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昔は大晦日の雰囲気みたいなの感じてたのに最近は毎日が同じように過ぎていく。一年が過ぎるのもはやい。今日は昨日の疲れが残ってだらだらして、3時からやっと神社に出かけてみた。巫女さんがたくさんいて参道には屋台も出て、寒くって大晦日の雰囲気だった。でも昔感じてたのとはどうも違う気がした。単に「昔はよかった」って感じてるだけなのかもしんないけどね。
2007年12月31日
高尾駅でおりて景信山に寄り道して相模湖まで歩いた。16から20キロは歩いたな。バス使わなかったし。勉強はしたいけど家にいると不健康なので。それに焦ったくらいのほうが効率が上がるし。山は寒かった。。汗かいても耳が寒い。まぁでも今年最後の山が今日でよかった。11月が最後というとしまりが悪いので。今日はもうやることやってさっさと寝ます。
2007年12月30日
つまんなかった。六本木行ってミッドタウン行ってヒルズ行って新宿いって歌舞伎町いってゲーセンいってバッティングセンターいって都庁いった
2007年12月25日
やっと寝よー。実験のその日のうちにレポートを終わらせるなんてなんて真面目、、でもないかもしれない。とりあえず終わらせるだけだからね。ウソをつかない馬鹿正直なやつと同じようなものかも。自分のなかにある不安や孤独をしまいこめないやつは往々にしてそれを他人と共有したがる。正直者といえば正直者だけど、付き合ってみると毒のないやつはつまんないかもね。毒のある人間になりたいものです。寝よ寝よ。そっこうで寝れそう。
2007年12月21日
計算の研究室は就職微妙なので有機化学勉強することにした。計算系の研究室に未来なんてない。いま好きな分野なんてさっさと見切りをつけて有機を勉強しよう。そして早めに就職。生活のために。別に死んだっていいと思ってる。死ぬのが人生の目的だろうし、体と精神が死にたくなったら死ぬのが幸せ。そして人はみな成仏。にもかかわらず自分の場合体がいたって健康なので精神は待たねばならなくて。めんどくさいめんどくさい。でも生きるなら生活を考えるので、そういうわけで有機化学いきます。「死んだら人は動かなくなって単なるものになるから、残されるひとは受け止めようがない」とかなんとか。こないだじいちゃん死んだときおれが死体を10分くらい触ってたら隣の人間がぼそっと。セネカ曰く「死ぬのをどうして怖がることがあるだろうか。生きてるうちは死は向こう側で、死んだらなんの考えられなくなる」だそう。そうでなくても死ぬことに意味を見出せば死なんて怖くなくなる。死ぬのが目的なんてのは当たり前。モーツァルトだって言ってる。そんなの常識。でも生きる権利なんていらないと言っても生きる義務からは逃れられなくて。中途半端は不幸せだから有機いく。あきらめるのは諦念。諦念とはいい意味なのですよ
2007年12月19日
ひとつひとつの脳細胞に意識があるわけじゃない。にも関わらずすべての細胞があつまったところに意識はあって、1を100個あつめたら100以上になるようなもの。自分という存在もおなじで、持ち物 感情 意識 容姿、人間関係や社会的地位などが集まったところに自分がある。一つ一つの要素を取り出して自分だといえるわけじゃないのに。だから自分というものを「自分が関係するすべての事柄の集合と、それに付随して出てくるもの」といえるんではないか。脳はなにかと考えるときに、「脳細胞とそれらが集まって作られる意識」というのと同じ。これがこないだの話。自分という意識も一つの要素に過ぎないから、自分が死んでもたいしたことじゃないということまで言った。でもよくよく考えてみれば「要素」、つまり自分を構成する細胞にあたるものには階層がある。たとえば身体、感情、思い出、意識、信念という要素を考えてみると、まず身体がなくなったら意識、感情、信念、思い出はなくなるということに気づく。つまり身体が土台になって、そのうえに意識と感情と信念と思い出があることに気づく。さらに意識がなくなれば感情と信念と思い出は消えるから、意識の上に感情と信念と思い出があるといえる。このように考えれば上の要素は次のような階層をなしていることがわかる。(身体)>(意識)>(感情)=(信念)=(思い出)。で、話題は変わるけど、ベストセラーになった「世界の日本人ジョーク集」という本のなかにこんなジョークがある。ちなみにこの本結構おススメ。「世界の宗教家が集会をしている際に火事が発生した。キリスト教徒は胸の前で十字を切り、聖書を朗読した。イスラム教徒はメッカの方角を向き「アッラー」へ祈りを捧げた。