自分でも、うすうすわかっていたことだったが、他者から、ましてや医師から告げられたことで自分の状態が正常ではないことを改めて認識することとなったのだ。
精神安定剤と睡眠薬を処方されて、2週間後に診察に来るように告げられ、その日の診察は終わった。
1週間では今の症状はそれほど変わらないということからの2週間後ということらしい。
休職するには、会社に伝えなければならない。そのこと自体が恐怖の対象となるのだが、いまは自分の状態を認識することができたことで心の抑圧が取り除かれたことによる安心感のほうが強く感じられた。
医師によると、2カ月間はなにをしてもいいという。
旅行だろうがなんだろうが、自分がしたいと思ったことをすればよいということだった。
もっともそのような思いを抱くようになるまでに時間はかかるだろうが。
2カ月。働き出してから、いままでこんなにも長期に及ぶ休暇など経験がない。
2カ月後のことは考えなくてもよく、ただただ思いのままにすごせばよいという。
まるで学生に戻ったようなそんな2カ月。
処方してもらった薬をもらうために薬局へ向かう。薬を処方してもらい受け取る際、薬剤師は小声で薬の説明を始めた。
「精神安定剤と睡眠導入剤ですが…」
今まで腰痛だとか風邪だとかそういった類で薬を処方してもらったことはいくらでもあるが、その時とはいささか雰囲気が異なっている。
薬剤師も、うつ病の薬ということで気を使って、周りに聞こえないように薬の説明をしているのを感じた。
これもまた、うつ病に対する社会的な偏見なのだろうか。
自分はそういった社会の底辺ともいえる病気になってしまったのだ。
そんなことを思っているうちに説明はおわろうとしていた。
「よろしいでしょうか?」と薬剤師が言う。
ほとんど耳に入ってこなかったが、すこし間をおいて「はい」と答えた。
その後、自宅のすぐそばのコンビニエンスストアで夕食としてパンを買い、自宅に戻る。
しばらく困惑と安堵にもうろうとしていたが、徐々に恐怖を感じ始めていた。
いずれにしても、もう一度会社に電話をかけ、病名を伝えて明日から休職することを部長に伝えなければならない。
臼井医師の診断書と処方してもらった薬をながめながら、震える指でスマホのボタンをを押す。
「お疲れ様です」そのご間髪入れず要件を伝えようと思った。
部長ははいまだ今日は腰痛のために会社を休み病院にいったと思っている。
ながながと話をする気力もなく、ましてや言い争いや、繕う言葉など出てくるはずもない。
間髪入れずに部長に伝えた。
「うつ病と診断されました。明日からお休みを取るよう指示がでたので、2カ月間お休みをいただきます。診断書は近日中に郵送します。」
一気にいうべきことを伝えた。
部長は予想していなかった様子で、しばらく言葉を発しなかったがやがて理解したのだろう。
少し上ずった言葉で「わかりました。お大事に」
それだけ言ってガチャリと電話を切った。
電話を終えても指先はまだ震えている。
鼓動も高鳴ったままだ。梅雨独特の湿気た空気が部屋の中に充満している。
電話を終えて気が付いたが、体中から大粒の汗が噴き出していた。
今日やるべきことはすべて終わったのだ。
伝えることは伝えた。明日から何もかも投げ出して長期の休みに入る。
自分の長期の休みについて、会社ではどのようなことが話されているのだろうかという思いが一瞬、頭をよぎったがそれ以上考えないことにした。
夕食として買ってきたパンを一口一口かみしめながら口に運んでいた。
30分ほどかけて食べたパンだが、味は感じなかった。
そして、処方してもらった精神安定剤と睡眠導入剤を口にほおりこんで、ベッドに倒れこんだ。
時刻はまだ19時を回ったばかりであったが、もう何もしたくなかった。
ただ昨日までとは違い、今抱えている仕事のこと、明日しなければならないことを考える必要がなくなった安堵。これも精神安定剤のなせる業なのだろうか。
睡眠導入剤はきくのだろうか。寝るこはできるのだろうか。これからどうなるのだろうか。
2カ月か…長いな…
ベッドにうつぶせになり、顔を押し付け、目を閉じてこれだけを考えていた。
思いが堂々巡りにまわり、明日も答えが出ないまま朝を迎えるのだろうか。
眠れるのだろうか…どうなるだろうか…
そして翌日平凡な一日がはじまる。
いつものように朝日がのぼり、いつものように目を覚ました。いつものように。
昨日までは一睡もできない日もあった。朝の4時ごろに強制的に目覚める日もあった。
ところが今日は違ったのだ。既に7時を回っている。
最後に感じたのはいつだろうと思い出せないほど昔のことのように思う。
それでもやはりこれが、うつ病というものなのだろうか。目を覚ましても小一時間、横になり、ベッドからは出ず、右腕を顔にあてたままぼうっと天井を眺めていた。
そして、ふと急にこみあげてくるものがあった。
自覚した。こんなふうに何も考えず、時間をわすれて眠りに浸ったことがここ数か月なかったことを。
そして、その瞬間、不意に涙があふれた。これもまたここ数か月感じたことがない感情。
うれしい。うれしい。うれしい。よかった。ああ、よかった。
こんな気持ちになれるのだ。こんなふうに泣けるのだ。
泣いていたが口元は、笑顔になっていた。
数か月ぶりに笑うことができたことに、さらに喜びを感じることが、素直にうれしかったのだ。
そして、気が付くと「うれしい」と口をついて出ていた。
久しぶりに感じた晴れ晴れとした気持ちに、うつ病が治ったのではないかと思うほどの喜びがあった。
だが、うつ病がそうやすやすと完治するような甘いものではないことをその時はまだわかっていなかった。
いずれにしても、今日から2カ月間は何をしてもいいのだ。
39歳の夏休みが始まった…
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