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2021年07月12日

『街路樹』-「街路樹」のタイトルに込めた尾崎豊の思いとは-

この曲は1988年9月発売の同タイトルアルバムのトリを飾る曲。尾崎豊がニューヨークにいたときに書かれたとされる。

インターネットのファンの書き込みなどを読むと非常に人気の高い曲である。ただ、ポピュラーで浅い位置で「尾崎豊が好き」というよりはある程度尾崎の曲を聞き込んだ深い位置でファンがこの曲を好んでいる気がする。というのはこの曲は一般的代表曲『卒業』、『15の夜』、『I LOVE YOU』に隠れているからだ。
しかし、より成熟された詩の世界観、メロディ、ボーカルどれをとってもそれらにひけを取らない尾崎のキャリアハイともいってもいい傑作である。須藤氏のインタビューによると尾崎自身アルバム『街路樹』収録の曲について、「街路樹は(尾崎は)気に入っていたが、それ以外の曲はあまり気に行ってなかった。」とあり、この曲の出来に満足していたこともうかがい知れる。一方、尾崎自身はこの『街路樹』を作った時期を語ろうとしなかったと須藤氏の記述が書籍にはある。この時期に尾崎心の苦しみの闇が加速していった時期だということであろうか。
(実はアルバム『街路樹』は尾崎の声、心の状態も含めた理由で発売できるかできないかの瀬戸際であった。それが後述する別バージョンの存在理由にもつながる。)

『街路樹』このように人気のある曲である一方では歌詞の意味が理解しにくいというものもある。
というのも詩がイメージの言葉の連続で、文章としては意味が理解しにくくなっている。このブログではなるべくその部分に切り込めていけたらと思うが、私の憶測を含みつつ、それだけでなく、
正確な意味を撮るために原詩の掲載してある『NOTES僕の知らない僕』などをヒントに読み解いていきたいと思う。

はじめにタイトルの『街路樹』の曲タイトルに込められた意味を理解していると理解しやくすなるので説明する。

一つは尾崎自のノートに記されているように
「僕は街路樹のようにかた隅でそっと世間に
のみこまれ雑草のようにたくましく時には花を咲かせ君らの生きるさまを歌いだけだった」というものである。「君らの生きるさまを歌いたい」というものは、尾崎の生きる根本なっている重要な部分である。そもそも幼少の頃から周りと馴染めない部分があり、学生時代に歌うことに目覚めた尾崎は、歌うことで自分が救われたと語っている。それを裏付けるものである。また「街路樹」は尾崎自身のことということと同時に、街中の「人々の心模様」「錯綜する思い」を象徴するものとして描かれている。まずこの部分を前提に全体を理解するとわかりやすいだろう。

『街路樹』の歌詞に目を向けてみる。

出だしの
「俺は4時間も地下鉄の風に吹き上げられていた」とは尋常なことではない。しかしこの尋常ではない光景が尾崎の精神状態では起こりうることとなのかもしれない。「地下鉄の風」という言葉は『核』で登場するが、なにか荒廃、冷たいもの、そのような心を象徴するワードとして彼の言葉のリストの中にあったのだろう。

「昨夜見た夢の続きをみていた」
いうまでもないが、冒頭の歌詞の「夢」は寝ることによる夢であり、曲のクライマックスででる「夢抱きしめている君さ」の「夢」は違う意味合いである。

「甘えるのが下手なやさしさに似たロックンロール、誰一人抱きしめられず歌っている」

この詞は一見聞き流してしまいそうな何気ない詞だが、尾崎のパーソナリティ根ざした曲だということを示している重要な部分である。

「甘えるのが下手な優しさに似たロックンロール」とは一見すると意味不明な言葉であるが、これはすなわち尾崎豊が作詞作曲した楽曲の数々のことと考えるのか一番しっくりくる。「優しさ」とは、尾崎が一番大事にしていたキーワードであることは何度も述べてきたが、「優しさに似たロックンロール」と自分自身の曲のことを形容していることは自分の曲を自分の求めていた「優しさ」の象徴の一つと考えていたのかもしれない。「歌うことで心が救われていた」ということは「優しさ」に通ずるものが尾崎自身にあったのかもしれない。
度々尾崎の曲の中にはこのように「歌うこと」を
示した詩が何度も現れる。例えば『僕が僕であるために』では「この冷たい街の風に歌い続けている」と歌ってもいる。尾崎にとって歌を歌うことは自分の人生において重要な位置づけであったことがわかる。それは「金のため」でもなければ「他人のため」でもなく、最も大事なのは「自分の心のため、安らぎのため」であったのだと思う。

