦 九十九島をいきの松原風光明媚な九十九島は、ハリウッド映画のラストサムライの冒頭のシーンで、登場をしている。石岳展望台の夕景はことのほか美しいそうで、機会があれば見たいものだ海軍工廠が置かれていた街は、昭和20年6月の大空襲で焦土と化した。占領期は旧日本軍施設に米海軍が進駐すると、飲食店、バー、キャバレーが佐世保市内に次々と出来。朝鮮特需による好景気に沸く昭和25年頃に米海軍関係者からハンバーガーのレシピが伝わり、佐世保バーガーの歴史が始まった平成11年に、横須賀で行われた旧軍港4市(横須賀、佐世保、呉、舞鶴)の交流物産会で佐世保市内のハンバーガー店が出店。佐世保の勤務経験を持つ横須賀の海上自衛隊員らに懐かしいと予想以上の人気を集めた事から地元のまちづくり関係者の間で、話題となり平成13年の佐世保市の市制100周年プレ事業で佐世保バーガーをPRした事で、取材でやってきたマスコミや、芸能人の中で話題となっていった。佐世保はクジラも食べるんだな。 つづく 2020年2月10日に長崎県で撮影にほんブログ村
2020年08月05日
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さてさて今年2月上旬に娘と出かけた長崎旅行ですが、いよいよ最終日の三日目の朝を迎えました。なんだか今日もお天気に恵まれてて良い感じですよ~!ハウステンボスのホテルを出発して、一番最初にやってきたのは、旅の最初にも紹介をした夢の架け橋「西海橋」です。いつものように、ウィキペディアで概要を紹介させていただきますね>西海橋(さいかいばし)は、長崎県佐世保市>針尾島と西海市西彼町の間にある伊ノ浦瀬戸>(針尾瀬戸)に架かるアーチ橋である。完成>当時は固定アーチ橋としては世界で三番目の>長さを誇り、東洋一と評された。>日本三大急潮のひとつといわれる針尾瀬戸に>より、長い間「陸の孤島」であった西彼杵>半島と佐世保市を陸路で結び、半島における>産業の振興、開発の促進を目的に架けられた>1951年に着工し、1955年10月に竣工。同年>12月より供用を開始した。>総事業費は5億6,000万円(当時)で、完成時>には固定アーチ橋として世界で3番目の長さを>誇っており、日本の橋として初めて支間長200>メートルを超えた長大橋であった。技術的に>卓越した存在であるに留まらず、>針尾瀬戸のランドマークとなる機能美をも備え、>橋自体が観光スポットとして広く知られている。>空の大怪獣ラドン (映画)では、阿蘇から出現>した怪獣ラドンが佐世保に飛来。自衛隊機との>空中戦の末、被弾したラドンは西海橋下の海に>墜落後、再び飛翔。ラドンの放つ衝撃波により>橋は破壊される。とりあえず全国の有名観光地は怪獣が出現して大暴れをするようだ。西海橋の脇からはウォーキングデッキがあり、てくてく歩いていくと橋と並行してかかる、もう一つの橋にたどり着く事が出来る「新西海橋」といいまして、ウィキペディアで紹介をさせていただくと>長崎県佐世保市の針尾島と西海市との間にある>伊ノ浦瀬戸(針尾瀬戸)にかかる橋梁である。>建設時の仮称は第二西海橋であったため、地元>では第二西海橋と呼ばれることも多い。>鋼中路ブレースドリブアーチ橋の主橋部と、>PC4径間連続ラーメン箱桁橋の入江部から>なる。 2006年3月5日に開通した。初代>西海橋と並行しているため、西海橋からも>その姿を見ることができる。>全長:620m(主橋部:300m + 入江部:320m)>幅員:14m>路線:国道202号江上バイパス(西彼杵道路(西海> パールライン有料道路))>規格:第1種第3級>設計速度:時速80km>西海パールラインの延長区間の一部であり、>有料の自動車専用道路(片側2車線)である。>また、桁下に歩行者専用道があり、展望室も>ある。この展望室の床にはガラス製窓があり、>眼下に渦潮を眺めることができる。ちなみに>歩道は無料。>映画「釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメ>だった♪♪」にてこの橋がロケ地に使われて>いる。当時は未完成で連結式のシーンであるが、>実際の連結式当日に引き続いてロケが行われた>なお、当時の呼び名は第二西海橋であった真下も眺めることが出来ますが、まっ橋の横からで充分です。それにしても鳴門の渦潮は有名ですけど、九州長崎でも渦潮が見えるんですね。知りませんでしたよ。ウィキペディアによれば>針尾瀬戸(はりおせと)は、長崎県の>大村湾を塞ぐ針尾島と西彼杵半島の間の>水域。佐世保市と西海市との境界であり、>西海橋と新西海橋が架けられている。屈曲>した狭い海峡であり、最狭部は幅約170m>ほどである。>大変流れが早く10ノット以上になるときも>あり、渦潮を見ることができ、日本三大急潮の>一つとされる。針尾瀬戸の呼び名は、針尾島が>ある佐世保市側から見た名称であり、伊ノ浦と>いう入り江がある対岸の西海市側から見た>名称では伊ノ浦瀬戸と呼ばれる。鳴門程ではないにしても、日本各地の海峡でも小さな渦巻は見る事が出来るようだし。ここは春と秋が見事らしいその近くには、針尾(はりお)送信所があり、ウィキペディアによれば>日本海軍佐世保鎮守府隷下の無線送信所>として、1918年(大正7年)11月に着工、>1922年(大正11年)に完成した。総工費は>当時で155万円という。竣工日は1号電波塔>から順に4月30日、5月30日、7月31日。>太平洋戦争開戦の暗号「ニイタカヤマノボレ>一二〇八」を送信した電波塔として名前が挙げ>られることが多いが、この暗号を真珠湾攻撃>部隊に向けて送信したのは船橋送信所(艦船>向けの短波と中波)と依佐美送信所(潜水艦>向けの超長波)である。>針尾送信所は、瀬戸内海に停泊中の連合艦隊>旗艦「長門」が打電し、広島県の呉通信隊が>送信したものを受信し再発信したもので、中国>大陸や南太平洋の部隊に伝えたものであると>されるが、その詳細は不明とされている>針尾送信所の象徴である電波塔の高さは>いずれも、136メートルで、基部の直径は>約12メートル、厚さは76センチメートル。>3本の配置は約300メートル間隔の正三角形と>なっている。自立式電波塔としては古さ>日本一である。>1922年の完成から1954年に名古屋テレビ>塔が完成するまでの約32年間、日本一の>高さを誇った。2019年現在でも、長崎県で>最も高い建造物であり、>「旧佐世保無線電信所(針尾送信所)施設」の>名称で国の重要文化財に指定されている。現在>では電波塔としての役割を終えている。という事だ。早咲きの河津桜の濃いピンク色の花が満開で、綺麗だった桜とお別れして、バスで次に向かったのは佐世保だった。少し高い位置にある道路からは、バスの車窓から佐世保軍港を見る事が出来た。ウィキペディアによれば>長崎県北部の中心都市で、長崎県では長崎>市に次いで2番目、九州では9番目に多い>人口を擁する。県庁所在地ではない「非県都」>であるが、人口規模と比較して大規模な>繁華街を持つ都市であり、国から中核市及び>保健所政令市の指定を受けている。>かつて旧海軍四軍港(横須賀・呉・佐世保・舞鶴)の>一つとして鎮守府が置かれ、現代でも自衛隊や在日>米軍の基地として伝統を受け継ぐ、造船および国防の>町として知られる。また、西海国立公園に指定されて>いる九十九島や日本最大級のテーマパークである>ハウステンボスに代表される観光都市でもある。>かつて佐世保村として隣接する平戸市や>松浦市の郊外地だったが、東郷平八郎を>乗せた軍艦二隻が調査の為に佐世保を>訪れた事から軍港都市としての歴史は>幕開けした。>世界最大の軍艦だった弩級戦艦大和級二番艦>武蔵が長崎三菱造船所から工事の為に一度だけ>佐世保に寄港した事がある。また、世界最大の>軍艦に引き続き潜水艦も佐世保と関係していて、>潜水空母伊401潜水艦は佐世保工廠にて製造>された。>終戦してから佐世保は、海上自衛>隊にとっても、アメリカ海軍第7>艦隊にとっても主要重要拠点軍港>として発展してきた。>現在の市中心部は江戸時代までは一農漁村で>あったが、明治時代に入り海軍の鎮守府が>設置され、それ以降は海上防衛の重要地域と>して発展していった。>戦後は旧軍港市転換法の適用を受け、新たな>方向での街づくりが進められているがなお>軍港としても重要な地位を占めており、軍>民間の棲み分けが課題となっている。>佐世保市内の旧大日本帝国海軍に関する近代化>遺産を含めた「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・>舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」と>三川内焼を含めた「日本磁器のふるさと 肥前~>百花繚乱のやきもの散歩~」が日本遺産として>文化庁より認定を受ける。佐世保で有名な企業は何かあるかな?と、見たらジャパネットたかたの本社が佐世保市内にあるそうで、通信販売の番組収録のスタジオも本社内なんだとかそして造船の佐世保重工業。愛称はSSKウィキペディアによれば>1946年(昭和21年)に旧日本海軍の佐世保>海軍工廠の土地や設備を受け継ぐ形で設立>された。主な業種は船舶、艦艇の建造および>改造、修理。佐世保市に基地を持つ海上自衛隊や>アメリカ海軍の艦艇の保守、修理なども手がける。>その他には船舶用機械製造、化学工業機械製造、>鍛造品製造などを行っている。>第4岸壁(通称:立神岸壁)にある250トンクレーンは>1913年(大正2年)にイギリスから導入されたもので>現在も使用されている。このクレーンはかつては戦艦>「武蔵」の艤装工事にも使用された。第4ドックは>「大和」「武蔵」の整備のために極秘裏に開削した>海軍工廠第7ドックのことだが、竣工前の「武蔵」が>一度使用しただけに終わった。車窓から佐世保バーガーの看板が。ネットで調べたら、なかなか人気のお店のようだしでもここでの観光は市街地じゃなくって海その様子は、次回で紹介をします佐世保出身の有名人は、いしだあゆみや前川清とか、芸能人の他にもプロ野球の元巨人の村田善則とか、元大リーガーの城島健司の他、幾人も排出しているようだ佐世保の観光(次回、紹介します)を終え、長崎県に別れを告げ次にやってきたのは佐賀県西松浦郡有田町にある有田ポーセリンパークである。ここの目玉は、↑ご覧のような宮殿だオランダの町並みを模したハウステンボスよりも、なんだか本格的な欧州の宮殿だしドイツのザクセンの州都であるドレスデンに建つツヴァンガー宮殿を忠実に模したものだそうで詳しい事は↑の説明を読んでくださいそのツヴァンガー宮殿のあるドレスデンの近郊にあるマイセンでは、東洋の白磁を欧州で作ろうと、一大産業となった縁で有田町と姉妹都市となったアウグスト王のツヴァンガー宮殿には有田焼をはじめとして、東洋の陶磁器2万点のコレクションが展示されているそうで、ここ有田に宮殿を模した訳だこの宮殿は無料で見学が出来、宮殿内に有田土産コーナーがある他に、有料だが有田焼ミュージアムがあり、素晴らしい作品が幾つも並んでいたが、写真撮影が禁止だった古伊万里・柿右衛門・鍋島藩窯様式をはじめとする江戸・ 明治の最盛期までの作品が展示がされていて、かなり大きな焼き物もあったここは自由見学なったので、娘は入らずに私だけ中を見学してきた新型コロナの流行で、当分は海外旅行などは出来そうもないので、だったら国内で、なんちゃって海外旅行気分を味わうのもいいかもしれない紅白で話題になった大塚国際美術館とか群馬のロックハート城や、栃木の東武ワールドスクエア、愛知のリトルワールドなど。とは言っても国内でも新型コロナが拡大中なので、当分は国内旅行も厳しそう他の建物には日本酒の販売とか有田焼などもたくさん売られていた。まっうちのあたりは美濃焼があるので、わざわざ買っていく事もないけど。荷物にもなるしここでは、団体旅行の3日目のお昼ご飯を食べる為に寄ったのだけど、結構、海鮮なども並んでいたほんの少しだけど食前酒などもあったといった訳で長崎から佐賀へと、3日目の旅は続きます。次回は前後しますが食事の前に行った、佐世保の観光地を紹介します 続 く ! 2020年2月10日に長崎県で撮影にほんブログ村
2020年08月02日
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7月も終盤となって、新型コロナの全国拡大の勢いはとどまるところを知らない。あの岩手県でも初感染が確認されたそうだけど、岐阜県も都会の名古屋に近く、行き来も多い事から昨日などは30名も感染数があったそして遂に、東濃地方の奥地である地元の中津川市でも初感染。ちなみに下呂市でも飛騨地方初の感染者が出たそうで、山と川しかないような岐阜県内でも、じわじわと新型コロナが広がっており、日常生活でも注意が必要だそんな緊迫した中で東京都民や、旅行の目的地は東京というのを除き、前倒しでGOTOキャンペーンが始まり、自粛疲れからと安さ(8月末までは35%還元)から、4連休に旅行に出かけた方も多い先週の4連休のお出かけで新型コロナに感染した人もいるようだ。そんな安くもなるGOTOキャンペーンも宿泊先が感染対策などもして指定業者の認定を受けているのか定かではない上、後から自分で還元手続きをするのも面倒くさそう春から名古屋の繁華街に、一度も出かけていないような人間なので、遠出も怖いので逆に、8月上旬の岐阜県の補助で既に安くなっている大垣のホテル予約をキャンセルした位だ。で、4連休は旦那の運転で例年通りに、いつもの信州松本日帰りドライブでも岐阜県で、今週はこのように感染者数が増えている状況で、岐阜ナンバーで長野県は行けなくなった。というか地元でも感染者が出ているようでは、ね・・・。いよいよ8月が始まろうとしているが自粛の夏となりそうだで、相変わらず自宅で過ごす事が多くなっている訳だが、4連休初日に地元のレンタル屋でDVDが半額になったので、前から見たかったフォードVSフェラーリを見る。子供の頃に見ていたアニメのマッハGOGOを思い出すような車のフォルムだドラマとかも相変わらず幾つも見ている。古いドラマを絶賛再放送中なので、主演女優さんが若い~。とか言いつつ。やまとなでしことかにごくせん、整形美人。まぁ新しいドラマとかもぼちぼちと始まっている訳で、一番人気は半沢直樹で、録画はしているがまだ見てはいない今週も、昼間にのんびりとテレビをぐ~たらと見てたいところだけど、感染拡大に伴って5月上旬以来、旦那が交代制での再度のテレワーク今も二階でノートパソコン向かっていますのでお昼ご飯も手抜きが出来ない四連休で借りたレンタルDVDも、今日が返却日だけど、夕刻に食材が安くなり始めた頃に少し出かける位になりそうだ。旦那は車での通勤だが片道で30分位はかかり、往復1時間は短縮が出来るし勤務時間もずらせるので、早めに始め早く終えてから、夕方に草刈りをしたいようだ草刈りが出来ればいいが、朝には大雨が降りこの時間でも空は暗いまま、今日も洗濯物は室内干し。いつになったら梅雨明けをするんだろうか。青空を見たのはいつだったかとりあえず岐阜県内で、岐阜県民だけが安く泊まれるホテルに8月のお盆の連休に、娘と出かけられるように、予約はしているけどこのままではキャンセルをしなきゃいけなくなりそうだと近況などを報告しましたが、写真の方は今年2月上旬に、娘と出かけた長崎旅行の2日目の夜。ハウステンボスですやっぱ、ここは昼間よりも夜の方がずっと良いです。更に昨夜の長崎ランタンフェスティバルに続いて、ハウステンボス見学と夜も観光が出来ると、短期の2泊3日の旅でも充実度も増しますなんか、こうゆうのはオランダというよりも、イタリア北部なイメージこういった歌劇団の演劇も楽しむ事が出来るようです恐竜も、闇夜で吠えていました高いところに登って、上から見下ろしてみましたイルミネーションをしているのでより華やかです先程は、高さ105メートルのこのタワー「ドムトールン」に登っての風景です先日、TBSで「音楽の日」の放送があってハウステンボスからは、昼間は森山直太朗夜は平原綾香が、このイルミネーションと花火をバックにジュピターを歌っていたその日は、人気俳優の三浦春馬さんが若くして亡くなられた事もあり、友人の城田優が涙ながらに歌唱をしていたのが見ていても辛かった。ユーチューブに事務所の公式チャンネルで三浦春馬さんのPVがあったので。華やかな芸能界も彼が生きていくのには、辛い事が重なってしまったのかもしれない。番組で彼のファンだという外国人の女の子たちに優しく接していた彼の姿が忘れられないバラエティ番組に出演をしていた若い女性プロレスラーがネットなどで叩かれて命を自ら絶ったりもしたが、ニュースなどでも学生が線路に横たわっていたり、電車に飛び込んだりと見聞きをする若年層の死因の一位は長らく自殺であるとかそして難病で体の自由が失われ、生きるのがあまりにも辛い毎日の中で、安楽死を望んで医師の力を借りて、令和元年に命を絶ったという女性の患者のニュース三浦春馬さんも、ドラマ「僕のいた時間」でこの女性と同じ筋萎縮性側索硬化症(ALS)になった青年の役を演じられた事があり、新型コロナからか、この春にTVで放映されたのを見たばかりだったなんでも三浦春馬さんから、プロデューサーの方に「命を題材にしたドラマをやりたい」と持ち掛けたものらしい。主人公のセリフには死にたい訳じゃない!生きるのが怖いんだ。と再び、長崎の隠れキリスタンを主題にした遠藤周作の「沈黙」の映画を思い出した。今を生きるのはあまりに辛いから、信仰によって死んだら天国に行く事で楽になれるマーティン・スコセッシ監督は、この映画を弱き者の為に作ったそうだ>今、最も危険に晒されているのは若い>世代の人々です。勝者が歴史を勝ち取り、>世界を制覇するところしか見ていない。>世界のカラクリがそのようなものだと>思い込んでしまうのは、とても危険な>ことです。>物質的な現代においてこそ、何かを>信じたいという人間の心を真剣に>考えることが大切なのだと思います。>今、西洋ではそういった想いを小>馬鹿にするような風潮がありますが、>かつて宗教的基盤を作り上げていった>前提が、今変革を遂げているのでは>ないかと思います。強くあることが>文明を維持していく唯一の手段では>ありません。>弾き出され、否定された人々を個人と>して知ろうとすることが大切なのですフォードVSフェラーリでも、純粋に戦いに挑みたいドライバーや、メカニックマンの前に立ち塞がったのはフォードの上層部のエリートで自分の言いなりにならない彼らをことごとく邪魔をして、排除をしようとする最後に宣伝になるからと、ル・マンでワザとフォード車3台を1・2・3位並んでゴールさせていたのも、実話のエピソードだそうでアメリカの商業主義の極みだし。勝負というものを馬鹿にしきってる一時期、自己責任だとか、努力が足りないからだとか、突き放した言葉があったけどもがいても、努力をしてもどうしようもない立場の人もいるハウステンボスの夜には、エキゾチックな炎を使った、このようなパフォーマンスも行われていた更には光り輝く小舟を使ったパレードそれぞれの小舟にはパフォーマーらが乗り込み、自慢の芸を見せていた先程の炎の人たちは、口から火を噴いていたそれぞれテーマパークでは、パレードに趣向を凝らしているもんだ夜のハウステンボスでは、時間によって色んなものが、次々に行われているので一つのパフォーマンスが終わったら、次に行われる所に移動と忙しい今度は入り口近くの噴水のイルミネーションこれもなかなか見応えがあった一番奥に建つ、黄金やスイーツの部屋のあるパレスハウステンボスはオランダ王室の許可を得て、ハーグの森にある宮殿の外観を再現をしているそうだ宮殿全体を使ったプロジェクションマッピングもなんか、ことごとくドラゴンが登場をしてるんだけどう~ん。宮殿といっても今っぽい。若い頃ルードヴィッヒ二世が作ったバイエルンのノイシュバンシュタイン城に出かけて、遠くからは美しいのに、近くに行くと随分と今っぽい建築でがっかりした。まぁ19世紀後半の建築だし仕方あるまい人工的にライトアップされた夜の庭園プロジェクションマッピングあるあるとしては、建物が崩れるのとか多いような欧州の雪景色をも思わる、スタッド・ハウスの白銀のイルミネーションそれがプロジェクションマッピングでこんなカラフルなものにきゃ~、燃えているそして、ここでもドラゴン。と言うか龍みたいだし。こうして夜遅くまでハウステンボスを歩き回って、堪能明日はどこへ行くのだろう。続く! 2020年2月9日に長崎ハウステンボスで撮影にほんブログ村
2020年07月30日
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ではでは、今日も2月上旬に娘と出かけた九州旅行2日目。午後遅く出かけたハウステンボスの紹介をしたいと思います前回のラストに紹介したチューリップ同様にこのカラフルな傘も明るいうちに見たいなぁなんて思ってました。しかし青空の下でこそ色も映えるのかもしれませんそれにしても前倒しのGoToキャンペーンはまさかの東京外しとなりましたね。ここにきての感染数急増や、東京由来の地方での感染も多いので仕方がないと言えますけど東京都民と、東京発着の旅行は対象外です横浜で泊まって東京で遊んだり、東京駅からスグな東京リゾート(川一つ向こうで千葉県だけど)とかはOKなのは、なんだか割り切ることが出来ないし。私も1月に出かけた旅行では1日目は東京&舞浜泊(千葉県)、2日目は東京&横浜泊(神奈川県)、3日目横浜観光といった感じで東京は移動や観光面で、首都圏に出かけた時には外せないし。数十人感染の大阪なら大丈夫かと疑問にも思う。なぜ4月以上の感染拡大すら危惧するこの時期に、旅行を促進するキャンペーンをするんだろ観光業界が厳しいなら直接、業者に補助をすればいい話だし、この時期に旅行をするような人は、それなりにお金も時間も余裕がある人だから、そうゆう人にお金を配る必要とかあるんだろうか7月上旬に私がギリギリで出かけた、高山の高級温泉旅館宿泊は、岐阜県内の宿泊施設に岐阜県民だけが利用を出来るというものでGoToキャンペーンもそうゆう都道府県内か近隣エリア限定にすればまだ良かったのになんだかんだ言っても、内容がはっきりしてきたら、私も利用をしようとは思うけど、車で1時間程の近場すぎて一度も泊まった事がない下呂温泉を狙っているさてさてハウステンボスだけど、東京ディズニーやUSJ大阪に比べ、子供向けアトラクションの数が少なく、大人がゆっくり見学をする展示館が幾つもありそれらは入園券で自由に見学ができる夕刻4時からの入園だったので、あまり時間がない中でも、こういった美術品をじっくりと眺めたりして、見どころとか意外にあったまっ、今回はここの夜のイルミネーションであるのだし、それらが始まる夜になるまでの短い時間で、あれもこれもと見て回った一応はハウステンボスってオランダがテーマですけど、それにとらわれないような雰囲気こんなカワイイ感じのストリートもあった少年ジャンプのワンピースの海賊船この漫画はアニメの他に歌舞伎とかにもなっているこのパトレーバーは昔、京都で見たような気がするけど、ネット検索をしたら、やっぱそうみたい。映画の実写版でも使用されたものらしい私は平日でも全然、平気だけど会社勤めの娘の休みに合わせて、旅行は週末を絡めての日程となるので、代金自体も多少は高くなるし週末なので観光先での人出も多くなりがちだけど、真冬2月だからか、新型コロナの影響が既に出始めているのか日曜日の夕刻だからか、ガラガラこういったテーマパークは日曜の夕刻は人も帰るのでねらい目ではあるらしいがこんなお宝の展示も独り占め密になる心配も全くなしつ~か、人の気配もない薄暗い街かどこの時間帯は黄昏時(たそがれどき)と言うが、この語源は夕暮れで相手の影しか見えず、誰なのかわからないので「誰そ彼」がたそがれになったそうだ万葉集にある作者不明のうたの 誰そ彼とわれをな問ひそ 九月の露に濡れつつ君待つわれそ>誰だあの人はと、お聞きならないで、私は>九月(ながつき)の露(梅雨?)に濡れつつ、>あの人を待っているのです。といった意味だそうだが、この「誰そ彼」がアニメ「君の名は」のモチーフになっているみたいだ。西の空に夕日が沈み空西に赤みがほんのり残っているような黄昏時は、他にも「逢魔が時(おうまがとき)」という名称もウィキペディアによると>逢う魔が時(おうまがとき)・逢う魔時>(おうまどき)ともいい、黄昏時(たそがれ>どき)のことで、古くは「暮れ六つ」や>「酉の刻」ともいい、現在の18時頃のこと。>読んで字の如く、逢魔時は「何やら妖怪、>幽霊など怪しいものに出会いそうな時間」、>大禍時は「著しく不吉な時間」を表していて、>昼間の妖怪が出難い時間から、いよいよ>彼らの本領発揮といった時間となることを>表すとする。>昔から他界と現実を繋ぐ時間の境目と伝え>られている。この時刻に魔物や妖怪がうごめき>始めて災いが起きると伝えられていた。柳田>国男も、「オオマガドキ」に触れて、タソガレ>ドキもまた「誰ぞ彼」の意味だが、単に言葉の>戯れではなく「元は化け物に対する警戒の>意を含んでいたように思う」としている>古来から日本にある民間信仰の古神道は縄文>神道ともいい、縄文時代にはすでに、死生観>から命や神霊の存在が信じられてきた。>その世界観において現世(うつしよ)と常世>(幽世・隠世)という神域であり死後の世界が、>存在すると信じられていた。空間や時間の>様相の特徴的な部分は、神域に繋がる端境と>考えられており、自然の山河(神奈備)の山>(磐座・磐境)や森(鎮守の森・神籬)や水平線>(蜃気楼)や滝(那智滝)などから地形の峰や>坂や谷など、「がらりと風景が変わる場所」が>神域へ誘う場所と考えられ、一日の時間もその>特徴的な部分を神域との端境と考えていた。>また、『日本書紀』や『万葉集』などの記述>には、常世は常夜という2つの様相があり、神の>国は永遠で時の無い世界であるとしたが、時が>無いことは夜か昼のどちらかになってしまうので、>昼の常世と夜の常夜に分けていたと考えられる。>常夜は黄泉の国や禍をもたらす、いわゆる>地獄のような場所で、荒ぶる神が住まう>場所と考えられた。との事だ。こんな青い色の蘭の花もあるんだ夜のイルミネーションや夜の街を見るよりも灯りが付きだした、薄暗~い街角の方が好きだったりもしますけどね夕暮れの景色として忘れられないのは、やっぱ古の都であった飛鳥(あすか)の甘樫丘から見た、ほんのりと赤みを残した西空に影絵のように存在感あふれる畝傍山でしょうか新型コロナの影響で、新作ドラマなどの制作に支障をきたし、昔のドラマなどの再放送をしているが、前後編のドラマ「大化改新」を見たばかりで、久しぶりに飛鳥に出かけたくなった2005年の放映で中臣鎌足を岡田准一が演じ、親友の蘇我入鹿は渡部篤郎であった中大兄皇子は小栗旬。やっぱ古代は見てても面白いです。でも大河とかではやらないんだよね。いつも戦国と幕末ばかりでそれにしても、今年の大河や朝ドラの撮影はすすんでいるんだろうか。早く続きが見たいのに。仕方がないからBS放送でやっている中国宮廷ドラマの瓔珞(エイラク)紫禁城に燃ゆる逆襲の王妃を見てます後宮の妃らが陰謀をめぐらし、ライバルの妃を殺したり、自殺に追い込むいつものドロドロした話だが、いくつか見たものの中では皇帝が一番カッコイイですやっぱ、故宮と万里の長城はこの目で見てみたいし。あと台湾の故宮博物館の白菜もいつになるやらわからない。というか来年夏のオリンピックすらどうなる事やら故宮博物館とは比べようもないけど、ここには黄金の部屋(少額の入場料が必要)がありました。キンキン金ぴか。何が何だか警備員もおりまして、聞いたら写真OKでした金の延べ棒です。今までにも金塊は見た事がありますが、こんなに沢山なのは初めてです。まばゆいですお決まりで、ここでも実際に金塊に触るサービスがありました。そういえば金の値段が上がっているそうですね。これで12.5キロ。数千万円するみたいです総額では8億円だそうですが、最近は金の価格が上昇しているので、もっと価値も上がっているのかもしれません金製品などお宝がずらりと並んだ、この部屋の中で一番効果なのが、この小さな赤い宝石だそうですひょえ~。数億円ですかっ! こんなゴージャスなティアラもありました無論、ほんまもんだと思いますよ(たぶん)なんか、この部屋に入るだけで金運が付きそうな気もします。いや~目の保養をさせて貰いましたそんな間に、外は真っ暗。ハウステンボス名物のイルミネーションなどを紹介をする前に、夕方に見たチューリップ畑と風車ちゃんとライトアップをしているので色とりどりのチューリップも、夜でも楽しむことが出来ましたしかも薄暗い夕暮れ時よりも、かえって今の方が綺麗かもあれれ、これは? チューリップもどきのイルミネーションですねそんな訳で、次回はハウステンボスのイルミネーション、プロジェクションマッピングを紹介します。 続く! 2020年2月9日に長崎ハウステンボスで撮影にほんブログ村
2020年07月17日
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2月上旬に娘と出かけた長崎旅行、2日目の午後、長崎市街で最後に立ち寄ったのは平和公園である。昭和20年8月9日午前11時02分、米軍機によって原子爆弾「ファットマン(Fat Man)」が長崎に投下をされた。正式名称は「マーク3(Mk.3)核爆弾」。原爆の投下によって、当時の長崎市の人口24万人程のうち約7万4千人が亡くなられ、建物は約36%が全焼または全半壊をしたそうだ。長崎は山により囲まれた地形なので、熱線や爆風が山によって遮断され、広島よりも被害は軽減をされたがもしも平坦な土地だったとしたら、広島に投下された「リトルボーイ」の威力を超えていたと言われている。投下されたのは大浦や出島などのある地域より、北側にあたる浦上地区の酸素魚雷の工場の直上で、付近一帯は壊滅をした原爆投下時、間近の浦上教会(浦上天主堂)では、告解(ゆるしの秘跡)を行っており司祭や数十名の信者は、爆発に伴う熱線や崩れてきた瓦礫の下敷きによって全員即死長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が亡くなった実は広島に続く原爆は、第一候補は小倉であったが当日の視野が悪くて、第二候補であった長崎に投下されたそうである。若き陸軍少尉だった私の父親は、広島原爆の直前に静岡から小倉に移動していたそうである。もし小倉に原爆が落ちていたら、私という存在はこの世に無かっただろう人の生き死には紙一重じゃないかと思う新型コロナもだが、先日の九州の豪雨にしても、何一つ悪い事をしてないような家族思いのお父さんやお母さんが、突然命を絶たれてしまう。遠藤周作の沈黙の一説が頭に浮かんだ連日、東京で200名を超える感染者がありその多くが感染しても比較的、症状が軽いとされる若者だそうだ。彼らが罹患をするのは勝手だが、周囲の人たちにうつして、それによって、命を失う人だっているかもしれない東京どころか、名古屋の繁華街すら行けない状況だけど国はGOTOキャンペーンを大々的に行うそうだが大丈夫だろうか。更にJR東日本なども新幹線や特急料金が半額になるというキャンペーンを始めるそうで、このタイミングでやるのか? 東京の舞台も保育園もクラスター起きてて、春と状況かわんないのに医療機関がひっ迫していないからとか言うけど、こんなもん増加が加速したらあっという間に、足りなくなるんじゃなかろうかそして高齢者や持病のある人とかの命をも脅かす可能性もありそうだ。場合によって9月末までのUSJ大阪のペアパスポートも使わないつもりだ名古屋のホテルランチペア招待も、9月末まで延期になったが、これも場合によって行くつもりもない。解除になったからとは言っても状況は何ら変わらない。いや気が緩んだ分、危険が高まっているように思える今は普通に生活をしているけど、それは単に運が良かったかもしれない。それが明日も明後日も続くとは限らない。運に頼るのではなく、自分の行動でリスクが軽減出来るのであれば、やるに越した事は無い話は逸れてしまったが、長崎の原爆の話に戻る。今年は原爆が投下をされて75年になり、実際に被ばくをされた方の数も少なくなっている。原爆の体験談などを収録し、後世へ残す活動などもされているNHK長崎「原爆の記録」リンク歌手でタレントの美輪明宏さんも長崎市の出身で、自宅が爆心地から4キロ程と無事だったが、6日後の終戦の日に、爆心地に近い母親の実家に、一人で様子を見に行きまるでこの世の終わりのような惨状を目撃したそうである。当時10歳>寒い朝、親類が経営する旅館の近くで、工場に>向かう女子挺身隊員の点呼が始まった。セーラー>服に、もんぺ姿の女学生たちが並んでいた。監督>官が「おい、貴様」と、一人の女学生を指さした。>「この戦時下において、軟弱な格好しとるとは>何事か。脱げ!」。服を脱ぐと、黄、赤、紫など>カラフルな毛糸の下着が現れた元記事リンク・朝日新聞長崎ノート「青い海と空に励まされた 美輪明宏さん」>監督官はそれをはさみで切り刻むと、胸を>隠してしゃがみ込んだ女学生を殴り、けった。>耳が切れ、口が切れ、鼻が切れた。「許して>下さい、許して下さい……」。声が次第に>小さくなった。女学生は、けががもとで亡く>なったと聞いた。下着は、母親が「寒い思いをしないように」と、>いろんな服をほどいて編み直したものだった。>襟から少しだけのぞいたのを見とがめられたのだ。(朝日新聞より。上記リンクで元記事が読めます)人が人の命を奪う戦時下において、軍人でなくても、人の命はあまりにも軽んじられていた朝ドラの「エール!」の主人公のモデルでスポーツの応援歌などで名を馳せた作曲家の古関裕而は、戦時中には軍歌なども数多く手がけている。「露營の歌」とか「若鷲の歌(予科練の歌)」などは、聴いた事があるのではなかろうか古関は、慰問で戦地にも実際に行っておりそこで命をなげうって戦っている兵士らの姿をつぶさに見ており、兵士の気持ちに寄り添った曲を作っていた。エール!での佐藤久志のモデルとなった、福島三羽烏の伊藤久男による歌唱です↑戦争が終わり、戦争で打ちひしがれながらも新たな時代をひたむきに生き抜く人たちの為古関は応援歌を作り出している。その一つが「長崎の鐘」で作詞はサトウハチローである長崎医科大学(現長崎大学医学部)の助教授であった永井隆の随筆をもとにしたもので、この平和公園の鐘は、被爆から33回忌にあたる1977年に、被爆地に幾つもあった軍需工場で働いていて、命を落とした人たちの慰霊の為に作られたモニュメントである本来の「長崎の鐘」は、原爆で破壊された浦上天主堂の煉瓦の中から壊れずに掘り出された「アンジェラスの鐘」の事で、ユーチューブにその鐘の音があったので、聴いてみて下さい長崎の鐘について、ウィキペディアによれば>長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった>永井が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の>状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら>被爆者の救護活動に当たる様を記録したもの。>被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に>破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく>同僚や市民たちの様子を克明に描いている。>永井は、この時妻を亡くした。また、救護の>際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤>状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの>努力により一命を取り留める。今回も平和公園の小時間によるフリー見学でしたが個人で来ていたら、長崎原爆資料館にも立ち寄ってみたかったです こうして長崎の鐘の歌が頭の中に流れるのを楽しみながら、名残惜しくも長崎の街から今日の宿泊先のホテルへと向かうと道すがら、山里に真っ白な教会が美しい大村湾を左手にのぞみ、バスは北上すると西の空に、今日もまた天使の梯子がかかった今夜泊まるホテルの近くの交差点で、交通事故が起きたようで、渋滞に巻き込まれてしまったホテルにチェックインをしてから、隣接をするテーマパーク(ハウステンボス)の入場券が旅行にパッケージされているので、今までに行った事もないし楽しみにしているが、入場が遅れてしまうよ1時間近く予定よりも遅くなったが、今夜の宿泊先である「ホテル日航ハウステンボス」に到着した部屋の鍵を渡され荷物を置いてきたら、玄関先で添乗員さんからハウステンボスのチケットを貰い閉園まで自由に見学を出来るし、早くにホテルに戻るのも自由だ冬の日暮れは早い。午後4時半をまわっていたが、この時期にしては暗くなってこないのは、うちよりも西の方に位置をしてるからなのか。明るいうちにハウステンボスの昼間の様子も見てみたいしとは言っても、ここはイルミネーションで名を売っているし。夜は夜で存分に楽しみたいものだ。写真の撮影時間を見ると午後4時半に入園し、午後10時半まで中にいた訳で、滞在時間は6時間ひゃっほ~。なんとかギリギリ見れましたよ赤や黄色のチューリップ。夜になってしまうと見る事も出来ませんしね。風車にチューリップハウステンボスは、オランダの町並みを再現をしたテーマパークだオランダは30年以上前、バブルの頃に母親と自腹で出かけた、欧州周遊旅行で行った事がある。旅行代金は一人50万でオランダの他に、ドイツ、オーストラリアスイス、フランスなどをまわったそんなに金回りが良かった訳でもなかったけど、パンフレットでの旅行のコースがゴージャスで一目ぼれして、なんか勢いで行っちゃた旅行でして、母親も死ぬまでお前を生んだからヨーロッパに行けたと喜んでくれてたので、親孝行旅行が好きで旅サラダを寝たきりになってからもいつも見ていた。最後に読みたいと行ったのは旅の詩人、西行のものだったしオランダで買ってきたチューリップの球根はいつしかみんな真っ白な花になってしまった今や旅行に10万円かけるのすら勿体ないしヨーロッパ(3回)は、いずれも時差ボケでへろへろで辛かったので、もう行く事もないだろうし、せめて日本で海外旅行気分でも実際に出かけたアムステルダムのホテルは船着き場があって、そこから水路めぐりに出かけたり、風車も見たし30年以上も前なんだけど、それなりに記憶はあると、いった訳で夕暮れから夜のイルミネーション輝くハウステンボスの様子は、また今度紹介をします。お楽しみに閉園までハウステンボスを満喫し、夜10時半隣接するホテルに戻ってきました。なんといろいろ見たりしたりで夕食を中で食べる時間がもったいなくって、ハウステンボスに併設されたコンビニでお夜食購入。見切りで安くなってました次の朝はホテルのブッフェです。ここでも大好きなライチーがあったのが有難い。でご当地の皿うどんらしきものも、食べてたみたいですねホテルの入り口には福の文字を逆さに貼ってあって、これは倒福といい福がやってきた福が来て欲しいといった意味合い(倒福)からだそうだ。 ハウステンボスに続く 2020年2月9日に長崎市内で撮影追記7日から8日にかけて飛騨川などで大きく被害を出した豪雨ですが、うちのあたりはそれ程、雨が降りませんでしたしかし週末の雨はピンポイントで岐阜県東農地方や伊那谷方面に、かなりの雨を降らせた為中央高速や国道19号で土砂崩れが起き通行止めになったりしました。テレビで中山道の大湫宿内の神社のご神木(千年越え)が倒れたのを、ご覧になったかもしれないが、2軒の家を避けるようにして倒れたのは、さすがにご神木うちのあたりでも、かなり雨が降ったりはしましたが、お陰様で特に被害は出ませんでした。ご心配をおかけしました。にほんブログ村
2020年07月13日
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今年2月上旬に、娘と出かけた長崎旅行での2日目の長崎市内のフリータイムでは、昼食がてらでしたが、ちょっとした観光の時間もありました。大浦天主堂をスルーしてやってきたのは「グラバー園だ」写真の整理をしていて咄嗟に「ガリバー園」とファイル名にしてしまって、何かがヘン何だったっけなぁ~。といった有様だけど長崎に於いて、グラバーの活躍は外せない南山手の見晴らしの良い居留地には、長崎開港に伴いグラバー、リンガー、オルトといった外国人らの屋敷が建てられ、それが今も残されており、他の洋館も移築がされ「グラバー園」として公開がされているどの館が誰が住んでいたかとか、内部の写真がども館であったのか、次々に見学した事もあり、うろ覚えなので全体的にまとめて紹介をしたいと思う。ところでここの入場料は620円で、ケチな娘ですら、この内容なら安いと言っていた最近はどこもかしこも入場料や、拝観料高くなりましたしね。こうゆう団体旅行などでも個人の好みもあるので、フリータイムと称し、団体での観光は、無料の神社や公園とか街歩き。グラバー園にある洋館であるがグラバー住宅、リンガー(弟)住宅、オルト住宅のほかに、移築されたのがウォーカー住宅三菱第2ドックハウス、長崎地方裁判所長官舎スチイル記念学校、自由亭、フリーメイソン・ロッジの門、長崎高商表門衛所などであるで、肝心のグラバー住宅は大規模な解体修理をしていた。殆ど覚えてないが30年前にも来て見たハズだから、まぁいいっか。こうゆうのもモノ珍しい。修理風景をのぞれる見学ペースがあった。グラバーをウィキペディアで紹介すると>トーマス・ブレーク・グラバー(英: Thomas>Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月>16日)はスコットランド出身の商人。武器商人>として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が>開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、>長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての>礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果た>した。維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を>行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の>近代化に貢献。国産ビールの育ての親。>私生活では五代友厚の紹介で、ツルと結婚。長女>ハナをもうけている。また、息子に倉場富三郎>(Tomisaburo Kraba Glover)がいる。(ツル以前に>内縁の広永園との間に梅吉をもうけているが生後>4ヶ月程で病死している)。>晩年は東京で過ごし1908年(明治41年)、外国人>として破格の勲二等旭日重光章を授与された。19>11年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本>国際墓地にある。ツルとともに埋葬されており、五代さんというと朝ドラのあさが来たのイケメン!ではでは、リンガーハットの社名にも使われたフレデリック・リンガーという人物は>若くして英国・ノリッジから東アジアへ渡り、>1865年から茶の貿易の監督官として長崎で>グラバー商会に勤務。1868年にエドワード・>Z・ホームとホーム・リンガー商会を設立し、>茶の貿易から取引品目を広げ、事業を拡大。>長崎と日本の経済発展(殖産興業)に多大な>貢献をした。長年の間に設立した企業は、>機械化された製粉所、蒸気洗濯所、石油の>備蓄場、港湾荷役、トロール漁業、近代捕鯨>など多岐にわたる。英国人のウィリアム・ジョン・オルトは日本が開国をすると長崎でオルト商会を設立し、九州一円の茶葉をアメリカなどに輸出をしていたまた英国人のロバート・ニール・ウォーカーJrは日本船の船長をしていたが、後にR. N. ウォーカー商会を設立し、海運業を中心とした貿易事業を幅広く展開していたそうだで忘れられないのが、やっぱ蝶々夫人(マダム・バタフライ)は、アメリカ人弁護士の短編小説で、プッチーニによるオペラで有名となった。そのモデルだがグラバーと妻ツルではないかと言われている朝ドラ「エール!」の双浦環のモデルとなった国際的なオペラ歌手三浦環による蝶々さんの銅像があったで、竜馬ですね。当時海軍奉行であった勝海舟とともに、長崎にやってきたのが最初で、後に長崎に亀山社中(海援隊)を設立しましたトーマス・グラバーさんの銅像こちらはグラバーとツルさんの息子の富三郎さんらしいですこの子は、マスコットの長崎さるくさるくとは長崎弁でぶらぶら歩くといった意味だそうだ電話ボックスもなにやら、おしゃれ最近は公衆電話も見かけなくなったが子供とか使い方がわからないかも。というか、テレホンカードがころがっているんだけどこちらには、西洋料理発祥の碑があったウィキペディアによると>狭義の洋食は、幕末から明治期にかけて>生まれた、西洋人のための西洋料理店を>発祥とする。それらの店で下働きした>日本の料理人たちは、のちに日本各地で>自分の店を開き、西洋料理(洋食)を広めた>1863年(文久3年)、日本初の西洋料理店>「良林亭」が長崎で開業。店主兼料理長は>草野丈吉、パトロンは明治を代表する実業家の>渋沢栄一と五代友厚。外国人や薩摩藩士に>重用された。※『良林亭』は開業後、その>年の内に「自遊亭」に店名を変え、さらに>1865年(慶応元年)に「自由亭」と改称したまた日本最初のテニスコートっていうものもありました。横浜でも発祥の碑あったけど西洋への窓口であっただけに、横浜とか神戸同様に近代化の過程で、様々な物や技術が長崎に紹介をされたようですねこんなんも置いてありました。高島秋帆の指導で、鉄砲鍛冶の野川清造が作成をした和大砲だそうです港は間近です。蝶々夫人が愛しい夫の海軍士官のピンカートンを待ちわびるアリア「ある晴れた日に」が頭の中に流れてきた。前に紹介したイタリアの大型客船「コスタ・ベネチア」昭和14年にグラバー住宅が買収されたのは戦艦武蔵の建造を秘匿する為だったのではないかと言われる。戦時中は三菱造船所のクラブとして使用されていたが、昭和32年長崎造船所百周年の記念で、市に寄贈された水道の栓は目立つので写真を撮ったけど、石畳にハートのが2つあって隠れアイテムみたいになっているようだ。後で気が付いたマンホールのふたはでかいし目立つのでとりあえず写真をパチリ長崎伝統芸能館では、「長崎くんち」に奉納をされる龍踊りの白龍、青龍や、各町の奉納踊りを先導する「傘鉾(かさぼこ)」と呼ばれる豪華な飾りなどが展示されている長崎ランタンフェスティバルも素敵だったが、賑やかな長崎くんちにも行ってみたいなぁグラバー園を見てから、トルコライスのランチを食べて、バスの駐車場の戻ってくると集合時間まで、まだ時間があったので、すぐ横の大きな建物でも見物してみようかと正面にまわったら、無料で内部も見学ができるとあったので、これはいいや!と中に入ってみた。係の人に内部の写真を撮ってもいいかと聞いたらOKだそうでこれはいいや♪と上や下や、あちこちをパチリ。パチリと。良い時間潰しが出来たしこの建物だが、明治37年に建てられたイギリスの銀行である香港上海銀行長崎支店で、その横に長崎ホテルとウォーカー商会があったそうだ ウィキペディアによると>香港上海銀行長崎支店は1892年に開設>1904年に竣工。建物は建築家の下田>菊太郎が設計した、現存する唯一の建造>物で、長崎市内の石造り洋館として>最大の規模を持つ。>当時神戸以西唯一の外国銀行で、在留外国人、>なかでも貿易商を主な取引先として外国為替や>ロンドンや上海、香港における外貨の売買を>主要業務とした特殊為替銀行だった。営業>業務を終えた後は、長崎県が買収し梅香崎や大>浦警察庁舎として使用され、その後長崎市が>買収>補修工事を経て1996年、長崎市旧香港上海>銀行長崎支店記念館としてオープンした。>1989年に国の重要文化財に指定されている。 (グラバー住宅や、リンガー住宅も)平和公園と、2泊目の宿泊先の日記に、つづく! 2020年2月9日に長崎市で撮影海無し県の岐阜県にあるのは、山ばかりそれを縫うように流れる川に、よりそうように道が作られ、線路も家屋も川沿いに建っている事が多い。特に飛騨では普段はこんなに美しい川なのに、山に降った豪雨が川を荒れ狂う濁流にかえ大きな被害が出てしまったうちは山の上にあるので、水害の心配などはなかったが岐阜市の長良川や飛騨川などが流れる、岐阜県内の多くの自治体で、水害や土砂災害に見舞われてしまった下呂市萩原町の娘のお気に入りのケーキ屋さんから飛騨川を望むしかも例の岐阜県民限定で、岐阜県内で3万円(2名以上)以上の宿泊料金ならば18000円を、岐阜県が補助金を払うというもので、土日に娘と高山に出かけたばかりだったのだ今回の豪雨で下呂温泉から高山へ向かう国道41号は寸断され(郡上方面からの高速道路は利用可能)うちからは高山に行く事は当分は出来そうもない。生活をされている方は、さぞかし不便だろうし観光面も心配だ高山旅行の様子は、後日、紹介をします東京では、昨日に続き200名を超える新型コロナの感染者数。夏の旅行は近場ドライブ位しか出来そうもないし、都会などもガマン、ガマンにほんブログ村
2020年07月10日
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梅雨末期特有の大雨であろうか。九州全域における記録的な豪雨では、球磨川流域を中心にして、多大な災害が起きてしまいました。当事者の皆様には、心より深くお見舞い申し上げますうちは山の上ですが、当地域でも木曽川や飛騨川において水位が上昇し氾濫の危険が出た為、市内も地域によっては避難の必要があり、まるでサイレンのような音でスマホが鳴り出して驚いた。9日にかけ記録的豪雨になる可能性もあり心配だ2003年春にコカ・コーラの懸賞でベトナムペア旅行招待が当選しながら、サーズ大流行で中止となり代替えとして、国内どこでも好きな所に行けるというので姉と二人で福岡空港を使い別府、黒川、湯布院など有名温泉をまわったがその時も九州豪雨の直後で博多駅が水没、電車を諦め、高速バスでの移動となった福岡市内では、水没した車をクレーンで引き揚げたり、日田市内では筑後川の濁流が目に焼き付いているのだが、その筑後川も氾濫をしてしまっている状況だ。これ以上、被害が大きくなりませんように。今日は七夕のわけなのだけど旧暦(太陰暦)であれば、今年の七夕は8月25日と随分と遅くて(来年は8月13日、再来年は8月4日)、その頃であればお天気も良いのだろう。台風でも来なければの話だがこうやってブログを書いている時でもまだ風雨も強い。さてブログの方だが今年2月8日に娘と出かけた長崎の旅2日目の長崎市内の観光、その1です日記構成上、紹介が後になりましたけど軍艦島を見に行く前、ホテルを出発してすぐに眼鏡橋を見に出かけました。昨夜の長崎ランタンフェスティバルの時とはまた違った雰囲気ですここも現地で解散・集合での20分フリータイムだったので周辺をてくてく歩きです川にも降りて、歩けるようになっていましたこうゆうところは、とりあえず歩いてみます眼鏡橋を、ウィキペディアで説明をしますと>眼鏡橋(めがねばし)は、長崎市の中島川に>架かる石造二連アーチ橋である。架橋時、琉球>王国だった天女橋を除くと、日本初の石造り>アーチ橋である。1960年(昭和35年)に国の>重要文化財に指定された。橋の長さは22m、>幅3.65m、川面までの高さは5.46m。>2つの半円を描くアーチ形式の石橋で、水面に>映しだされた姿が眼鏡のように見えるところ>からこの名がある。1634年(寛永11年)、中国>から来日して興福寺の2代目住職となった黙子>如定(もくすにょじょう)によって架けられた>黙子は中島川の氾濫のたびに橋が流失される>のを見かねて、>中国から石工を呼び寄せて眼鏡橋を建造させたと>いわれている。1648年(慶安元年)の洪水で損壊>するが、平戸好夢が修復している。その他は高欄が>破損して修復したと見られる形跡があるものの、>流失することなく度重なる水害に耐えてきた>1982年(昭和57年)の長崎大水害では>眼鏡橋を含む中島川の九つの石橋が被害に>遭い、そのほとんどが流失したが、眼鏡橋は>半分程度損壊するという深刻な被害を受けた>ものの流失は免れた。修復のための部分解体>調査で江戸期のものとみられる階段跡が左岸>橋端から見つかったため、>従来はスロープとなっていた橋端は階段へと>変更された。橋端は1873年(明治6年)頃、>人力車通行のために階段をなくしたものと>見られる。ただし眼鏡橋は1948年(昭和>28年)以後、車両の通行が禁止されている>「眼鏡橋以後に架けられた中島川の石橋は>すべて単アーチである」のに対し、この眼鏡橋>のみが2連アーチであるかつて大川と呼ばれていた中島川には、17世紀末まで中島川と直交をする道路筋の殆どに石橋が架けられたそうです最多時には17~18基を数えたそうで、水害で流出をしても石橋で再架をされ、中島川石橋群としての景観を長らく誇ってきた。昭和57年7月の水害でその多くを失ってしまい、桃溪橋と袋橋は一部損傷したものの原形に復元。高麗橋は平成5年西山ダム下に移築で復元されたそうだ↑袋橋は、このようなものらしいです袋橋の下から、川面に長崎の街がゆらゆら近くに近藤長次郎(上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人)の石碑があった。土佐のご城下で商人の子として生まれたが、その才能を山内容堂に認められ名字帯刀を許され、神戸海軍操練所にも入所し、小松帯刀の援助で長崎に作られた日本初の商社である亀山社中(後の海援隊)の中心メンバーでもあった。小松やグラバーの援助で英国留学の手筈も整ったが、社中盟約に違反したと問いただされて切腹をして果てた切腹時に不在であった竜馬は、もし自分がいたら死なせなかったのにと、彼の死を悼んだそうでその墓の碑銘「梅花書屋氏墓」は、龍馬筆とも言われている。眼鏡橋の近くに顕彰碑があって長次郎が妻に贈ったうたなんだとか うき雲の立ちおほふなる浮世なり 消えなばこれをかたみともみよドイツ人の医師、植物学者のシーボルトは長崎出島のオランダ商館医となり、日本に滞在をした。帰国時には日本で収集をした文学・民族学的コレクション5000点以上哺乳動物標本は200、鳥類900、魚類750爬虫類170、無脊椎動物標本5000以上更に植物2000種、植物標本12000点を持ち帰ったそうだ。彼が持ち帰った八重桜は欧州でホクサイ(葛飾北斎から)として人気があったで、この後に軍艦島を見に出かけまして昼前に長崎市内に戻ってきました大浦天主堂の真下の大型駐車場にバスを停めて大浦天主堂前で解散。昼は自由食で2時間程フリータイムとなった。前に大浦天主堂の中に入った事があるので今回は外から眺めるだけで幕末の開国後の1865(元治2)年に建立をされ日本に現存するキリスト教建築物としては最古正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」といって日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地の長崎市西坂に向き建てられている。国宝でもあり「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の一つとして、世界遺産に登録をされているこのあたりは南山手居留地といい、開国後外国人の居留地として造成され、主に住宅地として利用された。横浜ともども、西洋との窓口として日本初が多い明治初年、ここに在ったベルビューホテルには長崎電信局が作られ、日本で一番長い電信線で結ばれた東京電信局との間で、明治6年4月に九州最初の国内電報、 隣接した大北電信会社電信局との間で、日本初の国際電報の中継がされたそうである更に明治4年6月にデンマークの大北電信会社が長崎上海間に海底線を敷設し、ベルビューホテル内に日本初の国際電信業務を開始。4年9月には長崎とウラジオ間の交信も開始されたんだとか文久元年(1861)年6月22日に、ここ居留地内に「インターナショナルボウリングサロン」が作られたそうでして、6月22日はボウリングの日のようですよその近くにある立派な建物に並んでいるのはちゃんぽんや皿うどんの発祥店の「中華料理四海樓」で、食事をしようとする人たちだちゃんぽんのルーツは福建料理の湯肉絲麺(とんにいしいめん)で、皿うどんのルーツは炒肉絲麺(ちゃあにいしいめん)なんだとか無論、そんな有名店に行くつもりもなくってネットで調べた地元の人たちがよく利用しているというみらく苑でちゃんぽんと皿うどんを食べようと思ってたのに・・・、やってないし臨時休業ってやつ?これは想定外。しか~し、第二候補は既に決めてあった。しゃ~ないちゃんぽんとか皿うどんはリンガーハットの味で、我慢をするとして、B級グルメのトルコライスを食べるとしよう。やってきたのは「カフェレストランレッケル」このお店は名古屋グランパスで育って世界に飛び立った吉田麻也選手の命名プロデュースによるお店なのだ。彼は長崎市の出身で、現在はセリエA・UCサンプドリア所属している。日本代表ととしてもお馴染みの選手だまぁ、サッカー目当てで行った訳でなくてちゃんぽんの代わりに長崎のB級グルメのトルコライスを食べに行った訳だけどもね関東や関西にもトルコライスが存在をしているそうだが、長崎のものの特徴としては豚カツ、スパゲティ、ピラフが同じ皿に盛りつけられており、大人のお子様ランチみたいなものだ。むろんトルコには関係がなくて、その発祥や由来も諸説あるようだ今回はレギュラーサイズよりも少なめでグラタンやコーヒー、ライチのついたレディースランチにしてみた。ライチが付くのが中華の街の長崎らしいし食べ終えて外に出たら、ここにも長蛇の列が出来ていた。やっぱ昼食は開店直後遅くても12時前に入店するのがコツ大浦天主堂の前にはお土産屋さんも多く試食などもいろいろ出来たりする。このエリアではグラバー園、食後に平和公園なども見学したが、その様子はまた今度食べ物テーマに集めてみたので、午後のおやつもまとめてみました。午後からはトラピックス恒例のショッピングタイム長崎市内では、お土産屋さんに立ち寄りこんな高価なもの以外に、一般的な菓子や小物など手ごろなものもあり、菓子を購入そのお店では、一人一人に小籠包とお茶をサービスしてくれましたグラバー園と平和公園の観光(後日、紹介)を終えると、バスは長崎市内を離れて午後遅くに今夜の宿泊先のホテルへと向かいました今度は大村湾の東側の沿岸を、一路北へと。西側の大村湾に昨日のように天使の梯子が途中で立ち寄った、休憩及びショッピング先は「カステラセンター心泉堂」でして様々なカステラも試食できましたしお得なカステラも、お土産に購入をしましたよこのあたりも、くじら文化があったんだその向かいには長崎ちゃんぽんのリンガーハットがありました。創業者兄弟が長崎市内でお店を始めたそうで、長崎で活躍をした英国の実業家フレデリック・リンガーから命名したそうです。 続 く 2020年2月9日に長崎市で撮影にほんブログ村
