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窮地にある人に対して人は「無理しないで」と声をかけます。たとえば災害に見舞われ日夜を分かたず復興に努力している人々に対して、「大変ですね。でも決して無理はなさらないように」と。もちろん、心からの言葉でしょう。しかし、無理と分かっていてもやらざるを得ないときがあります。無理はしたくない。けれども誰かが肩代わりしてくれるわけでもないことはよくあります。高齢の両親を見守っていた姉が入院して手術をすることになり、私が手助けに来ました。椎間板ヘルニアでまともに歩けない、長く立っていられない私ですが、誰かが引き受けなければならないこと。一時帰省する私に対して周りの人は「無理しないで」の大合唱を贈ってくれます。でも私が多少の無理をしないことには始まらない話でもあります。労ってくれているのはよく分かります。私の体を心配して優しい気持ちから出た言葉にちがいありません。それを考えると、「無理はしないから」と無理して返事するしかありません。「無理するな」と声をかける人、「できることがあれば言って」と言ってくれる人。彼らにもみなそれぞれ自分の生活があります。「じゃ、明日から1週間代わりにきてください」と簡単にお願いできる相手はそういません。その申し訳なさを繕う言葉が「無理しないで」なのかも知れない、とちょっと邪推したりしてみる意地の悪い私。がんばっている人に「がんばれ」と声をかけてはいけません。「無理するな」もちょっと似ているかな。
2024年04月12日
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さて間もなく姉の手術が始まります。無事に滞りなく進むことを祈ります。姉は病院に行く前に「那智の瀧」に病気平癒祈願をしに行きました。寺や神社ではなく瀧そのものに祈るのだとか。詳しいことは聞きませんでしたが、このあたりにはそういう風習があるのかな。もっとも熊野那智大社(別名 飛瀧神社)のご神体が瀧だということですから、広い意味で神社に祈っていることになるかも知れませんが。瀧に祈って悪いものをすべて洗い流してもらうのだと姉は言っていました。姉の場合は結石。ついでに私のヘルニアについても一緒にお祈りをしてくれたそうで、お守りと自家用車の車内に下げるマスコットも買ってきてくれました。少しでも視界を遮るものがあるのはいやなのと、信仰心の全くない私にはこれまで縁のないシロモノでしたが、せっかくの気持ちですから邪魔のならないところにぶら下げておくことにします。姉は、両親の認知症は瀧に祈ってきたとは言ってきませんでした。認知症は病気ではない、単なる加齢現象だということでしょうか。彼らにはお瀧さまに洗い流してもらうべき「悪いもの」もないのかも知れません。洗い流すと彼らの人生そのものが全部流れていってしまいそうです。清濁併せのむと言いますが、清いものも濁ったものも流さずに体の中にとどめながら二人揃って199年生きてきたのですから、もうしばらくはこのまま過ごしていってもらいましょう。
2024年03月29日
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姉が車の中で私に「あ、今の声お父さんに似てる」と言い出しました。「やっぱり親子やね」と。それで思い出したのが衝撃の(笑撃の)「声取り違え事件」。家の近所に父母と同じ小学校教員、M先生が住んでいました。小さな町ですから彼女は父とも母とも同じ職場で働いたことがあり、家も近くなので互いの家族のことはどちらもよく知っています。私が高校生だった頃、彼女から家に電話がかかってきました。電話を受けたのは父。その父に向かって彼女は言いました。「もしもし、あ、よっちゃん(私のことです)。お父さんに声がそっくりやね。」「お母さんは留守なの?ちょっと伝えておいて欲しいことがあるんやけど」彼女はまくしたてます。父は黙ったまま。あれやこれや用件を一方的に言い、そして電話は切れたとか。その間父は私になりすましていました。あわて者は彼女ですが、父も父。途中で彼女の勘違いを訂正する機会もあったはずですが結局最後まで父は「よっちゃん」で通したとか。彼女の勢いに気圧されたのかも知れません。相手に恥をかかせてはいけないという父なりのやさしい気遣いだったのかも知れません。数年に1回はこの話になって、姉と笑い合うエピソードです。M先生、本当は途中で父と分かって逆になりすましている父を気遣って間違っている振りをしていたとかないかな。普段から色々とあわてんぼうの彼女ですから、それはないか。M先生、生きていたら100歳近いし、もう亡くなったかなぁ。
2024年03月27日
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メルセデスベンツ社が景品表示法で摘発されたというニュースがありました。本来オプション装備と記すべきところを標準装備としていた、などがその理由です。「景品表示法違反」のニュースを聞くたびに私は不思議な思いをしていました。メルセデスベンツのニュースも含めて、景品をつけて販売したとかではないのにどうしてこの法律で取り締まられるのだろうかという疑問でした。誰も疑問を持たないのかなあと思っていました。そこで「景品表示法」を検索をしてみました。正式名称は「不当景品類及び不当表示防止法」というものでした。二つの違反が対象になっていたのですね。前半の不当景品類の防止は、その名前の通り景品で客を呼び寄せるような商売をしてはいけないというものでした。後半は不当表示をしてはいけないというもの。つまり、今回のように不正確な表示で顧客をだますのはダメというものです。「景品」と「表示」の二つの不正に関する商売を防止するという意図だったのです。私は「景品」ということばに過剰に引っ張られて、この法律にひっかかるのは景品関係だと思い込んでいたようです。調べてみればな~んだ、でした。ちょっとスッキリしました。
2024年03月14日
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耳にするたびに不思議だと思ってしまう言葉が「地球にやさしい」。両手でふわっと地球を抱きかかえている絵もありますね。地球にやさしいって何でしょう?地球温暖化を改善しようとすることだとか、生物多様性を維持することだとか、リデュース、リユーズ、リサイクルの3Rの生活を送ることだとかですか。そうした、環境破壊を食い止めようという活動の意義は分かります。プラスチック使用の削減や二酸化炭素の排出を抑えることが我々が生きるために大事だというのは否定しません。極端な気候が多くなり、記録的に暑くなったり寒くなったり、また大規模水害や超大型台風、ハリケーン、山火事が増えたりしているのも恐らく地球温暖化と関係しているのだろうとは思います。でも、そうした事態を食い止める活動のことを「地球にやさしくする」と言うのですか?地球の立場に立つと、何をされたらやさしいと感じるのでしょうか。何がいやなことなのでしょうか。山肌を削られてトンネルを通されたり、地面を掘って地下鉄を通されたりするのはいやではないのですかね?木を伐られたり砂を掘られたりして建築資材に使われるのはいやと思っていないのでしょうか。思ってないでしょう。というか地球をそうやって擬人化すること自体、変。だと思います。地球と言っても土や水などの無生物だけでなく木などの生物もその構成員です。そしてそこには人間も含まれています。各種の生物が互いに今ある環境を利用しながら存在しているのが地球全体のシステム。環境が変われば絶滅する種があり、新たな種が生まれるのも地球の歴史の一部。たかだか数百万年しか存在していない人類が滅びれば、地球にはまた別の種の生物が栄えるでしょう。何が出てきても、何がなくなっても、地球は痛くも痒くもありません。地球は新しい姿に変化するだけ。人類や他の生物が地球環境を変更させることがあっても地球はその都度それを受け入れ、姿を変えてまた新しい環境を用意して新しく栄える種を生み出すだけ。地球は変化を粛々と受け入れるだけのこと。地球は厳しいともやさしいとも感じません。地球環境の変化を厳しいと受け止めているのは現在地球上に存在している生物だけです。環境の変化が起こると、それまでの環境に適応していた生物は絶滅し、新しい環境によりよく適応できる生物が取って代わり、栄えていきます。その結果、地球はそれまでと違った様相を見せることになるでしょう。いわゆる環境破壊は地球そのものにとって、厳しくはありません。それは現存する生物、とりわけ人類の生存に適した環境を維持しないという意味に過ぎず、地球からしてみると環境が変化しているだけ。破壊でも何でもないはずです。それを「厳しい」と感じているのは我々人類だけです。繰り返しますが、地球は痛くも痒くもありません。「人類の生存にやさしい」と言うべきところを「地球にやさしい」と言っているのではないですか。「地球にやさしい」って何て変てこでナンセンスな言葉、と私は聞くたびに感じます。
2024年01月31日
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沖縄県の新聞に県内の小学校にも大谷翔平からのプレゼントのグラブが届いたとのニュースがありました。本土ではクリスマスの頃だったのに沖縄ではやっぱり遅いのかなと思ったら、そうではなくて本土と同じように届いていたけれどその頃はもう冬休みに入っていたので新学期が始まった今小学校に配られたということでした。こちらは数日遅れになる雑誌の新刊などとは違って本土並みだったのですね。気になったのは大谷から送られたのは「グラブ」だということ。奈良で見たニュースでは「グローブ」だったけどな。調べてみると本土の報道でもグラブかグローブかはバラバラだったようです。奈良で見たニュースはたまたまグローブ派が伝えていたのでしょう。たしかに一般的にもグローブと言ったりグラブと言ったりバラバラです。半世紀以上前の私の子どもの頃はグラブと言う人はだれもおらず、みんなグローブと言っていた記憶があります。いつからグラブ派が増えたのでしょう。検索してもよく分かりませんでした。発音でいうと、オリジナルの発音に少し近いのはグラブかも知れませんが、gloveにはLやVなど日本語にない音があったりアクセントが「ラ」にあったりするのでカタカナの「グローブ」と発音しても「グラブ」と発音しても結局ネイティブには通じません。通じないどころか別の単語に間違われてしまいそうです。日本語発音でグローブと言うとgropeと間違われそうです。これは手探りするという意味ですが、そこから痴漢という意味も派生してくるので気をつけるべき。またグラブと言うとgrabと間違われるかも知れません。こちらは何かをつかむという意味になり、どっちも手に関係のある単語というのが面白いところですが、それほどgloveの発音は日本人にとって難しいものです。野球をしない人には縁遠い単語と思うかも知れませんが「手袋」もglovesですからこれは日常的によく使います。それゆえしっかりとした発音で言わなければ分かってもらえず、手袋売り場を探している日本人にとってみれば厄介な単語になるかも知れません。手袋とミトンは同じ売り場に売っているし、mittensは日本語の発音も近いので手袋が欲しくてもミトンって言いますかね。
