殿上人日記

殿上人日記

全て | カテゴリ未分類 | 懸賞 | 東京の旅 | 行事、地域 | 家族 | 滋賀、奈良の旅 | グルメ | 四季の移ろい | スポーツ | 馬籠より | 韓国旅行 | 中津川より | 恵那より | 美濃の旅 | 愛知、三重の旅 | 長野、山梨の旅 | 静岡の旅 | 京都の旅 | 大阪、兵庫、岡山の旅 | ヒューマン | 旅のいろいろ | 喫茶 | 菓子 | パソコン、電化品、車 | ヨーロッパ、ハワイ旅行 | テレビ、映画、音楽 | 歴史、伝統 | 買い物、主婦業 | 芸術、文化 | 日々の暮らし | ニュース、時事 | ペット、動物 | 花、植物 | 飛騨の旅 | 自然 | 子ども | 神奈川の旅 | 温泉 | 名古屋より | ブログ、リンクス、ネット | 中日ドラゴンズ | 木曽より | 夕焼け | 食べ物いろいろ | 行楽、遊び
2020年05月11日
XML
カテゴリ: 美濃の旅



読んだやつ?と途中まで読んで、確認を
させてもいけないので、途中に懸賞とか
違う日記を挟み込んでみた。と言う訳で
3月6日に出かけた岐阜公園の続きです
岐阜城ですが、ウィキペディアによると




>岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・
>美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にあった
>日本の城(山城跡)。織田信長が、斎藤龍興
>から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、
>新たに造営したものが岐阜城である。




>1201年(建仁元年) - 二階堂行政が稲葉山に
>砦を築いたのが始まりとされる。続いて行政の
>娘婿・佐藤朝光、その子伊賀光宗、光宗の弟・
>稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の
>死後、廃城となる




>15世紀中頃 - 美濃守護代・斎藤利永が、この城を
>修復して居城とする。1525年(大永5年)斎藤氏
>家臣の長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こして
>稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。1533年
>(天文2年) 新左衛門尉が没すると、その子、長井
>新九郎規秀(斎藤利政、後の斎藤道三)が後を
>継ぎ城主となる




>1539年(天文8年)守護代になっていた斎藤
>利政が、稲葉山山頂に城作りを始める。1541年
>(天文10年)利政が守護の土岐頼芸を追放。
>1547年(天文16年) 織田信秀、頼芸派の家臣と
>稲葉山城下まで攻め入るも大敗(加納口の戦い)
>1554年(天文23年)利政、城と家督を嫡子の
>斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。




このあたりからは麒麟がくるでネタバレになると
いけないので。まぁ、歴史史実でみんな知っては
いる事だけどもね。この後に・・・

>信長は、本拠地を小牧山城から稲葉山に移転し、
>古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を
>平定したのに因んで、城と町の名を「岐阜」と
>改めた。




>織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の
>縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城
>である。城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)と
>して金華山と、その山塊の2,091,602.74平方
>メートルが国の史跡に指定されている。『信長
>公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ
>御越しなり。




>井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせ
>られ」と記載されている。この頃から信長は
>「天下布武」の朱印を用いるようになり、
>本格的に天下統一を目指すようになった。

更に年月が流れて・・・戦国の世も終わると




>1601年(慶長6年)徳川家康は岐阜城の廃城を
>決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を
>築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、
>櫓、山中、山麓の石垣などは加納城に、焼け
>残った御殿建築は、大垣市赤坂のお茶屋敷に
>移されたという。




>岐阜城が山城であることに加えて、かつて信長が
>天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という
>地名を家康が忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の
>出現を髣髴させる)からだともいわれている。

豊臣の大阪城も地中に埋め立てて、新たに徳川の
大阪城を建てただけに、織田の岐阜城も存在すら
許さなかったのだろう




こじんまりとしているが、岐阜公園内には
そんな姿を消してしまった岐阜城の発掘品が
展示されている「日本遺産・信長居館発掘
調査案内所」があり、無料で見学ができる




天目茶碗のかけらもあった。元は茶葉の産地
であった、現在の中国の浙江省杭州市に位置
する天目山一帯の寺院で用いられた天目山産の
茶道具で、天目釉と呼ばれる鉄釉をかけ焼かれた
陶器製の茶碗を天目茶碗と言う。天目山に留学
した禅僧が、喫茶の習慣ととも持ち帰った事で
日本でも広まったそうだ




信長と言うと金ぴか壮麗な安土城が名高い
けれど、既にその遍歴は岐阜城でも見られ
このような金ぴかな飾り瓦なども使われて
いたそうだ。そして、信長が城づくりとか
城下町を造るにあたって




舅の斎藤道三をお手本にもしているらしい
戦国期の戦いの山城ではなく、城主が居住
する見せる城でった信長の岐阜城、来客者を
あっと驚かすような、趣向に富んだお城で
あったに違いない。ところで日本遺産って
知ってますか?




