2015年06月22日
沖縄戦跡 写真3
陸軍の飛行場があった嘉手納基地
移設問題を抱える普天間基地
首里城付近に残る
第32軍司令部地下壕入口
同地下壕の砲弾の跡
沖縄平和祈念資料館の建設中の写真(平成14年頃)
沖縄平和祈念資料館
摩文仁の丘
沖縄平和祈念資料館と旧資料館建物
沖縄平和祈念資料館から眺めた沖縄の海
牛島軍司令官、長参謀長の墓
南へ、南へと追い詰められた沖縄で戦った日本軍、終焉の地。
ここから先は、ただ美しい海が続いていました。
リンク
沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」
とても感動しました エイサー 、ユーチューブ動画です。
新宿エイサーまつり2015
沖縄戦跡 写真2
ひめゆり祈念館付近
陸軍病院第三外科職員の碑
陸軍病院第三外科壕
第一外科壕は祈念館より少し離れた場所にありました。
南風原(はえばる)陸軍病院跡
那覇陸軍病院が空襲で崩壊
後に当地へ移設 ひめゆり学徒配属
白梅学徒病院壕跡
白梅学徒隊(県立第二高等女学校)
第24師団第一野戦病院入隊(山3486)
白梅学徒病院壕の入口と内部
浦添のガマ
長さ20〜30mで通り抜け可能。
浦添のガマ
浦添のガマ
当時、住民が避難した沖縄独特のお墓
沖縄独特のお線香
5本が板状になっています。
儀式によって割ったり、そのまま使います。
外部サイトリンク
沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」
とても感動しました エイサー 、、ユーチューブ動画です。
新宿エイサーまつり2015
沖縄戦跡
沖縄の方々、かつての激戦を乗り越え、
生きる道を選び、その信念を貫いた方々の
ご子孫に、今会える喜びと感謝の気持を込めて綴ります。
沖縄の終戦日と言われる6月23日を前に、沖縄の戦跡訪問回想録(平成12年)です。
(主に戦跡ツアー写真)
特攻艇格納庫(比謝川河口)
震洋、又は通称アマガエルと呼ばれた小型特攻艇が格納されていました。
特攻艇格納庫(比謝川河口)
浦添に残る日本軍のトーチカ
外部は爆撃で四角い形が残っていません。
トーチカ内部(高さ153センチくらい)
機銃の台座の一部を支えていたと思われる穴
掩体壕
陸軍使用のえんたい壕(読谷村付近)
牛小屋として利用されていました。
土を盛り、コンクリート舗装され、中の土は取り除く手法でした。
陸軍観測所が置かれた 座喜味城
昭和20年4月1日、海岸を黒く埋め尽くすほどの米軍が上陸。
日本軍の抵抗を受けることはなかったといわれています。
ここからは、旧北飛行場跡の一部が(現在道路)見えました。
その上空を悠々と飛ぶ米軍機を、皆ただ黙って見つめていました。
中心に楔(クサビ)を打つ手法はヨーロッパでもあったそうです。
琉球王国すごい。
沖縄には、天然の洞窟を防空壕とし、日本軍の拠点や
病院などに利用され、ガマと呼ばれていました。
戦跡訪問で泣くまいとしても、幾度と涙を堪えられませんでした。
わたしが人前で一番泣いてしまったのが、ここ
アブチラガマです。
糸数 アブチラガマ
アブチラガマ入口
井戸(アブチラガマ内)
カマド(アブチラガマ内)
アブチラガマの一番奥は、精神が狂乱した脳症患者の隔離場所と言われています。
ガマは、懐中電燈で照らしながら進みます。
ガマを案内してくださったガイドの方が、少し広いところで立ち止まり
「みなさん、ここで懐中電灯を消して下さい」と。
「えええ」と、心で叫びました。
本当のアブチラガマを体験するために、明かりを消すのだそうです。
入口から離れているので明かりはありません。
約20名の懐中電灯が、次々に消えていきました。
そこはもう、どうしようもなく果てしなく続く真っ暗な闇…
敵の砲撃に怯え、火炎放射で焼き殺されるか、火だるまになり炙り出されるか、
恐怖で生きることも死ぬこともできず耐え切れない真実の闇。
わたしは、声に出さずに壮絶に泣きました。
アブチラガマ入口から外の景色を臨む
(手すり、階段は現代のもの)
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。
ガイドから聞いたお話ですが、
市民が、ガマから逃げ出そうとも、居場所を知られるからと
本来、市民を護るべき日本軍に射殺されたと言われています。
