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「あ、高槻さん……」 休み時間トイレに立ったあたしは、廊下で立ち話をしていた男子生徒に声を掛けられ足を止めた。「――なに?」 お互いを肘で突《つつ》き合い、なかなか用件を言わない男子三人組に怪訝な表情を向ける。やがてその中の一人が、思い切ったように口を開いた。「その……柊哉と付きおーとるいうて、ほんまなんかのぉ?」「へ? 委員長……」 一瞬きょとんとして、「え、あたしっ!? ケホケホッ……いやいや、付き合ってないしっ」 咳き込みながら慌てて否定する。「え? 付きおーとらんの?」「付き合ってないわよっ、一体誰がそんなデタラメ――」「なんじゃあ~」 男子たちは目を見合わせ、どこか気の抜けた声を漏らした。「柊哉訊いてもはっきりせんけぇ、てっきりほんまなんか思うて、のぅ?」 えぇっ? ちゃんと否定してよ委員長ーっ。「ごめん、あたしちょっとお手洗いに……」「あっ、すまんすまん。風邪お大事にぃ~」 ニコニコと見送られ、そそくさとその場を立ち去る。 委員長、なんでまたそんな誤解を招くようなことをっ……?? にしても、付き合ってるだなんて――教室では必要以上に話さないようにしてるし、成り行きでちょっと一緒にお昼食べてるだけなのに。でも、それすら誰も知らないことなのにそんな噂が立ってるのよね。これは益々バレるワケには…… 思わぬ波紋を広げているらしい、マラソン大会での出来事―― お昼休みを通してあたしたちが親しくなったことを知らないみんなからしたら、それも仕方のないことなのかもしれない。いっそ委員長、あたしのこと友達宣言してくれたらいいのに――って、逆にややこしくなるか…… と、女子トイレの入り口を曲がったところで、――ごつんっ。 中から出てきた女子生徒と、思いっきり頭同士をぶつけてしまった。「つ……」「……ッたぁ」 痛むおでこを押さえ、相手に視線を戻す。「あ……」「なん、またあんた――」 同じくおでこを押さえ険しい目であたしを睨みつけているのは、同じクラスの杉本ミホだった。 あー、ヤなのにぶつかっちゃった。――とはいえ、ぼーっとしてたあたしに落ち度があるので、「ごめん、大丈夫?」即座に詫びる。「大丈夫ちゃうわっ。いっつもどこ見とんなら、ったく」「ごめ……、コホコホッ」「ちょ、うつさんとってよ風邪! 授業中もコンコンケホケホ、マジ迷惑なんよ」「…………。コホッ……」 黙ってたら結構可愛い系なのに、言うことキツ……。「あんた、そーやって男子の気ぃ引こー思うとるんじゃろ。辛いけど頑張ってますぅ~みてぇな?」「は?」 思ってもないことを言われ、ぽかんとミホを見返す。「そーゆーんに男子てすーぐ騙されよるんよなぁ。ほんま計算高いっちゅーか。フッ」 ……ちょっと待て。黙って聞いてりゃ、なんなのこの子。「あのね、そんなくだらないこと考えてる暇なんてないからあたし。あぁ、よかったら風邪うつして差し上げますけど? そんなに羨ましく思うんならねっ。ケホケホッ」「は、はぁっ!? ちょーあんた、いっつも柊哉が助けてくれるからっちゅーて調子乗るんも大概にせられぇよ! 委員長じゃけ転校生気に掛けとるだけじゃのに、この勘違い女っ」「……いつも?」 少し引っ掛かってぼそりと返すと、ミホは一瞬ハッとしたような素振りを見せ、「どいて、そこ」 邪魔だと言わんばかり、あたしにぶつかるようにして去っていった。「な、なんなのアレ……ってか、勘違い女って。ケホケホッ……っつ」 思い出したように痛む額を、あたしは前髪がくしゃくしゃになるのも構わず荒々しく擦った。 photo by little5am
2017.02.25
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「おっ、来た来た。高槻、なんじゃ久し振りじゃのー」 突然頭上で明るい声が響き――ハッと振り仰ぐと、3階の通路から身を乗り出すようにニコニコとこちらを見下ろしていたのは小野だった。「あれ、おはよ? コホコホッ……なに、どしたの?」「結実から今日来とるいうて聞いたもんじゃけぇ」 ひょっとして……あたしが教室入りにくいと思って待っててくれてた?「咳、えらそうじゃのぉ。せっかく可愛ぇ顔拝める思うとったのにマスクで台無しじゃが」「また、そんなこと……ケホッ」 と呆れつつも、敢えて軽いノリで元気付けようとしてくれている小野なりの気遣いを感じ、マスクの下頬を緩める。階段を上りきると、小野はあたしの顔を覗き込みニカッと笑った。「どげぇなしょぼくれた顔で来るんじゃろ思うて心配しょーたけど、さすが高槻。だてに一匹狼気取っとらんのぅ」「誰が一匹狼よ。コホッ」「まぁまぁ。これからは群れで行動すりゃええっちゅうこっちゃ。ハハ」「群れ……」 ひとりじゃないと励ましているのか……前にも思ったけど、小野って軽そうに見えて結構なんていうか――委員長も、小野はわざと茶化した態度を取ってるだけだって言ってたもんね。結実が小野を好きな理由も、案外その辺りに……「小野……」「あぁ?」「……ありがとね」 あたしは少しマスクをずらし、にこりと微笑んだ。「…………、うッ、胸が――!」「えっ、ちょっとなに、大丈夫っ?」