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歎異抄/唯円/親鸞/川村湊【3000円以上送料無料】 本書では歎異抄を関西弁訳している。 例えば第一章は、 アミダ(阿弥陀)はんの誓いの不思議な力に助けてもろうて、 極楽往生 は、こりゃあ、間違いなしと信じて、「ナンマンダブ(南無阿弥陀仏)、ナンマンダブ(南無阿弥陀仏)」と、よう、となえようと思う心が起こったときには、もうすでにお助けにあずかり、アミダはんにお引き受けいただき、(もう)捨てられまへん(= 摂取不捨)というご利益 にあずかっとるんや。というように。 このように訳してもらうとわかりやすいことは間違いない。 この第一章がわかれば、聴聞の聞ということだ。 素直にそのことがわかることはないけれど、上のような訳をしてもらえれば、聞、として、阿弥陀仏にお引き受けいただき、もう捨てられない利益に預かった、ということになる。 つまり、阿弥陀様にお引き受けいただいた、ということ、このことを、すっと自分のことにするということ、それが聞であり、阿弥陀様から頂いた信心、ということになるということなのだ。 なんとありがたいことか。 このことについて、 その理由は、アミダはんの光明に照らされておるからこそ、一ぺんでも念仏しよういう気持ちが湧いたときに、ダイヤモンドみたいに堅い信心をいただくからや。 そのときすでに絶対に悟りをひらけるちゅう境地に達しとるわけで、ましてや、命が終わればもろもろの煩悩や悪い妨げなんぞを転じて、もう怖いもんも疑いもないという悟りの境地に入ったということや。と訳しているが、けだし名訳である。 この文章もまた歎異抄である。 この名訳で概念をつかみ、原文を味わってほしい。(8/26記)
2024.11.06
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親鸞が導く歎異抄【電子書籍】 釈徹宗 これまで何回か書いてきた通り、私は終活として、「私は何者?」という課題を解決すべくいろいろやってきた。 とりあえずそれは、気づきでありサティであるなどと思いつつ、それでも足りず、曹洞宗の、只管打坐であるところまで行きつき、そして、無門関に首から上をグラグラさせられ、その結果、ある日、仙台泉のタピオの書店で、歎異抄に出会って、何とかその課題をクリアしようと頑張ってきた。 昨日の夜のこと(8/18)私は、ふと、最期は最後の意識なんだ、その最後の意識が永遠なんだ、という事に気付いた。 そこで私は、「終活終了宣言」をした。 弘法大師空海の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」である。 親鸞仏教ではまず往相回向と還相回向がある。 独特の考え方でそれは、 無力な自分と向き合う 他力の教えには「往相回向」と「還相回向」があります。 往相は浄土へ往生すること。 還相は浄土からこの世に還って来ることを意味します。 回向は阿弥陀様の本願力のことです。 私たちは阿弥陀様の本願によって浄土へ往生すると悟りを開き仏となります。 そして菩薩となってこの世に戻り人々を救うのです。というものである。 浄土で悟ってまたこの世に戻って人々を救うという考えだ。 その方法論として念仏が浄土教系では出てくるのだが、それに関しても親鸞仏教では、 仏に導かれる言葉 南無阿弥陀仏という念仏の南無は「お任せします」や「帰依します」という意思の表明とされています。 しかし親鸞はこの言葉は仏さまから「任せなさい」と呼びかけられているのだと説きます。 自分のとなえた念仏が仏様の呼び声となって聞こえてくる。 それが他力の念仏なのです。と独特な解釈をする。 とにかく終活終了だ。(8/19記)
2024.10.27
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新訳歎異抄 松本志郎 毎日毎日お勤めとともに歎異抄を音読している。 なかなか意味が通じないところもある。 そのせいでまだまだ歎異抄の真髄に到達していない。 この度新訳で歎異抄を読んでみた。 ふむなるほど原文では理解できなかったことが次から次へと明らかになる。 来世での成仏は必定、したがって仏に感謝せよというわけだ。 第4章 我々 他力にすべてをお任せする念仏者は自力という殻を投げ捨てて直接に弥陀の光明に照らされているから本願に帰依する心が起こると同時に金剛不壊の信心を賜って往生確実の身となり、死ねばお約束通りにすぐさま 浄土に招かれ、 生前のあらゆる煩悩や罪業を転じて絶対の悟りを開かせていただけるのだ。 従って、 我々は当然こう考える。 我々のような浅ましい罪人がこのように成仏できるのもひとえに大悲の本願のおかげである。 これからはこの広大無辺の恵みに対する報恩感謝のしるしとして一生をかけて 念仏を唱え続けよう。 本当の念仏とは、 この報恩感謝の言葉に他ならない。 真宗親鸞聖人の教えでは、真言宗のようにこの世で成仏してしまうように、物の本を読み進めるとそう思うことがある。 しかしそれは違う。第5章 「来世(死後)において悟りを開く」というのが我々の信ずる他力浄土の宗旨であり、信心第一主義の教えである。 これは前と反対の易行道で資質能力の劣ったものでも容易に勤めうる教えであり、 善人でも悪人でも分け隔てなく救いたもう絶対救済の広き門である。 というのが大原則なのである。 すなわち、来世で成仏できるのだから今生では何もあせる必要がないというわけだ。 つまり私は何者などという命題は来世に持ち込もうよ、今は今で一生懸命生きようよ。 というわけだ。(8/13記)
2024.10.15
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『教行信証』の現代的意義 藤場俊基 まとまりのつかない話っぷりで(講話を文字に起こしたものらしい)なんか一気にその信仰が薄らいでしまうような感じがして、不快だった。 それはともかく、 いやでも応でも、念仏して浄土に一緒に往くんです。 お前とはいっしょに往きたくないと思う人もいるかもしれませんけれど。でも、みんな一緒に同じところへ往こう、そのように言えるところを浄土というのです。 そこに開かれてくる浄土の考え方、浄土観というものは、死んだ後の問題ではありません。 それは今の私たちの生き方に大きな影響を与えてくるのです とか言って、さらには、死後の世界は誰にも分らない、一様なものでもないと畳みかけ、結局、今生きている人が行きたいところ、という定義をしておきながら、また、 現代の私たちも、死後世界としての浄土が実体的に存在することを信ずることができない人が多いわけです。 死後の浄土を信じられない者にとって浄土教は意味がないか。 死後世界としての浄土を考えることは無意味か。 私はそうは思いません。 なぜなら死んだらどうなるかということを、私たちは、今現在において気になってしょうがないからです。 気になるから考えずにおれないのです。と元に戻る。 私たちは、その死後のことが不安だから、南無阿弥陀仏に縋っているのではないのか。 結局、この人は何を言いたかったのか、冒頭のとおり、不快になり、不安になったのだった。(8/2記)
2024.09.28
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『阿弥陀経』に聞く 極難信の法から問われる信 (響流ブックレット) 藤場 俊基 たしかに真宗の信心は極難信である。 だが信心は、真宗の核心だ。 私は、藤場俊基という著者の著作を連続して読むことによって、その極難信の姿が少し見えてきた気がする。 それはともかく、前読も、今回も韋提希夫人が論じられる。 まず、 観経の序分は「王舎城の悲劇」というストーリー性があって面白いし、人間の問題を考える上で、大変示唆に富んでいますから、学習の素材としてはすぐれていると思います。 ところがあそこだけでは、どこで「念仏」につながっていくのかということが分からないのです。として、「王舎城の悲劇」について述べ、次いで、 つまり釈尊は韋提希に対し、求めに応じた説法と、求められていないけれどもそれ が必要であると考えた説法をいう二重の説法なさったということです。とする。 極楽浄土の様子を神通力を持って韋提希に見せて後、そこで考えてみなければならないことは、もし釈尊が、極楽に生まれたいと願う韋提希に対し、はじめから「もしそこに生まれたいならば、念仏しなさい、ただ念仏ですよ」と言ったとしたら、その時韋提希は「はい分かりました」と素直に受け入れたであろうか。 私は、韋提希はそのように素直に言う人だとは思えません。 少なくとも善導が、描き出している韋提希夫人の人物像からは、そのように言う姿は想像できません。世尊は念仏について説法したというのだ。 それは、 極楽に生まれたいという私たちの欲求、あるいは欲望心を掻き立てて、そして念仏に集中させようとする。 それは何故そのように説くかというと、そこに意欲を失って生きている人々が聞いているからです。 生きることに何の望みもなくて、ただ飯を食べて、ただ死なないようにしているだけ、この先このようにして生きてゆくことに何の意味もないなあと思っている人々に意欲を持たせようとする。ということのようだ。 その結論は、 「念仏こそが、極楽世界へ生まれる道なのだ。たとい一日でも二日でも、ないしは六日でも、七日までも、迷うことなく、一心に阿弥陀仏の名を称えるならば、命終わる時にあたって、阿弥陀仏は、菩薩がたや、聖者らと共に必ず目の前に現われてお迎え下さる。 それゆえに恐怖で心が乱れることなく、安らかにそしてすみやかに、阿弥陀仏のいます極楽世界へ往生できるのである。 そしてこの道こそが、この五濁の世において、すべての人々が迷いを離れることのできる道であり、これが念仏往生の道なのです」というものである。(7/30記)
2024.09.25
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凡夫、ゆきやすき道 藤場俊基 浄土教系の根拠となるものの一つに韋提希夫人が出てくる経がある。 仏説阿弥陀経である。 本書では、幽閉された韋提希夫人が世尊に救いを求めるシーンについての考察が書かれている。 それによると、ひたすら自分のことばかりを訴えている韋提希夫人こそ凡夫そのものだというのだ。 そこには、同じように別所に幽閉されているビンビサーラ王を心配する言葉の一言もない。 あれほど、密かに自分の体に蜂蜜を塗りたくって、足繁く通っていた最愛の夫ビンビサーラ王のことなどすでに忘れ去ったいるのだ。 そのことに注目している。 そして、世尊は、一方のビンビサーラ王の様子を見て、王が夫人が安心している様子を見てこれまた安心したことを神通力によって知るのだった。 このような切羽詰まった凡夫こそ、つまりここでは韋提希夫人こそ、阿弥陀様に救われるべきものとするのが浄土教系だというのである。 というより、もとより浄土教系では、阿弥陀様に誰でも救われるというのが教義であるのだから、韋提希夫人だけが救われるべきものではない、それなのに筆者は、そのように考察しているのだ。 それは、親鸞聖人が自分ひとりのために本願を阿弥陀様は遂げてくださったのだというのに相似している。 その本質は、韋提希夫人にしろ親鸞聖人にしろ何も考えずひたすら救われることに没頭しているということではなかろうか。 何も考えず救われることを待つ、というよりもすでに救われている自分を知るということこそ浄土教系のあるいは真宗の奥義なのだと私は思う。 しかしそれが実に難しいから、本書の題名の、ゆきやすい道ではなく、逆にゆきにくい道でもあるのだ。 逆に言えば、教義によればすでに救われている人なのなのにさらに冥府魔道にのめり込んで出づることのできない身に、どのようにして光を当てるかということが重要だ。 その方法はひたすらの信心だ。 しかもその信心は、阿弥陀様からすでに授けられているものなのだということ、なのだ。 それを知ることは実に難解なことなのだ。 本当に…。(7/28記)
2024.09.22
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なぜ阿弥陀仏なのか 藤場俊基 まず因、縁、果を説く。 ところが、大豆が実ったという果から見ると、因と縁は絶対的につながっています。 その果が実るために必要なもの、因も縁も全部そろっていた。 すでに現れた果から見ていくと因と縁はもう間違いないことです。 ところが、因から果を見ると確実ではない。 どうなるかわからない部分がいっぱいあります。 種は、種だけあっても因とは言えないのです。 実が成って初めて種を因と言うことができる。 実が成って初めて、種に因という意味が成就する。 果が因を成就するのです。 これによれば、果があって、因がわかる。 因があれば必ず果があるのではない。 「南無阿弥陀仏」と念仏しているというのは、すでに起こっているのですから、これは果ですね。 だとすると、その果に対する因が必ずあるはずです。 因がないのに果は生じない。 また、他の因から別の果が生ずることもありません。 念仏申すという果は、念仏の因からしか出てこないのです。 法蔵菩薩の話は話であると断言するから気持ちいい。 しかし念仏申すわけは、その法蔵菩薩の本願がかなったからである。 そしてその起源は、 これがなかったら誰も念仏しないという因、お念仏の起源というべき因はどこにあるのか。 その源流はどこまでさかのぼっていけるかと言いますと、答えは意外と身近なところにあります。 それは「正信偈」です。と正信偈を読めというわけだ。 さすれば南無阿弥陀仏を称える因がはっきりすると著者は言う。 自分も「南無阿弥陀仏」と阿弥陀様のお名前を呼ぶだけです。 そうすれば、阿弥陀様の方で「あとは私が引き受ける」ということになります。 面倒なことをしなさいと言っているのではなく、「名前を聞いて、あなたも南無阿弥陀仏と私の名を呼ぶ者の一人になってください。というのだ。 ひっかかるのは、やはり荒唐無稽な法蔵菩薩譚だろう。 それが因なのだ。 私は、ちょこっと称えることにした。 だがそれは、私が称えるのではない。 称えているのも阿弥陀様。 というのが真宗の醍醐味だ。 さて藤場先生の論調はこれからどう進むのだろうか。(7/25記)
