全1354件 (1354件中 1-50件目)
働いているときは、チケットを手に入れてもどういうわけか当日になると患者さんが急変したり、臨時の呼び出しが続いてコンサート会場に行けないことが何回もあり、チケットを購入しても無駄になることはやめようと予約が必要になる催しをしなくなっていた。 退職して嬉しいのは、よんどころのない仕事関係の理由が全く発生しない、休みの日に合わせなくてもよいのでチケットが求めやすい、当日の体調を整えるための準備もしっかりできる、などなど。 チケットの購入がセブンイレブンでできるので、非常に簡便。 昨年の大みそかに、東京文化会館で「ベートーベンの交響曲、全曲演奏会」があり、コロナを恐れながら出かけてきた。東京に40年以上住みながら東京文化会館でコンサートを聴いたのは初めて。生の演奏は本当に素晴らしく、コントラバスの迫力ある音が聞けたのもうれしかった。コンサート後に自宅のさほど音響がよくないPCで音楽を聴いても前よりも聴きやすくなった気がしてしまう。 ちょっと味をしめて、オペラを一度も見たことがないので今度はオペラをと、フィガロの結婚のチケットが手に入れ、新国立劇場(初台)へ。地下鉄で一回乗り換えるだけ。しかも50分くらいでついてしまった。 事前にyou tube でストーリーを予習しておき、会場の左右の字幕を見なくても音楽を楽しめた。近視と乱視があるので、歌手(音楽家でありながら俳優?!)の演技がつぶさに見えなくても、オペラをを楽しめた。歌手の登場や歌い終わったときに拍手が起きるのは、交響曲の演奏と違って、歌舞伎に似ている。演劇と違って、心のつぶやきも歌として表現されるのでこれも面白い。 たまたま、森氏の女性蔑視発言が問題になっていただけに、侯爵のもつ貴族としての特権意識や自分の浮気の成功を願いながら妻の浮気を許さないという勝手な思いやその妻が夫に浮気をされながらも夫に愛されることを願う、そういう関係はちょっといただけない。音楽のすばらしさとは別のことだけれども。
2021年02月13日
コメント(0)
nhkの番組に「日本百名山」という山登りのための案内番組があるのだけれど、姉が北海道に移住してしまってからは、山岳会を退会したこともあり、山登りはさっぱりしていず、この番組に興味がなくなっていたが、なんと晩秋の笠取山登山。 あの2009年の初秋、まだ暑さが残る中、和名倉山登山のために一日目は笠取小屋に泊まり、二日目に和名倉山を目指す。 笠取小屋のご主人は先代(?)でとても賢い甲斐犬もいて、午後早い時間に小屋について小屋泊りは私たち姉妹二人だけ。甲斐犬の案内で「水干(みずひ、多摩川の源流)」を見に行く。このワンちゃんはとても賢くて、私たちにつかず離れずに案内してくれる。真っ先に水干につくと水をおいしそうに飲んでいた。あのワンちゃんもご主人も亡くなられたそう。 自分は山梨生まれで小さいころから家のお手伝いで近所の山に薪取り、木の葉かき、蚕のための桑取、草取り、大根などの作物の収穫で山仕事や畑仕事で近所の山にはよく登っていた。スギやヒノキの植林が多いが雑木林もあり山が明るい。落葉樹林は晩秋からは葉っぱが落ち、カサコソと木の葉の音を聴き、川の音やこずえを吹き抜く風の音を聴き、木や土の香りも心地よい。笠取山も関東の山らしく、雑木林が美しい。 案内人は女性のカメラマンだそうで、山を楽しむ様子にあの頃の自分たちと重なって無性に山登りをしたくなってきた。 そんな気持ちを打ち消すようなnhkスペシャルで2030年の食糧危機。東京渋谷には食糧危機でデモや集会、暴動があり、まるで敗戦後の日本にように食糧が一般人の手元に届かない。1960年代からの世界の食糧生産の変化と少数の国(もちろん日本もその国の一つ)が欲望に任せたままの食糧の独占のために多くの国で食糧危機にさらされているという。コーヒー豆の生産のために森を破壊し水を買い占めていると。自国で生産できない趣向品を安く大量に消費している国、そしてこの私もその国の一人。 私たちはどこに行こうとしているのだろうか。 高層ビルを建てるために、アジアの森の木材を大量に切りコンクリートを固めるために使い捨てられ再利用はされていないのだろうか。都心の高層ビルを眺めるときにアジアの森が破壊されオラウータンなどの野生動物が絶滅しそうになることを想起してしまう。 消費者ではなく生産者になるべきか、都会暮らしを辞めたほうがよいのか、この二つの番組を見て田舎で暮らしたくなってしまった。3.11後に節電などに努力してきたものの、そんなことだけしても物事は改善しない。コロナのために東京から地方に移住する人が増えているそうだが、100%消費しかしない都会暮らしはやはり罪なのかもしれない。
2021年02月12日
コメント(0)
骨折で入院、リハビリしてからもう11年も過ぎてしまった。抜釘術後にいずれは変形性足関節症になる可能性もあるので、減量と運動を続けるように指導されていた。のど元過ぎればなんとやらで、いつしか運動の量や時間を気にしなくなり、退職してからはコロナのせいにして運動をすることをすっかり忘れていた。 仕事をしていると朝階段を使うときに違和感や痛みを感じていても、仕事が始まるとすっかりほかのことに気を取られて、ちょっとした痛みは忘れてしまう。多少の変調は体を動かしているとなくなることが多いので、左足の痛みも気にならなくなっていたのに、一昨日両手に下げなければならないくらいの買い物をしたところ、左外踝が痛むことに気が付いた。 荷物を下げて歩くと、左かかとに体重がかかると瞬間的だが、かかとの外側に痛みが走る。自転車に乗って坂道を登るときにも。帰宅して、荷物を片付けて床から立ち上がる時にも。 体重は、抜釘術後一割ほど増えたが、今は術後とほぼ同じ。ストレッチはしているけれど、運動はさっぱり。 暖かくなってコロナが治まるようだったら、近くの低い山から少しずつ山登りをしようと考えていたので、このまま痛みがひどくなってもう山登りもできなくなってしまったら、ひょっとして歩けなくなってしまったら、とマイナス的な妄想はどんどん拡大する。せっかく働いていた時より少し時間的な余裕がある暮らしが始まったのに、痛みのために生活を制限しなくてはならないとしたら、なんだかなぁだ。 よく、定年退職後に大病をした謎の話を聞くが、この私もその一人になってしまうのか。 くよくよ考え込むのは得意だけれど、自分から落ち込んでしまっても仕方がないので、整形外科を受診する前に、歩き方の癖を知り負担のない歩き方をする、朝起きたら少しストレッチなどの準備運動をする、膝や足間接に負担がかかっていないか確認、痛みの部位や運動との関連、痛みの程度の変化など確認して、痛みが治まらなければ来週には医師に相談することにした。 医療機関で働いていると、受診の機会を逃して重症化している方に、「なぜもっと早く受診しなかったのか」などどお叱りをすることもあるし、20代の若いころはそんな言葉を患者さんに投げかけたこともあったけれど、お医者さんには掛かりにくいことも、自分が高齢になって医者のお世話にならなければならない問題が起こる可能性が高くなると、やっぱりすぐに相談しようとは思えない。 特に加齢性の変化を起こすとまずは保存的な方法で様子を見ることが多いし、痛みに対しては鎮痛剤の内服や外用剤処方となる。頭痛や肩こりなどで若いころから鎮痛剤を服用し続けて銀機能が正常値の下限近くになっているので、痛み止めは飲みたくないし、、、。患者の立場になると、いろいろと考えてしまうもの。 おかげさまで、左足の使い方を少し変えてみたら、思いのほか外踝の痛みはわずかになってきた。 シメシメ。
2021年02月10日
コメント(0)
2019年に退職を決心してから、職場の体制維持が困難なためになかなかやめられず、やっと昨年の10月に退職することができました。 私にとってここ2年間くらいは本当に毎日がつらくて、勤務予定表に従って仕事をするだけが精一杯でした。もともと家事は不得意で、いろいろなことを先延ばししていたこともあり、昼間におうち暮らしをしていると、家の隅々が嫌がおうにも目に入り、掃除整頓で日々が過ぎていくばかり。取説をよく読みもせずに洗濯機を使っていたので、洗剤を入れる場所があるとか、まぁ知らないことだらけで、不慣れなことをするのですぐ疲れて眠くなり、週休5日制くらいでしか家事ができません。 皴を作らないために脱水は1分間でよいとか、裏返しして洗濯機に入れるとだまになりにくいとか、そんなことが一ぱい。洗濯でさえこんな有様なので、掃除や調理も。あまりにもできないことだらけで、スマホで調べながらの家仕事。 患者さんには糖尿病や腎不全、高血圧など食事療法が大事だと説いていたのに、軽塩で一食の塩分を2以内で納める食事つくりなんか出来やしない。計量スプーンやデジタル秤でいちいち計量することの面倒くささ、よくまぁ患者さんたちは大変なことを続けていらしたか、感心するばかり。 そんなこんなで、11月、12月、1月とあっという間に過ぎました。 昨年初よりコロナの問題があり、実家にも不帰、外出も最低限にしていたので、退職後のおうち暮らしもそうそう苦にならず。朝起きても急いで出勤しなくて済むし、夜間に緊急連絡の携帯電話が鳴ることもなく、せかされずにのんびり暮らせることの幸せをかみしめることも。 何かに縛られることがない暮らしは、自由であるそうで、自分自身が決まりを作らないと、だらだらと日々が過ぎてしまうことにもなり、朝目が覚めてスマホで日付を確認しないと今日が何日、何曜日かもわからなくなる始末。ゴミ出し日が決められていることが、見当識を刺激してくれるます。 まだまだ家の中の整理整頓(断捨離)しなければならないことが多く、2月15日から始まる確定申告の準備もあり再就職先を探すことはもう少し先になりそう。 あまりにも食事つくりができないので、女子栄養大学の通信教育で食事つくりを学ぶことにしました。 秤の使い方から学んでいますが、目指せ「軽塩(一日の塩分摂取量 6g未満)」が今のところの目標です。
2021年02月09日
コメント(0)
今の職場には、28歳で就職以来30年以上務めたけれど、本当にもう限界という気持ちが日増しに強くなり、不眠や倦怠感も続き、もう働き続けられないと気持ちが決まった。自分がわがままなのか、他者の意見を聞き入れられないのか、自信がなくなったけれど、でも酷いことが続くことを容認できずやっと気持ちが定まった。どこの医療機関も社会保障制度が切り崩される中で、経営を維持し存続することが困難になっていることは十分承知している。だからと言って、本来の意義を忘れて経営至上主義に走ることをどうしても受け入れることはできない。ある日の職場の会話。肺がんの末期で脳にも転移している方のご主人が、「先が長くないのでとにかく家で最期を迎えたい、でも自分たちはどのようにお世話をしてよいのか分からない。看護師さんや介護士さんにお願いして過ごしたい」と、一日二回の訪問看護と、訪問介護の依頼があった。所得の高い方なので、医療保険も介護保険も3割負担。上司はそのことを知りながら、どのようなケアをすればこの方が穏やかに過ごせるかを検討もせずに、かってに排せつ介助と健康状態の観察と決めつけた。病院で過ごせば、朝起床したら顔や手をふき歯磨きをし、排せつをしたり着替えたり、食事をしたり飲み物を飲んだり。そういうことすべてをケアとして臨んでいたのに、排せつしていないから何もすることはないと全身の様子を見ることをしない。かってに訪問時間は30分以内と決めてしまって、時間超過することを否定する。先週の日曜日、体温計が壊れてしまって熱がありそうなので様子を見に来てほしいといわれて臨時訪問したところ、目やにのために目が開かず、唇が渇き口の中は汚れ放題。少し時間をかけて口腔ケアをして白色ワセリンでクレンジングしながら顔をふき、手足をふき、姿勢を整える。少し気持ちやよくなったのか目を開けて会話を始めた。血色が改善して穏やかな表情を見たご主人が「さっきはもうだめかもしれないと思ったけれど、看護師さんが来てからはやっと元気に見えてえ来た。良かった」と。口を固く閉じた人の口腔ケアは本人の恐怖感を拭い去るまで、そっと優しく丁寧にケアを始めなくてはたとえお口であってもブラッシングも難しい。だからこそ、ケアに通じた看護ケアが大事なのだが、そのことを上司は分からない。翌日の朝の会議で報告したところ、口腔ケアは介護士さんがやっていると思った、って平気でのたまう。お口をきれいにすることは肺炎予防の基本中の基本なのに誰も口の中を観察していなかった。口腔ケアだけでなく、褥瘡予防についても拘縮予防についても、ケアに時間をかけることを気にかけない。ある神経難病の方の関節可動域訓練を、状態観察を含めて30分間以内にするように指示している。血圧や体温を測り、呼吸音を確認して、失禁の有無や失禁していた時のおむつ交換や寝衣交換をするだけで優に30分間はかかるので、さらに関節可動域訓練をすると少なくともあと15分間は必要になるのだけれど、他のメンバーは杓子定規に30分間以内に収めている。どうしても合点がいかない。どんな風にケアをしているか尋ねたら、ある関節を動かす回数は一回とか。それでは関節可動域の維持はできないはずなのに。ひょっとしたら私が間違っているのかもしれないが、でも、いろいろ考えてもどうしても納得できない。そのうえ、どんどんケアの手抜きが起こってしまっている。褥瘡ができ始めた方の皮膚の観察がまるでできていない。どんどん状態が悪化しているのに、元の処置のまま継続している。トップの考え方が間違っているのに誰も意見をしない。もうどうしようのない状態になった時に、「可哀想」って言ってもその状態を改善するには相当の時間とケアが必要になるのに。なんでこういうことが横行してしまっているのか、とても理解できない。ということで、退職と決めた。ただ人員の問題があるので、とりあえずメンバーの夏休み消化が終わるまで。人員が補充できるとわかったら、さっさと退職するつもり。上司に退職希望を話したその夜は、ぐっすり眠ることができた。でも、あと半年。どんどんひどくなる職場環境の中で、何とか自分を壊さず過ごすことも大変そうだけど、ここは乗り越えるしかない。
2019年03月13日
コメント(2)
年を取る、年を重ねることで、自分でも気が付かないうちに変化していく。数か月前に行きつけの中華料理店の70代のママから「10年前までは素敵だったのに、最近は元気そうだけれど、ね」って言葉を濁された。自分が変化(ありていに言えば老化していること)には、なかなか気が付かないでいる。確かに、最近はスカートやハイヒールを身に着けなくなったし、お化粧もしない。山シャツや山ズボンで街に出ていくことも平気だし。年を取っていくにつれ、個人差はあるが皮膚はたるみ、姿勢が悪くなる。10年前の写真と今のものを比べると、確かに変化(加齢、老化)している。そういえばいろいろと思い当たることがある。町で久しぶりに会う知人に、あらためてその方に自己紹介をしないと気が付いてもらえないこともしばしば。この事実は、結構ショックなもので、日々のケアの積み重ねが数年のうちに思いもよらぬ変化を自分にもたらしているのだ。今に始まったわけではないが、十代のころから自分の容貌には全く自信がないし、容貌を何とかして成功したいなんて考えたことは一度もない。でも人並みに、「可愛くなりたい」「きれいになりたい」「かっこよくなりたい」と思ってきたし、それなりに努力をしたこともある。身なりに気を使わなくなると鏡を見る頻度が少なくなるし、有り合わせのもので出かけることも多い。疲れて帰宅すれば顔も洗わずに眠ってしまうこともあるし。ちょっと思い返すだけで、自分の手入れを怠っていたって。仕事柄高齢の方のお世話をすることが多いので、皮膚がちりめん状になりちょっと腕を家具にぶつけただけで皮膚がするっと剥けたり、猫背が進み肩こりやひどくなったり首の動きが非常に制限されたり、ひざが変形したり、腰痛がひどくなったり。見た目の変化と同時に身体機能の低下までももたらしてしまう。皮膚、骨格、筋肉の課題の変化対策を毎日少しずつしていくことにした。スキンケアは、保湿とUVケア重視。顔だけでなく手にも足にも保湿ケア。爪の変化を防ぐために爪にも保湿。一日の終わりには36度程度のぬるま湯で一日の汚れをソフトに落とし、しっかり保湿して、朝には石鹸を使う洗顔はしない。お昼休みや仕事が終わった後の手洗いの後にはハンドクリームで保湿、この時に爪にもしっかりハンドクリーム。姿勢については、しっかりストレッチをして関節の柔軟性を維持して、歩行や自転車走行でも姿勢に気を付ける。いわゆる丹田を意識して骨盤の動きを大切にする。座るときにも猫背にならないように気を付けて、両膝をしっかりつけて太ももの筋肉を鍛える。疲れをためないようにお昼休みには10分間でも横になる。この程度のことはお金も時間もそれほどかけないでも何とか続けられる。80になった時、手にシミがなく、猫背にならずピシッと立っていられたら、私の老化予防の実験は成功になったといえるわけだが、でも、80歳まで生きられるという保証は全くないのだけれどもね。
2018年11月02日
コメント(1)
9月の後半は2週間続きの3連休だったのに、最初の連休前から何となくだるさがあってしかも携帯当番も続いて土日出勤もあったので2週間連続勤務。最近は抗うつ剤も入眠剤も服用せず本来の自分の体力だけで生きているものだから、睡眠と食事療法で何とか乗り切れるものと油断していた。 だるさが半端ないものだから、JcomでDVD三昧。ウトウトしながら画像を見て画像を見ながらウトウトする。だるい時でも活字を読めなくても画像は見れる、音楽は聴ける。座っている元気もなくて三年寝太郎的暮らし。こんなにも怠惰で大丈夫かと自分ながら心配だが、体が動かないから仕方がない。 下痢は日曜日から始まってすぐ終わるものと思っていたら出勤日の火曜日の朝もまだ続いている。胃-結腸反射といって胃袋に食べ物が入るとその刺激で大腸が刺激されて便意が起こる。便の性状が水みたいなので括約筋が全く働いてくれずすぐに催してしまう。嘔気は全くないので水分と塩分だけは摂取して脱水だけは避けることにした。そして、トイレの後には石鹸と流水でしっかりと手洗い。ポカリスエットと梅干でやり過ごすことにした。 固形物を食べなくても、下痢は収まらず。私はどういうわけか、いわゆるご飯を食べなくても体を動かせる。飴一つだけでも数時間は働ける自信があるので仕事を休もうとは思わず。しかしながら水曜日、木曜日、金曜日と下痢は全く収まらず。 尾籠な話で恐縮だが、便の色が深緑。なかなか黄土色になってくれない。水を飲んで数分間でトイレに駆け込むこともあって排便だけというトイレが続いた。なんらかの原因で腸炎を起こしたものだろうけど三日も四日も続くのは初めてで少しずつ不安が膨らんでいき一週間たっても下痢が収まらなければ受診するしかないと覚悟した。看護師なのに、看護師だからかもしれないがわたしは早期発見できたこととそうでないことが50対50くらい。 一番ひどいのは骨折をねん挫と勘違いしたこと。甲状腺機能低下症は体重増加とコレステロール増加でひょっとしたらと疑って早期発見できた。風邪で受診したことはないし、下痢なんて年に数回経験するが安静だけで何とかしてきた。 仕事の時には私の胃腸も多少は遠慮してくれてトイレに駆け込むのは1時間に一回くらいで済むのだが、帰宅しておかゆを食べたりスープを飲んだり摂取量を増やすだけで、30分に一回以上トイレ。水様便が続くと尿が出なくなる。下痢ってこういうことなんだと、この年になってやっと実感する。ウトウトしながら寝て便意で目が覚めてトイレに行く。しっかり水分をとっているつもりだったが起き上がるだけでふらつく始末。ふらふらしながら横になってウトウトする前にまたトイレ。トイレに行くのが面倒だったりすると飲食を制限するという人の気持ちにやっと近づけた気がした。降圧剤を服用するのも危険なので二日間だけは休止した。 こんなことをしていたら目がくぼみ足の筋肉はどんどん柔らかくなって体重が3㎏も低下。なんだ、脱水進行中だと気が付き、梅干しの量を増やし温かい砂糖水も。吐き気がないので、あとはどんどん食べて体力をつけるしかないと覚悟して金曜日の仕事が終わったら、おかゆ、うどん、野菜スープをどんどん食べることにした。胃腸がしっかり休養をとれていたこともあるだろうが、消化の良いものを食べていたら土曜日、日曜日と下痢の回数が減り、とうとう排尿だけのトイレに。形のある排便があった時には心底嬉しかった。しっかり尿が出るようになるとだるさもどんどん減ってきて鼻歌を歌いながらゴミ出しをするまでも。 痛みが治まっていくときも、下痢が治まっていく時も少しずつ身体感覚が楽になっていく、その過程を体験することで健康であることも体感できる。そして少しずつ体が楽になっていくというその感覚が自分の感覚を鋭敏にしていくことにもつながっていくような気がしてならない。
