殿上人日記

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2019年07月02日
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カテゴリ: 京都の旅


さてさて前回の懸賞当選報告でも、少し紹介​
しました、いつもの日帰りバス旅行無料招待
いつものように一人で出かけたけど、今回も
とても良い方がお隣で、楽しい一日でしたよ




まずは、お決まりの宝石屋さんで90分間の
ショッピングタイム。誕生石クイズで当たり
パックのシートを今度も貰いましたが、お隣の
奥さんも当たった♪と、ニコニコされてました
この宝石は、コンクールとかに出すやつらしく
撮影が出来る入口の部屋で




今回はお買い上げになった方がいるらしく
その手続きなのか、バスの発車が遅れたので
先程のパックのシートをバス全員にも配って
くれました。バスは木曽川を超え名神高速を
西へと向かい




昼頃には、昼食場所の京都の宇治に到着!
家族旅行などを含めて、宇治は今までに
数度は来ているが、嵐山同様に風光明媚で
いいところだなぁ~




川の畔の喜撰茶屋で、団体料理を
いただきますが、今までは早くに
食べても、土産物屋を見物する位
でしたが、ここならお散歩に行け
そうだし!




お店のホームページを見たところ、たぶん
1500円位のお料理かな。冷たくなった
天ぷらは湯豆腐に投入し、温かで美味しく
なりました。お散歩時間確保の為に早食い
しちゃいまして




集合時間までの時間はありますし、早足
ではありますが、宇治の散歩に行くぞ~
宇治に来ると、平等院が満足度が高いし
抹茶パフェとか食べに行くので、実の話
川の向う(東側)は行った事が無いのだ
まずは朱色の喜撰橋を渡る




鵜飼いと言えば、岐阜市の長良川が有名
だけど、ここ宇治でも鵜飼をやっている
ようだ。私は岸からだけど以前に嵐山で
泊まった時に、遠くから鵜飼を見た事が
ある




お~~、鵜がいるよ♪ 鵜飼について
ウィキペディアで、紹介させて貰うと

>鵜飼い・鵜飼・鵜養(うかい)は、鵜(ウ)を
>使ってアユなどを獲る、漁法のひとつ。中国、
>日本などで行われていた。現在では漁業という
>より、観光業(ショー)として行われている
>場合が多い。 また、ヨーロッパでは16世紀
>から17世紀の間、スポーツとして行われた。




>鵜飼いの歴史は古く、『日本書紀』神武天皇の
>条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを
>問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、
>此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部の
>ことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った
>歌謡が載っている。




>天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある。
>また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の
>条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法と
>して『以小環挂鸕鷀項、令入水捕魚、日得百餘頭』
>(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と
>記されている。




>延喜年間(901年 - 923年)には長良川河畔に
>7戸の鵜飼があり、国司藤原利仁により鮎が献上
>された。そして、それを時の天皇が気に入り、
>方県郡七郷の地を鵜飼に要する篝松の料として
>賜り、鵜飼七郷と読んだ




>『和名抄』には美濃国方県郡の鵜飼が掲げられ、
>『集解釈別記』には鵜飼37戸とあり、『新撰
>美濃誌』には方県郡鵜飼の郷9箇村とある。
>文明年間(1469年 - 1486年)、一条兼良が
>美濃の正保寺に滞在し鵜飼を見物した記録が
>ある。




>永禄7年(1564年)、織田信長は長良川の
>鵜飼を見物し、鵜飼それぞれに鵜匠の名称を
>授け鷹匠と同様に遇し、1戸に禄米10俵を
>当て、給与した。

う~む、古くから鵜飼されていたんだ。しかも
美濃国の長良川河畔でされていたとは。岐阜県民
だというのに見物したことが無い




「浮島」「浮舟ノ島」などの人工島の一つである
「塔の島」には、現存をする近世以前の石塔では
日本最大(約15.2メートル)の十三重石塔が建つ
これは鎌倉時代に、宇治橋の大掛かりな修造がされ
宇治川の川中島として、大橋の南方に舟を模した
人工島を築き、放生会を修する祈祷道場とした




