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空海に秘められた古寺の謎 弘法大師と辿る高野山と真言宗【電子書籍】[ 山折哲雄 ] 本書では、大師は、 「私は生まれながらに備わっている仏性に突き動かされて、心の本源に戻りたいという思いを強く抱くようになりました。 しかし、どの道を進むべきかわからず、岐路に立たされて何度も泣きはらしたものです。 すると、純粋な誠実さが天に通じたのか、この秘門(秘密の法門)に出会うことができたのです。 とはいえ、その秘門の経典を読んでもよく理解できません。 そこで、唐の都へ行ってその秘門を学びたいと願うようになったのです」という理由で留学したとなっている。 そのことが今まで私が読んできた本に書かれていたか否かは定かではない。 ただ、大師に関しては謎が多すぎるので、上記論が正しいか否かも定かではない。 むしろ本書では、覚鑁上人の こうしたなかで、平安時代の末期、仁和寺で密教を学んだ覚鑁が高野山に入り、やがて鳥羽上皇の帰依を受けて山内に大伝法院を建立。 真言密教の諸流派と天台密教との統合、密教と浄土信仰の融合などを試み、力強く真言宗の改革運動に取り組んだ。 長承三年(一一三四)からは覚鑁は大伝法院と金剛峯寺(高野山全体)の座主を兼務するようになり、高野山を東寺の支配から引き離すことに成功する。 だが守旧派の反撥に遭い、高野山は守旧派の金剛峯寺方と、覚鑁系の大伝法院方の二つに分裂する。 改革の挫折をさとった覚鑁は山内の自坊である密厳院に退去して観法にふけったが(千日無言行を修したという)、保延六年(一一四〇)、金剛峯寺方は密厳院の覚鑁を襲撃。 覚鑁は高野山を出て、南西麓の根来(和歌山県岩出市根来)に逃れた。 そして根来寺(円明寺)を創建して一派を立て、康治二年(一一四三)に同地で没している。という記述のほうが心に刺さった。 覚鑁上人は、真言宗の中興の祖なのだが、高野山から追われた形になっている。 追われた形は暴力で、である。 結局、そういう意味で考えれば、真言宗は、古義と新義に大きく分かれることになる。 が、それでは大師が浮かばれないのではないのか。 真言宗で最も大切なのは、大師の教えなのである。 それを引き継いだのが覚鑁上人である。 それが、なぜ古義の人々から否定されたのかが、実はポイントであり、其の研究も私の課題となる。 まあそれにしても、東寺のなんと素晴らしいことか。 私は京都を訪れた際は、必ず東寺に行くことにしている。 食堂の大日如来、不動尊等の立体曼荼羅、講堂の薬師如来像等に圧倒される。 五重塔を見てまた感動する。 古代このような素晴らしい文化があったのだ、ということが素晴らしい。(11/22記)
2024.02.11
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図解 早わかり! 空海と真言宗 即身成仏ーー「迷いのない心」で生きる知恵【電子書籍】[ 小峰彌彦 ] 我が家の菩提は米沢の延徳寺。 新義真言宗である。 新義真言宗は真言宗中興の祖と言われる覚鑁大師によって興された。 が、なんといってもその根本は大師にある。 さて、真言宗の極意であるが、 「宇宙の本質は六大(地・()水(すい)・火・風・空・識の六要素)であり、それらは永遠に結びついて溶け合っている。 宇宙の姿は四種類の曼荼羅で表すことができ、それらは別々なものではなく作用し合っている。 仏様(大日如来)と私たち人間の三密(身・口・意)が不思議な力によって均衡がとれたとき、速やかにさとりの世界が現れる。 この宇宙のあらゆるものが幾重にも重なり合うことを“即身”というのである。 私たちはすべて、あるがままの仏の姿をしてさとりの智恵をそなえている。 また、私たちはすべて、心の主体と作用がそなわっている。 その心の主体と作用には、大日如来の五つの智恵、つまり無限の智恵がある。 その智恵をもってすべてを鏡のように照らすとき、真理に目覚めた仏となる」というもの。 私は終活として、私は何者?の課題に向かっている。 当然道半ばなのだが、なんとか、私は、気付き、サティ、認知、である、というところに落ち着いた。 その先はまだわからない。 しかし本書で、赤ちゃんになれ”というという一文を見たとき、わたしはふと気づいたことがあった。 つまり私は気づき…。 私が赤ちゃんだったとき、何も気づきはなかった。 気づきが明らかに起きたのは、立ったとき、歩いたとき、走ったときである。 その時私が生まれたのだ。 しかるに本書では、赤ちゃんになれ、という。 そしたらまた私というものがなくなる。 すると私とは永久の幻影なのだろうか。 そうなのかもしれない。 この世に生を受けている間、一生懸命生きろという大師のメッセージはそういうことなのかもしれないと私は思った。(11/16記)
2024.02.04
