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「だ、大丈夫か、紗波っ」「パ、パパ……、声大き……」 あら、イケメン……先生が小さく呟く。「高槻さんのお父さま? こんなに早くいらっしゃるとは……お仕事中のところ、お呼び立てして申し訳ありません」 ワイシャツの上に社名の入った作業着――どうやら連絡を受け、すぐに仕事場を飛び出してきたらしい。傘を手にしているものの差さずに来たのか髪と肩が濡れている。 先生の言葉にハッと我に返ったパパは、「あっ、すみません、高槻紗波の父親です。こちらこそ、紗波がいろいろご迷惑お掛けしてしまって――」 慌てて先生に頭を下げた。「と、ところであの、マラソン中に倒れたって……」「ええ、雨の中道に迷って体力を消耗してしまったようですね。さっき熱を測ったら8度2分だったんですが、まだ少し上がるかもしれません」「紗波……」「それと靴擦れもひどくて……今日は相当身体の方堪えていると思いますので、お家でゆっくりさせてあげてくださいね。熱が上がり切ったら、首回りや腋の下を保冷剤なんかで冷やしてあげるといいですよ」 眉を寄せ真摯に頷くと、パパは軽くあたしを睨んだ。「あれほど無理しないように言ったのに――、今朝もなんだか顔色悪かったし、始まる前から具合悪かったんだろ、紗波」「ごめん……なさい……」 あたしはしおしおと小声で謝った。「あ、あの……うちのせいで高槻さん、ひどうなってしもうたんです。調子悪いうちのこと助けようとして……」「えっと、君は……」「遠藤沙夜さん……同じクラスの、友達……」 恥ずかしそうに頭を下げる遠藤さんに、事情がのみ込めないながらもパパは労わるような視線を向ける。「遠藤さんのせいじゃないの……あたしが道に迷っただけで……、それから、クラス委員長の中沢君――雨の中、自転車であたしのこと探して……学校まで連れて帰ってきてくれたの」「そうか、君が紗波を……」「はじめまして、中沢柊哉とい――」「ありがとうっ!」「っ……!?」 パパのいきなりの抱擁に、委員長が目を丸くして固まる。「ちょ……パパっ……」「あっ、つい――、これはすまなかった、えっと……中沢君。ハハ」 パパは照れながら、呆然としている委員長の肩をぽんぽんと叩くと、「じゃあ紗波、帰ろうか」 あたしをゆっくり抱え起こし、後ろ向きにスッと腰を落とした。 えっ……まさか、またおんぶ?「い、いいよ、歩くし……」 もう目立つのは懲り懲りだ。「なに言ってるんだ。熱も高いし足だって――ほら早く」「…………」 頑なに拒み続ける気力も体力も残っていないあたしは、渋々ながらパパの背中に負ぶさった。またコレ……恥ずかしいよー。「よいしょっと。――じゃあ、私たちはこれで……ご迷惑お掛けしてすみませんでした」 先生から荷物を受け取り、あたしを背にパパは深々と頭を下げる。「いえ――、あ、制服なんですけど、ちょっと汚れてるところが……軽く洗ってはみたんですけど、なかなか落ちなくて。できればクリーニングに出してあげてくださいね」「クリーニング……あ、はい。わかりました」「なんだかバタバタしちゃったわね。お家でゆっくり養生してね、高槻さん。お大事に」「はい……ありがとうございます」「またな、高槻」「高槻さん、今日はありがとう……大変な目にあわせてしもうて、ほんまにごめんね……」「ううん、あたしの方こそ――、心配してくれてありがとう、遠藤さん。委員長も……ほんとにありがとう。じゃあ、またね……」 パパの肩越しに挨拶を交わし、みんなに見送られながら保健室を後にする。 タイミング悪く玄関へと続く廊下は、閉会式に向かう生徒たちでごった返していて――しかも流れに逆らって進んでいるから目立つ目立つ。うぅ、もうイヤ……。 横を通り過ぎる生徒のあからさまな好奇の視線と囁き声に、あたしはさっきと同様、今度はパパの背中に隠れるように身を縮こまらせた。――高槻さんじゃろ、あれ……――さっき柊哉に背負われとった思うたら、今度は違うイケメンに……!――父親? ちょ、若くねぇ……!?――あ、紗波先輩っ…… ……ん? なんか今、桜太の声がしたような……? でも顔を上げ、確認する勇気もなく―― ようやくその雑踏から抜け出すことはできたものの、校舎の外は相変わらずの雨――降りようとするあたしを遮り、パパは必死に傘を差し校門脇に停めてある車へと向かう。ゆっくり背中から降ろしてもらい、あたしは後部座席に乗り込んだ。「ごめんね、パパ……仕事だって忙しいのに……」 「いいんだよ、こんな時ぐらい。普段サービス残業してるんだから。ほら、横になって」 パパは助手席のシートに引っ掛けていたスーツの上着を手に取ると、「寒いだろ」寝転がったあたしの上にふわっと被せた。「ありがと……」 ぽんぽんと上着の上から優しく叩き、パパは運転席に乗り込む。緩やかに滑り出す車に、雨にけぶる校舎がゆっくりと後方に流れ去る。「家の方に連絡したら留守だったって――そういえば彼女、買い物に出かけるって言ってたもんな。で、パパのとこに連絡がきたんだけど、紗波がマラソン中に倒れたなんて言うもんだから、もうほんと焦ったよ……。でも、どうして道に迷ったりなんかしたんだ?」「あ、うん……慣れない道でよくわからなくて……、でも倒れたっていっても、足が痛くてちょっと休んでただけなんだよ」 委員長が来てくれなかったら、最悪、救急車のお世話になってたかもしれないけど――嫌がらせのことを含め、正直に言ったところでパパに無駄に心配を掛けてしまうだけなので、あたしは適当にそうごまかした。「んー……まぁ、とにかく見つけてもらえてほんとによかった。今度はしっかり休まなきゃダメだぞ」「はぁい……」 寒気は少し治まったものの目は熱っぽく潤み、頭は益々ぼんやりとして身体に力が入らない。あたしは雨の伝う車窓に虚ろな視線を向けた。 彩香さんが家にいて連絡を受けてたら、彩香さんがあたしのこと迎えに来たのかな、タクシーとかで……。 そういえば昔――、パパとママが同時に学校の保健室に迎えに来たことがあったなぁ…… 滲む景色を眺めながら、ぼんやりと思い返す。 確か……小学2年生ぐらいだったかな。あたしは元気少女だったから、めったに身体なんか壊さなかったんだけど、その日はワケあってすごくお腹が痛くなっちゃって……。学校からの留守電を聞いたママと、直接連絡を受けたパパが慌ててあたしを迎えに来て、保健室でバッタリ鉢合わせ――二人は少しバツが悪そうにしてたけど、でも、あたしはすごく嬉しかったんだ。 そうだ、あの日もこんな雨降りだった。 学校裏の駐車場まで今日みたいにパパにおんぶしてもらって、ママがあたしたちに傘を差し掛けて――『ちょっと圭ちゃん、この子ったらお友達の牛乳3本も飲んだんだって!』『えっ、まさかお腹痛いのってソレ?』『も~、そりゃ痛くなっちゃうわよ~。虫垂炎だったらって慌ててらした先生にほんと申し訳ないわ。こら紗波、なんで言わないの!』『だって……お友達の給食食べるの手伝ったってわかったら、おトイレの掃除しなきゃいけないんだもん……。でも、エリちゃんもミチルちゃんも牛乳すっごく苦手だし、でも、さな牛乳大好きだし……。そしたらね、ハヤトくんが僕のも飲んでって……』『自分のも入れて4本……呆れた……』『さな、もうお腹痛いのイヤ。だから助けてあげるの、一日ひとりだけにする……』『っていうか、もう手伝わないのっ。ほんとにこの子ったら……ぶふっ』『困った子だ、紗波は! あははっ』 大笑いしてるとこに先生が通り掛かって、気まずく会釈しながら――傘の下で三人、肩を揺らして笑い合ったっけ…… あんなに明るく早退していく親子、いないよね。ふふっ……あたしは熱で潤んだ目を細めた。「ん? 今、笑った?」 ハンドルを左に切りながらパパが訊ねる。「ちょっとね……思い出し笑い。ふふ……」「んー? なんだぁ?」「ねぇ、パパ……あと二十日程で、ママのお誕生日だね……」「ああ……そうだなぁ」 パパは感慨深そうに頷いた。 そうだよ、パパ……あれからもう、10年経つんだよ…… パパから贈られた花束を抱え、幸せに満ちた表情で夜の電車に揺られていたママの姿が、切なさを伴って瞼の裏に浮かぶ。「パパ、そのことなんだけど――、ママのお誕生日のケーキだなんて、彩香さん複雑な気分になっちゃうよね……。だから今年はそれっぽくないケーキ買ってきてさ、彩香さんにわからないように、あたしたちの心の中だけでママのお祝いしようよ……」「んー……」 パパは少し間を置くと、「紗波ごめん……パパ、ちょっと今年は――」 困ったようにそう返した。てっきり同意してくれるものと思っていたあたしは驚いて訊き返す。「え、……ダメ、なの?」「いや、えっと……あっ、そう、その日はたぶん、仕事で遅くなると思うから――」「仕事……休みじゃないの? 23日って――」 ママの誕生日、6月23日は確か日曜日だったはず……虚ろな頭で考える。「あー……ほんとは休みなんだけど、本社の人が泊まりで視察に来るんだ。これからのこと話し合ったり、いろいろややこしくてさ。ほら、普段は現場の方、忙しいだろ? だから敢えて休みの日に……うん」「そう、なんだ……」 言い訳めいた物言いになんとなく納得しきれないまま、ぼそりと返す。 仕事で遅くなるなんて、ほんとはそんなの全部嘘で――彩香さんと結婚したから、だからパパ、もうそういうのは止めにしたいって、そう思ってるんじゃ…… リビングに飾って、パパと二人しょっちゅう手を合わせてた、笑顔の三人が映る遊園地のスナップ写真――写真の中のママは、一人澄まし顔で写っているものよりもずっと自然体でママらしさに溢れてて……毎年ママの誕生日には、あたしたちお気に入りのその写真をテーブルに置いて、まるでそこにママがいるみたいに小さなバースデーケーキでお祝いしてた。でも状況が変わった今、その写真はあたしの部屋にひっそりと――あたしだけが想いを込めて眺め、あたしだけが毎日話し掛けて…… パパの心の中から、ママが……消えようとしている―― 彩香さんのせい? それとも、パパがそう望んでいるの? ママのこと……もう、どうでもよくなっちゃったの? 彩香さんにそっと口づけを落とす、愛おしさに満ちたパパの眼差しが脳裏によみがえる。 車内に響く雨音、滲んだ景色――絶え間なく降りしきる雨はあたしの心の中までも濡らし、熱で潤んだ瞳から一筋の涙を誘発させた。「あのさ……紗波の部屋に――」「パパ、あたしちょっと疲れちゃった……着くまで寝てていい?」「あっ、うん、そうだな。ごめんごめん」 上着を頭まで引き被り、あたしは静かに涙を流した。 photo by little5am
2017.01.31
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「あら、制服あったのね!」 カーテンの向こう、先生が弾かれたように声を上げる。「えっと、小野君と柏木さん……だったかしら? ありがとう、助かったわ」 二人とも……あたしの制服、見つけてくれたんだ……「ん、どうしたの? 入っていいのよ?」 ……? と、妙な間を置いて、ようやく結実の小さな声が聞こえてきた。「ゴミ箱に……」「え?」「制服――、女子トイレのゴミ箱に……踏まれたような跡も付いとって……」「……ちょっと貸してくれる?」 トイレのゴミ箱……踏まれた跡…… 委員長と遠藤さんが複雑な表情を浮かべ、言葉なくあたしを見下ろす。と、カーテンがそろりと引き開けられ、「どねーな、高槻――」「紗波……」 小野と結実が気まずそうに顔を覗かせた。「二人とも……ごめんね……」「もう驚ぇたわ、紗波。あんた迷子になっとるっちゅーて……」「ほんま、よう柊哉が見つけたこっちゃ。――じゃけど、なんでコース外れてしもうたんじゃ?」「誰かが橋の手前の矢印、わざと向き変えたんじゃ」 委員長が苛立ちの混じった声で答える。「えっ、誰がそげーな――」「高槻探して通ったときゃー、もう指示板のーなっとったんじゃけど――、最後に橋の前通ったんは、たぶん黒田じゃろういうて……」 委員長の視線を辿り遠藤さんに目を向けた結実は、「カズエ?」 語気を強めて訊き返した。 不意に向けられた強い眼差しにたじろぎつつ、遠藤さんは必死に言葉を返す。「と、友達の黒田さんのこと疑うて、ええ気せんじゃろうけど……じゃけど、最後に走っていったんは黒田さんじゃったし……」 それに――と、遠藤さんは更に身を縮こまらせ付け加えた。「高槻さんが画びょうの怪我がひどうなって右足びっこ引いとるの見て、まだ治っとらんの? って、なんか面白がっとるみてぇな……」「え、カズエ……紗波が画びょうで怪我したこと――」 ……え? 結実が意外な反応を返したので、あたしは怪訝に思いぼそりと訊ねた。