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行く秋を大めし食ふ男かな(明治27) 正岡子規の食べものの好みについて書いた文章があります。 書かれた時期ははっきりしませんが、病牀六尺時代の少し前のことを振り返っています。 新しいものうまく、煮たて焼たてうまし 醤油よりは塩、山葵(わさび)より薑(はじかみ) さしみはまくぐろ、したしものはほうれん草、つまはていれぎ(オオタネツケバナ) 赤飯(強飯わろし)栗飯筍飯茶飯雑炊鮓皆よし 菓物は鬱を散らす 飯堅ければ百味みな味を減ず 酔ぞめの茶漬、廓帰りの湯豆腐 日本料理の御馳走に飯なきは日本の悪弊、眼中に下戸をおかぬもの お酌は芸者に如かず、お給仕はお三どんにしかず 茶は二杯、酒は三杯、味噌汁は一杯 いり豆は多々益々弁す、話の伽によろし 意訳してみますと、以下のようなものでしょうか。まるで、「マイ・フェア・レディ」の「マイ・フェイバリット・シングス」か佐良直美の「私の好きなもの」のようです。 煮立て焼きたて、何でもつくりたてが美味しい。醤油よりは塩、ワサビよりもショウガ、マグロの刺身、ほうれん草のおひたし、ていれぎ(清流に自生するクレソンのような草)のツマ、柔らかめの赤飯、栗飯、筍飯、茶飯、雑炊、寿司、みんな大好き。果物は憂鬱な気分を発散させてくれる。堅いご飯は、壁手のものを不味く感じさせる。酔ってからの茶漬け、遊び帰りの湯豆腐もいい。 日本料理の悪いところは、ご馳走になると飯が少ない。お酒を飲まない者のことを考えない。お酌は芸者、お給仕はおさんどんにしてもらう方がいい。お茶は二杯、酒は(お猪口に)三杯、味噌汁は一杯。煎った豆はやめられない止まらない、退屈な話を和らげてくれる。 こういうリズムのある文を子規は得意にしていて、『墨汁一滴』の明治34年3月15日掲載の文章もいいので、ここに紹介します。 散歩の楽(たのしみ)、旅行の楽、能楽演劇を見る楽、寄席に行く楽、見せ物興行物を見る楽、展覧会を見る楽、花見月見雪見等に行く楽、細君を携へて湯治に行く楽、紅燈酒美人の膝を枕にする楽、目黒の茶屋に俳句会を催して栗飯の腹を鼓する楽、道灌山に武蔵野の広きを眺めて崖端の茶店に柿をかじる楽。歩行の自由、坐臥の自由、寐返りの自由、足を伸す自由、人を訪ふ自由、集会に臨む自由、厠に行く自由、書籍を捜索する自由、癇癪の起りし時腹いせに外へ出て行く自由、ヤレ火事ヤレ地震という時に早速飛び出す自由。 ――総ての楽、総ての自由はことごとく余の身より奪い去られて僅かに残る一つの楽と一つの自由、即ち飲食の楽と執筆の自由なり。しかも今や局部の疼痛劇しくして執筆の自由は殆ど奪ばれ、腸胃漸く衰弱して飲食の楽またその過半を奪はれぬ。アア何を楽に残る月日を送るべきか。 残された「飲食の楽」と「執筆の自由」を頼みに、子規は残された日々を生き続けました。その生命力を支えたのは「飲食の楽」でした。
2022.08.04
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惡句百首病中の秋の名殘かな(明治29) 三千の俳句を閲し柿二つ(明治30) 句を閲すラムプの下や柿二つ(明治32) 晩年の子規は、投稿された俳句を閲覧し、選句するのを日課としていました。病状が重くなると、そうした俳句を見るのも難しくなり、次第に俳句の投稿が枕元に貯まるようになりました。それを見かねた子規の母・八重は、「藤村」と焼印の押されたカステラの空き箱に入れました。 その様子を、高浜虚子は小説『柿二つ』に描写し、河東碧梧桐は『回想の子規』でそのことに触れています。 こうやっていると小さい一本の筆が重くなる。筆が重くなるというよりも腕が重くなるのである。痩せた自分の腕が重くなるのである。そういう時には投げるように畳の上にその筆を持った右の手を落す。と同時にまた草稿を持った左の手をも蒲団の上に落す。 草稿というのは新聞の文苑に出す俳句の投書である。少し怠っていると、来るに従って投げ込んで置く一つの投書函が忽ち一杯になる。それが一杯になると、あたかも桶にたまった一杯の水が添水(そうず)を動かすように、この病主人を動かしてその選抜に取りかからしめるのである。 一昨年の暮まではまだ時々は社に出勤することも出来たし、そうでなくっても机に凭れて仕事するくらいのことには差支えなかったのである。自然俳句の投書も、来るに従って見、見るに従って選句を原稿紙に書留めて置くくらいのことをそれ程労苦とは思わなかったのであるが、昨年になってから腰部の疼痛がだんだん激しくなって来て、固より出勤は思いもよらず、家に在って仕事をするのも大方は寝床の上にあって、まだ蒲団の上に机を置いてそれに凭れるくらいのことは出来ないことはないにしても、どちらかといえば仰臥していることを一番楽に感ずるようになったのである。「こんなに散らかっていてはしようがない」 と言つて老いた母親が大きなカステイラの空箱を持出して来て、それに俳句の投稿を纏めて入れたのはその頃からであった。その空箱にはふじむらと烙印(やきいん)がしてあった。病主人は情無いような腹立たしいようないらいらした心持をじっと抑えながら、初めて枕頭に置かれたその箱を空眼をつかって見た。 見渡したところ一つとして貧し気でない什器は無いのであるが、このカステイラの空箱も決して病主人の眼を楽しましめるものではなかった。その上自分の体のだんだん自由を欠いて来ることが事毎につけて情無かった。俳句の投稿を散らかさないために纏めて一つの箱に入れて置くということには異存の唱えようがないのであったが、唯それが自分の意思から出たので無く、また自分の手でなされたのでも無く、他人の手で容易に取り運ばれていつの間にか取り澄まして枕頭に置かれているということがじりじりと癇癪に障った。彼は何も言わずに唯じっとその箱を見詰めていた。ふじむらという変体仮名の烙印と暫く睨めっくらをしていた。鉛のような冷たい鈍重な心持ちが頭を擡げてきてそのいらいらした癇癪と席を取替えるまで。 それ以来、このふじむら氏は長く投書函の役目を勤めて今日に来っているのである。それも初めの間は少し投書がたまると、すぐ選句に取りかかるのであったが、それがだんだんと延び延びになって来て、今年の春頃からは一杯になるのを合図にして選句に取りかかる例になった。(高浜虚子 柿二つ) 年の暮と新年は新聞の厄月、雲州蜜柑は昔からの通り相場。アト四日、大晦日までの分は、まアどうやら埋め合わせるだけの原稿が出来たので、ホッと一息ついた処だった。今日は案外筆が進む。ついでに、新年の分も一、二回、墨をすり終わって、例の支那筆の小全豪を手にしたが、カタリと音をさせて投げ出した。 チラッと彩られた光線の閃きが、机の左手の下の方を掠めて過ぎた、そんな気がしたのだ。そこには、いつでも枕元に置いてある、カステラの空箱があった。二円内外のカステラの入っていたらしい、かなり大きな箱なんだ。レッテルもまだそのままにしてある。カステラは空なんだが、その中には、諸方から来る俳稿が入れてある。開封で来るのが多いので、封紙を取った中身だけを、来たとも何とも言わず、家人が入れて置くのだ。もう中身は大分溜まって、餡が食み出そうに、蓋が少しずっている程だ。(河東碧梧桐 回想の子規 徹夜) 「ふじむら」というと、本郷の「藤村」がまず頭に浮かびます。『東京百事便』には「藤村 本郷4丁目」として「練り羊羹をもって有名なり。そのほか大徳寺は茶人の好むものにて田舎饅頭は一般下戸の喜ぶ菓子なり」とあります。「藤むら」は、もともと加賀の菓子舗でした。加賀百万石の前田利家は、豊臣秀吉が催した茶会で供された羊羹に括目し、金沢の地で羊羹を創るよう、金戸屋の忠左衛門に命令しました。忠左衛門は、40年にわたる苦心の末、三代藩主・利常の時代にようやく独自の羊羹を完成させます。その時に利常から「濃紫の藤にたとえんか、菖蒲の紫にいわんか、この色のこの香、味あわくして格調高く、藤むらさきの色またみやびなり」との絶賛を受け、金戸屋は藩の御用菓子司となりました。 宝暦4年(1754年)、加賀十代藩主・重教の江戸出府に従い、金戸屋は江戸の加賀藩下屋敷の赤門(現東京大学の赤門)近くに店を構えました。その際、羊羹の色に因んで「藤村」と名乗り、店の屋号を「藤むら」としたのでした。 現在では、「藤むら」は店を閉めてしまいました。東京新聞編『東京の老舗』の中に「ようかんをはじめ和菓子ひとすじに精進し、おいしいものをお客様へということである。これを「藤むら」の正道と思い商売に励む当主昌弘さんの信条は、スモール・イズ・ビューティフル。単に小さいことに価値があるのではなく、それが美しく輝いていることに価値がある。商いを大きくせずに、大量に作らず、ていねいに手作りするからこそ価値があり、人を幸せにする味が生まれるという」とあります。とすれば「ふじむらと烙印(やきいん)がしてあった」というカステラの空き箱は、果たして「藤むら」のものでしょうか? 明治33(1900)年5月9日、子規の病床に原千代女(千代子)がカステラを土産に訪ねてきました。千代女は鋳金家の原安民の妻で、病床の子規を訪ねて来たのです。子規は、そのときの様子を 原千代子キノフ来リテクサグサノ話キゝタリカステラ喰ヒツツ 子規 という短歌にしたためています。 千代女の実家は神戸元町の貿易商「大島屋」で、筋向かいに今も続く神戸風月堂がありました。神戸風月堂は、東京の風月堂に弟子入りしていた初代吉川市三が明治三十(一八九七)年に創業している。子規の家に持参したカステラは神戸風月堂のもので、おそらく千代女が帰省の際に求めたものだろう。帰省の旅のできごとや神戸の様子などで話は多いに盛り上がったことが子規の短歌から想像されます。 子規がカステラを食べるのは、これが初めてではありません。記録を辿ると明治28年5月27日、神戸病院で牛乳、スープとともに食べています。残念ながら、子規が神戸病院にいた頃、神戸風月堂はまだ誕生していないため、千代女持参のカステラはそのときのものではありません。しかし、神戸への懐かしい思い出をも、そのカステラは届けることができたことでしょう。
2022.08.02
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夏休みの書生になじむ船の飯(明治30) 松茸は茶村がくれし小豆飯(明治30) 飯くはす小店もなくて桃の村(明治34) 明治35年7月24日の『病牀六尺』で、子規はユニークな提言をしています。それは惣菜の調理を一手に引き受ける「炊飯会社」を興してはどうかというものでした。 全文を紹介すると次のようなものです。 家庭の事務を減ずるために飯炊会仕を興して飯を炊かすようにしたならば善かろうという人がある。それは善き考えである。飯を炊くために下女を置き竃(かまど)を据えるなど無駄な費用と手数を要する。吾々の如き下女を置かぬ家では家族のものが飯を炊くのであるが、多くの時間と手数を要する故に病気の介抱などをしながらの片手間には、ちと荷が重過ぎるのである。飯を炊きつつある際に、病人の方に至急な要事ができるというと、それがために飯が焦げ付くとか片煮えになるとか、(ご飯が)できそこなうようなことが起る。それ故飯炊会社というようなものが有って、それに引請けさせて置いたならば、至極便利であろうと思うが、今日でも近所の食物屋に誂えれば飯を炊いてくれぬことはない。たまたまにはこの方法を取ることもあるが、やはり昔からの習慣は捨て難いものと見えて、家族の女どもは、それを厭うてなるべく飯を炊くことをやる。ひまな時はそれでも善いけれど、入手の少くて困るような時に無理に飯を炊こうとするのは、やはり女に常識の無いためである。そんなことをする労力を省いて他の必要なることに向けるということを知らぬからである。必要なることはその家によって色々違うことは勿論であるが、一例を言えば飯炊きに骨折るよりも、副食物の調理に骨を折った方が、余程飯は甘美(うま)く喰える訳である。病人のあるうちならば病牀についておって面白き話をするとか、聞きたいというものを読んで聞かせるとかする方が余程気が利いている。しかし日本の飯はその家によって堅きを好むとか柔かきを好むとか一様で無いから、西洋の麺包(パン)と同じ訳に行かぬところもあるが、そんなことはどうともできる。飯炊会社がかたき飯柔かき飯上等の飯下等の飯それぞれ注文に応じてすれば小人数のうちなどはうちで炊くよりも、誂える方がかえって便利が多いであろう。(病牀六尺 明治35年7月24日) お手伝いさんを置かない一般的な家庭では、病人の世話などは家族の負担になります。用事ができると、食事をつくるのがおろそかになって、満足な料理ができません。そのために会社をつくって料理を届ければ、この問題は解消するというのです。 その会社がそれぞれの家の食の好みを把握しておけば、うちで食事をつくるより便利であると、現在のケータリング・サービスのような発想をしています。 明治34年1月31日発行の「ホトトギス」に掲載された「初夢」でも、観光ビジネスへの提言をしています。このなかで松山人の商売の下手さを揶揄する部分があります。 道後に名物がないから陶器を焼いて、道後の名物としようというのヨ。お前らも道後案内という本でもこしらえて、ちと他国の存をひく工面をしてはどうかな。道後の旅店なんかは三津の浜の艀(はしけ)の着くところへ金字の大広告をする位でなくちゃいかんヨ。も一歩進めて、宇品の埠頭に道後旅館の案内がある位でなくちゃだめだ。松山人は実に商売が下手でいかん。(初夢) 子規が結核に罹らず元気な体のままでいたら、新しいビジネスの発想で、日本のシステムを変えていたのではないでしょうか。
2022.07.31
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椰子の実の裸で出たる熱哉(明治26) 椰子の陰に語れ牡丹を芍薬を(明治26) 子規は〔『ホトトギス』第四巻第七号 明治34・4・25 二〕『くだもの』でヤシの実について語っています。 ○くだものと気候 気候によりてくだものの種類または発達を異にするのはいうまでもない。日本の本州ばかりでいっても、南方の熱い処には蜜柑やザボンがよく出来て、北方の寒い国では林檎や梨がよく出来るという位差はある。まして台湾以南の熱帯地方では椰子とかバナナとかパインアップルとかいうような、まるで種類も味も違った菓物がある。江南の橘も江北に植えると枳殻となるという話は古くよりあるが、これは無論の事で、同じ蜜柑の類でも、日本の蜜柑は酸味が多いが、支那の南方の蜜柑は甘味が多いというほどの差がある。気候に関する菓物の特色をひっくるめていうと、熱帯に近い方の菓物は、非常に肉が柔かで酸味が極めて少い。その寒さの強い国の菓物は熱帯ほどにはないがやはり肉が柔かで甘味がある。中間の温帯のくだものは、汁が多く酸味が多き点において他と違っておる。しかしこれは極ごく大体の特色で、殊にこの頃のように農芸の事が進歩するといろいろの例外が出来てくるのはいうまでもない。○くだものの大小 くだものは培養の如何によって大きくもなり小さくもなるが、違う種類の菓物で大小を比較して見ると、准くだものではあるが、西瓜が一番大きいであろう。一番小さいのは榎実位で鬼貫の句にも「木にも似ずさても小さき榎実かな」とある。しかし榎実はくだものでないとすれば、小さいのは何であろうか。水菓子屋がかつてグースベリーだとかいうてくれたものは榎実よりも少し大きい位のものであったが、味は旨くもなかった。野葡萄なども小さいかしらん。すべて野生の食われぬものは小さいのが多い。大きい方も西瓜を除けばザボンかパインアップルであろう。椰子の実も大きいが真物を見た事がないから知らん。 俳句を読んだ時も、「ホトトギス」に『くだもの』を書いた時も、子規はヤシの実を見たことがなかったのです。
2022.07.29
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かち栗もごまめも君を祝ひけり 明治34年 小説『土』や短歌で知られる長塚節は、子規の門人です。「貫之は下手な歌詠みにて古今集はくだらぬ集に有之候」で始まる『歌よみに与ふる書』に共感した節は、明治三十三(一九〇〇)年三月二十七日、子規庵を訪れますが、門前に人力車があったため、来客の邪魔をしてはならないとそのまま帰り、三十日の午前中、客の来ないうちに再び子規を訪ねました。 子規は、節が持参した季節はずれの丹波栗二升の土産に、「どのように保存するのか」と聞いたと『竹の里人』に描写されています。節がこの日に詠んだ歌は、四月二日の「日本」紙上に登場しました。節は、出来の悪さを恥じつつも喜んだといいます。 長塚節の実家は下総国岡田郡(現茨城県結城郡)国生村で田畑二十七町、山林四十町歩という大地主で、栗の季節になると子規に栗を送りました。 この年の九月二十七日、子規は長塚節宛てに「君がくれた栗だと思うとうまいよ」という礼状を送っています。『仰臥漫録』には「長塚の使、栗を持ち来る。手紙にいう、今年の栗は虫つきて出来わろし。俚諺に栗わろければその年は豊作なりと。果して然り云々。栗の袋の中より将棋の駒一ツ出ず(明治三十四年九月九日)」とあります。 子規に届いた栗は、その日の朝に栗小豆飯三椀、昼は栗飯の粥四椀、夕は煮栗となり、子規は一日中栗を食べています。そして、「栗飯や糸瓜の花の黄なるあり」「主病む糸瓜の宿や栗の飯」「栗飯の四椀と書きし日記かな」「栗出来ぬ年は五穀豊穣なりとかや」「真心の虫喰ひ栗をもらひけり」の句を詠んでいます。 節は、明治三十四年一月に雉、二月と九月に田雀、四月に木の芽、五月に茱萸、八月に梅羊羹、九月に栗と鴫、十二月に蜂屋柿、菓子、三十五年二月に兎、三月に金山寺味噌、四月に兎や醤など、六月に桑の実、七月にやまべと茱萸、八月に大和芋と、さまざまな山と里の幸を子規に送っています。 子規と節の親密さを見ていた伊藤左千夫は、『正岡子規君(※回想の子規)』で「先生には一人の愛子がいた。……その関係というものが、その交りの親密さというのがどうしても親子としか思われない点から、予は理想的に先生の愛子じゃと云うた訳である。……先生と長塚との間柄は親子としては余りに理想的で、師弟としては余りに情的である」と記しています。 子規が死を迎えた日、節は子規に栗を送ろうとしていました。「九月十九日、正岡先生の訃いたる、この日栗拾ひなどしてありければ」との詞書きで「ささぐべき栗のここだも掻きあつめ吾はせしかど人ぞいまさぬ」を含む三首の歌を詠んでいます。 例年のように、栗を子規に送ろうと山に入って急いでかき集めた栗でしたが、子規はもうこの世の人ではなくなってしまったのです。節は、やり場のない悲しさを栗の歌に託したのでした。
2022.07.28
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無花果ニ手足生エタト御覧ゼヨ(明治34) 明治34(1901)年9月9日、正岡子規の病床に川崎(のちに原)安民が訪れ、自ら鋳造した蛙の置物を渡しました。翌日、子規は『仰臥漫録』に、「この蛙の置物は前日安民のくれたるものにて安民自ら鋳たる也」と書き、絵を添えました。高さ7cmの実物大で正面と背面が描かれています。この句は、蛙の置物を説明するためのもので、なるほど、無花果のような形をしています。 安民は、香取秀真や画家の横山大観、下村観山らと同窓で、岡倉天心を師と仰ぎ、のちに天心が創刊した「日本美術」の編集をまかされて、日本美術社社主となりました。妻の原千代女は明治11(1878)年、神戸の大島家に生まれ、京都府立高等女学校から東京の女子美術学校に進み、父方の祖父に当たる「原」の姓を継ぎました。子規からは俳句を、落合直文からは短歌と国文学を学び、明治40(1907)年に鋳金家の川崎安民と結婚し、養子に迎えました。安民は60歳、千代女は86歳で天寿を全うしています。 無花果は、クワ科の落葉小高木で、小アジア原産です。日本に伝えられたのは江戸時代で、『大和本草』には「寛永年中(1624〜44)西南洋の種を得て長崎に生う。今諸国にこれあり」、『庖廚備用倭名本草』には「その肉虚軟なるをとりて塩につけ、あるいはおしひらめ日に乾かして果に食す。熟すれば紫色なり。柔燗にして味わい柿の如し。核(たね)なし。元升曰く長崎にこの果あり。俗にナンバンカキという」と記されています。また「蓬莱柿」という名前でも呼ばれていました。 無花果はペルシャ語の「アンジール」が中国で「映日果(インジェクォ)」となり、日本に伝わって「イチジーク」と発音されるようになったという説があります。また、果実の発達が早く、1か月で熟すことや1日に1果ずつ熟すことから「一熟(いちじゅく)」と呼ばれ、それが転訛ともいわれます。「無花果」と表記されるのは、一見すると花が咲かずに実がなるところからきています。 無花果は、西洋において人間ととても関わりの深い果物でした。『旧約聖書』では、知恵の実を食べたアダムとイブは、自分たちが裸であることに気づき、無花果の葉をつなぎ合わせて腰に巻いたとされています。また、もともと知恵の木は無花果のことを指していましたが、のちにリンゴに変わったといい、欲望の象徴ともされていました。 古代ギリシアでは、乾燥させた無花果が甘みを感じさせるものとして珍重され、哲学者のプラトンも大好物だったといいます。 江戸時代に日本に入ってきた無花果は、習俗の中にも組み入れられました。 無花果の葉は切れ込みが多く、山伏や修験者が持つ羽団扇の形に似ていることから、呪力を持つと信じられました。また、枝や葉を折って出る乳液を痔の薬としたり、葉を乾燥させ煎じて飲むと解熱剤としての効能があるとされ、疫病にかからなくなるともいわれます。 「無花果」と書くことから、出世しない、子孫が途絶える、家の前に植えると病人が出るなどともいわれ、「縁起が悪い」木とされます。これは、無花果の根が広がりやすいことや、大きな葉が陽を遮ることが嫌われた理由で、「屋敷に無花果を植えるな」ともいわれています。 一方、木を植えてから2年ほどで結実することから、「子宝に恵まれる」ともいわれます。 まさに「鰯の頭も信心から」。無花果をどう捉えるかで、吉か凶かが判断されるということでしょう。 無花果や八百屋の裏にまだ青し(明治27) 無花果や桶屋か門の月細し(明治27) 黒板塀無花果多き小道かな(明治27) 無花果の鈍な枯れ樣したりけり(明治27) 無花果の落ちてもくれぬ家主哉(明治33)
2022.07.26
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羊羹の甘きを好む新茶かな(明治34) 花早き梅をあはれむ春の雪(明治34) 寒園に梅咲く春も待ちあへず(明治34) 明治34年8月10日、子規は長塚節へのハガキで「水戸の名物梅羊羹難有候」とお礼を告げました。 この年、節は子規に様々なものを送っています。子規は、そのお礼を送っています。1月30日には「雉一羽おくり下されありかたく候。ビステキのように焼てたべ候」、2月には「田雀とやら難有候。おとといもたべ候。きのうもたべ候。今日もたべ候」、4月13日には「一、木の芽 二折。右たしかに受領忝存候」、5月20日には「苗代茱萸難有候。あれは普通の苗代くみにあらず。あるいは西洋ぐみというものか」、9月20日には「栗ありがたく候。真心の虫喰ひ栗をもらひたり。鴫三羽ありがたく候。淋しさの三羽減りけり鴫の秋」、12月11日には「蜂屋柿四十速に届き申候。一つも潰れたる者無之候。右御礼かたがた」、12月22日には「菓子水戸より相とどき候。御礼かたがた受取御報まで」とあり、節の住む水戸ならではの贈り物ばかりです。 水戸銘菓の「梅羊羹」は、天保13(1842)年に水戸9代藩主・徳川斉昭によって作られた日本三名園の一つである水戸偕楽園にちなみ、梅の名所ならではのお菓子です。偕楽園は、「民と偕(とも)と楽しむ」という趣旨で、約13haの周内に、100種300本の梅が植えられています。 創業嘉永5(1852)年という亀印製菓は、水戸藩御用達の菓子舗で、蜜漬けした赤紫蘇の葉で白餡が入った薄紅色の求肥を包んだ銘菓「水戸の梅」がよく知られています。もともとは、2代目が考案した練った白餡を紫蘇の葉でくるみ「星の梅」と呼ばれていましたが、3代目のときに「水戸の梅」に改名したといいます。紫蘇の葉の利用は、亀屋が漬物店であったことから、梅干し用の紫蘇の葉を使ったといわれます。 他にも梅肉に砂糖、寒天を加えてゼリー状に延ばし、短冊に切った2枚の竹皮に薄く挟んだ「のし梅」もあります。病床でじっとしていなければならない子規に、節のふるさと・水戸の香りを届けようという気持ちが感じられます。