ここでは「誰一人抱きしめられず(曲を作り人々の心模様を)歌っている」のである。「誰一人抱きしめられず」とはどういうことなのか。それはどんなに愛すべき人が身近にいても孤独から逃れられない尾崎の心を示している。
この時期、日本からニューヨークへ舞台を移したが、結局、自分自身の寂しい心からは逃げられない。物理的に「誰一人抱きしれられない」ということではない。心が「誰一人抱きしれなれない」のである。たとえ愛すべき妻がいて、子供がいて、仲間がいても、尾崎の心は孤独で「誰一人抱きしめられない」のである。そして、それが尾崎自身はもう十分わかっていることである。


「お前はドアをけり開けて毎日とたずねた」
これは私の仮説だが、とあるが、彼女のことではないのでは。
尾崎の中にいるもう一人の自分のことではないだろうか。
どうもこの歌詞がひっかかっていて、「ドアを毎日蹴り開ける」というシチュエーションが不自然なきがする
「無神経にも心のドアをけり開けてくる」もう一人の押さえられない自分のことではないか???訪ねてこられても困る相手、もう一人の自分、ズケズケと心のなかに入ってくるもう一人の自分…ちがうだろうか??

1番にでてくる歌詞、「過ちも正しさも裁かれる」
2番に「yes と noを重ねた」表と裏、陰と陽、対極にあるものである。であるならば「ドア(心の)をけりあけて毎日たずねてくる」歓迎していないもう一人の自分。表と裏をにおわす他の歌詞。

「タイヤの上で夢中になった」とはこれも言葉のセンスである。
たった短いフレーズで、尾崎はこういうことができるのである。この才能もまたずば抜けている。


サビでのこの一節はこの曲「街路樹」というイメージを決定づける。
「足音に降りそそぐ心模様、つかまえて街路樹たちの詩を」


この曲の詩の意味は全体を通してイメージはつかめるが、正確な意味はとらえにくい部分が多い。
しかし、原詩と照らし合わせるとクライマックスの部分の理解は容易である。


「見えるだろ 降り注ぐ雨たちは ずぶぬれで夢抱きしめている君さ」

尾崎は自分自身を第三者のように俯瞰して「君」と表現することがある。
ここでの「君」とは間違いなく、尾崎豊自身のことであり、
そして「ずぶぬれ」とは雨であると同時に「心」が痛んだ、悲しみでぼろぼろ、という意味を持つ。
(別の曲「虹」でも自分の心を同じように「ずぶぬれで雨が待つのをまつおいらさ」と表現している。また死後公開された遺書(彼の死とは直接的には関係ない時期に書かれた)には「痛み、ただ雨のごとし」という記述があり、この言葉からも悲しみの象徴として雨ということを使っていたことがわかる)
「夢」とは尾崎にとって「安らぎ」であり、「やさしさ」であり、「本当の自分にであること」である。
ぼろぼろに悲しみ、涙をながしながらその、自分の心を愛おしく抱きしめている姿がここでの意味ではないだろうか。
さらにそれを 読み解くヒント
『僕が僕であるために』の作成途中の詩に登場している(『僕が知らない僕』P84)
「夢はいつでも雨ざらし心の傷は言えぬままこんなに君を好きだけど明日さえ教えられないよ」
表現こそ違うが、同じようなニュアンスではなかろうか。