2020年07月07日
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今年2月上旬に娘と出かけた長崎の旅だが2日目の朝を迎えた。高台のホテルから長崎の港街を見下してろしてみた。今日も良い天気のようだ冬の旅行は寒いけど、お天気の方は良い場合の方が多い。夏から秋は台風の心配などもあるし飛行機だって飛ばない危険などもある昨夜、長崎ランタンフェスティバルで歩いた長崎市街の中心地のあたりホテルの展望台には、無料の双眼鏡が設置をしてあったので、とりあえずは覗いてみる昼食も終えて、団体バスで長崎市街へとなかなか景色の良いホテルだったフリータイムだったら、路面電車とかにも乗ってみたいところだけども。赤信号でとまっているうちに、その奥にある大きな鳥居に気が付いたどうやら国の重要無形民俗文化財にも指定をされている「長崎くんち」が有名な諏訪神社のようだ。通称は鎮西大社、お諏訪さま、おすわさんとも呼ばれている坂ばかりの長崎の街。景色は良いだろうけど家からの往来は、坂道を歩いたりするのかな宅配とかも下車観光は無かったけど、車窓からは長崎出島を見ることが出来た。いつものようにウィキペディアにより紹介すると>出島(でじま)は、1634年江戸幕府の外人>流入防止政策の一環として長崎に築造された>人工島。>扇型で、面積は3,969坪(約1.5ヘクタール)。>1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、>1641年から1859年までオランダ東インド>会社(AVOC、アムステルダムに本部のある>Vereenigde Oostindische Compagnie)を>通して対オランダ貿易が行われた。>明治以降は、長崎港の港湾整備に伴う周辺の>埋立等により陸続きとなり、扇形の人工島で>あった頃の面影は失われたが、1996年(平成>8年)より、江戸当時の姿への復元を目指す>出島復元整備事業計画が長崎市により進め>られている街角には自衛隊のヘリコプターそして埠頭には大型客船。ネットで調べると昨夜の大型客船は既に出航して、それと違う大型客船が接岸しているようだ。昨夜のと同じイタリアの会社の「コスタ・ベネチア」だ昨年3月に就航>処女航海はトリエステから東方見聞録の著者>マルコ・ポーロがたどったとされる航路を>たどり、2019年4月29日に東京都の東京港>(大井水産物埠頭)に入港した(ウィキペディアより)上海を拠点としているらしい長崎の造船業は幕府によって安政4(1857)年日本初の艦船修理工場の「徳川幕府長崎鎔鉄所」が設立したのがはじまりである。三菱重工長崎造船所には、かつては戦艦武蔵を建造をした船台と30万トンドックがあり、護衛艦などの建造・修理改造がされている(写真・奥)昭和47(1972)年に完成した三菱重工最大規模の香焼工場は長さ1,000メートルのドックをフルに生かした建造法でLNG船、LPG船などを効率よく建造しており、後に乗員によって新型コロナのクラスターが起きた「コスタ・アトランチカ」が停泊をしていた長崎港を上見ると、まるで鶴が羽を広げたような形に見えることから「鶴の港」とも呼ばれているそうだ。そういえば以前にやっていた写真サイトで、長崎の人が大型客船の写真をいつも紹介してたし女神大橋について、ウィキペディアにより説明すると>長崎市内の慢性化した交通渋滞の緩和と、長崎港の>両岸に分散している港湾施設の連携強化・物流の>効率化を図る事を目的として建設された。愛称は>「ヴィーナスウィング」。>長崎港に大型の客船が出入りすることを考慮して、>水面から非常に高い場所を人や車が通行する斜張橋の>形式を取っており、世界最大級の客船クイーン・メリー>2などもこの下を通過出来ている。また、夜間はライト>アップされ、観光都市長崎の新たなランドマークと>しても期待されている。団体バスの座席は毎日ずれるので、初日は運転席の反対側の一番前に、娘と座って正面の写真なども撮れたが今回はバスの後方で、座席が空いている所は自由に座っていいというので、娘と別れて座った長崎市街からは郊外にある観光先へは、まず娘の方が海側になったが、観光後に戻る時に今度は私の方が海側となる予定。海側の写真を娘に取って貰った事も2度、3度。進行方向がかわるから見える景色も違ってくるお~。目的地が見えてきたという事で娘に写真を撮って貰った。海上に浮かぶ小さな島だが、1つはなにやら人工的な・・・「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産の一つとして世界文化遺産にも登録された「軍艦島」だ正式名称は「端島(はしま)」といい、長崎県長崎市(旧・西彼杵郡高島町)にある島で、明治から昭和にかけて海底炭鉱によって栄えてきた1960年代には、東京以上の人口密度を有していたそうである。昭和49(1974)年に鉱山は閉山となり島民が島を離れ無人島となった。島には日本初となる鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が廃墟として取り残されているそうだ。遠くから見るとまるで軍艦のようであるので、軍艦島と呼ばれている軍艦島に上陸をするツアーなどもあるけど今回の旅はあくまでも長崎ランタンフェスティバルと、あそことここと・・。軍艦島は長埼半島の野母崎から、望む事となったがお天気に恵まれよく見れて良かった長崎半島(野母半島)は、最大幅6kmで、長さ22kmの半島で、西岸は香焼を境にして長崎港と五島灘。東岸は天草灘・橘湾に面しており、南の東シナ海につながっています五島灘には香焼島、横島、沖之島・伊王島、黒島・野島、高島・中ノ島・端島などの島が点在をしており、東シナ海を北上する対馬海流の影響が強くあり、気候は温暖で年間降水量も約2,000mmと多いそうですよ最近も長崎、佐賀方面で豪雨があったばかりです。うちのあたりでは3月末あたりから咲く水仙が、こちらではもう終わりがけ最盛期の1月に来れば、このような一面の水仙の香りがたちこめているようだ。その時期にしか見れない観光場所は、なかなか見に行くチャンスがない奥の方にあるのは白い灯台?ここは野母埼総合運動公園なんだけどこれはなんだろう? よくわかんないです空を見上げると、気持ちよく飛ぶ鳥打ち寄せる白波の音も心地よいここには軍艦島資料館があって、時間がまだあったので有料だが、中を見学する事にした中には軍艦島の暮らしぶりがパネルや、残された物や、映像などを使ってよくわかるようになっていた展示室は撮影禁止だったが、入り口にあったこれは館員に聞いたところ、撮影しても良いというのでパチリ。長崎といえばこの御方とさだまさし氏長崎に次に来たら、軍艦島にも渡ってみたいものだし駐車場には、水仙のマンホールのふた早咲きのピンク色の桜の花も満開だった帰りの車窓は、私の方が海側で夫婦岩の向こうに軍艦島。長崎市内に戻ったら次は市内の観光だ。ではでは次回に続く 2020年2月9日に長崎市で撮影にほんブログ村
2020年07月01日
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お待たせしました。今年2月上旬に娘と二人で参加をした団体旅行(いつものトラピックス)初日には、早朝に名古屋から新幹線で博多へ向かって、そこからは観光バスで長崎市へとやってきたのですが長崎の夜景のきれいなホテルで、ほんの少し早めの夕食をとってから長崎市街へやってきて駐車場で解散。バスに集合をするまではフリータイムで、各々で長崎ランタンフェスティバル2020を楽しむという趣向です毎年、年明けから春にかけての時期に娘と旅行に出かける事にしており、昨年は中国上海、一昨年は韓国釜山に出かけたのだが果たして2020年にはどこに出かけようかと考えたのは、昨年の暮れで、候補になったのが台湾の九ふんとサッポロ雪まつり、北京に万里の長城そして長崎のランタンフェスティバルなのですが、娘の休みの日程もあって団体旅行の旅程がちょうど良かったのがここでした前々から行きたいリストに入っている上にその時期にしか、やっていないというのは余計に行く機会が限られてくるので、今がチャンス~!と飛びつきました。まだ新型コロナの事も知らなかったかもしれませんところが年を越して、旅行代金も振り込んでいる1月下旬に、国内でも新型コロナの感染者が出てきて、横浜で大型客船が係留された映像が流されて、中国からの団体客は規制が始まって・・・なんかきな臭い状況もとは言っても↑初日の日記で、名古屋駅のデパートには早朝からチョコレートを購入する為に大行列が出来るような状況なので新型コロナも遠いところの話で、身近な話だとは思ってない人が殆どでした逆に、春節の中国人団体客とかも来ないし新型コロナが心配で旅行をしない人もいるかもしれないから、空いている?って軽い気持ちもどこかにあって、実際、例年に比べ空いていたそうです土曜日の夜だったんですが、ホテルで夕食を食べてから会場にやってきたので、家族連れなどは、それより早い時間帯にまわっていた事もあり、人出が減りかけた時間帯であった事も良かったのかもしれませんウィキペディアで長崎ランタンフィスティバルについて説明をしますと>1986年に長崎新地中華街に牌楼が建設された>ことを契機に、中華街振興組合によって観光>振興のイベントとして春節と元宵節を組み>合わせた「灯籠祭」を行う計画が持ち上がり、>1987年の春節より毎年開催されるようになった。>灯籠祭は観光客からの反応も好評だったこと>から、1994年に長崎都市発展戦略の一環と>して正式な観光の柱のひとつに位置づけられ、>名称も「長崎ランタンフェスティバル」と>改められた。長崎市全体でのイベントとなった>長崎ランタンフェスティバルでは、「長崎に>息づく異国CHINA 再発見」をコンセプトに、>新地中華街を中心に市内に約1万5千個の赤を>基調とした中国提灯(ランタン)や点灯式の>オブジェが飾られ、龍踊り、獅子舞など本場の>春節をイメージさせる催しが行われる。祭の>規模は年々増加傾向にあり、2008年には行政>からの拠出金と各所からの協賛金の合計が>1億円を上回った。 >2018年には皇帝パレードに長崎市出身の長濱>ねる(欅坂46)が参加し、期間中に過去最高の>106万人が来場した。長崎ランタンフェスティ>バルは旧暦の1月1日から1月15日にかけて行わ>れる。暦の関係で、年ごとに開催期間は前後に>移動する。なるほどね~。やっぱ商店街の町おこしといったものがヒットしたのですか。ここはメイン会場となる湊公園になるんですけど長崎市街のあちこちで、それぞれに趣向を凝らしたランタン飾りがされているのであっちみたり、こっちみたりと見て歩くのが一般的なのだが、いかんせん夕食後のフリータイムで時間に限りがあって、少し外れでの会場はすっとばし、まわりやすい会場だけをピックアップしてまわる事にしたこの湊公園はバスの駐車場から一番近い場所にあったので、ここでは最初に紹介しましたが、実は時間調節で一番最後に見て回りました。そのおかげで催しなど終了時間で人が引け、見やすかったです綺麗どころもそろってました。誰が誰だかわかりません続いては、中華店など40軒が並ぶ新地中華街でして、狭いアーケードの頭上に真っ赤なランタンが、所狭しとぶら下がっている日本であれば提灯とか、牡丹灯篭の灯篭とかいった言葉が思いつくけど、このランタンという名称は、どこの国の言葉なんだろう?どうやら英語らしくって、手に持って運べるランプだそうで、古代ギリシャのたいまつが語源になるらしいウィキペディアによれば>元宵節(げんしょうせつ)は、正月の望の日>(満月の日、旧暦一月十五日。日本でいう>ところの小正月にあたる)を祝う中華圏での>習慣である。正月は別に元月とも称され、>元月の最初の宵(夜)であることより元宵節と>命名された。過年は元宵節を迎えて終了する>重要な一日である。>元宵節の由来は漢代にまでさかのぼることが>できる。漢朝の実権を掌握した呂后が崩御すると>国内では諸呂の乱が発生、これを平定した陳>平等により劉桓が皇帝に推戴された。反乱平定を>達成したのが正月15日であったことより、以降>皇帝は毎年この日に宮殿を出て民衆と共に祝賀>したことに由来する。この日を文帝により元宵節>或いは元夜、元夕と命名された。>元宵節に提灯が用いられるようになって以来、>歴代の中国王朝では元宵節は盛大な年中行事と>なった。南北朝時代、梁の簡文帝による元宵節の>様子を描写した『列灯賦』なども残されている。>また隋代になると外国使節の参内を元宵節に>定め、多くの提灯を用いた元宵節を見学させる>ことで国力の充実を内外に示した次にやってきたのは「浜町アーケード(浜んんまち商店街)」で、長崎一の繁華街だそうですよ。ウィキペディアによりますと>長崎県における地価の最も高い場所として>たびたび取り上げられる。長崎市は市街地の>周囲が山に囲まれているという地形的要因>から郊外型の大規模店舗が少なく、>他の都市の商店街がシャッター通り化して>いる中においては比較的賑わいを見せて>いる商店街である。アーケード街全域が>国道324号として指定されている珍しい>道路であり(同様の事例が大阪府東大阪>市の一部にも存在する)、>アーケード街入口には国道番号標識が設置>されている。5時から10時までの時間帯を>除いて歩行者専用道路であり、「車両が通行>できない」という意味で酷道と揶揄される>ことがある。浜んまち商店街として2009年>3月に「新・がんばる商店街77選」に選ばれた。ここでは大きな人物像を、ゆっくりと眺めることが出来たが、誰が誰かはわからないです中国史に詳しい人なら、おぉ! この装束はって、スグにわかるのかも知れませんねかなりの人ごみです。この会場はイマイチこなのかわかりませんでした。中心部の川にかかる橋に、大きなオブジェが並んで見応えがありましたさてさて、今度は春節について紹介しますバカスカと爆竹を鳴らし、花火をあげてるイメージの「春節」でしたが、中国からの春節休暇の観光客が日本に押しかけてくるといったイメージもあるのかもしれませんウィキペディアで「春節」を紹介しますと>春節(しゅんせつ、チュンチエ)とは、中国・>中華圏における旧暦(時憲暦)の正月(旧正月)>である。中華圏で最も重要とされる祝祭日で>あり、新暦の正月に比べ盛大に祝賀され、中国や>台湾のみならずシンガポールや大韓民国など>9か国・地域では数日間の祝日が設定されている。>春節は中国では過年とも表現され混同されて>いるが、民間での習慣では過年は旧暦12月23日の>祭竈(一部地方では12月8日の臘祭)から旧暦正月>15日の元宵節までの期間を示すものである。春節は>正月初一を示す言葉であり、古代においては元旦と>称されていた。>元とは始まるの意味であり、旦とは日の出を示す>象形であることから、元旦は最初に日が昇る一日、>すなわち正月を示す言葉となった。また春節は年、>月、日の始まりであることから「三元」とも、それ>ぞれの最初の朝であることから「三朝」とも称される>ことがある。>古代中国では年末年初に臘祭を行い先祖や衆神>への祭祀が行われ、合わせて豊作を祈念することが>一般的に行われていた。『書経』には舜が正月に>臣下を率いて天を祭祀したことを記す。伝説では>正月がいつであるかは王朝によって異なり、夏代は>夏暦の元月を正月としていたが、>殷代になると夏暦の十二月を正月とされ、周代に>なると十一月を正月としたという。秦代になり十月を>瑞月(始皇帝の名の政と同音の「正」を避諱して「瑞」>に改めた)とした。前漢の武帝の代に行われた太初>改暦の際に夏暦の元月を正月に定められ、それは清>滅亡まで続いた。>清滅亡後に成立した中華民国では暦法に西洋諸国と>同じグレゴリオ暦が採用され、1912年1月1日を民国>元年1月1日とする暦法が採用された。その後の国共>内戦を経て中華人民共和国が成立する直前の1949年>9月27日、中国人民政治協商会議第一次全体会議に>おいて>新中国成立の際にはグレゴリオ暦を採用することが>決定され、新暦の1月1日を元旦、旧暦の正月初一を>春節とすることが決定され現在に至っている。>春節の来歴に関しては、万年という人物の伝承が>民間に伝わっている。>勤労かつ善良な少年であった万年は、生活の中で>樹木の陰影が時期により移動することや水滴の滴る様を見て、時間に対する規律性を発見した。>当時の民衆は時間に対する規律性を知らなかった>ために、農業などで大きな不便を感じていた。>万年はこれらの事象から四季を区別し、草暦を編み>出した。草暦を知った天子はこれを賞賛し春を一年の>最初とし、春節と名付けることを命じた。その後、>万年は不完全であった草暦を完全なものとするため>研究を続け、老人になり更に正確な暦を作成。>その功労として天子により、それは万年暦と命名>され、万年は寿星に封じられた。人々は春節を>迎えることを過年と表現し、家々では寿星図を>準備して万年の功績を偲んだとされる。伝統的には、>春節に先立つ行事として旧暦12月24日(23日とも)に>大掃除をして、竈の神を祭る。>春節の前日を除夕と呼び、特別な食事を食べる。>一般に鶏(「吉」と同音)や魚(「余」と同音で、>「年年有余」を意味する)を食べるとされるが、>中国大陸は広大なため、地方により正月料理も>大きく異なる。>北方では餃子を食べることが知られており、南方>では一年が甘くなるようにとの願いを込めて糖蓮子>(zh)や湯円を食べる習慣がある。日本で餅を食べる>ように、東アジアの大体の地域では年糕という餅を>食べる。ほか、春巻や湯円なども食す。>家の入り口には春聯や年画などを貼り、また窓>などに剪紙(切り絵)を貼る。厄除けあるいは>神を迎えるため、爆竹を盛大に鳴らし、花火を>打ち上げる。これは中華圏の春節の特徴である。>芸能としては獅子舞が踊られる。>春節での習慣としては、起床後に年配者に>対して長寿を祝う言葉を述べ、その後、近隣>住民や知人と春節を祝う言葉を述べ合うものが>ある(拝年)。子供には赤い袋(紅包)にはいった>圧歳銭(お年玉)を渡す。>家庭では春節用の衣装を用意し、新年の華やかさを>演出するだけでなく、新年に幸運をもたらす意味を>持たせている。春節では家族の団欒が重んじられる>ため、春節前後は帰省者によって交通量が極端に>増える。これを春運と呼ぶ。>一方、春節の休暇期間を利用して観光旅行をする人々も>多い。日本でも2010年代頃から中国人を中心に同時期の>訪日観光客が増え、爆買いからインバウンド消費に貢献>した。2月単月で1百万人を超え、航空券やホテル代などの>高騰が見られた。>正月前後が国民の休日となる国は、現在12か国・地域>ある。中華人民共和国(香港、マカオも含めて)中国>では春節は国定祝日とされ、2008年1月に施行された>新しい『労働契約法(労動合同法)』では春節から>3日間を祝日と定めた。2015年からは除夕から始まる>7日間を祝日としている。ウィキペディアで春節を、長々と説明させていただきました。写真の方は水面も飾られた眼鏡橋や、中央公園会場の様子も紹介させていただいています。華やかな会場もいいですけどこういった静かな街中を、てくてく歩くとのも風情があります。だいたいが車で移動の田舎暮らしなので、夜の街を歩くだけでも殆どないのです。祭りの後といった風情です赤いランタン一つの暗くて細い路地。こうゆう写真が、ド派手なのよりも好きです。帰りには1本、道を変えたのが良かったかもしれません本来であれば、たくさんの中華圏の人が長崎ランタンフェスティバルにもやってきたかもしれませんが、新型コロナで人出はいつになく少ないようでしたといった訳で、時間通りにバスに戻ってホテルに戻りました。長崎の旅2日目もあちこちと出かけますよ~! 続 く 2020年2月8日に長崎市で撮影にほんブログ村
2020年06月24日
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「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです」これは角力灘を望む「外海(そとめ)」に建つ遠藤周作の「沈黙の碑」に書かれた碑文であるここ外海(そとめ)は隠れキリスタンの里で遠藤周作の「沈黙」ではトモギ村のモデルであるそうだ。生前に遠藤周作は「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」と語っていたそうだ東の果ての島国であった日本は、鎖国などで他の国との交流を絶っていたイメージもあるが、古代より世界にもつながりを持っていた。その中でも外国人が、日本を闊歩していた時代が3つあると思っている(私見)。遣隋使や遣唐使の時代には空海など留学生が中国に渡航し、朝鮮半島が戦乱にまみれ渡来人が増え、様々な影響を受けた横浜の旅行日記でも紹介したばかりだが、明治に入って富国強兵。世界に学べよ追いつけよとという時代にも沢山の外国人が来日し、日本の近代化に寄与したのだが、あと一つが「麒麟がくる」の時代前後をしたが、戦国時代に種子島に鉄砲が伝わってザビエルがキリスト教を日本に伝えた様々な珍しい献上品(眼鏡も初来日)を携えていたザビエルは西国大名から新規鵜の自由と宣教の許可を得て、徐々にキリスト教徒が西日本に増えていった2年半程の滞在後にザビエルは日本を去ったが、その後も宣教師らが日本での布教を続け、フロイスは仏教の扱いに辟易していた織田信長から、機内での布教の許可を得たウィキペディアより>イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは>戦国時代の日本をよく理解し、まず各地の戦国>大名たちに領内での布教の許可を求め、さらに>布教を円滑に進めるために大名自身に対する>布教も行った。後から来日した宣教師たちも>同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や>大名自身への布教を行っている。>大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに>南蛮貿易や武器・弾薬(特に当時日本で生産>できない硝石は羨望の的であった)の援助などを>提示した者もおり、大名側もこうした宣教師から>得られる利益をより多く得ようと、入信して>歓心を買った者もいた。入信した大名の領地では、>特に顕著にキリスト教が広がることになった信長が本能寺で倒れ、秀吉が天下を取ると>豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、>キリスト教布教を容認していた。1586年>(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会>宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年>5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を>発給している。>しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は>長崎がイエズス会領となっていることを知らされた。>これに驚いた秀吉は、『天正十五年六月十八日付覚』を>認め、この翌日の6月19日(7月24日)ポルトガル側>通商責任者ドミンゴス・モンテイロとコエリョが>長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の>自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を>表明した。>秀吉がこの追放令を出した理由については諸説ある。>キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こす>ことを恐れたため。キリスト教徒が神道・仏教を迫害を>したため。ポルトガル人が日本人を奴隷として売買して>いたのをやめさせるため。秀吉が有馬の女性を連れて>くるように命令した際、女性たちがキリシタンである>ことを理由に拒否したため。>日本において、キリスト教が実質的に禁じられる>のは徳川家康の命による1614年(慶長19年)の>キリスト教禁止令以降のことになるが、家康の>禁教令も言い回しなど基本的な部分においてこの>秀吉のバテレン追放令にならうものとなっている。>今日に知られるような弾圧と呼べるものの最も>早いものは、豊臣秀吉が1596年に出した禁教令で、>この時は26名のキリスト教徒が処刑されている>(日本二十六聖人)。ただし、この時も主には>フランシスコ会に的を絞った物で、禁教のための>継続的な政策が取られたわけではなく、後を>継いだ江戸幕府もそれに倣っている。>「伴天連追放之文(バテレン追放の文→バテレン>追放令)」によって長崎と京都にあった教会は破壊>され、修道会士や主だったキリスト教徒がマカオや>マニラに国外追放された。その中には著名な日本人の>信徒であった高山右近もいた。幕府はキリスト教徒>(隠れキリシタン)の発見と棄教(強制改宗)を>積極的に推進していくようになった。これは世界に>類を見ないほど徹底した禁教政策であった。このような過酷な状況下である江戸初期の日本で隠れキリスタンとして苦難の道を突き進む信徒や過酷な拷問の中で神の存在を問うバテレンの姿を遠藤周作が書いた小説「沈黙」が、映画化された事は前にもここで紹介をした事がある(↑予告編)>隠れキリシタンの発見方法としては有名な物に>踏み絵がある。江戸時代を通してキリスト教徒の>発見・強制改宗は続けられたが、一方で隠れキリ>シタンもまた信仰を隠し通したり、偽装棄教に>よって、幕末に至るまで独自の信仰を貫いた。>当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、>表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、>また1644年以降は国内にカトリックの司祭が一人も>いない状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を>捨てずに代々伝えていった。これを「潜伏キリシタン」と>呼ぶ>「潜伏キリシタン」は、ごく小さな集落単位で秘密>組織を作ってひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて>祈りを続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり>(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、>聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの>聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト>教伝来当時にならったやり方で生まれた子に洗礼を>授けるなどして信仰を守りつづけた>「潜伏キリシタン」は、当初は国内広く潜伏していたと>されるが、多くの土地ではすぐに途絶えていったとみら>れる。しかし、長崎県をはじめ熊本県の天草、大分県の>臼杵などでは、キリスト教伝来当時から継続的に宣教師の>指導を受けた信仰が広く浸透していたことから、幕末>まで多くの信仰組織が存続していた。>地域によっては、明治以降カトリックに復帰>せず教会との接触を嫌ったことや近年の世俗化に>よってさらなる信仰の希薄化や変容が進んで>元々のキリスト教から程遠いものになって>しまった例もあり、集落の信仰伝承が途絶える>原因の一つになっているとも考えられている。>最近まで伝承が継続されている地域としては、>長崎県の長崎市外海地区(旧西彼杵郡外海町)や>五島列島、さらに平戸市の平戸島や生月島(旧>北松浦郡生月町)などの地域が挙げられ、世界>文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン>関連遺産」の構成資産も、これらの地域に集中>しているそとめぐり「外海観光サイト」より>外海の出津集落には、禁教下においてもキリスト教>信仰が組織的に継承されてきた地域です。18世紀に>なると、外海から五島列島などの開拓移住が行われ、>外海は移住先に潜伏キリシタンの信仰組織が形成>された基点となった場所です。>1873年のキリスト教解禁後、ド・ロ神父の指導のもと、>1882年に出津教会堂が建てられました。また、ド・ロ>神父は慈善事業にも力を入れ、女性の自立を促すため、>1883年に授産施設として出津救助院を創設しました。>出津協会は、明治15年(1882)、ド・ロ神父の設計>施工で建てられた教会です。>その後、明治24年(1891)、同42年(1909)に>増築し、現在の教会の形が整えられました。外壁は>練瓦造り、玄関は石造り、内部は木造で、三廊式の>漆喰塗り平天井となっています。屋根は瓦葺でしかも>とても低く、これは、海岸に面した風の強い立地>条件を配慮しての建築なのだそうです。>平成23年(2011)に国の重要文化財に指定され>ました。さだまさしの原作の映画「解夏」の撮影が>行われた教会です。さだまさしは長崎市出身ですもんね出津教会堂のすぐ近くにあるのが、「道の駅夕陽が丘そとめ」です。ここからはヨーロッパにも続く海に沈む夕陽が美しいのですがその日はこんな感じでした。これはこれで神秘的にも思えました。天上より降り注ぐ光のシャワー「天使の梯子」ともいうそうです。正式には薄明光線と言い、その他に、天使の階段、ゴッドレイヤコブの梯子、光芒。外海にいる間は1時間以上場所を変えても見ることが出来ましたではでは道の駅に入っていますか。直売とかもあるようなのでお土産も買えるかな?ここでもみかん。しかも試食アリ! みかんが好きなので、こんな所に住んでいたら、お肌が黄色になりそうです貧しい外海の人たちに様々な技術を伝えたフランス人宣教師のド・ロ様が国産パスタの発祥となるそうです。ド・ロ様のそうめんもありましたこれは売り物ではないようですねこうして映画「沈黙」を思い出しながら車窓から、角力灘に傾く日を眺めているうちに、やってきましたよ~本日の宿泊地でもある長崎市。35年程前に母親と出かけた九州の旅は、飛行機で福岡に入り、熊本、鹿児島、宮崎、長崎、佐賀とまわりました。長崎では雲仙温泉に泊まり長崎市の中心地で、グラバー園と平和公園しか出かけなかったのでせめて眼鏡橋くらいは見たいし、次は長崎市内に泊まりたいなぁ~と思ってたんですが35年かかりました。階段の街は大変そうですそして長崎の高台にあるホテルの部屋から見た夕景です。長崎の市街中心側ではないですが、ホテル内には展望コーナーもありましたよ。後で見にいこっと今回、泊まった旅館ですが風頭山に位置する「矢太樓南館」です。本館側の部屋からだと長崎の市街中心地の夜景が見えるみたいですお部屋はこんな感じで、布団が既に敷いてありました団体のお食事は、こんな感じですが後から温かな料理が運ばれてきますデザートはやっぱカステラですかお肉もありましたよ。茶碗蒸しとか他にもお料理がありましたが割愛館内も長崎らしい趣向です。天然温泉ではありませんが、鉱火石と言うのを使った大浴場で、のんびりと足をのばせましたよ次の朝のブッフェはこんな感じで、ヘルシーにしてみました。長崎らしいものがあるといいと思うんだけどという訳で本館ロビーの奥から、ベランダに出ることが出来て、そこからの長崎の夜景です左奥にあるのはながさき女神大橋のようですし手前には大型クルーズ船がいるみたいこちらが長崎の市街地のようですね。キラキラ宝石箱のようです。「世界三大夜景」は香港、ナポリ、函館で、函館の夜景は2度見たが市街の奥にある山上に灯りのあるのが「稲佐山」でそこからの夜景が1,000万ドルの夜景として、香港モナコと共に長崎も「世界新三大夜景」に選ばれたんだとか。いつの間にそんなものを・・・・こういった高台の家からは、毎夜のように長崎の夜景が楽しめるんだろう。長崎の夜はホテルの夜景だけではありません早くに夕食を食べてから、バスに乗り込んで下界に降りてきました。今回の長崎旅行の目的であるイベントに出かける為です。あっ表示にもヒントがありますよね。ランタン・・・。長崎の冬の風物詩であるランタンフェスティバルに前々から行きたいと思ってたんですよ中心地にある大型駐車場からはフリータイム集合時間までにバスに戻ってくる事になっていたので、早速、娘とてくてく会場に向かうと「運上所跡」とはいかに? 幕末の1858年(安政5)に、通商諸条約が締結がされて、翌年米・英・仏・露・蘭との貿易の為に長崎や、神奈川、箱館(函館)が開港その為に1863年(文久3) に長崎港に外国貿易に関する徴税などを行う「運上所」が設置されたそうですし、いわゆる税関ですか。そして龍馬ゆかりの地でもあるようです。イカルス号事件の裁判がここで行われ、才谷梅太郎の名で竜馬も裁判に立ち会ったそうです鉄道発祥の地でもあるようです。日本で初めて鉄道が開通、営業をしたのは明治5年で、東京と横浜間であるんですが。それよりも7年前の1865年(慶応元年)に、グラバーがこの地に600mの鉄道を敷きイギリスから取り寄せた蒸気機関車に客車を引かせお客を乗せて走らせたそうですこれは当時上海で開かれていた英国博覧会に出品された、蒸気機関車と客車を取り寄せたもので、ここ長崎で西欧の先端技術のデモンストレーションを行なった訳でして、「鉄道発祥の地」だそうです。確かに梅ヶ崎ロシア仮館跡というのもあったそうです駐車場の真横には巨大クルーズ船が停泊をしていました。「コスタ・セリーナ」はイタリアのクルーズ会社コスタ・クルーズのクルーズ船でセレナという名は、調和と静けさを象徴してるそうです。この時は乗員だけで来てたみたいですね。横浜の件があるのでドキドキそして同じ運航会社の「コスタ・アトランチカ」で4月に乗員の新型コロナの集団感染が起きましたが全員の陰性が確認されたので、5月31日に長崎を出航したそうです。ではではランタンを見に行きますか 続 く 2020年2月8日に長崎県で撮影にほんブログ村
2020年06月01日
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東京ディズニーのチケットが当たった事で、急遽1月には首都圏に娘と出かけましたが、冬シーズンメイン旅行は、2月上旬の娘の連休に出かけようと昨年末には計画をたてていた。昨年は安さに釣られ上海に出かけたが、果たして今年は・・・・最終の候補は台湾(でも高いし)、札幌雪まつり(寒いし)、北京(去年も中国)といった感じで結局は前から行きたかった、名古屋駅から新幹線でも行ける地域での団体旅行となったが、早朝の新幹線なので、名古屋駅前のホテルで前泊娘の会社が終わってから、夕刻に名古屋へ向かって、夕食はホテルの近くのラーメン屋さんで食べましたなかなか美味しかったしこんなのも二人で分けて食べた。そうそう私だけど、子供の時に家で鶏を飼育をしていた関係で鶏肉は食べれません。ですからからあげは娘が食べました今年はインバウンドも見込んで、日本全国ホテルの開業ラッシュだそうで今回宿泊の「相鉄フレッサイン名古屋駅桜通口」も開業をして、数日しかたってないピカピカホテルだ。そんな矢先の新型コロナは大変だろうなフロント脇で必要なアメニティを、自分で見繕って部屋に持っていけるが、なかなか充実をしていた。更にキャッシュレス決済などイマドキの機能的なホテルだった。夜ぐっすりと眠ってこれ、朝かなり早いんですよ。午前6時半前には既にJR名古屋駅に直結のジェイアール名古屋タカシマヤには、女性の長蛇の列が出来ていた1日にチョコレートが1億円と日本一の売り上げを誇る「アムール・デュ・ショコラ」というバレンタイン催事の行列なんですよ~。いやスゴイなんでも国内外約150ブランド、2500種類ものチョコレートを販売し、東京や大阪の百貨店をおさえ、10年連続で売上日本一を独走しており期間中はシェフなども売り場にやってくるそうで朝6時頃から1000人位が並ぶそうですなんて話をしているうちに、団体旅行の集合場所で他の参加者と合流。あれ? 少なくない??とか思ったら、現地で違う地域の参加者と合流をして一緒にバスで観光をするという話だ。新潟と静岡らしいです。↑広島です朝7時位の早い新幹線に乗車して、一路。西へ!他の地域の方は飛行機を使うみたいです。山口なども過ぎて関門トンネルも通過して、やってきたのは九州です九州には過去に母と大分を除く九州周遊の旅。姉と別府、湯布院、黒川の温泉の旅(懸賞のコカ・コーラのベトナム旅行がサーズで中止で代替え旅行)旦那と大分・熊本レンタカーの旅(懸賞でANA5万円利用券を使う)、ぶらり福岡一人旅と旦那の会社の勤続40周年旅行で鹿児島旅行をしたので、これで6度目となるが新幹線利用は初めてだった。さほど疲れがなかったのは、名古屋スタートだったからかも。九州の列車も見かけたが名前は?博多駅で下車。ところで博多と福岡の違いは那珂川という川を境に、東側は以前から港もあった商人の町の「博多」で、西側は黒田氏が城下町を形成した武士の町の「福岡」なんだそうですよ。で、ここは博多駅ですがバスに先に乗り込んで、やってきたのは福岡空港です。バスをとめると程なくして新潟と静岡のメンバーも合流をしてバスに乗り込みました。あの当時、武漢が大変な状況で日本人がチャーター機で帰国。横浜停泊中のダイヤモンド・プリンセス号でも感染者がたくさんいるらしいと、俄かに日本国内も、慌ただしくなりかけていた時期です。それでも国内ではバス運転手とか、感染者はまだ数が少なかったけどバスとか新幹線に乗るのでマスクはして行こうと薬局でまだ、マスクも滑り込みで購入が出来ました。なくなったのはホントある1日、2日といった何かしらの報道のタイミングでしたそれでもごく普通に遊園地も、コンサートも旅行も、まだ出来ていた頃ですそんな潮目が変わったのは、やはり2月後半になるのかな。ダイヤモンド・プリンセス号の乗客が下船し、大量感染者が出たり、東京の屋形船のクラスター感染で俄かに感染者が増えて・・・あと数日もしたら、日本中が震撼するような事態になると、まだ想像もつかずのんきに早朝からチョコレートを求めて大行列が出来ていた2月初旬の週末バスの車窓から見るのは博多だか、福岡の町並みです。これが、その境にでもなる川なのかなぁ? 娘は前々から福岡に行ってみたいといっていたが、こんな団体旅ではなくてフリーで街中をぶらぶらとして、美味しいものでも食べるのが、いいんだとは思うが九州(&北海道)クラスとなると交通費もかかるし、団体旅行の方がかえって安い位だあっ! 飛行機。母親と出かけた最初の旅では福岡空港がいっぱいで、この上空をくるくると30分位、着陸待ちをしていた飛行機の真下でも、他の飛行機がくるくるしてたのも印象に残っている何やら橋を渡った。本来なら渡る予定のない橋だ。と言うのも目的地に向かう本来の高速道路で交通事故が発生したので、急遽、違うルートを利用する事になったのだ代替えルートは30分位は、遠回りになってしまうので、午後からの観光に影響が出てしまうと辛いなぁ。見学時間が短くなるとか、ホテルに着くのが遅くなるとか実は2日目も目的地に向かう道で、また交通事故があって大渋滞に巻き込まれてホテル到着が30分以上、予定時間より遅くなってしまったのだ。タイトな時間設定な団体旅行でこれはツライおっ、なかなか近代的なエリアになってきましたよ。本来なら見る事のなかった福岡の街を車窓から見物しますかお~。ヤフオクドームだ。あれペイペイドームになったんだっけ? ソフトバンクホークスの本拠地で、一度、見に出かけた事がある。個人旅はそういったアレンジも出来るのも魅力だキラキラと輝く川面が綺麗だなぁ・・・そうそうバスの窓際は、娘と交代でという事になり、今回は私。次に下車をしたら娘、また私といったルールにした団体バスでも1日、2日・・・と前の人が次は真ん中、その次は後方とズレていくようになっていた。なんと初日は運転席の反対側一番前で、やたらに景色が良いしバスのフロントガラスから写真も撮れた交通事故の心配もあるので、次の日の人は一番前が嫌だからと、他の席の人と交換をして貰っていた。人それぞれだ福岡から、田舎の景色になってますがここは・・・・佐賀です本来の休憩場所ではないですが、トイレ休憩に立ち寄ったのは、唐津うまいもん市場です。新幹線を下りて九州に着いてもバスは西へ、西へと向かってますいやぁ~トイレ休憩のつもりが、お買い物タイムになりました。と言うのも朝早くて昼には、博多についていた団体旅行ですが時間節約か、コストカットなのか昼食は無し弁当とか途中で買って車中食して下さいというやつなので新幹線に乗る前に、お昼用のおにぎりも名古屋駅で買ってはきましたが、ここは飛行機組の人のお昼ごはん購入をかねていました。昨春に北陸地方に、桜と城を見に行った、この旅行会社の団体旅行で経験済みだこの港町は伊万里とか? このあたりは北松浦・東松浦半島といって本土最西端に位置する地域だそうです。平戸とかも一度行きたいけど、今回のコースには入っていません福岡から、佐賀ときて、そろそろ目的地でもある長崎県にやってきたのでしょうかうちのあたりだと三ケ日ミカンとか蒲郡あたりのをよく売ってますが、ランキング的には1位は和歌山、2位愛媛、3位熊本らしいです佐賀のみかんは6位、長崎は5位ですがこっちでは、まず見かけたことがないです。普通のみかん以外にも、いろんな種類があって流石産地だなぁと思いましたかっこいい橋を渡ります。長崎県の佐世保市と西海市を結ぶ新西海橋です。長崎県内2時間交通網を目指し、佐世保市と長崎市の連携強化および、ハウステンボスや西海橋公園の観光面から作られましたそして日記冒頭の写真でも紹介をした西海橋です。先ほどの橋と並んでかかっています西彼杵半島と佐世保市を陸路で結び、半島における産業の振興、開発の促進を目的としてかけられました完成当時は固定アーチ橋としては、世界で三番目の長さを誇り、東洋一と評されていたそうですピンク色の桜がもう咲いていました(2月上旬)今年最初のお花見になりますか(車窓からですけど)名古屋から新幹線で西へと向かい、交通事故でルート変更のアクシデントこそ、ありましたが午後になって、初日1つめの観光場所に到着をしました西海市にある「石原岳堡塁跡(いしはらだけほうるいあと」 です。ここは佐世保軍港の防備の為に明治時代に作られた要塞ですが実際には、使用される事はなかったそうです佐世保の名前は、佐世保バーガーで知った位でしたが佐世保について調べてみると、江戸時代までは小さな漁村だったそうです。明治になって、日本帝国海軍が鎮守府をここに設置した為に以来、日本における海上防衛の重要拠点となりました「鎮守府」についてウィキペディアの記述では>日本は、1875年に周辺の海域を東西の>2海面に分けて東西各指揮官の指揮下に>置くこととし、1876年に東海と西海の>鎮守府の設置を定めた。東海鎮守府を>まず横浜に仮設し、1884年に横須賀へ>移転して横須賀鎮守府と改称した。>西海鎮守府は開設しなかった。1886年に>海軍条例を制定して日本沿岸の海面を>5海軍区に分け、各海軍区に鎮守府と軍港の>設置を定めた。横須賀のほかに、1889年に>呉鎮守府と佐世保鎮守府、1901年に舞鶴>鎮守府を開庁した。>鎮守府は第二次世界大戦後の1945年11月に>廃止した。1952年(昭和27年)に発足した>警備隊、1954年(昭和29年)に発足した>海上自衛隊は、かつての海軍区・鎮守府に>相当するものとして地方隊・地方総監部を>置いた。>現在は横須賀地方隊・佐世保地方隊・呉地方>隊・舞鶴地方隊・大湊地方隊を置いている。>大湊のみ警備府から昇格し、ほかは鎮守府>から継承した。2016年4月に日本国内の鎮守府>関連施設は「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・>舞鶴 〜日本近代化の躍動を体感できるまち〜」>として日本遺産に認定された>佐世保鎮守府(させぼちんじゅふ)は、長崎>県佐世保市にあった日本海軍の鎮守府である。>通称は佐鎮(さちん)。九州を始めとする>西日本地域一帯の防衛と朝鮮・中国等東アジア>への進出の根拠地として九州の西岸に海軍の>軍港を置くことになった。>本命は長崎だったが、市民から商港機能を>阻害されると猛反対され、土地買収費用の>問題もあり断念。西松浦郡伊万里、北松浦郡>平戸の江袋湾、東彼杵郡佐世保村が候補地に>上げられた。海軍部内での検討の末、天然の>良港であり、寒村ゆえ土地も安く手に入る>佐世保村に軍港を開き鎮守府を置くことが>決定し、1889年(明治22年)7月1日に>正式に佐世保鎮守府が開庁した。佐世保>要塞(させぼようさい)とは、佐世保>軍港の防備のため設置された大日本帝国>陸軍の要塞である>1891年(明治24年)から佐世保軍港の防禦>計画の検討が始められた。1893年(明治26>年)2月に防禦計画が決定されたが、日清戦争>開戦のため工事が開始されたのは1897年に>なってからである。砲台建設は、1897年(明治>30年)9月、高後崎砲台・面高堡塁から開始>され、1901年(明治34年)11月までに当初>計画したすべての砲台が竣工した。1934年>(昭和9年)に江の島砲台が着工された。1936年>(昭和11年)8月、長崎要塞に合併され、佐世保>要塞司令部は廃庁した1897年(明治30年)10月 石原岳堡塁着工1899年(明治32年12月 石原岳堡塁竣工主要な施設はこのほかに、前岳堡塁、牽牛崎堡塁、丸出山堡塁、小首堡塁、高後崎砲台面高堡塁、江の島砲台石原岳堡塁は、佐世保要塞のうち最南端の拠点として、敵軍の上陸侵攻による敵兵の直接攻撃に対し、近戦自衛設備を備えた堡塁形式の砲台として築造をされているそうです。備砲は克式10センチ加農砲x6門。堡塁南側の陸正面地域を射程内におさめているその当時の堡塁の遺構がのこされている「石原岳森林公園」は、西海町による「環境林整備事業」でキャンプ設備もあったりします。いやぁ、なかなか見どころ一杯でワクワクしましたそれでは、次の観光先へとまいりますか。午後も遅くなってきました。観光バスに乗り込む前に足元に綺麗な水仙を見つけましたので、パチリ長崎県のど真ん中に位置をする大村湾の西側で日本海に面している「西彼杵半島(にしそのぎはんとう)」の一番北側に石原岳堡塁があって海岸線をぐんぐんと南下していきます。長崎県の九州本島(本土)と、五島列島の間にある海域(灘)を五島灘(ごとうなだ)といい、西彼杵半島沿岸海域は角力灘(すもうなだ)の別称もあるそうですそろそろ日も西へと傾いてきた。角力灘へと沈む夕日もまた美しいというが、果たして今回は見る事が出来るのだろうか? 2月上旬。日本の西の果てを行く旅のこれが始まりだった。ではではっまだまだ続く! 2020年2月8日に名古屋、九州で撮影にほんブログ村
2020年05月30日
