殿上人日記

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2018年05月24日
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テーマ: 海外旅行(7529)
カテゴリ: 韓国旅行


またまたブログの間隔がかなり開きました
と言うのもゴールデンウィーク突入に合わせ
旦那が定年退職。GW後に先週末まで退職
休暇と、10万円の旅行券も会社から頂戴し
退職旅行なども出かけた(私も同行)ので
その旅行記は、いずれまた




今週に入り、定年後再雇用で同じ職場で同じ
仕事という訳でして、また同じような生活に
やっと戻る事が出来たが、所詮は再雇用なので
お給料がどれだけ減るんだろうかっていうのが
目下気になるところ。会社の同僚らに貰った
還暦Tシャツは、カープファンかと間違えた




それにしても家にずっと旦那がいるのは
プレッシャーです。だら~と昼間っから
ネットやれないし、亭主元気で留守がいい
とは、ホント良く出来た標語です。旦那は
旦那で口うるさい舅が横にいて、あれやれ
これやれ、あそこに連れて行けとこき使われて
いたようで、晴れて会社に戻れて喜んでます




さてさて4月上旬に娘と出かけた韓国旅行の
レポート3回目。2日目の紹介となりますが
前に市内の苗木城の事を紹介した時、苗木藩は
徹底をした廃仏毀釈を行い、寺は破壊されて
領民は皆、神道に改宗したのを覚えておられ
ますか?




ウィキペディアより
>「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、
>釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。
>日本においては一般に、神仏習合を廃して
>神仏分離を押し進める、明治維新後に発生
>した一連の動きを指す。




戦国を制した徳川家康の開いた、江戸幕府は
中国の孔子の教えによる儒学 (朱子学) を
新しい時代の官学として、徳治主義をもって
幕府の礎を築いたのだが、水戸藩においては
儒学思想に、国学や史学、神道を結合をさせ
独自の水戸学が発展し、吉田松陰や西郷隆盛
など幕末の志士に大きく影響を与えた




日本における国語学、国文学、歌道、歴史学
地理学、有職故実、神学といった事を学ぶ
国学も流行し、明治維新を推し進めた志士
らは、日本古来の宗教は神道であり、外国
より渡来をした仏教などは、邪道であると
いった思想を持つに至った




明治政府は天皇は現人神であると、神道に
よる神格化を求め、国を挙げて仏教を弾圧を
したのだ。お隣の国の韓国は、よく儒教の
国だと言われるが、その数はもはや少数で
過半数をキリスト教徒と仏教徒が占めており
新興宗教を含めて、様々な宗教が存在して
いるようである




前回も紹介したが日本の飛鳥にあるような
弥勒半跏思惟像が慶州の博物館にあったと
いうように古代朝鮮で仏教が、中国を通じ
広まり、新羅やその後の高麗王朝においても
最有力の宗教として興隆を極めていた




ところが1392年に李成桂(太祖)が李氏
朝鮮を建国をすると一転をして儒教が国教と
なり、朱子学を修めた新興の科挙官僚である
士林派(しりんは)の台頭によって、仏教は
徹底的に弾圧をされた。これを「斥仏揚儒
(せきぶつようじゅ)」(仏教を排斥して
儒教を信奉する)という




数少ない寺院を残して、殆どのお寺は破壊され
所有地と奴卑を没収され僧侶は還俗させられた
中宗の時には、国中の仏像を没収して溶解した
上で武器を作るなどと言い出す始末で、高価な
高麗仏画や仏像などは、日本へと高額で売買を
されたり、贈り物にも使われたそうだ




全てまでとは言わないが、こういった流出の
経緯もあるにかかわらず、こういった事実に
目をつぶり、どれもこれもが倭寇に盗まれた
ものだから我が国のものだと、日本の寺院に
長く伝わる高麗由来の仏像などが、盗難にあい
それを返却もしないとは・・・




この寺も打ち捨てられて、誰もに忘れ去られ
廃墟となっていた。石窟庵(ソックラム)は
前回の仏国寺と共に世界遺産に指定をされて
いるのだが、1909年に郵便配達員が配達の
為に吐含山の峠を越えようとしたところ、突然
豪雨に見舞われて山中の洞窟に逃げ込んだ際に
洞窟の中に偶然、石仏を発見したというのだ




