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海堂尊 0
月村了衛 0
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キリストはいつも身近に 氏家富緒 私は、ブッディストであり、仏教を深く研究しているし、また日本人として、神道の勉強も続けている。 そのような宗教の研究の中で、キリスト教にも触れているのだが、この宗教はなかなか難しくて理解できない。 それはともかく、 「霊」は目に見えず、重さもなく、時空を超越した存在であります。 「霊」は父なる神の本質であり、それを意のまゝに操ることができるのは、神のみであります。 神は霊(=聖霊)を通して人間に働きかけて現実に力を及ぼし、様々な歴史を作って来ました。 霊にはこのように力がありますが、一番パワーがあるのは、勿論神の霊即ち聖霊であります。 次に力があるのがサタンの霊即ち悪霊であります。 サタンは元来ルシファーという名の天使長でありましたが、神の怒りに触れて下界に墜とされたと言われております。 その悪霊は変幻自在で、創世記第三章1~6節では神の留守を見計って、蛇となってエデンの東の楽園に忍び込み、人類の祖アダムと妻エバに「禁断の木の実」を食べさせています。 このように、悪霊の力は強く人間の霊に働きかけ、安々と悪の道へと誘惑します。 人間の霊は、霊魂と言われ、死後も肉体から遊離して存在し続けますので、動、植物を生かしている「生命霊」と異なり、「自由霊」と言われています。 悪霊より力が弱い爲に、悪霊のさまざまな誘惑には陥り易く、聖霊の力に頼る以外に助かる方法がありません。 以上、「霊」の概要を述べさせて戴きました。というように、キリスト教は、(聖)霊の宗教なのである。 神の実態は霊であり、神は聖霊であるイエスを人間界に遣わした。 イエスは旧約聖書に書かれている予言通りに、肉的姿にてこの世に送り込まれました。 人類は、その祖アダムによる原罪、ご先祖様から受け継がれて来ている罪なる性質、善悪の判断が出来るにも拘らず我々が犯す個々の罪、これら三重の罪のもと、飽くなき欲望を追求し、もがき苦しんでいる状態です。 これは、昔も今も変りなく、国家間の対立、部族間の対立、個々人の対立等様々な対立を生じさせております。 神は断じて罪を大目に見たり、罪と妥協したりすることをなさらないお方です。 「それ罪の拂う價は死なり、然れど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠の生命なり」(ロマ書第六章23節)とありますように、罪人は凡て火の池(ゲヘナ)に投げ込まれる運命にあります(ヨハネの黙示録第20章15節ご参照) しかし、慈しみ深い神は、人類救済の最後の方法をお示しになりました。 それは、神の獨子イエスを肉的姿でこの世に送り込まれたことであります。というようにである。 つまり、神もイエスも(聖)霊なのである。 肉体の目では見ることができない。 だから神は肉的姿にしたイエスを遣わした。 そして奇跡を起こさせた。 それらのことが縷縷書かれているのが聖書というわけだ。 ここのところ、つまり、霊的部分がブッディストには難しすぎるわけだ。 そこを超越した人が、クリスチャンになっているということなのだろう。
2021.02.11
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イエスは「ブッダの教え」を知っていた[本/雑誌] (単行本・ムック) / 道明寺龍雲/著 万教帰一とはすべての宗教の教えが同じであるということ。道明寺龍雲 以上は「Q資料・Q1」や 「ディダケー」に対応する仏教の経典であるが、実によく似ている。 これを偶然と言えるであろうか。 そしてブッダの教えを知る者にとってイエスの教えは真新しいものではない。 イエスの教えは既にブッダが2500年前に語り尽くしているのである。 少なくともキリスト教と仏教が同じであるということを文献が証明している。 しかしその儀式やら難しい教義やら、更には言葉の違いから、同じ教えだという結論に導かれることに気づく人はいない。 ただ真理は真理だから、その教えが正しいのであれば当然同じものになるという論理は誤りだろうか。
2017.01.23
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【中古】 キリスト教の嘘と真実 救世主と呼ばれた男の素顔を暴く!! / 世界宗教研究会 / 笠倉出版社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】 復活に関し果たしてイエスは本当に生きていたのかどうか というのは議論の多いところ、実は処刑されたイエスは影武者だったとか、イエスが双子だったとかいう説が多い。 特に双子説では死の直前に「兄よ兄よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と読み取ることができる言葉だという。 そうなるとなおさら双子説がいかにも正しいという風な感じになる。 それから影武者というよりは、ユダではなかったかということを谷口雅春先生がおっしゃっている。 これは、「耶蘇伝」という戯曲で表されているところである。 私たちは復活という事に関し、一旦死んだ人間がもう一度蘇ることはないという先入観念で議論している訳で、実際どのような場合復活できるのかということを考えると、1つは精神論まで及んででしまう。 それらしいのは、残された弟子たちがイエス・キリストの教えを後代まで残すためにその精神=霊(だから精霊?)と考えて、そのものが、復活したと彼らの間で語られ、その後現在に至るという風なことではなかろうか。 また本当に神がその時奇跡を起こし、イエス・キリストを復活させたのかもしれない。 それは分からない。 ただキリスト教における復活は一つの大きなポイントである。世界宗教研究会 実は処刑されたイエスは影武者だったという説がある。 イエス=双子であり双子の弟が殺されたのではないかというのだ。 イエスが十字架にかけられた時「エロイエロイレマサバクタニ」と叫んだとマタイによる福音書には記されている。 このエロいという言葉はアラム語でより上にあるという意味で一般的には神をさしている。 しかしより上にあるということは兄と解釈することもできる。 つまりイエスは死の直前「兄よ、兄よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」という兄への恨みを込めた言葉とも受け取ることができる。
2017.01.22