2022.07.23
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夏痩や牛乳に飽て粥薄し(明治30) 明治三十五(一九〇二)年一月二日、子規は唐紙を伸ばして福寿草を描き、それにココアの詩を添えた。食べ物をねだる言葉と心のつぶやきの羅列が、まるで呪文のように心に残ります。 ココアを持て来い 無風起波 ココア一杯飲む 小人閑居不善ヲナス 菓子はないかナ 仏ヲ罵ツテ已マズ又組ヲ呵セントス もなかではいかんかナ いかん塩煎餅はないかナ ない 越州無字 ンー 打タレズンバ仕合セ也 左千夫来ル 咄牛乳屋 御めでたうございます 同 健児病児同一筆法 空也せんべいを持て来ました 好魚悪餌ニ上ル 丁度よいところで 釣巨亀也不妨 空也煎餅をくふ 明イタ口ニボタ餅 ……………… ……………… 空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ来ラントス ……………… ココアを持て来い………蜜柑を持て来い 蜜柑ヲ剥ク一段落 ンーン 何等の平和ゾシカモ大風来ラントシテ天地静マリカへル今五分時ニシテ猛虎一嘯暗雲地ヲ捲テ来ラン アナオソロシ 子規はココアをよく飲見ました。『仰臥漫録』の(明治三十四年)九月では、二日に間食で牛乳一合ココア入り、七日は朝に牛乳半合ココア入り・間食で牛乳半合(ココア入り)、十一日の朝に牛乳一合ココア入り、十七日から十九日の間食に牛乳七勺(ココア入り)、二十二日の間食に牛乳一合(ココア入り)二十三日の間食に牛乳五合(ココア入り)、二十五日の朝に牛乳(ココア)、二十七日の間食に牛乳半合(ココア入り)とある。ココア以外に紅茶を入れた日(十二日・十三日)もあり、牛乳の味を子規は好きではなかったようです。 高浜虚子は、子規が神戸病院へ入院したとき、「私は喀血さえ止まればいいとその方のことばかり考えていたので、厭な牛乳なんか飲まなくっても大丈夫だと思っていたのだが(『子規居士と余』)」と語る子規を記しています。 明治時代になって牛乳は健康飲料として乳幼児や病人に飲用されはじめるが、あまり好まれませんでした。明治三十年代になって、匂いや味をごまかすためココアや紅茶を牛乳に入れるようになります。子規は食生活で流行を先取りしています。 国産ココアは、大正八(一九一九)年の森永製菓が発売したミルクココアが嚆矢です。それまでのココアは、輸入品に頼らざるを得ませんでした。ココアパウダーは、オランダの化学者コンラッド・バン・ホウテンが一八二八年にココアバターの一部を搾油する方法で、世界第一号の特許を獲得しています。子規はおそらく「バンホーテン」のココアを使っていたに違いありません。
2022.07.22
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名物の饅頭店や枯榎(明治33) 明治26年9月23日、子規は日本新聞の記者・山田烈盛とともに、吾妻橋から隅田川畔に至り、百花園、今戸の渡し、待乳山を過ぎて、人力車で上野へ行き、汽車に乗って王子に赴き、飛鳥山に登りました。これは日本新聞の記者が「天然界」「実業界」「風俗界」のそれぞれを取材して掲載しようというもので、『三方旅行』と名付けられました。子規は「天然界」の部分を担当し、「水晶花児」というペンネームとなりました。 これから紹介するのは、今戸の渡しの部分です。この企画には、テレビのバラエティ番組のように、ある地点に到達すれば渡されていた手紙を開いて、その通りにしなければならないというルールがありました。この地の名物を食べろというのですが、ありきたりのものではダメで、しかも開封以前に食べたものも不可となります。どこで食べてもいいというのですが、行き過ぎてしまったために、なかなかの難題となりました。 更に墨堤を下りて今戸の渡に到る、彼岸参りの老爺老婆は七草見物の紳士令嬢とともに群がり来りて渡舟の中甚だ賑わし、舟彼岸に着けば密封訓令の第二号を披(ひら)くの時は来りたり、謹んで開封すれば 名物を求めてこれを食すべし。名物は平板なるものを避け、勉めて珍奇のものに就くべし。 開封以前に食したる名物は無効とす。 名物は何処にて食するも可なり。再び後に引き返すも妨げなし。しれども糧食の故を以て逗撓(とうとう)するは軍機を誤るの恐れあり。将軍のために取らざるなり。 と嗚呼これれ何たる訓令ぞや、徒らに余等を苦めんとするものなり、芋に蜆汁は今更に功を奏するに由なく、桜餅に言問団子は空しく対岸の垂涎となる、しかれどもこれらの難題はついに河童の何とかの如きのみ、根本鶴屋の米鰻頭は古きものの本に残りてその影を隠し、鯉の大七有明楼はいづくの程にや今は跡かたをも留めず、今戸橋の紫蘇巻はなお名物たるを失わねども、ついにこれ平板卑俗のもののみ、公子花児の口に上るべくもあらず、二人相携えて真(=待)乳山に上り、社頭に踞して四方を見れば、墨江は長うして帯の如く、波光樹間に瀲灔たり、牛島は黒うして牛の如く、江上の白帆と相掩映す、余ら今この好風景に到して姻を吸い霞をすう、腹満ち心爽にして羽化登仙せんとするの思いあり、天然界の名物この煙霞に非ずして何ぞ。(三方旅行 第一群3) この中に、今戸・浅草・向島の名物が登場しています。「芋」に「蜆」はありきたり、「桜餅」「言問団子」はとうに対岸の店となりました。「鶴屋の米饅頭」や、向島の名店「大七」や今戸橋傍にあった「有明(ゆうめい)楼」も今はなく、「紫蘇巻き」も陳腐なものに思えて紹介できません。それで、二人は待乳山に登って美味しい空気を吸い、自然界の名物を楽しむのでした。 「鶴屋の米饅頭」は、山東京伝が20歳の時に書いた黄表紙『米饅頭始』に登場します。腰元のおよねが町人の幸吉と駆け落ちをして、苦労をしながら待乳山の麓で、鶴屋の屋号で店を出し、米饅頭を売るという話を書きました。しかし、その35年後に書いた『骨董集』では「ある説に、江戸の名物米饅頭の根元は、浅草聖天金竜山麓鶴屋なり、慶安の比、この家の娘におよねといえるあり、この女始めてこれを製す、およねがまんじゅうといえり、この説うたがわし。延宝のころまでは辻売りなり。米をよねといふ。米(よね)まんじゅうというも、米のまんじゅうという義にて、女の名によりてよびたるにはあらざるべし、常のまんじゅうは麺(むぎのこ=麦粉)にてつくれば也」と書き、自らの黄表紙はフィクションであることに言及しています。 『嬉遊笑覧』には「○米饅頭は小麦まんじゅうに分つ名也。米というよりその形をも米粒の形に作りしなるべし」とあり、『江戸鹿子(江戸惣鹿子)』には「浅草金竜山(=待乳山)、ふもとや・鶴屋」と書いてあったと記しています。 これらのことを受けて、三田村鳶魚は『娯楽の江戸 江戸の食生活』で、「創製者はあるにしても、誰だか知れず、面々に持えて売ったかも知れぬ。鶴屋は場所がよいので名高くなったから、根本とか元祖とかいいもし、いわれもするようになるかも知れない。何の証左があるのでもない以上、創製者を決定することは出来まい。(柳亭)種彦は、露店図について、江戸八景の余り古くない折本に、待乳山の暮雪を描いたところに、聖天の表門、石坂へ登ろうとする左角に、米饅頭の店がある、この店は昔からここにあって、往来へ持ち出しても売ったのであろう、といっている。京伝の採録した露店の図にも、金竜山という扁額を懸けた鳥居の前に店が出ている。種彦の説明は、この図にも適用されると思う。けれども、京伝は、(戸田茂睡の)『紫の一本』の「聖天町にてよねまんじゅうを商う根本は、鶴屋という菓子屋也」というのを引いて、天和になって一軒の店舗を構えたのであろう、といい、延宝までも露店であったことを主張した」と書いています。 また、『江戸惣鹿子』にあるように、「ふもとや・鶴屋」とあるのは、五代将軍網吉の娘で紀州の網教に嫁いだ鶴姫の名を間することを憚って「ふもとや」と変えたのではないかと推理しています。しかし、この「ふもとや・鶴屋」は、享保末になくなってしまいました。 三田村鳶魚は、こうした由来に続き、「関東では、地方によって、今日も米饅頭を私娼の異名に呼ぶところがある。最初から女郎饅頭の意味であったためかは知らぬが、米饅頭という言葉は、早く食物と私娼と両方を意味するように遣われた」と書き、饅頭ということも、ある意味で女をいう言葉である。『吉原失墜』(延宝二年版)に、私娼を列挙じて『本所にてけまんぢう』といい、三座の家狂言の猿若にも『ムムよねとは女郎のことか、成程これで船まんじゅうのいわれが知れた』という。後者は、米饅頭が廓の遊女であるから、船中の遊女が船饅頭だと合点したのである。この用例は、古いところのみでなく、江戸の末までに及んだ」と書き、「食品の米饅頭は享保の末に絶えても、食品でない方の浅草町の米饅頭は、その名を替えて、天和・享保・寛政・天保の大掃蕩にも亡びず、江戸を跨いで、明治・大正の御代まで残っている」とまとめています。
2022.07.20
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饅頭の湯気のいきりや霜の朝(明治27) 若尾瀾水の『三年前の根岸庵』に子規の母親が饅頭づくりに失敗した話がでてきます。 夜食が了ってから紅茶の御馳走が出た、子規先生曰く今晩の山はウマウマとしくじったそうな。おぼろ鰻頭というのを拵らえるところであったが、色をつけることからすっかり不手際だったと菓子の話はじまる。すべて母堂は盤へもった鰻頭をもって出られた。ひどく失敗ったから食ないで見ている方がよいと言はれたから誰れも初めのうちは手を出すものがなかった。子規先生は自らドレドウいう風にできているかと一つ喰って見られた様子であったが、こりゃまずいという、不味いといわれるとどの様に不味いか喰って見たくなると見えて」門人たちが次々に饅頭へ手を出した。(若尾瀾水 三年前の根岸庵) この饅頭が、どのように不味かったかということは書かれていません。おぼろ饅頭は、江戸時代後期の百科事典『守貞謾稿』に、「皮を厚くし、蒸してのち、薄く表皮をむきされば、皮はだ羅紗のごとくになる。これをおぼろ万十という」とあります。中のあんがうっすらと見える、おぼろげな淡い色からこの名前がつきました。 子規の母が失敗したおぼろ饅頭を紹介した若尾瀾水は、高知出身の俳人です。子規の死後、子規追悼の俳誌「木兎(づく)」に、「子規子の死」を発表しました。そのなかで門人たちを「先生の名をだに署したるものならば、如何なる拙悪の句文といえど、勿体げに首をひねりて感心す」る「お菰連(乞食たち=品性の卑しい人たち)」と断じ、子規の性格を「甚だしく冷血」「狭量、嫉妬、我執」、同郷人だけを大事にする「党同伐異」と書き、子規の希望は「あらゆる手段をもって自己の美点のみを歴史に留めんと焦燥する」、「先生の文学上に置ける功績は人の驚嘆しつつ説くところなれども、予をもって見れば、シカク光栄なるものや否や疑わし」とまで書きました。ただ、これらの欠点にも増して「勤勉、忍耐、不屈、独行、秩序、義務などの諸美徳有し、健全なる趣味識を文界に覚醒した」と褒めてはいるものの、瀾水の文は門人たちから総すかんを食います。そのため、中央の俳壇にはいられなくなり、帝大を卒業してからは郷里に帰りました。 若尾瀾水は、昭和四十年に刊行された『俳論集』で、『「子規子の死」の反響』という文で「間違ったことをしたと思っていない」と書いています。師の死から一ヶ月も経たないのに、悪口を書いたということが責められているのですが、そのことには少しも気がつかなかったようです。失敗した彩りの悪い饅頭を墓前に備えたことが責められたのでした。 瀾水は、子規の性格について、美点もあったが欠点もある普通の人間であったと言っているわけで、それをあげつらって、一々反論するのも大人気ないような気がします。子規の業績に対する瀾水の論評に対する反駁が必要であったにも関わらず、飄亭も子規派の人達もこの点について、黙して語ることはありませんでした。 子規氏の死んだのは三十六歳であったが、俳句その他の事業は病気に罹って後の仕事で、即ち病苦中の産物である。そうしてその見識や文才や刻苦勉励の事実は多くの人の尊敬を得て、誰れからも侮蔑や悪言を受けなかった。もっとも陰では異説を唱える者もあったろうが、正面では氏を攻撃する者はまずなかったように思われる。しかるに高知の人で、若尾瀾水氏というが、最初は子規氏の句会にも出て我々も知っていたのだが、法科大学を卒業した頃であろう、但馬で発行した、某俳誌上に長文を載せて子規氏を散々に罵った。これは何時か子規氏を訪ねた際、氏の態度が倨傲であったということが原であって、かようなことに及んだのらしい。しかし瀾水氏も正直な人間で、その後岡野知十氏に対しても、最初門前払いを喰ったという怒りから、ある雑誌で散々攻撃したが、一度知十氏に歓迎されたので、忽ち角を折って、反対に賞讃することにせなった。しかるに惜いかな、子規氏は生前に氏と握手して旧交を復さずにしまったことである。爾来、瀾水氏は久しく俳句をやめていたかと思うが、最近郷地の高知で「海月」という雑誌を発行することになって、もともと正直を知っている寒川鼠骨氏も何か寄与する所があり、また私も輪番の俳句選者を担当することになっている。(内藤鳴雪 鳴雪自叙伝19)
2022.07.18
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煎餅をくふて鳴きけり神の鹿(明治28) 明治30年8月4日、子規は日記に「大阪水落露石より寝惚煎餅を贈る。この日九十四度熱さに堪えず」と書いています。九十四度は華氏なので、摂氏34度というところでしょうか。 この「寝惚煎餅」とは、大阪の天神橋筋にあった「上原商店」の名物で、卵煎餅の一種です。「寝惚煎餅」は、狂歌や洒落本、漢詩文、狂詩などを刊行した大田南畝(蜀山人)で、寛政の改革を批判して「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の狂歌で知られますが、この歌で幕府に目をつけられたため、狂歌の筆を置いて、随筆などを執筆しています。というのは、南畝は幕府の官僚で勘定所に勤務していたためです。 この南畝のペンネームに「寝惚先生」というのがあり、幕府の御用で大阪に出向いた際、天神橋の寄宿先であった杉谷家に煎餅のつくり方を教えたというのです。確かに、南畝は「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」でコーヒーを飲んだ体験を書くなど、茶屋茶菓子に造詣が深い人物でもあります。 南畝が伝えた茶菓子の煎餅の製造方法は杉谷家に伝えられ、南畝の死後二十年ほど経った嘉永元(1847)年に、杉谷伊八郎が南畝ゆかりの煎餅を売り出し、暖簾に「ねぼけ」と書いたのが「寝惚煎餅」の「ねぼけ堂」だというのです。 現在、天神橋筋に「ねぼけ堂」はありませんが、この製法を引き継いだ弟子たちの手で、「寝惚煎餅」が売られています。その製法を引き継いだ店は、大阪府守口市、静岡県藤沢市、熊本県八代市、香川県三豊市にあります。 秋もはや塩煎餅に渋茶哉(明治34) また、「道後煎餅」は松山道後の名物です。明治15年創業の玉泉堂本舗がつくっていますが、「道後煎餅」と「潮煎餅」の二種類のみ。鉄の焼き型に小麦粉、砂糖、卵を溶いた材料を流し込みます。湯玉のような形の「道後煎餅」は玉の石を模し、「潮煎餅」は明治時代の煎餅を復刻したものです。「道後煎餅」より少し堅めで、ほんの少し塩をきかせています。「道後煎餅」は注文をしてから1ヶ月以上待たなければならないほどの人気です。 晴 日記のなき日は病勢つのりし時也 午前七時家人起き出ず 昨夜俳句を作る 眠られず 今朝は暖炉を焚かず 八時半大便、後腹少し痛む 同 四十分 麻痺剤を服す 十時 繃帯取換にかかる 横腹の大筋つりて痛し この日始めて腹部の穴を見て驚く 穴というは小き穴と思いしにがらんど也 心持悪くなりて泣く 十一時過 牛乳一合たらず呑む 道後煎餅一枚食う 十二時 午餐 粥一碗 鯛のさしみ四切食いかけて忽ち心持悪くなりて止む 午後一時頃 牛乳 始終どことなく苦しく、泣く 午後四時過 左千夫蕨真二人来る 左千夫紅梅の盆栽をくれ蕨真鰯の酢(すし)をくれる/くさり酢という由 五時 大便 蕨真去る 晩飯 小田巻(饂飩) さしみの残り 腐り鮓 金山寺味噌(長塚所贈)うまく喰う 七時頃麻痺剤を服す 夜 牛乳 煎餅 蜜柑 飴等 左千夫歌の雑誌の事を話す 九時頃去る それより寝に就く 睡眠善き方也 この頃の薬は水薬二種(一は頭のおちつくため)(仰臥漫録 明治35年3月10日)
2022.07.15
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煎餅賣る根岸の家や福壽草(明治33) 漱石や子規、森鷗外が通ったという煎餅屋が団子坂にある「菊見せんべい」です。明治八年創業の老舗で、団子坂の菊人形見物に出かける人たちを目当てにつくられた四角い形の煎餅です。江戸時代末期から明治時代にかけて、団子坂の園芸業者たちは「菊人形」をつくり、大変評判になりました。子規はこの「菊人形」を「自來也も蝦蟇も枯れけり團子坂」という国仕上げています。また、漱石も『三四郎』で広田先生の言葉を借りて、菊人形を褒めています。 「菊人形はいいよ」と今度は広田先生が言いだした。「あれほどに人工的なものはおそらく外国にもないだろう。人工的によくこんなものをこしらえたというところを見ておく必要がある。あれが普通の人間にできていたら、おそらく団子坂へ行く者は一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも四、五人は必ずいる。団子坂へ出かけるにはあたらない」(三四郎 4) 明治33(1900)年3月30日、長塚節が子規庵を初めて訪ねた時に、栗とともに土産としたのが、茨城のおおぎやがつくった「松皮煎餅」だといいます。節は、幼い頃からこの店の煎餅が好きだったようです。親鸞上人が下津間(しもつま)小島の草庵で茶菓を喜んだという故事から、ケシの実を振って表面は焦がし、裏面は松の皮を模して白く焼き上げた「松皮煎餅」が考案されました。 最後に、子母沢寛の『味覚極楽』に鉄道省事務官の石川毅氏にインタビューした「日本一塩煎餅」というのがありましたので、ここに紹介します。 塩せんべいの食いまわりをはじめてから、もうかれこれ三十年にもなった。九州から北海道とせんべい一枚食うためにずいぶん苦労もしてみたが、結局、これは江戸を中心の関東の物となるようである。京大阪から関西へかけては、見てくれの綺麗なものもあるけれども、要するに子供だまし、第一あの薄黄色いようなあの辺で使う醤油の匂いが承知しない。前歯でガリリッとかんで、舌の上へ運ぶまでに、めためたになってしまうようでは駄目なのである。舌の上でぴりっと醤油の味がして、焼いたこうばしさがそれに加わって、しばらくしているうちに、その醤油がだんだんにあまくなる。そして噛んでいる間にすべてがとけて、舌の上にはただ甘味だけが残るようでなくてはいけない。 この塩せんぺい、日本国中、埼玉県草加の町が第一。噛んでずいぶん堅い、醤油もロへ入った時はぴりッとする位だが、そのうまみは、ちょっと説明が出来ない。舌の上へざらざらが残るの、噛んでいるうちにめためたになるのということは、決してないのである。近くの粕壁もいい。これは流山あたりの醤油のいい関係も一つだと思っている。草加あたりになると父祖代々せんべいを焼いている家がある。それだから自然町へ伝わった一種の焼き方のコツというようなものがあると見えて、むやみに焼けて焦げになっていたり、丸くあぶくのようにふくれ上ったりはしていない。 東京の塩せんべいにはろくなものはない。食べた後でみんな.さらざらと舌へのこったり、歯の間へ残ったりする。芝の神明前に「草加せんべい」という看板が出た。草加の人が焼いているとのことだったが、やはり駄目である。むしろの上で干したせんべいは、焼いてもその香がついていていけない。やはり竹あみの上へ一枚一枚吟味したのでなくてはいけない。五反田駅の「吾妻」というせんべい屋は、まず東京では僅かに気を吐いている位のものだ。 塩せんべいで酒を飲むのはなかなかうまいものである。私はこれで「黒松白鷹」をやったり、「大関」をやったり、「銀釜」といろいろやってみたが、おかしなことに、一番ぴたりとうま味の合うのは広島から来る「宮桜」という割に安い酒である。もう五年ほどこの酒でせんべいを食っている。番茶でやるのもよろしい。しかしよく、煎餅を舌の上へのせて、そのままお茶をのむ人があるが、あれは却ってうまくない。せんべいはせんべいですっかり食べてその残りの味が舌の上で消えるか消えないかという時に、お茶をこくりとやるのである。これも上茶はいけない、味のあっさりした番茶に限る。(子母沢寛 味覚極楽)
2022.07.15
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陽炎やはじけてひぞる塩煎餅(明治27) 煎餅売る門をやぶ入の過りけり(明治27) 煎餅の日影短し冬の町(明治29) 明治22(1889)年11月10日、この年の5月に喀血した子規は、叔父の大原恒徳宛に「今日午後一時より出掛け病院へ到着之節は二時頃なりき、煎餅とお多福の菓子を十銭許り買ひ持ち行き、それは二人で大方平らげ申候。御容体は見掛けには格別相違無御座候」と、以前と変わりなく煎餅を食べ続けている日常を綴っています。 明治27(1894)年3月上旬、子規は上京してきて子規の家に仮寓している高浜虚子を伴い、日光街道の千住から草加までを目的なしに歩きました。 この紀行は3月24日の「小日本」に『発句を拾ふの記』として発表されましたが、煎餅の句はありません。 亀戸木下川に梅を観、蒲田小向井に春を探らんは大方の人に打ち任せて、我は名もなき梅を人知らぬ野辺に訪わんと同宿の虚子をそそのかして薄曇る空に柴の戸を出ず。 梅の中に紅梅咲くや上根岸 松青く梅白し誰が芝の戸ぞ 板塀や梅の根岸の幾曲り 千住街道に出ずれば荷馬乗馬肥車郵便車我も我もと春めかして都に入る人都を出ずる人。 下町や奥に梅さく薬師堂 虚子 肥舟の霰んでのぼる隅田かな 同 大橋の長さをはかる燕かな 燕やくねりて長き千住道 市場のあとを過ぎて散らばる菜屑を啄む鶏を鷲かしつつ行くに固より目的もなき旅一日の行程霞みて限りなきこの街道直うして千住を離れたり。茶屋に腰かけて村の名を問へば面白の名や。 鶯の梅嶋村に笠買わん 野道辿れば上州野州の遠山わずかに雪を留め、左右前後の村々梅あり藪あり鶏犬昼中に聞ゆ。 いたずらに梅老いけりな薮の中 雨を呼ぶ春田のくろの鴉かな 子を負うて独り畑打つやもめ哉 武蔵野や刈田のくろに水ぬるむ 虚子 鍋さげて田螺ほるなり京はづれ 同 妹姉の土筆摘むなり馬の尻 同 ささやかなる神詞に落椿を拾い、あやしき賤の女に路程を尋ね草加に着きぬ。 巡礼や草加あたりを帰る雁 梅を見て野を見て行きぬ草加迄 八つ下る頃午餡したためて路を返し西新井に向う道すがらの我一句彼一句数えがたし。 ほろほろと椿こぼるる彼岸かな 一村の梅咲きこぞる二月かな 栴檀のほろほろ落つる二月かな 武蔵野や畑打ち広げ広げ 茨燒けて蛇寒き二月かな 虚子 切られたる榎芽を吹く二月かな 同 大師堂を拝みて堂の後の栴園を続り奥の院を廻りて門前の茶歴に憩う頃春の日暮れなんとす。 乞食の梅にわずらう余寒かな 虚子 蝶ひらひら仁王の面の夕日かな 同 しんかんと椿散るなり奥の院 同 梅散て苔なき庭の夕寒し 日影薄く梅の野茶屋の余寒かな 夜道おぼろに王子の松字亭を訪う。 春の夜の稲荷に隣るともしかな 最終汽車に乗りて上野の森月暗く電気燈明かなる頃山づたいに帰り来る夜の夢、寝心すやすやとして周公もなければ美人もなし。(発句を拾ふの記) 草加せんべいのルーツには諸説ありますが、日光街道草加松原にあった茶屋で、おせんさんという女性のつくる団子が評判でした。しかし、売れ残った団子を川に捨てていたところを見た侍が、「団子を捨てるとは、なんとももったいない。団子をつぶして天日で乾かして、煎餅として売ってはどうか」と教えられ、それが日光街道の名物になったといわれています。円形の「草加せんべい」は、醤油をなんども塗って焼き上げた煎餅で、風味とともにその香ばしい香りが漂う、煎餅屋が並んだ草加の道は「草加せんべい醤油のかおり」として、かおり風景100選に選ばれています。
2022.07.13