2024年01月06日
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昨今気になって、どうしても見逃せない(聞き逃せない)言葉があります。それは「オーバードーズ」。この言葉は昔からあり、精神疾患を持つ人が処方された薬や睡眠作用のある薬を必要容量を大きく越えて服用することで自殺をはかったりするときに使われていました。でも今は市販の風邪薬や咳止め薬などを大量服用することで麻薬に似た多幸感や陶酔症状を得られる(真偽のほどは知りませんが)ときに使われることが増えています。私が気になるのはその実態もさることながら、言葉の方です。英語でdoseと言えば薬の1服(服用1回分)のことを指します。その量を超えて服用するからoverdose。それはいいのですが、発音は敢えてカタカナで書くとオーバードース(もう少し原音に似せて書けばオウヴァアドウス)。これは名詞にも動詞にもなりますが、どちらも最後のsの音は濁りません。しかしNHKをはじめとしたテレビは必ずオーバードーズと濁っています。新聞でも濁って表記します。なぜなんでしょう。とっても気になります。いつだったかも同じ指摘をしたのですが、最近はそれに関わる事件が増えた分、より多くメディアにこの言葉が登場するようになり、ますます気になるようになってきました。テレビでは特集が組まれ、新聞でも大きく紙面を割いて「オーバードーズ、オーバードーズ」の大合唱。本来濁るべきタイガースやヤンキースは濁らないのに、オーバードースはなぜ濁る?ヤマサキさんがヤマザキさんと呼ばれたり、クワハラさんがクワバラさんと呼ばれたりすると本人はとても気になり、訂正しても相手に恥をかかさない場合は訂正するでしょう?「私の名前は『ヤ・マ・サ・キ』と濁らないんです」ぐら言いますよね。でもいつでもどこでもオーバードーズ。誰も気にならないのでしょうか。英語に堪能な人がたくさんいるはずのマスメディアでも濁って言っています。誰か指摘しないのでしょうか。タイガースやヤンキースは濁らない表記にしようとした取り決めがあり、その取り決めのなかでオーバードーズは濁ることにすると、どこか権威ある機関で決まったのかな(知らんけど)。ちなみに、大谷翔平の移籍先もドジャースではなくドジャーズですからね。
2023年12月19日
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SNSのコメント欄でときどき見る、自動翻訳バレバレの「友達追加」希望の文章。どんな意図があってやっているのか、日本人の友達がいるんだと吹聴したいのか、国際結婚詐欺など何らかの犯罪にひっかけたいのか。理由がよく分かりませんが、あの文章ではよほどのもの好きでない限り誰も承認してくれません。たとえばこんな感じです。こんにちは。 私の注意を引いた興味深い投稿がたくさんある素敵なプロフィールをあなたが持っていることを告白しなければなりません。 私はあなたを友達として追加しようとしましたが、合格しませんでした。 私を友達として追加するか、友達リクエストを送ってください。ありがとうございます。なんじゃこれは。めっちゃ直訳調で「普通の」日本人が書いているとは絶対思いませんし、日本語を勉強している非日本人が自力で書いているとも思えません。意味はギリギリ分かりますが、こんな文章を受け取ったら気味が悪くて無視するのが関の山でしょう。友達が増える、と喜んで承認する人はいません。承認率を上げるために少し手直ししてみましょう。先日はいきなり友達リクエストを送ってしまってごめんなさい。プロフィールや投稿が面白かったので純粋にそういう気持ちからリクエストをしたつもりでしたが、全く見ず知らずの人から突然リクエストされても困りますよね。承認してもらえないのは当然でした。ただ、プロフィールや投稿に興味を持ったのは本当の気持ちです。もし構わなければ、まず私のプロフィールをご覧いただけないでしょうか。友達追加するかしないかはそれから考えてもらえるとうれしいです。うーん、これでもポチってもらえるかどうか難しいところですね。知らない人からですからね。あとは自分のプロフィールやこれまでの書き込の内容次第かな。上のようなリクエストを送ってくる人に限って、内容が粗末なものが多いんです。
2023年12月18日
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今度は消費者庁担当の内閣府副大臣ですか。朝日新聞によると、これまで旧統一教会との関係についてアンケートに答えてこなかった工藤彰三内閣府副大臣が、実は旧統一教会の総裁と何度も会ったり会合で祝辞を述べたりしていたことが明るみに出ました。どうしてこうもうまく(?)岸田首相は適材を適所にあてはめられるのかある意味「見事な」人選です。この1ヶ月以内に3人続けて政府の政務三役が辞任しました。トップバッターが山田文部科学政務官。女性問題で辞任。文部科学省は教育を司る部署です。次が柿沢法務副大臣が公職選挙法違反の疑いで捜索を受け辞任。法律を司る部署の副大臣でした。3人目が神田財務副大臣の辞任。税務を司る部署の副大臣が、税金の滞納や差し押さえの常連でした。どれもこれもあきれて物が言えませんが、なぜかそれぞれが担当部署に絡んだ行為で辞任しています。岸田さんは「任命責任を痛感している」とおっしゃっていますが、今日の報道によると4匹目のドジョウが。今度は旧統一教会と色濃く関係していると指摘された政治家。これが、これからこの問題をしっかりやっていかないといけない消費者庁を担当する内閣府副大臣だったのです。ここまで来るとブラックユーモアとしか思えません。「不適材不適所」という言葉も散見されます。でもどうなんでしょう。これは、不適材不適所なのか。逆の意味で適材適所に配置されているようにも思われます。そこに絶対はめてはいけない人を敢えてはめ込んでいるような。4件も続くと偶然というより敢えてはめ込んだと言ってもいいような気にもなります。そこで私はこれを逆適材適所と名づけたいと思います。ま、ネーミングはどうでもいいんです。それよりこんな人選ばかりしている首相には、任命責任の意味をもっと真剣に、深く考えて欲しいです。責任というからには責任を「取る」覚悟はあるのでしょうか。どのような取り方をするのでしょうか。4件も続けて痛感すると、相当痛いでしょうね。
2023年11月17日
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オーストラリアから久しぶりに里帰りした友人と会いました。彼女はワーキングホリデーのビザで1年間、バリスタとして向こうのカフェで働いてきました。1年経ったら帰国すると思っていたら「もう1年、滞在を延ばすことにした」というのでワーホリで期間を延長することなど出来るのかなあと疑問に思っていました。今度会ったので直接聞いてみると「パンデミックビザ」というのがあって、今回はそれにしたと。コロナ禍でオーストラリアと自国の往来がままならなくなった人を救済する措置としてオーストラリア政府が特別に発給するものだそうです。これによって彼女は期限を越えて滞在することができるようになりました。そこで一度帰国して家族と再会し、私とも再会(ただしこの特別ビザの発給は今年8月末で終了)。今回も含めてオーストラリアのビザの取得は基本すべてオンラインで完結できます。彼女が取得したパンデミックビザをスマホ画面で見せてくれました。ところが彼女から聞いた驚くべき話。それは日本の税関(だったかな)の対応。日本を出国する際、パンデミックビザの発給の証拠を示すために「印刷したものが欲しい」と言われたそうです。もともとオンラインで取ったビザ。なのにスクショを送信するのではダメであくまでも「紙」でとのこと。彼女は仕方ないのでPDFか何かにして印刷した上で郵送するそうです。なんかこれ、政府が推進するDX(デジタル・トランスフォーメーション)の政策に反していませんか。オーストラリアではすべてネット上で完結しているものが、日本に来ると突然の紙対応。インボイス制度も始まって、世の中はデジタルデジタルと言っている時代にお役所が紙でと。「まだこんなこと言ってますけど」とデジタル担当大臣の河野さんに告げ口したい気分です。
2023年11月09日
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今年の日本シリーズは両リーグの公式戦ダントツ1位の対戦でがっぷり四つのいい勝負が続いています。第5戦に勝利した阪神が王手をかけ第6戦はオリックスがやり返して逆王手をかけました。というこれまでの展開ですがこの「逆王手」という言葉、どうにも違和感をぬぐい切れません。将棋にはそれほど詳しくないのですが、王手というのはかけられた方がとにかく逃げるしかない状況、そうしないと勝負に負ける状況を表していることは分かります。そこで逃げられなければ詰み、勝負あり。逃げられれば一息ついて勝負が続けられるということです。それに対して逆王手は、王手をかけられた方がうまく逃げおおせ今度は逆に相手を追い詰めること。先に王手をかけた方が今度は何とか逃げなければならない状況のことです。まずはこの窮地を脱しその後に相手に勝つべく試合を進めていきます。つまり、逆王手をかけられるとは王手をかけられるのと同様、まずはこの追い詰められた状況から逃げる一手を探し出すことでしょう。阪神にあと1勝で日本一を握られる状況に追い詰められたオリックスはたしかに「王手」をかけられました。第6戦をとられるとシリーズはそこで終わり、相手が優勝ということになりましたから。でも、第6戦でオリックスが勝利し3勝3敗の五分になった時点で阪神は「この窮地から抜けだしとにかく逃げおおせなければならない」状況にあるわけではありません。阪神が勝てば優勝が決まります。それはオリックスにも同じこと。どちらかに王手がかかっているわけではありません。無理矢理王手を使えば「相王手」でしょうか。けっして「逆王手」ではないでしょう。かなり昔から使われているので「また言ってる」けど「そんなものか」と思うようにはなってきています。それでもすんなりと受け入れられない気持ちがどこかにある言葉です。
2023年11月05日