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能天気に、早春の日帰り旅行が当たっただなんだと言っていた1ケ月前でしたが武漢からの帰国便や、横浜に入港をしたクルーズ船下船者からの新型コロナ大量発生。更にはハワイ帰国者によるジムや大阪のライブでの集団感染(クラスター)全国に感染が広がり、学校は臨時休校となって行楽施設は3月半ばを目途に休園奈良の山深い梅園と、奈良公園の日帰りバス旅行招待も、参加者のキャンセルが相次ぎ、バスを出す事も出来ない状況で中止となりました。京都への同様のバス旅行とか、宝塚歌劇もどうなるんだか今週末に、娘と出かけるつもりだった大阪ユニバーサルスタジオジャパンも、休園となったので行くことが出来ず。早くに行けば良かった。でも一週間前だったのでホテルもキャンセルも出来たけど、直前だった人とかお気の毒としか言いようがありませんライブ会場まで出かけて中止を知ったファンの皆さんも。夏の東京五輪の開催の行方もあってここが正念場であるのかもしれません。一生に一度の卒業式や、卒業旅行、就活、受験と学生の皆さんの事を思えば、個人の娯楽は我慢しなきゃいけないレベルだと思いもしますしね娘も東日本大震災直後の自粛で、大学の卒業式こそありましたが、謝恩会は中止になりました。早く終息して欲しいけども世界規模の流行ですし、先も見えませんといった訳で、月ヶ瀬の梅の花ではなく彼岸花です昨年10月に出かけた、日帰りバス旅行招待の日記を紹介していませんでしたバスの中で、販売をする菓子の試食を貰って向かった先はお決まりの団体しか入場出来ないという宝石や、磁気ネックレスの販売所です私と同じ位の年齢の奥さんが、ご購入されたみたいで、出発が15分位遅れておわびにと販売会社からバスの乗客全員パックを1つ貰いました私はいつものように宝石売り場ではなく下階の待合所にある、ドライフルーツとかで試食をつまんでいたら、賞味期限の近い洋菓子が、半額程度で販売していたのでお土産に購入をした。これなら買えるしそうこうしているうちに、バスは米原から北陸自動車道に入って、目的地の敦賀に到着。海のない岐阜県民がワクワクする海鮮市場の「日本海さかな街」だ地元の敦賀の海鮮業者などを中心にして70店舗が並んでおり、普段は見る事もないようなピチピチのお魚がこんなカワイイうにも売り場に並んでいた福井県と言えば恐竜!今回の旅行は、みんなで団体料理ではなく幾つかの指定された食堂の指定メニューの食事券を利用し、自分で選んで食べる事が出来るのも魅力だ海鮮丼も多い中で、私が選んだのは福井名物の「越前蕎麦」と、B級グルメである「ソースカツ丼」のセットだ。やっぱり美味しいなぁ~♪そして「浜焼き鯖(サバ)」も名物でありそこかしこで売られていたので家への土産に「焼き鯖寿司」を購入。ホクッホクの身の分厚い鯖に、舌鼓「敦賀昆布館」にも立ち寄った。ここの函館の姉妹店におととし春に、出かけて昆布を土産に買ってきたし。旦那の退職記念旅行で、北海道に行った時の日記はここで紹介できずお蔵入りしたまんまだ昆布のソフトクリームを食べてみたなかなか良い色合いだ昆布館ではポケット昆布飴を購入し日本海さかな街では、福井名物の「羽二重餅」と木製小物を購入したバスの乗客にはもれなく昆布飴も貰えたあと先ほどのパックシート1枚。さてメインの観光先は「敦賀赤レンガ倉庫」敦賀は明治から昭和初期にかけ、ロシアを経由しヨーロッパへと繋がる国際都市として繁栄をしたそうである。1905年に外国人技師の設計で、石油貯蔵用の倉庫として建設をされた赤レンガ倉庫であるが、後には軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫として使用もされた2009年1月には北棟、南棟、煉瓦塀が国の登録有形文化財に登録され、飲食店も併設。ジオラマルームは有料で、希望者のみ個人でお金を払っての入場だったが、団体料金にして貰えたので私も見物をしてみたジオラマの町並みだが、気比史学会創立10周年記念出版「いま蘇る みなとまち敦賀の町並み」昭和20年の復元地図を参考に、往時の町並みを約80分の1スケールで再現しているそうだ全長は約27メートル、最大奥行きは約7.5メートルと国内最大級の「ノスタルジオラマ」には、D51をはじめとする蒸気機関車とかディーゼル機関車なども走ってます機関車転車台(ターンテーブル)による機関庫とか、梅小路蒸気機関車館で見たなぁ~。USJ大阪と一緒にそこと水族館に行くつもりだったけど、おじゃんになった昼から夜に。祭りの賑わいなど様々なシーンも楽しむ事が出来たしループ線で模型の運転も出来るみたいだ館内にはシルバニアファミーリーもおり女の子、向けなのかな?野外には、かつて小浜線を走っていたキハ28系を、JR西日本から引き取って保存をしていた大阪市の運送業社から購入して展示をしているキハ28系については↓の写真で、概要をお読みくださいこんな感じらしい↑ 金ヶ崎地区に、敦賀港駅舎を再現した鉄道博物館同駅ランプ小屋、現在休線となっているJR貨物敦賀港線などもあり、赤レンガ倉庫も一体とし鉄道遺産を中心とした周辺整備計画も検討されているそうだ残念ながら、その日は敦賀港駅舎を再現した鉄道博物館は休館をしていた。とはいっても時間も限られていたので、開館をしていても、中を見る余裕はなかったかも。外から見物気比の松原は子供が小さい時に、海水浴に行った事がある。バスの中からちらっと気比神宮を見るが写真は撮れず。今回は通路側の席だったこの地図を見ると、金ケ崎城のあった山かな?源平合戦で、平通盛が木曾義仲との戦いの為にここに城を築いたのが最初であると言われており、南北朝の金ヶ崎の戦いや、浅井が離反し朝倉についた事で、織田軍が撤退した金ヶ崎の退き口(金ヶ崎崩れ)でも有名だ三方を山に囲まれた天然の良港であった敦賀港は古代から栄え、渤海使の為に松原客館が置かれていたそうだ。「渤海(ぼっかい)」は、今の中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にあった交易国で、聖武天皇の頃から契丹(遼)によって滅ぼされる、9世紀末までの200年程を日本と交易を結んでいたそうだ狩猟民族国家であった渤海からの交易品の中心は毛皮で、日本からは主に絹や麻などの繊維製品であった。平安京の貴族らは渤海産の貂(てん)や豹(ひょう)、虎、ヒグマなどの美しい毛皮を争って手に入れようとしたそうである渤海の使節団(渤海使)を迎える為に、敦賀の気比の松原近辺にあった迎賓・宿泊施設なのが松原客館で、気比神宮の宮司が客館の管理を任されていたそうだ。都では渤海使節の応接は菅原道真など、日本を代表する文人が行ったという。この海の彼方には大陸がありそれはヨーロッパにもつながっていた。映画化もしてご存じな人も多い、岐阜県出身の偉人である杉原千畝の記念館があったので立ち寄ってみたがここは内部の撮影が禁止をされているので、外観写真のみで・・・第二次世界大戦中にリトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原はドイツの迫害によりポーランドなど欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し「命のビザ」を発行した事で知られています。リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人らは、シベリア鉄道に乗りウラジオストクに到着。天草丸に乗って敦賀港へ続々上陸したそうだここから鉄道で神戸や横浜にたどり着き、移住先の海外へと旅だったそうだ。杉原が発行したビザにより助かったユダヤ人は、諸説があるが5千人程と言われている。ビザの発給の際にある難民にかけた言葉は「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。では、お元気で、幸運をいのります」東の果ての海に囲まれた、島国の日本であるがはるか昔から世界へと扉を開いていたのを感じた敦賀の旅であった帰り道、関ヶ原のサービスエリアでトイレ休憩ここには周辺のみならず、関西方面の土産もあり京都の八ツ橋や、岐阜の起き上がり最中、三重の安永餅を購入した 2019年10月15日に敦賀で撮影にほんブログ村
2020年03月02日
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一昨日、木曜日の朝はニュースで炎上をする首里城がテレビに映し出され、とても残念な気持ちであった。戦争で破壊された城は30年もの年月をかけて、今年初めに復元をされたばかりであった。私も10年程前に出かけた事があり、当時の日記を再録したいと思います 今年の3月に、旦那の勤続30周年の旅行券 &休暇で、二人で出かけた沖縄の日記は2回 のみ・・・・なんてハズもない。今まで紹介を する機会を逸していたが、本格的な夏を前に 琉球の風を~♪ 実際に出かけて、がっかり するという日本三大名所は、札幌の時計台に 高知のはりまや橋と、沖縄の首里城の守礼門 と言われているが、首里城の復元などもされ 石垣なども本土のそれとは違っており、異国 風で、なかなか見るところが多かった。以前 紹介をしたグスクやウタキと共に、首里城跡 (石垣、建物は含まれない)もまた世界遺産に 指定をされ、約450年にも及ぶ琉球王国の 王城として、その栄華を今に伝えているのだ 各地に按司(あじ)とよばれる豪族が現れて 力のあるものが衝突し、次第に淘汰をされ やがて15世紀前半に、尚巴志(しょうはし)が 主要な按司を統括し、統一王朝を成立させ 琉球王国を建国をした 王は明の皇帝に使いを遣わして、冊封(中国 王朝の皇帝が、周辺諸国の君主と名目的な 君臣関係を結ぶ事)国となった 冊封国は毎年の朝貢と、中国の元号や暦を 使用する事が義務付けられ、中国から出兵を 命令される場合もあるが、攻撃を受けた場合 中国に、兵の救援を求める事が出来たそうだ ハイビスカスの原種 しかし、統一後も地方の按司の勢力が強く 内乱が絶えず、わずか数十年程で瓦解をし 伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の重臣の 金丸(かなまる)が、政権を奪取し尚円王と 名乗って、第二尚氏王統を築いた 1609年に、薩摩藩は明との交易利権を 狙って三千名の兵を率いて、琉球を侵攻し 琉球王国は、薩摩藩の付庸国とされ貢納を 義務付けられ、徳川幕府にも使節を送った まるでイタリアの広場を思い出すような ラテン系な雰囲気の正殿前の広場 その後も、明を滅ぼした清に朝貢を続け 薩摩藩と清の両属という苦しい立場で ありながら、琉球王国を維持し続けた しかし、明治の新政府は、明治12年に 軍隊を派遣し、尚泰(しょうたい)王を 首里城から追放し、沖縄県の設置を宣言 琉球王国は、ついに滅亡をした 最後の国王となった尚泰王は、新政府の 命により東京に移住させられ、華族令の 発令に伴って侯爵となったそうだ 沖縄とは、琉球に対する日本側の呼称で 日本の領土である事を明確化する為に 琉球から、沖縄に呼称が改められそうだ 沖縄県内最大規模の城(グスク)であり 戦前は、正殿などが国宝であったのだが 沖縄戦において、日本軍が首里城の下に 地下壕を掘り、総司令部を置いた為に アメリカ軍艦ミシシッピなどからの激しい 砲撃を受けて焼失をしてしまった 更には、戦後になって琉球大学の建設に よって城の多くの遺構が撤去、もしくは 埋められたが、大学が西原町への移転した 30年程前から本格的な復興が始まり 正殿などが復元をされ、大河ドラマの 琉球の風の舞台となった 琉球王国の歴代国王が葬られている陵墓が 玉陵(たまうどぅん)で、中室、東室、西室の 3つの建築物に分かれる 中室で葬儀の後に、遺骸が骨になるまで 安置され、のちに洗骨をした。王と妃の 骨は東室、他の王族は西室に納められた 沖縄戦で、玉陵も、東室と西室が破壊され 戦後に修復をし、世界遺産に登録をされ 全体が国の史跡、玉陵墓室石牆が国の 重要文化財に指定をされている 16世紀の尚真王時代の園比屋武御嶽(その ひゃんうたき)は、国王が旅に出発をする 際に拝礼をし、聞得大君が就任して、最初に 拝礼したという聖地で御嶽の礼拝所である その礼拝所である園比屋武御嶽石門は、戦争で 破壊をされたが、修復され世界遺産となった 平成20年3月12日午前に沖縄で撮影 <平成20年3月の沖縄旅行の日記>1 ニライカナイより命が生まれ来る・・・神を信じる島々2 沖縄ミュージックを堪能し、今帰仁グスクへ4 ジンベイにフジの泳ぐ美ら海と、ゴジラ戦う島5 託されたバトン。沖縄県民かく戦へり6 旅の思い出。日航アリビアとグルメ7 世界遺産。ペリー絶賛の城と、雅な庭園8 琉球王朝の名残。金城町の石畳と、黄金のサナギ にほんブログ村
2019年11月02日
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さてさて、4月上旬に出かけた桜咲く北陸の七名城のバス旅も、最後の城となった。締めを飾るのはご想像通り「北ノ庄城」である。本能寺で信長が亡くなった後の戦国を大きく動かした羽柴秀吉と柴田勝家の戦いの場であるルイス・フロイスは「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」だと勝家を評している。武骨の性格と、秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれもした戦国を代表する武将の一人だ本能寺で横死したは信長の後継者を決める清須会議で秀吉と対立。織田家臣団は二分にわかれ賤ケ岳の戦いに敗れた勝家は、北ノ庄城に逃れ、お市の方と共に命を絶った。勝家だが妻も持たず、子供も養子ばかりだったようで浅井長政の未亡人で、三人の娘の連れ子を持つお市の方(信長の妹)と、勝家は初婚だったのか短い期間でありながらも、仲睦まじく暮らしていたようだ。逃れようと思えば幾らでも城から出られたお市の方が、勝家と共に北ノ庄城で命を果てたのは、何かしら考えるところがあったからに違いない更には戦国を彩った浅井三姉妹だが、特に長女の茶々(淀君)は、信長軍に攻められた小谷城の落城で父親の長政を亡くし、秀吉軍に攻められたここ北ノ庄城では母親のお市の方を亡くし、更に家康軍に攻められた大阪城で息子と、己の命を散らしたという、戦国の悲劇のヒロインだ女城主直虎とか、松陰の妹をする位なら、なんで茶々を大河の主人公にしないのかな。結果的には豊臣家を滅ぼしたヒールイメージが強いんだろうかでも三度の落城と、その相手が三英傑(信長、秀吉家康)って、すごいシチュエーションじゃないかとさて織田信長の親族は美形ぞろいだったようでして妹のお市の方は、戦国一の美人だったそうで、モテ祈願も出来るという柴田神社。前回の福井城が元は北ノ庄城だと書いたように、かなり広い城だったようで、このあたりには当時の天守があったらしい柴田神社は勝家を主祭神とし、妻のお市を配祀する。二人の辞世の句は、お市の方が「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の別れを誘ふほととぎすかな」で、その返句として勝家は「夏の世に夢路は儚きあとの名を雲井にあげよ山ほととぎす」との事だ北ノ庄城について、ウィキペディアによれば>朝倉氏の滅亡後、越前を支配していた一向>一揆(越前一向一揆)を平定した功績に>よって、越前国北ノ庄を与えられた柴田>勝家が、天正3年(1575年)に自らの>縄張りによって築城を開始する>同11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに勝家が>敗れ、妻・市と共に自害すると城にも火が>放たれ、建造物のほぼ全てが焼失することに>なるが、その後も青木一矩が北ノ庄城に封じ>られたという記録が残っている>1601年より柴田氏の北ノ庄城の跡地に、新たに>結城氏によって北ノ庄城が築城されたため>現在では柴田氏の遺構を見ることは出来ない>平成5年(1993年)から6度にわたるの発掘>調査の結果、本丸の推定位置である柴田神社の>地下から、石垣の跡と思われる石が出土したが>本丸の正確な位置を完全に特定するまでには>至っていない>城は足羽川と吉野川(のちの百間堀)が合流>した位置に築かれ、堀の一部に足羽川を使用>していたと推定されており、天守は7層(一説>には9層)構造で、安土城に匹敵する巨城で>あったと伝えられている。柴田時代の建築を>しのばせる史料として、宣教師のルイス・>フロイスが1581年(天正9年)に北ノ庄を>訪問したときの記録があるが、それによると>「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく>立派な石で葺かれており、その色により>一層城の美観を増した」とある。この「石」>とは、城に程近い足羽山で産出される笏谷石の>ことであり、現在発掘調査で見出された柴田>時代の石垣は笏谷石であるし、北ノ庄城と>ほぼ同時期に勝家の養子、柴田勝豊によって>築城された丸岡城の天守も笏谷石製の石瓦で>葺いている>また、町の規模が安土の2倍ほどもあること、>勝家によって足羽川に架橋された九十九橋に>ついても言及がある。次に、勝家を攻め滅ぼ>した羽柴秀吉が戦後間もない1583年(天正>11年)4月25日に毛利氏の重臣・小早川隆景に>送った書簡には、「城中に石蔵を高く築き、>天守が九重」であった旨の記述があるとの事で、安土城にも負けなかった戦国の城跡は今は街中でひっそりと。その殆どは結城氏による北ノ庄城(福井城)になって官公庁の庁舎が建っている。こうして北陸七名城の旅は終わった午前中に既に出かけてる越前大野へ戻りそこから九頭竜湖のある油坂峠を越えて岐阜県に入るようだが・・・、越前大野結構、移動に時間がかかるのに丸岡城→大野城→昼ごはん→福井城&北ノ庄城→再び越前大野→九頭竜って、時間ロスが帰路にあたる越前大野を最後の見学に出来なかったのは、本来なら金沢城が最後の観光先だった為だろうか。もしかしたら、当初は九頭竜ルートじゃなく行きと同様に北陸自動車道から、東海北陸自動車道が利用されるはずだったんじゃないかとだったら最初からそうゆうルートにすれば越前大野の無駄な往復をしなくても済むのに安い旅行は宿や、食事、観光、日程などで何かしら、しわ寄せのようなものがあるような気もする長野県松本市から福井県福井市までを結ぶ高規格幹線道路である「中部縦貫自動車道」油坂峠道路が建設されており、これが出来れば高山方面から福井方面もアクセスが楽になるまだ開通をしていない九頭竜付近は、福井市から岐阜県高山市を経由して長野県松本市に至る国道158号を利用する事になり、スキー場などもあった道の駅九頭竜で、トイレ休憩でバスを降りた時刻は午後4時頃だったが、高山までは道半ばと言うか、福井市からそのまま米原経由の高速利用で名古屋に帰った方がずっと早いと思うがバスは高山発着の濃飛バスだし、名古屋からは高山までのワイドビュー飛騨を利用することが外せないのかもしれない高山からは午後7時近くのワイドビューで名古屋には午後9時頃着。ネット検索をしたら福井から特急ではなく、JRの普通電車を利用しても、午後3時に出れば午後7時には名古屋駅に到着できる費用も3020円で済むし、お金を出せば特急で所要時間は2時間だう~む。7つの城に目がくらんだけど、やっぱり個人旅行では考えられない、へんてこなルートだまぁ、そのおかげで(北陸道&名神利用なので)今まで来ることがなかった、名前だけは知っていた九頭竜というような所に来れた訳だが何でも鉄道ファンには憧れのJR西日本越美北線(九頭竜線)の終点である、九頭竜湖駅のログハウスっぽい駅舎も見学が出来た。ここからは越美南線の北濃駅(岐阜県郡上郡白鳥町)まで鉄道が繋がるはずだったが実現はしなかった。岐阜県側は第3セクター化をされ長良川鉄道となっている越美北線は福井市の越前花堂駅から、大野市の九頭竜湖駅に至る22駅、路線距離は52.5 km愛称を九頭竜線という。2004年の福井豪雨で九頭竜川水系の足羽川にかかる5つの橋梁が流失越前花堂駅と越前大野駅間が不通となり。莫大な費用による全線の復旧には、数年を要したそうだ九頭竜湖駅は福井地域鉄道部が管理し、隣接する道の駅九頭竜の指定管理者である業者が窓口業務を受託する簡易委託駅である。どれくらい利用者があるんだろうか道の駅九頭竜には、24時間利用が出来るEV充電スタンドもあった。休憩を終えてバスはいよいよ九頭竜湖へと九頭竜湖は、高さ128メートルのロックフィルダムの九頭竜ダム(洪水調節・発電が目的。元は長野ダム)によって、九頭竜川がせき止められ出来た広大な人造湖である九頭竜湖は面積890ヘクタールと、日本全国有数の広さを持ち、春は万本桜が咲き、秋は紅葉が美しい風光明媚な湖である。しかしバスの奥様らは女性の遺体が入れられた冷凍庫が遺棄された殺人事件の舞台として認識しているようだ湖に架けられた箱ヶ瀬橋は瀬戸大橋の試作として建設をされた吊り橋だそうで、愛称は夢の架け橋なんだとか湖畔には二つの慰霊塔があり、ネット検索をすると日本語の他に英語やハングルの碑文もあり、どうも戦没者のものであるらしいが、正しくは判らない更に幾つかのふるさとの碑もあり、ダム建設によって湖底に消えた集落の人たちの、故郷の記念碑であるようだ。旧和泉村(現大野市)の上半原、米戸、箱ヶ瀬、大谷、野尻(字)集落計500世帯あたりが湖の底に沈む事となり、更にダム湖の造成で孤立する集落を含めると800余名が立ち退き、主に中京圏に転居した九頭竜川の語源であるが、寛平元年(889年)6月平泉寺の白山権現が衆徒の前に示現され、その尊像を川に浮かばせると、一身九頭の竜が現れて尊像を捧げたからだとか色んな説があるそうだ湯坂峠を越えて、いよいよ岐阜県へ突入。岐阜県もクローバーみたいな形をしてて、東端に住んでいる私には、西の果てはあまり縁がない。というか全く未開の地であったお~、これがスーパーによく置いてあるひるがの高原牛乳の牛舎なのか!! バスの車窓からだけど名前だけは知っていた地名を見て感動白鳥からそのまま、東海北陸道を南下して名古屋に出た方が良さそうだが、まぁ珍しい地域を車窓から眺めれるだけいいか。もう来ることもないかも車は北上し、旅の起点であった飛騨高山へと向かう道路脇には残雪なども東の彼方に岐阜県と長野県にまたがる北アルプスの白い峰が目に飛び込んできた夕刻に高山駅に無事に到着。午後7時近い特急の時刻近くまで、自由時間となったが遠くまで行く時間もないし、とりあえずコンビニで軽食を購入駅のベンチで少し早い夕食をとる事にした間もなく春の高山祭だという事で、駅前にはのぼりもたっていた福井のお土産は、昼ごはんを食べた土産物屋で購入高山でも好きな塩せんべい越前大野城では登城証明書を貰った。31897名目みたいだ。行きには名古屋駅で集合をして、特急に乗車をしたが、帰りには途中下車をしてもいいので中央線を利用する人たちは、我々も含めて高山線の美濃太田駅で特急を下車し、太多線で多治見に出てそこから中央線へショートカット名古屋駅に着くのと、さほど変わらない時間に中津川駅に到着し、近くのスーパーで激安価格になっていた総菜を購入出来て、良い土産となった 平成31年4月6日に福井市と、九頭竜から飛騨で撮影にほんブログ村
2019年06月17日
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さてさて、春に娘と出かけた桜咲く北陸の7つのお城の中で、一番、桜が見事だなぁと思ったお城は、この福井城である。広いお濠越しに石垣を彩っている桜は、とても華やかだ1泊2日の盛りだくさんの弾丸ツターももう終盤。このお城も今までに来た事はなかったし、もし今回の旅行が無ければ今後も行く機会もなかったかも知れないと思うと、こういう企画旅行は一押しをしてくれたようにも思えるいつかは行きたいとずっと思い続けているままの東北や、四国に、鳥取、日光だって行こうと思えば、スグにだって行けるとは思うのに、これだ!と思うようなツアーがあればいいのだけど桜の花にも負けないような、素敵な和服の女性もお花見なのだろうか。土曜日でもあるので花見客も多く、様々なイベントも行われていた横井小楠と由利公正(三岡八郎)が一緒に熊本に旅立った際の「旅立ちの像」。横井小楠は熊本藩士だったが、藩主の松平慶永(春嶽)に招かれて、福井藩の顧問として藩政改革に関わったそうであるし、春嶽を通じて幕政にも深く関与したそうだ由利公正もまた、春嶽に認められ横井小楠とともに藩財政の立て直しを行ったそうだ。更に坂本龍馬と親交があり、龍馬が福井に訪ねて来た事もあり、維新後は「五箇条の御誓文」の起草にも関わった人物だ島津斉彬(薩摩)、山内豊信(土佐)、伊達宗城(宇和島)らと並んで、幕末の四賢侯と称された。松平慶永(春嶽)は、田安徳川家第三代徳川斉匡の八男として生まれ、徳川将軍徳川家慶の従弟であるが、松平斉善の養子となって、わずか11歳で福井藩主となった肥後熊本藩主、細川斉護の娘である勇姫が正室となっている事から、横井小楠とも繋がりが出来たのかも。公武合体派として名を馳せたが、米国からリンゴの苗木を取り寄せ、日本で初めて栽培をした人物でもあるそうだ。自転車に初めて乗ったのも彼らしいまた明治や、元治などの元号の選定にも大きくかかわっているんだとか。幕末のファンとしては、春嶽の側近であった福井藩士、橋本左内も特筆すべき逸材だ西郷隆盛の盟友でもあったが、安政の大獄で若くして命を落としてしまったそんな訳で幕末の頃には、松平春嶽公や横井小楠、由利公正、橋本左内といった志を持った人たちが日本の行く末を憂い語ったであろう福井城に、私も出かけてみよう。今回もガイドの女性による団体行動だ現在、福井城の本丸内には福井県庁や福井県警察本部、県議会議事堂などが所狭しと並んでいるが、この日は土曜日であった為か花見の一般市民の姿が多かった。御本城橋を渡いよいよ城内へお城については、こんな感じです↑ ウィキペディアで補足すると・・・>1600年(慶長5年)に家康の次男である結城>秀康が68万石で北ノ庄を拝領すると、翌>1601年(慶長6年)9月には知行割を実施し>築城に着手した>1604年に秀康が松平氏を名乗ることを許され>名実共に御家門の居城にふさわしい城となる>よう、全国諸大名の御手伝普請で約6年の>歳月をかけて完成する。完成した城は東が>新堀川(現在の荒川)、南は足羽川、北は加賀口>馬出までの2キロメートル四方に及んだ>石垣の積み方は、天守台、大手門、櫓台、隅角>部等の重要な部分は切込はぎ積で、その他の>城壁は打込はぎ積である。また、横線が波立って>いるが布積である。福井市小山谷町で産出した>笏谷石を用いている。 石垣の構築には、穴太積で>有名な穴太衆も携わったことが推測される>明治維新後、1871年(明治4年)、福井藩は>福井城の解体を幕府に願い出、旧城地は1873年>(明治6年)陸軍省の管轄となったが、旧藩士>たちが1879年(明治12年)同地を借り受け、>開墾を進めた > 現在は外堀は埋められているが、内堀、石垣、>天守台などの遺構が残り、本丸跡には福井県庁、>県会議事堂、県警察本部などがあり、公園と>しても整備されている(中略)本丸御殿の一部は>(市内足羽5丁目)瑞源寺本堂及び書院に移築>されているさてさて、この城は徳川家康の次男の結城秀康が初代城主であるが、それについて説明してみると家康は正室の築山殿との間に、嫡子の松平信康がいたが、信長の命令で切腹をさせられてしまった本来であれば秀康が継ぐはずであったが、生母の身分の違いから、西郷局の子で三男の徳川秀忠が二代将軍となった徳川でもなく、松平でもなく、なぜ結城を名乗る事となったのか、ウィキペディアによれば>天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男>として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は>三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の>娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称>おこちゃ、小督局)幼名を於義伊(於義丸/>義伊丸/義伊松)と名づけられた秀康は、父・>家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。>その対面も、あまりの冷遇に異母弟を不憫に>思った兄・信康による取りなしで実現したもの>であったという。天正12年(1584年)の小牧・>長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の>条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は>人質)として差し出され、家康の後継者は異母>弟の長松(後の徳川秀忠)とされた>母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹>前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと>考えられる。羽柴秀吉の養子として「羽柴三河>守秀康」と名乗る。秀吉に実子の鶴松が誕生>すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の>後継者として指名。そのため他の養子同様に>再び他家に出される>秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる>加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子と>することを考えついた。結城氏は下野国の守護に>任命されたこともある名家であった。秀康は関東に>下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻>して結城氏の家督および結城領11万1,000石を>継いだ>関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万>1,000石から越前北庄68万石に加増移封>された。慶長9年(1604年)には松平氏に>復することも赦されているとする史料も>存在する僅か34歳で、梅毒で亡くなったそうである梅毒の日本での最初の記録は、1512年の記録で、南蛮からもたらされたそうであるが加藤清正、浅野幸長、前田利長、黒田官兵衛といった名高い戦国武将も梅毒で亡くなったという説もある。キリスト教や鉄砲以外にもそんな迷惑な南蛮渡来もあったなんてさてさて本丸御殿と、天守は内堀の中にあるが何代目かの藩主から、西三の丸に屋敷を構えてそこで暮らしながら、政務は本丸御殿の政庁で行う為に通うようになった藩主がその移動の際には、雨のなどで濡れないよう、橋にも屋根がつけられて、本丸と西三の丸御座所を結ぶ「御廊下橋」が、往時の姿に復元をされていた、は2008年3月に完成橋の長さ14.5メートル。幅3.6 メートル総工費は約1億5900万円だそうだそれに続く「山里口御門」も、復元整備を開始し2017年10月末、櫓(やぐら)門、棟(むな)門の建物と白壁の土塀が完成をした完成をした櫓門は、木造2階建ても切り妻造りで笏谷石(しゃくだにいし)による瓦葺きである2階部分の櫓の外壁は漆喰塗りで、梁(はり)はマツ、床、壁板、柱にヒノキを使用しているそれにしても何だかんだいっても、徳川家康の次男の城だけあって、その辺の大名のものとは違った、凝った造りで目を見張るものがあるウィキペディアによれば、その天守は>本丸北西隅に天守曲輪と天守台の2段の石垣を>ついて望楼型4重5階の天守が建てられた。>高さは、天守台も含めて約37メートルにも>及んだ。白漆喰総塗籠の外壁仕上げで、最上>重には、外廻り縁高欄と西面に向唐破風が>あり、元和大坂城天守に見られるような配置に>破風が並べられていた>寛文9年(1669年)に焼失した後は、同じように>類焼した本丸南西隅の2重巽櫓を3重に再建し>天守の代用としている。古写真では、複合式>望楼型で1重目と2重目の窓が上下にあること>から、3重5階の櫓であったと見られている>福井地震(ふくいじしん)は、1948年(昭和23年)>6月28日16時13分29秒に発生し福井県を中心に>北陸から北近畿を襲った地震である。福井大地震>ともいう。震源は福井県坂井郡丸岡町(現坂井市>丸岡町)付近。戦後復興間もない福井市を直撃し>都市直下型地震。規模はM7.1(Mw 7.0)>大正関東地震(関東大震災)、兵庫県南部地震(阪神・>淡路大震災)、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)>などと並ぶ日本の災害史上最悪クラスの震災となった>2015年現在も東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ>戦後3番目の規模の震災である。死者の大部分が、当時>あわせて人口15万前後にすぎなかった福井市および>現在の坂井市、あわら市に集中しており、その被害率は>日本の近代史上でも類をみない。>福井市中心部は昭和20年の福井空襲で壊滅してから>数年後、復興途上でバラック建築が多く、不安定な>構造だったためにかなりの建物が倒壊している。福井市内の死者930名、負傷者は10,000名。建物は全壊12,425棟、半壊4,418棟、焼失1,859棟といった有様であった。福井地震で崩れた石垣がそのままに残されていたもともと福井にあったお城は、戦国ドラマでもとても有名な北ノ庄城であった。しかし福井藩第三代藩主の松平忠昌が、北は敗北に通じるとして嫌って、縁起の良いよう「福の居る場所」という意味で「福居城」としたのが、後に今の「福井城」と改められたそうだ福井城の天守台には、北ノ庄城(後の福井城)築城当時からあったという「福の井」があり、こちらが福井の語源では?なんて説もあるそうだ。そこで汲まれた水を使ったお茶を振舞って貰えた福井県は、フクイサウルスをはじめとして恐竜の化石が多数発掘をされたことから「恐竜王国」と呼ばれおり、恐竜をモチーフにしたマスコットがいろいるようで、この子は昨年の福井で開催をされた「福井しあわせ元気国体」のマスコットの「はぴりゅう」ステゴザウルスをモチーフに、やる気を表現するために赤いツノを付けた架空の恐竜で、国体のキャラクターなので、ジャージを着ているそうで福井工業大学の学生さんのデザインが、公募で採用されたようだ恐竜王国だけに、福井の駅前にも巨大な首長竜がお出迎え。という訳でいよいよ北陸の7つの城も最後の訪問先へとバスは向かった 平成31年4月6日に越前福井城で撮影にほんブログ村
2019年06月13日
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雲海(朝霧)に浮かぶ姿が、まるで天空の城のようだと、竹田城址が知れ渡ったのは平成24(2012)年の高倉健の最後の主演作品となった、映画「あなた」からで降籏康男監督は、今年5月20日に亡くなられたそうだ今でこそ鉄道員(ぽっぽや)を代表として高倉健とのコンビが有名だけども、多岐に渡る作品を監督されており、へ~この作品もなのかと驚かされる。山口百恵のTVドラマ赤いシリーズにも参加されていたそうだ降籏監督は信州松本出身だそうで、3丁目シリーズの山崎貴監督もまた松本だ。城の話からそれたが、天空の城としてブームとなった竹田城に続けとばかりに、全国各地の城も名乗りを上げた岐阜県などは山と川しかないような地形が功を奏して、郡上八幡城、岐阜城、苗木城岩村城と4つの城の名が、天空の城として挙がる場合が多い。全国的には現存天守が雲海の上に浮かぶ「備中松山城」がお勧めらしい。行ってみたいなぁ4月に娘と出かけた桜咲く北陸の7名城巡りにも、前から行ってみたいなぁと思っていた天空の城で売り出し中の越前大野城がコースに入っていたので、参加をする決め手となった(あと越前丸岡城も)。JR西日本の越美北線(九頭竜線)の越前大野駅。さて越前大野をウィキペディアで紹介すると>天正3年(1575年)、織田信長より一向一揆>討伐の命を受けて、金森長近が美濃から大野に>進攻。一揆平定後、長近は大野盆地が見渡せる>亀山に大野城を、その東麓に城下町を造り始めた。>これが現在の大野市街地の起こりである。以後>今日まで、大野市は奥越地方の中心地として>栄えてきた>山頂にそびえる天守と短冊状に区切られた>町並み、中世から近世にかけて築かれた寺院が>甍を連ねる寺町通り、城下町誕生のころから>続くとされる七間朝市など、400年を超える>歴史を彷彿とさせる景観を今も色濃く残して>いることから「北陸の小京都」と呼ばれている>1888年4月8日、大野市(当時は大野町)で>1000棟以上を焼失する大野大火が発生。以後>この日にあわせて消防訓練が毎年行われている。>また、2008年には40年ぶりに消防隊のラッパ>隊が復活した。川の水がとっても綺麗だ。山頂に城のある亀山のすぐ下にあるバスの停車場からは、それぞれのペースで山を登り、旅行代に入場料が含まれているので、みんなが揃ってから城の中を見学するそうだ。城と言っても中は資料館だ越前大野城がそびえる亀山の南側を流れるのは金森長近が、天正4(1576)年頃に越前大野城を築いた際に、外堀として掘られたという新堀川で川沿いに湧く新堀清水は、ふくいのおいしい水に認定されている見上げた先には越前大野城。ウィキペディアによると・・・>1575年(天正3年)、織田信長より越前一向一揆を>平定した恩賞として越前国大野郡の内の3万石を>与えられた金森長近がその翌年、最初に居城とした>戌山城の近くの亀山(大野盆地の小孤峰)に城郭を>築き始めたのが越前大野城の始まりである>築城に数年間を要した。その後、越前松平家が>3代続いた後天領となり、土井氏で定着するまで>目まぐるしく城主が替わった。城は1775年(安永>4年)に焼失し、1795年(寛政7年)には天守を>除いて再建されたが、明治維新後に破却されている>山頂の石垣および堀が現存し、山麓部にも内堀および>外堀の一部が残る。建造物としては、不明門が市内>中丁真乗寺山門として、櫓門であった鳩門の門部分が>光明寺山門として、それぞれ移築され現存する。また>8代利忠の隠居所が柳廼社社務所として移築現存する>天守は、亀山の山頂にある天守曲輪に建てられた。>本来は望楼付きの2重3階の大天守に2重2階の小天守、>天狗の間(天狗書院)と呼ばれた付櫓(天狗櫓)が>付属された複合連結式の天守であったが、1795年に>焼失して以降、再建されないままであった。>現在山頂に建つ天守は、1968年(昭和43年)に元>士族の萩原貞の寄付金を元に、往時の絵図や創建当時の>同時期の他の城の天守を元に、鉄筋コンクリート構造に>よって推定再建されたものである。しかし、小天守が>天狗の間の位置に建てられていることなど、史実に>基づいた復元再建ではない>復興天守の内部は、金森氏や土井氏など歴代の城主に>関する資料を展示した資料館として利用されている。>12月から翌年3月までは閉館となっている。2014年に>有志による「ラピュタの会」が結成され、「天空の城>大野城」の知名度向上に努めている狭い山頂部に石垣が、築かれての天守なのでなかなか天守の全貌を、まじかに眺められる事がなかったが、どこかにそんなポイントがあるのかもしれない。今回はガイドがいないので、バスの最短ルートからの往路、帰路はかんな感じで遂にここで銅像ゲット。第七代藩主の土井利忠である。藩政改革、教育制度の整備、軍制改革などで大きな実績を挙げて、樺太開拓を目指すなどスケールの大きい名君であったそうだ日本の瓦屋根に桜が良く映えてます。とは言っても、天守脇にあった和風なおトイレの屋根なんですがこちらは、天守の上の方から見たおトイレの屋根越しの桜。それにしても良い瓦を使っているなぁ~。いぶし銀?それにしても桜の一番良い時期に、この城にも来れて良かったです。最初の富山県北部の舟川、春の四重奏以外はどこも桜は満開と言った感じでした今回の桜咲く北陸のなつの城の団体旅行はまだ10日近く後の日程もあるので、それに参加される人も桜が楽しめるように、時期がズレそうな、遅めの桜の名所も組み込んであるのだろうこのお城は戦後に建てられたもので、中は資料館なので、写真撮影も出来なかった遠くに見える東側の白い山々。あの向こうは岐阜県だ。高山もその彼方そんな訳で越前大野城について、大体説明も出来たので、ここからは近況という訳で、来年夏の東京オリンピックで全国をまわる、聖火のコースが発表になりましたね長野オリンピックの時には、長野県内をまわりまして、その当時は長野県だった「馬籠宿」もコースになって、私も見に出かけました。娘や息子らは越県通学で岐阜県中津川市の小学校に、通学をしていましたがすぐ近くなので学校から、みんなで応援に来ていました。その時にスポンサーなんでしょうか。あったかな缶コーヒーを配ってまして、娘は缶コーヒーを初めて飲んだと今日も話してました平成の大合併で「馬籠宿」は、岐阜県になりましたが、今度は岐阜県のスタートとして聖火がやってくるそうです。しかも週末のようで、娘も見に行けると喜んでますよ結構、全都道府県のあちこちに聖火がまわるようなので、皆さんもお近くでご覧になれるかもしれませんので、要チェックです。それにしても馬籠宿はかなりの坂の宿場町なのですが馬籠宿の一番下側でセレモニーがあってラストは、宿場の一番上のはずれにある展望台って、あの坂を上るんだろうか?箱根駅伝の山の神クラスの人じゃないときつそうだけど、どんなんだろう皆さん、時間前には下山されてお土産屋をのぞいたり、のんびりしたり・・・・再びバスに乗って、お昼を食べに福井市方面へ戻りますそれにしても、日本の田舎町と言った風情があり、なかなかのんびりとした素敵な町ですね私も周囲を山に囲まれた田舎町で生まれ育ち、今も住んでますので、こういった風景は親近感もわきますあの山はなんていうんだろう。4月になっても白いまま・・・。今年の春は遅くまで寒かったので、恵那山も白い時期が長かったです走行中のバスのからの風景写真ですがなかなか良い感じで撮れました遠くに見える銀色に輝く丸いのが、勝山の世界三大恐竜博物館とも言われる福井県立恐竜博物館だそうです。見に行きたいなぁ~富山城、高岡城、金沢城、丸岡城、大野城と、5つのお城をまわりました。残す所はあと二つ、どこのお城でお花見が出来るのだろう。続く 平成31年4月6日に越前大野城で撮影にほんブログ村
2019年06月05日
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前の日記にも、城に桜は似合うとのコメントを幾つも頂戴したが、高岡城と同様に、日本の桜名所100選に名を連ねる城は27つあり、日本100名城にも兼ねている城も多い今回の日記で紹介をする越前丸岡城もどちらにも選定をされている桜の城だ別名を霞ケ城といい、桜の名所の方は霞が城公園の名称となっている。そして何と言っても日本でも数少ない、江戸時代の天守が残る城でもある娘と出かけた桜咲く北陸の7名城のツアー2日目はここ丸岡城からスタート。こちらも桜が満開であり、しかも雲一つない晴天で青空に桜と城が良く映え絶好のお花見日和だ坂井市丸岡観光協会キャラクターの城丸くんは、丸岡町町制100周年と町村合併35周年を迎えた平成元年に誕生をして丸岡城のPRキャラクターとしても活動中だこちらもボランティアガイドさんがお城の説明をしてくれ、まずはガイドさんお勧めのお城と桜の写真スポット。入口から反対側に回り込んだ所なので、もし個人で行けばここから写真を撮る事はなかったと思うやっぱ現地の事を良く知るガイドさんがいてこそといった事も多い。こういうガイド付きのツアーというのも面白いかも。さて現存天守をおさらいをすると、世界遺産の姫路城を筆頭に松本城や彦根城、犬山城が国宝だが、最近には重要文化財だった松江城が国宝に昇格をした弘前城、備中松山城、丸亀城、伊予松山城宇和島城、高知城が重要文化財に指定されている。戦前には20の城が残されていたけど空襲などで焼失をしてしまった。ここ丸岡城は戦前は国宝であったそうだなんでも、昭和4(1029)年に施行をされた国宝保存法にもとづくもので、現在の国宝と区別する為に、一般的に「旧国宝」と呼ばれている。昭和25(1950)年に国宝保存法が廃止され、文化財保護法に切り替わったて、旧国宝は全て重要文化財となったそこの中でも価値が高いものが、改めて「国宝(新国宝、現国宝)」に選ばれているそうだここ丸岡城も以前は旧国宝だったが重要文化財のままだ。というのも昭和23(1948)年の福井地震で天守が倒壊古材を用いて、元のように組み復元されているそうで、そんなあたりも理由であるかもしれません。小さなお城ですしね。それでも日本で一番古い天守であると言ってましたが、それも今春になって、柱などの部材を調べた結果から建てられたのは江戸期の寛永年間(1624〜44年)だった事が判明。1593〜94年に大天守と渡櫓、乾小天守が完成したとされる松本城の方が古いそうだ。続くのは犬山城の1601年、彦根城の1606年なんだとかしかし、松本城は乾小天守のみが先に造られて天守は江戸時代からだとか、犬山城は1537年には現存天守の2階部分までが完成をしていたといった説もあるので、一概にには断定出来ないてこてこと坂を登れば、あっという間に天守が目の前に現れた。岩村城とか山城なのでふ~ふ~は~は~と言いながら登城をせねばならないが丸岡城は年配観光客にも優しいお城であった元は木彫銅板張りの鯱であったが、戦時中に銅板が不足をしており、この石製のものと差し替えられたそうだが、福井地震の倒壊による修復時に、再び木彫銅板張りの鯱が屋根に乗せられたそうだではでは入城をしてみようか。添乗員さんの了解を得て、この時点でガイドさんから離れ娘と二人で先行をした形で見学をしていた。ウィキペディアによると・・・>福井平野丸岡市街地の東に位置する小高い>独立した丘陵に築かれた平山城である。>近世に山麓部分が増築され、周囲に五角形の>内堀が廻らされていた。安土桃山時代に建造>されたと推定される天守は重要文化財に指定>されている>その他、石垣が現存している。移築現存する>建物として、小松市の興善寺および、あわら市の>蓮正寺に、それぞれ城門、丸岡町野中山王の>民家に、不明門と伝わる城門がある>ほかに土塀が現存する。「霞ヶ城」の名の由来は>合戦時に大蛇が現れて霞を吹き、城を隠したと>いう伝説による城の変遷は・・・>1576年(天正4年) 織田信長の家臣で、越前ほぼ>一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により>築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に>移った。>1582年(天正10年) 本能寺の変の後の>清洲会議により、勝豊は近江国長浜城に>移された。代わって勝家は安井家清を>城代として置いた。>1583年(天正11年) 柴田勝家が豊臣秀吉に>よって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は>丹羽長秀の所領となり、長秀は丸岡城主と>して青山宗勝(修理亮)を置いた。>1600年(慶長5年) 丹羽長秀死後、領地は>そのままに豊臣秀吉の家臣となっていた青山>宗勝とその子・忠元は、関ヶ原の戦いで敗者>である西軍方につき改易された。越前国には>勝者の徳川家康の次男・結城秀康が入封し、>丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を>与えられ入城した。>1612年(慶長17年) 今村盛次は越前騒動に>連座し失脚した。幕府より附家老として福井藩に>附せられた本多成重が4万3千石で新たな城主と>なった。>1624年(寛永元年) 福井藩2代目の松平忠直が、>不行跡を理由に豊後配流となり、福井藩に減封>などの処分が下された。同時に本多成重は福井藩>より独立。大名に列し丸岡藩が成立した。>1695年(元禄8年) 4代重益の治世、本多家の>丸岡藩でお家騒動が起こり、幕府の裁定により>改易となった。代わって有馬清純が越後国糸魚川>藩より5万石で入城。以後、有馬氏丸岡藩6代の>居城となり明治維新を迎えた。>1871年(明治4年) 廃藩置県により廃城となり>天守以外全て解体された。1901年(明治34年)> 残された天守は、丸岡町により買い戻され解体を>免れ、城跡は公園となった。本丸を囲んでいた>堀は、大正後期から昭和初期までの間に徐々に>埋められ消滅した。>丸岡城を築城する際、天守台の石垣が何度も>崩れて工事が進行しなかったため、人柱を>立てることとなった。城下に住む貧しい片目の>未亡人「お静」は、息子を士分に取り立てる>事を条件に人柱となる事を申し出た。>その願いは受け入れられ、お静は人柱となって>土中に埋められ、天守の工事は無事完了した。>しかし、柴田勝豊はほどなく移封となり、息子を>士分にする約束は果たされなかった。それを>怨んだお静の霊が大蛇となって暴れ回ったという>毎年4月に堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に>見舞われ、人々はそれをお静の涙雨と呼んだ。>現在城内にはお静の慰霊碑が残っているウィキペディアから転載させていただきました大蛇はここから出た話なのですか・・・松江城に行った時にも人柱の話が出ていたし全国各地のお城でもよのような話はよく聞く城の周囲には様々な碑があったが、顕彰したものとかいろいろのようだこちらは戦争で亡くなった方たちの忠魂碑時代がかわろうと、お国の為、大義の為に尊い命をささげた人たちの事は忘れてはいけない下城して、今度は城の表側から桜越しにお城を見上げてみた。ここの桜は殆どが染井吉野のようだ。手前のピンクの濃いのは枝垂れ桜かな?その日は土曜日でもあったので、お花見時期の週末でイベントなどもやっており地元の皆さんもご家族で遊びに来ていたようだのんびりと、浅い池で泳ぐ鯉をのぞくお父さん旧国宝であった丸岡城を、再び国宝にするのは、地元民の悲願でもあるようだお城のふわふわ遊具や消防車も、お城のイラスト入りだし城下町らしい古い門は、移築されて北国ものだが、この門をくぐった先にあるのが一筆啓上日本一短い手紙の館である。一筆啓上とは,簡単に申しますと・・・と言う手紙の書き出しに使う言葉であるが武勇に秀でて気性が荒い事から「鬼作左(おにさくざ)」と呼ばれ、三河三奉行の一人である本多重次(丸岡藩初代藩主成重の父)が、天正3(1575)年の長篠の戦いの陣中から、妻に宛て書いた手紙が、日本で一番短い手紙として有名でその書き出しが、一筆啓上なのだ「一筆啓上火の用心 お仙泣かすな馬肥やせ」でお仙とは、跡継ぎの仙千代(成重)で、男子はこの幼子しかいなかったようだ。後に仙千代は豊臣への人質として、秀吉の養子となった結城秀康(家康の子)の小姓として大坂に送られた時期もあった越前北ノ庄藩初代の藩主となった結城秀康の子の松平忠直の附家老として、本多成重は越前丸岡藩4万石を与えられている。そんな事から一筆啓上賞日本一短い手紙コンクールが、毎年行われて、昨年のテーマは先生で、国内外から4万近い応募の中から大賞5作が選ばれたその受賞者は7歳から86歳と幅広い年齢層から支持されているようだ。という訳で2日目の最初に出かけたのは現存天守、丸岡城であった。次はどんなお城へ向かうのだろうか。続く! 平成31年4月6日に越前丸岡城で撮影にほんブログ村
2019年05月27日
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さてさて開催中の信州花フェスタの日記を優先し紹介をしましたが、再び4月上旬に娘と出かけた、桜咲く北陸7城巡りのバスツアーの日記に戻るとする。富山城に続き紹介をするのは「高岡城」であるウィキペディアで紹介をすると>1605年(慶長10年)6月28日、富山城に>隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の>1609年(慶長14年)、富山城下の町人地>から出火した火災の類焼により、城内の>建築物の大半を焼失したため、利長は魚津>城に移り、>大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の>報告と、関野に築城の許可を貰う。利長は>築城の方針に伴うため、資材調達を小塚>秀正ら、現地奉行を神尾之直らに命じ、>魚津城から築城の指揮を取り、同時に>城下町の造成も始めた>縄張(設計)は当時の前田家の客将だった>高山右近とされている。同年9月13日、利長は>「関野」を「高岡」と改め、未完成の高岡>城に入城した。殿閣は先代利家が豊臣秀吉>から賜った豊臣秀次失脚に伴い破却された>伏見城秀次邸の良材を使って建てられた>とも伝えられる。>しかし、1614年(慶長19年)5月20日に>利長は死去(享年53)し、隠居城として>使われたのはごく短期間であった。その>翌年の1615年(元和元年)には一国一城>令により、大坂夏の陣からの利常凱旋を>待って高岡城は廃城となった>(その代わり加賀国に小松城を築くことが>ゆるされた)ただし、廃城時期については>1638年(寛永15年)とする異説もある。>しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の>管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・>番所などが置かれ、軍事拠点としての>機能は密かに維持された>これは加賀藩の越中における東の拠点で>あった魚津城も同様であった。街道の>付け替えの際には、濠塁がそのまま残る>城址を街道から見透かされるのを避ける>ため、町屋(定塚町)を移転して目隠しに>したといわれる>また、廃城後に利長の菩提を弔うために>建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える>利長の墓所自体も高岡城の南方の防御>拠点としての機能を併せ持つものとして>配置されたと考えられている>郭は、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶>丸の五つからなるが、現在では「御城外」と>されている小竹藪や梅林も、これに加える>ものと考えられている。(中略)基本的な>プランは利長の先の居城であった富山城>との類似性が見られ>その発展型とみることができる。今なお>築城当時の濠塁をほぼそのまま残して>おり、総面積の約21万m2(71,261坪)の>内、約3割(24,400坪)が人工の堀である。といった感じで、ウィキペディアを丸写しさせていただき、高岡城址を紹介させていただきました。日本100名城の他に、桜の名所100選にも選ばれている。江戸時代には前田家の防衛を担っていた高岡ですが、ここ最近は違った意味で脚光を浴びてますよ。「令和」で~鶯(うぐひす)の鳴き散らすらむ春の花 いつしか君と手折(たを)りかざさむ 天平19年(747年)2月29日、病気であった大伴家持が、大伴宿祢池主に贈った悲しみの歌です。万葉集を編纂したと伝わる大伴家持は、越中の国守として高岡に赴任5年間の在任中、高岡で様々な万葉の歌を残しました。中には私が学生の頃から好きなもののふの八十娘子(やそおとめ)らが 汲み乱(まが)ふ 寺井の上の堅香子の花なんてものもある。堅香子(かたかご)とは今はジャガイモで代用される片栗粉を、本来根茎からとる、かたくりの古来の名前である高岡城址にも、愛らしい堅香子の花が咲いていた令和は万葉集の大伴旅人(家持の父親)による歌からとられており、その舞台となった大宰府が注目されているが、その子の大伴家持の赴任先だった高岡もまた、万葉集がらみで盛り上がっているようだったこの花は染井吉野ではないんです。固有の桜というと信州高遠城に咲く高遠コヒカンザクラが天下第一の桜として有名ですが、こちらの花は10年ほど前に、新種として認定を受けた「タカオカコシノヒガン」桜だそうですもともと富山県南砺市に自生地がある「コシノヒガン(越の彼岸)」という桜は知られていたのですが、「タカオカコシノヒガン」は花びらの丸みが強く、やや波打った形状をしているが特徴だそうだそれにしてもノッポな桜だ。高岡城築城の際に太田村の宗右衛門という者が砺波地方の山桜を献上して植えたのが始めで、高岡城に隣接して馬場が設置され、その両脇には宗右衛門由来の山桜が植えられ、歴代の藩主の手厚い保護のもとで育成されたそうですその他にも高岡城址には「コシノカモザクラ」という新種の桜も咲いているのだという。桜の園では、華やかな衣装の花婿さんと花嫁さんが記念撮影を行っていた高岡城址にはこのような新種の、珍しい桜の花などの他にも、ソメイヨシノ、オオシマザクラ、エドヒガン、ヤマザクラなど18種、1800本もの桜が春には咲き乱れている今回の北陸の7つの名城を巡るバスツアーでは幾つかのお城で現地ガイドがつくのだが、私の班の担当の女性は、お濠とお花や万葉集が中心だったので、ぬぁんと前田利長の騎馬像なども観る事なく終わる・・・堅香子の花の近くの、こんな猿の写真は撮れたのだけど。。。娘も暇そうで添乗員さんが別行動をとってもいいですよ~と言ってくれたの、素直に聞いておけばよかった。でも別行動だった場合「タカオカコシノヒガン」に気が付かなかった可能性は高そうだと言った訳で、本来であればこれで山中温泉へ向かうはずだったが、最終日に行くはずだった金沢城に急遽立ち寄る事となった。その方が明日のルートが戻らなくて効率が良いらしいだったら最初からそうゆう日程で組めばいいのに・・・と思いつつ金沢城に着いたのは午後5時半近くで、近くのバス駐車場から、添乗員が城の前まで送ってくれて、そこからはフリータイム。集合時間までには、自分たちでバスまで戻るという話だったけども城門に着いた時点で、閉門の30分前~~たった30分しか時間がないのか。これでは櫓の中の見学どころか、満足にお城の中もまわれるか心配だ。他の奥様方は最終日の金沢が楽しみだったようで、時間はないしこんな夕暮れに!と、かなり文句が出ていた娘も、目の前の兼六園も行ってみたかったと言うので、入口の灯篭位しかないぞとか、冬の雪吊りがないとな・・・と。駆け足の金沢城もとりあえず石川門や三十間長屋、鶴丸倉庫の重要文化財は、外観をおさえたいところだ30分しか拝観時間がないので、とにかく速足でてくてくと・・・石川門は一番最初に入場をした桜に囲まれた門なので、まずは1つ目をゲット~!。再びウィキペディアに説明をお願いすると>金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野>川とに挟まれた小立野台地の先端に築か>れた、戦国時代から江戸時代にかけての>梯郭式の平山城である。櫓や門に見られる、>白漆喰の壁にせん瓦を施した海鼠(なまこ)>壁と屋根に白い鉛瓦が葺かれた外観、>櫓1重目や塀に付けられた唐破風や入母屋>破風の出窓は、金沢城の建築の特徴である。>この地は加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の>寺院である「尾山御坊」であった。寺とは>いうものの大坂の石山本願寺(大坂御坊)と>同じく石垣を廻らした城ともよべる要塞>でもあった。>織田信長が一揆を攻め落とし、跡地に金沢城を>築いて佐久間盛政を置いた。後に盛政が賤ヶ岳の>戦いで羽柴秀吉により討たれ、秀吉は金沢城を>前田利家に与えた。利家は文禄元年(1592年)>から改修工事を始め、曲輪や堀の拡張、5重の>天守や櫓を建て並べた>兼六園は、加賀藩五代藩主前田綱紀が金沢城に>付属してつくらせた大名庭園である。なお金沢の>地名は室町時代の文明年間には既に存在していた>ことが知られているが、尾山御坊時代は金沢の>小立野台地の先端すなわち山尾(尾山)にあった>ことから尾山の呼称が使われていた>佐久間盛政が新城を築いた時に一向一揆の印象が>強い尾山ではなく金沢を城名に用いたが、前田>利家が入城すると羽柴秀吉(豊臣政権)に敵対>して滅ぼされた盛政命名の金沢城ではなく自身の>出身地の尾張国にも通じる尾山を採用した。>だが、金沢の地名が広く知られていたために>尾山城の名前は普及せず、利家自身も再び>金沢の城名を用い始めたと推測されている>城址は明治以降、存城とされて軍施設が>置かれたため建物の一部を残して撤去され、>第二次世界大戦後には金沢大学が平成7年>まで置かれていたこんな薄暗くなって!と奥さんたちに不評の閉園間近の金沢城フリータイムだが、私は結構好きかも。「逢魔時(おうまがとき)」というような薄暗くなってきて、人もひいた時の静けさは、より印象深く感じる事も出来るこれまでにも閉まる間近の夕刻に出かけた奈良の東大寺大仏殿や、京都の三十三間堂などは拝観者がいなくなり、独り占め気分かけがえのないひと時となった。この城もお花見客も多く真昼は大変な人出であっただろうにこちらが2つめの重要文化財の「三十間長屋」安政5(1858)年に再建されたもので、金沢城には、この他に全部で14の長屋があったと伝えられている。元は軍備倉の堅固な造りで千飯が貯えられていたらしいが、後には鉄砲蔵とも呼んでいたそうだ加賀百万石の前田家の居城である金沢城であるだけに、城内には見どころなどもあるけど時間がないから、横目で眺めつつも早足でスルー。さて金沢城には天守閣はなかったのだろうか。どうやら当初は天守閣を造ったのに、僅かな年数で落雷のため焼失その後は天守閣が再建をされないままで、廃藩置県を迎えたそうだ。理由は財政的に厳しい事と戦いに直轄をするような天守を作ることで幕府に対して反乱でも起こす意思でもあるのかと疑いをかけられたらいけないので。それに江戸期などは天守がなく、櫓を代用した城が多かった第一、江戸城自体の天守も、明暦の大火により寛永度天守が焼失してしまい、今も残る御影石の天守台が、加賀藩主の前田綱紀によって築かれれ計画図も作られたが、保科正之が「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」と言い、江戸の復興が優先された江戸幕府が盤石になったので戦いの為の天守はもう時代に合わなくなったのかもしれない。とは言っても江戸期に作られた天守もあったようだがさてさて重要文化財の金沢城土蔵の「鶴丸倉庫」武具蔵として嘉永元(1848)年に建てられた大型の土蔵で、土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺で加賀藩大工の山本勝左衛門が普請を手がけた、明治以降には、軍隊の被服宗箇などとして利用がされていたそうだこのようにお城の塀などは作られているといったわかりやすい実物模型とか時代による城の石垣の変遷なども。初期の野面積みなどから、後期の切石積みなどを、石垣の内部がどうなっているのかなどもわかって参考になった金沢城は天守はないが、石垣も見どころだそうで時間があればそれらを楽しみもしたかった。それに前田利家の像もあったらしいが、気が付かなかった高岡城の利長に続いて、金沢城の利家も・・・(泣)閉門時間の午後6時ちょうどには、石川門に戻ってきました。ここからバスの駐車場まで数分。集合時間は6時10分です。石川門の説明を最後になりましたが・・・金沢城の搦手門(裏門)として、重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに「三御門」と呼ばれた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門で、宝暦の大火で焼失したが後に天明8年(1788)に再建をされた金沢城の中には入れないが、石川門の真下とか周囲では、お花見客が宴会などをして賑やかだった。金沢らしいお店もいくつも並んでいたが素通り、写真だけパトリ。そんなんで集合時間前にはバスに戻ったが、慌ただしく添乗員さんがバスから降りて。。。石川門から反対側に行ってしまい、戻ってこないお客さんがいるようで、携帯電話で連絡しあって10分程で、バスに戻ってきた。携帯電話が無い時代は大変だっただろうなぁ・・・こうして舟川と富山城、高岡城、金沢城の見学を終え山中温泉へ向かった。ではでは、続く~! 平成31年4月5日に高岡城、金沢城で撮影にほんブログ村