そしてサビのフレーズ
「足音に降り注ぐ心模様つかまえて街路樹たちの歌を」

尾崎ノートがまとめられた『NOTES僕の知らない僕』には
「街路樹」という言葉を使った詩が記されていた。

「僕は街路樹のようにかた隅でそっと世間に
のみこまれ雑草のようにたくましく時には花を咲かせ
君らの生きるさまを歌いだけだった」

そしてこの発表されている『街路樹』にはない記述が歌詞の一節の意味を読み解くヒントとなっている

すなわち
「足音に降り注ぐ心模様つかまえて街路樹たちの歌を」とは
「僕は街路樹のようにかた隅でそっと世間に
のみこまれ雑草のようにたくましく時には花を咲かせ君らの生きるさまを歌いだけだった」という思いがこめられていることも容易に想像がつくのである。
そしてその意味を「「足音に降り注ぐ心模様つかまえて街路樹たちの歌を」と表現しているのである。
(そう考えると冒頭の「やさしさに似たロックンロール誰一人抱きしめられず歌ってる」も矛盾せず重要な意味をもってくる)
結局、このようにしてみると『街路樹』は一見、言葉がイメージの連続で、日本語としては理解しにくい部分もあり、抽象的なことを歌っているように見え、「街路樹」がその街に植え付けてある樹と、街の人々の心とだぶらせているというニュアンスと、「君」という歌詞から、人々の心模様などを歌っている印象を片面での印象に多くのリスナーはごまかされてしまう。
しかし、もう片面を突き詰めていくと「君」とは尾崎豊自身のことであり、「街路樹」にたとえられた人々の心模様から様々な影響をうけ、傷つき、またその「生きるさま歌う」尾崎豊自身のことを歌っていることに他ならないのである。
(『僕が僕であるために』「この冷たい街の風に歌い続けてる」『風に歌えば』「たどり着く街で人の生き様歌うよ」と同じ表現を言い換えた詩であると考えれるが、『街路樹』ではその表現は詩的に完成された最高表現となっている。)
ただし、それだけではなく、二重の意味にもとれるような表現に覆いつくされており、それが街路樹という曲を装飾し、深みを増して、得体のしれない魅力をかもしだす雰囲気を作り上げているのである。
さらにまったく違うことを歌っているようで、じつはmysongともいえ、尾崎のパーソナリティに深く根差しているという意味で『僕が僕であるために』と共通する部分が多いのである。

エンディングではlalalaの大合唱で大団円を向かえる。(この部分は実際に100名近い参加者の一発どりに近い形であった。そしてギャラの支払いも即日行われた。)
その合間に聞こえる尾崎の叫びも必聴である。
(このlalalaのさびの部分は恐らく尾崎自身もかなりの出来栄えのメロディでアルバムを中心になるであろう
メロディであったことが作った当時からわかっていたからこそエンディングでそのまま「lalala」と残したであろうことが予想できる。(尾崎の作曲方法は「最初にラララでメロディを作る」ことから始めることがノート尾崎自身のノートに記されている)

私の結論
『街路樹』は尾崎豊自身が詩を書き、曲を書き人々の心模様を歌い奏でている、尾崎豊自身の生き様を歌ったものである


この曲の聴きどころ
すでに書いてきたように、尾崎の人生そのものを歌った詩、完成されたメロディもそうだが、
エンディングの街路樹たちの歌(人々の心模様)のような「ララララ」の大合唱、
そしてその中で、声にならない嗚咽、雄たけびのような尾崎の叫びは圧巻である。
エンディング付近の尾崎のアドリブのはこの曲の一つの聴きどころになっているので聞き逃さないようにしたい。

聞く日によっては、私は感情が高まり、特にエンディングのラララの繰り返しの大合唱と、尾崎の叫びを聞くとき、泣けてくるときがある。
何故か街路樹が泣けるのか。
それは尾崎の人生のがこの曲には色濃く投影されているからであるのだと思う。叶わなかった夢(こころの安らぎ、普通の愛、)、歌うことへ宿命、葛藤それが、垣間見れるからなのかもしれない。

尾崎が歌を作るのではなく、尾崎が人々の心模様を感じ、拾い出す、そんなふうにも聞こえる。

との、
『街路樹』他のバージョンについて

別バージョン
ラジオで放送されたバージョンがYou Tubeで出回っている。これはデモではなく、完成版のファーストバージョンである。このバージョンが録音され発売予定であったが、尾崎の逮捕などもあり、一旦お蔵入りとなり、その後現在のアルバム収録が公式バージョンが録音し直され、それが今出回っているアルバムバージョンである。バックミュージックの演奏はオリジナル版と同じだが、ボーカル、声質は『壊れた扉から』のややしゃがれた声質になりそれもあいなり、いい意味でラフな印象だ(このバージョンを聞いたあとにあらためてオリジナルを聞くとオリジナルの方はより丁寧に歌いこんでいることがわかる。)しかし、それがまたオリジナル版とは違った味をだしている。詩も同じだが「降り注ぐ心模様」の歌い方が違ったりする部分は聞き所の一つだ。またエンディングの合唱部分も音質もあいなって泣ける聞き所となっている。



ライブバージョンでは
有明、東京ドームがCDでは聞くことができる。
有明コロシアムのバージョンはピアノの演奏が秀逸で、また尾崎のパフォーマンスも生涯のベストパフォーマンスともいえる聴かせてくれる。
またユーチューブでは別日の演奏も聞くことができるので探してみるのもおもしろい。



