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菅野弘一
子供ら(息子21、娘19)も、大きくなり、時間もできたので、”50の手習い” と思い無謀にも、パソコンに挑戦、ブログまで始めちゃいました。なるだけ、 老け込むのは、嫌なので、アンチエイジングなどと、真剣に考え始めています。

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posted by fanblog

2024年02月04日

縄文という世界最古の文明

なぜ1万年も平和が続いた?
今注目される「縄文時代」のナゾ
長く平和が続いたといわれる縄文時代。でも実は意外と尖とがった人たちだった?
貝ばかり食べていたわけじゃない? ナゾにせまろう!
なぜ1万年も平和が続いた? 今注目される「縄文時代」のナゾ
画像提供:一戸町教育委員会

探検たんけんメンバー
隊員はると
ふしぎ探検隊たんけんたいが行くよ!
隊員はると
武藤 康弘先生
この人に聞いたよ
縄文時代にくわしい
武藤むとう 康弘やすひろ先生
もくじ
縄文時代の文化や技術ぎじゅつは世界最先端さいせんたんだった?!
意外と大量生産?! 知られざる縄文時代のリアル
縄文時代を体験できる場所へ行ってみよう!
縄文時代の文化や技術ぎじゅつは世界最先端さいせんたんだった?!
縄文時代って学校も会社もなかったんだよね。みんな毎日何していたの?
狩かりに行ったり、海や川に魚を獲とりに行ったり、木の実をひろいに行ったり、食料の加工をしたり、やじりや編あみカゴを作ったり……いろんなことをしていたよ。
自給自足で、家も道具もぜんぶ手作り? そんな暮くらしに憧あこがれるな〜。狩かりはちょっと怖こわそうだけど。
狩かりといっても、ヤリや弓矢で仕留しとめるような危険きけんなことを毎回していたわけじゃないよ。ワナや落とし穴あなをしかけて、それを見に行くだけの日もあっただろう。
それならぼくにもできそう。
それぞれが、できることをやる。病気やケガした人を看病かんびょうしていた形跡けいせきもあるし、みんなで支ささえ合って暮くらしていたんじゃないかな。
えらい人はいなかったの?
長老はいたけれど、身分の差はゆるいものだったと思われるよ。
だれかに命令されることもなく、自由にできたのかな。いい時代だな〜。
自然のめぐみが豊富ほうふで、必要な分だけをとれば良かったから、現代げんだいのような貧富ひんぷの差もなく、大きな争いはなかったようだ。
自給自足の縄文時代の暮くらし

いいなぁ。心が安定しそう。
稲作いなさくが広まった次の弥生やよい時代から、米をたくわえる人が現あらわれた。地域ちいきの人を働かせて米をつくるようになり、支配しはいする人と支配しはいされる人に分かれ、貧富ひんぷの差も開いた。土地争いや田んぼに引く水の奪うばい合いもあっただろう。
ケンカも増ふえた?
この時代になると、こん棒ぼうでなぐられた人や、額ひたいにやじりが刺ささって殺ころされた人の骨ほねが見つかっているよ。
急に殺伐さつばつとしてきたね……。
縄文時代は比較ひかく的おだやかだったから、1万年以上も続いたのかもしれないね。こんなに長く続いた時代は世界史せかいしの中でもめずらしいんだ。
縄文時代はすごく長い

縄目の模様もようがついた「縄文土器」が作られていた時代を「縄文時代」という。つくられた土器の表現形式によって6つの時代に分かれている。(年代は諸説あり)

本当に長いね! どうしてこんなに長く続いたのかな?
日本には海の幸や山の幸がたくさんあり、当時は人口が少なかったからね。大陸のように外敵がいてきに攻せめられる心配がなかったこともあるだろう。
心にも余裕よゆうがあったのかな。
「不要不急ふようふきゅう」といわれる文化が発達するには、たしかに心の余裕よゆうが必要だよね。縄文時代の文化や技術ぎじゅつは当時、世界の最先端さいせんたんだったといえる。特に後期・晩期ばんきに発達し、人々はすごくオシャレだったんだ。
オシャレが大好きだった縄文人