2019年05月21日
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いよいよ今日から平成から令和へと、年号をまたぐ連続10日間のゴールデンウィークだが低気圧が続けてやってくる関係から、芳しくなく、お勧めなのは28日、2日、5&6日であるらしい。娘とのお出かけ予定は雨予報今更、ホテルをキャンセルするのも気の毒なので雨覚悟でドライブ。曇り時々雨レベルだったらいいけど。北海道は雪予報だとか雷とか不安定な天気みたいですよね。今日もすごく冷たい風で、冬物残してて良かったしさてさて、4月5日に娘と出かけた1泊2日の北陸三県のバス旅ですが、最初にバスが向かったのは富山県の一番、東に位置する朝日町で、真っ白な北アルプスを望む海辺の街だ今回の旅行の最初の観光先は「あさひ舟川春の四重奏」といいまして、地元の皆さんの手入れで素晴らしい春の景色が望めるというもので、チューリップと菜の花、桜並木、残雪の朝日・白馬岳による四重奏なのだが寂しい会場にあった看板によればピーク時にはこのような素晴らしい四重奏となるそうですが時期が少し早かったみたいですね今年の場合、あと数日後の10日あたりから見頃だったみたいでチューリップも、いろんなのが植えてあったんですが早咲きなのか、この花だけが綺麗に咲いてました。あと数日もすれば、他の花も咲きだして花の絨毯になるみたいです菜の花は、この一角だけ咲いてましてこの後、畑の一面が菜の花畑になるのだろうか。フェイスブックとか見ると確かに、ピーク時には今年も綺麗だ肝心の主役の桜が、まだ咲きかけなのをアジア系外国人観光客の団体客も、残念そうに写真に撮っていた。私が参加をした1泊2日の北陸三県の桜旅は、旅行日程が4月上旬~中旬にかけての10日間から選択するタイプだったのでうちのように早い時期のお客さんも中旬を選んだ遅めのお客さんも桜が楽しめるように、早咲きのものから北部の遅めのものを、チョイスしていたんじゃないかと思います。桜が全く見れないのはサイアクですからですから後半の日程の皆さんは、きっと看板通りの素晴らしい四重奏を楽しまれたんじゃないかと思いますよ。まぁ雪も降るような4月アタマの寒波到来がなければ、もう少し咲いていたんじゃないかそんな気持ちもあります舟川の桜並木は、松山ケンイチ主演の山岳映画「春を背負って」のタイトルバックにも使われたものです。あれを見て、見に行きたいなぁ~とは思っていたんですが、わずか数日のずれでも桜は見れませんいかに、事前に予約をしている桜の旅が難しいのか。うちからは高山経由で車で4時間程度で行けると思うし、直前までキャンセル料のかからないホテルの予約でもしておいて、咲き具合から個人で行くしかなさそうですねでもね、そこの係の人が言ってましたけど昨日まで雨が降ったりして、空気が綺麗になったから、今日の北アルプスはとっても美しく見えるそうでして。う~む、これで桜が咲いてたらさぞかし素晴らしい風景が行きの高速では、山の反対側に座っていたので見れなかったが、今度は逆向きになり車窓から、散居村の向こうに北アルプスがバッチリ見れて、もう釘付けだ飛騨から砺波に出て、富山県の西から1時間はかかって、東端の朝日町まで桜がまだ咲いてない舟川まで行ったがこのような素晴らしいパノラマを見たのだから文句などない。山を楽しむ為出かけたようなものだ楽天ブログを始めた頃から知っている越中おわら節をされてい富山県の方がよく、北アルプスの写真を載せられていて、いいなぁ~と写真では眺めていて数年前の夏に、家族ドライブで出かけてそれ以来の山の光景。しかも高速道路からなので、街中を走る一般道より高い位置から、ずっと山を眺められていられるし奥の鉄橋は新幹線朝日町から富山市までを、撮った順番に写真を載せてます。どのあたりからとか山の名前はサッパリわかりません。さて今回の旅行は、1月に上海旅行で利用をした、阪急交通社トラピックスのメール広告で知りました本当は春には中国の北京旅行で、娘と万里の長城や紫禁城、パンダを見に行こうと思ってましたが、この桜の旅行を見つけて乗り換えました。それ程、自分の琴線に触れるものがあった訳でして名古屋発1泊2日で、3万円ポッキリで桜咲く7つの北陸の名城と、舟川四重奏ここでも、100名城の話をしたばかりですが北陸地方のお城って、北ノ庄城と金沢城しか行った事が無くって隣県であっても、なかなか行く機会にない北陸三県で、あちこちに点在する城を今後も、全部見る機会はなかなかないだろうし、この機会に一気に見てしまおうと。しかも桜の咲くお城って一年で一番、華やかではなかろうか天空の城で売り出し中の地元の苗木城址のライバルの「越前大野城」とか、準地元的扱いの松本の、松本城の日本最古ライバル現存天守の「丸岡城」は最近もニュースでやってたばかりだし、もうワクワク富山城、高岡城、金沢城、丸岡城、越前大野城、北ノ庄城、福井城との富山、石川、福井三県にまたがった桜咲く北陸の7名城、その中には日本さくら名所100選に選ばれた城もありますといった訳で、富山県の県庁所在地の富山市街に入りました。このあたりは神通川の下流域で、複合扇状地の恩恵を受け、大化の改新よりも前から北陸道における農作地であったそうだ旅情をそそるレトロな路面電車が走っていましたよ。富山地方鉄道が運営をする路面電車(軌道路線)は大正期に始まり地元では「市電」「富山市電」と呼ばれ親しまれているそうだ北陸7城のうちの最初の訪問先の「富山城址公園」に着きました。ウィキペディアによると>富山の地は北陸街道と飛騨街道が交わる>越中中央の要衝であり、富山城は16世紀>中ごろ越中東部への進出を図る神保長職に>より築かれたとされる>神通川(現在の松川)の流れを城の防御に>利用したため、水に浮いたように見え、>「浮城」の異名をとった。当時の神通川は>富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、>その南岸に富山城は築かれていた。>室町時代の越中守護は三管領の畠山氏で>あったが越中には来任せず、東部を椎名氏、>西部を神保氏を守護代として治めさせて>いた。富山城は1543年(天文12年)頃に>越中東部の新川郡への進出をもくろむ>神保長職(じんぼう ながもと)が、椎名>氏の支配地であった神通川東岸の安住郷に>家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に>命じて築城したとされる。しかし最近の>発掘調査により室町時代前期の遺構が発見>され、創建時期はさらにさかのぼると>考えられている>長職は1560年(永禄3年)、椎名氏を支援>する上杉謙信の攻撃により富山城を追われ、>神保氏の在城は僅かな間であった。その後、>富山城は上杉氏と一向一揆の争奪の的と>なったが、1578年(天正6年)、長職の子と>される神保長住が織田信長の後ろ盾を得て>富山城に入城した>しかし、1582年(天正10年)3月、長住は>上杉方に内応した家臣に背かれて城内に幽閉>されて失脚し、替わって富山城主となった>のが佐々成政である。富山城に拠点を構えた>成政は富山城の大規模な改修を行った>本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々>成政は1585年(天正13年)8月、秀吉>自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し>(富山の役)、富山城は破却された>越中一国が前田家に与えられると、前田>利長が大改修を行い金沢城から移り住み>隠居城としたが1609年(慶長14年)に>建物の主要部をことごとく焼失したため、>高岡城を築いて移り、富山城には家臣の>津田義忠が城代として入った。1639年>(寛永16年)、加賀藩第三代藩主前田>利常が次男の利次に10万石を与えて分家>させ、富山藩が成立した>1661年(万治4年)、幕府の許しを得て>富山城を本格的に修復し、また城下町を>整え、以後富山前田氏13代の居城として>明治維新を迎えるまでの基礎となった。>1858年4月9日(安政5年2月26日)、飛越>地震が発生した。富山城も被災し、本丸や>二の丸、三の丸が破損したほか石垣が崩れる>など大きな被害を出した>1871年(明治4年)廃藩置県により廃城と>なり、翌年建築物は払い下げられた。>1954年(昭和29年)4月11日より富山城>跡の敷地一帯で富山産業大博覧会が開催>され、鉄筋コンクリート構造による模擬>天守が記念に建てられることとなり、>1953年(昭和28年)7月に着工>翌1954年(昭和29年)4月3日に完成し、>通称「富山城」と呼ばれることになった。>この模擬天守は同年11月17日より富山市>郷土博物館として運営が始まった。2003年>(平成15年)6月より、富山市郷土博物館>(富山城)の耐震補強工事に着手、>2005年(平成17年)11月3日に、展示内容も>見直しリニューアルオープンした。2004年>(平成16年)「地域の景観の核」との評価に>より富山市郷土博物館(富山城)が、国の>登録有形文化財(建造物)に登録されたとの事で富山城址公園には、様々な石碑なども建てられていた。ここではフリーでの見学時間が20分程しかなく速足でぐるっと見て回るだけだったせめて30分はくれないと、門とかも遠目で見ただけだったしこちらは砺波出身の実業家である佐藤家が戦後に建てた佐藤記念美術館で、茶道具類古陶磁、日本画、墨蹟など千点以上に及ぶ収蔵品の殆どが佐藤家から寄贈され、今は富山市が先ほどの富山市郷土博物館と共に運営にあたっているそんな感じで、一番最初の富山城址では桜も良い具合で、市民の方ものんびりとお散歩をされていた。次は令和で盛り上がる万葉集にゆかりの高岡市の高岡城へと。令和に続く~ 平成31年4月5日に富山県で撮影にほんブログ村
2019年04月27日
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さてさて4月のあたまに、娘と出かける花見旅で桜の開花具合が心配だと言ってた4月5日&6日の旅日記をスタートさせます。この旅行では名古屋駅に午前7時チョイには集合だというので集合時間までに、名古屋駅に着くには5時台の始発に乗る必要があり、その為には、家を5時出発だなんて辛すぎって事で、娘が仕事が終わった夕刻に名古屋に出て、駅前のビジネスホテルに安く前泊をするという事でホテルにチェックインをしてから、夕食を食べに出かけた先は、ユニモール地下街でビールと餃子とおつまみのセットで千円というのを、私と娘でそれぞれ注文をしたが私のビールは、殆ど娘が飲みましたちょっと足りないなぁ~と、ラーメンを1杯頼んで二人で半分こ。お腹も一杯になったので、そろそろホテルへGO名古屋駅付近にも新しいホテルが出来ていますが、ツイン(二人価格)で9千円以下に設定したので、古めビジネスしか検索で出なかった中で、朝食にはパンと飲み物付きで、二人で8千円程で普通に宿泊できました同じように、初日の仕事に間に合う為には5時台の始発なのはキツイからと、息子が岡崎の出張に前泊をしてるが、出張費とか出ない個人の宿泊になるんで、ポイントも貰えるし私がネットサイトで予約を取っている狭い部屋で素泊まりの4300円と、広くて快適な朝食付き6680円の二つでどちらがいいかと息子に聞くと、6680円と、躊躇なく答える息子だ。私なら安い方だろうなぁ~さてさて自分の旅行の話に戻すと、午前7時チェックアウトをして、無事に集合場所へと向かうと添乗員さんがリストにチェックをしてから「お昼ご飯を買えないので、ここで食べるものを買ってきてください♪」 安い旅行ではお昼頃にフリータイムを作って、各自食事をとる事が多いけど、そうゆう時間もないのか。ホームにはJRのワイドビューしなのと、ひだ今回参加したのは、1泊2日の団体旅行で基本的にはバス旅行なんだけど、途中までJRを利用するタイプで、今回は初めてのワイドビューひだ。車ではよく通る道だが今回は高山線でというのが、物珍しくって電車から見る風景はどんなかな?高山線は、まずは岐阜へ向かいますが岐阜駅でスイッチバックを行って方向転換をするので、座席は後ろを向いてセットされてます。車窓からは金華山にそびえる岐阜城が遠くに見えた反対側に座ったので、写真は撮れなかったけど途中で犬山城も見えました。ちゃんと右側に見えますとか車内アナウンスしていましたよ。そして、いよいよ七宗町に入って飛水峡のゴツゴツした岩場が見えたウィキペディアによれば>飛水峡を含めた飛騨川流域一帯は、飛騨>木曽川国定公園区域の河川公園である。なお、>飛水峡のうち、JR高山本線上麻生駅の東>約600mの飛騨川に架かる「上麻生橋」から>上流約2kmの間の峡谷部分は、甌穴(ポット>ホール)が河床の岩盤の上に数多く見られる>ことから>「飛水峡の甌穴群」(「ロックガーデン」とも>称される)として、国指定の天然記念物となって>いる。初夏に飛水峡の岩肌に花咲く岩躑躅>(イワツツジ)も見所。この付近一帯の地質帯は、>「美濃帯・上麻生ユニット」に属し、採集された>チャートの礫から中生代の三畳紀からジュラ紀の>放散虫化石が発見されている国の天然記念物、日本の地質百選だそうだ。ここも車でよく通っているので、お馴染みの光景だが電車からだと、また違った感じだし偶然、なんかカッコイイ写真が撮れたどちらも窓際に座りたいので、娘とは30分くらいで交互に交代をした。帰りの方はもう暗くなってたので、娘がずっと窓際だ。圧迫感がないので通路際の方が好き同じワイドビューのしなのと、ひだは何が違うのか。しなのは制御付き自然振り子式車両の383系電車が使用されているのだが高山線は電化されてないので、ひだの方はJR東海のキハ85系気動車を使用している1989年の通商産業省グッドデザイン商品(日本産業デザイン振興会グッドデザイン賞)1990年のブルーリボン賞は次点となった通路より20センチ程高い位置に、座席が設置され、窓の縦寸法も95cmに拡大して眺望をよくしているそうだ普通車の座席の前後間隔(シートピッチ)もキハ80系の91cmから100cmに拡大しているので、足元も広々。居心地の良い列車でひだは下呂を抜け、どんどん北へ臥竜桜は、この時点でまだまだつぼみで先週あたりに綺麗に咲いていたようです一度、桜の時期に出かけた事があります名古屋駅で乗車をしてから、2時間以上かかって午前10時頃に終点の高山駅に到着しました。うちから下呂経由で下道を普通に車でくるよりも、時間がかかった。しかも前泊までしてるし富山までそのまま行けたらいいのに、次のひだなら富山まで行く事が出来たけど、それだと遅くなってしまう。それ以前に名古屋から高山までワイドビューを使って、そこから、濃飛バスをチャーターする事が何かしらメリットがあるんだろうさて、ここからは濃飛バスに乗車をしていよいよ本格的に出発だぁ~。なんかもう旅行しちゃった感もあって、何をやっているんだろうね。ホント。ともかく岐阜県(東の端っこ)にとって、愛知県発着での旅行は、それだけでハードルが高い高山から見た乗鞍岳は、北アルプスの南部にあり、北は「安房山」から南の主峰「剣ヶ峰(3026m)」の23峰の総称だ。およそ128万年前程前から活動をしている火山で火山としては富士山、御嶽山に次ぐ日本で3番目の高さがあるバスの方は、高山から反対側の西へと向かい東海北陸道で富山に入るようだ。この道路は前に、家から下呂経由で2時間で車で来てそこから白川郷に足を延ばした時に利用をした事がある富山に出かけた事は1度だけあって、その時はまだ娘が松本にいたので、前日に旦那と娘のアパートに泊まって、松本から白馬、糸魚川に出て、そこからは日本海に沿って魚津に出かけた富山からの帰りは飛騨神岡、奥飛騨温泉の安房トンネルを通り松本に戻ったら、すぐ帰ってこれたので、松本から富山って近いもんだなぁ~と驚いたものだ。今回は高速利用と言う事で、新たな富山ルート開拓だおとなり金沢には、名古屋から高速バスを使った事があり、名神から北陸道を使ったものだった。そんなんでお隣の県でも富山県は山深い飛騨を挟んでいるので地理的にも結構、遠い行く機会も少ない地域である途中で1度だけ、トイレ休憩を行って名古屋駅で昼ごはんを買い損ねた人はそこの併設コンビニで調達をして下さいという話だった。バス2台なのでレジにはツアー客の大行列そして山深い飛騨から抜けて、何やら風光明媚なところにやってきましたよここは砺波平野。昭和46年の歌会始ではてもなき砺波のひろの杉むらに とりかこまるる家々の見ゆとの昭和天皇の御歌が披露された。これは前年度の富山県植樹祭に臨席をされ、砺波平野の散居村において、カイニョ(屋敷林)に囲まれた家々に感動され歌われたそうである散居村は、ウィキペディアによると>広大な耕地の中に民家(孤立荘宅)が散ら>ばって点在する集落形態。一般的には散村>(さんそん)と呼ばれる。集村と対比して>語られることが多く、一般には集村が普遍>的で散村は比較的少ないと考えられているが、>実際には世界的に広く見られる集落形態で>ある。砺波平野の散居村>この景観が成立したのは、16世紀末から17>世紀にかけてであると考えられている。砺波>平野を流れる庄川は江戸時代以前にはしばしば>氾濫したため、この地域に住みついた人々は>平野の中でも若干周囲より高い部分を選んで>家屋を建て、周囲を水田とした随分と北上しました。もう長野県まですぐ近くと言う感じ。もう昼も過ぎてやっと一番最初の観光先に到着しそうです。その様子は次回で・・・さてさて旅行日記の構成上、初日の観光を全部すっとばし、先ずはこの旅行の宿泊先である山中温泉の温泉ホテルについて紹介します。名前の通り、山中温泉は山の中でした(↑次の朝の写真)子供が小さな頃に、うちは泊りで北陸方面に出かけていたので、片山津とか粟津温泉は利用した事があるが、ここ山中温泉はまだなかったので、それも楽しみの一つだったここも、かつては社員旅行の団体さんが沢山やってきてたんだろうなぁ。まるでクラブみたいなシャンデリアは、大浴場のだだっ広い脱衣所にもあった。更にそこに電動の岩盤浴の機械が物珍しくて、利用してみた初期のウォシュレットがあったりと、建てられた頃にはお金をかけ、最新の設備を誇っていたのだろう。泉質はカルシウム・ナトリウム硫酸塩泉(低張性弱アルカリ性低温泉)昼ご飯もないような格安旅行の、団体料理なので、あまり期待はできないが高齢者が多いので、量が少なめなのはかえって良いのかもしれないアワビの踊り焼きは、しっかり踊っていたし。冷たい天ぷらを横に並べて暖かくしてから食べた。まぁ天ぷらが冷たい宿は、個人でもたまに見かけるしかしお肉のたれが、うちで普段から食べているのにそっくりな味だったので完全お残し。娘が私の肉を食べてくれたしかし次の朝食は、海辺の県であるのかひものがよりどりのブッフェで、これはなかなか、面白い新鮮そうなひものを焼いて、自分で選んだとはいえ、やっぱ高齢者向きのヘルシーな朝食だった。なかなか観光豊富、移動時間の多い旅行だったので山中温泉に着いたのは夜7時半になりそれからの夕食あったし、疲れもあって朝は散歩より温泉につかったので、もう行く事はないかもしれないだろう、山中温泉の温泉街は散歩できずに残念2日目はランチがありました。こちらは焼き鯛まぶし丼御膳という事で、越前のお蕎麦がセットされていた。なんと高山7時近くのワイドビューひだ利用で、夜遅くの9時前に、名古屋に到着なのだが夕食は自分で調達をしなければならないしかし格安バス旅行によくある、事前にバスの中で、千円程のお弁当を注文して夕刻に受け取るというので半数近い人がお弁当を注文していたが、私らは高山駅での空き時間にコンビニで調達できたが初日のお昼といい、コンビニおにぎりな旅だった。次回から肝心の観光の紹介を 平成31年4月5日に愛知、岐阜、北陸で撮影にほんブログ村
2019年04月23日
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2月からここで紹介をしていた、娘と1月下旬に出かけた、2泊3日の上海無錫、蘇州の格安旅行の紹介も遂に最終の日記となった一番最後に紹介するのは「新場古鎮」で上海市街を離れて、上海浦東国際空港に向かう途中でのフリータイム観光だけど豫園商城同様に、あまり時間は無かったような駐車場から細い路地を通って、主要な観光場所まではガイドさんに連れられそこで解散し、あとは集合時間までに駐車場で待つバスに戻るという訳で折りたたみ傘も用意したが、なんとか使う事もなく帰国が出来そうだ。こんな狭い路地で、傘はあまり使いたくないしカメラで写真を撮るのにも邪魔になる駐車場へ戻る角のお店をしっかりと覚え、集合時間まであまりないのでてくてくと歩く。向こう側にも平行して路地があるようだし少し歩くとお店屋さんもあり、何だか賑わったエリアに突入。前を行くのも同じツアーのご夫婦だこんな狭そうな通りでも、新場大街というらしくって、人通りもここだけは多いように思いましたこのようなお店やこんな食べ物やこんなのやこんなのも店頭に売っていましたさて新場古鎮は、上海の郊外にあり空港にも近い事から、こういった旅行でも観光先に利用もされるようだが、こういった水郷古鎮で有名なのは京杭大運河にも近い杭州とか、蘇州あたりにあるもので、西塘とか鳥鎮朱家角、周庄など街を巡る水路により水運で栄えていた往時の姿を、色濃く残していますここ新場は千年ほど前に、塩を生業に町が発展して、かなり栄えていたそうであるそして、明や清時代の古い建物なども残る町並みがある訳だが、こういった所が結構まるそうだけど再開発という話もなく、次世代に保存をされていくんだろうか?昼間だけの土産物屋ならともかく実際にこういった古い町の、古い建物だと最新の電化品に囲まれた現代生活をおくるのはかなり困難にも思えもする家と言うものも人が住んでいないと傷んでしまうし街も廃れるが、そこで暮らしてる人たちの暮らしもあると思うとね・・・とりあえずエアコンの室外機もあるようなので結構、快適にリフォームしているのかもしれないしさて今年のベネチア映画祭で最高賞の金獅子賞だったのは、ROMA/ローマだったけど、2007年にはアン・リー監督のラスト、コーション(色,戒)であったその映画でここ新場古鎮でも、ロケが行われたそうで、この第一楼も映画に出てきたらしいです。その映画は見た事はないですが、アン・リー監督の他の作品は幾つも観ましたグリーン・デスティニーや、ハルクとかいつか晴れた日に、ブロークバック・マウンテン、ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日と、どれも印象が強いですユーチューブにラスト、コーションの日本語版の予告編があったので、↑に貼り付けましたが、日本ではR-18指定だそうです。 ウィキペディアによると>アイリーン・チャン原作の小説『惘然記』に>収められた短編小説「色・戒」を映画化。>第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、金獅子>賞と金オゼッラ賞(撮影賞)を受賞。第44回>金馬奨にて最優秀作品賞・最優秀監督賞・>最優秀主演男優賞(トニー・レオン)を受賞。>第二次世界大戦中、日本軍による事実上の>占領下となっていた香港と上海を舞台に、>日本の傀儡政権である汪兆銘政権の下で、>抗日組織の弾圧を任務とする特務機関員の>暗殺計画をめぐって、暗殺を目論む女スパイ>(工作員)と、暗殺対象となった特務機関員>との間に芽生えた愛情のゆくえを描いた物語。人気男優のトニー・レオンと、オーディションで約1万人の中から選ばれたタン・ウェイ出演日本国内でも高い評価を受けた映画のようだこの登場する女スパイには実際のモデルがいるそうで、鄭蘋茹(テン・ピンルー)という。女スパイと言うと川島芳子が有名なのだが、李香蘭といい日中のはざまで激動の時代に翻弄された女性が他にもいたとはウィキペディアによると・・・>1918年(民国7年)、浙江省蘭渓市に>生まれた。父・鄭越原は孫文を慕って>中国同盟会に参加した事があり、母は>日本人だったこともあって、早くから>日本に対して、親近感を抱いていた。>1932年~1934年にかけて上海の明光>中学(民光中学とする説も)高等部に>在籍。後に自身の運命を決定づける>丁黙邨は同校の代表理事であった時期が>あり、このときに二人は出会っていた>可能性がある>美貌でしなやかな肢体を持っていたと>言われ、上海のグラビア雑誌『良友画報』の>表紙を飾った事もあった。やがて自身の>容貌を活かして、抗日運動に身を投じ、>その過程で近衛文隆(近衛文麿元首相の>長男)と知り合った>しかし、1939年6月4日に近衛暗殺未遂>事件があり、危険を察知した大日本帝国>陸軍幹部は近衛を日本に送還(その後、>満州へ召集令状が出された)し、二人の>関係は終わった。その後、重慶国民政府の>特務機関・中央統計局から重大な命令が>下る。>それは汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェス>フィールド76号)の指導者となっていた>丁黙邨を暗殺せよというものであった。>鄭は丁に近づき、1939年12月21日、丁の>暗殺計画を実行するも失敗に終わった。>そして特工総部に出頭し、そこで構成員の>林之江らに捕らえられ、監禁された。>1940年2月の春節前林らによって上海郊外の>滬西区中山路に連行され銃殺された。享年22。>没後、中央統計局の後身である中華民国法務部>調査局より殉職烈士に認定され、また彼女の>悲劇と数々のロマンスは、多くの小説映画の>モデルとなっている最後の日。中国人官吏から「今日は映画に連れて行くから支度しなさい」と言われた鄭蘋茹は、金色の靴を履きおしゃれをして車に乗り込んだのだが、上海から郊外へと車が向かうと、自分の身に何が起こるのか気がついて泣き叫んだしかし二人の男に両脇を抱えられ引きずり出され、事前に掘ってあった真四角の壕の前に座らされ死刑宣告文が読み上げられた彼女は中国語で「顔を撃つのだけは止めて」と訴えたが、宣告文が読み終わると後頭部を撃たれたそうである鄭蘋如、川島芳子、李香蘭。立場こそ違うとしても時代に翻弄され、その難しい立場の中で必死に生き抜こうとしていたのかもしれない日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇 前編日中戦のはざまで 鄭蘋如(テンピンルー)の悲劇 後編美貌のスパイ鄭蘋如 ふたつの祖国に引き裂 (単行本・ムック) / 柳沢 隆行 著美貌の女スパイ、鄭蘋如が闊歩した租界時代の上海の事を「老上海」と呼ぶそうであるまさに様々な姿、そして今は遠き時代の面影を垣間見せてくれた上海は、かつて魔都と呼ばれていたとしても、不思議はないだろう。この古鎮でも、かわいいわんこがうろうろしていた水路に浮かぶ小舟に乗る為の階段が今も残る通路にあったポストは緑色一期一会とあるところには、なにやらいっぱい下がっていた水路際の屋根のある通路を、ぐんぐん歩いてきた。もはやここまでやってくる観光客も誰もいないそろそろ戻らないとまずいかな。でもここまでやってきて良かった。なんか趣のある橋だし。こうして1月下旬に娘と出かけた2泊3日上海、無錫、蘇州の旅は終わったここからは近況。昨年秋の頃から姑が頬に出来たできものが治りが悪いと、市内の皮膚科の病院へと行くと、総合病院へ案内状を貰い連れて行ったら悪性腫瘍(癌ではない)だからすぐに、手術という事で部分麻酔のイボを取るものなので事前に、心電図などの検査が無く先週、手術をして貰って、術後に点滴などもあり、3月は姑の病院通いで何度も病院に出かけている経過もよく、次の予約は4月中旬でいいそうだ昨日は春のような陽気の中、車も窓を開けると花粉も飛んできそうなので、冷房を入れ病院に向かっていると、姑が唐突に恵那のお母さん(私の母親)のお墓参りに連れて行って欲しいと言い出した何でも私の母親が夢の中に出てきたので、お墓参りもずっとしていない事が気になったそうで、病院の後に途中で、お花とペットボトルの水とお線香と、ライターを買っていってきたNHKの朝ドラでも早くに亡くなった主人公の姉が、いつも家族の夢の中に出てくるが、私も長野五輪でジャンプ優勝に感動した2月下旬、春のようにうららかな日に亡くなった母親の夢を何度か見た事があるがつい10日ほど前にも、母親の夢を見たばかりだった。夢の中では母親といつも旅行をしている。旅の番組が好きで70近くになって膝を悪くし寝たきりになると、ベッド脇にあるテレビでいい旅夢気分と、旅サラダをいつも見ていたそんな母親とは実際には、ヨーロッパ周遊九州、山陰等10回程しか旅行してないが桜の好きな母親だったので、二人でお花見旅行に出かけた奈良の吉野山と、京都での哲学の道は良い思い出になっているそんな母親だが亡くなる少し前には妄想が始まり、家の2階に男と女のスパイが潜んでいるから、危ないし子供は連れてくるなと、真剣な顔で話していた。中国の旅はこれでお終い! 平成31年1月28日に上海で撮影にほんブログ村
2019年03月21日
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紹介が前後してしまったが、1月下旬に娘と出かけた上海、無錫、蘇州の旅での最終日の上海で、午前中に出かけたのは既に、地下鉄で夜景を見に出かけた外灘だった。今にも雨が降りそうな悪天候で空はどんより一番右のビルが中東に続いて、世界で2番目に高い632メートルの上海中心でランキング10位以内に、中国の高層ビルが4つ入っており、蘇州には高さ729メートルの超高層ビルが建設中ださらに上を行くのがサウジアラビアで建設中のジッダタワーで、完成すれば1000メートルを超えるらしい。実は日本でも、かつては超高層ビルの話も出ていたが、バブル崩壊でなくなったみたいだ現在日本一の300メートルの大阪あべのハルカスを超えるビル2棟が、東京都内に建設予定なんだとか。特に超高層ビルとか地震もあるし、羨ましいとか思わないけど近未来には日本以上に深刻なのが、中国の超高齢化問題のようだ中国における60歳以上の人口は2億人を越しているらしいが、近い将来には5億人になり、総人口の35%にも達するそうだ流行語になっている言葉に「未富先老」というのがあり、豊かにならないうちに先に高齢化を迎えるという意味だそうだあと「未備先老」は、制度が整備されないうちに先に高齢化を迎えるという意味で高齢者の医療、年金、介護の分野において高齢化が先行する日本に学べという意見も出ているそうだ中国で「日本に学べ」の声も…加速する少子高齢化さて上海最終日、外灘から市民がくつろぐ「古城公園」の中を歩いて、豫園商城に出かけて、そこでフリータイムとかランチを食べてから、観光バスに乗りこめる大きな道路まで、てくてくと歩いて移動前回紹介をした豫園とか、この周辺一帯は租界時代には「上海城」と呼ばれた中国人居住区であり、現在の上海の中で最も中国的な雰囲気を色濃く残すエリアである豫園商城が観光客用ならば、こちらの「上海老街」は、地元の人が買い物を楽しむごく普通の商店街と言った感じなのが良い。京都の中心部は町の名前ではなく、道の名前を使って地名にしているので、例えば縦の河原町通りと、横の四条通りが交差しているあたりは四条河原町、五条通りならば五条河原町といった具合だが上海の旧市街(浦西)の場合にも、路が重要で、1862年にイギリス租界当局がルールを決めたそうである。南北に走る道路は中国の省名で、東西に走る道路は中国の都市名なんだとか大きな南北の道路では、外灘から西方向へ「四川路」「江西路」「河南路」「山西路」「福建路」「浙江路」「雲南路」「西蔵路」・・・・といった感じで、蘇州川から北が「○○北路」で、蘇州川から延安路までを「○○中路」、延安路から南が「○○南路」となっているそうだで、都市の名の東西の道路は北から「北京路」「寧波路」「南京路」「九江路」「漢口路」「福州路」「広東路」といった具合で、やはり南北の西蔵路を基準として、東が「○○東路」西を「○○中路、又は○○西路」となっているらしいそうそうチャイナドレスだけど、これは>元々満洲人の遊牧衣装で、同じ遊牧民族の>モンゴルのデールから強い影響を受けた。>16世紀、満洲人が漢民族及び中国全土を>支配した後、漢服の文様や織法を取り付け>徐々にモンゴルの様式から離れ、満洲人と>漢民族を融合させた中国式な服装になった>17世紀、チャイナドレスは清国の属国で>あるベトナムのアオザイにも大きな影響を>与えた。19世紀に入ると、清国の弱体化と>西洋勢力の侵入より、中国色が薄く、西洋の>様式と融合された今のチャイナドレスが>生み出した。20世紀、社会主義国の中国>大陸では厳しく禁止され>香港と台湾では風俗業界や中華系ヤクザの>女性仕事服として広まれた。21世紀、中国>大陸はチャイナドレスの禁止令が消えて、>多くの中国の政治家夫人や女優が愛用する。>歴史の短い、満州人の民族服であった>チャイナドレスは、逆に全中国女性を代表>する服装になった。ウィキペディアより転載さてさて横浜の中華街などにもあるが、街中にある門を「牌楼(はいろう)」という。↓写真元の時代に、都であった「大都」(北京)では居住区の基本単位である「坊」によって区画をされており、管理の為に街の標識として牌楼が建てられたそうだ王城などの門は治安の為に、夜には閉じられて朝に開かれるものでしたが、常に開かれた門である牌楼は、邪気の王城への侵入を防ぐという意味も込められているそうで、古来より重んじられてきたそうである「四牌楼路」は、かつて路地裏に屋台がひしめく庶民派グルメストリートだったそうだが規制で、屋台は撤去されてしまい静かな町に戻ったらしい。そんなグルメストリート時代に行きたかった。ちょい残念そんな感じで速足で歩くガイドについていきながら、右を見たり、左を見たりとキョロキョロしながら、近代的なビルの並ぶ大きな道路に出てきた。そこから3日間にわたって慣れ親しんだ大型観光バスに乗り込んで、いよいよ上海ともお別れの刻が近づいた車窓には世界有数の摩天楼。重ねて言うがこれはスモッグとかではなくって、単にお天気が悪くて、今にも雨が降るようなどんより曇り空だから新しい高層ビル群が作られていく上海でも、かろうじて前時代を思い起こすような古い町並みも残るが、それも風前の灯火なのか?初日に空港から上海の街にやってくる時に通った道を、今度は上海を離れる反対車線で中国を思わせるような真っ赤な車の向こうに先ほどは見上げていた上海中心(センター)が小さく見えた黄浦江にかかる「南浦大橋」を渡ってそこからの上海センターも、これも最後の姿となろう。また上海へ来る事なんてあるだろうか。それ以前に台湾や香港にも行きたいし。テレビでやってたマカオも楽しそういやいや、それ以前に東北地方と四国三県(愛媛は行った)と、鳥取県とで全国制覇目指さねばならぬのに道遠し旦那が修学旅行でいってる四国や日光出張でお馴染みの仙台(東北と認識)は行きたがらないのだ東北地方はレンタカーで旦那に運転をしてもらって秘湯巡りとかしたいのに防虫効果なのか、街路樹の下の方はどこも白かったバスの中。今回は後ろの方で。旅も終盤オプションも、ショッピングも終わってしまうと、ガイドさん必要最低限のことしかしゃべらず、運転手さんと歓談する程度だったし実は、上海から空港に向かう途中でももう一か所、水郷古鎮(水辺にある古い町)を観光をしてまして、写真の枚数の関係で、次回で紹介しますのでお楽しみに無事に空港について飛行機に乗り込み夕刻の機内食。日本には時刻通りに到着し、後はセントレアの回で紹介をした通り、ホテルで泊まって映画など見て帰宅しましたお土産は、南京東路で購入したお菓子と田子坊、南京東路、豫園商城でそれぞれ購入したフレーバーティーとか、見ても綺麗でほんのり甘い「八宝茶」は、値段もとってもお手頃だったし、もうちょっと買ってくればよかったかな↓ 平成31年1月28日に上海で撮影にほんブログ村
2019年03月18日
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やはり出かける時期によっては、旅先で見る事が出来るものが違っており、1月下旬の上海は、来るべく豚年に備えての春節風景があちこちで見かけられ、普段よりも、たぶん華やいだ雰囲気だった前にも書いたが、日本の十二支は今年は猪だけど、本家の中国は「豚年」である娘と出かけた上海、無錫、蘇州の旅2泊3日。最終日は賑やかな「豫園商城」でフリータイムだその日の朝はホテルを出て、しょっぱな格安旅行では、お決まりのショッピング三連発。シルクのお布団屋さん、場所を移しての、豫園商城のすぐ近くのビルにあるラテックスの枕に、中国健康茶ランチもそのビル内のレストランなのでその食事タイムまでは、豫園商城でのフリータイムは1時間弱はあったような気もするが・・・色んなお土産屋さんもあって、沢山の人でにぎわっていたお馴染みのあのお店や、このお店もありいわゆる東京の浅草みたいなものだろうそんな繁華街の真横には、明代の庭園の「豫園」があるのだが、娘が一緒なので中に入る事は断念をしたウィキペディアによれば>「豫」は愉を示し、すなわち「楽しい園」と>いう意。面積は約2万m2。もとは四川布政使>(四川省長にあたる)の役人であった潘允端が>刑部尚書だった父の潘恩のために贈った庭園で>1559年(嘉靖38年)から1577年(万暦5年)の>18年の歳月を費やし造営された。完成した時>には父は没していたといわれる>清代初頭、潘氏が衰えると荒廃するが、1760年>(乾隆25年)、上海の有力者たちにより再建>され豫園は南に隣接する上海城隍廟の廟園と>なり「西園」と改称された。当時は現在の>2倍の広さがあった。(中略)1956年、西園の>約半分を庭園として改修整備し現在の豫園と>なる。残りの部分が豫園商城となる>1961年に一般開放され、1982年は国務院に>より全国重点文物保護単位となる。龍は皇帝>以外、使ってはいけないとされる生き物で>あったが、皇帝が使用する龍は5本指に対し>龍壁の龍の指は三本指であり格下の龍とされる>装飾や様式は伝統的(中華-上海的)であり>つつ周辺は中華的な高層建築物が並んでおり>観光地として豫園商城と呼ばれている。>お土産物店や飲食店が軒を連ね、小籠包の>本家を名乗る南翔饅頭店などがあるもしも私だけなら、絶対に一目散に豫園に入場(有料)して、中で写真で撮りまくっていたけど、そんな庭園には興味がない上に蘇州で似たようなのを見たじゃないというだろう娘に気兼ねもあってそんな娘と同伴なので、行きたいという気持ちを我慢して、豫園商城をうろうろ何せかなりな繁華街だし、スマホが使えないので私だけが豫園、娘だけで豫園小城といった別行動を取ると娘がちゃんとランチの会場に戻れるのか不安もあったのだ。普段からスマホとかカーナビに頼りきった娘は、方向音痴のような気もするようなスマホも設定とかしたら海外で使えるかもしれないけど、もしも高額請求でもしたらなんて思うと電源も入れるつもりもないし(国内でのみ利用)クレジットカードも怖いんで、必要分と思われるだけ現地通貨に両替しての明朗会計ここでもスローガンが、高々と掲示をされていた。そしてここでも道行く人が真っ赤なかばんや、上着があちこちであと、ウサギのたれ耳をつけた小さな女の子たちがいたが、あれは韓国で流行したもので、日本ではティーンの子がやっているらしいでも中国のように小さな子供がつけていた方が嫌味はない。片隅で伝統的な楽器を奏でる人も既にガイドブックで行きたいなと思うようなお店もあって、そこで目当ての土産も購入できた。ここではないが↑小籠包の発祥は上海郊外にある南翔という街で、「日華軒」の店主黄明賢が清代同治年間に、古猗園の石船(水上建築)で売り出した「南翔大肉饅頭」だそうであるあちこちで美味しそうな香りが漂い湯気がたちこめてもいたが、これからランチなので、買い食いも出来ないやっぱ上海市内だけであれば、個人で動いた方が便利かもしれないそんな豫園商城で、事前にガイドブックを見て、ここには私も行きたいと思っていたのが「九曲橋」である。ウィキペディアによれば・・・>九曲橋は、太鼓橋と共に中国庭園によく>みられる人が通る橋で、上から見ると橋が>ギザギザに曲がっていて、歩く時に四方が>よく見えるようになっているもの。多くは>石かコンクリートでできていて、欄干が>きれいに装飾されている。>曲がる角度は直角のこともあるし>他の角度もあり、また稀に曲線の>場合もある特に宋代の庭園に顕著で>あるといわれる脇には南翔饅頭店もあるが、食べに入る暇もないこれらの春節の飾りが夜には明かりが入って、とても華やからしい。昨夜はこっちに来てもよかったかなともかく近代都市的な南京東路とはまた違った、楽しい上海らしい繁華街だった時間はあっという間に過ぎてしまってそろそろランチの時間なので、先ほどのビルに向かうが、この足場(?)がすごい建物を左に折れて・・・すたすたと娘が入った平凡なビル私はそのビルだと忘れてたし。迷子になるのは私の方だったか。娘と一緒に行動して良かったこの旅最後の食事は、飲茶だか点心みたいな軽めのものだった。それぞれ一人1個づつ人数分あったが、残ったのは娘に食べろと他の皆さんがすすめてくれた写真にはないが、小籠包もあった「上海炒麺(やきそば)」は、うどんよりも細く、そばよりは太い麺を炒め、中国醤油で味付けしたものである最終日の上海の午前中には構成上、ここでは後から紹介しますが、その他の観光先もあってそこから、この豫園商城までは歩いて移動をしたのですがこういった、ごく普通の路地のような所も歩きまして・・・。こんな素顔の街の姿がザ・観光地より好きですこういった門があちこちにあったりしますなんでも、どの辺だったか覚えてませんが再開発で立ち退きになっている区域とかもあるようです。どんどん古い町並みが消えピカピカの高層ビルが建てられていくんでしょうねなんでも米中貿易摩擦の余波で、段ボールが不足する懸念が広がって、段ボールの原料の古紙の調達先を、米国から日本に変えての「爆買い」で、日本での古紙流通量が減って品不足が起きたらしいそうそう紙と言えば、トイレットペーパーは中国のは品質が悪くって、トイレに流すと詰まってしまうので、ゴミ箱に捨てないといけないので注意が必要だ。上海市街はまず問題がないが、無錫や蘇州など地方に行く場合、トイレットペーパーが無いトイレも多く、携帯用のものを日本から持参をしたいお国変われば、いつもの常識が通じない事もあるので要注意。中国でキャッシュレス決済が急激に広がったのは、偽札が多いからだそうだが、その逆に日本では高度な印刷技術によって、世界一偽札が少ないそうだまもなく実施される増税に合わせて、日本でも、中小店舗においてキャッシュレス決済をするとポイント還元がされるというこれは訪日外国人観光客の利便性や、貨幣製造のコストダウン、盗難や麻薬、密売など犯罪防止。更には脱税防止につながるそうだ現金を狙った昨今のアポ電やオレオレ詐欺や盗難にもいいかもしれないけども、慣れないキャッシュレスを使った犯罪も増えそうな気もする。コンビニでアマゾンギフト券を買わせたりとか既に行われているようだしそれにしても今週の真冬並みの冷え込みには驚いた。うちのあたりも雪で真っ白になって昨日は早起きした旦那が、かえたばかりなのタイヤを冬用に戻して、会社に出かけたといった訳で上海の旅行最終日、まだ続く 平成31年1月28日に上海で撮影にほんブログ村
2019年03月15日
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視聴率は、一桁になってしまったそうだけど大河ドラマ「いだてん」、私的にはキャラが面白いし、地元の中津川出身の可児徳先生が出てるので見ている。特に人間味があるのが嘉納天狗、柔道の嘉納治五郎校長なのだけど唐突に挿入がされたエピソードに、母国で清朝が倒れ、中華民国が建国をされた辛亥革命が起きたので、清国の留学生の留学費用を、嘉納治五郎校長が私費で肩代わりをする事となり、莫大な借金を追ったというのがあった嘉納治五郎は教育者として東京高等師範学校(筑波大学)の校長を長年にわたり務め、旧制第五高等中学校(熊本大学)校長、旧制灘中学校(灘中・高等学校)や日本女子大学の設立にもかかわっているそうだが、更にはウィキペディアによれば>1882年には英語学校「弘文館」を>南神保町に創立し、また1896年には>清国からの中国人留学生の受け入れ>にも努め、留学生のために1899年に>牛込に弘文学院(校長・松本亀次郎)を>開いた>後に文学革命の旗手となる魯迅も>ここで学び、治五郎に師事した。魯迅の>留学については2007年(平成19年)>中華人民共和国国務院総理・温家宝が>来日した際、温の国会演説でもとり挙げ>られた1月下旬に娘と出かけた上海、無錫、蘇州の2泊3日旅行の日記の中でも、周恩来や孫文が若い頃に、日本に留学をしたと書いたけれど100年前には、中国人が日本へ留学をする大ブームが起きていた。ピーク時には年間で1万人弱とも言われる欧米諸国がこぞってアジアへ進出した19世紀日本は太平の世であった江戸幕府が揺さぶりを受け、開国に傾くのを良しとしない攘夷派らが尊王思想と結び付け討幕派となり、なぜか欧米の兵器などを手に取って幕府を倒し、明治政府をうちたてた幕末より、若い優秀な人材を欧米へ留学させて更に欧米の技術者を数多く招聘し、近代国家へと確実に足を進めていた中で、かつて世界の中心とまで豪語していた中国大陸は、清王朝が健在古い伝統や権威が災いしてか、近代化への道は遠く、不穏な空気が渦巻いていた前にも紹介をした浅田次郎原作の「蒼穹の昴」においても改革派の皇帝派と、保守派の西太后派の壮絶な政権争いを描いており、敗れた改革派の指導者らは、命からがら日本へ亡命をしていた国力の衰退につけ込まれ、先進諸国の軍事力による植民地化の動きに翻弄され、混迷が続き内乱時状態にもなっていた中で、一刻も早い先進化を目指し、欧米への留学を希望するが費用が高いのがネックとなり、近くて費用も安く済み、文化習慣も近い日本への留学が人気となっていった日清戦争後に本格化をした日本への留学生は年々増えていき、1905年に科挙の制度廃止がされた事と日本の評判の高まりから、急激に増えて年間1万人弱にもなり、様々な分野で学んでいたが、困窮や様々な事情から帰国をした者も少なくなかったそうである京城(ソウル)駐在の初代総監に伊藤博文が就任すると反日的な空気が本国や留学生の間に広がり始め、辛亥革命で中華民国が生まれると留学生たちの多くが帰国し、留学生の数は次第に減っていった1931(昭和6)年の満州事変、翌年の上海事変で一斉に帰国した学生が、翌年秋には再び戻り始め満洲事変後の日本研究熱の高まりや、為替相場の好転、新満洲国での就職の期待といった事の他に抗日救国の為に、まずは日本を見極めようという様々な意味合いも私ごとになるが私は親が40歳の時に生まれた末っ子で私が生まれた時に兄姉は高校生だったが大正末に生まれた父親もやはり末っ子で兄姉は明治生まれだったそうだ。そんな明治期に生まれた伯父(次男)は、私が生まれる前に、結核で亡くなったけどこの伯父はかなり優秀だったそうで、戦前に鉄道省に勤めていたが、東京の鉄道局教習所に通っていたそうで、運動会や、白馬登山、満鉄での満州への修学旅行の写真が残されているがその中には、箱根で行われた日華学生親和会の写真もあった。たぶん昭和に入ったばかりかな早稲田大学は清国留学生部を設けて、約300坪2階建て、44室の寄宿舎を設けるなど本格的に受け入れをしており、その当時に多かった短期速成の教育を排し、予科、本科3年制を目標とし多くの要人を育成した。その為に中国において早大の知名度は高く、今も中国からの留学生が多いようである孫文、魯迅、周恩来、郭沫若、陳寅恪、王国維李叔同、郁達夫、秋瑾、陳独秀、張聞天、夏衍田漢、周作人、蒋介石・・・あまたの人物がこのように、日本で学び近代中国を作り上げたのだが帰国後に武装蜂起で戦死をしたり、暗殺や処刑で志半ばで亡くなった者も多い「蒼穹の昴」に登場する主人公の梁文秀のモデルである梁啓超は、吉田松陰と高杉晋作を敬愛して日本では「吉田晋」、前にも紹介をしたが孫文も「中山樵(きこり)」と名乗っていたとか。そしてそれまでには中国になかったり、今までとは全く違った、日本的な意味合いを持つ「和製漢語」が広がって、今の中国にも広く根付いているというウィキペディアによれば・・・>和製漢語は特に近代以降、中国に逆輸出された>ものも少なくない中国が近代化を遂げる過程で>特に日清・日露戦争前後に、中国人留学生に>よって日本語の書物が多く翻訳されたことが>大きいともされる>中国語になった和製漢語の例として、「意識」>「右翼」、「運動」、「階級」、「共産主義」、>「共和」、「左翼」、「失恋」、「進化」、「接吻」、>「唯物論」など種々の語がある。中国でも自ら>西洋語の翻訳を試み、華製新漢語(中国語版)なる>ものを作り出していた。しばしば和製漢語と競合>するようになることもあった>「中華人民共和国」の「人民」「共和国」も和製>漢語であり、国名だけでなく中国の体制に必要>不可欠な概念までも和製漢語には含まれている。>また、同じく漢字文化圏である台湾、大韓民国、>ベトナムでもこうした和製漢語を自国語漢字音で>取り入れている。>文化、文明、民族、思想、法律、経済、資本、>階級、警察、分配、宗教、哲学、理性、感性、>意識、主観、客観、科学、物理、化学、分子、>原子、質量、固体、時間、空間、理論、文学、>電話、美術、喜劇、悲劇、社会主義、共産主義>など。このように、東北アジア各国で使われる>漢字でできた近代的な概念語の大半が日本製と>なっていると高島俊男(中国文学者)は主張>している>これら和製漢語の語彙は明治維新以後、中国人>留学生らによって、中国に逆輸出された。「社会>主義」「共産党」「幹部」などの常用語を筆頭に>800語を超えるという。(中略)現在の中国語に>多くの和製漢語が使われるようになり、その>端緒を開いたのは梁啓超であったと言われる>魯迅は自著で「万年筆」など和製漢語を多用の>ほか、日本語の「紹介」「写真」を多く使用>していた1月下旬に出かけた上海、2日目と3日目の朝の街の風景だが、泊まったホテルのある虹口には戦前に共同租界の一角に作られた日本人街があり一時は10万人もの日本人が住んでいたようである日本から帰国し、蒋介石軍閥から追われていた魯迅を匿ったのが、虹口で書店を営んでいた内山完造で、彼は晩年の魯迅の第一の友人で理解者だった。1936年に魯迅が持病の喘息で急逝した際の絶筆は、内山への日本語のメモで日本人主治医への連絡を依頼するものだった日本帝国の軍閥による戦時中の行為が歴史認識のずれを起こし、昨今は島の領有権に揺れる日中の関係であるが、近代中国を作る過程において、日本や日本人が少なからず中国の若者や政治活動家を教え導き、支援していたのも紛れもない事実である。孫文を支えた宮崎滔天しかり中国の商業、金融、工業、交通などの中心地として香港や北京と並ぶ上海は、世界的にも著しく発展をしており、雨後の筍のように高層ビルがどんどん建てられているが、その用地として、かなり古い建物が町並みごと姿を消しているこれもまた仕方もない事であるが、できたら古い町並みが、今より多く残っていた時期に上海で、そんな町並みをぶらぶらと歩いてみたかった。日本は小さな土地も個人の所有だったりするけど、中国は国の土地なので区域を再開発をするのは安易かもしれないそんな不夜城のごとき上海シティに、蘇州から戻っての旅行2日目の夕食です。その日の夜も多くのツアー客がナイトクルーズ(オプション)を控えているので早めの食事であったけど、家でゴロゴロしながら、おやつを食べているというのと違って間食がないので、お腹も空いていたこうやって円卓を囲んでの食事もこれが最後だ明朝はホテルのブッフェをそれぞれ食べて、午後早くには空港に到着だ。今夜のメイン料理はアレですよ、アレ。チュウゴクモクズガニ・・・漢字で書くと中国藻屑蟹ですわいわゆる、日本でいうところの「上海蟹」ですが長江流域を中心にして遼寧省から広東省まで広い地域の川に分布し、最も有名な産地は、蘇州市にある陽澄湖(ようちょうこ)で、他にも洪沢湖や高宝湖、白馬湖、射陽河などでも養殖が盛んだそうです地元では「大閘蟹(ダージャーシエ)」というそうで、海の蟹と比べると小さくて、足の肉も少ないのだが、蟹味噌の味は格別で、栄養価も高いといわれている。前もってネットで殻の外し方とか見たけど、今いち解体作業がうまくいかず、ちょっと食べただけで終了。もともと蟹みそが苦手なので うちはホテルに戻ってから、また個人的にお出かけ予定があるので、飲まなかったがお隣のご夫婦が頼んだビールを、写真だけ撮らせて貰った。今夜はサントリービールラベルには富士山だ食事が終わると、オプショナルのツアー客とガイドさんを、乗船場近くの繁華街で降ろしバスは残りのツアー客を乗せてホテルへとむかった。車窓から眺める夜の上海の街角も見所がいっぱいふと思ったが、江戸末期に寺子屋をしていた先祖がいて、父も姉も叔父も従弟も姪も教員だらけの家系だけど、今回紹介をした伯父は内勤とはいえ鉄道省に勤務したし、兄は一般企業に勤めているが船乗りに憧れ、鳥羽商船高等専門学校に通学していたし、甥も超大手旅行会社に勤めてる伯父の満州の写真を見ていて、うちってやっぱ旅行好き?なんて思ったりもする。山に囲まれ都市部にも遠い田舎暮らしでは、はるか遠くの綺麗な景色や、美味しいものに憧れを抱くのも当然と言えば当然のようなホテルに戻ると、ちょっぴり休憩をしてから再び地下鉄を利用して、今夜も娘とやってきたのは上海一の繁華街の「南京東路」です。今夜もまた賑わってますよ~~昨夜は外灘もいったり観光面が大きかったけど今夜は地元の人みたいに、商業施設をぶらぶらしたり、お土産もここで買っておきたいし日本資本の「上海新世界大丸百貨」のデパ地下でお土産のお菓子を購入。あと上海のあちこちにもあった土産店の「上海市第一食品商店」でも買い足しました。幾つか大きなお店の中をウィンドウショッピングして疲れたので地元の人で賑わっていたデザート店で、おやつなんぞを食べようと・・・後で調べたらここって「満記甜品(ムン・ゲイ・ティンパン)」という香港スイーツの有名なチェーン店らしいですマンゴーやココナッツ、ナタデココ、タピオカとかの具材がいろいろ使われており、お味の方もとても美味しかったですし、ボリュームの割に価格もお手頃でしたよ実は2泊3日で食事&観光も付いた旅行で、お高い行程内のお土産屋さんも、オプション旅行も利用をする気がなかった旅のお小遣いを幾らにするか迷いそれでも14000円を外貨にしましたが、結局は半分も使いませんでした。 旅は、最終日にと続く 平成31年1月27日、28日に上海で撮影にほんブログ村