2024.09.19
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石田智秀 浄土真宗の信心がこんなにわかりやすいわけがない 著者は浄土真宗の僧侶だ。 早稲田を出て、中央仏教学院、龍谷大学大学院を出た異色の真宗僧侶だ。 そもそも実家が真宗寺院ということだ。 それに反発してまずは早稲田に行ったらしい。 しかし思い通りにいかず結局実家を継ぐことになった。 真宗の極意は信心である。 それがわからなくて四苦八苦したらしい。 しかしなんとか解決したから本書を書くことができた。 その信心に関し、真宗では信心獲得ともいう。 これが真宗の極意だ。 そして、 聖人一流 の 御勧化 のおもむきは、 信心をもつて本とせられ候ふ。 そのゆゑは、もろもろの 雑行をなげすてて、 一心に弥陀 に 帰命 すれば、 不可思議の願力 として、 仏のかたより往生は治定 せしめたまふ。 その位を「 一念発起入正定之聚」とも釈 し、そのうへの称名念仏は、 如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。として、その、南無阿弥陀仏、は、御恩報尽の念仏なのだという。 ここのところを真宗では、 阿弥陀さまはわたしの分の修行をぜんぶ阿弥陀さまの側で完成させて、その証拠をわたしに〈南無阿弥陀仏〉というカタチで届けてくださっています」ということを「そのまま聞く」、これが信心なんです。とする。 ここがポイントだ。 つまり、聞く、ということ。 これは、聴く、ということと違うのだという。 聴く、は疑団。 聞くは、上記の通りのこと。 すなわちこれが、信心獲得、なのである。(7/19記)
2024.09.15
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親鸞を生きる【電子書籍】[ ひろさちや ] 前読でも書いたとおり、ひろさちや先生の真宗論はどうしても浄土宗論から外れないので、その話がいささか強引すぎる。 ひろ先生に頼りすぎると真宗の真髄からはずれてしまう。 たとえば、 わたし自身は、親鸞に教わって、 阿弥陀仏は……いっさいの衆生を救わんとする救済意思そのもの、 極楽世界は……光だけの世界。 したがってそこに往生したわたしたちは、光そのものになる、 と信じています。とし、さらに、 そこで親鸞は、凡夫(人間)は人を救うことはできない。 凡夫の力でもって人を救おうとしても、それはできない。だから、自分自身が極楽浄土で仏になって、そのあとこの世に戻って来て、その仏の力でもって人を救ってあげるしかない。 それが浄土門(浄土仏教、他力の仏教)の考え方だ、という結論に達したのです。としつつ、前読においては、還相しても我々にはなんの力もないから、南無阿弥陀仏を称えるほかしかないような書き方をして、その真相に切り込むような書き方をしていない。 浄土宗の理論ならともかく、ひろ先生の真宗論を読んで真宗を知った気になってはいけない、というのが私の偽らざる感想だ。(7/2記)
2024.09.06
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ひろさちやの「親鸞」を読む【電子書籍】[ ひろさちや ] 著者は東大哲学科上がりの仏教学者である。 菩提は浄土宗だそうだ。 真宗と浄土宗は兄弟のようなもの、いや、法然上人が親だとすれば親鸞聖人は子だから、親子のようなものと言えよう。 しかしこれほど教義が違ってしまった親子もないのではないか。 いわゆる死後の暗い心に関し両宗とも、往生浄土することを基本にして、それで、死後の暗い心が光に満ちた明るいものになるというのだけれど、浄土宗は死ななければ阿弥陀様は迎えに来てくださらない。 けれども真宗においては、歎異抄に言うように、往生をとぐるなりと信じて念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益に預けしたもう、のだ。 親鸞聖人においては平生業成と言って、まずこの世で南無阿弥陀仏によってすくい取られているのだ。 ここのところを筆者は常に浄土宗の視点から観ているので、真宗論になっていない、というのが私の偽らさる感想だ。 両宗ともゴールは 死んでも価値があるとはどういうことでしょうか? それは、こういうことです。 わたしたちは、死んだら、無に帰するのではありません。 比喩的にいうと、わたしたちはみんな浄土に往くのだが、真宗では平生業成と言って生きている今のうちから往生浄土の準備をすすめるのである。(7/2記)
2024.09.05
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よくわかる浄土真宗 重要経典付き【電子書籍】[ 瓜生 中 ] 終活と称して、ひたすら、私は何者という課題を追及していた。 その結果座禅に行き着いた。 道元禅師の只管打坐の考えがそれだ。 そして、臨済禅の公案に入った。 無門関である。 第47則、兜率三関は、叢を刈れば何が残ったか。 死に至ってどうするか。 死後どこに向かうか。 というもの。 その結果、無、にいたり、妻に感謝し、原子として宇宙に散漫するところまで至った。 そうしたらなんとも心が寒々してきて、だめだこりゃ、と哀しくなった。 先日仙台タピオの書店に寄った際、再び浄土真宗の本に迎えられた私はひたすら、高森顕徹師の、歎異抄ってなんだろうを読んだ。 それによれば、どうやら私は死後が暗い心の病らしい。 結局私は絶望の淵まで行ったのだった。 そんな危うい私をまた救ってくれたのが親鸞聖人だったという話。 すなわち死に臨んで、 阿弥陀如来 に全幅の信頼を寄せて身を任せれば、 自ずから自然の摂理に法って生かしてくれる。 すなわち、 自然法爾 とは 凡夫 の自己の計らいを捨てた、 阿弥陀如来 の 本願力に完全に頼り切ることである。 晩年の親鸞 はこの自然法爾の境涯にあり、物質的には極めて貧しい生活をしていたが、精神的には絶対の平安の境地に安住していたという。ということ。 法然上人の臨終時念仏を唱えれば浄土にすくい取られるという考えに対して、 親鸞 は日常生活の中で 阿弥陀如来 の 本願 の力を信じたその瞬間に 往生 が約束されると説いた。そのように不動の信心を得た人々を「 現生 正定聚」という。生きているうちに 浄土往生 が正しく確定した人々という意味である。という。 前読、歎異抄ってなんだろう、によれば、平生業成と言って、今生きているうちに救われなければならないのだ。 真実信心の行人 は、 摂取不捨 のゆゑに正定聚 の位に住す。 臨終 まつことなし、 来迎たのむことなし。 信心のさだまるとき 往生 また定まるなり ということ。 阿弥陀如来に対する不動の信仰心が確立したときに、 阿弥陀如来は往生を約束してくれるという。 だから、 臨終 のときに念仏 を称えたり、 阿弥陀如来の来迎を願わなくても確実に往生 させてくれるのである。というのが浄土真宗の真髄。 結局、兜率三関の一関では、無を探したのではなく、私は何も探せなかったということ。 二関は死に臨んで、南無阿弥陀仏、ということ。 三関は往生浄土ということ。 これで安心の境地に入れた。 ように思う。(6/30記)
2024.09.04
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歎異抄ってなんだろう [ 高森顕徹 ] 終活で、私って何者?という課題に取り組み、気付き、サティ、自覚、悟りというところまで行き着いて、只管打坐でさらに深みに行こうとした。 なにしろ道元禅師の只管打坐は、坐禅そのものが悟りであるから、ようするに、それが私の終点になった(ような気がした)。 そこで私はこの坐禅に関し、何物にもとらわれない道元禅とは別に臨済禅の公案の、無門関に挑戦した。 そこに第47則、兜卒三関があった。 1 草叢を分け入れば何があるか。 2 死に臨んでいかがするか。 3 死後どこへ行くか。 私の答は、見つけたのは、無、死に臨んでは、妻に感謝、死後は原子に戻り、拡散する、というもの。 果たしたこれでよかったのだろうか それにしても唯物主義すぎやしないか。 これは大疑団である。 そんなとき、日曜日、泉タピオの書店でこの本を見つけたのである。 帯にあるとおり、やがて死ぬのになぜ生きるのか、という問いかけに私はひかれるようにして本書を買い求めた。 私は、真宗に回帰した。 南無阿弥陀仏に呼び戻された。 極楽があるかどうかは行った人がの世にいないから分らない。 しかし、たしかに人の霊があると信ずるから、たとえは戦死者に涙する。 真宗門徒は聴で疑い聞で疑いなく信ずるのだという。 親鸞聖人は、平生業成、生きている内に、往生浄土せよという。 本書は一度読んだだけでは、その全容は明らかにならない。 これから何度も何度も読み続けなればならない。(6/22記)
2024.08.31
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選択本願念仏集 法然の教え (角川ソフィア文庫) [ 阿満 利麿 ] さて本書は,法然上人のバックボーンになった善導和尚の観経疏を読んで,称名念仏が阿弥陀仏の本願にして正行であることを書いたものであるけれど,なかなか難しくて簡単に理解できそうにない。 何より難しさの根底にあるのは果たして世尊が阿弥陀仏のことを説いたのであるかどうかのエビデンスがはっきりしないと言う事だ。 それにしても法然上人は, 私、法然は、昔この『観経疏』を(八度も)読んで、ほぼ善導の意図するところは理解できたので、たちどころに念仏以外の行を捨てて、念仏だけに帰依するにいたった。 それ以来今日まで、自ら信じることはもちろん、他の人に勧める場合でも、ただ念仏だけをつとめとしてきた。と観経疏を読んで念仏のみを勤行とした。 それは, 善導の考えによれば、念仏は阿弥陀仏の本願にもとづく。 ゆえに、念仏は真実として証明されているのだ。 ほかの行はそうではないから証明ということがないのである。からだ。 世尊との関係としては, 釈尊が諸行を後世に伝えようとされなかったのは、阿弥陀仏の本願にないことだからである。 また念仏だけを後世に残そうとされたのは、阿弥陀仏の本願によるからである。 今、善導和尚が諸行を廃して人々を念仏に帰依せしめようとされた理由は、念仏が阿弥陀仏の本願である上に、釈尊が後世に伝持せよと、命じられた行だからである。とする。 出だしは,仏説であるとするのだ。 善導和尚は念仏以外にも,観仏やら経の暗誦,読誦なども勧めたが, 法然は、最終的には、ひたすら念仏をして往生を願うほどの人間には、「三心」は自然と具わるものだという理解に傾いてゆく。ということで,念仏以外何もなしという教えを確立していったわけだ。(5/23記)
2023.08.08
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衆生という存在 高柳正裕 久しぶりの仏教書。 難しくて 理解不能。 けれどもなんとか私なりに 咀嚼してみた。 本書で問題視しているのは私という存在である。 私というものを通じて仏というものが何であるかを探ろうとしている。 その私というものを縛っているものの一つが時間であるとする。 日常意識の時間観念から,「私」は孤立し閉じられた「砂時計の時間」しか生きていないことに気づくのに,永遠に自らでありたいという底無しの欲求において迷っている無明に根を持つ存在である。から, 独りぼっちで消えていく。 なぜ他者に触れられないのかと言えば、自分は閉じられた砂時計だからです。 親も友達も、全部別々の砂時計を生きている。 だから、どれほど濃密な関係や信頼関係を結んだとしても、交わること、同体になることはできない。 それ故に、寄り添うことしかできない。 同体にならない限り、サンガにはならないのです。 通り過ぎる関係にしかならない。 これが孤独、そしてサンガの根本の問題です。 このように、サンガの根本問題は、実は時間という問題なのです。とするのだが,この辺の理解が大変 難しい。 そこで この問題に対する答えを次に抜き出してみた。 すなわち「真如」には、そもそも時間、そして長さなどはない。 「寿命」は如来ではなく、衆生にこそ関わる問題である。 この時間と衆生の問題はループし続ける。 私が初めて時間から解き放たれた時に悟りに至ると私は解釈した。 阿弥陀如来の別名無量寿とは実は化仏で真仏にはほど遠い方便なのだった。
2023.08.05