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眠れなくなるほど面白い 図解 般若心経【電子書籍】[ 宮坂宥洪 ] 今更般若心経云々でもあるまい、などと自問自答しつつ、じつはこの般若心経の難解さは計り知れず、今もって理解の途についていない。 それはともかく、まず、その意味を明らかにすると、般若心経の心は、 心情や真髄などではなく、「心咒」を意味します。 「咒」は般若心経の本文にも出てきます。 呪の異体字ですが、般若心経では呪いの意味はなく、「マントラ」の漢訳です。 マントラとは「祈りの言葉」のことで、現在は「真言」と訳されています。 玄奘の時代には、この訳語が定まっておらず「咒」や「心咒」を用いていたのです。 つまりこの経題は、「般若波羅蜜多のマントラ(真言)を説いたお経」といういう意味になります。ということ。 つまり、 般若心経の真意は、ずばり「祈りなさい」ということです。ということだそうだ。 般若心経に何度も出てくる「空」は、 般若心経で使われている「空」は、原語に照らしてより正確に言うと、「空性」になるのです。 空性は「スペース」と理解しても結構です。ということで、無という概念とは違うということになる。 いずれにしろ何度も何度も関係書籍を読んでいながらなんともふがいないことに理解できないでいる私はいったい何者なのか。 そんな中アルボムッレ・スマナサーラ師はすでに本経を否定しているし。 否定だらけの本経を否定するというのもすごい話じゃないか。 ただ般若心経の否定論、どうやら現代物理学に通じているようで、否定しきれないお経であることはたしかなようだ。 何度も何度も読んでもわからないのは、通説がなくて多義にわたっているからだと思う。(10/1記)
2023.12.12
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空海とアインシュタイン 宗教と科学の対話【電子書籍】[ 広瀬立成 ] 時空的に大師とアインシュタインが対話できるわけがないけれど、最近多くの科学者や宗教学者がどうも世尊やら大師はすでに物理学の要諦に気付いていたようだ、現代物理学に照らして何ら矛盾がないということに気付いたらしいんだな。 そこで本書は、大師とアインシュタインの対話形式を用いたわけだ。 まず大師が言う。 「大日如来と人間は、本質的に一つです。 わたしは、このことを“即身成仏”と説いてきました。 ここでいう成仏とは、死んでから仏になることではなく、生身の人間が悟りをひらけば宇宙の真理を会得し、仏になりうることを意味しております」と。 このことは、 空海が唱える“即身成仏”という思想によれば、すべての人間に仏性が宿っているという。 そして、その仏性を開けば、万人がただちに仏になりうる、と説いている。 ここでいう仏とは宇宙の根本法則であるから、それはまさしく、人間が“自然の摂理”にめざめることの重要性を主張している、ということになるはずだ。 それは自分が考えている、宇宙観とも整合性がある――ということ。 私たち人間は自然の摂理に過ぎないのだという真理に目覚めよ、ということだ。 アインシュタインの説く物理学を私は理解できない。 けれどもとにかく世尊、大師の説く世界観は物理学的に間違っていないと言う事らしい。 ここまではわかる。 六大、すなわち地、火、水、風、空、識のうち識のみ別というわけにはいかない。 識も含めた六大が私であり大日如来であると言う事だから、即身成仏なのだということですね。 さあ、果たして死んだらそれまでなのか、そうじゃなくて私は自然としてそれなりに生きるんだろうね、ということ、これが真理なのだということを理解するのが仏家の一大事とみた。 しかしね今頃になって菩提の真言宗を勉強し始めてるなんてね。 本当に不勉強でした、反省しています。(9/5記)
2023.11.21
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【中古】空海は、すごい 超訳弘法大師のことば /PHP研究所/苫米地英人(単行本) 著者は、脳科学者にして僧侶であるが、前読、お釈迦様の脳科学、において、要するに死んだらそれまでよ的なことを言っていたのにですよ、 ある夜、お坊さんが堂内にて胎蔵曼荼羅や金剛界曼荼羅から仏たちの力、加持の「加」を引き出すように祈りはじめたときのことです。 私が畳の上に座って瞑想をしていると「空海がいた!」のです。 これは神秘体験のようなもので、仏教の本質とは関係ありませんが、一つの悟りの境地を得たということです。 私には劇的な出来事でした。とこうですからね、読み手はいったいどう解釈すればよろしいんでしょうか。 それから六大について著者は、 しかし、釈迦の教えの根本原理は「縁起」であると考えればどうでしょう。 縁起について端的にまとめると、「すべての生起するものに実体はない」ということです。 言い換えるならば「空」です。 空海が六大で設定した「識」も同様の言葉です。 つまり、縁起とは大日如来のことなのです。 そういう意味では、釈迦の説いた思想と空海の密教は同じになります。と述べていて、他の学者さん等との乖離がみられます。 つまり六大は大日如来にも我々人間にも備わっているものだから、大日如来と私たちは同体なんだという理論ができ、それがいわゆる即身成仏の根拠になっているのに、ここで著者は、六大中識のみにこだわり、それが縁起だと規定するわけです。 果たしてそれでよろしいのか。 何はともあれとにかくこの世は幻なのだが、仮の世界にも顔を出し、もう一度何もない世界に戻りなどということを繰り返しているうちに中観に入れと著者は言う。 おそらく冒頭私が書いた、人間死んだらそれまでよ論も著者はこう反駁するだろうよ。 生きているうちが華だから、うちの脳が大師様を作り出しただけの話だから、何も矛盾はしないよ、と。 まあそれにしても同じ著者の書いた前読との話がこんなに変化していいものかね。 話に一貫性がないと信ずる気になれないじゃないか。 そういう意味で本書は実に残念な仏書だったと私は思う。(9/5記)