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煎餅かんで俳句を談す火鉢哉(明治33) 明治16年10月、子規は神田の共立学校へ入学し、大学予備門をめざしました。この学校の同期に、秋山真之、南方熊楠、菊池謙二郎らがいます。 翌年9月、子規は東京大学予備門予科(明治19年4月、第一高等中学校に改称)を受験します。試しに受けたところ、見事合格していました。予備門の同級生には、夏目漱石、南方熊楠、山田美妙、芳賀矢一ら、後に作家や学者として活躍する人物たちがいたのです。 余が大学予備門の試験を受けたのは明治十七年の九月であったと思う。この時、余は共立学校(今の開成中学)の第二級でまだ受験の力はない、ことに英語の力が足らないのであったが、場馴れのために試験受けようじゃないかという同級生がたくさんあったので、もとより落第のつもりで戯れに受けてみた。用意などは露もしない。ところが科によると存外たやすいのがあったが、一番困ったのは果たして英語であった。活版摺の問題が配られたので恐る恐るそれを取って一見すると、五問ほどある英文の中で自分に読めるのはほとんどない。第一に知らない字が多いのだから考えようもこじつけようもない。この時、余の同級生は皆片隅の机に並んで座っていたが(これは初めより互いに気脈を通ずる約束があったためだ)余の隣の方から問題中のむつかしい字の訳を伝えて来てくれるので、それで少しは目鼻があいたような心持ちがして、いい加減に答えておいた。その時、ある字が分からぬので困っていると、隣の男はそれを『幇間』と教えてくれた。もっとも、隣の男も英語不案内の方で、二、三人隣の方から順々に伝えて来たのだ。……今になって考えてみるとそれは『法官』であったのであろう、それを口伝えに『ホーカン』というたのが『幇間』と間違うたので、法官と幇間の誤まりなどは非常の大滑稽であった。それから及落の掲示が出るという日になって……行ってみると意外のまた意外に及第していた。試験受けた同級生は五、六人あったが、及第したのは菊池仙湖(謙二郎)と余と二人であった。この時は、試験は屁のごとしだと思うた。……しかし余のもっとも困ったのは、英語の科でなくて数学の科であった。この時数学の先生は隈本(有尚)先生であって、数学の時間には英語よりほかの語は使われぬという規制であった。数学の説明を英語でやるくらいのことは格別むつかしいことでもないのであるが、余にはそれが非常にむつかしい。つまり数学と英語と二つの敵を一時に引き受けたからたまらない。とうとう学年試験の結果幾何学の点が足らないで落第した。(『墨汁一滴』6月14日) 子規没後の明治44年、大博物学者となっていた南方熊楠のもとを、子規門人の河東碧梧桐が訪ねました。熊楠は、共立学校当時を思い出し、「当時、正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも、書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を囓ってはやれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕が各々一方の大将をしていた(河東碧梧桐著『続三千里』)」と碧梧桐に語っています。「煎餅を囓ってはやれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕が各々一方の大将をしていた」と語り、腹の底から出るような声でハッハッと笑ったというのです。 当時正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも書生でビールを飲むなどの贅沢を知っておるものは少なかった。煎餅を齧ってはやれ詩を作るの句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分れて、正岡と僕とは各々一方の大将顔をしていた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。そうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。面白いというても何だが、今に記憶に存しておるのは、清水何とかいう男の死んだ時だ、やはり君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるというので僕等も会葬したが、どこの寺だったか、引導を渡して貰ってから、葬式の費用が足らぬというので、坊主に葬式料をまけて呉れと言ったことがあった、と腹のド底から出るような声でハッハッと笑う。(河東碧梧桐『続三千里』) 熊楠は、予備門進級試験の落第を機に中退し、アメリカに渡ってミシガン州農業大学に合格しましたが、大学には行かず、動植物の観察と読書にいそしみます。やがて、新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表。アメリカではサーカス団、イギリスでは大英博物館で東洋図書目録編纂係として働きますが、大英博物館で日本人への人種差別を受け暴力事件を起こしてクビになり、明治33(1900)年に日本に帰ってきたのです。 子規は、煎餅を愛していました。碧梧桐は、『子規を語る』で、次のように書いています。「それはそうと、きょうはお土産を持って来た」と、うしろに手を廻して、三人の中へ出したのは、見覚えの岡野の紙袋だった。岡野の一番の大袋で、いつか茶話会か何かの時に、私が使いに往って抱えて帰ったそれと同じ袋だった。袋は三人鼎坐の中に、不釣合に大きな尻を据えていた。「煎餅というやつは、話しながら食ってるとなんぼでも際限のないもんじゃナ、イイエそうぞナ。きょうは財布の底をはたいて来たんだが、何だか袋ばかり大きいようじゃナ」 子規は弁解するような口吻で、袋の胴中をパリパリ二つに裂いた。今まで立っていた袋が、ガラガラ音を立てつつ横倒しになった」 晩年の子規著『明治卅三年十月十五日記事』には「紅茶を命ず。煎餅二三枚をかじり、紅茶をコップに半杯ずつ二杯飲む。昼飯と夕飯との間に、菓物を喰うか或は茶を啜り菓子を喰うかするは常の事なり」「母は忽然襖をあけて、煎餅でもやらうか、という」と記されていて、煎餅を常に食べていたことがわかります。 また、喀血後でも「○そういう家族気分の書生に、何らの接待も不用であったのだが、きっと茶をくまれる。茶菓子を出される。茶菓子は大抵岡野の煎餅だった。丸い豆入り、細長い芭蕉の葉の形をした、それらだった。いつもかわらない煎餅、というような気もするのだった。この煎餅も、お客様が一つつまむ前に、病人の手の出るのを例とした」と書いています。 このことから、子規が常食していたのは岡野の煎餅であることがわかります。平出鏗二郎著『東京風俗志』には、東京の代表的な菓子として「下谷岡野(栄泉)の最中」、汁粉屋として「根岸の岡野」が挙げられているのです。 明治34(1902)年9月上旬の『仰臥漫録』に限っても、3日は昼に煎餅三枚、4日は間食に塩煎餅3枚、7日は朝と間食に塩煎餅3枚ずつ、10日の間食で煎餅4、5枚と記録されています。 碧梧桐らの記憶によると、子規が食べていたのは「豆入り、細長い芭蕉の葉の形(『子規を語る』)」をした「岡野」の煎餅です。平出鏗二郎著『東京風俗志』には、東京の代表的な菓子として「下谷岡野(岡埜栄泉堂)の最中」、汁粉屋として「根岸の岡野」が挙げられています 明治30年刊行の金平春夢著『東京新繁盛記』に「岡野」として下谷区坂本町の住所で「この家は上等が視野のうち屈指のものにて、その名は汎く都下の人に知られたり。名代は最中にして、かつまた一万以上の多数なる饅頭も容易に引き受け、少しもその請負時間を間違えざるはこの家に限るという世評なり。またこの家は親類間の交際和熟して一致団結ともに一家の利を計るという。浅草駒形町、本郷森川町、下谷広小路、神田旅籠町にその支店あり」と書かれ、薬研堀にある支店の「岡埜栄泉堂」が紹介されています。おそらく子規は、本郷の支店を利用したと考えられるのですが、この時代、岡野にとって煎餅は本業の和菓子の余技であり、京橋の「松崎」が煎餅専門の菓子舗として知られていました。01
2022.07.12
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炮烙の大豆にも逢はず秋暮れぬ(明治27) 炮烙に豆のはぢきや玉あられ(明治28) 短夜の明けて論語を読む子かな(明治34) 子規と三並良は、明治6年から末広学校(のちの智環学校)、明治8年1月から勝山学校に通学しました。この年、観山は病に臥せ、4月11日に58歳の若さで永眠します。 読書の楽しさを知ったのもこの頃でした。観山の蔵書は自由に見ることができ、藩邸からも本を借りることができました。文学の楽しさを教えてくれたのは、勝山学校の遠山先生と景浦先生でした。遠山先生は習字の時間に『西遊記』を身ぶり手ぶりで語り、景浦先生は数学と読書の折に古代中国の戦記を面白可笑しく話しとくれます。生徒たちはこれらの話を夢中になって聞いたといいます。子規たちは、数学と読書の復習に景浦先生の宅を訪ねるうち、これらの話に元ネタがあることに気づきました。景浦先生から貸本屋の存在を聞き、さまざまな貸本を読みふけったのでした。 本と軍談に魅了された子規は、自らの雑誌をつくろうと思い立ちます。明治11年には『自笑文草』という文集を編み、明治12年は「桜亭雑誌」という回覧雑誌を発行します。毛筆で書いた文や絵を四つ折の半紙に綴じたものでしたが、内容は、作文、漢詩、論説、ニュース、書画、謎ナゾなどで構成され、当時発刊されていた「海南新聞」(明治九年創刊の「愛媛新聞」を翌年改題)を模倣しています。子規は、自宅を発行所「雷雲舎」とし、社長、編集者、書記を一人で担当して「桜亭仙人」と称します。「緩寛人」という名でも文章を綴っています。 柳原極堂著『友人子規』には、子規の編集長ぶりが描写されています。近所に住んでいた近藤我観を記者として、記事の採用から挿画までの編集を取り仕切ったのです。小学生の子規は、他に「松山雑誌」「弁論雑誌」などを発行しています。 明治13年、松山中学へ進んだ子規は、竹村鍛の父である河東静渓の私塾・千舟学舎に学ぶ同級生の良や竹村鍛、太田正躬、森(安長)知之らの学友と親交を深め、「五友」と称し、漢詩のサークル「同親会」を結成して漢詩づくりに励みました。その成果は「同親会詩鈔」「同親会温知社吟稿」などの詩稿となります。松山中学時代には「五友雑誌」「莫逆詩文」「戯多々々珍誌」などをつくったのでした。 五友たちは例会を行い、各々の漢詩を批評しあいました。三並良は『子規の少年時代』で「会は月に何度であったか忘れたが、当番があった。会員の宅で開いたり、先生のお宅で開いたりした。当番はさし重という重箱へ会員に相当するだけの豆いりを出し、茶の世話をするのが義務になっていた」と書いています。また、鍛の弟の河東碧梧桐も『子規を語る』に「今夜は詩会だという日には、よく姉たちが、お煎りといって、水に浸した生米を焙烙でゴソリゴソリ煎っていた」と報告しています。「おいり」とは、穀類を焙烙で煎ったもので、簡単でしかも安価なおやつでした。歯ごたえのあるおやつを嗜みながら、子規たちは詩作に励み、仙人の境地に浸ろうと夢想したのです。
2022.07.10
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立ちながら心太くふ飛脚哉(明治26) 婆々の留守海月にやならん心太(明治26) 父・常尚と仲のよかった鉄砲師範・竹内一兵衛は、子規の幼名を「處之助」と命名しました。幼名は、中国の命名法にならって平安時代以降にできたもので、武士では元服までの短い期間に呼び交わされる名前です。しかし、「處之助」という名は、トコロテンの響きに似ています。成長の遅かった子規が、さらに皆から馬鹿にされてはいけないと、親は幼名の変更を考えるようになりました。ただプルプルしている木偶の坊のような人物や得体の知れぬものにつけるのに「ところてん」は格好の素材ですから、それを気にするのも親心でしょう。 結局、母方の祖父で儒者の大原観山が新たに「升」と名付けました。この命名で、子規は「のぼさん」という愛称で呼ばれるようになり、幼馴染や高浜虚子、河東碧梧桐らの親しい人たちは、子規を終生「のぼさん」と呼びました。「升」という名前は、中国五経の一つ『易経』の「地風升」に由来します。陰陽三つを組み合わせてできる八通りの卦を重ねると六十四の卦になるのですが、その折にでた卦で人生や世界の変化を読み取ります。「地風升」は三吉卦の一つで、大地の下の若木が養分をとって、地上に芽を出し、大きく成長していくことを意味しています。観山は、成長の遅い子規のために、大地に根を張っていく大樹の姿を願って命名したのでしょう。 幼い頃の子規は、泣き虫で弱虫でした。体躯が小さく病弱で、独楽まわしや凧あげなど野外の遊びに参加することは少なく、近所の子どもたちと喧嘩をしてもいじめられました。妹の律が敵討ちをすることもあり、実に情けない子どもだったといいます。近所の子どもたちは、その風貌と元気のなさから子規を「青瓢箪」と揶揄しましたが、いじめられっ子・子規の心には「負けん気」が潜んでいました。子規は成長するにつれ、人並みならぬ利発さを備えてきます。 祖父母の兄弟姉妹の子供(いとこ違い)である三並良は、『子規の少年時代』で「(観山)先生は家塾を開いていて、他の子供には門人が教えていたが、子規と私とには自ら教えた。先生は升(子規の幼名)は初孫で可愛いから教える。幸(私の幼名)は松陽先生(私の祖父でやはり漢学者だった)の孫だから、御恩報じのため教えるといっておられた。この時、子規は既に二葉からの香ばしさをみせて、先生の満足を得ていた」、母の八重は「升はなんぼたんと教えてやっても覚えるけれ、教えてやるのが楽しみじゃ(母堂の談話)」という観山の言葉を伝えています。 まさに「地風升」のごとく、弱々しい「升」という芽は、徐々に大地に根を貼って、大きく成長し始めます。 明治34年4月8日の『墨汁一滴』には、「僕は子供の時から弱味噌の泣味噌と呼ばれて、小学校に往っても度々泣かされていた。たとえば僕が壁にもたれていると右の方に並んでいた友だちがからかい半分に僕を押してくる、左へ避けようとすると、左からも他の友が押してくる、僕はもうたまらなくなる、そこでその際、足の指を踏まれるとか、横腹をやや強く疲れるとかいう機会を得てただちに泣き出すのである。そんな機会はなくとも二、三度押されたらもう泣きだす。それを面白さに時々僕をいじめる奴があった。しかし灸を据える時は、僕は逃げも泣きもせなんだ。しかるに僕をいじめるような強い奴には、灸となると大騒ぎをして逃げたり泣いたりするのが多かった。これはどっちがえらいのであろう」と書いています。いくら泣き虫といわれても、お灸では泣かない。だから、泣き虫ではないという子規なりの自負心が、見えかくれしています。弱虫だが意地っぱりの子規だったのです。
2022.07.08
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心太の桶に落ち込む清水哉(明治30) 茶屋を見て走りついたる心太(明治30) トコロテンは天草(テングサ)という海藻を煮出したもので、古くは奈良時代から夏の間食として食べられていたようです。奈良時代はところてんを「心太(こころぶと)」と呼んでいました。これは「ココルブト」のことで、海藻が固まる(=ここる=こごる)ことを意味します。『大言海』では、「ココロブト→ココロテイ→トコロテン」へと転訛したとあります。 トコロテンは、そのぐにゃぐにゃしたところから、はっきりしない人間を「トコロテンに目鼻を付けたよう」とか、オートマチックな連続を「トコロテン式」といったり、トコロテンの食感と、天突きから押し出されて出てくる姿が人々の心を妙に刺激します。海藻のテングサをよく晒し干して、煮こごらせるトコロテンは、暑気をはらう食べものとして古来より愛されました。 トコロテンを戸外で凍結乾燥させたものが寒天です。テングサを煮溶かして固めたものを冬の夜に一気に凍らせ、昼に天日で乾燥するのを繰り返してつくります。特に、昼と夜の温度差がある方が良い品質になるといいます。この製法を始めたのは、万治元年(1658年)に伏見の美濃屋太郎左衛門が島津候に届けたトコロテンの残りを、店の裏に捨てていたところ、凍ったトコロテンが湯で元通りになることを知り、工夫を重ねて商品化。寒天の保存がきくようになったため、料理などにも使われるようになりました。煉り羊羹は、乾物の寒天が誕生したことで普及しました。 東海道五十三次の近江水口宿と石部宿の間に夏見の里があり、この辺りにはトコロテンを売る店が多くありました。『近江名所図会』には「この所、桜川の名酒。また四季ともに心太(トコロテン)を売る茶屋多し。その家ごとにはしり水をしかけ、木偶(にんぎょう)をめぐらして旅人の目を悦しぬ」という記述があり、四季を通じてトコロテンが売られていたことがわかります。 各々の店は、裏の山から水を引き、その水でトコロテンを冷やすとともに、流れる水の力を利用してからくり人形を動かしていたのです。 関東以北や中国地方以西では、二杯酢や三杯酢をかけたトコロテンに和辛子を添えて食べます。『守貞謾稿』には「心太、ところてんと訓ず。三都とも、夏月これを売る。しかし、京坂、心太を晒したるを水飩(すいとん)と号く。心太一箇一文、水飩二文、買うて後に砂糟をかけ、あるいは醤油をかけこれを食す。京坂は醤油を用いず」 とあります。昔は、トコロテンに砂糖と醤油をかけて食べていたようです。
2022.07.06
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鬼の子のまだ頑是なし花石榴(明治26) 正岡子規は、『わが幼時の美観』という文を明治31(1898)年に書いています。 その中で、子規の幼い頃に起こった自宅の火事の思い出を記し、「われが三つの時、母はわれをつれて十町ばかり隔りたる実家に行きしが、一夜はそこに宿らんとてやや寐入りし頃、ほうほうと呼びて外を通る声身に入しみて夢覚さめたり。(ほうほうとは火事の時に呼ぶ声なり)すは火事よとて起き出でて見るに火の手は未申(ひつじさる)に当りて盛んに燃えのぼれり。我家の方角なれば、気遣しとてわれを負ひながら急ぎ帰りしが、我が住む横町へ曲らんとする瞬間、思ひがけなくも猛烈なる火は我家を焼きつつありと見るや母は足すくみて一歩も動かず。その時背に負はれたるわれは、風に吹き捲まく焔の偉大なる美に浮かれて、バイバイ(提灯のこと)バイバイと躍おどり上りて喜びたり、と母は語りたまひき」とあります。 子規は、幼い頃から赤い色が好きで、「七、八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、われも早く年とりてああいうことをしたしと思いしこともあり、ある友が水盤というものの桃色なるを持ちしを見てはそのうつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨みしこともありき」と、赤い色に魅入られていたと綴っています。 また、ふるさとの家には、「百年をも過ぎたらん桜の樹はびこりて庭半ばを掩いたり。花稀なる田舎には珍らしき大木なれば弥生の盛りには路行く人足をとどめて、かにかくと評しあえるを、われはひそかに聴きていと嬉しく思いぬ」という見事な桜があり、「桜の下に石榴あり。花石榴とて花はやや大きく八重にして実を結ばず。その下の垣根極めて暗き処に木瓜(ぼけ)一もとあり。一尺ばかりに生ひたれど日あたらねば花少く、ある年は二つ三つ咲く、ある年は咲かず。たまたま咲きたるはいとゆかしかりき。椿あり、つつじあり、白丁あり、サフランあり、黄水仙あり、手水鉢(ちょうずばち)の下に玉簪花(たまのかんざし)あり、庭の隅に瓦のほこらを祭りてゴサン竹の藪あり、その下にはアヤメ、シヤガなど咲きて土常に湿えり。書斎の前の蘭は自ら土手より掘り来りて植ゑしもの。厠(かわや)のうしろには山吹と石蕗(つわぶき)と相向へり。踏石の根にカタバミの咲きたるも心にとまりたり」と庭の木々と草花を描写しています。 下闇や力がましき花石榴(明治26) 花石榴久しう咲いて忘られし(明治28) これらの句は花石榴の写生ですが、子規の幼少期に住んだ屋敷町の家々や、子規庵の近くにある家々の庭には、石榴が植えられていたことでしょう。 はちわれて實をこぼしたる柘榴哉 (明治24) はちわれて實もこぼさゞる柘榴哉(明治33) 口あけて柘榴のたるゝ軒端哉(明治26) 石榴は「人の肉の味がする」といわれます。実が割れて、赤いたくさんの赤い種が姿を見せることから、人間の肉体の朽ちた様子が連想されたようですが、これには鬼子母神(きしもじん)が右手に石榴の枝や実をもち、ふところに子供を抱いている姿が強く影響しています。 鬼子母神は、安産・子育の神様とされています。インドでは訶梨帝母(かりていも)とよばれ、王舎城(おうしゃじょう)の夜叉神の娘で嫁して多くの子供を産見ました。その性質は暴虐で、近隣の幼児をとって食べてしまうので、人々から恐れられていました。お釈迦様は、訶梨帝母の過ちを改めさせようと、鬼子母神の末の子を隠してしまいました。嘆き悲しんでいる訶梨帝母に、お釈迦様は「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。訶梨帝母は今までの過ちを悟ってお釈迦様に帰依して鬼子母神となり、人々に尊崇されるようになったといいます。 不吉なイメージのある石榴ですが、一つの実の中にたくさんの小さな実があることから、子孫繁栄をあらわす縁起のよい「吉祥果」ともいわれます。鬼子母神が石榴の枝を手に持つのは、子孫繁栄の願いが込められているといいます。また、心を入れ変えた鬼子母神は、子供を食う代りに石榴を食べるようになったともいわれます。そのことが、柘榴は「人の肉の味がする」といわれるようになったのでしょうか。 亡くなる年の明治35(1902)年、子規は石榴の句を読んでいます。今にも落ちてしまいそうな柘榴の実を、わが身に例えたものです。この石榴は「吉祥果」だったのでしょうか、それとも我が身が仏のもとに誘われようとしていることを暗喩したものなのでしょうか。 盆栽ノ柘榴實垂レテ落チントス(明治35)
2022.07.04