東京ドームは有明に比べるとピアノの演奏が稚拙だ。途中でミスまで冒してしまう。
尾崎のボーカルは有明にもまして素晴らしいものがあるが、バックミュージックの盛り上がりにかける。
そしてCDバージョンでは最後の「ラララ」の部分が途中で切られてしまい、そのあとの尾崎の叫びと、
素晴らしい余韻がカットされているのである。
これはまったくいただけない。DVDなどではその全編が見れるので、必見だ。





2021年05月02日

『誕生』

アルバム『バース』収録。
二枚組のもう一枚『永遠の胸』と並び、トリを飾る曲。

物語風に自伝を語っていく構成になっており、後半はメロディが転調し、息子へのメッセージが語られる。
そしてこれらはある意味尾崎豊がたどり着いた短い人生の結論とも捉えられるような歌詞になっている。

結局有名になって結婚をして子供をさずかっても尾崎豊にとって心の安らぎは得られなかった。

最期の転調からの叫びはあきらめとも、絶望とも、それでもまたあらたにうまれかわるんだという決意の叫びに聞こえる。

2021年04月25日

『風の迷路』尾崎豊の曲の中で最も悲しい曲

僕がもし、「尾崎豊の全ての曲の中で一番悲しい曲は何か?」と質問を受けたら迷わず『風の迷路』と答える。それだけこの曲の詞には尾崎の悲しみと苦しみが溢れている。

アルバム『バース』収録のこの曲はイントロや、全体的なアレンジにより曲調が明るく見せかけているが、歌詞は救いようのない悲しみ、諦めにあふれている。(アルバムの流れ的に前が『音のない部屋』であり、湿った流れが2曲つづくのをプロデューサーきらったか)

尾崎豊は自身の心の内部と対峙し、自問し、それを表現している曲が多いが、とくに彼の活動後期にはその傾向が強くなるが、その中においてもこの『風の迷路』は彼の心の内なる誰も救いようもない悲しみを包み隠さす表現している。

「行き交う人並みの中思い描く全てに壊れそうな心を抱いてしまうのはなぜだろう」
出だしの詩から救いようがない。目に映るもの主観というのは他人からみればまた違う主観があるのだが、尾崎な写っている風景とはすべてが「壊れそうな心を抱いてしまう」ように写っていた。
さらに「そっと瞳閉じるように心の痛み隠して一握りの幸せすら奪われてしまう悲しみはなぜ」と続く。心の痛みは、愛する妻や子供というささやかな家庭の幸せすら握りつぶしてしまうものだと言っているのである。
彼は社会的にも成功し、結婚もし子供もうまれ、かけがえのない家庭を持った。それ以上の幸せがあるというのか。その幸せすら奪わてしまうような悲しみと葛藤していたのだろうか。

さらに「永遠という名のもとに忘れてしまいたいよこんな胸の痛みはこらえきれるものではない」と続いていく。この曲で尾崎豊にとって生きていくことがイコール悲しみと苦しみと心の痛みであると明確にしている。そしてそれらの

「永遠という名のもとに忘れてしまいたい」の「永遠」とは紛れもなく「死」のことであろう。「死」でしかこの心の痛みからは逃れられないのである。

晩年尾崎は自身の「心の痛み」を暗に歌った曲が多くなっていくが、この『風の迷路』包み隠さず、直接的に「心の痛み」について表現した曲といってもいいのかもしれない。

「愛という名のもとに人が誓うものは何」
この一節は一般的な人の根本にある愛というものを示しているようにも見えるが、同時に尾崎個人がいかに愛というものを生きる根本にしていたか、を示す彼のキャリアの作詞の中でも重要な一節であると私は思う。どんな素晴らしいものでもとりすぎは害になるものである。それは「愛」でも同じ。尾崎豊は「愛」をもとめすぎた。彼は愛に縛られ、固執し、彼自身が追い詰められていくとこになる。、尾崎を救うどころか尾崎にとっては「愛」は劇薬となってしまったのである。


そしていつか抜け出せるという希望ではなく、その「心の痛み」はずっと続いていく「諦め」を悟っているのを感じざるをえない。彼はその悲しみを、「誰のせいでもなく、ふっと迷い込んだ風の迷路」と表現している。その諦めからはとても深い悲しみを感じる。※(次のアルバム『放熱の証』収録の『自由への扉』では「永遠に続くような僅かな悲しみ戸暮らしはつづく」というに通じていくことになる。また「クッキー」のタイトルで書かれた初期の「核」には「悲しみに暮れるのは誰のせいでもないのに」という一節もある)