2019年03月11日
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今、BS12トゥエルビで夕方に放映している「麗王別姫~花散る永遠の愛」を見ているが玄宗皇帝と楊貴妃の唐の時代蘇州にも近い呉興太守の娘の沈珍珠が、幼い頃に太湖で溺れ、助けてくれた少年(広平王・李俶)を思いを寄せつつも皆殺しにされた家族の仇を探すという歴史ドラマで、安禄山や楊国忠なども暗躍して・・・韓国夫人や皇太子妃など女のドロドロも見どころだ。その作中で沈珍珠の詩の師匠が、李白だったりするのだが、彼が蘇州に来訪した際の詩は「蘇台覧古」李白旧苑荒台 楊柳新たなり菱歌清唱 春に勝へず只今惟 西江の月のみ有って曾て照らす 呉王宮裏の人呉王の宮殿のあった姑蘇台は古びた庭園となり、荒れ果ててしまったが楊柳だけが新しい芽をふいている。ひしの実を採る乙女の歌声を聴けばやるせない気持にもなる今となれば月は西江の水面を照らしているだけであるが、かつては呉王の美女(西施)の姿を照らしていただろうにそんな李白は、遣唐使として渡海しながら日本に戻ることがなかった阿倍仲麻呂と仲が良かったそうだ仲麻呂は官吏登用試験である科挙に応じ最難関の進士に及第したとされ、中国名は晁卿(晁卿衡)という。年老いて仲麻呂は日本への帰国を許されるが、船が難破をし安南に流されて、翌年に長安に戻るのだが李白は、仲麻呂が亡くなったと誤報を受けそれを嘆いた「晁卿衡を哭す」 李白日本の晁卿帝都を辭し征帆一片蓬壺を繞る明月歸らず碧海に沈み白雲愁色蒼梧に滿つ日本の晁卿は長安を去って、船の帆をはためかせ日本へと向かった。しかし名月のように聡明な晁卿は、碧い海に沈んで、白雲が憂いを帯び蒼梧の海を覆ってしまった日本へ帰る事が叶わなかった仲麻呂を阿部寛が演じたのが、夢枕獏原作の映画「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎」で物語は時系列が二つあって、仲麻呂や楊貴妃の部分と、後世の空海と白楽天の謎解きの部分だ李白701年~762年10月22日阿倍仲麻呂698年~770年(唐は717年~)楊貴妃 719年6月22日~756年7月15日杜甫 712年~770年(後で出てきます)白楽天(白居易)772年~846年空海774年~835年(唐は804年から2年)白居易が、蘇州の長官をしていた時に蘇州城と虎丘をつなぐ山塘河を作ったと前回の日記にも紹介をしたけど、彼は詩人でもあり白楽天として有名であり映画では、空海とコンビを組んでいたイケメンだ「小舫」 白楽天(蘇州にて)小さき舫一艘 新たに造り了り軽く梁柱を装いて 庳く篷を安んず深き坊 静かなる岸 遊應に遍く 浅き水 低き橋 去りて尽く通ず黄なる柳の影は 棹に随う 月を籠め白き蘋の香りは 頭を打つ 風を起こす慢く牽き櫻桃の傍らに 泊まらんと欲するが借問す誰が家ぞ 花最も紅なる小さな舟を一艘新しく造った。柱をたてた。屋根を低く葺いたものだが街の奥や静かな岸にだって何処へでも行く事が出来る。浅い水の上も低い橋の下にも何処だって通れる黄色く芽吹いた柳の影、棹にからまるようにして月が映って、白い浮草の香りが頬を打ち、風の中でただよう。ゆっくりと舟を牽いで、桜桃の花の下に行きたいのだが、どの家の花が最も紅く美しいのか教えてほしいものだこのように風流人にも愛された蘇州にはお金持ちが贅をつくした邸宅を建ててそれらは「蘇州古典園林」と呼ばれて世界遺産にも登録をされている。いつものようにウィキペディアによると>蘇州古典園林の庭園の多くは明や清の>時代に建設された。これらの多くは>地元の名士により作られたもので、>公共事業としてではなく、個人の趣味で>置かれたもので、皇帝所有の庭園で>ある皇家園林に対して私家園林という>庭園は豊かな水を利用し、池を配置した>素朴な美しさを特徴とする。蘇州以外の>江南の地にある名園(例えば上海の豫園)を>含めた江南私家園林が総称として中国>国内では一般的である。蘇州古典園林の>うち、拙政園と留園は中国四大名園の>二つに数えられる今回、出かけたのは「藕園(グエン)」で清代の光緒年間(1875年~1909年)に江蘇・安徽・江西省の総督であり蔵書家だった沈秉成という高級役人が退官後に夫人とともに蘇州に隠居をする事となりこの庭園を買い取ったものである藕園園東部の旧跡は、清の雍正年間の保寧府知事の陸錦が造営した「渉園」で、光緒初年湖州の沈秉成が、渉園の旧跡を買い取って画家の顧芸らを招聘し、設計をさせたもので山を主とし、池を従とし、亭、台、楼が池の周りに建てられている配置が独特な庭園で、邸宅が中央にあり東西に分けられて、各家屋の間は楼で繋がっている。西花園は書斎の「織簾老屋」を中心にして前後二つの庭があり前庭には太湖石の築山があり、後庭には太湖石の花壇があるなお、藕園の藕(ぐぅ)はレンコンのことで、その発音が配偶者の偶と同じことから、夫婦がここで仲良く余生を送るという意味を込めているだそうだ李白、白楽天と紹介したけど、ここはやっぱり杜甫も紹介せねば。幼少の頃から詩文の才能があり、李白と並ぶ中国文学史上最高の詩人で、李白の「詩仙」に対して「詩聖」と呼ばれる李白と杜甫は互いに認め合う仲であったそうだ。杜甫の「国破れて山河在り」は、多くの人が知っていると思う。かの松尾芭蕉も杜甫から思想的、文学的な影響を強く受けて「春望」を引用をしたのだ「春望」 杜甫国破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 烽火三月に連なり家書万金に抵る 白頭掻けば更に短く 渾べて簪に勝へざらんと欲す「奥の細道」より 松尾芭蕉さても義臣すぐってこの城にこもり功名一時のくさむらとなる「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて時の移るまで涙を落としはべりぬ夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡杜甫の春望は、楊貴妃も命を落とした安禄山の反乱(安史の乱)で唐の都の長安が陥落をした時のもので、芭蕉の方は義経や藤原三代らが功名・栄華を夢見た平泉での事だ。今回紹介をした李白、白楽天、杜甫の漢詩は高校の頃全部習ったような気もまもなく平成の世が終わろうとしているが、天皇ごとの「元号」も中国が始まりで、古くより漢籍から元号が選ばれている。例えば「史記」第一巻の五帝本紀にある「内平外成」や「書経」大禹謨の「地平天成」から平成となったその前の昭和の出典は、同じく「書経」尭典の「百姓昭明、協和萬邦」からでこの「書経」から今までに多くの元号が作られたそうだが、今春に新しい天皇を迎えるにあたって現首相はそういった、日本古来からの慣例ではなく、漢文で書かれた日本の古典から、次の元号を採用して欲しいと言っているらしいが、これって果たして保守なのか革新なのだろうかウィキペディアによれば、元号とは>「日本書紀」によれば大化の改新(645年)の>時に「大化」が用いられたのが最初であると>される。以後、7世紀中後期には断続的に>元号が用いられたことが『日本書紀』には>書かれている>しかし、当時使われた木簡の分析によると>元号の使用は確認されていない。まだ7世紀>後半は、元号よりも干支の使用が主流だった>ようである。文武天皇5年(701年)に「大宝」と>建元し、以降、継続的に元号が用いられる>こととなった>広く庶民にも年号が伝わるようになった>のは、江戸時代になってからのことである>1950年(昭和25年)2月下旬になると、>参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。>ここで東京大学教授の坂本太郎は、元号の>使用は「独立国の象徴」であり、>「西暦の何世紀というような機械的な時代の>区画などよりは、遙かに意義の深いものを>持って」いる上、更に「大化の改新である>とか建武中興であるとか明治維新」という>名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に>結合し」ていることは今後も同様であるため>便利な元号を「廃止する必要は全然認められ>ない」一方で「存続しなければならん意義>が沢山に存在する」と熱弁をふるったちなみに1400年前の、一番最初の元号の大化であるが、その出典は「書経」(尚)大誥「肆予大化誘我友邦君」「漢書」巻56「古者修教訓之官務以徳善化民、 已大化之後天下常亡一人之獄矣」「宋書」巻20「神武鷹揚、大化咸煕」その次の白雉は、「漢書」巻12 平帝紀の「元始元年正月越裳氏、重訳献白雉」だとかちなみに中国では、ウィキペディアによれば>前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に>統治の初年に遡って「建元」という元号が>創始されて以降、清まで用いられた。武帝>以前は王や皇帝の即位の年数によって、>単に元年・2年とだけ数えられ、新しい>王が即位すると改元されて再び元年から>数えられる在位紀年法が用いられていた。>治世途中での改元は文帝によるものが>最初で、改元後は後元年・後2年とされた>明の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに>改元する一世一元の制を制定した。これに>より実質的に在位紀年法に戻ったといえるが>紀年数に元号(漢字名)が付されることが>異なっている。また元号が皇帝の死後の>通称となった。そして蘇州・・いや呉の国で思い出されるのが、着物(和服)の事を「呉服」と言うこれは絹(シルク)などが、呉から日本に輸出をされ、平安時代あたりまで呉の布を使って着物を作っていたからだ。↑最初の「麗王別姫」の唐の衣装など、日本の着物に通じるものが多々あるそれ以前にネット検索なでをすると、倭には稲作文化を携えた呉の国の人たちが、戦争に負けたりで海を渡って、数多く移り住んだという説もあるそうで、 中国の史書に「倭人は太伯の後裔(こうえい)である」との記事があるんだとか太伯は周の古公亶父の子で、呉(句呉)の祖とされる人物である。吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉や越の限られた時代に行われた土墓の影響を受けた可能性があり、養蚕が盛んに行われていたようで、この時代の人々が呉から日本列島に渡来したという説もある現在の中国の国家体制は、100年にも満たず私が見てきたものは、かつて中国大陸にあった大昔の王朝や国であって、民族も違っていたりするのだから、今がこうだから昔もというのは論点が違うと思う 旅は続く。 平成31年1月27日に蘇州で撮影にほんブログ村
2019年03月06日
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昨春は韓国の釜山や慶州でのお花見旅行を計画し、桜の開花具合が気になっていたが今年もそろそろお花見旅行の予約をせねば京都のホテルも、3月末から4月の週末はもう満室だし、出来たら行った事がない所のお花見もしてみたいなんて事で、ネットであれこれと検索をして国内旅行のお花見パックツアーで良いものを見つけ予約をしました(2日後には満席!)今年もまた、桜の咲き加減はどうだろうと開花情報にやきもきしそうですが、どうやら昨年同様に今年の開花も早くなりそうですそれまでには、1月下旬に娘と出かけた2泊3日中国旅行の日記を終えなければならないが。という訳で今回は2日目の午後に「蘇州(そしゅう)」での、虎丘観光といいつつ、その近所のいかにも蘇州らしい町並みの散歩からいかがでしょう。東洋のヴェニスとも例えられる蘇州の風景は。いかにもそれらしいです。本当なら水面を行きかう小さな船に乗船をするとより楽しいのですが、時間も少ない格安旅行は、橋の上から眺める位で「蘇州」についてウィキペディアでは>古くから長江の南に位置する、江南の>主要都市として栄えてきた。春秋時代に>呉の都が置かれ、呉文化圏の中心で>あった。伝説によれば、諸樊がこの地を>本拠と定め、諸樊の子孫の闔閭が呉の>都として整備したと言われている。>臥薪嘗胆、呉越同舟の舞台である。秦>以後には会稽郡、後には同郡から分離>した呉郡の役所が置かれた(同時に呉県の>役所も設置された)。隋代に蘇州の名が>始まったが、南朝最後の陳末の民衆反乱>(589年)で町が破壊されて郡の役所>なども他の町に移されており、>本格的な再建は役所を蘇州に戻した>唐の太宗時代以後のことになる。五代>十国時代には呉越国の都となり、北宋の>神宗時代に府(首都に准じる都市)への>昇格に伴って平江府、元には平江路と>呼ばれるようになった。>この間、金の南宋遠征軍が平江府を攻撃>して再度町は大規模な打撃を蒙った>(1130年)が、南宋政府によって再建>されている。元末の張士誠も呉王を称して>蘇州に都した。明になると、蘇州府が>置かれて以後は現在の蘇州という名称が>固定化された。>古くから中国の先進的な絹織物産地として>経済的富裕な町であったが、南宋時代に>付近で木綿栽培が広まると綿織物の分野>でも屈指の生産を図るようになる。だが、>アヘン戦争後の上海開港にともなって>その経済的地位をいくらか低下させた。>江蘇省の省都は現在南京に置かれているが、>歴史的に清代には江蘇布政使が蘇州に>駐在し、太平天国は蘇州を蘇福省の首府>とした。南京に都した中国国民党時代>には蘇州に江蘇都督行署を置き、日本軍>占領期にも江蘇省会であった。>古来、北京と杭州を結ぶ京杭大運河が通る>など、水運もよく利用されている。北部の>太倉、常熟、張家港の長江沿いの地域には、>水運を生かせる大規模工場が作られている。>運河による水運が生活に溶け込んでいる>ことから、旧市街地及び周辺の水郷地帯を>含めて、「東洋のヴェニス」と呼ばれるが、>ヴェネツィアよりも歴史は古い。>環状の堀で囲まれた旧市街は新しいビル>などは少なく、昔からの住宅が立ち並び、>世界遺産の園林などが点在している。これに>対し新市街は近代的なビルや高層住宅>などが立ち並んでいる。郊外は工場地帯が>点在している白居易(白楽天)が蘇州長官時代に蘇州城と虎丘をつなぐ為に作ったという山塘河という小さな運河の沿道は、墓参りに行く人達で賑わっていたそうだ。前に紹介をした太湖石もあったここからはまだまだ先の、中心部に近い山塘河の方は観光化された商店街として賑わっているようだが、このあたりは普通に住宅街みたいで、生活感たっぷりお高くて時間がある旅行であれば、きっと観光された繁華街の山塘河に行くんだとは思うけど、格安旅行は虎丘のついでという事で、こんな日常的な素顔な町並みの方がかえって好みでもあるが観光地じゃないから日当たりの良い所に洗濯物だって干せちゃうし。と言いたいところだが、上海のど真ん中の超繁華街だって、堂々と洗濯物を干していたしこうゆう風景はイタリアなんかも観られるようだけど、欧米諸国は基本的に外には干さないみたいだ。うちの旦那も外干しと窓開けが好きだけど、花粉とか飛ぶ時期に、それってどうなんだろうと私は思うネットで検索すると濡れている洗濯物は、余計花粉が付きやすく、花粉が多く飛ぶような昼前には、半乾きになっているのが好ましいそうで早めに干し始めた方がいいみたいだ。そして取り込むときにはしっかり振って、取り払うさてさて中国のわんこは、都市部だろうが結構、放し飼いもいるようで、小型犬で人に危害を加えそうもないからなんだろうか昨今は世界的に秋田犬が大人気だそうで中国でも見るからに違う、ニセ秋田犬も売られているそうだけど、私が見た限り小さな洋犬ばかりだった「江南地方」にはこういった水郷に、古い家がたち並ぶ、水郷古鎮があちこちに残されており雨後の筍のように高層ビルが並ぶ近未来な風景とは、全く違った風景を見せてくれているのだ江南とは、ウィキペディアによれば>中華人民共和国(中国)の地名。もともと>「江」なる語および漢字は普通名詞ではなく、>中国の長江を指す固有名詞で、「江南」は>その南岸地域全体を表わす。特に蘇州、無錫、>嘉興など、下流域の南岸地域を指す。>都市国家の興隆した青銅器時代には呉や越、>楚などが興り、殷・周以来、文明の中心地を>自認した華北の黄河やその支流の渭水や汾水、>洛水流域の諸国と対峙した。(中略)秦による>中華世界統一以降は華北に都した諸王朝の>支配下に入ったが、>華北がモンゴル高原から南下した遊牧民の>王朝の支配下になると南下した華北人による>亡命政権がたびたび樹立された。東晋や南朝>諸王朝、南宋などがそれにあたる。江南の>稲作地帯は南朝以降穀倉地帯として台頭し、>やがて華北の農業生産を凌駕するように>なった>長江デルタ地域に上海、蘇州、杭州、南京と>いった大都市が並び立ち、特に改革開放以降の>中国においては、経済的一大中心地となって>いる。このように北京など中国北部とは、あい入れない独立的な地域であった江南を、京杭大運河が結ぶ存在となった。ウィキペディアによると>西晋の滅亡以後、中国は300年近い年月に>わたって南北に分裂していた。南北がなかなか>統一されない原因として、淮水・長江の間に>網の目状に走る小河川が進軍の足を鈍らせる>ことにあり、曹操が敗北した赤壁の戦い・>苻堅が敗北した淝水の戦いなども、北の騎馬>軍団が南の水軍に敗れたという側面がある。>北周から禅譲を受けて隋を建国した楊堅(文帝)>は、この問題を解決するために587年に淮水と>長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開鑿し、589年に>陳を滅ぼして、南北を統一した。604年に二代>皇帝煬帝が即位し、翌年より再び大運河の工事が>始まる。>完成は610年のことで、その総延長は2500キロ>メートルを越える。通済渠の工事には100万人の>民衆が動員され、女性までも徴発されて5か月で>完成した。これによって、後の人から暴政と非難>され、更にこの運河を煬帝自身が竜船(皇帝が>乗る船)に乗って遊覧し、>煬帝が好んだ江南へと行幸するのに使ったこと>から、「自らの好みのために民衆を徴発した」>などとも言われるようになる。(中略)大運河が>開通したことによって、経済面で優越していた>南が政治・文化の中心地である北と連結され、>中国全体の流通が増大した>この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用>され、現在も中国の大動脈として利用されている。>2014年の第38回世界遺産委員会でシルクロード>などとともに世界遺産リストに登録された。つい最近も、田辺誠一が京杭大運河を旅する番組をしていたので旅行後に見たところだ。↑旅行行程には京杭大運河の散策とあって、ガイドから説明も全くなく、さすがに大運河は広い!とか思っていたが、↑の現地にあったマップを見ると、大運河本体ではなく、そこにつながる蘇州の城を取りまくお堀だったみたいだ。太湖ではなくて内湖の蠡湖に続いて、なんかパーフェクトではなくなんちゃって部分が残されているのは、中国風というものだろうか? 他の業務に忙殺されたガイドにほったらかされたんで、他の皆さんは京杭大運河というものが、どのようなものであるかもわからぬままであったのだろう。もし説明をされても。へ~~と生返事で終わったのかも物資を運ぶのは目的の大運河なので、それぞれの街に運河は引き込まれて、このような小さな川もつながってはいるのだと思う。世界遺産となった大運河は1011キロで2直轄市、6省、25の地級市を流れているものだが、その構成資産として河道27カ所を含み、関連の遺産も58カ所と膨大なものなんだとか時代に取り残されたような、このような古い町一部の保護地区や観光地をのぞいて、いつかはなくなってしまうのだろうか。それ以前に実際に見る事が出来たのは嬉しかった先程のお濠に囲まれた城壁にたつのは、地図から考えると、たぶん再建された相門が小さく見えた唯一現存する蘇州の城門は、1351年に再建をされた盤門だけで「北で万里の雄大さを見、南で盤門の麗しさを見る」と言われもしたこちらは「婁門」。これらの門が最初に作られたのは春秋時代の呉の時代で、紀元前514年に蘇州の城や城壁を設計&建設したのは伍子胥といい、もとは楚の人であったが権力争いに敗れ呉に亡命し闔閭王の側近となり、孫武(孫子)を世に出した人物であるそうだ柏挙の戦いで呉国は隣国の楚を攻め込み、兵法の天才の孫子と、楚の地理と内情を知る伍子胥により連戦連勝し楚の都郢を陥落させたが、平王は既に死んでいたので、伍子胥は王墓を暴いて、平王の死体を300回に及び鞭を打って恨みを晴らした後には「死者に鞭打つ(死屍に鞭むちうつ)」の故事となったその行為を友の申包胥に責められて、伍子胥は「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えたそうで、自分は年老いて時間もないというのにすべき事が多い。目的を果たすには程遠いとの故事となった時代は下り、無錫の蠡湖で触れた越の范蠡が呉王夫差(闔閭の息子)に西施をおくりこみ骨抜きにした頃、伍子胥からの諫言をよくは思わない王から、不興を買った伍子胥は剣を渡され自害するように命じられた。越が呉を滅ぼすのを見られるよう自分の目をくり抜き東南(越の方向)の城門の上に置けと、言い残して亡くなった本当に目だまが置かれたかはわからないが程なく呉は越に滅ぼされ、夫差は顔に布を覆って「私は伍子胥に合わせる顔がない」と言い残して自決をしたそうだ。一説には命日の5月5日の端午節は、伍子胥を記念をする日になったとも言われる(戦国時代の楚の屈原の命日の説も)どちらにしても端午の節句は、江南地方で活躍をした人物を偲ぶ日であったようだそれが今は海を隔てた日本で、子供の日となっての祝日だ蘇州の旅、まだまだ続きます 平成31年1月27日に蘇州で撮影にほんブログ村
2019年03月02日
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1月下旬に娘と出かけた上海、無錫、蘇州の旅。二日目の午前中には、無錫では、太湖や真珠のショッピングの他「南禅寺」にも出かけました繁華街にある南禅寺の門前には、前回紹介をした沢山の電動自転車が停めてあった。日本でも神社仏閣、城郭とか大好きなので南禅寺と言うと、京都東山のお寺が思い浮かびますけど日本全国に清水寺があるように、良さそうな名のお寺は中国にもある訳で、無論、無関係な訳でして中国の南北朝時代に江南に存在をした梁の初代皇帝であった武帝(蕭衍)は大変に仏教への信仰心があり、自らを「三宝の奴」と称して、都の建康には700もの仏教寺院があったという交流のあった朝鮮の百済は、梁に使者を送って、仏像や経典を求め、更に日本に百済を通じて、仏教が伝来をしたという538(一説には552年)年も、梁の時代であったのだ聖徳太子が憲法十七条において「篤く三宝を敬え」と語り、聖武天皇も自らを「三宝の奴」と称したのは、いずれも梁の武帝の影響であるという武帝の時代であった520年には、インドから広州に渡っていた達磨を健康に迎えて、問答をしたという。達磨はのちに少林寺に入り坐禅の修行を重ねて、中国の禅宗の開祖となったさてさて健康と言う梁の都であるが、三国の呉時代に建業と言っていたのを、司馬氏が建康と改名して東晋の都とした。その後も宋、斉、梁陳と続いた南朝の都として六朝文化がこの地で花開いたのだ陳が隋によって滅ぼされた時に、都城は破壊をされて名も江寧と改められ、隋は都を長安の近郊にある大興城に遷した為、建康(江寧)は地方の一都市となってしまったのだが、その後明の首都として復興し、「南京」と呼ばれたそうそう武帝とは、中国の皇帝の諡号の一つで武力で国土を広げた皇帝や、戦乱を平定した皇帝に送られる諡号なんだとか。有名なのは前漢の武帝で次いで西晋の武帝、三国時代の魏の武帝(曹操)、そして梁の武帝なんだとか。他にも幾人もいる唐の詩人の杜牧の「江南春絶句」によれば千里鶯啼緑映紅 (千里鶯啼いて 緑紅に映ず)水村山郭酒旗風 (水村山郭 酒旗の風)南朝四百八十寺 (南朝 四百八十寺)多少楼台煙雨中 (多少の楼台 煙雨の中)とあって、南京には南朝のたくさんのお寺が建ち並んでいたそうだ。そんな武帝の時代にここ無錫に、南禅寺が創建されたそうだ元は护国寺(護国寺)と呼ばれていたのを唐の高宗が灵山寺という名前に改名。更に北宋の仁宗皇帝が福圣禅院と改名をしたがこのお寺が無錫の南にあったので、人々が南禅寺と呼び始めたのが定着し、南禅寺となったそうだ妙光塔の高さは43メートルあり、北宋の雍熙の時代に建築が始まったそうであるこの塔は有料で登れるそうだが、格安ツアーなので時間キツキツで登る時間などなかった有料施設などますます近寄らない。考えるにオプショナルでお金を払わなかった、本来の観光スポットで有料施設だったのは、たった一つだったと思われるこのお寺も境内の参拝自体は、無料だったし無料の博物館に、街歩き、湖畔の散歩などなどその点を娘に指摘すると「うちでのいつもの旅行と同じだね」。ハイ、うちも観光先は街歩きや無料施設ばかりでしたそして本来であれば旅行のメインスポットであるような上海雑技団や、上海の夜景クルーズなどはお高めのオプション料金を払って下さいというのが格安旅行の特徴だ。まだ昼食が込みだけいいよ。国内の格安旅行の場合には、昼時に繁華街で長めのフリータイムを取って、その時間内で自由に(自腹で)お昼を食べて下さいっていうのが増えているから。塔の下に金ぴかキラキラの木があった。無論、ニセモノ智慧を司る文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は日本でも人気の仏様である。中国の山西省にある五台山が文殊菩薩の座する清涼山として、古くより広く信仰を集めており、第3代天台座主の円仁によって日本に伝えらた円仁は慈覚大師ともいい、入唐八家(最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡)の一人だ2度の渡航を試みたが失敗し、承和5(838)年博多津を出港、揚州東梁豊村に上陸は出来たのだが船のコントロールが利かずに渚に乗り上げて船は全壊をする有様だった一緒に出航をした四つの船のうちの1艘は遭難をしてしまった。遣唐使の一行に加わって唐に渡り帰国するまでの約10年を「入唐求法巡礼行記」として書き残している日記の中には唐の交通地理、経済、官庁の機構や行事、寺院の生活、仏教儀礼、仏教界の事などを細かく記し、マルコ・ポーロの「東方見聞録」や玄奘の「大唐西域記」と並び東アジア三大旅行記の一つとして高く評価されているそうだこのようなお寺の境内にも、前に紹介をした富強、民主、文明、和諧、自由、平等、公正、法治、愛国、敬業、誠信、友善といった中国共産党が提唱をしている、社会主義核心価値観が掲示されていた南禅寺も長い年月を重ねる中で、荒廃をしてしまっていたのが、1980年に多くの建物が全面的に修築をされ、今のような賑わいを取り戻している娘や他のツアーの皆さんは、お寺の本堂前で「〇〇時に入り口で集合」とのガイドさんの言葉を聞いて一目散に、ここに出かけていたが私はお寺を参拝、写真などをのんびり撮らせてもらっていたがかって無錫も城壁都市だったので、旧市街は今でも城内と言われる事もあるそうだ。今は城壁は壊されたが、南禅寺の門前には復元をされた「望湖門」があった。城壁は倭寇対策でもあったようださてここからは、2日目の午後の観光スポットバスに移動してやってきたのは、同じく太湖の畔の「蘇州」である。李香蘭の蘇州夜曲よりも私的には森川久美の少女漫画の蘇州夜曲の方がイメージが強いごく普通の現代の町並みにも、ふと目をとめるような古い橋がかかっていたりもする。この橋はいつの頃のものであろうか。壊されず、そのまま残されているのが嬉しい。壊してしまえばそれまでだ蘇州での最初の観光スポットは「虎丘」であった前もって旅行の日程から、どんな所に行くのか事前にネットで調べたりもしたのだが、虎丘はシンボルの傾いた塔だけではなく、蘇州で最も美しいと言われた真娘の墓があったり、王羲之や顔真卿による書が彫られていたりもするそうだ北宋の詩人である蘇東坡は「蘇州に遊びて虎丘にあそばずんは憾事なり」と称賛したそうで、もうこれは楽しみです。ワクワク。お寺の門前町には結婚式のドレスのお店などが並んでいた。バスを降りて、さぁ~行くぞ~とガイドがここからの塔が一番、良く見えますと言う、呉中第一山と書かれた門から。春秋時代の呉王で蘇州に都を置いた「闔閭(コウリョ)」がここに葬られて、その三日後には白虎がここに臥していたので虎丘と名づけられたという呉の中で第一の山とされる虎丘は、高さはわずか34メートルしかなくの小高い丘で蘇州のシンボルである北宋年間(961)年創建の雲岩寺塔( 別称虎丘塔)があって地盤沈下で3度傾いている為、東洋の斜塔と呼ばれているんだとか遠くから見ても、確かに少し傾いているようだ境内には剣池があり、呉王闔閭を埋葬した際に3千の宝剣をともに埋めたとされそうだが、墓への入口が、その下にあるとされるのもワクワクするけども清の康熙帝と乾隆帝がたびたび南巡(蘇州のある江南地域を含めた中国南部を巡る視察)をしておりその際には必ず虎丘に立ち寄ったとされ、御碑亭に3度も見た大好きなドラマ「宮廷女官若㬢」に出てきた康熙帝と、孫の乾隆帝の書いた詩が彫られているそうだがハイ、悪い予感が当たりました。日程表には虎丘は20分・・・。でまわれるハズがない。というか虎丘は先程の入り口で遠くに見ただけで脇道にすぐ逸れていかにも蘇州らしい観光に突入してしまい、近くで塔も、剣池も何も見る事なく、今回の旅においての最大ガッカリスポットになってしまいました違った旅行では虎丘は車窓から見学と言うのもある位だし、蘇州らしい古い町並みの方が受けがいいのかもしれないが何だか虎丘がオマケみたいで。期待した自分が馬鹿だった。そんな虎丘の近くにある蘇州らしい街歩きの様子は次回、紹介しますPS.初の岐阜県登場だという24日放映の「ポツンと一軒家」だが、実家のすぐ近くの山の中のお宅だった。こっちのうちでは前に秘境バス(南木曽から馬籠)やったし、私ってどんだけ、ど田舎暮らしなんだろうと・・・ティーバで「ポツンと一軒家」見れます↑見逃しの番組を誰でも見れるので、よければご覧下さい。後のお宅が岐阜県東農地方のです 平成31年1月27日に上海から無錫で撮影にほんブログ村
2019年02月24日
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いよいよ1月下旬に娘と出かけた旅日記も二日目に突入しました。中身の濃い初日の上海市から、今日は青空の下をバスで一路無錫(むしゃく)へと向かいましたまずは、その前にホテルの朝食ブッフェご紹介。朝7時30分に出発なので6時モーニングコールがあって、6時半には食べに昼食会場へ。1時間の時差があり昨日(日本時間)なら7時30分なのでバッチリですずらりと並んだパンは圧巻でした。しかもどれも美味しそう。さすが外資系シェラトングループといったところです中国ならではと言うのでは、ラーメンなども好みの味付けで食べれましたし中華コーナーも充実。ホカホカ、はふはふ連泊したホテルで、これは3日目の朝食ですが、前日より美味しそうに盛れました次の日にして朝食会場がL字になっているのに気が付き、奥にはその場で卵料理を焼いてくれるコーナーがあった。昨日も食べたかった中国の冬の朝もそれなりに寒くて、煖房で暖かなバスの中との気温差で、窓ガラスが曇ってしまい、ぼや~とした写真に。山がどこを見渡しても無いですね・・・・上海からは高速道路でぴゅ~と行きましたが2017年の段階で、その総延長は13万キロ以上。近年は年平均で数千キロ 以上が建設をされており、建設資金は車両購入税、通行料金地方税、省債、国内および海外からの投資が充当されているそしてピュ~と横をゆくのは新幹線?ではないのか? 中国の高速鉄道のCRH3型でドイツのシーメンス社の技術供与によるものなんだとか外国からの技術移転を基にしてのライセンス生産をされている全てのCRH車両は「和諧号」(和諧=調和の意)と呼ばれているそうだ遠いのではっきりはしないが、先頭車両の形状からCRH2型と思われる。日本の川崎重工業車両カンパニーから購入した高速鉄道車両で、日本の東北新幹線で使われているE2系1000番台新幹線がベースとなっている。他にもドイツや、カナダの技術提供が行われた車両もあるそうだこの写真は帰国日に上海から空港に行く途中で撮った上海トランスラピッド。車両はドイツのシーメンスとカッセルのティッセンクルップの合弁事業による。超高速運転を行う磁気浮上式鉄道(リニア)で、一般営業を行っている全世界で唯一の路線で、浦東国際空港駅と上海市郊外の竜陽路駅の間の30キロ程を7分20秒で結び営業最高速度は430km/hだそうだ前の上海夜景での浦東新区の高層ビルで2番目に高いのは、日本の森ビルが建てたものであるし今の中国の急速な発展には、様々な国の技術や外資による部分も。高速鉄道を使えば上海から30分弱という無錫には、早い段階から日本企業が進出をしてきた高速道路の周囲には、見慣れた企業名の大きな看板が次から次へと掲げられていた。今までに1000社もの日本企業が、ここに進出をしたというが、人件費の高騰、元高(円安)の他に色んな状況が重なり、昨今は東南アジアなどに生産拠点を移転させる動きもあるそうだかつてはシルクによるアパレル業で栄えていた無錫は、今や電子情報、機械設備、自動車部品新エネルギー、新材料といった産業分野で発展工業と商業といった産業の基盤があり、上海に近いという好立地で陸海空の便が良く太湖の畔にあり、環境面でも優れており様々な分野の科学研究所や、専門学校が数多く人材も豊富なこの地には、無錫ハイテク産業開発区が作られているのだそんな無錫の語源であるが、錫(スズ)が無くなるまで掘り尽くしてしまった地という意味で錫が採れていた頃は有錫と呼ばれていたなんて説もあるようだ。三国志の呉の国の発祥地でかなり古くから交通の要所として栄えていたようだ中国人ガイドは、中国人を日本旅行にも連れてきているそうで、日本では工事をしている所なんて、どこも見かけないが中国は、どこもかしこも工事をしているそれは中国は高度成長期だからですよと誇らしげに言っていたそんな中国も、ここにきて景気の減速感がみられており、中国での自動車やスマートフォン向けの旺盛な需要に、支えられての好業績を享受してきた、日本の電子部品や工作機械業界にも影響が出てきている「尋常でない変化が起きた。46年間経営をやってきて、月単位で受注がこんなに落ち込んだのは初めて」と、19年3月期の連結純利益の見通しを下方修正した日本電産の永守会長兼CEOは、中国経済減速の影響について語ったそうだ ↓ 元記事中国経済減速、日本の“優等生”電子部品メーカーの業績に激震…異次元の受注減RT-MART大潤發(ダールンファ)は中国では約400店舗を展開し、アリババが株式の36%を所有をした事から、オンラインとオフラインを融合させた新しい小売業のニューリテール戦略を展開しているそうだ昨今は環境にやさしい移動手段として農村部を中心に急速に電動自転車が普及し、生産台数、販売台数ともに世界最多を独走。生産企業は数百社を超え総従業員数は500万人以上とか既に飽和期を迎えつつあるので、海外輸出も図っているそうだ。免許とか登録等一切不要ガソリン不要、ヘルメットも不要。で、このように歩道なんかもかなりなスピードで音もなく走っているし街のあちらこちらに、国のスローガンなどが掲示がされている。↓2012年の中国共産党の第十八回全国代表大会で社会主義核心価値観が定義づけられ、中国共産党が提唱し広く宣伝している国家が目標とすべき価値。富強、民主、文明、和諧社会面で大事にすべき価値。自由、平等、公正、法治一人ひとりが守るべき価値。愛国、敬業、誠信、友善このスローガンが圧倒的に多かったように思われるある年齢上の人が、無錫と聞いてまず最初に思い出すのが昭和61年に大ヒットをした尾形大作が歌う「無錫旅情」(作詞作曲は中山大三郎)ではなかろうか。私もやはり頭の中にこれが流れてきた♪上海蘇州と汽車に乗り、太湖のほとり無錫の街へ♪って感じで汽車には乗らないけど、今回の旅の行程のまんじゃないかと歌詞にある「太湖(たいこ)」は琵琶湖の3倍もあるという大きな湖である平均水深は2メートル、最大水深は48メートル周囲は400キロで、鄱陽湖、洞庭湖に次いで中国で三番目に大きな淡水湖で、景観の美しさから、中国政府の国家重点風景名勝区に指定をされているとは言ってもこの湖は、無錫市街の西にある蠡湖(れいこ)のようだ。太湖の一部が平野部に突き出して形成された内湖だそうで、越の王勾践の軍師である范蠡が、絶世の美女の西施と過ごしたという逸話から蠡湖とされたという呉を弱体化する為に范蠡によって、呉王扶差に献上をされたのが西施で、王を骨抜きにし呉の弱体化に多大の寄与。越が呉を滅ぼす事となりその後、西施は蠡湖へ身を投じたとか、殺され蠡湖へ沈められたと言われている一説には范蠡が彼女を引き取り、蠡湖で余生を安楽に暮らしたとか、二人が舟でいずこともなく消え去ったという話も。西施は中国四大美女の一人であるが、日本では世界三大美女でもある楊貴妃くらいしか知られていないかなぁ・・・・見とれて泳ぐのを忘れ魚が沈む、沈魚美人の西施魅入られた雁が次々に落ちた、落雁美人の王昭君その美しさに月が恥じ雲に隠れた、閉月美人の貂蝉美貌と芳香に気圧され花が萎んだ、羞花美人の楊貴妃中国四大美女を表す言葉に「沈魚落雁閉月羞花」というものがある。ちなみに日本の三大美女の場合は衣通郎姫、小野小町、藤原道綱母だそうで歴史オタクじゃないとなるほど~~とはならないかも。さて春秋時代の呉や越の関係などから、故事熟語が幾つも生まれ、日本で使われたりもしてきた「呉越同舟」「彼を知り己を知れば百戦殆からず」「臥薪嘗胆」「牛耳る」。「風林火山」は武田信玄の軍旗で有名ですけど、呉王の闔閭に仕えていた孫武(孫子)による兵法書にある言葉を用いたものだ「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」というのも、なる程なぁ~と。ネットを検索をしていたら驚いた事に、この呉や越の国の人が大挙して日本にやってきているんだとか。バスの車窓から見た太湖やっぱり広いここ太湖の周辺の丘陵で切り出される石は太湖石といい、かつて内海だった太湖の水による長年に渡る侵食で、石灰岩には多くの穴が開き、複雑な形をしており庭石などに珍重されている(蘇州市街で)写真枚数が多いので、次回で紹介する無錫での観光を終えての、お昼ごはん。他にも格安でのツアーのお約束の、淡水真珠のショッピングもありました。幾組も淡水真珠クリームをお買い上げになってましたよ無錫名物の「排骨(スペアリブ)」が今回のメイン料理でした日本のビールに比べてアルコール分が少なく渋みもなくさっぱりした中国のビールは私も難なく飲めました。300元(500円弱)で青島ビール。 次回に続く 平成31年1月27日に上海から無錫で撮影にほんブログ村
2019年02月21日
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1月末に娘と格安旅行で出かけた上海一日目の日記は、まだまだ終わってはいなかった。都合上で投稿が前後したが初日の午後に最初に出かけた観光先は「上海博物館」であった昼に上海の空港着→昼食→上海博物館→思南路→田子坊→夕食→ホテル→個人で外灘→南京東路→ホテルに午後10時着といったのが一日目の上海スケジュールであった。コメントで〇○は?とあったけどまだ初日なので、明日、明後日もあるのでお楽しみにそんな訳で初日の午後は、上海博物館にやってきました。土曜日は中国もお休みなのか? 子供も含めて地元の方も沢山みえていて、入り口には大行列ができて入館まで30分近くかかったと言うのも地下鉄同様に、ここでも入館時飛行機の搭乗時のような手荷物検査があり時間がかかったが、60歳以上は優先的に入館が出来、ツアーでも高齢の方達は長く見学出来て役得、役得と喜んでおられた北京の故宮博物院と南京博物院と並び、中国三大博物館に数えられ、その収蔵品であるが青銅器から仏教美術、陶磁器、民族衣装、書印章、貨幣など多岐にわたっており、なんと入場料は必要なく、無料で見学が出来るのだテーマ毎に所蔵品が展示されている中で、1階の「中国古代青銅館」に陳列をされている青銅器は常時、夏、商(殷)から漢代において製造された数百点程あまりと、世界屈指の規模を誇っており上海博物館自体が、青銅器の鼎(かなえ)の形をしている鼎について、ウィキペディアによると>鼎(かなえ、てい)は中国古代の器物の一種。>土器、あるいは青銅器であり、竜山文化期に>登場し、漢代まで用いられた。通常はなべ型の>胴体に中空の足が3つつき、青銅器の場合には>横木を通したり鉤で引っ掛けたりして運ぶ>ための耳が1対つくが、>殷代中期から西周代前期にかけて方鼎と>いって箱型の胴体に4本足がつくものが>出現した。蓋のついたものもあった。殷代、>周代の青銅器の鼎には通常は饕餮紋などの>細かい装飾の紋が刻まれており、しばしば>銘文が刻まれる。>鼎はもともとは肉、魚、穀物を煮炊きする>土器として出現したが、同時に宗廟において>祖先神を祀る際にいけにえの肉を煮るために>用いられたことから礼器の地位に高められ、>精巧に作られた青銅器の鼎は国家の君主や>大臣などの権力の象徴として用いられた。そんな訳で最初に入室した青銅器のコーナーがあまりに充実しており、フラッシュ禁止であれば写真撮影も出来たので思いのほか、時間がかかり所要時間は1時間もないというのに、あぁ他のは駆け足になってしまいそうだ中国の歴史は?と聞かれて戦後の数十年!なんて答える人もいると思うが、様々な王朝などによる歴史はかなり遡れる訳で。中国四千年の歴史と言われるのは、糸井重里による明星の中華三昧のCMのキャッチコピーなだけで、その少し前にはラーメンマン(キン肉マン)は中国三千年の歴史と言っているそうだしかし中国では五千年の歴史と言ってるそうで中には四千年とか、三千年といった意見もあり日本の127才で亡くなった神武天皇同様に伝説なんだか実在したんだかわからない王朝があったからハッキリとはしないのだそれだけに実際に出土する文物によって、歴史の真実を知る事は重要である。その歴史の始まりは長江文明、黄河文明、遼河文明で、五千年説での盤古、女媧、伏羲と、三皇五帝の神話時代となる更には・・・夏(紀元前2千年~紀元前17世紀頃)で四千年説殷(商)(紀元前17世紀頃~紀元前11世紀頃)周(紀元前12紀頃~紀元前256年)春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)秦(紀元前221年~紀元前207年)始皇帝前漢(西漢、紀元前206年~8年)劉邦(高祖)新(8年~23年)後漢(東漢、25年~220年)三国時代(魏、蜀、呉。220年 ~280年)晋(265年~420年)西晋(265~316年)司馬炎(武帝)東晋(317年~420年)五胡十六国時代(304年~439年)南北朝時代(439年~589年)北魏、東魏、西魏、北斉、北周、宋、斉、梁、陳隋(589年~618年)唐(618年~907年)武周五代十国時代(907年~960年)後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五代呉、南唐、閩、呉越、荊南、楚、南漢、前蜀、後蜀、北漢の十国宋北宋(960年~1127年)南宋(1127年 ~1279年)遼、西夏、金元(1271年 ~1368年)明(1368年 ~1644年)南明清(1616年~1912年)太平天国、満州国中華民国(1912年~1949年)中華人民共和国(1949~)といった感じで、↑ウィキペディアより国名をひろってみました。日本(倭国)は前漢の前2世紀頃あたりから登場し、後漢では委奴国王印、三国志の魏志倭人伝には卑弥呼、宋書には倭の五王が語られているそして遣隋使に持たせた書には、日出處天子日本との国名となっての遣唐使派遣によって多くの留学生や留学僧が唐の先進文化を吸収唐の開元通宝を元に和同開珎の鋳造が始まり平城京は唐の長安を手本に整備をされた遣唐使のような大々的な交流はなくなっても朝廷は大宰府で、私貿易(密貿易)は博多や敦賀で続き、平氏が台頭をすると日宋貿易を盛んに推進し、大量の宋銭が日本に流入して日本は貨幣経済の時代を迎え、栄西や道元らの禅宗や、茶もこの時期に日本に伝えられた室町時代には勘合符を遣明使船に所持させる勘合貿易が行われ、日本からは硫黄、銅などの鉱物や、扇子、刀剣、漆器、屏風。中国からは永楽通宝、生糸、織物、書物などが輸入され北山文化、東山文化に影響を与えたそうだ江戸幕府による鎖国で、朱印船貿易は終焉を迎えたが、清はオランダ、李氏朝鮮、琉球、蝦夷地と共に出島や対馬、琉球、松前を通し定高貿易を行った。そして幕末から明治へと日中は激動の時代を迎える日本に渡来して様々に工夫、応用はされても根底は同じなので、正倉院とか奈良京都の寺などで見る文化財と同じようなものが並んでいる。それは中国から伝来したものもあれば日本で作られたものも正倉院で保管をされている螺鈿紫檀五絃琵琶は制作をされた中国にも現存しておらず、世界で唯一、日本の正倉院だけに現存している超お宝だそうで、玄宗皇帝の頃のものらしいのですが天皇家の御物であるので、国宝などには指定をされていないそうです天皇家の御物は宮内庁の管轄で、国宝などの指定は文化庁で、そもそも所管が違う事もあるそうですよ。独身の頃には何度も正倉院展を観に秋の奈良まで出かけたが、最近はご無沙汰鳥毛立女屏風は、一度は観てみたいと思うがちなみに東大寺の正倉院は、聖武天皇の冥福を祈り、光明皇后が大仏に寄進した聖武天皇遺愛の御物や、大仏開眼会に使用された仏具や東大寺境内図等の地図、古文書類、生薬などが納められ大半が奈良時代もしくは、中国唐代の優れた文物ばかりである東大寺に奉納され、東大寺の正倉院に収められていたものが再び、天皇家の御物になったのはこのブログでも何度も紹介をした、明治幕府による廃仏毀釈。これで東大寺の財政も悪化、存続すら危ぶむ事態に、東南院という付属院家の宝物と共に、正倉院を天皇家に献納したからです江戸幕府に仕える立場だった寺院に反感を持った地方の神官や国学者などが扇動し、廃仏毀釈の運動は激しさを増し、江戸期に石高の高い奈良の八つの大寺院のうちの三寺院が完全に破壊され一寺院が神社になり、存続出来たのは東大寺と興福寺、法隆寺、吉野蔵王堂の四寺院となった聖徳太子所縁の法隆寺は、堂宇や仏像の破壊こそ免れたが、経済基盤である寺領を取り上げられて僧侶たちの日常生活もままならず、貴重な古文書をかまどの焚きつけに使うような有様だったそうで宝物の多くを売りに出す古寺もある中で、法隆寺は貴重な宝物類を皇室に献納する道を選んだその時に1万円札にも使われた有名な聖徳太子の肖像画も御物となった。献納によって1万円が下賜され、当面の維持基金となり法隆寺は存続出来たのだ。皇室に献納した宝物は300点を超えその殆どは「法隆寺献納宝物」として、東京国立博物館で見学ができるしかし、この廃仏毀釈でどれだけ沢山の宝物が破壊され、流失した事か。それ以前に戦乱とかに巻き込まれて、焼失したものもあるだろうし昨春の韓国旅行でも、李氏朝鮮によって儒教が尊ばれ、仏教は廃れ、多くの仏画や書物などが売られて日本に渡ってきたと紹介をしたが中国でも日本や李氏朝鮮のように、大規模な廃仏が行われ、各皇帝の廟号や諡号をとって三武一宗の法難と呼ばれている。北魏の太武帝(在位423年~452年)太平真君年間北周の武帝(在位560年~578年)建徳年間唐の武宗(在位840年~846年)会昌年間後周の世宗(在位954年~959年)顕徳年間ウィキペディアによれば>寺院の破壊(但し、必ずしも施設の破壊を>意味する訳ではない。一般施設や住居に>転用される場合が多い)と財産の没収、>僧の還俗であり、(中略)銅(貨幣の>材料)や鉄(武器の材料)という金属を>中心とした物資を仏寺中の仏像や梵鐘>などから得ることも、当時の情勢から>して、差し迫った問題であった。軍事面>でも、出家して軍籍から離脱する国民が>大量に出ることは、戦乱の時代にあっては>痛手であった。(中略)当時の割拠政権に>とって、そのような膨大な人口を再び国政に>戻すことは、必要に迫られた事情であった1960年代の文化大革命では、極端な弾圧と破壊が行われたが、現在は中国政府は文化大革命の非を認めて、再び保護政策に戻っているそうで、仏教寺院は荒れ果てていたが華僑などの援助によって沿海部を中心に復興を遂げているそうである中国仏教発祥の古刹の洛陽の白馬寺では後漢時代から残る仏像を壊し、千年以上前の仏典を焼かれ、明の万暦帝の墳墓やなんでも鑑定団でも、よく名の出てくる景徳鎮の窯が破壊をされたそうだ。ここにも景徳鎮の壺などが沢山、置かれていたそうそう中華民国の台北市にある国立故宮博物院に、中国の至宝がわんさか所蔵されているのは紫禁城にあった宝物を、蒋介石の国民政府(1948年からは中華民国政府)が戦火から守るべく重要文物を疎開させて大戦後も、国共内戦が激化し中華民国政府の形勢が不利となった為に、第一級の所蔵品を精選した文物、台湾へと運び出した為である白菜や肉片、一度は観に行きたいとは思うのだけど日本に来日した時ですら行けなかったこのあたりになると、もはや隅から隅といった見学などできず、重要そうだなぁと思われる中央部のものをさら~と流す感じで時間に追われる。もしもフリーで来てたら3時間はいたに違いないでも団体旅行なので1時間も見学時間がないのはキツイです。どこか重点的にでも観ればいいのに、来た限りはとりあえずは全分野を網羅したいといういつもの本能が働いてしまうので頑張りました。全室制覇コメントなどでも伺えるように、中国イコール中国人。今も昔も中国人のひとくくりに考えておいでになる方が多いようですが、今の中国は広いです長い年月の間には様々な王朝があって同時期に、幾つもの王朝があるというのは同じ民族が覇権を争っているという場合も中にはあるかもしれませんが、広い中国である故、様々な民族があり時には国を統一したり、国を追われたり今の中国は漢民族が主流ですが、清王朝を支配した愛新覚羅家は満州族ですし、ここ上海あたりを支配していた呉の呉人たちは国が滅亡した事で、沢山の人が日本に渡ったなんて説すらもある現在の中国が過去の中国全土(にあった国々歴史)を継承している訳でもなく、全く同じものでは無いという事だ。更に今の上海には中国にいるという、55の少数民族の全てが集まっているんだとか優れた美術品や、歴史的に価値のある文物なども見応えがありますが、こういった民俗学的なの好きなんですわ~。もう時間も残り少ないというのにワクワク♪ すごい細工の工芸品で見飽きない5分前になったので、後ろ髪を引かれる思いで集合場所の1階のロビーに戻ると、うちがたぶん最後だったと思ってたら、トイレから戻られたお父さん。人数が少ないので時間前にはみんな揃って、早めに移動もできる初日の上海の紹介は終わり、次回から次の日の無錫と蘇州ですが、上海市内の観光は最終日の三日目にもまだ残されている 旅は無錫へと 平成31年1月26日に上海博物館で撮影にほんブログ村