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最近よく聞く言葉で、どうしても納得出来ない言葉に「ワイプ」があります。日本ではテレビ画面の隅にゲストやコメンテーターの顔がちょっと映っていたりする小窓のことをワイプと呼ぶそうです。最初に聞いたときは一体何のことか分からず、戸惑ってしまいました。ワイプ、英語で言えば wipe でしょうか。普通は拭き取るという意味です。だから自動車で雨の粒を「拭き取る」ものをワイパーと呼びます。辞書を引いても「拭き取る」とか「消し去る」という用法しか出てきません。本来テレビやパソコンの画面で「ワイプする」と言えば画面の切り替え手法として、前画面と後画面がバシッと切り替わるのではなく、前画面にかぶさったり押しのけたりして後画面が登場するもののことを言い、これはれっきとした英語のwipe in、wipe outのことです。そこには本来の「拭き取る」「消し去る」の意味があります。後画面が前画面をwipeしますから。でも、何ものをも消し去らないで画面隅にゲストの顔などがずっと映っている状況に「ワイプ」という、動きを感じさせる言葉を使うと、どうしても違和感を禁じ得ません。「ワイプする」と言われると「これから何がなくなっていくんだろうか」という気になってしまいますが、その画面からは何も消えていきません。なぜ、こういう全然意味のちがう言葉が日本では一般的になったのでしょうか。なぜ本来の英語、picture in picture を使わないのか疑問に思い、検索していくと漫画のような説明に行き当たりました。とある人が作っていた動画には一つの画面に重なってもう一つ小さな画面が隅に映っていたそうです。見た人が感心して「この手法は何という技術か」と聞いたのですが、たまたまその画面が次の瞬間、wipe outして別の画面と入れ替わったので聞かれた人はそちらのことを尋ねられたのかと思い「ワイプ」と答えました。それ以降、この技術がワイプと呼ばれるようになった、という話です。ポルトガル人が大名に献上したカステラが美味しかったので「この菓子はなんという名前か」と聞いたところ、聞かれたポルトガル人はカステラの乗っている盆に描かれたお城のことを聞かれていると思って「カステラ(castelo)です」と答えたという逸話にそっくり。あるいはイギリス人のキャプテン・クックがオーストラリアで初めてカンガルーを見たときアボリジニー(原住民)に「あの動物は何か」ときいたところアボリジニーは「わからない」という意味の現地語、kangarooと言ったので、その動物の名前になったという話とも通じるところがあります。おもにテレビ業界で、今では当たり前に使われる「ワイプ」の由来がこんなところにあったとは。(ただし、これらの逸話はいずれも真偽のほどは不明です)アニメがanimeとなったように、そのうち「ワイプ」も日本発祥の国際語になり得るという意見があるかも知れませんが、私は疑問に感じます。本来のwipeという手法はそもそも映像技術にすでに存在しますし、日本で言う「ワイプ」とは全然違う意味を持ち、さらにここには何かを消し去る、拭き取るという意味がまったくないのも気になるからです。たしかにワイプはpicture in pictureより短くて言いやすい言葉です。でも日本以外では絶対に通用しないことは忘れないでいて欲しいですね。
2023年11月03日
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エンタメという言葉が最近気になっています。円貯め?いえ、英語 entertainment の日本的略語です。誰が言い出したのか。エンターテイ(ン)メントはいかにも長いので、うまく縮めたなあとは思います。でも、もちろんですが日本でしか通じない横文字ということは承知しておかなくてはなりません。それにしてもなぜentertainmentをエンタメと略そうと思ったのか。最初に言い出した人の耳にはそう聞こえたのでしょうか。英語の発音をカタカナで表すと、エン【テ】イメンみたいに聞こえるのでエンテメの方が近そうですが、いずれにしろ最後のンはどこ行った?という感じはあります。とにかくこれだけ広く普及している言葉ではありますが、日本語圏以外の人にエンタメと言っても絶対に通じません。この変な日本英語、さすがにNHKでは使わないのではと思っていましたが、先日普通に使っていました。そうか、天下のNHKでも使うんだとちょっとびっくり。日本でエンタメは映画、演劇、芸能などを意味する言葉として使われていますが、entertain(entertainmentの動詞)はもっと幅広く、たとえば赤ちゃんを「あやす」ときにも使います。プロでもアマチュアでも誰かを楽しませるのがentertainなんですね。つまり、エンタメはentertainmentの一部だけを意味しているということになると思います。これはanimationの日本的略語として普及したアニメに似ているかも知れません。もともとanimationは動かないものに命(anima)を吹き込むという意味で、そこから動画を表すようになり、いわゆるアニメだけでなく人形劇なども含む概念でした。しかしカタカナのアニメとなると主としてセル画によって表現した動画のみ(今はCGかな)を指します。しかしいつしかこのアニメがanimeとなって英語圏でも通用するようになり、日本はその主たる発信地になりました。animationがアニメになり世界語animeになったことを考えると、ひょっとするとentertainmentがエンタメになり、そのうちentameとして世界に受け入れられる日が来るかも知れません。そのためには世界に誇る日本アニメと同様に、日本発のエンタメが世界を席巻するレベルになる必要があります。エンタメでも日本が世界をリードし、その中心になったときanimeに続いてentameが世界の言葉になるでしょう。
2023年11月01日
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今朝は男女のMGC(これを見るとメンヒェングラートバッハを連想してしまうのは私だけ?)をテレビ観戦。女子がNHKで男子がTBS系列の放送で、しかもスタートが10分違いだったのでチャンネルを行き来していました。忙しいこと。男女ともに面白いレースではありましたが、大逆転があったり悲劇があったりとかの(たぶんテレビ局が期待している)ドラマチックな展開はそれほどなく、男子のレースで川内さんが最初に飛び出した以外は男女とも先頭集団から一人、二人と脱落するサバイバルレースとなりました。これでオリンピック出場が決まるので、みなさんそんなに賭けはできなかったのでしょう。男子と女子のレースをかわりばんこに見ていて思ったのが放送局による中継の仕方の違いです。TBSが担当した男子のレースは基本的に途中の順位と秒差を元にした放送で、それ以外の情報はほぼありませんでした。アナウンサーが中心になってこれでもかこれでもかと、常に「ここがレースの最高の山場」みたいな盛り上げ方をしていて見ている方はかえって引いてしまいました。対するNHK担当の女子レースは有森裕子、福士加代子、野口みずきらそうそうたるメンバーを解説陣に配し、常に冷静な口調で見所を淡々と伝えるやり方。選手の表情の変化や腕の振り、足の運びなどから体調を推し量り、レース展開を予測していました。たしかに見ているこちらも、優勝した鈴木優花さんは表情を変えずしっかり足を前に出しているなとか、一山麻緒さんは口を苦しそうに開けだしたとか、細田あいさんは顔が真っ赤になってきたとか、素人なりのレースの楽しみ方ができて、フィニッシュに至る最後の数キロはドキドキしながら見られました。うろ覚えですがかなり昔、NHKの番組(『奇跡のレッスン』?)で指揮者の卵を一流指揮者が指導するというのがありました。その中で、より大きく迫力のある音をオーケストラに出させるにはどうしたらいいかという課題があり、卵さんはタクトをより大きく振ってそれに応え、「もっと大きくするには」と言われさらに大きくタクトを振っていました。そこで「さらに大きくするには椅子がいるね」と皮肉られていました。相手をより感動させたり、インパクトを与えたりするのは大きな声を出したり大きな動作をすることではありません。こちらが大きな演技をするのではなく相手の心の内に入り込み、相手が求めているもの、相手が知りたいことをきちんと伝えることが重要だとこの番組は教えてくれました(番組名忘れたけど)。チャンネルを行き来しながら、そんなことを思い返した朝でした。NHK、受信料払い甲斐あるなあ。
2023年10月15日
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今日の沖縄タイムスに「英語の略語に困惑85%」という記事がありました(2023/10/4 24面)。AEDやSNS、DXなどが例として上がっていました。AEDが何であるかは多くの人が知っているでしょうが、それが何の略なのか、正確な日本語は何なのかはほとんどの人が知らないでしょう。私も知らなかったので調べてみるとAutomated External Defibrillator だそうです。AとEは分かりますが、Dは初耳。SNSも当たり前に使いますが Social Networking Serviceの略と知っている人はどれほどいるでしょう。DXにいたっては頭文字でも何でもありません。Digital Transformation、広範な分野においてアナログで行っていたものをデジタル化するという意味ですが、なぜTransformationが X なのかを説明できる人の方が少ないかも知れません。英語では横断歩道をPedestrian Crossing と言い、道路にはPed Xingなどと書かれています。そこから変換(trans)するもの、クロスするものという意味で X が使われることになったのではないでしょうか。英語のXの使い方に慣れていなければ謎解きみたいなものです。謎解きと言えば最近の略語の多さも目に余ります。スポーツでよく使われるGLやCS。せめて記事の中で初出のときだけはグループリーグ(GL)、クライマックスシリーズ(CS)のような表記にして欲しいです。その点、今日の沖縄タイムスでは、見出しは「タカCSに大きく前進」とありますが、本文中ではちゃんと「クライマックスシリーズ(CS)」となっていました(同上13面)。先日テレビのニュースを見ていた90代の母に「IC って何?」と聞かれました。集積回路(integrated circuit)のことなのか、インターチェンジ(interchange)のことなのか、説明と同意(informed consent)のことなのか、それとも I seeをしゃれて書いたものなのか。同じ略語を使っても文脈によって言葉の意味は全く異なってきます。テレビには高速道路が映っていたので高速道路の乗り換え場所みたいなものだと説明しました。文字数を省略できるメリットはあるものの、せめて新しい概念の略語を使うときはひとこと説明を加えて欲しいなと思います。UC? IC. (You see? I see.)