宇治川で漁撈される魚霊の供養と、橋の安全の祈念を
旨にして島の中央に大塔婆が造立されたそうである
島は宇治川の氾濫にも耐えて、激流に浚われる事が
無く「浮島」「浮舟ノ島」と呼ばれるようになったが
大塔は氾濫の被害を受けて、倒伏と修復を繰り返し
江戸時代に起きた氾濫で倒伏し、川底の泥砂に埋もれ
明治末に発掘されて再建をした。国の重要文化財だ




近江より奈良へ帰る途中、宇治川付近で歌われた
柿本人麻呂の歌碑があった。「宇治川の網代木で
一時停滞し、やがて行方知らずとなる波のように
滅びさった近江の都に仕えていた人々はいったい
どうなったのであろうか」との意で、




もののふの八十氏河(やそうじがわ)の網代木
(あじろき)にいざよふ波の行く方しらずも

こちらは橘橋と言うらしい。時間がないので
渡らず遠くから、眺めて拝観終了




宇治川の向こう岸には、道元が興聖宝林寺を
建立した事に始まる、日本の曹洞宗としては
最初の寺院となった興聖寺。宇治川に面した
総門より本堂に通じるまでの緩やかな参道は
「琴坂」と呼ばれ、宇治十二景の1つにも数え
られている




更に、源氏物語の宇治十帖に縁があるという
「手習観音(聖観音)」が安置されていると
いうので、いつかは参拝に出かけたいけど
今回も時間的に無理のようだ




そして宇治川と言えば、源義仲と鎌倉の源頼朝
から派遣をされた源範頼、源義経との宇治川の
戦いとしても有名で、佐々木高綱と梶原景季の
宇治川の先陣争いなども




それに先んじて、以仁王(高倉天皇の兄宮)と
源頼政が平氏打倒のための挙兵を計画し、諸国の
源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発したが、準備
不足の雨に露見し追討を受けて、以仁王と頼政は
宇治平等院の戦い(橘合戦)で敗死をしてしまった




単に風光明媚な土地と言うわけではなく、交通の
要所がゆえに、歴史に幾たびか登場する宇治だが
やっぱり、その名が一番知れ渡ったのは紫式部が
執筆した「源氏物語」の存在が大きいと思われる
私も子供の頃に、これで宇治の名を知った




とは言っても現代語訳のものだし、光源氏の物語は
真剣に読んだけど、亡くなったのちの宇治十帖とか
流し読み状態だったが。ここでの主人公は薫の君で
光源氏(本当は柏木)と女三宮の息子で、生まれつき
体から良い薫がするので、そう呼ばれている




こちらは匂宮と浮舟が、小舟の上で愛を語らう場面
らしい。匂宮は今上帝の三の宮(第三皇子)で、母は
光源氏の娘である明石の中宮で、光源氏の孫となる
薫の君に対抗し、薫物(たきもの)に心を砕いており
二人は世間から「薫る中将、匂ふ兵部卿」と呼ばれ
世間の評判はこの二人に集中していたそうだ




イケメンでイケイケな匂宮は、薫の君から宇治八の宮の
姫君たちの噂を聞き、薫の手引きによって中君と結婚
するが、夕霧の娘六の君を北の方に迎えると、中君を
ないがしろにしてしていた。しかも中君の異母妹である
浮舟が、薫君の恋人と知りながらも薫になりすまして
契りを結んだ為、浮舟は苦悩のあまり入水を図ったのだ




もともとが昼食タイムなので、あまり時間がないけど
この神社位なら参拝が出来そうだ。このすぐ近くには
世界遺産にも登録されている、宇治上神社もあるが
時間のある時にゆっくりと参拝をさせて貰おうかと
思う。先程の曹洞宗のお寺や源氏物語ミュージアム
なども行きたいし




といった訳で今回お邪魔をしたのは、かわいらしい
「宇治神社」である。普通であれば龍の口からだが
ここではウサギだし。中世に宇治茶の象徴としての
宇治七名園が作られて、お茶には不可欠な水として
「宇治七名水」も定められ、現存する唯一のものが
この「桐原水」で、宇治上神社の境内に沸いている