風の迷路は
尾崎にとって一番悲しい曲と僕は思います。
でだしから救いようがありません
トーナッツショップでは「人の流れや車の流れを自分のさみしさのように見ていた」と
もともと彼の感性というフィルターを通すと街の風景ですら「さみしくなる」「切なくなる」ものですが、
この曲では「行き交う人並みの中思い描くすべてに壊れそうな心を抱いてしまうのはなぜ」と
もっと苦しみがあふれた歌詞になっています。
そして「一握りの幸せすらうばわれてしまう悲しみはなぜ」と。このころの尾崎は結婚をして子供も授かっているのにです。

「永遠という名のもとに忘れてしまいたいよ」とは明らかに「死にたい」ということを言葉を言い換えたですね
尾崎が生きるということは「苦しみ、かなしみ」であったということをここまで包み隠さずダイレクトに詩に
示した曲は他にないですね

「風の迷路」のタイトルの意味は、
まさにそんな苦しみは「誰でもなく風の迷路のようにふっとまよいこんだだけ」と他人の性でもなく、自分の性でもなく、
このような気質に生まれた運命のようなものと、迷い込んだだけだからまたふっと出口が見える(心が軽くなる、彼がもとめていた
心の安らぎをえられる」というなぐさめというか、あらがっても自分を変えることはできないというあきらめなような意味が含まれているのだと思います。

そしてこのアルバムから次の放熱の証へとむかっていくのですが、急速に死のにおいが近づいてくるのです。
そしてその尾崎の人生の結末がどうなったかはご存知の通りだと思います

この曲は尾崎のキャリアの曲の中でも決して軽いものではない曲です。

尾崎豊の本当の人物像を考える

多くのアーティストは歌の世界と、実像ではきっちりと別れているいる場合が多い。
しかし尾崎豊は別だ。彼の生き様は彼の紡ぎあげた詩、歌い上げた曲そのものだった。
彼自身のリアリティを歌い上げたというべきか。
例えば『街の風景』であらわした16歳の見た世界観は彼の精神を通じて見えていた虚像と、現実と、むなしさが入り混じるもので、その風景の中で彼は生きていた。『I LOVE YOU』や『米軍キャンプ』で語った物語は大人びた、映画にも出てきそうなすれた恋愛だった。
『傷つけた人々へ』は伊達でだた、美しく歌い上げたものではない、本当に彼は多くの人を傷つけた。
『核』で表現した荒廃的な世界観、怯えた心「死ぬために生きる」ような生活を送っていた。
忘れな草のように切なく激しい愛をつむぎ、『僕が僕であるために』のように誠実と自部自身との闘いのなか、また『街路樹』の歌詞のように人々の心、生き様を歌いあげていった。

彼の詩の中での悲しみや、苦しみはリアルな尾崎豊自身の悲しみや苦しみであった。
彼の本質になぜ興味があるか。それは彼の生き様は作品そのものだからである。

では巷にあふれているベールに包まれている感じや、表面的な情報を元にかかれたいい加減なネット上の情報をうのみにしてしまう。まとめサイトなど頼まれたライターが、拾い集めた情報たけで、尾崎豊を誤って語ってしまう。その最たる論点は不良、不良じゃないという点。尾崎豊の人物像にあまり重要とは私は思わない。
なぜなら人は誰でも思春期には多かれ少なかれ反抗期がある。尾崎豊もまた、反抗期に、15の夜や卒業といういわば尾崎豊像に多く誤解を与えるような名作を生み出した。
当時は、校内暴力や、不良の全盛期であり、尾崎豊自身、それらの世代の波に揉まれている中のひとりであった。
尾崎豊の本質は詩人であり、哲学的な思考をもちあわせていた(これは近くにいた音楽プロデューサー須藤氏の発言から)。
私も同感で尾崎豊は多くの未発表の詩を書きためていました。また自分自身との葛藤の中で哲学的な思考を身に着けたていった。
彼はなぜそのような詩を書き溜めたのか。これは彼の本当の人物像に直結する。それは生きづらく、愛情に固執し、寂しがりやであり、人を信じることができず、孤独を感じるという性質からきていた。彼は自分自身でもかたっていたように「自分で自分を救うために詩を書いていた、そして歌っていた」という趣旨も語っています。
彼の歌は苦しみと悲しみの多くが含まれていますが何に苦しんでいたか、その答えは学校でも社会でもありません。
それは自分自身に苦しんでいたのです。
彼は二面性を持っていました。
人は誰でも表と裏をもっているとおもいますが、彼の二面性はいわゆる通常の範囲を超えていました。
いうならば躁と鬱。ファンの前やスタッフの前では明るく振舞い、時にはギャグをいい(マネージャー鬼頭さんの証言)一方その裏では、突然落ち込んだり、暴れたり、裏切ったと人を疑いだしたり・・・
そしてそのこと自身かれは自分を取り戻した時に、なぜあんなことをしたのかと、後悔する・・・
しかしまた同じことを繰り返してしまう。自分ですらもう一人の自分をコントロールできなくなっていきます。
また、精神の危うさは、現実と妄想の区別もつきづらい状態にまでなっていた可能性も示唆しています。