前の時も、今回も地元添乗員が石仏を日本に
持っていこうとしたが、出来なかったという
話をしたので、ネット検索をするとどうやら
日本人の偉い人がこのようなお宝を、山中に
置くのもどうかと思い京城(今のソウル)に
持っていこうとしたが出来なかったらしい




その移動の為に分解をしたものの、再び復元
したのだが幾つかの部材が残されてしまった
そうである(汗) 石窟庵には他にも石仏が
あったのが、日本に持ち出されたと言われて
いたが、昨今の研究ではもともと石仏は存在
しなかったそうだ




更に景福宮にある高麗期の石塔の四方にあった
獅子像が、長らく日本に略奪されたと言われて
いたのが、実はソウルの国立中央博物館に保管
されていた事が2016年に判明をしたそうだ

「日本に略奪された」はずの国宝、韓国にあった(産経ニュース)




秀吉の侵略で寺が破壊されたというのも、前述の
ように、李氏朝鮮による国を挙げての仏教弾圧に
よるものであったりとかするようだし、万事を
日本の責任にするのもどうかと思うので、韓国人
ガイドさんの説明も話半分に聞いていたりもした




本尊は高さ3.4mの如来坐像で、如来の額には
ガラスが埋め込まれており、東から昇る太陽の
光が石窟内に日差しが入ってくると、ガラスが
光る設計になっているそうだ。主壁には菩薩像
および弟子像と金剛力士像、天王像など39体の
仏像が石窟の壁面に彫刻をされている




今は石室の前に、このような建物が作られており
そこからガラス越しに拝見するのだが、内部は
撮影禁止になっているので、↓リンクをぽちっと
されて、内部の写真や説明をご覧下さい

「石窟庵」について




ウィキペディアによると
>新羅の景徳王と恵恭王の時代の宰相だった
>金大城(700年 - 774年)が自分の父母の
>ために「石仏社」を建立したと高麗時代の
>『三国遺事』に記されており、石仏社が
>仏国寺の位置に近いことから石窟庵のこと
>であると考えられている。




>751年(景徳王10年)に建立が開始され、
>774年(恵恭王10年)に完成した。その後
>儒教を中心とした朝鮮時代が500年以上
>続き、仏教は弾圧されたため永らく放置
>されていた。




石窟庵は東を向いて建てられており、この
山の稜線の上に、海がはるか彼方に見える
そうで、初日の出や月の出を見る名所でも
ある。そうそう色鮮やかな提灯であるけど
旧暦の4月8日のお釈迦様の誕生日を祝う
「燃灯祝祭(ヨンドゥンチュッチェ)」ので
お祭りが近づくとあちこちの寺で飾られる




春の長閑な光をあびながら、てくてくと
駐車場まで戻ってきました。それにしても
3日間を通じて、お天気に恵まれたのが
なによりだった




私の出かける前日は春の嵐だったそうで
強い風と大雨で、このような歩く観光は
さぞかし大変だったろう。旦那との旅行
過去には山陰は早い雪、南紀は遅い台風
大変であっただけに、今回もかなり心配
してたのだけど




地元のお母さんたちが駐車場の片隅で
色々と農産物を売っていた。日本での
高山とか能登輪島などの朝市の光景と
全く変わりはなかった




慶州市最高峰でもある標高745メートルの
吐含山(トハムサン)は、新羅時代には五嶽の
うちの東嶽(東岳)と呼ばれており、護国の
鎮山として神聖視をされ、仏国寺と石窟庵が
建立されている。その山を下りてきて・・・




慶州は桜の名所でもあるだけに、2日前の
強風と大雨が心配だったけど、慶州の至る
ところで桜の花が綺麗に咲いており、車窓
からもお花見




次に向かったのが高麗青磁の月城窯での
見学とショッピングタイム。前に慶州に
来た時はコーヒーカップをお土産にした
けど、今回は値札がなくお店の人に値段を
聞くのが面倒でやめた




ウィキペディアによれば
>中国・呉越(907年~)の餞州窯(現江西省、
>越州窯現浙江省とする説もある)の青磁の
>技術を導入して焼き始められたものであるが
>その出現時期には諸説ある。最も早い説は
>10世紀前半(918年建国)、最も遅い説で
>11世紀後半である。