「ブッセツマカハンニャハラミタ……邪念退散~っ……!」 と、なにやら般若心経らしきものを唱え身悶えし始める小野。「な、なんなの……ケホッ」 小野、やっぱり変なヤツ……。「――っと、そうじゃあれ、黒田。よ~うガン飛ばしといたけぇ安心せぇ。澄ました顔しとったけど内心縮み上がっとるはずじゃ。もういらんことやこぉしてこんじゃろ。フフ」「あー……ありがと、はは……。コホン」 また変な誤解されてなきゃいいけど……。 得意げな笑みを向ける小野にへらりと返しつつ、教室に足を踏み入れる。途端、あからさまにトーンダウンする教室のざわめき――でも小野は意にも介さず、「小野亘、任務完了」 おちゃらけた態度でトランシーバーに向かって話す振りをする。「誰に報告……」「じゃあ後は遠藤に任せた。なんじゃ高槻に渡す言うて、休んどる間の分いろいろノート書きょーたぞ」「遠藤さんが? コホッ……」「は、しもうた。ちょっとしたサプライズじゃったのに、つい口が……。ま、今のは聞かんかったっちゅーことで」 おどけた笑みを浮かべ小野は背を向ける。 みんな、あたしのこと気に掛けてくれてるんだ……あたしはひとりじゃない―― 改めてそう思うと、ヒソヒソ交わされる囁き声も不思議と気にはならず――あたしはぐいっと顔を上げ、絡みつく視線を断ち切るようにスタスタと自分の席へと向かった。「遠藤さん、おはよっ。……コホッ」 ルーズリーフに黙々と文字を綴っていた遠藤さんがハッと顔を上げる。「高槻さん……」 黒縁眼鏡の奥、大きく見開かれた瞳が一瞬ふわりと柔らぎ、続いて気遣うような心配げなものに変わる。こうして意識して見ると、彼女の中でいろんな感情が揺れ動いているのがわかる。そう……遠藤さんはただ、感情を前面に出すのが苦手なだけなんだ。そんな遠藤さんを、これからはもっと理解してあげられたら……「思わぬ二日も休んじゃったよ。ケホッ」 肩を竦めてクスリと笑い、椅子に腰を下ろす。「咳が……まだ辛そうじゃね、大丈夫? 足じゃって、まだ痛いんじゃ……」「大丈夫大丈夫。まぁ、咳のしすぎで腹筋はちょっと痛いけど。はは……あ、うつさないよう、しっかりマスクしてるからね。足もね、普通に歩く分にはもう全然平気なの。コホッ」 それでもまだ心配そうな表情を浮かべている遠藤さんに明るく問い返す。「それって期末の試験勉強? 遠藤さんって、ほんと頑張り屋さんだよねー」「あ、えっと……」 遠藤さんは少し頬を染め、でもちょっと嬉しそうに自分の鞄をゴソゴソし始めた。「あの……高槻さんが休んどる間の授業、うちなりにまとめてみたんじゃけど――よかったらコレ……」 あ、小野が言ってた――って、え、これ全部っ? おずおずと差し出されたルーズリーフの束を目を丸くして受け取る。 これって、ノート一冊分くらいあるんじゃ……小野から聞いててもびっくりだ。「いいの、ほんとに? ……わ、すごっ。こんなに詳しく! コホコホッ」「うち、こんくらいしかできんで……高槻さんには迷惑掛けてしもうたけぇ……」 もじもじとうつむく遠藤さんがなんだか可愛くて、あたしはふっと目を細める。「なんにも迷惑なんか掛けられてないよ。嬉しい、ほんとにありがとっ。ケホッ……でも、これだけ書くの大変だったでしょ? なんかごめんね」「ううん、うちも復習んなったし……あ、今書きょーるんは現文で――、ちぃと待ってね。もう終わりそうなけぇ」「うんっ。ふふ」 隣の席の子と何気なく会話し、微笑み合う―― 前の学校で当たり前にしていたことが、今はこんなにも嬉しくて……――なんあれ、急に仲ええ思わん?――ってか、遠藤さん笑うん初めて見たかもしれん。マジびっくり…… あたしたちの間に漂うほのぼのムードを意外に思ったのか、近くの女子がこちらを見てはヒソヒソと囁き合っている。 そうかあたし、遠藤さんを笑顔にすることができてるんだ。そう気付かせてくれた棘のある囁き声にさえ、思わず感謝したくなる。 と、「ほれ朝学じゃ、待たせたのー」 委員長がプリントの束を持って教室に入ってきた。「そげぇなもん待っとらんて」「ふぁ~、ねみ~」 ツッコミとブーイングの中、委員長が列の人数を確認しながら最前列の生徒にプリントを配っていく。 あたしに気付き、おっ……と、軽く驚きの表情を浮かべる委員長。あたしは目立たぬよう胸元で小さく手を挙げる。委員長は僅かに目を細め、あたしもふふっと微笑み返す。 と、こちらをじっと見つめる遠藤さんと目が合い――「ん?」「や、えと……、現文できたけぇ……」「あっ、ありがと~。コホンッ」 笑顔でそれを受け取りつつ―― なんだろ遠藤さん、なんか物言いたげな…… でも、あまりに懇切丁寧に書かれた現文のルーズリーフに、ふと浮かんだ疑問は突き詰められることなく、そのまま頭の隅へと追いやられてしまったのだった。 photo by little5am
2017.02.14