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全文現代語訳 浄土三部経(1) (角川ソフィア文庫) [ 大角 修 ] まずもって浄土三部経の全文訳を読んだところでそうそう簡単に浄土教系を理解できるものではない。 そもそもこれまで何回もこのことつまり浄土三部経の全文訳を読むことをしてきたのだ。 しかし理解しきれないということが事実である。 ただ浄土教系では, 男であれ女であれ、もし、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて往生を願い、「南無阿弥陀仏」の名号を称えたとします。 そうして、もしも一日、もしも二日、もしも三日、もしも四日、もしも五日、もしも六日、もしも七日、一心不乱であるならば、その人の今生の命が終わる臨終のときに、阿弥陀仏は多くの菩薩や聖者・天人たちを従えて来迎し、その人の前に現れます。 その人は、たとえ死に臨んで病は重く、身体は衰えていたとしても、心は乱れることなく安らいで、すぐに阿弥陀仏の極楽国土に往生することができます。ということがプロトである。 すなわちひたすら南無阿弥陀仏と称えるならば往生浄土できるという実に単純な話なのだ。 そのため新義真言宗では, 覚鑁と阿弥陀仏の真言高野山では高野聖が弘法大師への結縁を勧めて各地を巡るようになる。 高野聖は念仏聖でもあった。 その動きのなかで覚鑁(一〇九五~一一四三年)があらわれ、密教と浄土教を統合する。 主著『五輪九字明秘密釈』の序に「顕教(一般の仏教)には釈尊とは別に阿弥陀仏があるが、密教では大日如来が阿弥陀如来であり(中略)大日と弥陀は同体異名、極楽と密厳浄土(大日如来の浄土)の名は異なるが、同じ所である」という。とする。 何と我が家の宗派は浄土教系でもありしかも大日と弥陀は同体異名だというのだ。 えっえっ! なんとあたしゃあ毎日毎日大日如来の前で経を読誦し 阿弥陀仏の呪文密教には諸尊を讃えて祈禱する唱句がある。 それは梵字の音で唱える言葉で、短いものは真言、長めのものは陀羅尼という。 そのなかに阿弥陀仏の真言・陀羅尼もある。 阿弥陀如来根本陀羅尼は阿弥陀大呪ともよばれるもので、「ナウボウ・アラタン・ナウタラヤアヤ……」と唱える。 そのなかに「甘露の尊よ。甘露より生まれし尊」など、「アミリタ」すなわち「甘露」という語が十回出ることから「十甘露呪」ともいう。 阿弥陀大呪に対して小呪といわれるのは「オン・アミリタ・テイゼイ・カラウン(おお、甘露威光の尊に帰依したてまつる)で、梵字で記される。 これらの呪(真言・陀羅尼)は天台宗でも使われ、平等院鳳凰堂の阿弥陀仏像の台座には阿弥陀大呪・小呪の梵字が記された。と真言陀羅尼を読誦して,そのあと無量寿経を読誦して称名念仏しているのだ。 それは正しかったのだねえ。 それはともかく 阿弥陀仏を信じようとしても、なかなかそうはいかない。 その点は鎌倉新仏教の開祖も悩んだ。 浄土宗の開祖=法然(一一三三~一二一二年)は主著『選択本願念仏集』の冒頭に「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本(往生のためのおこないは念仏を本と為す)」また「念仏為先」と記して、ともかく口に念仏を称えよという。 しかし、その専修念仏の門に学んだ浄土真宗の開祖=親鸞(一一七三~一二六三年)は「信心為本(「信心を本と為す)」とし、その信心とは何かを究めるために主著『教行信証』をあらわした。 さらに時宗の開祖=一遍(一二三九~一二八九年)は「信・不信を選ばず善悪を問わず念仏せよ」といい、念仏札を配って人びとが阿弥陀仏と結縁することを重視した。という浄土教系の流れですな,これが一般論というものではあるけれど,信,については法然上人も大事にしておられたことだ。 ただたしかに浄土宗と真宗の違いはなにかとなると上記念仏為本と信心為本というのが一般的な話になる。 ようするにそこから生きているうちに往生できるか死んでからの話になるのかという議論に舞い戻るのだ。(3/7記)
2023.05.30
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法然を読む 「選択本願念仏集」講義【電子書籍】[ 阿満 利麿 ] 基本的に法然上人の信心のスタンスは, 法然は,その中から特に初めの二つを最も重要な「信心」としてどりだしている。 その第一は,自分の中には輪廻から解脱できる力が全くないということを心底から自覚し,信じること。 第二は,そのような自分であっても,阿弥陀仏の本願力によって救われると信じること。ということであり,この二つの順番は変わらない。 すなわち,私の無力があって,それを救う本願力があるという信心である。 なお仏教書の約束事は, 仏教書では,なぜこのような引用中心のスタイルが著述とみなされるようになったのか,一言ふれておこう。 それは,仏教者の主張は,仏教者にとって最高の権威である経典にもとづいてなされなければならないという約束事による。なのだそうだ。 よって私も多く引用させてもらうことにした。 私がアップした仏教関係の記事は,ここ数年は真宗と禅宗のものが多かった。 このたびもう一度法然上人を勉強しなおそうと考えたわけは,先日読んだひろさちや(敬称略)の法然を生きるによることが大きい。 真宗と浄土宗の違いはいったい何なのかと考えたら,冒頭に書いた信心の関係で,まず自分が輪廻から解脱できないということを知り,その救いは阿弥陀仏の本願力によるもの,この順番を違えるなということ,この消息をひろさちやはこの世がなんともならないから南無阿弥陀仏を称えしかるのちに往生浄土するのだとするわけで,真宗に言うこの世での救いなど期待していないというその潔さに感銘したからだ。 なんともならないなかで後生を知るということ,浄土宗の先に真宗があると私は長い間考えていたが,真宗は浄土宗から既に独立してしまっているんだね。 たしかにこの世で救われなければなんの宗教ぞ,死んで往生浄土なんてナンセンスなのかもしれないけれど,実際一念十念一声一声称名念仏すれば心がすがすがしくなるという体験をここ数日している。(3/6記)
2023.05.29
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法然を生きる [ ひろさちや ] しかし今更なぜ法然上人に私は惚れてしまうんでしょうかねえ,それだけ著者の法然上人愛がほとばしる名著だった。 そもそも著者は浄土宗の信徒だから特に法然上人に関する知識,理解が深いということになるのだけれど,これまで数多くの著者の本を読んだ私が今回初めて本当に法然上人の深部、浄土宗の真髄がわかったような気になったというのが本当のところである。 本当に今朝まで法然上人の弟子筋である親鸞聖人の浄土真宗のことばかりを考えていたのに,本書で著者からわかりやすくレクチャーされた結果,しっかりと同意したあるいは心得たとでもいうべき現象が私の内部において起きたのである。 すなわち法然上人の真髄は,厭離穢土・欣求浄土なのである。 厭離穢土なしに欣求浄土はないのだ。 どうしようもない穢土を厭うからこその称名念仏であり,それによってめでたく浄土に行きつけるのだという思想なのだ。 その方法は,十念が一念といって南無阿弥陀仏10回で一遍であり,回数は問わないのだが,称名念仏に対するスタンスとして,何遍でも称えるべきものなのだそうだ。 穢土のことを火消するなという。 この世がつまらないからこそそれを浄土にお土産として持っていけるのだというのだ。 この辺はさすがにひろ節とでもいうのでしょうかねえ。 それでいいじゃないか。 とにかくひたすらの念仏だ。(3/3記)
2023.05.24
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蓮如 夏の嵐(上)【電子書籍】[ 岳宏一郎 ]蓮如 夏の嵐(下)【電子書籍】[ 岳宏一郎 ] それにしても岳宏一郎という作家が昨年12月齢80をすぎてお亡くなりになったなどということは全く知らなかった。 まずもって本作を読もうと思ったのは純粋に真宗の勉強をしたかったからだ。 もっとも最近kindleunlimitedには真宗本が減ってしまって,蓮如で検索したら本作を見つけたというもので,本作は小説であろうがきっと真宗の髄を語ってくれるものだろうという淡い希望を持っていたのだが,結局真宗の髄はなくただただ子供の多い蓮如,複数回結婚した蓮如の姿しか私には映らなくて,先述の通り純粋に真宗の勉強をしたかった私は見事に裏切られたわけだ。 さてそんな風に裏切られたわけだが,通常の小説として読めば,たとえば四男蓮誓と7歳年上の如勝との恋愛話(なんと蓮如はこの絶世の美女を3番目の妻として迎え早世させているのだ)などは読んでいていらいらしてしまうというなまめかしい話で,真宗から離れれば立派な話になったのだった。 そもそも小説なのだから真宗の話などどうでもよいということか。 それはともかく第八祖蓮如により今日の真宗の興隆が図られたということを考えればそれが伝説であれがせであれ本作のようなエピソードは覚えておいて損はあるまい。 とにかく下巻がとても面白くて1時間もしないうちに読了してしまった。 しかし上巻は手間取った。 たしかに白骨の御文なども入っていたけれど「あらゆる存在はつかの間の現象に過ぎぬ。人間もまたしかりである。死とはたぶん人間を成り立たせている諸元素を,もとの混沌に還してやることなのだろう。だとすれば,どうしてこれを嘆き悲しむ必要があろうか」などというおよそ真宗からは考えられない一文も飛び出した。 ようするに本作を読んで真宗を知ることはできない。 ここまでをまとめるとこうだ。 本作は蓮如の外観を知るにはとても参考にはなるが,真宗の髄はひとつもない。 (1/11記)
2023.04.03
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真実の人ー妙好人 松塚豊茂 妙好人の由来は、 善導大師が『観経四帖疏』という本をお書きになりまして、そのなかの「散善義」に「若し念仏する者は、即ち是人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり」(聖七四九九~五〇〇)と述べられました。「ということである。 善導大師が述べられた、好人、妙好人、上上人、希有人、最勝人のうちのひとつである。 これをヒエラルキーと考えるか同一と考えるかはともかく、念仏者妙好人、ということであり、「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節 久近念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」と対をなす。 妙好人の一人に源左がいて、彼が牛とともに草刈りの仕事をし刈った草を牛の背に乗せた後、その草を全部取り除いて自分が背負ったという挿話があるが、長い間私はそれが分からなかった。 それが、 牛は弥陀の姿である。 草を食んで牛は牛となる、その草を牛が、今や背負ふ。 人間の業を食んで弥陀は弥陀となる。 人間の業を背負はずば弥陀は弥陀とならぬ、即ち正覚を取らぬと契はれたではないか。 それが弥陀の大願である、本願である。 源左にははたと思ひ当たるものがあった」(源一六八)。 「草を食んで牛は牛となる、……人間の業を食んで弥陀は弥陀となる」。という一文を読んで腑に落ちた。 そういうことですなあ。 牛が草を食む、阿弥陀様が衆生の業を食む、こういうことだったのです。 つまり、そういうどうにもならない業を「引き受ける、心配いらん、安心してまかせよ」、これが南無阿弥陀仏ということです。とういことでありましょう。 そして、 吉兵衛は「生死の難度海を後にしている爺様ヤデ」(吉一四)と申していますが、これは吉兵衛における「断四流」の領解です。 また、源左は「こつちや持ち前の通り、死んで行きさへすらやえゝだいのう」(吉一一九)と言っています。 源左における死に方の決定です。 このように生死の根本が裁断されるわけですから、それはそのまま自己存在の根本の切断、古い自己に死んで自己が全く新たになること、新しい自己に生れることとしての転換、宗教的転換です。 この転換の場所の性格ですが、いろいろな方面から接近できるとは思いますけれども、自己というものがわかる場所であると申し上げてもよいでしょう。 古くから、自己とは何であるか、私はいったい何者であるか、これが哲学や宗教の根本の問いでございますが、宗教的転換の場所とは、そういうことがはっきりするところでもあります。という宗教的転換ということ。 これが実に大事。 今回はそのことを学ばせてもらいました。 すなわち、吉兵衛においては、生死の難度海をあとにしている、源左は、こつちや持ち前の通り死んでいきさえすらやあえゝだいのう、と生死の問題を新しい自己の誕生として宗教的転換をなしているということを著者は述べている。 死にあたり、否、生きている今も含めて、私は南無阿弥陀仏に掬い取られている。 宗教的転換とは、視点の転換ということでしょうか。 今まで自分が自分がと力んでいてどうしようもなかったのが、南無阿弥陀仏により宗教的転換をなし南無阿弥陀仏に生きていくということ、そういうことでしょうか。(10/12記)
2023.01.04
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現世往生という迷い 三木悟 真宗でもそもそも現世往生はなかったそうだ。 戦後あたりから東本願寺が現世往生を言い始めたとか。 曽我量深師は、 伝統真宗教学の「往生即成仏(おうじょう・そく・じょうぶつ)」に疑問を抱いた。 その疑問から、師は「往生は心にあり」を感得したという。 確かに「往生即成仏」ならば、浄土の意義はよく分からないことになる。 曽我師は「往生」と「成仏」は別の事態でなければならないのだから、身命終が成仏ならば、往生は心命終でなければならないという。 そしてその心命終は、無始よりこのかたの迷情の自力心が終わって、如来の本願他力の世界に生まれることであり、すなわちそれが「即得往生」であり、現世に往生することであると考えた。というあたりが現世往生の根拠足りうるところであろうか。 心が往生するというのはその通りではないのか。 いずれにしろ南無阿弥陀仏が全てである。 聞法とは南無阿弥陀仏のことだ。 ここのところ件の曽我師は、「往生は心にあり。往生は心にあるから、私の体は元の体のままで、自分の心でもって、仏法を聴聞していくと、今の煩悩具足の体で、その煩悩具足の体でもって私どもは往生することができる。今の煩悩具足の体で成仏はできない。これが大体、浄土真宗の教え。これが「本願成就の文」のおみのりである。こう私は……そういうことを言うのは、今までそういうことを思うけれどもうっかり言われないと思って自分は遠慮しておりましたのですけれども、この頃は一つハッキリしてもいいのであろう……。」とわかり易い言葉で語りかけてくれる。 本書のおかげで私はこれから曽我師の本を読まなければなるまいと思うに至った。 本書は難しかったけれど、なんとか読めたのは良かった。 結局真宗も死後から抜けられないのかなと思った。
2022.12.19