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ナリ初メシ自家ノ葡萄ヲ侑メケリ(明治35) この句は、明治35年9月9日に「日本新聞」へ掲載した句です。他には「黒キマデニ紫深キ葡萄カナ」「吹キ下ス妙義ノ霧ヤ葡萄園」という、句がありました。死が近づく10日前の葡萄です。この日は、坂本四方太が手土産に葡萄を携えてきました。「道で買ってきた甲州葡萄を出したら、これはよく熟しとるというて、一房取って食べられていたが、急に顔をしかめて大声にいかんいかんいかんと言われるから、何事かと思うとすなわち下痢が始まったのだ。」と坂本四方太著『思い出るまま』にあります。子規は、好きな葡萄が食べられないほど、体の調子を崩していたのでした。 しかし、子規はやはり葡萄を食べたいと考えていました。この年の9月20日、子規の死の1日後に発刊された「ホトトギス」第5巻第11号に『九月十四日の朝』という文が掲載されています。朝、蚊帳の中で目を覚ました子規は、喉が乾いて甲州葡萄を食べました。 『九月十四日の朝』(「ホトトギス」明治35年9月20日発表)には「朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寐ておる妹と、座敷に寐ておる虚子とは同時に返事をして起きてきた。虚子は看病のためにゆうベ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊帳をはずす。この際余はロの内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く湿いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡萄を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎の露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚めたので、十分に体の不安と苦痛とを感じてきた」とあります。死を間近に控えた子規は、足が晴れ上がり、全く動かなくなっていました。しかし、葡萄を食べて「金茎の露一杯」と感じ、「秋の涼しさは膚に浸み込むように思うて、何ともいえぬよい心持」を楽しんだのでした。 朝蚊帳の中で目が覚めた。なお半ば夢中であったがおいおいというて人を起した。次の間に寐ている妹と、座敷に寐ている虚子とは同時に返事をして起きて来た。虚子は看病のためにゆうベ泊ってくれたのである。雨戸を明ける。蚊般をはずす。この際余はロの内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く湿いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡萄を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎の露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚めたので、十分に体の不安と苦痛とを感じて来た。今人を呼び起したのも勿論それだけの用はあったので、直ちにうちの者に不浄物を取除けさした。余は四、五日前より容態が急に変って、今までも殆ど動かすことの出来なかった両脚が、俄に水を持ったように膨れ上って一分も五厘も動かすことが出来なくなったのである。そろりそろりと脛皿の下へ手をあてどうて動かして見ようとすると、大磐石の如く落着いた脚は非常の苦痛を感ぜねばならぬ。余はしばしば種々の苦痛を経験したことがあるが、この度のような非常な苦痛を感ずるのは始めてである。それがためにこの二、三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護かたがた訪い来るなどで、病室には一種不穏の徴を示している。昨夜も大勢来ておった友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節)は帰ってしもうて余らの眠りに就たのは一時頃であったが、今朝起きて見ると、足の動かぬことは前日と同しであるが、昨夜に限って殆ど間断なく熟睡を得たためであるか、精神は非常に安穏であった。顔はすこし南向きになったままちっとも動かれぬ姿勢になっておるのであるが、そのままにガラス障子の外を静かに眺めた。時は六時を過ぎた位であるが、ぼんやりと曇った空は、少しの風もない甚だ静かな景色である。窓の前に一間半の高さにかけた竹の棚には葭簀が三枚ばかり載せてあって、その東側から登りかけておる糸瓜は、十本ほどのやつがみな瘠せてしもうて、まだ棚の上までは得取りつかずにいる。花も二、三輪しか咲いていない。正面には女郎花が一番高く咲いて、鶏頭はそれよりも少し低く五、六本散らばっている。秋海棠はなお衰えずにその梢を見せておる。余は病気になって以来、今朝ほど安らかな頭を持て、静かにこの庭を眺めたことはない。うがいをする。虚子と話をする。南向うの家には尋常二年生位な声で本の復習を始めたようである。やがて納豆売が来た。余の家の南側は小路にはなっておるが、もと加賀の別邸内であるので、この小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえ、この裏路へ来ることは極て少ないのである。それでたまたま珍らしい飲食商人が這入って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる。今朝は珍らしく納豆売りが来たので、邸内の人はあちらからもこちらからも納豆を買うておる声が聞える。余もそれを食いたいというのではないが、少し買わせた。虚子と共に須磨にいた朝のことなどを話しながら外を眺めていると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚に浸み込むように思うて、何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。筆記しおえた処へ母が来て、ソップは来ておるのぞなというた。(九月十四日の朝)
2022.07.02
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パン売の太鼓も鳴らず日の永き(明治34) パン売りは、明治18(1885)年に木村屋が広目屋(現在のチンドン屋)をパンの広告に取り入れたことで誕生しました。洋装の男性が大きな太鼓を担ぎ、太鼓を叩きながら洋装の婦人とともに街を練り歩きます。 パン、パン、パン、木村屋のパン 木村屋パンをごろうじろ 西洋仕込みの本場もの 焼きたて出来たてほくほくの 木村屋パンを召し上がれ 文明開化の味がして 寿命が伸びる初物 初物 柴田宵曲の『明治の話題』には「『新春闘話』(泉鏡花)という談話に、あご髯洋服という男が、太鼓を胸に懸けて『メリキのパンやメリキのパンと、キクライキクライキンモウキンモウ』で躍りながら売って歩くと、子供は勿論、大供までぞろぞろついて行ったとあるのは金沢の話らしいが、大分古いことであろう。明治三十年代の東京のパン売りも太鼓を叩いて来た。この句によって閑静な根岸あたりにも来たことがわかる。阪井久良岐(さかいくらき・川柳作家)の書いた「三題噺」は、雑誌で失敗した木村という男が、雷様の太鼓を借りて『ソノ太鼓を叩いて木村のパン、亜米利加のパン』というのがオチになっている。このオチなども当時のパン売りが太鼓を叩いて来た事実を知らぬと、ちょっとわかりにくい」とあり、パンの広目屋はこの時代だけの風物詩だったようです。 子規は、明治16年6月14日に東京新橋駅に立ちました。新橋駅に着いたが、線路をどう渡ればよいものか見当がつきません。そこで辺りを見回して、渡っている人の真似をして線路を踏み越え、知り合いの柳原極堂(やなぎはらきょくどう)を訪ねて本郷の下宿に行きました。すると、そこに親戚の三並良(みなみはじめ)がいます。 子規は、そこで初めて菓子パンを食べました。その味に感動したのか、子規は終生、菓子パンを愛しました。『仰臥漫録』明治34年9月7日を見ると、間食に「菓子パン十個許」を食べ、翌日には菓子パンをスケッチしています。 パンは、十六世紀にポルトガル人によって日本にもたらされましたたが、本格的につくられるようになるのは開国後のことになります。日本人の手による初めてのパン屋は横浜で開業した内海兵吉の店で、外人のパン屋も続々開店しました。パンが普及するのは明治7年、東京銀座木村屋によるあんパンが登場してからで、以後、菓子パンというジャンルが確立しました。明治の文豪・三宅雪嶺は『同時代史』に「パンは、長崎が発生の地とせられるが、始めはそれをあんなし饅頭と呼んだ。あんなし饅頭の名前から、あんパンの着想は得られたのだった」と書いています。 明治34年頃になると、閑静な根岸あたりにもパン売りのチンドン屋が訪れていたことがわかります。
2022.06.29
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酒は桃鯛は桜を草の庵(明治26) 草の戸や桜の鯛に桃の酒(明治26) 雛もなし男ばかりの桃の酒(明治28) 古くから3月3日は、節句として祝われてきましたが、雛人形を飾るようになったのは室町時代から江戸時代にかけてのことで、広く普及したのは明治に入ってからのことでした。雛人形は、もともと心身の汚れを移して水辺に流れ捨てる人形(ひとがた)で、『源氏物語』須磨の巻にも光源氏が陰陽師を読んで人形を船に乗せて海に流す記述があり、平安時代から払いの道具として使われていました。その人形が次第に立派になり、呪術の要素が薄められて、装飾的な雛人形になったと考えられています。 桃酒は桃の花をとって酒に浸した酒のことで、体に溜まった邪気を祓うものとして飲まれていました。桃は「百歳(ももとせ)」に通じることから、邪気を払い長寿をもたらす力が宿っていると考えられたのです。節句に特定の酒を飲むのは、邪気退散の意味が込められていて、正月にはお屠蘇、上己の節句(3月3日)には桃酒、端午の節句(5月5日)には菖蒲酒、七タ(7月7日)には一夜酒、重陽の節句(9月9日)には菊酒が飲まれています。しかし、江戸時代中期になると、桃酒の他に白酒が飲まれるようになりますが、白酒もアルコール分が含まれているためか、今では「甘酒」に取って代わられています。 てらてらと桃咲く中や何ヶ村(明治27) 鶏鳴て村静かなり桃の花(明治27) 人載せて牛載せて桃の渡し哉(明治27) 路はたに桃の花咲く小村かな(明治27) 子規は、明治27年3月には高浜虚子とともに西新井の大師堂での梅見、越谷中野での桃見、上野の桜見を楽しんでいます。「小日本」3月29日に掲載された「中野の桃花」には「ここに東京を去る七里にして越ヶ谷というところあり。千住より鉄道馬車に乗りて達すべし。ここに桃の林ありて都下の雅人杖を曳く者多かれど中野村の桃源知る者は稀なり」とありますが、明治22(1889)年の水害で桃は枯れてしまい、子規が中野を訪れた頃には桃の花はわずかにしか見ることができなかったのではないかと思います。 同じ中野という地名でも、杉並にも中野の「桃園」があります。もともとは、五代将軍・綱吉がつくったお犬様収容施設「五の囲」の跡地だったのですが、八代将軍・徳川吉宗が鷹狩りに来た時、気に入りの場所を見つけそこに桃を植えるように命じました。やがて桃は大きく育ち、延享(1744~48)の頃になると、江戸の人々によく知られるようになりました。しかし、こちらも越ヶ谷同様、江戸末期になると桃は枯れてしまい、中野3丁目の旧地名「中野桃園」にかつての名残を残すのみになっています。 くひながら夏桃売のいそぎけり(明治26) 桃くふや羽黒の山を前にして(明治26) 桃の實を論語讀む子に分ちけり(明治31) 桃酒やためしめでたき西王母(明治21) 白桃や日永うして西王母(明治32) 桃は、『古事記」『日本書紀』でのイザナギノミコトがイザナミを訪ねて黄泉の国へ出かけますが、変わり果てたその姿に驚き逃れようとします。後から追いすがる黄泉醜女(よもつしこめ)に、桃の実をとって投げつけると悪霊から逃れることができたという話や、「桃太郎」の民話に至るまで、桃は不思議な力を持つ果物だと考えられ、仙人の果実「仙果」とも呼ばれてきました。 孫悟空で知られる『西遊記』には、桃が登場します。悟空は、玉帝より西王母の所有する蟠桃園(ばんとうえん)の管理人に任命されます。この蟠桃園の桃には、仙人になれる三千年に一度熟する桃、不老長寿になれる六千年に一度熟す桃、天地のある限り生きられる九千年に一度熟する桃があり、悟空はこれを食べて天地のある限り生きながられる命を持つのです。 西王母は玉帝の奥さんで、道教では最上位の女神である。崑崙山を統治し、『山海経』には「西王母はその状、人のようで豹の尾、虎の歯でよく嘯(うそぶ)き、おどろの髪に玉の勝をのせ、天の厲と五残を司る」とあり、豹の尾と虎の歯を持つ半人半獣の姿で、天の災いと五つの刑(墨・鼻切・足切・宮刑・死刑)を司っていました。西王母の誕生日は3月3日。まさに桃の花の季節です。 子規は、西王母から命の実をもらいたかったのかもしれません。
2022.06.27
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鶏鳴くや小富士の麓桃の花(明治28) 正岡子規のこの句は、松山沖に浮かぶ小島・興居島のことを詠んでいます。「小富士」とは、島の南部にある標高282mの小高い山のことで、その姿が富士山に似ていることから伊予小富士と呼ばれています。興居島では果樹栽培が盛んで、明治の頃には「桃とリンゴの島」として知られていました。 興居島の桃は、嘉永4(1851)年、由良の小林佐七郎が摂州(大阪)から桃の苗500本を植えたことに始まります。明治10(1877)年のころにはリンゴが導入され、栽培面積を増やしていきました。島の土壌は花崗岩で排水がよく、しかも傾斜地だったため、果樹栽培に適していたのです。しかも松山の市場に近いことから、果樹は農家経営にとって有利な作物でした。大正から昭和初期には桃の栽培が盛んとなり、大正15年(1925)の調査では県産の3分の1を占め、昭和に入ると県下の桃生産量の80%以上を占めるようになっています。現在は、柑橘類の栽培に姿を変えていますが、子規の生きていた頃には、島一面が桃色に染まるほど栽培されていたのかもしれません。 高浜虚子の『子規居士と余』には「三津の生簀で居士と碧梧桐君と三人で飯を食うた。その時居士は鉢の水に浮かせてあった興居島の桃のむいたのを摘み出しては食い食いした」とあります。 故郷はいとこの多し桃の花(明治28) 松山では1月遅れのひな祭りに「おなぐさみ」をします。『墨汁一滴』の4月10日には「これは郊外に出て遊ぶことで一家一族近所合壁などの心安き者が互にさそい合せて少きは三、四人多きは二、三十人もつれ立ちて行くのである。それには先ず各自各家に弁当かまたはその他の食物を用意し、午刻頃より定めの場所に行きて陣取る」とあり、子規は桃の花咲くひな祭りの頃に、親戚が連れ立っての「春の遊山」を思い出したのでしょう。 故郷に桃咲く家や知らぬ人(明治34) 明治25(1892)年に、家族を東京に招いた子規は、病床で幼い頃に過ごした故郷の家を思い出しています。『わが幼時の美感』には幼い頃の家の描写があり「東は井戸端なり。きたなき泥溝ありて、花ショウブ、トリカブトは水溜を囲みて咲きたり。桃の若木あり。無花果の下に萱草(かや)の咲きたるは心にとまらず。ここに菊一うねありて、小菊ばかり植う。猿丸とは赤くて花の多くつく菊なり」。桃の花は、故郷の家の桜の老木とともに、春の訪れを教えてくれたのでしょう。 一枝の桃の木陰の雛哉(明治26) まじへ買ふ桃と桜や雛祭(明治32) 雛二つ桃一枝や床の上(明治29)
2022.06.26
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痰の薬なりと「テクワリン」の砂糖漬を送り来しに 春寒く痰の薬をもらいけり(明治33) 子規は、明治34年5月12日の『墨汁一滴』で、5月10日の間食に、マルメロの缶詰を食べています。「家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片持ち来る」とあります。 このマルメロは『仰臥漫録』にも登場し、明治34年10月23日の食事の中に「マルメロ三個」と書かれています。 マルメロとは、中央アジア原産の果実で、秋にカリンによく似た果をつけます。その為「西洋カリン」とも呼ばれますが、実が産毛で覆われ、少しゴツゴツしているところでかカリンとの見分けがつきます。また、かりんは「テクワリン」から「かりん」へと転訛していますが、かりんの親戚であることは間違いありません。 江戸時代の『本朝食鑑』ではリンゴの項にあり、「麻留免羅(マルメラ marmelo ボルトガル語)。もともとこれは蛮国の種であって、長崎に渡ったものが各処に移柏され、希にある。樹は悔棠に類し、高く長く、葉もやはり海棠・林檎に似て、薄く長く、鋸歯になっている。花は白くて緑を常び、五出(五弁)である。実は志登美(シドミ)に似て、円<大きく、味は甘酸で、木のようにカスカスではない。ほぼ空閑梨(こがなし)に似ている。蛮人は砂糖蜜で煮て餅に作り、これを加世伊太(かせいた)と呼ぶ。長い咳・酒渇(洒に酔ってのどがかわく)をよく治すといわれるが、詳らかにしない。これはすなわち榲桲(うんぼつ)のことであろうか」と書いています。 榲桲とは『本草綱目』に載っている「マルメル」のことだというのです。『大和本草』には「樹も花も海棠に似て葉は梨に似たり。花淡紅色、実はボケに似たり。本草に榲桲あり。ある日、このマルメルなるべしという。然ども、本草に榲桲は味もっとも甘その気芬馥。また曰く花白緑色。本草の数説、花白く香あることをいえり。マルメルは花淡紅、花も実も無香、実味渋酸、不可食。然れば榲桲に非ず。榲桲は日本に無之。マルメルは蛮語なる可し。これ蛮国より来利。中華には無之乎。花はすこぶるよし。実を用てかせいたにつくる」とあります。 この果実を用いて「かせいた」というお菓子が作られます。これは南蛮菓子で、洋館に似ています。現在では熊本の郷土菓子に「かせいた」というのがあります。実は、マルメロは酸度が強くて固いため、そのまま食べず、ジャムや菓子に使われるのです。「マーマレード」の名前は、マルメロでつくったことから、「マルメラーダ」といい、それが「マーマレード」の名になったそうです。 中山圭子さんの『和菓子おもしろ百珍』には「かせいたと聞くとどんな板かと尋ねられそう。このかわった名前はポルトガル語のCaixa da Marmelada (マルメラーダの箱)に由来するとされます。マルメラーダはマルメロを砂糖煮にして固めた菓子のことて、現在もボルトガルほかスペイン、ブラジルなどでつくられています。ちなみにポルトガルの首都、リスボンで私が賞味したものは、赤紫色をした直方体で、見た目の固まり具合が羊羹そっくり。けれども食べてみるとゼリーのようなやわらかさで、かなり酸味がありました。冷やしてアイスクリームやヨーグルトと合わせたら、彩りもよ<、今風のデザートになりそうです」と書かれています。 日本でマルメロを栽培しているのは、長野県や青森県、秋田県などで、それでもあまりつくられていません。 五月十日、昨夜睡眠不足、例の如し。朝五時家人を呼び起して雨戸を開けしむ。大雨。病室寒暖計六十二度。昨日は朝来引き続きて来客あり夜寐時に至りしたため墨汁一滴を認むる能わず、因って今朝つくらんと思いしも疲れて出来ず。新聞も多くは読まず。やがて僅に睡気を催す。蓋し昨夜は背の痛強く、終宵体温の下りきらざりしやうなりしが今朝醒めきりしにやあらん。熱さむれば痛も減ずるなり。 睡る。目さませば九時半頃なりき。稍心地よし。ほととぎすの歌十首に詠み足し、明日の俳句欄にのるべき俳句と共に封じて、使して神田に持ちやらしむ。 十一時半頃午餐を喰う。松魚のさしみうまからず半人前をくう。牛肉のタタキの生肉少しくう、これもうまからず。歯痛は常にも起らねど物を噛めば痛み出すなり。粥二杯。牛乳一合、紅茶同量、菓子パン五、六個、蜜柑五個。 神田より使帰る。命じ置きたる鮭のカン詰を持ち帰る。こは成るべく歯に障らぬ者をとて択びたるなり。 週報応募の社丹の句の残りを検す。 寐床の側の畳に麻もて箪笥の環の如き者を二つ三つ処々にこしらへしむ。畳堅うして畳針透らずとて女ども苦情たらだらなり。こはこの麻の環を余の手のつかまえどころとして寐返りを扶けんとの企なり。この頃体の痛み強く寐返りにいつも入手を借るようになりたれば傍に人の居らぬ時などのために斯る窮策を発明したる訳なるが、出来て見れば存外便利そうなり。 繃帯取替にかかる。昨日は来客のため取替せざりしかぱ膿したたかに流れ出て衣を汚せり。背より腰にかけての痛今日は強く、軽く拭はるるすら堪へ難くして絶えず「アイタ」を叫ぶ。はては泣く事例の如し。 浣腸すれども通ぜず。これも昨日の分を怠りしため秘結せしと見えたり。進退つまりなさけなくなる。再び浣腸す。通じあり。痛けれどうれし。この二仕事にて一時間以上を費す。終る時三時。 着物二枚とも着がう、下着はモンパ、上着は綿入。シャツは代えず。 三島神社祭礼の費用取りに来る。一匹やる。 繃帯かへ終りて後体も手も冷えて堪へ難し。俄に灯炉をたき火鉢をよせ懐炉を入れなどす。 繃帯取替の開始終右に向き居りし故背のある処痛み出し最早右向を許さず。よって仰臥のままにて牛乳一合、紅茶略同量、菓子パン数箇をくう。家人マルメロのカン詰をあけたりとて一片持ち来る。 豆腐屋蓑笠にて庭の木戸より入り来る。 午後四時半体温を験す。卅八度六分。しかも両手猶冷、この頃は卅八度の低熱にも苦しむに六分とありては後刻の苦しさこそと思われ、今の内にと急ぎてこの稿を認む。さしあたり書くべきこともなく今日の日記をでたらめに書く。仰臥のまま書き終ること六時、先刻より発熱してはや苦しき息なり。今夜の地獄思うだに苦し。 雨は今朝よりふりしきりてやまず。庭の牡丹は皆散りて、西洋葵の赤き、をだまきの紫など。(墨汁一滴 明治34年5月12日) 十月廿三日午後いもを焼いて喰ひつつあるとき田中某来る 手土産ビスケット河東繁枝子来る 手土産鮭の味噌漬二切左千夫来る 手土産葡萄一籃、外に蕨真よりの届けもの栗一袋、左千夫は房州を旅して帰れるなり 上総の海辺の砂(中に小き赤き珊瑚まじる)及び阿房神社のお札を携へ来る夕刻大坂の文淵堂主人来る 手土産奈良漬一桶左千夫と共に晩餐を喫す 繁枝子にも次の間において同じ晩餐を出すらし夜秀真来る 故郷より携へ来れりとて手土産柿二種(江戸一及び百目) マルメロ三個(仰臥漫録 明治34年10月23日)
2022.06.24
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枇杷の實の僅に青き氷柱哉(明治31) 黄色く色づいた枇杷の実が、スーパーや八百屋などに並ぶ季節になりました。枇杷は、古くから日本で栽培されていた果実で、温暖な気候のもとに育ちます。ただ、「枇杷を植えると貧乏になる」とか「枇杷を屋敷に植えると病人が絶えない」ともいう俚諺があり、あまり縁起のいい食べものではありません。かつては庭に植えることを避けられた果樹でしたが、これは枇杷が湿地を好むこと、すぐに枝を広げて日当たりを悪くすることから、こういわれたのでした。 この枇杷を病床の子規に届けたのが、のちに「少年小説」の分野で圧倒的な支持を誇るようになる佐藤紅緑でした。明治29(1896)年6月24日、紅緑は、河東碧梧桐と一緒に子規庵を訪ね、枇杷を持参したのです。紅緑は、「子規を喜ばせる第一の妙薬は佳句を多くつくって先生の閲覧を乞うこと」だといいます。この時は、子規への暇乞いのため、俳句は持って行かなかったのでしょう。枇杷を手土産に子規を訪れると、ほとんどの枇杷を子規が平らげてしまいました。 その時黒門町の八百屋で初めて枇杷を見た。二人の嚢(ふくろ=財布)を傾けると漸く二十銭あった。それで枇杷を買って持って行くと先生は珍らしい珍らしいと言って大方一人で食べてしまった。 枇杷の実を食うて別るゝ今日もあり 碧梧桐 この短册は不思議に今も僕の手許に残っている。一度碧梧桐君に見せたい。(佐藤紅緑著『糸瓜棚の下で』) 紅緑は、明治7(1974)年、に青森・弘前に生まれました。父親の弥六は、幕末に福沢諭吉の塾で学び、帰郷して産業振興に尽くし、いち早くリンゴ栽培などを手がけた人物です。紅緑は、弘前中学校を4年で中退し、明治26(1893)年に上京して遠縁にあたる郷里の大先輩の陸羯南(くがかつなん)を尋ねて、書生となりました。翌年、陸の日本新聞社に入り、七歳年上の子規と机を並べることになりました。また、紅緑というペンネームをつけたのも子規で、字の下手さからいつも子規に叱られていました。 紅緑は高浜虚子・碧梧桐・石井露月と並んで、子規門下の四天王とまでいわれます。明治28年に病気のために帰郷しますが、やがて病も癒えて、翌年に東北日報社の主筆として活躍。明治33(1900)年には上京して報知新聞社に入り、のちに文筆生活を始めたのでした。 紅緑は、糟糠の妻・はるを捨て、女優のシナと一緒になったことで、世間の批判を浴び、多感な息子たちの多くは不良となって、不幸な死を遂げてしまいます。しかし、残されたハチローは詩人、佐藤愛子は直木賞作家となりましたが、紅緑は不良息子たちが残した負債を、払い続けなければなりませんでした。 紅緑がしたためた日本新聞時代の子規を見てみましょう。 余の上京したのは明治26年の春で羯南先生の玄関番を勤めておったのである。ところが余は当時は空想にかられて文学というものの、趣味には注意もせねば研究したこともない……誰か親切に教えてくれる人はなかろうかと相談するとこの向かいに正岡という社(日本新聞社)に勤めている人がある、その人に願えばよかろう、ということであった。それは幸いだと喜んでみたが、さてその正岡という人は奥州の方を旅行中でいつ帰るかわからぬというのでそのままになってしまった。しかし肺病で血を吐いて自ら子規と号したこと、書はなかなか上手に書けること、社の方では何をさしても立派に書くことなどわかった。それから秋の夕暮れの頃である。書生部屋に灯をつけようと思っていたら、玄関に案内を乞うものがいる。薄暗い中に立っていたのは肩の幅が広く四角で丈はあまり高くない顔は白く平ったい方の人間である。余の案内も待たずのこのこ中に入ろうとしている。この家に来る客の中で案内なしに入るのは、青崖氏たった一人であるのに今またこんなへんてこな人が一人殖えたと驚いて、名前を聞いたら、正岡ですとハッキリ答えた。ちょうど向かいの住人、余が教えを乞うべき人とは急に気がつかなかった。…… 当時の正岡君はどうであったかというに、極めて無頓着な粗暴な、構わぬ方で四十懐手でその懐には買卜者のごとく古書やら反古やらを食(は)みだしたままに詰め込んでいる。紫色の毛糸の襟巻き、この襟巻のかけようは一種不思議で、このために襟が寒からぬようにするには今少しく頸(くび)に密着せねばならぬ、しかもむしろ汚らしい誇りじみた襟巻で、単に両肩にくねらしたというに止まるのである。それに兵児帯が緩いかして始終腹が見ゆるばかりにぐだぐだとしている。それに踵(かかと)がぶっつかるほどの大きなまな板下駄を引き摺るようにガラアリガラアリと歩行いている。編集局で何か書いている時には、左の手で肩にヤゾウ(懐手をして握りこぶしを作り、肩をつき上げるようにした恰好)をこしらえて右の方を机に凭せるようにしている。ちょっと筆が絶ゆる時には顔を斜めに左の方を向いて考えている。大食にはなかなかの剛の者で、君の原稿用紙の存するところに必ず焼芋、蜜柑、菓子を見るのである。(佐藤紅緑著『子規翁』)