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保健室から? な、なに? なんの呪文?〈じゃあ、もうちょっと難易度上げるわね。でーてーたでーこんてーてーてー。ハイ!〉〈で、でーてーたでーこんてーてーてー!〉 ???〈そうそう~。上手いじゃない、君〉〈あの~マユミ先生、これはどういった意味の……〉 あれ、なんか聞き覚えのある声――桜太?〈出しておいた大根を炊いておいてちょうだい。っていう意味よ〉 なんだ? 岡山弁の練習か?〈あの、それ……あんまり学生生活に関係なくないですか……。もうちょっとこう――〉〈じゃあ、こーここーてーてー。ハイ!〉〈あっ、えと、こーここーてーてー! これはどういう……〉〈タクアン買っておいてね〉〈いや僕、タクアンはあんまり……って、そんなことたぶん一生言わないですからっ。も~マユミ先生、もっと使用頻度高そうなのお願いしますよぉ~〉 桜太……先生に遊ばれてる……。――カララ……「おはようございますぅ……お借りしてたジャージ返しに来ましたぁ。コホンッ」「あっ、紗波先輩っ」「あら、高槻さん」 桜太に小さく手を振り中に入る。「なに、二人とも知り合い?」「あ、はい。ケホケホッ……」「あらら咳が……中沢君から風邪で休んでるって聞いてはいたけど、やっぱり引いちゃったのねぇ。でもまだ辛そう……大丈夫なの? 足は?」「あー、咳が残ってるだけでそんなには……ケホッ、足も頂いた絆創膏すごくよくて、もうだいぶいいんです。いろいろありがとうございました」「あらそう、よかったわ。若いとさすが傷の治りも早いわねー、ふふ。でも――」 先生はメッと軽く睨む。「無理しすぎないようにね。どうも高槻さんはその傾向があるみたいだから」「はい、スミマセン……コホン。ところでなに桜太、どこか悪いの?」「いえ、僕は至って健康ですがっ。あ、そだ紗波先輩、なんかこの間、男の人に背負われてましたよねっ。ひょっとして紗波先輩のお父さんですかっ?」「え、あー、うん」 やっぱり。あの声は桜太だったか。「どうりでなんだか雰囲気似てると――さすが紗波先輩、お父さんもイケメンですねーっ」「はは。似てるかな……コホコホ」「紗波先輩、早退したっきり学校休んでるから心配してたんですぅ。借りてたナフキン返しに2回ほど教室に行ったんですけど、その都度中沢先輩と、えと――小野先輩にすげなく追い返され……」「え、そなの? ケホッ……、そんなの預けといてくれればよかったのに」「って、中沢先輩にむしり取られそうになったんですけど死守しましたっ。だってせっかく紗波先輩と話せるチャンスを……それに、ちゃんとお礼も言いたかったし。あ、今持ってないんで後で返しに行きますね! ふふっ」「あー、うん。はは」 桜太にシッポがあったら、絶対今ブンブン振ってるよね……。「まぁまぁ、えらく懐いてること」 隣で先生もくすくす笑う。「あの、この間聞こえてました? 体育倉庫の――実は、この桜太と閉じ込められてたんです。コホッ」「あらっ、そうなの?」「え、マユミ先生ご存じで? 全くひどい話ですよねっ! でも僕が悪いんです……標準語が恋しいあまり、あんなところに紗波先輩を呼び出してしまった僕が……うっうっ」「いや、桜太なんにも悪くないし。ケホッ」 でも、体育倉庫はカズエじゃないんだよね……一体誰なんだ犯人はっ。「でも、こんなことが続くようならどうにかしないとねぇ。――この間の話では誰の仕業か大体の見当はついてるみたいだったけど?」「はい……まぁ、全部じゃないですけど……コホ」「えっ、犯人わかってるんですかっ? 画びょうとかほんと悪質ですよねっ。ん~、許せません! そんなの僕がこてんぱんに――」「あら、小森谷君。君、岡山弁怖いんじゃなかったっけ?」 拳をぷるぷる震わせている桜太の肩に、先生がポンと手をのせる。「なんかねぇこの子、岡山弁恐怖症を克服したいらしくて。ほら、高槻さんが連れてこられる前に追い出した男の子って、この小森谷君なんだけど、それ以来暇さえあればここに来るようになっちゃって。岡山弁習得したいなら岡山《こっち》の人に教えてもらえばいいのにねー」 やはり、それも桜太……。「僕、岡山弁を理解しつつ標準語で話してるマユミ先生に教わりたいんですっ。本場の人はなんだか怖くて……」「本場……。っていうか桜太、コホッ……先生のことまで名前で呼んでるの?」「あ、違うのよ。私、マユミケイコっていうの」 クスッと笑みを零し、先生は白衣の胸ポケットに付けた名札をつんつん指差す。「真弓《マユミ》、慶子《ケイコ》……あっ、そうなんですねー」「ねねっ、なんかここ、岡山じゃないみたいですねっ。あっ、そだ!」 桜太が興奮気味に声を上げる。「たまにほら、僕たちこうして標準語で語り合いましょうよ! 普段抑圧されてる分、少数派にも憩いの場って必要だと思うんですよねっ。ねっ? 『関東弁友の会』本日発足ということでどうでしょうかっ」「関東弁友の会……」 なんじゃそりゃ。「こっちの人たちって僕たちみたいな話し方、そう呼ぶでしょ? それに『標準語友の会』より『関東弁友の会』の方がより深い繋がりを感じるというか――で、それを支えに僕たち、このアウェイ感を乗り切るんです! う~ん、我ながらなんてグッドアイデア……!」 桜太、ネーミングセンス……。「ねぇ、小森谷君。別に無理に周りに合わせようとしなくてもいいんじゃない? そんなものに振り回されず、ありのままの自分を貫けばいいのよ。ほら、高槻さんごらんなさい。君より後に転校してきたのに堂々としてるでしょ?」 堂々……そう? や、単に言葉の違いを気に掛ける余裕がなかっただけっていうか…… 勢いを削がれた桜太がしょんぼりと口を開く。