「……結実が言ったんじゃないの? 結実から聞いたって本人が……」「うち、カズエになんも言うとらん……」 え、じゃあ……どうして画びょうのこと知ってたの? それって――「実は……」結実が躊躇いがちに口を開く。「カズエも先週、教室の後ろにプリント貼りょーた時、画びょうで指刺して――、せーが、血ぃも拭かんとじーっと刺したとこ見とってなぁ……。だからいうてあれなんじゃけど、紗波の画びょうの話聞いた時、うち、ふとそんこと思い出して……」「はぁーん、成程な……そん時悪巧み思いついたっちゅーワケか。フン、誰も言うとらんのに知っとったんじゃ、こりゃもう間違いねぇじゃろ。んじゃ、画びょうも矢印も制服も、みぃーんな黒田の仕業――そーゆーことか」 いつもへらへらしている小野が、珍しく真顔で憤る。「ほんなら昨日の体育倉庫も――」 は、そうだ昨日……「あぁ……ごめん、いろいろあってうっかりお礼言うの忘れて――、昨日はほんとにありがとう……結実が気付いてくれなかったら、面倒なことになってた……」「うちも後から聞いてびっくりしたわ。迷うたけど柊哉にメール入れてほんまよかった。でもまさかそねーな目におーとるたぁ……」「あ、あの……昨日、何が?」 おずおずと訊ねる遠藤さんに委員長が口を開く。「昨日の放課後、高槻、誰かに体育倉庫閉じ込められたんじゃ」「えっ……」「下駄箱に手紙入れて、高槻んこと体育館裏に呼び出した1年坊主と一緒にな。そいつは無関係じゃったんじゃけど――、どうやら手紙のことを知った犯人が、その1年男子と高槻二人っきりで閉じ込めて問題大きゅうしょーとしたらしい」「そねーなことが――、黒田さんがやったんじゃろうか……全部、黒田さんが――」 眉をひそめる遠藤さんに、結実が首を捻る。「でも、制服はカズエとちゃう思う。カズエ、マラソン戻ってからずっと教室おったし……」「じゃあ、他にも――誰じゃ、うちのクラスんヤツか?」 苛立ちを見せる小野に、みんな難しい顔つきで黙り込む。 ……どんだけ嫌われてるんだ、あたし…… ヨレヨレの自分が更に情けなく思えてきて、あたしは居た堪れず掛け布団を鼻まで引き上げた。と、「なんだか大変そうね……」 先生が気遣わしげにカーテンの端から顔を覗かせ――「いろいろ気になるでしょうけど、今は高槻さん休ませてあげましょ。あと、水原先生に制服あったこと知らせてあげなきゃいけないんじゃないの? 今頃必死で探してるわよ?」「はっ、そうじゃった」 結実と小野が揃って声を上げる。「うち、カズエんこと問いただしてみるわ。なんぼなんでも、やってええことと悪いことがあるけぇ。もし、カズエのやったことなんじゃとしたら――紗波、えらい目合わせてしもうてほんまにごめん……友達として謝る。もう、友達いう目で見れんようなるかもしれんけど……」「結実……」 その口調は強いながらもどこか悲しげで――あたしは複雑な思いで結実を見上げた。「ほんなら紗波、うちらぁ行くけど……今日はよ~う休んで、早う元気んなられぇよ」「おぅ、わしらぁついとるけぇ心配せんでええぞ! あぁ柊哉、表彰遅れんなよ」「面倒じゃけ、代わりにもろうてきてくれ」「ばっ、楽しみにしとる女子らぁに睨まれるわ。じゃあの高槻」「二人とも、ほんとにありがとう……」 ベッドの上からしんみりと二人を見送るあたしに、先生がふと思いついたように訊ねる。「ひょっとして、最近千葉から転校してきたって――あなた?」「あ、はい……」「あら、どうりで言葉が……。新しい土地に馴染むのって大変よね。私も住み慣れた東京から岡山《こっち》に来た当初は、ほんと戸惑ったもの」「先生、東京から……」「そうよー。向こうの言葉って、どうも気取って聞こえるらしいのよね。そんなつもりないのにねぇ。あなたも転校生ならではの洗礼受けてるみたいだけど、その辺りが原因かしら?」 はは……苦笑いで返す。「でも、もう信頼し合える仲間に出会えたみたいね」 委員長と遠藤さんをちらりと見た後、先生はあたしに視線を落とし微笑んだ。 見上げた先には、気恥ずかしそうにあたしを見下ろす二つの眼差し――でも、細められた目元が先生の言葉を肯定している。――仲間…… あたしはしみじみとその言葉を噛み締めた。 あたし、失ってばかりだと思ってた。でも、得たものだってちゃんとあったんだ……「さっ、あなたたち、もうお昼休み終わっちゃうけど――遠藤さん、どう? 身体の方は」「あ、はい……薬が効いてだいぶ楽になったんで、このまま体育館行きます」「そう、よかったわ」 そうだ、昼食……「委員長、ごめんね……あたしのせいでお昼食べ損ねちゃって……」「気にすんな。閉会式で今日は学校終わりなんじゃけぇ。それより早うようなれよ」 委員長…… と、――ガラッ……!「さ、紗波っっ……」 突然、保健室内に切迫した声が響き――ハッとした次の瞬間にはカーテンが荒々しく引き開けられ、パパが血走った目であたしを見下ろしていたのだった。 photo by little5am
2017.01.27
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「遠藤さん……、ごめんね……あたし、すぐ呼んでくるって言ったのに……」「そねーなことっ……高槻さんこそ足怪我しとるのに、こねん雨ん中――」 遠藤さん、体操服濡れてない――よかった。雨が降る前に気付いてもらえたんだ……「高槻さんおらんって聞いて、どーしょー思うて、うち……」「遠藤さん……」 あたしたちは込み上げる思いに、束の間言葉なく見つめ合った。「さぁさぁ、早くレインコート脱いで――あら、あなた唇の色が悪いわ」「先生、こいつ熱が――」 先生があたしの額に手を当て、次いで手を握り締める。「冷え切ってる……寒気がするでしょ? 熱、まだ上がりそうね。すぐに着替えた方がいいけど――」「高槻の制服は今、水原先生が取りに行ってくれとるけぇ」「そう、じゃあもう届くわね。――君は?」「俺は何か借りてぇーんじゃけど……」「ジャージでいいかしら? あぁ、あなたはこれで熱測っててくれる?」 白衣のポケットから取り出した体温計をあたしに手渡し、先生はくるりと踵を返す。「ついさっきまで見るからにか弱そうな1年男子が一人いたんだけど、死にそうだの足がちぎれそうだのほんっと大袈裟で……の割にたいしたことないから湿布だけ貼って追い返したの。――と、はいコレ。タオルもね。ってことで今はあなたたちしかいないから、どこででも好きに着替えてちょうだい」「じゃ、ちぃと奥借ります」 ぺこりと頭を下げ、委員長は着替えを手にカーテンの掛かる奥のベッドへと向かう。 か弱そうな1年男子……。桜太か? それにしても、きびきびと動きにそつがない先生だ。言葉も――岡山《ここ》の人じゃないのかな……「えっと、あなたは――足、怪我してるって言ってたわね。今のうちに診ておきましょうか。ちょっとここに座ってくれる?」 肩に掛けてくれた厚手のバスタオルで髪を拭いながら丸椅子に腰掛ける。「土足ですみません……」「いいのよ、緊急事態なんだから。右足? ちょっと失礼」 先生があたしの右足を軽く持ち上げ、靴を脱がそうと手を掛ける。「つっ……」「あら、これだけで痛いの? よいしょっと――まぁ、あなた靴下が……」 横に立つ遠藤さんがハッと息をのむ。 白いソックスの爪先部分が滲み出た血で真っ赤に染まっていた。「――靴擦れ?」「高槻さん、画びょうで指、怪我して――」「画びょう? ちょっと靴下ごめんね」「いたた……」「わ、痛そう……水ぶくれができて潰れちゃってるわ。画びょう踏んづけちゃったの? いつの話? 錆びてなかった?」「先週の木曜辺りに……光ってたから、新しいものだと……。結構血が出たんで消毒して――治りかけてたんですけど、今朝うっかり絆創膏貼るの忘れちゃって……」 先生がこくこくと頷く。「ある程度出血があった方がいいのよ。悪いものも一緒に流れ出るから。んー、斜めに刺さったみたいねぇ、奥までぶっすりじゃなくて……うん、あなたの年齢ならまだワクチンも効いてるだろうし、破傷風の心配はないわね。きっと、治りかけのところ無理して靴擦れしちゃったのね」 と、――ピピッ。 体温計の電子音が鳴り、引き抜いて見ると38・2℃の表示が……「あらら、8度2分……水原先生まだかしら? ジャージに着替えた方がいいかも――、取り敢えず先に手当て済ませちゃうわね」 小さなハサミを持ち、あたしの右足首を掴む。 え、なに……コワイ……「細菌が繁殖するといけないから、破れた水ほう膜切っちゃわないと。神経通ってないから大丈夫よ。向こう向いてなさい」 ひー。「高槻……おめぇ、画びょうんとこが……」 着替えを終え戻ってきた委員長と目が合い、苦笑いで返す。「――と、はい終わったわよ。じゃ、ちょっとこっち、歩ける? 私に掴まって」 あたしを保健室前の手洗い場に連れて行くと、先生はあたしの右足を持ち上げ、滲んだ血を丁寧に水で洗い流した。「いッ、いたたッ……」「痛いよねー、我慢我慢! そのかわり消毒液は付けないから……こうやってね、傷口を綺麗に洗って――傷の治りが早くなる、いい絆創膏があるの。んー……こんなもんでいっか。じゃ、戻りましょ」 あうぅ……ズキズキする…… 委員長と遠藤さんが心配そうに見守る中、再び丸椅子に腰掛ける。「これね、絆創膏。一日一回、傷口をよく洗ってから貼り替えてね」 あたしの手に数枚絆創膏を持たせると、先生は一枚封を切り、肌色半透明の変わった形の絆創膏を取り出して、ジンジン痺れたように痛む親指にくるりとそれを貼り付けた。痛みが幾らかマシになったような気がして、あたしはふぅ~っと一息つく。「釘とか画びょうとか……小さな刺し傷でも、場合によってはほんと大変なことになるのよ。よく注意して歩かないと――」「先生、こいつ……靴に画びょう入れられたんじゃ」「え――」 と、ガラッと勢いよく扉が開き―― 振り返ると、水原先生が制服と鞄を手に、肩で大きく息をしながら立っていた。「あ……すみません、あたしの制服……」「ハァ、遅うなって、しもうて……フゥ」「あらあら大丈夫? 水原先生。じゃあ、その制服こちらに――、どうしました?」「せーがあの……高槻さんの制服、見当たらんで……これは遠藤さんの――」 え、あたしの制服――なんで? 机の上に畳んで置いてたのに……「ちょーどそばにおった小野君と柏木さんが一緒に探すのてごーして――あ、手伝うてくれたんじゃけど見つからんで……」 小野と結実が…… でも、あたしの制服、どこいっちゃったんだろう……「取り敢えずこれに着替えなさい」 虚ろな頭で考えを巡らすあたしに、先生がジャージを差し出す。「高槻さん、うちに掴まって」 あたしは遠藤さんの手に掴まり、奥のベッドの方へひょこひょこと右足を浮かせて移動した。「うちはこっちで……ここ、カーテン閉めるね」「うん。ありがとう、遠藤さん……」 のろのろと雨に濡れた体操服を脱ぎ、渡された長袖ジャージに着替える。「――着替え、終わった?」「あ、はい……」 カーテンを力なく開け外に出ようとすると、白衣の腕があたしを押し止めた。「そのままベッドで寝てなさい。脱いだの、こっちに貸してくれる?」「すみません……」 濡れて重くなった体操服を先生に渡し、ベッドに横たわる。途端、重く沈み込む身体――じわりと全身を覆う耐え難い疲労感に、いかに自分が体力の限界を超え動き回っていたかを、あたしは改めて思い知らされたのだった。「高槻さん、鞄ここ置いとくけぇね」 水原先生がそろりとカーテンを開け、鞄をベッドの脇に置く。「お家のひと連絡入れといたけぇ、じき来てじゃろーからそれまでゆっくり寝とられぇ」「え……」 彩香さんに連絡いったんだろうか……「先生、もういっぺん制服探してくるけぇ。帰るまでに間にあやーええんじゃけど……」「じゃったら、俺も一緒に――」 委員長がカーテンの端から顔を覗かせる。「中沢君、3位じゃったじゃろ。昼休みが終わりゃー体育館で閉会式あるのに表彰遅れたらおえまぁ? じゃ高槻さん、よう休んどって」「すみません、水原先生……」 ぽんぽんと掛け布団を叩き、先生はくるりと踵を返す。入れ替わるように委員長と遠藤さんがカーテンの内側に入ってきた。「高槻さん、大丈夫? 無理させてしもうて、ほんまにごめんね……」「ううん……結局、なんの役にも立てなかったし……無駄に心配掛けただけで……」「そねーなこと――、うち、嬉しかった……高槻さんがうちのこと気に掛けてくれとるんが――うちの為に一生懸命になってくれとるんが、心強うて嬉しかったんよ。ありがとう、高槻さん……」「遠藤さん……」 思いを伝えようと、真っ直ぐに向けられた瞳――いつもどこか他人行儀な感じで、おどおどと視線を逸らしていた彼女が…… 黒縁眼鏡の奥の気持ちのこもった一途な眼差しに、あたしの胸はじんわりと熱くなった。「――遠藤」 不意に名前を呼ばれ驚いたのか、遠藤さんがびくっと委員長を振り返る。「高槻の前、走ってったやつ……覚えとるか?」 あたしは委員長に虚ろな視線を向けた。「矢印、橋のほう向けられとったんじゃ」「えっ?」 遠藤さんが小さく驚きの声を漏らす。 あたしはぼんやりと委員長の言葉を頭の中で繰り返した。 向けられとった――って……え、じゃあ、誰かが故意に矢印の向きを―― あたしの前――「……黒田さんじゃ」「黒田?」 委員長が遠藤さんに訊き返したその時、再びガラリと扉の開く音が聞こえた。 photo by little5am