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【中古】 聖書の中の殺人 人間の悪意の研究 /白取春彦(著者) 【中古】afb 自らの卑小さを感じるということは宗教にとって必要なことである。 この事を親鸞聖人は悪人と言っているのではなかろうか。 そのことに気づき、阿弥陀仏はそのようなものを救済する仏であるということを感じ取った親鸞聖人は、自分こそ悪人中の悪人であり、だからこそ私をこの親鸞をいやその親鸞のみを救出して下さるのだと言う悟りに至ったのである。 同じようなことが 聖書にも書かれているということである。 人は宗教によって救われるのである。白取春彦 ヨブは改めて神の力に圧倒されその計り知れない偉大さに人間の卑小さを痛感し、また自分も被造物であることを思い知らされるばかりであった。 また神との議論を願った自分の高慢さを思い知るのである。 そしてヨブは真に悔い始め、やがて神によって病気が癒される。 財産は以前の2倍になり新たに10人の子供をもうける。 そうしてヨブは自分の人生に満足して息を引き取るのである。
2017.01.15
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ぼくたちが聖書について知りたかったこと 小学館文庫 / 池澤夏樹 イケザワナツキ 【文庫】 ユダは裏切り者ではなく大聖人だということ。池澤夏樹 2001年にこのパピルス写本の復元解読作業が行われて公表され話題になった。 その内容はユダはイエスの特命を受けてお互い承知の上でイエスを裏切ったとするものです。 ユダの裏切りがなかったらキリスト教は成立しなかったというのは確かですから、ユダは弟子たちの中で一番損な役割を負わされてはいるけれども逆に大聖人とも言えます。 キリスト教の歴史を考えると当然様々なことが出てくる。 ユダに関しても当然定説とは違うものが出てきてもおかしくない。 ユダが特命を帯びていたとすると、復活にも一役買っているだろうことは容易に推定できる。 谷口雅春師の耶蘇伝という戯曲では、巧妙な行き違いの結果、亡くなったのはイエス・キリストに扮したユダで、処刑死の3日後首尾良く生きていたイエス・キリストが復活することになっている。 いずれ復活は、キリスト教の肝である。 ユダが噛んでいると見てもおかしくない。
2017.01.14
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キリスト神話 [ トム・ハ-パ- ] 肉体は受肉であり、我々には霊性が伴う。 それゆえ生と死も乗り越えられる。 そのために様々な儀式がある。 それが宗教である。 ということか。トム・ハーパー 神話と儀式とは切っても切れない関係にある為人類の全体的な進化の歴史はこれら古代の神学者等の手によってしかるべく仕組まれ素晴らしいドラマに仕立て上げられた。 この聖なるドラマの内では人々の意識を高め再生に至る象徴的な生と死を繰り返しながら生きていく中で精神の浄化を体験させることが目的とされたのである。 全て副次的神話、寓話、例え話、儀式はこの中心となるドラマを支え補うためにあるいは我々魂あるいは霊の受肉化である人間は神の愛を通じて永遠に至るべきものであるという唯一の真理を表現するようにアレンジされていた。 太陽が西に沈むように人我々もまた受肉を通して死すべき存在に身を落としたのだ。 日々太陽が新たなエネルギーと活力を携えて東から昇るように我々も再び蘇る。 つまりは中心となる救世主あるいは太陽神が体現するように我々人間もいつかまた必ずや理論上或は神話における理想としてだけではなく 最終的なリアリティを回復することになろう。 これこそ希望と力とに満ちた霊性の働きである。 神話は古代の神学者等によって作られたものだという。 聖とか霊とかそういうものは作られたものであるか真理であるかは判断が別れるところだ。 真理であると信ずるものが救われるとは、親鸞聖人もおっしゃっているところである。
2017.01.13
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送料無料/キリスト教の歳時記 知っておきたい教会の文化/八木谷涼子 イースターは 春分の次の満月後の最初の日曜日と決められている。 春分の次の満月後の最初の日曜日の次の満月後の最初の日曜日」がその定義である。 この日が日曜日に来るのはイエスが復活したのが日曜日にあたるためだ。 満月と日曜日が一致した場合はその次の日曜日がイースターとなる。 また、春分の日当日が満月で日曜日ならば次の満月に続く日曜日まで待たねばならない。 なのだそうだ。 復活は日曜日。 本日も日曜日。 基準はまず、春分の日。 満月。 そして、日曜日。 復活がなければキリスト教は成立しない。 それだけにこのイースターはキリスト教にとって最大のイベントということになろうが、日本では普及していない。 それだけキリスト教に疎いと考えられる。
2017.01.08
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送料無料/バチカン近現代史 ローマ教皇たちの「近代」との格闘/松本佐保 バチカン市国の話も日本ではたとえば同国を世界で一番ちいさい国とくくってしまってその意味を掘り進めない。松本佐保 ラテラノ条約締結-バチカン市国成立 1929年2月11日ガスパリ国務長官とムッソリーニとの間でラテラノ条約が調印された この条約によってカトリックはイタリア唯一の国教とされバチカン市国の独立が承認される。 また教会に属する権限と国家に属する権限が規定された。 これによって1870年のイタリアによるローマ占領から続いていた教会と国家の対立は終わることになった。 バチカン市国のほんの一部の歴史でも上記のとおりなのだ。 つまり意味のない世界で一番小さい国ではない。 この一文でも宗教と国家の問題が深く関わっているということがわかるではないか。 ここではイタリアとカトリックの問題ということになる。 事程左様に国際的には宗教が政治に影響を及ぼしているのだ。 だから国際問題の背景にある宗教の問題を報道してほしいのである。 そうしないと日本は益々ガラパゴス化してしまう。
2017.01.07
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ふしぎなキリスト教 [ 橋爪大三郎 ] キリスト教では、ユダについても諸説ある。 ユダが実はキリストから一番信頼されていたて言うのもその一つである。橋爪大三郎 そこでイエスはユダに言う。 「ユダよ。お前は弟子たちの中で一番信頼できる。私を銀貨で売り渡して欲しい。これを頼めるのはお前だけだ」で、ユダはそのように実行したと。 これはペトロが一番の弟子で天国の鍵を預かり、ペテロ以後代々法王の座を受け継いで今に至っているというカトリック協会にしてみると絶対に認められない福音書なんですね。 それでこの翻訳が出たらバチカンがすぐ声明を出し英米圏のメディアでは大きく扱われたけれど日本では1行もニュースにならなかった。 この辺が日本のマスコミの欠点でしょうな。 こういう大事なことを無視してしまう。 と言うよりそもそもキリスト教のことを勉強しなさすぎ。 だから昨今の国際情勢が、キリスト教対イスラム教という宗教戦争だということに気づいていない。 報道とは、当然客観的であるべきだが、その奥には深い見識と知識が必要である。