2023.11.20
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即身成仏入門 蓮生観善 真言密教については今まで勉強してきた通り六大が鍵になる。 そのことについては、 この六大が縁起と呼ばれる集合離散の力――善悪の業力、因果の法則――に引き起こされて、あるときは人となって顕われ、あるときは草木となり、あるいは天人となり、仏となり、鬼となって、千差万別の現象を現すのです。 つまり宇宙の万象は、六大の海中に現れた波浪なのであって、床の間にある菊の花も、庭先の桜も、また紅葉踏み分け鳴く鹿の声も、一つとして六大の発現でないものはありません。ということなのである。 すなわち即身成仏とは、 すなわち仏様のご所作に一致した所作であって、このように私たちの行為や精神が清らかになれば、私たちの心身は無限の霊体に連絡し、不朽につながる生命を有するのですから、起居動作はそのままに、ことごとく仏様の教えに一致した仏作仏業となり、私たちのこの身体は直に釈迦如来とも、大日如来とも言われるのです。 これを即身成仏とも、凡身即仏とも言います。ということなのである。 そしてそのためには、 私たちが現身に成仏することが出来るのは、ひとえに三密の加持の力による以外になく、三密不思議の加持の力によるときは、あたかもボウフラが空中を自在に飛び回る蚊となり、気味悪い毛虫が美しい蝶となるように、たちまち光り輝く妙相を現すことが出来るのです。と三密加持の力によらなければならないのだ。 これが真言密教に言う六大の関係である。 と書いてはいるがものの半分も私は理解していないわけだ。 だが何度も何度も読んで読んでひたすら読んで読み解いていけばきっとその真髄に到達するのではないかと思っている。 現にここ数ヶ月真言密教について本を読み、まずは六大という概念を得つつある。 そこを切り口にして、私もあなたもそこのボウフラも毛虫も胴体よ、という概念から、いわゆる善根を積めよという教え、そこが自分のあり方そのものだという自覚、こういうのを日に日に身につけるということが大事なんだなと私は思う。 しかし本当に仏教は一筋縄ではいかない。 私はまだまだ修行が足らん(私の修行は本読み)。(8/21記)
2023.11.05
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新版 空海と密教 「情報」と「癒し」の扉をひらく【電子書籍】[ 頼富本宏 ] 本書は密教の理論とか実践を述べた本ではない。 空海と真言密教の基礎知識を述べた本である。 その寄る辺は、 速時成仏(速く成仏できる)という視点から、『金剛頂経』系の密教を最高位に置いている事実は承認できる。と金剛頂経にあるとする。 すなわち真言密教の寄って立つお経は金剛頂経である。 そのことは、 第一に、「阿闍梨」と称される金剛智・不空・恵果の三人は、『金剛頂経』の正統系譜であることは一目瞭然である。 『大日経』をはじめとする他の密教相承では、「阿闍梨」と呼ばないとする資料は未見であるが、恵果と空海にあっては、どこまでも金剛智・不空・恵果・空海という流れが本流であり、それが『金剛頂経』系阿闍梨の法脈なのである。とする阿闍梨系統からわかる。 今まで一般的な知識として、大師の師は恵果、大師は恵果阿闍梨から密教の奥義をいただいたことになっているが、そのさきの、金剛智・不空・恵果という流れも、根拠とする金剛頂経の流れから重要な流れだったのだ! 大師はこの流れの先に、 そこで、即身成仏の説明論理としては、『弁顕密二教論』の延長線上にある速時成仏から、六大(地・水・火・風・空・識)の存在論と、四曼(大・三・法・羯の四種マンダラ)の認識論と、身・口・意の三密(行為形態)の実践論を、それぞれ体(本体)・相(様相)・用(作用)として理論化した著作をまとめた。 これが弘仁十年(八一九)頃の作とされる『即身成仏義』である。という、即身成仏義を完成した。 私なんざあ、そのサワリをこの前ちらっと読んだばかりで、大きなことは書けないが、大日如来も吾々も六大、すなわち、地・水・火・風・空・識から成っているのだから、同体なのだ、というところで、ふむふむなどと理解してしまったのだった。 というような内容の本が本書だった。(8/20記)
2023.11.03