2017.01.25
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「車道出るけぇ、しっかり掴まっとかれ」 委員長はあたしの腕を取ると、再びぐいっと自分の方に引き寄せた。「…………」 ヤバい。絶対、ヤバいってコレ……。 サイクリングロードを抜け出た自転車は、やがて住宅街に差し掛かり――傘を差し歩道を歩くおばさんが、横を通り過ぎるあたしたちを好奇の眼差しで追う。風をはらんで半分脱げかかったフードを、あたしは慌てて目深に引き被った。 そのうち学校の坂下に辿り着き、お礼を言って自転車から降りようとすると、「もちぃーと乗っとれ」 委員長はあたしを遮り、半立ちこぎで雨水の伝う坂道を上り始めた。でも、さすがに半ば辺りでふらふらと蛇行し始め、――キッ……「ハァッ、ハァッ……おえん、ここまでじゃ」 委員長はブレーキを握り締め、濡れた路面に足を付いた。 幸い、応援に駆け付けた保護者で賑わっていた坂道も既にその姿はなく、降りしきる雨に生徒の姿も見当たらない。これならなんとか目立たず戻れそうだ。「委員長、ありがと……ほんとに助かっ――、つっ……」 足を地面に下ろした瞬間爪先に走った激痛に、あたしは身を屈めた。「高槻っ?」 自転車をその場に停め、委員長が慌ててあたしを覗き込む。「足、捻ったんか? そういや遠藤、おめぇの足がどうのって――」「ん、ちょっと無理したから……でも、大丈――、っ……」「ちょっ、大丈夫ちゃうじゃろっ?」 足を休ませたせいで、痛みの感覚が戻ってきたんだ……「高槻、おめぇ顔色が――」委員長があたしの額に手を当てる。「おい、熱あるぞ!?」 そういえばさっきから目の前がクラクラと――寒気も治まらないし……「早《はよ》う保健室行って着替えんと――」「う、ん……、ッ……」「ちょ、おいっ」 よろけるあたしの腕を委員長が掴む。 ズキンズキンと脈打つように痛む右足――頭がなんだかぼーっとして左足にも力が入らなくて……と、不意に委員長はくるりと背を向け、その場にしゃがんだ。「――ほれ」「へ……?」 ぼんやりと間の抜けた声で返す。「ほれ、って」 え、まさか……負ぶされ、ってこと? 躊躇するあたしに「ほれ、早う!」委員長が険しい顔を向ける。その背中には、絞れる程に雨水を含んだシャツがべったりと張り付いていて―― 委員長こそ早く着替えないと…… あたしは意を決して委員長の背中に負ぶさり、そろりとその肩に腕を回した。「背中、びしょじゃけど我慢な。恥ずかしぃんじゃったらカッパで顔隠しとかれ」「う、うん……」「ちぃと急ぐぞ」 あたしを背負い、委員長は力強い足取りで雨の坂道を駆け上がる。 あぁ、せめて背負われているのがあたしだと気付かれませんように――っていうか、この状態……うぅ、すぐ目の前に委員長の首筋が……ハーフパンツから出た生脚に委員長の手が……、レインコート越しとはいえ、なんか密着度がハンパないんですけど…… 委員長の背に揺られながら、ぼやけた頭でぐるぐる思考を巡らせていると、「中沢君っ……高槻さんっ……」 あたしたちの名を呼ぶ声が、雨音に混じり微かに聞こえてきた。虚ろに視線を上げると、坂道を駆け下りてくる赤い傘を差した人影が見え―― あ、あの若い女の先生……いつも明るく応対してくれた……「高槻さん見つかったんじゃね! 車で探してくれとる先生らぁから見つからんいう連絡しか入らんけぇ、もー心配しとったんよぉ。ああ、えかったぁ!」 あたしたちの元にやってきた先生がこちらに歩調を合わせながら、あたしたちに傘を差し掛ける。「高槻さん大丈夫? 遠藤さんが、高槻さんのことえれー心配しょーて――」「すみません……ご迷惑お掛けして……」「水原先生、こいつ雨ん中倒れとって――足、痛めたらしゅーて、あと熱もあるんじゃ。こんまま保健室行くけぇ、高槻の制服、取ってきちゃってくれんじゃろか」「えっ、そりゃ大変じゃ。高槻さん、今日どこで着替えたん?」「今日は自分のクラスで……2Aです。机の上に畳んで……」「ん、2Aじゃね! 中沢くんも服、ずぶ濡れじゃけど――」「あぁ、俺ぁ保健室でなんぞ借りるけぇ」 校舎の方から、雨音に紛れ洋楽が聴こえてくる。もうお昼休みなんだ…… やがてあたしたちは、高等部校舎の玄関口に辿り着き、「急いで着替え取ってくるけぇ、先行って手当てしてもらいよーてね」 先生は携帯で連絡を取りながら慌ただしく踵を返した。「あー、靴……えーわ、こんまま行っちゃろ」 あたしを背負ったまま委員長は玄関ホールに土足で入り、生徒で賑わう廊下を保健室へと突き進む。途端、打ち寄せる波のように膨れ上がるざわめき――あたしはレインコートのフードを更に引き被り、委員長の背に隠れるように身体を縮こまらせた。――なぁあれ、高槻さんじゃねんっ? ――女子らぁ騒ぎょーたの、ほんまじゃったんじゃ……――いやーっ、あねんくっついてっ…… ヤバい、めちゃバレてるし……。「大丈夫か、高槻。じき保健室じゃけぇ」「はいぃ~……」 な、なんか余計、眩暈が……――ガラッ……!「すいません! こいつ診《み》たってほしいんじゃけど」「あらあら――」 白衣を着た年齢不詳な感じの美人の先生が、すっとこちらに歩み寄る。「足、降りれるか」「ん……、ごめんね、委員長……つつっ」 と、――シャッ…… 奥のベッドのカーテンが引き開けられ、「高槻さんっ……!?」 中から遠藤さんが血相を変えて飛び出してきた。 photo by little5am
2017.01.24
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どれくらいうずくまっていたのか―― 朦朧とした意識の中、――キキーッ、ガシャンッ…… 激しく単調な雨音を蹴散らすように、不意に鋭い音が響き渡り――「高槻っ……!?」 委員、長……?「大丈夫か、高槻っ」 うそ……ほんとに…… 駆け寄ってきた委員長が、道に倒れ込んだあたしを慌てて抱き起こす。「おい、高槻っ」「ハァ……来て、くれたんだ……」「高槻……」 委員長は目を伏せ深く息を吐くと、再び険しくあたしを覗き込んだ。「なんでこねーなとこおるんじゃ、おめぇ」「……えんど、さん……見なかった?」「ひとんこと心配しとる場合じゃ――」「遠藤さん、に、待っててって……言ったの」「バンでけぇーってきたとこ会うた。今頃ぁ保健室運ばれとるはずじゃ」「そう、なんだ……ハァ、よかった……」 あたしはほっと胸を撫で下ろした。「遠藤が高槻見当たらんゆーて騒ぎょーて、せーで俺……じゃけどなんでこねーな方――、橋の手前の矢印、見んかったんか?」「橋の……、見たよ……ちゃんと……」「じゃあ、なんで橋渡ったんじゃ」 委員長は何を言っているんだろう…… なんだか頭が回らずぼんやりと答える。「だって、矢印の通りに……それで橋を渡って……」「あぁ? 矢印通りって――」 委員長は眉を寄せ、束の間思案する素振りを見せると、ハッと我に返ったように視線を落とし、「おえん、風邪引く。立てるか」 あたしの腕を掴んで自分の肩に回させ、あたしをゆっくりと立ち上がらせた。と、足に力が入らずガクンとくずおれそうになり、委員長に素早く抱きとめられる。「ハァ……ごめ……」「いや……、ちょ、こっち――歩けるか」「ん……」 ふらつく身体を委員長に支えてもらい、横倒しになっている自転車へと歩み寄る。倒れた衝撃でカゴから飛び出したらしい何かを手に取ると、委員長はそれをバサッと広げ、あたしの肩に掛けた。 レインコート……「男もんじゃけど……自転車ごとサトシから借りてった」 そう言ってあたしの頭にフードを被せ、スナップボタンをプチプチ留めていく。 なんかあたし、子供みたいだ……ブカブカのレインコートも…… ふと全てが滑稽に感じられ、こんな状況にも拘らず思わず吹き出しそうになりながら力なく視線を上げると、目の前には遮るものなく雨に晒され続ける委員長がいて――「――――、あたしだけ……悪いよ……」「俺ぁ丈夫じゃけぇ、気にせんでええ」 既に着替えを済ませた制服姿の委員長はすっかり濡れそぼり、髪からはポタポタと絶え間なく雨の雫が伝い落ちている。――こんな雨の中、ずっと探してくれてたんだ…… レインコートにバチバチと打ち付ける雨音を聞いているうち、ただ安堵感で満たされていた胸の内に申し訳なさと感謝の気持ちが込み上げてきて、瞼がじわりと熱く滲んだ。「……ありがと、委員長……」 委員長は無言でレインコートのフードをくいっと手前に引っ張り目深に被らせると、倒れた自転車を起こし、「サトシん自転車、ママチャリでえかった」 少しおどけた顔で後ろの荷台をぽんぽんと叩いた。 乗って――自転車にまたがり後ろを指差す。「う、うん……」 あたしは横向きにそろりと腰掛けた。「雨で滑りやすいけぇ、ようしっかり掴まっとけぇよ」 委員長が男子用のレインコートにすっぽり覆われたあたしの腕を掴み、自分の腰に回す。「…………」 初めは気恥ずかしさから遠慮がちに腕を回していたあたしだけど、委員長の力強いこぎっぷりと曲がりくねる道に荷台から何度か落ちそうになり、結局はその背中にしがみつくことになったのだった。 似たような道をなんの躊躇いもなく突き進んでいく委員長。極限状態の中走った、終わらない悪夢のような道がいとも簡単に前から後ろへと流れ去っていくのを、あたしは不思議な思いでぼんやりと眺めた。「よく間違わないよねぇ……」「あぁ? 道か? おぅ、車ん屋根にクロスバイク括りつけて、夏によう親父とサイクリングに来たけぇの。蝉の声がまたすげぇんじゃわ、これが」「へぇー、そうだったんだ……」 成程、詳しいわけだ。それにしても――委員長にはいつも助けてもらってばかりだ、あたし……「尻、痛くねぇーか」 委員長が振り返り訊ねる。 尻……。そういえば自転車が弾むたびアルミパイプが強く当たって、決して座り心地がいいとは言えないけど……「――文句は言いません」 殊勝な言い方がおかしかったのか、委員長の背中が小刻みに揺れる。「委員長……マラソン、何位だったの?」「あー、俺? 3位」「3位……」 去年が5位で、今年は3位――すごい……。 委員長って何気にオールマイティーだよね。また委員長ファン、増えるんだろうなぁ。 と、そこでふと考える。 こんな状態で戻ったら、ヤバいんじゃ? 委員長とこんな密着して…… しがみつくように回していた腕をそろりと緩める。――が、すぐさま、「車道出るけぇ、しっかり掴まっとかれ」 委員長はあたしの腕を取ると、再びぐいっと自分の方に引き寄せた。 photo by little5am
2017.01.22
