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2024年05月10日

ママ、セイグッバイ

母親への向けた別れの曲が、皮肉にも尾崎自ら最後の曲となってしまった。

1991年12月29日に尾崎の母親が亡くなって、わずか5ヶ月後1992年4月25日に尾崎が亡くなることになる。それが故に母親への別れの言葉のが尾崎自らにあてた人生への問いかけにも重なってしまう。

「ささやかな人生の願いは一つでもかなったの」と母親に向けた詩について、彼自身の人生のささやかな夢はかなったのだろうか。


他にもこの曲にも尾崎の独特のが表現が多数記されている。
「あなたを覚えてきた」

最後のハーモニーカが心をうつ…

ママ、セイグッバイ

母親への向けた別れの曲が、皮肉にも尾崎自ら最後の曲となってしまった。

1991年12月29日に尾崎の母親が亡くなって、わずか5ヶ月後1992年4月25日に尾崎が亡くなることになる。それが故に母親への別れの言葉のが尾崎自らにあてた人生への問いかけにも重なってしまう。

「ささやかな人生の願いは一つでもかなったの」と母親に向けた詩について、彼自身の人生のささやかな夢はかなったのだろうか。


他にもこの曲にも尾崎の独特のが表現が多数記されている。
「あなたを覚えてきた」

最後のハーモニーカが心をうつ…

2023年05月22日

『米軍キャンプ』物語風の作品の頂点

『壊れた扉から』収録。
物語風のストーリーに詩の文学性、知る人ぞ知る隠れた傑作である。ストーリー調の曲は『ダンスホール』『アイラブユー』など尾崎豊の得意とするところであるが、この手の曲の最高傑作で頂点にあるのがこの『米軍キャンプ』だとおもう。
音楽プロデューサーの須藤氏が『尾崎豊覚書』の中で、尾崎の表現は詩人でもなく、作家でもなく、シンガーソングライターこそ一番表現力が出たという趣旨のことが書かれていたが、まさに同感である。尾崎豊の作家としての作品や、詩単体
としてみても非凡ではあるが、それが詩や文書単体としてではなく、メロディがつけられ、尾崎豊のボーカルに載せられたときに最大の力を発揮する。それが如実にわかる一曲といえる。

この『米軍キャンプ』は、聞く側も一本映画をみるような覚悟が必要な曲である。

2022年09月28日

『MARRIAGE』「Yes, I do」の持つ意味

アルバム『バース』収録曲。

この『MARRIAGE』はタイトルの通り結婚をテーマにしているが、幸せの象徴であるこの曲についても、彼の心の痛みと密接に関係した詩が包み隠さず表現されている。

「背負いきれぬ悲しみの数互いの笑顔の作り方
積み木のように重ねて過ごした」

「傷んだ心に君が泣かぬように」

「壊れた愛の傷跡が二人を悲しく包む
愛はとてももろいものだと」


この曲でも注目すべきは「優しさ」という言葉である。「手探りの優しささえも見つからくなる時に愛が冷めてしまいそうだから」これは、『ロザーナ』「お前は弱さを憎むようになり優しさの意味さえも忘れていた」に似た表現である。


「優しさ」の意味を考えてきた尾崎が結婚こそ「終わりのない優しさのはじまり」と結論付けていることである。
このことは尾崎が「優しさ」とはどのよう位置づけていたかを読み解くヒントとなるのである。

I wanna marry you(結婚してほしい)
というプロポーズの言葉は
エンディング付近でコーラスに入れ代わり任せる形で尾崎は「Yes I do」という言葉で答える。
プロポーズ受けることを意味する言葉はこの曲でもっとも印象的なフレーズとなっている。2回繰り返されたあと、、次の節ではコーラスが半音上がり「Yes I do、Yes I do、Yes I do」3回繰り返される。メロディ的にも美しく、尾崎の声はやや低く力強く凛々しく深くこの曲でもっとも印象的な部分となっている。
。それは「過ぎ去った日よりも今は君のこと愛しているそれが俺の答えだから」と力強い詩ともリンクしている。短い言葉でこれほど印象深く意味を成すのは、たった一言が結婚という二人の運命を決定づける重要な意味を持つからだろう。
そしてこのような言葉をうまく曲に当てはめるのは彼の表現的なセンス、音楽的センス、詩のセンスがをここでも感じることがある。


この部分の詩
は実話エピソードからかかれたようだ。
そして奥様の証言から重要なことが2つわかる。

?@「YesIDo」は尾崎豊の言葉を受けた奥様が答えた言葉である

?A「YesIDo」は「 you promise me to never ever stop loving me in your life?(君の一生をかけて僕を愛すると約束してくれる?)」という問いかけを受けた言葉である。
考えすぎかもしれないが、曲に登場する「結婚してほしい」フレーズではなく、「一生かけて愛してくれるか」という問いかけをしているという点は「愛」を深く求め続けた尾崎たからこそ、見逃してはいけない部分なのかもしれない。

尾崎豊の奥様の繁美さん回顧によるとの以下のエピソードによる。
尾崎繁美さんの回顧記事より引用
『FRAU』2022.12.29の記事より引用
「Do you promise me to never ever stop loving me in your life?(君の一生をかけて僕を愛すると約束してくれる?)」と問いかけてきて、私は「Yes, I do(誓います)」と答えました。誕生日に買ってくれたダイヤの指輪を私の指からはずし、指輪にキスをしてから、改めてもう一度、左手の薬指にはめてくれました。 この誓いの言葉は、のちに発表するアルバム『誕生』の中にある『Marrige』という曲の「I wanna marry you」という歌詞の後の「Yes, I do」というリフレインとなっています。 あの時、教会の前で誓い合った、ふたりだけの大切なしるしです。」


2022年08月31日

『LIFE』

アルバム『街路樹』収録。
このアルバム『街路樹』の制作は尾崎豊の体調や精神面が不安定だったこともおあり、難航し、発売もお蔵入りになりかけた背景がある。
そしてそのことは『街路樹』収録曲に影を落としている。

LIFEを見れば自
「ときを削る部屋で心を溶かした
乾いていたけれどテレビトと話せた」

まるで意味の通じない詞ではあるが、言葉の続きで
心の状態がつたんってくるような詞だ。幻覚、幻影、不安定、精神的な世界観がそれまでの作品とは違った世界にあることが
如実にあらわれている。
しかし、それが作品としてみたとき、決して台無しなることなく、新たな作風として成り立っているのは皮肉なものである。

とはいえ、この曲でも尾崎豊のキーワードは語られている。

「安らぎの始まりにいきること」
「君を信じてみた」「嘘を消すために」


2022年08月10日

『黄昏ゆく街で』

この曲は1988年尾崎豊が奥様(聡美さん)との新婚旅行をモチーフにした曲である。(当初のタイトルは『Mellow Night』おだやかな夜、優し夜)
『黄昏ゆく街で』の詩はまるで、小説か何かを読んでいるような風景描写があるが、同名タイトル小説『黄昏ゆく街で』が出版されており、この曲の小説的な描写はそのこととは無関係ではないだろう。(有名な話だがこの小説は編集者だった見城と尾崎の決裂により最終回が尾崎により人質とになりそのまま尾崎が亡くなったために未完となっている)

この曲のイントロも他のアルバム『バース』に収録曲同様にやや大げさなイントロから始まる。曲のイメージをあたかもきれいな美しいラブソングとうけとってしまいがちだが、バースツアーライブの録音音源で、もっとしっとりとしたイントロを聞いてしまうと、このイントロはやや失敗だったと感じざるを得ない。すなわちこのイントロでは、大恋愛のラブソングのイメージを受けなくもなく、本来持っているこの曲の意味合いや、魅力とは外れてしまう感じがするからである。
この曲も単なるラブソングではないことを最初に述べておく。尾崎の心の痛み、彼の愛への心の渇望、同時に、愛への執着心が見え隠れしている。



「悲しみも痛みも一筋の光まばたきに救われればいい」とは、尾崎が心の痛みから救われたと感じるのは一瞬のような儚い時間の間だったと推察される。



サビは「ベットの中で夢見るいつしか二人の心優しくなれると胸の痛みをこらえながら」
と『I LOVE YOU』と同じような歌詞になっているが、この曲でほ「胸の痛み」をはっきりと明言している。つまり、『I LOVE YOU』も詞にはなっていないが、背後には胸の痛みが絡んでいることは容易に想像つくのである。