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現代語訳 理趣経【電子書籍】[ 正木 晃 ] 理趣経というと結局, 訳文について、ひとこと申しあげておくと、「○○清浄句是菩薩位」という文章は、「○○は、その本性が清浄なのですから、それは菩薩の境地そのものなのです」と訳しています。 この訳文に、文法上は、なんら問題はありません。 しかし、仏教に精通していない者にとっては、どこか腑に落ちない感じがあります。 また、誤解を招きかねない表現でもあります。 事実、この表現を盾にとって、行為はそのまま仏の境地の実現なのだから、行為で悟れると主張する人々が、日本にも出現しました。 それが史上、邪教として名高い立川流です。という議論になる。 それは, 男女が抱き合う行為は、その本性が清浄なのですから、菩薩の境地そのものなのです。男女が離れがたく思う心は、その本性が清浄なのですから、菩薩の境地そのものなのです。思い叶って満足し、自分には何でもできると信じ込む心境は、その本性が清浄なのですから、菩薩の境地そのものなのです。欲心を秘め異性を見て歓びを感じる心は、その本性が清浄なのですから、菩薩の境地そのものなのです。という理由によるものだ。 この辺の論理が何度読んでも私にはわからない。 なぜ立川流が糾弾されなければならないのかもわからない。 つまり理趣経を素直に読んではいけないのだろうか。 素直に読んだ奥にあるものを悟れと言われ,それが秘密のことばだ,だから密教なのだと言われても私にはちんぷんかんぷんだ。 この辺のわかりずらさが人々を密教から遠ざけている一因なのではないのか。 筆者もこの辺をもっと丁寧に書くべきではないのか。 それとも筆者もわからずに書いているのか。 わからんものがいくら書いてもわからんもんがそれを読んだら結局わからんに決まっているじゃないか。 筆者が言う立川流邪教論は少なくとも筆者の論理では成り立たないと言う事を申し添える。
2023.10.05
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図解 曼荼羅入門【電子書籍】[ 小峰 彌彦 ] さて六大とは 「地」とは堅さを本質とし、その働きは保持することです。 「水」とは湿気であり、その働きは摂めることです。 「火」とは煖かさを本質とし、その働きは成熟させることです。 「風」とは動きであり、その働きは成長させることです。 「空」とは無礙であり、その働きは障りがないことです。 「識」は心であり、その働きは認識です。と言う事であり, すなわち六大は宇宙の根源であり、またその原動力であるとともに、私たちと同様に心を有しているのです。 私たちも大日如来も六大より成っているのですから、本質的には大日如来も私たちも同等なのです。 つまり、六大の働きとしてこの世界のあり方を捉えることは、一切の現象は全て縁起として展開しており、それがそのまま仏の営みそのものなのです。ということになって,本質的には大日如来も私たちも同様,なのである。 というのがどうやら密教の本質なのだが,本書では実は曼荼羅をよく理解した師匠について密教を正しく理解しなければ地獄に落ちると警告しているのだ。 六大という観点から見ると私も大日も同一。 このことがわからないものだから密教がわからないと言う事になるのだろう。 曼荼羅を大日の姿ととらえると曼荼羅の中にいる自分も大日の一つの姿ともいえる。 その理解が正しければいいがそうでないと地獄に落ちると筆者はいうのだ。 いままで遠くにあった密教が少しは近づいてきたかなとやっと思えるようになってきたのはたしかだ。
2023.10.04
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空海「即身成仏義」「声字実相義」「吽字義」 ビギナーズ 日本の思想【電子書籍】[ 空海 ] 我が家の菩提が新義真言宗で良かったと今更ながら思っている。 本書はベストである。 これまで読んだ仏書の中で一番わかりやすかった。 すなわち真言宗の根本は, これに対して空海は、多数の如来や菩薩などの根本に大日如来という仏陀の存在することを主張し、これがマンダラの中央に画かれている仏陀であって法身とも呼ばれ、他の如来とは違い、身体は虚空に遍満し、すべての存在の根源になっていることを示した。 こうした法身を確認することによって、我々もすべて大日と同体であり、このままの姿で大日なのである。 しかし、すでに述べたように衆生は、このことに気づかないために衆生に止まっているのである。 密教の修行は、自分を別なものに変えようというのではなく、法身大日と自分との関係をはっきり確認するための修行なのである。 くどいようだが密教は、仏でないものを仏に変えるのではない。 すでに生まれながらに大日と同体であるのだが、その重大事に気付き、法身大日がこの世に実在することに気付こうというのである。なのである。 そして, 仏と衆生との違いは、大日如来を中心とした曼荼羅の構成を知り、仏陀と衆生との一体なることを覚るか否かにある。 一般仏教のように自分たちの煩悩をおさえたり、新しい智慧を生じさせたりするのではない。 曼荼羅の考えかたを知ることのみが成仏の条件なのである。 