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地面を踏み込む度、右足にビリッとした刺すような痛みが走る。でも今は、そんなこと構ってられない――というか、一度でも痛みに捉われてしまうと、もう一歩も進めなくなってしまいそうな気がする。 あたしは歯を食いしばり、ただ中間地点まで辿り着くことだけを考えひたすら足を前に出し続けた。やがて道が二手に別れている所に差し掛かり――「ハァッ、ハァッ……、こっちか……」 学校が臨時に設置したと思われる方向指示板の矢印が指し示す通り、小さな橋の架かる道を奥へと突き進む。「ハァッ……ハァッ……」 苦しい……でもきっと、あともう少し―― ひとり救助を待つ遠藤さんを思い浮かべ、挫けそうな気持ちを奮い立たせ走る。と、暫く行ったところで目の前にまた二手に別れた道が――「ハァッ……ハァッ……、どっち……?」 辺りを見回しても今度は指示板などどこにも見当たらず――、あたしは暫し逡巡した後、やや道幅の広い左側の道を選択し、そちらの方へと足を向けた。 こっちで合ってる? なんで何の表示もないんだろう……でも、山を回り込むコースなら、そろそろ左側に進路を向けてもいいはず――「ハァッ……ハァッ、フーッ……」 あぁ……中間地点、まだなの……バンは…… 右足はもはや痺れたように感覚がなく、朦朧とした頭に響く乱れた荒い息遣いが体力の限界を告げている。――と、「ハァッ、ハァッ……嘘、でしょ……」 走ってきた道が数十メートル先で行き止まりになっていることに気付き――あたしは肩で大きく息をしながら愕然とその場に立ち尽くした。噴き出した汗が顎先からポタポタと滴り落ちる。 こっちじゃなかった……来た道、また戻らなきゃいけないの? 一気に気力が萎え、へなへなとその場にへたり込む。「ハァーッ、フゥッ……も、無理……」 苦しいよ……波琉…… 虚ろな意識の中頭に浮かんだのは、波琉の優しい笑顔だった。でも次の瞬間、――さよなら、紗波…… 頭の中の波琉はくるりと背を向け、次第にぼんやりとその輪郭を失い――「――――、ハァ、ハァ……」 強くならないと、あたし……遠藤さんも待ってる。 間違えたとしたら、さっきの分かれ道だ。 滲む涙もそのままに、ふらりと立ち上がり踵を返す。カーブを描く道は、生い茂る木立に遮られその先は見えない。一体、どのくらいの距離を無駄に走ってきたのか――体力はもう、1ミリの余裕も残されていないというのに…… どうして指示板、置いてくれなかったの――学校側の配慮のなさと選択を誤った自分に苛立ちながら、ふらつく足取りで来た道を引き返す。と、先程の分岐点まで一本道を戻っているはずのあたしの目の前に、不意に脇道が現れ――「ハァーッ……フゥーッ……」 こんなとこに道あったっけ……いや、これは脇道なんかじゃなくて――あたしが来た道は……こっち? 目の前に延びる2本の道――横を通った時、なぜ気が付かなかったのか……呆然としつつも、あまりに疲れ切った自分をもはや責める気にもなれず―― 生ぬるい風が、生い茂る木々をざわざわと揺らす。日射しの欠片もない曇天では方角を知ることさえできない。 どうしよう……どっちに行けば―― あたしは途方に暮れ空を見上げた。その頬にぽつりぽつりと冷たい感覚が走る。雨? と思ったのも束の間、それはあっという間に本格的なそれへと変わってしまった。――ザーッ…… 既に飽和状態に達していた灰色の空から情け容赦なく降り注ぐ雨――あたしは取り敢えず、右側の道の脇で一際大きく枝葉を伸ばしている木の下へと身を寄せた。「遠藤さん……」 彼女はどうなったんだろう―― 救護班が彼女に気付かず引き上げてしまったら……この雨の中、まだあの場所であたしを信じて待ち続けていたとしたら――――ザーッ…… 「早く知らせないと――」 おぼろげな記憶を必死に思い出しながらきょろきょろと辺りを見回す。あたしはふと、自分が雨宿りしている木を見上げた。 こんなに大きな木、目にしてれば覚えてるはず――走ってきたのはきっと左側の道だ。 降りしきる雨の中、あたしは再びサイクリングロードへと飛び出した。闇雲に走るのは危険だ。後ろを何度も振り返り、記憶にある景色と照らし合わせながら前に進む。――ザーッ…… でも、こんなにカーブきつかった? ほんとにこっち? 横から合流する道にも気付かないくらい疲れ切ってて……あの大きな木だって、ただ見落としてただけなんじゃないの? 一度浮かんだ疑念は足を鈍らせ、迷った末、結局来た道を引き返す。「フゥッ……ハァッ……ハァッ……」 汗をかいた身体が急激に冷やされ、ゾクゾクと寒気がする。足の感覚は既に失われ、前に進めているのが不思議なくらいだ。いや、前進しているのか後退しているのか、それすらももうわからない。分岐点までヨロヨロと戻り、先程の大きな木を横目に渾身の力を振り絞って先に進む。「ハァーッ……ハァーッ……」 そしてようやく現れた問題の分かれ道―― よかった……こっちの道を行けばきっと中間地点に辿り着ける――ふらりと足を踏み入れハッと立ち止まる。 砂利、道……? 違う、この道……だって、アスファルトだった――「……ハァ……ハァ……」 ここは、どこ…… 入りかけた道からよろめくように後ずさる。 あたしは……どこにいるの……――ザーーッ…… 強まる雨足に不気味にざわめく木立、右も左も似たような鬱蒼と薄暗く延びる道―― 世間から隔絶された――異次元にひとり取り残されたようなどこか現実味のない景色が、覚めない悪夢のようにあたしを追い詰める。「ハァ……ハァ……も、やだ……」 雨とは違う生暖かいものが頬を伝い落ちてゆく。精根尽き果てたあたしはついに歩くことさえできなくなり、雨が激しく打ち付けるアスファルトの上にふらふらと倒れ込んだ。「ハァ……ハァ……ハァ……」 さむ……い……――ザーーッ…… 約束、したのに……ごめん、遠藤さ…… photo by little5am
2017.01.20
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苦痛を堪えのっそり振り返ると、そこには青ざめた顔でお腹を押さえ、こちらに負けず劣らずひどく辛そうに走る遠藤さんの姿があった。「遠藤、さん……ハァ、ハァ……」「ハァ、ハァ……あ、足、痛いん? ハァ……大丈夫?」「遠藤さんこそ……ハァ、ハァ、すごく辛そう、だけど……」 どちらがより辛いのかはともかく、取り敢えず二人とも切迫した状況にあることだけは確かだった。「ハァ、ハァ、遠藤さん、顔色が――具合、悪いんじゃ……」 覗き込むように尋ねると、遠藤さんは黒縁眼鏡を持ち上げ、手の甲で汗を拭いながら悔しさの滲む声で言った。「去年、完走、できんかったけぇ……今年は、思よーたのに、ハァ、ハァ……今朝、はじ……始まって、しもうて……」「始まって……、あ、アレ……?」「ハァ、ハァ、うん……、うち、いっつも、生理痛きつぅて……」 よりによってこんな日に――あたしは彼女に同情の眼差しを向けた。「無理しちゃ、だめだよ……ハァ、ハァ」「ハァ……高槻、さんは……足、どねんしたん? ハァ……」「これは……ハァ、ハァ……」 くだらなすぎて一瞬躊躇ったものの、愚痴りたい気持ちを抑えられず口を開く。「誰かに靴、画びょう入れられて……傷口治りかけてたのに、走ってるうち、ハァ、ひどくなっちゃって……」「ハァ、ハァ……だ、誰がそねーな――、つっ……」 と、不意に彼女は顔をしかめて身を屈め――「だ、大丈夫っ? ハァ、ハァ、もう走るの、やめた方が――」 遠藤さんは唇を噛み締め、ぶるぶると駄々っ子のように首を横に振った。「でも……ハァ、顔色が、すごく悪いよ……」「今年は、ハァ、ハァ……ぜってぇ、完走するんじゃって……決めたけぇ、ハァ……」「遠藤、さん……」 いつもどこか自信なさげにおどおどしてる遠藤さん―― 控えめで自己主張が苦手で……でも彼女のこと、少し勘違いしていたのかもしれない。本来の彼女は芯の強い、思いのほか逞しい女の子なのかも……「――そねん必死にならぁーでも、ええんじゃねん?」 突然の声に、ハッと後ろを振り返る。「ハァ、ハァ、棄権すりゃーええがん。ふっ……」 微かな笑みを浮かべ、どこかまだ余裕のある様子で声を掛けてきたのはカズエだった。「こん先、中間地点にゃあ、救護班とバンが待機しとる……ハァ、どーせ毎年、何人かズルしょーるんじゃ。うちも今年ぁ、そこでやめるけぇ……ハァ、遠藤さんも、去年みてぇに、やめりゃあええがぁ。ふふっ」「ハァ……う、うち、去年は足挫いて、ハァ、ハァ……ズルしたんと、ちゃうけぇ……」 そう思われるのが嫌で、今年こそ完走したいと思ったのだろう――遠藤さんは、去年の棄権をまるでわざとズルしたかのように言うカズエに、彼女にしては珍しく僅かに怒りの滲んだ声で言い返した。「フン、えらそうじゃけぇ、アドバイスしただけじゃが。ハァ、ハァ、別に走れるんじゃったら、走りゃーええけど」 興味なさそうに肩を竦め、カズエはあたしの足元にチラリと視線を落とす。「足、まだ治っとらんの? ハァ、ハァ……あんたも、棄権した方がよさそーななぁ」 一見心配するような口振り――でも微かに細められた目元に、どこか面白がっているようなニュアンスが感じられ、 「いい気味だと、思ってんでしょ……ハァ、ハァ」 あたしは思ったままをカズエに返した。 カズエの顔に肯定とも取れる笑みが束の間浮かび、すぅっと消え失せる。「――ずりぃわ、あんた……」 代わりに表れた、暗く冷たい眼差し――――ずるい? どこか含みのある言い方に眉を寄せるあたしの横で、遠藤さんが再び声を荒げる。「高槻、さんはっ……ハァッ、足、怪我しとるのに、頑張りょんじゃ、ハァッ……ずりぃんは、くっ、黒田さんの方じゃろっ……」 遠藤さん…… あたしは意外な思いで彼女を見つめた。「そーじゃのーて――フン、まぁえーわ、ハァ、ハァ……うち、はよぉ休みたいけぇ、先行くわ。あんたらぁ、べっとこみてぇじゃけど、ま、せいぜい頑張られぇ」 カズエは憎まれ口を叩くとピッチを上げ、ぐんぐんあたしたちから遠ざかっていった。「ハァ、ハァ……なにあれ、全然完走、できそうじゃん、ねぇ? あれ……?」 ふと隣に気配がないことに気が付き、後ろを振り返る。「え、遠藤さんっ……!?」 後方でうずくまる遠藤さんに驚いたあたしは、右足を庇いながら慌てて彼女の元へと駆け寄った。「ハァッ、ハァッ……だ、大丈夫!?」「ハァーッ……ハァーッ……うぅ……」 青ざめた顔から玉のような汗が滴り落ちている。完走しようとする本人の強い意志とは裏腹に、遠藤さんの身体はどう見ても限界にきているように思えた。「もう、無理だよ、遠藤さん……ハァッ、ハァッ」「っ……、ハァッ、ハァッ……」 長い三つ編みが、痛そうに背中を丸める彼女の肩からアスファルトの上に滑り落ちる。 あたしは困り果て、きょろきょろと辺りを見回した。が、前にも後ろにも誰の気配もなく――カズエが言っていた『べっとこ』というのは、どうやら一番最後、という意味らしい。でもそれなら、不測の事態が起こった場合の連絡係として最後尾に付けているはずの先生の姿があってもいいはずなんだけど――「た、高槻、さん……悪いけぇ、先、行って……ハァッ、ハァッ……うち、遅れて、行くけぇ……」「動かない方が、いいよ、ハァ……先生、後ろにいるはずなんだけど、どうしたのかな」「ハァッ……調子悪そうな子が……後ろ走りょーたけぇ……ハァッ……その子に、付いとんかも、しれん……」「えぇ……」 どうしよう……先生、いつこっちに来てくれるんだろう。時間掛かるかも――「ちぃと、治まったら……ゆっくり行くけぇ……ハァッ、ハァッ、うち、気にせんと、ハァッ……それに足、早いこと、手当てしてもろうた方が……、うぅ……」「ちょっ……大丈夫っ?」 ダメだ――こんな調子悪いのに、中間地点まで行けるわけがない。「バン、停まってるって、言ってたよね……遠藤さんあたし、急いで救護班呼んでくるから、ここで動かないで待ってて――、ふーっ」「……た、高槻さん――」 呼吸を整え、意を決して立ち上がる。「――すぐだから、ね」 戸惑う遠藤さんから視線を前方に移し、あたしは気合いを込め足を踏み出した。 photo by little5am
2017.01.18