アクセサリーをジャラジャラつけてる!
ヒスイやサメの歯やイノシシの牙きばでできたペンダントとか、赤い漆塗うるしぬりの竪櫛たてぐしやシカ角で作ったカンザシとか、オシャレだよね。耳に穴あなをあけて土製どせいの大きなピアスをしていたりもした。男性も女性もこうしたアクセサリーを身につけていたようだ。
髪型かみがたも凝こってるね。どうなってるかわからない!
お団子だんごにしたり、編あみこんだり、ドレッドヘアのような髪型かみがたの人もいたよ。
手先が器用だったのかな? 縄文土器もすごくクリエイティブだよね。これなんか、センスが尖とがってるよ!
縄文時代中期につくられた「火焔かえん土器」

画像提供:新潟県立歴史博物館

こういった縄文土器は、復元ふくげんがとても難むずかしいんだ。ふつうに作ると途中とちゅうで割われてしまったり、飾かざりが取れてしまったりする。それぞれの工程こうていをどのようなタイミングでおこなっていたのかナゾなんだ。
そんな高度なものを縄文時代の人はみんな作っていたの?
おそらく縄文時代の後半には、アクセサリーや土器などの工芸品を作る専門せんもんの人がいたと思われるよ。粘土ねんどの特性とくせいなどを知り尽つくしていたんだろう。
優秀ゆうしゅうなクリエイターがたくさんいた?!

土器クリエイターか。その人は狩かりに行かなくてもいいの?
おそらく、「今日ヒマ? 狩かりを手伝ってよ」とは言われなかったんじゃないかな。
いいなぁ。ぼく、狩かりとか怖こわいから、土器クリエイターになりたい。
縄文時代はクリエイターにとってもユートピアだよね。お金のことを気にせず、好きなだけ制作せいさくに没頭ぼっとうできたんだから。
進んでいる人たちだったんだね。縄文時代の人といえば、竪穴住居たてあなじゅうきょに住んでいて、貝を食べていて、土器や土偶どぐうを作っていたイメージしか持っていなかったよ。
それが一般いっぱん的なイメージだよね。でも、そのイメージ通りでもないんだよ。
そうなの?
意外と大量生産?! 知られざる縄文時代のリアル
知られざる縄文時代(1)
ずっと竪穴住居たてあなじゅうきょに住んでいたわけじゃない?
縄文時代の人はどんな場所に住んでいたの?
川の近くの高台のへりによく住んでいたよ。魚をとるのに便利で、水害を避けることもできたから。
見晴らしも良さそう。そこに竪穴住居たてあなじゅうきょを建てていたの?
うん。竪穴住居たてあなじゅうきょは地面に穴あなを掘ほって建てられた半地下の家。ぼくはこの写真の右に写っているような、木の骨ほね組みを樹皮じゅひなどでおおって土をかぶせた「土葺つちぶき」の竪穴住居たてあなじゅうきょが多かったと考えているよ。
土葺つちぶきの竪穴住居たてあなじゅうきょ

画像提供:富山市教育委員会

土葺つちぶきの家ってあたたかそう。
あたたかいよ。竪穴住居たてあなじゅうきょの難点なんてんは湿気しっけがこもりやすいこと。でも家の中にある「炉ろ」で火を焚たけば湿気しっけをとばせるし、冬でも半袖はんそで1枚まいで過すごせるほどあたたかくなるんだ。
へー! 火の力はすごいね。でも湿気しっけが多い家だと夏は過すごしにくいのかな?
うん。20世紀せいきの初めまで同じように土葺つちぶきの竪穴住居たてあなじゅうきょに住んでいたカナダの先住民は、冬以外は川の近くの平地に、テントのような簡単かんたんな建物を建てて過すごしていたんだ。縄文時代の人たちもそうしていたかもしれないよ。
あたたかい季節はキャンプ生活だったかもしれないんだね。楽しそう! おうちには家族で住んでいたの?
同居どうきょ人は家族とは限かぎらない。家族以外の人が同居どうきょしたり、男の人だけで住んだり、若者だけで住んだりすることがあったようだ。
へー! シェアハウスみたい! 何人くらいで住んでいたの?
10畳じょうくらいの竪穴住居たてあなじゅうきょに5〜6人くらいで住んでいたようだよ。「ムラ」とよばれる縄文時代の集落には、こうした竪穴住居たてあなじゅうきょが3〜5棟とうほど建っていたんだ。
少人数で暮くらしていたんだね。
うん。ちなみに縄文時代の後期・晩期ばんきの人たちは、ぼくたちが今住んでいるような川ぞいの平地におりてきて、穴あなを掘ほらずにふつうに家を建てることもあったんだ。
竪穴住居たてあなじゅうきょがずっとトレンドだったわけじゃないんだね。
知られざる縄文時代(2)
貝ばかり食べていたわけじゃない?
縄文時代の人って貝が大好きだったんでしょ?
貝塚かいづかのイメージからそう思うかもしれないけど、貝ってカロリーが低くてお腹なかいっぱいにならないんだよ。
たしかに…! 主食にはならないね。ほかに何を食べていたの?
ドングリ・トチノミ・クリ・クルミなどの木の実からデンプンをとったり、イノシシ・シカの肉、魚は海ならマグロ・タイ・スズキ・イワシ、川ならフナ・コイなど、意外とカロリーの高いものを食べていたんだ。
おいしそうなものを食べてたんだね!
驚おどろくことに、木の実は粉末ふんまつにしたものを練って、現在げんざいのクッキーやパンに似にた加工食品まで作っていたんだ。
縄文人はグルメだった!