仏と自分とは本来同じという人間観、仏陀観なのであるから、仏陀になるには、そうした構成に気付きさえすればよい。 その瞬間に我々は大日如来と等同なのである。 空海の主張する「即身成仏」の本意はここにある。のでであり, そしてこれらのすべての言語はみな大日如来のことばなのである。 さらに私たちの六根(感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身・意)で感じる対象これを六塵(色・声・香・味・触・法)というが、これらはすべて大日如来が私たちに寄せるメッセージであり「字」であると受けとめなければならない、のである。 つまり、この世の音という音は大日の声であり、我々が体感する一切のものは大日の文字でありメッセージである、ということになる。 そういう仏陀大日如来がこの世に現に在まして我々の前途を指導してくれているのである。 こうした受け止めかたができるには、我々の心をできるだけ澄み切ったものに整えねばならないであろう。 なかなかむずかしいけれども不可能ではない。 さまざまな体験の中でそうした深い受け止めかたを知った人々の話を耳にすることがある。なのである。 すなわち我々衆生が仏になるのではなくすでに我々衆生は仏なのだが我々衆生はそのことにきづいいていないのだということ。 現に大日如来の構成物と我々衆生の構成物は同一であるのだ。 いままで努力してなんとかして仏になろうとしていたのだがそうではなくて私達が仏であることにいかに気づくかということそのことに目を向けた仏教が真言宗なのである。 その教えだけでホッとする。 生死の問題はこれで明確になった。 すなわち生きても死んでも我々は大日如来の生命なのだということ。 そのことをしっかりと自覚できれば私はさらなる進歩があるのだと思う。
2023.10.02
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空海を生きる【電子書籍】[ ひろさちや ] それにしても,ひろさちやという仏教学者の幅の広さを感じる。 空海から日蓮までですか。 道元や法然、親鸞も含めて一分の隙を見せない。 言えることは,どれも仏教でありまるでひろ教とでもいえるようなひろさちや独自の世界観を感じ宗派を超えた仏教の一元性を感じることができるということである。 たとえば それに対して空海が創造した真言密教においては、わたしたちは大日如来の子どもだから、それでいいではないかと考えるのです。 仏の子どもは仏なんです。 蛙の子はオタマジャクシと呼ばれていますが、オタマジャクシは蛙なんです。 オタマジャクシは成長して蛙になります。 オタマジャクシが成長して鯰になるわけではありません。 だから、仏の子は成長して仏になります。 いや、すでに仏の子は仏なんです。 すでに仏なんだから、それでいいではないか、というわけです。 それが空海の考え方です。というもの。 このスタンスは,たしか道元禅師のときも語っていたことだ。 さて私は,本書を読んで感じたことがある。 それは, この真言密教は、じつは空海が創り出したものなんです。(略) けれども、密教(真言密教)の哲学的なものは、わたしは空海の創造だと思っています。の一文を読んだからだ。 この文章の前後にひろさちやは,空海は大日如来の言葉を外国語として理解したが,我々凡人は,その外国語を理解できないから密教なのだという話も,書いている。 私はここからふと思ったのだ。 空海は,もしかしたら空海教を作ったのではなかったのかということ。 それならば空海は,世尊と同等ということになるのでは,ないのか。 とすると真言宗は結構新しい宗教ということになる。 今まで世尊を宗祖として考えていた仏教が,大乗に入り世尊の教義を中心にして新しい宗教が,次から次へと作られたのだ,大乗とはそういうことだという気がしてきた。(7/17記)
2023.09.19
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構築された仏教思想 覚鑁 内観の聖者・即身成仏の実現【電子書籍】[ 白石凌海 ] わが家は新義真言宗つまり本書の覚鑁上人が宗祖である。 私は毎日経を読誦し13仏真言を唱えている。 しかし覚鑁上人の人となりを弘法大師ほど知っているわけでもない。 しかしながら新義真言宗が, 顕教には釈尊の外に弥陀あり、密蔵には大日すなわち弥陀、極楽の教主なり。 まさに知るべし、十方浄土はみなこれ一仏の化土(仏身の国土)、一切如来はことごとくこれ大日なり、毘盧・弥陀は同体の異名、極楽・密厳は名異にして一処なり。とし, したがって「高く大日の悲願を仰ぎ、深く弥陀の本願を信じれば、さらにもって往生の異なった路はない」(第六章)。 これが結論である。として深く阿弥陀様にも帰依しているということを知るにつけ,それはいったいどういうことなのかという興味にとらわれた。 何しろ私は新義真言宗の勤行をしたあと,仏説無量寿経を読誦し,念仏を称えている者である。 浄土教系の教えとどのように違うのかということは本書をもってはわからなかった。 ただ私が毎日崇めている大日如来こそが阿弥陀如来だという覚鑁上人の教えは私が正しい求道をしていたことの裏付けになったことは間違いない。 などといいつつ本書は実に硬くて噛めば噛むほど歯がボロボロになるような,つまりは理解しきれなかったということで,さらにいえば,覚鑁上人のことをあまりにも知らな過ぎたことから(弘法大師,法然上人,親鸞聖人,道元禅師のことは十分知っているくせにね)一度本書を読んだくらいでは,理解しきれるものでないことは当たり前のことだろう。 ただ本書を読んでわかったことはまず自分の心を鎮めなければならないということだった。(3/13記)