2017.01.06
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バチカン [ 郷富佐子 ] キリスト教では、聖ペトロも重要な人物である。 ローマ法王は彼の後継者だ。郷富佐子 ローマ法王には数え切れないほどの肩書きがあるが、大きくくくれば宗教と国家の二分野に分けられる。 前者としてはキリストの代理人聖ペトロの後継者だ。 シモン・ペトロはキリストの12人の直弟子の筆頭でガリレア湖畔(イスラエル)の漁師だった。 キリストがペドロの小船に乗って網をおろすように言うと、それまで何も釣れなかったのに大漁となったとされる。 新約聖書のルカによる福音書ではキリストはこの時ペトロに「恐れることはない。今から後あなたは人間をとる漁師になる」と記されている。 ペトロはキリストの死後ローマ帝国の首都へ行き、紀元後60年代にネロ皇帝がキリスト教を迫害する中で殉教した。 彼が復活を確認しているからこそ脈々と今日までキリスト教が続いているのだ。 彼がネロの迫害の中殉教したというのはショッキングなことだ。 それにしても彼は、イエス・キリストの復活として一体何を見たのだろう。 彼のほか多くの人が確認していることなので、科学的に云々などとは申すまい。 ただ、ロマンのあるお話である。
2017.01.05
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イエスの言葉 ケセン語訳 文春新書 / 山浦玄嗣 【新書】 ケセン語とは気仙語のことである。 つまり気仙沼弁で書かれたイエス・キリストの言葉ということになる。 だから真実は変わらない。山浦玄嗣 三陸はるか沖地震から3週間、1995年1月17日午前5時46分阪神淡路大震災が起きました。 その翌日全国に先駆け岩手県医師会は被災地救援に駆けつけました。 あの大津波の2日後泥と瓦礫の中を彷徨って、やっとのことで水のこなかった大船渡市保健介護センターの駐車場にたどり着いた時、3台の大型バスが到着したところでした。 水色の制服に身を固めた何十人もの警官隊が続々降り立って整列し、一糸乱れぬ点呼を始めるのを見ました。 バスの横腹には「大阪府警」とありました。 16年前のお正月の電話がいきなり頭の中で鳴り響きました。 ふいに涙が滲み出しました。 私はその場に立ち尽くし最敬礼をしました。 というようにこの国は、大地震に見舞われ続けている。 超大地震があったからとて、その後ないとの感覚であってはならない。 また、国民は助け合わなければならない。 阪神淡路大震災に岩手県医師会が駆けつけ、東日本大震災に大阪府警が駆けつける。 そういう国なのである。 日本は。
2016.12.27
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イエス・キリストの言葉 福音書のメッセージを読み解く 岩波現代文庫 / 荒井献監修 【文庫】誓いを立てないこと。イエスとノーしかない。これに対して仏教はさまざまな誓願を立てますな。特に阿弥陀様の48誓願はあまりにも有名であり、誓願がなければ私達は救われないということにもなる。対してキリスト教は自分の力ではどうしようもないのだから是々非々で行けというわけだ。この辺が肝なんだろうね。荒井献 「またあなたがたも聞いている通り昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ』と命じられている。 しかし私は言っておく。 一切誓いを立ててはならない。 天にかけて誓ってはならない。 そこは神の玉座である。 地にかけて誓ってはならない。 そこは神の足台である。 エルサレムにかけて誓ってはならない。 そこは大王の都である。 またあなたの頭にかけて誓ってはならない。 髪の毛一本すらあなたは白くも黒くもできないからである。 あなた方は『然り、然り』『否、否』といいなさい。 それ以上のことは悪いものから出るのである」。
2016.12.26
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イエスという経験 [ 大貫隆 ] それはペトロの個人的な幻視であったか。 啓示というものか。 次第に仲間達に共有されたのはなぜか。 啓示とは神が霊を通して与えてくれる認識のことである。 その後パウロは幻視ではなく自分の回心を啓示の出来事として表している。 啓示は神が起こした出来事である。 ここまでをまとめるとこうである。 すなわちイエス・キリストの復活は啓示であった。 現実の出来事ではなく霊的な出来事であった。 そうすると神は我々人間に対しては霊を通してではないと現れないということになるのであろうか。 とすると神に会うために我々は霊的な部分をもっともっと磨かなければならないということになろう。 宗教はまずもって霊である。大貫隆 何度も読み返していたはずの文学作品が、否、他でもない聖書があるときの読書で自分の人生を変えてしまうほどの力を持って迫ってくるのを体験した方も少なくないであろう。 まずペトロに起きて次第に仲間たちに共有されていった体験もそれと同じように考えることができる。 謎の死を遂げたイエスが今や新しい相貌で現れてきたのである。 仮に直接のきっかけがペトロの個人的な幻視であったとしても、旧約聖書の光に照らしての、否、旧約聖書その物の新しい読解としての謎の解明は、優れて解釈学的な内的な意味発見の出来事であったと考えなければならない。 もっとも彼ら自身はそれを「解釈学的」などと人間中心的な表現では呼ばず、神が霊を通して彼らに与えてくれた認識、つまり、「啓示」と呼んだ。 パウロもまたまた前述の使徒行伝での「幻視」報告とは裏腹に自分の回心を啓示の出来事として表している。 それは神が起こしてくれた出来事だったというのである。
2016.12.25
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聖書の読み方/大貫隆【2500円以上送料無料】大貫隆 聖書の前での「新しい自己了解」を求めて焦る必要はない。 神の経験は常に遅れてやってくるからである。 そのためには時が満ちなければならない。 人それぞれの人生においてそれがいつであるかわからない。 それを開かれた態度で待つ用意が大切である。 なぜなら遅れてやってくる真の経験は誰の人生、誰の命にも備えられている普遍的な可能性だからである。 というよりも私たちの命とはそもそもそういう構造になっているからである。 つまり仏教でいうところの悟りが来るのである。 キリスト教ではそれを神経験という。 現代ではサムシンググレートと表現することが多い。 聖書の前で焦る必要はないという言葉はそのまま私たち仏教徒にも当てはまるのではなかろうか。 何も焦ることはないけれども著者の言うように開かれた態度で待つ用意が大切だということだろう。 つまり構えることが必要で、スタンスのないものには多分神経験も悟りもやってこないのではなかろうか。 だから私たちは信仰によって朝の勤行を欠かさなかったりキリスト教でいうところの日曜礼拝を欠かさないようにそういう儀式を行っているのである。 経の読誦、聖書の読解、これらの信仰生活は、神経験を得るために重要な日常なのである。
