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こないだ二晩一睡もできなくなったから、3日目に睡眠薬使って無理やり寝た。で、その日からやけに睡眠時間が長くなった。平日も休日も9,10時間は寝てる。背でも伸びてくれるのかしら。なんかおもしろいことが起きないか楽しみです。
2007年10月30日
教会に行ったら普段と様子が違いました。午後から心理療法でやるワークショップのようなものがあるそうで。もちろん教会だから、聖書を通じて神さまの御心をしるというのが目的なわけだけど、内容としては心理療法に似たものでした。初対面の人たちと自分の内面について話すというハードなイベントでございます。怖気づつも興味本位で参加しました。礼拝のあと昼食を食べつつ方法を聞いて、1時半くらいからグループに分かれてリトリートを始めました、リトリートとはこのワークショップの名前です。僕のグループは7人で、12畳くらいのこじんまりとした部屋に集まってまず自己紹介を始めました。平均年齢30歳くらいの若い社会人グループで、心理士として普段人の悩み聞く側の方がいたり、さまざまに魅力的な人たちでとりあえず安心でした。学生は自分だけで多少緊張してたのです。そのあと本題に入りました。おのおのが15分ほど聖書を読んで、渡された紙の質問に答えます。その質問は以下のようなことが書かれていました。1、どんなことが記されていますか。数行でまとめてください2、神はどのような方として現されていますか3、神は私になにを教えておられるか記してみましょう。心に残った御言葉がなにで、それを通して神は何を語りかけ教えていますか4、与えられた言葉を感謝し、自分の生活にどのような意味をもってるか示されたことを書きましょう5、示された適用をどのように実践しますかとまぁかなりコテコテの内容で、道端でこんなこと言えば変な目で見られてしまうと思いますが。そこはバランスの取れた人たちが集まってるので大丈夫なのです。かなり宗教色の強いことを自覚し普通の立場をとりしつつ、それを拒否しないというかなんというか。新興宗教とは違うってことです。書いたことを一人ずつ発表し、それについて話し合いました。聖書について話しあうといっても当然自分の悩みを打ち明けることになってしまうわけで、他人が悩みを話し自分が受け入れ、その逆もまたあって、初対面のあつまりのなかでも特別な時間が生まれます。それを神の御恵みととるか心理学的なメカニズムで説明するかは立場の問題かもしれないけど、でもクリスチャンとして集まれば、イエスとも考えたくなります。月並みな言い方をすれば癒されたということかもしれない。読んだ箇所はマルコによる福音書に2章の1節から12節でした。『幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言葉を彼らに語っておられた。すると、人々がひとりの中風のものを4人の人に運ばせて、イエスのところにつれてきた。ところが、群集のために近寄る事ができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風のものを寝かせたまま、床につりおろした。イエスは彼らの信仰をみて、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、「この人は、なぜあんな事をいうのか。それは神をけがすことだ。神一人のほかに誰が罪をゆるすことができるのか」。イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見抜いて、「なぜあなた方は心の中でそんなことを論じているのか。中風のひとに、あなたの罪は許された、というのと、起きよ、床を取り上げて歩け、というのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪を許す権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者に向かって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」といわれた。すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みんなの前を出て行ったので、一同は驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。』