ユダヤ教徒は自爆テロだと思い震えた。仏教徒は「火事は存在しない」として座り続けた。事務員は消火器を取ると、火を消した。」確かにこの本の中のように仏教には唯識思想というのがある。すべては知るからそこにあるというもので、たとえば目をつぶって目の前の本が見えなくなったとする。普通は見えなくなっただけで以前として本は存在すると考えるだろうけど、唯識思想では本は存在しなくなったとする。最初から説明すれば論理的な話。まず唯識思想では意識の下に二つの無意識を仮定する。一つはマナ識ともう一つはアラヤ識。アラヤ識とはすべてを生み出すエネルギーの宝庫で、この世のすべてはアラヤ識に眠っているとする。そしてマナ識がアラヤ識のなかにあるものを見出すことでこの世と自分が成り立っているとする。だから目をつぶることで目の前の本が見えなくなったときには、本はアラヤ識に還元して消滅したと考える。最初さえ納得すれば論理的な話ではある。さてこのことを考えたとき、自分の要素の階層をどうするべきか。意識があるから身体があるともいえるわけで、意識があるから周囲のものを認知できると考えれば、意識がすべての土台になる。・・・もちろん唯識思想なんてのは一つの考えにすぎない。唯識学者だって唯識思想はこの世を生きるための方言だといってるくらい。唯識思想がホントかウソかなんてのはどうでもいい。ただ、確かに納得もできる話で、見方を変えれば唯識思想もありのような気がしてくる。いずれにせよ要素が階層をなしてることも事実で、階層の捉え方によって自分の存在の考え方が根本から変わってくる。こないだいったように一つの要素が自分ではないことはたしか。それらが作るネットワークのなかに自分はいるんだと思う。こないだの話しはここまで。そしてそれらは階層をなしている。それに気づいたのが今回の話。ひと段落ついたから今日はおしまい。
2007年12月17日
郵便局から速達がきて、ポストに財布と学生証とスイカが投函されたのでお知らせしますだって。うれしいけど、昨日学生証3000円も払って新調したばかりだし、定期の変わりに11枚づりの回数券も買ってしまった。その上現金は抜き取られたっぽいし、タイミングが悪かった。新しくした財布がもどってきたことだけでもいいんだけど。・・・というかわざわざそれ知らせてくれたのがかなりうれしい。明日郵便局にとりにいこ
2007年12月14日
あると思っていたものは他人との関係のなかにある自分だけで、自己完結的な自分はいない。自分とはなにかと考えると分からなくなる。・・・青くさい話じゃなくて。若い人もそういう疑問を考えるけど、大抵将来と一緒に考える。なりたい職業とか進む進路とか。でもそういうのじゃない。自分がなにかなんてわかんないけど、とりあえず一定の枠組みや制約の中で生きてることは事実なんだろうと思う。社会的制約もそうだし、もっと深い意味では人間であることの制約がある。病気するのも人間だからだし、精神面においても人間だからこそ宗教が自分のことをよく言い当てることもある。だけど所詮それは自分の表面や外部を表現するものでしかなくて、中身の部分、つまり自分という個人を表現するには十分じゃない。宗教や心理学の本にいくらでも人間について書かれてる。「人間には意識以外にも無意識とエスと呼ばれるものがあって、それらが常に拮抗しながら自分というものを作り出している」心理学ならこんなふうにいうし、宗教だって似たようなもの。でもいくら人間一般について書かれたものがたくさんあっても、だけどそれは外側でしかない。「自分とはなにか」っていうことを考えると一般論では満足できないところがある。だから自分なりに「中身」の部分をさがさなくちゃいけない。そういうわけで中身ってなんだろうかと思うと、普段その「中身」を人間関係や社会生活のなかに見出していることに気づく。でもそれもやっぱり自分の外側にあること。・・・こう考えるとぞっとする。宗教や心理学に見出すものは自分の外側でしかなくて、自分の内側だと思っていたものも実は自分の外側にあるものだから。自分だと思っていたものが全部自分の外にあるなんて思ってもいなかった。しょうがないから「これは自分」って言えるものをとりあえず全部書き出してみる事にした。感情は自分だし、社会的地位も自分だし、心理学の理論も自分を表してる。こういうふうに書き出してみたらこうなった。人間関係、社会的地位、感情、思い出、信念、etc。これらは全部自分を作る要素だと思う。だけど上で言ったように自分の中にあるものは少なくて、感情と思い出と信念しかない。改めて自分だと思っていたものが実は自分の外にあるもので、いかに自分という存在があいまいかがわかる。