「そうですよね……そんなだから僕、なめられるんですよね。あぁ、僕ってなんてちっちゃい人間なんだろう。僕も紗波先輩みたいに強くならなくちゃ……。よし! 今度また女子が無理やりスカート穿かせようとしてきたら、次こそはビシッと拒否してみせますっ」「……穿かされちゃったんだ、スカート」「ふっ。まぁ、関東弁云々はさておき……胸のモヤモヤ吐き出したくなったらいつでもいらっしゃい。話し相手ぐらいにはなれるから」 年齢不詳、クールビューティという言葉がぴったりな真弓先生の意外に柔らかな笑顔に見送られ、あたしたちは保健室を後にする。「でも紗波先輩、犯人のことどうするんですか? ここはやっぱり、担任の先生にでも相談してみた方が――」 担任の先生、ねぇ……。休んでる間に村田先生から電話はあったけど、どうしても相談する気になれなかったのよね。なんか余計にこじれそうで。まぁ、横に彩香さんがいたからっていうのもあるけど……「うーん……まぁ、もう少し様子見るよ。ケホッ」 カズエはもうこれ以上、何もしてこないはず――なんの関心も持たれないよりいいなんて、そんなの強がりに決まってるし……「なんだか心配ですぅ。僕、ほんと頼りなくて……紗波先輩ごめんなさい」「あたしなら大丈夫! コホンッ。だから桜太もクラスの女子に負けてちゃダメよ。あ、もうこんな時間……、ゆっくりしすぎちゃった。じゃあまたね、桜太!」 自分自身に活を入れるつもりでしょんぼりうな垂れている桜太の背中をパンッと叩き、くるりと踵を返す。「あっ、紗波先輩、また後で――風邪お大事にっ……」 桜太に手を振り返し、あたしは僅かに緊張を滲ませ教室へと向かった。油断するとすぐさま萎えそうになる気力をなんとか奮い立たせ、くるくると階段を上る。と、「おっ、来た来た。高槻、なんじゃ久し振りじゃのー」 突然頭上で明るい声が響き――ハッと振り仰ぐと、3階の通路から身を乗り出すようにニコニコとこちらを見下ろしていたのは小野だった。 photo by little5am
2017.02.10
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「わ、紗波っ……」 結実に支えられつつ、何事かと顔を上げる。「あぁ、ごめーん。ここ狭いけぇ肩当たってしもうたわぁ」 見覚えのある顔――確かうちのクラスの女子だ。「ちょぉ! なんしょんならあんた、今のわざとじゃろ!」「フン、ちぃーと当たっただけじゃが」 女子生徒は悪びれる風もなくスタスタと坂道を上がっていく。「なんあれ、感じわっる!」 憤る結実から、ふと周囲に目を向けると――なんかいつにも増して、あたしを見る女子の視線がキツイような…… 同じく辺りを見回していた結実が、顎に手を当てぽつりと呟く。「あれ……完全、裏目に出とるな」「? なに?」「亘から聞いたんじゃけど――、マラソン大会の次の日、柊哉、紗波んことクラスで言うたらしいんじゃ」「委員長が? コホッ」「陰でコソコソ嫌がらせするんは卑怯じゃ、いうて結構きつぅ。柊哉が紗波おんぶして帰ってきたいうて騒いどった女子らぁからしたら、益々おもろーねかったじゃろーなぁ」 委員長、嫌がらせのこと注意してくれたんだ……クラス委員長だもんね。でも、かえって状況を悪化させることに……うぅ。「自分と境遇が似てるから、あたしのこと気に掛けてくれてるだけなのに、委員長……」「境遇? あぁ、転校してった日職員室で――、柊哉んとこも去年じゃったか父親再婚した言よーたもんなぁ」「コホッ、やっぱ聞こえてたか……。そうだあの時さ、結実あたしのこと、前の学校でなんか問題起こして――とかなんとか言ってたでしょ」 ふとそんなことを思い出し、軽く愚痴ってみる。「えー? ちょー待って、せーってうちちゃうしっ。そりゃ、横におった子ぉで――」「え、結実じゃなかったの? ケホッ」 揺れる三つ編みが印象に残ってて、てっきり結実だと……「なんだ、違ったんだぁ。そっか……」「なん? ほんならうち、いらん恨み買われとったん? あぁ、せーで最初あねーツンケンしょーたんか」「いや、それは結実がすごい剣幕でつっかかってくるから――」 少しマスクをずらして不服げに横を向くと、結実も同じように口を尖らせていて……お互いプッと吹き出す。結実は少し照れくさそうに続けた。「紗波、追試で落ち込んどる亘に、彼女のために勉強頑張れって言うてくれたじゃろ。うち、紗波に結構きちぃーこと言うたのに……」「ん? あー……」「そん時うち、この子んことちぃーと思い違いしとるんじゃねんかなって……」「ふっ、どう勘違いされてたんだか」「まっ、お互いさまっちゅーことで」 あたしたちは再び小さく笑い合った。「ところで、その追試とやらはどうなったの? コホンッ」「あぁ、紗波休んどる間にあってなぁ。本人はできたぁ言よーたけど、どうじゃろ。どーせなら追試やこー受けんでええよう最初っから頑張りゃーええのに、なぁ」 結実は肩を竦めて笑うと、少し間を置き、「――例の、嫌がらせのことじゃけど……」 言いにくそうにぼそりと切り出した。「あれ……やっぱ、カズエじゃった。でも、体育倉庫と制服のこたー知らん言うて……」「そっ、か……」 画びょうも矢印の向き変えたのも、やっぱりカズエだったんだ…… カズエの仕業――でも、カズエだけじゃない。どちらもわかったところでいい気はしない。他にも嫌がらせを受けていることを知ったカズエはきっと、いい気味だと陰で笑っていることだろう。想像するとそれも腹立たしく思えた。「カズエ、マラソンの表彰の後で柊哉に呼び止められたらしいわ。なんも言われんかったけど目がすげぇ怒っとって、あぁ、バレたんじゃなって――でも、あねん見つめおうたの初めてじゃ、なんの関心も持たれんよりゃーええかもとか言よーて、あの子……」「…………」 苛立つ胸の内に複雑な思いが過る。 委員長と転校生、家庭が似たような状況にある――ということで、あたしはいろいろと委員長に気に掛けてもらっている。委員長があたしと一緒に昼食をとるようになったのも、たぶんそういう理由からで――で、親しくなってマラソン大会でのことに繋がって……。でも、ただそれだけだとしても、一方では胸を痛めている人間もいるのだ。それは今、あたしの心を苦しめているものと同じ―― 嫉妬に取り憑かれて、嘆いたり苦しんだり――再び波琉の言葉が頭の中によみがえる。 カズエも、どうしようもない心の闇に突き動かされて、ああいう行動を取ってしまったのだろうか……と、理解しようとしたところで大変な目にあわされたのだ。腹が立つことに変わりはないけど……「カズエんこと責めたら、あの子に『ええ子ぶって』って言われてしもうた。そりゃまぁうちじゃって最初は紗波にきつぅ当たっとったわけじゃし……って思うたら、なんじゃぁそっから強ぉ言えんようなってしもうて――、カズエに謝らせよう思よーたのに、ごめん紗波……」「ううん、怒ってくれただけで十分。ありがと、結実……ケホッ、あたしの方こそなんか嫌な思いさせちゃって、ごめんね」 あたしたちは、まだまだ未熟で―― もう少し大人になったら、そしたら今よりは器用に感情をコントロールできるようになってるのかな……「……紗波?」 黙り込むあたしを結実が心配げに覗き込む。気を取り直し、ふふっと目を細めると結実はほっとしたような表情を見せ、ふと思いついたように小さな声で訊いてきた。「こねんこと訊くんもあれじゃけど……ほんまんとこ、あんたらぁどねーなん?」「? どねーなんとは? コホンッ」「や、なんぼ委員長じゃいうても雨ん中……なぁ? 柊哉、えれぇ紗波んこと気ぃ掛けとるがー? 転校してってそねん経っとらんのに、えろー打ち解けとるっちゅーか……」「そ、それはほら、あたし転校生だし委員長責任感強いし……ケホッ、先生から頼まれたのもあって、そういうのほっとけない性分なんだよ、きっと」 お昼休みはほぼ一緒に過ごしてるんだから、それなりに友情みたいな? そういうものが芽生えて当然で――でも、そんなことみんな知らないし、知られたら変に誤解されそうだし、委員長からは誰にも言うなって言われてるし、屋上で食べられなくなっちゃうかもだし……「責任感ねぇ。――にしても、なぁーんかこれまでの柊哉と違う気するんよなぁ」 結実はどうもしっくりこないようで首を傾げている。坂道を上りきる頃には益々女子の視線も痛く、あたしはふと、こんな自分と肩を並べて歩いている結実のことが心配になり、「保健室で借りてたジャージ返さなきゃ。ちょっと先行くね」「あ、うん――」 きょとんとする結実を残し、足早に高等部校舎へと向かった。 カズエ以外にもあたしを鬱陶しく思っている人間はいる――上靴を逆さに振ってから履き替える。「ケホッ、ケホッ……」――あの子来とる……――咳出るんじゃったら、もちぃーと休んどりゃあええのに…… 言ってることは同じでも、結実とは意味合いが違う。悪意の滲む視線と囁き声を振り払うように、さっさとその場を後にする。 でも、足……ほんとによくなってる。先生にお礼言わなきゃ――と、保健室の扉に手を伸ばしかけて、〈――でーこんてーてーてー!〉 不意に耳に飛び込んできた意味不明の言葉に、あたしはびくっと手を引っ込めた。 photo by little5am
2017.02.09
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「あっ、結実、おは――ケホッコホッ」「あーあー、風邪じゃいうて聞いとったけど、まだえらそうじゃなぁ。無理せんともちぃーと休んどりゃええのに、大丈夫なん?」「ケホッ……だって、あんまり休むのもなんか癪に障るし」「あねーなことあったけぇ心配しとったけど……結構打たれ強いんじゃな」 結実はクスッと笑みを浮かべると、あたしの後ろにちらりと目を向けた。「あ、えっと、近所のおじいちゃん。見かねて送ってくれたの。ケホッ」「んん? しゃなみちゃんの友達かのぉ? こりゃーはじめまして、おはよぉさん」「あ、どうもはじめま――えっ、ちょー待ってゲッタン!? なん、こねんよーけ! や~ん、ぼっけぇ可愛ぇっ」 へ。「おぉ? なんじゃあ嬢ちゃん、ゲッタン好きなんか~」 興味津々、かぶりつくように車内を覗き込む結実に、おじいちゃんが満面の笑みを向ける。「はいっ。うちらの間で今、ぼっけぇブームじゃけぇ!」 え。マジで……。「ほほぉう! こりゃ頑張った甲斐があったっちゅーもんじゃ。そうじゃ、嬢ちゃんにけーやらぁ」 おじいちゃんはダッシュボードの物入れからなにやら細長い袋を2つ取り出すと、あたしたちの前にそれを差し出した。