殿上人日記

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2019年08月23日
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カテゴリ: 愛知、三重の旅



暮らすようになって、早3ケ月が経とうと
している。なんだかんだで月に1度は娘と
顔を出しているのだが




引っ越し初日に、息子は家から荷物を
運んだレンタカーで旦那と家に帰って
後から自分の車で岡崎入りをする事に
なっていたが、私はガス開栓の設置の
立ち合いをする為に、一晩泊まった




無事に電気、水道、ガスのライフラインも
整ったので電車で家に帰る前に、折角だし
岡崎市の観光をして行こうと思い、行った
先は「岡崎城」。岡崎は前に数度は来てた
けど、岡崎城の観光は実は初めてだ(と
思ったら2007年に登城してた)




1993年に再建された「大手門」は高さ11m
幅16.4m、奥行6.3mで、石垣には地元産の
御影石を使用し、入母屋造り。本来は現在の
浄瑠璃寺の南にあったそうだ




江戸幕府時代には岡崎城は「神君出生の城」と
して神聖視されており、家格の高い譜代大名が
歴代の城主となったそうだ。神格化された君主
との事から徳川家康が東照神君として有名だが
源頼朝は鎌倉神君であるそうだ




もともと神々の子孫である天皇は、神君と
名乗る必要はなかったそうである。中国や
東アジア地域では王朝の建国者を「高祖」
「太祖」「神祖」などとして廟号をおくり
信仰の対象としてきた




江戸幕府を開いた神君家康公は、「権現様」
とも呼ばれて信仰され、「神祖」、「烈祖」
などとも称されていたそうだ

ウィキペディアの記事を引用させていただく




>三河国の土豪である松平氏の第8代当主・
>松平広忠の嫡男として天文11年12月26日
>(1543年1月31日)寅の刻(午前4時頃)に
>岡崎城 にて誕生。母は水野忠政の娘・於大
>(伝通院)。幼名は竹千代(たけちよ)




>3歳のころ、水野忠政没後に水野氏当主と
>なった水野信元(於大の兄)が尾張国の
>織田氏と同盟したので織田氏と敵対する
>駿河国の今川氏に庇護されている広忠は
>於大を離縁。竹千代は3歳にして母と生き
>別れになる。




>天文16年(1547年)8月2日、竹千代は数え
>6歳で今川氏への人質として駿府へ送られる
>こととなる。しかし、駿府への護送の途中に
>立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の
>裏切りにより、尾張国の織田信秀へ送られた




>だが広忠は今川氏への従属を貫いたため、
>竹千代はそのまま人質として2年間、尾張
>国熱田の加藤順盛の屋敷に留め置かれた。
>2年後に広忠は家臣の岩松八弥の謀反に
>よって殺害された。今川義元は織田信秀の
>庶長子・織田信広との人質交換によって
>竹千代を取り戻す。




>しかし竹千代は駿府に移され、岡崎城は
>今川氏から派遣された城代により支配
>された。 墓参りのためと称して岡崎城に
>帰参した際には、本丸には今川氏の城代が
>置かれていたため入れず、二の丸に入った。




>天文24年(1555年)3月、駿府の今川氏の
>下で元服し、今川義元から偏諱を賜って
>次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で
>関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶る。
>名は後に祖父・松平清康の偏諱をもらい
>蔵人佐元康と改めている。




>永禄元年(1558年)2月5日には今川氏から
>織田氏に通じた加茂郡寺部城主・鈴木重辰を
>攻めた、これが初陣であり、城下を焼いて
>引き揚げ、転じて附近の広瀬・挙母・梅坪・
>伊保を攻めた。この戦功により、義元は旧領の
>うち山中300貫文の地を返付し、腰刀を贈った




>永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで
>先鋒を任され、大高城の鵜殿長照が城中の
>兵糧が足りないことを義元に訴えたため、
>義元から兵糧の補給を命じられた。しかし
>織田軍は大高城を包囲しており、兵糧を
>運び込むには包囲を突破する必要があった。




>そこで5月18日、鷲津砦と丸根砦の間を突破
>して、小荷駄を城中に送り込み、全軍無事に
>引上げた。翌19日、丸根の砦を攻め落とし、
>朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とした。義元が
>織田信長に討たれた際、大高城で休息中で
>あった元康は、大高城から撤退。




>松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害
>しようとしたが住職の登誉天室に諭されて
>考えを改める。その後、今川軍が放棄した
>岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、早い
>段階で今川からの独立を果たそうとする。




といった訳で幼くして母と別れ、尾張国に
人質にされ、父も殺され、今度は駿河国に
人質にされて苦労の末、やっと岡崎城に
戻ってきた訳ですが、まだまだ苦労も絶え
ません。三方ヶ原の戦いでは武田信玄に
大敗を期し、信長の配下となり、秀吉を
称えて




天下分け目の関ヶ原で、大勝利をおさめ
大坂では真田幸村に本陣に攻め込まれた
事もありましたが、やっと家康が天下を
手に入れたのは、高齢になってからです
岡崎城天守をバックに、そんな家康公に
あやかった出世ベンチに座って、一休み




次はウィキペディアで、岡崎城について

>菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山と
>いう丘陵を利用して造られている。元は、
>龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代で
>あった西郷稠頼、そして、その子頼嗣が
>北方に対する防御として築城したもので
>ある。