でもこういうふうに考えるのは馬鹿らしいんじゃないか。だって自分は自分なんだから、それを外部と内部のように分けたり、ぐだぐだ考えたりするのはある意味で馬鹿らしいこと。そういうわけでこう結論付けるのが一番適当なんじゃないかと思う。「自分を作る要素はいろいろあるけど、それらはお互いに相互関係をもち、くもの巣みたいに絡み合いネットワークを作っている。そのネットワーク全体が自分とする。単独の要素が自分なんじゃない)」。人間関係、社会的地位、感情、思い出、信念、意識、無意識、エス、宗教のいう「真実」、持ち物、家族、身体、他人、・・・そういうものが絡みあって作られたネットワークが自分だということ。決して意識や感情一つを取り出して「これが自分」だとは言ってはいけない。ところでこの宇宙にあるものはとりあえずなんでも相互関係を起こすので、すべてがネットワークを作っているといえる。よって宇宙にあるすべてをつなげたネットワークというのがただ一つあるはずで、自分はその中に組み込まれているといえる。ひとそれぞれが同じように一番大きなネットワークに組み込まれていて、また一方で人間に限らず、他の動物や植物や地球もそのネットワークに組み込まれている。これが他人であり自分であるのだと思う。自分とはなにかということに対して具体的な答えではないけれどそれは問題じゃない。なぜなら意識は自分を構成する要素の一つでしかないから。意識を超えた存在が自分だから。以下は余談。余談1.ネットワークは要素同士の相互関係を結んだものだから、この宇宙で作る一番大きなネットワークはこの世のすべてを包含し超越してる。生と死、いい悪い、善と悪、そういったものをすべて超越してる。これが神と呼ばれるものであって、人間を超越した存在といわれるものだと思う。余談2 自分とは(要素ではなく)ネットワークであると考えれば、死んだって自分はなくならないということになる。・・・そう思う。意識がなくなっても、意識は一つの要素に過ぎないから自分は消えない。意識があるかないかなんて重要じゃない。寝てるときだって意識は飛んでいる。だけど起きれば自分という存在は連続している。死ぬのだって同じ。意識がなくなるのが有限か無限かというだけ。死んで意識と身体がなくなっても、それはたいしたことじゃない。意識は要素の一つに過ぎない。それが自分ではない。
2007年12月13日
日記書くのめんどくさーい。今日は授業の間よく本読んだ。帰りは電車に乗らずに二駅歩いた。こないだ財布なくして定期も現金も学生証も消えたのでしょうがない。普通に行ったら往復1000円かかるので、自転車を使って節約して340円分浮かす事にしてる。明日も。このむだな行為になぜか充実を感じる。明後日のテストは真面目すぎるほどやってる。時間がないのでレポート丸写しにしてテスト勉強。いいのいいの、矛盾してないから。今日はよく頭を使った日だった。悟ったのです。悟りました、ほんとに。まじで
2007年12月12日
http://jp.youtube.com/watch?v=4oZYqAeIdYkLet It Be words and musicby Lennon/McCartney When I find myself in times of trouble Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom Let it beAnd in my hour of darkness She is standing right it front of me Speaking words of wisdom Let it be Let it be, let it be Let it be, let it be Whisper words of wisdom Let it be And when the broken hearted people Living in the world agree There will be an answer Let it be For though they may be parted there is still a chance that they will see There will be an answer Let it be Let it be, let it be Let it be, let it be yeah, there will be an answer Let it be Let it be, let it be Let it be, let it be Whisper words of wisdom Let it be Let it be, let it be Let it be, let it be Whisper words of wisdom Let it be And when the night is cloudy There is still a light that shines on me Shine until tomorrow Let it be I wake up to the sound of music Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom Let it be Let it be, let it be Let it be, let it be There will be an answer Let it be Let it be, let it be Let it be, let it be There will be an answer Let it be Let it be, let it be Let it be, let it be Whisper words of wisdom Let it be
2007年12月08日
今日の実験のときペアのやつが突然「もうやーめた」とか言い始めた。もともといて欲しくもないから帰って欲しかった。味方以外は全員敵なのだ。積極的にそう思ってるわけじゃないけど、自分が積極的にやっかまれるタイプなのだからしょうがない。いつものことだから諦めるしかないね。そんなかんなで実験を不愉快なまま終わり、ぶらぶらと坂道を歩いてた。4時半くらい。で、ふと不愉快なときは呼吸が浅いってことに気づいた。においをかぐように呼吸をすれば気持ちのなんとやすまること。すぐ調子よくなって、ルンルン気分で坂道を下り続けた。するとふと向こうに献血車があった。気分のいいときくらいしてあげてもいいかなーなんて。でも問診受けていざ採決ってとこまでやったとき、両手に針刺さないといけないことを知らされた。左手出したくないから辞退。ジュースとティッシュだけもらいました。自分はカインだななんてうぬぼれちゃったり、でも実際はかなり落ち込んだ。取り返しがつかないことで、過去は背負うしかないみたい。そして帰ってレポート。親類の不幸で明後日から九州に行く事になったので、忙しくなってしまった。やること多い。一つずつ片付けよ。
2007年12月07日
12/6音楽家のレベルを練習時間で分けるとレベルが高いほど練習時間がおおいらしい。つまり、才能の関係しそうな音楽の分野でも努力と成果は比例するということ。将棋指しでも科学者でもなんでもエキスパートというひとは、才能じゃなくて努力と環境によってそうなれたというのは事実らしい。もちろん一定の条件があって、・小さい頃から訓練をはじめた・ 訓練のなかでいい環境が与えられた・ 自分なりに頑張ったという条件がある。でもこれさえクリアすれば、あとの成果は才能とは関係なく、努力と正比例する。 らしい。そういうわけで自分だって訓練さえ受けてればオリンピックの100メートル走に出れたのかもしれないし、数学オリンピックで入賞できたのかもしれない。さらに、いまからでも努力さえすれば、ちょっとしたエキスパートになれるはず。自分に限らず誰だってそうなれるという意味だけど。全部科学的な根拠のある話。それでもだからって「じゃあこれから勉強毎日10時間しよう」とはならず、努力で結構なところまでいけるのかもしれないけど、そんな努力はしない。「努力でどうにかなる」と分かったら、人はその努力をするかってそうでもない。たとえば容姿が悪いからって、努力してお金ためて整形しようと思う人がどれだけいるか。それぞれがそれぞれの置かれた状況になんらかの意味を見出しているだろうし、それまでの「流れ」もあるし、手に入れられると分かることと手に入れようとすることは違う。努力して勉強すれば偉くなれるのかもしれないけど、だからって学校の勉強なんてしない。みんなそうだろうと思う。この世には手に入れられることが分かってることがたくさんある。学歴もそうだし、いろいろあるじゃんか。でも誰もが学歴のために10時間勉強してトーダイにいくわけじゃないし、学歴に限らず「頑張れば手に入れられる」ことを手に入れるわけじゃない。そもそも生きるっていうのは可能性を捨てていくことだろう。誰だって生まれてすぐ訓練を受ければ音楽家になれた。だけどその可能性を捨てて生きてる大人が大部分。未来にしたってそう。努力すればできることはたくさんある。