「まだ発売めーの『ゲッ子』ちゃん根付じゃあ。ゲッタンの彼女なんじゃ。可愛かろ~」「うっそ! ゲッタンに彼女!? きゃ~睫毛巻いとるぅ~」 これかゲッ子。益々不気味……って、なんか知らないけどもらっちゃったし。「っていうか、おじいちゃん一体何者っ?」「んん、わしか? ん~、わしゃ~ちぃーとでもこん音ヶ瀬の良さぁ、みんなに知ってもらいとーてのぉ」 きょとんとする結実に横から補足する。「あ、おじいちゃんね、ケホッ……駅でゲッタンの着ぐるみ着て、お客さんにストラップとか配ってるの。だからいろんなゲッタングッズを――」「ええッ、あれ、おじいちゃん!? 声聞いたら幸福が訪れるいうて――じゃけど、どねんしても聞けんいうてみんなが躍起んなっとる、あの無言の……! ほんまにっ?」 おじいちゃんにそんな効果が? どんな都市伝説……。「せーでかいなぁ、最近若ぇのんが、ようよぞぉかしてきょーる思うた。ほうじゃ、ゲッタンは魚じゃけぇ喋らん。その辺は徹底しとるんじゃ、わし」「ん~、おじいちゃん渋っ。そうじゃ、サインしてもろうてええじゃろか」 サ、サインて。「ゲッタンのかぁ? ゲッタンは魚じゃけぇサインやこぉ――」「じいちゃんのんじゃあ。せーがレアでええんじゃて!」「なんじゃあ、わしみてーなもんのんもろうてどねーすんならぁ」 と、照れつつもまんざらでもない様子で結実からノートとサインペンを受け取り、おじいちゃんは真剣な表情でペン先を動かす。 はせべ……もきち?「わしゃ~長谷部《はせべ》茂吉《しげきち》いうんじゃあ。嬢ちゃんは、なんいうんかのぉ?」 これ、と結実が表紙の名前を見せる。「ほぅほぅ、え~柏木結実さん江――と。星マークやこ描いとこーかのぉ。ほい、でけた」「きゃー、ありがとおじいちゃんっ」 あの、星マークが六芒星で不気味なんですけど……。「や~、こん歳でサインやこぉねだられる思わなんだわ。まるで有名人みてぇじゃがぁ、ふぉふぉっ。ほいたらわし行くけぇ――しゃなみちゃん、またいつでも乗してったるけぇ、遠慮せんと言われぇよ」「う、うん……ははは。コホッ」「ほいじゃあの~」「おじいちゃんありがとう。ケホッ……運転、気を付けてね」「せわーねぇ、せわーねぇ。ふぉっふぉっ」――ドルッ、ドドド……キュキュッ、ブォーッッ……!「ヒュー、やるなぁ茂吉じいちゃん! 見事なハンドルさばきじゃがー」「いや、実際乗ってみて。ケホッ、ほんと生きた心地しないから」「ふっ、そうなん? や~でも、マジびっくり。ゲッタンの中にあのじいちゃんが……」「っていうかゲッタン、そんなに人気あったんだ……」「なん、可愛ぇ思わん? ちょい不気味なとこがええんよ。キモカワじゃキモカワ」 いや、キモいけど可愛くは……。 握らされたゲッ子ストラップを眺めつつ――ふと、ごく自然な感じで結実と肩を並べ歩いていることに気付き、なんだか少し嬉しくなる。友達同士、楽しそうに坂道を上がっていくみんなのこと、ちょっと羨ましいなって思ってたんだよね…… そういえば、さっきまであんなに鬱々としてたのに結構気持ちが元気になってる。これっておじいちゃんのお陰? 意外に豪快な運転で気が晴れた? 侮りがたし都市伝説……。「そうじゃ紗波、足どねーな?」「あ、うん。保健室の先生がくれた絆創膏貼ってたら、なんか治りが早くて……ケホッ、もうだいぶいいの」「そっかー、まぁせーだけでもえかった」 結実の笑顔につられるように、あたしもマスクの下でにっこりと微笑み返す。と、――ドンッ…… 不意に後ろから誰かにぶつかられ、あたしはふらりと前のめりによろめいた。 photo by little5am
2017.02.05
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「ありゃ、しゃなみちゃんどねーしたぁマスクやこぉしてぇ、風邪引いてしもうたんか?」 ぼんやりバス停まで歩いていると、長谷部のおばあちゃんが畑の中から声を掛けてきた。「あ、おばあちゃんおはよう……ケホッ、ケホッ」「おぅおぅ、えれーこずっきょーて、そげぇな風でがっこー行けるんか? ――よいしょこら」 おばあちゃんが畑から上がってきたので、顎にずらしていたマスクを鼻まで引き上げる。「もう二日も休んじゃって……ケホッ」「ありゃありゃ、そりゃあえらかったのぅ……。そうじゃ、あとで引っこ抜いたばーのタマネギ届けとくけぇ、そりょー半分切ってのぅ、ようさり枕ん横置いて寝てみられぇ。じき咳も止まるじゃろうて」「切ったタマネギを枕元に? コホッ」「ほうじゃ。よーう効くけぇ騙されたぁ思うてやってみられ。ほんでも弱り目に祟り目じゃなぁ。せわーねぇんか? あれからばーちゃんも気になっとってのぅ」 そうだ、この間おばあちゃんの前でぼろぼろ泣いちゃったんだ、波琉のことで。うわ、なんか急に恥ずかしくなってきた……。「こ、この間はなんか驚かせちゃってごめんね、おばあちゃん。ケホッ……でも、もう大丈夫だから」「ん~……あんまり無理せられなぁよぉ?」 顔を覗き込んでくるおばあちゃんに、にこりと返す。と、――ブロロッ…… エンジン音を響かせ、坂道を下りてくる一台の軽トラが――「お、じぃさんじゃ。けーから駅ん方行くんじゃな。