2023年10月04日
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「らんまん」を見ていると、万太郎がよく植物に「おまん、どこの子じゃ」と言っているのを聞きます。植物を「子」扱いするのはちょっと珍しい。でも日本人は小さくて可憐なものを「子」扱いすることがよくあるので、万太郎の植物への思い入れを考えれば「子」と呼ぶのも納得させられてしまいます。人間以外のものを「子」扱いするものの代表格はペットでしょうか。NHK-Eテレの番組「0655」のなかで「うちにはこんな子がいます」というコーナーがあります。ペットとして飼っている爬虫類や両生類などを視聴者が紹介するちっちゃなコーナーですが、元々あった猫を紹介する「あたし、ねこ」や犬を紹介する「私いぬ、犬」から派生して、それ以外のペットについても紹介させて欲しいという視聴者の要望でできたコーナーなんじゃないかなと思っています。家族と同じということで「子」扱いになり、亡くなったときは喪失感(ペットロス)があるペットたち。先日ちょっと意外なものを「子」扱いしている場面に遭遇しました。それは私が歯医者に行っていたときのこと。私には前から少しぐらぐらしている歯があるのですが、それを見て歯科衛生士さんが「ナイトガード(マウスピース)を上手に使ってこの子を長持ちさせましょうね」とおっしゃったのです。彼女は万太郎が植物にそそぐのと同じぐらい、歯をかわいく思っているのでしょうか。しかも他人の歯です。他人の歯であっても自分が衛生士としてケアをしている歯はどれも可愛い我が子のようなものと感じているのですかね。私自身でもそこまで思ってないのに。その言葉遣いに少々驚きながらも、彼女の歯に対する愛情のようなものが感じられてほっこりしました。彼女に喪失感(Tooth Loss?)を味わわせないように、私もこの歯を失わないように(こっちがホントのTooth Loss)しなくては。
2023年09月20日
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今朝のテレビでやっていた若い人の「オーバードーズ」のニュースがとても気になりました。最近問題になっているのは睡眠薬や覚醒剤、違法ドラッグの飲み過ぎではなく、薬局で誰でも買える一般の市販薬をいちどきにたくさん飲む「オーバードーズ」です。ただし、私が気になったのはニュースの内容ではありません。薬の飲み過ぎをあらわす overdose の発音はオーバードースです。「ス」は濁らないんです。1回分の薬の服用量をdoseと言い、それを越えて服用することをoverdoseと言いますが、どちらも濁りません。ところがいま「おーばーどーず」と入れて変換してみるとちゃんと「オーバードーズ」になりました。日本では濁る方で認識されているようですね(ちょっと驚きました)。se で終わる英単語は無声音「ス」の場合と有声音「ズ」の場合が混在しています。似たような、seで終わる言葉を探してみました。 rose(バラ) close(閉じる) nose(鼻)など「ズ」と濁る単語が多いですが、同時に close(近い)spouse(配偶者) など濁らない単語もあります。そうしたなかでoverdose や dose は濁らない方に入りますが、清むか濁るかの規則性がないので一つ一つ覚えていくしかないと思います。ただし、複数を表す s が無声音「ス」なのか有声音「ズ」なのかについては明確なルールがあります。それは、複数を表す s の直前の音が無声音なら無声音「ス」、有声音なら有声音「ズ」ということ。でも結構まちがって使われてますよね。久しぶりにアレした阪神タイガースは英語ならTigers(タイガーズ)のはず。NY Yankeesはヤンキーズ、LA Angelsはエンジェルズが本来。読売 Giants やソフトバンク Hawks は合ってます。バスケの琉球 Golde Kings は本来ゴールデンキングズのはずですが、ブースター(ファン)のかけ声は「ゴー! キングス」です。 世の中は清むと濁るで大違い 刷毛に毛があり禿に毛がなしと言いますが、 タイガースやキングスは濁らずオーバードーズが濁ることになったのはなぜでしょう。
2023年09月19日
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100歳前後の両親と話していると、ポンポンと方言が出てきます。懐かしく私も簡単に染まっていきます。高校卒業後故郷を離れて半世紀ほど。たまに帰省することはあっても、長らく故郷に住むことはなくなりました。でも、18年間使用していた言葉は頭の中でも廃れることなく出てくるものですね。テレビの熱中症のニュースを見ながら母が聞きました。「熱中症のことを昔は何て言ったかな」。日射病のことかと思いましたが、母が知りたかったのはもっとローカルな表現「はくら」。検索をしてみると和歌山県以外でも香川県や岩手県でも使用例があるとか。とびとびの分布というのが不思議ですが、とにかくれっきとした方言でした。しかし、母に聞かれてこの言葉がさっと出てきた私も相当むかし人間。ギャートルズのようなものです(この喩え自体が古いか)。でもどうして「はくら」と言うのでしょうね。「歯がくらくら」するのではなく、頭がくらくらするんですけどね。それ以外にも台所のにっくき存在Gのことを当地では「あまめ」と言います。これも検索してみたら和歌山県以外では九州や三重県に使用例があるのだそうです。しかし、なんで飛び飛び?以前はもっと広く分布していたのが時代に取り残された田舎の地方では変化せずにそのまま残ったということでしょうか。前にも書いたかも知れませんが、私の故郷ではマムシのことをハビと言います。これなんか同じ毒蛇として沖縄・奄美に生息するハブとの関連性を想像しますが、どうなんでしょう。ハビが使われる地域を検索すると和歌山県以外には北海道だと書かれていました。北海道?これまた随分と離れて使用されています。もしかして、和歌山県の隣、奈良県の十津川地方の人が開拓民として行った北海道で広まった?沖縄とは関係なかったかな。いずれにしろ私の頭には相当ふるいものが残っているようです。でも今こういった言葉を使えるのは父や母くらいのもの。彼らが存命のうちにもっと彼らや私の方言の引き出しの中身を引っ張り出しておかなくてはいけませんね。
2023年08月27日
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「は」が気になります。最近テレビでインタビューを受けた人が「~と思います」というところを「~とは思います」と言っているのをよく耳にします。言っている本人にとっては「は」を入れない場合と同じ意味で使っているようです。しかし、「~と思います」と「~とは思います」では意味が違います。「~とは思います」と言うと、「私は~だと思う」けれども「~以外の・・・もある可能性もある」というニュアンスが出てきます。「あの人が悪いとは思います」と聞くと「あの人が悪いのは事実」だけれど「他にも悪い人がいるかも」とか「悪いことは悪いけれど同情の余地はある」などの解釈ができます。「私はあの人が悪いと思います」だと、はっきりと悪い個人、行為を断定しています。でもそこに「は」が入る。しかし聞いていると、そう言っている本人は他の可能性はあまり示唆していないようにも見えます。つまり、ただの断定が嫌なので「は」を入れているのだろうと推測できるのです。日本語は断定を嫌ってぼかすのが美徳とされます。「子どもは~人ほどいます」「そのお肉500gばかり頂くわ」「あの子最近彼氏と別れたみたい」などなど。それぞれ「子どもは3人います」「そのお肉500gください」「あの子最近彼氏と別れたのよ」などと同じ意味です。でもぼかすのが美徳である日本人にとって断定するのはぶっきらぼうで、上から目線で、相手に対する配慮に欠けていると思われるのがこわいのです。「それはちょっと大変だ」とある留学生に言ったところ「ちょっとではありません」と返されました。この場合「ちょっと」は「大いに」という意味ですが、彼女は額面通りに受け取ったのです。「何てことだ」「すごく大変だ」と大騒ぎせずに、しかし「ちょっと」に最大限の意味を込めて「大変だ」を修飾するのが日本人の言葉の使い方です。少々話がずれましたが、これも一種のぼかし表現かも知れません。最近よく耳にする「は」入れ言葉(私が勝手に名付けました)も断定を嫌う日本人の、ある意味やさしさ、思いやりかなと思っています。でも誤解を生む表現ですし、「とは思います」のあとに別の可能性を示す言葉がない場合は(ほとんどがそうです)何となくもやもやが残るのも事実です。あまり使いすぎないで欲しいなぁとは(笑)思っています。
2023年08月18日
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夕方などにやっているテレビのニュースバラエティ番組。ここに出てくるゲストコメンテーターが女性の場合、紹介欄に学歴や経歴とともに「2児の母」などとつけくわえられていることがあります。これにすごく違和感。それがいまここで必要な彼女の属性なのでしょうか。もちろん2児の母であることは彼女が持つ特性の一つではあります。でも彼女が述べる内容は2児の母であることから出てきたことばかりではありません。もちろん「母として」のコメントを発するときもあるでしょうが、母であろうが独身であろうが関係ない話題に対しても彼女の姿とともに紹介欄に「2児の母」と出ています。それがこの人の属性の大きな特徴なのですか?この紹介欄は視聴者を「この人は母なのだ。母として何かを言っているのだ」という無意識の心理に導いています。男性ゲストコメンテーターの紹介欄に「1児の父」と書かれているのを見ることがありますか?もちろん、子育て番組の場合は別です。父親としての経験、考え方からのコメントが求められているからです。しかし一般のニュースやスポーツの解説者、コメンテーターの紹介欄に名前とともに「1児の父」などと書かれているのはほぼ見たことがありません。このような紹介を出すテレビ局は女性コメンテーターには「母としての」意見しか求めていないのでしょうか。彼女たちは何事も母の立場からものごとを見ているとでも思っているのでしょうか。たぶんこう書く方が人となりが伝わって視聴者にも親切だと思っているのでしょう。でもそれはテレビ局の無意識のうちの性差バイアスだといわれても仕方が無いのではないですか。
2023年08月09日
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認知症気味の人との生活はなかなかスリリング&エキサイティング。あと2ヶ月余りで101歳になる父。今朝(といっても正午過ぎ)母が起こしに行くと何やら素晴らしいアイデアを思いついたのか「すぐ寝室に紙とペンを持って来てこれから言うことを書き取ってくれ」と言ったそうです。そんなことは初めてで、何を言い出すのかとちょっと興味も沸き私もついていきました。さて、いざ書き取ろうとすると何も言いません。「わしの言うことを書いてくれたらいいから」とだけ。すごい思いつきをしたような顔をしていますが、どうも忘れてしまった様子。というか、最初から夢うつつでちゃんとした考えがあったわけではないのかも知れません。ただ本人はすごいことを思いついたのでこれは書き留めねば、と思ったようです。私たちも起きがけに夢か現実か分からなくなってしまうことがありますよね。普通はそこで目が覚めて「夢だったのか」で終わります。それが父の場合は起こされた後も何かものすごいことを発見したとでも思ったのでしょうか。母が居間にいる私に「何か書き取ってくれと言っている」とペンを取りに来たときには「いよいよ遺言でも言い出すのか」とちょっと思ったりもしましたが、それどころか本人はますます意気盛ん。おとといの夜トイレの前で倒れて動けなくなった人とは思えません。その後父は、着替えてダイニングに来てそんな話は何もなかったかのようにごはんを食べていました。いつもは起こしてもぐずぐずしてなかなか起きてこない父ですが、そんなことがあったおかげで今日はさっさと起きてきたので、まあそれはそれでよかったです。自分も老い先ああなるのかとふと思いましたが、なかなか幸せな老い方かも知れませんね。
2023年07月30日