だけどこれから生きていく中でそれらの可能性を捨てていき、自分がとった一つだけの選択肢が自分ということになって、それ以外は「できたけどしなかったこと」になっていく。音楽家の可能性捨ててきたように、人はそんなふうに生きていくにきまってる。ところでよく考えてみると、自分はこれを書いているいまもその選択をしていて、実は上でいったことは大それた話じゃないことが分かる。そして、じゃあなんでいま自分はこの選択をしているんだろうと考えると、他にやることがないからとか、自分が勉強よりも文章書くほうが好きだからとかいうことがある。確かにいま勉強すればテストでいい点とって成績上がって大学院の推薦もらえて・・・なんて話もないわけじゃない。だけどそんなのする気にはどうしてもならない。他人に言わせれば怠惰だからかもしれない。努力すれば手に入ることが分かっているのに、それをしないのは、確かに怠惰とも言える。だけど一般的に全部全部こういう状態を怠惰と片付けられるわけじゃなくて、人によって「手に入ることがわかってるのにその努力をしない」のには個々の事情があるだろう。うつ病の人が手つけられないのと似たようなもの。怠惰という一言で片付けのには無理がある。勉強のできるやつは勉強ができる環境にあるから成績がいいわけで、そこには環境とか本人にはどうしようもない部分も関わってくる。だからやらないのは怠惰、やるのは偉いというように単純には考えられないだろう。ぐだぐだ書いて申し訳ない。でもこうしてぐだぐだ書いてると、できなかったこととしなかったことの区別が曖昧になってくる。やるやらないを決めるとき自分の意志が関わるのは事実。だけど、果たして自分の意志の責任を持つのは誰だろうか。ある一面においてそれはすべてその人自身だともいえる。だけど、生まれてからの運とか環境とか考え込んでいくと、すべてをその人のせいにはできないと思う。選択には自分以外の力が関わっているのではないか。こう考えると以下のことが鮮明に理解できる。なんで将来の可能性を大部分の人は捨てるのかということ。40歳の主婦だって医者になることができる。だけどなんだかんだ理由をつけて受験勉強をしない。そりゃこの例はとっぴすぎるかもしれないけど、ほとんどの人が自分の可能性を捨てながら生きる。論理的に得なほうの選択をする人はすくない。なぜか?もちろん本人が怠慢だからとも言えるけど、上で書いたように、それには自分以外の力の影響もあるだろう。一般的に人生というものはその力に影響されながら進んでいくものではないか。それを「導かれてる」と表現する人も多い。マザーテレサに「どうしてあなたはすごいことができたのですか?」と聞くと「神のお導きです」と答えると思う。偉い偉くないとか、犯罪を犯したか犯さなかったとか、そういうことも導きのようなところがある。ノーベル賞とるような偉い人も殺人を犯すような極悪人も特別じゃない。「普通の人」が導かれて生活するように、その人たちもそういう部分はあるだろうから。人生は導かれるもの。他人が犯した罪は自分がしたかもしれない罪でもあるし、他人がなした偉業だってそう。すべては自分たちが捨ててきた可能性の中にあったこと。こころからそう思えたとき、狭い自我を超え世界を分け隔てなく慈しめるようになるのではないか。あるいは自分が世界になるということかもしれない。そうしたらもっと楽しく生きられるんじゃないだろうか。もちろん偉い人は尊敬されるべきだし、殺人犯は刑罰を受けるべきだとは思ってるけど。12/13ワンズ君には死んだことになっているのです。ある日突然自分が変わった。大学一年の夏に突然誰も頼りにせずに生きていけるようになった。それがなんでか今日ふと理解できるようになった。高校三年の冬に長いこと入院した。就職するやつだとか大学入試をがんばるやつの中で、自分だけが病院で病人に囲まれておいてけぼりにされることになった。山のなかの病院なうえ、親も面会謝絶の病院だったから、時間だけが無駄に過ぎていくような気がした。でもやっとそれに慣れたころ、今度は突然3月に退院することになった、大学に入学するために親と医者が勝手にきめたことだったけど。そしたら今度は大学入学に追われて忙しくなった。でも閉鎖病棟から大学生活なんて適応できるはずもなくて、最初の3ヶ月はサークルだとかクラスの飲み会にも参加してたけど、だんだん疲れがたまってきた。大学には自分が選んだ学部の入試を受けて入ったんじゃない。エスカレーター式で内部推薦で入学した。入院してたから学部は親が決めて、時間の止まった病院から退院したとたん、自分の知らない方向に時間が流れ始めた。