文化財・自然等を保護する世界遺産とは異なり
地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本文化や
伝統を語る有形・無形の文化財群を日本遺産と
して認定する文化庁の取り組みで、現在67程
あるそうで、岐阜も「信長公のおもてなしが
息づく戦国城下町・岐阜」に認定されてます




そんな城下町を再現したようなブースも
岐阜公園入口にありました。これは岐阜市
歴史博物館内で、「麒麟がくる」の大河
ドラマ館を開催しているので、臨時のもの
ではないかと。美濃国での大河ドラマ館は
光秀ゆかりの可児市と、恵那市明智町と
ここの3ケ所で




一番、規模が大きいのではないかと思って
こちらに伺いました。博物館の入り口には
除菌スプレーが置かれていました。2階の
展示室の前半はドラマで使われた華やかな
衣装と、同様のものが幾つも飾られおり
動画や、パネルでドラマに引き込まれる
しつらえでしたが撮影禁止でした




中には、実際にドラマで使用された小道具
などの展示品があり、そうゆうのを見ると
ワクワクしちゃいますね。後半の展示では
撮影がOKとなっていまして、稲葉山城の
城主気分で真ん中に座れるようです。脇に
道三様。御側室の深芳野は美濃国一の美女
であったそうだ




土岐頼芸の愛妾だった深芳野を、道三が
賜った事で、嫡男である斎藤高政の父は
土岐頼芸ではないかなんて一説もあるが
定かではない。親殺しの汚名から逃れる
為に、高政は一色氏を名乗っていたとか
帰蝶(濃姫)の母は正室小見の方で明智
光秀のおばにあたる




麒麟がくるの皆様方のパネルもあったが
駒ちゃんいないし。5月10日の放映は
美濃編ラストという事もあって、道三と
高政の一騎打ち、明智城で叔父との別れ
明智の荘の民との別れと、怒涛の45分
であった。あぁ、信長が美濃国を治める
ようになったら



光秀も明智の荘で、みなと再会が出来たら
いいのだけど。合成写真では光秀になれる
道三バージョンもあった。それにしても
もう麒麟がくるでおちゃめな道三様を見る
ことが出来なくなるなんて。お茶ネタも
なくなってしまうんだ




ウィキペディアより
>戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡す
>という遺言書を信長に渡したとしており、京都の
>妙覚寺、大阪城天守閣に書状が存在するほか、
>江濃記にも記録されている。道三は義龍を
>「無能」と評したが、長良川の戦いにおける
>義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔
>したという




>道三の首は、義龍側に就いた旧臣の手で
>道三塚に手厚く葬られた。

来週予告のユースケ・サンタマリア演じる
朝倉義景、胡散臭すぎる~。これはこれで
怪演が楽しみだし。故郷の美濃国から追い
払われた光秀一行に、どんな運命が待って
いるのだろう




さてさて大河ドラマ館のチケットで、1階の
常設展示も見ることが出来、ここは撮影を
する事も出来た




内容は思いっきり、昭和の生活です。こう
ゆうペナント、兄の部屋にあったし。でも
テレビの上は時計でなく、北海道の木彫りの
クマが置いてある方が雰囲気があると思う
か、マリモとか




脱水をするのに、これ。子供の頃に
ありました。こういったのは万博とか
東京五輪、新幹線の頃までだと思う




ありましたね~。実家は水道、下水道は
遅かったです。ずっと井戸%湧き水利用
でした。こちらの家は馬籠宿に宿泊客が
押しかけていたので、田舎のわりに水道は
早かったみたい




これは戦前扱いでしょうか? でも子供の頃に
火鉢も使ってたし、ああいった食器棚もあった
なぁ~。なにせ実家は明治時代に建てられたし
蚊帳なども夏につったのが懐かしい。と、子供
時代を思い出したりしました




イケメンな道三公です! 商人の血筋からか
お金にはしわい(ケチ)です。これって岐阜の
方言かと思ったら長野らしくって。うちは岐阜
でも東の果て、方言は長野や奥三河に通じてる
だから斎藤道三はあまり近い存在でもなかった




でも、今回の本木道三は愛嬌があって
憎めなかったです。ちょうどBS放送で
映画「ファンシィダンス」をやっていて
若き和尚のモックンも見ることが出来て
フレッシュで良かったです




ここは岐阜城の模擬天守のある金華山の
山頂へ向かうロープウェイの乗り場です
本木道三のかっこいいフィギュアがあり
ました




もちろんコピーですが道三公のゆかりの
書状なども展示してありました




「美濃一国譲り状」(弘治二年四月十九日付け
斎藤道三遺言状)は、美濃の国を織田信長に
任せる譲り状と言われているが真偽のほどは?




戦国っぽいお土産なども色々と置いて
ありまして




今回の旅行ではかさばらないし、手ごろな
トランプを購入




戦国武将や姫などのイマドキなイラストが
のっていたりします。紙製なのでちょっと
使いにくいですが




いよいよロープウェイに乗り込みますが
こちらにも武将のイラストが描かれてまして
トランプと同じ絵柄を使っているようです




信長のゴージャスな館も真下に望めます




岐阜公園の向こうには岐阜市内も見えて
きましたよ。金華山は古くは稲葉山と
言われてましたが明治以降に、この名に
なったみたいです




真横の三重塔は、大正天皇の即位を祝う
御大典記念事業として、市民から寄付を
募って、大正6年に岐阜市が建立したもの
ですよ




金華山ロープウェイは岐阜公園と金華山
山頂を結んでいるもので、昭和30年開通





↓道三と高政が戦った清流、長良川も
眺める事が出来ます。ではでは次回は
岐阜城御天守や、手乗りリスの紹介を
しますね       つづく!




最後に。前回の2月中旬からの懸賞当選
報告で、1つもれていました。2月末に
コンパクトジューサーがはごろもフーズと
オークワ(ニチウリグループ)の懸賞で
当たりました。30年近い古いのを使って
いるので、これはまだしまったままです




           2020年3月6日に岐阜市で撮影

    新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止の為、多くの施設が
    臨時休館中だと思われます。自粛の解除後に岐阜にいらして下さい

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村 ​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020年05月11日 19時12分50秒
コメント(77) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: