2013年05月04日投稿。
「銀の字、ほれ」
「はい?」
どさっ、
水を張ったたらいでいざ洗濯しようと着物の袖を捲っら、銀の目の前にお妲姐さん、の、持ってきた何かよく分からない塊が、放り投げられた。
「何ですか、こ……、」
そう口を開こうとした瞬間、もぞもぞもぞ、その塊がいきなり動き出したものだから、銀は吃驚して腰が抜けた。
それを見てお妲は面白そうに笑った。
「禍因、とか言うらしいよ。小さな角が可愛いもんじゃないか」
「は、はぁ、」
いまいちお妲の言いたいことが飲み込めない。そして抜けた腰が立ってくれない。情けないものだ。いつものことだけれど。
そうして腰を抜かしたまま銀がその塊を見ていると、それはいきなり起き上がって、じー、と銀を見つめてきた。そう、それはそれは深い、真っ黒な眼で。
銀はそれをまじまじと見返す。
真っ黒な眼に、青い肌に角。瞳はまっすぐ自分を見つめてくれている。心なしか座り方が猫のようだ。ぶかぶかのシャツを着て、じーっ、と、こちらを見てくれている。
「鬼の子ですか? 初めて見ました」
銀がお妲に問うと、お妲は肩を竦めた。
「いんや、アタシの知ってる鬼とも少し違うねぇ。もしかしたら大陸の生き物なのかもしれないよ」
「はぁ、」
「アタシだってそれに関しては何も知らないのさ。お仙にさっき、『この子、銀の字に育てさせてみてちょうだいっ!』って、言われたばかりだからねぇ」
「はぁ、」
銀は肩を竦めた。
これは困った。座長の言葉は絶対である。しかしながら、子育ての経験がないのに加えて、そもそも相手が何だかよく判らない生き物ときた。お手上げに決まっている。
「姐さん、俺には荷が勝ちすぎるよ」
「お仙は、アンタを指名だよ」
「姐さん、でも俺には……、」
無理だ、と、言葉を続けようとすると、なぁああああぁ、と、か弱く鳴く声。
なぁー、なぁー、なぁー、
どうやら目の前の鬼子が鳴いているらしい。いや、鬼ではないそうだけれども。
「可愛い……、」
銀は頬を緩めて、鬼子に手を伸ばした。
撫で撫で。
頭を撫でると目を瞑り、ころころと喉を鳴らしている。ますます猫のようだ。
「誰ぞから預かって暫くお仙が面倒見てたらしいがね、お仙も仕事があるもんだから世話しきれんみたいだよ。こんな可愛いんだ。育ててやっておやりよ」
お妲は言った。
「……、」
「アンタが育てなかったら、この子はどうなるんだろねぇ……、」
お妲の悲しそうな声が耳に響く。
止めてくれよ姐さん、俺が姐さんの悲しそうな声に弱いと知っててそんな風に言うの……。
「っていうか姐さん、お仙さんのその言い方、俺が暇だとでも言いたいように聞こえるんだけど」
「暇だろう?」
「ちょっ、暇なわけがないじゃないですか現に今貴女に邪魔されて洗濯が始まってすらいません!」
すると、きょとんとした顔でお妲は銀を見つめる。
そんなお妲から顔を逸らして、ぽつり、
「ズルいよ姐さん、俺ばっかり意識して、」
お妲に聞こえないほど小さな声で、銀は一人ごちた。
「銀の字?」
「子育てなんて僕には分かりません。無理です」
顔を逸らしたまま、銀は言った。
するとまた、なぁー、なぁー、なぁー、と、悲しげな子猫のような声を出す。
銀はまた、鬼子を見た。
なぁー、なぁー、なぁー、
そうか、コイツも育てる人がいなければ捨てられてしまうのか……。
「姐さん、俺に、育てられるかな……?」
銀は鬼子の顔を撫でてやりながら、お妲に尋ねる。
すると、次はお妲の手が銀に伸びてきて、
「分からないことがありゃアタシも手伝うさ。ね、銀の字、一緒に育ててみようさね」
と、優しく銀の頬を撫ぜた。
だからもう、そんなことされたら受け入れるしかないじゃないか。
「姐さん、ズルいよ……、」
そしてこくりと頷いた。
「姐さん、俺、やってみるよ」
すると、見るからにぱぁあああぁあ、と明るくなった顔で、お妲はぎゅうぅ、と、鬼子越しに銀を抱き締めた。
頑張ろうねぇ、銀の字、二人で子育てだよ!