と以上のところです。 これを読んで上に書いた質問に答えるのは難しいのかもしれないけど、でも不思議なものでこれをやると癒されてしまったのです。始まる前に「私の心を開いて、御言葉を悟らせてください」と祈ることになってて、たぶんこれがみそなんだと思います。というのも、心理療法でこんなものがあるそうなのです。「悩んでるとき、答えを見つける方法があります。まずできるかぎり自分にとって理想の人を想像してください、なるべくリアルに、目の前にいると思えるくらい具体的に想像してください。そしてその人に対して悩みを打ち明けます。直後か数ヵ月後か、いつか必ず答えが得られます。」イメージした理想の人とは無意識を含めた自分らしいのです。それに問いかけることで、無意識からの答えがえられるというトリックらしいです。詳しく本読めばそれなりに納得できる話で、リトリートでも同じことをしたわけです。そうしておいて聖書を読めば、自分悩みの答えが聖書を通して得られるというわけじゃないでしょうか。半信半疑なら試してみる価値はあると思います。今日やってみた個人的な意見として、おススメします。これをどの立場で解釈するかが難しいところだと思いますが。個人的にはクリスチャンとして受け止めたいと思いました。
2007年10月28日
たとえばしびれてるときの感覚を思い出せば、しびれによって身体を感じてるのか、身体がしびれてるのを感じてるのか分からなくなる。むしろしびれてる身体というのが本当で、しびれと身体を二つに分けることなんてできないのかもしれない。これはしびれてるときだけじゃない。寒いと感じたら寒さと身体を分けることなんてできないと思う。ある感覚を身体が感じたら、その感覚と身体は不可分になるといったらおかしいか。身体は自分の一部なのだから、要は、感じてることは自分自身だといえる。たとえばめちゃくちゃきれいな夕日みたときなんも考えられなくなることがある。夕日が自分だからかもしれない。言葉にすると馬鹿げてるけど、誰しもそういう経験は持ってるはず。身体が世界を感じることで世界は自分自身になる。普通の言い方をすれば、自分が世界に包まれてる感覚を得られると思う。感覚は不思議。身体と感覚と自分っていう意識が自分という有限なものを構成していて、それらが揃うと自分は世界と重なることができる。そのシンプルな感覚のなんと不思議なことか。感覚は自分自身。何かをみて感動しても、なにかを触って感触確かめても、その対象は自分の一部になる。身体を通して世界を感じ世界とつながって、世界とは自分自身のことにほかならない。朝早く起きて日の出をみる。明るくなってあたたかくなる朝が自分となる。どんなに悩んでるときでも世の中すべてが寒くて暗いわけじゃない。感性研ぎ澄ませて感じれば、それが自分自身になるのではないかと思う
2007年10月27日
茂木健一郎さんはアハ体験だけじゃなし。クオリアっていう感覚の中身を研究してるらしい。たとえば色を感じるとき、目だけじゃなくて、色を色だと感覚的に認識する部分もあって、それがクオリアだそう。茂木健一郎さんについて調べてて初めて知った言葉です。でもケンウィルバーもそういう考えしてる。主観と客観、個人と集団で物事を4つに分けて、どんな物事も4つの側面から考えられるっていう考え。色を認知するときを客観的に考えれば科学で、主観的に考えればクオリアになる。ケンウィルバーと茂木さんは似た部分もある。茂木さんはかっこいい。NHKのプロフェッショナルの番組見ててもわかることだけど、調べれば調べるほど改めてかっこいいと思う。ケンウィルバーはすごい。茂木さんもすごい。さっき二人について調べたら関連すること研究してるのが分かった。そりゃ茂木さんもケンウィルバーも同じ時代に生きてるわけだから、考えてみれば不思議じゃないかもしれないけど。でも知ったときは背筋がぞくっとした。自分も啓発されて、雨の日でも精力的に本読んで過ごしたくなった。そういうわけで今日は引きこもって勉強。Thought as passion
2007年10月27日