2022.06.22
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涼しさや真桑投こむ水の音(明治25) 瓜は、アフリカ原産の果物で、中国で発達したものが、日本に伝わったと考えられています。伝来の時期は不明ですが、弥生時代の各地の遺跡より、マクワウリの炭化した種子が確認されています。 菓子類が少ない古代には、さぞかし珍重されたと思われ、『万葉集』の山上憶良の「子等を思ふ歌」では瓜の歌が詠まれています。旅先で瓜を食べていると、瓜が好物の子どもの顔が思い出されます。次に栗を出されて食うと、いっそう子どもの顔が思い出されてきます。子どもとはどこからやってきた賜物なのか、その顔がまぶたのうちに焼きついて、寝ることもできないという意味の歌です。 瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ 反歌 銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも この瓜を「マクワウリ」と呼ぶのは、濃州(現岐阜県)真桑村(まくわむら)の名産だったことからで、『本朝食鑑』や『大和本草』は同じ説を唱えています。マクワウリは、マスクメロンと同系統で、各地で栽培されてきましたが、1980年以降急速に栽培されなくなってきました。 また、瓜の蔓は干すと針金のようになることから「天久須(てぐす)」と呼ばれ、魚の葉では切られにくいため、釣り糸になりました。今でも、釣り糸はテグスと呼ばれています。 安倍晴明が、御堂関白の物忌みの時、南都より送られた瓜に蛇が潜んでいたことを占う話が知られていますが、平安時代にはその食べ方や切り方を陰陽寮に占わせたといいます。 瓜は、民俗学の世界では、とても興味深い話が沢山あります。織姫と彦星の話にも瓜が登場します。 ある日、牛飼いの若者が川のほとりにある木の枝に、美しい着物が掛かっているのを見つけ、取ってしまいました。すると、美しい娘が川から上がってきて「私の衣です。どうか返してください。それがないと天に帰れないのです」と言います。 娘は天女の1人で織姫といいました。織姫の美しさにひかれ「どうか私の妻になってください。そうしたら衣を返します」というので、織姫は牛飼いの妻になりました。7年経ち、2人の子供ができましたが、織姫はいつも天に帰りたいと思っていました。ある日、織り姫は衣を見つけることができたので、2人の子供をつれて天へ帰っていきました。戻ってきた牛飼いは、「わらじを土に埋め、ユウガオを植えて、つるが天まで届くようになったら登ってきてください」と書かれた手紙を見つけました。 牛飼いは、さっそくユウガオを植え、育ったつるを登っていくと、天では天女たちが機を織っていました。織姫の父は「牛飼いなど婿にできん」と次々に難題を投げかけました。しかし、牛飼いは織姫の助けによって、これらの難題を解くことができました。「ウリ畑の番をしろ」といいつけられた牛飼いに、織姫は「ウリを食べてはいけません」といいますが、牛飼いはウリを食べてしまいました。食べたウリからは、水があふれ出て、それが天の川となりました。牛飼いは織姫と一緒にいられなくなり、年に1度、7月7日の夜しか会得なくなりました。 瓜子姫とアマノジャクの話もあります。桃太郎のように、川から流れたきた瓜には、女の子が入っていました。 ある村にお爺さんとお婆さんが住んでいました。お婆さんは川で洗濯していると川上から大きな瓜が流れてきたので、それを拾って帰りました。瓜を割ってみると、中から可愛らしい女の赤ちゃんが出てきました。子供のいなかった二人は瓜から産まれた女の子を瓜子姫と名付け、お爺さんとお婆さんに、とても大事に育てられました。 成長した瓜子姫は、機織りが上手で、綺麗な声で歌を歌いながら機を織りました。瓜子姫のうわさを聞いた長者がぜひ嫁に迎えたいと申し出てきたため、お爺さんとお婆さんは輿入れのための買い物に出かけることとなり、瓜子姫はその間の留守を頼まれます。しかし、アマノジャクにだまされて、「開けるな」と言われていた戸を開け、アマノジャクを家に入れてしまいます。 これからは、地方によって話の方向が異なります。東日本では、姫が殺されてしまいますが、西日本では木に吊るされて降りられなくなっている姫を助けるという話になっています。 姫に成りすましたアマノジャクの輿入れを、木に吊るされた姫(あるいは殺された姫が化身した小鳥)が告発するという内容もあり、花嫁入れ替わり型フォークロアの形になっています。アマノジャクは物語の最後に殺されますが、その血(あるいは瓜子姫の血)でソバやキビの茎や根が赤くなったとする由来譚になっています。 七夕の織女と瓜子姫は、ともに織物がうまいという共通点があります。日本には、水辺で神の衣を織って夫たる神を待つ棚機女(たなばたつめ)の信仰と習俗がありました。機を織る娘は巫女であり、神の妻となるべく育った存在であるということになります。そう考えれば、織姫も瓜子姫も同様に、巫女として機を織ることで神の来訪を待っていたということになります。 中国や日本の七夕には、瓜を供えました。中国では、供えた瓜に蜘蛛が一夜で巣を張ったら機織りの腕が上達すると考えられました。もちろん、七夕の時期に瓜が実るということもありますが、瓜の蔓が糸や織物を連想させるのでしょう。 また、瓜は、実ると中に空洞(うつぼ)ができることから、神霊が宿ると考えられていました。民俗社会では、私たちの暮らす世界以外に異界もまた存在していて、それを結ぶのが「うつぼ」なのです。筍、西瓜、瓜などは果物の中に空洞(うつぼ)ができるため、この空間は異界への入り口であると信じられていました。また、スクナヒコナのうつぼ船のように、神の乗り物でもあった 柳田國男は、『桃太郎の誕生』で、瓜子姫を神に仕える織姫になぞらえ、機織りを神へ捧げる事業、アマノジャクをその妨害者と見ました。そして桃太郎よりも瓜子姫の方が物語の成立が古いとし、瓜の持つ性質を語っています。 この昔話の要点が、童子の異常出現を説くにあったならば、瓜はその性質が桃などに比べて、はるかに多分の霊怪味を持っていたということだけは言える。そうしてその特徴の桃の方に欠けていた二点は、瓜はその中がだんだんとうつろになっていくこと、及びよく水に浮かんで流れるということにあったろうと思う。(柳田國男 桃太郎の誕生 瓜子織姫) 子規の俳句には、「瓜盗人」をモチーフにしたものがあります。「瓜盗人」とは狂言の演目で、瓜を盗もうとする盗人と、守ろうとする畑主の争いを描いたものです。案山子(かかし)を立てていたのにめちゃくちゃに畑を荒らされた持ち主は、案山子に化けて瓜盗人を待ち伏せします。そうとも知らずに今夜も瓜を取りに来た男は、案山子を相手に芸のけいこを始めてしまいます。やがて、畑の持ち主が案山子に扮していることがわかり、「やるまいか」「やるまいぞ」と幕に入ります。 神の乗り物でもある瓜には、盗んでしまいたくなる魅力があるのでしょうか。
2022.06.20
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豕飼ふて杏の咲かぬ家もなし(明治29) 正岡子規は、明治29(1896)年12月28日の『松蘿玉液」に書かれた「菓物」というエッセイで「杏はからびて賎しく、李は水多くしてあさはかなり」と書いています。どうも子規はあまりアンズもスモモも、好きではなかったようです。 晩年、子規は『菓物帖』に「巴旦杏」を描いていますが、こちらは「杏」の字があるもののスモモの仲間です。この画を描いたのは明治35(1902)年7月10日で、子規は「雨 昨日来モルヒネノ利キスギタル気味ニテ昼夜昏々夢ノ如ク幻ノ如シ食欲少シモ無シ今朝睡起漸ク回復ス 午餐ヲ食シ了ツテ巴旦杏(はたんきょう)ヲ喫ス 快言フベカラズ」と書いています。7月26日にはスモモを描き、「李 この李は不折留守宅より贈らる。その庭園中のものなり」と書きました。 病間や桃食ひながら李画く(明治35) アンズもスモモも、どちらも同じバラ科サクラ属で、見た目もよく似ています。この区別はというと、実に毛が生えているのがアンズ、毛が生えていないのがスモモとなります。「杏はからびて賎しく、李は水多くしてあさはかなり」というように、水分はスモモの方が豊富です。 アンズは、感冒薬の材料として種の中にある「杏仁(漢方ではきょうにん・お菓子に使うとあんにん)」を収穫するために栽培されてました。取り出された杏仁は、咳を鎮め、痰を抑える薬として用いられました。江戸時代、宇和島藩の姫が松代藩に輿入れの際、アンズの種を持参して、それが藩内の殖産につながりました。長野県にアンズが多く栽培されているのは、宇和島伊達家のおかげでもあるのです。アンズの果実を食べるようになったのは江戸時代後期の文政年間(1818〜30)といい、大正時代に本格的な栽培が始まりました。 スモモは、モモに比べて酸味が強いことから、その名がつきました。スモモはおもに生食用として栽培されています。しかし、酸味が強いのであまり人気がありませんでした。『本朝食鑑』には「世俗毒ありと称して食せず、ただ里巷の果となすのみ」とありますが、江戸時代後期にはスモモも見直されてか、栽培が盛んになりました。滝沢馬琴は、神田明神下に80坪の土地を買い、そこでスモモや桃などの果実を栽培し、年に9両3分を稼いでいたといいます。スモモに注目したのは明治時代のアメリカ人で、アメリカで品種改良され、多くの品種が生まれました。これが、大正時代に逆輸入され、各地で栽培されています。 明治34(1901)年3月1日、子規宅で伊藤左千夫、香取秀真(秀真)、岡麓たち歌人一門が、子規のために茶懐石を用意してくれました。その中の口取りにアンズを煮たものが入っていました。アンズは咳を鎮め、痰を切る薬でもありますから、この料理は子規の健康を願う気持ちも込められていました。子規はこの初めての懐石(会席)料理で、七十五日の長生きを得たのです。 今日は会席料理のもてなしを受くる約あり。水仙を漬物の小桶に活けかへよと命ずれば桶なしといふ。さらば水仙も竹の掛物も取りのけて雛を祭れと命ず。古紙雛と同じ画の掛物、傍に桃と連翹を乱れさす。 左千夫来り秀真来り麓来る。左千夫は大きなる古釜を携へ来りて茶をもてなさんといふ。釜の蓋は近頃秀真の鋳たる者にしてつまみの車形は左千夫の意匠なり。麓は利休手簡の軸を持ち来りて釜の上に掛く。その手紙の文に牧渓の画をほめて我見ても久しくなりぬすみの絵のきちの掛物幾代出ぬらんといふ狂歌を書けり。書法たしかなり。 左千夫茶を立つ。余も菓子一つ薄茶一碗。 五時頃料理出づ。麓主人役を勤む。献立左の如し。味噌汁は三州味噌の煮漉、実は嫁菜、二椀代ふ。鱠は鯉の甘酢、この酢の加減伝授なりと。余は皆喰ひて摺山葵ばかり残し置きしが茶の料理は喰ひ尽して一物を余さぬものとの掟に心づきて俄に当惑し山葵を味噌汁の中にかきまぜて飲む。大笑ひとなる。平は小鯛の骨抜四尾。独活(うど)、花菜、山椒の芽、小鳥の叩き肉。肴は鰈を焼いて煮たるやうなる者鰭と頭と尾とは取りのけあり。口取は焼玉子、栄螺(?)栗、杏及び青き柑類の煮たる者。香の物は奈良漬の大根。 飯と味噌汁とはいくらにても喰ひ次第、酒はつけきりにて平と同時に出しかつ飯かつ酒とちびちびやる。飯は太鼓飯つぎに盛りて出し各椀にて食ふ。後の肴を待つ間は椀に一口の飯を残し置くものなりと。余は遂に料理の半を残して得喰はず。飯終りて湯桶に塩湯を入れて出す。余は始めての会席料理なれば七十五日の長生すべしとて心覚のため書きつけ置く。(墨汁一滴 3月2日) 果物の花、特にバラ科の果物はウメ、サクラ、アンズ、スモモ、モモと多く、とても紛らわしい花をつけます。アンズは桜よりもやや早く、桃色の梅のような花を咲かせます。スモモもアンズと同時期に桜のような花をつけます。子規の句の通り、モモもスモモも、白い花です。モチモチとした独特の食感に人気があります。
2022.06.17
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芋アリ豆アリ女房ニ酒ヲネダリケリ(明治34) 明治35年7月7日の『病牀六尺』で、子規は女性の食べものの好みについて考えています。 女性が、かぼちゃやサツマイモ、ニンジンといった甘い野菜をどうして好むのかということについて、頭を巡らしました。子規のたどり着いた結論は、「酒を飲む者は甘いものを嫌うものが多い。女性は酒をあまり飲まない。とすれば、酒が嫌いなために甘い野菜を好むということではないか。男も、酒を断つと甘いものを食べるようになる」と、「女は酒を飲まぬがために、南瓜などを好むのに違いない」と結論づけたのでした。 しかし、女性が焼き芋を好むのは、他にもいくつかの理由がありそうです。まず、サツマイモに多く含まれる繊維質を体が欲するのではないかということです。女性は便秘になることが多いので、自然と繊維質の多い野菜をとって、便通を良くしようと、無意識に食べてしまうのではないかとも考えられます。 もう一つは、焼き芋が暖かいことです。冬の冷えたから他を温めるには、暖かい食事をとることが一番なのですが、甘いものは暖かい方が甘みが強くなります。女性は、もともと甘みのあるものを欲しますが、それは冷え性を解消するために、体に脂肪をつける糖質を求めているのではないかということです。そうして、味覚が甘いものを求めるようになり、焼き芋や甘く煮た豆やカボチャなどを好むのではないでしょうか。 ケーキやお菓子も女性の好きなものですが、砂糖たっぷりのはっきりとした甘さのものよりも、自然の甘味が楽しめる焼き芋は体にもいいようで、近年は安納芋のような甘みの強い品種もでています。 ただ、子規は女性の心理や体質を慮るということはなさそうですので、理由を酒に求めたのでしょう。ただ、子規は下戸なので、焼き芋が大好きなのですが……。少しばかり、自己弁護のような気もします。 ○酒は男の飲む者になっておって、女で酒を飲むものは極めて少い。これは生理上男の好くわけがあるであろうか、あるいは単に習慣上然らしむるのであろうか。むしろ後者であろうと信ずる。 女は一般に南瓜(かぼちゃ)、薩摩芋、胡蘿蔔(コラフ=人参)などを好む。男は特にこれを嫌うという者も沢山ないにしても、とにかく女ほどに好まぬ者が多い。これは如何なる原因に基くであろうか。 男でも南瓜、薩摩芋等の甘きを嫌うは酒を飲む者に多く、酒を飲まぬ男はこれに反して南瓜などを好んで食う傾向があるかと思われる。して見ると女の南瓜などを好むのは酒を飲まぬためであつて、男のこれを好むことが女の如くないのは、酒を飲むがためではあるまいか。酒は鮓の物の如き類とよく調和して、菓子や団子と調和しにくいことは一般に知っておる所である。南瓜、薩摩芋、胡蘿蔔などは野菜中の最も甘味多きものであるので、酒とは調和しにくいのであろう。酒飲みでも一旦酒を廃すると、汁粉党に変ることがある。して見ると女は酒を飲まぬがために、南瓜などを好むのに違いない。(病牀六尺 七月七日)
2022.06.15
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やき芋の皮をふるひし毛布哉(明治33) 焼き芋は女性を始め、甘いものに飢えた人たちにとって格好の食べものです。子規だけに限っても、学生時代にじゃんけんやトランプで勝負をして負けたら焼き芋を買いに行ったりすることが、多くありました。また、結核に侵された顛末を戯作風に書いた『喀血始末』では、閻魔の前に引きずり出された子規が、「併し一番うまいのは寒風肌を裂くの夜に湯屋へ行きて帰りがけに焼芋を袂と懐にみてて帰り、蒲団の中へねころんで、漸く佳境へ入る」と書き、幸田露伴のもとへ書き上げた小説『月の都』を持っていきますが、芳しい返事をもらえず、帰り道に焼き芋をかじったりしています。 また、イギリス留学中の漱石に「ロンドンの焼き芋はどんなか聞きたい」という手紙を出しました。 明治31年に書いた『人々に答ふ』(歌よみに与ふる書に掲載)では、馬糞や焼き芋を詠む俳句は文学として価値があるのかという問いに対して、和歌と俳句を比較した上で、現れる題材よりも、歌や俳句をつくる精神の品格を問題にするべきだと論じ、和歌を第一とすることの愚かさを論じています。ただ、俳句に関しても滑稽味や月並みを重んじる総集たちの存在こそが下品であるとし、多くの人たちや文学者たちが、俳句や和歌をつくることを望んでいます。 朝鮮使節団の一員であった申維翰は、享保4(1719)年に『海游録』京都東山で焼芋を売っていたことを記しています。青木昆陽を始め、薩摩から芋を持ち出した人々のおかげで、さつまいもの人気は全国を席巻しました。寛政元(1789)年にはサツマイモ料理を紹介した『甘藷百珍』も刊行されています。 もともと、いも屋は、蒸芋を売っていました。しかし、焼いた方がさらに甘みが増すことがわかり、焼芋全盛時代を迎えます。『守貞漫稿』には「江戸にては蒸芋ありといえども焼甘薯を専とす」とあり、幕末期の江戸にはいたるところに焼芋屋ができました。焼芋屋を開業するには、泥で築いた竃と大きな鉄の平釜があればでき、建物も簡易なものでいいため、商売を始めやすいのですが、季節性が強いため、農家の副業に適していました。 もう少し時代が下ると、冬には焼芋、春になると蒸し芋となり、大学芋もメニューに加わります。そして、夏になると氷水を売るようになり、「氷」と書かれた幟が立てられるようになりました。
2022.06.13
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燒芋をくひくひ千鳥きく夜哉(明治25) 明治24年12月、子規は常盤会寄宿舎を去り、かねてより構想していた小説『月の都』を完成させるために本郷区駒込追分町の一軒家に移ります。子規は「来客を謝絶す」の張り紙をして、小説執筆に全力を尽くしました。 高浜虚子に宛てた明治25年1月25日の手紙には「大方荒壁までは仕あげ」とあり、2月19日の河東碧梧桐宛ての手紙に内容を記していることから、ほぼ小説はできあがっていたようです。そののち、子規は陸羯南宅の西隣、根岸町八十八番地に家を移しました。 子規は同年齢の幸田露伴が著した『風流仏』に心酔していました。子規は「『風流仏』は小説の最も高尚なるものである。もし小説を書くならば『風流仏』の如く書かねばならぬ(『天王寺畔の蝸牛廬』)」と書いており、『月の都』は露伴の影響下にありました。 ようやく完成した『月の都』を持って、この年の二月下旬に子規は露伴を訪ねましたが、来客のため二十分ほどしか話せません。家に帰ると、竹村黄塔がやって来て、ふたりで焼き芋を齧っています。 子規は、河東碧梧桐と高浜虚子に宛てた3月1日の手紙に「拙著はまず、世に出る事なかるべし」と書き綴っています。一方、夏目漱石には、「露伴が川上眉山、厳谷小波の比で無い」と言ったと強がっています。3月10日の碧梧桐に宛てた手紙には、「露伴僕の小説を評して曰く覇気強しと、また曰く覇気は強きを嫌わず……君の覇気に富むこと実に僕より甚だしきものあり」と露伴が子規の覇気を評価したことを伝えていますが、小説には触れず、子規の無鉄砲さのみを評価したともとれます。 また、5月4日の虚子宛ての手紙には「僕は小説家となるを欲せず詩人とならんことを欲す」と告げました。小説の出版が難しいことを予感していた子規でしたが、『月の都』の活字化は、明治二十七年、子規が編集長になった「小日本」の掲載となります。 子規は焼き芋をよく食べました。『筆まかせ』には「誰かが発議して何かを買いに行こうと、ジャンケンか、もしくはトランプでもって勝敗を決し、焼き芋、菓子を買いに行くことがしばしばあった(『筆まかせ』「over-fence」)」、「二銭の焼き芋をわが帽子に入れ、外に出ると、雨はたちまち晴れて日光、顔に射る(「筆頭狩」)」などの文章が残されています。 高級品の砂糖を使った菓子は、高価でなかなか手が出ないこの時代、温かい上に甘くて安い焼き芋は、東京の庶民や書生たちにとって冬のおやつの代表格でもありました。また、焼き芋を「書生の羊羹」と呼ぶほどの、学生にとってはポピュラーな食べ物だったのです。 小菅桂子著『近代日本食文化年表』には、明治33年「東京府下の焼芋屋一四〇六軒を数える」とあり、竈さえあればできる焼芋屋への参入も多かったようです。寒いときの商売なので、気候が暑くなれば、焼芋屋は氷店に変わります。 露伴との会談のあと、黄塔とともに食べた焼き芋は、世間を甘く見た味だったのでしょうか。それとも、皮の焦げた苦い味がしたのでしょうか。
2022.06.11
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山姥の力餅賣る薄かな(明治25) 明治23年7月1日、子規は故郷の藤野古白に会うため、五度目の帰省をしました。三並良、小川尚義とともに新橋を出発すると、勝田明庵(主計)、天岸一順も同車していたのです。清水の江尻に着いたのは正午の頃。人力車に、この辺りで一番いい旅館を尋ねると「大ひさしや」だといわれます。雨も降りはじめたので、一行はここに泊まることに決めました。 2日は、人力車で三保の松原を訪ねましたが雨模様です。正午の汽車にのって大垣に着き、市内第一の旅館といわれる「玉亭」に泊まります。 3日も大雨でした。尚義が「養老の滝が引っ張っているように思う」といいます。子規は「養老の滝から糸をお前の身体につけ、しゃくっておるのに違いない(しゃくるとは糸を手で断続的に引く意の伊予弁)」と応えました。結局、養老の滝の観光を諦めますが、「しゃくられ」の語感と言葉の意味を捨てきれず、子規は紀行に『しゃくられの記』の題名をつけました。 子規らは、豪雨になってはいけないと思い、大阪までの切符を買って、車中で桃、パン、枇杷などを食べながら、関ヶ原を経て草津に至ります。草津駅に止まったとき、「姥が餅」を買いました。「直径五分(約1.5センチ)くらいの円型の餅で、上にあんがついています。その上に三角錐体とでもいうような形の白砂糖のかたまりのようなものが載せてある菓子なのですが、子規は気に入利ませんでした。 「姥が餅」は草津の名物で、上に白あんをのせた指頭大のあん餅です。文化11(1814)年に刊行された『近江名所図会』には、織田信長に滅ぼされた佐々木義賢(六角承禎)の子孫が近江の郷代官のようなことをしていましたが、ある問題が起きて罪を受けて殺されることになります。3歳になる息子を「この子をかくし育ててくれ」と姥(乳母)に託したところ、姥は餅を売って生計を立てました。その甲斐あって、姥は小さな店を開くことができ、姥がつくった餅なので「姥が餅」と呼ぶようになりました。こしあんの上の白あんは、乳房を表現しているといいます。 おかげ参りで賑ったお伊勢参りでの、桑名から山田までの参宮街道は別名「餅街道」といわれました。道中名物としても数々の餅が残っていますが、その中でも「姥が餅」はは飛び抜けた知名度を誇りました。広重、北斎の浮世絵にも描かれています。
2022.06.09