そうじゃ――」 おばあちゃんがなにやらポンと手を打つ。 やがて軽トラはつんのめるようにキュッと真横で停まり、全開にした窓からおじいちゃんが愛嬌たっぷりの笑顔を覗かせた。「やぁ~しゃなみちゃん、おはよぉさん。ようやっとええ天気んなったのぉ~」「おはようございま……ケホッ」「なんじゃあ、風邪引いとるんかぁ?」「そうなんじゃじぃさん。こじぃてえらそうじゃけぇ、しゃなみちゃんがっこーまで送っちゃってくれんじゃろーか」 えっ。「なん、そりゃおえん。乗られぇ乗られぇ。確か音ヶ瀬いうとったのぉ」「ケホ、ケホッ……いやあの、もうバスも来るし、大丈夫ですからっ……」 パパのだって断ったのに――あたしは慌てて手を振った。「音ヶ瀬いうたら、バスじゃて駅ん方回って遠回りじゃろ。遠慮せんでもええがぁ。ほれ、乗られぇ」「でもおじいちゃん、駅に用事が――」「あぁ、ゲッタンか? ありゃーボランティアみてぇなもんじゃけぇ、べつんせかーでもええんじゃ。ほれ、早う乗られぇ」「じゃーじゃー。わけーもんがそねん遠慮するこたーねぇで」「でも……え、あ、ちょっ……」 おばあちゃんに背中を押され、半強制的に助手席に座らせられる。――バタンッ。「ほんじゃあじぃさん、任せたけぇなぁ。よ~うきゅーつけて事故ぉ起こさんようにのぅ」「なにゅー言よんなら、ばぁさん! 運転歴50有余年、オート三輪のじでーから磨き上げたこん腕じゃあ、なぁーんもしんぺぇするこたーねぇが。こん辺りゃー、まぁ言うたらわしん庭みてぇなもんじゃけぇ、目ぇつぶっとっても運転できらぁ。ふぉっふぉっ」 え、やめて……こわい。「言よーるのぉじぃさん! こねぇだ坂下の駐在さんに、ええ加減免許証ぉ返せぇ言わりょーたが、どーしてどーして、あと10年はイケそーじゃが。ひゃひゃひゃ」 …………。「ったりめぇじゃがぁ。なんぼ、おきゃあま夢カードが魅力的じゃあ言うても、まだまだ世話んなるわけにゃーいけんのんじゃけぇ」「ケホッ……おかやま夢カード?」「おん。歳ぃとって免許証ぉけーしたら、そんカードもらえるんじゃわ。せー見せりゃあ店ん商品や乗りもんの運賃割り引いてもれぇてのぅ。バスやこぉなんと! ……半額で乗れるんじゃ」 最後の耳打ちが意味不明だけど……へぇ、そんなサービスがあるんだ。「じゃーけど! やたらめったら年寄《とっしょ》りあつけぇされるバスぁ、わしゃ~あんまし好かん。シルバーシートやこぉ座りたーねぇし、席ぃ譲られるんもノーサンキュウなんじゃ。まぁ、世の中にゃーこぉいうジジィもおるっちゅーことでのっ」 って、親指立てて笑顔でキメられても、前歯が一本抜けてて……「ほんじゃあ行くでのぉ。よ~うシートベルト締めとかれぇよぉ」「はいぃ、お願いします……ケホッ」 おばあちゃんに見送られ、軽トラはうねる坂道をキレのあるコーナリングで無駄なくスピーディーに下っていく。 早っ。ま、まぁ坂道だし? お年寄りのものとは思えない豪快なハンドルさばきにおののきつつ、バックミラーからぶら下がる何かにふと目を向ける。――ゲッタンストラップ? あ、駅でもらったやつだ。と、改めて車内を見回せば、あちらこちらにゲッタングッズが。ダッシュボードに貼られたゲッタンステッカー、その上にはゲッタンぬいぐるみ。そして、窓に貼り付くゲッタン吸盤マスコット――ひっ、今座ってる座布団もゲッタン柄! こんなにシリーズ展開して大丈夫なのか、ゲッタン……。「すごいですねぇ、ゲッタン……」「いっぺぇあるじゃろ~、ふぉふぉっ。試作品じゃあいうての、よ~もらうんじゃわ。気に入ったんありゃー、どれでも持ってかれぇ」「あー、はは……ケホッコホッ」 ……いらないかも。「そうそう、最近ゲッタンに彼女がでけてのぉ、『ゲッコ』ちゃん言うんじゃけぇど――」 ゲッコ……ゲッ子?「睫毛がくるんとしとって色っぺー顔しとるんじゃわ、けーが。ふぉっふぉっ。……ありゃ? どけぇとらげぇてしもーたかの、確かこん中に……」「ちょっ、おじいちゃん前、前!」「んん? おぉ、おえんおえん」――キュキュキュッ……! 車体を左に傾け勢いよく海岸道路へと飛び出す軽トラ――遠心力で窓に張り付くあたしの目の前に海が迫る。 ひー、ワイルドすぎるっ。「どうじゃ、うめーもんじゃろぉ。ちぃーときま寝とりゃー、じきがっこー着くけぇの。ふぉっふぉっ」 起きたらあの世、とか困るんですけどっ。「あの、余裕あるんで、ケホッ……ゆ、ゆっくりでお願いします!」 そんなこんなで、手に汗握りつつもなんとか無事に学校の坂下に辿り着き――「ふ~……あ、おじいちゃんこの辺で――」 安堵の溜息とともにシートベルトを外す。「ここでええんか? 上まで行くけぇ、もちぃーと乗っとりゃあええのに」「や、ここで十分です、ハイ。コホンッ」「無理しなさんなよぉ」「うん、ケホッ……ありがとう、おじいちゃん。じゃあ気を付け――」「あれ、紗波っ?」 ドアを開けたところで不意に名前を呼ばれハッと顔を上げると、こちらを覗き込むように立っていたのは結実だった。 photo by little5am
2017.02.03