「見つめていて僕だけのこと」とは尾崎にとって軽い言葉ではない。彼の愛に対する独占欲を知っている人にとっては、とても重い言葉である。
(同アルバム収録の『音のない部屋』でも「今は僕だけを見つめておくれ」と歌っている。)
有名な見城氏のエピソードにすべてのツアーに同行すると約束していた見城氏のたった一度の裏切りを「すべての愛が自分(尾崎)に向くまでは小説を人質にとります」と小説『黄昏ゆく街に』は未完となった。このエピソードでは尾崎の執念深さが伺い知れる。このような嫉妬深い尾崎が「僕見つめていて」という詩は重いのである。
この部分について奥様(聡美さん)の証言によるとニューヨークのベンチに奥様が「LOVE」ト掘ると尾崎は「me」と掘った。「LOVE」は愛だか、「me」をつけると「僕を愛して」となる。普通のやり取りかもしれないが、愛を枯渇する尾崎らしいエピソードともみることができる。

この曲も「バースツアー」で演奏されており
秀逸なライブバージョンをユーチューブできくことができる。有明コロシアムで『誰かのクラクション』をピアノで素晴らしい演奏をきけたように、この『黄昏ゆく街で』もアルバム収録の大げさなイントロよりも、しっとりと電子ピアノのイントロ手聞かせてくれる。名演と言っていいだろう。必聴である。

2022年05月17日

『贖罪』(しょくざい)−名も無い日々とは何か−

最後のアルバム『放熱への証』収録。
辞書によると「贖罪」とは「自分の犯した罪を償うために善行を積んだり金品をだしたりすること」という意味。一体尾崎が犯した罪とはなんだったのであろうか。
尾崎豊の著書の『普通の愛』にも後書きに「僕の犯した罪を告白します」というような記述がある。彼は生きること自体が罪を重ねることという意味で書いていたのだろうか。
覚醒剤という実罪はあるが、そのことについての内容ではないだろう。哲学的、宗教的なな人の生きる上で犯す罪を含めていみのタイトルだとおもう。そもそも、初期の『傷つけた人々へ』などからも自分が生きていく上で過ちを意識した内容の曲は作られてきている。

そしてこの曲に至っては直接的なタイトルとしている。初期の曲や、メジャー曲に比べるとこの曲は目立たないが、もともと尾崎が生きていく上で感じていた「人間の罪」と、死の直前の尾崎がいかに追い詰められていたか精神の状態にあったか、この曲は尾崎豊の「真実」を解明する上で大きな意味合いを持つ曲なのである。
死の影がちらつくラストアルバムの数曲にあっても、特にこの曲は特に尾崎の心理状況、孤独と心の闇が垣間見え、それらを読み解く重要な作品となっている。




イントロはリズムこそ軽快だが、メロディは無機質で荒廃した街のようなイメージのなか、尾崎は静かに歌い始める。

「静かに佇む色あせた街並み少しづつ言葉をなくしてく僕がいる」
ここでの「少しづつ言葉をなくしていく僕がいる」とは無言になるとか、その場の雰囲気に飲まれるとか、その場のことではなく、作品への言葉、尾崎にとって生きていく糧である詩、奪われていく自分ということ象徴しているといったほうが正しいであろう。『音のない部屋』の「音がなくなる」ということと同じように、ただ表面的な意味だけでなく、もっと生きる根本を失わされるようなの意味合いにとれる。

「無表情な人並みにまぎれこみ凍えてる」
結局一人に戻ったとき、感じる孤独、スターであり、家族もいて、愛すべき人もいる、にも関わらわらず、「街にまぎれこみ凍えている」のである。
次につづく「凍えた日差しにおびえてるそれだけさ」とあるが、ここがある種、尾崎豊の一つの本質なのである。つまりこの詞は嘘でもカッコつけでもなく、リアルな尾崎自身を描写している。生まれながらの逃れようのない心の痛みを「凍えた」と表現としている。


「寂しい心を優しく包むから」
「僕は知っていたこれが僕の暮らしだと」
この詞の「僕は知っていた」と、どこか他人を俯瞰しているようなこの詩はどこからくるのだろうか。この部分もまた聞き逃してはいけない重要な部分だ。誰しもみな、自分自身のことはすべて知っている。自分は
晩年の尾崎はもうひとりの「僕が知らない僕」というもう一人の自分と戦っていた節が見受けられるが、この詩もまた、そのことをがわかっているとすっと入ってくる。