2016.12.24
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キリスト教の謎 [ 竹下節子 ] キリスト教の7つの大罪は、 傲慢(高慢)、憤怒(激情)、嫉妬(羨望)、怠惰(堕落)、強欲(貪欲)、暴食(大食)、色欲(肉欲)である。 仏教ともシンクロしている部分が多々ある。 これらの欲のうち、食とか性がなければ、本来的に生物としての人間は立ち行かなくなると考えられる。 その他は道徳的な側面がある。 したがって、何もキリスト教が言い始めたものでもない。 太古から確立している倫理というものか。竹下節子 傲慢(高慢)、憤怒(激情)、嫉妬(羨望)、怠惰(堕落)、強欲(貪欲)、暴食(大食)、色欲(肉欲)という7つの大罪は、現代のカトリック教会のカテキズムにおいても聖ヨハネス・カッシアウスや教皇グレゴリウス1世以来伝統的に罪の源とみなされてきた七つの罪源として言及されている。 いつの時代も罪は快楽と結びつけられることが多かった。 傲慢や堕落や貪欲や大食や肉欲と言う5つは快楽を求める欲望が行き過ぎたものだと言えるし、憤怒もある程度は不満のカタルシスを得るという欲求に根ざしていると言えるだろう。 けれども快楽を罪とみなす傾向はギリシャのストア派の禁欲主義の影響であり最も快楽と近い色欲の罪とすることは別にキリスト教が始めたものではない。
2016.12.13
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聖書物語 [ 山形孝夫 ] キリスト教は、人の罪をあげつらう前に自分を顧みよ、と言う。 そのために罪人に反省する機会をあげ、そして自分も反省しなさいと言う。 というように罪に対する教えがそこここにある宗教である。 断罪というのは難しいのに、罪を犯した者に石を投げるのが衆生である。 そこで立ち止まって自分はどうかと省みよというのだ。 人はどうしても自分をさておいてあげつらうが、まず自分がどうか確認しなさいというのがキリスト教のスタンスである。山形孝夫 罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさい。 罪を犯した者を非難するのは簡単です。 皆自分の事は棚に上げて人のことを非難します。 しかし自分は何も罪を犯したことはないと胸を張って言える人はどのくらいいるのでしょう。 妬み、そしり、欲…誰もが思い当たるのではないでしょうか。 人の罪をあげつらう前に自分を顧みてみようとイエスは言います。 ではどうしたらよいのかというと罪人に反省する機会をあげなさい、そして自分も反省しなさいと言うのです。
2016.12.12
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送料無料/パウロ 新装版/八木誠一 パウロによれば、キリストとは神の行為の内容であり、キリストを通して人類救済の業がなされた、とのことである。 だから、キリストは、 神の義を立て人を救い生かすものなのである。 キリストはひとつの権威であり、一部神化しており、神と人間との媒という立ち位置である。 このようなキリスト教の構成に至るまで、結構な時間と人々の支持が必要だった。 その後キリスト教は荘厳な外見を整えていく。 イエス・キリストの復活、その後の伝道、パウロによるしっかりした理論構成により、原始キリスト教は成立したということになろう。八木誠一 神とキリストと聖霊の関係をパウロがどう考えているか、一言しておく必要があるかも知れない。 パウロによれば神は究極の主体でありそれゆえ一切の存在の究極の根底でもある。 これは一切は神に由来すると表現される。 するとキリストはまず神の行為の仲介者なのである。 いっさいはキリストを通してなのである。 キリストを通して人類救済の業がなされたのである。 すなわち内容面から見ればキリストとは神の行為の内容だと言える。 神の義を立て人を救い生かすものである。 神は人を救う働きの主体である。 キリストはその内容なのである
2016.12.11
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ふしぎで意外なキリスト教 [ 岡田明憲 ] キリスト教は、パウロなしでは始まらない。 パウロがいて初めて伝道の道を歩む。 だからローカルでなくグローバルな宗教になったのである。 そのパウロも初めはキリスト教を迫害する側にいたらしい。 ところがある日イエス・キリストの幻影を見て、それから熱烈な伝道師になったのだとか。 興隆する宗教は何らかの縁があって初めて成り立つものなのだと思う。岡田明憲 このパウロは実は生前のイエスには一度も会ったことがない。 いわば没後の弟子である。 もともとは熱心なユダヤ教徒でまたユダヤ人でありながらローマ市民権を持つという恵まれた出自を持つ当時のエリートだった。 最初はキリスト教を迫害する立場にあったが、ある時復活したイエスの幻を見て回心し熱烈なキリスト教徒となった。 そして小アジアやギリシア地方を数度にわたって宣教旅行に出かけ最後は逮捕されたてローマに送られた。 そのままローマで処刑されたという伝説もある。
2016.12.10
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【中古】 「弱い父」ヨセフ キリスト教における父権と父性 講談社選書メチエ/竹下節子【著】 【中古】afb キリスト教には聖痕がある。 奇瑞というものか。 精神が肉体に強烈な働きかけをするものといえると言われている。 竹下節子 フランチェスコはカトリック世界に特有な聖痕を最初に得た人間でもある。 死の2年前 1224年9月14日アルヴェルナ山で祈っているフランチェスコにイエスの姿が現れてその両手両足と脇腹の傷がフランチェスコの両手両足と脇腹に投影された。 それが知られるようになって以来カトリック世界にはイエスの受難図を観想しながら聖痕を受けるという鮮烈で一種官能的な体験をする神秘家が、今日に至るまで絶えなくなった。 フランチェスコは信仰や魂の問題を受肉したイエスの肉体と自分の肉体の交錯という親密な次元で展開したのだ。 天と地を分ける一線を越えたと言ってもいい。 その親密な情熱が民衆にとってイエスを本当に身近なものにした。 14世紀以降イエスの生涯を描く図像は飛躍的に普及した。 信じていくうちにイエス・キリストへの思いがとても強くなるのだろうな。 傷つかなければ信者でないと考えてしまう。 でも、キリストはみんなの代わりに傷ついたのだから、私たちは何も傷つかなくともいいはずだ。 それが宗教なのではないか。
2016.12.09