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批判的に読み解く「歎異抄」 寿台順誠 さて本書は徹底的に歎異抄を批判する。 特に近代清沢満之とともに歎異抄を広めた暁烏敏批判を繰り返す。 暁烏敏が歎異抄から真宗、親鸞聖人を見つめ、歎異抄こそが真実的なことを言っていることに関し著者は、 これは滅茶苦茶な論理ですよ。 『歎異抄』と親鸞は違うことは分かっているけど自分好みの親鸞であってほしいから、自分の好みじゃないところを全部切って捨てる。 これは親鸞像の捏造です。 暁烏敏はこういう形で『歎異抄』と親鸞を一緒くたにして『歎異抄』を広めたわけです。 こういう態度はよくないと思います。 本当は違うと思っているのに一緒だと言うのは意図的・確信犯的な捏造だと思います。とする。 たしかに真宗、親鸞聖人を勉強し始めると必ず歎異抄に到達する。 そこは登山の休憩場所あるいは山小屋的なところである。 ここで歎異抄を読んで、しかも歎異抄は短くて文章も小気味よくて、現代人でも容易に理解できることから、すごい人気で、対する親鸞聖人の大書、教行信証は引用文ばかりで長大で理解できないなどという批評がなされ、いつのまにか歎異抄が一般の人の真宗のテキストみたいになってしまったのだが、歎異抄は親鸞聖人の聞き語りであり、親鸞聖人の真意ではないので、真宗のテキスト足り得ないのだ。 この歎異抄批判は、著者のみならず他の方からなされており、念仏申さんと思い立つ心の起こるとき摂取不捨の利益にあずけしたまうなり、もこれは親鸞聖人の言葉ではなく作者唯円の言葉であって、真宗たり得ないとまで主張されている人もいる。 そこで著者は、 そうすると親鸞の思想は『歎異抄』とは全然違うと思いませんか。 『歎異抄』では悪は「宿業」で決まっており、自分ではどうにもできないという話になっている。 親鸞は晩年、関東との手紙のやり取りの中で「薬があるからといって、毒を好むな」と一貫して言っていますので、それを読めば『歎異抄』が親鸞と違うのは明らかだと思います。 それにもかからず「悪人正機」「悪人正因」とか、「本願ぼこり」とかが親鸞の教えだとされてきたのは、私は不思議で仕方ありません。として悪人正機説の面から批判を切り込み、暁烏敏によれば、 「ぬすむ者でも、殺す者でも、火つけする者でも」、みな救われちゃうんです。 よいんですか、これで。 「悪人正機」(悪人正因)と言われてきたものがこういうところに帰結するのであるならば、完璧に否定すべきだと私は思います。 「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」という形で善悪の観念を無化してしまうところに帰結するんだとすれば、やっぱりすごく問題なんじゃないでしょうか。 これが『歎異抄』というテキストの持つ根本的な問題だと私は思うのです。と徹底して批判するわけだ。 そもそも真宗における悪人とは、罪人とは違うわけだ。 それがまさに著者が語る、本願ぼこりになってしまうのであれば、歎異抄は真宗から遠く離れたものになってしまう。 蓮如上人が、歎異抄を公開することに反対したこともむべなるかなである。
2022.12.11
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新版 歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 千葉 乗隆 ] 歎異抄は真宗の入。 真宗者はこの書を避けてその教理を語ることはできない。 しかしながらこの書が本当に親鸞聖人の真意であったかどうかは定かでない。 歎異抄は親鸞聖人の聞き語りであることから、親鸞聖人の真意を知るには教行信証を丹念に調べなければならないという人もいる。 まず、 本書の後半の第十一条から第十八条まで、異義を挙げて、これを厳しく批判しているが、後記において、まずこうした異義の発生は、念仏者のなかに、ちがった信心をもつものがいるからであると指摘する。 信心がちがうということは、その信心が阿弥陀仏からたまわったものでなくて、めいめいが自分勝手につくった自力の信心であるからだという。 そのことについて、親鸞が法然門下にいたときの、親鸞の信心と法然の信心が同じかどうかという「信心一異」の論争を挙げている。というもの、これは真宗学の肝であろう。 すなわち親鸞聖人にとって大切なことは徹底他力の信心なのである。 それは私がどうこうするものではないのだ。 めいめいが自分勝手につくった自力の信心は親鸞聖人の最もきらうところであろう。 つまり法然上人の信心も親鸞聖人の信心も私の信心も同じ、同一、それは如来から賜ったもの、ここにいささかの自力は存在しない。 次歎異抄では、 この自力の心をすてて本願他力に帰すということは、ただ一回かぎりのことであって、悪事をはたらくたびに、回心しなければ浄土に往生できないというのではない。 そのように考えるのは、さまざまの悪をたち善を修めて、さとりを開くことを願う自力聖道門の人であると批判する。とする。 ここで幾人もの真宗者がつまずくのではあるまいか。 これを読むとつまり一念義、たった一回きりの称名念仏でよろしいと錯覚してしまう。 わたしもそうでしたな。 一回きりの念仏以外に何もいらないのだ、だから私自身物足りなくて坐ってしまう(坐禅)。 実はここが落とし穴でしたな。 ここは、一回きりの念仏というのは私からの念仏、その瞬間に仏(如来)は私の声を聞いてくださり、その後の念仏は仏(如来)からの召喚。 ほれぼれと仏(如来)の声を聞け、阿弥陀様は音声の仏様であるぞ、ここで一回きりでいいつもりになるのがいわゆる、本願ぼこりというものでしょうな、仏の召喚の声を聞くことを拒絶してしまっている。 真宗者としてまことに痛ましいことだ。 最後(今回歎異抄読了後の)、 この(15)条には、「即身成仏」の異義を批判する。 即身成仏とは、この身のままで仏になるということである。 しかし、本条の結論にあるよう、「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」のであって、この世で生きているかぎりは、あいかわらず煩悩のさかんな凡夫であることに変わりはない。 そのようなわが身のほどをわきまえず、仏になることができるなどと考えるのは、もってのほかのことであると、厳しく戒めている。のだそうだが、これはいただけない。 なぜなら真宗の妙好人らはすでに還相回向しているではないか。 ここはこの歎異抄の作者の大きな過りであると指摘しなければなるまい。 多くの真宗本を読めば、南無阿弥陀仏の真実に私我が飲み込まれるもの、そして透明になるもの、それすらも仏(如来)の側からの働きである。 真言宗が即身成仏を称えることを歎異抄が強く批判する要もない。
2022.12.06
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念仏のすくい 藤田徹文 最近やっと真宗のことが分かるようになってきたような気がする。 本書は真宗を順序立てて説明しているので、最初とっつきにくい感じがした。 まずもって我あるいは我執の問題について深く考察する。 当然我も我執もいいわけがない。 だがそれに囚われているのが人間だというわけだ。 そんなもんに頼り切れるわけがないのに頼ってしまっている自分、このことを理解しないと南無阿弥陀仏は分からない。 真宗は信じていますという教えではない。 浄土真宗は、何度も言いますが、「信じてます」という教えではないのです。 間違いのない、お慈悲が「聞こえた」という話です。 「聞こえた」まんまが出遇いです。 その間違いのないお慈悲が、今わが口を使って、「なもあみだぶつ」、「どんなことがあってもあなたを捨てない私がいる」と喚んでくださっているのです。 だから、間違いのないものを、称えるまんま「聞いて」いくのが、浄土真宗です。 というものである。 すなわち南無阿弥陀仏は私を喚んでいる如来の阿弥陀様の声なのである。 本当に確かなものとは南無阿弥陀仏であり、 本当に確かなものが何処にあるか。 「念仏のみぞまこと」と、親鸞聖人は教えてくださったのです。 念仏とは、「如来さまの喚び声」です。 では、如来さまとはどういう方か。 如来さまというのは、向こうの方から私を見ていて、私の行為が良かったら救ってやろう、悪かったらほっといたろうというような方ではないのです。 私を監視しながら、良かったら合格点付けて、悪かったら落としたろうというような方ではないのです。 私が何もわからない前から、この「いのち」がこの世に誕生する前から、わが「いのち」を抱きしめて支えてくださっている大きなお慈悲を「阿弥陀如来」と言うのです。というものだから、悪い言葉で言えば、ほっとけば良いどういうことでもあるし、ほっとくこと=信でもあるし、だからもう私はまた坐らなくなった。 本書を読む前大峯顯師の法話集を3冊読了し、少し安心しそして前回は坐禅を組まないと何か座りが悪いと感じていたところ、今回はさらに先に進み必ず煩悩が氷溶けることを理解し本書を読んで最初冒頭のような感想を持ったけれども、本書の内容が大峰師の内容にシンクロしていることからもう私は座る必要がないのだなあと判断したのである。
2022.12.05
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大峯顯法話集3 かならず煩悩のこほりとけ まず、 たいていの人は、お浄土に往くというと、楽しいところへ行くことのように想像しています。 この世ではいじめられたから、死んだら楽しいところへ行きたい。 これは、お浄土を楽園のように思っているのでしょう。 しかし、極楽は楽しむところだと思って往生を願っている人は仏に成らないという、蓮如上人の言葉があります。ということばにまたまた衝撃を受けた。 というより合点がいった。 極楽というとどうしても歓楽的な場面を思い起こしてしまう。 しかし蓮如上人がおっしゃるとおり浄土は楽しむところではないのである。 蓮如上人ははっきりと、楽しもうと思って極楽に往くことを願っている者は仏に成らないとおっしゃっています。 如来を信じる人は間違いなく仏に成る、これは真理です。 けれども、楽しみたいというのは信心ではありません。 本当のことを知りたいという心がないと、極楽には往けないのです。ということである。 そして、 私たちが自分の命だと思っているのは、実は仏の命なのです。 なぜなら、私たちは自分の力で生まれてきたわけではないでしょう。 自分のものではなく、仏さまから頂いたのです。 私の中で、本当は仏さまが生きておられるんですね。 それを私が生きていると思うのが「我」です。 その「我」がつぶれさえすればいいのです。 仏教の一大事は、大切な自分という我をつぶすことです。 信心とは、我がつぶされたという経験のことです。となる。 つまり、煩悩の氷が溶けるとは我が潰されることだったのだ。 我が潰されること=信心獲得なのであった。
2022.12.03
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大峯顯法話集2 本当の命を生きる 吾々は煩悩だらけでありその煩悩は氷すなわち、 親鸞聖人は『高僧和讃』の曇鸞讃で、我々凡夫の心を氷にたとえ、これに対して阿弥陀さまの大悲の心を水や海水にたとえておられます。 凍っている海水が我々の心であり、阿弥陀を信じない我々の心は凍りついているわけです。 我々は、誰もが外から来る敵や障害から自分を守ろうとして、かちかちに凍って固くなっています。 けれども氷が溶けたら、我々は仏さまという海水と一体なのです。 溶けた心というのは、自分を守る必要がなくなって安心している心です。 信心をいただいた人というのは、氷が溶け始めている人ですね。 そして、この世の命が終わったとき仏さまになるわけです。 それは仏の大海水の中に入り、これと一つになるということです。 煩悩の海で溺れていた私たちが、仏さまの暖かい光に遇うと、凍りついていた私の心の自己中心性・自我性が溶かされます。 それは、煩悩が無くなるということではなく、自我が仏の無我の中に溶けるということです。 煩悩が消滅することではなく、透明化されることです。ということだそうだ。 この文章はこれまで様々な真宗本を読んできた私にとって衝撃的であった。 とともにこの煩悩具足の私が仏に溶かされてしまうというまたあらたな仏法との出会いがあったからだ。 この論理で行けば、煩悩の氷が溶ければ私は仏になるということだ。 その氷の溶け始めが信心獲得なのだそうだ。 すなわち、 「かならず煩悩のこほりとけ」とは、その信を獲たことをいいます。 お浄土に往ったら、煩悩の氷は溶けるのだろうと想像している人がいるかも知れませんが、問題はどうやったらお浄土に往けるかということでしょう。 親鸞聖人は、どうやったら往けるのかを求められたのです。 それまでの伝統的仏教は、浄土へ往ったら仏になると言っていたのですが、煩悩の私が、どうやって浄土に往けるのかという問いを本当に持たれたのです。 そうしたら、私にはその方法はまったくないが、如来さまの本願海に溶け込みさえすれば往けるということがわかったのです。 如来さまにまかせたら煩悩の氷は溶けて、お浄土の水となるわけです。 そのなり始めが信心です。 溶け始めたらどんどん溶けます。ということでその方法が絶対他力の南無阿弥陀仏なのである。 それは、 無碍光仏は、物質を明るくする光ではなく、心を明るくしてくださるのです。 物質の光は、レントゲンでも影を作りますが、そういうことがないのが如来さまの心光です。 この心光のみが、煩悩の私を明るくしてくださるのです。 煩悩をものともせずに私を照らし、凍りついた私を溶かすのです。 溶かされた水は、本願の海とひとつになりますから、どこかへ捨てる必要はありません。 これが如来さまの救い方です。 仏になることを障げている煩悩が、菩提とひとつになるという解決法です。 煩悩の泥水が清浄な本願海に溶けこんだら、煩悩と菩提との区別がない。 煩悩があるままで菩提であるという、如来の決着です。 阿弥陀さま以外の諸仏は、煩悩をなくさないと仏になれないという立場ですが、阿弥陀さまは煩悩を断ずることなく仏にするという立場です。 正信偈に「不断煩悩得涅槃」と言われている通りです。ということ。 南無阿弥陀仏は煩悩を溶かして透明にする。 もうここまで来ると信心第一、なるほど、もう自力の必要性がなくなるではないか。 実に具体的でわかり易い話だ。