オーガニックでグルテンフリーだなんて、意識いしきが高いね!
栃の実を練りこんだ栃もちは山のほうでは今も食べられていて、おいしいよ。はるとくんも一口どう?
わ! おいしい! 木の実の味がクセになるね! 縄文時代の人っておいしいものを食べていたんだね。
貝はもちろん、その季節で一番美味しくてたくさんとれる「旬しゅん」のものを知っていたんだろう。ちなみに貝塚かいづかって貝殻かいがらを捨すてる場所だと思われているけど、アクセサリーや人の骨ほねなどが見つかることもあるんだよ。
えぇ! そんな大事なものも捨すてていたの?
貝塚かいづかは、現代げんだいの感覚では「ゴミ箱」だと思われるけど、縄文時代の人にとって「捨すてる」ことは「自然に還かえす」という感覚だったようだ。
へー! エコな暮くらしのお手本だね。
と思いきや、意外と大量生産でもあった。ものすごい数の土器が作られているんだ。壊こわれたら捨すてちゃうことも多かったみたい。
そうなんだ? それだけ土器作りにかける思いが強かったということなのかな……。
知られざる縄文時代(3)
土偶どぐうは壊こわすために作られていた?!
縄文時代といえば土偶どぐうも有名だよね。ふくよかな女の人の土偶どぐうを見たことがあるよ。
妊娠にんしん中の女性を表したものが多いね。安産祈願きがんや子どもの健康を願って作られたのだろう。でも土偶どぐうにはナゾが多い。土偶どぐうはたいていバラバラに壊こわれた状態じょうたいで見つかるんだ。
バラバラに壊こわれた土偶どぐうのナゾ