>高麗の焼き物には白磁や黒磁もあるが、主要な
>製品は青磁であった。青磁の胎土は焼成前は
>褐色を呈しており、これを素焼きすると灰色が
>かった色に変化する。これに鉄分を含んだ釉を
>掛けて還元炎焼成(窯内に酸素を十分に供給
>せずに焼く)すると青磁になり




>釉薬中のチタニウム、マンガン等の微量元素の
>含有割合によって、緑に近い釉色から「雨過
>天晴(雨が上がって晴れ渡った空の事)」と
>称されるような澄んだ青色などさまざまな色に
>発色する。




さて戦国時代の日本。信長を始めとする戦国
武将らは焼き物が大好き。その為に秀吉による
朝鮮侵略は別名を焼き物戦争とも言い、半島に
渡った主に西国の武将らは日本に引き上げる際
数多くの陶工を連れ帰った。その中には戦乱を
避け自ら名乗り出た者もいたかもしれないが
捕虜として拉致をされた者が多かった




多くの大名らが陶工らに土地や屋敷を与え
中には武士にも、取り立てて手厚く保護を
していたそうで、日本に帰化をして日本に
定住した者も多く、徳川時代に李氏朝鮮と
国交が成立し、朝鮮通信使が来日した時に
捕虜は共に帰国を許されもした




そして日本に定住をして、日本に焼き物を
広めたので有名なのが佐賀藩主の鍋島氏が
連れ帰った陶工の李参平(金ヶ江三兵衛)で
日本で初めて白い肌の陶磁器「白磁」を制作
有田焼(伊万里焼も)の陶祖と呼ばれている




薩摩藩の島津氏も80名程の陶工を連れ帰り
朴平意や金海(星山仲次)などの朝鮮陶工らが
薩摩焼の発祥の祖となった。また薩摩藩から
朝鮮陶工が3名、琉球に派遣されて琉球陶器が
始まったそうである




他に萩焼きも、毛利氏が連れ帰った李勺光
(りじゃくこう) と李敬(“高麗左衛門)の兄弟
陶工が開祖とされ、「一楽二萩三唐津」と
称されるように、茶器のうち特に茶碗が名高く
白色の柔らかな肌合いが特徴で、私も好きな
焼き物だ




前回の慶州来訪時には仏国寺と石窟庵
以外にも、新羅時代の古墳が集まって
いる大陵苑にある天馬塚の内部拝観や
国立慶州博物館の見学あったが、今回は
昼前に今回の旅のメイン観光に移動を
するのでスルー




車窓からは新羅時代の王都を彷彿出来るような
古墳や遺跡などもあちこちで見る事も出来た
この塀の向こう側にも、何かあるんだろうね




新羅の7世紀の儒学者である弘儒侯薛聡は名僧
元暁の子で新羅語を漢字で表す方法を集成し
漢文を新羅語で読み解き、中国学芸の摂取と
儒学の発展に寄与し神文王(在位681‐692)に
道徳規範の順守を説いたそうだ。その墓所が
この道の先にあるようだ




何やら遺跡。由来は遠いので?




安い旅行にはショッピングタイムが付き物
というか水戸黄門でも旅先で、名物を食べて
工房を訪ね、温泉に遊ぶ。という訳で慶州
名産のアメジスト(紫水晶)のお店に寄り
土産の根付のようなものから、ネックレス
ブレスレットなどが。購入する方もみえた




お店の前にもおっきな古墳。かなり後で
その存在に気が付いたが、到着時に気が
付いていたら近くまで見物に行けたのに
残念




桜並木の続く慶州もお別れし、次の観光
先に行く途中で、お昼ごはんをとる事に
なったけど、その都市名は忘れてしまった




朝から寺だ、石窟だ、焼き物、紫水晶などと
歩き回ってお腹もすき、駐車場にバスが到着
すると一目散に食堂にGO




昨日の夜も、今朝も、この昼食だって
スケジュールではみんな食事の名前が
違うんだけど、なんか代り映えのしない
食事で、真ん中の小さな焼き魚がメイン
らしいけど・・・あぁラーメンが食べたい




        平成30年4月8日に韓国慶州で撮影

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最終更新日  2018年05月25日 08時06分37秒
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