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「あ~、今から8キロやこー考えただけで倒れそーなわ。あとちぃーとで雨降りそうなんじゃけどなぁ」「じゃけど、ここまで来りゃあ多少雨降ろうが中止にゃーなるまぁ。はー梅雨入りしたとかどーとか、暫く天気ハッキリせんけぇ延期できなんだ言よーたし、今日で強引に終わらす気じゃ」「ってか、女子のスタート前倒しで男子のゴール見れんて、なんそれ。は~、やっちもねぇ」 前に立つ女子二人がぶつぶつとぼやくのを、聞くともなくぼんやりと聞く。 灰色の雲がどんより重く垂れ込めた空の下、男子は半時間程前にスタートを切っていて、校門前は次のピストル音を待つ高等部全女子生徒と応援に駆け付けた保護者で賑やかにざわめいていた。 あぁ、眠気が……頭が重くて身体も怠いし…… パパに今朝、無理をしないよう念を押されたけど――なんか最後まで走りきれるか自分でも自信なくなってきた……「――なぁなぁ、中沢君、今年何位じゃと思う?」「あー、確か去年は5位じゃったわな、柊哉。じゃけぇ、今年ぁもっと上狙えるんじゃねん?」 気付けば委員長のことが話題に上っていて、眠気覚ましとばかり耳を傾ける。「柊哉って文武両道じゃもんなぁ。あねんモテよるのに、いーっこも彼女作らんのがこれまたストイックな感じでええんよな~」 「ほんまな~。もういっそ彼女やこー作らんといてほしー思うけど……。じゃけど、こねーだ転校してった子ぉとなんじゃ仲ようなっとるって、聞いた?」 は……まさか、屋上ランチがバレ――「あー、あれじゃろ? 学校案内したぎょーたとか、授業中、先生に怒らりょーるとこ庇うたとか――委員長じゃからじゃねん? ほれ、柊哉って面倒見ええとこあるし」 あ、そっち……。でも確かに委員長って、そんなところあるよね。「まぁ別に陰で二人っきり、どーのこーのしょーるワケでもねぇしな」 どきっ。「ふっ、そねーなことにでもなりゃー、うちらの柊哉をたぶらかした罪で血祭りじゃわ、その転校生」 …………。「じゃけどほれ、あれがあるじゃろ。暗黙の掟」「あー……、誰が言い出したんかしらんけど、みんな律儀に守ってお互い目ぇ光らせとるもんなぁ。はぁ~あ、柊哉のハート射止めよるんは一体誰なんじゃろーなぁ」――暗黙の掟? と、ふと後ろを振り返った片方の女子が、あたしの存在に気付き――〈お、おえん、後ろおった……〉〈わ、うちらなにゅー言よーたっけ……〉 たぶらかすとか血祭り、とか……。〈……ちょ、あっち行かん?〉 〈じゃ、じゃな……〉 二人コソコソとカニ歩きで横に移動していく。 …………。 委員長ファンって、ほんと多いんだ……あたしって、何気にすごく大それたことしてるのかも? でも、一緒にお昼食べてるとちょっと楽しいっていうか、いないとなんか寂しいっていうか――そんな理由だけで委員長と一緒にいるのって、マズイのかな……。 と、モヤモヤ考えているところに女子のスタートを告げるメガホンの声が響き、あたしは気を取り直し、そちらの方に意識を向けた。――パンッ……! 曇り空に乾いた発砲音が響き渡る。 どっと沸き立つ声援の中、一斉に動き出す人波に押し流される形で、あたしは重い一歩を踏み出した。 地面を駆けるたくさんの足音、弾む息遣い――沿道からの声援を受け、ひたすら前へ前へと突き進む女子生徒の長い列―― 「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」 ヤバい、なんかフラフラする……まだ始まったばかりなのにどうしよう…… 持久戦を考慮して、出された朝食はなんとか食べきったけど、やっぱり昨晩一睡もできなかったのが堪えたか…… 思うように動かない身体には、沿道からの励ましもただのプレッシャーでしかなく――まだ走り始めて間もないというのに早くも体力の限界を覚えたあたしは、見る間にその順位を落としていったのだった。「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ……」 あぁ、また抜かれた……なんかもう、どうでもいいかも…… 追い抜かれるごとに気力さえも奪われていく。 序盤でこれって――ゴールに辿り着く頃にはどんなみっともない姿になっていることやら……。やっぱり彩香さんの応援、断って正解だったかも―― 声援の飛び交う住宅街を抜けると待っていたのは、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた、やや道幅の狭いサイクリングロードだった。 小高い山々の間を縫うようにして作られたこの道を、ぐるりと迂回しながら折り返すことなく走り抜ける――それが何十年と受け継がれてきた音ヶ瀬伝統のマラソンコースだと、開始前、校長先生が言っていた。が、晴れの日ならいざ知らず、今にも雨が降り出しそうな空の下、その道はどこか閉塞的で薄暗く―― 応援する者の途絶えた閉ざされた空間が、走者を更なる孤独な戦いへと追い込んでいく。「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」 足がもつれそう……なんで、昨日少しでも寝ておかなかったんだろう。まぁ、寝ようと思っても寝られなかったんだけど…… 続く緩やかな傾斜が、なけなしの体力を容赦なく奪っていく。――さよなら、紗波…… ふとよみがえる、最後の言葉―― ……波琉のせいだ。波琉の、バカ…… 汗か涙か区別のつかないものを手の甲で拭い、あたしはふらつく足をひたすら前に出し続けた。 目の前に迫る急カーブ――その林の陰に女子生徒たちは次々と姿を消していく。前のめりに走る姿はどれも苦しそうで、でも、各々がその辛さと戦っていて――あたしは気を取り直し、地面を強く蹴った。と、先程から微かに痺れた感覚のあった爪先に、ビリッとした激痛が走り――「痛ッ……」 顔をしかめ、つんのめるように立ち止まる。「つ……、ハァッ、ハァッ……」 画びょうでケガしたとこ、今朝うっかり絆創膏貼るの忘れて――、でも治りかけてたのに…… きっと、無理をしたせいで傷口が悪化したんだ…… 呆然と立ち尽くすあたしを、後ろを走っていた女子たちが怪訝な表情で振り返りながら追い抜いていく。 数人に抜かれたところで、あたしは再び気力を奮い立たせ、よろよろと渾身の一歩を踏み出した。が、地面を踏み込む度走る、刺すような痛み――「ハァッ、ハァッ……」 足に……力が……――最後まで走るのは無理かも…… 右足を庇い、半ば倒れ込みそうになりながらフラフラと前に進む。その間にも、どんどん後ろの生徒に追い越され―― なにもこんなに頑張る必要ないんじゃ…… パパだって無理しないよう言ってたし…… 痛くて、苦しくて、何もかもが嫌になって――もういっそ走るのを止めてしまおうかと思ったその時、「――た、高槻さ……ハァ、ハァ……」 背後から、か細く苦し気な声が聞こえてきた。 苦痛を堪えのっそり振り返るとそこには、青ざめた顔でお腹を押さえ、こちらに負けず劣らずひどく辛そうに走る遠藤さんの姿があった。 photo by little5am
2017.01.16
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「お、このインゲンのゴマ和え、柔らかくて美味しいなぁ」「インゲンマメね、教習所から帰ってきたら玄関先に置いてあったの。長谷部さんとこのおばあちゃんが持ってきて下さったみたい。――あ、ねぇ圭一郎さん、こっちのも食べてみて、肉じゃが! 味付け、紗波ちゃんに教わったの。どうかな?」「どれどれ……ん? これ紗波の味付け? ちょっといつもと違うような……あっ、でもすごく美味しいよ、うん。あー、やっぱりみんなでごはん食べるのっていいなぁ。いつもこれくらいの時間に帰れるといいんだけど」「ほんと、残業続きで圭一郎さんが身体壊さないか心配だわ」「まぁ、プロジェクトが本格的に動き出して間がないから仕方ないんだけどね。もう少ししたら落ち着いてくると――ん? どうした紗波、さっきからずっと黙り込んで……お箸だって全然動いてないし」「えっ? あ……」 いけない、また波琉のこと考えてた……こんなとこでうっかり泣いてしまったら困るのに……「何かあった?」 パパが心配げな眼差しを向ける。「え、別に何もないよ?」 あたしは無理やり笑顔を絞り出し、目の前の肉じゃがを頬張った。「――そういえば週末も、なーんか元気なかったよなぁ?」「そんなこと……特に何も変わらないけど?」 喉につかえて飲み込めないジャガイモを、ゴクリとお味噌汁で流し込む。「紗波ちゃん、帰ってきてから特に様子が――、肉じゃが、お砂糖とお塩間違えそうになったり、みりんじゃなくてお酢入れようとしたり……」「え、紗波が? おいおい、ほんとに大丈夫なのか?」「ちょっと、ボーッとしてて。はは……」「紗波ちゃん、体調悪いんじゃ……あっ、そうだ、紗波ちゃんの学校って明日マラソン大会あるんでしょ? 教習所で仲良くなった人から聞いたんだけど、女の子は8キロ走るって――、大丈夫っ?」「えっ、そうなんだ。うーん、8キロか……そりゃきついなぁ。体調悪いんなら見学したほうがいいんじゃないか、紗波」 パパと彩香さんが同じような顔をして心配そうにあたしを窺う。「――大丈夫だよ。全然どこも悪くないし」「ほんとに?」「うん」「あっ、ねぇ紗波ちゃん、音ヶ瀬学園のマラソン大会って、この辺りじゃすごく有名なんだってね。その方のお子さんも音ヶ瀬の生徒さんらしくて、明日応援に行くって――私も明日教習所ないから応援しに行ってもいいかな?」 えっ、彩香さんが?「いや、そんな……応援だなんて」 あたしは苦笑いしながら手を振った。「あ~、パパも見に行きたいなぁ! でも仕事休むわけにもいかないし、う~ん……じゃあ紗波の応援、君に託そうかな」「うん、任せて圭一郎さんっ」 えっ。「いやいやそんな、お見せする程のもんじゃ――ほんと、恥ずかしいんで……」「あっ、でもね、毎年結構な人が応援に来るみたいよ? 目立たないから大丈夫よー、紗波ちゃん。ふふ」「や、でも、バスに乗ってわざわざ……」「ううん、そんなの全然! 明日は駅前までお買い物に出るつもりだったし、紗波ちゃんがいつも乗ってるのだったら乗り換えせずに学校まで行けちゃうし。――そういえば、男の子は12キロも走るんだってね~」「へぇ、12キロ! それもなかなか見応えありそうだなー。12キロっていうと、うーん……1時間くらいかな?」「えっ、それぐらいで走れちゃうの? すごーい! でも1時間も走り続けるのって疲れるでしょうねぇ。8キロだとどれくらい掛かるのかしら? 男の子と女の子でも違うわよね。んー……」 いいって言ってるのに、二人してそんなに盛り上がって――もやもやとした感情が胸の内に湧き上がる。「あの、ほんといいですから。あたし、足もそんな速くないと思うし」「いや、マラソンは速さだけが全てじゃないよ。たとえ時間が掛かったとしても、最後まで走り抜くことに意義があるんだ。うんうん」「そうよ、紗波ちゃ――」――カチャンッ、ガガッ…… 気付けばあたしは、弾かれたように席を立っていて――目の前の小皿に叩き付けるようにして置いたお箸が、からりと音を立てテーブルの上に転がる。「――さ、紗波?」「紗波ちゃん……」「あ……あたし、今日なんだか食欲なくて……やっぱり、ちょっと疲れてるのかも――、だから、明日もたぶんダラダラとしか走れないと思うし、応援に来てもらっても無駄足になっちゃうっていうか……せっかくなのにごめんなさい」「紗波ちゃん、私、あの――」「すみません。部屋で少し休んできますね」「紗波――」 何か言い掛けた二人にくるりと背を向け居間を出る。あたしは足早に部屋へと向かった。 胸が変な風にどきどきしている。 ガラスランプの仄かな灯りに照らされた階段を駆け上がり、あたしは部屋の灯りもつけずベッドに突っ伏した。「――――」 さっき一瞬、感情のままに声を荒げてしまいそうになった…… 胸の奥底へ押し沈めていたものが出口を求め暴れている。気を抜こうものなら、いとも簡単に噴き出してしまいそうだった。 月のない漆黒の暗闇がじわりと格子窓から滲み出し、あたしの全てを覆い尽くしていく。 どうしてこんなに胸が苦しいの……「……波琉の、バカ……」 いろいろな思いが過り、虚ろに眠れぬ夜を過ごしたあたしは、とうとう一睡もできないまま夜明けを迎え―― あぁ、身体が怠い…… 制服を手に、ふらつく足で浴室へと向かい、重く纏わりついているものを洗い流すかのように熱いシャワーを浴びる。 髪を拭いながら廊下へ出ると、「おはよう、紗波ちゃん……」 早く起きたらしい彩香さんが、居間の入口からおずおずと顔を覗かせた。「あ……、おはようございます」「あの、昨日は強引に……ごめんね」「あ、いえ……、あたしの方こそ、あのまま寝ちゃって……なんか、すみません」 ほんとは――様子を窺いにそろそろと階段を上がってくる彩香さんの足音も聞いたし、小さくノックして部屋に入ってきたパパが、ずれた掛け布団をそっと肩まで上げてくれたのも知ってる。「ほんと疲れてたのねぇ、紗波ちゃん……。今日、大丈夫?」「まぁ、はい、よく寝たんで……」「よかった、ふふっ。じゃあ私、元気の出るお弁当と朝ごはん作るね。今日はちゃんと食べて体力つけておかないとね!」「すみません……あ、洗面どうぞ。あたし、部屋で髪乾かしてくるんで――」 あたしはぺこりと頭を下げ、踵を返した。 パパも彩香さんも、いつもあたしのことを気に掛け心配してくれている。マラソンの応援も純粋に励ましたい気持ちから申し出てくれたんだろう。でも……頭ではわかっていても、気持ちが、心が、どうしてもそれについてきてくれなくて―― そう、悪いのはあたしなんだ。想いが通じ合っている二人を温かい目で見てあげることができない、心の狭いあたしが悪いんだ。 そして、その原因は――嫉妬……――嫉妬に取り憑かれて、嘆いたり苦しんだり……そんな自分から目を逸らしたいのに、それも許されなくて―― 波琉の言葉がよみがえる。 波琉は自分を、なぜだか嫉妬の塊だと言った。そんな自分を嫌いになってもいいと…… 部屋に戻り、窓辺に近付いて格子窓を開ける。目の前に広がるのは、まるであたしの心を映し出したかのような暗く沈んだグレーのグラデーション。「でも、波琉……あたしもそう……、あたしもこんな自分が嫌だよ……」 鈍色の海に向かい、ぽつりと零す。 波琉ならきっと、このもどかしい思い、辛さ――わかってくれるよね…… でも、もう波琉の言葉を訊くことはできない。 photo by little5am