>当時は、龍燈山城(りゅうとうざんじょう)と
>呼んだ。それを、松平清康が西郷信貞(松平
>昌安)から奪い取り改修拡張整備したものが
>岡崎城である。龍頭山はもともと小高い丘で、
>山頂に本丸が置かれた平山城として築かれて
>いた




>1531年(享禄4年)岡崎松平家を破った松平
>清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を
>整備して勢力を広げたが家臣の謀反により
>命を落とす(森山崩れ)。1542年(天文11年)
>城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。




>当時、櫓や門の屋根も茅葺で、当地は石の
>産地ながら石垣などもなく、ただ堀を掘った
>その土をかきあげて、芝を植えただけの土塁が
>めぐっていた。1549年(天文18年)松平広忠が
>家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は
>今川家の支城として城代が置かれ、山田景隆、
>三浦義保、糟谷備前らが城代を務めた。




>1560年(永禄3年):桶狭間の戦いで今川義元が
>敗死すると、松平元康(後に家康、徳川へ改姓)は
>岡崎城を取り戻し、今川家から独立する。1570年
>(元亀元年)徳川家康は本拠を浜松城に移し、
>岡崎城は子の松平信康が入った。しかし、信康は
>謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川
>数正、本多重次らが城代を務めた




>1590年(天正18年)家康が関東に移封となると、
>豊臣家臣の田中吉政が入る。家康に対する抑えの
>拠点の一つとして、吉政は城を拡張し、強固な
>石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。
>また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の
>郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を
>通るように変更し、




>岡崎の二十七曲がりといわれるクランク状の
>道に整備され、現在の岡崎城の原型を造った
>本多康重から3代忠利にわたる改修によって
>平城となっている。この際、本丸に複合連結式
>望楼型3重3階の天守(1617年(元和3年))が
>建てられた。




>存城当時の東海地方の城では3番目に数え
>られる規模であったが、1873年(明治6年)の
>廃城令によって廃城となった。城内の天守
>以下の建物及び土地を払い下げ、現在は一切の
>建物を失い、本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居
>曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を
>残すのみである




>敷地は龍城神社、岡崎公園として整備された。
>1959年(昭和34年) 鉄筋コンクリート造で
>天守が再建される。2007年(平成19年)材木町で、
>マンション建設に伴う発掘調査によって石垣が
>見つかり、日本国内で4番目の規模の城である
>ことが判明した




> 三河国守護代・西郷稠頼が岡崎城を築城した
>際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて
>天に去っていたという。以降、天守に龍神を
>祀り、城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と
>称したという。徳川家康が誕生した際にも
>金色の龍が現れたという。




>徳川家康を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀る。
>藩主本多忠粛により東照宮は岡崎城三の丸に遷座。
>本丸には本多忠勝を祭神(映世大明神)とする
>映世神社が創建、1876年(明治9年)に東照宮を
>岡崎城本丸に遷座、映世神社と合祀して龍城神社に
>改称する。社殿が造営される。




>1964年(昭和39年):社殿が再建される。
>このさいに天神地祇、戦没者を合祀した。

といった訳で、ウィキペディアの記事によって
徳川家康と、岡崎城についてコピペをさせて
いただきました




当時は 出産に際して、えなと呼ばれるへその
緒や胎盤などを埋めて祀ることで、その子の
健康を願ったとの事から、家康公のえなを
埋めたと伝えられる塚。もとは本丸南に
あったものを、今の場所に移したそうだ




岡崎城内で生まれた竹千代(徳川家康)の
産湯に、この東照公産湯の井戸の水が
用いられたそうだ




現在でもこの井戸の水を汲み上げ、浄水設備を
通したあと触れることができるように、井戸の
すく隣で常時流れている




こっちは二の丸御殿の井戸




その説明です↑




東隅櫓について、ウィキペディアによると

>2010年(平成22年)3月、東隅櫓が再建
>された。望楼式二重櫓と呼ばれる木造2階
>建で、入り母屋造りの屋根は、岡崎藩主を
>務めた本多氏の家紋立ち葵が刻まれた本瓦
>葺き。壁は白漆喰塗り。




>高さ約9.4メートルで、かつて東曲輪だった
>岡崎公園駐車場の南東角に位置する。1781年
>(天明元年)の「岡崎城絵図」を基本資料と
>しているが、東隅櫓の図面は現存しなかった
>ため、愛媛県松山市に現存する同時代の松山城の
>野原櫓などの形式を参考にして、江戸時代の
>工法を忠実に再現し建設した




>城内で発掘された石材を使い、空積みの石垣も
>築いた。隣接して同時に整備した長さ約45メートルの
>城壁と合わせ、総工費は約1億円。年中無休で
>内部を公開している。




やっぱ当時の工法で復元をしているので、見応え
あるなぁ~。ところで岡崎城があるあたりの地名
だが、愛知県岡崎市康生町(こうせいちょう)と
いって、江戸期は岡崎城の郭内であった




1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、岡崎
康生町となったが、やはり家康の生誕地であった
為に名付けられたらしい。




最後に、岡崎城のある岡崎公園は日本さくら
名所100選に選ばれているそうなので、来春
にはお花見に行けたらいいな




8月にビル越しに岡崎の花火を見た広大な
広場はここでした。何せ家康公のお城だけ
あり中身が濃いので、後半に続きます。次回
姫も登場します




         平成31年6月4日に愛知県岡崎市で撮影

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最終更新日  2019年08月24日 10時48分03秒
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