「凍えた心に怯えているそれだけさ」
とは尾崎の、本質をあらわしている。これこそ嘘偽りのない尾崎なのである。我々はときに尾崎を教祖であったり反抗の象徴であったり、愛の伝道師のようなみあやまったことをしてしまう。彼は彼自身の心の闇に凍え、怯えているだけな男である。誤解をおそれずいってしまえば普通の人以下の部分があり、それが尾崎という人なのだと思う。

「孤独」なのか「安らぎ」なのか
という歌詞は恐らく、「孤独」は真逆の意味だが、「安らぎ」のあとの「奪われている」や「失われている」が略されている。そうするとその先の歌詞の意味が通じやすくなる。
 つまり「孤独なのか安らぎを奪われている(失っている)のかこの暮らしになをつけるというのらなば」
そして「名も無い日々が理由もなく微笑む」という歌詞もそのことを前提にすれば「孤独や安らぎを奪われているこの名も無い日々が、理由もなく不気味に微笑み、孤独、安らぎのない暮らしを自分(尾崎)に強いている」というニュアンスだということが読み取れる。理由もなくとは「自分の感情から自然と湧き出る悲しみや孤独、安らぎのない心であり」それに理由などないのである。尾崎の心はそれらに支配をされていた。理由や原因などない、だからこそ苦しみは果てしないものだったことが想像できる。

また「名も無い日々が理由もなく微笑む」を読むヒントとしては
『核』に同じ表現がある。
「いつからかそれをさえぎる顔を持たない街の微笑み」と
この『核』の部分も読み解くことは非常に困難なのだが、尾崎のライブの別バージョンに
は「いつからかそれをさえぎる街の微笑み 殺意に満ちた街の孤独が俺をずっとみつめてた」と。
つまり、「名もない日々が理由もなく微笑む」とはこれと同じようないみがあったのではないだろうか。




「偽りを知るたび真実に戸惑う」
このフレーズは
尾崎の猜疑心を垣間見えさせる。

尾崎ノート『僕が知らない僕NOTE』には晩年もっと暗く苦しみを直接的に書いた詩が綴られている。この作品はその断片にすぎない。

この曲に「寂しい心を優しく包むから」と
ここでも「優しさ」という言葉を使っているが、このフレーズだけではこの曲の持つ悲しさは救われてはいない。

尾崎漠然とした将来への不安、そして、これからも変わらない自分自身との葛藤がつづくということをただ受け止めるしかない、そんな諦めの雰囲気がただよう曲である。


この曲では限りなくつづく日常の日々を「名もない日々」とよんでいる。日々の暮らしに名前をつけるという発想はいかにも尾崎豊らしい独創性のあるものである。しかしそれは
『自由への扉』でかかれていたよな「永遠に思えるような僅かな悲しみと暮らしはつづく」というような、悲しみの日々が尾崎豊の心には続いていたのではないだろうか。

youtubeの動画
https://www.youtube.com/watch?v=3t0NM6n5HiY

2022年02月07日

『音のない部屋』

アルバム『バース収録曲』。
最初に述べておくとこの曲に登場する「小さなテーブル」とは新婚の尾崎が奥様と生活を始めるために購入したテーブルのことで、奥様(聡美さん)生活が色濃く反映された曲である。

聡美さんのの証言によると
「豊は「テーブルは暮らしの象徴」と言っていました。ふたりで愛がある家庭を築いていく……だからこそ、ふたりが一眼見て気に入ったグレーとブラックのコンビで傷がつきにくいものを選びました。テーブルを囲み、出来立ての料理を一緒に食べる、温もりある日々のために。」と
語られている。(『FRAU』2022.12.29の記事から引用。)


タイトル『音のない部屋』とは表面的には「彼女と別れもともと彼女と奏でていた生活音が一切なくなった、自分一人でたてる音以外ない部屋」というイメージであろう。同時に彼にとって「音のない」=音楽のない、詩がないという意味でとらえれば、尾崎とって生きる糧である音、詩がないとは、まさに生きる糧を失ったなったという意味にも捉えられる。

出だしのイントロは尾崎の曲には珍しく、歌謡曲のようなわざとらしい印象をうけるが、それはアレンジの影響が大きい。アルバム『バース』の編曲は、曲の中身と、アレンジ(特にイントロ)があっていない雰囲気があり(例えば『風の迷路。』)、また少し大げさなストリングを入れすぎているこの曲のような例もある。一方で『クッキー』のイントロは素晴しく、全てが悪いというわけでもない。)
イントロこそそのようなのようなわざとらしい印象を受けるが、実際のいざ曲が始まるとそのような印象はなくなる。
「風に吹かれて二人がくるまるジャケット、路地裏で見えない星の数数え」と出だしから受ける印象は『黄昏ゆく街で』と同じような物語調を思い浮かべる。