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いちご熟す去年の此頃病みたりし(明治29) 明治34年4月の「ホトトギス」に掲載された『くだもの』には、「明治廿八年の五月の末から余は神戸病院に入院しておった。この時虚子が来てくれてその後碧梧桐も来てくれて看護の手は充分に届いたのであるが、余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソップも飲む事ができなんだ。そこで医者の許しを得て、少しばかりのいちごを食うことを許されて、毎朝こればかりは欠かした事がなかった。それも町に売っておるいちごは古くていかぬというので、虚子と碧梧桐が毎朝一日がわりにいちご畑へ行て取てきてくれるのであった。余は病牀でそれを待ちながら、二人が爪上りのいちご畑でいちごを摘んでいる光景などを、頻(しき)りに目前に描いていた。やがて一籠のいちごは余の病牀に置かれるのであった。このいちごのことがいつまでも忘れられぬので余は東京の寓居に帰って来て後、庭の垣根に西洋いちごを植えて楽しんでいた」とあり、日清戦争取材で中国に渡り、その帰途の船上で吐血して危篤状態に陥って入院した時の西洋イチゴの思い出を書いています。 明治28(1895)年5月、大連から帰国する船上で吐血した子規は、神戸病院に運ばれて命をとりとめます。子規は衰弱して、牛乳やスープも飲めません。そこで、医師に許されたイチゴを食べさせることにしました。しかも、古いイチゴは体に悪いと、新鮮ないちごを与えなければなりませんでした。『病床日誌』に「九時ごろ西洋いちごを食べてみたいと言う。購入して帰り食べさせた。とても気に入ったようだ。子規が言うには『これほど美味しいものはない』」とあります。 高浜虚子と河東碧梧桐は、子規のために新鮮なイチゴを畑まで摘みに行きました。ふたりは神戸に住んでいる外国人のためのイチゴ栽培農家を捜してきたようで、朝、陽の出ない、暗いうちから畑に入ってイチゴを摘んできたのでした。このイチゴは、子規を喜ばせました。子規の喜ぶ顔見たさに、ふたりはせっせとイチゴを摘みに行きました。 6月13日には、子規は昨日からイチゴをやめたいといいます。果物を食べ過ぎると胃がむかつくので、イチゴを食べないようにしようと思いたったのでした。 退院して、松山の漱石との52日を経て東京に帰った子規は、庭の垣根に西洋イチゴを植えました。虚子と碧梧桐の心が込もった介護の思い出を、イチゴの味と一緒に心に留めようと考えたようです。 しかし、明治34年6月13日の『墨汁一滴』には、「西洋いちごよりは日本のいちごの方が甘味が多い、けれども日本のいちごは畑につくって食卓に上すように仕組まれぬから遂に西洋種ばかり跋扈するのだ」ともあります。子規が今のイチゴを食べたとしたら、どう思うのでしょう。02
2022.06.07
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旅人の山路に暮れるいちご哉(明治26) 明治29(1896)年の『松蘿玉液』12月28日に書かれた文には、西洋イチゴと木苺のどちらも好きであると書き、子規はその思い出を綴りました。 いちごは西洋いちごを善しとす。されど行脚の足くたびれて草鞋(わらじ)の緒ゆるみたる頃巌の角に腰打ち据えて汗を拭う手の下に端なく見つけて取り食いたる、味は問わず時に取りていと嬉し、出羽の山中に思わず日を暮らしたるもこれがためなり。神戸に病みしとき、物一つ咽(のど)を通らず乳さえ飲み得ぬに、わがためとて碧虚二子の朝な朝な諏訪山の露を分けて一籠(かご)の赤き玉をもたらしたるこれに一日の腹をこやしたるもわりなしや。(果物) 子規は、結核に罹りながらも各地を旅しました。歩き疲れた体を癒すのは、山道になる果物を食べることでした。特に木イチゴの味は子規の心に深く刻まれました。木イチゴは、その実の形が伏せた盆に似ているため「覆盆子」とも呼ばれます。 明治24(1891)年6月25日から、子規は学校の試験を途中で放棄し、軽井沢から善光寺に入り、松本街道から木曽路を巡る旅を試みました。27日、昨夜からの雨は上がり、爽快な気分で子規は松本街道を歩きました。険しい山道のなか、子規は馬場嶺を登る途中、木イチゴがこぼれるばかりに実っていました。「さてもくるしやと休む足もとに誰がうえしか珊瑚なす覆盆子(イチゴ)、旅人も取らねばやこぼるるばかりなり(『かけはしの記』)」という様子でした。 しかし、何となく人がつくった畑のようにも見えるので、食べるのをためらった子規でしたが、辺りには人家も畑もありません。わざわざこんな不便な場所に木いちごを植える訳がないと考え、存分に食べました。 明治26(1893)年7月19日、子規は、奥州に旅立ちました。この旅の目的は、松尾芭蕉の『奥の細道』のあとを辿ることとにあり、この旅の様子は『はてしらずの記』として日本新聞に発表されました。 8月16日、六郷から岩手へ向かう時、平和街道へ出る近道ができたというので、この道を進みます。山腹を行くと、覆盆子が崖の上に実っています。四、五間(7.2〜9m)の間にびっしりと木イチゴが実っています。子規は、まるで餓鬼のようにむさぼり食いました。食べても食べても尽きることがありません。ただ、後ろから放牧されている牛がいて、襲われるかもしれないと考えながら、後を振り向きつつ食べました。やがて日が暮れかかったので、残念ながらも木イチゴの畑を後にしたのでした。 明治34(1901)年4月25日、「ホトトギス」に掲載された『くだもの』という文にはこの二つの旅で、木イチゴを食べた喜びがしたためられています。 明治廿四年六月の事であった。学校の試験も切迫して来るのでいよいよ脳が悪くなった。これでは試験も受けられぬというので試験の済まぬ内に余は帰国する事に定めた。……これは松本街道なのである。翌日猿が馬場という峠にかかって来ると、何にしろ呼吸病にかかっている余には苦しい事いうまでもない。少しずつ登ってようよう半腹に来たと思う時分に、路の傍に木いちごの一面に熟しているのを見つけた。これは意外な事で嬉しさもまた格外であったが、少し不思議に思うたのは、何となく其処が人が作った畑のように見えた事である。やや躊躇していたが、このあたりには人家も畑も何もない事であるからわざわざかような不便な処へ覆盆子を植えるわけもないという事に決定して終に思う存分食うた。咽は乾いて居るし、息は苦しいし、この際の旨さは口にいう事も出来ぬ。 明治廿六年の夏から秋へかけて奥羽行脚を試みた時に、……平和街道へ出る近道……突然左り側の崖の上に木いちごの林を見つけ出したのである。あるもあるも四、五間の間は透聞もなきいちごの茂りで、しかも猿が馬場で見たような瘠いちごではなかった。嬉しさはいうまでもないので、餓鬼のように食うた。食うても食うても尽きる事ではない。時々後ろの方から牛が襲うて来やしまいかと恐れて後娠り向いて見てはまた一散に食い入った。もとより厭く事を知らぬ余であるけれども、日の暮れかかったのに驚いていちご林を見棄てた。大急ぎに山を下りながら、遥かの木の間を見下すと、麓の村に夕日の残っておるのが画の如く見えた。あそこいらまではまだなかなか遠い事であろうと思われて心細かった。(くだもの)01
2022.06.05
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花咲くや彼岸へいそぐ渡し守(明治23) 明治34年9月24日の『仰臥漫録』には、餅のお土産が続いた事が記されています。 朝、歌原大叔母御来らる。お土産、餅菓子。 陸より自製の社丹餅をもらう。こなたよりは菓子屋に誂えし社丹餅をやる。菓子屋に誂えるは宜しからぬことなり。されど衛生的にいわば、病人のうちで拵たるより、誂える方宜しきか。何にせよ、牡丹餅をやりて牡丹餅をもらう。彼岸のとりやりは馬鹿なこと也。 お萩くばる彼岸の使行き逢ひぬ 梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな 餅の名や秋の彼岸は萩にこそ高橋より幸便に信州の氷餅を贈り来る。(仰臥漫録 明治34年9月24日) この日の朝は、歌原家より餅菓子が届きました。歌原家は大原観山の妻・重の実家で、子規の再従兄の三並良の生家です。柳原極堂の『友人子規』には「観山の室すなわち八重の聖母は名をしげといい、これも藩の漢学者歌原松陽の女にて、松陽は寒山が少年時代の師である」と書かれています。大叔父に当たる歌原良七は、高浜虚子の父・池内信夫とともに松山藩の能楽の保存につとめ、東京に住みましたが明治26年に没しています。歌原蒼苔は、次男の誠の長男・恒で、上京して明治義会中学校・一高に学び、のちに一高を中退しました。蒼苔は、藤野古白に俳句を学び、子規から、「蒼苔も昨年中に著しく進歩す。その句奇抜なるものまたは実景を写して新鮮なるもの多し」と評されています。 蒼苔は、のちに松山中学校に奉職し、日露戦争に派兵したのち朝鮮に移住、農園経営を行いながらも大邱府立図書館主任をつとめています。 隣の陸家からおはぎ(牡丹餅)をもらい、そのお返しに正岡家が菓子屋で誂えたおはぎを返しています。こうした、おはぎのやり取りは、小豆に対する信仰によるもので、小豆には魔・厄災を除く働きがあるとして、お彼岸などに食べられてきました。西方浄土を願うからこそ、おはぎを食べ、親しい家同士でおはぎのやり取りをして、互いの家の無病息災を願いました。子規はこのことを「彼岸のとりやりは馬鹿なこと也」と断じています。26日にも「午後家庭団集会を開く。隣家よりもらいしおはぎを食う」とあり、もらったおはぎを一家で食べたものと考えられます。 この日、信州の「氷餅」が送られてきました。「氷餅」は「凍み餅」ともいい、安曇野・松本・諏訪あたりの名物です。冬の間、水をかけた餅を外につるして凍らせ、水分がなくなるまで乾燥させたもので、春の始め頃から食べられるようです。9月では、とっくに氷餅の時期は過ぎているのですが、珍しいからと送られてきたようです。 この「氷餅」は、そのままお茶うけとしても食べられますが、お湯で戻したドロッとした餅に砂糖やハチミチで甘さを加えて、おやつ感覚で食べます。また、水に戻した餅を油で揚げたり、葛湯のように煮溶かしたりもします。元禄年間、アルプスからの寒風が吹き下ろす大町に住んでいた伊藤某が偶然考え出したものといい、いわゆる「凍み大根」や「凍み豆腐」と同じく、信州の自然を利用して材料を保存させる目的でつくられたものです。まるでフリーズドライの先駆けのようです。 子規は、「氷餅」の味をどのように感じたのでしょうか。
2022.06.03
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餅花の小判動かず國の春(明治26) 1月15日は「小正月」と言い、月齢の15日は満月にあたることから、農家を中心に豊作の祈りを捧げる日でもありました。この日はごこくり豊穣を願う日でもありました。この日は、小豆粥を炊いて作物の実りを占ったり、トンド焼きをして厄災を追い払ったりするなど、各地で様々な行事が行われます。 こうした「小正月」の行事でとしてつくられるのが「餅花(もちばな)」です。ヌルデ・エノキ・ヤナギ・ミズキなどの木に、小さく切った丸い餅や団子をさして飾ります。餅花は、豊作を前もってお祝いすることで、耕作の神に対して今年は必ず豊作にしてくださいという脅迫にも似た願いなのです。「餅花」は、神棚や玄関の近く、座敷などの柱に飾ります。まるで枝に花が咲いたように白や桃色の餅が揺れる華やかな枝は、新春らしい風情を醸し出します。梅の花のようですが、これは豊かに実った稲穂の象徴なのです。 繭玉や東風に吹かるゝ店の先(明治28) 養蚕の盛んな東日本では、「餅花(もちばな)」の餅の形を「繭」にして、「繭玉」(まゆだま)といいます。一年の五穀豊穣を祈願する予祝の意味をもつとされる。これは、絹産業が盛んな地域で、今年1年の養蚕が順調に進むことを祈ります。しかし、養蚕に従事する人たちが減ってしまった現在では、作物の豊作を祈る行事と変わりました。 また、餅の形は「繭」に留まらず、餅種でつくった小判や俵、七福神や宝船などを飾る地域もあり、後日、稲の精霊に堪へてもらおうと田んぼに入れたり、自宅で焼いて食べることもありますが、ほとんどは、小正月が過ぎると、とんど焼き(左義長)で枝ごとを炎で炙って食べます。その餅を食べことで、1年の無病息災を祈るのです。
2022.06.01
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うつくしきが中に菱餅絵蝋燭(明治30) 子規は、明治31年12月発刊の「ホトトギス」に掲載した『わが幼児の美観』で、ひな祭り、七夕を「一年のうちにてもっとも楽しく嬉しき遊びなりき」と挙げ、「昔より女らしき遊びを好みたるなり」と懐かしんでいます。 七、八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、われも早く年とりてああいうことをしたしと思いしこともあり。ある友が水盤というものの桃色なるを持ちしを見ては、そのうつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨みしこともありき。こればかり焼け残りたりという内裏雛一対、紙雛一対、見にくく大きなる婢子(ほうこ)様一つを赤き毛氈の上に飾りて三日を祝う時、五色の色紙を短冊に切り、芋の露を硯に磨りて庭先に七夕を祭る時、これらは一年のうちにてもっとも楽しく嬉しき遊びなりき。いもうとのすなる餅花とて正月には柳の枝に手毬つけて飾るなり、それさえもいと嬉しく自ら針を取りて手毬をかがりしことさえあり。昔より女らしき遊びを好みたるなり。(わが幼児の美観) 3月3日は、ひな祭り、桃の節句ですが、愛媛では4月3日に行われます。 江戸幕府は式日として「五節供」を定めました。1月7日の七草の節供、3月3日の桃の節供、5月5日の菖蒲の節供、7月7日の七夕の節供、9月9日の菊の節句がそれにあたります。これら、節句の行事は、もともとは宮中の儀式でしたが、室町時代になると武家に広がり、江戸時代になると庶民の間にひな祭りが広まります。桃の木は、悪魔を打ち払う神聖な木とされます。桃のパワーは、孫悟空の桃のエピソードや、日本神話で黄泉の国で悪鬼を退散させるのに桃を使ったり、桃太郎など、生命のシンボルとして伝えられてきました。 ひな祭りは、古代中国で行われていた3月の最初の巳の日に川に入ってけがれを落とす「上巳節(じょうしせつ)」という行事を基にしています。これは、奈良時代・平安時代に行われていた、3月3日の「曲水の宴」「ひひな遊び」に形を変えました。「曲水の宴」とは、曲がりくねった流水のほとりに座り、酒のはいった杯を水に浮かべ、杯が通り過ぎないうちに歌を詠まなければならないというものです。このときに桃の花を添えて白酒を飲んだともいいます。「ひひな遊び」とは、貴族の幼女に人形や調度を飾る遊びです。併せて、桃の節句の時期に野外に出かけて草をつむ「河原遊び」や海草を採る「磯遊び」などが行われました。このときに、人形を川に流すこともありました。これが「流しびな」となり、子どものけがれを人形に移して流すという信仰から来ています。ひな祭りは、もともとは紙の人形でしたが、江戸時代の女帝・後桜町天皇(1762~70)のころから装飾性を帯び、きらびやかになっていきました。「ひな人形を節句が過ぎたらしまわないといけない。そうしないと、婚期が遅れる」とよくいわれます。3月3日にひな人形を贈る風習が始まったのは室町時代で、人形を枕元においてけがれを移し、翌日、寺に奉納しました。つまり、ひな人形をけがれたままにしてしまわないと、けがれが残ってしまいますよという伝承なのです。 ひな祭りの食べものとして食べられるのは「菱餅」です。「菱餅」が登場するのは江戸時代になってからで、それ以前にはよもぎ餅が使われていました。また、貝料理が使われるのは、「磯遊び」の名残もあるのですが、二枚貝であるハマグリや赤貝は、他の貝とでは合わないことから貞操の象徴でもありました。 愛媛では、ひな祭りの時に食べられるのは「醤油餅」や「りんまん」です。ただ、どちらも今ではひな祭りにこだわらず食べられています。「醤油餅」は、松山初代藩主である松平定行の父・定勝が、慶長年間(596~1615)のひな祭りの日に、子孫繁栄を願って五色の餅をつくらせ、家臣に分け与えたのがはじまりといいます。ユズの「黄」、ノリの「青」、しょうゆの「茶」、ショウガの「桃」、砂糖の「白」の五色でしたが、そのなかで醤油をつかう餅が人気となり、「醤油餅」と呼ばれるようになりました。 上新粉に砂糖、醤油、ショウガ汁をあわせて湯でこね、耳たぶほどの柔らかさにして蒸すと、醤油のほのかな香りとかすかなショウガの旨味がコシのある餅によく似合います。大洲地方では、その形から「墨形」ともいい、江戸時代の料理書『古今名物御前菓子秘伝抄』には、「墨形」として「うるち米の粉に白砂糖を入れ、味噌溜り(醤油)に熱く煮た水を加えて固くこねる。平らに伸ばし、中に胡桃を刻んで巻き込み、蒸籠で蒸し、煮立てておいた溜りにひたして色をつけてからまた蒸す」と「しょうゆ餅」と同様の製法が記されています。店によっては、餡のはいったものもあります。「りんまん」とは、上新粉でつくった餡入り餅の上に赤、黄、緑の米粒を飾ったもので、「醤油餅」と同様にひな祭の菓子です。 松山には、徳川中期に松山に住んでいたという朝鮮の林さんが広めたという伝承が残っています。確かに、加藤嘉明が松山を治めた時代には、文禄・慶長の乱で捕虜となった朝鮮人を唐人町に住まわせていました。しかし、この伝承には疑問が残ります。「りんまん」に似た祝い菓子に松江地方の「ひな餅」があります。これは、米粉の生地で餡を包み、赤、黄、緑の色を加えて亀や蝶、花の形に蒸しあげたもので、五色の彩りもよく似ています。この色は、陰陽五行に関係する祝い菓子なのです。
2022.05.30
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永き日や飴売わたる瀬田の橋(明治28) 子規の門人のうち、俳人よりも歌人の方がお金を持っていて、子規は歌人からもらった小遣いを、俳人たちに振る舞うことがありました。河東碧梧桐の『子規を語る』には「鳴雪をはじめ、われわれ仲間は、どれも貧乏書生で、今日を食うに追われていた。伊藤左千夫、岡麓などいう歌よみ仲間が出来てから、俳人とは違って、財産もあり、商売も大きかったので、月々いくらかの金を小遣いによこすことになった。病床の上へ、木綿の財布をつるして、その小遣いをながめでは楽しんでいたこともあった。われわれが行くと、きょうは僕の小遣いでおごるから、何でも好きなものを註文おしよなどうれしそうにいうのだった。そんなに余計な小遣銭を持つことが楽しみなのか、と驚きもし、何やら涙ぐましくもあった。ちょうどそこへ、よかよか飴屋が、鉦太鼓ではやして来たのが裏戸近くにきこえた。早速、財布から何ほどかを出して、大急ぎで買わせにやった。そして、アアいう振売りものは、滅多にこういう奥へははいって来ない。何だかのびやかで、きいてる気持のいいものだ、奨励のために買ってやると、また来てくれるけれな、と言って、奨励のために串ざしの飴もたべた」と書いています。 ここに登場する「よかよか飴」とは、提灯などを立てた盤台を頭に載せ、歌や踊りを披露しながら飴を売り歩く行商人です。『東京風俗志』「売声と行商」には「往昔より子供騙しの菓子売ほどさまざまにおどけたる扮装(いでたち)をなし来れるはな狩るべし。古びたる高帽子を戴き、古洋服の色あせたるを着て、つけ鬚などおかしくしたる男の、太鼓を腹につけて『亜細亜のパン、欧羅巴のパン、パンパンパン』などうちはやしつつ、麺麭菓子、砂糖豆などを売り来れるあり。また『よかよか飴』とて飴桶頭に戴ける男の、太鼓うちたたきて来るに、背後に付添う婦の三味線弾き鳴らしておかしくうちはやせば、男の歌うて『よかよか飴屋さんにゃ、誰がなるよ、日本一の道楽者よ、そのまたおかかにゃ誰がなるよ、日本一のお転婆が』。かく謡いつ、踊りつして子供相手に飴、おこしなどを売るあり。これを恥じずや、かく明からさまに謡うさま、また肝潰るるばかりにあきれられぬ」とあります。 明治の文芸に「よかよか飴」は、よく登場します。中勘助の『銀の匙』には「よかよか飴屋もきた。真鍮の箍をたくさんはめた盥みたいなもののまわりに日の丸や小旗がぐるりとたって、旗竿のさきに鴛鴦の形をした紅白の飴がついている。鯉の滝のぼりの浴衣を着た飴屋の男が、うどどんどん、と太鼓をたたきながら肩と腰とでゆらりと調子をとってくるあとからきたあねさんかぶりをした女がじゃんじゃかじゃんじゃか三味線をひいてくる」とあり、樋口一葉は『たけくらべ』で、「萬年町山伏町、新谷町あたりを塒(ねぐら)にして、一能一術これも芸人の名はのがれぬ、よかよか飴や輕業師、人形つかい大神樂、住吉おどりに角兵衞獅子、おもいおもいの扮粧(いでたち)して、縮緬透綾の伊達もあれば、薩摩がすりの洗い着に黒襦子の幅狹帯、よき女もあり男もあり、五人七人十人一組の大たむろもあれば、一人淋しき痩せ老爺の破れ三味線かかへて行くもあり、六つ五つなる女の子に赤襷させて、あれは紀の国おどらするも見ゆ、お顧客は廓内に居つづけ客のなぐさみ、女郎の憂さ晴らし、彼処に入る身の生涯やめられぬ得分ありと知られて、來るも來るもここらの町に細かしき貰いを心に止めず、裾に海草のいかがわしき乞食さえ門には立たず行過るぞかし」と、大道芸人の一つに「よかよか飴」を入れています。 売っていた飴は、「ぎょうせん」と呼ばれる澱粉飴または麦芽糖飴で、後には砂糖を煮詰めた砂糖飴もあったようです。
2022.05.26
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牛に乗て飴買ひに行く日永哉(明治27) 明治34年9月18日の『仰臥漫録』には、いつもの通りの子規の健啖ぶりが書かれています。この日の昼は、ねじパンを含む菓子パンを食べたのですが、固くで美味しくないので、やけになって羊羹や菓子パン、塩煎餅などをやけ食いしてしまいました。おかげて、少しばかり腹が苦しくなりました。 この日、修善寺に行っていた岡麓が「さらし飴」をお土産に持ってきました。修善寺の名物ではありませんので、途中で川崎大師にでも寄ってきたのではないかと思います。お彼岸の前に、川崎大師では遍路大師年祭や大法要があるため、帰途の汽車で立ち寄ったものかもしれません。 当時の川崎大師では、飴屋が軒を並べて飴切りの音を響かせていました。そこでは柔らかい「さらし飴」が売られていて、歯の悪くなった子規でも食べられると踏んで、麓が気を利かせたのでしょう。「さらし飴」は、指でつまんで引っ張ると、滑らかに伸びていくほど柔らかく、どこかやさしい甘さと、ねっとりした口溶けは郷愁を誘います。 「さらし飴」は、「痰きり飴」とも呼ばれ、麦芽や米などのデンプンを糖化してつくられた水飴を固めたものです。茶色の水飴は「ぎょうせん飴」といい、これも痰をきるという効能よりも、飴を切る音が「タンタン」と賑やかなためにこう呼ばれたようですが、病床の子規に痰をきる飴を送るというのが、いかにも気遣いの人。岡麓です。口の中でトロリと溶け出すので、飲み込む時には喉を柔らかく包んでくれるようで、いがらっぽい喉や咳が続いた時にも、食べてみたい飴です。 ただ、気をつけないと、歯にくっついて歯を悪くしそうです。 九月十八日 晴 寒し 朝寒暖計六十七度 朝 粥三椀 佃煮 なら漬 昼 飯二碗 粥二碗 かじきのさしみ 南瓜 ならづけ 梨一つ 牛乳ココア入 ねじパン形菓子パン半分程度食う 堅くてうまからず よってやけ糞になって、羊糞、菓子パン、塩煎餅などくい渋茶を呑む。あと苦し。 夕 粥一椀余 煮松魚少しくう 佃煮 ならづけ 梅干 煮茄子 葡萄 庭に出来たただ一つの南瓜を取らしむ。 伊豆修禅寺の岡麓よりさらし飴をよこす。 母佃煮買いに行かる。(明治34年9月18日 仰臥漫録)
2022.05.24