英検のてつだいをした。バイトです。お昼に暇ができて本でも読もうと思ったら聖書しかなかった。しょうがないからそれ読んでたら、よこのやつが題名わざわざ聞いてくる。はぐらかしてもしつこいから背表紙みせた。そしたらそれ以降一回も話しかけてこなくなった。ざまあみろ。これが一番いい撃退方法。宗教はたからみると気持ち悪いから。でも新興宗教にひっかかるやつにはそれまで宗教を知らなかったひとが多いっていうし、こころのなかで若干同情する。でも聖書読んでるだけであそこまでひかれるとやっぱり嫌になる。みんながみんな彼と同じ反応をするんじゃないかって誤解してしまう。さすがにそれはないかな・・・。家に普通に聖書があるからその辺の基準がわからん。なるべく見せないようにする。そのバイトが3時に終わってそのあと学校の図書館によった。休みで、そのかわり今日は文化祭だった。しょうがないからラムネともち揚げたやつを食べながら野外ステージを一時間眺めてた。つかの間の450円。てゆかレポートが終わらん。昨日もレポートの夢みた。図書館いこうとしたのもそのためだった。はやいうちに終わらせないとおちおち眠れない。つくづく心配性は損だと思います。明日中になんとかおわらせる追記山のあなたの空遠く 「さいわい」住むと人のいふ。 ああ、われひとと尋(と)めゆきて涙さしぐみ、かへりきぬ。山のあなたになほ遠く「さいわい」住むと人のいふ。高校のとき教科書にのってた詩。なんとまぁロマンチックな。上田敏訳カールブッセ作。寝よ寝よ。最近周囲に問題がおおいです。追記きました。数学科の北島せんぱいからメールが。なんと久しぶり。ドイツに留学したという話を聞いてはや2ヶ月。こころのどこかでさびしかったのです。変人すぎて素敵過ぎる北島せんせぇ。背低くて小太りでガラス瓶めがねをかけて、ある日の数学の授業で、突然証明を英語で書いたこともあるらしい。空気よめなすぎですね。そのときクラスに流れたきまずさはいまだ理工学部の語り草。しかもその魅力は女性にはなぜか伝わらない。いい人なのに。ときどきメールで数学の問題送ってくれたりする。なんとまぁきめやかな心遣い。なぜ彼ほどの男子が女にもてないのだ。で、これkが今日のメール。「立方体の頂点をn種の色で着色するとき、異なる着色法は幾通りあるか?」例のごとくこれだけ。あー、いつになったら返信できるかな・・。睡眠不足な上レポートが・・・。でも北島さんのためならなんのその。5年来の付き合いでほんとに魅力的な人。彼が周りの空気読めなくても、こちらが彼の空気に同化すれば問題なし。数学一色の彼はしばし悩みを忘れさせてくれます。浮世を超越してるということ。これからもよろしく。見習ってワタシも頑張ります
2007年10月21日
どんな規則に従うかはどんな視点で世界を眺めるかと言うことだから、ある意味規則が自分の世界を決める。それは法律でもいいと思うけど、いざとなったとき法律を守れるひとがどれだけいるんだろうか。自分の経験と自分の頭で考えた規則でなければ必死で守る事なんてできないと思う。自分の経験と自分の頭で考えた規則は自分のアイデンティティでもあって、アイデンティティだからこそ必死に守る気になる。自分の規則は自分の経験から作るべきだと思う。でも何か自分の核になるような経験探してもいろいろありすぎてわかんなくなる。どんな規則作っても自分の自由なんだから自分の都合いいように作りたくなるに決まってる。自分を超えたものは怖れではなく畏れ。畏敬ともいうように畏れるという言葉には、尊敬しひれ伏すという意味がある。神さま、自然、アートマンは恐れの対象ではなくて畏れの対象。さらにそれらが持ってるのは権力と同時に権威であって、自分を超えたものは権力で従わせるのではなくて、思わずこちらがその権威にひれ伏してしまうもの。恐れと権力ではなくて畏れと権威。この区別は大切です。・・・人から聞いたことだけど。自分なりの規則作るときもそんな存在を考えることが重要。自分が畏敬を感じるもの。もちろん良心もその一つだと思うし、自然だってそう。神さま信じられるならそれでもいい。自分を超えた存在を排除するのは孤独なアイデンティティを作ってしまうと思うし、まず自分を越えた価値観がなければ自分の経験の価値もわからなくなってしまう。自分を超えたものを信じた上で、自分なりの規則が作れればいいと思う。さまよえる子羊を神様は探して見つけ出してくれるそうだから、無理する必要はないけれど。
2007年10月17日
