殿上人日記

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2009年07月03日
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カテゴリ: カテゴリ未分類

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  「縄張り」とは動物個体あるいはグループが
  直接に防衛するか、あるいは信号を通じて他
  個体を排斥し、排他的に占有する地域のこと
  である       ウィキペディアより


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  お馴染みの言葉だが、その語源はというと
  築城する時の基本的な設計を、縄張りと言い
  その要めは曲輪の配置であるそうで、実地で
  縄を張って、検証をした事に由来するそうだ


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  軍学者らが、その知識を遺憾なく発揮をして
  縄張りをしたものだが、武田信玄の軍師である
  山本勘助もまた、海津城、高遠城、小諸城という
  信州の名城の縄張りをしたと伝えられている


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  武田信玄が東信州の統治の為に築城をされたのが
  小諸城であるが、城下町よりも低地に城の縄張りが
  されている為に、別名を「穴城」とも呼ばれている


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  その立地は西側の千曲川の断崖で防御をされ、浅間山の
  田切地形の深い谷を、空堀に有効に利用をしたものだ


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  古くは平安時代から鎌倉時代にかけてを、木曽義仲の
  武将でもあった小室太郎光兼が、ここに居館を構えた
  のが始まりであったそうだ


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  室町時代に入ると、この地の豪族であった大井光忠が
  小室氏の勢力を抑えて、その子の光為の代には現在の
  二の丸跡に出城として、乙女坂城を構えたそうだ


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  群雄割拠の戦国時代に入ると、先日の荒砥城の
  日記でも登場をした村上村上義清が、大井氏に替わり
  小諸も領有をするようになったが、程なくして
  信濃に触手を伸ばす武田信玄によって、城は落城


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  武田信玄は、山本勘助と馬場信房に築城を命じて
  天文23(1554)年には完成をし、甥である
  武田信豊が城主になったそうである


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  天正10(1582)年に、武田勝頼が織田信長に
  よって滅ぼされると、信長の武将である滝川一益が
  入城をするが、程なく本能寺の変が起きて武田方で
  あった佐久の依田信蕃が城主となった


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  しかし小田原の北条氏直が、大軍で攻め寄せた為に
  依田信蕃は徳川家康の下に落ち延びて、北条方の
  大道寺政繁が占拠をするが、両者の戦いで徳川方の
  領有となって、依田信蕃の実子である松平康国が
  小諸の城主となった


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  天正18(1590)年には、豊臣秀吉が小田原の
  北条氏を滅ぼして、天下の体制は豊臣のものとなり
  小田原攻めでの功労が認められて、5万石で大名に
  列せられた仙石秀久が小諸城主になり、三層の天守や
  黒門、大手門を建て、息子の仙石忠政の代に三の門と
  足柄門を建てるなど、小諸城の大改築が行われた


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  ちなみにこの仙石秀久は、戸次川の戦いで独断専行で
  大敗を喫しながらも、小田原征伐では活躍し大名に返り
  咲いた事から、戦国史上で最も失敗し挽回した男として
  「センゴク」という漫画で取り上げられ人気だそうだ

  小諸では早くから殖産興業に目を向け、蕎麦を名産品に
  しようと取り組んでいた殿様であるそうで、美濃国の
  土岐氏の流れをくむらしい


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  天下分け目の関が原の戦いでは、家名の存続の為に
  西軍に与した跡継ぎの秀範を、廃嫡の上で勘当をし
  東軍につき家督は三男に継がせ、徳川の世では信濃
  上田に移封。後に但馬出石へと蕎麦を伝えた

  また小諸城は、徳川秀忠が上田城の真田昌幸攻めで
  手こずって、関ヶ原に遅参をして家康に叱責された
  際の本陣だったそうだ


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  小諸は、徳川三代将軍家光の弟である徳川忠長(駿河
  大納言)の所領の一部となり、荒砥城でも紹介をした
  家老の屋代忠正が入ったが、忠長が辻斬りや家臣の
  手打、浅間神社で猿を狩るなどの行状などから改易と
  なってしまい、屋代氏も連座で改易をされたが、後に
  罪を許されて、安房国北条藩1万石を与えられた


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  寛永元(1624)年に、松平憲良が美濃大垣から入封を
  したのを皮切りに、幾度となく城主が交替をしたのだが
  元禄15(1702)年に、越後与板から牧野氏が入封し
  そのまま明治を迎えた


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  現存する建造物は、現在の懐古園の入り口の三の門と
  大手門のみで、共に国の重要文化財に指定をされている

  三の門は1615年に建てられた門は、洪水で崩壊し
  1765年に再建されたもので、徳川家を継いだ徳川
  家達の筆による懐古園の有名な大額が掛かっている


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  明治14年(1881)年に、小諸城跡に懐古園が
  造られた時の記念碑があって、題字は勝海舟の筆に
  よるものだそうだ


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  酔月城、白鶴城といった優美な名も持った城跡には
  戦国の欲望と愛憎と哀れが、いっぱい渦巻いている
  ようだった

  真田といい仙石もよく生き延びたものだ。その為には
  親子が敵味方に分かれてまでも


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        平成21年6月27日に信州小諸城跡で撮影






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最終更新日  2009年07月03日 21時04分02秒
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