2023.06.08
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】加持を語る [ 織田隆弘 ]織田隆弘 ご維新までは日本人の病気を治してきたのは真言宗の加持祈祷です。 加持祈祷によって病人はほとんど救われると信じていたしまた救われたと思う。 その間に金のあるものは漢方医へかかる。漢方医へかかっても必ず加持祈祷をしてもらった。 大きなウエイトを持っておったんじゃないか。 急にご維新にあって西洋医学が入って注射と顕微鏡によって日本人は頭から信じちゃった。 そこへもってきて浄土真宗あたりの布教はことごとく現世利益の加持祈祷なんてものは迷信であるという布教の展開をしたでしょう。 という論点もまた検討しなければなるまい。 著者は絶対的な自信を持っている。 生長の家が病気を治したのは、それが軽い病気だからだとも言い切った。 その前にまず維新の廃仏毀釈がある。 これが仏教界に大きな退歩をもたらしたのは間違いのないことだ。 さらに戦争に突き進んでいった理由の一つであることも間違いない。 しかし、反面、維新政府から廃仏毀釈される要素はなかったのだろうか。 また、真宗が大きな人気を得ることになったのではなかろうか。 密教等の衰退は神秘なものへの決別であったはずだ。 私の菩提寺は密教である。 今日的にはもう神秘の力を前面に出すことはない。 しかし10年ほど前の身内の葬儀で一転にわかにかき曇ったことがあり、そのことに関しては、和尚は強く感じるものがあったと言っていた。
2015.07.27
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】体を使って心をおさめる修験道入門 [ 田中利典 ]田中利典 修験道を開いた人物、それは役行者です。 役小角という名でも知られています。 そして金峯山寺の開祖でもあります。 修験独特の行法である採灯大護摩供の前作法で山伏が行う山伏問答の中で修験道の開祖について語る部分があります。 山伏問答というのは採灯護摩供に旅の行者が参加する場合のいわば入壇試験です。 大護摩の修行に加わるには山伏の心得が一通りないと許可されません。 そこで山伏十二法具をはじめとする二十あまりの項目からなる心得を聞いてきます。 その一項目として「修験道の御開祖は」という設問があります。 どうなんですかね。 こういう日本独自の宗教があるということなんです。 なぜ絶滅危惧種になったかというとあの明治維新であります。 廃仏毀釈が起きました。 国家神道以外宗教を認めずというものです。 その結果修験道は衰退します。 何しろ普通の仏教ですら危ない目にあったのですから修験道はなおさらです。 でも山伏たちはそここに残り今も脈々と修験道を伝えていると言うわけです。 かなりきつい行を行うわけです。 そこで霊的なものに会うのです。 会うから、神も仏もあるという結論に至るのです。 医学が発展していない時代は、というより科学が発展していない時代は山伏任せの面もあったんでしょうねえ。 今更こんなきつい修行はできそうにありません。 でも私は僧侶になりたいと思っています。
2015.07.25
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高野山松長有慶 真言宗の教学の復興者であり、改革を志しながら高野山の僧侶と相容れず山を降り根来寺によった興教大師覚鑁上人の廟舎(密厳堂という)も参道の中ごろ、右側の小高い台地に設置されている。 円光大師(法然)の供養塔、見真大師(親鸞)の霊屋も見つかり日蓮上人の遺跡も奥の院ではないが高野山内に存在する。高野山は宗派を超えた日本人の総菩提所とも言われる所以である。 というように真言宗高野山にはどえらい人が集まっている。 一大霊地、パワースポットだ。 興教大師覚鑁上人の廟舎(密厳堂という)も参道の中ごろにあるという。 我が新義真言宗の仏壇は、向かって左に興教大師覚鑁上人、右に弘法大師空海がおられる。 興教大師覚鑁上人のところは古義では不動明王になる。 興教大師覚鑁上人が行ぜられているところを見た古の人は不動明王に見えたという。 密教は、通常の仏教に比し霊的だ。 この点が魅力であり、また弱点であるように思える。 どちらにしろ私は毎日勤行をしている。 霊的なものは感じない。 憑依されてもかなわない。 仏とは一体何なのか。 悟りとは何か。 死とはなんぞや。 疑問は尽きない。 しかしその答えは高野山にありそうな気がする。【楽天ブックスならいつでも送料無料】高野山 [ 松長有慶 ]