つくづく毎日の生活のなかでやること見つけないとだめだと思う。苦労して暇な時間作ってもテレビみてすごしてしまったりする。物足りない感じうめるためにインターネットだったり遠出してみたりそういうものに幻想もってしまう。必要なことの100パーセントがいまは努力せずに手に入るけど、本来エネルギーと時間のほとんどを衣食住にかけて生きるのが自然な流れであって、いまの自分の生活がそもそもおかしい。暇が創造性を生み出すって言うけど、暇は時間やお金の暇のことのほかに心の余裕のことを指してるのかもしれない。ならいまの生活は絶望的です。お金と暇があってもこころの余裕がなかったら不幸だと思う。それさえあればルーチンワークの意味合いも変わってくると思う。禅僧にとってはなにしてても修行だって言うけど、こころの余裕があればしなくちゃいけないことの意味合いもきっと変わってくる。食事でも睡眠でも風呂はいるのでも自分の姿勢次第でしゅぎょーになるかもしれない、禅僧のいうように。生活のすみずみまで規制されたくないと思ってしまうけど、でもそれは規制じゃなくてこころの余裕があったら自然に出てくる姿勢。そっから解脱でも悟りでもそういう心境になってくるんだと思う。別に仏教用語なんてどうでもいいけど。心境の問題です。
2007年10月15日
「君たちもそろそろ目覚ましてもいいんじゃないですか」有機化学の先生が言う。遊ぶのはもう終わりにして本腰入れて勉強始めなさいと。ムカつく言い方ながら先生の言うとおり最近勉強してる。いままで評価されないことは熱意もってやるけど、評価されることはやらないみたいに、周囲の評価が怖くて逃げてばっかだった。なんだかんだ理系の勉強は嫌いじゃないのに自分の気持ちを理解してなかったばっかりに大きな遠回りをしたと思う。「自分の気持ちをまず整理することが大切」みたいなことをよく聞く。ほんとにその通りだと思う。理由は分からないけど無性に目につく人がいたら、実はそれは相手のせいじゃなくて、自分のコンプレックスをその人が気づかせるからだったりする。自分が普段抑圧してる感情を整理できたらもっと自由になれるんじゃないか。上の例でいえば、たとえば「頭のいいやつは要領がいいだけだ。せこいやつばっかりだ」みたいに、頭のいい人をなんでもかんでも非難する人がいたとする。でもその怒りは、実は自分の頭へのコンプレックスを認めたくないがために相手に投射された感情だったりする。抑圧してる部分があればあるほど理不尽な怒りを感じることになって、周囲は自分の弱みを露呈するためにせまってくる対抗者のように感じるようになると思う。もし自分の気持ちを整理できれば周囲は対抗者じゃなくなる。先入観なしに物事を受け入れられるようになるし、いいものはいい、悪いものは悪いとありのままに感じられるようになる。自分の感性から直接世界を感じられるようになれば、それは周囲に対して開かれた存在になるといえると思う。そうなれば自分の殻を作る必要はなくなる。理不尽な怒りも感じなくなる。周りの刺激をありのまま楽しながら生きられるようになる。本当にきれいなものを見るとなんも考えられなくなる。圧倒されてなんも考えない存在だけの存在になる。それがありのままに生きたときの姿かと思う。存在するために生きられるようになれば、生きること自身が生きる目的になる。そんなふうにいきてみたい。
2007年10月12日
倫理の教科書にも出てくるエリクソン。ライフサイクルとアイデンティティの確立の理論で知られてる。実は13年前になくなったばかりで、結構新しい人だったりする。エリクソンは人には一定の発達段階があるといった。生後一年までは「この世界は信用できるか否か」三歳までは「自分の思い通りに事を支配できるかどうか」五歳までは「これは許されるかどうか」、こうして死ぬまで人には一定の発達段階があると提唱して、特に青年期以降はアイデンティティの問題をテーマにした。かなり反響がありエリクソン以降アイデンティティの確立が心理学のメインテーマになった。にもかかわらず、エリクソンは13年前に死んだばかりなのに、トランスパーソナル心理学というのができて心理学の流れはとっくに変わってるらしい。トランスパーソナル心理学は第4の心理学として1960年ころ生まれた。西洋心理学と東洋宗教の合体といえばいかがわしいけれど、ユングやマズローもかかわっていたりする。エリクソンと同じようにマズローも倫理の教科書に出てくるほど有名。マズローは欲の階級理論で知られている。名誉欲、金銭欲、睡眠欲、食欲などいろいろな欲があるわけだけど、マズローは欲にも順番があると言った。たとえばアウシュビッツにいった人を考える。彼が一番最初に求めるのは生理的な欲とされる。それが満たされると安全と安定が欲しくなり、次に集団所属と愛情、さらに次の段階では自尊心や尊敬が欲しくなって、最終的には自己実現の欲が出てくるという。この欲は階層的なので、たとえば愛情より安定の欲が優先されるということになる。小さな子供を虐待しても親を嫌いにならないのも、安定の欲が愛情の欲より優先されるからと考えられる。