2017.01.13
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一体何が起こったのか―― 波琉…… なんだか元気がなくて心配したけど、初めは普通に話してた。笑顔もあった。 ヤキモチ、嫉妬――波琉の言葉が頭の中でぐるぐる回る。 もう来られないって……出発の時が来てしまったの? でもどうして、来ないって言い直したの? なんで嫌いになってもいいなんて言うの? 何の気なしにした委員長の話のせい? でも、あたしにも嫉妬してるって…… そして―― 最後のあれは――なに……? 頭の中、ぐるぐるぐるぐる。 わからない……わからないよ。波琉にはもう、会えないの……? 胸が……痛い――「――しゃなみちゃん? ほれ、そねーひょろどーとったら危ねぇで?」 気が付くと無意識のうちにもう家の近くまで帰ってきていて、長谷部のおばあちゃんが鍬を抱え、畑の中からきょとんとあたしを見上げていた。「あ……こ、こんにち――」「どねーしたんじゃあ、すばろーしぃ顔してぇ……ん? 泣きょーるんかっ?」 ハッと顔に手を遣る。いつの間に涙が……「えれーこっちゃ、どねんした?」 持っていた鍬をぽいっと放り投げ、おばあちゃんが畑から上がってくる。「な、なんでも――」「なんもねーこたーあるまぁ? なんじゃ、がっこーでつれーことでもあったんか? ん?」「アハ……、っ、うっ……」 笑おうとしたけど無理だった。「ありゃありゃ、べっぴんさんがでーなしじゃがぁ! ほれ自転車停めて、ほーべた拭かれぇ」 おばあちゃんが首に掛けていたタオルであたしの顔を拭う。背中を優しく撫でられ、あたしは暫くの間ぽろぽろと涙を零した。「――どーじゃ、ちぃーたぁ落ちつぃーたか」「ひっく……、ごめ……おばあちゃん……」「なぁーんも気にするこたーねぇで。人間生きとりゃあ泣きてぇ日もあらぁ。そげぇなときゃー気ぃ済むまで泣きゃーええんじゃ」 涙を指で拭い、おばあちゃんに小さく照れ笑いする。行き場なく膨れ上がっていた感情が泣くことで胸の内から流れ出し、気持ちに少し余裕ができたような気がした。「おばあちゃん、ずずっ……あの、このことは誰にも――」「ん。おなご同士の秘密じゃな。しゃーけど、なんもかんもひとりでばー抱え込みょーるとくたぶれてしまうでなぁ。抱えきれんときゃー、でーかに話してみられぇよ? ばぁーちゃんでよけりゃーなんぼーでも聞くけぇ、のぅ」「あり、がと……ずずっ」 あたしには、おばあちゃんの記憶というものがない。パパもママも、早くにお母さん亡くしたから……ママなんか両親揃って―― でも、あたしにおばあちゃんがいたら、こんな感じだったのかな…… おばあちゃんの言葉は少しわかりにくかったけど、心配してくれている気持ちは十分伝わってきて、あたしは再び目を潤ませた。「おっ、そうじゃそうじゃ、こねぇだはタケノコぎょーさんありがとなぁ」 心配げな口調を明るく改め、おばあちゃんは元気付けるようにあたしの背中をポンと叩く。「ばぁーちゃんも昼間ぁサンドマメ持ってったんじゃが、でーもおらんみてぇじゃったけぇ、でがけんとこ置いてきたんじゃわ。やらこーてうめーでぇ、また食べてみられぇ」「うん……ありがとう、おばあちゃん。じゃあ、あたし……」「へーえぇ、元気出されぇよぉ」 おばあちゃんに見送られ、自転車を押しながらトボトボ坂道を上る。 ついさっきまで近くにあった、波琉の微笑み、声、眼差し……そして、苦しい程の―― ……さよなら、紗波…… 波琉の残していったものが一足ごとによみがえり、胸の痛みがぶり返す。湿ったスポンジを握り締めた時のようにじわりと涙が溢れ、あたしは厚い雲に覆われた空を振り仰いだ。 もうすぐ梅雨が始まる―― あたしはまた、大事なものを失った。 photo by little5am
2017.01.11
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「僕でも少しは役に立つことあるんだ……」 照れくさいのか、いつになくひねくれた感じの物言いで波琉はそう呟いた。「そんなのっ、波琉がいなくなっちゃったらどうしようって……波琉に数日会えないだけでも、あたし――」 遠からず訪れるであろう別れを想像し、あたしは胸元のタイをきゅっと握り締める。「…………」 はっ。あたし今、すごく変な言い方――「いっ、今のはその、変な意味じゃなくて……」 再び黙り込んでしまった波琉に慌てて言い訳しようとするも、波琉はどこを見るともなく長い睫毛を伏せ物思いに耽っていて……「波……琉?」 何を考え込んでいるのか不安に思いながら、おずおずと声を掛ける。 今日の波琉、なんだか少し様子が――まだ体調が戻りきってないからかな……「波琉、疲れたんじゃない? そろそろ――」「紗波がまた、辛い思いをすることになったらどうしよう……」「えっ? あ、あー……」 なんだ、学校のこと心配して――拍子抜けしつつも、ほっと胸を撫で下ろす。「ふふっ。女子高生の考える嫌がらせなんかたかが知れてる、平気だよ。委員長とも、なるべく人前では親しくしないようにするし――」「……委員長のせいで嫌がらせ受けてるの?」 はっ。そこまでは言ってなかったっけ……。「や……、っていうワケじゃないけどホラ、転校生って何かと目を付けられやすいっていうか……だから人気者の委員長とは、あんまり気軽に話さない方がいいかなー、なんて……」 ふいっとあたしから視線を逸らす波琉。「そうか、委員長と仲がいいから……。人前では、って――他では親しくするんだ」「えっ、や、そういうワケじゃ――」 若干責めるような口振りに気圧され、なんとなく言いよどんでいると、「……ごめん、ちょっとヤキモチ」 波琉はぼそっとそう呟いて、抱え込んだ膝の間に顔を隠してしまった。 ヤキモチ…… 胸の辺りがなんだかモソモソくすぐったい。「えっ、と……なんかね、委員長とはちょっとした成り行きで、たまにお昼ごはん一緒に食べるようになって――ランチ仲間っていうの? はは……」「――二人きりで?」「いや、ま、他にも何人か……うん」 あれ。あたし今、微妙に嘘ついてる…… あまり経験したことのない感情に戸惑っていると、徐に顔を上げた波琉はフッとどこか自嘲的な笑みを浮かべ、ごめん――再び小さく謝った。 薄い雲に覆われた空――くすんだ島影の上で、夕日がぼんやりと輪郭のない光を放っている。帰らなきゃ……と思いつつ、海面すれすれを飛ぶ一羽の海鳥を眺めていると、波琉が独り言のようにぽつりと零した。「世の中から嫉妬っていう感情がなくなったら、人はもっと楽に生きられるんだろうね……」 嫉妬―― な、なに? さっきから波琉、そんなことばっかり…… どぎまぎしながら波琉を振り返る。でもその表情は、あまりに暗く深刻で―― 戸惑うあたしに波琉は続ける。「――嫉妬に取り憑かれて、嘆いたり苦しんだり……そんな自分から目を逸らしたいのに、それも許されなくて……」 「波琉……?」 波琉は一体、何のことを言っているんだろう? 何が波琉に、そんなことを言わせているの? 重い空気を纏う波琉に不安感を募らせていると、虚ろに海を眺めていた波琉はその暗い瞳をあたしに向け、静かに言った。「本当の僕を君は知らない。醜い――、嫉妬の塊みたいな僕を……」「嫉妬の、塊……」「そうだよ。羨ましくて妬ましくて……みんなに嫉妬してる。紗波にも……」「え――」 あたしにも……って、どういうこと? 一体どうしちゃったの、波琉――「僕は紗波に元気をあげられるような、そんな人間じゃない。むしろ……」「波――」「こんな僕のことなんか、紗波……き、嫌いになってもいいよ」 ……!?「な、なんで急に、そんなこと言うのっ……?」 わけのわからぬまま、不安に胸をざわめかせ波琉を凝視する。「――僕、もうここへは来られないかも……いや、もう来ない」「えっ……」 あたしは目を見開いた。「紗波も……来ない方がいい」「は、波琉――」 身体からスーッと血の気が引いていくような感覚―― なんで? どうして? あたし、何か気に障るようなこと…… 入り乱れる感情に喉が塞がれ言葉が出てこない。「――急にこんなこと言ってごめん、明日のマラソン頑張って……、じゃあ、僕はこれで――」 言うが早いか立ち上がり、一刻も早くこの場から立ち去りたいと言わんばかり踵を返す波琉の腕を、「待ってっ……」あたしは咄嗟に掴んで引き止める。「――――」 うつむきがちに振り返った波琉は、その手を解こうとして――不意に手首を掴んであたしを引き寄せ、胸に強く抱き締めた。「っ……!?」 驚きのあまり思考がフリーズする。 は、波琉、なに…… ドクドクと高鳴る鼓動――波琉の、あたしの、わからないくらい近い……息が、胸が……苦しい…… 波琉が――背中に回された波琉の腕が、まるでその存在を刻み付けるかのようにあたしを強く締め付ける。 首筋に感じる波琉の息遣い―― 頭の中がカァッと熱くなって、引いた血の気が一気に逆流するような感覚に、あたしは軽い眩暈を覚えた。「ごめん……さよなら、紗波……」 波琉が耳元で囁く。 それは、どこか感情を押し殺したような低く静かな声で―― 視線を落としたまま引き剥がすようにあたしから身体を離すと、波琉はくるりと背を向け、そのまま一度も振り返ることなくあたしから遠ざかっていってしまった。「――――」 波琉の消えた岩陰を呆然と見つめる。 崖の上――白い建物を取り囲む木々が、荒い波音とともにざわざわと不穏な気配を漂わせ揺れていた。 photo by little5am
2017.01.10
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金土日と三日連続ガッカリしたので、半ば諦めモードで小道に分け入る。が、予想はいい意味で裏切られ――「え、ウソいた……波琉ぅーっ!」 目に飛び込んできたその後ろ姿に、あたしは弾かれたように浜へと飛び出す。「紗波……はは、大きな声」「波琉っ、なに、忙しかったの?」 あたしは波琉の横にストンッと勢いよく腰を下ろした。「――ちょっと……体調崩してて」「えっ、風邪とか?」「ん……でも、もう大丈夫」「……ほんとに?」「うん」 波琉はどこか儚げにこりと微笑んだ。 なんだかまだ辛そう……こんなに蒸しっと暑いのに長袖シャツなんか羽織っちゃって――ちゃんと治ってないんじゃ? ひょっとしたら、あたしの為に無理して来てくれたのかも……「だめよ、無理しちゃ……」 眉をひそめるあたしに波琉が笑顔を向ける。「紗波に会ったら元気になれるから……、夏服、可愛いね。すごく似合ってる」「え、そ……かな? はは、ありがと……」 今日はこの浜、夕映えに染まってないのに……顔が赤くなったら目立つじゃないか。「じゃ、じゃあさ、ちょっとだけ話したら帰ろうね。あたし明日マラソン大会なんだー。8キロも走らなきゃいけないの。もぉーうんざり」「わ、大変だ」「ま、男子なんか12キロだけどね」「音高のマラソン大会って、この辺りじゃ結構有名なんだよ。沿道で応援する人もたくさんいてさ」「えっ、そうなの?」「うん。……僕も走ってみたいな。12キロ完走するって、どんな気分なんだろう」「えー、波琉走りたいの? きっと最後の方は、もう嫌だ~二度と走りたくね~ってなってると思うわよ?」「ふふ……でも、ある意味贅沢なことだよね。すごい達成感得られそうだし」「そんな達成感いらない。うぅ……」 嘆くあたしを見て波琉がクスクス笑う。 波琉ってほんと色が白い。纏う空気も儚げで、なんだか消え入りそうな程――今日はこんな天気だから余計にそう見えるのかな。 波琉と笑顔を交わしながらも、沸き起こる漠然とした不安に気分が落ち着かなくなる。「――学校はどう? 楽しい?」「えっ、あー……まぁ、ね。最初は言葉の違いとかいろいろ戸惑うことも多かったけど、それもだいぶ慣れてきたっていうか……」「そっか」 波琉はにこりと微笑むと、ふと思いついた風に訊ねた。「ところで、あの……委員長だっけ? 彼は……どう?」「ん、委員長? どうって?」「あ、いや……なんかほら、ピアノ頑張ってるって――学校の話、それぐらいしか聞いたことがないから……」「あー、そういえば……ふふっ、ほんとひどかったけど少しは上達したのかな。今度訊いてみよ。あ、でも委員長ってね、ピアノはそんなだけど成績は学年でトップだし、それにすっごくモテるのよ」「……だろうね」「え?」「あっ、委員長だし……そうなのかなって」 よくわからないけど――と小さく肩を竦める波琉に、首を傾げつつ笑い返す。「なんか委員長のお父さんもね、うちと一緒で再婚したんだって。去年って言ってたかな。