2019年02月19日
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やっぱり上海旅行は、この夜景を観なきゃ意味がないように思える。これを観たさに行先を上海に決めた部分も大きいし。どれだけ見ても、決して見飽きない光景だ宿泊をしたホテルの前にある大きな交差点からビルの合間に浦東新区(プードン)の東方明珠電視塔や上海中心も見る事が出来地下鉄でも簡単にアクセスが出来るホテルのすぐ目の前に地下鉄10号線の海倫路駅5号口があり、そこからアクセス出来るのだが乗り換えもなく10号線で3駅で南京東路駅下車。料金も僅か3元(50円位)だ地下鉄の切符の買い方もパネルで路線を選び、下車する駅を選ぶだけでいいので簡単だ。略したものもあるが、一応は漢字表示だし読めもする。地下鉄でも飛行機に乗る前の荷物検査があった。↑これは単にビジュアル系の自販機ガイドさんには、寝不足で疲れたからとか差し障りがないように言い訳をして、上海雑技や翌日夜のナイトクルーズを断ったが事前にネットで旅行にいった人の体験談を読んでいて高いオプション代を払わなくても自分たちで地下鉄で出かけて向かい岸の外灘(ワイタン)から眺めれば十分とあったので、日程に南京東路がなくてそこも行きたかったのもあり、迷わず個人で地下鉄で行く事にしたナイトクルーズ船は折り返しの50分のコースで、そこまでは歩けないにしても東方明珠電視塔の位置でもわかるように数百メートルは歩きましたよ。てくてく歩いて位置を変えて・・・それに手前のナイトクルーズ船の電飾なども、良いアクセントになりますが自分が船に乗ってたら撮れません。窓ガラスでもあれば、映り込みでまともな写真など撮れないですし中国の人に佐賀県が人気になったというのもSNSなど、ネット上の個人の情報からだそうですが、私も旅行の情報は実際にそこを旅した人の旅行記を、参考にしてたりします。地下鉄の乗り方とかも次の日もガイドさんが夜のナイトクルーズは行った方がいいですよと勧めてくれたのだが前夜に既に地下鉄で行ったとは言えなかったそういった事前情報の収集や、個人で異国で地下鉄乗って、知らない街を個人で歩く事が面倒だったり、出来ないと思う人は素直にガイドさんの旗の後ろについて、あちこち連れて行って貰う方がいいと思う。個人で動くという事は多少なりともリスクというものも付きまとうので高いオプション料はリスク回避と、色々と考えなくてもよいという手間賃だ私だってホテルからのアクセスが悪かったりしたら、素直にオプション使っていたのかもしれないし。全てがいけないという訳もなく旅もケースバイケースで柔軟に参りましょうか国内などは行き当たりばったりが多い黄浦江の奥に揚浦大橋が小さく見えていたこの浦東新区は、ウィキペディアによると>1992年、国務院により「国家の重大発展と>改革開放戦略の任務を受け持つ総合機能区」>である国家級新区として設置されて以降、>大規模開発が行われ、現在では上海新都心>としての地位を確立している>浦東新区は上海直轄市に所属する市轄区で>ありながら、中国最先端の開発センター>として副省級区(副省級市=地級行政区>レベルを超える権限)として大幅な自治権が>認められている。中には国境を越え日本の森ビルグループの都市づくりのノウハウを注ぎ込んだ、地上101階、高さ492メートルの「上海環球金融中心」もという高層ビルも。1990年代半ばの写真では、東方明珠電視塔位しか目立つ建物もなかったようだ。フランス租界だった黄浦公園には人民英雄紀念塔があった艶やかな真っ赤なロングドレスの女性とイケメンの男性の写真撮影は、俳優さんもしくはモデルさんのようだ。そのまま写真を載せるのはまずそうなので、黒いシルエットでご紹介それにしてもイケメンでした。中国のドラマなどは脱税で引退した女優さんが主演してた後宮ドラマをここで紹介をした事があるけど、次々に妃らが陰謀で殺されたり、とんでもない展開だったが最近ネットで、大人気の宮廷ドラマもすごかったようで、社会主義の革新的な価値観と相いれない。贅沢を賛美しつつ勤労や節約を攻撃していると再放送が禁止となったものがあるんだとかこの銅像は四川省出身の国務院副総理、国防委員会副主席、外交部長などの肩書を持つ陳毅で、上海市人民政府を成立させて初代上海市の市長として上海市民の為に尽力を注いだそうである今、私が見ているのは浅田次郎原作で日中合作の「蒼穹の昴」の再放送で、録画したのを年末からこつこつと見ている。日本の女優の田中裕子が、西太后を演じているがセリフは日本語でしゃべっていたが、後で中国語に吹き替えになっているそうだ彼女がまだ生きている時代に、ここ外灘には、既にこんな西洋の洋館が次々に建てられていたのだ。なのに紫禁城の中ではそりゃ変わるしかなかったのかも。作中に袁世凱とか伊藤博文なども出てくる浅田次郎が「私はこの作品を書くために作家になった」という物語は日清戦争の頃、保守派の西太后と改革派である甥の光緒帝のせめぎあいを、春児と義兄弟の文秀を軸にして描かれている今回の旅行では上海近郊にある、東洋のベニスとも呼ばれた蘇州へも行くのだがその名前を知ったのは「蘇州夜曲」からで沢山の歌手が今でもカバーをしているのでうちの娘も知っていた程だ ↑陳佳さんの歌唱で。古い画像の後から始まりますこの歌は、李香蘭(山口淑子)と長谷川一夫の映画「支那の夜(後に蘇州夜曲に改題)」の挿入歌として、西條八十作詞、服部良一作曲李香蘭が歌って大ヒットしたものだ ↑新妻聖子さんの日本語での歌唱本編では、蘇州へ新婚旅行へいった時に歌ったようである。物語の大半は上海であったので、このクラシカルな建物群も出てくるらしい昭和15(1941)年2月から3月にかけて上海や蘇州などでロケがされたそうだが、この外灘の風景は80年前とかわらぬ、そのままであるのに、そこから見る対岸には高層ビル群も電視塔も姿がなく、何もない大正9(1920)年、中華民国奉天省(現中華人民共和国遼寧省)の奉天北煙台で日本人夫婦の間に生まれた山口淑子は、父の方針で中国語にも堪能で、父親の中国の友人の義理の娘分(乾女児)となり、李香蘭という中国名を得ることとなった後に、満州映画協会の中国人専属女優としてデビュー。日本や満州、中国で人気を得たが戦後、中国人だと思われていた為に「漢奸(売国奴)」として、軍事裁判にかけられるが日本人だと証明され国外追放となったそうだ昭和21(1946)年3月、いよいよ日本へ帰国する事となり、デッキから遠ざかる上海の摩天楼を眺めていると、自分が歌う「夜来香」が流れてきたそうである ↑張燕さんの歌唱で夜来香であるが、ウィキペディアによれば>黎錦光が作詞作曲し、1944(中華民國33)年に>李香蘭(山口淑子)の歌唱により上海の百代唱>片公司から発売された中国の歌謡曲である。>満洲映画協会のスターであった李香蘭の名と>ともに歌は広がり、中国各地で人気を博した。>やがて新中国建国の後は、国情とは合わず>廃れてしまったものの、何十年もの長い時間を>経て(中略)鄧麗君(テレサ・テン)の歌声で>復活した。>「何日君再来」等と共に中国(中華人民共和国)>政府により、聴くことも歌うことも禁止されて>しまった時代もあったが、現在は中国大陸でも>解禁され、今や全世界の中国人に好んで歌われる>チャイナ・メロディーの代表曲となっているそして時を経て・・・子供の頃によく見ていたのがアメリカのドラマで、グリーンホーネットも好きでよく見てたが、そのカトー役を一世を風靡したあのブルース・リーが演じていたと知ったのは、平成になってからだったグリーンホーネットで活躍の場を得たブルース・リーであるが、その代表作は1973年に公開された「燃えよドラゴン」なのだが、ドラゴンシリーズのこれが最初と言う訳でもなく、それ以前に幾つも作られており、次々に公開されたその中で「ドラゴン怒りの鉄拳」は、ここ上海が舞台となっている。清朝末期の上海で中国武術の精武館の霍元甲が、ライバルの日本人道場主の鈴木の陰謀によって死を遂げる。愛弟子の陳真(ブルース・リー)が師匠の復讐に立ち上がるというものであるこの作品でアチョ~ってのと、ヌンチャクが登場上海が舞台ながら、その殆どが香港のスタジオで撮影をされたそうだ。日本公開時は悪役が日本人だとわからぬよう、鈴木ではなくリンという名になっているそうだまっ、私はブルースリーや、ジャッキーよりもジェット・リー派ですけど、彼もリメイクの「フィスト・オブ・レジェンド」で陳真を演じているが、その舞台は上海ではなく京都ださてさて写真は外灘から、何やら繁華街になりましたよ。東京でいうなら銀座。「南京東路」大きなデパートや商業施設が、夜の10時まで営業し、まるで不夜城のような華やかさですこの「不夜城」という言葉は、中国の山東省にあったとされる古代都市で夜も日が出たとされたため、この名がついたそうだ。このように中国発祥の慣用句のようなものは数多い四字熟語やことわざなど。例えば背水の陣は中国の楚漢戦争で韓信と常山王張耳らが率いた漢軍が背水の陣という戦術によって趙軍を打ち破った事からだ干支は十干と十二支を組み合わせた60を周期とし、暦を始め時間方位などに今も用いられるが、起源は商(殷)代に遡る日本には6世紀に、中国の暦本が百済を通じ渡来したと言われている十二支で今年はイノシシ年ですが、本来は豚年だそうです。漢字の猪とは豚の事だったそうです。日本の仏教では肉食は禁止されていたので、猪を家畜化をした豚は馴染みが無かった為なんだとか。逆に山には猪が走りまわっていたようですしね今は領土や歴史認識問題などで、デモがされたり、反日的な立場をとられてギクシャクもしたりもするが、やっぱ日本の文化もろもろ。言語、思想、哲学、宗教飲食、服装、陶器・・・・もう色んな部分で長い期間にわたって、大陸からの影響を受けて、今の日本があるのは確かである空海や最澄は学ぶ為に海を渡ったし、阿倍仲麻呂は日本へと帰る事は無かったそして日本の仏教徒の為に命を懸けて、海を渡って来日をした鑑真和上の恩義も。現代の中国には、残されていないようなものでも日本には時代を超えても、面々と伝わっているものもあるという話だ三国志や水滸伝の英雄たちに、心躍らせたり傾国の美女の楊貴妃や西施を想いを馳せ、悪女呂后や則天武后にはビビり・・・。酒池肉林は殷の紂王が寵姫の妲己の言うがままに、日夜酒色に耽り、民を虐げた事からだそうですよといった訳で、今回の上海紀行をおさらいをしてみると、地下鉄と浦東の夜景にクルーズ船外灘から西太后、李香蘭の蘇州夜曲と夜来香でブルース・リー。不夜城の南京東路に中国伝来干支は豚!という盛り沢山な内容になりました中国では赤が好まれまして、国旗の色も赤ですが、おめでたい時に使ったりもします。厄除けの色、幸福をもたらす色だそうです春節に爆竹を鳴らすのも、あの音で厄払いしているそうですよ春節直前の上海は、どこもかしこも赤い色で彩られ、普段よりも華やかであったのかもしれません。空気も綺麗で良い時期に旅行出来ました 旅はまだまだ続く 平成31年1月26日に上海で撮影にほんブログ村
2019年02月12日
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中国の上海に出かけたと伝えた前の日記で食事とかホテルの心配以上に、大気汚染があるから、中国行きを躊躇するというのがありました。実際に春節で日本に来ている中国人の中には「シーフェイ(洗肺)」が目的みたいです煖房などに石炭を使う冬季から春季にかけPM2.5の濃度が大きく上昇する傾向もある中国から、空気が美味しい日本の田舎へという事で格安航空の乗り入れている佐賀が人気観光地の一つなんだとか「中国の大気汚染:リアルタイム」私も中国に渡航するにあたって、↑中国の大気汚染リアルマップなるものも探して見たりしました。日本や韓国も表示がされますので、お住まいの地域もご覧下さいうちは田舎なので、ド安心の緑色でした一週間予報もチェックすると、私が行く土~月は、平日に比べて工場など操業のない週末なので汚染度が低い! しかも春節が始まる前に帰省している人がおり上海の車の数も普段より少ないそうだしなにより中国の他の地域(北部、西部)に比べて上海などの南部は、汚染度が低めのようだ。前回の3日目の写真がどんよりとしてたのは単に悪天候なだけで、上海でも青空も見えて、特に大気汚染は感じませんでしたさてさて上海の旅行、初日の午後の部ですアヘン戦争以降に、淮海中路を中心にしてフランス租界が出来て、居留地に残された当時の洋館(老房子)は、リノベーションがされて数億円で売買がされているそうです芸能人などもこういった洋館に住んでいたりするようですよ。今回はそんな高級住宅街の「思南路」へとやってきました。個人宅の他にも、こじゃれたお店もあって右側の洋館はスターバックスですここへとやってきた目的は「周公館」でして1972年に田中角栄首相と、日中正常化の調印をした周恩来が一時期、住んでいたいた邸宅だそうで、中に入らず家の前でガイドの話を聞きました。ウィキペディアによると>周恩来(しゅうおんらい、1898年3月5日 ~>1976年1月8日)は中国の政治家。字は翔宇。>中華人民共和国が建国された1949年10月1日>以来、死去するまで一貫して政務院総理・>国務院総理(首相)を務めた。毛沢東共産党>主席の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚>しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり>小法師)の異名がある。>南開中学卒業後の1917年に、日本に留学。>日本では勉学に励む他、友人と活発に交流>して祖国の将来について語り合っている。>(中略)日本社会や日本人についてもよく>観察しており、これが知日派としてのベースを>つくった。>周の誠実な人柄と、自ら権力を欲しない>謙虚な態度と中国革命への献身は、中華>人民共和国の民衆から深い敬愛を集めて>いた。また、その人柄からニクソンや>キッシンジャー、田中角栄など、諸外国の>指導者層からも信頼が厚かった。といった方で、学生の頃に京都嵐山に寄った際の詩「雨中嵐山」は、周恩来記念碑となり残されている。この街路樹だけどプラタナスの樹だそうだ近くには「上海孫中山故居記念館」がありこちらは歩きながら門の外からありますよ程度で素通りをしたけど、孫中山(孫文)が住んでいた邸宅です。中国や台湾では孫文よりも「孫中山」が一般的であるそうだこの中山であるが日本に亡命していた頃に近くに住んでいた中山孝麿侯爵邸の表札の中山が気に入って、孫中山と名乗るようになったそうだ。犬養毅には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」と語ったんだとかウィキペディアによれば>孫文(そんぶん、1866年11月12日(清>同治5年10月初6日)~1925年(民国14年)>3月12日)は、中国の国父・政治家・革命家。>初代中華民国臨時大総統。中国国民党>総理。「中国革命の父」>中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。>また、中国でも「近代革命先行者(近代革命の>先人)」として、近年「国父」と呼ばれる>現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。>中国国民党では現在も、孫文は「党総理」で>あると党則第15章で定めている。春秋時代の>孫子および三国時代の呉の孫権の末裔と>伝わる。フランス軍駐屯地だったのが、1907年に公園として解放され、当時はフランス公園といって毎年、パリ祭りも開かれていた。後に中国人にも開放され、今は復興公園といい地元の人がのんびりと寛いでいたここには「マルクスとエンゲルスの石像」があった。ウキペディアによりますと>カール・ハインリヒ・マルクス(1818年>5月5日~1883年3月14日)は、ドイツ・>プロイセン王国出身の哲学者、思想家、>経済学者、革命家。>フリードリヒ・エンゲルスの協力を得ながら、>包括的な世界観および革命思想として科学的>社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本>主義の高度な発展により共産主義社会が>到来する必然性を説いた。フリードリヒ・エンゲルスの方は>マルクスを公私にわたり支え、世界の労働>運動、革命運動、共産主義運動の発展に>指導的な役割を果たした。との事だ。復興公園からバスでやってきたのは「田子坊」という若い子たちに人気のエリアだ。日本でいう原宿のような所か?ガイドさんが、若い子には良いかもしれないが皆さんが買うものはないですよと言ってたが、よく年配者向けのツアーの行程に入れたもんだただ私の方は娘と一緒だったので、今回の行程を見て、田子坊とかが逆に入っていて娘が喜ぶと思ったので嬉しかったが。寺や庭園ばかりでは、娘もつまらないだろうし入り口の分かりやすい場所で解散して集合時間までフリータイムこうゆうのが一番有難い。今回は参加人数も少ないので集合時間にも遅れる人もおらず、時間通りに出発が出来たあまり時間がとられていなかったので迷路のような狭い道を右へ左へと早足で若い女の子たちでいっぱいの、かわいいお店はガイドブックにも紹介してあった紅茶の専門店「兔子威廉的英式茶屋」で幾つも試飲ができたので、私もお土産にフレーバーティーを一缶、購入をした価格は日本と同じくらいと感じた円と中国の元の為替レートは、16円台でセントレアで交換したのは、手数料込みで18円弱。14000円ちょいで800元に交換した。中国の空港は手数料が高いので要注意。よく見かけるようなキャラクターのようなウィキペディアによりますと>狭く迷路のような路地に様々なアート>ショップや外国料理店、ブティックや>小物店などが密集している。外国人>観光客も多く、レストランは中国料理>以外の各国料理店も多い。店のオーナーも>外国人が多く、日本人が経営する店も>存在する。>現在は豫園や新天地に次ぐ上海の>観光ショッピングエリアとなっているが>大資本が街を完全に改造した新天地と>異なり、田子坊は住宅だった場所に>自然発生的に店が増えて現在の姿に>なっているのが最大の相違点である。>元々は画家・彫刻家の陳逸飛が1999年に>アトリエを開いたのがショッピングエリア>としての田子坊の始まりとされる。それを>機に他の芸術家も当地にアトリエを次々と>開き、それらを訪れる人々目当てに店舗>レストラン・バーなどが増えていった。>未開発の路地(里弄)がそのままショッピング>エリアとなったために、迷路のように店舗群が>入り組み、探検気分の味わえるエリアでもある。>また、エリアは今でも拡大しつつある。現在でも>店舗に隣接して住宅が混在し、泰康路に面して>古いスタイルの市場が残るなど、一般市民の>生活が垣間見える地域でもある。全部を回れないうちに、集合時間が近づいてきたので、そろそろ退散する事にするけどこうゆう街などを、ゆっくりまわる為にはパッケージツアーじゃ無理だろうなぁ上海なら次回はフリータイムツアーでも行けそうだし行ってもみたい。孫中山記念館の中も見学してみたいし。上を観たり、下を向いたりと、大忙しな街歩きだったけどなかなか楽しかった集合場所はスターバックス。娘がメニュー見てきたが、日本の価格より高いようだ帰りの空港でも、色んなお店のコーヒーがどこも高いので手が出なかった浦東のように高層ビルもニョキニョキと雨後の竹の子のように建ち並んだ上海も思南路の老房子や、ここ田子坊のように古い建物もリノベーションをして、新たに命を吹き込んでいるのが印象的だった初日は実はもう一つ、観光をしているのだけど構成上、後にしたので夕食を紹介をしますね。温かな料理が次々と足されまして北京ダックです。円卓では8名だったので一人あたり2切れなのですが、年齢が高めの方ばかりなので、いつも残りまして残ったものは、いつも若い子が沢山食べてと、娘にすすめてくれるので、娘の体重は2キロ近く増えてたそうで・・・・恐るべし食事を終えて外に出ると、周囲は暗くなってまして。午後6時近くに食事を始めたが、日本時間と1時間の時差があるので体内時計的には午後7時近く丁度よかったそんなに早くに夕食をとるのは、この後1日目は上海雑技団で、2日目はナイトクルーズのオプショナルツアーが予定をされているので。お安い旅行である理由下請けの現地ツアー会社やガイドの儲けは26800円の旅行代金本体よりもこういったオプショナルツアー参加費とかお買い物のキックマージンから儲けを得る事が多いようだ。ガイドさんは熱心に上海雑技とか、淡水真珠の素晴らしさを語るのだった。私は日本で上海雑技も京劇も変面も見たしなぁ何気に変面はもう一度、間近で見てみたいとは思う。娘が雑技は興味がないというし他に目的もあるので、うちは参加はせずに他の二組と共にホテルに先にチェックインをする事になった今回のお泊りは、デラックスホテルとの触れ込みで「上海虹口三至喜来登酒店」を連泊で日本語に訳すとシェラトン上海虹口ホテルですホテルは酒店といいます。この写真は翌朝の観光出発時にバス車窓から撮りました団体用に、かなり安い価格で出されていると思われるので下層階ですが、お部屋のつくりはスタンダードでしょうし、朝食ブッフェは一般宿泊者と一緒なので、お得はお得なのでしょう日本でも個人で泊まるとお高い旅館も、団体ツアーなども普通に使ってたりしますしね大きなテレビでNHKの国際放送も観る事が出来たのでまんぷくもタイムリーで見れました。外資系ホテルの特徴でもある、分厚いバスローブも用意をされていました風呂場がスケルトン~。ボタンで隠す事も出来ます。バスタブの排水方法がわからず他の参加者の奥さんに、バスタブ底の蓋を強く踏むと、排水すると教えて貰ったけど入浴中に強く踏まなくて良かった。シャワーブースが外なので、ゆっくり湯にも浸かれました飲料用の他にも、歯磨き用にも1ボトルずつ、無料でミネラルウォーターが用意されていたので、残ったボトルを次の日バス移動中などの飲料にも利用出来たしお部屋からの眺めはこんな感じ。真下に公園のような緑地が広がっていた事もあり下層階でも苦にはならなかった。更にはここ虹口周辺は戦前に日本人租界があり多い時には10万人も暮らしていたそうだなにより、このホテルが素晴らしかったのは地下鉄駅が目の前にあり、あの外灘などの中心地へ乗り換えもなく、3駅で簡単に行く事が出来るのだ。まだ午後8時前、さてさてここから夜のフリータイムだ。 続 く 平成31年1月26日に上海市街で撮影にほんブログ村
2019年02月07日
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それでは旅の本編とまいりますか。行き先ですが、まっタイトルにもあるように魔都にまいりましたが、時を前回の続き愛知県のセントレアまで戻す事とします昨年春は台湾に行きたかったのに、旅行代金が台湾は7万円以上…という以前に予約が、満員のキャンセル待ちばかりで仕方なく5万円弱の韓国釜山と、慶州の桜を見に行きましたが今回も7万円はかかる台湾には手が出ず(娘は九ふんに行きたがっている)旅行代金の26800円という安さに釣られ上海や蘇州、無錫の旅2泊3日にしたという貧乏性の母娘です。それよりも安い1万円台の大連がありましたが、私でも地味に感じたのでそれでも、航空使用料や燃料サーチャージ保険代などを足せば4万円は超えましたが北海道とか九州の2泊3日よりは安いです機内の飲物サービスでは、私は赤ワインで娘は青島ビール中国のビールはアルコール濃度が薄いのでさっぱりしていて苦みもなく、ジュースのようにガバガバと飲めます。機内食は私は洋食で、パンにドーナッツとは・・・。まぁピーナッツ姫のところのよりはいいような娘は和食で、納豆が出ると他の人のブログにあったが本当だった。せっかく窓際の席に座ったのに、三重県あたりからず~っと雲しか見えなくって、ちらっと3回程、雲の合間から地上や島が見えた位で着陸態勢に入り空港に間もなく到着というあたりで、外が見えました。なんだかんだと言っているうちに上海の近郊にある「上海浦東国際空港」に到着。日本では当たり前のように空港で飛行機とか、基地で軍用機も撮っているが、中国は空港内での撮影禁止お巡りさんとか政府関連施設、鉄道の橋脚も禁止みたいで、どの程度までかがわからないが曖昧なのは、撮らないに越した事はないので写真はない。今回は17名の参加者だったが専用バスは40名は乗れるタイプなので、もうガラガラで1人で2席分を確保が出来て楽ちんトイレ休憩だって人数が少ないし、行列になる心配も少ない。専用バスに乗ると今回のガイドさんが気を利かせてお菓子を? と思ったら、車内販売の試食のものだったなるほど最初の観光場所は・・・・お昼ごはんだった朝6時にホテルで朝食ブッフェ、朝10時に飛行機で機内食、昼の12時半(日本時間は1時半)と、なんだか食べてばかりのような駐車場を小さな子犬がトコトコ・・・旅行を通して繋がれていないわんこが、街中を歩きまわっていたし、散歩の小型犬もそのまんまって感じでした。そういえば猫は見てなかったような・・・お茶碗とかこんな感じで置かれてましたがここだけでした、こうゆうの。大きな円卓囲んで、9名と8名の2つのグループにわかれまして、韓国の時の2×2の4名のような気まずさはなかったので良かったなんとか料理だとか名前は違っていてもだいたい似た感じの料理が並んでいた様な気もします。チャーハンに麻婆豆腐に~と韓国のキムチ、違うキムチ、またキムチ!よりもバラエティに富んではいましたが中国はお水が心配だと聞いてましたが上海周辺の団体旅行で行くような食堂は大丈夫みたいです。毎回、お茶が出るので、それを飲んでましたし、お腹は壊さなかったです。ガイドさんは屋台は保障できないと言ってましたさて今回の旅ですが、昨春の韓国旅行と同様に、安さが際立つ「阪急交通社トラピックス」の旅行です。韓国旅行の時は紫水晶や、焼き物に、免税品店、カジノお土産屋に立ち寄って、キックバックで旅行代金が抑えられていると思いますが今回の旅行でも淡水真珠、ラテックスシルク、中国茶といったお店が予定にあり、そうゆうのを割り切っていればお財布には優しい旅行となるのですが問題は衝動買いがお好きな方ですね無駄使いをしがちな方、ガイドさんや店員さんの押しに弱い方は、結果的にお高い旅行になってしまうリスクもあります。夜には別料金のオプションツアーなども用意をされてますのでいよいよ上海の中心部に入ってきましたよこの上海の中心に流れる大きな川の名前は「黄浦江」といい、上海市域を浦西と浦東の二つに分けている。その名は楚国の政治家であった春申君(黄歇)が封じられた事にちなんでいるんだとか中国の戦国時代に活躍をした、4人の有力な政治家である「戦国四君」の一人で、彼らは各々が3000人もの食客を養っていたそうだ長さ846メートル、幅約30メートルの黄浦江にかかる「南浦大橋」の脇で上海万博が行われた橋を渡ってループの道路を走っている時に真下に何やら銅像があったが、誰なのかはわからない。ビルの隙間にちらりと見える丸いのは上海のシンボルである「東方明珠電視塔」ではないか普段は、山しか視界に入らないような所に住んでいるので、旅行先は海とかビルが建ち並ぶ摩天楼を、選ぶようにしている。そんな意味からも上海とか香港、シンガポールは前から行きたい都市で、決して安さだけに釣られた訳ではない上海中心(上海センター)は2008年に着工して2016年に完成した高層ビルで、高さが632メートル。ドバイのブルジュ・ハリファ (828m) に次いで、世界第2位の高層ビルだが塔を含めると、スカイツリーが2メートル高くなり3位となるさてタイトルの「魔都」とは如何に。最初に上海を魔都と称したのは、村松友視の祖父にあたる村松梢風(1889~1961 )だそうで1923年に中央公論に「魔都」を掲載した事かららしいですがネットなどで上海、魔都と検索すると色んな憶測がされていますね。上海が急激に発展をしたのは、アヘン戦争後に海外向けに開港し日本やアメリカ、フランス、イギリスなどの租界(居留地)も出来て、海外資本が集まり中国最大の都市として発展日本や欧米諸国の金融機関や企業も進出し欧米の建物が建ち並び、街路灯等インフラ整備もされ、夜のナイトクラブや、ショービジネスなども盛んとなり東洋の巴里とも呼ばれたが光があれば闇もある。何かしら魔都と呼ばれる所以もあるのだろう高層ビルの建ち並ぶ浦東地区とは黄浦江を挟んだ、反対側の外灘(ワイタン)地区が租界であった為、まるでタイムスリップをしたようなレトロな西洋建築が約1キロに渡って残されており圧巻だすいません。走行中のバス車窓からなのでガラスの映り込みがどうしても入ってますむかって右の建物は1925年に竣工した日本の日清汽船の「日清大楼」で、今ではレストランになっているらしい1897年に中国初の銀行である「中国通商銀行」が入ったこのビルは、外灘では一番古い建物でイギリスのラッセル商会の建物であったそうだ夜のオプションの説明などには熱心なガイドさんは、これらの建物についての説明はなく、多くの乗車客も反対側の川向こうの浦東の高層ビルを眺めていたまぁね~ ↑そりゃこっちの方が目を引きます。ここ外灘の下車観光も3日目に予定されているが、やはり夜のライトアップを観るのが上海観光の目玉ではなかろうか100年前のレトロな建物と、21世紀の高層ビルが共存をしている上海。やっぱりここを旅先に選んで大正解だった時系列よりテーマ性。いろいろ紹介をしたい所もあるので、旅行の最終日の午前中に「外灘散策」の時間が設けてあったんで、その時の様子もまとめて紹介をしたいと思います左側が、↑にバス車窓からの写真を紹介した100年前の魔都、上海租界の町並みですガイドさんから、何分後にここで集合というアナウンスもなかったんで、視界も開けた所だし他のツアーの人たちは場所を移動せず同じあたりにいたんで、奥には行けず川の向こう側の浦東地区ですが、初日にはまだ少しは青空ものぞいていてカラフルな感じでしたが、今朝は今にも雨が降りそうなどんより空で、なんかモノクロな感じでしてほんと行楽はお天気の影響が大きいですそれだけに船に掲げてあった、中国の真っ赤な国旗が色鮮やかでした。すぐ後ろの金ぴかビルも目立ちますね。勿論夜の煌びやかな時間帯にもやってきてますので、その写真も後日に紹介します数百メートルもあるような、世界第2位のビルだけに、周囲の高層ビルが低く見えてしまいます。といった訳で昼間の外灘を紹介してみました。昼があるという事は夜もあるという事で、お楽しみにお昼ご飯を食べてからの1日目の上海市内の観光は2ケ所ありまして、そのどちらも中身が濃いので、また後から紹介します。バスを降りて観光場所や食事場所への移動の為に上海城市規画展示館では、急激に発展をする、上海の都市計画を展示した施設で現在の上海の立体模型なども街中を少してくてくする場合も、ついついあちらこちらをキョロキョロしちゃいます春節も近いのか、どことなく華やいだ飾りなどもされていますしバス移動中にもキョロキョロ。町のあちらこちらに金色に輝くビルがあるのが印象に残りましたそして宣伝媒体に赤をどど~んと前面に使ってますね。待ちゆく人の服装も、窓から干してある服や下着も、赤が多かったりもしますてな訳で上海初日の様子をおおまかに紹介してみました。歴史と、近代化のどちらも楽しめた上海、蘇州、無錫の旅。しばしお付き合いくださいね 平成31年1月26日に上海で撮影(最初は愛知県)にほんブログ村
2019年02月05日
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モノづくり王国の愛知県では、トヨタデンソー、アイシン精機といった自動車産業の他にもパロマ、リンナイ、マキタホシザキ、ブラザー・・・幾多の企業が存在をしているその中に、戦前は畳を造る機械を製造をしていた鉄工所が工作機械の製造を始め1963年には日本の工作機械メーカーとしては初めて対米輸出を行い、長年にわたり工業機械の売上高は世界一を誇っているというヤマザキマザックがあるところがこんな大企業であるにもかかわらず非上場企業だそうで、一部上場こそがある意味でステイタスなのかと思ったら、違う道もあるんだなぁ~と思った。上場をしない事により、投資家から経営に口を出されずに買収をされる心配もないメリットも非上場企業で有名なのが、他にもサントリーや竹中工務店、YKK、佐川急便、ロッテ、小学館朝日新聞、JTB、ヤンマー、カルビーなどなど沢山あるようだ少し話は逸れたが、機械を作る機械なのでマザーマシンと呼ばれる工作機械であるが1982年より日本は世界一であったのを2010年に、中国にその座を明け渡してしまったそうだ。工作機械は一般消費者向けではないので認知度は低いが、自動車産業並みに世界に誇る産業分野だ工作機械企業には御三家があって、ここヤマザキマザックの他に、DMG森精機とオークマで、その全てが愛知県の企業である。ヤマザキマザックではどのような機械が作られているんだろうか? 公式ホームページをのぞいてみると航空機部品などの高速・高精度加工を実現する同時5軸横形マシニングセンタだとか金型や医療機器部品など微細・精密加工に適した超高精度 同時5軸加工機とか、多品種少量生産の自動化を一台で実現する同時5軸加工機といった最新の機械製品情報が紹介をされていた・・・・わからん外国の人にはヤマザキという発音が難しいから海外ではマザックというらしい。私の名字や名前も難しいし旦那は、英国ではニックネーム的にオージーと呼ばれてたみたい。なぜにさてさてフランスのアール・ヌーボーの美しいシャンデリアや家具などの写真が並んでいるかというと名古屋のど真ん中地下鉄の新栄駅に直結をしたビルにあるヤマザキマザック美術館の収蔵品の数々であるヤマザキマザックの創業者の二代目で世界的企業に育てた山崎照幸氏が収集をした美術品コレクション約300点が所蔵されており、11月半ばまでは秋の所蔵品展が行われている「ヤマザキマザック美術館公式HP」山崎照幸氏の名言がネットにあった>「社員はバランスシートに出ていない>けれども、企業にとって最も大切な>資産である」という気持ちを経営者が>持っていなければ、どうして企業が>厳しい競争を勝ち抜けるのでしょう>戦後、カネも資源も技術もない中で、>日本が奇跡的な復活を遂げたのは、>人々の頑張りがあったからです。>このことを忘れてはいけません。何とも言えないような色合いをしている蜻蛉文脚付杯はエミール・ガレの晩年の代表作の一つであるんだとかアール・ヌーボーは19世紀末に起きた自然や花、昆虫などを題材にし、曲線などを多用し鉄やガラスなどの新素材を使った芸術作品であるヤマザキマザック美術館では殆どの作品が撮影可能なので、ブログなどでも作品を紹介されている方も多い。しかも額縁にガラスが入っておらず、それによる照明の照り返しもない。かなり間近まで近寄って鑑賞も出来たこのエキゾチックな女性の肖像画であるがエカチェリーナ・ドルゴロウキー皇女であり、先程の作品とともにルブラン夫人がフランス革命による亡命先で描いたものだ彼女はマリー・アントワネットと親しかったフランスの女流画家だこちらはロココを代表するブーシェの作品でマリー・アントワネットから声をかけられない事件でも有名な、ルイ5世の愛妾ポンパドール夫人の邸宅に飾られていたそうだが、まるで宮殿を飾るようなかなり大きな作品であった新古典主義で有名なアングルのルイ14世の食卓のモリエール。小学生の時に買って貰った平凡社の百科事典のカラーページに載ってたアングルの「泉」が大好きで、個人的に初めて出かけた展覧会がアングルだったし。それにしても王室に近しい画家の作品が揃っているというのは歴史好きに興味深いその次に出かけたのが、ロートレックかミュシャだったかな。こちらはドニの聖母月ーあるいは春の風景の中の聖母だもっと明るい色だが、写真はこんな具合になってしまったユトリロのマルカデ通り。エコール・ド・パリの画家ではモディリアーニとかシャガールとかも結構好きだったりするモンパルナスの王子とも呼ばれていたパスキンの椅子に座る女。あっ、言い忘れていたが千円の入館料には、節約家族には無縁の音声ガイドがもれなく付いてくるので、なんかお得感がありました♪そして私が10代の頃から好きだったドガの踊り子。個人的な好みもあって撮影した絵画だが、他にもルノワールやピカソ、モネ、ドラクロワ、クールベといった有名画家の作品もあったローランサンに憧れたのがいわさきちひろだそうです。かつて蓼科高原にあったローランサンの美術館が移転し今年夏から東京のニューオータニ内に開館したばかりだそうですよ前から興味がありながら来る事がなかったヤマザキマザック美術館には娘と出かけてお昼時になったので、通りがかりに良さそうなお店でランチにしましたメインを含めて、チョイスするタイプでして私はスープで、娘は前菜を選びましたメインは私はアサリのパスタでしたが娘は生ハムの添えられたリゾットランチセットにはドリンクも含まれていますが、更に300円でデザートのセットが付くというので、1つ頼んで二人で半分こしましたその日の名古屋栄でのお土産。いつものハーブティや干し果物。森口漬けに洋菓子バナナは帰りのスーパーで買いましたがそして、これは後日。10月の三連休に旦那は農作業で、私は娘と二人でドライブ行先は秋物を買いに土岐アウトレットという訳で二人で土岐市でモーニング今回はネットで事前に調べた土岐市街にある「オクトパスガーデン」に出かけてサイフォンで出てくる本日のコーヒーを注文。娘はアイスコーヒー飲み物代に100円プラスするタイプのモーニングですが、これならそれだけの価値はありそう。娘はハンバーガーので私は普通にモーニングタイプ。あきませんわ朝からお腹いっぱいになってしまいましたしかも椅子が長ソファーなんで、もうだらだら~と長居も出来ちゃいますし土岐アウトレットでは、娘が半額以下になった秋物の洋服1枚に、どれもが7割引きはしてた超破格の夏服2枚、私も秋服1枚に、かばんも7割引きと、安い安いとを連発しながら購入をしましたが、安いだけじゃな、良いものなのが魅力です更に定番のお得な食品の買い出しも。どれも3割引くらいで、賞味期限が12月の伊藤園の日本茶は前にも紹介した耐熱ポットがおまけに付いていましたさてさて地元でのモーニングも相変わらずボツボツと出かけております。こちらは中津川市街地にある「珈琲幸燈璃舎」さんでしてやっぱコーヒーチケットを購入していると、気軽に出かけやすいです今度は恵那峡に近い中津川の郊外にある「考見さ寮」。こういった手入れの良い庭があるのもポイントですね相変わらずの充実したモーニングでしてこれで、もう少し近かったらリピート率更に高くなるんだろうに、車で30分はちと遠いう~む。外観がなくどこの店のものか覚えてないですが、素敵なカップが使われているかも重要です。有名メーカーも多いですが美濃焼産地に近いので、こじゃれた器など使われていたりもそうそう最近の宝くじの当選番号をチェックしていたら、100円のくじが2等の各組共通50万円の当選番号に僅か220番違いだしきっとあの売り場でその日か次の日あたりに出たと思う50万円。羨ましすぎる~。千円にも10番違いだし地域の神社で秋祭りがあったので紅白のお餅を貰ってきた。更にお祝い事があるとうちのあたりは、ごろんと入ったお赤飯(おこわ)をつくります前に紹介をした戦前から戦後の混乱期に野球を愛した野口四兄弟のドラマですが今週末の土曜深夜に再放送されますのでよろしかったらご覧下さい。というか録画ですね、この時間は・・・NHK総合テレビ 10月22日午前0時50分から2時3分(土曜日深夜です)NHK「1942年のプレイボール」公式HPNHK「ザ・フォーク青春の歌8」公式HP更に、私が姉と出かけて番組収録の観覧をしたNHKのフォーク番組は、10月22日(選挙日)夜10時50分~BSプレミアム放映予定です↑ 平成29年秋に近場で撮影にほんブログ村
2017年10月17日
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娘も息子も仕事に行った9月下旬の週末に旦那と、どこかドライブへ行こうという話になってすごく良い天気だったので、きっと北アルプスが綺麗かな~?と思いついて朝早くに国道19号を北東へ向かって塩尻に出たけど、アルプスは雲に隠れ今ひとつスッキリと見れなくってやっぱ信州に来たなら林檎とかも買いたいところだとりあえず塩尻にも近い、松本の端っこにある道の駅今井の里で果物などを購入(写真は忘れた)今秋もでっかいかぼちゃが、ごろんごろんと並んでました。飼料用?そばの実も良い色に色づいて新蕎麦シーズン間近といった感じだが新蕎麦もまだ食べれないみたいだし山も見る事も出来ないし、ここは違う目的地へ潔く行先を変更した。こうしてやってきたのは諏訪湖だった諏訪湖を一望できる立石公園ですが、ここってアニメ「君の名は」に出てくる糸守湖に似ており新海監督も信州出身なのでモデル?とも言われており、その日もアニメファンと思われる青年らが来ていました夏のDVD発売で、再び君の名はの聖地巡礼ブームらしいです。私も早速、レンタルで見ましたが、映画館の大きな画面で見れば良かったかも。映像がきれいとは言っても湖以外のド田舎のモデルは岐阜県の飛騨古川なんですが。湖は信州みたいですね君の名はは小さな神社の娘さんが出てきますが、こちらは諏訪湖の周囲に四つある諏訪大社のうち、上社本宮うちの場合には地理的に下社秋宮に行くことが多いここも下社秋宮同様に温泉の手水なので知らずにがばっとかけると、アツッ!と驚くことになる日本三大奇祭の一つである数年に一度の御柱祭で、山から引き出された上社本宮の一之御柱。起源は平安時代以前とされて五穀豊穣、狩猟、風農耕などを祈願するものであったらしい。昨年のものなのでまだ真新しいこちらは二之御柱で、その脇には欅の大樹で樹齢300年以上あるそうだが根元のコブがすごいウィキペディアによれば、諏訪大社は>長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。>式内社(名神大社)、信濃国一宮。>全国に約25,000社ある諏訪神社の>総本社である。旧称は諏訪神社。通称>として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等>とも呼ばれる。>創建の年代は不明だが、日本最古の神社の>1つといわれるほど古くから存在する。>『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、>香取、諏訪の宮」と謡われているように>軍神として崇敬された。また中世に狩猟>神事を執り行っていたことから、狩猟・>漁業の守護祈願でも知られる上社本宮祭神は建御名方神 (たけみなかたのかみ)で、古事記の葦原中国平定(国譲り)で大国主命の御子神として登場をする神様である八坂刀売神を娶り二十二柱の御子神をもうけたとされている社殿6棟が国の重要文化財に指定され、社叢は落葉樹からなる自然林で長野県の天然記念物に指定されている。本殿はなく守屋山がご神体である。軍神として崇敬をされ坂上田村麻呂が蝦夷征伐に際して戦勝祈願をしたと伝えられる>天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の>降臨に先立ち武甕槌命(たけみかづちのみこと)が>大国主命に国譲りするように迫ったとされる。>これに対して大国主命の次男である建御名方命が>国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが>負けてしまい、諏訪まで逃れた>そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、>天津神の命に従うことを誓ったとされる ウィキペディアより相撲史上、最強とも伝わる江戸期の力士で信州出身の雷電の銅像があった。土俵では毎年9月に行われる十五夜奉納相撲の為だ日清戦争の戦勝記念に奉納されたとされる砲弾の記念碑なんだとか。日露戦争勝利に際しては、陸軍だけで「戦利兵器奉納ノ記」という文書と共に23170箇所の神社などに砲弾が配付されたんだとか更に海軍からのものや、皇室の御成婚記念や御大典、各事変の記念に砲弾が下附されたんだとか。ところがその多くは太平洋戦争時に金属回収をされて姿を消したそうだ今回の諏訪湖は紹介の順番がちょっと前後しちゃってますが、まっご愛敬という事で、次はランチの紹介などを!ここ1年位ずっと食べたいと思ってた「小作」の山梨名物かぼちゃほうとうが諏訪インターの近くに支店があるのでここで食べれます。更に峠の釜めしの支店も近くにあるので便利ですよっでかいホクホクのかぼちゃが2つも入っていて、これだけでもお腹一杯ここまで来たかいがありました信州にやってきたので、9月1日に千円で購入しながら使ってなかった信州物味湯産手形を使って、無料で温泉に入ろうと思い午前中には岡谷市にある日帰り温泉の美肌の湯ロマネットに入浴しましたなかなか雰囲気が良いと初利用の旦那が喜んでいたのでなによりです(私は二度目)午後からは、手形を見せると優待価格(千円→500円)となる上諏訪温泉しんゆも利用しました諏訪の帰りは杖突峠を越えて高頭から伊那へ抜け、スーパーのツルヤで信州らしい食べ物を食べて、今度は権兵衛峠のトンネルを使い木曽に戻りましたここは信州大学農学部のユリノキ並木さてさて、こちらは10月初旬の別日になります。娘は他にお出かけで、息子は会社勤務の週末にも、旦那の運転で近場ドライブ今度は国道19号を西へと向かいまして土岐市にある、カフェ杏でホットサンドモーニングは500円です食後にはミニデザートも付いてきたりしますそして土岐から今度は北上して、木曽川沿いの岐阜県可児市までやってきましたタウン誌に土日750円(平日600円)になるという日帰り温泉の湯の華アイランドの入浴料金の割引券が付いてたので、それを使って秋はやっぱり温泉だしかつて犬山で運行をされていた名鉄(名古屋鉄道)のモノレールの車両が駐車場脇に置かれていた温泉の後には、久々のアピタ(中津川店は8月に閉店。来月にはバローになる)の御嵩店(ラスパ御嵩店)に出かけて、お昼までは食べれないが、限定クレープに限り300円ポッキリだったので二人で食べた帰途途中の午後2時過ぎ、恵那の道の駅らっせいみさとのお蕎麦屋さんで、青いとろろ(モロヘイヤ)がかかったぶっかけお蕎麦を食べた前に紹介をした戦前から戦後の混乱期に野球を愛した野口四兄弟のドラマですが今週末の土曜深夜に再放送されますのでよろしかったらご覧下さい。というか録画ですね、この時間は・・・NHK総合テレビ 10月22日午前0時50分から2時3分(土曜日深夜です)NHK「1942年のプレイボール」公式HPNHK「ザ・フォーク青春の歌8」公式HP更に、私が姉と出かけて番組収録の観覧をしたNHKのフォーク番組は、10月22日(選挙日)夜10時50分~BSプレミアム放映予定です↑にほんブログ村
2017年10月16日
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いよいよ夏休みに出かけた2泊3日の家族での和歌山ドライブ旅行も最終日となった。この日も良い天気で、自然系旅行は、お天気の良し悪しに左右するものだと思いもした朝一番に出かけたのは、熊野三山の一つ新宮市にある「熊野速玉神社」であった前回の旅では、一番先に出かけたけど今回はラストとなった。無論、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成遺産の一つである熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ、伊邪那岐神、速玉之男)と、熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ、伊邪那美神)を主祭神としており創建年代はわからないとかすぐ近くの神倉山の磐座に祀られていた神が後に現在地に祀られるようになったといわれ神倉山にあった元宮に対し、現在の社殿を新宮と呼ぶ。今回も元宮は登らなかった・・・今回旅した熊野三山であるが、紀伊半島の南東部に各々20~40キロの距離を隔てて位置をしており熊野古道の中辺路でお互いに結ばれている。三社は個別の自然崇拝が起源であるが、三社の主祭神を相互に勧請し「熊野三所権現」として信仰をされるようになった更に仏が衆生を救済する為に、姿を現したのが神だとする「本地垂迹説」によって、主祭神が各々「阿弥陀如来」「薬師如来」「千手観音」と見なされた事も信仰を集めて、これらを巡礼をする「熊野詣」の目的地として栄えたそうだ大きなオガタマノキ。樹の説明については↓の説明文をお読みくださいませその他にも境内には、樹齢千年といわれるナギの大樹があって、平重盛のお手植えと伝わっているのだが見逃してしまったようだ名前が「凪」に通じているので船乗りに信仰をされ、その葉を災難よけとしてお守り袋や、鏡の裏に入れたりしたそうだ。また葉脈が縦方向にのみあるので、縦方向に引っ張ってもなかなか切れないので、葉や実が夫婦円満や縁結びのお守りとしても使われていた新宮市から赤い橋を渡れば、そこはもう三重県。和歌山県ってうちからはすごく遠いイメージだけど、東海三県(愛知、岐阜、三重)なので、ここはもう近場な感じだったりも。実際はすごく遠いけどさてさて江戸時代の話。三重県北牟婁郡紀北町海山に、侍をやめで百姓になった権兵衛さんは、見よう見まねで農作業をやっていたが、種を撒いても横から烏が食べてしまう有様で、みんなに笑われていたそうなそれでも懸命に農作業に励み、村一番の農家となった。狩猟の腕もピカイチだそうでお殿様が褒美を与えようとしたら、それを辞退し、村の年貢を免除して貰ったので村人らに慕われたそうだ馬越(まごせ)峠に大蛇が出るというので大蛇を退治しようと、権兵衛は山に入り見事に大蛇を仕留めたものの、大蛇の毒液を浴びて程なく亡くなってしまったそうであるそんな権兵衛のいた里を過ぎて、やってきたのは、お伊勢さん。内宮へと向かう門前町である「おはらい町」で、今日も沢山の人たちで賑わっていた。古くから皇室にも所縁のある由緒さる伊勢神宮であるが、江戸庶民もお伊勢参りをするのがブームとなった当時、庶民の移動(特に農民)は厳しい制限があったのだが、伊勢さんへの参詣は殆ど許される風潮であったそうで、参詣を終えたら京都、大阪へ観光に出かけたりもしていた。中でも数百万人規模のブームが数十年サイクルで起きたそうであるそういった大規模な集団参詣をお蔭参り(豊作も商売繁盛も神様のお蔭であるから)といい、その中でも1650(慶安3)年、1705(宝永2)年、1771(明和8)年、1830(文政13∥天保元)年の4度が有名だそうだおはらい町の郵便局。20年ほど前にここでお土産代わりにイラストの入ったハガキを購入したのがきっかけで懸賞を始め、次の週にはテレビ局のプレゼントに当選。3ケ月でその時に出かけた、伊勢のスペイン村がらみのスペインペア旅行が当選と、まさに神様のお蔭だった毎年は行けそうにもないが、数年に1度はお伊勢さんに出かけて運気アップ。今年も実は家族ですが成果らしきものが速攻で出てますわ。銀行もおはらい町ではこんな感じだウィキペディアより>伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市に>ある神社。なお「伊勢神宮」とは通称であり、>正式名称は地名の付かない「神宮(じんぐう)」>他の神宮と区別するため「伊勢の神宮」と呼ぶ>こともあり、親しみを込めて「お伊勢さん」>「大神宮さん」とも称される。神社本庁の本宗>(ほんそう)である。>伊勢神宮には太陽を神格化した天照坐>皇大御神(天照大御神)を祀る皇大神宮と>衣食住の守り神である豊受大御神を祀る>豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に>皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は>外宮(げくう)と呼ばれる>内宮と外宮は離れているため、観光で内宮>のみ参拝の人が多いが、まず外宮を参拝>してから内宮に参拝するのが正しいとされて>いる。(中略)伊勢神宮は皇室の氏神である>天照坐皇大御神を祀るため、歴史的に皇室・>朝廷の権威との結びつきが強く>現代でも内閣総理大臣及び農林水産>大臣が年始に参拝することが慣例と>なっている。また、式年遷宮が20年に>一度行われる。祭主は第一皇女黒田清子>大宮司は小松旧侯爵家当主小松揮世久五十鈴川は>倭姫命が御裳のすその汚れを濯いだと>いう伝説があり、御裳濯川(みもすそがわ)>の異名を持つ。神路山を源流とし皇大神宮>(伊勢神宮内宮)の西端を流れており、>御手洗場(みたらしば)が作られている2013年に式年遷宮で新しくなった内宮御正殿は、石段の下までなら撮影が出来る下宮の御正殿も板垣があり、その内側では撮影が出来ない決まりだ。今回は時間も少なく内宮のみの参詣となった内宮の御正殿には天照坐皇大御神(天照大神)と相殿(あいどの)に天手力男神、萬幡豊秋津姫命を祀っており、ここでは天下国家レベルのところなので個人的な願いはせず、日々の感謝などをすると良いようです。この写真は別の社殿ですでは個人的なお願いをどこですれば良いかと言えば、内宮で正殿の次に尊いとされる別宮の天照坐皇大御神の荒御魂(新しいパワーを起こすような状態の魂)が祀られた、荒祭宮の石段に4つに割れて「天」の字のように見える石があり踏まぬ石と呼ばれているこの石を避けて通らなければならないとされ天から降って来たという伝説があるが、隕石ではなく水成岩だそうで、その起源は定かではない。写真は撮り忘れました四至神(みやのめぐりのかみ)とは御神域の四方を守護する神様で、社殿や御垣はなく石畳の上に祀られている。最今はパワースポットと勘違いして、手をかざす人がいるようだが、神様がおいでになるので通常の二拝、二拍手、一拝による作法で参拝をするではでは参詣も終えたので、先ほどは早足で素通りしたおはらい町をゆるりと立ち寄ってみましょうか。まずは酒蔵へ伊勢神宮では1年365日、朝夕の2度に神様の御饌をお供えする.日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけのまつり)が行われているが、そこに使われる御料酒を造っている酒蔵である有料試飲でその御料酒がいただけ、お猪口になみなみとつがれお酒が盛り上がっているし!娘と二人で頂戴した今度は伊勢萬内宮前酒造場に行って、日本酒おかげさまの原酒に、大台町の柚子果汁などをブレンドしたものを娘と二人で飲んでみたこちらでは、お酒のおつまみなども安い価格で用意してあったこちらはすぐ脇にあるグルメなスポットのおかげ横丁で、気軽に食べ歩きが出来るそんな訳で8月のお盆時のトップシーズンに出かけた和歌山&三重の2泊3日の家族でドライブ旅行は無事に終え、夕刻には名港トリトン。帰りにもまたついつい写真を撮りたくもなる今しがたの電話。NTTのカスタマーセンターから来月から料金設定が変わるので・・・的な事をいうが、そゆうのは封書でくるだろっ! しかも今まで7000円してたのが数千円になるって「既にうちは5500円位なんですが」というと集合住宅ですか?って。怪しすぎる~こっちの今の契約状況もわからず、完全に代理店のネット契約の電話だったんだろうな以前は太陽光や電気関連の勧誘電話が多かったが、最近はネットが多い。どんな名簿を使って電話をしてきてんだろっ!サービスエリアにあった東海地震の防災強化地域のマップ。地盤の関係なのか中津川は飛び地みたいに強化地域になってるしそして豊田にある最後の橋。これもお気に入り行きの時はカメラの電源がうまく入らず写真が撮れなかったが帰りはばっちりだ和歌山のお土産は三段壁に立ち寄った時に500円以上のお買い上げで駐車料無料というお土産屋さんに置いたのでそこで梅とかりんとう。みかんは新宮の熊野速玉神社脇の柑橘系のお店で購入他に那智大社の門前で駐車料が無料になる土産店では会社の土産を買っていたそしてお伊勢さんでは伊勢の定番中の定番の赤福餅と、私が子供の頃から好きなアコヤ貝の貝柱を使った真珠漬。これをつまみに日本酒を飲むのは最高だ 平成29年8月16日に和歌山、三重県で撮影にほんブログ村