2022.12.02
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大峯顯法話集1 回向される南無阿弥陀仏 大峯顯法話集は全3巻でそれは、1回向される南無阿弥陀仏、2本当の命を生きる、3かならず煩悩のこほりとけである。 1巻あたり60ページ弱なのだが、実に真宗についてわかりやすく説明がなされており、おかげでまた一歩南無阿弥陀仏に近づくことができた。 これら3巻で教えられたことは、第17誓願の大切さ、仏法は人間の煩悩が仏によってこほりとけるもの、すなわち人間は仏によって仏になるもの、そして浄土は歓楽の場ではないということなどである。 まず第17願が称名念仏の核心であるということについては、 第十七願の願文の表面から、言葉になろうという願だということを読み取ることは困難かもしれません。 普通に読むと、十方諸仏がことごとく阿弥陀仏の名を言うことが誓われているらしいという、漠然とした理解しかできないでしょう。 私も初めて読んだときは、この願の意味がよくわかりませんでした。 皆さんはいかがでしょうか。 この宇宙にみちみちている仏さまが、みな南無阿弥陀仏を褒め称えることがなかったら、私は阿弥陀にならないという願をどのように読まれますか。 「わが名を称せずは」と言われても、褒め称えるというところに注意が集中してしまって、名にはつい注意が行かないのではないでしょうか。という単純な疑問についで、 仏の名である南無阿弥陀仏を称えると、称えた人は必ず仏になるのです。 何という不思議でしょうか。 名を言うだけで、仏さまになってしまうのです。 これが名号不思議です。とし、 浄土真宗のこの思想の源泉が回向にあるのです。 第十七願は自分が名号になろうという願ですが、これを「往相回向の願」と親鸞聖人はおっしゃいました。とする。 この事に気づいた親鸞聖人、それを吾々に開示してくれた著者の偉大さに感謝である。 すなわち南無阿弥陀仏の根拠が第17願にあるということ。 ここにおいて南無阿弥陀仏は単なる南無阿弥陀仏ではなくなったのである。
2022.12.01
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初めての人のための親鸞聖人の救済論 紅媒英顕 第18誓願つまり王誓願には、唯除五逆誹謗正法とあるが、この部分を親鸞聖人は さらに『教行信証』「信巻」にはこの逆・謗・闡提を「難化の三機」・「難治の三病」の罪悪なる者と示し、この救われようのない罪悪深重の者が本願醍醐の妙薬(いかなる者も救いとる本願の救い)によって救われるということが『涅槃経』が長く引用されて説明され、強調されているのであります。と、長く涅槃経を引用されて、醍醐の妙薬つまりいかなるものもすくい取る本願の救いとして説明されている。 綺麗事では済まない私を投影するのは阿弥陀様であるけれどそれは親鸞聖人の教えがあって初めて明らかにされたものである。 そして、 現生(現世)の信心決定のときに正定聚の位にさだまるとする現生正定聚を主張され、現生(現世)からの救いを強調されたのであります。 これは経文の当面および七高僧等の浄土の祖師方の上では、死後に浄土でえるとされていたものを現生(現世)でえるものとされた聖人独自の釈顕によるものであります。として現生正定聚というまさに今の私が救われるのだという現世利益の理論も打ち立てられた。 親鸞聖人は偉大な人である。 要するに親鸞聖人は、本願成就文の本来は、彼土の益である正定聚(不退転)を独自の釈顕により、信心獲得のときにえる現生の正定聚(不退転)として解釈されました。 そして「即得往生」を信心獲得のそのときに現世(現生)で正定聚(不退転)の位に住するという意味に釈されたのです。 つまり現世ではっきり救われることを強調されたのであり、現世で浄土に往生するということを主張されたのではないのです。〝 というようなことがなければ人は現に救われないではないか。 死んでからよ、などという悠長なことを行っている暇は私達悪人にはないのだ。 だから、 要するに浄土真宗においては信心決定の身となり、現生正定聚の位に住し、「生きてよし、死してよし」とよろこべる永遠の生命に恵まれることこそが肝心なことであるといえましょう。なのである。 現生正定聚これが実はいちばん重要なことであった。
2022.11.22
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回向された「教行信証」 徳岡秀雄 阿弥陀仏は音声である。 阿弥陀仏は音声になられたのです。 だから、「南無阿弥陀仏」は、悟りの世界から響いてきた音声です。 しかも、四十八願のすべてが法則として樹立されています。 第十七願は、諸仏から誉め讃えられるような「名号」になること、そのことを誓ったのでした。 このことはずーっと前から真宗の本に書いてあったんだろうがそのことに気付いたのはつい最近のことだ。 南無阿弥陀仏はまるで魔法の言葉で、おまじないのように称えておればなにかいいことありそうな、というそれくらいのレベルでしか私は理解していなかったのだ。 しかしそれは違う。 私達は南無阿弥陀仏によって救済されたら今度は還相回向する。 それはそれはとても忙しいことらしい。 阿弥陀仏と往生者たちは、「安らかに眠っている」のではありません。 「有縁を度してしばらくも/休息することなかりけり」(五五九)と、休むことなくダイナミックに浄化・救済活動に励んでいるのです。 というように。 本書によれば往相回向も還相回向も瞬時なのだそうだ。 その結果休むことなく我々もまた浄化・救済活動を為すことになる。 そのメカニズムは、 永遠の別れに嘆き悲しんだ「あの人」も、すでに阿弥陀仏と一心同体となって、阿弥陀仏と同じく、名号として私を調育し、迎え取ろうと呼 (喚) びかけ続けてくださっています。 私は阿弥陀仏と「あの人」との還相回向のお陰で、往生できるはずです。 往生できたら、その浄土では、浄化されてみずから磁石と化した「あの人」が、私を瞬時に磁石化してくださいます。 浄土で磁石化されて成仏できた私は、阿弥陀仏と一心同体となって、今度は還相回向に加わり、惜別した有縁の人たちを迎え取るはたらき(往相回向)に、やがては参加できるはずです。 というもの。 つまりこの話に我々は救われるのだ。 私はこの教えまでなかなか到達できなかった。 一度読んでは休み、また読んではまた休み、などなどそうそうこの阿弥陀様の究極の論理に行きつけなかったのだ。 うむなるほど、上記のような事なれば、法然上人が親鸞聖人に、あの世で待っている、あの世でまた会おうぞ、と言った真意がわかる。 ポイントは瞬時なのである。 阿弥陀様は音声である。 我々は救われて終わりではない。 その後瞬時に還相回向してしまうのだ。
2022.10.30
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教行信証解説 教巻行巻 上田祥広 真宗を一生懸命読んでいて行き着いた先は、 「このまま自分は与えて頂いた智慧によって苦しみから離れてゆく事が出来るが、この人たちは真実を教えてあげる人がいない為に、これからも罪悪を造り続け、苦しみ続けるに違いない。果たしてこの人たちを見殺しにして、自分だけ幸せになる事ができるだろうか。いや、とても出来ない。私も苦しみたくはないが、誰かがこの苦しみの世界の中に飛び込んで助けてあげなければ、この人たちは絶対に助かることはない。ならば、私がやるしかない」と覚悟を決めて、自分が楽になりたいという気持ちから離れて、人々の苦しみを取り除く為に、苦しみと煩悩渦巻く世界に飛び込んで、自分も煩悩に穢れ、苦しみながらも人々の苦しみを取り除いてゆくことに命をかけたい、と目指す方向が変わります。 それが還相廻向です。という、還相廻向の思想である。 阿弥陀如来は我々煩悩具足の凡夫を(苦悩から)救ってくださる。 だから南無阿弥陀仏と称名念仏しなさい、という教えに素直に従うことは間違いではないけれど、実はここが一つの大きな分岐点で、すなわち、この称名念仏そのものが実は阿弥陀如来から来ているもの、私が称名しているのではなく阿弥陀様が南無阿弥陀仏とおっしゃっている、それを聞くこと、聞法ですな、そうすることで、往相廻向する。 やれやれ助かったわい、ではないのだ。 実はここから還相廻向することになる。 これすら自己の意思ではありませんぞ、他力ですからね。 つまり、我々煩悩具足の凡夫の究極の目的は還相廻向して煩悩具足の凡夫を救うことにあるのだ、ということなのだ。 救われてホッとする、それもよかろうけれど、真宗の道はさらなる高みに阿弥陀如来そのものがいざなってくれるのである。 なんと崇高なことか。
2022.10.29
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「教行信証」に近づこう 徳岡秀雄 しかしそれにしても本書は実によくできた仏書でしたな。 そしてなにより真宗というもの、親鸞教学というものをまず仏教から始める。 仏教は、 クシャトリア階層出身のゴータマ・シッダールタが、覚りの境地(涅槃)に到達して釈迦如来(仏)と呼ばれたことに始まります。 人間が仏になったのであり、人間が成仏できるその証拠は、創始者としての釈尊の生涯そのものによって証明されています。とする。 ふむ、ここがまさに仏教の第一球、渾身のストレート、ド・ストライクであります。 そこから長い年月を経て日本にたどり着いた仏教はそこで、一種のガラパゴス化していくわけであるが、特に中国を経由してやってきた浄土教系については、日本において法然上人において花開き、その弟子に当たる親鸞聖人が得た仏証について、 信心の異なるなどということは自力の信にとってのことである。 しかし他力の信心にあってはすべてが如来回向の信心であるから、法然の信心も善信房の信心も更に代わりがなく一つである。 もし信心が変わりおうているというならば、その人々は私が参らせて頂く浄土へは、共にお参りすることはできますまい」とお墨付きをする。 ここに信心すら他力である、すなわち信心こそ仏から賜ったものとする、他力本願の軸が形成されたのである。 ここのところを何気なく読んでしまう、すなわち、親鸞聖人と他の仏弟子の、念仏為先、信心為先の議論の裁断を法然上人に仰いだエピソードになるのだが、その意味がここでやっとわかってきたという、四半世紀以上の年月がかかったのだ。 さて親鸞聖人は 釈尊が誦出した諸経の一つ『仏説無量寿経』の「阿弥陀仏の本願」、それこそが仏教的宇宙の真理だと確信し、釈尊はその真理に促されて誦出したのだとします。 十方世界の無量の諸仏に、阿弥陀仏の本願・名号のいわれを咨嗟(讃嘆)させたいとの『大経』第十七願に応じて、諸仏のなかの一仏である釈尊が説いている、それが『大経』だというのです。とする。 無量寿経は世尊没後長い年月を経て大乗仏教になって初めて世に出てきたお経であるが、親鸞聖人はそのタイムパラドックスを物ともせず、第17誓願が世尊により実現されているというのだ。 この辺のダイナミズムですなあ、惚れ惚れするとはまさにこのことであります。 私が真宗にのめり込んでいく実に素晴らしい理論である! その阿弥陀様の作られた浄土は、 法性法身すなわち「空」へ溶解していく場ではなく、阿弥陀仏と一心同体になれる場処です。 そこでは、成仏しても還相の菩薩として、昔の名前で出ている(七祖、七五)ことも可能です。 私に飛び込んで下さった名号・南無阿弥陀仏として、「仮名人」などという曖昧な表現としてではなく、この私そのものが往生できるのです。 浄土は、「諸上善人(もろもろのすぐれた聖者)とともに一処(阿弥陀仏の浄土)に会する」(一二四)「倶会一処」の場なのです。と、なるほどねえ、南無阿弥陀仏の究極は阿弥陀様と一心同体つまり阿弥陀様に私がなること、そして還相回向により、 私以外のすべての人々が、実は「還相の菩薩」さまだったのだと感得できるようになれば、何と素晴らしい境地が開けてくることでしょうか。と、これが真宗、親鸞教学の究極の姿だと、今ほれぼれと感じ入っているところである。
2022.10.27
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親鸞を生きる【電子書籍】[ ひろさちや ] 著者は人気仏教家だった。 だったと書いたのは最近お亡くなりになられからである。 私は著者の著書を多数読ませていただいた。 私自身の仏教の研究というジャンルの中でお世話になった著者で、参考にさせてもらった。 また著者はこの仏教の教えをもとにして人生論を書かれていた。 その特徴は、 病人は、いつか病気が治り、健康になることもあります。 しかし、それまでのあいだは、その人は病人なんです。 その病人としての期間、のんびり、ゆったり、ほどほどに生きることができれば、その人は幸福なんです。 そのような意味で、仏教は、「なんだっていい」と教えています。 いかなる状態にあっても、その状態のまま幸せに生きろ!それが仏教の教えです。 というような、ま、いいか、の精神だ(この文を引いたのは8月上旬ワクチンの副反応が出て寝たきり状態になってしまったからだ)。 いい加減でいいのだというその根拠は、人間の物差しはあてにならない、仏の物差しによりなさいという確固たる信念であった。 さて著者は仏教に関することのみならず人生論も書いているが、そもそも著者は浄土宗信者である。 したがって南無阿弥陀仏には明るくて本書では、自分は親鸞の教義のファンだよというようなことが書いてある。 しかしそれは親鸞のお師匠様である法然上人の教えによるからである。 本書で親鸞聖人の教えの特徴を終盤の方できちんと書いてある。 本書で押さえるべきところはそこだろうそれは、 阿弥陀仏からの廻向の思想────極楽浄土から再び娑婆世界に帰還するという思想──の二つが、親鸞の独自の思想ということになります。 二つをまとめて、──二種廻向の思想──とすることができるでしょう。 「悪人正機説」ではなしに、「二種廻向説」こそが、親鸞の独想性です。 このことについては根拠として一つには、 『阿弥陀経』にちゃんと還相が説かれています。 《その国(=極楽世界)の衆生は、夜明けとともに、花を盛る器に美しい花を盛り、他の世界においでになる十万億の仏に供養し、食事のときまでに帰って来て食事をし、そのあとあたりを静かに歩いて身心をととのえる》(ひろさちや『阿弥陀経──現代語訳とその読み方』による現代語訳)と阿弥陀経にあるとする。 つまり往相廻向の後すなわち阿弥陀仏の声を聞いて往相した後成仏したら直ちに娑婆に還相廻向するということが我々の究極の人生の目的であるとするのだ。 ここまで行くと親鸞についてはある程度の理解をしたということになろう。 なお冒頭著者はキリスト教の神やら他宗派の大日如来、釈迦如来等を絶対者として崇めるようなことを書いているがこれは方便であろう。 なぜなら仏教は絶対者を認めないからである。 本書は親鸞聖人の書であるので阿弥陀仏を絶対者として崇めるというふうなことを最初に書くのが仏教を学ぼうとしている者に対する誤った針路を示すものである。 この辺の方便を初心者は見破れないので、そこから誤った山道をどんどん進んで行き山頂に行き着くことができなくなるのだ。 絶対者はいないということを前提にして仏を語らなければ神と阿弥陀仏が同様のものになってしまう。