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岡の茶屋に駄菓子くふ日や昼霞(明治30) 明治28(1895)年12月9日、子規は高浜虚子を道灌山の茶店に誘いました。 ヘルメット帽をかぶり、不機嫌そうな子規が「少し学問ができるかな」と聞くと、虚子は「足は学問をする気はない」と答えました。すると、子規は「お前を自分の後継者として強うることは今日限り止める」と怒りました。虚子は続けて「自分の性行を曲げることは私にはできない」と答えたといいます。 この年の7月24日、従軍で喀血した子規の看病を終え、須磨療養所を後にする高浜虚子に、子規は「幸いに自分は一命を取りとめたが、しかし今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。……そこでお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めておる(『子規居士と余』)」と語りました。 子規は、虚子を後継者とするため、学問をするよう諭していたのでした。子規の「学問ができるかな」という言葉は、虚子に後継者としての準備はできているかと尋ねるものだったのです。 虚子は、須磨で突然言われた子規の後継者任命に重い負担と窮屈さを感じていました。虚子は「居士の親近者であることが、決して後継者としての唯一の資格ではなかったのである。現に今日に於てこれを見ても居士の後継者は天下に充満しているのである(『子規居士と余』)」と書いていますが、生真面目な虚子は後継者になることを重く捉えすぎていました。子規の申し出を断った時、「同時に束縛されておった縄が一時に弛んで五体が天地と一緒に広がったような心持がした」と書いています。 子規が最期の息を引き取ったときに母親の八重がいいました。「升は一番清さんが好きであった。清さんには一方ならんお世話になった」という言葉のように、子規が頑張って築いた俳句の道を、信頼できる虚子が後世に繋げてくれるだけでいいという意味だったのではないでしょうか。 道灌山の茶店の婆が出した大豆を飴で固めたような駄菓子を、子規は虚子に「おたべや」と勧め、自分もひとつ口に入れたといいます。自らがつくった俳句を継承することは、駄菓子のようなものかもしれないが、食べてみなければわからないだろうという、そんな子規の暗喩を感じます。 駄菓子は、高級菓子に対比する言葉で、一文菓子ともいいました。雑穀や水飴、ぎょうせん(麦芽)飴の類いを使った豆菓子や煎り菓子など、庶民に愛された菓子でした。 明治32(1899)年、子規は人力車で道灌山を訪ねます。道灌山からの平野を一望し、「上りて見れば平野一望黄雲十里このながめ廿八年このかた始めてなり(『道灌山』)」と感想をもらしています。そして、胞衣神社の前の茶店に憩い、柿を食べました。 虚子との別れで駄菓子を買った駄菓子屋は、昔より荒れはてていました。「この坂は悪き坂なり赤土に足すべらせそ我をこかしそ」という歌を詠みましたが、それは後継者を失った思い出を詠んでいたのかもしれません。 道灌山は、日暮里にある高台で、太田道灌が築いた城とも、鎌倉時代の豪族・関道閑の屋敷があったともいいます。江戸時代には、薬草の採集地や、虫の音の名所としても知られていました。西に富士山、東に筑波山が眺められたこの高台は、現在、開成学園のグラウンドになっています。
2022.05.21
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一匙のアイスクリムや蘇る(明治32) 明治32(1889)年8月23日、朝から体調の良かった子規は、人力車で神田猿楽町の高浜虚子宅に向かいました。虚子は、長女の真砂子とともに写真を取りに行ったというので家で待っていると、二人が帰ってきます。 虚子の妻が氷はどうかと声を掛けると、虚子が身体に良くないと断りますので、アイスクリームを子規に薦めます。虚子が心配しましたが、子規は「食べたい」と遠慮なく応えました。根岸ではアイスクリームがなかなか手に入らず、どうしても食べたいと思っていたのでした。 子規は、アイスクリーム2杯をペロリと平らげます。実に5年、6年ぶりの味であるといいました。 子規は日清戦争取材の帰途に喀血して入院した須磨の神戸病院でアイスクリームを食べたものです。『病牀日誌』には、明治28(1895)年6月20日にアイスクリームを食べた記録があります。 帰宅した子規は、その日の内にお礼の手紙を、虚子の子供の「マーチャン」「マー坊」こと真砂子に託して送りました。 西洋料理のお礼とともに、「昼飯を早く食べていたので、アイスクリームは二皿しか食べられなかった。昼飯を二度に分けて食べていたら四皿は食べられたかもしれない。昨年に比べて身体が衰弱しているようだ」と書いています。 その手紙には「一匙のアイスクリムや甦る」「持ち来るアイスクリムや簞」という二つの句が添えられていました。 また、この日のことは子規の大きな喜びだったらしく、従兄の佐伯政直に「昨日はうれしき事ありて朝来気分うきたち候故、急に思いつきて三時頃より猿楽町に高浜を訪い申候。アイスクリームとか西洋料理とか、根岸にては喰えぬ物を御馳走になりて夜帰り申候」と送理、紀行文『いざり車』にアイスクリームを食べたことを記しています。 マーチャンに托す 今日は西洋料理難有候。 生憎昼飯を早くくいしために晩飯に頂戴致候処、二皿より上はたべられ不申候。もし昼飯二度にたべ候わば四皿たべ可申か。昨年に比しても衰弱思い知られ候。アイスクリームは近日の好味早速貪り申し候。 ー匙のアイスクリムや甦る 持ち来るアイスクリムや簞(明治三十二年八月二十三日 高浜清宛書簡) 昨日はうれしき事ありて朝来気分うきたち候故、急に思いつきて三時頃より猿楽町に高浜を訪い申候。アイスクリームとか西洋料理とか、根岸にては喰えぬ物を御馳走になりて夜帰り申候。車上はかなり苦しけれども、別に故障もなかりしように候。 高浜の子、女にて去年三月生れなるが、いろいろ訳の分らぬ言などいいて可愛らしく候。私も子供一人ほしく候。(明治三十二年八月二十三日 佐伯政直宛) 八月廿三日快晴、風少し。朝、歌話を書かんとて歌の本など取り散らし見る。始めて田安宗武の歌を見るに万葉調にして趣向斬新なり。実朝以後歌人無しと忍びしに俄にこの人を得て驚喜雀躍に堪へず。吾は余りの嬉しさに虚子を猿楽町に訪わんと思い立ちぬ。……虚子の家に着く。虚子在らず。今マー坊をつれて写真取りに行きしが最う帰る程なり、と妻なる人の、そこらに出し散らかしたる新聞のとじ込みを片寄せ押しやりつつ言う。……「太陽」を開きて江馬天江という翁の白き長き鬚など見居る内、虚子は子を抱きて、重し重しといいつつ帰り来れり。今日この頃吾の来ることを思いもうけざりけむ驚き喜びて話す。吾も、宗武を得たる嬉しさを述ぶ。妻なる人、氷はいかに、という。そはわろし、と虚子いう。アイスクリームは、という。虚子、それも、といわんとするを打ち消して、食いたし、と吾は無遠慮に言いぬ。誠は日頃此物得たしと思いしかど根岸にては能はざりしなり。二杯を喫す。この味五年ぶりとも六年ぶりとも知らず。ベルモットを飲む。これも十年ぶり位なるべし。マー坊は去年三月生れなり。僅かに一二の語を解す。其他はわけの分らぬ事を父に向いて、意味ありげに喃々と説く。いと可愛し。喜んでベルモットを飲み、尽くれば又コップを父の顔につきつけてねだる。吾も子供一人ほしく思う。(いざり車)
2022.05.15
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菓子箱をさし出したる火鉢哉(明治33) 明治33(1900)年11月30日、子規は伊藤左千夫と岡麓を自宅に招き、自宅の煖炉の据え付け祝いを催行しました。13日に行った据え付け工事への二人の労をねぎらうためでした。 その前日、岡麓に子規から手紙が届きました。「明三十日、煖炉据付祝として左千夫君を招き候につき、夕飯くらいに御出掛下間敷や。末日故如何やとは存候えども試に申上候。甚だ失礼なれども青木堂の西洋菓子三四十許御買求御持参被下まじくや」と、西洋菓子購入を頼んできました。 岡麓は、子規の注文に応えて帝国大学の脇にある青木堂に寄って洋菓子を買い求めました。麓は、東京生まれでしたが、洋菓子屋に寄るのは初めての経験でした。子規宅に洋菓子を届けると、子規は待ちかねたように箱を探りました。そして「シュークリームがないなあ」と独り言を呟いたのでした。子規は、昨年の同時期に、坂本四方太が届けてくれたシュークリームの味が忘れられなかったようなのです。四方太に「シューだとかフランスパンとか花火の音見たような名を聞きながら喰うたのもうれしかった(明治32年11月29日書簡)」というお礼を告げています。シュークリームが入ってないことに、少し残念な思いがした子規でした。 その日の会が終わり、子規から麓のもとへ早速の手紙が届きました。 啓。ただいま失敬致候。喰いすぎて寝られず候まま用事もなけれど一書差上申候。今夜貴兄の容体を伺うに甚だよろしからず、御病中を御出被下候事と御気の毒に存候。今後寒中は夜気にあたらぬよう御用心可被成候。かつまた気分を落ち着けて言語挙動とも可成静に被成候わねば、やりそこないなしともうされず候。 熱あれば寝るべし 息迫る時は静まるべし 寒ければ米を焚くべし 精神は活発なるべし 但煩悶すべからず 道楽は適宜なるべし 但分別を失うべからず 今夜の御馳走は如何にも辛い御馳走にて咽喉かわきて堪えられず、蜜柑ほしくてほしくてせん方なけれど、最早買いに行くべき店もなしとて内の者にもことわられ、不得已塩湯を呑み紅茶の出流れの渋きを砂糖なしに飲み、遂に冷水を飲み候えども、胸なお焼申候。今夜は蜜柑の思いにて眠れ申しまじく候。 我庵や柚味噌売る店遠からず 草庵の煖炉開きや納豆汁 歌よみよ我俳諧の奈良茶飯 右の句書て見れば季なし 芭蕉忌や我俳諧のなら茶飯 これでは今日の句にならず 芭蕉忌はまだ三日先なり 俳諧の奈良茶茶の湯の柚味噌哉 左向に寝て書き候処腰が痛くてたまらぬようになり候故これでやめ申し候。(明治33年11月30日 岡麓宛書簡) 今日食べた料理が塩辛いので喉が渇いたのでみかんが欲しいという願いを込めた手紙でした。麓は、次の届け物はみかんにしようと思ったのでしょうか。 岡麓著『正岡子規』の中の「桜の枝」には、シュークリームの思い出が書かれています。 ずっと後であるが、青木堂の西洋菓子を二十個ばかり買って来てくれとの葉がきであったので、(東京)大学脇の青木堂へよって買い求めた。すぐに持参すると先生は待ちかねたという按配でボール箱のふたをあけるなり、さがしてみられたが、あてにしたのがない。独言のようにつぶやいて「シウクリームがないなあ」と失望されたのだった。私はいかにもきまりがわるく、だまっていた。私は青木堂の店へ出かけたのもはじめてであったし、西洋菓子を買うのも、何という名のものがあるのを知らなかった。実際都そだちだのに洋菓子を食った事のなかったほど世間と離れて育って来たのである。「シウクリーム」をまぜてなどと気の利いた註文をしようにも食べた事がなかったのである。然し、先生はそうは思われないで、注意がとどかず、あてがいぶちをくって買って来たと思いこまれての不機嫌であった。この注意がとどく、とどかぬは大切であるが、そのもとは多くは無知に因る。洋菓子のしくじりは後日長塚節君に話して、二人でシウクリームを食った。それから以後は必ずみやげ物にはシウクリームを買って来てくれた。 四方太が子規のもとにシュークリームを届けたのは、明治32年11月24日のことでした。子規は四方太へのお礼の手紙に「翌々日君は突然と僕の蒲団の上に顔出した。それも嬉しい。すると烟草の筥から西洋菓子が出た。最うれしかった。これが「うれし会」の一日置いて次の日であったのも面白い。それを持て来た人が木綿着物の文学士であったのも面白い。シユーだとかフランスパンとか花火の音見たような名を聞きながら喰うたのもうれしかった。これを柚饅会の迎え菓子とでも称えて、これで余波が尽きたとする。しかし僕の心ではまだ余波があってもいいようだ」 西洋料理店などで、西洋菓子を食べることはありましたが、それが販売されるのは、明治10(1877)年、両国若松町にあった米津風月堂から始まりました。この年の8月から10月までの間、上野公園で「内国勧業博覧会」が開かれ、風月堂は鳳紋賞の栄冠を得ました。翌年夏にはアイスクリームを販売し、年末にチョコレート、明治13年(1880)には英国から輸入した機械でビスケットがつくられています。明治17(1884)年に、米津風月堂の米津松造の息子・米津恒次郎がアメリカに留学。恒次郎は3年のアメリカ修行ののち、ヨーロッパに渡ってロンドンやパリに学び、明治23(1890)年に帰国します。 米津風月堂の品目は、明治25(1892)年の「東京朝日新聞」広告に「キャンデー、ボンボン、リキュール、シュークリーム、プロムケーキ、マカロン、ビスキュイ、アイスクリームなど(『近代日本食文化年表』)」と載っています。子規垂涎のシュークリームは、のちに各地にできる西洋菓子店でも入手可能になりました。吉田菊次郎著『西洋菓子彷徨始末』に、シュークリームが日本にいつ頃登場したかという考察があります。明治20年代半ば頃にシュークリームが登場し、明治29年には、米津風月堂かシュークリームとエクレアをつくっていたとあります。
2022.05.13
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原千代子きのふ来りてくさぐさの話ききたりカステラ食いつつ 明治33(1900)年5月9日、子規の病床に原千代女(千代子)がカステラを土産に訪ねてきました。翌日、香取秀真に宛て「原千代子昨日来りてくさぐさの話をききたり、カステラを喰いつつ」と手紙を送っています。 千代女は神戸元町の貿易商「大島屋」の長女で、筋向かいに今も続く神戸風月堂がありました。神戸風月堂は、東京の風月堂に弟子入りしていた初代吉川市三が明治30(1897)年に創業した店です。子規の家に持参したカステラは神戸風月堂のもので、千代女が帰省の際に求めたものでしょう。帰省の旅の出来事や神戸の様子などの話が大いに盛り上がったのではないかと、短歌からも想像されます。 子規がカステラを食べるのは、これが初めてではありません。記録を辿ると明治28(1895)年5月27日、神戸病院で牛乳、スープとともに食べています。残念ながら、子規が神戸病院にいた頃には、まだ神戸風月堂が誕生していないため、千代女持参のカステラとは異なります。しかし、千代女の持ってきてくれたカステラは、神戸病院での懐かしい思い出を運んできてくれたことでしょう。 原千代女は明治11(1878)年、神戸の大島家に生まれ、京都府立高等女学校から東京の女子美術学校に進み、父方の祖父に当たる「原」の姓を継ぎました。子規からは俳句を、落合直文からは短歌と国文学を学び、明治40(1907)年に鋳金家の川崎安民と結婚して、養子に迎えます。安民は、香取秀真や画家の横山大観、下村観山らと東京美術学校(東京芸術大学美術学部)の同窓で、岡倉天心を師と仰ぎました。のちに天心が創刊した「日本美術」の編集をまかされ、安民は日本美術社社主となりました。 ポルトガルには「カステラ」という名の菓子はなく、原型とされる菓子もカステラとは見た目も製法も異なります。「カステラ」の名前は、スペイン語で城を意味するカスティーリョ(castillo)に由来するとも、イベリア半島で11世紀に繁栄したカスティーリャ王国(Castilla)のポルトガル語発音であるカステーラ(Castela)といわれ、これが「かすていら」もしくは、「かすてえら」から「カステラ」になったといいます。また、カステラ製造のためにメレンゲをつくるときに、「城(castelo)のように高くなれ!」と高く高く盛り上がるまじないからともいわれます。 カステラは南蛮菓子の一つですが、16世紀の室町時代末期にポルトガルの宣教師によって平戸や長崎に伝えられました。江戸時代になると、江戸・大坂を中心にカステラと、カステラを焼く炭釜の改良が進められ、江戸時代中期には現在の長崎カステラの原型に近いものがつくられるようになりました。 教育社から出ている現代訳の『古今名物御前菓子秘伝抄』(鈴木晋一)には「古今名物御前菓子秘伝抄(享保3年・1718)」「古今名物御前菓子図式(宝暦11年・1761)」「菓子話船橋(天保12年・1841)」の「かすてら」のつくり方が掲載されています。それぞれの製法の違いから、カステラ作りが進化したことがわかります。 鶏卵五〇個を割ってかきまぜ、白砂糖六〇〇匁(2.25kg)、小麦粉五〇〇匁(1.88kg)を入れてよくこね合わせ、銅の平鍋に紙を敷いて流し入れる。この平鍋を大きな鍋の中へ入れて金属の蓋をし、上下に火を置いて焦げ目のつくまで焼く。焼き上がったならば、いろいろの形に切る。ただし、焼く場合に下火は上火より強くする。※かすてらは、江戸時代最も人気のあった高級南蛮菓子だった。諸書にその製法が見られ、なかには膨化剤らしきものを用いたり、卵白をすり、泡立てて膨化に利用している例もあるが、本書のこの製法ではふっくら焼けたかどうか、疑問である。(古今名物御前菓子秘伝抄) 鶏卵一〇〇匁(375g)を割って小麦粉一〇〇匁を加え、播鉢ですったところへ、竹篩(たけぶるい)を通して白砂糖一一五匁(431g)を入れ、よくすりまぜる。火鉢に火をおこして四隅に埋めておき、さて、銅の焼鍋の中へ板で枠をつくって入れ、中へ厚紙を箱形に折って敷き、そこへすりまぜておいた種を流し入れ、上に渋紙で蓋をして火にかける。こうして暫くおいて熱が鍋の中に通りはじめたころ、渋紙をとって銅の蓋に替え、蓋の上に中央をあけて周囲にぐるりと火を並べる。 やがて上火の熱がまわってくると、かすてらは膨れて浮き上がってくるので、ぐあいよく焼色がついたとき、細く割った竹をところどころへさし込んでかげんを調べる。よく火が通っていれば、竹にねばりつかなくなるから、それを見はからって鍋を火からおろして冷まし、かすてらを取り出して適宜に切る。右の火かげんは上下ともに弱めの火がよい。だいたい四時間ほどででき上がる。分量の多少に関係なく、右の割合でつくる。※本文は具体的に書かれており、製法そのものも材料を合わせて播鉢ですりま競ることによって膨化をはかつており、『御前菓子秘伝抄』にくらべると大きく進歩している。渋紙は、紙をはり合わせて柿渋を塗ったもので、風や水を通しにくく包装用などに使われた。(古今名物御前菓子図式) 小麦御膳粉一二〇匁(450g)、鶏卵大一五個、唐三盆砂糖二〇〇匁(750g) 砂糖はそのまま篩にかけて塵を除き、小麦粉と合わせて水でほどよく溶き、鶏卵を割り入れてよくよくかきまわし、さて、かすてら鍋の中へ厚紙で文庫をつくって入子にし、その中へ種を流し入れる。鍋には共蓋をして、その蓋の上にも火を載せ、上下から焼く。火かげんは上七分、下三分というのがきまりである。上の火をなるべく強くして、下の火は弱くする。中までじゅうぶん火が通って焼けるまでの時聞は、ふつうの線香一本半が立つほどの間である。線香を立ててはかるとよい。※かすてら鍋の名は、『料理早指南』四篇(1822)に見られる。同書にはその図があり、長方形で平底の銅鍋が描かれ、〈大ぶた有〉と記されている。大きな共蓋があって、その上に強い火を置いたわけである。また、共蓋であったかどうかは書いてないが、銅製の鍋を使うことは『和漢三才図会』(1715)から見られる。それ以前はどんな鍋を使ったかわからないが、鍋に流し入れた種の上に油紙をあて、その上から火のしで焼く方法が『料理塩梅集』(1668)に書かれている。専用のかすてら鍋をつくり出すまでには、いろんな曲折があったのだろう。文庫というのは小物入れの整理箱のことだが、ここでは紙を折って箱形にしたものをいっている。(菓子話船橋) 晩年の子規は、投稿された俳句を閲覧し、選句するのを日課としていました。病状が重くなると、そうした俳句を見るのも難しくなり、次第に俳句の投稿が枕元に貯まるようになりました。それを見かねた子規の母・八重は、「藤村」と焼印の押されたカステラの空き箱に入れました。 その様子を、高浜虚子は小説『柿二つ』に描写し、河東碧梧桐は『回想の子規』でそのことに触れています。 こうやっていると小さい一本の筆が重くなる。筆が重くなるというよりも腕が重くなるのである。痩せた自分の腕が重くなるのである。そういう時には投げるように畳の上にその筆を持った右の手を落す。と同時にまた草稿を持った左の手をも蒲団の上に落す。 草稿というのは新聞の文苑に出す俳句の投書である。少し怠っていると、来るに従って投げ込んで置く一つの投書函が忽ち一杯になる。それが一杯になると、あたかも桶にたまった一杯の水が添水(そうず)を動かすように、この病主人を動かしてその選抜に取りかからしめるのである。 一昨年の暮まではまだ時々は社に出勤することも出来たし、そうでなくっても机に凭れて仕事するくらいのことには差支えなかったのである。自然俳句の投書も、来るに従って見、見るに従って選句を原稿紙に書留めて置くくらいのことをそれ程労苦とは思わなかったのであるが、昨年になってから腰部の疼痛がだんだん激しくなって来て、固より出勤は思いもよらず、家に在って仕事をするのも大方は寝床の上にあって、まだ蒲団の上に机を置いてそれに凭れるくらいのことは出来ないことはないにしても、どちらかといえば仰臥していることを一番楽に感ずるようになったのである。「こんなに散らかっていてはしようがない」 と言つて老いた母親が大きなカステイラの空箱を持出して来て、それに俳句の投稿を纏めて入れたのはその頃からであった。その空箱にはふじむらと烙印(やきいん)がしてあった。病主人は情無いような腹立たしいようないらいらした心持をじっと抑えながら、初めて枕頭に置かれたその箱を空眼をつかって見た。 見渡したところ一つとして貧し気でない什器は無いのであるが、このカステイラの空箱も決して病主人の眼を楽しましめるものではなかった。その上自分の体のだんだん自由を欠いて来ることが事毎につけて情無かった。俳句の投稿を散らかさないために纏めて一つの箱に入れて置くということには異存の唱えようがないのであったが、唯それが自分の意思から出たので無く、また自分の手でなされたのでも無く、他人の手で容易に取り運ばれていつの間にか取り澄まして枕頭に置かれているということがじりじりと癇癪に障った。彼は何も言わずに唯じっとその箱を見詰めていた。ふじむらという変体仮名の烙印と暫く睨めっくらをしていた。鉛のような冷たい鈍重な心持ちが頭を擡げてきてそのいらいらした癇癪と席を取替えるまで。 それ以来、このふじむら氏は長く投書函の役目を勤めて今日に来っているのである。それも初めの間は少し投書がたまると、すぐ選句に取りかかるのであったが、それがだんだんと延び延びになって来て、今年の春頃からは一杯になるのを合図にして選句に取りかかる例になった。(高浜虚子 柿二つ) 年の暮と新年は新聞の厄月、雲州蜜柑は昔からの通り相場。アト四日、大晦日までの分は、まアどうやら埋め合わせるだけの原稿が出来たので、ホッと一息ついた処だった。今日は案外筆が進む。ついでに、新年の分も一、二回、墨をすり終わって、例の支那筆の小全豪を手にしたが、カタリと音をさせて投げ出した。 チラッと彩られた光線の閃きが、机の左手の下の方を掠めて過ぎた、そんな気がしたのだ。そこには、いつでも枕元に置いてある、カステラの空箱があった。二円内外のカステラの入っていたらしい、かなり大きな箱なんだ。レッテルもまだそのままにしてある。カステラは空なんだが、その中には、諸方から来る俳稿が入れてある。開封で来るのが多いので、封紙を取った中身だけを、来たとも何とも言わず、家人が入れて置くのだ。もう中身は大分溜まって、餡が食み出そうに、蓋が少しずっている程だ。(河東碧梧桐 回想の子規 徹夜) 「ふじむら」というと、本郷の「藤村」がまず頭に浮かびます。『東京百事便』には「藤村 本郷4丁目」として「練り羊羹をもって有名なり。そのほか大徳寺は茶人の好むものにて田舎饅頭は一般下戸の喜ぶ菓子なり」とあります。「藤むら」は、もともと加賀の菓子舗でした。加賀百万石の前田利家は、豊臣秀吉が催した茶会で供された羊羹に括目し、金沢の地で羊羹を創るよう、金戸屋の忠左衛門に命令しました。忠左衛門は、40年にわたる苦心の末、三代藩主・利常の時代にようやく独自の羊羹を完成させます。その時に利常から「濃紫の藤にたとえんか、菖蒲の紫にいわんか、この色のこの香、味あわくして格調高く、藤むらさきの色またみやびなり」との絶賛を受け、金戸屋は藩の御用菓子司となりました。 宝暦4年(1754年)、加賀十代藩主・重教の江戸出府に従い、金戸屋は江戸の加賀藩下屋敷の赤門(現東京大学の赤門)近くに店を構えました。その際、羊羹の色に因んで「藤村」と名乗り、店の屋号を「藤むら」としたのでした。 現在、「藤むら」は店を閉めています。東京新聞編『東京の老舗』の中に「ようかんをはじめ和菓子ひとすじに精進し、おいしいものをお客様へということである。これを『藤むら』の正道と思い商売に励む当主昌弘さんの信条は、スモール・イズ・ビューティフル。単に小さいことに価値があるのではなく、それが美しく輝いていることに価値がある。商いを大きくせずに、大量に作らず、ていねいに手作りするからこそ価値があり、人を幸せにする味が生まれるという」とあります。とすれば「ふじむらと烙印(やきいん)がしてあった」というカステラの空き箱は、果たして「藤むら」のものでしょうか?