2017年10月10日
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今年の夏休みに家族で出かけた和歌山ドライブ、2日目の白浜の続きのレポートです。パンダやイルカ、ラッコなど動物をアドベンチャーワールドで堪能したので海岸線を観光がてら、今宵の宿へと今回の和歌山行きは、その宿の予約が出来たから、また和歌山に行こう♪って決心した訳でして、娘はパンダで、私はその宿の温泉目当ての旅行でした。そのお宿の事は後半でするとしてまずは荒涼とした雰囲気すら感じる自然美白浜の「千畳敷」です。千畳敷と言えばそれ程に広いという意味合いから、全国各地に存在し、私的には木曽駒の山上の千畳敷といった感じでしたが、他にも青森や山口福岡などにもあるようだウィキペディアによれば>新第三紀層の砂岩からなる、太平洋に面した>スロープ状の岩盤である。砂岩は非常に柔らかい>ため、打ち寄せる波の浸食を受け、複雑な地形を>形成している。>その広さはおよそ4ヘクタールで、畳を千枚敷ける>ほどの広さであることが名前の由来である。通常時は>岩盤の上を歩くことが出来るが、波浪注意報・警報>発令時には立入りが禁止される。年間を通して風が>強い事が多く、台風中継がこの場所で行われる事が>しばしばである。なるほどね~、いろんな景勝地があるもんだ自然系大好き息子は、あんな所まで行っているよ。こういった所にばかり連れ出したら家族との旅もいそいそついてきてくれるかな旦那も高いところで見下ろし山国育ちの息子は海際に波の音すらもが楽しいのだろう。何年ぶりの海とかっていうやつ?娘は、どうやらスマホ中。そんな訳で意味もなく、あれもこれもと千畳敷の写真を並べてしまいましたので、最近レンタルで借りてきた映画の話でもしようかと私の利用している三洋堂ですが、火曜日はレディスデーで、レンタル料が30%オフになる他に期間限定で利用できる100円引きクーポンもあったので、新作4本を数百円で借りる事が出来まして映画で日本語で見た「SING」を今度は英語で見たり、「この世界の片隅」もまた見たりしましたが、その他に重いものを見ましたよ。一つは労働者階級の貧困の話か、貴族階級の恋愛話が多い英国映画の「わたしは、ダイエル・ブレイク」は前者でした真面目に暮らしてきた妻にも先立たれた大工が、年をとって心臓の病から医者から仕事を止められたのだが、相手の顔すら見えない電話の先の係官の会話だけの判断で給付金が止められてしまった不服を申し立てたくて役所に行くが、電話で予約が必要だが、その電話番号ですらネットのサイトを見てほしいとか、ネットなど無縁だった大工のおじいちゃんにはハードルが高すぎて悪戦苦闘。遂には生活費が必要で家の家具なども売り尽くし何もなくなった部屋で呆然自失そんなギリギリな状態の老人なのだが、ロンドンからやってきたばかりの子供を抱えたシングルマザーの困りごとには世話を焼き、彼らの心の支えとなり・・・。なんかね平成の日本でも役所で門前払いをされ餓死する人が幾人もいる現状を考えると・・・身につまされる内容です更に遠藤周作原作の「沈黙」をマーティンスコセッシ監督によって映画化したものは隠れキリスタンを拷問にかけたり、踏み絵を強いて拒否した者らの処刑シーンなどが繰り返し描かれるもので、己の命すらも差し出す、信仰心というものは何だろうと考えさせられましたそして、そういった信者らの命を救う為に踏み絵でキリストを踏みつけ信仰を捨てる事となった「転びバテレン」の宣教師らの苦悩。信者は言います。天国(パレイゾ)は苦しみも年貢も無いんですよね。生きて行く為の支えとなる信仰。時に生きていく事は、まるで地獄にいる程の苦痛をすらも与えるのでしょう転び(キリスト教を棄教する)バテレンとなったフェレイラ神父は実在の人物で、彼の安否と転びの真実をしる為に、日本へやってきた主人公のロドリコ神父のモデルはキアラ神父といったそうだ。更にキリスタン弾圧を行った井上様を演じたイッセー尾形の演技が高く評価され、LA映画評論家協会の助演男優賞の次点であったんだとか劇中にも出てきた小さな聖母像は、雪のサンタマリア御像といい、外海の隠れキリスタンの家に残されたもので、二十六聖人記念館に原画があるそうだ。こちらは「三段壁」といい、長さ2キロ、高さ数十メートルの柱状節理の大岩壁地下36メートルには海蝕洞窟が形成されており断崖上から地中をエレベーターで降りると洞窟内部を観覧できるのだが、1300円もするので節約家族はスルーとなってしまった。熊野水軍の舟の隠し場所だったとも伝わっている。どんな感じかは下記リンクでご覧ください 三段壁洞窟HPそして白浜と言えば「高嶋(円月島)」で春分秋分の時期には中心部の穴(海蝕洞)を通し夕日が見えるそうだ。南北130メートル東西35メートル、高さ25メートルの島お~、この独特の建物は「ホテル川久」ではないかっ。1991年のバブル時代に今までにないようなホテルを建てたいと、当初の予算の2倍の300億をつぎこんだ豪華ホテルが完成したがバブル崩壊で倒産し、後に他企業に買い取られ営業を続けているこっちは近畿大学の魚類養殖試験場。近大といったらマグロの養殖で有名だが、白浜では巨大クエの養殖しているみたいだ日本経済新聞「めざせ巨大クエ 高級魚を身近に」途中には小さな造船所串本では橋杭岩。目の前に道の駅がありそこに車を停めて、気軽に見学ができるウィキペディアによれば>大字鬮野川(くじのかわ)小字橋杭の海岸>から紀伊大島方面へ大小約40の岩が南西>一列におよそ850メートルもの長きにわたって>連続してそそり立っている。>直線上に岩が立ち並ぶ姿が橋の杭の>ように見えることから橋杭岩と呼ばれて>いる。また干潮時には岩の列中ほどに>附属する弁天島まで歩いて渡ることが>できる。>橋杭岩は、1500万年前の火成活動により、>泥岩層の間に流紋岩が貫入したものである。>貫入後に差別侵食により柔らかい泥岩部が>速く侵食され、硬い石英斑岩が杭状に>残されたものである。といった観光もしつつ、夕方には勝浦の街中にある今夜のお宿の駐車場に車をおいて送迎バスに乗り換えて今度は船着場から送迎船でホテルへとむかった。(日記構成上、ここに紹介をしましたが送迎船や送迎バスは翌朝の帰路の写真です)実はホテル浦島は、前日に泊まった渡瀬温泉と同様に、旦那と二人で以前に利用した事があってのリピートです。温泉重視の私としてはここのダイナミックな洞窟風呂はもう一度、入ってみたい露天風呂でして空室1を発見したので、これはまた泊まるしかないかと前回は旦那と二人だったし格安系のプランであるたぶん古めな本館の洋室だったが、今回は4人でたぶん新しめな日昇館。前の部屋とは雲泥の差で同じ宿泊施設だとは思えない位だしかも部屋からの熊野灘の風景が素晴らしく温泉はまだしも部屋とか全体的なイメージが前の宿泊<<今回の宿泊と、良くなった旦那やっぱお金は払うものだね部屋にはおせんべいがあって、一息ついてから温泉でも行くかっ。前には台風接近で、ざっば~ん!と荒々しい波が打ち付け、びゅ~~~~っと風も吹いてたけど、今日はのんびり露天につかれるだろう山国住みの人間は海を眺めているだけでも飽きない。旅行先で海の見える部屋というのはポイントが高いし。山の上に位置するお高い山上館は改修中で、今回はそこの温泉は入れなかったのが残念だがそれでも大きなホテルだけに、幾つもある大浴場をハシゴして、スタンプを集めると入浴剤を貰う事が出来たので、人数分を土産にした。写真にもある忘帰洞が一番有名だ旅館の営業が始められた大正末期に、紀州の徳川頼綸公が来遊をされて、帰るのを忘れさせるほど心地よいと誉めたので名付けられたそうである 公式HP、ホテル浦島の温泉夕食はバイキングだが、新鮮な生マグロの解体ショーが売りでもあって、さばかれたばかりのマグロの刺身も好きなだけ食べる事が出来る。偏食の息子なので会席より、こういったものの方が助かるかも娘が揚げたての天ぷらを持ってきたやっぱバイキングにおいては、温かな料理、作り立てのものがあるかどうかがポイントになるそしてデザートが豊富かどうか。中でも果物が好きなので、ドラゴンフルーツがあったのはうれしかった最後のおかわり。肉とかそうゆうのもあったけど私はあまり好きではないしこうゆうさっぱりしたもので。コスト的にはバイキングってやっぱ安上がりなんだとは思うこちらは朝のバイキング。やっぱり料理は前回と同様で、ちょっとねって感じだけど温泉と部屋は良かった2日目の宿だったいよいよ旅も最終日。次回に続く! 平成29年8月15&16日に和歌山県で撮影 にほんブログ村
2017年10月03日
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民放の夏ドラマも終わり、朝ドラひよっこも今週でお終い。いよいよ秋ドラマのスタートとなるが、以前から8回程度のNHKドラマがお気に入りだ。少し前には「ブシメシ!」(再放送)とか、「定年女子」などを見ていた今やっているのは竹野内豊「この声をきみに」原田泰造「全力疾走」で、中高年の主人公のものは落ち着いて見てられるし、どれもコメディタッチでもあるような気もする。てな訳でして全力失踪。財テクの為にマンション投資をする為に闇金に借金もしている中年の主人公会社でも家でも、まるで下僕のように扱われるダメダメ人生に嫌気がさして、7年間の失踪で死亡扱いになり自由を取り戻す為、全国各地へ全力で失踪をしようとするのだが、第四回での岐阜の山奥に向かうのだが降り立ったのは駅前に黄金の信長像が建つ、岐阜駅でも次のシーンで岐阜の山奥だという架空の村として映ったのは近くの恵那峡ではないかぁ~東京から岐阜駅使って恵那峡。架空の村だとはいっても名古屋からだろって地元民は思いつつその風景のみでドラマ部分のロケ自体は、他の地方だったらしいしこのドラマで、特に気になる俳優さんが闇金の取り立て屋を演じられている手塚とおるだけど元は舞台系の俳優さんだったのが、倍返しの「半沢直樹」での嫌味な役がブレイクして以来ルーズヴェルト・ゲーム、小さな巨人って・・・もはや悪役といったらこの方、100倍返しさせられた香川照之とかぶっているような気もする重役クラスが香川なら、課長あたりが手塚って所か。武士や公家とかも似合いそうだし大河あたりに出てこないかな~。二人セットで(笑)NHKのBSでやっている火野正平の自転車旅は今週から秋の旅が始まって、一番最初は長野県で、松本や、安曇野、諏訪といった懐かしい風景が次々に紹介をされているが松本のカレー屋さん「デリー」が店主の体調不良で休店していたのを知った行こう、行こうと思いつついろんなお店があり遂に、一度も食べる事がなかったデリーのカレー。店主の体調が回復されると良いのだけど・・・。ではでは8月のお盆に家族で出かけた「和歌山アドベンチャーワールド」の後半レ〇ランドよりも安い4500円のチケットでパンダをかぶりつきで存分に見て、バスでサファリワールドで猛獣を見たりして、まっ大人ばかりで遊園地はスルーをするとして次にやってきたのはイルカショーだ。サファリの後に来たら、時間が迫っていたので後部座席になってしまったので、少し迫力はないけどもショーの全体的な流れは見やすいかもしれない更に水がかかる心配もない白浜の自然豊かな風景をバックにして空にはこんなのものんびりと飛んでいた特にイルカショーも書くことがないし、またテレビの話にでも戻りますか。NHKの短い連続ドラマに、NHKのBSの自転車旅ときてこの秋、やたらにNHK押しって訳でもないけど、9月中旬に姉と東京へ行ってきました1年前の日記を覚えている方がいるかは判りませんが、NHKのBS放送でごく稀にやっている「ザ・フォークソング青春の歌」の番組観覧に姉と当たったけど、姉の姑が入院して私一人が行った事台風目前にひやひや! スマホデビューにNHK!今年の9月のいろいろ。 ライブハウスのような感じで、小さな舞台を囲むようにパイプ椅子が並べられたもので森山良子や、ばんばひろふみ、小室等といった面々の歌を堪能してきたんですがあれから1年近くたった夏にネットで、再び観覧募集の告知がありまして今年こそ姉を連れて行こうとリベンジ。同じ日に2回分を収録するので、どちらを観に行こうかなと迷いつつ・・・夜の回にしましたで、7000分の300(だっかな?)程の確率だったようですが当選しましたNHK公式HP「ザ・フォークソング青春のうた」杉田二郎、細坪基佳(ふきのとう)、竹原ピストルなごみーず(太田裕美、伊勢正三、大野真澄)のゲストに、司会の南こうせつ(赤ちょうちんを歌唱)坂崎幸之助、なぎら健壱。1時間くらい並んで前よりも更に前の列で番組でも映っていそうな(汗)姉は大野真澄(ガロ)の学生街の喫茶店を聴けて良かったと喜んでたし、住友生命のCMでの「よ~、そこの若いの」で名の売れた竹原ピストルの熱唱もとても良かった。彼は俳優もしてて、今やってる缶ビールBOSSのCMで溶接工を演じているみたい 上から見るとこんな感じらしい放送予定日は選挙みたいで、どうなるか未定また間近になったら、ここでも紹介をしますが太田裕美見たぞ~♪とファンの旦那に自慢をしたが、最終回を迎えるNHK朝ドラのひよっこで、米屋のさおりやみね子の恋話でバックに流れた恋のうたは、太田裕美が歌唱している好き好き好き…君が好きっ♪ あのドラマって当時の流行歌などもふんだんに出てきて私も知らないものもあったが、5才年上の旦那などは知っていたり、微妙な年の差で違うなんていうのも面白いもんだ旦那は吉田拓郎とか井上陽水、さだまさしといったフォーク黄金期にギリひっかかっているが、私の頃はチューリップやオフコースなんだもん。でも旦那がテレビや車で聴いているから私も娘も当時の歌を覚えてしまったNHKのBSとかでも、高田渡なんて歌よりもすんごいおっさんだなぁ~と、その存在感に驚いた次第最近もテレビを見てたらビートルズのコンサートを武道館で見たなんて話している人がいたけど、今の60代後半の人にとって、ひよっこは懐かしい青春の頃の思い出がいっぱい詰まっていていたんだろうなぁ~私が生まれた頃に、もう高校生だった姉なども、ちょうどみね子世代なんだと思う生まれた世代によって、流行も違えば世相なども違うので、バブル世代はとかいうが、岐阜の山奥の田舎にバブルは来なかった子供の頃にはだしのゲンや、ルーツ(黒人ドラマ)が流行っている時代でもあったので中学、高校どちらも修学旅行は広島という感じで。唯一の自慢は漫画アニメ黄金期に子供時代だったので有名なのはタイムリーに見れたことくらいかハイジだって勉強などせず、ペーターと山を駆け回ってたし ゲゲゲの鬼太郎、あしたのジョー、ヤマト、タイムボカン、ベルサイユのばら、エースをねらえ、キャンディ・キャンディドカベン、ガンダム・・・数えきれない懐かしい思い出 最初に見た映画は、友達と多治見の映画館で、夏の終わりに宇宙戦艦ヤマト。観客は数人で足元で鈴虫が鳴いていましたっけそろそろ本題に戻ります。イルカショーをやっていない時間も脇にある小さなプールなどでイルカが泳いでいて、間近で見る事が出来ますがこのような注意書きがありました。噛むんだペンギンは小さな雪山に寝転び涼んでました人口の雪が降る真下にもペンギン泳ぐ姿はまるで風船みたいだしくちばしが・・・・こんなかわいいペンギンの長椅子も。さて海の生物で愛らしいと人気なのがラッコで1982年に国内の水族館に登場し10年後ピーク時には100頭以上が、日本各地の水族館などでも見られたが、現在では僅か12頭しかいないそうだ野生のラッコの保護で輸入も出来なくなり、国内のラッコも高齢化で繁殖もままならず。まもなく国内で見れなくなってしまうと言われる貴重なラッコもオスメス2頭いました中日新聞Web「減る一方の飼育数ラッコ」一番若いカップルは福岡で、次はここみたいだけど赤ちゃんラッコ生まれて欲しいなぁ。パンダは上手なんだけどなイルカショー以外にもかわいい動物たちのショーがありました。小さなお子様連れやお年寄りも楽しめますなかなか愛嬌あるポーズをとりますねウェストのくびれがないのが気になるのかおいっちに~おいっちに~腹筋中こちらはカワウソなのかな。観客席までやってきてました。北海道から九州までそこら中にいた日本カワウソも1983年に死骸があってから日本で見つかってないのが、対馬でいたとかいないとか・・・朝日新聞Web「和歌山から消えた生き物編10日本カワウソ」突然の頭上での羽ばたきには驚きました。鳥なども飛ばして、貴重な動物もいてショーなどもあって非常に楽しめましたよ。ではでは 平成29年8月15日に白浜で撮影にほんブログ村
2017年09月28日
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明治15年に農商務省博物局付属の動物園として開園した、今の東京恩賜上野動物園のパンダのリーリーとシンシンの間に、6月赤ちゃんパンダが生まれ、その成長ぶりがテレビなどで報道をされておりパンダを見たいなぁ~と思って、今回の家族旅行で和歌山県を選んだ訳だ。え?東京じゃないの?と、思われている方もいるかもしれないが、何も東京まで行く事もない。昨年の秋に生まれたかわいい子パンダを見に旅行初日に、熊野で泊まっての二日目の朝向かった先は白浜アドベンチャーワールド本当は、初日は白浜に泊まりたかったけどパンダ人気かお盆でなのか、旅館は一杯でお高い4名で、1泊二食10万円越えの部屋しか残っておらず断念まっ、熊野本宮のある渡瀬温泉からでも1時間程度で行けるなら、ここから行けばいいかと・・・。熊野本宮から白浜へは熊野古道の「中辺路」に沿った道路なので古い道の入り口が見えたりとか、気分だけでも味わう事が出来た開園直後のアドベンチャーワールドに到着パンダの絵もあるし。入園料は大人の場合4500円と高額だが、パンダも見えるしイルカショーとかサファリパークもあるんだから、話題の〇ゴランドよりもお得感はありそうで、パンダです。1972年に東京上野にランランとカンカンが来日してのパンダブームから遅れる事数年。1978年に開園し動物園、水族館、遊園地が一体で大人も子供もお年寄りも楽しめるテーマパークとなったのだがどんな流れでしうなったのかは判らないけれど、~ウィキペディアによると~>中国成都市の成都大熊猫繁育研究基地>日本支部として活動している。同基地>との協力で進められているジャイアント>パンダの繁殖研究事業では、2016年9月>18日現在までに16頭の繁殖実績があり、>2016年9月18日現在、14頭が無事に成長>している。これは、出産頭数、成長した>子供の数、ともに中国本土を除けば世界>最多である。また中国国内以外で、双子の>ジャイアントパンダを両方とも育てる>ことに成功した初めての施設である>前述の通りアドベンチャーワールドは成都>大熊猫繁育研究基地の日本支部なので、>現在飼育されているジャイアントパンダは>子供も含めてすべて中国の成都大熊猫繁育>研究基地本部の所有である。その為、少し大きくなると中国に帰ってしまうので、今年6月にはここで生まれた海浜と陽浜の双子パンダ(6歳)と優浜(4歳)が中国に帰ってしまった。あぁもっと早くに行けば良かった今年春までだったら、本国に次ぐ8頭ものパンダが見る事が出来たのに。それでも今も永明(えいめい)、良浜(らうひん)桜浜(おうひん)、桃浜(とうひん)と昨年9月に生まれた結浜(ゆいひん)の5頭が元気に暮らしているのだこの白浜で毎年のように赤ちゃんパンダが生まれる理由は、ネットなどによれば近隣の大阪府岸和田などの孟宗竹が新鮮で美味しくパンダの口に合うだとか、和歌山の繁殖期の気候が中国四川と似ているからだとか更には既に老齢に達した永明(えいめい)が女性に優しく、自然繁殖がうまくできるといった事が上野とは違うらしい。ともかく中国へ行くお金も時間もない人は、和歌山でパンダ。ここまでの写真は2014年12月に生まれた桜浜&桃浜の双子パンダですちゃんと飼育スペースは分けられていて名前も書いてあったけど、はっきり申しまして、どっちがどっちか忘れてしまいました・・・(汗) どちらもメスだとか後姿すら絵になるパンダです子宝パンダの永明(えいめい)は1992年北京動物園生まれの25歳。人間でいうなら70歳を優に超え、昨年秋に結浜が生まれた事で世界最高齢のパパとなった。梅梅との間に6頭、既に妊娠して白浜にやってきて父親は別の梅梅の娘である、良浜との間に8頭と子だくさん白浜で生まれたパンダの赤ちゃんは、皆浜の字が付けられ、既に何頭もの永明の子供たちが中国に戻り、浜家ファミリーと言われているそうだ。9月に1歳になったばかりの末っ子結浜はやんちゃ娘だそうだかなり大きくなってはいたが、それでも子パンダ。動きも素早いし愛くるしくてまるでぬいぐるみみたいだちょこんとバランスよく高いところに座っていたと思えば体勢を崩してこんな感じになったと思うと横にもなって・・・あら下向きになった。祭りで見た消防のはしご乗りみたいだしお母さんパンダの良浜(2000年生まれ)の上に飛び乗ってよいしょ、よいしょどうもお母さんを押しているみたいでくるんとお母さん、一回転子供に押され、くるんと一回転した良浜ですパンダはどれだけ見ても見飽きないです。あっ感の良い人は、お気づきかもしれませんが白浜の繁殖数と、永明の子の数が合わないのは死産とかのあるなしと、梅梅が既に妊娠して来日したあたりですお昼ごはんには双子のパンダのカレーでしてセットの飲物にもパンダ柄のカップパンダのパンもあればパンダの肉まん、あんまんイルカショーの会場でも、売られているのはパンダッそんなアドベンチャーワールドには他に動物もいます。サファリスペースでは草食系のエリアは、基本料金に入ってるバスや、有料のカートや、自転車、徒歩などでも観覧できます普段から日本有数の種類数、広大さを誇る名古屋市の動植物園に出かけているのでサファリゾーンは狭いなぁ~って思ってしまった動物の種類数は名古屋市の動植物園が1位で、2位は上野動物園なんだとか上野、そんなにいるようにも思えないけれどもしかも世界三大珍獣が全部そろっているのは上野だそうで、パンダにコビトカバオカピなんだって。そうなんだ・・・あとパンダだけど和歌山の5頭に、上野の3頭。更に神戸市立王子動物園にいるのが坦坦(メス・22才)。阪神大震災の復興に取り組んでいる神戸の子供たちの為にとオスの興興(死去)と2000年に来日しここではパンダとコアラが見えるのが有名最近、中国の福建省で世界最高齢のパンダが亡くなったそうだ。その年齢37歳。人間なら100歳を超えたご長寿パンダだったそうだ。数十年前から保護活動が行われ、少しは個体数も増えつつあるそうだ国際自然保護連合は、1年前にパンダを絶滅危惧種から、危険度合を一つ下げた危急種にしたそうである。さて草食動物エリアからバスは、肉食獣エリアに入る二重の柵で囲まれた出入り口から中へと入るが、すぐ脇には監視塔もあって気分はジュラシックパークお~、すぐ脇には虎ですわ吠えているのか、あくびをしたのか日陰にのんびりと雄ライオンこっちは雌ライオンがZZZZ・・・・ZZZ・・・・更に観客の多い入り口付近でも動物がこんなところにもいるよ人気のペンギンパレードが始まりましたこういったイベントから、人気を博したのが北海道の旭山動物園で、何も動物の数や珍しさでなくても楽しく観察出来るといった、楽しみ方を教えてくれたのがこの動物園北海道の旅行に多く組み込まれもしたけどそのブーム前に2度の北海道旅行で、私は行く事はなかった。あと動物園とかってちょっとしたきっかけで、全国区の人気者になるチャンスだってあるし最後に。あと検索をしていたら短期レンタルなどで福岡や、岡山、甲府でもパンダを見る事が出来たそうだ。全然、そうゆうのは覚えてないし。地元じゃないからかな? そんなレンタルのパンダを見に行かれた方、おられますか?といった訳で4500円もの大枚を払いパンダを見に来たアドベンチャーワルドだけど、まだ水産部門はこれからだ後半に続く! 平成29年8月15日に白浜で撮影にほんブログ村
2017年09月24日
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眼の前は熊野灘である。和歌山県最南端に位置する潮岬から、三重県の大王崎に至る地域の海域のことで、江戸と上方を結んだ海の東海道でもあったそして熊野三山へと向かう参詣の道である熊野古道も海岸沿いにもあり、伊勢からの伊勢路があり、古くから多くの人がここも通っていた先日紹介をした熊野市の鬼が城、獅子岩の近く、七里御浜に面した山際に花窟神社がある。伊弉冉尊(いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀っている。 ウィキペディアによれば>日本書紀(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は>軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて>死に、紀伊国の熊野の有馬村に埋葬され、>以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて>伊弉冉尊を祭ったと記されている のが、この地であるそうだ>神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と>呼ばれる高さ6メートル、幅2.5メートル>深さ50センチメートルほどの大きな窪みが>ある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、>白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が>設けられている>この火の神である軻遇突智の御陵である>ともいう。花窟神社では伊弉冉尊の拝所の>対面にある高さ18メートルの巨岩が>軻遇突智の墓所とされている。2004年>世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の>一部(熊野参詣道伊勢路の一部)として>登録されたすぐ脇には道の駅も。花の窟をうたったものには、西行法師の 三熊野の御浜によする夕浪は 花のいはやのこれ白木綿(しらゆう) 紀の国や花の窟にひく縄の ながき世絶えぬ里の神わざ本居宣長の他にも、様々な時代にそして、このあたりは年中みかんがとれるみたいだ。前回は晩秋でみかんを土産にしたが夏の盛りには、売っているのだろうか? 長い海岸線を過ぎてこの橋を渡ると新宮市。いよいよ熊野三山のある和歌山県へとやってきた。まず最初に向かったのは那智の滝もある熊野那智大社だかなり手前の道沿いの駐車場に車を停めて、そこから大門坂を歩いて登り那智大社へ参詣する人も多いが、うちはそのまま車に乗って、二車線のつづら折りの坂のカーブを過ぎて、両側に土産物屋の並ぶ門前町へその少し下の那智の滝付近には有料の駐車場も多かったけど、前回は上の方で帰りにお土産を買えば無料で駐車できるお土産さんがあったので、そこに今度も停めた。そこから、この階段をのぼって後ろを振り返る途中の土産物屋にはおとなしそうな看板わんこ。やっぱ土産物屋に車をおいても少しは石段をのぼらなければ那智大社にはつかないが門前町の土産物屋の駐車場よりも、ずっと上、神社や寺の脇にある大きな駐車場はご老人や幼い子供の乗った車は、利用が出来るのでご安心召されよという訳で熊野三山の一つ、熊野那智大社に到着。主祭神は熊野夫須美大神(伊弉冉尊)で配祀神は沢山すぎるので略します。とにかく沢山の神様がおいでになります。もちろんユネスコの世界遺産になっていますウィキペディアによれば>孝昭天皇の頃にインドから渡来した>裸形上人が十二所権現を祀ったとされ>また仁徳天皇の頃に鎮座したとも>伝えられるが、創成の詳細は不明>熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐>神社(本宮)、熊野速玉大社(新宮)の二社とは>異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に>始まるため、社殿が創建されたのは他の二社>よりも後である。>一説には、那智山の奥にある妙法山に登る>ための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、>夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建>されたともいう。 との事である平重盛お手植えと伝わる樹齢850年の楠の空洞は通る事が出来るが有料なのでやめたすぐ脇に西国三十三所第一番札所の那智山青岸渡寺(せいがんとじ)。御本尊は如意輪観世音菩薩で、こちらも世界遺産であるウィキペディアによれば>仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)>から渡来した裸形上人による開基とされ>同上人が那智滝の滝壺で得た金製の>如意輪観音を本尊として安置したという>後に推古天皇の勅願寺となり6世紀末~>7世紀初に生仏聖(しょうぶつひじり)が>伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して>その胎内に裸形上人が感得の如意輪>観音を納めたという>中世から近世にかけて、隣接する熊野那智>大社とともに神仏習合の修験道場であり、>如意輪堂と称されたその堂舎は、那智執行に>代表される社家や那智一山の造営・修造を>担う本願などの拠点であった>明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野>三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社>では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では>如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸>渡寺として復興した。寺号は秀吉が大政所の>菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来>すると言われるご詠歌(えいか)は 補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬ご詠歌とは仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌と成して旋律(曲)に乗せて唱えるもので 平安時代より伝わった仏教の宗教的伝統芸能の一つであるさて熊野三山に参詣する熊野古道は紀伊路(渡辺津から田辺)小辺路(高野山 から熊野三山)70キロ中辺路(田辺から熊野三山)大辺路(田辺~串本~熊野三山)120キロ伊勢路(伊勢神宮から熊野三山)160キロ紀伊半島は雨が多い地域であるので、石畳が敷かれたそうだ。↓ウィキペディアによれば>皇室で参拝したのは、908(延喜7)年の>宇多法皇の熊野御幸が最初と言われる。>熊野御幸とは、上皇の熊野詣のことで>1281(弘安4)念の亀山上皇の熊野御幸>までその期間は374年間、94回行われた>室町時代になると、貴族のほかに武士や>庶民の間でも熊野詣が盛んになり、蟻の>熊野詣とまでいわれるほど、凄まじいほどの>参拝者の大群であったといい、熊野三山の>繁栄も頂点に達し、熊野参詣道も広域道路と>して整備された>1906(明治39)年末に布告された神社合祀>令ににより熊野古道周辺の神社の数は激減>熊野詣の風習も殆どなくなってしまったそして那智川中流にかかる那智の滝は、一段の落差は133メートルと日本一。華厳の滝や袋田の滝とともに日本三名瀑布に選ばれている国の名称で、やはり世界遺産にも登録をされている。那智山の一帯は滝に対する自然信仰の聖地で一の滝にあたる那智の滝は飛瀧神社の神体で、飛瀧神社の境内に設けられた滝見台から眺める事も出来るが、有料なので今回は無料部分の手前からまっ、前に来た時は私だけ有料の滝見台まで行ってきて写真も撮ったし。宝物館とか、とにかく有料施設が嫌いな家族が同行もしているので。こちらは境内にあった遥拝石詳しくは↑の説明をお読みください。なでなでおっ、なにやらでっかい長い箱が境内におみくじだぁ~。日本一でかいらしいさて雨の多いこの地域は、何度となく水害にあっており平成12年の台風2号の、紀伊半島豪雨では、幅数メートルの那智川も氾濫して鉄砲水が下流の人家を押し流し、幾人もの尊い人命も失われてしまったこの台風の被害は(ウィキペディアより)>全国で98人の死者・行方不明者が出た。>これは平成の台風被害としては平成16年>台風第23号と並び最悪のものである>負傷者113人、住宅の全壊380棟、半壊>3,159棟、一部破損466棟、床上浸水>5,499棟、床下浸水16,592棟その大半が和歌山県、奈良県などで起き紀伊半島における被害であった。↑2枚は奈良県が源流で新宮市で海に流れ込む熊野川の写真だ。下流に熊野三山のうち残りの二つの神社があり、その流域は水上の参詣道として、世界遺産に登録をされている天川村や五條市では天ノ川が、十津川となり熊野川と名前が変わる。流域は林業が盛んで、いかだを組んで材木を下流に運んでいたなごりで、今は観光いかだも行われているその熊野川沿いにあるのが熊野本宮大社で明治中期の大洪水で流されるまでは川の中州にあったのが、今は少し高台に移った熊野三山の一つでユネスコの世界遺産だこの神門の奥は、ご神域にあたるのか写真撮影は禁止となっていたので、写真はないこちらは神門の外側にあった拝殿。旗にあるのは八咫烏(ヤタガラス)。今は日本サッカー協会のシンボルマークで日本代表エンブレムの意匠として知られているが、熊野三山において八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在だこんなところに八咫烏の乗った黒い八咫烏ポスト。ある事を事前に知っていたのだから、何か郵便物でも持参をして来れば投函出来たのに石段から見えているド根性木の根っこという訳で初日の宿泊は前回と同様に熊野本宮大社の近くにある、西日本最大級の露天風呂が自慢の渡瀬温泉で高級なささゆり>家族的なやまゆり>リーズナブルなひめゆりとあるうちの前回はやまゆり。今回はひめゆり棟だとは言っても、お食事はやまゆりの食堂を利用するし、お風呂はささゆりのものでも利用が出来るのでお得なのかも。お盆料金だった事もあり4人で数万円位の宿泊料だあれ~れ~、食前酒の写真を撮る前に飲んでしまったようだ。旦那は大きなビールジョッキで生ビールを注文したので、自分のを娘にやっていたようだ。ここの生ビール旅館にしてはかなりお得な価格だった。って娘、ビール貰ってるよ娘の「ちょっと一口頂戴」の一口とはぐびっぐびっぐびと、三回は飲むしっという訳で、お食事のコースの写真を並べてみました。特に説明なども必要ないと思うので渡瀬温泉の事でも旦那と二人で勝浦に来たた時にも、ここ渡瀬温泉を利用したのだが、台風が直撃した日だったので、観光もそこそこに午後早くに、こちらにチェックインしたのは良いが風雨も激しく自慢の大露天風呂も内風呂や軒下の隅にしか入れず台風一過となった次の朝に、大露天風呂を利用できただけである意味ではリベンジ的な意味合いもあった。それに他にもささゆりの大きな風呂もあれば、無料で幾つもの貸切露天風呂も空いていたら予約なしで利用を出来るのも面白かった貸切りの露天風呂と言っても、結構一つ一つが大きくって、下手な小さな旅館の普通に露天風呂クラスなのでのんびりと一人で露天に浸かりたい人にはお勧めの温泉だ大露天風呂の泉質は、ナトリウム-炭酸水素塩泉。3本の源泉から毎分600リットル以上の湯が湧いており源泉掛け流しであるまた熊野本宮温泉郷の一部として、湯の峰温泉、川湯温泉とともに国民保養温泉地に指定をされているやっぱ旅行となると山国の人間が非日常を求めるのは海か都会か。更には温泉であるというのも重要なポイントで、東京や大阪あたりでも温泉のあるホテルを利用したりする事もあるデザートは盛りだくさんで良い感じ「わたらせ温泉の公式HP」露天風呂の写真とかは↑リンクからご覧下さい夕食の後も温泉巡りで、つり橋を渡りささゆりの大浴場へ向かった。翌朝の料理は白飯の他にお粥なども用意されていたので、そちらを食べたさっ、2日目は娘の行きたかったあそこへとむかうとしよう < 続 く >本来ならば今日、関東に行く予定でしたが台風が心配で明日にしました。次兄の家であるので変更可能。明日朝も天気が悪ければ延ばせばいいし。そんな訳で時間が空いたのでブログを更新してみました平成29年8月14日に熊野で撮影にほんブログ村
2017年09月17日
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突然ですが名港トリトンです。伊勢湾岸自動車道にかかる3つの斜張橋(塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える橋)の愛称で、私の大好きなルートである8月のお盆休みに、珍しく息子も参加した家族4名のドライブ旅行で、名港西大橋名港中央大橋、名港東大橋を渡って行く先は、伊勢か関西か、はたまた紀伊半島一番大きな息子の車を運転するのは旦那息子は娘と一緒に後部座席で、だらだらしていたので、私は助手席を占拠をしてカメラで車窓から撮影中。おっ!話題のレゴランドだ! 私が行く事とかあるんだろうか? タダなら行くけど・・・なにやら工事中。こんな手順で作ってるんだ左側に長い長い行列が出来ているしっその先にある絶叫マシーンがいっぱいの長島スパーランドに行く車の行列だった夏は巨大プールが大人気で、新聞などに人の頭ばかりのプールの写真が、風物詩として載っている遂に始まった。四日市あたりを起点にした渋滞。この時間は30分はまだましな方だずっと前だが、名港トリトンから大渋滞で伊勢に行くのを諦め、このすぐ先で降りておちょぼ稲荷に行先を変更した過去もあるやっぱ構造上の問題じゃないかとここなんですよ。本線が三車線が二車線に減るので渋滞も起きている模様だ。他にも手前で、伊勢湾岸と名古屋環状道路の合流などもあるしスイスイ車も走るようになった道の先は新東名で滋賀方面が分岐し、更に名阪道で奈良や大阪方面に分岐して、向かうは伊勢方面。紀伊半島を南下中トイレ休憩に立ち寄ったサービスエリアはドッグランや、わんこの水飲み場が完備をしていたなんか新種の犬にもなれるワン!ここで少し遅めの朝ご飯。やっぱ伊勢にきたんだしもちもちと独特の噛み応えのある伊勢うどんを食べたこんな伊勢うどんパンもあったらしい伊勢醤油のソフトも食べたかったがお腹いっぱいでパス。残念伊勢自動車道は正式には近畿自動車道伊勢線というらしい。やっぱ三重県は近畿扱い? 勢和多岐ジャンクションで紀勢自動車道に接続をするが、そちらは全線はまだ繋がっていない紀伊長島ICより南は、高速道路会社ではなく国と地方自治体の負担による新たな直轄事業である「新直轄方式」で計画をされている為通行料金は無料で利用が出来るのだ。これで尾鷲までスムーズに来る事が出来たこっちの方面も、山国の岐阜県民には人気で、旦那も若い時に車で来たそうでその当時はかなりの時間を要したようだが今はそれ程の遠い、きついといった印象はなかった。四日市のいつもの渋滞以外はそして入り江の港町の向こうには海~!尾鷲北ICで降りて、すぐに山の中を通る熊野尾鷲道路を通れば、そこは熊野市でここってまだ三重県なんだ国の天然記念物及び名勝である「獅子巖」は地盤の隆起と海蝕現象によって、高さ約25m周囲約210mの奇岩で、南側に位置する神仙洞の吽の岩(雌岩)に対しての阿の岩(雄岩)と呼ばれ、井戸川上流にある大馬神社の狛犬として親しまれてきた神仙洞の方は全く気が付かなかった~狛犬うんぬんは、このブログを書く為に検索で気が付いた事だ。そして熊野の夏と言えば七里御浜で、毎年8月17日に開催をされ全国有数の規模を誇る、熊野大花火大会で有名である初精霊供養の為に極楽寺で始まった花火が起源とされて300年以上の歴史がある大正時代から戦前は数軒の花火業者がありシンガポールなどにも輸出をしていたが戦後は衰退し、今は1軒のみなのだとか間近となった花火大会の準備がされていたその中でも有名なのが、250キロの三尺玉を海上に浮かべたイカダの上に乗せて、爆発をさせる大迫力の花火で、直径数百メートルにも及ぶ美しい半円を誇っているそして熊野大花火大会のフィナーレを飾る七里御浜に続く鬼ヶ城の大仕掛は、自爆(地爆)と呼ばれており、その体感震度は震度7にも達するそうである。どんなだろ初日の最初の下車観光となったのがその熊野の鬼が城である。よく晴れた日で海も青い。旦那と息子が二人で前を行く。娘は手前の道の駅の見物で出遅れ中鬼が城はこのように岩場の周囲をてくてく歩けるようになっているのだが、旦那とやってきた前回は台風接近で、遊歩道は立ち入り禁止。千畳敷までしか行く事が出来ず、ある意味でリベンジ台風接近による大しけで、大波が岩に叩きつけるのも迫力があったけど、こんな青い海の色の方がずっと綺麗だしこの沖の小さな島は魔見ケ島(マブリカ)といって、詳しくは↓写真の説明をお読み下さい坂上田村麻呂って蝦夷征伐の大将軍であるけど、能楽「田村」では鈴鹿山の鬼退治をしたとか、温泉を見つけたとか日本各地に色んな伝説が残っているかわいらしい鬼のレリーフっ。大和から平安にかけて、朝廷軍にいわゆる鬼退治をされたというのは土着の権力者だった訳でここで鬼と恐れられられたのは、この地を荒らし廻っていた海賊の多娥丸(たがまる)そんな鬼の伝説が残っている熊野鬼が城は国の天然記念物、日本百景。更にユネスコ世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成遺産にもなっている鬼が城については↑をお読み下さいウィキペディアによれば>熊野灘の荒波に削られた大小無数の>海食洞が地震による隆起によって、>階段上に並び、熊野灘に面して>約1km続いているここが千畳敷で、鬼が城で一番の見せ場でもある。前の台風の時はここまでしか見る事が出来なかった見上げるとこんな感じですまるで鍾乳洞のようになってるし自然の造形は面白い息子娘旦那と娘。やっぱり旅行は晴れた日に限りますね9月の折角の三連休も、台風の直撃が予想され、キャンプ場などキャンセルの電話ばかりだとか私も旅行予定なので、台風の動きに合わせて、出発日を変更しようかと思っている。それが出来るのはホテルではなく、次兄家に泊まりに行くのでさて、ここからは前回の旅行で台風接近で、立ち入り禁止になっていた岩に刻まれた周遊道。まっこんな所で高波にやられたらお終いだお~~、なかなかワイルドな道でこうゆうの私も大好きこの道って誰が考えて、いつ頃に作られたもんだろう。観光用?息子もぐんぐん、先にすすんでいるよとにかく暑い日で、旦那や娘は途中で脱落先にぐんぐん進んでいた息子もキリがないとかいって戻ってきたので、また来た道を戻る事にした息子、こうゆう所が好きだし、さっ見るものも見たから家に帰ろうって、まだ旅は始まったばかりだこの階段はさすがに使われていなかったこのような岩もいよいよ旅は和歌山へと突入! 台風はきますが、良い三連休をおおくり下さい広島カープも、マジック1のようですね平成29年8月14日に愛知、三重県で撮影にほんブログ村
2017年09月15日
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明日から出張をする旦那から朝ドラのひよっこの録画を頼まれた。魅力的な脇キャラも多く、高視聴率で推移している。それに比べて地味な展開なのか大河は低視聴率だけど、ネットなどで内容が良いと評判が高い私も鶴、亀、おとわが成長し、親父たちが戦死したりの序盤の展開が早く脱落をしてしまったのだが、人気の脇キャラ政次が亡くなるというのでネットなどでは始まる前から評判になっていたので久しぶりに見てみた政次を演じた高橋一生は、軽井沢が舞台のカルテットで、気になってた俳優さんだし最後はどうなるかって思ったらおとわの為の大芝居。それに応えるおとわもまた辛い幕引きだった気になる俳優さんと言えば、定年女子夫の浮気は許さい妻役を南果歩が演じているっていうのが、なんかタイムリーなんだけど、23歳も年下男子に告白されたり漫画みたいな展開で。若い子じゃなくって、中年女子が主役の大人のドラマはやっぱ面白い年下男子や、元夫など男の影がちらつく主人公になにかと絡んでくるスイーツ中年男子がなかなか良い味を出していてこんな男優さんいたかな?と気になって調べてみたら、お~テレビ出演は久々の私でも名前位は知っているミュージカル俳優の山口祐一郎ではないですかさすがに長年、舞台で主役はってた方は存在感が半端ないです。彼と結ばれたらいいのになぁ~と思いつつ最終回を待つばかり。更にこのドラマの脚本家の田淵久美子は篤姫も書いているのだが、その作品でも山口祐一郎は島津久光を演じていたそうだ来年は明治維新150周年にあたるそうで大河も明治維新の立役者で、偉人の一人西郷どん。南果歩の夫の世界のケンさんが島津斉彬を演じるそうだけど。なんかねわかんないです。落語家とかハリウッドスターとかは芸の肥やしで、若手の歌手やお笑いはゲス扱いな芸能界のお常識あっ斉藤由貴も幾島役なんだとか。今度の西郷どんは、女にも男にもモテる男らしくって、何やらBL・・・ボーイズ・ラブ要素があるんだとか。またこんな西郷さんは見た事がないようなわくわくするものらしくて逆に心配。もう幕末はいいから大化の改新とか古代に一度チャレンジして欲しいなぁちなみに西郷どんを演じるのは花子とアンで旦那さんをやってた鈴木亮平。男にもモテる俺物語!の剛田猛男役を、映画で演じているがあれ見たら西郷どん、ぴったりすぎる。あと篤姫にも出ていた瑛太が大久保役で、篤姫は北川景子だ。恋愛ものの多い女流脚本家だがなんとかの妹みたいにはならないといいけどさて写真は昨秋に出かけた鹿児島2泊3日レンタカー旅の最終日。出水で鶴の飛来地特攻基地を見学してやってきたのは出水麓(いずしふもと)の武家屋敷群でここでも篤姫のロケが行われたそうである東京ドーム9個分の広さに約150軒の武家屋敷があり、国の重要伝統的建造物保存地区に指定もされている。往時の姿を残す武家屋敷の一部は一般公開をしており建物の中も見学させて貰えたこの殿と姫は誰? ↑最初に紹介をした税所家は関ヶ原の役の前年に加世田から移住をして出水郷の要職を務めた武家の屋敷で、雨天時の弓の練習場所や、隠れ部屋、抜け道などがあり出水麓で最古の建物であるそうだ こちらの竹添家は肥後の国人吉、球磨城主相良氏の一族で、寛永14(1637)年米ノ津から麓へ移り住んで、組頭といった出水郷の要職を務めたそうで、建物の建築は明治初期を下らないんだとか案内人が詳しく説明をしてくれるが知覧などに比べたら、出水麓は規模が違う。薩摩藩にとっては重要な拠点でとても栄えていたそうだ>薩摩の中では国府が置かれた高城地方>(現在の薩摩川内市)とともに最も>早くヤマト王権に属した。『和名抄』の>薩摩国出水郡の地である。下鯖町の加紫>久利神社は、薩摩二之宮と称される>『延喜式』の式内社である。>江戸時代には薩摩藩に属し、出水郡>出水郷が置かれた。特に出水郷の>武士団は事実上の鎖国状態であった>薩肥国境地帯の防衛・警備・関所の>管理を任ぜされ、出水兵児(いずみ>へこ)と呼ばれた>彼等は薩摩武士には珍しく、粘り>強く常に実直冷静な強兵であった>ため、藩内でも高く評価されていた ウィキペディアより転載なるほどね~、気質もまた違うのか観光用に使われているのか、黒い牛島津家の事を前に紹介をしたけど、都から移り最初に拠点としたのが出水であるのか宮崎県の都城であるか発祥の地争いをしているらしい。大河の篤姫では出水と紹介がされて都城から抗議が来たとか更にここは、島津家の分家筋の薩州家の本拠地であったようでその墓所があった>島津宗家8代当主である島津久豊の次子、>用久(好久)よりはじまる。「薩州家」の>名前は用久が薩摩守を称したことに由来する>2代当主国久の死後に起こった御家騒動は、>他の分家をも巻き込んだ騒乱となった。>一時は半独立状態にあったが、5代当主>実久は島津宗家当主の座を巡る争いで、>一時的に宗家当主・薩摩守護に就いたと>考えられているが、最終的には同じく>分家の伊作家に敗北した>以後は島津宗家となった伊作家に従う。>7代当主忠辰はこうした経緯からか豊臣>秀吉の九州平定に対しては、伊作家系>宗家よりも先に降伏した。朝鮮出兵に際し>豊臣秀吉の怒りを買い改易され、忠辰が>朝鮮在陣中に病死したため、薩州家は>その所領を失った。ウィキペディアより転載九州新幹線が開通し、ここ出水にも駅が出来て交通の便が格段に良くなり、観光客の数もかなり増えたみたいだ鹿児島空港のあたりにも霧島茶の茶畑が広がっていた。空港わきでガソリンを満タンにレンタカーを返却して・・・鹿児島空港に到着~っ飛行機の時間まで、まだまだあるので白くまを食べる。ファミリーレストランエアポート山形屋のものだし。白くまは鹿児島市内の飲食店などで提供をされるかき氷で、加糖練乳をかけた上から果物などを盛り付け小倉餡を乗せたもの鹿児島では戦前から親しまれてきたかき氷だそうだ。横から見たらこんな感じだ。やっぱ、その土地ならではのご当地グルメは旅に欠かせない空港内にはソラステージという展示室があって、飛行機の事などがお勉強できるほうほう・・・・でも、模型よりもやっぱ本物の飛行機を見てた方が楽しいやかなり大きなANA機こちらはJALのプロペラ機。ここから離島なんかにも飛んでいくんだろうなおっ、くまモンだ。これはソラシドエアの「がんばるけん!くまモンGO!」機だセントレアよりも滑走路が近いので離発着も近くで見えて、それなりにいろんな飛行機の発着も多いので、見ているだけでも楽しいくまモン機、離陸!今回の旅行のおさらいを1日目 知覧の武家屋敷群、知覧の特攻基地 番所鼻、指宿温泉の砂風呂、開聞岳2日目 長崎鼻、フェリーで大隅半島に移動 鹿屋の特攻基地、桜島、霧島温泉3日目 霧島神宮、曾木の滝、出水の鶴飛来地 特攻基地、武家屋敷群毎日のように特攻基地に行ったのでちょい重い旅行であったのと、なんといっても鹿児島市街をぶっとばした事が旦那のとしては不満だったみたいあと温泉でもっとのんびりしたかったみたいだ私としては以前に(と言っても30年前)霧島温泉に泊まって、鹿児島市街の城山仙厳園や桜島も行っており、その印象がまだ残っているので、今回は知覧や指宿行けたらいいやって感じで飛ばしたけど旦那には一生に一度、行くか行かないかわからないような鹿児島旅行、やっぱり大隅半島諦めて、鹿児島市街に立ち寄るべきだったかなぁ~とか思いつつ、また行けばいいじゃんと、軽く旦那に言いはしたがたぶん、もう行かないかも。九州で次に行きたいのは長崎、佐世保、ハウステンボス雲仙温泉と長崎市街は、↑の九州旅行で行ってはいるが駆け足だったので、のんびり出かけたいと思いながらも、早30年・・・頭の中は、早くも次の旅行に思いを馳せるどうやら、これに乗って名古屋に帰るみたいだ。プロペラ機というものに乗るのは初めてなので、乗るとわかってから名古屋で降りるまでちょいビビっていたここまで小さな飛行機に乗るのは初めてだし。30年前に新婚旅行でグアムに行った時の米国機は軍用機みたいに、飛行機のお尻が大きく開口し、そこから乗り降りしたっけ。あれは何て飛行機だったんだろう11月なので日が短くなったので暗いけど夕刻に愛知県のセントレアに到着。ここから高速を使って自家用車で2時間ほどで自宅だ名古屋に帰ってきたなぁ~と、実感する青い耳のコアラのパネル高速で三河方面などに出かけたら、まず立ち寄るのが刈谷のハイウェイオアシス女性トイレがゴージャスで、えびせんのお店で試食が出来るという特典もここで夕食。ピザを食べた鹿児島旅行のお土産は芋タルトやかるかんや、霧島神宮の鉾餅とかそして旅行のグルメ特典で貰った鹿屋のお芋の洋菓子2箱えびせんはたぶん刈谷で買ったものかも?みかんはどこで買ったか覚えてもいないまっ9ケ月も前の話だし。長々お付き合いいただきましてありがとうございます。次はたぶん、今夏の話をします 平成28年11月17日に鹿児島県で撮影にほんブログ村
2017年08月23日