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しばらく奈良を不在にしていたので、いろいろと郵便物が貯まっていました。そのなかにお役所から来た荷物があり、不在票が入っていました。郵便局の保管期間も過ぎてお役所に戻ってしまっているようだったので、どうすればいいのか直接お役所に電話をしてみました。昔(戦前とか)と違って今はお役所の方の受け答えはとても丁寧です。「ご主人様のお名前と生年月日をおっしゃっていただけますか。」「はい、確認できました。ご主人様の都合のいいときに取りにきてください。」「まだ郵便局から戻ってきていないのですが、その間にご主人様がいらっしゃった場合は新たにお作りします。」などなど。お役所の方は中年の男性でしたが、あまりにも「ご主人様」を連発されるので、もしこれが若い女性が受け答えをしてくれていたらどうだったんだろうと、変な妄想をしてしまいました。私はメイドカフェに行ったことはありませんが、テレビでそれらしきものは見たことがあります。「お帰りなさいませ、ご主人様」など必ずゴシュジンサマをつけて会話をしてます。キャピキャピ声で。お役所の電話を受ける係の人は男性には「ご主人様」女性には「奥様」などと言うように言われているのでしょうか。声や容姿で相手を判断して、ある程度の年齢以上の時はそれでいいですが、顧客が若い人ならどうでしょうね。「お坊ちゃま」とか「お嬢様」とは言わないですよね。多分。では何と言うのかな。若くても「ご主人様」?逆に、お役所の係の人が若い女性でも「ご主人様」?お役所のマニュアルを見てみたくなりました。
2023年07月27日
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昨日目にしたネットニュースで、細かなところが気になりました。ウィンブルドンでノーシードのボンドルソワ選手がランク上位のシード選手達を続々と打ち破ったという記事です。直接的にはSmartNewsで見たのですが、元ネタがどこだったのかは忘れました。気になったのはこの「続々と」という表現。私なら「次々と」あるいは「次々に」とします。「続々と」と「次々と」は非常に似ていますが上記のネットニュースの表現には何らかの違和感があります。私の感覚では「続々と」というのはつながったものがどんどん表れてくるように思うからです。「続々と水が溢れてくる」とか「入場者が続々と入ってくる」とか。それに対して「次々と」はひとつひとつ分かれたものが表れる感じ。「車窓の景色は次々と変わっていく」とか「侍が次々と人を斬っていく」など。「次々と」には一つ一つに焦点が当たっていて「続々と」には一連のもの全体をまとめて表現している感じなんです、私には。「続々と打ち破った」という表現をしたこのニュースの発信者は相手選手達はボンドルソワ選手にみんなまとめてたたっ斬られたみたいなイメージだったのかも知れませんね。
2023年07月16日
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録画していた半月ほど前のテレビ番組を見ていて、あることに驚きました。それは沖縄県の広報番組で、そこでは県の進学率を高める取組が紹介されていました。沖縄県は全国平均に比べて大学等への進学率がざっと10ポイントほど低く推移しているそうです。驚いたのはそのことではありません。その番組の中でちらっと映った進学率向上のための取組と関係するポスターです。そこには大きな文字で「CAMPAS VISIT」と書かれていたんです。高校生に大学等への訪問を促し進学に対する関心を高めさせるポスターかと思うのですが(ちらっとしか映っていなかったので詳しいことは分かりません)CAMPASはないでしょう。大学などのキャンパスを表現したいなら当然CAMPUSです。発音としては同じかも知れませんが、こんな単語はありません。これがもし県の教育委員会が作ったものなら恥ずかしすぎませんか。それに、各高校に貼られたポスターだとしたら英語の教師は(英語の教師でなくても)スペルの間違いにはすぐに気がつくはず。誰も誤りを指摘しなかったのでしょうか。生徒がキャンパスの綴りを間違って覚えてしまう可能性だってあります。テレビに映っていたということはそのままになっているのですかねえ(書かれている日付からしてすでにはがされている可能性はあります)。沖縄ではありませんが、あるイタリアンレストランの看板に「Itarian Cafe」と書かれたものをみたことがあります。もちろん正しくはItalian Cafe。もしかしたら本格的なイタリアンではないので自虐的にそう書いた可能性がないではないですが、そのお店はTrattoriaと書くところをTrattriaとも書いていたので、どうもしゃれではなくうっかり屋さんがやっているレストランなのかも知れません。よく外国の人がおかしな日本語を書いたTシャツやタトゥーを入れていたりしますが、日本人も同じようなことをやっています。それがTシャツぐらいならまだ笑い話で済ませられますが、そんな看板を出しているレストランを見ると、イマイチ味に疑問を抱いてしまいます。ましてや、教育関係者が県内各高校に掲出するポスターに間違った綴りを堂々と載せるのは・・・?うーん。進学率向上の取組、大丈夫なんでしょうか。心配になってしまいます。
2023年06月15日
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テレビを見ていた97歳の母からハッシュタグとは何かと聞かれました。NHK の放送でハッシュタグNHK とつけてと言っていたからです。さて、どう説明したらいいものか困ってしまいました。そもそもスマートフォンも理解していない母のこと。まずスマホの説明 から始めます。私のスマホを見せながら、この機械には色々な情報が入ってきます。それはテレビを見ている色々な人からの情報も入っています。自分が言いたい意見をここに入れてみんなに見せることもできます。自分の意見を言う時にこのハッシュタグという印をつけて 意見を言うと他の同じ 印をつけた人たちの意見も一緒に見ることができるようになります。なので、あることについて自分とみんなの意見を比べてみたい時にこのハッシュタグという印をつけて自分の意見を投稿します。そのための意見を言う時につける印がハッシュタグです。私には母にこれ以上説明できません。母は果たして理解したのでしょうか。一応うなずいてはくれていました。一緒にテレビを見ていると母からこのたぐいの質問がバンバン飛んできます。私がいないときはどんな気持ちでテレビを見ているのでしょうね。私の語彙力とコミュ力を試される実家でのひとときでした。
2023年05月13日
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外国人に日本語を教えている、その人自身も外国人の方から質問が来ました。次の3つの文の違いは何ですか。1.日本は生活が便利です。2.日本の生活は便利です。3.日本の生活が便利です。まさに外国人が戸惑いそうな、3つの文です。ほとんど同じように使うことも多いのではないかと思います。でも微妙なニュアンスは違っているので使用するコンテキストが異なる可能性はあります。文法的には1だけ主部が違っていて「生活が」が主部ですが、2と3は「日本の生活は(が)」が主部です。ということは、1の文は他国と比較したときの日本の特徴を表すときに用いることが多いのではないかと思います。2と3の違いは主部の助詞「は」と「が」です。「日本の生活は」の方は相手と情報を共有している可能性が高いのに対して、「日本の生活が」の方は教えていたり主張していたりと自分の主観や意見を伝えている可能性が高い表現だと思います。たとえば次のような三つの質問があったとします。A.あなたの国と比べて日本のいいところはどこですか。B.日本の生活の特徴を一つあげてください。C.あなたの国の生活と日本の生活はどちらが便利ですか。これに対する答を上にあげた1~3から選ぼうとすると、A-1、B-2、C-3の組み合わせになることが多いと思います。シチュエーションによっては当てはまらない場合もあり得ますが、C-2、A-3などはまず対応しません。そのあたりの微妙なニュアンスは日本人なら分かるのですが、日本語を学習して後から身につけた人には難しいでしょうね。質問をしてきた彼女の悪戦苦闘ぶりが分かります。
2023年04月26日
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あるテレビ番組で「押しも押されもせぬ」という言葉を聞いて気になり出しました。意味はご存じの通り、十分な実力があるとか堂々としたとかを表しますが、どうして「押しも押されもせぬ」なのでしょうか。「押すに押せない」だったらどっしりと構えていて動かないという意味だと想像できます。でも「押すことも押されることもない」とはどういう意味なのでしょう。押されて動かないのなら「押されぬ」だけでよく、それなら「押すに押されぬ」でいいはず。「押しも押されもせぬ」には「押される」という受動的行為だけでなく「押す」という能動的行為がどうして入っているのでしょう。それが疑問なので、ネットでさがして見ました。語源の説明を検索してみましたが的確な答はなかなか見つかりません。多くのサイトでは「押しも押されもせぬ」が「押しも押されぬ」と間違って使っているとの指摘が目立ち、語源そのものに言及したものは見つけられませんでした。「押しも押されぬ」とつい言ってしまうのは「押しても押せない」という意味だからで、言いたいことは分かります。私はこう考えました。十分な実力を持っている人はもはや自分から押すようなことをせず泰然自若と構えているからだ、と。押したり引いたりするのはまだまだ実力が発展途上の人間のやること。他を圧倒する実力を身につけてしまうとデンと構えて他人と何かを競うことすら意識の外になる。でもそういう人に対しても押してくる人はいて、そういう凡人は押してみて押せないことがたちまち分かる。というふうに、力が抜きん出ている人は「押しも押されもせぬ」実力を持つ者なのだと考えましたが、いかがでしょうか。
2023年04月25日
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ここで問題です。「少しずつ」「少しづつ」はどちらが正解?正しい表記(本則)は「少しずつ」ですが、「づつ」と書く人が一定数います。先日はNHKの字幕表記で「づつ」となっているのを見て、私は少なからず驚きました。現在では「ず」の音と「づ」の音は同じです。元々は違う音だったのできちんと書き分けていたのでしょうが、同じ音になってしまった今となってはどのように書き分けるのでしょう。原則があります。「ず」と「づ」以外にも「じ」と「ぢ」も同じ発音になっていて、同じ原則にしたがって書き分けられます。その原則は「基本は『ず』と『じ』を使う。ただし同じ文字が続き後ろが濁る場合は『づ』と『ぢ』になる。」というもの。たとえば「綴る」「縮む」をかなで表記すると「つづる」「ちぢむ」の表記が正解です。かな漢字変換するときはそのように入力しないときちんと漢字変換してくれません(間違っていることを前提に変換してくれる場合もありますが)。最初に書いた「少しづつ」の場合は、この原則に何となく似ているので思わず「づつ」と書いてしまう人がいるのではないかと推測します。「づ」と「ぢ」の表記にはもう一つ原則があって、「二語が組み合わさって一語になった場合、後の語の最初の音が『つ』『ち』であったものが濁ったときは『づ』『ぢ』と綴る」。たとえば「金槌」は「かなづち」、「鼻血」は「はなぢ」です。ただし、元々は二語言葉の組み合わせでも、あまりにも普及してしまって二語だったということが忘れられてしまう場合は必ずしもこの原則に従いません。「世界中」は「せかいじゅう」「せかいぢゅう」のどちらでも正解ですが、現在ではもはや前者が普通に思えます。NHKテレビの表記でもら抜き言葉がそのまま字幕として流れることが徐々に増えてきました。言葉は生き物なので何が正解は永久に通じるものではありません。でも、「すこしづつ」にはまだ違和感をもってしまう私です。
2023年04月24日