赤ちゃんが泣いて、敵に居場所を知られるからと赤ん坊を殺すよう日本軍に命じられ
窒息死させられた例もあったそうです。
こうなったら、もう何を信じたらいいのでしょう。
敵も味方もありません。
自決しようと手榴弾を使った人が、
一発で死にきれずに苦しむ姿を見た人もいました。
敵の砲撃に倒れた瀕死の女学生が、医者からの痛み止め処方を拒否し、
少ない薬の事情を知っていたので
「薬は兵隊さんに使って」と言い残し、亡くなったそうです。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚
4泊5日全ての行程が、沖縄激戦地跡を巡り
現地の水を飲み、浴び、現地の食べ物を食べ、空気を吸い、匂いを嗅ぎ、土を踏み、
2泊目を明けた頃から、肉体も魂も、当時に同調しやすくなってきました。
ガマというガマを、少なくとも約15箇所訪問してきましたが
短期間で10箇所目のガマを出る頃には、
沖縄の現代の街並みを見ても、ただ何もない空間を
ぼんやり眺めているような妙な感覚に陥りました。
その感覚のまま迎えたツアー終盤、国際大通り付近のスーパーで
お土産を買う機会がありました。
今では有名な「スッパイマン」。
当時は、沖縄限定販売だったようです。
人づてに聞いた、お土産をスーパーで見つけ、5個くらい買い占めていたとき
一人の少女が不思議そうな面持ちで、わたしをじっと見つめていました。
6、7歳くらいのおかっぱの、白っぽいワンピースだったと思いますが
はっきり覚えているのが、少女の頬には(特に右側)泥がべったり付いて
乾いて白くなっていました。
この時、このお嬢さんが買うぶんまで買ってはいけないと思い
「あっ…買うの?」
「(首を横に振って、穏やかな笑顔で、ゆっくりと)なんでそんなに?…」
「(恥ずかしかったけど、照れ隠しの笑顔で)お土産にしようと思って…」
「(笑顔のまま)ふーん…」
スッパイマン、もうちょっと買おうかなと思っていたら
いつの間にか、いなくなった少女。
あれ?
なんかおかしい…
顔に泥?
即座に少女を探しに、付近を回りましたが見つかりませんでした。
戦争で亡くなった少女だと思います。
波長が合ってしまいました。
このような出来事は他にもあるのですが、
共通して言えることは、短い会話を交わしている時だけは、
まったくおかしいと気が付かないというのが特徴です。
ツアー最終日の夜、美しい琉球舞踊を観ました。
さらに、舞台のラストは、エイサー。
みんなで盛り上がって舞いました。
沖縄の方々は、過去の戦争での涙を隠すために踊っているようにも見えたのですが、
本当は、生きる喜びに満ち溢れ、踊り舞わずにはいられないのかもしれません。
リンク
沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」
とても感動しました エイサー 、ユーチューブ動画です。
新宿エイサーまつり2015
2015年06月08日
ココポ博物館2・零戦の翼に残る日の丸と日本軍資料
ココポ博物館にて、屋外展示されていた 日本軍資料と
塗装が鮮明に残る零戦22型の主翼について、写真のご紹介です。
屋外展示されていた零戦の写真のページは こちら です(2015年5月31日投稿文)
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★
各写真の英語表記は、現地に建てられていたプレートの解説文です。
ここでご紹介できるものは、ほんの一部で、現地には、まだまだ多くの残骸が
解説のプレートもないまま、重なり合っていました。
日本軍がかつて使用していた数々の武器には、
メカニックな外観と、繊細な構造を備え、
実物に触れると、ただ驚くばかりでした。
しかし、戦車などの鋼鉄が、飴のようにクニャッと
へし曲がる衝撃は、想像では計り知れません。
「歴史的に貴重な資料」という客観的な意識を持っていなければ、
現地では、つらくて立っていられなくなるかもしれません。
JAPANESE INFANTRY GUN
日本軍・歩兵隊の銃
Model 11(1922)
Calibre 37mm
Weight 205lb
Sight Telescopic
This gun could be carried by 4 men.