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【中古】 パウロとペテロ / 小河 陽 / 講談社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】 復活の証人であるペテロはイエスの宣教の業を検証する福音の宣教者として立てられたという。 とすれば、ペテロは重要な人物ということになる。 復活の真実は実はこのペテロが全て握っている。 彼がそんなことはなかったといえば、キリスト教そのものの基礎が瓦解するわけだ。 もしもこのことがペテロのうった大芝居ということになれば、ペテロというのは本当に素晴らしい伝道者だったということになろう。 そして、パウロに引き継がれる。小河陽 結局のところ、我々が確実に知ることのできるのはペテロが最初にイエスが現れたという体験をしたということ。 そしてその体験がペテロ一人でなく次々に多数の弟子たちに共有されて行ったこと。 さらにその顕現には特別の意義が結びついていたことである。 後にも述べるように既に引用した第1コリントの証言の中でパウロが確認しているのは「異邦人の間で神の子を福音として宣べ伝えるために」神の子が自分に啓示された出来事であったということである。 つまり復活の証人はイエスの宣教の業を検証する福音の宣教者として立てられたということである。 ヨハネ福音書も含んで福音書に記される復活顕現物語はいずれもこの点で一致している。
2016.12.08
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【中古】 聖書をひらく / 富岡 幸一郎 / 編書房 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】 霊というものが出てくると、ややこしくなる。 が、復活というものの考え方は、霊なくして語れないということか。富岡幸一郎 死者の復活もこれと同じです。 蒔かれる時は朽ちるものでも朽ちないものに復活し蒔かれるときは卑しいものでも輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも力強いものに復活するのです。 つまり自然の生命の体が蒔かれて霊の体が復活するのです。 自然の生命の体があるのですから霊の体もあるわけです。 最初の人アダムは命のある生き物となったと書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 最初に霊の体があったのではありません。 自然の生命の体があり、次いで霊の体があるのです。 つまり、復活したのは霊ということになる。 霊の存在は、常人にはわからない。 仏教の立場は、無記である。 しかしたとえば、南無阿弥陀仏の称名念仏においては、往生浄土が約束されるのだから、霊はあると考えるべきだろう。 軽々には述べられないが、霊があると考えて生きるのが宗教なのだと思う。
2016.12.07
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【中古】 信じない人のためのイエスと福音書ガイド /中村圭志【著】 【中古】afb 長者窮児の話は法華経ではとても有名だ。 そもそも仏性を持っているのにそれに気づかない衆生に対し仏はあの手この手を使って救世してくださる。 そのことの喩え話である。 つまり私たちは仏性があることに気づかなければならない。 それはとてもありがたいことなのである。中村圭志 法華経の寓話。 これが法華経の長者窮児の譬喩に似ていることはよく知られています。 法華経の場合寓話を語っているのは釈迦の弟子たちです。 家出少年が諸国で苦労し、すっかり老けて祖国に戻ってきます。 父は出世して長者となっています。 息子は父を見かけてもそれと気づきませんが、父の方ではすぐに気づき息子を奉公人として雇入れ少しずつ教化して番頭にまで出世させ最後に財産を相続します。 これは出来の悪い弟子たちが釈迦の教化によって少しずつ蒙が啓け最後に悟りの財産を得ることのメタファーとなっています。 この寓話と似た教えがキリスト教にもあるというのは、この2つの偉大な宗教がどこかで繋がっていることの証左ではなかろうか。
2016.12.06
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聖書の読み方 岩波新書 / 大貫隆 【新書】知識浅薄とはおそろしい。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の神は同じだなどということまでは知っていても、どこがどうちがうかなどということは全く知らないままだった。キリスト教の本を少し読んだだけでその違いが少しはわかってきた気がする。キリスト教はキリストがいて初めて成り立つのである。その大元は、キリストの復活にあるのである。世界中のキリスト教徒はそのことを固く信じて疑わないのである。そこを知らずして国際情勢は語れまい。 大貫隆 こうしてやがて新約聖書の27文書になると、神は世界を救うために独り子イエスをこの世に送り、人間の罪を贖うために十字架上で死に渡し、死後は死人の間から復活させていまはご自分の右に即位させているという見方が思考全体の枠組みとなっていった。 つまり提案1でキリスト教の「基本文法」と呼んだ使徒信条がほぼ形をなすに至ったのである。
2016.11.20
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キリスト神話 [ トム・ハ-パ- ] 使徒パウロの書簡群にイエスの史実が一切ないということで、イエスは実在の人物ではないという考えである。 実在しないとすれば、イエス・キリストとは一体何者なのだろう。 信者はどのように思うのだろう。 でもこの指摘は、もっともだ。 使徒パウロは、なぜイエス・キリストに言及していないのか。 それにしてもよくこんなところに気づくものだな。 それは、クリスチャンだからできることといえよう。 イエス・キリストが実在しようが実在しまいが、いまや地球で最も偉大な宗教になったキリスト教にとってはどうでもいいことだろう。 しかし、第三者的には、実在したとする反論がほしいものだ。トム・ハーパー 新約聖書の中で執筆時期が最も早くその4分の1以上を占めるのは使徒パウロによる書簡群である。 これらの手紙の大きな特徴は事実上歴史上のナザレのイエスという問題に一切触れてはいない点である。 このパウロによる手紙は史実であると擁護する人間を究極的に沈黙させるに足る資料であることは間違いない。 このような資料を前にすれば饒舌なこじつけの解釈は愚か極めて精妙な論法ですら通用しまい。 パウロの手紙という証拠に対しては適切な反論はできないと私は考えている。 もしもイエスが伝えられる通りの生涯を送っており間違いなく歴史的人物であった使徒パウロが、彼らの言う通りの人生を送り執筆したというのであれば、この人が実在したイエスに全く触れなかったとは考えられない。