2022.10.20
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仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか【電子書籍】[ 鵜飼秀徳 ] しかしなんと明治維新の野蛮なことよ。 その破壊行為はイスラム教地域におけるタリバンによる仏像の破壊に匹敵する。 その結果、『宗教年鑑 平成二七年版』によれば、鹿児島県内の寺院数は四八七カ寺となっている(四二位)。寺院数が全国一多い愛知県は四五八九カ寺だから、鹿児島県はおよそ一〇分の一の少なさである。鹿児島とほぼ同等の面積の山形県では一四八六カ寺、また広島県では一七二四カ寺だ。というのが現実である。 少なくとも我々日本人は明治維新によってこのような廃仏毀釈=文化財破壊があったということを反省しなければならない。 つまり人のことを言えた義理か、ということである。 さて廃仏毀釈は、 廃仏毀釈の要因は主に四つが挙げられるだろう。 ① 権力者の忖度 ② 富国策のための寺院利用 ③ 熱しやすく冷めやすい日本人の民族性 ④ 僧侶の堕落である。と著者はしているけれどもそのような単純な話ではないのかもしれない。 万世一系の現人神天皇による統治を強要してしまった以上仏教は邪魔なものになってしまった。 まるで仏教がそれまでの封建時代の遺物のようにして焼き払われたり捨てられたりしたということだろう。 それでも大きく領地を取り上げられたとはいえ京都など今日も仏都として頑張っているわけで、その時代のしっかりした宗教、文化に対するポリシーがあったということなのだろう。 先日読んだ、皇国史観、とちょうど本書が対になるとも考えられる。 けれどもその深層は非常に奥深いものでこの2冊によって全てが語られるものではないということは分かった。 皇国史観と廃仏毀釈は対になって考えられることなのだろうけれども、研究の視点は深いものがあって単純に論じることはできないということがわかった。
2022.10.17
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歎異抄 救いのことば【電子書籍】[ 釈徹宗 ] 本書には、歎異抄教というのがある、などということが書かれてある。 まことそうだなと私は思う。 最近真宗に惹かれ(過去何度かあったが、今回はかなりガッツリしている)、様々な本を読んでいる。 そのことから導かれるのは歎異抄と親鸞聖人の教えが、 「誓願によって、往生できると信じて、念仏しようという心が起こった時点で救いは成立する」とありますが、これは親鸞にはない思想です。 微妙な表現の問題なんですけど。と違うということだ。 歎異抄の歎異ですな。 ここのところが明らかになっただけで本書を読んだ甲斐があったというものだ。 つまり真宗門徒は決して歎異抄をたよりにしてはいけないということだ。 参考書としては使えようが親鸞聖人が一体どのような思想のもとに理論を打ち立てられその上で我々はどこに行こうとするのかということを真剣に考えなければならないんじゃないのか。 ところで、 ここまで読み進めて、「阿弥陀仏って、一神教の神みたいだな」と思われた人もおられるでしょう。 確かに似たところがあります。 でも、根本的に異なるんですよ。 そもそも阿弥陀仏という存在は、苦悩する人がいないと成り立ちません。 苦悩する人がいるからこそ、法蔵菩薩は悟りを開いて阿弥陀と成ったのです。 対する一神教の神は、たとえ人間がいようがいまいが、この世界があろうがあるまいが、絶対的に存在する神です。 創造主です。 ここが一神教の軸の強さですね。という文、深いですね。 仏教徒一神教の大きな違いがここにある。 この一文を読むと法蔵菩薩、阿弥陀仏の話は決して夢物語ではない、一神教系との対比で却って真実のものと考えることができる名文であると私は思う。 苦悩して、煩悩を多く持てば、 「罪障功徳の体となるこほりとみづのごとくにてこほりおほきにみづおほしさはりおほきに徳おほし」(親鸞『高僧和讃』) 親鸞の和讃です。煩悩を抱えていれば抱えているほど、大きな悟りに到達するとあります。 それを氷と水の関係に喩えているんですね。 抱えている煩悩が、質的な転換を起こして悟りになるというわけです。 苦しんでいる人ほど喜びも大きいでしょう。 問題を抱えている人ほど、真摯に道を歩む場合もあるでしょう。なのだそうだ。 親鸞聖人の真宗はまだまだ奥が深い。 そのことを思わせられた一書であった。
2022.10.11
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親鸞「教行信証」を読む 石田慶和 難解な本ではあるが、様々考えさせられましたな。 真宗の肝は、信、である。 つまり、 教えを聞き、その導きに従って自分のはからいをすて、如来のはからいにまかせる、それが「信」ということで、そういう「信」は私たちが自分の知的なはたらきをだんだんすてていってついに到達するというようなものではありません。 言わば自分のすべてをすてて、如来のよびかけにめざめるというかたちで「信」がひらかれる。 そのときにその「信」そのものは如来の廻向されたもの、与えられたものとして「大信」と言われるのです。ということである。 真宗においては往相回向、還相回向ということが言われる。 特に還相回向は、 従って還相廻向ということは、ただ私たちが浄土往生の後に得る利益ということだけでなくて、現にはたらいている如来の救済のはたらきそのものであり、それを私たちはうけているのだと、そしていずれこの世の生を終ったならば、そのはたらきの中に私たち自身も参加してゆくのだと、そういう気持で述べておられるのにちがいありません。ということである。 難しいけれど、信、と、還相回向は真宗の二大肝なのだと私は思う。 信、ということは難しい概念ではあるが、上記の抜書が一番ぴったりくる気がする。 真宗に言う信に自分のはからいはないのだ。 その概念に達したとき心が実に軽くなることがわかった。 それは真宗的経験である。 還相回向について、親鸞聖人のことばに往相回向したら急ぎ還相回向するという言葉があることで私は還相回向した私が南無阿弥陀仏を称えることでそれが人のためになるのだなどと考えたのだけれどそれよりも上記抜書のほうがしっくり来る。 つまり今の私は還相回向した仏に掬い取られているということ、然る後に私も還相回向してその元素上こうした仏として働いていくのだということがわかったということ、まだまだわからないことだらけだが、私は今本当に真宗の道を歩もうとしている。 雑行を捨て真宗の道を進みたいと思っている。 やっとここまで来たという思いである。
2022.10.07
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鬼哭の親鸞 入井善樹 本書を読んでいたら頭に来た。 なぜなら今まで読んできた真宗の本と違ってかなりの部分で批判的なものの言い方をしているからである。 例えば親鸞聖人はその救済の対象を当時の下級階層に当てていたはずなのに蓮如がそれを悪人正機に話をすり替えてしまったなどと言う批判なのである。 けれども確かに著者がいうように悪人正機については既に法然上人が別の書物で明らかにしていたことがわかっておりつまり親鸞聖人よりも先に悪人正機は語られていたというエビデンスがあるのだ。 とすると著者の言っていることは正しいということになるのだろうかなどと思い始めたら、俄然本書が面白くなってきたのだった。 つまり真宗の深奥はまだまだ先にあるということが私にはわかってきたのだ。 真宗のそのポイントは仏の喚び声を聞くということである。 何しろ真宗において阿弥陀様は南無阿弥陀仏として自ら私に喚びかけてくださる。 それを聞けというのが真宗でありそれを聞くことがつまり仏から賜った信心ということになる。 つまり現象的には私が南無阿弥陀仏と言っているのだけれど実はこの南無阿弥陀仏は私が言っているのではなく阿弥陀様が言っているのだよという教えなのである。 その南無阿弥陀仏を聞けというのが真宗のポイントなのだ。 そのポイントだけは逸してはいけないのだと思う。 そのポイントがあるから真宗として信心を保てるという風なことになるのだと思う。 いや信心を保つのは私ではない。 あくまでも南無阿弥陀仏なのである。 そうしてみると南無阿弥陀仏に全てが収斂してしまう。 親鸞聖人だけではなく他の浄土教系の祖師方もおっしゃっている通りすべては南無阿弥陀仏なのであり結果仏もわれもなかりけりになるのだ。 さてそのいくつかの真宗のポイントのうち南無阿弥陀仏で往生浄土し成仏した後もう一度この世に帰ってきてつまり還相回向ですな、この衆生の救済のために働かなければならないというのが我々人類究極の目的だと言う点なんとすごい話ではありませんか。 ここはじっくり真宗を味わっていきたいと思った私だった。
2022.10.06
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浄土 そのうけとり方を中心に 稲城選恵 キリスト教的神とはいかなるものか。 仏とは何か。 神と仏はどう違うのか。 これについて著者は、 そこでインド的風土はどういうものかというと、人間の外に人間を支配するものを立てないんです。 それを立てますと、自在天外道という外道になってしまいます。 その人間の外に人間を立てないという点で、一番代表的なものが仏教なんです。 仏教は神のない宗教、キリスト教のような神は立てない宗教です。 そのような超越者を立てないんです。 これが仏教の立場です。 この基盤を理解しないと、正しく仏教を理解することにならないんです。 これは仏教を理解する上で、非常に大事な点です。 ところが、案外これを見逃してしまうから、仏教がわからなくなってしまうんです。 このような場を通さないと、浄土も法蔵菩薩も阿弥陀仏も出てこないんです。 何故かというと、法性法身・方便法身というふうに「法身」とありますから、これはさとりのことだからです。と説明する。 この解釈からすると阿弥陀仏はキリスト教にいう神とは違う存在ということになる。 そこを理解しないと仏教を正しく理解できないと著者は警鐘を鳴らすわけだ。 次、無と無有の違いについて、 これは「無い」という意味ではないんです。 「有ること無し」と「無い」は違うんです。 豆腐屋に四時ごろ豆腐を買いに行ったら、もう売り切れて無いという。 呉服屋に豆腐を買いに行ったら、豆腐がありますか。 これが「有ること無し」です。 昨日行っても、今日行っても、明日行っても無いということ。 ですから、私は三世を通して助かるめどが無いということです。 その内容がこの五劫思惟になるんです。 これくらいのことは少々私にもわかる…かな。 五劫思惟の意味がここまで深いんだな。 助からん私を助けてくださるのが阿弥陀仏でありその方法は謹んで我が名を聞けというもの。 聞くことすら他力なのだというメカニズムをもっと深く理解しなければならないけれどそれを追求する面白さが私には出てきた。 これまで読んできた真宗本をもう一度洗い直さなければならないななどと思い始めた。
2022.09.22
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如来をきく 稲城選恵 深川倫雄 浄土教系は阿弥陀仏をまつることからキリスト教と似ているとよく言われるけれど本書の著者らはそれは大きな誤りだというわけだ。 明治以降西洋にかぶれた結果だという。 まずもって仏教には神がない。 ここが大きな違いだ。 つまりキリスト教に言う神は人と神の二元であり、私は神になれない。 しかし仏は人の問題であり人と仏は不二であってキリスト教のように二元ではないということ。 仏の一仏である阿弥陀仏は、 で、阿弥陀様は、みんな我々一切衆生の心の中に、南無阿弥陀仏として届いておるわけですよ。 時々それはね、自分が聴聞をして知っておるだけでなくてね、自分の体で、認識をするがいいですね。 認識の上にあげて、認識を深めて、確認するがいいです。 我々はこうして、着物の中で裸で生きておりますね。 そして、着物を着たまま知らん顔したまま、心持ちだけは、胸なりお腹なり、思うことが出来ます。 それは、電車の中でも御仏前でも、いつでも出来ることですが、自分の着物の中の裸のおなかでも胸でも思うて、この中に、この皮の中に、南無阿弥陀仏という仏様が宿ってござるんだよぉと思うことを時々やるがいいですよ。ということであり、まず私がいてその私の中に仏がいるということを宿っていることを自覚しなさいというわけだ。 次、南無阿弥陀仏について、 南無阿弥陀仏の解釈にね、あれは有難うございますちゅう意味は一つもないです。 「そのままこいよ、間違わさんぞ、待っておるぞ。」 と言うおよび声であって、又は、はたらきから言うたら「本願名号正定業」である。 しかし「このうえの称名は御恩報謝」って言うじゃないか。 あれは称えるのが御恩報謝、称えるのは私がベロを出して息出して、また、心には称えようと思うたり思わなかったり、それは私の分だから、称名の称が御恩報謝で、名は仏様です。 だから「名」(南無阿弥陀仏)はね、有難うございますと言う意味であると、子供にウソ教えちゃいけんのだな。 「そのままこいよ、間違わさんぞ。」 と言うのであります。と御恩報謝ではないと断じる。 そうだねえ、他力他力と言いながら御恩報謝の南無阿弥陀仏では仕掛けが違うものね。 この辺の奥義が私はまだ深く理解できていない。 まだまだ勉強しなければならない。