特にサビは
ダイナミズムと泣き、静寂とためが入り交じる。例えばサビは「二人だけの」「口を塞ぐような」「どんなふうに」と3回たたみかけるような素晴らしいメロディ構成であり、心を打たれる。

詞について、これは同時期の『たそがれゆく街に』のような物語風な語りと、独特の詞のセンスが光る。例えば出だしの「風をかばい二人がくるまるジャケット路地裏に見えない星の数を数え触れ合うと壊れてしまいそうな二人の唇は震えて」まで、字余りがなく素晴らしい詞を当てはめている。これは簡単なようで簡単ではない。出だしから尾崎の才能を感じる。

単なる失恋に関することだけでなく、尾崎が向かい合っている精神的な苦しみが垣間見える、生生しさを感じざるを得ない。
「音のない部屋」とはかつて彼女と暮らした部屋に、いまは彼女がいなく、自分のたてる音しかしない状況を示した詞であろう。同時に彼自身の精神にも、音がないという意味にも捉えることができる。そこしれぬ暗闇が垣間見える絶妙なタイトル詞である。

この『音のない部屋』のタイトルからもわかる通り、彼女はもうこの部屋にはいない。そして、過去と、幻と、もうひとりの自分を投影している歌詞がいくつも描かれているところには注目すべきであろう。
「思い出ばかりに微笑む君」
「君の幻を抱きしめていたい」
「鏡の中僕の知らない君」
「手探りで振り返るといつもの君が僕に甘える」(振り返るとは過去の暗示か)

にもかからず、エンディングで「二人の心は一つ」とは、どういうことか。この一行でこの詩を救おうとしたのだろうか?しかし、実際にはこの詩は取ってつけたよう印象しか与えられていない。むしろ途中の「笑顔を絶やしたくないから」は救いである。



そして彼のが詩人だと改めて認識する深い詩はエンディングで登場する。

「部屋明かりが落とす光と影それは二人の暮らし」

この曲のタイトルの「部屋」を登場させ、その「明かり」の「光と影」をを二人に重ねあわせているのである。
これは「光と影」男と女という対局なものに象徴させるのと同時に、二人の生活の「光と影」、同時に彼自身の「光と影」をも投影しているのである。そしてそれが「二人の暮らし」としているのである。


そして忘れてはいけないのはこの曲(その重要性についてはアイラブユーの解説に書いている)でも「優しさ」という言葉がキーワードにっている。「通り過ぎて行く日々に愛が「優しさ」だけを残せるなら」と。

この曲は単なる失恋ソングと受け取ってはいけない、尾崎の文学的な才能や、彼の作詞(詩)としての抜きん出た能力、商業的な意味ではなく、彼が生きるために紡いだ詩を感じることができる名作である。

youtube動画
『音のない部屋』尾崎豊真実の解説
https://www.youtube.com/watch?v=7bHVmxcHU1A

2021年09月10日

『虹』

1番を聞くと、何の変哲もない美しいラブソングにきこえるが
2番で尾崎のあるいみ恐ろしさがわかる
「やさしさだけなら素直になれるのに 嘘の痛みが僕の心を冷たくする」
この時期猜疑心の塊になっていた心をまさに表現している
尾崎自身自分のおかしさ(心の病)にきづいていたふしがある

1番の「雨が上がるのもずぶぬれで待つおいらさ」とは
雨が上がることと、心が晴れること(そのような心の苦しみから)と二つの意味をかけている思います
人生で心の雨が晴れて虹がかかることを願いながらそれがかなわず死んでいった尾崎を思うと心が痛みます

2021年08月03日

『優しい陽射し』尾崎豊の心の憧れとは何か

尾崎豊ラストアルバムの『放熱の証』収録。
はじめに述べておくと、この曲は、尾崎の叶わぬ夢=憧れ=心安らぐ普通の暮らしと、心の痛み=ただ生きているだけで心が苦しく、自然と涙がでる暮らし、との葛藤が入り混じった内容となっている。そしてその前後に揺れ動く感情が一つにまとまり美しく儚さを表現された隠れた名曲である。