JAPANESE DOUBLE BARREL ANTI TANK AIRCRAFT CANNON
日本軍・二連式機関砲(対空・対戦車)
MODEL 96(1936)TYPE2
Calibre 25mm
Range 14000 ft
Weight 5330lb
JAPANESE FIELD GUN
日本軍・野戦砲
Model (1935)
Calibre 75 mm
Weihgt 2438 lb
Range 12000 yds
Rate of fire 10 rounds per minute
Recovered from Tomaringa.
JAPANESE NAVAL LOCOMOTIVE
日本海軍の機関車
Gauge 610mm(24)
Powered by 4 cylinder engine
The locomotive was used in the
construction of the Tobera Airtrio.
JAPANESE BOMB LOADER
日本軍・爆弾装填(そうてん)器
(bombs in aircraft)
COCKPIT JAPANESE BETTY BOMBER
一式陸攻のコックピット
JAPANESE TRACKED RECOVERY
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★
屋内展示されている22型の翼です。
零戦のオリジナル塗装の保存状態が良好で
貴重な資料だと思います。
零戦22型主翼折りたたみ部分
現地で気がつかなかったのですが、
主翼上面にある内側編隊灯を拡大し
上下逆にしてみました。
怖い・・・
この写真、Photoshopで画像加工していないですよ。拡大しただけです。
じっと見つめていると、焼けただされた人の顔にも見えてきます。
まるで、訴えかける英霊の目のようです。
「本当の戦争とは、いったいどういうものなのか
絶対に、忘れるな」と、無言のまま叫んでいるようです。
2015年05月31日
ココポ博物館の零戦(ラバウル)
ラバウルにて、 ココポ博物館の零戦をご紹介いたします。
戦時中に使用されていた日米の武器や、
戦車から飛行機の残骸まで展示されてる同博物館ですが
博物館の屋外に展示されていた零戦(21型だと思います)の写真です。
クリックで拡大できます
博物館の屋外にて、野ざらし雨ざらしの零戦ですが、
わずかに日の丸の残る胴体には
頼みなる存在の面影を偲ばせていました。
零戦は、ラバウル郊外のジャングルで発見されても、
当時の米軍の手によって、戦利品としていろいろ持ち帰られてしまい
ほとんどの備品はないそうです。
内装だけではなく、胴体にはナイフで切り取られた跡がありますが、そのためです。
足掛。
日の丸の白い淵が、赤で消されていますね。
目立つ白い淵を塗る色は、濃緑黒色、黒、赤、とくに決まりはなかったようです。
足掛(上から見たところ)
普通、このようにスケルトンで見れないし(>_<)
零戦の翼にある20ミリ機銃の一部
尾輪って、こんなふうに格納するんですね。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★
添乗員さんが、コックピットの中に入っていいよとおっしゃったので
壊れないように(もう壊れているけど)そ〜っと乗り込みました。
コックピット内部を、何枚か分けて写真に収めて
無理やりにも繋ぎ合わせてみましたが
レンズのゆがみがありますので揃わないですね。
Photoshopで繋ぎ目の部分を加工すれば、もっと綺麗になるのかもしれませんが
オリジナル性を重視して、加工しませんでした。
重ねた写真もそのままで、画像トリミングのカットもしませんでした。
写真が重なっている部分は、上下左右
重複しているところもありますのでご了承下さい。
ラバウルの朝
当時と変わらない景色です。
とても美しい朝焼けでした。
「 THE WINDS OF GOD」で、