2016.11.11
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【中古】 日本の信徒の「神学」 /隅谷三喜男(著者) 【中古】afb 神に対する問、呼びかけが重要だという。 その答えが復活なのだそうだ。隅谷三喜男 「神様!私達は神様を見捨ててきました。だが神様、あなたも私達を見捨てたのではないでしょうか。どうか神様、私達を見捨てないでください」と神様との対話を求めることが大切なのではないでしょうか 。 私は甘えもあるかもしれませんが、この神様との対話こそ私たちの信仰にとって決定的な事だと思うのです。 キリストも「神よ。なぜ私をお見捨てになったのですか」と見捨てる神様に対して呼びかけている。 このキリストの呼びかけが私たちの信仰の基本的なところにあるということをきちんと捉えておかなくてはならないと思うのです。 「どうして見捨てられたんですか」という私達の問いに対する神様の答え、これがキリストの復活ということです。 キリストは死からよみがえるということになるわけです。 今、知人の愚痴を聞いていた。 愚痴を言いたいのは私の方でもある。 愚痴を聞きながら様々な会話をして心が明るくなる。 誰かと会話をすることはとても良いことなのだ。 その相手が神ならば、いかなることになるのだろうか。 問、呼びかけは、人間の方からだ。 神から語りかけてくれることはないのだろうか。 私たちは、すがるものがなくなった時、神に呼びかけをする。 この神の部分を阿弥陀様に置き換えると浄土教系となる。 浄土教系では、ここのところが肝で、「南無阿弥陀仏」と呼びかけをし、阿弥陀様はまた「南無阿弥陀仏」とお答えする。 この本を読めば、キリスト教では、復活となるということか。
2016.11.10
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イエスの宗教 [ 八木誠一 ] うむ、なかなか難しい論理だ。 著者はまず自我と自己の区別を述べる。 すなわち、八木誠一 もはや生きているのは私(自我)ではない。 私の中でキリストは生きている。 ここではパウロの中で生きているキリスト(つまりパウロの真の主体)とそれを自覚するパウロの新しい自我が区別されながら統一されている。 私の中で生きているキリストは自我とは区別されているが、自我に憑いていわば自我を乗っ取った自我とは異質的な働きではない 。 そうではなくてそれこそまさしく真の自分である。 換言すればパウロは自分の中でキリストが生きていることを自覚した時に異常な立法熱心(無自覚的我執)から解放されて正常な自我になっていたのである。 従って私の中で生きるキリスト、すなわち、パウロの真の自己のことを単に自己と呼ぼう。とかなり難しい概念だ。 自我とは、今ここにいる、信仰心のない普通の私で、自己とは、キリストを信仰し、キリストになった自分のことだ。 宗教が必要なのは、このように自己が成立するからだ。 キリストは、いかようにも読み替えることができよう。 真理、実相、神、仏。 これらのものは別物ではなく、1つである。 信仰の重要さを訴えている1文だ。
2016.11.09
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神学の思考 [ 佐藤優 ] イエスの物語をミュージカルというのなら、仏教のお経もまた同じということになろうか。 たとえば、法華経は、世尊をデフォルメして織り込まれている。佐藤優 歴史上のイエスとはガリラヤの埃にまみれた道を歩いて飲み食いして神の王国について教えて逮捕されて処刑された歴史研究で解明する実在の人物のことです。 けれどもイエスについて一番有名な話はこの歴史上の人物に何の光も当ててはくれません。 毎年クリスマスでお馴染みの降誕物語にしてもそうです。 マリヤとヨセフと馬槽の幼子イエスを羊飼いや博士や天使の囲んでいる。 あれは作り話というか例えです。 だからくだらないと言うつもりはありません。 ただ文字通りに史実として読むことはできないのです。 あれはミュージカルの序曲みたいなものです。 序曲はミュージカル全体に流れる主題を先取りするでしょう。 マタイ、ルカの制作したイエス物語はそれぞれ違う版だから序曲も違うわけです。 歴史と神話の違いは、脚色されるか否かなんだろうな。 誕生物語は、世尊にもあって、天上天下唯我独尊と生まれたばかりの赤子が歩いて話たとされる。 そういう例え話の裏にある真理を感じ取らなければ、私たちは、宗教を何も信じられないということになりかねない。 宗教に対しては、構えて立つべきものだということを著者は言いたかったのではなかろうか。
2016.11.08
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【中古】 知って役立つキリスト教大研究 新潮OH!文庫/八木谷涼子(著者) 【中古】afb この間ハロウィンで大騒ぎしていたが、キリスト教のなんたるかも知らないでよく騒げるものだなと思う。 クリスマスはイエス・キリストの誕生日だということはよく知られており、なんとなく敬虔なクリスチャンになって、プレゼントをもらう。 実はクリスマスよりも大きなイベントがある。 それは、八木谷涼子 キリスト教最大のイベントは実はクリスマスではなく、このイースター。 十字架にかけられたイエス・キリストが復活したことを記念する日である。 ローマ・カトリック教会などではその46日前の水曜日を灰の水曜日と呼び、この日に始まる 四旬節(レント) の間信者は食事を節制し、華やかなことを謹んでイエスの受難をしのぶ。 結婚式のような祝い事も避ける。 南米やヴェネチアで有名なカーニバルとはこの節制の時期であるレントに入る前に思い切り飲み食いして騒いでおこうというお祭りだ。ということだ。 意味のない行事はないわけで、せめて、ハロウィンがどんな日かわかったうえで騒いでほしいものだ。
2016.11.07
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はじめて読む聖書 [ 田川建三 ] クリスチャンが神を信じないで神を批判するという話だ。 信は現世の鎹。 神がいようがいまいが信により明日にタスキをつなげることができる。 著者のように、「 神は存在しない。神が存在するなぞと思うな。ただ、古代や中世で神を信ぜざるを得なくなった人たちの心は理解しようではないか」などと言われたら、ギョッとするな。 古代や中世でなくとも神は必要だ。 仏教に言う仏も同じ。 信があるからこの世を我慢できる。 来世があるから希望が持てる。 紋切り型で信を否定されたら、希望が持てぬ。 ちょっと考えさせられる著書である。田川健三 国際基督教大学が私をクビにした裏の理由のひとつは私がキリスト教に対してとことん批判的にものを言い続けたからだろうと思います。 こんな奴を聖書学の教師にしておくわけにはいかないということでしょう。 例えば毎週1回学生たちを集めて礼拝が行われるんですが、私も礼拝説教なるものを担当させられる。 そういう時に私も平気で「神は存在しない。神が存在するなぞと思うな。ただ、古代や中世で神を信ぜざるを得なくなった人たちの心は理解しようではないか」と。 「批判的主体の形成」に載せた「存在しない神に祈る」という文は元はその礼拝の場で喋ったものです。 授業なら学生しか聞いていないけれども、礼拝となると同僚の教師達や大学当局の人間も聞きに来ます。 それであれはやはりまずいとなったのでしょう。
