沖縄の方々、かつての激戦を乗り越え、
生きる道を選び、その信念を貫いた方々の
ご子孫に、今会える喜びと感謝の気持を込めて綴ります。
(主に戦跡ツアー写真)
特攻艇格納庫(比謝川河口)
震洋、又は通称アマガエルと呼ばれた小型特攻艇が格納されていました。
特攻艇格納庫(比謝川河口)
浦添に残る日本軍のトーチカ
外部は爆撃で四角い形が残っていません。
トーチカ内部(高さ153センチくらい)
機銃の台座の一部を支えていたと思われる穴
掩体壕
陸軍使用のえんたい壕(読谷村付近)
牛小屋として利用されていました。
土を盛り、コンクリート舗装され、中の土は取り除く手法でした。
陸軍観測所が置かれた 座喜味城
昭和20年4月1日、海岸を黒く埋め尽くすほどの米軍が上陸。
日本軍の抵抗を受けることはなかったといわれています。
ここからは、旧北飛行場跡の一部が(現在道路)見えました。
その上空を悠々と飛ぶ米軍機を、皆ただ黙って見つめていました。
中心に楔(クサビ)を打つ手法はヨーロッパでもあったそうです。
琉球王国すごい。
沖縄には、天然の洞窟を防空壕とし、日本軍の拠点や
病院などに利用され、ガマと呼ばれていました。
戦跡訪問で泣くまいとしても、幾度と涙を堪えられませんでした。
わたしが人前で一番泣いてしまったのが、ここ
アブチラガマです。
糸数 アブチラガマ
アブチラガマ入口
井戸(アブチラガマ内)
カマド(アブチラガマ内)
アブチラガマの一番奥は、精神が狂乱した脳症患者の隔離場所と言われています。
ガマは、懐中電燈で照らしながら進みます。
ガマを案内してくださったガイドの方が、少し広いところで立ち止まり
「みなさん、ここで懐中電灯を消して下さい」と。
「えええ」と、心で叫びました。
本当のアブチラガマを体験するために、明かりを消すのだそうです。
入口から離れているので明かりはありません。
約20名の懐中電灯が、次々に消えていきました。
そこはもう、どうしようもなく果てしなく続く真っ暗な闇…
敵の砲撃に怯え、火炎放射で焼き殺されるか、火だるまになり炙り出されるか、
恐怖で生きることも死ぬこともできず耐え切れない真実の闇。
わたしは、声に出さずに壮絶に泣きました。
アブチラガマ入口から外の景色を臨む
(手すり、階段は現代のもの)
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ガイドから聞いたお話ですが、
市民が、ガマから逃げ出そうとも、居場所を知られるからと
本来、市民を護るべき日本軍に射殺されたと言われています。
赤ちゃんが泣いて、敵に居場所を知られるからと赤ん坊を殺すよう日本軍に命じられ
窒息死させられた例もあったそうです。
こうなったら、もう何を信じたらいいのでしょう。
敵も味方もありません。
自決しようと手榴弾を使った人が、
一発で死にきれずに苦しむ姿を見た人もいました。
敵の砲撃に倒れた瀕死の女学生が、医者からの痛み止め処方を拒否し、
少ない薬の事情を知っていたので
「薬は兵隊さんに使って」と言い残し、亡くなったそうです。
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4泊5日全ての行程が、沖縄激戦地跡を巡り
現地の水を飲み、浴び、現地の食べ物を食べ、空気を吸い、匂いを嗅ぎ、土を踏み、
2泊目を明けた頃から、肉体も魂も、当時に同調しやすくなってきました。
ガマというガマを、少なくとも約15箇所訪問してきましたが
短期間で10箇所目のガマを出る頃には、
沖縄の現代の街並みを見ても、ただ何もない空間を
ぼんやり眺めているような妙な感覚に陥りました。
その感覚のまま迎えたツアー終盤、国際大通り付近のスーパーで
お土産を買う機会がありました。
今では有名な「スッパイマン」。
当時は、沖縄限定販売だったようです。
人づてに聞いた、お土産をスーパーで見つけ、5個くらい買い占めていたとき
一人の少女が不思議そうな面持ちで、わたしをじっと見つめていました。
6、7歳くらいのおかっぱの、白っぽいワンピースだったと思いますが
はっきり覚えているのが、少女の頬には(特に右側)泥がべったり付いて
乾いて白くなっていました。
この時、このお嬢さんが買うぶんまで買ってはいけないと思い
「あっ…買うの?」
「(首を横に振って、穏やかな笑顔で、ゆっくりと)なんでそんなに?…」
「(恥ずかしかったけど、照れ隠しの笑顔で)お土産にしようと思って…」
「(笑顔のまま)ふーん…」
スッパイマン、もうちょっと買おうかなと思っていたら
いつの間にか、いなくなった少女。
あれ?
なんかおかしい…
顔に泥?
即座に少女を探しに、付近を回りましたが見つかりませんでした。
戦争で亡くなった少女だと思います。
波長が合ってしまいました。
このような出来事は他にもあるのですが、
共通して言えることは、短い会話を交わしている時だけは、
まったくおかしいと気が付かないというのが特徴です。
ツアー最終日の夜、美しい琉球舞踊を観ました。
さらに、舞台のラストは、エイサー。
みんなで盛り上がって舞いました。
沖縄の方々は、過去の戦争での涙を隠すために踊っているようにも見えたのですが、
本当は、生きる喜びに満ち溢れ、踊り舞わずにはいられないのかもしれません。
リンク
沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」
とても感動しました エイサー 、ユーチューブ動画です。
新宿エイサーまつり2015