ぜんぶがストレスで、6月から授業は一切でなくなって、7月の定期テストは放棄してしまった。大学は大学でくだらないとこ。考えるやつと悩むやつは排除される。要領のいいやつに日が当たり、悩むやつは隅に追いやられる。だんだん大学から足は遠のいて、そしたら不思議と病院が懐かしくなってきた。それで7月の定期テストの日、学校を休んで病院のほうに足をのばすことにした。最初は病院に顔を出すつもりだった。でもいざ目の前に行ってみると、もう自分は「退院」してんだから、いまさら顔をだせるはずのないことに気づいた。だから俺は病院を通り過ぎて、その横の一本道をやみくもに歩くことにした。病院は山奥にある病院で、その道は無理やりコンクリートを埋めたような道だったから、両脇はこんもりとして、車も人もめったに通らないような山の一本道だった。駅から病院まで30分。病院からさらに40分くらいいったところに一人のおばあさんがいた。俺がそのおばあさんに道を聞いたら、おばあさんは親切に教えてくれて、そのまま少し世間話をしてた。「桃があるけど、一人で食べ切れんから、どうたべていきなさい」とまでいってくれた。ものすごくさみしそうだったし、ありがたく頂戴しすることにして、結局2時間くらいそのおばあさんと話してたと思う。その人は昔俺が入院してた病院の看護師だったそうで、ちょっと話も弾んで楽しかったのです。5時くらいになると夕方。明るいうちに駅に戻りたかったから俺はおばあさんに暇を告げた。そしたらおばあさんは「もう帰るの?じゃあちょっと待ってて」と言って、たくさん果物や野菜を持ってきてくれた。裏の庭で作ってるからもっていきなさいって。俺は俺で「いただいていいんですか??ありがとうございます!!」なんていっちゃって、、おばあさんは家の前の道路まで見送ってくれたよ。でもそのとき突然60くらいの夫婦がきて俺に「お前なんだ。ちょっと待ってろ、警察呼ぶから」と言って、今まで話してたおばあさんのこと殴り始めた。手加減なしで80くらいのおばあさんをビンタで殴るんだからびっくりした。その上「警察呼ぶから待ってろ、くそやろう」とまで言われてわけわかんない。とりあえず警察呼ばれたら困るから身分証明書を見せた。そしたら知ってる大学だったらしく、警察はやめてくれた。落ち着いて話したら、結局こういうことだった。親切にしてくれたおばあさんは認知症で、俺にくれた果物や野菜はその夫婦がつくったものだったらしい。俺が「どろぼう」呼ばわりされたのはこういうわけ。殴ったのは、どうせ認知症で訳わかんないんだからだいじょうぶってこと。普段から迷惑かけられてるんだからしょうがないんだって。10分くらいで俺はすぐ釈放されたよ。全部おばあさんのせいだから、あんたはしょうがないってことで。帰り際おばあさんが、殴られながらさみしそうに俺のこと見てたけど、殴られてるの知ってて俺は帰った。どうしようもなかったし。そのおばあさんは昔看護部長だった。いろんな人と付き合って、いろんな歴史があったんだろう。でもいまでは認知症になった。その人が歩んできた歴史をその人自身が忘れてしまって、いまでは誰も顧みない。なんかものすごく悲しくって、帰りの電車はものすごく気分が悪かった。・・・ショックだったね。で、帰ってからもそのことは誰にも言わなかった。ワンズ君にはなんでも話してたし、今回のことも話したかったけど、でもきっとわかってくれないと思った。あのときの虚無感というか、さみしさは誰にもわかってもらえないと思ったからいわなかったんだね。ワンズ君に連絡取らなくなったのはだいたいその5日後とか。彼は俺が自殺したと思ってると思う。ワンズ君は「自殺を止めないから」と言ってたし、ぶっちゃけおれは疎んじられてたし。。俺が連絡とるのをやめても彼からは一切連絡はなかった。彼はいま九大の3年で、ブログ見る限り昔と変わってない。いまの自分だったらいい友達になれる自信はあるけど遠巻きにみてるだけ。いろいろ悩んだ時代は郷愁になったし、いまさら他人に求めるものもないし。最後のメールで「なにか好きな言葉教えてよ。」って言ったら「止まれ、お前はうつくしい」って言葉教えてくれた。なんかそればっか心にしみついてる。帰りの電車でおばあさんの人生考えたらかなしかったけど、でもなんかすっとした気持ちもあった。将来みんな死ぬんだなーと思えたりして肩の荷が下りた気がした。昔もいまもなくて、将来誰もが死んで、それで全部消えてくれると思うと楽になった。全部消えのが救いだと思えるのはいい。結局みんな死んで救われる。そう思うと友達でもなんでも求める事なんてしなくなった。ワンズ君と連絡やめたのもそういうこと。諦念。もういいよ。俺は幸せ。・・・。・・・、「よきかな!」