2018年09月25日
コメント(1)
7月下旬に一通のFAXが職場に届いた。 「緩和医療学特論 Ⅰ」という4日間連続講座のご案内。1980年代前半の時代には、「緩和医療」という考え方はまだまだ普及しておらず、医師でさえも我慢できる限りは痛みは我慢してもらう、という時代だった。がん性疼痛で苦しむ患者さんに、医療麻薬の投与はされていず鎮痛薬の服用も医師の指示通りにするしかなく、つらい痛みを訴えても一日2回の服用と医師の指示があれば、ただただ患者さんに我慢を強要していた。 そういう時代に育ったので、ホスピスとか緩和医療とかそういった領域の知識を学ぶ機会は少なく、現代のように医療麻薬を使える時代になってもそのための基礎知識を持ち合わせてなく、「緩和医療学」の本を読んでも、なかなか実践できるレベルになるまでには至らなかった。 この講座、90分間講義が一日2本、4日間でなんと無料なのだ。しかも、自宅からこの大学まで自転車で10分間。こんなチャンスを逃がすことはない、さっそく午後に休みを取って講座の申し込みをしておいた。一日目の講義は、「緩和医療学概論」と「身体的問題 (1) 呼吸困難とその対処」の2本。 大きな教室に受講生は10名ほどで大学院生は数名だけ。講義内容はそれなりの難しいものであったけれども、臨床で疑問になっていたことがどんどん明確になっていき、受講して本当によかったと時間した内容であった。 生涯学習なんて言葉はごくごく普通の言葉であるのだけれど、いくつになっても学ぶ喜ぶはあるものだし、学んだことがあの方やあの方に生かせるかもしれないというヒントを得ることもできた。 もう年だからと、自分の年齢を言い訳にせず、その人のために必要な知識や技術を身に着けていきたいものだ。
2018年09月03日
コメント(2)
ここ一年程、辞めたくて、辞めたくて仕方がなく、「夏を過ぎたら退職」すると決意したのだが、退職後の家計事情を具体的に考えていくと、下手をするといずれ貧困ラインに突入するかもしれないということがわかってきた。 例えば、所得税や住民税が前年度の収入によって計算されたり、国民保険に加入するなど退職時には約100万円の出費が必要というのだ。正職員としての仕事を探せなければ、今の収入よりさらに200万円ほど減収の危険もある。退職して非正規職員になるだけで、大幅の収入減になってしまいそうなのだ。 私は、十代のころより「二十歳まで生きられれば」とおもい、二十歳になれば22歳まで、と長期の自分の未来を考えないできた。そういう私が、思いもかけずに還暦を迎えてしまった。 いままでは、短期でしか自分のことを考えてこなかったのだけれども、フルに働かなくなる時代がついそこまで。買いたいものを買いたいだけ、吟味もせずに買い物をしてきたこともあって、必要なものを必要なだけ無駄をせずにお金を使う、なんて当たり前のことをやっと始めたばかりなのだ。「一万円札はあっという間になくなる」という生活から、1円、10円、100円を大事にする消費生活への転換。 買い物をするときにも、値段だけでなく栄養価や添加物、生産地などを知ろうとして品物を見ると見えてくるものが違ってくる。 退職までの一年11か月は、私の老後の生活訓練。お金の使い方、調理や掃除などの家事、地域の社会資源を知り公共サービスを上手に使えるようになる、などなど。退職後の生活を快適にするためには、その準備が必要なのだ。 先月に姉の住む北海道旅行をしたときに、観光バスの出発時間までの1時間に、退職後の経済生活が想像以上に厳しいことを相談したところ「今の年齢で転職すると今の給与より減ることは確実なので、辞めたい気持ちを乗り越えられるのなら経済的なことを大事にすることも大事だ。乗り越えられるよ」って姉に励まされた。 職場で嫌なことがあると、喫茶店での姉の顔と声がよみがえる。「そうだ、乗り越えるんだ」って。 なんだか情けない気もするけれど、老後の生活で、1万円が有るのと無いのでは違う。 背に腹は代えられない、経済生活優先なのだ。
2018年08月22日
コメント(2)
Tさんは仕立て屋の長女として生まれ、親の後を継ぐために婿を迎えご自身も技術を高め70代まで仕事をされていた。 ここ半年ほどは、腎臓の働きが低下し心臓の力も弱くなり、貧血も進んでいることで見るからに活気がない様子のことが多い。意識が低下していた時には、介護士さんが救急車を呼びかかりつけの病院に運ばれたが、「入院したくない」という言葉でまた自宅に戻られた。いつ何が起こっても仕方がない状態とも主治医から説明されている。 裁ちばさみを使うことが好きで、紙をベッドの上で切っていることが多い。切り刻んだ紙は数ミリ単位の幅で見事にそろっている。 お話が好きで、ぬいぐるみのクマとおしゃべりをしている。先日伺った時には、人生格言のような言葉を繰り返していた。 「人の陰口を言っても何も生まれない。陰口を言うとそれが自分に回ってくる。その人の良いところを見つけて、お世辞でもよいからそのことを相手に話した方がよい。」などと。 わたしが、「どうしても相手の嫌なことしか見えなくって悪口しか心に浮かんでこない時にはどうしたらよいですか」と尋ねると、「謙虚になるしかないですよ。悪口を言葉にしてはダメ。じっと我慢しなさい」と。 確かに、言葉にして自分の外に発した時から、その言葉が独り歩きして、どんどんその言葉の力が強くなってその言葉を超える別の言葉を見つけない限り、その言葉に支配されてしまう。言葉を呑み込む、というが言葉にしないというのも、時には大事なことかもしれない。 高齢の方々から聞く言葉には、その方が人生を乗り越えられてきたエッセンスとも考えられるものが多いようだ。 私の亡父は、よく「幸せにならなくてもよいから不幸せにはなるな。命を大切にしてほしい」と。父は明治生まれで、父親を早くに亡くし義母に育てられた。関東大震災、食料不足、第二次世界大戦、戦後の物資不足、結核にり患し10年近くの療養生活。今の私なら、この言葉がいつどのような思いで生まれたか尋ねたと思う。生死を分けるような思いを何回もしたのだろうか。 高齢の方がしばしばする言葉には、その方の思いが詰め込められているように思う。
2018年07月08日
コメント(3)
半年前くらいから、毎日毎日「早くバッテリーを変えろ」というアナウンスが表示されていた。パソコンの起動がどんどん遅くなって、途中でフリーズしたりしていたがだましだまし使っていたが、とうとう電源が入らなくなった。 バッテリーの注文に量販店に行くのが面倒で、あと一日もう一日と日延べしていたが、屋っと先週の日曜日、30度越えのマ昼時に出かけてきたが、購入してから7年以上は経過しており買った当時のバッテリーはもう製造中止だという。違う型番のバッテリーが使えるかどうかメーカーに問い合わせるので待ってほしいということで一週間もたたないうちに入荷したとの連絡が入った。 7月中旬過ぎに姉が住む北海道に旅行に行くので、スマホからガラケーに変更しているので、航空券に予約や宿探しなどをするにはやっぱりパソコンが必要で、今日のお昼時は34度越え。でも、早々日延べもできなくなっているので、冷凍庫から凍り始めたペットボトルをもって自転車で15分。このたった15分を自分に課すことができないことから、一か月半以上はパソコンが使えなかったのだけれども、パソコンがないからと言って日々の暮らしに何か支障があったかと言えば、NO! である。FB も ブログも見ればそれなりに情報を得られるのだけれども、葉っぱの切れ端のような情報をいくらたくさん仕入れたところで、何か自分の中に新しい何かが生まれるかと言えばそんなことはない。 情報量が多いからと言って、その情報を自分なりに組み立てて利用できなければ何の意味もない。 私の仕事である看護についても、40年以上前の看護学生時代には本当に看護に関する情報は教科書以外にはあまりなくて、看護雑誌もあるにはあったけれど経験のない学生がすぐに使いこなせるようなものはほとんどなかった。経験も知識もないものがいくら考えても考えても何も生まれてこない。実習で患者さんの前に行っても、何もできない。それ以前に自分の親兄弟や親せきの人以外の大人とそうそう接していないので、患者さんの病室のドアをノックするだけでも勇気がいて、患者さんの前いにっても挨拶以外の言葉をかけることができなかった。 看護師になって現場で働くようになると、やらなければならないことは山ほどあって、こんなにすることが沢山あることに驚いた。 今の学生や若い看護師にはほんとうにたくさんの情報が用意されていて、看護ケアに対する知識や技術に関する情報は探そうとするだけでたくさんのものに接することができる。でも、悲しいかな、世の中にいくら情報があったとしてもその情報を集めて自分なりに整理加工できないと全く無意味になってしまう。 うろ覚えの情報は全く役に立たない。脈拍測定時の指の当て方とか、血圧計のマンシェットの巻き方とか。自分の力で自分の体をうまく動かせない人の血圧を測ろうとしているのに、腋を閉じている人の腕に直接マンシェットをまこうとしてうまく巻けずに数分間も右往左往している。できなければそばにいる看護師に聞けばいいのに、尋ねるということをしない。 私だって、患者さんを前にして迷うことが少なくなってきたのはここ十年間ぐらいであることを思えば、自分のものにするまでには長い時間がかかることなのだとは思うが、情報の量以前の課題があるように思えて仕方がない。 切れ端のような情報を集めるより、長編小説を読むとか、思想の本をじっくり読み自分のとっての意味を落ち着いて考える方が大切のような気がする。
2018年07月01日
コメント(0)
抗うつ剤や眠剤の服用を中止してそろそろ十か月。仕事だけは何とかできるのだけれど、家事もお出かけもおっくうで、ベランダの鉢の手入れも全くしていない。読書もしていないし。三年寝太郎ならぬ、三年寝たきりおばさんのような毎日。鬱がひどかった時と違うことはドラマも映画も見れるし、ちょっと合間の時間なら雑誌を読んだりもできる。頭痛や肩こりはたまにしかやってこないし、睡眠も何とかとれるし。何とかゴミ出しと洗濯は最低限はできているので、セルフネグレクトは完ぺきではなさそう。活気が出てこないのは年齢のせいか、向精神薬を断薬したことによる副作用か。時々、メンタルクリニックを受診してお薬の処方をお願いしたくなる衝動に駆られる。多分、お薬を再開すればすぐさま活動的になれそうな気がするのだけれど、薬の力で脳細胞が活気を取り戻したとしても自分の力ではない気がして、それが自分なんだろうかと思うと、もう少しお薬を飲まずに様子を見たくなる。五木寛之とか、中年から高年に移行する時代に一種の鬱のようなものに遭遇するということもあるらしいので、今の私の停滞もこういった時期に良く起こることなのだろうか。思春期から青年期に親から自立して自分の考えと力で人生を歩みだして、何とか職業生活を送ってリタイアという新しい人生のステージを迎える時期に、自分を振り返り何が自分を突き動かしてここまで歩んできたのか、ということに多少でも気が付く。私の場合は、幼少時より家出願望があったが、幼子の身分でこの世を生きていくことは無理なので、何とか自活するまで家出はできないと覚悟していた。看護師になったのも、東京に出てきたのも、恩師に勧めを断って就職先を決めたのも、みんな自分の考えだけ。私の60年は、ただただ家出をしたかっただけだと気が付いたのはつい数年前。高い理想とか夢の実現とか、そういうことではなく自分を呪縛していた家を出ることだけだった。この家出をするために、突き進んできたと知った時、あまりにもその単純な理由に気が抜けた。私はそんなことで、今まで生きてきて、生きてこられたのかって。このことに気が付いて、なんだか肩の荷が下りた。ずっとずっと、なんだかわからない「ねばならない」衝動に突き動かされて生きてきたのに、こんな大したこともないことで生きようとしていたんだって。そして、最近はこれからどのように生きていこうかって、よく考える。これから英語やイタリア語などを身に着けて外国旅行をするのもよいし、体力をつけて歩く旅をするのも。田舎に住んで畑づくりをするのも。元気に生きられるという75歳までの人生を再構築する時間もあるしね。これからは本当に自由に生きられそうだって思うだけで、自分をギシギシに縛っていた思いから自由になれる。自由になれそうだと思うと、早々急いで何かを決めなくてもよさそうだし、のんびりと焦らずにゆらゆらしたくなる。休みの日に、無理に出かけて疲れなくてもとか、情報を詰め込もうという気持ちもなくなって。何もせずにぼんやりと過ごしている。自分の中に芽生えている何かに気が付くまで、じっとしてもいいかなって。
2018年05月04日
コメント(0)
一から十まで気が合わないように思えてしまう今の上司。 表面的には、いろいろと教えてくださいね、なんて当たり障りにないことを言うのに、実際は何も聞いていない。いろいろなことを報告していたのに、そのあとの行動を見てみると何も聞いていなかったということがわかり、この人何を考えて仕事をしているんだろう、と疑う気持ちがどんどん膨らむ。 先月末から、退職することを決めているので、この際我慢しないで話をしてしまおうと、否定的な言葉は飲み込んで話をするようにしている。こちらから話をしてしまう方が、気楽でもある。 かっての同僚も、退職を決めてからは表情が明るくなり溌溂とし始めた。 ずっとこのまま我慢し続けて過ごすのかと思っている時期には、気持ちが明るくなれない。 後、何か月でこの人ともさようならできる、という可能性だけで気持ちが明るくなる。 御多分に漏れず、今の職場も人で不足なので、夏休み休暇を取り終える9月末日が退職する日かなって、一人で決めている。退職届をいつ出した方がよいのか、今思案中。
2018年04月04日
コメント(4)
毎年一回、各職場から看護ケアについての経験をまとめて交流する検討会があり、今年度は私が担当することになった。テーマの提出は昨年の12月末。そして症例の提出は一月末。そして昨日が発表に使うパワーポイントの提出日。Aさんが亡くなられたのは昨年の10月25日。最後の訪問を担当したのは私で、残された時間はもうわずかしかないと思えた。その翌日の夜に、自宅で永眠された。最後の五日間は誤嚥性肺炎による痰のつまりで呼吸困難が続いた。苦しい処置だけれど、痰を吸引してもまだ肺に残っている痰が多いので何回も姿勢を変えて痰を喉元まで上げて吸引して。38度の発熱もあったので、口からお薬を飲めなくなっていたので座薬の解熱剤を使って解熱して。最後の日には、大好きなカレーライスを食べられたという。Aさんは104歳。大往生だからなくなってもまぁしょうがないかって、同僚も往診を担当している診療所の看護師もそう呟いていた。えっ、大往生だからそれでいいの???Aさんと私どもの訪問看護ステーションの付き合いは足掛け16年。脳卒中の後遺症のために尿を出すための膀胱留置カテーテルの処置を受けているので、その管理のために訪問看護が始まった。16年もあったその看護ケアを振り返ることになった。看護記録の厚さは10㎝近い。この16年間に何が起きていたのか。記録を読み返してみると、Aさんのお人柄がしのばれるような記述があちらこちらに。初めて訪問する看護師には故郷を聞き、家族構成、好きな食べ物などいろいろと確認してAさんなりのデータベースを作成。いつも同じ看護師が行くわけではないので、久しぶりに訪問すると子供がいるものには「もう小学生になったのか」とか、異動した看護師について「〇〇サンは元気にやっているかね」とか。ちょっとさえない顔をしているものには「今は幸せかい?」と声をかけてくれたり。Aさんを訪問するたびに何か心がホコッとするものを感じて帰ってくる。そんなAさんが息が苦しいので顔をゆがめて「何とかしてくれ!」とでも言いたげな瞳で私を見つめていたその姿が焼き付いているので、あんなつらそうな様子にならないように何とかできなかったものか、という問いをもって何回も何回もカルテを読み返してみた。人は誰でも死が訪れる。それは自明の理。だからこそ、その最後が苦しくなく穏やかであることを願う。そのために、何をすることができ何ができなかったのか。私たちはAさんの最後を予測しての呼吸ケアができなかったのだ。例えば褥瘡の処置は、いくら多くても一日2回。排便のケアも一日数回。排尿のケアはおむつを使えば一日多くても5回くらい。でも呼吸のケアは、刻々と呼吸は繰り返されるので呼吸が苦しくなればなるほどケアの頻度は増していく。息をすることは普段は意識することもない。苦しくなって初めて自分の呼吸に気が付く。しかもその苦しさは本人はもとより周りの者にとっても「死んでしまうか」と瞬時にそのつらさが伝わってくる、死の恐怖に襲われる。見ていられないし、今すぐ何とかしてほしいと願う。痰で呼吸が苦しくなれば、痰を出しやすい姿勢をとれば10分間か15分間で痰が口元まで上がってきて呼吸が楽になる。呼吸ケアは適切なケアができれば、短時間にケアの効果が現れる。しかし、気管や肺の仕組みや働きは普段意識していないこともあって、少し丁寧に勉強をするひつようがある。苦しい様子を見ていると、特に家族であれば心穏やかにはしていられない。冷静に落ち着いてケアができにくいということもある。呼吸が苦しくなってから、初めてケアの方法を学ぶのでは対応が遅れてしまう。だからこそ、予測していただき、少しずつ呼吸のことを分かってもらいいざという時の備えをしてもらう方がよいのだ。特にAさんのご家族は、最後までお世話をすると覚悟していた。そういう覚悟がある方ならばきっと近い将来訪れることに対して、介護の方法を学んでおこうと決断したはず。そういうご家族の気持ちに気が付いていなかったのだ。Aさんが亡くなった4か月後に遺族訪問をした際に、はっきりとした言葉にはされなかったが「熱が出始めたころには食べる力が落ちていたのですね」と。そのころから誤嚥性肺炎の予防をする必要があったのだ。そしてそのことをご家族も後悔されていた。発表原稿を数回作り直して、私は何を言いたいのか、Aさんの経過から何を教えてもらったのか、作り直すたびにはっきりしてきて、やっと昨日の22時過ぎに発表原稿が出来上がった。呼吸ケアに重要さをみんなに訴えていこう。これで決まり。あーぁ、すっきり。