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連日の雨、雨、雨マークが続く今年の夏ですが、珍しく息子も参加しての家族旅行2泊3日は、傘を一度も使う事もなくって満喫も出来ました。その様子は、9月あたりに紹介出来たらと思いますその前に、まずは昨秋に旦那と出かけたレンタカーでまわる鹿児島2泊3日の旅最終日。ホテルを出てから霧島神宮を参拝し、曽木の滝を観光してやってきたのは出水(いずみ)ですかつてやっていた芦屋雁之助主演の裸の大将で、ここの鶴の回があってこんなに沢山の鶴がやってくるんだ機会があれば行ってみたいなぁ~と若い頃から思っていた場所だ本当は釧路の丹頂鶴を見てみたいのだけど、北海道は遠いし(夏に2回行った)冬場は寒いので行きたくもないので九州の出水で我慢ここにやってくるのは殆どがナベヅルみたいで、他にもマナヅルとか少しはいるみたい。マナヅルは一回り大きいみたいだねこう見てもマナヅルはハッキリとわかるし。これらの鶴は主に中国北東部やシベリアで夏場に繁殖し越冬の為に、この地へ海を越えてやってくる「鹿児島県のツルおよびその渡来地」として出水平野の一部の約245ヘクタールが国の特別天然記念物に指定をされており鳥獣保護地域となっている有料の鶴の展望室もあり、高い所から飛来地を眺める事も出来るが、まっ下で普通に見る事も可能だ。周辺あちこちにいるし造成された開拓地に元禄7(1694)年鶴がやってきた記録が最初で、幕府も藩も鶴の保護をしたので、鶴はその後もこの地に飛来していたところが明治維新で幕府や藩が解体保護がなくなると狩猟の対象となり乱獲により一羽も飛来しなくなってしまった。明治28(1895)年に狩猟法で保護がされると、再び鶴も増えた大正時代に敷かれた鹿児島本線は出水平野のど真ん中を通る計画であったのが鶴の飛来地を迂回するルートにもなった。その甲斐もあり昭和14(1938)年には4千羽弱も飛来するようになったしかし第二次世界大戦が勃発をして出水にも海軍の飛行場が設置をされ保護活動も縮小されると飛来数は275羽(昭和22年)に激減してしまったそうだ昭和27(1952)年に国の特別天然記念物に指定をされて、鹿児島県ツル保護会も結成をされ、1万羽を優に超える鶴の飛来地となった為に問題も出てきており、越冬地を西日本各地に分散する調査もされているようだこれらの鶴の越冬地は他に山口県の八代盆地や、韓国の大邱と高霊郡や軍事境界線の湿地帯、中国の長江流域などで、その年の気象条件で越冬先を変える鶴も多いので出水の飛来数も年により増減する昭和51(1976)年に韓国の軍事境界線付近での、米韓合同軍事演習が行われるようになって、ここへの越冬飛来数が急増したみたいだ自然の鳥獣も、人間界のきな臭い紛争やら乱獲やらに巻き込まれて大変みたい。あの対馬で発見されたニホンカワウソ(かもしれない)も乱獲により絶滅したという話だし日本中いたるところにいた日本カワウソの毛皮は保温力に優れているので、大正から昭和初期に乱獲されて激減し1928年には捕獲禁止となったが高度成長期の開発による護岸工事や河川汚染もあり日本から姿を消して久しい出水でのお昼ごはんはお魚にしたやはり山の人間は新鮮な海のお魚が一番ごちそうに感じる本日の定食のようなもので、価格も1000円よりもかなり安く済んだ今夏もテレビなどで、先の大戦に関する番組を幾つもやっていた。朝ドラでも名前が出たインパール作戦、731部隊本土空襲、原爆、満州からの決死の帰国樺太残留邦人。静岡の従軍カメラマンの写真集も興味深かった鶴の渡来地の近くにも、海軍航空隊の飛行場が作られ、昭和20年4月には特攻基地となり、敵の攻撃から戦闘機などを守る掩体壕(えんたいごう)が残されていた当初は飛行士を急速に、なおかつ大量に養成をする為に、初歩練習部隊が設置をされ、阿川弘之の小説「雲の墓標」では主人公の海軍予備学生が、訓練を行った地でもある。田村高廣主演によって「雲の墓標より空ゆかば」として映画化もしたその文章が刻まれてた慰霊碑もあった雲こそわが墓標 落暉よ碑銘をかざれ吾らに代わりて 代わりなき若き命を南海の千尋の底に沈めし若き勇士たちよ今日よりは安らけく瞑れここからは主に銀河など大型機が使用をされ、所説はあるが200名以上が特攻出撃をされたそうである。名前のわかる方は数十人程しかおらず、全国から入れ替わり立ち替わりで来られ、出撃をした多くの隊員の名前もわからぬままであるここから特攻に出撃された方の中に高知出身の山崎祐則(すけのり)さんがおり最近になって、ご実家の押入れから沢山の漫画や、絵手紙が発見されたそうである祐則さんは旧制城東中学(現追手前高校)で友人らと漫画研究会を結成したそうだグライダーの模型を飛ばすのが好きで漫画の題材にも気球や飛行機を好んでペンネームは「青空高士」といった昭和15(1942)年10月に中学を中退海軍航空隊へ志願し三重や静岡、愛知の基地で訓練を受けた見つかった漫画の中には「空の少年兵」や「予科練時代」などで、基地内での水泳やボートをこいだり、風呂に入ったりといった訓練とか日常生活を描いたもので、遺族には戦争の悲惨さが感じられない程に、明るくおかしさのある内容だったところが昭和19(1944)年の秋に出水航空隊基地に移るとその内容は一変し、手紙からは漫画が消え文章も短くなった。ご遺族は「特攻作戦が始まるのをうすうす感じていたのでは」と話されている昭和20(1945)年3月19日の消印のものが、家族に届いた最後の手紙であった「元気に軍務に精励致して居りますれば何卒御安心下さい。義ちゃん(弟)、恭ちゃんも元気ですか。では又さようなら」 享年19歳。翌年になって出水基地にいた祐則さんの同期生から祐則さんの郵便貯金の通帳が届き、その通帳の裏表紙に細い走り書きがあった「私は特攻隊で行きます。皆様御気嫌宜(よろ)しくお暮(くら)し下さい。父上様、母上様御元気で。サヨウナラ」と 元の高知新聞記事より特攻碑公園内には、旧海軍航空隊基地の戦闘指揮所の地下壕が今も残されていた。空襲激化によって全ての戦闘指示がここでされていたそこには出水基地上空の空戦で被弾墜落をした松島空所属の九六式陸上攻撃機の主翼の一部があった3枚のプロペラは、昭和20(1945)年4月26日に出撃した一式陸上攻撃機の左エンジンのプロペラで、2枚の方は陸軍九七輸送機のもので、どちらも近海で漁船の網に引っ掛かり引き上げられたものである航空隊正門(現桜並木)に対面して建てられ、通行者の監視と警戒に当たった衛兵塔。兵は常に銃を所持し、下士官や兵の敬礼には「気をつけ」の姿勢をとり仕官の通過の対しては「捧銃」の礼を行った近くには特攻神社があった。最初は航空隊の守護神として建立されたが後には特攻出撃をする隊員が使命の成功と、国家安泰を祈願したそうだレイテ沖海戦において最初の特攻を行った関行男命と、出水より特攻し空母フランクリンを爆撃し、甚大な損傷を与えた金指勲命、更には全国特別攻撃地散華之命達が祀られている英霊の碑の前に、第二出水海軍航空隊正門も移築保存がされていた。戦争の体験者もご高齢を迎え、ご存命の方がますます減っているのが現状だ。テレビか何かで戦争について少しは知っていたり考える機会のあった人間と、全くない若い世代では、認識が全く違うそうだ自由にもの言えぬ時代、自由に生きる事も出来ない時代、否応なしにその命さえも差し出さなければならない「戦争」というものを決して、風化をさせてはいけないそんな事を思いながら甲子園の高校野球をテレビで見ている。この時代に、この国に生まれてこれて良かったと思える世の中であればと切に願う平成28年11月17日、鹿児島県出水市で撮影にほんブログ村
2017年08月20日
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はや8月も半ばとなった。2泊3日の昨秋の鹿児島旅行も盛り沢山で、既に5回も紹介しているが、まだ3回分もあり、8月中になんとか紹介出来たらなんて思いもする。では2日目の続きをフェリーで大隅半島へ渡って、道の駅神社二つに、滝を見下ろし、鹿屋基地を見た後、かなり遅いお昼を食べに行ったのは垂水の「十五郎そば」だ。なんでも鹿児島県は蕎麦生産量が全国2位なんだとか。ちなみに1位は北海道である桜島の火山灰で覆われ水田が少なくってサトウキビ、サツマイモ、タバコ、蕎麦などの生産が盛んであった。農村では蕎麦をソマといい家庭料理として食べられていた中でも、ごちそうさったのは自然薯をつなぎに使ったお蕎麦だったもともとは伊地知氏に仕えた武士であったが天正元(1573)年、島津義久にはむかって武士をすて商人になった人たちがこのあたりに住んでいるんだとか。江戸時代からの老舗の蕎麦屋で屋号は当時の藩主から貰ったものだ一人の行脚僧が空腹のあまり中町の貧しい農家で一杯の飯を所望したところ、作ったばかりのそばを出して貰ったので、お礼に美味しいタレの作り方を教えた。垂水名物十五郎そばもこのタレを受けついでいる写真枚数の関係で、紹介をするのが前後をしたが鹿屋基地からお蕎麦を食べて、その後に桜島を眺め、車窓から福山の黒酢の甕を見つつやってきたのは霧島温泉郷の今夜のお宿。霧島国際ホテルである霧島温泉では、幾つかの温泉旅館から宿泊先を選べたんですが、ここの風呂が良さそうだったので霧島国際ホテルの公式HPから岐阜県の旅館のメインは飛騨牛ですけど鹿児島県は、やっぱり黒豚みたいですねお刺身の質も良さそうですなんか写真がおいしそうに見えずスイマセン・・・美味しかったですよここでもお蕎麦が出てくるのは、先程の鹿児島名物にあたるので。さつま揚げが浮かんでましたデザートが何やら盛りだくさんでしたよ大きなホテルなので、一度も見る機会はありませんでしたが何やら県内の小学生が修学旅行で泊っていたらしくチェックインでもこの時間は学生さんが使ってますのでと聞いていたけど30分短そうだ。サウナや泥パックはまだしも露天風呂も利用禁止なんだ。まっ30分しかないしアイスや飲み物の自販機も禁止でタバコも禁止。そりゃ小学生だしねあらら、エレベーターも利用禁止なんだ霧島方面からの朝日を受けて、湯煙がキラキラと輝く。早起きをして早朝の温泉に入るのは旅の楽しみの一つだお昼ごはんがいつになるのかわからないので、朝ご飯のブッフェも盛りだくさんというか和な感じで美味しそう。おかゆも大好きだしこの湯煙が温泉町らしくて情緒があるがこんなに何本もあるのは別府鉄輪温泉とか限られたところ位だが。霧島温泉郷は霧島山中に点在をする幾つもの温泉の総称で国民保養温泉地に選ばれているって、そんなのもあるんだ効能の高さや湧出量、湧出温度などの他温泉地に関しては、健全性、周辺の景観保養地としての環境、温泉を利用した医療設備、スタッフの充実、交通の便、災害に対する安全性などハードルも高い環境省による選定だ霧島温泉の温泉大使はアヒル隊長らしい丸尾温泉から霧島神宮に向かう道沿いにあるのが丸尾の滝で、高さは23メートル幅16メートルの豪壮華麗な滝で、すぐ上の林田温泉、硫黄谷温泉の温泉水が集まって流れ落ちる珍しい温泉の滝です今回の旅って連日のように特攻と、猫そして滝が随所で登場してくるような気もします。最終日にももう一つ滝を紹介しますねさて霧島温泉と言えば幕末の志士であった坂本龍馬がお龍さんと日本初の新婚旅行に行ったというのでも有名。慶応2(1866)年寺田屋で襲われお龍さんに助けられ、療養を兼ねて、鹿児島の温泉でのんびり過ごしたそうださて平成の鹿児島旅行3日目は霧島神宮参拝からスタートだ。こちらの主祭神は天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギ)天照大神の子の天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫命の子だそうだが「アメニギシクニニギシ」は天にも地にも親和的であるとの事で、「アマツヒコ」は神をたたえる尊称。「ヒコ」は日神である天照大御神の嫡流の男子、「ニニギ」は稲穂がにぎにぎしく成熟する意味だとか ウィキペディアによれば ↓>ニニギノミコトは葦原中国を統治するため>高天原から地上に降りたという。これを>天孫降臨と呼ぶ。『古事記』では、この>降臨の地については「竺紫の日向の高千穂の>久士布流多気に天降りまさしめき」と記述>している。>『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」>あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している>この降臨の経路の解釈ついては、日向国の>高千穂峰に降り吾田国(現在の鹿児島県>南さつま市)の長屋の笠狭碕に到達したと>する説のほか諸説ある>日向(ひむか)の歴史はかなり古く、鹿児島>県大隅地方もその昔は日向と呼ばれていた 相殿神は、木花開姫尊、彦火火出見尊豊玉姫尊、鵜鷀草葺不合尊、玉依姫尊神倭磐余彦尊である欽明天皇の御代に慶胤という僧侶に命じ高千穂峰と火常峰(御鉢)の間に社殿が建てられたのが始まりだそうだが、火山の山麓に立地しているので、たびたび噴火で炎上したりもした文明16(1484)年に、島津忠昌の命で兼慶が再建をしたのが、今の霧島神宮であるが建物は、その後も何度も炎上をしてしまって現社殿は正徳5(1715)年の、島津吉貴が奉納したものであるご神木の杉は樹齢800年で、南九州の杉の祖であるそうだ境内に大きな切り株があり、中からは新しい息吹が更には温泉の池があった。むちゃくちゃ良い色だし売店では名物の鉾餅の試食が、山のように積まれていた。霧島神宮でお供えをされる小判型の鉾の形をしているから鉾餅なんだとか。米粉とサツマイモを使った求肥で粒あんを包んだものだ季節柄、綺麗な菊も展示してあった比較的、暖かな鹿児島県でも霧島山麓は紅葉が見ごろだった。さて次の観光地はやっぱるるぶのガイドブックで見つけたもので、今はカーナビがあるから土地勘なくてもへっちゃらだやってきたのは鹿児島県伊佐市南部の川内川上流にある「曽木の滝」で、高さ12メートル滝の幅は210メートルと幅も広くて、東洋のナイアガラと称されており、加久藤火砕流の堆積物によってできたものだそうだ加久藤(かくとう)火山は霧島火山群の地下に位置しており、33万年前に大噴火を起こして南九州を焼き尽くしたそうだ。石黒耀の小説「死都日本」ではこの火山が再び噴火をするというものなんだとか島津攻めの帰路で、大口筋にて肥後へ向かう途次に、豊臣秀吉もその雄大な景観を楽しんだとも伝わる。というかどんだけ中央覇権と戦ってんだ島津氏平成元年の日本の滝百選の選定では、滝の上流の橋で景観が台無しとされて選から漏れており、その撤去に伴い下流に新しい曽木大橋が作られていた古い上流の橋は撤去されるとあったが、あれもう古い橋はないような。真ん中の黒い棒みたいなのは橋げたとか残ってるのかな?これなら日本の滝百選にも十分に選ばれてもおかしくはないが時間は取り戻せずただ平成21年に読売新聞が創刊135年を記念した平成百選には選ばれたそうで地域の人たち、留飲をさげる風景写真家である竹内敏信の監修により全国三百ケ所の候補地の写真から公募で応募総投票数は64万票(1人5か所まで)更に地域振興を図るという企画の趣旨と地域バランスを考慮し、各選考委員らの審議によって、平成百選が選ばれたその結果、公募での応募数の多かった上位30位までは全て選ばれ、得票数100位のうち約7割が選ばれている。上位30位は得票順で発表をされており1位はやっぱり富士山で、それに続いて昇仙峡知床、十和田湖と奥入瀬川、合掌造り、京都姫路城、上高地、函館、奥入瀬と名だたる全国の観光地が並ぶ中で、この曽木の滝は見事24位にランクイン日光の社寺や錦帯橋、蔵王に勝っているのは素晴らしい。31~100位は順不同だが妻籠、馬籠なども選ばれていた。今度は来日外国人に人気の観光地でもやってくれたらかなり上位にランクインしそうだここでもにゃんこ。マンホールの上は暖かなのかな? さて鹿児島最終日の観光はまだまだ続く。次に向かうのは平成28年11月17日に鹿児島県で撮影にほんブログ村きりさまの
2017年08月11日
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永遠のゼロで宮部が、最後に飛び立ったのが大隅半島にある日本海軍航空隊の鹿屋特攻基地だった。この基地から南方へと飛び立った特攻隊員の数は908名にものぼり、数ある特攻基地の中で飛び抜けて多い人数であった飛行機による特攻隊は、前に紹介した薩摩半島の知覧のように日本陸軍のものと別に日本海軍のもあり神風特攻隊という。その名の由来は、蒙古襲来時に神風が吹いて追っ払ったという伝承に基づいてであるカミカゼ、もしくはシンプウとも言ったらしい日本海軍の神風特攻隊において一番使われたのが零戦。零式艦上戦闘機だ宮崎アニメでは設計者を主人公にした「風立ちぬ」もあれば、永遠のゼロなど様々なメディアでも取り扱われる機体だ開発者は三菱重工業であるが、日本海軍航空隊の主力となって、生産数が多いので中島飛行機も半分近くを作っていたそうだ生産数は1万機にものぼったそうだ。当時の軍用機は採用年の皇紀(神武天皇紀元)下二ケタを冠する決まりで、昭和15年は皇紀2600年なので00から零戦となった連合軍が付けたコードネームは、ジークだが将兵らはゼロとかゼロファイターと呼んでいた昭和14年に試作一号機が完成し、4月1日に岐阜県の陸軍各務原飛行場で初飛行に成功翌15年(皇紀2600年)に採用をされると、7月大陸戦線にて零戦11機が配備され、夏には実戦にも使われるようになった太平洋戦争の中期あたりまでは、零戦の卓越した性能が勝り、敵機を撃退し無敵とも言われるほどであった>アメリカ戦略空軍司令部作戦部長補佐代理>ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアや>ラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に>熟練した操縦士だった>我々は最優秀の敵と戦っているのだという>ことを一時も疑ったことはなかった」と>回想している (中略)登場時こそ高性能を>誇った零戦であるが、後継機の開発が順調に>進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発が>うまくいかず、零戦は終戦まで主力機として>使用され、性能でもアメリカやイギリスの>新鋭機に敵わなくなった>戦争中盤以降アメリカ軍は2,000馬力級エンジンを>装備するF6FヘルキャットやF4Uコルセアなどの>新型戦闘機を投入するようになっていったが、>雷電や烈風など零戦の後継機の開発に遅れを>とった日本海軍は零戦の僅かな性能向上型で>これらに対抗せざるを得なかった。 ウィキペディアより転載しました そして飛行戦を行っていた零戦も、戦争末期には、熟練したベテランパイロットも戦死し、若い命を乗せて敵艦に突っ込む特攻兵器としての運命をたどる事となったこの零戦の機体は、1992年に引き揚げられた中島製ニ一型と五ニ型丙の二機の残骸から復元した機体で、機体の強度上の問題からエンジンは取り外して展示されている海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内にある鹿屋航空基地資料館(無料)には先程の零戦が展示され、これは撮影が出来るが、特攻隊員の遺品などは撮影禁止となっていた旅から帰ってから知ったのだが、更に屋外にも世界で唯一現存をするという二式飛行艇もあったのだが、遠くから見ただけだった。しまった、もっと近くにいって、じっくり見ればよかった。やはり旅の事前学習は必要だ旧日本海軍が九七式飛行艇の後続として昭和16年に初飛行、高い性能を持った傑作機で、空の戦艦とも呼ばれたそうだ通称は二式大艇、製造は川西飛行機だ戦争後に米国が残存機の性能試験をしてその高性能ぶりに驚き、飛行艇技術では日本は世界に勝利したと称賛した名機だ聞けば聞くほど、もっとしっかりと見て来ればよかったと思った。もう鹿屋に行く機会もないだろうに・・・。なんて事で、こちらは海上自衛隊の展示機US-1A(おおとり)緊急飛行艇。さっきの二式大艇の川西飛行機の後進である新明和工業製だT-6テキサンのSNJ-5練習機はノースアメリカン社のレシプロ高等練習機でその形からカラーリングを施し、零戦や九七式として映画で使用されていたビーチクラフトモデル18のSNB-4(米国のビーチクラフト社)ビーチクラフト社の設計で、富士重工(旧中島飛行機)がライセンス生産をしたT34Aメンター。メンターとはよき助言者、優れた指導者という意味だそうだロッキード社のP2V-7対潜哨戒機(後に川崎飛行機がライセンス生産も)米軍の愛称はネプチューン(海神)で海上自衛隊ではおおわしと呼んでいたグラマン社の艦上対潜哨戒機S-2。愛称はトラッカー(追跡者)。海上自衛隊にはMAP(軍事無償援助)として、S2F-1が数十機供与され、愛称はあおたかダグラスエアクラフト社のダグラスC-47は世界初の旅客機で愛称はスカイトレインノルマンディー上陸作戦など第二次世界大戦で輸送機として活躍をした。イギリス軍に供与された機体は、ダコタの名で運用されたアイゼンハワー大統領が「第2次世界大戦を勝利に導いた3つの兵器はジープ・バズーカ砲(対戦車用)そしてダコタ(C-47)輸送機である」と言ったらしい。海上自衛隊ではR4Dー6Qまなづるといって戦後に導入されたてな感じで、戦中から戦後にかけての軍用機をいろいろと見せて貰いましたが悔しいのはやっぱ二式大艇を近くまで行って、じっくりと見学をしなかった事先程、資料館内は零戦のみ撮影可能で遺品もあるので後は撮影禁止と言ったが海上自衛隊のブースは写真が撮れる鉄分一杯、気分もウキウキ。そうそう先週日曜日に、中津川へ買い物に出かけたら汽笛の音が。公園に屋外展示されているD51のイベントで汽笛を鳴らしたみたいだ郷愁を感じる良い音だ南極の石もあった。海上自衛隊の活動には、砕氷船「しらせ」による南極観測の協力もある昭和11年4月1日、日本海軍鹿屋海軍航空隊が創設され戦争末期は菊水作戦神風特攻隊の基地となり908名が出撃平成27年まで海軍航空隊本部時代の司令部庁舎も使われていたそうだ昨年1月27日には、パプアニューギニアで戦後に発見されアメリカ人コレクターが回収しロシアで修復した零戦が、日本人の所有となって里帰りプロジェクトを行い、この鹿屋の空を飛んだそうだ鹿屋を後にして錦江湾沿いに大隅半島を北上すると正面に大きく見えてきたのが桜島かつては名のごとく錦江湾に浮かぶ島であったのが、大正3(1914)年の噴火により陸続きになった今も頻繁に噴火活動をする活火山で展望所の入り口には注意書きもあったそして丈夫そうな避難所も、あちこちに今回は南岳の麓、有村地区の大正溶岩原に作られた展望所から桜島を眺めてみようと思う。一面に広がる溶岩原もまた見ものらしい東西約12キロ、南北約10キロ、周囲約55キロ面積約77kmの姶良カルデラの南縁に位置した火山で、このカルデラの2.9万年前の巨大噴火の3千年程後に誕生をした有史以来30回以上の噴火が記録に残されており特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火だった文明3(1471)9月12日の噴火(VEI5)では北岳の北東山腹から、溶岩(北側の文明溶岩)が流出し多数の死者があった安永8(1779)年9月29日に大噴火が起き火砕流も流れ、火山灰は長崎や江戸でも降ったとか。一連の海底火山活動で燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が出来安永諸島と名付けられた大正3(1914)年1月12日午前10時5分桜島西側中腹から黒煙が上がり大音響とともに噴火が始まり、約1か月間にわたって頻繁に噴火が繰り返された。更に午後6時30分には噴火に伴いマグニチュード7.1の桜島地震が発生し大きな被害があった今もなお頻繁な噴火活動が続く桜島の御岳は筑紫富士と呼ばれているそうで筑紫は以前は九州を指していたそうだという訳で、本来なら鹿屋の屋外展示をした飛行機の写真の時に書こうと思ったけど、ついつい飛行機の説明に終始してしまったので桜島の写真をバックに、鹿屋基地から出撃した特攻隊の隊員の話を紹介したい。彼の名前は石丸進一。昭和20年5月11日に500キロの爆弾を抱えた零戦で、鹿屋基地を飛び立ち、沖縄へと向かって出撃消息を絶った佐賀市で理髪業を営む家の五男に生まれた石丸進一は、兄の藤吉の影響で野球を始め送球派エースとなった。兄に続いて名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に昭和16年に入団し持ち前の速球と、針の穴を通すほどの抜群の制球力で大活躍をした昭和18年10月12日の対大和戦では戦前最後となるノーヒットノーランも達成をしたこの年は20勝12敗、防御率1.15と前年以上の好成績を収め、チームを2位まで躍進させた兵役を逃れる為に、大学に籍を置いていたが昭和19年春の学徒出陣で招集をされた石丸は海軍飛行科を希望し、筑波海軍航空隊に配属となり、昭和20年に神風特別攻撃隊に志願して特攻隊員となった。出撃前に同僚の本田耕一と、最後のキャッチボールを行って従軍記者だった山岡荘八(作家)が審判を務め「涙でよく見えなかった」という10球は全てストライクだったそうだ>藤吉が最後に会った時は「敵艦に体当たりして>轟沈(ごうちん)させる」と話す弟を、「そんなに>死に急いでどうする!」と諭したという。「兄さん、>そんなこと分かってるよ」――。それが石丸の答え>だった。出撃前、鹿屋基地では戦友に「死にたくない、>怖い」とも漏らした。兵舎の陰で泣いている姿も>あった。22歳。死の恐怖と必死に闘っていた。スポニチ記事 詳しくはこちらをお読み下さい↓戦前最後のノーヒッター神風に散った22歳・石丸進一の在りし日 平成28年11月16日に鹿児島県で撮影にほんブログ村
2017年08月09日
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旦那の運転によるレンタカーでまわる鹿児島旅行二日目も、気持ちの良い青空が広がって昨日はお釜の蓋のような雲を頭に乗せていた開聞岳(薩摩富士)も、今日は頭のてっぺんまで綺麗に見えた日本にはまるで富士山のように美しい円錐形をした山を○○富士と言うけどここは海岸沿いにあって、余計に綺麗全国各県に〇〇富士がある中で、岐阜県などは山の国だけあり8つもあるらしい日和田富士(御嶽山継子岳、2,859 m)蒲田富士(がまだふじ、2,742 m)飛騨富士(船山、1,479 m)徳山富士(とくやまふじ、925 m)下呂富士(中根山、782 m)美濃富士(烏帽子岳、865 m)美濃富士(浅間山、372 m)米田富士(愛宕山、261m) 御嶽くらいしか知らない2日目の最初の観光先は、鹿児島だけど長崎鼻だ。薩摩半島の最南端に突き出した岬(鼻)で、指宿カルデラの外輪山の一角らしく火山岩だとか。北緯は31度09分岬の先端には薩摩長崎灯台がたっていたその近くには記念写真スポット。周囲に人もいなかったので、写真も頼めず一人ずつ。まだ朝が早いからだからかな~天気の良い日には硫黄島、竹島、黒島の島影も見えたりするらしいし、年に数度屋久島、種子島も見えるんだとかこのあたりは、ウミガメの産卵地だそうで長崎鼻の別名は竜宮鼻ともいって、浦島が竜宮城に旅立った場所であるそうだ。乙姫(豊玉姫)を祀った竜宮神社があったその前にはカメと浦島像。昨秋に出かけたので頭の中には、昨年のヒット曲auの三太郎シリーズの浦島太郎の歌が流れてそうそううちの近くにも木曽川の中ほどにある大きな岩が乙姫岩といって、竜宮があったらしい木曽川の上流の寝覚ノ床で釣りをしていた浦島さんが鉄砲水で流されて、下流の山口まで流され、竜宮の乙姫に助けられ暮らしてていたが、このままではと寝覚ノ床に戻って玉手箱開けたんだとか。鉄砲水・・・・竜宮神社の参道には幾つかの土産物屋が並んでいて、こんな看板もあった。私も珍百景、喜んで見ていたし。この回も見た覚えがあるやはり泊りで2日位現地にいれば、山も思うような姿を見る事も出来る。海越しの開聞岳はこの上なく美しかった。名残り惜しいが、次の時間も迫ってきたので長崎鼻を後にして向かった先は、お父さんたちがのんびり釣り糸を垂らしていた山川港。わんこをつれたお父さんも。奥にいるにゃんこは飼い猫か、地域ネコか?釣れた小さな魚をにゃんこにおすそ分けするお父さん。ど~りでよく肥えている訳だしとれっとれ、ピチピチのお魚をいつも貰っているのか、にゃんこまだ子猫なのか、貰った魚に何度も飛びついて、じゃれていた。そんなんで待ち時間も全く苦にならず、のんびりにゃんこを見ているうちに小さなフェリーが港にやってきた。姉や姪娘、息子と春休みで出かけた瀬戸内の旅で人だけでは利用をした事のあるフェリーに今回はレンタカーをともにしての初フェリーこれで薩摩半島の先っぽから、大隅半島にひとっとびだへ~、こんなフェリーがあるんだと知ってはいたが当日の天候もあるし、旅行前には利用を考えていなかった。ところが指宿のホテルの部屋に、フェリー会社のパンフがおいてありちょうどレンタカーは千円引きのクーポン券なんかもあったので、これは使うしかないと次の朝もお天気にも恵まれ運行しそうなので朝一番で電話をして予約をしたのだ。出航の30分前には港に来ているようにという事でにゃんこ見ていたんだけど、車の乗る部分は満車だったので、くれぐれも事前に予約をした方が良いと思う昨夜、泊った指宿いわさきホテルも見れたけど、薩摩半島から大隅半島へという旅の計画の変更で指宿中心地は寄らず、名物の指宿温たまらん丼は食べれなかった先程まではあんなに大っきく見えていた開聞岳もあんなに小さくなってしまった当初の予定では、この日は指宿から錦江湾沿いに海岸線を鹿児島市内へ戻るか、もしくは西側海岸線を万世へ出て出水へ、北上なんて薩摩半島巡りを考えていたんだがまっ、こんな船旅もいいもんだこんな大っきな貨物船もいたなんて言っているうちに、もう大隅半島が眼の前に見えてきて、キラキラ輝く海には小さな漁船の影がいくつも見えて到着をするのは大隅半島の南部にある根占(ねじめ)港だ車のままで下船できるように、搭乗者も一緒に事前に車に乗り込んで待機をしていたやってきました、大隅半島。このまま30分くらい南下したら、この先に佐多岬があるのだけど、長崎鼻みたいに浦島伝説があるとか特にゆかりの地でもなさそうなのでパスとりあえずやってきたのは、港より少し南にある道の駅根占。本州最南端にあるという道の駅だ昨日は指宿で本州最南端の石焼き芋屋って、大きな看板を車の助手席から見つけたが、気が付くのが遅くて写真を撮り損ねたとりあえず、このあたりでは本州最南端の小学校とか、本州最南端のコンビニとか色々とあるんだろうなここにも幸せを意味する黄色いポストがあった。ネットによれば他にも福岡市熊本県芦北、高千穂、宮崎市といった九州各地の他に、全国にもあるみたいだお天気にも恵まれて南国らしい光景も見る事が出来たので、次の観光先へと向かうとしよう。先程の根占港の近くにあるのは二つ鳥居が並んでいる、南大隅町の諏訪神社である。ここもガイドブックで写真を見て知ったんだけど、ちょうど次の観光先への道沿いにあったので立ち寄る一番左側のシルバーのフィットが今回のレンタカーで、旅行プランでは代金は1台一日千円か、500円でと格安で借りれた(空港で満タン返し)そして海辺から離れて山道を、ぐんぐん登って行き、これじゃあ、まるでいつものうちのあたりみたいだなんて思いつつやってきたのは雄川の滝。ホントは駐車場から1200メートルも遊歩道を歩いた滝下から見るのが、定番だけどまだ先も長いので、お手軽にすぐ見える滝上から覗き込む事にした上から覗き込むとこんな感じだが、ちゃんと歩いて行って滝つぼから見ると緑も鮮やかで岩肌も印象的なんだとか。落差46メートル幅60メートルで、その日も滝つぼには幾人もの観光客が来ていたやっぱ上から見ても、とりあえず川は綺麗な色をしていた。100%を求めず60%でも満足する、手軽に、簡単なが好きな我が家である写真枚数の都合上、滝の後に出かけた観光先は次回の日記にまとめて紹介をするので、順番としては一つ飛ばした形になるが、ガイドブックで見つけた海辺の神社に立ち寄った大隅半島の鹿屋市にある錦江湾に面した荒平天神は通称で、正式名は菅原神社である。無論、ご祭神は菅原道真公であり16世紀位の創建なんだとか海岸から海に突き出た小さな岩山の上に鎮座しているのだが、なかなかハードな参拝道だ。満ち潮になると、砂洲が波に洗われ海の中にあるようにも見える事から天神島ともいうひょえ~、命綱あるし上に登るとこんな感じで。ここは映画「チェスト!」のロケ地でもあるらしい鹿児島市内の二つの小学校が昔から実施している錦江湾横断遠泳大会をテーマにした映画で実際に遠泳をしている鹿児島市内でロケをする予定だったが、鹿屋市の自然の美しさに監督が感動し、ロケの7割が鹿屋市内で行われたそうだ。確かにね 鹿屋市では、鹿児島土産として有名な唐芋菓子専門店の「フェステバロ」に立ち寄った。というのも旅行プランに鹿児島県内各地で食べられるグルメの利用券が一人1枚付いていて、夕飯もホテルだしお昼位にしか使えないが、しっかりしたお料理などは予約の必要なお店も多いし第一、どこでお昼になるのかはっきりもしなかった。で、二日目の昼頃にいたのが鹿屋市の予約のいらないこのお店無論、行く前にはこのようなのを利用したいのですがと電話をして、了解をして貰ってからお店に向かった。定番の唐芋ラブリーと飲物のセットを、旅行プランのでタダでいただく旅行プランでは、常温OKのお土産のギフト「西洋風唐芋」一箱もそれぞれ貰えたので一つは土産に残りは家で食べた。JALでの機内の菓子にも使われていたんだとか更にお店では、他のお菓子の試食もいただいたので、ちょっとばかし昼が遅くなっても良さそうだ (これは二人分) では大隅半島にやってきた目的地へと参りますか。続くっ!平成28年11月16日に鹿児島県で撮影にほんブログ村
2017年08月07日
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列強との経済的な格差や、海軍戦力の制限も踏まえ、いかに敵陣にダメージを与える事が出来るのか。日本海軍により編成され真珠湾攻撃で出動した小型潜水艇「甲標的」は生還の見込みが低い、決死の攻撃であるという事から特別攻撃隊と呼ばれたこれが後に人間魚雷「回天」へと、繋がっていくのだ。太平洋戦争も劣勢となった末期となると、いかに戦局を打開するべく体当たりの攻撃、自爆攻撃などを目的とした特攻兵器が開発をされていった昭和19(1944)年春に日本陸軍の航空隊上層部は特攻の必要性を説き、四式重爆撃機「飛龍」と、99式双発系爆撃機を特攻兵器に改修する事となった。浜松教導飛行師団内に特攻を目的とした「富嶽隊」が編成をされて南方へ派遣。昭和19(1944)年11月13日に、米機動部隊に特攻を行ったそうだなお10月25日には、日本海軍の航空隊によって編成をされた神風特別攻撃隊飛行隊が特攻により護衛空母セント・ローを撃沈したこのように日本陸軍と、日本海軍それぞれに航空隊が存在し、特攻隊も使用する飛行機も別々であった捨て身とも思われる特攻により、数千人もの若者の命が奪われた訳であるが、その中でも本土決戦を阻止すべく、沖縄方面への特攻の出撃地として九州各地に幾つもの特攻基地が作られ、ここ知覧もまた・・・・昭和16(1941)年12月、知覧に陸軍の飛行場が完成し、大刀洗陸軍飛行学校知覧分校が設けられ飛行の訓練を重ねられていたが、戦争末期の昭和20年に本土最南端航空基地として陸軍航空隊の最後の特攻基地とされた沖縄戦の始まった昭和20(1945)年4月1日に、第二十振武隊を皮切りとして特別攻撃隊の出撃が始まって、4月6日の戦艦大和が、片道のみの燃料で出撃をした坊の岬作戦では、300機もの陸海両軍の特攻機が、あちこちから出撃をしたそうだ大規模なものは、沖縄戦が終わった6月までであったが、散発的な出撃は8月の終戦まで続き陸軍航空隊の本土防衛最前線の一端を担っていたそうだ。陸軍航空隊の特攻戦死者のうち約4割の439名がこの基地から飛び立った昭和33(1955)年、特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の理念を目的とし、特攻平和観音が建立され知覧特攻基地戦没者慰霊祭が毎年行われている知覧特攻基地の跡地には、このように特攻に関する慰霊碑や、特攻基地の面影が残されている。海軍の神風特別特攻隊の零戦が飛んだ大隅半島にある鹿屋特攻基地よりも、知覧を全国に有名にしたのは、知覧特攻平和会館の存在が大きいかもしれない写真、遺書などの遺品4500点、ご遺影1036柱などが展示されており、館内では撮影は禁止である。その多くは初代館長の元特攻隊員である板津(旧姓。小椋)忠正氏が集めたものだ。ちなみに板津さんは名古屋市出身で、出撃をするもエンジントラブルで不時着されたそうだ館内には隊員のご遺品の他に、世界で唯一原型をとどめた四式戦闘機「疾風」の展示などもあるがご紹介できない。この写真は会館の外側から、窓ガラス越しに撮影した零式艦上戦闘機、いわゆる零戦なのだけどこれって海軍の航空隊のじゃ。なぜここに機体の損傷が激しくて、機体前部と主翼、主脚のみが現存の状態で痛々しい。薩摩川内市の甑島沖約500メートル、水深約35メートルに沈んでいたのを引き上げ、修復したそうであるが。以前は三式戦闘機「飛燕」が、貸与で展示されていたがゆかりの地である岐阜県各務原市で来春から展示されるそうなので今回は見れなかった靖国の遊就館や、広島の原爆資料館には外国の方がたくさん来場していたが、九州最南端だけあって海外の方はいない。年配の団体客の前で、館の方が特攻隊員の話をしていたが、ご高齢の女性たちはしきりに涙をぬぐっていたすぐ横には復元をされた三角兵舎があり、中に入る事も出来た。各地の航空隊から特攻の為に知覧にやって来た隊員らは、出撃までの数日間をここで寝起きをしてその日に備えた産経ニュースにあった記事によれば>右の翼に250キロ爆弾、左翼には同量の>燃料。特攻隊員は全国から集められ10代の>飛行士も多かった。遺書を残し、別れの杯を>交わして離陸すれば約650キロ先の沖縄>周辺までは2時間半。>開聞岳を見ながら海岸線を越えると「もう>戻れない、行くしかない」と、何度も何度も>振り返りながら覚悟を決めたという。特攻隊が見た「最後の本土」鹿児島県・開聞岳航空自衛隊の初等練習機T-3。パイロットが最初に訓練をする為に乗る練習機だそうで富士重工業が制作。パイロット育成の為に長らく活躍を続けてきた知覧町が譲り受けて、カラーリングなども変えて、ここに展示をしているそうだけど戦後の自衛隊のが何故にそして海軍が零戦であるならば、陸軍の主力は一式戦闘機「隼」ではなかろうか中島飛行機で製造され、総生産機数は(海軍の零戦に次ぐ)5700機以上と太平洋戦争の戦闘で主力機として活躍をしてきたが、戦争末期には特攻機として若い命とともに南方に散ったこの機体は、2007年の映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の撮影の為に作られたレプリカ機である。この映画は、知覧から飛び立った特攻隊の若者たちと、彼らを母のように接した食堂の女将さんとの物語であるその他に映画「月光の夏」や、高倉健主演の「ホタル」などでも、実際の特攻隊員の逸話なども織り込まれており、その中で知覧の母といわれた女性がいたこの像は特攻隊員を思う、彼らの母をモデルにしているそうですが、知覧で彼らの母のように接したのは、隊員らがよく訪れていた、陸軍の指定食堂の鳥濱トメさんという女将さんである基地から少し離れた知覧の中心地にかつて富屋食堂があった場所には、忠実に再現をされた富屋食堂があり、中は資料館として特攻隊員らの写真やご遺品が展示をされているそうだ映画「ホタル」でもトメさんをモデルにした山本富子が登場しており、この建物もロケで利用がされたみたいだ。トメさんは憲兵の検閲を避けるため家族への手紙を隊員らから預かったり、個々の隊員の出撃の様子などを手紙に書いて家族に送ったそうだまた特攻へと向かい飛び立つ、隊員らの特攻機を見送っていた。昭和27年には基地を訪れる全国の遺族の為に旅館業も始めたそうだ。先程の板津氏といい若くして命をささげた特攻隊員らの事を、自分の命が尽きるまで忘れる事がなかったのでは映画「ホタル」のモデルになった特攻隊員に宮川三郎氏がいた。彼は新潟の魚沼出身で八人兄弟の末っ子として生まれ、読書好きで算術と理科も得意で、学校では首席だった立川飛行機に就職するも早稲田と慶應義塾を受験しどちらも合格をした同じ年に太平洋戦争が勃発し、飛行機を設計をするよりも戦闘機の操縦士に憧れ逓信省航空機乗員養成所に入所をしたが学徒出陣で特攻隊員となった。昭和20年4月には万世基地から特攻に出撃するが機体不良で帰還をした5月には知覧基地に移動し、出撃を待機していたが、20歳の誕生日に翌日の出撃命令を受けた。富屋食堂のトメに別れを告げ、「今度はホタルになって帰ってくるから追い払ったらだめだよ」と言い残したそうだ翌日6月6日。台風接近で悪天候の中を彼の乗った隼は、沖縄に向かい飛び立ち消息を絶った。夜、トメさんの娘さんが「あっ宮川さんよ。ホタルになって帰ってきた」と叫び声をあげた。開け放った食堂の玄関から、一匹のホタルがす~っと入ってきたのだそうだ知覧から西へ15キロほど離れたところにあった万世飛行場は、知覧だけでは対応が困難になってきたので、補助の特攻出撃地となったそうで、ここからは201名が飛びたったそうで今回は時間に余裕がなく訪問が出来ず残念であったさて、途中からにゃんこの写真が幾つも並んでいるが、先に出かけた知覧の武家屋敷のあたりで、やたらに人懐こい子がてくてくとついてきたやたら、にゃんこに懐かれる旦那そして昼間は車両が入ってこないを熟知しているのか、大胆にも道のど真ん中で昼寝をしている無防備なにゃんこも発見そっと近づいてみる。全く起きる気なしカメラも近づけてみるが、完全に熟睡中というか、なんか笑っているみたいだまだまだ旅の初日であった。ところで説明不足で、前回はご心配をおかけしました。血糖値の数値が良くなってきたので、より体の負担が少ない薬に変更をしたのでご安心下さいにほんブログ村
2017年07月31日
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梅雨も終わったようだが、ここ最近などお天気が不安定。一昨日は中津市北部に短時間でかなりの大雨が降り、テレビで速報を見た遠い親戚が大丈夫かと電話をよこした程だ。うちは小雨で済んだ思えば、7月は2度しかブログの日記更新をしていなかった。長らく使用していたインスリンを辞め、ビクトーザというのに変更したので胃がムカムカ、食欲も全く出ないという副作用が出て、元気もなかったのがやっと落ち着いてきたその薬自体の特性か、単に食べれなかった為なのか体重も2週間で1.5キロ減ったしヘモグロビンA1cは6.1で空腹時血糖値110前後だ。血圧は高い方が130台から110台になったし。8月はもう少しはブログ日記も書ければいいがそんな訳でこの春もいろいろあって、まだまだ、紹介したい旅行日記も多いのだけど8月だという事もあるので、昨秋に旦那の会社の勤続40周年で出かけた、夫婦での鹿児島ドライブ旅を紹介したいと思う最初に出かけた先は鹿児島県知覧。実は鹿児島県は、お茶の生産量が静岡県につぎ全国第2位だそうで、特に知覧茶などは全国で販売もされる有名ブランドだ鹿児島県内では、お米や薩摩芋に続く栽培地面積を誇っているそうで、今回の旅でもあちらこちらで茶畑が。県北部の霧島付近なども茶畑が多かった。鹿児島空港の周囲とかもとは言っても知覧茶を飲みに、わざわざやって来た訳でもない。ずっと前に母と団体での九州周遊バス旅行の時にも一度鹿児島に来ており、霧島温泉に泊まって鹿児島市街と桜島に、霧島神宮。かるかん工場には行ってはいたが昔ながらの武家屋敷が立ち並ぶ、鹿児島の小京都とも呼ばれている、風情ある知覧に一度、行ってみたいと思っていたので今回旅行のコースに入れてみた。無論、多くの人には知覧は違った感想を持たれていると思うが、それは次回でそういった行ってみたい街って、まだまだあったりもする。桜咲く頃の角館や大内宿水郷の佐原とか。ここに行くぞ!と決めて出かけなきゃ、いつまでたっても行けそうにないみたい国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定をされた武家屋敷群は馬籠宿と同様に、昼間の時間は車両進入禁止とまっており、のんびり街並み散歩が出来るようになっていた幾つかの武家屋敷が一般公開をしており共通の入館券を、指定場所で購入をして順番に内部を見学させていただくのだが小さいお庭ながらも、作庭が素晴らしいうちも敷地がもっと広かったら、こんな気の利いた、お庭でもしつらえるのだがいかんせん駐車場も必要で、洗濯物干しなんて感じで味気ないもんだ。旦那は池に憧れていた様だが夢のまた夢最近はケンミンショーだか、県民性といってその特性を比べたりもするが、明治以降の県よりも、それ以前の藩とか道によって文化や習慣なども、色濃くその土地に根付いているように思えるここ鹿児島県も遡れば、古代においては中央集権に逆らう熊襲、隼人(大和からの呼び名)の住んでいた辺境の地であった日本神話では海幸彦も隼人の阿多君の始祖であるそうだ弟の山幸彦が神武天皇の祖父にあたるそうでそのあたりの事は、霧島で紹介できたらと思う薩摩半島が阿多隼人で、大隅半島は大隅隼人他に日向隼人(宮崎)などなどあっあそうで後に大和朝廷に組み込まれ、西海道の薩摩国となった平安時代になると荘園も作られ、太宰大監平季基が島津荘を開墾し、関白藤原頼道に寄進した事で薩摩、大隅、日向の半分を要する日本でも最大規模の荘園となった鎌倉時代になると、近衛家の島津荘の荘官として、渡来系の秦氏の流れをくむ惟宗広言が勢力を得て、その子の惟宗忠久が源頼朝から地頭に任命をされ、薩摩国、大隅国、日向国の守護となった。その地名から後に島津忠久と名乗るようになったそうだ島津氏は鎌倉に在住していたが、三代目の島津久経が元寇で薩摩入りをして、四代目島津忠宗は薩摩で没したそうである。幕末大河でも見受けられるが、島津家が近衛家と関係があるのも島津荘を通じての事らしい島津忠久の生母の丹後局が、実は頼朝の側室で、ご落胤ではないかと語られている事から、清和源氏を名乗っているんだとかそんな島津氏も鎌倉幕府が傾くと、後醍醐天皇に組し倒幕に成功するが建武の新政が崩壊すると、今度は足利尊氏を助けて、後醍醐方の菊池氏らと戦って勢力を維持する。しかし南北朝では南朝側についた為に苦戦を要したようだが、時を同じくして島津家も後継者問題から、島津総州家と奥州島津家に領土が分割統治をされ総州島津家が内紛状態となり、奥州島津家が間に入って話を収めた事から、恩義を感じて家宝を奥州島津家に渡し、島津家は再び統一された。しかし一族の伊集院頼久が我が子を本家の当主にしようと企てた乱で、助勢もした総州島津家は滅亡をした「島津に暗君なし」と言われるように、その時代時代をうまく立ち回り中世から近世まで一族を存続させた島津氏だが、戦国時代には島津義弘が屈指の将として名をとどろかせ世間では「鬼島津」と呼ばれたそうだ朝鮮の役でも、明と朝鮮の大群を相手に奮戦し、鬼石曼子(グイシ―マンズ)と恐れられたそうである。関ケ原は意図せず西軍になり、小早川の裏切りで西軍は総崩れ島津は退路を断たれて、敵中に孤立をしてしまった。義弘は自害も考えたそうだが甥の島津豊久の説得により翻意敵の大群を突破して、正面の伊勢街道から逃走を図り、名だたる東軍の武将の執拗な追軍を受けた。この時に島津軍はしんがりの幾人かが死ぬまで戦い、それが全滅をすると次の一隊が足止めをするという壮絶な戦いを繰り広げ、戦死者には後に小返しの五本鑓と呼ばれた家臣らもいたこの戦法を、捨て奸(すてがまり)といい義弘の自害を翻意させた、甥の島津豊久や家老の長寿院盛淳らも討ち死に。命からがら義弘は落ちのびたが300名程のうち、生きて帰国できたのは80名程であったそうだ大河の女城主直虎が養育している、後の徳川四天王の井伊直政も、この追撃で負傷した傷がもとで亡くなったと言われている関ケ原の戦い後に、徳川軍は島津追討軍を九州に送ったが、島津は関ケ原に主力軍を送らなかった為、兵力もあり戦いは長期戦にもなり得た長期戦ともなれば外様大名が反旗を挙げる可能性もあり、おりしも薩摩沖で幕府と明との交易船が2隻沈没する事件(島津が黒幕であるらしい)があり、関ヶ原の事は島津義弘が個人で行った事とし、島津家は領国安泰。義弘とも懇意の仲(家康が)であるから咎めなしという異例の決定となったしかし後々まで、家康は島津家に対する処罰をしなかった事が心残りで、自らの遺体は足を薩摩に向けてほしいと遺言を残したといわれている。歴史の表舞台にしばしば登場する、島津氏ネタが面白く少し脱線してしまいました江戸時代になり薩摩藩は、領地を外城(とじょう)と呼ばれる113の郷に分け、直轄の郷には地頭仮屋を私領の郷には領主仮屋をおいて、それぞれを御仮屋(おかりや)を中心にして、麓(ふもと)という武家集落を形成した薩摩の小京都とも言われる、知覧も同様に享保年間に島津傍流にあたる佐多島津氏の島津久峯の居館と家臣らの屋敷が外敵から攻め込まれても、防御ができるような形で築かれたなんでも江戸時代後期には、武家屋敷が500軒、3500名もの武家の住民があり町家は10軒以下、30名程度の町人しか住んでいない武家の街であったそうだそんな事から薩摩藩は武家が多く、当時の人口の四分の一が武家層であったんだとか明治維新となり外城の御仮屋は役場や学校などになり、その地域の政治、経済の拠点となったそうであるこういった出城に拠る武家屋敷の街並みが残っているのは知覧の他にも出水、入来麓も国の重要伝統建造物群保存地区になっており江戸時代の鹿児島藩の歴史を垣間見る事が出来る流石に武家屋敷だけあって、梁とかが農家より太くて立派な木材を使っているようなその国には、その国の暮らしが長らくあり平成の世の中になっても、先祖から受け継ぐ何かしらの影響は今も我々の中に残されているんじゃないのかな入館料が必要な武家屋敷、最後のお宅を訪問したら知覧のお茶を入れて下さった静岡などもイベントなどでお茶の試飲や振る舞いがあるが、たくさんの人に茶の美味しさを知って貰うそんな意味合いもあるのかもしれないお茶に始まってお茶で終わる、楽しい武家屋敷見学を終え、知覧を表舞台に押し出した、もう一つの時代の史跡へと 続 くにほんブログ村
2017年07月28日
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そんな訳で、や~~っとやっと2年前の旦那と出かけた小浜、舞鶴、宮津、天橋立、丹後半島、城崎、出石の旅雪に始まり、強風、雨にたたられながら、2日目は青空上天気だったドライブ旅の紹介も今回がラスト。今年中にアップできて良かった♪(2年前だけど) 文字数の関係なのか、話の流れからなのか紹介をし切れなかった2日目朝の宮津では、明治29年に建築された日本に現存をする2番目に古いカトリック天主堂である「カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂」がありますフランス人宣教師のルラーブ神父が丹後、但馬、若狭での布教の為に宮津に赴任。ステンドグラスを配した洋風の外観でありながら、会堂内は畳敷きとなっており明治期のキリスト教会堂の様子を今に伝えている国の重要文化財に、指定をされている「旧三上家住宅」は江戸時代に糸問屋や酒造業、廻船業などを営んでいた商家「三上家」の住宅だそうで、漆喰の白壁で覆われた豪商の風格を感じるのだがせっかく有料でも中を見学させていただこうと意気込んで行ったのに係りの人がいなかったので、表から見るだけで終わってしまった。酒造業を営んでいた当時を彷彿させる酒造施設や京都府指定名勝「三上家庭園」、格式高い座敷などの見所が数多くあったそうだてな訳でここからは、誰も読むか判らないような仙石騒動のウィキペディアの丸写し文章で、文字数オーバーで載せられなかった最終日の帰路の紹介だ(写真はたぶん舞鶴の海鮮屋)雨の出石からは、京都や大阪経由の高速で帰る事も出来るが関西圏が渋滞も予想されるので行きと同様に、まず舞鶴に出て小浜から木之本ICへという若狭の一般道ルートにしようと決めたのはいいけど↑写真は前後したけど、出石から舞鶴の一般道選択のカーナビの指定した道って、なっなにぃ~~? このとんでもない悪路は!雨の中を山道だし、カーブだし、一車線だし。対向車が来ないかハラハラドキドキの道を通過して~舞鶴で買い物や観光なども終えて、小浜も抜けて。お~~、この二車線の快適な道は、行きの時にも通ったので覚えていたりする毎年3月2日に奈良東大寺二月堂への「お水送り」の送水神事が行われる鵜の瀬は名水百選(環境庁認定)に選ばれているそうだ道の駅なんぞも立ち寄ってなんかかつての若狭、鯖街道の様子も見学をして若狭の土産も無事に岐阜県に入りました~。養老ですイケメン戦国大名の土産も並ぶ。大河ドラマもいよいよ日曜日が最終回となります。官兵衛良かったよ~で、自宅に到着。買ってきた土産は舞鶴で買った海軍関連カレーや、肉じゃがパンと、最後の小浜の道の駅でついつい買ってしまったオバマゆかりの城崎温泉では炭酸せんべいと、カニ最中天橋立ワインに出石の蕎麦饅頭やその他、色々だったりする解禁直後のその年のボジョレーも、ついでに買う 平成24年11月16日、17日に撮影ここからは、最近のお買いもの報告→今回のお買い物は12月に入って、前半はアピタで買ったものです。まずはいつもの月に1度のワイン&チーズが全部3割引きというもので更に、どれでも4つで税込1080円程の肉加工品はトータル税込1800円位は選べたよ。しかもカード会員は5%オフになるので税込1030円位だし。真ん中の伊藤ハムの焼き鳥の娘が好きなのでお土産に5%オフをすると、オロナミンC10本は税込510円ちょいで焼きそばUFO12個入りケースは税込1030円って、1個あたりが90円弱?一人なのでご飯を炊くより、電子レンジで1個をチンした方がお得で便利な娘の為に、サトウのご飯5パックで5%オフなので税込390円程。消費期限の来年秋だし、もう大人買いドールの紙パックジュースは色々はいって7個入り税込300円値段も別格と有名なキリンの別格シリーズは、普段は税抜200円がなんと税抜88円で、しかも1本に1つボルヴィックのスクエア皿貰えちゃうんだから大人買い旦那から頼まれた風邪薬を買いに行ったドラッグストアで、お~息子がよく飲むブレンディのココア大箱が税抜398円は安い!スープはどの店か忘れたがたぶん税抜198円バローでは、息子が好きなレディボーデン6カップの箱売りが税抜298円、クリープもやっぱ税抜298円娘の好きなウィスキー「富士山麓」はオマケは付いていないが税抜798円って安い! NHK朝ドラがらみで竹鶴、リタのハイボールも買ってみた。ニッカに限らずウィスキー全般で売上良いかも更には、つい最近6本パックを税抜298円で買ったばかりのワンダモーニングショットは、9本に今だけ!1本無料の10本セットが、たぶん税抜で448円。再び買ったがAKB48コラボのあみだくじキャンペーンシールがついていたので早速、PCで登録をしてわずか2ポイント(2本分)で、チーム8がおすすめする全国48都道府県グルメチーム8の高岡薫さんがおすすめの愛媛県のじゃこ天、じゃこカツがあれよあれよと言ううちに当たる。通販をネット検索すると3千円位するようなグルメ品だ最後に。昨今、高齢者の危険な運転がよく報道されたりするが国道19号の片側2車線のまっすぐな道を、追い越し車線を遠くからぐんぐんと近づいてくる逆走車が。ひょえ~~~~~!信号が青に変わったばかりで車がみんな徐行から停止して、その逆走車は無事に脇道に逸れたけど、75歳以上のマークを付けた軽トラでしたわ。下手すりゃ正面衝突の重大事故ですよ!怖かった~ 後半は2014年12月に中津川で撮影
2014年12月19日
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