『卒業』「幻とリアルな気持ち」『存在』「現実と夢の区別ぐらいはついていたはずだった」

【尾崎豊が求めていたのは愛と優しさと心の安らぎ】
どんなにお金を得ても名声を得ても、結婚し子供が生まれ愛すべき人に囲まれても尾崎豊心の安らぎを得られなかった。尾崎豊は愛にを求めていただけでそれだけに純粋であった。


【尾崎豊は人を試す【
尾崎豊は他人が一番自分に期待しているものを人質にとり「人に踏み絵を踏ませる」(見城氏の言葉を借りてます。まさにその通りだと私も感じているから。)
・見城氏に『黄昏ゆく街で』の最終回を人質にとる
・鬼頭マネージャー「コンサートはやらない」と直前で翻し深夜一度大宮まで帰宅したマネージャーを呼び戻す
・奥様(聡美さん)に対して「コンサートを中止して賠償金まみれにする」と脅す。

これは結局尾崎はどのよううな状況でも自分へ愛を向けるか、見捨てないかという究極野選択を迫っているのです。


尾崎はもう一人の自分に「僕の知らない僕」に特に晩年くるしみました。
ロックンローラーとして成功し、結婚もし、子供もでき、社会的には大成功した彼はその苦しみから解き放たれることなくなくなってしまいました。

彼の人物像はなかなか正確にはつたわってきませんが、ヒントは彼の歌の中にたくさんありますし、須藤さんや、見城三、奥様の証言、マネージャーの証言など、ヒントはたくさんかくされています。オブラートにつつまれた尾崎豊像も大分ネットなどで、わかるようになりました。しかし、冒頭でも述べたように、尾崎豊の曲を詳しく知っている人でさえ、不良か不良じゃないかレベルの認識の場合が多い気がする。
安易な誤った尾崎豊像のネット情報に惑わされないように。
そのことは尾崎豊の作品の本質にアプローチする一つのヒントとなると、考える。

2021年03月03日

加藤浩次は尾崎豊を誤解している

昨日しくじり先生で加藤浩次がプレゼンターとし尾崎豊を紹介していた。
誤解が進むような内容たったとおもいます。
番組では尾崎は不良や、社会への反抗ソングをつくっていたが、実際にはそんなに不良でもなかった、社会にでたり、子供ができて尾崎は良い方へかわったというめでたし、めでたしみたいな内容でした。
尾崎が10代からかかえていた、愛情への異常な固執、情緒不安定、(だからこその天才的な詩の描写)が根底にあってさらに彼は精神分裂ともおもえるような「もう一人の自分」と自己で葛藤していました。(むしろその部分が尾崎豊野本質ともいえます)
その部分が社会にでてもいわば治らす、そのことに尾崎豊は苦しみつづけます。
子供がうまれてからも、悲しみと愛情固執に周りの人間もふりまわされることになります。
このようなことがまったく触れられていなかったのでは尾崎豊を理解するには到底できないとおもいます。

2021年02月28日

『ロザーナ』について

アルバム『誕生』収録曲。

「ロザーナ」という名前を聞くと、尾崎豊ファンならまっさきに浮かぶのはこの曲よりも前に作った「シェリー」だろう。どちらも架空の名前をつけた曲のタイトルである。同じようなのタイトルの付け方をしているが、し歌っている内容はや、その「でき」は全く異なる印象を受ける。「シェリー」は、生き様、強さ、高揚感を力く、歌っていた。
一方この「ロザーナ」は失恋を、刻銘に歌い、でそこに起因する心の痛み、さらに言えば心の底の混沌示唆させて、また聞きようによっては恨み節のような内容とも、捉えられる部分もあり、『シェリー』が作品として高い完成度だったのに対し、『ロザーナ』は尾崎の心の底弱さや、自分勝手さを垣間見せるだけの、バランスをかいた作品に感じでしまう。