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意味はだいたい分かるけれど、自分では使えない言葉に「~終わり」があります。昨日もテレビを見ていたら、約束時間を決めるのに「バイト終わりに」と言っていました。意味するところは「バイトが終わった後で」というところだとは分かります。でも「~が終わったあとで」と「~終わりに」は少し違うような気もします。数年前、若い人から「昼休み終わりにそちらに伺います」と言われてちょっと戸惑いました。「昼休み」は12時から13時でした。「昼休み終わり」は12時50分ぐらいのことなのか13時以降のことなのか。言われた私は彼女がいつ訪ねてくるのか、はっきり分かりませんでした。言った本人はそれほど厳密な意味を込めていなかったのかも知れません。「昼休みが終わったあとで」と言われれば13時の約束だということがわかります。「昼休みの終わり頃に」だったら12時台ということだろうと理解します。でも「昼休み終わり」っていつ?「昼休み終わり」とは「だいたい昼休みが終わる頃」という程度の解釈でいいのでしょうか。周りを見ていると、「~終わり」があふれていて、誰もそれで困っていないようです。最近は誰かと待ち合わせをするときでも、厳密に集合場所、時刻を決めない風潮があります。誰もがスマホを携帯しているので昔の数寄屋橋のような「すれ違い」が起こることはありません。なので、なにごとも<ざっくりと>決めておけばコト足りるのでしょう。 「昼休み終わり」は12時台なのか13時台なのか、どっちなんだろう??なんて思っていると「何をそんなどうでもいいような細かなことを気にしてる?」と笑われそうです。
2023年03月08日
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ある新聞で「耳障りがいい」という表現を見ました。これはおかしいと感じている人は多いはずですが、今でもあるんですね。というか、だんだんおかしいと感じる人は減っているとも聞きます。「耳障り」を単に耳に触れる、すなわち「耳触り」だと考えているのでしょうか。先日取り上げた普久原恒勇の本「ぼくの目ざわり、耳ざわり」はどっちの意味だったのでしょう。必ずしも耳障りな話題ばかりではなかったので耳触りだったのかな。もっとも内容からすると目障りの方も目触りだったのかも知れません。いずれにしろその辺の曖昧さ、二律背反が普久原のネーミングの妙だったのかも知れません。「耳障りがいい」がおかしい理由は「障り」という言葉自体がネガティブな意味だからです。「目障り」の方は決していい意味で使われないことを見ればよく分かります。「あいつは目障りな奴だ」は聞いても「あいつは目障りがいい奴だ」は聞いたことがありません。ここでは障りは決していい意味ではないということが理解できています。ではなぜ「耳障りがいい」の方はOKになってしまったのでしょう。最近は「障害者」を「障がい者」のようにまぜ書きをすることがよくあります。そうする理由は「害」がネガティブなイメージを想起させるからということらしいです。私が疑問なのは、それなら「障」の方もなんだけどなぜそっちは漢字のままなのかということ。「耳障りがいい」に違和感がなくなってきて「障」のネガティブ性が少なくなったからだと思います。だから障害者は「障がい者」としても「しょうがい者」にする必要はないということではないでしょうか。いずれにしろ障害者は障害を被った人であって、障害を他者に加える人ではありません。だから私は中途半端なまぜ書きをするくらいなら、漢字のままの表現で一向に構わないと思います。結果としてあれもダメ、これもダメと言葉狩りになってしまう方が私は怖いです。
2023年03月01日
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期待値を高く設定することを「ハードルを上げる」と言いますよね。その言葉を聞くと、走り高跳び等で横棒を高くして越えにくくする絵を想像するかも知れません。でもあれ、バーです。ハードルは障害レースのときに使うもので、あれを上げたり下げたりすることはありません。なのに、どうして「ハードルを上げる」と言うようになったのか不思議。逆に「君の話はその程度ですか。では私はもっと面白い話をきかせましょう」などと言う人に、「自分でハードルをあげたんだから、きっと面白い話なんだろうな」とは言っても、「自分でバーを上げたんだから」と言う人は見たことがありません。そういう私もついつい「ハードルを上げないで」などと言ってしまうのですが・・・。言ったあとで、心の中でやっぱり変な表現だなと思っている私がいます。「ハードルを上げる」という罪作りな言い方をはやらせたのは誰なのでしょう。陸上競技を知らない人だったのかな。
2023年02月28日
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ある人と雑談をしていて英語の LIE という言葉の怖さの話になりました。日本語では「うっそー」とか「ごめんごめん、嘘でした」などととても軽く口にします。でもこの「うそ」、英語では決してLIEではありません。ということをあまり日本の人は知らないのではないかと思います。「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉がありますが、LIEは「嘘つきは泥棒だ」ぐらいの意味になります。始まりどころではなく、LIAR(嘘つき)は犯罪者そのものを表すぐらいのニュアンスです。だから、軽く冗談を言って「嘘ぴょーん」みたいなつもりで「Ha, it was a lie.」とは言えません。言われた方は「俺はおまえを裏切った」ぐらいに受け取ってしまう可能性大です。では「嘘だよー」とか「ウッソー?」は何と言えばいいか。私の感覚では「 I'm kidding.」「You must be kidding.」ぐらいがいいのではないかと思います。kiddingは子どもを意味するkidから来ていることから(子どものように)ふざけるという意味でしょう。子どものやることに罪はないということでしょうかね。辞書などには「嘘をつく」は英語でtell a lieだと説明されているのが多くてヒヤヒヤします。間違いとは言い切れませんが、日本語の「うそ」は軽い意味で使われることが多いのではないですか。日本語の日常会話で「うそ」という言葉はよく使うので、それを英語で LIE と言ってしまいがちです。どうか直訳しないよう、気をつけてください。また日本人がよく会話で使うReally?も使いすぎると聞き手によっては疑われていると感じるかも。Really↓と語尾を下げれば「なるほど」的な意味になるでしょうが、上げると若干失礼。LIEほどではないにしても、何度も聞かされる方は気分を害するかも知れません。そして「私の言っていることが信用できないんですか!」と怒り出すかも知れないです。便利なことばなのでつい使ってしまうのですけど、こちらもお気をつけを。
2023年02月14日
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同性婚を認めると「社会が変わってしまう」という首相の言葉が論議を呼んでいます。同性婚を認めたら「社会が変わる」ということを言っただけでネガティブな意味ではなかったのだとか。でも「社会が変わる」と「社会が変わってしまう」はニュアンスが違いますね。「~してしまう」の用例としてはたとえば「捨ててしまう」。「捨ててしまう」には「捨てる」にはなかった「間違って」のニュアンスが含まれます。「~してしまう」にはネガティブな意味しかないように思うのですが。捨ててはいけないものを捨てたから「捨ててしまう」。変わってはいけないものが変わるので「変わってしまう」。変わってはいけない(欲しくない)ことが、同性婚を認めることで現実に起こりそう。社会が良くない方向に変わることを危惧するからこそ「変わってしまう」と表現したのでは。思わず本音が出た、というところでしょうか。同性婚が認められるようになれば、社会がさまざまに変化するのは予測できます。それいいことか悪いことかと問われれば「いい」とも「悪い」ともこたえなかったかも知れません。が、岸田さんは語尾に「ってしまう」とつけたことで図らずも正直な気持ちを表しました。それが、この日本語が表す意味というものではないですか。う
2023年02月11日
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今朝、NHK-BSで昔の朝ドラ「本日も晴天なり」を見ていてある表現が気になりました。主人公の妹、巳代子のセリフだったと思うのですが(違う人だったかも知れません)、「~しないように釘を打っておいたわ」と言っていたのが、耳に残りました。何かよからぬことをしないようにとあらかじめ警告するときは普通「釘を刺す」と言います。でもそのドラマでは「釘を打つ」と。言われてみれば、たしかに釘は刺すよりも打つものです。この朝ドラ自身1981~2年の放送で、舞台は東京下町。東京オリンピックが来年開かれるという設定から、時代は1963年頃だと思われます。その頃東京では「釘を刺す」よりも「釘を打つ」が一般的だったのでしょうか。そもそも「釘を刺す」という表現がおかしな気もします。釘は押しピンじゃないし。どうしてこのような表現になったのか気になって検索してみると、これは建築用語からきたらしい。昔の建築はほぞ穴を空けてそこに木を通して組み立てる、釘を一本も使わない様式でした。それだけでは強度が心配だったので、穴を空けたところにかすがいのような釘を通して補強したとか。それで、念のために補強することを「釘を刺す」と言うようになったということです。その後、釘はおもに金づちで叩くようになったので「釘を打つ」という表現ができたのでしょう。「本日も晴天なり」で出てきた表現は元の形の変形版だったのですね。でもその表現はあまり広まらず「釘を刺す」がそのまま残ったのではないかと思われます。これまで釘を「刺す」に疑問を持たなかった自分が逆に不思議な気もします。むしろ「釘を打つ」と聞いて違和感を持ったくらいですから。長い間使っている表現は、実態が変化しても変わらずに使われ続けるものなんですね。「本日も晴天なり」のおかげで、ひとつ知識がふえました。
2023年02月01日
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ふと妙な疑問がわきました。「言わずもがな」の「がな」って何だろう。意味は分かります。英語でいうところのNeedless to say, 「言うまでもない」、「言うほどのことはない」ということ。「言わず」というのは言わないということでしょうが、じゃ「がな」って何?関西弁でも「ええがな」などと「がな」を使いますが「言わずもがな」は全国版です。関西弁の場合は自分の主張を少し強めるときに使うといったニュアンスです。「ええがな」以外にも「それやがな」とか「せやからそうゆうてるがな」とか。でも「言わずもがな」はそういった強調という感じはありません。決して「言わへんこともあるがな」の意ではなさそうです。どうしても分からないので検索をしてみると、「がな」ではなく「もがな」でワンセットでした。 「もがな」とは願望を表す古語で、現代語では「~であってほしい」・・・(以下略)(Oggi.jpより https://oggi.jp/6316802)へー、そうだったのか。しかも意味が若干違います。ただ現代は意味が少し変化したのだとも書かれています。奈良時代からある由緒ある言葉だそうです。では関西弁の「がな」の語源はどこなんでしょう。「もがな」と関係があるのでしょうか。・・・検索してもよく分かりませんでした。「どうでもええがな」とか「そんなこと分かってもしゃーないがな」という声が聞こえてきそう。
2023年01月31日