零戦を身近に感じられるような作品を世に広めた俳優の
今井雅之さんのご冥福をお祈りするとともに、
英霊に取り囲まれて、楽しい日々を送っていることを祈ります。
2015年04月02日
知覧特攻平和祈念館、加世田、鹿屋訪問回想録
知覧特攻平和祈念館 (鹿児島県)
館内は撮影禁止だったので、現地で素描しました。
陸軍四式戦闘機「疾風」
陸軍三式戦闘機「飛燕」
知覧は、陸軍の基地でしたが
館内には、海中から引き上げられた、
零戦52丙型が展示れています。
引き上げられた当時の状態に近いまま保存されていました。
零戦52丙型の、3式13ミリ機銃、20ミリ機銃、
翼の下の小型爆弾架も、近くで確認できます。
ガラス張りの部屋に展示されています。
屋外から撮影しました。
特攻機は、かつての戦闘機から練習機までも
爆弾を搭載して利用されていました。
知覧基地から飛び立った特攻機で
最も多く利用されたのが97式戦闘機です。
知覧基地から出撃した隊員は
樺太、北海道から沖縄まで
各地を故郷にする方々で、朝鮮の方もいました。
三角兵舎
隊員が過ごした兵舎が再現されています。
傾斜のある天井を眺めながら
どんな気持ちで過ごされていたんでしょう。
特攻隊員の方々の遺影が並ぶ光景は
いつも胸せまるものがあり、命の尊さを改めて深く考えさせられます。
陸軍航空隊の特攻による戦死者は約1400人。
恒久の平和を願います。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★
行って良かった鹿児島のオススメなどを紹介します。
「ホタル館」富屋食堂
記念館です。食堂ではありません。
知覧特攻平和祈念館より新しい施設です。
「ホタル館」は、特攻隊員から慕われていた
鳥濱トメさんの冨屋食堂の外観と内装が再現され
特攻隊員たちの写真やエピソードが紹介されています。
ホタルになって帰ってきた
宮川三郎さんの遺品も展示されていました。
展示品を眺めているとき、
観光で知覧に来た方が何人も
「食堂どこですか?」と入ってきて
間違ってしまうようです(*^.^*)
知覧特攻平和祈念館、すぐ近くの食堂
鳥濱トメさんのお孫さんのお店です。
「 知覧茶屋 」
昼食に寄らせていただきました。
さくら館
宿泊場所を決めていなかったので
知覧特攻平和祈念館の、おみやげ売場の方に
近くのホテルを訪ねたら、「さくら館」を教えて下さいました。
知覧特攻平和祈念館から徒歩数分の旅館で、
三角兵舎からイメージされた建物です。
和室に泊まりましたが(洋室もあります)
天井が本物の三角兵舎みたいに
斜めになっています(^_^;)
知覧のお土産には知覧茶!
ペットボトルの知覧茶もおいしかったです。
薩摩酒造(株) 鹿児島 知覧茶 PET500ml×24本 本格撰茶 新品価格 |
万世飛行場跡・ 万世特攻平和祈念館
零式水上偵察機が展示されています。
「子犬を抱いている特攻隊員たち(5名)の写真」を
見たことがある方もいらっしゃるのでは…
(権利上、写真を掲載できません)
知覧特攻平和祈念館にも展示されてる写真なのですが
万世飛行場で撮影されたもので、
子犬を抱いているのは荒木幸雄さん。(17歳)
万世特攻平和祈念館には、荒木幸雄さんの
初めて見る写真が展示されていました。
とてもやさしそうな日本男児の容姿でした。
また、「子犬を抱いている特攻隊員たち(5名)の写真」のうち、右上の高橋さん。
集合写真とは異なる、
穏やかで純粋な雰囲気の遺影が残されていて、
しばらく立ち尽くしてしまいました。
この写真は、元々アサヒブラフの記者による撮影でした。
当初は国威高揚の一環だったとしても、
現代に於いて、特攻の事実を切実に語る歴史的な1枚になりました。
鴨池港の 垂水フェリー
ひとり旅ですが、車好きなので、
移動は鹿児島空港から、レンタカーで戦跡巡りしました。
知覧特攻平和祈念館から
鹿屋航空基地 史料館へ行くプランでしたら
垂水フェリーがオススメです。
船から眺める桜島が美しい!