お母さんと弟が一度にできたって」「……へぇ」「兄弟ができるってどんな感じなんだろう……なんかちょっと複雑そうよね。委員長はすごく前向きなこと言ってたけど……。あ、状況が似てるっていえば音高《うち》の1年生にね、この春東京から引っ越してきた桜太っていう男の子がいるんだけど――」「え、オウタ……」「うん。あたし、さっきまでその子と体育倉庫に閉じ込められてたの。もぉ大変だった~」「えっ? ちょっと待って、閉じ込められてたって、なんでオウ……その男子と――」 波琉がきょとんとした表情で訊ねる。「あ、ごめん、えっとね……実はあたし、一部の女子にあまりよく思われてなくて――」 あたしは事の経緯を、深刻になりすぎないようワザと面白おかしく波琉に話した。「――もう笑っちゃうでしょ? 委員長が来てくれなかったら今もまだ閉じ込められたままだよ、きっと」「笑えないよ……。ひどいことするな、ほんとに」 波琉が珍しく険しい表情を見せる。 波琉がそんな風に腹を立ててくれてるのがなんだか嬉しくて、画びょうの件もうっかり口から出そうになったけど、体調が優れない波琉にこんな話ばかり聞かせるのも――と思い、それは言わずにおいた。「でも紗波って……委員長と仲いいんだね」「いや、仲がいいっていうか……」「…………」 あれ。なんか波琉、黙り込んじゃった。「波琉?」「僕……紗波に何かあっても、その委員長みたいに助けてあげられない。……無力だ」「そんなこと――」 あたしは目を丸くした。 だって、無力どころか――波琉の存在が、どれほど今のあたしを支えてくれているか…… その思いを伝えたくて、あたしは必死に言葉を探す。「あたし、波琉にすごく助けられてるよ? 波琉と出会えて、どんなに心強く思ったか……だってさ、波琉に会うと自分でも不思議なくらい、なんか元気になれちゃうんだもん」「紗波……」 抜けるように白い波琉の頬にほんのり赤みが差す。「僕でも少しは役に立つことあるんだ……」 照れくさいのか、いつになくひねくれた感じの物言いで波琉はそう呟いた。 photo by little5am
2017.01.08
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吹奏楽部の練習する音がどこからか漏れ聴こえる人気《ひとけ》のない敷地内を三人並んで歩く。「なんで言わんのんじゃ。そねーな目ぇおーとるゆーて」「だって……」 どういう理由であたしたちにあんなことをしたのか知らないけど、場合によっては委員長が絡むと逆効果っていうか……あたしはもごもごと口ごもる。「――足、もう怪我の方はええんか?」「うん、ま、なんとか……」「くっそ誰じゃ、卑怯な――じゃけど、俺のせぇかもしれんのんじゃな……」 「えっ、あなたのせいなんですかっ?」 桜太が横から口を挟む。「いや、委員長のせいってワケじゃ……」 と言いつつも、女子トイレで絡まれた記憶がよみがえり微妙な笑みを返すと、委員長は慌てて付け加えた。「あぁ、別に俺ぁ自惚れとるんとちゃうけぇの? 結実がそうメールに書いとったけぇ」 何の話かと首を傾げる桜太に、あたしはこそっと耳打ちする。〈今回のことはともかく……委員長ってモテるの。ちょっとでも親しくしようものなら、女子に睨まれちゃって大変なんだから〉〈あー、確かにモテそうですねっ。ん? ということは――〉「お二人はその……お付き合いされてるんですか?」「ばっ、違っ……」「ただのランチ仲間よっ」「おめぇ、ただのって……」「なによ?」「まーええけど……。じゃーけど結実からメールあったときゃー、なんじゃ思うた」 委員長が助けに(?)来てくれたのは、実は結実の機転のお陰なのだ。帰る道すがら、呼び出しはひょっとしたら罠なんじゃないか――と気になり始めた結実は、委員会で学校に残っていた委員長にメールして……で、たまたま呼び出し場所を知っていた委員長が体育館裏に来てみたら、体育倉庫の扉に不自然に鍵が挿さったままになっていたらしく――「こっそり持ち出した鍵、返したりなんじゃしょーたら人目に付くけぇ、そんまま放っとったんじゃろうけど……鍵挿さっとらんかったら気付かんとこじゃったわ」 あの体育倉庫は普段使われていないらしく、委員長が体育館にある体育教官室に鍵を返しにいったらバスケ部の顧問の先生に変な顔をされたらしいけど――でもまぁとにかく、委員長が気付いてくれてよかった……。だって、いくら待ってたって運動部の部員なんて来るワケなかったんだもんね。「ああ、でも誰よ全く! きっと、あたしと桜太を二人っきりで閉じ込めて、事を大きくしようとしたんだわっ」 桜太から聞いた3年生男女の停学騒ぎを思い出し、あたしは憤った。「直前に聞こえてったっちゅー声――まぁ、そいつらにハメられたんじゃろーな。ほんま、くだらんこと考えてから……。ところでおめぇ、えーと、オータ……」「あっ、小森谷桜太ですっ。はいコレ手帳。以後お見知りおきをっ」「よ、用意がええの。あー、小森谷桜太――なん、おめぇ1年か」「はいっ」「フン、中坊上がりが2年呼び出すたー、ええ度胸しとるのぅ。どねーな用があったんじゃ」「はっ、す、すみませ……ぼ、僕、えぇっとその……」 委員長のいつになくドスの利いた声に、しどろもどろになる桜太。まるでオオカミに追い詰められた子ウサギ……「ちょっとっ、ただでさえ怖い岡山弁が――もっとソフトに! ほら、怯えてるでしょっ」「なん庇うとる」「だってあたし、このコの友達第1号だもん。このコね、春に東京から引っ越してきたの。だから状況が似てるあたしと少し話したかっただけなのよ。言葉の違う土地で暮らすのってほんと心細いんだから。ねぇ桜太」「ですよねっ、紗波先輩」「チッ。なんが『ですよねっ』じゃ。短時間で、えろー親しゅうなってから……ちょい、桜太」「は、はいっ」 委員長が桜太の肩にガッと腕を回し、なにやらこそこそ呟く。〈えッ、神に誓ってそんなことはっ……〉 神に誓って? 何の話してるんだ……。 そんなこんなで玄関前の階段下に辿り着き――あたしは二人を振り返り、謝罪した。「二人ともいろいろごめんね。なんか巻き込んじゃって……」「や、俺のせぇじゃし――」「いえっ、楽しかったですからっ」 二人同時に口を開く。「って、おい! 元はと言やーコイツが高槻にあねーな手紙書くけぇ……」 あっけらかんと明るく返す桜太をキッと睨みつけ、委員長が不服そうにぼやく。「まぁまぁ。――委員長ほんと助かった、ありがとね。結実にもお礼言っとかなきゃ」「じゃけど、いつん間ぁに結実とそねん仲良うなったんじゃ? 亘《アイツ》がいらんちょっかいばー出すけぇ、向こうはおめぇのことええよう思うとらんかったじゃろ」「んー……物事は、どう転ぶかわからないってことよ。ふふ」「何のことかよくわかんないですけど……僕も今日そう思いました! あんな手紙出しちゃったせいでってちょっと後悔したけど、お陰で紗波先輩と友達になることができたしっ」「おめぇはいちいち口挟まんでええんじゃ。ったく、鬱陶しいやっちゃな」「ふっ、まぁいいじゃん。じゃあ、あたし自転車だから。えっと、桜太は?」「僕、バスです! 家、音ヶ瀬駅から15分程歩いたところにあるマンションで――」「げ、途中まで一緒か。しゃーねぇ、行くぞ桜太」「え……せ、先輩と帰るんですか……」 桜太がおどおどと上目遣いに委員長を見上げる。なんだかんだ言って面倒見よさそう、委員長……。「なんじゃ不満か? じゃーけどおめぇ、駅から15分も歩くんじゃったら、自転車のんがビュッと来れて都合ええじゃろーが」「僕、坂道とか自転車で上るのって苦手なんですぅ~。体力ないんで……」「ぷっ、なんじゃそりゃ。ま、えーわ。――ほんならの高槻。明日に備えてよう休まれぇよ」「え? あっ、そうだマラソン……!」 明日8キロ走らなきゃいけないんだった! いろいろありすぎて、すっかり忘れてたけど…… ガクリと肩を落とすあたしの横で、桜太もウジウジ泣き言を漏らす。「うっうっ、僕、12キロなんて無理ですぅ~。死んじゃいますぅ~」「男じゃろ、根性入れて頑張られぇ!」「うぅ、はい~……。あっ、じゃあ紗波先輩、僕これで……あの、またいろいろお話させてくださいねっ」 ぷ。桜太ってなんか可愛い。「バイバイ。またね、桜太」 身長差約15センチの凸凹コンビ――委員長に背中に活を入れられ、桜太がよろめく様を笑って見送る。「5時過ぎか……」 あたしはちらりと時計に目を遣り、自転車置き場へと足を向けた。 明日のことを考えると早く帰った方がいいのはわかってるんだけど――でも、今日こそ波琉に会えるかもしれないし…… そんな自分に呆れながらも、ついペダルを踏む足に力が入る。 半袖から出た腕に湿度の高い潮風がまとわりつく。昼間は青く晴れ渡っていた空もいつしか薄い雲に覆われ、海にいつもの輝きはなく、波音も穏やかとは言い難い。 梅雨が近いのだろうか―― 梅雨に入っちゃったら、波琉に会えない日も多くなるよね…… そんなことを寂しく考えながら浜へと自転車を走らせる。やがて見えてきた赤いポストに、あたしは速度を落とし呼吸を整えた。 photo by little5am
2017.01.07
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「ハメられたのよ。あたしたち……」「え?」「いや、正確にはあたしが――あなたは巻き添え食ったの」「巻き添え……」 ぽかんとしている桜太に、あたしは一部の女子に目の敵にされていることや嫌がらせを受けている事実をざっと掻い摘んで話した。「先輩もそんなご苦労を……うっ」「たぶん、あたしの上靴に何かしようとして、あんたの手紙に気付いたんだわ。上手く利用されたのよ」「ぼ、僕のせいですね……」 桜太がしゅんとうな垂れる。「桜太は何も悪くないわ。それより巻き込んじゃって……ごめんね」「紗波先輩……。う~っ、なんとかしてここから出ましょう、先輩!」「そ、そうねっ!」 あたしたちは深く頷き合い、脱出方法を模索した。取り敢えず二人して大声で助けを呼びながら、力の限り扉を叩く。「ハァ~、ダメだぁ。体育館にいる生徒にまでとても届かないわ。誰か通りかかったらいいんだけど――」「あ、先輩! あの窓、出られるんじゃ――」 桜太の指差す方を見ると天井近くに横長の小窓が……でも、縦幅が結構狭い。 「う~ん、通れるかな……」 あたしたちはお互いを見比べた。桜太は小柄とはいえ、そこはやはり男子――あたしの方がスレンダーということもあって(引っ掛かりそうなグラマラスバディーでもないし?)窓枠くぐりにはあたしが挑戦することになった。「紗波先輩、大丈夫ですかーっ」 跳び箱八段によじ登り、窓枠に手を掛け鍵を開ける。なんとか顔を出してはみたものの――せ、せまっ……いや、無理でしょコレ。それに、例え出られたとしても、このままじゃ頭から真っ逆さま……ううむ、足からならどうだ?「せせ、先輩っ……パ、パンツ見えそうです!」「ぎゃ、見ないでよっ。あいたっ……」 窓枠に思いっきり後頭部を打ち付けたあたしは、涙目になりながら頭を引き抜いた。「もぉー、無理ぃ~。いたたた」「だ、大丈夫ですか、頭……」「ダメだぁ。出られそうにないや」 はぁ、なんでこんな目に……泣きたい。泣いてるけど。「あ、そうだ! 携帯!」 ポンッと手を打ち跳び箱から飛び降りる。 でも、どこに掛ければいいんだ? そうだ、学校――「ね、さっきの生徒手帳貸してっ。学校の電話番号載ってるでしょ」「あぁっ、ですね! ――ハイッ」「うん、それそれ。えーと、086……」 ……いや、ちょっと待て。「――紗波先輩?」「……この状況、どう学校に説明するの?」「え、状況……」「こんなところで二人っきり、何してたんだって訊かれたら……」「それはその……ありのまま、ですね――」「信じてもらえると思う?」「そ、そういえば転校してきてすぐの頃、3年生の男女が視聴覚準備室で、その……えっと……コホンッ。ん、んで、それが学校にバレて停学だのなんだのと大騒ぎに……」「…………。と、取り敢えずさっ、学校への救助要請は超最終手段ということで、はは……。桜太、誰か助けてくれそうな友達は?」「えっ、僕ですか……す、すみません、そういう友達は……、紗波先輩は?」「……あたしも、誰の番号も知らない」 ひゅるるるる~~ 冬でもないのに寒い、心が……。「あーもう、なんか面倒くさくなってきた。っと、そうだ。部活が終わる頃になったらどこかの部員が道具片付けに来るんじゃない? その時、隙をついて飛び出せば――」「ああっ、ですね!」 桜太がポンと手を打つ。「あっ、でも……うっかり顔見られるとまずくないですか? 