それなりに納得できる話で、教訓的な話として学校では「自己実現したいっていう気持ちは高尚なんだよ」なんて話をされる。ただ、マズローは自己実現の中に「愛、正義、真実、美」などといった欲が含まれてる事に気づいた。要はこれらは自分の直接的利益を超えた欲求であり、トランスパーソナル=「個を超える」欲だといえる。そういうわけでトランスパーソナル(=個を超えた)心理学の歴史の最初のほうにマズローがいるというわけ。ユングは無意識の中に集合的無意識といって、個人のなかに人間共通の世界があるとしてトランスパーソナルのなかに取り込まれてくわけだけど、ここでは長くなるので省く。ちなみここはあいまい。アサジオリとグロフ。グロフはLSDを使いその変成意識の研究で関わった。アサジオリは自己超越への具体的指針を示した。(自己超越っていうのはとりあえず自分の直接的利益を超越した段階のこと。マズローの欲の階層で言えば真実、美を求める段階)ちなみにアサジオリの精神統合ってのはおもしろい。フロイトの精神分析に対応して精神統合。抑圧してる気持ちを分析し、統合していくことで精神的な成長ができるといった。臨床効果はあるそうです。トランスパーソナル心理学ができるなかで、上の人の流れにそっていろんな心理学者がいろんなことをいうわけだけど、それを体系的にまとめたのがケンウィルバー。ケンウィルバーは数年前に「トランスパーソナル心理学は堕落の一歩をたどってる」といって統合心理学というのを打ち立てて、個人的に本を書いてるらしいけど、トランスパーソナル心理学はケンウィルバーによって体系的にまとめられた。トランスパーソナルの基本的な考えは人は自我を超えて成長する可能性があるということ。でも自己実現や自我をないがしろにしてるわけじゃない。自我を超えた成長は自我の確立の上に成り立つとしてるだけで自己実現や自我を軽んじてるわけじゃない。自我をないがしろにすればアウシュビッツが繰り返されるというのはよく言われる話。いままで長々と歴史を書いたわけだけど、とりあえず人は自我を超えて成長する可能性があるという主張がいいたかったこと。ところでいままで勝手に人生は道のようなものだと考えてた。生まれてから死ぬまでの間に人生っていう道があって、それを歩き続ける事がいきることだとなんとなく思ってた。でもよく考えたら結局その時々で生きる瞬間が人生のすべてのような気がする。生まれてから死ぬまでが人生じゃなくて、いま生きてることが人生のすべてなんじゃないか。そしてその瞬間瞬間で「本当の自分」なんてものを考えてしまう。たとえば「自分はいま楽しんでる!」って思うとする。でも楽しんでることを発見してる自分が別にいるわけで、楽しんでる自分は本当の自分ではないことになる。また、環境によって行動も変わるものだから現状の姿が本当の自分ではないことになる。だからいまここにいる自分と別に本当の自分というのがあって、本当の自分と現在の環境が接触する事によって「いまここ」にいる自分が生まれるっていうふうに考えてもいいんじゃないか。だから変動的な「今ここ」の姿を見て普遍的な人生の目的なんてのを考えても無意味だと考えたりする。でもこれは本当の自分が見つけられれば当然解決する問題で、もしかしたらトランスパーソナル心理学やケンウィルバーがそのヒントを与えてくれているかもしれないと思う。自己超越とか精神性なんて言葉を聞けば眉唾もの言いたくなるけど、考え込んでいったら納得してしまう。本当に誰しも自分がすべてかといったら違うし、目に見えるものとさわれるものだけがすべてかといったらやっぱり違う。人の精神性とか自分を超える存在があり、それを知る道程に今があるというのは狂った思考じゃないと思う。マズローは欲は階層的だといった。つまり高次な欲は低次な欲が満たされてから得られるものだということ。ケンウィルバーいわくこころの成長も同じように階層的な存在だという。成長していくなかで本当の自分なんてものを知る事ができるなら、いまはその道程だと考えたい。トランスパーソナル心理学とケンウィルバーに全面的には賛同はしない。だけど少なくとも勉強する価値はあると思ってる。「いまここ」が人生のすべてであること、人生を生きている自分がいかに本質的なものを発見していくかということ。これを常に頭の中にいれていたいと思う。
2007年10月08日