2018年03月31日
コメント(4)
今日は午前中で仕事が終わったので、近所の桜を回ってきた。今年は桜が開花してから、雨も降らず強風が吹かず、桜が長持ちしているのだけれど、少しも心がウキウキしない。近所の桜の名所は、狭い土地に無理やり桜を植えているので、隣との境に植えられていたり電信柱があったりで、枝や幹がバッサリ切られている。そのうえ根の際までコンクリートが敷き詰められているので、とても窮屈そう。一つ一つの花だけを見ていると美しいのに、木全体を見てみると、人間のために切り刻まれて狭い場所に押し込められて、なんだか胸が張り裂けそうになる。石神井川の桜は、この辺りでは桜の名所で有名なのだが、川面に広がる枝は自由に伸びているのに、道路側の枝は見事に切りそろえてある。遠くから見ると、まるで桜の木が電信柱のようだ。眺めているのが苦しくなって、早々に引き上げてきた。こんなにひどい仕打ちを桜にしていたんだ、となんだか悲しくなる。桜に限らず、街路樹もこの桜のように枝先が伸びないように切り刻まれている。こんな風に木を見ていると公園の木もお寺の木も民家の木も、人間の生活に支障をきたさないように、切り刻まれている。区内の公園も、次々とコンクリートで土がふさがれていく。「公園整備」と称してもともとあった木が伐採され、野の草花の生きる場所を取り上げていく。蚊やハエなどの害虫を嫌っての処置ということもあるのだろうが、なんだか人間のわがままかっての振る舞いにしか思えない。午前中に訪問したおうちは、ちょっとした高台におうちがあり、五坪ほどの土の庭がそのまま残されていて、オドリコソウ、オオイヌノフグリ、ショカッサイ、スミレなどが咲き誇っていた。ただただ自然の力に任せてあるこういう場所を見るだけでほっとしてしまう。今年の桜に心が痛んでしまうのは、この春の私の気持ちの表れなんだと思う。還暦を過ぎたのに、生き方に迷っているわたし。人間として果たしてこれでよいのか、瞬間瞬間の自分の行動がなんだか怪しく感じられて、私は何を大切にして今まで生きてきたのか、全く自信が持てない。気持ちが晴れ晴れしていないことが、余計に桜が悲しく見えてしまう。
2018年03月28日
コメント(2)
患者さんやその家族の方の一番近くで、看護師として働くことを喜びとしていたが、信じられないような言動が続き、職場を去る決意をした。数か月悶々と悩んでいたが、これ以上今の職場にしがみついて頑張る意味がどんどん薄れていき、つい2週間前に退職することに決めた。今日、定例の年度末面接があり、上司に退職希望のあることを伝えた。名目は、年金制度が改悪される中で、再雇用の期限の65歳を待たずに70歳過ぎても働ける職場を探して転職したい、という言葉で。退職したい、というだけで、今の職場でこれ以上無理な働き方をしないで済む、という一種の安ど感が起こり、口走る前までの重い心がすっと消えていった。過去と他者は変えられない、と考えているので、周りの人を変えようとは思わない。自分を変えることで場への適応をしていくことができるときもあるだろうが、一メンバーである以上、早々他者に影響力を与えることもできない。職場というものは不思議なもので、一定の力のある人がある方向に誘導してその勢力が大きくなると、それと違う方向を目指していくものに対して風当たりが強くなる。現場の問題で言えば、「褥瘡が発生したらなぜ褥瘡が起こるかをアセスメントして、単に傷の手当だけをしない」ことは、常識に過ぎないのだけれど、医師の指示で傷の処置だけを続けて褥瘡が悪化しても外用薬を変更するだけで終わっていく。ベッドやマットレス、排せつ用具などの変更を提案すると、主治医は必要がないと言っている、と却下する。終末期の患者さんの訪問回数が増えることについても、もう余命は一週間もないのに、「いけない日もある」とつれない返事。ちょっと無理をすればできないことはないのだけれど。訪問時間が10分ほど超過すると時間内のやれと指示をするのに、1時間の約束の訪問を35分で終えていることは問題にしない。などなどが相次ぎ、これ以上ここで働けない、と決意した次第。昨年の5月頃より、ずっともやもやしていたが、やめることを決意すると、本当に嘘のように頭も体もすっきり。あと半年で63歳になるのだけれど、この年で新たな職場に進むことの大変さは十分に承知しているし、体力と気力が持つかどうかも分からないのだけれど、自分がYESといえない職場の方針に黙ってついていけないので、もうやめるしかない。でも、寂しさが湧き起こらない。自分自身の問題でもあるのだけれど、でも自分を殺してでも働こうと思えないので、「これまで」なんでしょうね。
2018年03月07日
コメント(4)
休薬と言おうか怠薬と言おうか、眠剤や抗うつ剤の服用を中止して半年以上が経過。 今現在は、眠剤を服用しなくても眠れるし、朝の目覚めもよい。テレビをつけっぱなしにしなくても不安にならないし、映像を見なくても過ごせる時間が増えてきた。 抗うつ剤の中止で、どんな風に自分の体が変わってくるのかと焦らずに様子を見てきた。薬の刺激で脳が動いていたためか、中止して数か月は何とも言えず調子が上がらない。仕事をしないと暮らしていけないので出勤日にはある種の社会的強制力が働いて、朝に起きてコーヒー牛乳を飲んでいるうちに少しずつ目が覚めていって、顔を洗い着替えをして出勤。職場に行けば仕事は普通に(自分では普通にできていると思っているが客観的には?)して、ご飯を作ったりするのは面倒なので夕食を外で済ませて、帰宅するなり横になりグダグタと過ごし、なんとな眠りにつく。 仕事があるから、洗面や更衣をするがもし仕事がなければ、本当に引きこもりになりそうな。 抗うつ剤を服用していたころもそうだったが、とにもかくにも家事が面倒で面倒で、目の前にごみが落ちていても、ごみで死ぬことはない、とか言い訳をして、まぁいうなれば昨今問題にされている「ゴミ屋敷」に少しずつ近づいていく。水道、トイレ、浴室が使えて、眠るスペースがあれば生きていけるものだと実感。息をするだけだったら、そうそう広いスペースはいらない。音と映像があると(つまりテレビとパソコン)、人間である雰囲気があって落ち着いていられる。 酷いうつの時と違って、鉛のような体の重みや頭痛、倦怠感はない。横になっていても非常に心地よい。何にもしないでただぼーっとしている心地よさみたいなもの。その心地よさの中にずっといたいという感じが強くって、しょうがないので仕事には出るけれども、玄関を開ける気持ちになれない。のどが渇く水を飲み、腹がすけばラーメンでで空腹を満たせばそれでよしという感じ。職場でなら活字を読めるのに(仕事のためだから)、家では活字を読みたくならない。パソコンで検索をしたりするのはできるので、新聞や雑誌を読まないがネットはOK。本のページをめくるよりクリックして画面が変わるほうが楽なのだろうか。 ごみを捨てるのも窓を開けるのもしようとも思わず、家事をしないことに罪の意識もなく、2年続けた緑のカーテンを今年せず。先日、スマホに登録されていた写真を見ていると昨年までの夏の朝顔やゴーヤやトマトとの花などがきれいでびっくりしてしまった。「こんな暮らしを続けていてどうなってしまうんだろうか」とふと心配になることがあったが、いずれは元気が戻るので焦るのはやめよう、と言い聞かせて元気が戻るのを待つことにした。 五月の中旬まではあんなに休日に外出していたのに、夏も秋も電車に乗ることもなくお家暮らし。体の芯から何かをしたくなるまで待つことにした。小さい子供がいたり、お世話をしなければならない家族がいればこんな風に暮らせない。うつ病は再発しやすい病気だけれど、食べていかなければならないとしたらお薬を中止することよりも、服薬し続けて暮らしていくという選択をせざるを得ない。自分のために自分の時間をぜいたくに使うということも治療に必要なのだと思う。 したくなってくることからいろいろなことを再開しようと心に決めてしまうと焦りに気持ちは少なくなってきた。還暦を過ぎて、早々焦る必要もないということもある。 仕事の日でなくても、シャワーができるようになり、ごみ出し、トイレの掃除、洗濯もののたたみ、部屋の掃除と少しずつできるように。そしてたまに買い物をして夕食作り。今週は国産レモンが安く手に入ったので、レモン酒つくりも。今日はやっとベッド周りの「積んどく本」の整理。使わないものと使うものを分類。音声付き画像(テレビやユーチューブ)は受け身で済むが片づけは考えて手を動かす、こういう社業にはエネルギーが必要だったんだと。 いわゆる不精な暮らしを半年もしていると、訪問したお家にごみがたまっていても床に汚れが見えても、「いやいや、私の部屋だって相当なものだぞ。掃除や片づけをしない何かの事情があるのか」と思ったりエネルギーを他の何かに注いでいるのだろうかと考えたり。またきれいに整理しているお家を見ると、相当生きる元気があるのかとその人に可能性を感じたり。情けない自分がいることがわかると、他者に「べき論」の眼で見ないようになる余地が出てくる。 今回の休薬は、計画的に行ったのではなく、中断の結果のたまものだけれども、いずれは何とかなるという気持ちでやり過ごすことができた。 どうしてそういうことができたかというと、時々貧乏でもあきらめずに五人の子供を育ててくれた両親や祖父母の姿を思い出し、あの父母の子供なのだから、きっと何とかなるはずと信じた、信じようとした。 とりあえずそんなわけで、何とか新しい年を新しい気持ちで迎えられそうだ。
2017年12月27日
コメント(5)
6月下旬からまた甲状腺機能低下症などの薬を再開したが、だるさはまだまだ続いている。 睡眠剤や抗うつ剤をすべて中止したので、抗うつ剤の中止との関連がどの程度かは見当がつかないが、億劫感は続いており、片付けと外出が億劫で仕方がない。仕事だけには出かけていて、そこそこ能率よく仕事もできているし、まとめなどの事務作業は効率よくできているが、読書や手紙を書くなどについては全くやる気がない。 書店に行って、本を見るといろいろ興味がわくのだが、いざ本をテーブルに置いてみてもページを開こうという気持ちがわいてこない。 五月中旬以降していないのが、公共交通機関を利用しての外出。もう3か月も職場と近所のスーパーやコンビニ、通いなれている飲食店数件くらいで、電車に乗るのが面倒で、その前に着替えたりするのもおっくう。この夏には、春先から楽しみにしていた展覧会がいっぱいあったのに、なんか気が向かない。 反対に、最近は調理をするようになって、鍋でご飯を炊いたり、合わせみそを使っての味噌汁とか。野菜を切ることも面倒でなくなってきたが、片付けと掃除はおっくうで。まぁ、昔からお部屋が汚れ居ても死ぬことはない、と言われているので、見過ごしているのだけれども。 ここで、自分を叱咤激励して掃除や整頓を無理やりしたほうがいいのか、自分のうちからエネルギーが出てくるのを待ったほうが良いのか。 朝時過ぎに目が覚めるので、ゆっくりストレッチなどをして、朝シャンをして、そのうえファンデーションを使ったほうが日焼け止め効果が高いと聞いて、朝夕二回の洗面やシャワー浴はできている。 できるようになったことと、いまだできないことがあり、これからどんな風に気力や体力が回復して、心身ともに活力が漲ってくるのか。彼岸も過ぎたので、秋晴れが続けばまた元気になれるものだろうか。
2017年09月26日
コメント(0)
5月下旬は、同僚が定年で退職したこともあって妙に忙しくないかもメンタルクリニックも定期受診できず。 この時期から抗鬱剤、睡眠導入剤も服用せずに2か月が経過。なんと眠れるし、朝の起床時の気持ちよさがまるで小学生の時みたいに、パキッと目が覚める。睡眠導入剤で無理やり眠りに入るのではないので、ごくごく自然な感じで、夜中に途中覚醒しても麦茶を飲んだりしているうちにまた眠りに入れるので、お薬に頼らなくても眠れそうと自信がつくと、さらに快適な睡眠になってきた。 鬱がひどかった時には、とにかく薬を服用して(マックス5種類も飲んでいた)、強制睡眠で脳の疲労をとってとにかくも起きれて、仕事に行けて、うつうつ気分も抗うつ剤で和らげて。そのころにはそういう強力な薬物療法が必要だった。そのおかげで休職や離職をしないでここまで働いてこられた。 うつ病の薬物治療をいつ中止するかは、なかなか難しい問題で、気分が落ち着いてきたからと言って中止すると再発することが多いとも聞いていたので、どんな風に自分が変わってきたら断薬に踏み切るか、ここ数年迷い続けていた。 今回は物理的に時間が取れずに、自分の意志とは別に断薬になったわけだが、甲状せん機能低下症の治療薬 チラージン も怠薬していたので、 なかなか判断が難しかった。チラージンを再開してやっと一か月半になったところで、だるさも少なくなると同時に億劫感が少しずつなくなり始めた。 億劫感といってもその程度はいろいろあって、私の経験した中での最大の億劫感は「トイレに行きたくない」であった。起き上がるのも寝返りを打つのも面倒でただ布団の上で躰をちぢこませてじっとしているのがやっとという感じ。この状態の時は、歯磨きも嫌だしごはんと食べるのもいや、お化粧なんてもってのほか。脳自体が非常に疲れているので、ドラマを見る気もしないし音楽も雑音にしか聞こえなくて聞く気もしない。ただ、これ以上脳が壊れていくのが嫌なのでお薬だけは何とか飲み、働かないと食べていけないので薬の力を借りて何とか仕事だけに入っていた。 今回の億劫感は、身体的なだるさとかそういうことはなく、眠れるし、食事もおいしく食べられるけれども、家事をやる気がしない。ゴミ出しさえ大きなごみ袋にまとめておいて、2週間に一回くらい朝の気分が良い時にやっと出すといった具合。日常の中での家事はある部分習慣でもあるので、当たり前のことをやらないでいると、また習慣にしていくにはすごい努力が必要になるので、いつから自分に再開の圧力をかけるかが難しい。でも最近、なんとなく汚れていることやゴミがたまっていることに気が付くようになり、強引ではなく自然に復活し始めている。 鬱になりやすい人にとって、一番の治療は自分に寛容になるということかもしれない。
2017年08月09日
コメント(3)
昨日で定年を迎えたが、「定年延長」制度を使ってあと3年間は働く。 自分では、昨日と今日はそうそう違うはずがないと思っていたが、たった一日のことなのに、気分が全く違う。 看護師として働き始めて、元来の不器用さもあってとにかく必死で過ごしてきた日々であった。そのくせ、患者さんのお顔は覚えているのにすっかり名前を忘れている人が圧倒的。 定年になって、改めて自分の職業人生を振り返ると、何をしてきたのだろうという感想だけ。 看護という仕事は、形として残らないし、医師のように固有名詞で仕事をするわけでもないので、自分自身で自分の仕事を覚えていない限り、誰の記憶にも残らないし、記憶に残っているかどうかを確かめるすべもない。 この春から、3年間とか5年間とかお付き合いのあった患者さんが次々と亡くなられ、自分の中にぽっかりとした虚しさのようなものが広がっていた。仕事だけには何とか出かけられるもの、帰宅すると何もする気がなくただただ休息の日々。お休みの日も出かける元気がなく、ジッとしていることが苦痛でもなく、ぼんやり考え事をしているうちに一日が終わってしまう。でも、そういった時間を過ごすことが無駄とも思わず、あれやこれや取り留めもなく思いにふけることで時間が流れていく。 そして、ぼんやりしながら、今までずっとくすぶっていた自分への問いの答えが見つかったりする。 私は、DVの家庭で育ったこともあり、小学生の頃からずっと家出をすることを夢見たり、朝目が覚めたら知らないよその子供になっていたとか、そういった空想をしていた。早く自立し、親兄弟に頼ることなく暮らせることを夢見ていた。リアリストでもあるので、自立できる年齢まで我慢することも覚悟していた。 職業生活を始めると、目の前の仕事をしっかりするために自分の力なさが嫌というほど分かり、お給料をいただける仕事をするためにずっとずっともがき続けてきた。 同時に、貧しい家庭で育ち、それゆえに謂れのない差別や屈辱も感じてきた。自立すること、そして幼い時代に浴びた屈辱に抗するための反抗心や攻撃性。なんとも言えない自分の中の矛盾や感情の乱れ。40代の後半にうつ病になって、やっと自分の中の色々な矛盾が明らかになり、少しずつ心を整えることができるようになった。 そして、はたと自分のストーリーが明確になった。私は、幼いころの苦しさや辛さから離れることだけを目的にして生きてきたのかも、って。お金持ちにも、大きい家や宝石、出世や名誉。そういったものに対して魅力を感じてきたことは一度もない。私を育ててくれた家や故郷。そういうものと離れて独り立ちすることだけ。そして離れたいと思っていた家や故郷が自分の中で生きている。 DVはあったが、それでも父も母も祖母も、兄弟姉妹。自分を育ててくれた親兄弟にやっと素直に感謝する気持ちも。 私はこれから何をしたいのだろうか。 もう、独り立ちをしたことについては、自分でも十分認められる。そして、その後何をしたいのだろうか。これから、その答えを見つけていきたいものだ。
2017年07月11日
コメント(4)
内科の定期診察は8週間に一回の月曜日の夜間外来。 どういうわけか、ここ一か月ばかり月曜日に限って夜間外来の19時過ぎにやっと仕事が終わる始末。 降圧剤は、以前お薬を紛失した時に再度処方してもらったので、朝一錠の薬は飲めているが、チラージンはなく仕方がないので飲まないまま過ごしている。甲状腺ホルモンが低下すると、記憶力は低下し倦怠感が増し、代謝も低下するので体重も増えコレステロールも高くなる。 そういうことはわかっているのだけれど、患者さんのお宅から病院に電話をかけてお薬だけでも出してほしいなんてことは言えない。原則処方箋の発行は診察が不可欠だから、どうしようもない。血圧が上がらなければいいか、って看過していたが最近のだるさは半端ではない。目が覚めてもお気おうという気持ちがない。トイレに立っても、すぐ横になりたがる。 うつ状態では、食欲不振や頭痛、肩こりなども併発するが、今回はだるさとやる気のなさ。半端ではない億劫感。倦怠感と眠気が強いので眠剤は不要になったが、日が経つごとにだるさが増す。 味噌梅用に青梅を買ってきたのに、梅の下処理をしたのは購入から二日目。やっと味噌に梅をつけ始末をした。 今日もきっと時間内に終わらないケースを担当になりそう。 4週間以上もチラージンを服用しない人体実験はやめにしなくては。