紗波先輩なんか、結構顔知られてますよ」「えっ、マジで? あー、それじゃあ……」 あたしは手提げ袋からお弁当箱を取り出し、包みを解いて三角に折り、頭に被ってみせた。「ホラ、こうやって顔隠せば――これ大きいから桜太使って。ちょっとタケノコご飯臭いけどガマンね。あたしはこれよりちょっと小さいハンカチあるから、それで」「成程~、これなら顔バレませんねっ」「ついでにこのカゴに入ってるボール全部ぶちまけてさ、向こうを混乱させて――」「わ、ソレ完璧ですね! じゃあ僕が向こう側から野球のボールぶちまけるんで、先輩はこっち側からテニスボールをお願いします!」 桜太がやけに生き生きと声を弾ませ答える。「オッケ。……っていうか君、随分楽しそうね」「あ、すみませんっ、こんな非常事態にっ。でもなんか、こうやって普通に会話するのほんと久し振りで――」「あー、まぁ……ね。あなたもいろいろ寂しかったのよね。うんうん」 あたしたちはしんみりと頷き合った。「実は音高《ここ》に変わってきた時、ひとりだけ標準語を話すクラスメイトがいて――仲良くなりかけてたんですけど、休学しちゃって……」「休学? え、どうしたの?」「元々身体が少し弱かったみたいで――体育の授業はずっと見学してたし、いつもお母さんに送り迎えしてもらってて……。でも休学だから、また会えるかなーって思ってるんですけど……」「そっか……。早く元気になるといいね、そのクラスメイト君……」 寂しそうに語る桜太になんだかこちらまで悲しくなり、あたしはぽつりと返す。「でもね桜太、言葉は違っても結構気持ちって通じ合えるもんよ? あたしも最初はすっごく壁感じてたけど、なんか最近そう思うようになったの」「そうですか……。はぁー、僕、こっちで友達できるかな……」「できるわよ、ちょっと心を開けば……。そうだ、取り敢えずあたしが友達第1号になってあげる。どう、少しは心強いでしょ? ふふ」「紗波先輩……」 と、――ガチャ、ガチャガチャッ……「……!!」 突然、鍵が開けられるような音が響き、あたしたちはハッと身を固くして顔を見合わせた。〈せせ、先輩っ……〉〈早く顔隠してっ……ほら、スタンバイ!〉 頬っ被りした布を鼻の下で結び、それぞれボールの入ったカゴに駆け寄る。――ガチャリ、ガラガラ……〈せーのっ……おりゃっ〉 ガッシャーンッ、ゴロゴロゴロッ――「わっ! な、なんじゃっっ」〈逃げるのよ!〉〈ハイ先輩っ!〉 ところが、「ちょー待てぇっ!!」――ガシッ。 あたしは呆気なく捕らえられ―― し、しまった! 運動部の反射神経、侮ってた!「あ、あのっ、これには事情がっ……」「あぁ? ……高槻?」 ん、この声は――「委員ちょ……な、なんでここに……」「なんじゃ、そのコソ泥みてぇな格好……」 お互いポカンと見つめ合う。「わ~~っ、先輩をはなせ~~っ」 ポカスカポカスカ。「なっ、いてて! わっ、ここにもコソ泥がっ……っちゅーか、おめぇら一体――いてっ、ええかげんにせーって!」「桜太、ストップストップ! この人うちのクラス委員長! 大丈夫だからっ」「へ……」 桜太がポカスカポーズで固まる。 辺り一面に転がるボール、そして謎の頬っ被り二人組……。「えーと、どこから説明しましょうかね……アハ」「事情は後で聴くけぇ、取り敢えずボールどねーかせられ。ったく、こげん散らかしてからっ」「はいぃ~……」 あたしと桜太は返す言葉もなく、黙々と球拾いに励んだのだった。 photo by little5am
2017.01.04
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少しだけでもお話できれば、か…… 正直ちょっと気が重いな。かといって、このまま放っておくのもなんだかモヤモヤするし…… 何かの罠だったりして――と、疑いつつも殊勝な文面を思い出し、取り敢えず行くことに決める。 靴箱の扉を開け、取り出したローファーを軽く上下にフリフリ……よし、画びょうは入ってないな。向こうもくだらないことはもう止めにしたのかも。 少しホッとしていると、「えーと、紗波……」 背後から躊躇いがちに声を掛けられた。「あ……結実」 振り返ったあたしも、少しはにかみながらその名前を口にする。まだお互い名前で呼び合うことに慣れてないから、なんとなく気恥ずかしい。「その後どう? なんも変わりねぇ?」「あーうん、大丈夫。今んとこ」「そう、えかった。ふふ」 と、「結実ぃ~、今日は一緒ん帰ろぉゆーたろーがぁ」 甘えたような声が聞こえ、結実の肩越しに向こうを見遣ると、小野が口を尖らせこっちにやってくるところだった。「え、そうじゃったっけ? 柊哉は?」「今日は委員会じゃ、明日んことでの。――お、高槻。最近よう二人でおるのぅ」「えッ!? あ、あぁ……」 びっくりした。一瞬、委員長とのこと言ってるのかと思った。「ぷっ、なんじゃあ、ハトが豆鉄砲食らったような顔してから。いやしかし、ええこっちゃ!」 小野はあたしと結実の鞄をさっと取り上げ下に置くと、にこりと笑いながらあたしたちの手を取り握手をさせ、空いているもう片方の手を今度はそれぞれ自分の手と繋いだ。靴箱を前に、今にもマイムマイムを踊りださんばかりの変な輪ができあがる。 ……なに。「こうやっての、どんどんどんどん友達の輪ぁ広げてくんじゃ。うんうん」「――って、ただ紗波と手ぇ繋ぎたかっただけじゃろッ」 呆気にとられていた結実が手を振り払い、小野の首を絞めに掛かる。「いででっ、ギブギブ!」 ……可奈のおじさんとおばさん、元気かな。 夫婦漫才を繰り広げつつ進む二人に続き、あたしも玄関を出る。と、階段を下りきったところで小野がぼそりと呟いた。「わしも寂しーんじゃ。最近、柊哉付き合いわりぃけぇ。昼もどけぇ行きょーるんやら、すーぐおらんようなるし……」 ぎくり。「じゃ、じゃああたし、ちょっとこっちの方に用事が……」「――そねーな方に何の用が? 紗波、自転車じゃろ? まだ帰らんの?」 結実が訝しげに訊ねる。 「えっと……」 靴箱の手紙のことを、あたしは結実にだけこっそり耳打ちした。「えッ、せーって告……な~んじゃあ~」 結実がにやりと含み笑いをする。「そこ、女子! なにゅーヒソヒソやりょーるっ」「ええんじゃ、帰るで亘! ほんなら紗波、青春の1ページ――楽しいひと時を。ぐふ」「はは……。バイバイ」 あたし、そんな浮かれてないんだけど……。「ほんならの高槻! チュッ(投げキッス)」「最後のんは余分じゃッ!」 …………。 ぎゃーぎゃーとじゃれ合いながら去っていく小野と結実。その後ろ姿を暫し笑って見送り、あたしはくるりと踵を返す。 それにしても誰があんな手紙よこしたんだろう? 同士、というのも気に掛かる。 体育館では種々部活動が行われているらしく、館内からはホイッスルの高い音やボールが跳ね返る音、部員たちの掛け声などが賑々しく聞こえてくる。活気溢れる体育館の脇を抜け、あたしは体育倉庫のある裏側へと回り込んだ。 ひょっとしたら、あたしのことをよく思ってない女子たちがずらりと待ち構えてたりして――警戒しながら角からこっそり向こうの様子を窺う。が、そこに立っていたのは意外にも、小柄な可愛らしい感じの男子生徒だった。――あれ……マジですか。 拍子抜けしつつも、念のため暫し相手を観察する。 男子生徒は緊張しているのかそわそわと落ち着かなげな様子で、腕時計を見たり足元の土を爪先でつんつんしたりしている。全く何の裏もなさそうだ。……っていうか、ウサ耳付けたら超似合いそうなんですけど。 警戒するのがなんだかバカらしくなってきたあたしは、覗き見ていた場所から一歩踏み出し、そのままスタスタと距離を詰め男子生徒の前に立った。うつむいていた男子がハッと顔を上げる。「あっ……た、高槻先輩っ」 先輩――、1年か。 「こんにちは。手紙読んで来たんだけど……」「は、初めましてこんにちはっ……ぼっ、僕あの、1年D組のコモリヤオウタっていいますっ」 男子生徒は頬を赤らめ、テンパり気味に早口で名乗った。「え? コモ……」「あ、えと、ちょっと待っ……あれっ、どこ入れたっけ手帳――」 1年男子がズボンのポケットやら鞄やら、あちこち慌ただしく探る。別にちゃんと名前知らなくてもいいんだけど……。「あったっ……コレッ」 ラブレター読んでください! みたいな感じで両手で勢いよく生徒手帳を突き出され、あたしは若干引きながらそれを受け取った。――1年D組 小森谷桜太…… 桜太《オウタ》、か……なんか可愛い名前。桜はちょっと苦手だけど……「わ、わかった、はいコレ。時に小森谷君、君はあたしと何の話を――」「あっはい、あのですねっ、えとっ……日々の些細な出来事を語り合ったりだとか他愛もない日常会話等、先輩と交わしたく……!」「…………」 また変なキャラ出てきた……。 っていうか! このシチュエーションって、告白されるとかそっち系でしょ普通! なぜに見ず知らずの高1男子と老年期の茶飲み友達のような間柄に……!? この子の目的は一体――「あのっ、何でもいいんです! 取り敢えず僕と標準語で喋って頂ければっ。お、お願いしますぅ~……えぐっ」 なな、なんなの。「あの、僕、東京の中学校を卒業してすぐ、親の転勤でこっちに引っ越してきて……」「えっ、あなたも?」 あたしは瞬時に親しみを覚え、興味深く身を乗り出した。「あっ、呼び捨てでいいです、桜太でっ。あの~、僕も親しみを込めて『紗波先輩』って呼ばせて頂いても……」「それはいいけど……、へぇ、そっか東京から――あたしもね、父親の転勤で千葉から引っ越してきたのよ」「ハイ、知ってますっ」 成程、それで『同士』か。ふむふむ。「紗波先輩は1年の間でも有名で――千葉から来た美少女が転校初日に、馴れ馴れしく言い寄るクラスの男子を一刀両断、半殺しにしたって」 ……どんな尾ひれ。クラスの男子って小野のことか?「岡山県民に怖気づくことなく堂々としてて尚且つ綺麗で……紗波先輩は僕の憧れです~関東人の誇りです~。僕なんか、こっちの言葉もう怖くて怖くて……。女子とかVシネマみたいな口調で、僕に無理やりスカート穿かせようとしてくるし。ぐす……」 ……どんな状態。っていうかごめん、女子の抑えられない気持ちわかるかも……。 しかしこの子も、他県からの転入生ならでは――言葉の違いに戸惑う苦悩の日々を送ってるのね。あたしも波琉が標準語ですごくホッとしたもんねぇ。 あたしは目の前の男子――小森谷桜太の突拍子もない申し出に、さもありなんと深く頷いた。「なんか楽しいですね、こうやって話してるとっ。あ~、関東弁が身体中に染み渡りますぅ。二ヶ月間、耐え忍んできた甲斐がありました!」 そんな風呂上がりのビールのように言われても。「……プッ、変なの」 あたしは思わず吹き出した。と、そこへ、――ボンッ、ボン……コロコロコロ…… なにやら派手な色目のボールが一個転がってきて……――どけぇ投げよんなら、もぉ~!――ごめーん、ちょー取ってくるけぇ! ハッと桜太と目を見合わせる。「ヤバっ、こっち来るっ」「どど、どうしましょうっ」 別に見られて困ることなんか何もしてないけど、告白真っ最中みたいな誤解を招きかねないこのシチュエーション、他人に見られるのはちょっと小っ恥ずかしい。慌てた様子で小刻みに地面を踏み鳴らしていた桜太は、「ああ先輩っ、そこ開いてます!」 あたしの腕をむんずと掴むと、扉が開きっ放しになっていたすぐそばの体育倉庫へとあたしを引っ張り込んだ。薄暗く埃っぽい倉庫の奥、跳び箱の陰に二人で身を潜める。〈ちょっと、あんまくっつかないでよっ〉〈わわっ、す、すみませんっ……〉〈――シッ、来た〉 地面を踏みしめる足音が微かに聞こえる。息を殺すこと数十秒――〈……もう行ったのかな?〉 桜太と顔を見合わせたその時、――ガシャン! 大きな音を立てて扉が閉まり、「……!!」あたしたちは同時に慌てて立ち上がった。 ま、まずい。鍵でも掛けられたりしたら最悪だ。 こんな倉庫で一体何をしていたのか――と、さっきよりかなりマズイ状態だが、そんなことを言っている場合ではない。あたしはダッと入口に駆け寄り扉に手を掛けた。――ガチャリ。「え、嘘っ……鍵閉まったっ」「えぇーっ、せ、先輩どうしようっ……」 ドンドンッ!「ちょっと! 開けて! 中にいるの!」「出してくださいぃ~っ」「ちょっとーっっ!」 ドンドンドンッ!――しーーーーん…… え、なんで? ……ワザ、と? あたしたち、ワザと閉じ込められたの?「さ、紗波先輩、これは一体全体どういうことでしょうかっ……」「――――」 なぜ、体育倉庫の扉が不自然に開きっ放しになっていたのか―― あたしはハッと顔を上げた。 photo by little5am
2017.01.02
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