鹿屋航空基地 史料館
海軍の航空隊の特攻で戦死された約2500人。
(戦地へ向かう途中で亡くなられた隊員も含まれているそうです)
海上自衛隊基地内の史料館には
零戦52型が展示されています。
コックピットが見えるよう台座があります。
撮影禁止の場所が多いので残念ですが(> <)
照準器スケッチ
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★
花が美しく見えるのは、
いつか散ることを知らずに咲いているからでしょうか。
鳥が、いきいきと美しく見えるのは、
いつか死ぬことを考えずに生きているからでしょうか。
今、そして未来、特攻隊員たちが
見た景色と変わらない、花や鳥の美しさを、
ずっと大切にしたいと思います。
2015年03月10日
パラオ慰霊の旅と零戦
その零戦には、こんな思い出がありました。
「鳥のように飛びたい」と、空ばかり眺めている頃、
第二次世界大戦について書かれた本に出会い、命の尊さを初めて知りました。
そして偶然、父が昔、持っていたレコードに入っていた1曲に巡り会ったのです。
武田鉄也さんが作詞した「パラオ ゼロファイター」という曲です。
幼いわたしの想像していた零戦が、そのまま歌になったようでした。
パラオの零戦が、その曲のモデルとなった零戦です。
それから十数年後、珊瑚に眠る、その零戦に語りかけることができました。
「君に会いにきた…」
零戦が眠るその場所には、急激な浅瀬という目印のために(零戦があるという目印でもあります)ポールが立てられ、ウキが浮かんでいました。
搭乗員は無事だったのでしょうか?
その人との思い出と一緒に、零戦は珊瑚礁に横たわり、錆び、朽ち、その翼も尾翼もありませんでしたが、何故かとても穏やかな印象を受けました。
その穏やかさが、優しくもあり、強くもあり、やがて海へ還っていく姿に涙が溢れてきました…
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★
つかの間の出会い、舟は容赦なく零戦とわたしとの距離を開けていきました。
船尾から、去りゆく零戦を、水平線になるまで眺めていた時です。
突然、つがいの鳥が飛んできました。
忘れられない光景です。
つがいの鳥は、飛んだり、とまったり、繰り返していました。
望遠レンズでも、点のように写っている鳥たちをさらに拡大してみました。
鳥たちにとっては、零戦は、もう自然の一部なのでしょう。
写真では、一羽がポールにとまっていますが、潮が引き、零戦が姿を現わすと、鳥たちは零戦の傍らで翼を休め、愛を語りあうことでしょう。
その零戦は、「全てを与え尽くす尊い木」と化していました。
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★
「零戦の幸せ」って、いったい何でしょう?
それぞれの考え方があると思います。
「戦ってこそ」という方もいれば、「人の心に残ること」、「空を自由に飛ぶ」という方もいるでしょう。
確かに、飛ぶことは素晴しいと思います。
けれど、わたしはこのとき、「幸せそうな零戦」を見たような気がしました。
間違っているかもしれません。
それに、いつかこの考えが変わる日が来るかもしれません。
けれど、その零戦は、そっと微笑みながら、こう語りかけているようでした。
「ほら、友達もいる。独りじゃないよ」と。
Not alone
わたしが描いたパラオの零戦のイメージです。
2015年03月07日
パラオ・ペリリュー島戦跡
きっと兵隊さんたちも大喜びのことでしょう。∠(^∀^)
これからパラオへの旅行や、パラオ戦跡の訪問を、
ご検討なさっていらっしゃる方や、
または、行きたくても都合で行けない方々も
よろしかったら、パラオ・ペリリュー島戦跡のPhoto旅に、お付き合いくださいませ。
みなさんが楽しめたら嬉しいのですが、数年程前の写真で、
現在は少し異なるかもしれませんので、ご了承下さいませ。
ここでは、歴史的背景の説明は省略し、写真を中心にご紹介しますね!