「失恋」をテーマにはしているが、主題はむしろ心の底の葛藤である。

終わりそうな恋や、危うい失恋をテーマに歌った曲は尾崎は少ない。一説には「ロザーナ」とは斉藤由貴のこととも言われている。真相はわからないが、歌詞から「一つの恋があり、一つの恋が終わったこと」の気持ちを素直につづった曲てあることが読み取れる。このバースの時期に、結婚して、子供もいたことから、もしこの当時の時の経験をもとに書いていたのだとすれば婚姻外の恋愛になる。不倫旅行をスクープされている斉藤由貴説もあながち間違っていないとおもう。
失恋を主題としているとは言うものの、「やはり心」の痛みと対峙している断片が垣間見れる。それは失恋したから心が痛むのではなく、元々持っている心の痛みのことである。
冒頭の「心痛むわけのその一つ一つを何度も噛み締めて見たけれど」とは他ならぬ元々かかえている心の痛みのことである。
この時期の歌詞は冒頭に、心の痛みのについて触れてから展開する曲が他にもみられる。
例えば『風の迷路』「行き交う人波の中思い浮かべる全てに壊れそうな心を抱いてしまう」

そしてその「心の痛み」が元で恋がもつれたということも歌詞から読み取れる。
すなわち「お前は弱さを憎むようになり優しさの意味さえ忘れていった」の持つ意味は弱さを見せたときにその心を受け止めてくれなかったという場面があったのだろう。
しかしそれは言葉でいうほどたやすくなく、尋常ではないことが
例えば見城氏の有名なエピソードすべてのコンサートに顔を出してくれ、すべての愛を俺に向けてくれという、そういったたぐいのことだろうか。
「やさしさ」と「嘘」入り混じる。


出たしピアノとメロディはどこか力強く、希望をもつメロディに聞こえるが、一方歌詞から受けるイメージは心の痛みと、失恋への未練が入り混じり、とりようによっては恨み節のような歌詞、また深い愛情(これもとりようにやっては尾崎豊の愛情固執、執念)のようなものが見え隠れすることを感じるのは考えすぎだろうか。とはいえその描写は苛烈で強烈である「思い出さぬように手紙も燃やして 思い浮かべぬように夢さえ消して」。
曲調が歌詞の内容とあっていないのはアルバム『バース』収録曲では数曲あり、たとえば歌詞の内容が救いようのない『風の迷路』などが挙げられる。
逆に『放熱の証』のようなアルバム全体に暗さを感じないのはそのアレンジのおかげとも
言える。


「お前は弱さを憎むようになり優しさの意味さえ忘れていった」
「心のやさしさを抱えておびきよせて抱きしめておくれよ」
「触れ合うことができなかったやさしさの意味」
「嘘で取り繕うだけの暮らしに」

弱さとは尾崎豊の心の弱さ、不安定さのことだろう。それをうけとめ、安らげることが、「優しさ」という意味なのだろうか。尾崎豊の曲を聞くとき「優しさ」がキーワードとして考えなければいけない。

「思い出さぬように手紙ももやして、思い浮かべぬように夢さえ消して夢さえ消して」痛烈な歌詞であり、ここからも愛への執着がかいみえる。

この曲はシェリーの見せた強い生き様や、激流に向かっていくような生き様とはかわってて、尾崎豊かかえていた心の弱さと、強い愛への執着が垣間見える作品である。

2021年02月27日

『存在』の歌詞について

存在の歌詞について

原詩の「存在」はもっと自分との葛藤と悲しみにみちている
発表された詩もいいけど、少し自分が達観したようなエゴのような
メッセージにも受け取れる
そして奇麗にまとめられすぎている
尾崎自身が苦しんでいたのにもかかわらず

印象的なフレーズ
「僕に見えるものはすべてまとはずれなものが多かったけれど
現実と夢のくべつぐらいはついていたはずだった」

ただイメージで書いた歌詞ではリアルで、
『卒業』でも「幻とリアルな気持ちかんじていた」に通じる部分。

現実と精神世界の区別がつきにくい気質だったのか。
また尾崎は自分の高校時代に「精神がおかしくなって学校に行けなくなったことがあった」
というような趣旨のインタビューがあった。
このようなもともとの気質は
年齢とともにそれがもっと進行していくことになる。
そして尾崎を苦しめていくのである。