2015.07.24
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【楽天ブックスならいつでも送料無料】空海と密教 [ ひろさちや ]空海と密教ひろさちや 仏の身・口・意の働きは我々には窺知できない。 だからそれは「密」なのだ。 そこで我々は仏が手に結んでおられる手印をむすび、仏の言葉である真言を唱え、仏を観想する。 そういうシンボリック(象徴的)な行を通じて仏と一体化しようとするわけだ。 これは密教行者のする方法であり、テクニックである。 我々一般人からすれば、身体的行動としては、仏らしい行動をし、言語活動としては、慈悲の言葉を口にし、心においては、小欲知足でいることを心がければ良い。 そうすると我々に自然に大日如来の力が加わってくる。 より仏らしくなることができるのだ。 即身成仏という考えに基づくものだ。 密教では行も非常に大事だ。 そのために三密加持をするわけだ。 著者はその点をとらえ、 身体的行動としては、仏らしい行動をし、 言語活動としては、慈悲の言葉を口にし、 心においては、小欲知足でいるという。 通常の生活における過ごし方とでも言うのだろうか。 実際印を結び真言をとなえ仏を観ずる行は、私もしている。 それが正しいのかどうかはわからない。 きっとやり方方法があるのだろう。 でもそれにとらわれると何もできないじゃないか。 般若心経真言、13仏真言、阿弥陀仏真言、光明真言は毎日唱えている。 印も結んでいる。 仏も観じている。 毎朝の勤行である。 それが通常生活では著者のいうようなこととはこの本を読んで初めて知ったのである。 さすがひろさちやさんである。
2015.07.23
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【送料無料】 弘法大師空海読本 / 本田不二雄 【単行本】本田不二雄 青年の中で価値観の大転換が起こっていた。 ブッダは世の無常を感じて出家し修行の道へと出たが、空海は修行をすることによって無常観に目覚め発心するに至ったということになる。 「一切の教法の文義暗記することを得」るための修行を行った青年は結果的に世界観そのものを根底から揺さぶられることになったのである。 勉強すればするほど空海の偉大さがしみてくる。 都市伝説的に空海が今も奥の院に生きているというのもうなずける。 科学的であれ非科学的であれなんとでも理屈はつく。 科学的にはきっとミイラ化しているというものか。 非科学的には空海の哲学が今に生きているということ。 空海の真言宗は大きな分派をせず、新しい宗を確立せず、新義と古義に分かれるくらいで、今に至っている。 それはともかく、般若心経が空海仏教の根幹をなしているとは驚きだ。 このことは素晴らしいことだ。 感動する。 りんごは赤い。 赤いはりんごだ。 これをもって非論理的だというのはいかがなものか。 ここに空海は建として普賢菩薩の教えとして金の獅子像のたとえをもってくる。 みごとだ。 溶かせば金、造れば獅子像。 決してりんごは赤いが赤いはりんごではないなどというつまらない論理の及ぶものではない。
2015.07.19
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【中古】 万人に語りかけるブッダ 「スッタニパータ」をよむ NHKライブラリー/雲井昭善(著者) 【中古】afb雲井昭善 心(意)に思ったことが口で表現され、そして身の振る舞いになるものです。 つまり、心に思ったことが態度に現れるものですから、三業の中で心の行為、意業が最も大切であるのは言うまでもありません。 三密の考えは、つまり、大乗仏教ですね。 いう人が言えば、アルボムッレ・スマナサーラ師あたりですけど、大乗は、仏教でなくなるのです。 私は、大乗は、立派な仏教だと思っています。 ところでこの三密ですが、大乗でも密教ですからねえ、変わった仏教なのかもしれません。 いずれにしろ、心の調整が重要なことは言うまでもありません。 私はこれからも、悠久の教え仏教を勉強していきます。
2015.03.02
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いい言葉は3日で人生を変える! / 池口恵観【中古】afb池口恵観 いい言葉は3日で人生を変える!~阿字の子が阿字のふるさとたちいでてまたたち帰る阿字のふるさと。この宇宙にあるあらゆる存在は大日如来から生まれています。時間も空間も超越した大日如来はすべての命の生みの親です。つまり、宇宙には阿字の子以外の存在はありません。そういうダイナミズムを感じ取ることができれば、苦はありません。悩まなくともいいのです。そもそも生も死もないということになる。お大師様のお考えは、私たちはすでに仏だということです。阿字の故郷というのは、生まれる前に暗い、死んでから冥い所でしょう。
2013.12.20