この樹は「兎楽の樹(うらくのき)」といい、簡単な
説明は下の写真をご覧下さい。宇治神社と宇治上神社の
御祭神は、ウサギに導かれた菟道稚郎子命である




彼は第15代応神天皇の皇子(日本書紀では皇太子)で
16代仁徳天皇の異母弟であるそうだ。宇治の地名は
古くは宇遅、莵道、兎道などとも表記されており
菟道稚郎子の宮があった

ウィキペディアによると
>『日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐と
>王仁を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された。




>応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、
>日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り
>捨てている。応神天皇40年1月に皇太子となった。
>翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と
>互いに皇位を譲り合った。




>そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが
>太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと
>挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して
>郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に
>遭って殺された。




>この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を
>譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の
>煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期す
>べく、自ら果てた。




>尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に
>招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田
>皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという
>『播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載が
>あり、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚
>郎子を指すと見られている




壬申の乱を前にして大海人皇子(天武天皇)も
近江を後に吉野へ向かう途中で、ここ宇治にも
立ち寄っていたという。宇治川のあたりでの別れ
際に、舎人たちは大海人皇子の吉野行きを「翼を
つけた虎を野に放したようなものだ」と言った
そうだ




そんなこんなの歴史の端々に登場する宇治、歴史
ファンならば妄想モード最強になれるのは間違い
なし。宇治川の東側のこの道をさわらびの道といい
川の西側はあじろぎの道で、良い散策路になって
いる




万葉集にある詠み人知らずの歌

宇治川は淀瀬無(よどせな)からし網代人(あじろひと)
舟呼ばふ声をちこち聞ゆ




現代においては宇治と言えば、やっぱお茶という
事で、さわらびの道沿いに「福寿園 宇治茶工房」が
あったので、次に来た時には立ち寄りたいが時間も
ないので、そろそろ戻るとするか




お昼をいただいた喜撰茶屋で、50円の割引券を
貰っていたので、喜撰ソフトをぱくり。八つ橋が
ささっているよ




自分が喜撰ソフトになる事も出来るし♪ 




と言った訳で集合時間になったので、バスに
乗車して、今回のメインの伏見稲荷大社へと
向かう事にする




バスの車窓からは宇治の縣神社。大和政権下に
おける県(あがた)に関係をする神社と見られ
1052(永承7)年に、藤原道長が別業(別荘)を
寺院である平等院とする際、鎮守としたそうだ




「宇治橋」は「瀬田の唐橋」と「山崎橋」と共に
日本三古橋の一つに数えられ、日本霊異記に道登が
宇治橋を架けたのは、646(大化2)年と伝えられて
いる。古今和歌集や紫式部の源氏物語に登場し、能の
「鉄輪」で登場する橋姫伝説でも有名である




現在の橋は、1996(平成8)年に架け替えられ
長さは155.4m、幅25m。橋の姿が宇治川の自然や
橋周辺の歴史遺産と調和するよう、擬宝珠を冠する
木製高覧という伝統的な形状を使用している




宇治へは京都から京阪宇治線と、JR奈良線があり
京阪は宇治が終着となるが、JRは宇治川を渡って
奈良へと。この電車はJRの「みやこ路快速」だ




昨日あたり、娘が最近は奈良に行って
いないし、久しぶりに京都や奈良とかに
行きたいなぁ♪なんて嬉しい事を言って
いたので、この夏は関西地方に出かける
事が出来るかも♪




秀吉が隠居の為に建てた伏見城は、戦いも
経て、関ヶ原の戦いで勝利した家康が再建を
したが、一国一城令で二条城を残し伏見城は
廃城となり、一帯には桃が植えられ桃山と
呼ばれたそうだ。戦後になって遊園地が出来
模擬天守も作られた




          令和1年5月24日に京都で撮影

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最終更新日  2019年07月02日 15時44分29秒
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