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「インター」っていうとインターナショナル・スクールのことを指すことがあるのですか。パックンが子どもを「インターに通わせている」との記事で初めて知りました。インターというと高速道路のインターチェンジ(立体交差)しか思いつきませんでした。「インターナショナル」というとかつては社会主義の歌のことでもありましたが。いずれにしろ「インター」だけでは「何かと何かをつなぐ」という意味しかありません。それがインターだけで立体交差のことになったり国際基準の学校のことになったりする。略語って面白いですが、こういうのは文脈を知らないと意味が推し量れません。でもスーパーとかハイとか頭だけ略すのは日本人の得意技でしたね。スーパーはもう完全な日常の日本語に取り入れられていますが、これだけだと「超」の意味。スーパーマーケットとなって初めて市場を超えた市場、小売店を超えたお店の意味になります。ハイになるは「灰になる」ではなくて、ハイテンション(気分が高揚している)のこと。もっともハイテンションは和製英語。hypertensionというと高血圧のことになってしまいます。まあ、こういう例は日本語化した外来略語だけでなく、外国にも見られます。インフルエンザ(influenza)は英語の日常会話ではflu(フルー)。日常会話のなかで全部とおしでインフルエンザと言っている人は見たことがありません。なので、インフルエンザと新型コロナの同時感染もフルロナ(flurona)となるのでしょう。新型コロナは会話ではたいていCOVID-19もしくは単にCOVIDと言っているようです。fluとCOVIDを組み合わせた結果がFLUCOVではなくfluronaとなったのは音感でしょうか。日本でのインフルエンザの略語「インフル」からは推測しにくいですね。もし日本で考えたらインフルとコロナで「インコロ」だった?でもこれだと「イチコロ」のようで何だか縁起がよくありません。耳慣れないけれど、フルロナという言い方が広まってよかったです。でもフルロナ、それ自身はもう広まって欲しくありません。5類になってもならなくても、要らぬ病原体はよせつけないよう免疫力を高めましょう。紆余曲折してあたりまえの結論になってしまいました。
2023年01月28日
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家で使っているガスコンロの「おしらせサイン」ランプが点滅していました。今まで見たことがなかったのでただ事ではないと思ってまず考えたのが電池の消耗。というのもランプのすぐ横に乾電池の収納場所があったからです。乾電池を抜いてみて別のことでびっくりしました。2本の乾電池には「お試し用」と書いてあったからです。お試しって・・・このコンロ、使い始めてから2年は経っていると思うんですけど。こちら(沖縄)にいるときは毎日のように使っているので3~400日は使ってきました。それで今でも使えているってお試しじゃないんじゃないの。バッテリーチェッカーで調べてみると、かなり消耗していることが分かりました。これかー。さすがに2年も使っていると駄目になるんだな。と、早速乾電池を交換。しかし、おしらせランプの点滅は続いています。あれ?乾電池、替えたんですけど。よくコンロを見ると「点滅のサイン」は切り忘れなのでレバーを消灯の位置に戻せと書いてありました。あらら、これは危なかった。ま、火は消えているしガスも出ていなかったんですけどね。奈良の家のコンロはこれをやると音で知らせてくれます。沖縄の家のコンロはランプで知らせてくれる仕組みだったみたい。電池が消耗している場合はランプの点滅ではなく点灯で知らせてくれるとか。「消灯」の位置にもどしたらランプの点滅は消えました。ランプは点灯しません。ということはまだこの「お試し電池」は使えるということです。それなら、もう少し「お試し」に働いてもらおうか。しかし、いつまで使えるのか。もうこれは絶対「お試し」なんてものじゃないな。パロマさんも、こんなところなかなか良心的です。
2023年01月17日
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最近、新聞などでやたらと目に付くのがイニシャルのアルファベットを並べた略語の多さです。ITやDV、AIなどはかなり認知された言葉なので使用するのは構わないでしょう。しかし、サッカーのGL(グループリーグ)やGS(グループステージ)は即座に理解できますか。もちろん、いちいちカタカナで書くのは長すぎて煩雑です。でも、ワールドカップが始まるまでGLやGSはそんなに一般的な言葉ではありませんでした。一つの記事に一回しか出てこないのなら略さずにカタカナで書いてもらいたいです。同じ記事に何度も出てくるなら、最初だけ略さずに書いてカッコ内に略語を添えて欲しいと思います。そうすれば読者は戸惑うことなく略語を理解しながら記事が読めます。知らない漢字の場合は辞書を引けばたちどころに意味と読み方が分かります。でも、一時的によく使われる言葉の場合はそう簡単には答が見つけられません。GSはグループステージ以外にもガソリンスタンドやグラウンドスタッフ、古くはグループサウンズなど。業界ごとに全く別の意味で使われる用語になります。今はサッカーの話なのだからそれぐらい理解できるだろう、というのも乱暴な話です。学術論文だと、初出の単語は略さず書いた後で注をつけて「以後、GSと略す」などと記すところです。また、面白いのは英語の新聞記事などの場合はGSと略すことはほぼないということ。何度出てきてもいちいち group stage と書いています。これは元々アルファベットは表音文字であって冗長(日本人にとっては)なのが当たり前だから。たとえばNASAのようによほど長い場合しか省略はしません。ちなみにNASAは National Aeronautics and Space Administration の略。さすがにこれは長いですよね。これを米航空宇宙局と6文字で書けてしまう日本語はなんて便利なんでしょう。それでも日本でもNASAと書いてしまうことの方が多いですけど。とにかく、初出からいきなりGSと書いてしまう略語大国ニッポンは読者の教養に甘えすぎ。このあたり、新聞社などマスメディアの略語表記に関するルールはどうなっているのかな。とても気になっています。
2022年12月12日
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私はよく大型商業施設などで駐車した自分の車の位置を忘れます。そのため目立つように奈良では大きめのミニバンにし、色も何とも言えない変な色にしています。白やグレーが多いなか、その色はよく目立って遠くからでも見つけるのに苦労しません。レンタカーの場合は色が選べないために車の駐車位置を忘れ苦労することがよくあります。ところが沖縄で新しく買った車はありふれた軽でしかもとってもオーソドックスなパールホワイト。変な色を選びたかったのですが新車がなかなか手に入らない状況のため販売店にあったものを即決。そこで、せめて番号だけでも覚えやすいものにしようと奈良の車と同じ番号にしました。これでショッピングモールでも、駐車場で車を探して迷子になることはちょっと減りそう。レンタカーはナンバーを自分で決められないのでとにかく語呂合わせで覚えていました。すんなり語呂合わせができる場合もあれば、そうでない場合もあります。そこは、だじゃれ好きのオヤジ力(りょく)を発揮して無理矢理でも語呂合わせをします。すると、駐車場などで自分の車を発見するのに少し役立ちます。沖縄でも車を買ったので、レンタカーのナンバーに無理矢理語呂合わせをする苦労もなくなります。これからは奈良でも沖縄でも5543が私の車です。はい、これはもちろん「ゴーゴーヨッサン」のだじゃれ。
2022年12月06日
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私には2人息子がおりそれぞれ結婚していますが、彼らの嫁が夫を指すときの言葉に注目しました。私自身の妻は私を呼ぶとき、子どもがいない間は私をニックネームで呼んでいました。子どもができると呼び名は「おとうさん」になりました。私の親との会話で妻が私に言及するときは「〇〇(私の名前)さん」と言っていました。しかし息子の嫁たちの、自分の夫に対する呼び方を聞くと時代の変遷を感じます。子どもの前では夫のことを「おとうさん」と呼ぶのは私の時代と同じです。日本語の親族名称はその家の一番小さな子どもを基準にして決定されるのが一般的な法則です。では義理の関係(配偶者の親)の場合はどうでしょうか。私の妻は私の親に対して私のことを「〇〇さん」と呼んでいたことは上に述べました。しかし、私の嫁(息子の妻)たちは私との会話の中で自分の夫のことをそう呼びません。長男の妻は「〇〇ちゃん」と呼び、次男の妻は「〇〇」(呼び捨て)と言います。これは家庭内の夫婦の呼び方がそのまま反映されているのだろうと思います。こういうところに女性と男性の地位の変化が読み取れます。夫を「〇〇ちゃん」と言う。これは「〇〇さん」が相手を上に置いているのに対して、対等もしくは下に置いている言葉でしょう。夫を〇〇と呼び捨てにする(夫も妻を呼ぶときは呼び捨て)。これも夫婦の立場がフラットだということを表していると思います。彼女たちは夫の親(わたし)の前でも同じ呼び方をします。私の時代は夫が妻を「ちゃん」づけか呼び捨てにし、妻は夫を「さん」づけにすることが一般的でした。家庭内で夫を「ちゃん」づけにしていても外では「さん」と言い換えていた人が多かったでしょう。今ではそうではないことを息子の嫁たちに教えられました。彼らはそれぞれ40代夫婦と30代夫婦。育児休暇を取るのは当たり前。長男はワーク・ライフ・バランスに優れていると表彰されました。夫が厨房に入るのも当たり前。むしろ次男は彼の方が中心になって食事の支度をしています。私たちの世代が目指してできなかった、ちょっといい夫婦の関係ができてきたかなと思います。
2022年12月05日
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日本語に関心の高い留学生から最近のニュースで出てきた言葉について質問が来ました。帝京大学の、女子学生なら即ゼミに採用とした性差別主義者(ただのすけべ?)が言った言葉です。その教授はこう言いました。「男子には内緒ですが、女子は基本的に応募=採用です。」問題はそのあと。「サンドイッチにコーヒーでも飲みながら、お話ししましょう。」この「サンドイッチに」の「に」が分からなかったようです。なぜ「サンドイッチと」ではないのか、と。日本語が母語の人は何も考えずにスルーするところですね。なるほど、日本語が母語でない人はそういうところが気になるのか。面白い。たしかに普通に考えると、ここは「と」でもよさそう。ではそこが「に」になる理由は何でしょう。考えてみました。これはたしかに留学生には難しいでしょうが、日本人にも難しい。二つのものを並べるときは「と」を使うときと「に」を使うときがあります。ではここで「と」を使わない理由を考えました。もし「サンドイッチとコーヒーでも飲みながら」とすると・・・サンドイッチも飲むことになる?でもそこはサンドイッチ(を食べて)のカッコ内が省略されているとも取れます。「に」を使っているのは、まさにこの(を食べて)が省略されているからかも、と思いました。つまりサンドイッチを食べることに「さらに加えて」コーヒーを飲む。「と」を使うと単純に二つを並べただけだが「に」は「さらに何かを加えている」感がある。まあ、サンドイッチだけだと喉が詰まるので飲み物が欲しいのは当然ですけど、サンドイッチを食べましょうだけだと足りないと思って教授はコーヒーも付け加えた。それを言葉として表すと「に」でつなぐことになって、その結果、サンドイッチ「にプラス」コーヒーでも、となったのではないでしょうか。こんなことを考えてみましたが日本語教師の皆さま、この答えはいかがなものでしょうか。
2022年11月26日
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実家でのこと。食事が終わって洗い物をしていると母が言いました。「たのもとしてくれておおきによ。」ちょっと外国語に聞こえるかも知れません。たのもと、たなもととも言います。子どもの頃は普通に使っていましたが、最近ではとんと聞きません。たなもとは多分「棚元」と書いて、台所のこと。そこから食事の後片付けを指します(準備も?)。流し台に置いて食事の後しばらく水につけておく「洗い桶」は「棚元桶」と言っていました。今でも流し台にある洗い桶を見ると棚元桶という言葉が口をついて出そうになります。誰にも通じないと思うので敢えて口には出しませんが。「桶」という字を使うくらいで、かつては木桶を使っていたように思います。この棚元という言葉、方言なのかなと思って検索してみました。方言と断らない用語解説もありましたが、和歌山弁だとの記述も見られました。でも和歌山以外にも兵庫弁、滋賀弁、甲州弁とする説もあり、よく分かりません。和歌山では「たのもと」、滋賀では「たなぼと」とも言うとも。いずれも棚元からの派生でしょう。子どもの頃は当たり前に使っていたけど、その後どこでも聞いたことがない言葉。棚元もそのひとつ。そう言えば昔住んでいた家は、洗い場の近くには作り付けの食器棚がありました。そのあたりがこの言葉の語源でしょうか。大正生まれの父母と話をしていると様々な記憶が蘇ってきて楽しいです。でも、今日で帰省も終わり。これから奈良に戻ります。