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【送料無料】すぐわかるマンダラの仏たち改訂版 [ 頼富本宏 ]頼富本宏 マンダラの仏たち~神秘主義とは我々各人の内面、もしくは全身において神、仏、宇宙と言った超越的な存在を直接把握し一体になろうとする考えです。そのための具体的手段としてマンダラや真言や印相のように視覚や聴覚など感覚器官をフルに活用してその緊張度を高めていこうとするのです。密教ですなあ、これは少しジャパニーズ仏教と違いますね。ところが、わたしんち、真言密教でして、私は毎朝真言陀羅尼を唱え、印を結び、心に仏を思いえがいて出勤しています。毎日13仏真言を唱えていたら、つまりね、自然の形といいますか、心に思い描いたことを言葉にし、具体化するという一連の流れなんだなということに気付きました。そして心と言葉と肉体が一体化してしまうんです。これってすごいなと自分で思います。毎日続けた結果です。私は、曹洞宗のお葬式とか法事に行くと抹香臭さというか、いかにも仏教で、いやにおもうことがあるんですが、真言密教はなんか楽しさを感じますよ。自分が仏になれるっていうところがいいんですよね。
2013.12.09
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【送料無料】図説「理趣経」入門新装版 [ 大栗道栄 ] 毎朝般若理趣経を勤行している。 本書は理趣経を図を用いてわかりやすく解説している。 しかし1回読んだくらいでは歯が立たない。 理解もできない。 これはこれから何回か読まなければならない本だ。 まず、曼荼羅を理解しなければならない。 大欲と欲望の違いを覚えなければならない。 それにしても密教はこれだけの複雑な精緻な世界をよく打ち立てたものだな。 感心する。 新義真言宗の檀家としてまたその僧侶を目指すものとして、この本は必読と見た。
2013.01.31
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【送料無料】ヘタな人生論より空海のことば著者:池口恵観寒苦鳥とは巣をつくろうとしないで夜はいつも寒さに震えている鳥である。明日こそは巣をつくろうとするが、朝日が昇って暖かくなると巣を作ることなどすっかり忘れ、また夜になって後悔することを繰り返す。なんと自分と似ていることだろう。私は寒苦鳥そのものじゃないか。そして今仕事そっちのけでブログの更新だものな。だから自分の行場で与えられた仕事を一生懸命務めていく。腰を据えて一心不乱にやるべきことをやっていれば護摩行と何らかわりないのだそうだ。
2011.05.13
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齋藤孝さんはいろんなものに挑戦する人だなあとつくづく思う。今度は仏教に登場。空海をただ単なる天才でまとめられては真言信者としては納得いかないが、仏教習い始めの初心者には実に分かりやすく親切な内容だった。
2011.04.30
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「空海」の向こう側へ著者 山川健一 ブッディストは、世界に3億人いるという。それでも、人数的には、第4位なのだそうだ。 それはともかく、本書は、空海の名前を出していながら、空海については、結局、巷に知れ渡っていることばかりの描写であって、また、仏教についても同様なのであり、結局、ドラッグと悟りは、同じレベルのことなのかという、大きな問題提起をしてくれたなと、そうゆう本であった。 題名を空海が云々としたけれど、まず、世尊仏陀の教えから入りますな。 仏陀の入りは、まずなんと言っても「苦」。 これは、前世の因縁、前世の業=カルマのせいとし、これを形成しているのは、「我執」であると規定して、この「我執」を捨て去った状態を「悟」とした。 このことのうち、「我執」を捨て去ったという部分は、まちがいなく「悟」でしょう。 つまり、「我執」を捨て去ることが「悟」ですな。それ以外の何者でもない。しかし、われわれは、我執を捨てきれないから悩み苦しむ。 著者は、若い時分、ドラッグにのめりこんだらしい。そのせいで知ったリアルワールドを「悟」と同じと決め込んでいる。 果たしてそうなのか。 ドラッグを経験したことがなければ、不毛な議論になるだろう。 ドラッグのうち、比較的軽いといわれる大麻に関しては、合法化まで叫んでいるのだが、ドラッグと「悟」の連関がなにも証明されておらず、なぜ、ソフトバンク新書などにこのような本が出てしまうのか疑問であった。 仏教を詳しく勉強したということは、わかる。 しかし、本書に書かれてあることは、普通のブッディストなら十分承知の内容だ。 それでは、題名の空海について一体どのように評価し、そして、何をいいたいのかということになると、不明だ。 結局、空海は今に行き、そして、人のために汚れ役を買って出るそのような人生観を持ってほしいというような論理なのだが、いまひとつ説得力に欠けたな、とそういう感想である。
2007.07.03
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