釈迦堂遺跡博物館蔵 撮影:塚原明生

長いあいだ埋うもれていたから、壊こわれたんじゃないの?
いや、当時すでに壊こわれていたようだ。というか、特に縄文時代中期に作られたほとんどの土偶どぐうは、わざわざ壊こわすために作っていたと考えられるんだ。
壊こわすため? おだやかな縄文時代の人にそんなサイコパスな一面が……?!
自分の身代わりにしていたという説もある。たとえば腕うでをケガしたとき、腕うでを壊こわした土偶どぐうの破片はへんを集落のまわりにまくことで治癒ちゆを願ったり。いろいろな願いをこめて壊こわしていたのかもしれない。
そっか。お医者さんがいなかった時代だから、病気やケガの不安は大きかっただろうね。
代わりにシャーマンというまじない師しのような人はいたよ。
ぼくの虫歯もシャーマンの呪術じゅじゅつで治してもらえるかな。
ふふふ。ちなみに縄文時代は、成人や結婚けっこんの儀式ぎしきとして犬歯などの歯を抜ぬいていたんだ。シャーマンが木の杭を歯にカーンと打ち付けて。もちろん麻酔ますいナシでね。
ええ! 痛いたすぎるよ! 縄文時代、やっぱりツライかも……。
平和な時代とはいえ、現代げんだいのように予防注射よぼうちゅうしゃもないから、子どもたちの死亡率しぼうりつは高かったし、火山噴火ふんか・地震じしん・津波つなみなどの自然災害さいがいのリスクも大きかった。
今ぼくたちが安全に生きられるのは、さまざまな技術ぎじゅつのおかげだもんね。でも縄文時代の暮くらしにも憧あこがれる。いいとこ取り、できないかなぁ。
縄文時代の人の考え方を取り入れたらどうかな?
さっきの「自然に還かえす」っていう考え方とか?
うん。自然に対して謙虚けんきょな姿勢しせいでいること。食べ物などの資源しげんは自然からいただくもの。必要な分だけをとる。「足るを知る」ということだね。
食糧危機しょくりょうききも環境かんきょう問題も、縄文時代にはなかっただろうね。
もちろん人口が100万人くらいだったとも推定すいていされる縄文時代と、1億2千万人もいる日本の現代げんだいをくらべることはできないけど、縄文マインドを取り入れて困難こんなんな時代も乗り切っていきたいね。
みんなで1万年も平和が続く時代を目指したいね。縄文遺跡いせきも見に行ってみたいな。
都道府県や市町村が運営うんえいする「埋蔵文化財まいぞうぶんかざいセンター」のWebサイトをチェックしてみるといいよ。近くの遺跡いせきの展示てんじ品があったり、そばに復元住居ふくげんじゅうきょが建てられていることも多いよ。
日本全国にあるんだね。
縄文遺跡いせきは特に東日本にたくさん見つかっているけれど、まだまだ発掘はっくつされていない場所もたくさんあるはず。
ひょっとして、ぼくが住んでいる町の下にも遺跡いせきがあるかな?
十分ありうるね。ふだんから山や谷や川などの地形を意識いしきしながら町を歩けば、「ここは縄文人が好きそうな場所だな」ってわかってくるよ。
縄文人になりきって歩くと楽しそう。川の近くの高台は特にチェックだね。近くの遺跡いせきにも行ってみるね!
縄文時代を体験できる場所へ行ってみよう!

縄文時代にタイムスリップしちゃうような遺跡いせきや博物館へ行ってみよう。

※各施設の情報は、2020年10月のものです。最新の情報とは異なる場合がございますのでご了承ください。
お出かけの際は事前に公式サイトなどで最新情報をご確認ください。

大船遺跡(北海道函館市)画像提供:函館市教育委員会
大船遺跡おおふねいせき(北海道函館市)

縄文時代前期後半から中期後半(約5,400〜4,100年前)の大規模だいきぼな集落跡あと。大船川沿いの台地にあり、遺跡いせきからはウニ・カキ・クジラ・オットセイなどの海産物も出土。深さ2mを超こえる大型おおがたの住居跡じゅうきょあとが復元ふくげんされている。

関連サイト:
「はこぶら」公式サイト
三内丸山遺跡(青森県青森市)画像提供:青森県
三内丸山遺跡さんないまるやまいせき(青森県青森市)

縄文時代前期から中期(約5,900〜4,200年前)の大規模だいきぼな集落跡あと。大型竪穴住居おおがたたてあなじゅうきょのほかに、大型おおがたの掘立柱建物ほったてばしらたてものも復元ふくげんされている。自然素材そざいを使ったアクセサリー作りやミニ土偶どぐう作りなどの縄文体験イベントも開催かいさいされている。

関連サイト:
「三内丸山遺跡」公式サイト
姨御所野縄文公園(岩手県一戸町)画像提供:一戸町教育委員会
御所野ごしょの縄文公園(岩手県一戸町)

公園内には土葺つちぶきの竪穴住居たてあなじゅうきょを復元ふくげんしているほか、併設へいせつの博物館では土器や勾玉まがたまなど縄文グッズ作りの体験メニューも豊富ほうふ。三内丸山遺跡さんないまるやまいせきと同じく「北海道・北東北の縄文遺跡いせき群」の構成資産こうせいしさんの一つとして、世界遺産いさんの登録を目指している。

関連サイト:
「御所野縄文公園」公式サイト
東京都立埋蔵文化財調査センター 遺跡庭園「縄文の村」(東京都多摩市)画像提供:東京都埋蔵文化財センター
東京都立埋蔵文化財調査まいぞうぶんかざいちょうさセンター 遺跡いせき庭園「縄文の村」(東京都多摩市)

多摩たまニュータウンで見つかった縄文時代の集落跡あとの景観を復元ふくげん。当時の樹木じゅもくや山菜を植えた縄文時代の森が再現さいげんされ、3棟とうの竪穴住居たてあなじゅうきょも復元ふくげんされている。縄文土器やアクセサリー作りなどのワークショップが開かれることも。