2022.09.21
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蓮如 その教えと生き方 早島鏡正【中古】 蓮如 その教えと生き方 / 早島 鏡正 / 日本放送出版協会 [新書]【メール便送料無料】【あす楽対応】 仏法は、 思うままにならない苦なる私の人生を、思うままになる私の人生に、百八十度転換していくことが仏教の目的です。 だから生きているこの世も、そして来世も思うままになる私になることです。 その思うままになることは、我執で思うままになるのではなく、我執を超えた境地を目指して歩み、そして思うままになる私が実現したとき、それを解脱とか自由というのです。 それは安らぎの世界ですから、それを「涅槃」ともいうのです。というように私が180度転換することが重要だとする。 それがさとりということだというのだ。 ところが我々凡夫は高僧のように容易にさとることはできない。 そこで易行である南無阿弥陀仏にたよるのである。 南無阿弥陀仏はそれそのものが仏の姿であり私が往生浄土する姿だという。 180度の転換は何があっても念仏するということなのだそうだ。 その念仏は、 念仏は、我執の凡夫を、さとりの自己たらしめていくはたらきです。 お釈迦さまのさとりは、つきつめていえば、我執のわれわれをさとりの境地に導くものであり、南無阿弥陀仏の本願の心も実はさとりのはたらきにほかなりません。というものであり具体的には、 われわれの生活は仏法を聞くことにあります。 そうなってくると、毎日毎日の生活は、仏法を聞く=聞法の生活でなければなりません。 それをさして蓮如は「人生は念仏生活だよ」といっているのです。 つまり、念仏の教えの中に生きる生活が人生の生活であり、毎日の生活でなければなりません。ということなのだそうだ。 つまり南無阿弥陀仏を聞け!ということになる。 それがスタートでありすべてだということ。 ただただ念仏。 こうなると道元禅師の只管打坐に似てくるね。 只管念仏ということか。
2022.09.16
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よくわかる浄土真宗 重要経典付き【電子書籍】[ 瓜生 中 ] さていよいよここまで来て私は今浄土真宗に傾倒していく。 これまでも何度か浄土真宗本を読んだし最近はほとんど真宗の本を読んでいるけれどもなかなか理解しがたい。 ただただ称名念仏しているだけなんだ。 ここまで何度か書いている通り五劫の修行のエビデンスが解決しないので悩み続けていた。 ところが五劫とは数値化するものではなくただただ永劫ということ、つまり数え切れない長い期間ということなのだ。 それは相対的なものだからたしかに法蔵菩薩は限りなく長い間修行をしたのだろうけれどもそれは五劫という言葉をとにかく長い時間と理解するとエビデンスなど不用になってしまうのだ。 そもそもとにかく人類を救済するという意思であるところの阿弥陀様は目に見えるものでなし、ただ南無阿弥陀仏と称名することでそこに阿弥陀様が私のために存在するという非常にすばらしい話なのだ。 本書は門徒が書いたものでない。 歴とした仏教学者が書いたものだ。 だから信憑性が高い。 南無阿弥陀仏のおかげで死んだらそれまでではないということ、それを信じようが信じまいが仏の方から信心賜り往生浄土してまた現世に戻ってくるということ。 それが信じられるとしたら死はこわくないということ。 もう一度復習すれば法蔵菩薩は相対的に長い期間修行をしそしていかなる人々をも救わないではおれない仏になったということ、それがこの宗派の醍醐味なのだ。 とにかく南無阿弥陀仏、それは仏の方から語られるもの。 難しいと思いつつ私は今なんとか築地本願寺に思いを馳せている。 また新たな私の門出である。
2022.09.15
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ただ今救われて下さい 宮田秀成 さて人生は、 浄土往生をする身にして頂いた人生は、阿弥陀仏より与えられた人生です。 どんな人生であってもそれは、阿弥陀仏から与えられた人生ですから、命の限り生き抜いてください。 浄土に向かう人生はむなしくすぐるものではありません。というもの。 そして、 では南無阿弥陀仏とは何かといえば「ただ今お前を助ける」という阿弥陀仏の喚び声です。 「ただ今お前を助ける」という言葉を聞いて「ただ今私が私が救われる」となったことを「第十八の願をこころうるなり」と言われています。なのだそうだ。 私はここまではわかったのである。 その以前の例えば五劫におよぶ修行の末に願成した阿弥陀様のことについて今少し科学的な根拠(エビデンス)がないとつまり私自身が真宗を人に語ることができないというジレンマに陥ってしまうのである。 私は毎日称名念仏をしている。 そのことがただ私が称名念仏をしているのではなくまずもって阿弥陀様が私を喚んでいる声なのだということを徐々に徐々に理解してきているのである。 例えばこの肉体は私の思い通りにならないことがたくさんあるのだ。 心臓は私が動かしているものではない。 そのような中例えばそちこちを歩き回ることとかプールを泳ぐなどの運動についてはこれは私が行っていることに違いない。 このことは最近気づいたことだ。 つまり私と思われる肉体は私ではない大いなるものの自然の力と私に分類される意識とが一緒に棲んでいるものなのである。 その私というものつまり歩いたり泳いだりする私の方であるがこちらのカテゴリーに私という意識が含まれているのでありそれはいったいこの先どうなるのだという不安がいよいよ歳とともに芽生えてきたのである。 そこで私は南無阿弥陀仏により往生浄土させてもらう人生なのだということに気づかされ生きているのである種のつまりこの先がまだあるということがわかる。 だからその前のいわゆるエビデンスの部分が明らかになれば私は安心できるということになるのだ。
2022.09.14
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あなたのままを生きる 前 赤澤英海 さて真宗に言う信心とは、 阿弥陀さまとは、私たちの自力は何の役にも立たないと見抜かれた上で、「至心信楽の願」を誓われた仏さまです。 そして、そのお誓いが成し遂げられたままに、名号南無阿弥陀仏となって「必ず助ける」とはたらき続けておられます。 その阿弥陀さまのお心を素直に聞かせていただくままを信心と言います。ということだそうだ。 つまり単純に南無阿弥陀仏という言葉そのものがその文字そのものが阿弥陀仏であり今そこにいて私を救ってくれるというものでありそれをしっかり聞くということが信心だというのだ。 そして阿弥陀様は、「摂取」という言葉について、親鸞聖人は「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」と説明されております。 あらゆるいのちを救うというはたらきそのものが阿弥陀さまでありますから、どこまでも追いかけて決して捨てることはありません。 そのおはたらきを摂取というのであります。という仏なのだ。 信心は、 私は、この親鸞聖人の言葉こそ、煩悩を抱えて生きる悩ましい私への励ましの言葉のように感じております。 もしも、浄土真宗の信心が私のはからいによるものならば無くなることもあるでしょう。 しかし、信心は阿弥陀さまより賜ったものであります。 どうしようもない私であることを見抜いた上で、その私をすくい取るために、私の信心までお誓いくださったのですから、決して無くなることはありません。 必ずお浄土に生まれさせていただきます。と阿弥陀様から賜ったもの、どうしようもない私が必ず往生浄土できるというものであり、人生の究極の目的は、 阿弥陀さまより信心を賜った即時(まさにその瞬間)に、迷いの世界を断ち切り、間違いなくお浄土に生まれさせていただけることがわかります。 それこそまさに明確な目的地のある人生です。 阿弥陀さまのおはたらきを聞かせていただくことは、ただむなしく終わっていく人生ではなく、お浄土に参らせていただく人生を歩むことです。 ただ阿弥陀さまにお任せして力を抜いて「アッホ〜♪」という意味のある人生を送らせていただきましょう。ということになる。 まあまずは、迷い苦しむな、究極の目的は往生浄土だということなんでしょうなあ。 ここのところはよく分かるのだが、私には最初の五劫もの長い間という修行期間と私自身がなぜ私であると自覚しているのかがわからないままで疑団が大きくなるのだった。 まあそれにしても往生浄土するのであればこの私はなくならないのであるからあまり深く考える必要はなくなるか。 そうすると五劫の件が解決すればいいんだよなあ。
2022.09.13
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あなたのままを生きる 後 赤澤英海 浄土教系の難しさは現代においては例えば仏教という世尊の教えでないということからつまり根本から仏教ではないと否定されるからである。 にもかかわらず浄土教系とりわけ真宗においては、信、ということを第一義に上げる。 だから難しい。 それはともかく、 ここで、お浄土に往生し、さとりを開いて仏となったならば、迷いの世界に還らせていただき、あらゆる方々をを自由自在に救う活動をさせていただくことが示されております。 そして、そのような救済の活動をさせていただけるのは、「本願力の回向をもつてのゆゑなり」と示されているように、阿弥陀さまのおはたらきによるからであります。というように称名念仏すれば浄土往生は必定にしてそこで悟りを啓かせていただき仏としてこの迷いの世界に帰らせていただいて衆生を救う活動をするという、還相回向が語られる。 ここには、 これらはすべて如来より回向された心であるので、疑いがまじることはありません。としてすなわち徹底他力の回向が語られるわけだ。 ここで疑いが混じることがないとしていることと断じているということはようするにそれが、信、というものだということだろうか。 阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただいたならば、ただちにこの上無い仏のさとりを開かせていただきます。 この徹底他力の境遇に自己がなれるのかどうかについてもまたなるのではなく決まっているのだという尽十方無碍光如来の願力なのだと言う教えは本当に素晴らしいのだけれど冒頭の疑団がどうも晴れなくて大変困っている私なのである。
2022.09.12
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いったい私はどうなりたいのだろう:真宗入門 渡邉晃純 久しぶりの仏書しかも真宗本である。 仏書を読んでいないと言っても毎日坐禅を組んでいるし勤行しているし念仏している。 その中でそもそもこの私は一体何なんだと思いつつまずこの体のどこに自分があるかと言ったらないのだ心臓は誰が動かしているのだ私ではないということがわかりさらにそのような〇〇から頂いた体が作り出した私は私ではないということに気づいた。 生物学的には私は生まれ落ちその時のことは何も覚えておらずその後本書にも書いてある通り2、3歳の頃から自我が芽生え始める。 ここを著者は第二の誕生と捉えるのだ。 そしてさらに第三の誕生を浄土に帰ることという。 ではどのようにして帰るかというと 私どもが聞法して、唯一教えられることは、「念仏申せ」ということです。 念仏申すのは、「私はまた世間体をやっている」と、さっと帰る場所を与えられることです。 南無阿弥陀仏は私が帰る場所ですね。 だから昔も今も浄土は故郷と言います。 そこへ帰れば本当に安んずることができる、それが故郷でしょう。 だから南無阿弥陀仏はふるさと、故郷です。 南無阿弥陀仏。 たった六文字です。 意味が分からないと念仏申せないですね。 あれは法事のときの言葉だ、葬式のときの言葉だ、という方もおられましょうが、南無阿弥陀仏は尊い言葉です。 私が本当に帰るところをあらわしている言葉なのですから。なのだそうだ。 南無阿弥陀仏こそが帰るところなのだけれどここのところが未だにわからないのが私なのだ。 ただ私は否私と思われるものは 人は死ぬのです。 じゃあ、死んで悔いのない命をいただかなくてはならないのではないですか。 この身体(器)の命は死んでいきますが、意味があるのです。 死ぬ命をいただくことによって、死なない命、無量寿という命に目覚めていきなさいよと。 それが最も豊かな生の内容なのです。 そういう命を私たちは生きているのです。 ところが、私の知(人間の知の闇の中)ではそれが見えないのです。というように死んでは行くけれどその前に死なない命すなわち無量寿に目覚めなければならないと著者は言うのだ。 ここでますます混乱してしまう。 もう一度整理すれば今まで私とばかり思っていた私は私ではないのだからその死は何も怖いものではないという理論が成り立つがそうもいかない。 この私と思っている意識を作り出した私(という肉体)の先にある無量寿、むむなるほどそういうことか。 先に書いた〇〇とは無量寿のことだったのだ!