2017年06月26日
コメント(2)
よくTOPが変わっても何も変わらない、なんていう言葉ささやかれるが、そんなことはない。 TOPが何を考え、どう評価し、メンバーに語るかは非常に重要。TOPの指摘がなければ、あまり良いと思えないこともどんどん職場に浸透していく。良貨は悪化に駆逐される、そういうことが蔓延していく。 看護職も専門職と思いたいたいが、患者さんを前にして、健康状態を確認して今何をすべきかを判断できないなら、その姿勢は専門職でないと言っていい。 高齢者の皮膚は菲薄し、物理的圧力で強くその皮膚を刺激するとまるで少し売れた桃の皮がするっと剥けるがごとく皮膚がはがれてしまう。いかにも薄い皮膚は日常に保湿剤を塗布するなんて、高齢者の看護をする者には当たり前なのに、乾燥していても赤みがないから外用剤を塗布しない。 終末期には、呼吸状態が大事な判断の目安になるので、呼吸数と補助呼吸筋の動きがどうか、体の緊張が少なく楽に胸やおなかを楽に動かせているかなど見てほしいと頼んでも、呼吸状態の記載がない。そのくせ、急になくなるなんて思わなかったなんて寝ぼけたことを言う。そりゃそうだろう、必要な体の状態をしっかり観察してこなかったんだから。 一人が気を付けないでいいと感じたことを上司から注意を受けないと、それが瞬く間に職場に広がっていく。 かといって、患者さんやそのご家族から注意を受けると、自分が何をしたかを顧みもせずに相手を批判する。 この看護師もあと数か月で退職していく。 人はかくも弱いものなのですね。 患者さんのケアに対して、痛みなど本人が望まない感覚を伴うケアは絶対急けるように努力しますけれど。 自分は変人、頑固者なので、他者に言われたとしてもその正当性を認められなければ、たとえ上司であっても行動を変えはしないのだけれど、、、も。
2017年06月21日
コメント(0)
先週末から携帯当番で、今週は五日連続勤務。昨日19時過ぎにやっと仕事が終わって、くたくたに疲れて今日の昼過ぎまで眠りまくった。でも、涙が止まらない。なぜ、こんなにも悲しくなるのか。尊敬するKさんのなくなるまでの一連のことが思い出されて、悔しくて、悔しくて。情けなくて、情けなくって。涙が止まらない。六日の朝、出勤すると担当のケアマネージャーさんから深夜未明にKさんが亡くなられたことを知らされた。Kさんは自営業を営み、その業界では腕があると知られた方。脳こうそくのために右片麻痺になり会社をたたんだ。障害が残る子供と妻。二人を支えるために必死でリハビリを続けて、毎日5㎞も10㎞も一人で歩行訓練を続けた。でも、胃がんになり術後に嚥下障害のために、腸瘻で栄養を摂っていた。口からも食べなければ体が弱ると、栄養士さんと相談して少量でもとおせんべい一枚を数時間かけてでも食べていた。この方のご子息が、繰り返す誤嚥性は会陰のために気管切開をされて退院した時から訪問看護で伺うようになって、父親であるKさんともいろいろお話をするようになった。仕事柄、塵埃を吸入したこともあって、間質性肺炎を合併。予後不良との診断であったが、プレドニンを服用して、その後も2年ほど順調に過ごされていたが、今年の冬に風邪をひいてからというものの頻呼吸がひどくって、こっそり呼吸状態を見ると一分間に32回という頻呼吸。酸素飽和度も低く、お節介だけれども定期診察前に受診するように勧めた。約1ッか月ほどの入院で退院。父上のKさんにも訪問看護と訪問リハビリでお伺いすることになった。残念ながら、心不全を合併する状態となっていて、平らなベッドに横になれなくなっていた。むくみもどんどん強くなり、愛息のいる一階に降りれなくなり、家族で話し合って工場の後を居室にリホームすることに。約2か月でリホームがおわり、愛息も自宅に戻ってきた。お部屋さえ違え、息子さんの様子が手に取るようにわかる。ご本人はもうベッドから離れられなくなっていたが、幸せそうな様子だった。歩けないので奥様が入浴介助は無理とのことで何とか説得して訪問入浴を利用することになったのに、約束の当日に訪問入浴の事業所の都合で一週間遅れに。看護師のケアはリハビリは良いけれど清拭や尿器介助は妻にしかさせない。足や手を見ると赤が白く浮いている。マッサージを兼ねて足や手を寝たまま洗わせていただけませんか、とお願いしてやっと足浴と手浴をさせていただいた。そして訪問入浴の日、細かな経緯は分からないが腸瘻のカテーテルが抜けてしまったという。訪問入浴は看護師1名と介護士2名で行われる。訪問入浴中にカテーテルが抜けたのに、「入浴前に抜けかかっていた」とその看護師の弁。抜けかかっていたと観察したら、腸瘻から栄養剤を注入できるかを確認したり、事故抜去にならないように固定を頑丈にして、カテーテルを引っ張らないように介護士にも伝えて安全に入浴させることは可能なのに。何もせずルーチンの入浴介助をしたことで事故抜去。しかも、自分たちの注意不足で抜けたのに、救急車を呼べとも言わずにそのまま帰ろうとしたと。愛息は気管切開をしているために頻回の吸引が必要でもあり、妻が救急車に同乗出来ない。ケアマネや訪問入浴の事業所に連絡しても同乗は無理だと。だったら、私どもの訪問看護ステーションに連絡してくださればいいものをそんな事故になったからという連絡は一切なかった、主治医にも相談していない。経口摂取の量はごくわずかなので、腸瘻から栄養やお薬を注入できなければ生命の危険もありうる。病院に救急車で行ったのは、土曜日。奥様の姉が介護士さんなので、息子さんの様子を見られるから土曜日まで受診を伸ばしてしまったのだ。そして、三日後に帰らぬ人になってしまった。腸瘻が使えなくなったのが死期を速めたかどうかは分からない。でも、もしあの時救急車で病院に行っていたら何とかなったかもしれない、と奥様は考えてしまう。私たちだって、どうして訪問看護ステーションに連絡をしてくれなかった、なぜ主治医に連絡をして家族が救急車に同乗しなくても診察を出来るという確約をとれなかったのかって考えてしまう。だって一人暮らしの方がご自分で救急車を呼んだときには誰も同乗はしないし、同乗することは救急車を呼ぶこととは必須条件ではない。家族がなくなったときは悲しくて仕方がないのは当然。でも、残された家族に後悔や恨みを残すようなケアはしてはいけない。最善のことを心を込めてケアすれば、「よくしてもらってよかった」という気持ちがあるだけで家族の気持ちは多少は慰められる。命の終わりは誰にでもあるけれど、でも関係する職種として誠実に精いっぱいのケアをしたい。Kさんがなくなる前一週間のことを思い出すと悲しくて悲しくて、悔しくて悔しくて、涙が止まらない。確かに、仕事をするうえでマニュアルは必要だけど、マニュアル通りにするだけではプロのケアではない。マニュアルはごくごく基本的なことしか書かれていない。一人一人の状態に合わせて安全で安楽なケアをどうするか、それを考えて実践できないならばプロではない。介護も看護も人材不足だし、新たに起業した事業所は教育も不十分かもしれない。担当者が不安ならば、主治医や訪問看護師などに相談すればいいわけだし、利用者さんに必要なことであれば同席するくらいのことはできる。自分たちの事業所だけで何とかなりそうもないなら、助けを求めることくらい躊躇しないで行ってほしい。もっとひどいのは、その事業所が夕方5時ころに起こったことなのに、ずっと放置して上司が電話一本で謝罪しただけということ。どうすれば最善のことができるか、ご本人の健康状態を悪化させないで済むのか、そういうことに気が付きもしなかったのだ。夕方救急車で行くことが無理なら、19時でも20時でもまだまだ時間はあるのに。他人様のことを批判して済むことではない。自分たちも同じようなことをうっかり気が付かないで行ってしまうことがあるのかもしれない。自戒するしかない。
2017年06月10日
コメント(1)
2週間前に、ELC援助者養成基礎講座を受けてきた。NHKのプロフェッショナルという番組でも紹介された めぐみ在宅クリニック 小澤丈俊先生の講義を二日間。とても濃い内容で、「援助は言葉にしなければ伝わらない」「医療者だけが分かる言葉ではなく、患者本人も家族もケアに携わるすべての人が分かる言葉で』。 一番は2025年問題。厚労省をはじめ国の政策で、病院は超急性期、急性期が中心になり、回復期リハビリ病棟、地域包括病棟がつづき、医療保険の療養病床は廃止の方針。特別養護老人ホームは介護度によって入所が制限され、介護保険施設(自宅に戻るためのリハビリを中心にする施設)は入所期間が3か月に限定されている。今増えているのは有料老人ホームやケア付き高齢者住宅。 人生の最後をどこで迎えるかも見通しがつかない。 ギリギリ自宅で迎えて人生の最後の時間をも家族が自宅で迎えなければいけない時代がもうすぐやってくる。一人暮らしでも、訪問診察や訪問看護、訪問介護だけでなく地域の方々の協力をも求めて自宅で迎えることになる。 2025年まで、もう8年もない。小澤先生はこの危機感から2000年ころから人生の終末期をどう支えるかという問題に取り組まれ、ELC援助者基礎講座を全国で展開している。医師、看護師、介護者等の資格に関係なくだれでも参加できる。私が参加した二日間でも、夫をみとった家族の方が参加されていた。 講義をきくだけでは力がつかないと、一コマの講義をきいた後は受講者がその内容を理解、記憶する時間を設けて講義と「聞き役と話し手」になって演習が織り込まれ、あっという間に午前が終わり、午後が終わり。終了時にはくたくた。脳内がぐちゃぐちゃかき回されるようで、いろいろなことが駆け回る。 二日目はさらに具体的内容が、どんどん進められて、人生の最終段階を迎える人々(本人や家族、親せき)に具体的にどう援助するかを学んでいく。 講義だけではなく、ロールプレイがあることで自分の実力のほどが良く分かりさらに他の方を見ることができるのでさらに内容がどんどん自分の体内に入っていく感じがした。 看護の領域では久しく「傾聴」が重視されていて、日常でも「傾聴しましょう」とはよく言われるのだが、つらい話を良く聴くだけでは問題解決にならない。辛い話を聞いたうえで、例えば「そういう大変な体験を貫いてこられたのはどんな支えがありましたか」などという問いかけが重要という。 実際、ロールプレイでこの問いかけをされてみると、とたんに自分の中のポジティブなリソースが浮かび上がってきてなんだか勇気がわいてくる。小澤先生は困難な体験をすることで「日常の中で今まで気が付かなかったささやかなことが見えてくる」とおっしゃる。確かに、自分の経験でも急性肝炎になったときに、食欲不振で食べられないときに30分も40分もかけてやっと出された病院食の半分を汗をかきながら食べたことを思い出した。食べたいものを何の努力もなく食べられることのありがたさ。おなかの手術をした後ベッドから起き上がるときに手術の傷が痛くておなかをかばいながらやっと起きてトイレに歩くときも一歩一歩歩くだけでおなかの傷が痛み辛かったこと。何の努力もせずに体が動くことのありがたさ。暮らしの中のことをあれこれ考えると、水道水が飲める、街灯がついて夜が怖くないなどなど無数の恩恵があり毎日を暮らせること。今まで生きてこられたことへの感謝。 生きていることのありがたさに気が付けば、気持ちが穏やかになり体も軽くなってくる。 そして、誰にでも生きてきた以上「支え」はある。ただ、その支えに気が付いていないだけだ。 自分の支えに気が付けば、感謝の気持ちがわいてくる。あなたにとって支えはなんでしたか。この問いの意味の深さ。誰の人生にも支え在り、これが私が受講したことの一番の財産になった。 ただ、この二日間で自分自身が多少は変わり、利用者さんやそのご家族の話がビンビン胸に響いてくる。働いているときには元気なのだけれども、家に帰ってくると妙に疲れて、体の疲れというより脳の疲れという感じで、受講後数日はあまり眠れず、その後は眠っても眠っても眠り足らない。 2週間が過ぎてやっと疲れをあまり感じなくなったが、夜の眠りは深い。 受講した感想のもう一つは、小澤先生が傾聴の技法を非常にシンプルに整理したことだと思う。看護師の研修でも傾聴についてあるにはあるが、医師が講師になりロールプレイを繰り返し繰り返しするものは初めてであった。心理職のそれと医療従事者のそれとは、現場を知っているだけに非常に勘所を抑えて現場に有効な技法に絞っていること。 2週間経過したので、再度テキストとメモしたノートを見直し、再度内容の吟味をしようと思う。
2017年05月28日
コメント(1)
2025年問題をご存知の方は多いだろう。団塊の世代が後期高齢者になる年で厚労省だけでなく経済産業省や財務省、経済団体もはじめもちろん医療介護職のものもこの年までにどのように対応できるようになっておくか喫緊の課題としてあらゆる分野で取り組んでいる。 1980年代から医療費抑制策がどんどん進んで、医療保険制度が改悪されたらそれを根拠に福祉制度も改悪されるだろうと危険視されていた。介護保険制度が利用料金が一割負担で開始されると障害者や難病の制度も徐々に応益負担が当然とされて、健康保険の本人の1割負担が始まってから今は保険本人は2割負担だし、高齢者であっても所得があれば3割負担という介護保険の改悪が野党のルールを無視した質問を契機に委員会採決が強行されてしまった。 当事者でなければ、一割負担が2割負担になることについて「お金があるのだから支払えばいい」くらいに受け流しているのだろう。 ある知人は、要介護5の父親と同居して在宅の保健福祉の制度を利用しておうちでお世話をしている。ご本人は悪性疾患の末期が近づいているのだが、体調が体調だけに内科、歯科、外科の3科の訪問診察を受けている。状態が不安定なのでご家族が不在なときには一日数回訪問看護が入り、訪問介護、訪問入浴と要介護5の限度額いっぱいに介護保険のサービスを受けている。そのうえ、高所得者なので区のおむつ支給のサービスは受けられない。 介護保険のサービスを使うだけで、2割負担のこともあり月に8万円ほど。限度額を超えてしまうと、その分は10割負担なので、月10万円以上持ち出しになったこともあったという。電動ベッド、褥瘡予防のエアマット、吸引機、加湿器、エアコンなどの電気代。汗かきさんなので褥瘡予防のために毎朝清拭をして着替える。シーツも週に2回は交換。更に失禁などをすればパジャマ、シーツ、横シーツと交換にも時間と労力がかかるが、洗濯の機会が増えるので水道代も追加される。 介護や医療の専門職は、感染予防のために1処置1手洗いを在宅療養でも徹底しているので、専門職が入るだけそのための水道代も増えていく。 医療機関や薬局、介護事業所に支払う額にプラスして暮らしを続けるための日常の消耗品、電気水道代、ガス代、加湿器や空気清浄器などの電気製品。 そんな細かいことをいちいちって思われる方もいらっしゃるだろうが、お野菜を少しでも安く買おうとして隣の町まで自転車で買い物に行ったとしても、そんな努力は圧倒間もなく吹き飛んでしまうほど、一家の中でお世話をする人がいればそのための支出も増えていく。 そういう家計事情と家族の負担を思うだけで、お世話を受けている人は「自分は生きていても仕方がない」と思い込んでしまう。 厚生年金の平均受給額は10万円という。東京23区の一人暮らし家庭は、家賃込で12万円くらい。医療費や介護保険の費用はなく非課税になるので、住まいの確保がされていれば住んで食べていくことは何とかはできる。年金10万円の場合は、夫婦二人であれば20万円なので家賃や水光熱費は折半になるだろうが、配偶者がなくなったとしたら10万円では暮らせない。夫婦二人のひと月の平均支出は22万円くらいというから、貯金を崩しながらの生活。 がんの末期で自宅でケアができる自信がなくって緩和ケア病棟に入院したとしたら、都内の公的な施設で一日の室料差額は安くて16000円。しかも、病床数は少ないので、緩和ケア病棟の入所数の平均は21日前後とか。食費も医療保険から外されているので、施設によるだろうが一日1000円くらい。そしてもちろんおむつ代。自前の寝衣でなければその費用も。家族が下着などの洗濯物ができなければ洗濯代が。医療費は高額医療制度を使えば現金払いはしなくても済むことができるけど、20日間入院すればざっと30万円以上は現金が必要になってしまう。 年金だけが現金収入の世帯は貯金を崩していくしかない。 別の方は、68歳で仕事中に心筋梗塞で急死された。自営業を頑張って続けていたのだが、景気の波があったりして生命保険はやむを得ず解約してしまったので、自営業の核になる人はなくなった其の方であったのでもう永長存続はできなくなり、自宅兼事務所の電気量契約も自営のための機械などのために事業所契約だったので、契約変更もなかなか難しいなどなど。大黒柱を失ったばかりに、とりあえず数年は貯蓄を崩していき、もう貯蓄がなくなったら生活保護を受けるしかないと腹をくくったという。 働いていれば職場に行くだけでいろいろの人と話をすることもできるが、もし仕事をしなくなり体具合が悪く外に出ることもできないとしたら。 私は40年近く働いてきたが、20代前半から夜勤のない職場に配置されたこともあって(看護師は夜勤をしなければ低賃金です)、満65歳で受け取れる年金は16万弱。これから税金、国保税、介護保険料を引かれて、医療費は2割負担だとしたらもうこれでアウト。 一日一日現実味が帯びてくる私の老後。降圧剤のほか数種類の薬を飲んでいるが、脳梗塞やがんが分かったとき何処まで治療を希望するか、今から考えておこうと思う。葬式はなし、無縁仏をまつってくれるお寺さんを探すか、共同墓地か。戒名はつけない。入院するのは多床室でも構わない。痛みだけは何とかしてもらえるように頼んで、水が飲めなくなったらそれ以上の点滴などはしないでそっと見守るだけの医療をしてほしい。床ずれにはなってしまうだろうからスキンケアだけは何とか頑張していただこう。積極的な治療をしないで、スキンケアだけ頑張ってくれる施設があるのかは期待できないかも。今だって自由に入浴やシャワーができる施設は少ないわけだから。
2017年04月19日
コメント(5)