関連サイト:
「東京都埋蔵文化財センター」公式サイト
尖石遺跡・与助尾根遺跡(長野県茅野市)画像提供:茅野市尖石縄文考古館
尖石遺跡とがりいしいせき・与助尾根遺跡よすけおねいせき(長野県茅野市)

縄文時代の黒曜石産地だった八ヶ岳やつがたけ。その西麓せいろくにある縄文時代中期の集落跡あと。与助尾根遺跡よすけおねいせきには6棟とうの復元住居ふくげんじゅうきょがある。隣接りんせつする茅野市尖石考古館ちのしとがりいしこうこかんでは、土器や土偶どぐう、やじり、アクセサリーなどの工芸品も展示てんじされている。

関連サイト:
「茅野市」公式サイト
蜆塚遺跡(静岡県浜松市)画像提供:浜松市博物館
蜆塚遺跡しじみづかいせき(静岡県浜松市)

縄文時代後期から晩期ばんき(約3,000〜4,000年前)の集落遺跡いせき。5棟とうの平地式住居へいちしきじゅうきょが復元ふくげんされている。シジミが多く堆積たいせきした貝塚かいづかも複数ふくすう見つかっており、動物の骨ほねなども混ざった貝塚かいづかの断面だんめんを観察することができる。

関連サイト:
「浜松市」公式サイト
新潟県立歴史博物館(新潟県長岡市)画像提供:新潟県立歴史博物館
新潟県立歴史博物館(新潟県長岡市)

縄文展示てんじが充実じゅうじつした博物館。縄文人の春夏秋冬の暮くらしを実物大で復元ふくげんしており、タイムスリップ気分が楽しめる。壁かべ一面に展示てんじされた80点近い火焔型かえんがた土器や、遺跡いせきからそのまま持ってきた高さ4mの貝塚かいづかの展示てんじは必見。

関連サイト:
「新潟県立歴史博物館」公式サイト
富山市北代縄文広場(富山県富山市)画像提供:富山市教育委員会
富山市北代きただい縄文広場(富山県富山市)

縄文時代中期(約4,000年前)に最も栄えた集落跡あと。5棟とうの土葺つちぶきの竪穴住居たてあなじゅうきょと1棟とうの高床建物たかゆかたてものを復原ふくげん。自然ゆたかな呉羽丘陵くれはきゅうりょうのすそ野にあり、立山連峰れんぽうのながめも楽しめる。

関連サイト:
「北代縄文広場」公式サイト
上野原縄文の森(鹿児島県霧島市)画像提供:上野原縄文の森
上野原うえのはら縄文の森(鹿児島県霧島市)

広大な敷地しきちの中に、竪穴住居たてあなじゅうきょなどが並ならぶ縄文時代早期(約9,500年前)の集落を復元ふくげん。展望てんぼうの丘おかからは桜島さくらじまや錦江湾きんこうわん、霧島きりしまの山々を望める。火起こしや土器作り、アクセサリー作りなどの縄文体験が可能かのう。様々なイベントも開催かいさいされている。

関連サイト:
「上野原縄文の森」公式サイト
武藤先生からのメッセージ
身の回りの自然環境かんきょうを敏感びんかんに感じ取ると、見える世界が変わるよ。都会でも昔のまま山や谷の地形が残っている場所は多いし、昔の川の跡あとが道路になっていることもある。縄文人の目線で町を歩けば、いろんな発見があるはずだよ。
まとめ

縄文時代は身分や貧富ひんぷの差がほとんどない平和な時代だった。
縄文人は「足るを知る」の精神せいしんで自然に謙虚けんきょに向き合っていた。
芸術性げいじゅつせいが高い土器やアクセサリーなども多く生み出された。
Profile武藤 康弘
武藤むとう 康弘やすひろ

奈良女子大学文学部教授

國學院大學大学院修士課程修了。博士(文学)[東京大学]。専門は考古学。秋田県に生まれ、少年時代から秋田の山野で土器や石器を拾い、縄文時代に親しんでいた。著書に『縄文時代の食と住まい』(同成社)、『映像で見る奈良まつり歳時記』(ナカニシヤ出版)など。
※このコンテンツは、2020年10月の情報をもとに作成しております。
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