2007年12月06日
なんでだろうと思えば思考は始まる。最近ぜんぜん頭使ってない。なんでだろうと思えば、その時点で考えは始まる。考えれば新しいこと思いついて世界観が変わることもある。外から見ただけじゃなにも変わってないのに、本人の世界観だけ一変したりするなんて、考えるってのは一つの世界を産み出すようなものかもしれない。なんでだろうと思ったら、その瞬間に世界ができる。考えようとしたらその瞬間に考えは始まる。そんな簡単に世界ができるってすごくないか。なんも動かないでいい。ベッドで寝転びながら世界を旅できるようなもの。夢よりも確かで、動くよりも楽で、一人でも大勢でも楽しめる。その場で終わらずやりがいがあって、道具は要らず、嫌になったらいつでもやめられる。こんな素晴らしいことが、願うだけで手に入る。「なんも思いつかない」「考えることがなにもない」なんてことはない。もちろん本読んだりテレビ見るだけで題材は集まるわけだけど、そんなんじゃなくて、考えようとした瞬間考えは始まるから。考えようしさえすれば、もう考えてる事になる。こんな楽なことはない。・・・予断だけどその上脳はいくら使っても疲れないらしい。脳は心臓や胃や腸といった器官と同じように、いくら使っても疲れない。かと言って肝硬変にもならない。考えるってのはなんて楽なんだろうか。謝罪より感謝楽しさよりやりがい言い争うより話し合おう。妥協は大切だけど信念をわすれちゃいけない才能を嘆く前に努力。それぞれの人に得るものがきっとあるなによりも平和と冷静さ。自分を見失ったら後悔をする。じわっと感じるような幸せに生きたい。
2007年12月03日
いまの世の中 心地よいものなんていくらでもある。心地よいってだけで無条件に求めて満足してるんじゃ機械みたい。高いもの食べて、流行だから新しい洋服買って。今の世の中お金かければいいものなんていくらでも手に入る。だからいいものに価値があまりなくなってきている。と考えるどころか、だからこそいいものを手に入れないといけないって考える神経がわからないし、なによりセンス悪い。自分がブランド負けしたら惨めになる。自分をブランドにしよう。なんていうのは冗談だけど、とりあえず、自分にふさわしいものを考える時間は持ったほうがいいんじゃないか。なんの考えずに高級な服で自分飾り立てたりするのは、自分の身体マネキンみたいに飾り立てるようなもので、マネキンには精神なんてものはない。お金使い込む事で浅はかに見えるの気づかないのかな。ちょっと最近の若者おかしい。自分の行動や格好や、もう少し考える習慣もったほうがいいんじゃないの。なんも考えないで心地いい刺激もとめてるだけなら動物でしょ。話したってつまんねぇ。自転車で段差にぶつかったとき、パンクはするかしないか。パンクしないんですね~。嘘だと思うなら考えてみてください。タイヤの普段の状態は、中の空気がタイヤを外に押してる状態で、中から外に力が向いてる状態。タイヤが段差にぶつかると外から力が加わるわけですが、でもその力は空気が中から外に押す力と相殺されます。そういうわけで、段差にタイヤがぶつかっても、力は打ち消しあって、タイヤが破れることなんてないというわけ。これってすごくないですか?もちろんタイヤの凹んだ分 別の部分に負担がかかるけど、でもそれでパンクはしないだろうから、まぁまず段差にあたってパンクということはないといえます。段差にぶつかるときパンクを恐れてスピードを落とす人がなんと多い事か。そういう人に朗報です。段差にぶつかってもタイヤはパンクしない。この話の本質は、外から力が加わっても、中から外に力が向いてる限り、その外部の力は相殺されてなくなるということ。これから建設的な話を導くとしたら、たとえば、タイヤを自分にたとえてみる。自分の内のエネルギーを学校という外部に発散しながら学校に行ってる。だからもし学校で嫌なことが起きて、自分を押しつぶそうとする力が外から働いても、でもその力は内から出るエネルギーに相殺されるはず。わざわざ内のエネルギーを外に向ける事で学校に行ってる。だから、そのエネルギーが周囲の圧力で弱められても、タイヤ自体に負担がなにも掛からないように、自分自身にはなんの圧力はかからないはず。「外から力が加わっても、中から外に力が向いてる限り、その外部の力は相殺されてなくなる。」学校に行ってるなんて、中から外にエネルギーを向けてるにすぎない。それがつぶさたってどうってことない、、はず。くだらない話だけど
2007年12月03日
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