兵隊さんの魂が写ったかもしない写真も 初公開します!
エメラルド色した海や生命力あふれ茂る木々たちが
半世紀以上前の出来事を、いたわるかのように包み
母なる地球の体内へと溶かしていました…
こんなに美しいところで、かつて戦争が…
陸軍野戦病院跡
砲弾の痕が、振動や音まで語っていました。
オレンジビーチ
米軍上陸地点のひとつです。
オレンジビーチにて、米軍により建立された碑。
手前は米戦士の墓碑。
西太平洋戦没者の碑
ペリリュー島 零戦(型式不明)
日本から慰霊に訪れる方々のためにも、
この零戦は、ここにいてほしいと思いました。
零戦の翼に木の芽が生えています。
命が生まれていて、とても好きな写真です。
日本軍 95式軽戦車
ペリリュー飛行場跡
かつて双発の陸攻などが着陸可能であった広大な飛行場。
海軍司令部跡
空襲の傷跡が生々しく残っていました。
天井は大きくえぐりとられていました。
海軍司令部跡 1階
あっ!トイレだ( ̄□ ̄;)!!
海軍司令部跡 2階への階段
中川大佐自決の碑。
言葉になりませんでした。
春に、靖国神社の桜の花びらを拾い集めて押花にしていたのですが
それらを中川大佐自決の碑にまきました。
ここで亡くなった方々だけではなく、多くの兵隊さんへ届ける気持ちでお供えしました。
南洋庁時代からあった旧神社跡です。
米陸軍の松川さん(マッカーサー)ではなく、
米海軍のニミッツさんの有難いお言葉です。
南洋庁時代に使用されていたポスト。
手紙が過去へ届くかな? (。・ω・)o━ 〒
零戦(型式不明)
この零戦に会いに行きました。ここに、つがいの鳥が飛んできました。
そのエピソードを後日お伝えします。
パラオ共和国の艦「001」(゚∀゚)
日本軍装甲車両 特二式内火艇
日本軍 水上偵察機(機種不明、零式水上偵察機?)
日本軍の航空機と言われる残骸。
兵隊さん写った?!(゚ロ゚ノ)ノ
初公開の写真です! まるで日の丸みたいですね。
「兵隊さーん!まって〜」
ε=ε=ε=(((((/TДT)/ ε=ε=ε=(((( ● すすすす…
゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★゚・:,。゚・:,。☆゚・:,。゚・:,。★
パラオ共和国は、本当に美しい島々でした。
南洋庁時代のこともあって、日本語も片言ながら話せるご年配の方々が多かったです。
子供の頃、実家の近所に、パラオの若い女性が
短期ホームステイで来日したことがありました。
その方とパラオについて少しお話しをしましたが、
日本の伝統の遊び「百人一首」の「坊主めくり」や「花札」を知っていたのです!
(パラオの方でも、ご存知ない方もいらっしゃるとは思います…)
ルールの説明は不要で「坊主めくり」をして遊びましたが、
坊主が出ると「Oh! Bouz!!」とがっかりしていました。(^▽^;)
時を隔てても、日本の文化が親しまれ、息づいているんですね!
勿論、戦争は2度と起こらないでほしいと
ただひたすら心から願うばかりです。
日本、そして世界が愛を忘れず、
穏やかな平和が続きますように…心から願わずにはいられません。