今日は実験が休みだった。午前中は授業を受けてその足で午後は高尾山へ。高尾山から城山のほうまで足を伸ばして小仏まで歩いた。悩ましいときは山に登るといい。答えが頂上にあるわけじゃないけど。。山に行けばリラックスできる上 踏破する達成感もあるし、日常から離れられる。たとえば渋谷に行けば人にぶつかる。車もあぶない。渋谷でなくても学校ですら気使わなくちゃいけない。毎日気張ってると疲れる。その点山はいい。死ぬ思いで登山してると全部忘れられる。頂上の景色も格別。 今日の景色もよかった。頂上から近くの山がたくさん重なってみえるんだけど、今日は自分の上空は雨雲、連なってる山の向こうだけ晴れてる、なんて天気だったから、太陽の光が山の向こうにカーテンみたいになってふりそそいでるのが見えた。山岳信仰ってのを実感した。自分の身体、自分の持ち物、自分の身分、自分の友達、ってことばっかりに目向けてる。成績、地位、財布の中身なんて自分以外誰も大切になんて思ってない。こんな生活してるから気づけばものすごい閉塞感感じてたり。。頂上からの景色見るとそういうのがふっとぶ。世界中の自然を自分の一部として見れたら、神さまの懐にいるような安心感を感じられると思う。・・・山はいいね。
2007年10月05日
秋風が立てば悲しくなる。秋が悲しいのではなし。自分の中に悲しさがあって、それが思い出される。「月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど」なんて思い出す。井戸の桶が落ちるようにあっという間に日が暮れる。夜は特に悲しくて人恋しい。気づいたら誰かを思い浮かべてるなんてことがあって、本読みながら、お菓子食べながら、なにしてても気づけば誰かのことを考えてる。夏を思い出して感傷的になるから?百人一首にもあるくらいだからこれが普通なんだと思う。秋は悲しくなるもの。特に夜は人恋しくなるもの。何百年前から同じように感じてきた人がいるわけで、そう考えれば秋の夜に感じる孤独の意味も変わってくる。失敗や悩みも同じことだけど「一人で悩んだ人が他にもいるんだろうなぁ」なんて考えれば意味合いも変わってくる。季節を通じて時間的にも空間的にも誰かとつながっている気がする。だから秋は悲しくても嫌だと思わないのかもしれない。月見て物思いにでもふければ、百人一首の時代と今がつながってくる。こだわりが馬鹿らしくなってなるがままになればいいと思う。秋の風は寒いけど寒いなら寒いでいいと思う。夏が終わるなら、それはそれでいいんです。
2007年10月03日
無条件に愛されて育った覚えはありませんので あるがままの自分を愛してあげるなんてことはできません。欲しいものが常に与えられてきたわけでもありませんのでせこいままに育ちました。クラスメートの皆さんのお育ちはボクなんぞとは違います。ボクは授業中に菓子パン食べたり缶ジュースを音立てて飲むなんてできません。やりたいことをあるがままに認めてもらって育ったわけではないので 周りの視線や先生の気持ちなぞを考えてしまいます。菓子パンを授業中音立てて召し上がるクラスメートは、さぞかし優しい親御さんをお持ちなのですね。授業中に私語する方にも育ちのよさがうかがえます。ボクも溺愛されて育てて欲しかったものです。お優しいであろうご両親のお顔を拝ませていただきたいものですが、毎日クラスメートの馬鹿ップルを見せ付けられては想像に難くありません。前の席に並んで座って会話をかわし、授業は受けつつデートもこなして、要領のよさと自分勝手さが際立っています。ボクのような下人には配慮していただけません。将来生まれるであろう赤ちゃんもそんな輪のなかで素直にすくすくと育っていくんでしょう。自分のことだいすきなナルシストがこうして増えていくわけです。あなたがたがそう育ってきたように。上流階級に必要なのはなんでしょう。自信と財力と権力でしょうか。知性も感性もいらず、必要なのは他人を蹴落とす力なのです。ワタクシのような下人を顧みるお暇もないようで、いかに楽しく、いかに効率よく過ごすかをお考えなのです。お上さまのお考えを推し量るするなんて僭越ですが、日ごろお尻拭かせていただいてる身としてこれぐらいのことは自分に許してしまいます。・・・お強いかたなのですね、お上さまたちは。お上さまの強さとは「われ先に」の精神とそれを支える堅固な精神力です。自分への愛と自分への揺るがない信心がこの世の幸せを約束するのですね。えぇ、えぇ、傍からお見受けしていてもよく分かりますよ。
2007年10月01日
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