オオバベニガシワの花が気になってから、妙に目立たない花や花のシベが気になって仕方ない。 雌雄異株は知っていたつもりだったが、雄性先熟とかを調べていくと花が咲き実がなる事の神秘的なことに驚いてしまう。 お花が目に入ってしまったら、お花を解剖したくなってしまいそう。 ルーペを持ち歩き、一つの花で何10分も過ごせそう。 カシワ餅のあのカシワの葉っぱはお馴染みだが、花は何とも地味。 雌雄同株です。 雄花は垂れ下がっていて、すぐに分かりました。 雌花は葉っぱが合わさるその中央に目だたずありました。 上手く撮れていませんが肉眼では観察できました。 カシワのドングリは好きなドングリなので、どんな風に育っていくか興味津々です❗
2017年04月12日
コメント(2)
オオバベニカシワの花がその後どんな風に変化しているのか気になって、昨日仕事が終わった午後に、また長徳寺に行きました。 雌花も咲いていました。 5本前後の長さが多少違う雌しべが3センチほど。先端がクルリンとカ―ルしていました。 透明感のある紅色。 雌花は雄花より少し遅く咲くんですね。
2017年04月09日
コメント(5)
日曜日、花見日和で近所の南蔵院と長徳寺に行きました。 駐車場の隅に不思議な花が咲いていました。 植木屋さんがいらしたのでお尋ねして見みました。「こんな花が咲いているのは始めて見た。木が衰えて来ると子孫を残すために花を咲かせる」とのこと。 rblog-img-00]der="0" />
2017年04月04日
コメント(6)
3月31日、同じ年の同僚が定年退職で職場と去っていった。 最後の日に、送別会があった。 私たちが新卒で就職した時の、先輩たちの指導は本当に厳しいものであった。 初めての深夜勤で朝の申し送り。50名ほどの患者さんの申し送りをする。緊張しすぎて何をどう話したかも記憶できないほど。 申し送りが終わったとき、看護師長が私にかけた言葉。「何を申し送りたいと考えたの?あなたは夜勤で何を観察していたの?何を申し送ろうとしたのか全く理解できない」 夜勤に入るためには、日勤業務を出来るようになること。二人の看護師で50人の患者さんをケアしなくてはいけないので、一緒に働いてくれた先輩が必死でフォローしてくれたのだけれども、仕事がのろすぎる私は休憩も取れずにとにかく一晩動きずめだったのだが、患者さんがどういう状態の変化があったかなんて50人すべての様子を理解できてはいない。 もし送り中も、言葉に詰まる私を横に立っている先輩が小声でアドバイスしてくれたのだが、声は震えるし、20人ほどの先輩に囲まれて何を言っているのかもわからない。 自分の力が全く足りないことは重々承知しているので、看護師長の言葉を素直に聞くしかない。 新人の頃の自分を振り返ると、先輩方に「ぐずみやドジ子」って陰口で批判されたことだって、しょうがないと受け止めて、とにかく毎日一つでもできるようになりたいと必死だった。 そんな新人の頃の話で同僚と盛り上がっていると、その話を聞いていた私より一回りも若い看護師たちが「こわーい」などと言っている。 「自分の力量がどれほど低いかわかっていたので、その言葉を受け止めて頑張ろうとしか思わなかったよ。ちょっと厳しい指導をされるだけで、パワハラなどと誤解して自分のケアを振り返らないことが理解できない」と返すと、またまた「こわーい」だって。 「他人様の命を守る仕事で、しかもその仕事でお給料をもらって暮らしているのだから、仕事ができないことを自覚できないことが問題なんだよ」と言い返すと、「こわーい」と言っていた若手も黙ってしまった。若手と言ってももう40代だからベテランと言われる年代なのに。 医療の仕事は、当たり前だけれど分業で成り立っているので、仕事をした後に患者さんから直接お金をいただかない。自分の仕事によって患者さんがどのくらいお金を支払っているのか、ましてや保険財政からどのくらいのお金が支払われているかも直接は意識しない。 たとえば食堂でラーメンを注文するときにはその価格を承知の上で頼む、もしその味が満足できなかったらもうそのお店にはいかない。 訪問看護を受けている方々は、その時のケアに満足できなくってもすぐさま断ることはなかなかできない。信頼という担保があるからこそできているのが私たちに仕事なのに、10分間で900円くらいのお代をいただいている仕事なのに、無責任な仕事をしてもそれが積みあることだという自覚がないことが非常に腹ただしい。 ある看護師は時間がなかったからと言って、褥瘡のガーゼのテープ固定を一部省略していた。翌日訪問してそのことに気が付き、注意したところ「(私の)言い方が悪いからきくことはできない」とほざいた。こんな輩が同僚でいることが腹ただしいし、自分が管理職だったら即刻退職勧奨をしたいくらい。 他人様の命に対して、時間がない、という理由はありえない。時間がないから省力するのもやむを得ないという感覚が全く理解できない。 定年退職まであと3か月なのだけれど、こんな同僚がいる職場で働くのが嫌で仕方がないのだけれども、それもやむを得ない。そのうえ、もらえる年金ではとても暮らせないので、65歳まで嘱託で働く。65歳になったときの年金は現在のお給料の半額くらい。自分がいつまで生きれるのか分からないのだけれども、これからどんどん条件が悪くなる社会保障制度を考えると、とにかく働けるうちは何歳になっても働かないと生きていけない。 死ぬ寸前まで働く覚悟が必要なんだ、と思う。 体力が資本なので、とにかくこれからは健康に気を付けて、腰痛やら膝関節症やら、高血圧にならないとか日々の健康管理をしっかりするしかない。 ただ、30年以上も同じ仕事をしているからなのだが、仕事そのものは楽しくって仕方がない。あの新人の頃の苦しさが嘘のような毎日の仕事が楽しい。 もうそうそう長く働ける時間がないということもあるのだけれど、毎日の仕事を大事にしていきたいのだ。
2017年04月02日
コメント(2)
移動は車いすを使ってやっとのことご近所への買い物に行ける男性、要介護1。 国民年金でギリギリの生活をしている。 テレビは地デジのみ。外出は週一回の通所介護のほかは、平地で移動できるご近所への買い物くらい。車いすの自走ではバスも地下鉄も利用は無理。タクシーを使っての外出も介助者がいないと乗り降りができないし、そうそう度々自費でのタクシー利用も無理。 他人様に迷惑をかけられないから、という信条もあって具合が悪くっても、どこが痛いとかそういうことは滅多に口にしない。 ただ、風邪をひいたりしたら大変なことになってしまうという思いはあるので、エアコンだけは使っている。 もともとの病気が糖尿病なので視力低下があり手先や足先にしびれがある。手先が不自由なのに爪切りは自分でしているし、野菜や肉を切ってご自分で3食調理をしている。 こんな方が、普段何が楽しみ化というと、ご自身は何もすることがないからもっぱらテレビを見ているという。 どのテレビ局も同じような番組で、同じような内容を朝から晩まで繰り返している。最終的に国会中継くらいしか見る番組がないという。でもその国会中継も、見ているだけで腹が立って仕方がないという。 「みんな大泥棒だ!!! あんな大嘘を許している国民が悪い。40代、50代の小僧の官僚に騙されてしまう国会議員も情けない」などなど。「大臣も国会議員も大ウソをつくために税金を使っている。」とも。 国民年金の支給額は非常に低額で、その低額であることを問題にしないといけないのに。そうそう高い額を支給されているわけではない生活保護のことを大声で問題にしている、それも国会で堂々と正義感を振りかざして攻撃していた東大出身の某女性議員。生活保護受給者を攻撃していたのに、100万円という額をポンと寄付したこともすっかり忘れている方への批判はしない。 この70代の男性のように、ギリギリの生活を何とかやりくりして暮らしている方と比べて、与党の国会議員や閣僚は何をもって正義というのでいるのであろうか。 世界的な経済不況が続くと、日本だけでなくドイツやオランダといった第二次世界大戦で酷いことに陥った国々も右傾化しそうだし、自由・平等・友愛を謳ってきたフランスだって怪しくなってきている。 こういう時代に、信義を貫くことは個人としても国としても困難かもしれない。でも、誰かを踏み台にして自分たちの暮らしやすさを求めることは人間としてどうなのだろうか。 世論調査の精度がどうなのか問う論議もあるけれど、それでも今の政権を支持するという方々は、何も持って支持しているのだろう。 この70代の男性の言うように、今日の今日まで閣僚の方に対して大泥棒とまでは受け止めていなかった。 しかし、何千万というお給料をもらって、誠実の答弁をしたり論議を深められない人々は「大泥棒」かもしれない。 今日の午前9時半過ぎに、訪問先で聞いた言葉だけれども、こんな時間になってもこの男性の口調と怒りに満ちた表情を忘れられない。
2017年03月27日
コメント(0)
以前、山岳部に所属していたころ、高校教師の方が「看護婦さんというと浣腸か注射をしているかしか思い浮かばない」とおっしゃった。其の方は、進学指導もされていた。 こういうイメージを持つ人が、看護大学に進みたいと学生に言われたら、何を根拠に進路指導の相談を受けているのだろうか。理数系の科目をとっているとか偏差値で進路指導をしているのだろうか。 春休みを利用して病院実習を来ている薬学生が、今日の午後訪問看護に見学に来た。 「訪問診察と訪問看護とは何が違うんですか?」が、訪問看護の見学で一番知りたいことだという。 この学生に、「医師と看護師では、その職務はどう違うのか。医師の一番の役割は何か」と尋ねたところ、明確な答えはなかった。 では、「介護士と看護師とではどうですか」と尋ねたら、さらに答えに窮していた。 看護教育では、患者さんを中心にして様々な職種がどう協力し合って、患者さんを支えていくかについては1年生から学ぶ。医療倫理や看護論など、看護ケアを実践するための概念(哲学的なこと)を嫌というほど叩き込まれる。私自身は、この一年時に教わったこの哲学的な看護の考えを理解するために30年近く時間を必要としたので、薬学生成や医学生がすぐさま答えられないのも当然とも思う。 でも、他の職種に対して、このような浅い知識がないままに国家試験に合格して現場で働き続けたら、他職種連携なんて無理の無理だと思ってしまう。 初期研修医が訪問看護の研修に来ても、この薬学生のようなイメージしか持っていない。 高校教師が、看護師像を「注射と浣腸」をする人と思っていたくらいだから、看護師のケアを受けたことがない人の看護師像は推して知るべし。更に、看護師の仕事は所属する病院の考え方や、病棟ならその病棟の特質によっても左右されるので、やむを得ないかもしれない。 今の私が看護ケアですべきことは、健康管理全般だ。多くの医師は診断と治療に専念している。胸部疾患の診断がついてしまえば、他の身体部位についてはそうそう関心を持たない。でも、看護師は血圧や脈拍を測りながら爪や皮膚の状態など頭から足の先まで観察して、破たんしそうな心身の変化があるかどうかをいつも気にかけながらケアをしている。着替えや入浴介助などをしながら、身体の動きを見て関節の動きや筋力の変化があるかも気にかけている。全身の状態を深くはないが、いつもモニターしながらケアができるのが看護師だと思う。 体調の変化があれば、その原因は何か、服用している薬の変化か、何か心配事があるのか、十分な睡眠がとれているのか。其の方の生活の変化も考えていく。 世間話をしながら、その方の価値観、何か困ったことはないのか、今の治療や看護に要望はないのか、そういうことも気にかけながら、もし不適切な医療を受けていると考えているとしたら、医師に報告したりチームでその方の望む暮らし方に近づけるケアはないのかなどご本人や家族を中心にして考え実践しようと努力する。 そういうことができるのが看護師なのだと、最近の私はとみに考えている。
2017年03月16日
コメント(4)
春日神社と言えば、奈良時代初めに創建された日本でも古い神社の一つ。 明治維新で、廃仏毀釈により、神社と仏閣は別になり仏教は大弾圧を受けた。 古来より、為政者は国体護持のために宗教を利用すると同時に、また弾圧をしてきた。 国体護持のために仏閣を作り、密教の時代は国家鎮護のために護摩を焚いてきたし、その宗派に帰依したりしてきた一方、儒教を習い、中国の中央集権国家のありようをまねて「国家」を維持しようとしてきた。 現在教育勅語について、いろいろなニュースが流れているが、教育勅語の何が悪いか、ごくごく当たり前の人間の在り方を説いているにすぎないという反論もある。11項までは、ユダヤ教や仏教と同じような人間社会で生きるための徳目を説いている。しかし12項は、「臣民」は天皇のために、国家存亡な危機の時には命を落とせという内容。 春日大社の神様は茨城の鹿島神宮から鹿に乗って神様が春日野に降り立ったという話で。仏教が広まるにつれて、神様にはそれぞれ仏がその姿を表しているという。もともと紙には姿がないと言いながら、神の鹿(神鹿 しんろく)に載っている男性はその時代の官吏とも思える少し小太りの男性。この男性に仏が宿っていた?? 宗教は伝来してその風土の中でまた形を変えていくのは人間社会でその神が創建され信じられれば、姿を変えていくのは当然かもしれない。日本の神が仏だったというのは、その時代に仏教の知識があって、神様をも否定できない誰かが神お告げなどという体験により、アタタな物語を持ちそれが語られ信じられたのではないかとも思う。 もし、仏教よりキリスト教の伝来が早かったら日本の神社は他の形になっていたのかもしれない。 春日大社展の至宝の多くは仏教関係であったし、神鹿の武具は、馬具と一緒であった。 文化というものは新たなものが、その土地にあった元来の文化と融合してまた新しいものがつくられるのかもしれない。 だとしたら、国家神道なるものが、古来から日本固有のものであるという理屈は信じられない。 日本の国家神道は、明治までに日本に伝来した諸宗教や哲学のいいとこどりをして、明治政府が新しくかじ取りをするために都合よく作り出したものであるということを実感した。 春日大社の神様は、新しく清浄な建物で存分に神の力を発揮してもらうために、20年に一度造替するのだという。これだって、木や紙など燃えやすい建材しかない風土で、20年以上経過すれば古くなってしまって神様にふさわしくないという考えなどと思う。寺院はこのような考え方をしない。仏は場所を選ばないのではないか。そして日本宇治神様で、その住まいが定期的に建て替えられているのは大規模神社でしかない。 日本各地の氏神様が、その社が古くなったと言って、お仕事を怠けてしまって地域が大変な目にあっているという話も聞かない。 春日大社展を観に行って、国家神道なるものが本当に怪しいものである感触を新たにした。
2017年03月13日
コメント(0)
年明けから、体調の悪くなる方が増えて、御見送りが二人、どんどん体調が悪くなる方が増えて、自分がどうしてあげることもできなくて苦しい毎日。 それでも、何とか踏ん張ってやり過ごしてきたけれど、とうとう二月末から朝起きられない日が続いて、とうとうここ一週間に2回も遅刻。 あぁあ、毎年冬には、体調を崩して、抗うつ剤を増やしてもらったりしても、この冬は休日に引きこもりの日々。休日前には、あの展覧会、この展覧会とお出かけを楽しみにしているのに、休みの朝には起きられずにずるずると眠り続けた。 休日に眠りこけてしまうと、休み明けに夜には眠られずに、結果として朝起きられない。 ゴミ出しも洗濯も、ましてや掃除なんかやる気が全く起きずに、春になってお部屋を見回すと、まぁひどい有様。 もし、突然死してしまったら、兄弟姉妹が私の部屋に来たら、呆れてしまうだろうなぁ。 ごみやほこりでは死なないというけれど、トイレとお風呂と寝る場所が一畳くらいあれば、それでも生きていけるわけだけれど、少し気持ちが楽になって自分の周りを見回すと、その惨状になんだか悲しくなってしまう。 まぁ、こんな状態が私の暮らしの実力なんだなぁ、って苦笑。 メンタルクリニックの主治医は、朝起きたらお布団をきちんとたたんで、夜眠るときに気持ちよく過ごせるように朝に目を覚まして体をしゃきっとするために、とにかくお布団をきちんとたたみなさいよ、ってまるで父親か兄に諭されるように言われてきたけど。受診時に、「お布団たたんでいる?」なんて聞かれてしまう。本当はしていないのだけれども、「時々・・・」なんて苦し紛れのお返事をしてきたけれど、私って生活力がないなぁ。 通勤途中でお空を見たり近所のお庭のお花を見たりすると、椿は咲いているし、早咲きの桜も咲き始めた。 そろそろ冬眠から覚めて、また少しはしっかり暮らさなきゃって、ね。
2017年03月08日
コメント(4)
Pさん母娘とは3年前から訪問看護がご縁でお知り合いになった。娘さんは70過ぎまで自営業をして、もう70を過ぎたからとお店をたたみお母さまの介護一筋となった。それまでは、早起きして朝食を作り、お昼はお母さまのお弁当とご自分のも作り出勤。夜8時過ぎまでお店で働き、帰宅後はお母様と晩酌。訪問看護でお尋ねするといつもたばこの香りが。ベッドの上でも煙草を吸われるので、鎖骨の上に煙草の灰が載っていることが何回も。なんと、毎晩晩酌もしているという。ほめ上手で教育上手。看護学生や若い看護師が行くと、必ず励ましてくれる。先輩看護師が何か言う前に、「この人(先輩看護師)はね、○○○がとっても上手なのよ、よく見ていないさい」「ね、手の使い方が違うでしょう、アーいう風にするのよ、おぼえた?」とか。若かりし頃、教師をされたこともあったということで、人間として生きている以上学ばないで時を過ごすなかれ、を実践されている方。お菓子も大好きで、お孫さんや娘さんがあれやこれやお菓子を買いそろえている。ケアが終わると必ず、看護師にお菓子とか飲み物を渡してくれる。毎度毎度のことなので、積もり積もれば大変な額になってしまうので、「お気持ちだけで本当に充分です。その代りに、皆さまでいつもは食べていないものとか取り寄せるなりして楽しい時間を過ごしてください。」とお話をしてみた。そしたら「私たちはいつも楽しく過ごしているわよ、本の気持ちに過ぎないのよ。母がお渡ししなさいっていつもうるさいからもらってちょうだい!」って。もう、負けたって感じで、申し訳なく思いつつお茶などを断る言葉もなくっていただいてしまった。そんなPさんだったが、昨年の暮れごろより「夜中で一人で大声で何か話している」とか「娘さんが出かけようとするといろいろと用事を言いつけて出かけられないでいる」とか、つい数か月前の様子と違ってきた。そして、先週訪問すると表情が一変していて、何やら落ち着かない様子。血圧が低いし、無呼吸も続いている。脈拍も触れにくい。尿量も減ってきている。今までの経験では、あと一週間か問うかというところだろうか。つい先日まで、開業医に相談していてお薬をもらったりしていたようだけれど、その医師は訪問診察はしていないし、ましてやご自宅で呼吸が止まっても「救急車を呼べ」っていうだけだという。もう20年もお母様と一緒に過ごしてきたのに、最期を救急車で病院に行ったところでなじみのない環境で最期を過ごすなんて考えられず、娘さんがお母さんの最期をどう一緒に過ごしたいか、どうしたいかを伺うことになった。「ずっと二人で暮らしてきたこの家で過ごしたいので近くの訪問診察医に頼みたい」ということで急遽訪問診察医が決まった。訪問診察医が決まった翌日、血圧、脈拍、呼吸など終末期の様子になってきた。日曜日に、娘さんから電話があり、「なんか様子が変わってきた、血圧だけでも図ってほしい」と。無呼吸はないものの、お薬も食べ物も受け付けなくなっているという。「なんか栄養を取らせないといけないのだけれど、何を食べさせたらいいの」と娘さん。「もう、この世からあの世に行く準備をしている時期なので、本人が食べたいときに食べさせればいいんですよ。はっきり目が覚めていないときに無理に食べ物をお口に入れても、気道に入ってしまったりご本人を苦しませることになるので頑張って食べさせなくっていいんですよ」と話し、「何か心配事があったらいつでも電話をください、待機していますから」と念を押して退室した。昨日は、一番親しかった看護師にお酒を勧められ、知人がこのお母様のためにプレゼントした「吟米大吟醸」を結構ごくごく飲んで、その後眠り始めたという。そして、今日の午後3時過ぎ、娘さん、息子さん、お孫さんに送られて、あちらの世界に旅立って逝った。ご家族からの希望もあって、エンゼル・ケア(死後の処置)をご家族と一緒に行った。髪を洗い、顔をマッサージし、体をきれいに拭き、ストーマ装具を貼り換え、きれいな洋服に着替え。きりっとした美しいお顔だった。ご家族も、すっきりとしたお顔を見てほっとしたようだった。10年ぶりくらいのエンゼル・ケアだった。ご家族と思い出話をしながら、丁寧に体を清めていくと、100年を超えるこの方の生まれた時からの人生を教えてもらう場にもなる。一生懸命生き、周りに感謝の気持ちを持ち、誰かに何かができそうなときにはためらわずに行い。Pさんの人生って、そういうものだったのかなぁ、って。帰りの道々でふと思った。