この曲は単なるバラード、ラブソングで語るべきではない。尾崎豊の本質と、尾崎豊の根本にある心の痛みと向き合う姿が投影されているからだ。けして見知らぬ誰かや、他人の暮らしを代弁したような曲でもなければ、後述するように尾崎豊の息子、尾崎裕哉氏が述べているような何かを悟っただけの曲ではないと思う。
(尾崎なりの真実の一つ「愛は育むもの」というのことを悟ったというのはこの曲の一つの要素にすぎないと個人的には思う。)


「過ぎゆく日々の中で寂しくなる君は
うつろう心のわけに一人唇噛み締めていた」


何気なく聞こえてしまう出だしのこの詞は決して見逃してはいけない。美しい詞であると同時に、尾崎豊の心情を理解する上で重要なことが語られているからである。
どこかの誰かに問いかけているようであるが、「君」に問いかけているようだが、これは紛れもなく尾崎豊が自分自身な向かってなげかけた言葉であろう。
この曲が単なるラブソングと受け止めてしまうのであれば、さらりと流してしまいそうだが、決してさらりと聞き逃してはいけない重要部分である。出だしの詩というのは、全体を掴みの部分であるが、そこで
「過ぎゆく日々の中」で「寂しくなる」自然と湧き出る寂しいという感情、そしてその理由、訳
がはなくただ生きることでその寂しさ悲しみを感じる尾崎の心に尾崎自身がどうしょうもなく「唇を噛んでいる」という描写だとおもう。人はどのようなときに「唇を噛むか」想像してみてほしい。尾崎は様々な曲で苦しみ葛藤を時には「叫び」で表してきた。


「優しい陽射し」では、静かな曲調にあった表現しているが、この裏に隠されている心情を読み取ると、救いようもなく悲しい描写である。
(『note』には「朝起きて心の痛みに襲われる」という記述がある。)

理由もなく、寂しくなる、悲しくなる、涙が溢れる…これはもう他人からしたら説明のつかない、尾崎が生きる事自体が、このような感情に多くを支配されていたということが『優しい陽射し』のこの歌詞かも垣間見られる。

2節目もこう続く。
「誰かと恋に落ちて名前を覚えるのに
ふっと笑顔の影に滲む涙がこぼれ落ちるから」
初めの詩と意味合いは同じである

『風の迷路』「行き交う人並みの中思い描く全てに壊れそうな心をいだいてしまうのはなぜだろう」息を吐くように心の痛みを感じ、泣いているのである。


『風の迷路』
「行き交う人混みの中思い描く全てに壊れそうな心を抱いてしまうのはなぜだろう」
『誕生』「わけもなくこぼれ落ちる涙」

その他多数…
これらと通じるものがある。


「何も悲しまないと暮らしを彩れば」

「大切にしてるけど壊れてしまうけど」

尾崎豊が大切にしてたもの、人とひて大事なものだか
それが壊れて(壊してはしまう)自分自身が自分に裏切られる

「憧れがなぜか心を痛めるから」とはどういう意味か。
この詩も言葉こそは違うが、別の曲で同じような意味でつかわれていると私は感じる。
『きっと忘れない』で「探していた答えに心が届かなくても」をという詩を思い出してほしい。
その詩の前は「いつも夢を忘れないで季節の中でうつろう君」だ。
この場合の「夢」と「憧れ」とは非常に似ていると思う。
なども繰り返すが、尾崎にとっての「夢」「憧れ」はそれはつまり「心の安らぎ」に他ならない。


悲しみと戦っていた 

それでもたどり着いた境地は
きっといつか答えは育むものだときづく

須藤氏の著書お尾崎豊

ユーチューブでは尾崎豊の息子尾崎裕哉さんが
この曲のインタビューについてとりあげている。
尾崎豊はこの曲についてインタビューで尾崎はこの曲についてこのように語っている。
「この歌のなかに答えははぐくむことという言葉があるんだけど、占ってできた答えはいつも必ずしもすべてということではなくて、
本当の答えってのは何年後かにしかわからないことが多くて。
しかも自分の受け止め方で変わってくるという。
だから自分が裏切られたとしても、なぜその人が裏切られたかわかってくると
それだったらもしかしたら自分も同じことをしたれないなとかね
行く末にはそういことがまっていると認識したときに、育むことですべてのことが理解でき
育むことも許すことも与えることも怒ることもことも喜ぶこともできるってことがこの歌の言いたいことなんだよね」

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