2016.11.06
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【中古】【古本】名画と読むイエス・キリストの物語/中野京子/著【芸術 大和書房】 キリスト教についてはざっくりとしかわからなかったところ、数冊の入門本を読んでそれまでとは違う視点で見られるようになった気もする。中野京子 予言された日の夜、イエスは真っ暗な洞窟の棺の中で目を開けた。 全身に巻かれた亜麻布を解き、静かに蓋を開けて立ち上がる。 釘で穿たれた両手両足の穴と死の直後に槍で突かれた右胸の傷跡はそのままだが、鞭で打たれたり、石をぶつけられたり、茨の冠をかぶせられてできた無数の傷跡はもうどこにもなく、健康で艶やかな肌が戻ってきた。 いつしか巨石は天使によって取り除かれており、見張りの兵は眠りこけてイエスの燦然たる輝きにも気づかない。 イエスは墓を離れた。 以上は復活のシーンだ。 科学的にはありえない。 しかしドラマチックと言うことを考えると、一般的な場面だ。 復活についてはこの他、双子説、身代わり説などがある。 谷口雅春先生の戯曲に耶蘇傅というのがあって、これは、みごとにユダが磔獄門に遭う顛末が描かれている。 いずれにしろ、キリスト教の肝は復活である。
2016.11.05
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総図解よくわかる聖書とキリスト教 [ 前島誠 ] 復活についてはほぼ次のような話のようだ。前島誠 女達は逃げ去ったが、その行く手にイエスが立っており「おはよう」と挨拶した。 女たちはイエスの前にひれ伏した。 一方弟子たちはなかなかイエスの復活を理解できなかった。 エマオという村への途上、二人の弟子がイエスの死について語り合っていた時、そこにイエス自身が現れて一緒に歩いていたにも関わらず、彼らはそれがイエスだと気づかない 。 宿につきイエスがパンを裂くのを見てようやく2人は師を認識する。 2人がエルサレムに戻り、他の人達にイエス復活の話をしているところで、またしてもイエスが現れ「あなた方に平和があるように」と言った。 弟子たちはこれを亡霊であると思い込み恐れおののく。 そこでイエスは自分が亡霊ではなく、肉体をもって復活したことを示すために、わざわざ焼き魚を一切れ食べてみせる。 これでようやく弟子たちもイエスの復活を認め、大いに喜んだ。 私でさえなかなか理解できないのだから、弟子たちが理解できないのはむべなるかな。 復活したイエス・キリストは、パンを裂いてみせ、焼き魚を食べてみせた。 これはたった40日間の話だ。 その後のことはよくわからない。 とにかくここが肝だということは、もう誰もがわかるだろう。
2016.10.23
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【中古】 信じない人のためのイエスと福音書ガイド /中村圭志【著】 【中古】afb キリスト教の肝である復活については次のように著されている。すなわち中村圭志 死者の復活 死者が復活しないのなら、キリストの復活は、なかったはずです。 そしてキリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は虚しく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります。 そうだとするとキリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最も惨めなものです。 質的変化 自然の生命体が蒔かれて霊の体が復活するのです。 ラッパがなると死者は復活して朽ちないものとされ私たちは変えられます。 終末意識を持っていたパウロですが、彼はまた死をめぐる究極的な論理にも触れています。 それは死者の復活です。 もちろんここでパウロは死者は復活しないからキリストも復活せず信仰も間違いだと言っているのではありません。 この著述からも分かるとおり死者の復活、キリストの復活については古来から議論されてきたものである。 キリスト教の本を読んでまだ日が浅いからか、これまで復活について明らかにされたものを読んだ覚えはない。 もとよりこのような重要なことを何も知らずして日本人は キリスト教の行事だけを取り入れている。 嗚呼なんということだろう。 日本人は全てが万事宗教についてはこのようなスタンスではなかろうか。 仏教についてもそうだし神道についてもそうである。 日本人に関して言えば先に行事ありきで、葬式は仏教、初詣、七五三、その他めでたい行事には神道、クリスマスはキリスト教で、宗教の切り分けがある。 だからキリスト教の肝である死者の復活、キリストの復活ということはどうでもいいということになる。 私はこのような態度は宗教に対する冒涜ではないかと考える。 少なくともその宗教の肝を知りそしてクリスマスならクリスマスの行事をきちんと 親子に進行していくべきものであると考える。
2016.10.22
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図説地図とあらすじでわかる!聖書 [ 船本弘毅 ] さて、キリスト教の肝である復活。 それは本当にあったのであろうか。 現代科学では解明できないことなのだろうか。 いずれにしてもこれがキリスト教の肝であることに間違いはない。 神の子イエスかが復活して見せたことで神の子であることの証明がなされ 、そして 今日に続く。船本弘毅 安息日が終わるとマグダラのマリアたちはイエスの遺体を清めるための香料を買った。 そうして墓に行くとイエスの墓には白い衣を着た若者が座っていた。 彼は驚く彼女達に「あなた方が探しているイエスは復活してここにはいません。行ってそのことを弟子たちとペドロたちに伝えなさいあなた達はあの方に会えるでしょう」と告げた。 マグダラのマリアは早速使徒たちにイエスの復活を伝える。 しかし彼らは信じない。 遂にイエスは11人の使徒が食事をしている時に現れた。 そして復活を信じなかった不信仰を咎めたのである。 それでもまだ信じがたい人たちの前でイエスは魚を食べてみせたのだった。 その他多くの証拠を持ってその復活を使徒たちに示すのである。 この話にほとんどぶれが認められず、したがってクリスチャンの信仰は強固となる。
2016.10.21