2022.08.21
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人生後半こう生きなはれ【電子書籍】[ 川村妙慶 ] 読んでみたら、要するに定年退職後どうする、どうすべき、というテーマに対する著者独自の見解を述べたものだった。 しかしそれにしても世の中いろいろ、人それぞれ、現役時代に未練を持つ者、現役時代が不消化だったと感じている者、などなど引退後も悩みは多いのだ。 幸い私は仕事に関しては何の未練もない。 やり切った充実感でいっぱいだ。 そして今、自分の専門性という部分でほんの少し世の中に貢献させてもらっている。 著者は僧侶だ。 ゆえに人生相談を受ける。 その結果、引退後の夫婦間のトラブルが実に多いということを感じているようだ。 その都度、僧侶としての適切なアドバイスをしている。 最終的に不仲と思われた夫婦が二人してニコニコしながらウォーキングをすることになるのだから、著者の法力はすごい。 そんなこんなを読み進めていくと、私は私で生き切っているんだけれど、ここまで生きると、いよいよ最後の結末をどうするか、なんてことに迷い込んでしまっている。 それが余計なことだと分かっていても、それが道理である以上、逃げることはできない。 しかしそこで著者は言うわけだ。 生き切れ、生き切れと。 それ以外の道はない。 人間、たまには本書のような人生論を読まなきゃダメだ。
2022.07.21
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【POD】釈尊から親鸞へ 他力と悪人の自覚 悪人正機とは何か [ 鈴木正臣 ] 本書もわかりやすい仏書だった。 まず十二縁起。 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死について① 何も分からないところから ②生まれ出て③識が生じ④色、声、香、味、触、法(六境)という環境に⑤眼、耳、鼻、舌、身、意(六根)という感覚器官が⑥接触して ⑦感受し ⑧それに執着することで ⑨各種の欲望という意識作用が起こり ⑩我が行動の判断材料として ⑪生活し ⑫老いてついに死すというのはいままでで一番わかり易い十二縁起の解説だった。次、 このように、あるがままのすがたを観察すれば、全ては他力だということに気付かれるはずです。 このことを多くの人は勘違いしているのです。 自分で生きていると錯覚しているのです。 自分の体も自然現象と同じで、全て自分の意思と関係なく、量り知れない時間の中で、宇宙の普遍的な法則に従っているのであります。 この量り知れない時間のはたらきを無量寿(アミターユスAmitayus)と言います。 阿弥陀仏の本願力なのです。 無限の時間であります。ということのうち自分自身で生きているという錯覚については私も感じていて、私自身が生きているなどと思えないのである。 先の十二縁起とこの無量寿についての考えに関しては、幼い頃自分の自我が出始めてから現在までのことについては、執着、欲望、意識に間違いなく、また、恐れ多くも私がこの肉体をコントロールなどはできていないという事実もそのとおりなのだ。 そこまではわかったが、じゃあこのおれは一体何モノ、という部分につまずく。 それがわからないから迷い続けている。 そこを、そんなものはない、とできるか。 そんなことは軽々にはできない。 ならばどうするか。 難しい問題ではあるが、十二縁起に基づけば、死にて終わり、無量寿の考えによれば、全ては他力、ゆえに私はない、とすればまず今の環境を楽しめ、ということなのかもしれない。
2022.06.20
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NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ【電子書籍】[ 釈徹宗 ] 本書は今後座右の書になりそうだ。 非常にわかりやすい。 いわゆる腑に落ちた。 まず真宗の肝だがそれは ところが親鸞は、南無を「おまかせします」ではなく、「まかせてくれよ」と仏に呼ばれているのだと領解します。 自分の称えた「南無阿弥陀仏」が、仏の呼び声となって聞こえてくる、それが他力の念仏なのです。 「称える」ことは、すなわち「聞くこと」である。 「称名」は、すなわち「聞名」である、ここが親鸞の念仏の本質です。 「聞名」という思想は、『無量寿経』にも繰り返し出てきます。 親鸞はそこに注目したのです。 浄土真宗の教学では、「称即聞」「聞即信」──「称えること」「聞くこと」「信じること」の三つが一つであるとされています。 浄土真宗の大きな特徴です。 親鸞の念仏と信心を考えるうえでも重要です。ということである。 親鸞聖人の上記お考えの前に そうした社会状況を背景に、法然が説いた平易な念仏の道筋はあらゆる階層の人々のあいだに広まっていきます。 法然の教えはシンプルで、「阿弥陀仏の本願によって誰でも浄土に往生できる。厳しい修行などできない凡人は仏の名を称えよ(称名念仏)」というものでした。 誰もが実践できる「易行(* 17)」であることが大きなポイントです。という法然上人のお考えがある。 浄土教系というのはそういう流れである。 ことここにいたり私などはとても厳しい修行にはついていけそうにない。 そこまでほったらかしにしてきたということなのだが、なにをいまさら真宗に親鸞上人に救いを求めようというのだと言われそうだが、そうだからこそ、南無阿弥陀仏、なのだ。 それがわかってきたから南無阿弥陀仏なのだ。 そのことが実にわかりやすく書いてある書だ。 易行、難行を龍樹菩薩が唱え、自力、他力を曇鸞大師が唱えたのだとか。 そこから法然上人、親鸞聖人にいたり今日に至る。 そして私は今南無阿弥陀仏である。 なぜ私は今南無阿弥陀仏を称えるではないかというと冒頭の親鸞上人の教えによるからである。 ここが真宗の醍醐味なのだと思う。
2022.06.19
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三浦真証 阿弥陀経を読む 久しぶりに仏書を読んだ。 なかなか難しい。 まず浄土真宗から再開した。 西方浄土の考え方について本書では ですから、西方に浄土があると教えるのは、私たちの死は単なる終わりではなく、浄土に生まれていくことであると教えるためだと言えます。 ではなぜ釈尊は「死」を「生まれること」と教えたのでしょうか。 それは、いまここに、死を遠ざけ恐れる私がいるからです。なのだそうだ。 そうなると死を恐れる必要がなくなる。 さらに これは西方に生まれると思わなくてもいいと言っているのではありません。 思わなくてもいいのではなくて、思えなくてもいいということです。 阿弥陀さまが西方に極楽を設けられたのは、死は終わりではなく、生まれることだと教えるためです。 そして、いまを生きろということです。 しかし、死の間際に浄土に生まれると思う暇がなくとも大丈夫なのです。 なぜなら、西方を思うことすらできない者をこそ目当てにして、本願が建てられたからです。 私は、釈尊が西方に浄土があると示された意味をそのように味わっています。 ということでつまり来迎を待って往生浄土をするのではなく、今を大切に生きよ、然る後に浄土に往生せよ、それは願っていても願っていなくともすでに決まっていることなのだ、ということなのでしょうなあ。 この来迎について親鸞聖人は、来るのは阿弥陀様ではなく私達が浄土に来るのだとし、迎えるのは我々ではなくて阿弥陀様が浄土で迎えてくれるのだ、と説明する。 この辺の解釈は実に見事だ。 究極すべてが決まっているのだから何も取越苦労する必要もないということになろうが、そうなると本願ぼこりと言われてしまう、実に難しい状況になる。 久しぶりに仏書を読んだら、随分錆びついているなあと感じた。 私がである。 常時仏の教えに触れていなければ錆びついてしまうんだなということを痛感している。 しかしこのような私をすくい取ってくださるのが阿弥陀様なのだということなのである。
2022.06.17
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【POD】一遍 その鮮烈な生涯 [ 望月宏山 ] 本書では一遍上人、時宗、時衆の魅力が余すところなく語られている。 その基底は 諸仏の光明も及ばぬほど偉大な阿弥陀仏、別名無量寿仏の名号は、迷悟善悪を超越した法であるから、自ら難思光仏、衆生の思慮が及ばぬ光の仏とほめ讃えられています。 名号を信じるときは仏も衆生も隔てはなく、ということは、仏の身口意も衆生の身口意もひとつになるので、さまたげるもののない光の仏とお呼びするのである。 されば、われら衆生は、生賢しらな思量を断ち切り、仏を仰いで一切を任せて、息のある限り南無阿弥陀仏と申さねばならない、と説かれているのです。 という、南無阿弥陀仏の不可思議光である。 それは本当に不可思議である。 名号が仏であるのだから。 そして そもそも私たちの生死は執着心にとらわれた迷いの心であり、悟りは専ら迷いや悩みからの解放です。 生死は本来実体のないものですから、いくら学んでも悟りには到達できませんし、その悟りさえも本来実体がないのですから、いくら行を進めてもつかむことができないのです。 そうはいっても学ばない者は、ますます迷いの世界にはまり込むでしょうし、行を進めなければいよいよ流転するばかりです。 從って、身命を捨てて行を進め、心の限り学問を修めねばなりません。と断ずる。 そうなのだ、実体の無いものが実体のない中で生きているのだが、だから何もしなくてよろしいということにはならぬというのだ。 ここで浄土教は、南無阿弥陀仏と申せ、ということになる。 実体のない世界に生きるということは二河の上の白道にいるということで、その白道は実に細いのだけれどとにかく、南無阿弥陀仏を申せ、 お分かりの通り、火の河は憎しみ怒りの心を表わし、濁流は貪りの心を表わしています。 東岸はいま、私どもが住んでいる迷いの世界、向こう岸は仏の世界・彼岸です。 一遍上人語録巻下86ページに「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。水火の二河は我等が心なり。二河にをかされぬは名号なり」という言葉があります。 この細い白道こそ私たちの命の綱です。 いまや「名号を称えるよりほかに、私たち凡夫が彼岸へ到達できる方法はない」という浄土の教えを、二河白道図は見事に表現していると、南無阿弥陀仏こそ白道だ、というのだ。 かなり抽象的で概念的ではあるが、私達が南無阿弥陀仏を申さなければならないわけが何となく分かる話でもある。 南無阿弥陀仏という細い白道がなければ私達は火の河か濁流に飲み込まれてしまう。 それがどうでもいいという生き方ということになる。 この世の不条理がわかるからこそ南無阿弥陀仏を申さなければならない道理である。
2021.11.10
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真宗 富士川游 本書は宇宙論から始まり世尊の仏教を論じて、弥陀教すなわち浄土教系に入り真宗でまとめる作りになっている。 その順序立て作りは実にわかりやすい。 ただし一回読んだだけでは理解はできない。 だから座右の書にする必要がある。 それはともかく本書を読んで少しは仏教と弥陀教の関わりがわかってきた。 それは直覚的なものだけれど、まず仏教の三法印、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の原理が大宇宙の原理であり故に我というものはどこにもないのだということ。 つまり我は宇宙の成員として様々な縁、かかわりによってなっているものであり無我であるとともに無常、つまり転々流転するものなのだ。 そのようなことが分かった時に弥陀教に入ると、阿弥陀様というのはすなわち大宇宙の事だということが分かるのだ。 だから南無阿弥陀仏というのはすなわち三法印そのものだということになる。 なるほど阿弥陀という言葉は無量の光、無量の寿命なのだから大宇宙に違いないではないか。 つまり法蔵菩薩の誓いは宇宙の成り立ち以前の意思であり、その後その誓いに基づいて大宇宙が成り立ったということであって、我はその成員で無我にして無量なのである。 弥陀教に関し目の前の現象にばかりとらわれていてはいけないのだ。 阿弥陀様を大宇宙と捉えなければならない。
2021.10.25
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正信偈講義Ⅰ 藤場俊基 浄土教系と上座部は仏教といいつつまったくちがうものと考え理解しなければならない。 しかし著者は だから、菩薩の名である「法蔵」ではなく、敬意をこめて如来の名でもって「南無阿弥陀仏」と称したのです。 つまり法蔵の本願は、「南無阿弥陀仏」とその名が称されることで成就する、そういう仕組みになっているのです。 そのことから本願成就ということを考えますと、諸仏が称する「南無阿弥陀仏」の声を聞いて、私たちが同じように「南無阿弥陀仏」と称するときに、本願が成就するのです。 私たちがその名を称することに先だって、本願が成就して阿弥陀如来が私たちを救うために現れてくださるというわけではないのです。 そのような発想は、阿弥陀如来が実体的に存在するという考え方になり、仏教の縁起の道理に反します。 如来として名が称されなければ、如来は現れない。 名が称されると同時に如来が現れる、これならばまさに縁起の道理にのっとった出来事です。として浄土教系の道理を先に阿弥陀様が存在するのではなく、この世の縁起の法理により阿弥陀様は名が称されて同時に現れるのだとする。 理屈といえばそれまでの話だ。 ところが、曇鸞は菩提流支から「阿毘跋致は努力の結果として得られるものではない。努力して達成しようとすること自体が迷いに過ぎない」と指摘されたのです。 つまり今迷っている者が、何をどのように努力精進しても、迷いを積み重ねるだけに過ぎないのです。 偽物を百個集めても一万個集めても本物にはなりません。 それが従因向果です。 これと逆の考え方を「従果向因(果従り因に向かう)」と言います。 従因向果の場合、可能性はあるけれども、必然ではありません。 果が実らなければ、その種は因とは言えないからです。 果なくして因なし、です。 しかし、果から因を見る従果向因の場合は必然です。 果には必ず因があります。しかもその因は必ず一つであり、他の何かに置き換えることはできません。 因がなかったり、縁がなかったりしたのでは、この結果は生じません。 つまり果が生じているところには、必要なものは全部あったし、それを妨げる縁はなかったのです。 必ず唯一無二の因と、必要十分な縁がありました。 現にある果がそれを証明しているわけです。 仏道を、「因から果に到達する可能性がある」という従因向果の視点で考え実践しようとするのが、難行道あるいは聖道門です。 自分が何かをすることが、果に対して何らかの効果や影響がある(縁になる)とする考え方です。 この発想を自力といいます。 逆に、自分が何かをすることは、果に対しては一切何の効果も影響もないという考え方が他力になります。 当たり前のことのようですが、私は、従果向因の視点の重要性を曇鸞から学びました。そしてこのことは私の浄土教理解の基本になっています。 などという言葉は何度読んでも難解でわけがわからない。 私なりの解釈は今の結果が全てだと言うことかと言うようなあたりに落ち着いてしまう。 本当に難解である。 フーっ!
2021.08.27
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