2017年02月28日
コメント(0)
昨日は今年度最後の呼吸器リハビリの研修会。 訪問看護でお会いする方々は、呼吸器疾患の方に限らず重度の方が多い。呼吸器の方では、慢性閉塞性疾患の末期で酸素療法を受けてもベッドからトイレに行くだけでも苦しくなったり、排便時の息みで死にそうな苦しみにあったり、歯磨きができなくなって困っている方とか、その方の生活の様子を見ているだけでもその辛さが身に迫ってきた「何とか改善する方法がないのか」と思うことばかり。 訪問看護の仕事をしてから、呼吸器のケアやリハビリのことが分からないと、とても患者さんの健康に責任を持った仕事ができないと、もう10年以上前から勉強を始めた。6年前にやっと呼吸療法認定士の資格をとり、その後も勉強を細々と続けてきて、自分でも対応できることも多少は出てきた。 新年になってから、重症の呼吸器疾患の方を2名担当することになったが、その方々の体調は改善していない。 体を動かすと息苦しさが酷くなるので、呼吸方法を改善することを患者さんに説明しながら実際に呼吸法を行ってもらうのだけれども、数分とは続かない。 毎度のことだけれども、研修に行く前には、あの患者さんこの患者さんをどのように楽にすることができるか、分かって帰ってきたいと思う。 でも、自分の呼吸器症状や身体症状を理解できるレベルが低くって、全く分かっていないんだなぁってガッカリして帰ってくる。 今回の研修に参加するにあたり一番相談したかったことは、間質性肺炎(息を吸うことが難しくなって呼吸困難になる)の方。呼吸回数が一分間に30回以上の頻呼吸で、酸素飽和度も正常値の90%ギリギリかそれ以下に。椅子に座って体を前に動かすだけでも息苦しさが倍増してしまう方。 この方の病歴や現在の生活状態を説明して、どのようなケアをしたらよいか質問してみたが、「内科医や外科医ではもう対応できない状態なので、看護師や理学療法士のきめ細かいケアで少しでも苦しさをとるしかない。もいその状態では医師ができることは何もないんじゃないか」って。 数年以上にわたって苦しい状態を経験した方が、看護師の一時間程度の介入でそうそう解決できる問題ではないとも思うが、自分が何もできないことが本当に苦しくなってしまう。「たった数分でも、楽になったと患者さんが思えるだけでもいいんだよ」って、質問に答えてくださった先生はおっしゃるのだけれども、そういうことを前提にしてその方の看護ケアを続ける心の状態でどういうものなのだろうか。 その上実技の研修で、呼吸介助の方法について、講師の方にチェックしていただいたら「やわやわしていて、呼吸介助になっていない。また来てくださいね。」って言われてしまった。呼吸介助については何回も何回も研修を受けているのだけれども、一向に向上していかない。 看護の勉強だけでなく、何かを知りたいと思って学習を続けていても、どんどんわかっていくという経験は今までもあまりない。何かが分かると、分からないことがさらに膨大に広がり、どんどん深い闇に誘われてしまうことも。ここ十年を振り返ると、呼吸器リハビリの学習を始めたスタートの時より多少はわかるようになったかもしれないけれど、なんだか長い道だってため息。そうこうしているうちに私の看護師人生も終わってしまうのにね。 二十歳には戻りたくないけれど、せめてあと十年くらい時を戻したい。そしてもっとましなケアができるようになりたい。
2017年02月19日
コメント(0)
介護保険で昨今強調されている言葉は「自立支援」、「地域包括ケア」のこの二つ。自律をどう考えるかについては、人それぞれであるとは思うが、お上に自立、自立って言われ続けていると、何でも一人で完結して行えばよいのか?!って勘ぐりたくなる。 昨年の暮れに、ある施設がテレビで報道されて入所後に自立度が上がったという紹介であった。どの程度自立度が上がったのかと関心がありテレビ画面を見ていると、歩行するための歩行器(結構高度なもの)に両肘をつけて、その利用者の後ろから職員の方が羽交い絞めのように介助していた。座る、立つ、あるくはとても大事なことだけど、利用者さんの後ろから介助者が口を出し、手を出して歩いている姿がとても自立とは思えない。 福祉器具を使うことは大事だけれど、その器具の操作をご自分で一定できる状態でなければ自立とは言えないのでは。 私が一番、自立と考えることは、ご自分で考え、ご自分で決め、ご自分で動くこと。ご自分の意思が反映もされていないケアは、たしかにその人にとってためになるかもしれないけれど、自立といえるだろうか。 と、日々考えている私も、医師から処方されて内服薬の飲み方がバラバラで山のような薬が余ってしまっている様子を目撃してしまえば、本人とも相談しながら、何が飲めて、何が飲みにくいか、毎日欠かさず飲める時間帯は何時か、自分の体にとって処方されている薬はどんな意味があるを程度理解できているか、などお薬を飲むという行為を日々どのように考え行動しているかについて知りたくなる。 昨今高齢者の残薬が年間400億円とも500億円とも言われている。年齢を重ねればあちこち具合が悪くなるし医者通いの回数も多くなる。目薬も必要だし、湿布薬も必要。 体調を整えるために診察を受けたのに、そのためのお薬が飲めていない。 Mさんとはなんでもざっくばらんにお話ができる人間関係にはなっている。スーパーの袋に二つ、薬が入っていてその上にあちらのテーブル、こちらの袋とあちこちに薬が。 「私は先生が暮れた薬を飲まないなんてそんなひどいことはしていない」と言い切る。「もらった薬をしっかり飲むことで私はボケにならないで済んでいる。できることは自分でやるから、忙しい看護師さんに頼まなくてもできるから」とあの手この手で断ろうとする。 この半年間のこの方の体調の変化を考えると、下痢便をおこしてトイレを汚したり、肢に便がついていたり、頻回に排便があるので外出ができないなど、排便コントロールができないことで不自由な生活になっている面もある。 「山になった薬を整理して、しっかり飲めているのが朝なのか昼なのか。数週間整理して、飲まなくっても大きな変化が身体になければその薬はやめても良いし、もう一度主治医の先生に相談できるようにしましょう。」 説得して、9種類15剤の内服薬を一週間分、朝、昼、夕に整理して、本人には飲まなかったらそれはそれで川わないので2週間だけ試み的に内服薬をセットしてみた。 内服薬を看護師が整理することに対して、最初は大分抵抗があったようだが、一週間たったら「一回ごとにまとまっていれば飲みやすい」といってくださった。 看護師の仕事の数割は、多分お節介。 訪問看護は週一回とか2回とか限定されているので、其の日訪問した状況や身体状態を次の訪問までに改善するような手立てを打っておかないと、後手後手のケアになってしまう。 おせっかいで御免と謝りつつ、お節介をする私である。このお薬を整理させてくれた方、「お節介で御免なさいね」と謝ると「あら、お節介と知っているんだ」ってクスリと笑って、そのあとに「助かっているのよ、お薬を飲むたびにあなたの念が入っている薬だって思って飲むんだから」と。 やれ、やれ。
2017年02月14日
コメント(2)
先週には、仕事関係の学習会で、超々エキスパートの方に直接指導を受けたりいろいろとお話を伺うことができた。 その世界では、その方の名前を言えば知らない人はいないくらいに実力もあり実績もあり、数えることが困難なほどその方を慕っている方が無数にいらっしゃる方なのに、それでも職場の人間関係に悩んでいるという。 私は鬱のなるまで、職場管理者をしていた。患者さんのために何が必要かでいつも悩み、そのために新しい知識と技術を獲得して、職場づくりをしてきた。根拠を明確に示し患者さんやご家族から信頼され、経営的にもプラスであればおおむね提案事項は了解を得ていたと思い込んでいた。 しかし、新しいことを管理者であるという理由だけで職場に持ち込むことには、表面的には反対意見はないものの陰では相当批判されていたようだ。 いざ、一職員になってみると手のひらを反すような対応をする人たちが少なからずいて、反対されなかったのはたまたま自分が管理職であり、メンバー以上に働いていたから面と向かって批判されなかったと思い知った。 自分の隣にいる同僚に分かってもらうというのは大変なことである。しかもそのことを実現するためには、その人が相当努力をしなければならないとしたら、簡単に「はい」と返事するのは難しかろうと思う。でも、共に働く仲間に理解されなければ、自分がその場所からいなくなればすぐに ゼロ に戻ってしまう。 分かりやすく、努力が不要な改善策なんてほとんどないような気がする。しかも同僚が経験が10年とか20年という世間でベテランと呼ばれてしまう人たちなら、新卒と違って考え方や働き方を変えてもらうことは至難の業ともいえる。 ただただ一生懸命に仕事をしただけの私は、患者さんやご家族のように相手が心地よいと思ってもらえるケアをしているだけでは、同僚の心は動かせない。 先週、超々エキスパートの方のお話を伺って、そうそう気張らずに一からまた始めようと思った次第。
2017年01月30日
コメント(0)
もう自分の一部になったかのような「鬱」。 ゴールデンウィークの頃から晩秋くらいまでは、結構体調がよくって、もう鬱は治ったと誤解するほど。 しかし、この冬も12月の中旬位から段々元気がなくなり、火事を中心にどんどん億劫感が強くなっていった。 洗濯、ゴミ出し、御茶碗洗いくらいは鬱がちょっと強い時にもできていたのに、ここ2か月くらいそれもおっくうになってしまって、洗濯ものは山積みだし、ゴミ袋に入ったゴミは玄関に積まれているし。 やっぱり冬は体調を崩すんだなぁ、って感じてメンタルクリニックの主治医に相談してみた。 「ごみ屋敷になる前に、少し元気になって片付けものくらいはできるようになりたいねぇ。サインバルタを1Cap増やして少し元気になるか試してみる?」 「はい、おねがいします」と私。 実は、去年の夏位から診察日を忘れてしまって薬がないことに気が付いて受診しなかったことを思い出したり、調子が良いからと数週間受診をしなかったり、結構さぼり続けたメンタルクリニックの受診。日が長い時期にそういうことをしていたから、冬になってガタンと調子を崩したのか。 診察を受けた当日から、夕食後にサインバルタを2Cap、朝食後に1Caにして五日目の今日、とうとうゴミ出しができた。 ちょっと体調が戻ってきた、って感じるだけで気持ちが楽になる。 今日は、清瀬で東京夢塾の呼吸リハビリの研修会が一日ある。 早起きできたし、ゴミ出しもしたし、朝から洗濯もできたし、今週末の2連休は元気に過ごせそうだ。 もし日曜日も元気があったら、東京国立博物館の「春日大社展」に出かけたい。
2017年01月28日
コメント(2)
先週の金曜日、東京の最低気温は2度くらいで、厳冬期用の登山用下着とフリース、登山用羽毛のコートを着て出勤したが、なんだか首元がスースー涼しい。寒いから首元がスースーするのかとやり過ごしていた。後から考えるとこの首元のスースーは寒気だった。 訪問した患者さんが次々と体調を崩していて、お昼もソコソコ、訪問の間に水分補給もせずに夕方まで仕事。 同僚が声がかすれていてどうも風邪をひいてしまったという。咳をコンコンしていた。 その夜、空気が乾燥していたのにマスクもせずに就寝。夜中の3時過ぎにのどの痛みで目が覚める。 風邪をひいたんだとやっと認識。あわててマスクをして、ビタミンC剤と消炎鎮痛剤を服用。土曜日は仕事だったのでN95マスクをして、時々鼻をかんだり無理やりせき込みをして排痰。マスクを外すと外した時にマスクの内側から細菌を患者宅にばらまいてしまうのが怖くって患者さん宅の玄関前で鼻をかみ、咳をしてからマスクを交換。 何とか夕方まで仕事をこなして、帰宅したら熱い飲み物を飲み、うどんを食べ即就寝。 横になっていても咳や鼻水が出始めるので、鼻をかむ前後に鼻の周りに白色ワセリンを塗って鼻の周りが赤くならないように予防。日曜日には、緊急連絡用の携帯電話で呼ばれることがなかったので、時々温かい飲み物をとって痰や鼻水を出しやすくしてひたすら安静。 体温は測らなかったが、時々節々が痛くなったり頭痛や寒気がしたり。 完璧に風邪をひいていた。 生憎、仕事がお休みになるのは木曜日。何とか治し切らないと大変と、ウトウトしながら目が覚めたら暖かいの飲み物をとると、痰や鼻水が出やすくなって、少しずつ黄色の痰がでるようになる。やっと、夕方になるとご飯を食べたくなり、ネギたっぷり+卵雑炊を食べる。 昨夜は結構眠れて、今朝になったら鼻詰まりも無くなって、すごく気持ちよく呼吸ができる。頭痛も関節痛もない。 もう治りかけていると出勤。 N95マスクをして、今日一日仕事ができた。 今日の夕方は、体全体がすっきりしてもう鼻水も痰もごく少量になっていた。 今回の風邪ひきでは、消炎鎮痛剤の服用だけで治った。 風邪を二日で治すコツ、とにかく保温安静。暖かい飲み物や食べ物をとって痰や鼻水を出しやすくする。そしてのどの湿度を保つためにマスクを着用。マスクをするだけで自分の呼気でマスク内の空気の湿度が高くなるのでのどの痛みも和らぐ。 たまたまドラッグストアでマスクを買いためていたので、マスクの着用感も試すことができた。やっぱりN95マスクは空気の漏れがなく使い心地が良かった。価格は高いけれど、高いなりのことはあると実感。また、のどの潤いを保つというマスクもそれなりの心地よかった。 空気が乾燥するようになったら、風邪の予防のためにやっぱりマスクの着用が必要かも。仕事がら、手洗いとうがいはしっかりしているつもりでも、ついつい忙しいと水分補給を怠りがち。手洗い、うがい、マスク、そして水分補給は風邪予防のために必須かも
2017年01月09日
コメント(2)
暮れからもいろいろあって、年始にもいろいろな生活問題を抱えている人が多い。 85歳のあるご婦人は、怪我のせいでご自分で靴下の脱ぎ履き、ズボンなどの下衣の上げ下ろしが一人では非常に時間がかかる(下着を履き替えるだけで30分)。 一人暮らし。玄関が北向きのために冬は結構室温が下がる。灯油の入れ物を一人で手に抱えて居間まで持っていけないので、玄関から居間まで新聞紙に灯油の入れ物をおいて足でけりながら移動させるそう。両手で杖をつかないと室内の移動ができないので、そりゃあ一人で灯油の入れ替えをするのは無理。 生活保護費はひと月9万円。季節の変わり目には衣服を新しく購入したくても、この保護費だけではとても無理。北向きの玄関なので、台所の室温が5度以下になることも。腰痛も膝痛もあるので気温が下がるとトイレに行くのもやっと。そのために一日中灯油のストーブをつけっぱなし。大体一日2回灯油を入れるのだこれがとても大変なのだという。ガスストーブにしたいのだが、購入から10年以上たち最近は点火しにくくなってきたが、ガス屋さんに点検を依頼するにもお金がかかるのでやっていない。そもそもガスストーブを一日使ったら、一か月のガス代は一万円以上かかってしまい支払えな。そんなことだから、いくら火が付きにくい10年前のガスストーブでも買い替えるなんてとんでもない。 ちょっとトイレの入り口で転んだというので、トイレを見せてもらったら汚した後にすぐ片づけられるように新聞を敷き詰めている。滑って転ぶ危険がありそうで、もしやと思って用意してきた100均の敷物をカットして敷き詰めてみた。台所のフローリングにも床が冷たいので滑り止めがついていないいろいろな大きさの敷物が敷いてある。 これじゃあ転んでしまう、とこちらももしやと思って持ってきた床に貼れば滑り止めにもなって貼ってはがせる正方形のカーペットを敷いてみた。 これが暮れのこと。 今日行ったら、電気ストーブの温かさがだんだん弱くなってきたという。ケアをしながらちらちら電気ストーブを見るとパネルに埃がたまりにたまって、しかもパネルが汚れている。ほこりを取り除いてパネルを磨いてから、ストーブをつけてみたら結構な温かさ。 台所の敷物交換や電気ストーブのパネル掃除は看護ケアではないという人もいるが、その方の生活環境と整えて体調を安定させるためと考えれば看護ケアとして位置づけられる。 生活保護の方に対していじめとも思われる批判的言動を耳にすることが多くなった。暖房とか冷え予防の衣服を買うことさえままならない人たち。保護費から、数万円する新しい灯油ストーブを購入したり、ましてや5,6万はするエアコンを購入なんてとんでもない。でもその方々は、お上に迷惑をかけているから保護費の増額要求をする権利があるなんて全く考えていないのです。 こういったことが起こるのも、高齢者加算が削られた事によるのではないかと考えています。 何とかしなくっては、年末年始にはこんなことばかり考えていました。 制度改正の働き掛けも大事だが、今困難に直面している人の暮らしを少しでも良くする方法を考えなければならないのです。とりあえず貰い物とかを備蓄しておいて、必要になっている人にお分けするという方法をとっていますが、組織的にするために何かいいアイディアはないものでしょうか。
2017年01月05日
コメント(0)
あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします。 もともと、気分の浮き沈みが激しくって還暦を過ぎてもそうそう変わりがなく、今年もブログの更新は不定期になるかと思いますが、お付き合いのほどよろしくお願いします。 大みそかから、東京の暮れとお正月を楽しむ心積もりであったけど、年末の数日に帰宅が21時を過ぎることを続けていたら、今はやりの睡眠負債なのか全然起きられなくなって、三が日が過ぎた今日にやっとおきだせることになった。 奈良も京都も東京も、国立博物館は一月二日から開館していてその年の干支にちなんだ催しものが満載。京博は大みそかからカウントダウンがされるということで、京都に一泊、奈良に一泊なんてことを考えていたけれど、やっぱり今年は東京で過ごすことに。毎年年初めの東博に行きたいと思ってやっと今年は年末年始の5連休。 切符を予約していたりすれば何としてでもお出かけするのだけれど、いつでも出かけられる都内だと今日が明日、明日が明後日になってしまう。 でも、今日お出かけして大正解。 二日、三日は相当混んでいた様子。今日は『長谷川等伯の 「松林屏風図」 』だけが立ち見状態。閉館の17時前もやはり人だかりで、やっと16時45分くらいになって全体像をじっくり拝見できた。朝霧の中に浮かぶ松林なのだが、孤独感が迫ってきて涙が落ちそうになる。外国の方も無言でじっと観ていらした。 昨年は、奥村土牛、黒田清輝、安田靫彦、若冲、円山応挙などを見る機会があって、そのためか急いで解説や題名などを追わずにじっと見て感じてどんな言葉が浮かんでくるか、じーっと自分の中から出てくるものを待てるようになった。 東博の展示スペースはすごく贅沢で天井は高いし、作品と作品の距離が十分とってあるので、その作品を見て居たければ作品の前から下がってほかの方が他の作品に移るのを待てばよいので、せかせかする気分にならないで済む。そのうえ、常設展はスケッチは全作品可。写真はNGの物もあるけれど。 B5のノートと5Bの鉛筆を用意して、作品の全体像をさっと書き留めたり、マネしたい図案をちょっと書いたり。ただ見るだけでは、記憶にとどまってくれないのだけれど、案外スケッチすると思い出せる。 今日の一番のヒットは、若冲の「松梅群鶏図屏風」。どの鶏も福良雀のようにふっくら。鶏の視線が様々で上目遣いだったり流し目だったり。母鶏と雛3羽が非常に省略して描かれていて、なんともかわいらしい。そのくせ、肢はとっても力強く太く立派。若冲は鶏が大好きで自分でも飼っていたらしい。松や梅も古木らしいのだけれども、刷毛で一筆って感じで勢いがあって命が宿っているよう。梅の花やつぼみもすごい省略で、でも梅なので。素人なのだけれども、ついついため息が出てしまう。 円山応挙や池大雅の作品もあって、ひょっとして応挙と思ってみていたらやっぱり応挙だった。 昨今は、日本はすごいぞ!って手放しで礼賛する番組や言動が多くってうんざりしてしまうのだけれども、若冲や応挙も南画や禅画を模写したりして研究尽くしたうえでそれぞれの画風を確立した。明治以降の西洋画も日本画も他の国の文化を吸収したうえでそれぞれが自分の作風を確立したものだし。 江戸時代に花開いた日本文化も、侍が戦をしなくても済んで、参勤交代で地方から江戸へ、長崎や京都へ。そういう交流があってこそ。飢饉から内乱の起きたりしたけれども、暮らしが立ち俳句を詠んだり絵をかいたり。そういう余裕が庶民の中にも生まれて、このような豊かな文化が日本の中にも広がっていったのだと思う。戦ばかり続いていたら文化は生まれないはず。 自分は山梨生まれなので交易といわれてもピンとこないが、アワビの煮貝は富士川がもたらしたものだし。養蚕業は横浜の港からヨーロッパに絹を輸出したことで発展したこともあるし。 いろいろ絵を見るようになったら、旅をしたくなった。広重の木曾街道六十三次とかね。いいなぁ。奈良や京都、滋賀にも行きたいしね。 明日は仕事始め。ゆっくり休んで、明日から元気に働けそうだ。
2017年01月04日
コメント(4)
ここ数カ月は、内科もメンタルクリニックも受診日を忘れてしまうことが続いている。 昨日も、夜間外来を予約していて朝には覚えていたのに、急に入院する患者さんがいらして入院先にこれまでの病歴や医療処置の手順書などを準備していたら、仕上がったときにはもう診察を受けることなど忘れて急いで帰宅。 簡単に夕食を済ませていざ薬を飲もうと薬パッグを出してみたら、甲状腺機能低下症の薬が切れていた。そうだ、内科の診察日だ。今朝出勤したときには「お薬をもらわなくっちゃ!」って、急いで外来の受付で「診察日を忘れていてお薬が切れるので、主治医でなくてもお薬を出してほしい」とメモして渡すと、薬だけなら2週間分しか処方箋を出せないと言われて商戦をお願いしていたのに、午前の訪問看護で同行訪問の予定の他の訪問看護ステーションの方が大幅に遅れて、なんとなくせわしく午前を過ごしていたら、すっかり忘れてしまっていた。 夕方事務所に戻ると、「5時半までに来たら処方箋をお渡しできる」という連絡があったという。 「そうだ、お薬だ」ってあわてて外来へ。 そして「そうだ、そうだ。急きょ入院が決まったあの人が、今日の午前に入院したんだ」って思いだして病棟へ。 自宅では、もう明日にもお迎えが着そうって考えているってわかるほど落ち込んでいた方が、ニコニコして穏やかな表情でいらした。 「病院はいいわね、お家にいるときのあれやこれやのわずらわしいことが何もなくって。腕を動かすにはどうしたらよいかとか、お薬をどう飲めば楽に飲めるかとか、自分のことに集中できるのよ」って。 戸建て住宅は、「玄関の開け閉めでちょっとした隙間風が入ってきたり、エアコンがあっても暑くなったり寒くなったり。病院はそういうことがないのよ。毛布一枚で寒くもないし、暑くもないの。お家はダメねぇ、病院みたいに空気が整っていないのよ。始終エアコンを調整もしなくってよいの」って。 最近は、自宅療養が素晴らしいという風潮があって、入院よりも自宅療養の方が素晴らしいって私たち看護職も思いがちだけれども、患者さんの事情によっては一時入院して生活環境を整えてからまた自宅療養に戻るのも必要なんだなぁって考えさせてくれた。 またまた話し込んでしまいそうになったので、「また来ますね」ってご挨拶をして事務所に戻り、今日中にメンタルクリニックを受診しないと年内は診察日がもうないので、こちらもお薬がなくなってしまうので自転車で GO! ちょうど夕方の診察の最後が私で受付後にすぐ呼ばれた。 「お薬は足りていたの?」って先生。 「まぁ、何とか」と私はモゴモゴ。 「アッ、ちゃんと真面目に薬を飲んでいないな?!」って笑いながら先生。 「携帯当番があったりすると眠剤は飲めないので、そこそこ飲んでいましたよ」って応えると、「そう?」って先生。 数年前までは、2週間ごとにきっちり受診して、頭が痛いだの、肩がこるとこか、集中力がないとかという自分の体調の不全感を訴えていたばかりの私だったので、先生も「真面目に薬を飲め」などということは一度もなかった。 4週間に一回の受診になって、眠剤さえあればなんとかなるという過信があって、受診間隔が6週間から8週間に一回程度になってしまっていた診察券に予約月が隔月になったり3カ月に一回になっていたり、滅茶苦茶。 低量でも抗うつ剤を飲んでいたほうが再発を防げるし高齢になってからの脳機能の低下を防げるって、あれほど言われて自分もそれを信じて通い続けていたのに、そういうことも気にならなくなっていた。やっぱ、私は元気になってきたんだってつくづく思う。 「不眠症の人に携帯電話は酷だね、無くなってほしいね」って先生。 「本当ですね、自分も携帯当番がとても重荷ですけど、今みたいに在宅、在宅って言われているとどこかの誰かが24時間の対応をしなければならないんですものね。覚悟をしているんですけど、やっぱり負担です、先生」って応えると「確かにそうだね、あれ、この前話した起きた時にお布団をきれいにたたむことはしてる?」って先生。 「していますよ、目が覚めてお布団をきれいにたたむだけで、なんとなく頭がすっきりして目も覚めてくるんですね。お休みのにも布団をたたむと、一日中お布団の中でだらだら眠らなくっても済んでいますよ。美術館にも行けてますし」って応えると、 「美術館はすごいね、集中力がないと絵は見れないからね。先生も毎朝布団をたたんでいるんだよ、お布団がきれいになっていると夜も気持ちよく眠れるし、少しづつだらしなく過ごすことが嫌になってくるよ」って先生。 世間話をするような感じで今年のメンタルクリニックの受診も終了。ドタキャンばかり続いた一年について受付の方に謝罪すると、なんとニコニコして「次の受診はどうされますか」って。この受付の方は厳しいので、予約をキャンセルするとなんだかばつが悪くって落ち着かないのだけれども、この笑顔で気持ちが楽になった。 あぁ、来年も元気に過ごせそうだ。
2016年12月27日
コメント(2)
昨年から、上野まで40分ほどで出かけられることもあって、東京国立博物館や国立科学博物館通いを時々するようになった。 博物館の休憩室などにはいろいろな美術館や博物館の催し物がパンフレットが置いてあって、奥村土牛、黒田清輝、若冲、カラバッジョ、鈴木基一、円山応挙、ゴッホとゴーギャンなど月に一度くらいユックリ観て。慣れないので一つの展覧会でくたくたに疲れ切って。 一回見てもなんかよく分からなくって、時々休憩してまた会場を見て回ったり、順路に従わずに気に入った作品をじっくり見たり。 美術品って、現代でもそういう面があるとは思うが、神社仏閣や皇室、貴族、武士など権力者が愛好したもので庶民が手にできたのは、江戸時代の版画位からか。 一方、そういう豪華絢爛たるものを作る人や愛でる人がいるのに、其の日のコメにも困るような人が古からあまたといた。現代でも、複製のはがきを買えるくらいのことはできるだろうが、本物を自分のものにできる人はごくわずかだと思う。 美術を鑑賞するたびに、なんとなくそういう後ろめたさみたいなものがある。 しかし、日本画のその美しさを見ると、やはり純粋に絵師や彫刻家がどんな思いで自然(人間を含む)、その見るという行為から発生してその美を表現していくという行為に崇高さを感じるのもまた事実で。 京都の八百屋の倅が40代くらいで家督を兄弟に託して禅にも帰依して絵を描き続けるという人生。若冲の事なのだが、とにかく圧倒されて「物を観る力」の凄さに驚嘆した。 絵を見るようになって、物の見方が変わってきた自分がいることも事実で。 鈴木基一もすごく、そして酒井抱一、円山応挙。 広重の版画や北斎の版画。 今年の前半は、日本人はなぜ死を恐れ死を逃れようとして、死を認められず、老衰により最期を迎えることを受け止められないのか、という問いが私の中で渦巻いていたが、東京国立博物館での「禅-心を形」にをみて、日本人の暮らしに「禅」が現在も息づいていることを知った。 たまたま「禅」を見る前に、義兄が72歳で心筋梗塞で急逝し菩提寺が臨済宗の恵林寺であったこともあり、「臨済宗」を知る契機になった。 自然に感謝しながら食べ物や飲み物をありがたくいただく、とか、10きいて10を知るのではなく、一をきいて銃を知るなど、幼いころから祖母や両親など大人に言われていたことが、仏教の教えにもあると。 人間はおぎゃーと生まれてから仏になるための修業が始まるという考え方は、何事にも損得を考えずに取り組むとか、日々の暮らしの中で息づいてきたものなのだろう。 現代にそういう考え方が生きているかというと、人それぞれだろうが、全く0になっているわけでもないはずだし、実家は曹洞宗だけれど、禅的なものがまだ家の教えに生きていた時代に育てられた。 日本画の絵師たちも何らかの形で仏教とは縁があり、日本文化も仏教に強い影響を受けてきたものなのだ。 洋画はギリシア神話やキリスト教そのものであり、そのキリスト教も不況が進む中で様々な国の土着の文化やその地域性(風土)に影響を受けている。そんな風に考えると、どの国がすぐれていて別の国が劣っているという優劣で地域やそこに住む人を評価するのは間違っているのではないか。 日本にいる中でも、古今東西の文化に触れることができ、そのことでまた自分を見つめなおすこともできる。 美術館や博物館に通って色々なものに触れることで、自分がこれまで思い込んでいたものが少しずつ別の形に変容しようとしている。 小学生高学年になったら、我が家では父から英語を教わるのだが、物覚えの悪い私は毎度毎度叱られてばかりでその時間が苦痛でしかなかったが「多国語を知らざる者は自国語を知らず」という教えだけは妙に覚えていて、日本語を英語に訳したりするとかえって理解しやすいこともあってなるほどと納得したこともあった。文化もきっとそうで、他行の文化を学びことをすれば、自国の文化を必要以上に自慢したり他国を否定することもなくなるのではないだろうか。
2016年12月20日
コメント(4)
今まで年金機構からはがきが届いていても、そうそう丁寧に見たことがなかった。 定年まであと3年。年金だけで暮らせるかどうかが自分にとって大事な情報であることを自覚し始め、昨日きたはがきを開封して一か月どのくらい年金が支給されるか計算してみた。おおよそ月額15万円ほどの年金から、国民健康保険料、所得税、住民税、介護保険料を支払い、さらに光熱費に上下水道料と家賃。食費、雑貨費、医療費。 ざっと計算しただけでも、食費に使えるのは2万円くらい。被服費とか家電の買い替えなどを行おうとするなら相当計画的に、しかも節約を重ねなければそういったものにお金を使うことはできそうもない。 年金だけで暮らそうとするには、本当の意味で科学的なものの見方が重要になる。 今更ながらだが、今の健康状態がこれから続く保証は何もないし、膝や腰が痛みだしたり、ちょっと躓いて骨折をしたり、内臓の病気になったり、年齢相応の変化がやってこないわけでもない。 食すること、住まうことなどについてなんてこれまで雑に、何の考えも持たずに月日を重ねてきてしまったことだろう。 自分のことながら、愕然としてしまう。 必要十分というより、必要最低限という考え方。知恵と知識で乗り越える暮らし。必要最小限で暮らすためには健康でいることが大前提。 本当は、定年を迎えるまでというより、今の自分の年になるまでにそういう暮らし方を身につけておくべきだし、高齢になればなるほど健康でいるためには丁寧に無理をせずに暮らさなければならない。 なのに、なのにそんな当たり前のことにやっと気が付いたというわけ。 足腰が丈夫なうちに、物を整理し不要なものを処分して、調理や掃除など暮らしていくために技術を身につけて。 これまでもそうだったけど、これからの日本で暮らすために「自助、自立」が強制されなくても、ごく当たり前になってしまいそう。電気、ガス、水道が止めらるということが自分に暮らしに忍び寄ってくる日も。近い将来の自分の経済力がこんなにも頼りないものとは、ね。 80代や90代の方の「年をとることがこんなにもつらいものとは」、「元気なうちに施設入所をしたい」とか、そういう大先輩たちのつぶやきが非常に身近に感じられる。 シミや皺をなくすとか、そういうCMが全く心に響かなくないというよりむしろ不快。 「老後の準備」が差し迫ってきたということにやっと気が付き始めた今日この頃。
2016年07月27日
コメント(9)
昨日、神奈川オルタナティブ協議会主催の「高齢者医療と介護の今後を考える3ー精神薬の使用を目指す特養から学ぼう!-」という学習会に参加した。午後1時から5時までの4時間は、衝撃の4時間だった。 これまでも、ずっとずっと「こんな看護師でいいのか」という自問を繰り返してきた私はいつもいつも現場で出会う患者さんの姿を目の当たりにして、自分の力不足を自覚してとにもかくにもその都度その都度学んできた。 「認知症」に対しても自分の力は全く足りない。たとえ暴言、暴力を受けたとしても、その方を尊重してケアをするためには自分がどのように変わればよいのか。挨拶をするところからどのような接し方をすればよいのか、私の存在を認めていただけないときにはどう対応してその方が私を認識してくれるまで待つかなどなど、自分自身を変えなければならないことは山ほど。 つい最近NHKスペシャルで「介護殺人」について取り上げられていた。たまたま私が看護師としてかかわってきたご家族からはまだそのようなことは起こらないでいるけれど、それは全くの偶然に過ぎない。超高齢者社会になり、高齢者の二人に一人は認知症との報道もある。 医療の現場では、高齢で入院される方が多く、自宅から病院という生活環境の変化もあり認知症症状が顕在化したり、一時的に精神症状が認められることもある。残念ながら、医療現場では一人一人の患者さんにじっくり対応する余裕がない。そこで、夜間の「不穏」を避けるために向精神薬で一時的に鎮静せざることもしばしば。そうしなければ夜間に40人、50人の患者さんを看護師が二人ないし三人で看なければならない夜勤業務はできない。 つまり、看護体制を理由としてやむなく鎮静を図らなければならない。向精神薬を使うことに対して医師も看護師もそのことが患者さんの身体能力を低下することを十分承知していてもさえ、そうしなければ医療を継続できないという現状があるのだ。肺炎の治療をするための抗生剤の点滴のために、四肢を抑制したり非人間的なことをせざるを得ない。点滴をしない代わりに抗生剤の内服をして自宅で治療をするという選択もあるが、誤嚥性肺炎を繰り返して抗生剤の内服治療を繰り返せば今度は耐性菌が発生してしまうということも起こる。 医療の現場は矛盾に満ちている。しかし医療に携わっている限り、その矛盾に抗しながら少しでもベターの方法を模索しながら医療を行わなければ患者さんを救うこともできない。その苦しさに耐えながら現場で働いている医師や看護師も多いと思う。 在宅で介護(看護)をされているご家族にとって、ご自分の大切な肉親であっても夜間に眠らずに独り言を大声で繰り返したり、トイレの場所が分からなくなって居間で排泄したり、失禁を繰り返したりすることが続けば、「何とかしてほしい」と医師に訴える。やむなくご家族の介護負担を減らすために、比較的副作用が少ないと言われている入眠導入剤や向精神薬を処方する。高齢の方は腎臓の機能が異常値でなくても成人期に比べれば低下しているので、副作用が予想以上に出現して意欲低下や嚥下障害などが起こることもある。 だからと言って、向精神薬を使わない病院は先ほどの記述のように医療機関はその対応ができないし、精神薬を使わない特養も数少ないうえに、そもそも特養施設にすぐ入居できない。 講演をされた特養の施設長も、精神薬を使わないことを理解する医師を探すにに大変苦労されたという。介護士の方々の反対も強く、看護師も精神薬を使わないことに対して問題意識を共有されなかったという。向精神薬を注意深く減量したとしても、一時的に意欲低下や食欲低下が起こるが最終的にすべての向精神薬を中止してから、認知症症状や鬱症状もなくなり暮らすことができているという。 残念ながら、在宅でも入院施設や入所施設でも向精神薬は使われている。酷い例では、精神科と心療内科を受診して何種類もの向精神薬を服用してすべての薬を中止したら、一年ほど時間はかかったが食事ができるようになった、この方は私共のステーションを利用されている方なのだが。 自分は昨日の4時間で知った事実に深い衝撃を受けた。一つには、認知症の周辺症状にたいして、看護師として一人一人の患者さんの個別性に応じた対応ができないこと。それゆえ、その方を看ていらっしゃるご家族の相談に的確にこたえられないこと。二つ目は、様々な事情を抱えて在宅で介護をされているご家族の困難は分かっていても、一時的に非難してその方が向精神薬を使わないで症状を安定して再び自宅に戻るようなことができる施設がほとんどないということ。 そして、精神科医でも心療内科の医師でも、向精神薬について使用を最小限にするというスタンスがないということ。 薬に依存しないためには、患者自身が食事、睡眠、休養、生活環境の整備などセルフケアが不可欠。即時的に医療では対応しきれないことが山ほど。何もかもをいっぺんに変えていくことが難しいことは承知しているけれども、でもどこから手を付けていけばよいのか。 昨日、学習会が終わってからおいしいものを食べたりして見たけれど、私のため息は止まらない。