2022年11月25日
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先日100歳の誕生日を迎えた父。数十年前の、私の結婚に際してアドバイスのつもりか「最初にガーンとやっておけ」と言いました。妻になめられないように強く出るのが夫として肝心と言いたかったようです。当時のテレビではそういうセリフを聞いた覚えがあります。しかし民主教育を推進する立場にあった、戦後すぐに小学校教員となった父親の言葉です。そんな言葉が当たり前に広まっていた時代だったのでしょうか。「最初にガーン」はテレビのセリフとして割りとよく聞いたように思います。今ではそんなこと、誰も言いません。意味すら分かりません(少なくとも私には)。今はそんなセリフを口にする男親は皆無だと思いますが、「ガーン」って一体何?やっぱり「誰のおかげで飯が食えているんだ」とちゃぶ台をひっくり返す父親の類いでしょうか。その当時ならほとんどご飯を作っていたのは奥さんだったのでは。奥さんのおかげでご飯が食べられていたのが本当のところでしょう。父も私の知る限り、一度も台所に立つことはありませんでした。それが今では何でもかんでも奥さん(私の母)の言う通り。右を向けと言われれば右を向き、左と言われれば左をずっと向いています。台所で洗い物をする姿も見られるようになりました。ここで疑問。父は自分自身本当に最初に母に「ガーン」と言ったのでしょうか。言えなかったので息子に願望を托したのでしょうか。言ったけど、何も効き目がなかったのでしょうか。いずれにしろ、「最初にガーン」は効果すら怪しい昭和の遺物ということですね。
2022年11月24日
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「ちょっと」という言葉の意味は?そう聞かれると「程度の些少なこと」のように答えますよね、おそらく。もちろんそういう意味が一般的ですが、私たち日本人はその反対の意味でも使っています。そんなことに、ある留学生からの指摘で気づきました。「それはちょっと困りましたね。」何の話をしていたのか忘れましたが、そんなふうに答えると反論されました。「ちょっとではなくて、大変困っています。」彼女が大変困っているということは分かっています。だから「ちょっと困りましたね。」と言ったのですが・・・。日本人が「ちょっと困ったことになった」というとそれは対応が絶対に必須なことを表します。少しだけ困っているので、できれば対応した方がよい、できなければ仕方がない。などとは思っていません。この場合の「ちょっと」は反語的に使われ、「大いに」の意味で使われています。しかし、この滞在6年になる彼女にはそのニュアンスが分からなかったようです。その指摘で「ちょっと」をそういう意味で使っていると逆に私が教えられました。ということは、もしも彼女がヤバい話に乗ろうとしていたら、「ちょっとそれはやめておいた方がいいよ」と言うのはとてもまずい。ちゃんと「それは絶対にやめなさい」と言わないと、「ちょっと」だと軽い否定に受け取られますね。「ちょっと」に強い否定の意味があること。それは日本語を普段当たり前に使っている、誰もが分かっていることだと思っていました。そうでもなかったと、彼女は教えてくれました。
2022年11月14日
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私はだいたい毎晩、夢を見ます。でも、その内容は起きたあとほとんど覚えていません。起きてすぐは覚えているのですが、少し時間が経つとすっかり忘れてしまっています。夢を見た、という事実だけは覚えているのですが内容は全く思い出すことができません。そこでためしに、起きてすぐ夢の内容をスマホに入れておくことにしました。これで安心して二度寝したり、朝のルーティンをしたりして忘れても大丈夫。ま、別に夢の内容を忘れたところで実害は何も無いのですが・・・せっかく見た夢を覚えておけば、もしかしたら夢判断にでも使えるかも知れません。ところがこの自分で入れたはずのメモ。見返してみると何のことかさっぱり分からない。昨夜見た夢は「猫の風邪ととろろ汁」と書いてありました。おとといは「直角の土地」と書いてありました。は?たぶん夢の中では(そして目覚めた直後には)ちゃんと意味のあるものとして捉えられていたはず。でも起床後1時間経って見たメモの内容は自分でも全く訳が分かりません。就寝前には猫の風邪もとろろ汁も、ましてや直角の土地(いったい何?)の話題は見聞きしていません。私の頭の中の、どこのどのひきだしからそんな発想が飛び出してきたのか。夢のなかではこれらをキーワードにちゃんとストーリーが組み立てられていたように思います。しかし、現(うつつ)の状態ではどうあがいても一つのストーリーは見当たりません。夢メモを蓄えていけば、そこから自分でも思いつかなかった面白いショートショートが作れるかも?なんて期待したりして。
2022年10月19日
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友人から届いた秋の味覚、栗を使って栗ご飯。鬼皮と渋皮をあらかじめ取ってくれていたので炊くのがすごく楽でした。そして、とても美味しくて食べ過ぎました。普段は炭水化物はやや控えめにしていますが、栗ご飯ではご飯を食べないわけにはいきません。結果、体重がやや増加。アウトプットの方もやや増加。それにしても米という字と異なるという字の組み合わせってうまくできていると思います。敢えて、それらを組み合わせた字は書きませんが 笑。ほかの何より米を食べると、それになります。戦前の人は「一升飯」は特別多いにしても、現代人の数倍はお米を食べていたそうです。でも一升飯という言葉からして労働者などでは1人で1日1升食べていた人もいるのでしょうね。現代人は4人家族でも1日1升もご飯を消費する人はそほとんどいないのでは。栄養のバランスが重視される今と違い、戦前はご飯を食べるためにおかずがあったのでしょう。何より「銀シャリ」が食べられることが幸せだった時代。そして結果として出たものがまた畑に撒かれて野菜の栄養になるリサイクル社会。うまくできています。畑の作物も味があったことでしょう。沖縄ではゥワーフール(豚便所)といって、畑のかわりに豚がリサイクルを担っていたんですよね。戦前の豚はきっと栄養状態もよく味もよかったことでしょう。
2022年10月07日
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1歳7ヶ月になろうという孫と久しぶりの再会。おしゃべりになっているというので楽しみにしていましたが・・・たしかにおしゃべりになっていましたが、四六時中お話をしている、その言葉がさっぱり分からない。そう言えば、2歳前後の子どもってこうだったな。思い出しました。おそらく彼ら、彼女らは大人と同じように言葉を使ってコミュニケーションをしている。つもりでしょう。大人が会話をするのと同じようにずっと何か声を出しています。でも残念ながら、「うん」や「いいえ」の首振り以外は「バイバイ」ぐらいしか分かりません。こちらの言っていることはかなり分かっているようではあります。なので、いつかは自分の発する声にもきちんと意味をのせてくることでしょう。声に出すすべての音声が意味のある言葉になる日を、もう少し気長に待ちましょう。
2022年09月24日
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自動車の「航続可能距離」って、どういう仕組みなんでしょう。先日いつも乗っているトヨタのミニバンとは違う、日産の乗用車に乗っていて疑問に感じました。コトの発端は、息子がキャンプに行くので私が乗っているミニバンを貸して欲しいと言ってきたこと。代わりに、彼が普段乗っている日産の乗用車を初めて使うことになりました。日産車を借りてすぐにガソリンを満タンに入れました。最初「航続可能距離」は522キロでした。この車を借りている間は片道200キロあまりの遠出をする予定です。なので「帰るまで給油しなくて大丈夫かな」と軽く思っていました。表示を信じていたのですね。しばらくは航続可能距離を気にせず走って、ふと表示を見ると・・・535キロ。あれ?増えている。自動車専用道路をほぼ定速で走り続けてその後、表示は増えるばかり。1時間半後には620キロに。そして、その30分後にはついに720キロに。100キロ以上走っているのになんで増えるの?いつも乗っているトヨタではこんなことはありません。ガソリンを満タンにした最初は800キロとかめいっぱいの数字をつけています。そして徐々に、徐々に減っていくだけ。私はいつも満タンにした直後トリップメーターを0に戻します。そして走行中は、航続可能距離と給油後の走行距離を頭の中で足し算しています。最初航続可能距離が800キロならば、そこから徐々に数値が減っても走行距離をたせば800キロのはず。でも、なかなかそうはいきません。「走行距離+航続可能距離」の足し算は走るに従って少しずつ減り、最後は600キロ台になります。まあ、そんなものかと思いつつ給油をすることの繰り返しです。トヨタの、そういう方式に慣れていたので今回日産の車に乗って驚きました。航続可能距離が伸びることもあるんだ!それも1キロずつではなく2キロ、3キロまとめてポンと増えます。しかも、減りだすと今度は数キロまとめてポンと減る。トヨタでは増えることは一度もなく、減るのは1キロずつです。そのため日産車の「航続可能距離」が残っていても安心できないところがありそうと感じました。どちらがいいのか悪いのか。いずれにしても、ひとつの目安だというのは分かっています。でも、増えることがあるというのはちょっとしたカルチャーショックな経験でした。
2022年09月19日
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軽すぎる「神」、多すぎる「奇跡」。いつの頃からでしょうか。普通の会話のなかにちょっとしたことでも神や奇跡が使われるようになりました。ちょっといいリアクションが「神対応」になったり、よく撮れた写真が「奇跡の一枚」になったり。神や奇跡が軽い、かるい。一神教を信じる社会では、気軽に口に出せない「神」ということば。奇跡も神や超自然的な、人智を越えたものが起こす特別なできごとです。奇跡が起こるのは一生に一度、あるかないか。しかし、我が日本では神も奇跡も大安売り気味と感じられます。たしかにこの国には八百万(やおよろず)の神がいて、自然の森羅万象に魂が宿っています。お米の一粒、一粒にも仏様が宿っていますし。日常起こっている、ひとつひとつのことが神や仏が起こしている奇跡だと考えられているのでしょう。・・・しかしSNSで家出少女が待っている、宿を提供してくれる男性はホントに神なのかなぁ。
2022年08月30日
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何かというとすぐ「癒やされる~」という風潮。ちょっと「癒やし」の意味がズレているような気がします。癒やされるのは心身どちらか(あるいは両方)に苦しみや痛みがあるとき。こころや体の傷を治して健全な状態に戻すのが本来の「癒やし」の意味だったはず。きれいな風景やかわいい赤ちゃん、ペットの写真を見て「癒やされる」と言われると何か違和感。癒やされるってことはどこかに傷を抱えているのですか、とつい思ってしまうのです。そんな深い意味で言っていないことは分かっているのですが。英語で「癒やす」はhealing。やはり傷ついた箇所を修復するというような意味。言葉としては「治療する」、「手当てする」に近いかも知れません。チルいやエモいなど、不完全な英語を元にした流行語に比べれば純日本語なだけまだいいかな。うーん、でもやっぱり軽く「癒やしの音楽」だとか「癒やし系の人」などと言わないで欲しいです。だって、それが自分の傷ついた何かを治してくれる音楽や人だとは思っていないでしょ。
2022年08月27日
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