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「ケホッ、ケホケホッ……」 ベッドの上で咳き込みながら、格子に区切られた灰色の雨空を虚ろに見上げる。どうやら中国地方は本格的に梅雨入りしたらしい。 ベッド横のサイドテーブルに置かれた目覚まし時計は午前9時を回っている。本来なら1時間目の授業を受けているところだけど……続けざまに現れた風邪の症状とひどい筋肉痛、そして床を踏みしめるたび痛む爪先にとても学校に行くどころではなく、あたしは自室で布団に包まり、虚ろな時間を過ごしていた。 昨日――パパに背負われて家に辿り着くと、学校からの留守電を聞いた彩香さんが(父親が迎えに来た、というもうひとつの留守電に気付かず)慌ててタクシーを呼ぼうとしているところだった。「紗波ちゃんごめんねっ、あたしったら呑気に買い物なんかしててっ……圭一郎さんもお仕事中なのに――」「いや、タクシーなんて大変だし、こっちに連絡が来てよかったよ」「教習所、あともう少しで終わりそうなんだけど……ほんと、役立たずでごめんなさい」 パパに迷惑を掛けたのはあたしなのに、まるで自分が悪いみたいに彩香さんはしょんぼりうな垂れる。家を留守にし連絡に気付くのが遅れた彩香さんに、逆に感謝したいくらいなのに――だって、あの時みたいに今度はパパと彩香さんが同時にあたしを迎えに来てたら…… 大事な思い出を、同じようなシチュエーションで上書きされたくはない。でも、そんな風に考えてしまう自分に嫌悪感を抱かずにいられないのも事実だった。 あたしはいつ、このどうしようもない負の感情から抜け出すことができるんだろう…… 弱り切った身体でベッドに横たわっていると、どうしても思考が暗い方へと傾いてしまう。 堪らなく、波琉に会いたいと思った。 波琉の声を聞きたい。波琉の笑顔を見たい。でも…… 格子窓を叩く雨―― 止んでも波琉に会えないのなら、いっそずっと降り続いてほしい。だって、雨のせいにできるから…… はぁ、学校行きたくないな…… あたしはクローゼットの取っ手に引っ掛けた、クリーニングのビニール袋が掛かったままの制服を溜息交じりに見つめた。 新品同様にピシッと綺麗になったセーラー服――でも、誰かに踏みつけられ、トイレのゴミ箱に捨てられていたという記憶まで綺麗に消え去ってしまったわけじゃない。まだ咳も残ってるし、もう一日休んじゃいたいとこだけど……「負けてたまるかっ。ケホッ……」 気合を入れてベッドから起き上がり、制服を手に取る。ズルズル休んでいては、それこそ相手の思う壷だ。何事もなかったかのように平然と、堂々としていないと―― 制服に腕を通しながら、写真のママに「おはよう」と声を掛ける。あたしは窓辺に近づき、格子窓を開け放した。 マラソン大会の日から三日間降り続いた雨はようやく上がり、眼下に広がる海は朝日を浴びキラキラと銀色に輝いている。 咳のしすぎで腹筋が痛い。 それでも両手を広げ大きく深呼吸すると、体の中にじわじわと力が満ちてくるような気がした。 雨が降り続けばいいと思っていたけど、やっぱり太陽の力は偉大だ。「ケホ、ケホッ……」「紗波ちゃん大丈夫? もう一日休んだ方がいいんじゃない?」「いえ、二日も休んでしまいましたから」 マスクを顎にずらし、ホットミルクを口にする。あぁ、熱いミルクが喉に気持ちいい。「見た目ほど辛くはないんですよ。咳がちょっと残ってるだけで。コホッ」「んー、でも……」 彩香さんは眉をひそめる。と、「おはよう――あ、紗波、もう学校行って大丈夫なのか?」 ネクタイを結びながら、パパが食卓にやってきた。「おはよう……、うん、いつまでも休んでるわけにいかないし。ケホ、ケホッ……」 ホットミルクの入ったカップをテーブルにコトリと置き、こんがり焼き色のついたバタートーストに手を伸ばす。「まだ咳が出てるじゃないか。もう一日休んだらどうなんだ?」「大丈夫だよ。とっくに熱も下がってるし」「でも、治りかけで無理すると――」「大丈夫だってば。ケホッ」「んー……あ、じゃあ学校まで送るよ。足だってまだ痛い――」「もう、大丈夫だって言ってるじゃんっ……」 はっ。ちょっとキツイ言い方に――彩香さんもパパのコーヒーカップを手にしたまま、少し驚いた顔でこちらを見ている。「なんだ紗波、ピリピリして……。身体きついんだったら、なにも無理して学校行くことないのに……」 しょぼんと小声で返すパパ。――パパなんて……ちょっと困ればいいんだ。 心の中――微かに響く声に戸惑いながら、あたしは無言でトーストにかじりつく。 前にもこんな風にパパに対して意地悪な気持ちになったことがあった。そう、初めて彩香さんと会った日だ。 いや、ほんとは最初から――彩香さんの存在を知ったあの日から、あたしは心のどこかでずっとパパのことを許せずに――「ケホッ……」「……あんまり無理しちゃダメだぞ」「……うん」 食卓に気まずい空気が流れる。『なにをおいても、パパの幸せが一番』――いい子ぶってた自分を心の中で嘲笑する。 こんな中途半端なことになるくらいなら、初めからやめておけばよかったんだ。物わかりのいい娘の振りなんか…… 風邪で味覚が鈍り、こんがり香ばしそうなバタートーストももそもそと味気ない。 あたしは喉のつかえをホットミルクでごくりと一気に流し込んだ。 photo by little5am
2017.02.01
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