2016年07月18日
コメント(4)
小学生や中学生の時日本史や世界史を習ったのだけれども、時間間隔がないので百年前のことでも想像できないような昔々のことに思えて、自分の生活とその歴史的出来事がどう関係しているかなんてさっぱり理解できなかった。明治維新も関東大震災も、テストのために文字と数字を覚えてみたけれど、なんだか全く違う世界の出来事のように感じていた。 ただ第二次世界大戦は、敗戦が昭和20年で祖母や叔父や叔母、両親から食糧難がどれほどひどかったか、物資不足で物がない暮らしはどんなものだったかをきくことがあったので、敗戦後の歴史については比較的身近に感じられた。 それがアラカンになって、60年と40年をたすと100年になるので、100年という時間の単位がどうな時間の積み重ねを多少は受け止められるようになった。 そういう今、日本史の年表をみると明治維新は1868年なので、自分が生まれる100年前は武士が髷を結って刀をもって街を闊歩していたのだと思うと近世から現代への歴史の流れの速さが感じられる。刀で人殺しをすることで権力争いをしていた時代がこんなにも身近にあったのだと考えると、敗戦国として「西洋思想」として生まれた人権とか国民主権という考え方を、占領軍のアメリカの強権で戦争中の教科書を黒塗りして、新しい考え方を生徒に教えようとした教員が心の底からその考え方を生徒に教えることができたのだろうかと思う。つい、昨日まではそういう考え方を口にするだけで売国奴とか罵られてしまっていたのに。 日本人に限らず、強力な武力に脅されながらも新しい思想を学ぶためにはどういう姿勢が必要なんだろうかと思う。 戦後の日本の為政者も、一部のかたは本心から、戦前の非人間的な扱いから「民主主義」「国民主権」「平和主義」『人権尊重』を受けれたものもいたのかもしれないけれど、それはわずかではなかったのか。だからこそ、被爆国でありながら原発を受け入れ、自衛隊を創設し、安保条約も受け入れ、沖縄をはじめ占領国の米軍の基地を全国に残した。 人は何が正しく何が間違っているかは、やはり歴史と科学を学ぶしかないのだと思う。 今回の参院選でも、「憲法改正」が争点とされていたが、「憲法」が権力の暴走を許さないために必要なものだということをどれだけの国民が受け止めていたのだろうか。 SONE某氏のように「身体障碍児」の子供は殺した方が世のためになるという暴論を世に問うてしまう輩がまだこの日本に五萬といるし、国のために血を流さない国民は牢に入れたほうがいいとか、こういうことを平気で口走ってしまう人が政権を担う与党の中に数え切れないほどいる。 世の中にひどいことが続くとよく『戦後教育』が悪かったからという人がいる。敗戦に至った経緯や、敗戦を招くことになった根拠となる思想がどうだったというような検討をせず、一網打尽にただ教育のせいと言い切ることはどうなのかと思う。その論を適用すれば、あの悪夢のような原爆投下や米軍の沖縄上陸だって皆明治維新以後の教育のせいだと思えるはずだが、そのことは棚上げしている。 目の前のことしか興味を抱くだけでは、やはり真実には近づけないのだと思う。 アラカンになって、少しだけれど歴史というものに興味を持つようになった。
2016年07月11日
コメント(0)
今日は一か月ぶりに国立東京博物館へ。 振り返ってみればここ一カ月はお出かけはほとんどしていなかった。休むのも仕事のうちの一つだろうけど。梅雨明け前の今の時期は大好きな季節の一つ。風に吹かれながらのんびり過ごすのもよいけど、新緑の緑をの中でのびのびしたいもんだ。 東博で一番見たかったとのは、「洛中洛外図屏風舟木版」の特別VTR上映。 東洋館地下一階では東博と凸版によるミュージアムシアターがある。大画面で洛中洛外図が拡大縮小自由自在で見たいところがどのように描かれているかが手に取るように分かる。 前期は、4/20~5/29。京散策 四条瓦から方広寺編で5月にみてすっかり岩佐又兵衛の生き生きとした表現に魅了されてしまった。しかもVTRでの講演終了後には10分間ほど希望者は実際にアイパッドを利用して画面を移動できる 大坂冬の陣の開戦前夜の京都の雰囲気はなんだか自由の様子で生き生きとしている。屏風にかから多人物の像は約500名とか。 しかも京都の凄いのは、今でさえその町が生きていること。 後期は、京散策 寺社巡りと二条城編。祭り在り、買い物あり、お白州も。多彩な京都の生活場面。さすが京都の奥行の深さ。20分ほどの上映時間があっという間の終わり。7mm大の武士の顔をアップすると生き生きとした表情。身分により服装も装飾も髪型もみな違う。京都人好みのふっくらとしたお顔立ちだけど、京都に暮らす様々な人たちがそれぞれ分にあった暮らしぶり。その町の様子を風俗を写し撮り描き切っている。 岩佐又兵衛、凄すぎる。若冲の凄さにはビックリ仰天したけれど、岩佐又兵衛にも魂げた。日本画の世界はすごいものがあるものですね。 もう一つは平成館のラウンジで開かれたファミリーコンサート。東京クラリネットクワイヤーという社会人のクラリネット演奏団体。6種のクラリネットの編成で、41名の出演者。 第一部、第二部とあり、無料コンサートでもあり、開園時間の10分間前の会場に活き久しぶりの演奏会。暖かい優しいクラリネットの音色に加え、コントラアルトクラリネット、コントラバスクラリネット、バスクラリネットなど初めて見る楽器が加わり還元楽曲みたいな重厚な演奏。 曲時代は、親しみやすいようにサンサーンス、ドビュシー、ヨハンシュトラウスなどの曲で、訊いたこともある曲で擦っ会リラックスできた。クラリネット・オーケストラなんてあるんですね。木管の柔らかい穏やかな伸びやかな音に時折バスやソプラノが響く。 フルオーケストラでなく、こういったオーケストラの演奏会をもっともっと聴いてみたい。 東博もやるもんだね、博物館に行くことがもっともっと楽しめるような企画をこれからもどんどん育てていっていただきたいと思いました。 なお、東博では、「熊本城復興支援特別支援 バーチャルリアリティー 熊本城」を6/22~7/10まで、17:00 18:00 19:00 の夜間三回おこない、500円のチケットの収入はすべて熊本城の復興に使われるそうです。ぜひ皆様、お時間の都合がつくようでしたらご参加くださいませ。チケットは博物館の入り口で購入できます。 上野に近い方は、ぜひご参加ください。参加費は一般620円、大学生 410円です。 先週は三日もお休みがあったのに、まるまる二日寝込んでやっと元気になりました。この元気さがまた続きますように。
2016年06月19日
コメント(4)
昨年の晩秋あたりから、元気になってきたような気がしていたのだけれど、家事をする気に全くなれず。 何とか、ゴミ出しと洗濯だけは行えていた。 うつ病という自分の病気が治ってほしい、薬を飲まなくても生活ができるようになりたい、うつ病という診断は間違いではなかったのか、もう治っているのかもしれない。 拒薬というほどの意志の強いものではないが、調子が良ければちょっと薬を減らしてみたり、仕事が定時に終わらないことをいいことにして中断したり。 それでも、先生とのおつきあいを辞めてしまうほどの根性はなく、一か月とか2週間とか中断しても、やはり相談に行きたいので受診する。 怠薬や拒薬は再発を助長するものだと、分かっているのに、つい自分の都合の良い方に解釈しがち。仕事のために不規則な生活になったから、もう少し休養をとれば調子が戻るかもしれないとか、病状が悪化しているとは思わないでいる。 ひどい鬱の時は、体が鉛のように重く、横になったら寝返りも面倒なくらいで、好みの食べ物も砂を噛むような味気無さ、食欲はないし、トイレに行くのも歯を磨くのも嫌。テレビを見ていても内容が全くつかめないので、ドラマを観る気もしない。新聞もたまり放題だし、まぁ暮らしそのものが成り立たなかった。 仕事だけは、暮らしをするために何とかできていたくらい。 その酷い状態があまりにも印象的過ぎて、良い状態からやや悪化しつつあるという過程を適切に判断できない。 微妙な変化を捉えられるようになれば、調子のよい期間を長くできるようになるのだろうが、自分の心身の状態についての感度が悪いのだろう、なかなかこれが難しい。 振り返ってみれば、昨年の暮れ位から家事が億劫で布団干しとかベランダの掃除とか、鉢物の手入れとかできずじまいだった。外食をすることが多くなって夕食は殆ど作らなくなっていたし、野菜や肉などの買い物をせず、冷蔵庫の掃除もしていなかった。 なーんだ、億劫感があったんだって、今頃。 サインバルタが40mgから60mgになって今日で6日目。今朝は5時半に目が覚めてからすぐさま起きだせて、懸案だったベランダの掃除と鉢の植え替え。昨年のグリーンカーテンで使った鉢の土を出して、一日日に干してからふるいにかけて、新たな土とたい肥を混ぜ合わせて鉢の植え替えと、朝顔をグリーンカーテン仕様にしてみる。 3年前に買った菊が元気にないので、鉢から出してみると根が岩のように張っている。水を上げても元気が戻らないのはもう新しい根が水を吸収する余裕がなかったんだと初めて知った。菊は植え替えるものではないと、近所の花屋さんから教わっていたのだけれど、やむなく植え替え。挿し木にするのは4月頃が適期でもう遅いという。 私も、適切な時期に風通しを良くして、水を吸収できないほど心が詰まり切ってはダメなんだと思う。 まぁ、とにかく少し元気になってきた。軽躁状態ではなく、適度な元気さを自分でつかめられる様になりたいもの。
2016年06月12日
コメント(0)
Wさんは北海道小樽の生まれで、女学校を卒業して一時家業を手伝いってから結婚し、ご主人の転勤に伴い主に東日本を転々としていたという。今まで住んだ土地で一番よかったのはどこかと尋ねると、「浜松かな」と。暖かくて、海の幸も山の幸も豊富でそこに住む方が人情味があって、「良かったわねぇ」と。 ご主人が退職してからは、娘さんたちが住む板橋のマンションに引っ越してきて夫を見送り、ここ5年間ばかり主にベッドで過ごす時間が長くなってきた。 訪問介護(介護士)を一日、朝、12時、15時、17時、21時と利用して一人暮らしをされている。訪問看護はスキンケアや排便コントロール、呼吸器リハビリで週2回訪問している。介護士さんたちと非常に仲良し。若い男性の担当の時には、「イケメンにお世話をしてもらえるなんて幸せね」とか、50代前後の女性の介護士さんには、「ご主人は元気?」などとその方その方に応じて楽しそうに会話をしている。 一人では寝返りが十分できないが、介護士さんの訪問の度に車いすに座ったりポータブルトイレで排泄をしたり、一日5回は座る機会がある。神経筋疾患特有の筋力低下があるものの椅子に座ることはできており一見目立った拘縮はない。 もともとの疾病からくる夜間の呼吸抑制を度々起こすようになって、朝の介護士さんが訪問した時に意識レベルが低下していつもの会話が全くできない状態だったので、家族と主治医と相談して救急車で搬送されそのまま入院となった。一時人工呼吸器を使って、中心静脈栄養で栄養管理をうけていたが、低流量の酸素吸入で過ごせるようになって自宅に退院されてきた。 本人は酸素吸入もしたくなく、褥瘡予防のためのエアマットも外してくれと要求してきた。「床ずれができてしまうと痛くて辛くなってしまうので何とか使い続けることてほしい。皮膚が丈夫になったらエアマットを外すので」と約束してエアマットを使ってくれることになった。 呼吸筋の力が弱くなり、それと同時に胸郭の動きが硬くなって、呼吸数が一分間に30回前後の頻呼吸。血圧や脈拍は正常範囲で、食事量は少ないながらご本人が一番好きなウニや中トロ、こはだなどの握り寿司は一人前をペロリと召し上がることも度々。 5月下旬から意識レベルが低下し、頻呼吸やチアノーゼがあったり体調が崩れてきた。主治医は入院治療を勧めてくれたが、「入院は絶対いや」と話されご家族も「本人の言うとおりにしてあげたい」と自宅で過ごすことが続いた。日曜日の朝、「朝から返事をしない、呼吸も浅くて速い、先生に酸素量を上げてもいいと言われたけどいくつまで増やしていいかわからない」と緊急連絡用の携帯電話に娘さんから連絡が入った。 急いで訪問すると、ぼんやりとした様子で顔色も唇の色も悪い。呼吸数も35回前後で浅い呼吸。酸素飽和度は50%前後(正常値は90%以上)で、酸素流量を0.5l→0.75ℓ/mと上げても変化なく、1.0ℓ/mに増やして、できるだけ呼吸をしやすくするように姿勢を整えて20分ほど過ぎても、酸素飽和度は70~80%で正常値まで上昇しない。 Wさんはずっと入院はしたくないと言っており、心不全や呼吸不全がある状態で救急車で入院したとしても人工呼吸器が装着され、中心静脈栄養で栄養管理を、心不全の治療のために膀胱留置カテーテルが挿入されて、トイレで排泄したり家族と話をしたり経口摂取を普段通りする機会も少なくなってしまうことが予想され、ご本人が望まない治療を受けるために入院することがどうかと考えた。娘さんに現在の状態と、入院した場合どんな治療を受けることになるのか、その治療は本人が望むことなのかなどのお話をして、娘さん自身の考えを確認する。 Wさんのご主人は、最期を病院で迎えご家族から見ると大変つらい様子であり、「母親には父親のような思いをさせたくない」というご意見であった。「ただ心配していることは、万一(息をひきとること)のときすぐにお医者さんが来てくれないときはどうしたらよいか気がかり」と。 自宅で最期を迎えた場合、特に深夜などは医師がすぐ訪問することが難しい時もあるので、明け方になるまでそのままの状態で医師を待つことは在宅療養の場合は多いことを伝えると、少し安心された。 娘さんも息子さんも最期を自宅で過ごすことを覚悟しており、心づもりもできているとのことで、早速その晩から夜娘さんや息子さんが交代でお泊りすることになった。主治医にも、自宅で最期を迎えることをご家族が了解していることを伝え、「入院を嫌がっている人に意識がない状態で救急車で入院させることもできなですよね。万が一の時にはすぐ行けない場合もあるけどまず一方を(主治医の)携帯に連絡をしてほしい」ということになった。 ケアマネージャーさんや介護士さんたちは、状態が悪化したら救急車で病院にいき、治療を受けてまた自宅に戻ってきてほしいと考えていたようだったが、今後入院治療を受ける場合は人工呼吸器など本人が望まない治療方法にならざるを得ないことを伝えると、「そう・・・・」と言葉に詰まっていた。 その日から一週間、少し元気があるときにはお寿司を食べたり、仲良しの介護士さんたちと笑いあったりして過ごされた。 最後はスーッと静かに呼吸が止まり、娘さんが見守る中で旅立って逝った。 Wさんは穏やかで快活、それとなく心配りをしてくださる方だった。 10年以上の闘病生活、本当にお疲れさまでした。ご冥福をお祈り申し上げます。 合掌。
2016年06月12日
コメント(6)
ここ数カ月活気があって外出できるときと、眠剤を服用してから1時間たっても眠れず、また眠剤を飲んでもやはり眠れない。明け方になって小一時間ばかり眠れてもまだまだ眠り。眠さを感ずる体はすごく気持ちよいのに起きようという気持ちはない。リラックスして気持ちが良すぎるので起きない。 仕事のある日は、強制的に朝日を浴びて鉢の花に水をやり、ごみを出していると脳がシャキッと。お休みの日は無理に起きなくてもよいので、もう少しだけと思っているうちに昼の11時になり、もうちょっとと横になっているともう夕方。横になっていると体の気持ちよさは続いているので、そのうちに夕方からの番組を見たり、映画を見たりしているうちに夜になる。 なんとなくダラダラしているうちが気持ちよくて、一日が終わり二日目。涼しい風とさわやかな空気。お出かけする気力はなくなって、だらだらテレビや映画が終わるうちに二日目の休日が終わる。 仕事以外のお出かけが億劫になってきて、ここ2週ほどはすっかり休日のお出かけはなし。 睡眠のリズムが不安定で、仕事で夜間呼ばれたりするとまとまった睡眠がとれないのだが、一日くらいは我慢できて仕事位はするのだが、そのあとの体力と気力の低下は半端ない。 眠気が副作用になる薬を一錠ずつ飲んでいて眠気がつよくなるので、半錠にしてみたが眠気はある、頑張って出勤しても朝から眠気でぼんやりしていたり、二日休んで服用しても症状は変わらない。眠気が強くなるのはレキサプロ副作用と思い込んでいたが、睡眠が不規則なったり出かける意欲がわかないことを話したら、先生「副作用より鬱の症状ではないでしょうかね。」と。 「先生、アラカンになっても鬱症状はそうそうよくならないんですか。このまま年をとって枯れていっても私のうつはどうなるのでしょうか。」と聞いてみた。 先生はすまなそうな表情をしながら「長く患っていますからね、いつまでに症状が軽くなると予測するのは難しいね。」とひとこと。 「先生、抗うつ薬には転倒リスクが高るなるものが多いと聞いていますが、70代、80代になってからも薬物治療が必要になりますか。」 「トリプタノールとは違って新薬の副作用は非常に少ないけどね。」 「今回はうつの症状の悪化と考えて、サインバルタを60mgにして様子を見ていこう。多分、元気になるんじゃないかな。ただ副作用があったら、尿閉位だと思うけど、2カプセルにしてみてね。3カプセルを服用すると2週間くらいで元気になってくると思うよ」と。 やっぱ、自分のことって不可解な分野ですね。内服薬の副作用か、鬱症状がの判断もできないんだもの。 自己は一番、不可思議な存在なのかも、ですね。 また数週間この内服を飲んでどんなになっていくか、興味があります。
2016年06月07日
コメント(2)
全1354件 (1354件中 1-50件目)