2021年02月12日

『ドーナッツショップ』青年館での歌詞

『ドーナッツショップ』はライブでも何度か取り上げられている曲だが、
青年館で歌ったバージョンの音源が残っている。
そのサビの部分は印象的なフレーズだ。
またCDに収録されているバージョンとも歌詞の内容が違う。
「らくがき」というキーワードは尾崎豊の曲にはたびたび出てくる。
なお有名な話だがもともと「歌詞の「ドーナッツショップ」ではなく「バーガショップ」だったが
途中で書き換えられた。


ドーナッツショップ (青年館でのライブの歌詞)

あの頃僕が見ていたガードレールのたそがれ
君のいうどうでもいいことに心うばわれてた
空の色を少しだけ口にしても 本当は
コンクリートの街並みがさみしんだよって
うつむいた

ほら誰かのクラクションが泣いている街で
路地裏におき忘れた いたずらがき
僕は捜し歩いている

ドーナッツショップに流れる音楽に足を止め
今日の君は泣きたい気分なのと目を伏せてた
人や車のながれを自分のさみしさのように見ていた
ねぇぼくらの感じることのは たったこれだけのことだけなの

ほら誰かのクラクションが泣いている街で
路地裏におき忘れた いたずらがき
君のために歌いたい

スタンドの油だけの壁と同じくらいたそがれた街
僕は何度もつぶやいた ほんとわちがうのに わかってよ

ほら誰かのクラクションが泣いている街で
路地裏におき忘れた いたずらがき
僕は捜し歩いている

尾崎豊の感じていた孤独について

小学生のころから孤独を感じた。youtubuに尾崎豊のインタビューが上がっていた。
文字で起こすと

「楽しい生活って一個もない 楽しい思い出が一つもない
 かなりつらい中学校生活」

「みんなと一緒にわいわい騒いでいても入りきれない部分がいつもあって
 結局一人でいつも離れちゃう」

「協調性がないっていうか」

「僕は小6の時から一人で悩んでしまう。周りの話題についていけなかった。

「すごく孤独だった。小6ながらなんども自殺を考えた」


そしてこのインタビューを受けているときに過去のものとして
語っているが、それは続いていたのである。

彼の孤独は他者からのものではなく能動的であったとも言える。たとえ仲間と一緒にいても家族がてきて子供が生まれても心は常に「生涯孤独」だったのである。須藤氏も「孤独の人」と例えた発言が残っている。
そして核のなかにこんな一節がある
(『核』はアルバムとして発表される前にライブ演奏されており、その時期によって詩を大きく書き換えられている)

「そしていつも俺は孤独になってしまう」
孤独になるのではなく、「なってしまう」のである。

また「核」の全身である、「クッキー」には「悲しみにくれるのは誰のせいでもないの」という詩があり、これもまた悲しみというのは自然に湧いてくる感情ということを示している。
これは『誕生』で「わけもなく溢れる涙」にも通じる。


そして彼の晩年にはそれは
それらをあきらめに変わっていた節がある。
『風の迷路』「誰のせいでもないのさ 風の行方の迷路」
『きっと忘れない「探していた答えに心が届かなくても」

もっと長く生きていたら諦めから受け入れにかわってもっとかれがもとめていた「心の安らぎ」にたどりつけていただろうか。

2021年02月04日

『ロザーナ』

アルバム『バース』収録曲。「ロザーナ」と聞くと同じようなタイトルの『シェリー』を思い出す人も多いかと思うが、(名前を伏せてその人について歌う)


ロザーナ」のほうは「ロザーナ」と実在の恋愛を架空の名前を付けてオブラートに包んだ告白に感じます。歌詞をたどっていくと、ものすごく生々しい尾崎豊の感情がそのオブラートにつつみこみきれず迫ってくるような気がします。
「さよならをいおうと愛はまるでシーソーゲームのように」「お前を愛して、そして憎んで」
「思い出さぬように手紙をもやし、思い出さぬように夢すら消して」
この辺りの歌詞は尾崎豊の生の感情で、「愛情依存症」ともみえる、執念深さというか、感受性の深さがかいまみえます見えます。しかしそれがいいのです。愛と憎しみは紙一重という感情を理解できます。
しかもその歌詞の書き方オブラートのつつみかたが絶妙で、本当に才能を感じます。

また、
「費やした時間と同じ時間を」などといった歌詞は真理をとらえたぐうの音も出ない素晴らしい歌詞だと思います
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