そう言って一人はしゃぐお妲に抱き締められて、顔が真っ赤になってしまったのを、抱き締められてるが故に見られずに済み、銀にとってはそれだけが救いだった。
そうして暫く抱き締められていた後、ふっと温もりが離れていった。
少し心残りを感じて、銀は鬼子を抱き寄せた。
「よろしくなー、え、えーと、」
よろしくと言おうとして、名前が出てこない。
「えっと、姐さん、この子、名前……、」
「あ、あぁ名前。お仙もまだつけてないみたいだよ。禍因ってのは種族の名前だろうし、どうだい、アンタつけてやったら」
座長……、面倒なことは全部俺任せですか……。
がくっ、銀は自分の肩が思いきり落ちたのが、自分でも嫌なほど分かった。
名前、名前なんて、どうやってつければいいか分からない。
銀はまた、まじまじと鬼子を見つめる。青い肌に角。どう見ても噂に聞く青鬼なのだが、お妲は違うという。
「名前ってどうつけるもんなんだろ」
銀がぽつりと漏らすと、お妲はこともなげに、笑って言った。
「銀の字、お前は銀色狐だから銀、だろう? お仙は仙人石の前にいた二又猫だから仙次郎だ。そんな簡単なのでいいのさ」
「……、」
お仙さん、そうか、本当の名前は仙次郎なのか……、って、そうじゃなくて……。
「つまるところね、銀の字が呼びやすい名前でいいのさ。それが一番、愛着が湧くだろう?」
お妲は微笑む。
その眩しさから目を逸らすように、銀はまた鬼子を見つめて。
「呼びやすい……、じゃあ……、紀伊、かな。お紀伊、とか、可愛い、気が、する……」
まぁ、鬼だから「きい」なんだけ……、
「銀の字、アンタ鬼子を音読みしてそのまんまつけただろ」
「ふぇええぇっ、そんなっ、ち、違っ!」
何でわかったんすか姐さん!
銀はお妲を見つめる。
そしたらお妲は肩を竦めて、それ以上名前に関しては何も言わずに言った。
「アンタ、この子をお紀伊と呼ぶみたいだけどね、まだこの子、性別がないそうだよ」
「蝸牛かよ」
「見た目も何もかも、育てたアンタ次第ってわけだ。頑張りなぁね」
「姐さんんんん、ますます荷が勝ちすぎるよぅ」
銀が涙ぐみながら返すのも知らぬ存ぜぬな風を吹かし、お妲はくるり、踵を返した。
「そうさね、まずは洗濯でも教えてやんな」
「ちょっ、姐さ……、」
銀の声も聞かぬふりして、お妲はひらひら手を降ると、さっさか歩いて宿舎の中に消えてしまった。
それを悲しげに、いや、むしろ困惑した表情で見つめた後、銀ははぁああああぁああぁ、と盛大に溜め息を吐いた。そしていつの間にか横から自分に掻きついてる鬼子の頭をぽんぽん叩いてやって、
「よろしくな、お紀伊、」
と優しく囁いてから、すくっと立ち上がった。
「よっしゃ、やるぞ!」
こうして、銀の子育て録が、幕を開けたのであった。
がたりっ、
引き戸を抉じ開けると、お仙がいつものように紙とにらめっこしながら煙管を燻らせていた。
そんなお仙に跳ねるようにお妲が近付いていく。
「お仙、銀の字、育てるって、さぁ」
そう言って後ろからお仙を抱き締めた。
すると、お仙はにやりと口の端を歪めた。
「言ったろう、お妲。男はねぇ、悲しげになぁなぁ鳴くのに弱いんだ。情に厚い銀の字のことだ絶対引き受ける、って、言ったろう」
「さすが、男におもねるのは天下一だねぇ、お仙」
「一番に鳴き方を教えて正解だったろう? あぁあ、これから銀の字がアレを育てるのに四苦八苦するのを見るのが楽しみだねぇ、」
「楽しみだねぇ、お仙」
そう言っておなご二人、黒い笑いを浮かべていることを、洗濯を教えるのに既に四苦八苦している銀が知ることはないのであった。
続く
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