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寅さんとイエス [ 米田彰男 ] そもそも寅さんとイエス・キリストがフウテンで同じなどというところからの入り。 不遜としか思えない。 だからと言って、声高に否定もできない。 ただ、本の題名からは、クリスチャンにとって悪意としかとらえられない。 でもそれ以外の人には、わかりやすい。 そういうスタンスかと思う。米田彰男 「沈黙」(遠藤周作) 遠藤周作の最大の力作に「沈黙」がある。 晩年渋谷のカトリック協会(ドミニコ会本部)のミサで後ろの方にひとり静かに座っておられた姿が思い浮かぶ。 沈黙は今日に至るまで13の言語で翻訳され、多くの人々に読まれた。 問題の箇所はやはり、「踏むがいい」その沈黙を破る声である。 「踏む」がいいの言葉は文中3箇所にみられる。 1度目は司祭ロドリゴが実際に踏む場面であり、あとの2回はロドリゴの追想の中で反芻される。 このように寅さんオンリーの話ではなく、正面切ってキリスト教に向き合っているもので、もっと題名を考えたらよかったのになと思えてならない。
2016.10.20
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日本人とキリスト教の奇妙な関係 角川新書 / 菊地章太 【新書】 信仰の神が違ってもクリスチャンは日本の神社仏閣を礼拝するという。菊地章太 私たちは神社仏閣を訪れる時、そこに祀られている神々や仏像を自分の信仰の対象として礼拝するのではありません。 しかしそこに祀られている神仏を信じている人々に対する尊敬の心を表すために合掌や敬礼をすることもできます。 この回答には現代のカトリック協会の姿勢が端的に表れている。 神仏を信じている人々を尊敬するというのだ。 なるほどそれもありか。 でも、仏教徒である私は仏像を信仰の対象としたことはない。 クリスチャンは、仏教徒が仏像を祀っていると思っているのだろうか。 翻って彼らの言う神とは一体どのようなものなのだろうか。 なかなか高級な研究課題である。
2016.10.19
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【中古】早わかりキリスト教 宮越俊光著 日本実業出版社 キリスト教について日本人は多くを知らないまま、踊らされるようにその行事だけを取り入れて大騒ぎしている。 ユダヤ教の神もキリスト教の神もイスラム教の神も同じだということも知らない。 では、キリスト教の特徴は一体何なのかということ。 それが、復活である。 信者は頑なにそのことを信じている。宮越俊光 死者の復活がなければ、キリストの復活はなかったはずです。 そしてキリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 しかし実際キリストは死者の中から復活し、眠りについた人達の初穂となられました。
2016.10.18
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新約聖書を知っていますか改版 [ 阿刀田高 ] キリスト教の肝は正に復活にあり。 この新約聖書があってキリスト教は成立する。 復活については信者であれなんであれ一番気になるところで、双子説も出ているし、実は死んだのがユダだったというのもある。 それ以前の様々な奇跡から、つまりこれらの奇跡を伏線として、復活は成立したともいえよう。阿刀田高 このロジックにとっては神の存在が絶対に必要なことであり、それがなければ全てが根底から覆されてしまう。 神が実在し自分が神の子であることを証明する方法として(それだけが目的ではなかったろうが)、病人を、癒やしたり、超自然的な技を演じてみたりしたが、それだけではまだ迫力が足りない。 伝聞であったり偶然と思われたりして説得力を欠く。 そんなイエスがある日忽然と得た啓示が十字架にかかり3日後に復活するであった。 預言書にもそんなことが記してある。 それを実現することが神の子の証明であり、それによって一切のロジックが生きて意味を持つ。 先に私が「復活はイエスとその信奉者にとってこの上なく大切なことだった。信教の存亡に関わる重大事であった」と書いたのはこのことである。 イエスは絶対に復活しなければいけなかったのである。 全くそのとおりだと思う。 この復活故にキリスト教は成り立つ。
2016.10.17
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旧約聖書を知っていますか改版 [ 阿刀田高 ] キリスト教は異国の宗教である。 そんなことを言ったら仏教もそうだ。 しかも仏教の経典は漢字だらけ。 その点聖書は、きちんと日本語に訳してある。 そんなつまらない対比より、国際人として、世界に大きな影響を及ぼしているこの宗教をきちんと学ぶべきではなかろうか。阿刀田高 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ。 そこで4つの頭文字をとって並べて「アイヤーヨッ」となる。 この4人より前に有名なアダムとエバ(イブ)の物語がある。 ノアの方舟も浮かんでいる。 4人のすぐ後にモーセが登場する。 やがてダビデとソロモンが威風堂々とやってくる。 これで旧約聖書の主要な部分がおおよそ明らかになる。 だからとりあえず「アイヤーヨッ」 この後にキリストの時代が来て、今の興隆に繋がる。
2016.10.16
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【中古】 イエス巡礼 / 遠藤 周作 / 文藝春秋 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】 私は、この本はキリスト教の入門書に最適だと思う。 遠藤先生は、復活について、遠藤周作 イエスはこの日から彼らの中で深く生き生きと生き始めた。 つまり彼らの心の中で死んだイエスは再生し始めたのだ 。 このイエス再生の意識と共に彼らはイエスは十字架の上で小さく命を捨てたが、その代わり大いなる生命体(神)のところに還ったという信念を獲た。 イエスは神によって新しい生命を獲得したという考え方に到達したのである。 つまりイエスは死滅したのではなく、大いなる生命体の中で生きているという事に弟子たちが考え及んだ時イエスは彼らの心の中で生き生きと生きてきた。 弟子たちはイエスを再発見しその生涯の意味を初めて知りそしてイエスが自分の心の中で生き続けている歓喜を味わったのである。と述べている。 蘇りというよりは、残された弟子たちのイエスに対する思いをもって復活とか再生としているのだ。 それほど弟子たちの思いは強かったのだろう。 奇瑞をどう考えるかは人それぞれだろう。 しかし、イエス・キリストの復活がなければ、今日のキリスト教の興隆はなかったのは違いない。
2016.09.12
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