2022.05.11
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到来の赤福餅や伊勢の春 子規の句を赤福に伝えたのは伊勢の俳人・山本勾玉(こうぎょく)です。勾玉は、明治34年1月22日の『墨汁一滴』に登場します。病床の子規のもとへ「御両宮之真境(古版)」「御神楽之図(地紙)」「五十鈴川口のはぜ(薬という丑の日に釣る)」「高倉山のしだ」を送り、それが20日に届いています。 伊勢山田の商人勾玉(こうぎょく)より小包送りこしけるを開き見れば、くさぐさの品をそろへて目録一枚添えたり。祈平癒呈(へいゆをいのりてていす)御両宮之真境(古版) 二御神楽之図(地紙) 五五十鈴川口のはぜ(薬という丑の日に釣る) 六高倉山のしだ 一 いたつきのいゆといふなる高倉の御山みやまのしだぞ箸はしとしたまへ 辛丑(かのとうしのはじめ) 大内人匂玉 まじめなる商人なるを思へば折にふれてのみやびもなかなかにゆかしくこそ。(墨汁一滴 一月二十二日) 勾玉は、明治33年4月8日に子規庵で行われた「俳句月次会」に出席しています。勾玉は商人でしたから他にも子規のもとを訪れる機会があったかもしれません。もしかしたら、この時に「到来の赤福餅や伊勢の春」の句の描かれた短冊か色紙をもらったことも考えられます。 平成29年6月29日の午後1時から、赤福の平居専務が子規博物館に見えられ、学芸員の方々からお話を伺う場に同席させていただきました。 事の発端は朝日新聞の方から『大食らい子規と明治』の取材を受けた時、子規庵の理事さんから受けた質問があり、ブログに発表した内容についてお話ししたところ、貴社の方が赤福に取材したところ、急遽、赤福の専務さんが来られることになったのです。 包装紙に記載されている「到来の赤福餅や伊勢の春」が果たして正岡子規のものであるかということの真偽について確認をしたいというのが、赤福の専務の松山来訪の理由でした。 「到来の赤福餅や伊勢の春」は、子規の句だと研究者の間では認められていないものの、子規の句ではないと否定することはできないというのが、子規博側の返答でした。もし、子規が詠んだものと認められるような文献や短冊が見つかったなら、子規のものと認定される可能性が残されています。 明治44年から使われていたこの句が問題になることは今までもなかったことから、赤福側も驚いていると聞きました。句会などでいただいた短冊は、なくなってしまえばその存在を証明することができません。 いわば、グレーゾーンに属する句なのですが、現在の赤福の包装紙からは「到来の赤福餅や伊勢の春」の句は消えてしまいました。新たな資料の発見が待たれるところです。
2022.05.09
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到来の赤福餅や伊勢の春 上の句は、赤福が株式会社になったときの初代社長・濱田ますさんが書かれた『赤福のこと』という本に拠っています。ますさんは濱田家8代目・種三の妻で1956年から68年まで社長をつとめ、のちに会長となりました。 先にも少しお話ししましたが、かつて神風館に徘徊を学びました父種助の影響を受け、私の夫種三も俳句をよくし、自宅で句会など開くようになりました。伊勢には神風館のあるを見ましてもわかりますように、句作をなさる方が大勢おみえになり、俳句の革新を唱え「ホトトギス」をお創りになった正岡子規の門弟山本勾玉(こうぎょく)様も、そのお一人でした。その山本さまが明治三十三年の春、すでに病の床に臥しがちであった子規先生のお宅へお見舞いに参られました折、手みやげに赤福を持って行かれましたとか。 子規先生は「病床にあって外出もままならぬ日々を重ねるうちにいつしか春を迎えましたが、私が過ぐる年伊勢に参宮したのもちょうど今ごろでした。あの折に立ち寄った店が赤福だったのですね」と四方山のお話などなさりながら、おみやげを懐かしそうに召されて、伊勢の春を偲びつつ、 到来の 赤福餅や 伊勢の春 とお読みくださいました。すると、ご同席の河東碧梧桐様がその後を、 伊勢の春 赤福餅の 店一つ 春永く 赤福餅の 栄うらん と続けられたそうでございます。また、この場に居合わされた子規先生の高弟高浜虚子先生も昭和十年ごろ手前どもの店にお立ち寄り下さいまして、ありし日を偲ばれ、 旅は春 赤福餅の 店に立つ と詠まれたのでございました。(濱田ます 赤福のこと) この文にリアリティがあることから根拠を伺いますと、赤福に伝わる「伊勢の浜荻」という冊子から取ったものではないかということでした。残念ながら、その冊子は所在不明になっていて、探しているところだといいます。また、子規の句が包装紙に記載されるようになったのは明治44年からだそうです。 この文章が史実と異なるところは子規の伊勢参宮で、20歳の時、子規は四日市に訪れているのですが、当時鉄道などの交通機関が整備されていないことから、参宮は無理ではないかと思います。 山本勾玉が子規庵を訪れたのは、4月8日の子規庵で行われた「俳句月次会」で、この日は花見で人が集まらず、子規は「句つくりに今日来ぬ人は牛島の花の茶店に餅くひ居らん」の歌を詠んでいます(明星 病牀十日)。会には、鳴球、三子、一五坊、塵外、秋竹、紅緑、子規、廉郎、紫人、耕村、潮音、芹村、道三、快山、虹原、勾玉らが集まり、碧梧桐と虚子は参加していません。(子規選書 子規の一生) この時に赤福を持参されたとすれば、明治33年3月24日の「日本」新聞に「餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠」の句が掲載されたあとのことになります。日本派の勾玉とすれば、「日本」に赤福にまつわる句が掲載されていたので、土産に「赤福」というのは頷ける話です。 また、高浜虚子の句「旅は春赤福餅の門に立つ」は、昭和9年6月に詠まれ、『玉藻』に掲載されています。(定本高濱虚子全集第1巻460P・毎日新聞社)
2022.05.07
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到来の赤福餅や伊勢の春 上の句は、ほんの少し前まで赤福の包装紙に、子規の句として高浜虚子の句「旅は春赤福餅の店に立つ」と並んでいたものです。現在、この句は消されてしまいました。 この句は、子規の句としては認められていません。句の構造は、子規が明治33年に詠んだ「病牀の浄瑠璃本や春の宵」「顔を出す長屋の窓や春の雨」によく似ています。 伊勢を題材にした子規の句は11あり、明治26年に5つの句を詠んでいます。 春風や伊勢をの海人のさばき髪 松の花伊勢の朝日の匂ひ哉 海苔掻きや伊勢越の海人の水鏡 海老にさへ伊勢の名はあり神の春 裏白のある夜伊勢海老に語って曰く これらの句は、伊勢海老を前にして詠んだものでしょう。 草枕今年は伊勢に暮れにけり(明治27年・明治31年1/30「ホトトギス」に発表) のどかさや駅のはづれの伊勢の海(明治28年・明治31年3/30「ホトトギス」に発表) 大和をめぐり伊勢に出でこゝに春暮ぬ(明治30年) まるで、旅の途中で読んだような句ですが、これは子規の想像の産物です。子規は多彩な文献や資料を残しているため、子規の歴史をたやすく辿ることができます。多くの地を旅している子規なのですが、残念ながら伊勢を訪れてはいません。明治28年5月、従軍記者として大連に渡った子規は、帰国途上の船で喀血します。以後、身体は蝕まれていき、旅どころではなくなります。 ならば、病床の子規に、名物の「赤福」を届けたのではないかという推理が働きます。伊勢神宮は多くの人が訪れますし、旅の土産なら「赤福」が最適です。また、三重には洞会、不洞会、白萩会、蓬莱吟社などの俳句結社があり、子規のもとに「赤福」を送ったとも考えられます。 赤福は、伊勢神宮の門前で食べる名物餠で、餅を漉し餡でくるんだ、いわゆるあんころ餅です。餡には三筋の模様があり、伊勢神宮に流れる五十鈴川の川を表しているといわれます。 餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠 この句は明治32年に詠まれ、翌年3月24日の「日本」新聞に「赤福餅」の題で発表されています。この句に影響されて「到来の赤福餅や伊勢の春」が誕生したのでしょうか⁉︎ 以前の赤福のホームページには、次のようなことが書かれていました。 赤福の包装紙の裏に書かれている俳句は、二種類ございます。「到来の 赤福餅や 伊勢の春」 正岡子規 明治33年の春、病に臥しがちだった子規の下へ、お弟子さんが「赤福餅」を手土産にお見舞いにこられたそうです。それを見た子規は、かつて元気だった頃に伊勢に参宮したのも春であったこと、またその際立ち寄った店が「赤福」であったことを懐かしみ、伊勢の春を偲びつつこの句を詠んだと言われております。 「旅は春 赤福餅の 店に立つ」 高浜虚子 昭和10年頃、虚子は私どもの店にお立ち寄りになりました。過日、病床にあった子規を伊勢の弟子が「赤福餅」を手土産に見舞われた際、子規が上記「到来の~」句を詠まれたことを懐かしみ、ありし日を偲ばれこの句を詠んだと言われております。書かれた文章「明治33年の春、病に臥しがちだった子規の下へ、お弟子さんが「赤福餅」を手土産にお見舞いにこられたそうです。それを見た子規は、かつて元気だった頃に伊勢に参宮したのも春であったこと、またその際立ち寄った店が「赤福」であったことを懐かしみ、伊勢の春を偲びつつこの句を詠んだと言われております。
2022.05.05
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初冬の黒き皮剥ぐバナゝかな(明治32) 相別れてバナヽ熟する事三度(明治35) 正岡子規は、明治35(1902)年7月31日、『菓物帖』にバナナを描いたその日、台湾にいる子規の門人・渡辺香墨に、「相別れてバナヽ熟する事三度」「秋の部に子規忌加はる恨みかな」の短冊を送っています。 香墨は、子規より一つ年上で、東京法学校(元・法政大学)を経て法律家になり、明治33(1900)年、台湾総督府の検察官として台湾に赴任しました。台湾から、子規のもとへ、バナナをはじめとする熱帯産の果物を送っています。子規は、香墨から贈られたバナナやパイナップルを描いたようです。 香墨が子規のもとに初めて訪れたのは、明治27年の夏のことでした。千葉の裁判所に勤めていた香墨は、子規のことを40近くのずいぶん傲慢な男のように想像していましたが、会ってみると年齢は自分よりも少しは若いようだし、謙遜家であったことに驚いています。 明治29(1896)年の秋、香墨はそれまで学んでいた月並俳句の門を振り捨て、子規門へと入りました。しかし、明治31(1898)年には高田の裁判所に赴任することになりますが、移転した新潟でも俳句をつくり続けます。明治31年1月4日、「日本新聞」に掲載された『明治三十年の俳句』には「地方に在りて昨年中に歩を進めたる者を茶村、菰童子、青嵐、緑、瀾水、森々、香墨、桂堂等とす」とあり、明治32年1月10日の「ホトトギス」『明治三十一年の俳句界』には「昨年に在りて著き進歩を現したる者、東京に五城あり、越後に香墨あり、大阪に青々あり」「香墨はようやくを追うて進む者その礎既に堅し」と評されています。 明治32年1月24日、香墨は台湾へ渡る途中に子規を訪ねました。「先生は非常に喜ばれた。僕の前途を祝しくれたのみならず……僕の台湾行に同情を寄せられたのは先生一人であったのである」(渡辺香墨著『六年有余』)と書いています。 翌日午後の虚子兄宅の運座に出掛け、夜半頃芝の宿屋に戻って来たら、先生よりの小包郵便が届いていた。根岸名物小蓑庵の青紫蘇の粉と山椒の実の瓶詰と短冊四枚に送別の句を書かれたものであった。二句だけはその頃の日本新聞紙上に公けにせられたようであったが、公けにせられなんだのはこういう句であるのだ。 朕の手に団扇もつ日を数へけり 冬の季にやや暑してふ題あらん 内地にいてさえ田舎から東京へはなかなか出る機会がないのに、まして台湾よりは一層むずかしいから、他日先生と相見ることが出来るであろうかということは、常に僕の心を苦しめた一の疑問であったが、幸にも御用上京を命ぜられ、一年三ヶ月目に先生の病状を見舞うことが出来た。即ち昨年の五月半ば頃であった。 先生は僕に対し、台湾は面白いところであろう。芭蕉の実(バナナ)はたくさんあるそうじゃ、いつ帰ってきたのだ、と尋ねられたるのみで他は何やらいわんとてただ苦悶するのみであった。僕はこの状態を座視するに忍びず母堂に失礼を断って辞し去った。……「相別れてバナナ熟する事三度」の七月三十一日付の手紙とともに贈られた短冊が最後の記念となり、永く先生と別るることになったのを深く遺憾とするのである。(渡辺香墨 六年有余) 子規は、明治34(1901)年3月20日発刊の「ホトトギス」『くだもの』のなかでバナナについて書いています。 ○くだものと気候 気候によりてくだものの種類または発達を異にするのはいうまでもない。日本の本州ばかりでいっても、南方の熱い処には蜜柑みかんやザボンがよく出来て、北方の寒い国では林檎りんごや梨がよく出来るという位差はある。まして台湾以南の熱帯地方では椰子とかバナナとかパインアップルとかいうような、まるで種類も味も違った菓物がある。○くだものの嗜好 菓物は淡泊なものであるから普通に嫌いという人は少ないが、日本人ではバナナのような熱帯臭いものは得食わぬ人も沢山ある。また好きといううちでも何が最も好きかというと、それは人によって一々違う。○くだものと余 余がくだものを好むのは病気のためであるか、他に原因があるか一向にわからん、子供の頃はいうまでもなく書生時代になっても菓物は好きであったから、二ヶ月の学費が手に入って牛肉を食いに行たあとでは、いつでも菓物を買うて来て食うのが例であった。……しかしながら自分には殆ど嫌いじゃという菓物はない。バナナも旨い。パインアップルも旨い。(くだもの) 当時、バナナを手に入れるには、外国航路の船員が持ち込んだバナナを日本の果物業者に買い取られたものか、子規のように台湾在住の人から送ってもらうことしか、手に入れるすべがありませんでした。バナナが正式に輸入されるようになったのは明治36(1903)年4月10日のこと。台湾バナナが神戸港に陸揚げされましたがバナナは高級で、見舞いなどの贈答品として使われました。
2022.05.03
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朝寒し汁粉くふべき人の顏(明治27) 晩年の子規の食卓には「懐中汁粉」が登場します。 明治35(1902)年7月18日、正岡子規の病林を見舞った原千代女が「おしる粉はもうしまいか。御座いますと妹様がコップに桃色のを持って来られたを、匙であがる(正岡子規君)」と書いています。他にも同じ年の『仰臥漫録(7月14日)』には懐中汁粉を食べたとあり、『病牀六尺(7月31日)』には昼寝から目覚めて「懐中汁粉」を飲んだとあります。 7月7日の『病牀六尺』には「男でも南瓜、薩摩芋等の甘きを嫌ふは酒を飲む者に多く、酒を飲まぬ男はこれに反して南瓜などを好んで食う傾向があるかと思われる。して見ると女の南瓜などを好むのは酒を飲まぬためであつて、男のこれを好む事が女の如くないのは酒を飲むがためではあるまいか。酒は鮓の物の如き類とよく調和して、菓子や団子と調和しにくい事は一般に知っている所である。南瓜、薩摩芋、胡蘿蔔などは野菜中の最も甘味多きものであるので酒とは調和しにくいのであろう。酒飲みでも一旦酒を廃すると汁粉党に変ることがある。して見ると女は酒を飲まぬがために南瓜などを好むのに違いない」とあり、酒飲みと甘党の関係について記しています。 赤木格堂の『子規夜話』には「十五日の朝宮本医師のいう所によれば「スグドウというようなことはない」とのことに候。しかし昨日小生が朝より看護致おり模様を申せば、飲食物とてはソップ少し、牛乳少し、懐中汁粉一椀ばかり、西洋梨一個、近頃は毎日太抵こんな訳に候。足の腫は始は足の甲の辺許なりしが、今は膝から股まで参り候ために大便は仕流しにて綿をあて拭きとるまでに相成候。小用の方も管をあて致居候」と書いています。 柴田宵曲著『明治の話題』に「懐中汁粉」という文があります。 古い雑誌の広告か何かに「懐中ミルク」とあるのを見て、どんなものかわからず、いろいろ調べてようやく粉ミルクであることがわかったという話がある。懐中汁粉から類推すれば、略々見当がついたものを、むずかしく考えたために力負けをしたわけである。 明治三十五年七月十八日、正岡子規の病林を見舞った原千代子が「コップに桃色のを持って来られたを、匙であがる」と書いているのは恐らく懐中汁粉であろう。桃色の汁粉などというものは、素人の手に合いそうもない。 小山内薫の「梅龍の話」は箱根の塔の沢で洪水に遭う話である。その中に懐中汁粉がちょっと出て来る。梅龍の口吻をそのまま伝えれば「なんにも喰べる物がないから、お茶屋で懐中じる粉を買って、お湯で解いて飲んだの。そしたら小さい日の丸の旗が出てよ。旅順口なんて書いてあるの。余つ程古い懐中じる粉なのねえ」というのであるが、作者はこれに註をつけて「懐中じる粉は買ったのではないのである。お茶屋ではもう何処かえてしまって誰もいなかったのである。梅龍たちはそこらに落ちていた懐中じる粉を拾って来て水で解いて飲んだのである」といっている。日露戦役当時にはそういう懐中汁粉がたしかにあった。砲弾の形をして銀紙に包まれていた。この洪水は四十三年だから、もしそれが残存していたとすれば、余っ程古いわけである。(明治の話題 懐中汁粉 柴田宵曲)
2022.05.01
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朝涼し汁粉くふべき人の顔(明治27) 子規は汁粉が好きでした。 身体の痛みをお喋りで紛らわしているような明治35年頃の随筆『煩悶』には、「私などの汁粉党」という言葉が出てきます。 時は午後八時頃、体温は卅八度五分位、腹も背も臀(しり)も皆痛む、 アッ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にしているじゃないか、馬鹿、畜生、アッ痛、アッ痛、痛イ痛イ、寝返りしても痛いどころか、じっとしていても痛いや。 アーアーいやになってしまう。もうだめかな。もういかんや。ほんとうに人を馬鹿にしとる。いやになっちまうな。いやになりんすだ。いやだいやだも………だっていやがらア。衣、骭(かん)に――到いたり――か、天下の英雄は眼中にあり――か。人を馬鹿にしてるな。そりゃ、聞えません伝兵エサンと来るじゃないか。三吉一つ歌って見や。アイアイ。そんなことじゃなかったよ。坂、坂は照る照る鈴、鈴鹿は曇る、あいのあいの土山雨がふる、ヨーヨーと来るだろう。向うの山へ千松がと来るだろう。そんなのはないよ。五十四郡の思案の臍へそと来るよ。思案の臍とはどんな臍だろう。コイツはおかしい、ハハハハハ痛い痛い痛い横腹の痛みをしゃくッて馬鹿に痛いよ。しかし思案の臍という臍が五十四郡に一ぱい並んで居ると思うと馬鹿に可笑しい。しかもその臍の上に一つずつ土瓶が掛けてあってそれが皆茶をわかして居ると思うといよいよ可笑しい。臍があってその上に蜘くもがぶら下って居るというのは分るかい。へそくも今夜は来るであろサ。おそくも今夜はのしゃれだよ。そんな奴ならいくらもあるよ。笊ざるの中に子供を入れたので、ざる餓鬼やざる柿サ。閻魔様が舌を出してその上に石を載せてる処はどうだ。閻魔舌の力持サ。古いネ。お話が古くなっていけないというので墨水ぼくすい師匠などはなるたけ新しい処を伺うような訳ですが手前の処はやはりお古い処で御勘弁を願いますような訳で、たのしみはうしろに柱前に酒左右に女ふところに金とか申しましてどうしてもねえさんのお酌しゃくでめしあがらないとうまくないという事で、私などの汁粉党には一向分りませんが、ゲーッアー愉快愉快。一歩は高く一歩は低くと来らア。何でも家がぐらぐらして地面が波打って居やがらア。ゲー酒は百薬の長、憂の玉箒、ナンテ来らア。これでも妻君が内に待ってるだろうッちゅうので折詰を持って帰るなどは大ていな事じゃないよ。嚊大明神もっとも少々焼いて見るなぞは有難いな。女房の焼くほど亭主持てもせず、ハハハハハ。これでも今夜帰ると、ゲー、嚊大明神きっと焼くよ。あなた今夜どこで飲みましたよ、位いうだろう。どこで飲んだ、どこで飲んだもねえものだ、おれが飲む処は新橋か柳橋、二重橋から和田倉橋、オットそいつはからくりだよ、何、今夜はね柳橋でね小紫をあいかたで飲みましたよ。オヤ小紫ですってそれなら柳橋じゃない吉原でしょう。ナーニ柳橋にも小紫というおいらんがありますよ。スルト、嚊め柳橋においらんがありますか、そりゃ始めて聞きました。それでは柳橋の何屋に、などと来るだろう。柳橋の三浦屋サ先日高尾が無理心中をしたその跡釜あとがまへ今日小紫を抱えたのサもっとも小紫は吉原の大文字に居たのだが昨日自由廃業したと、チャント今朝の『二六』に出て居るじゃないか、とまじめにいうと、アラいやだよ人を馬鹿にしてる、あなたはきっといい処があってそこで……くやしいッていうので枕か何かにくいつくよ、きっと。そうすると物になるね。鬢びんのほつれは枕のとが――よ――とおいでなさる、それをお前にとが――め――………。クヤクヤ貴様は何じゃ、往来で大声放歌はならんちゅう位の事は心得て居るじゃろう。どうも恐れ入りましてございます。恐れ入ったではいかんじゃないか。恐れ入りましてございます。貴様姓名は何というか。へ私は神田八丁堀二丁目五十五番地ふくべ屋呑助と申します、どうかお見知りおかれて御別懇に願います。まだ無礼な事申しちょるか。恐れ入りました。見受ける処がよほど酩酊のようじゃが内には女房も待っちょるだろうから早う帰ってはどじゃろうかい。有り難うございます。………世の中に何が有難いッてお廻りさん位有難い者はないよ。こんな寒い晩でも何でもチャント立って往来を睨んで、何でも怪しいものと見とめると、クヤクヤ貴様は何じゃ、とおいでなさる、私は神田八丁堀二丁目五十五番地ふくべ屋呑助でございます、と来ると、見受ける処よほど酩酊のようじゃが内には女房も待っちょるじゃろうから早う帰ってはどじゃろかい、とおいでなさる。どじゃろかい、とおいでなさる処が有難い、お廻りさんがあんなにおっしゃるから早く帰ってこの折詰を女房にくわせてはどじゃろかい。(煩悶) 喜田川守貞が著した江戸時代後期の百科事典『守貞謾稿』には、「赤小豆の皮を去り、白糖の下品あるいは黒糖を加え、切り餅を煮る。号して汁粉という」とあり、江戸後期には店を構えない「汁粉売り」がいて、蕎麦やうどんと同じく一杯十六文で売り歩いていました。屋台に置いた七輪で大きな鍋を温め、餅を焼くのです。このことから「正月屋」とも呼ばれています。 歌川広重の浮世絵「東都名所 高輪二十六夜待遊興之図」には、花火見物で賑わう人を当て込んだ食べ物屋台が並んだ様子が描かれていますが、左の方に「しるこ」と書かれた看板と大鍋が鎮座する屋台が見えます。 根岸の子規庵の近くには、 柴田宵曲著『明治の話題』の「汁粉」には「東京人は外へ出ると何か食べに入る習慣があるが、その多くは蕎麦か寿司で、汁粉となると女性が幅を利かすことになる。根岸の岡野などは、汁粉よりも庭が評判だったというが、そのせいか貴婦人令嬢が出入りした」とあります。この岡野は根岸の子規庵の近くにあり、汁粉ばかりではなく、料理も提供していました。 明治34(1901)年10月27日、子規は誕生日(旧暦9月17日)を一日繰り上げて祝うため、料理屋の「岡野」から料理二人前を昼食に取り寄せています。料理は、五品の会席膳で、これを子規と母の八重、妹の律の三人で食べました。 内田魯庵の記すところによれば、池の端の氷月の汁粉は東京一と称せられたもので、十何通りかある汁粉のうち、紅鹿子というのは一杯二十五銭であった、蕎麦のもりかけが八厘、牛肉が一人前五銭、洋食が七皿の定食五十銭であった時代に、一杯二十五銭の汁粉は驚くべき高価だったというのである。氷月は後々まであったが、全盛時代は大分の昔であろう。泉鏡花が紅葉山人の玄関番だった頃、百花園へ伴われた帰りに氷月で汁粉を食べたことを書いている。塩餡と小倉だけで、紅鹿子などというもっとも物は出て来ないが、紅葉が牛肉を奢ってやろうと思って、懐ろへあたると少し足りなかったので、汁粉にしたというのだから、そう高価なものではなかったらしい。 明治三十四年に出た銀座の十二ヶ月は、十二ヶ月平げた人には景品を出すなどという評判があって、別の意味で有名であった。併し汁粉は酒のように小説の材料にはなりにくい。「たけくらべ」の中に酉の市の繁昌で汁粉を売り尽し、餡が種切れになって困っているのを、田中の正太が「智慧無しの奴め、大鍋の周辺にそれっ程無駄ではないか、それへ湯を廻して砂糖さえ甘くすれば、十人前や二十人は浮いて来よう、何処でもみんなさようするのだ」と教えるところがある。正に明治永代蔵にでも入るべき話であるが、今横町で見て来たというのだから、必ずしもこの少年の慧敏を称するに足らぬであろう。 小山内薫の「騎兵士宮」は、従姉の縁付いた騎兵士宮から、何が好きだと聞かれて、答え得ずにいる少年に代って、「おーしーる粉」と従姉が説明する。意外なことにはその士官も汁粉が好物で、「早速そいつて遣れ」ということになる。この士官は後に精神が変になり、二人の結婚は不幸に終るが、これは新婚匆々の話で、士官が汁粉好きだということは細君もまだ知らなかったのである。全体の筋には大した関係はないけれども、この汁粉はちょっと利いているように思う。 漱石が小石川の寺で予備門入の準備をしている頃、毎晩門前へ汁粉を売りに来る爺があった。「汁粉屋は門前迄来た合図に、きっと団扇をばたばたと鳴らした。そのばたばたを聞くと、どうしても汁粉を食わずにはいられなかった」という。こういう汁粉屋は、おでん屋や鍋焼饂飩、後の支那蕎麦屋の如く沢山は来なかったけれども、時々往来で見かけた。極楽水のような夜寂しいところでは、その来るのを待っている者が他にもあったろう。この汁粉を規則の知く毎晩食った漱石は、予備門入学後に盲腸炎に罹った。「余はこの汁粉屋の爺の為に盲腸炎にされたと同然である」というのであるが、盲腸炎はとにかく、胃を悪くするぐらいの反応は必ずあったに相違ない。(明治の話題 汁粉 柴田宵曲) 子規は、歩行不能になった後も人力車で外出していましたが、明治32年の夏以降になると座ることさえ困難になります。この年の11月13日、子規は人力車で岡麓の新宅を香取秀真と訪ね、その帰りに三橋で酉の市の熊手を持った人たちを見かけました。帰る道すがら、背中がぞくぞくっと寒気がします。家に帰って始めて生き返ったような心持にな理、横になっていろいろ考えますが、「曲った道をいくつも曲って、とうとう内へ帰りついて蒲団の上へ這い上った。燈炉を燃やして室は煖めてある。湯婆も今取りかえたばかりだ。始めて生き返ったような心持になると直に提灯の光景が目の前に現れて来る。横になって煖まりながらいろいろ考えて居たが、この家の檐から庭の樹から一面に毬燈を釣って、その下へ団子屋や鮓屋や汁粉屋をこしらえて、そしてこの二、三間しかない狭い庭で園遊会を開いたら面白いだろうということを考えついた。(『熊手と提灯』)」と記しています。
2022.04.29
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だまされて薄桃色の西瓜哉(明治29) 明治28年6月29日、子規は叔父の大原恒徳宛に手紙を送りました。子規は、この時期、日清戦争の取材で中国に渡り、帰りの船で吐血して、神戸の病院に入院していました。6月末になると、子規はようやく小康を取り戻した時期にあたります。 子規は、わざわざ神戸に見舞いに来てくれた叔父に感謝するとともに、子規の見舞い返しとして「西瓜の奈良漬」はどうかと伺いを立てています。 拝啓。先日中はわざわざ御来神被下御介抱にあずかり候段、奉鳴謝候。コレラの時といい、今度といい、兎角御厄介に許り相成、逆縁のことに御坐候。昨日は善きつれ有之候故、母様の御帰郷を促し早急御出立被成候。いずれ御滞在中は御厄介と存候。 来月十日前後につれもあらば、御来神の趣申上置候。御出立後、律より手紙来り候には、同人最早根岸の旧宅に帰り、下女一人探しおる趣に御坐候。さすれば母様にも御安心、ゆるゆる御帰松あるべき様申来候。右母様へ御伝被下度候。親類一同へ西瓜の奈良漬一ケ宛進呈せんと存候処間にあわず残念致候。 執筆未任心候間、いずれへも御無沙汰仕候。(明治28年6月29日 大原恒徳宛書簡) 夏にさしかかろうという時期のため、傷みにくいものとして子規は西瓜の奈良漬を思いつきました。西瓜の奈良漬には、未成熟の西瓜といえば聞こえはいいのですが、大きくなる前に摘果された西瓜を使います。それを丸ごと酒粕に漬け込んで、熟成させるのです。「奈良漬」の原型は、1300年以上前の平城京で発掘された長屋王の木簡に「粕漬瓜」と記された納品伝票らしきものがあります。ただ、当時の酒は清酒ではなくどぶろくで、底に溜まる滓のようなものにつけられたのでした。「粕漬」という名前が「奈良漬」に変わるのは、室町から江戸時代のことで、慶長8(1603)年の『日葡辞書』には、「奈良漬は奈良の漬物の一種であり、香の物の代わりに使う」と記されています。一説には、奈良中筋町の漢方医・糸屋宗仙が、瓜の漬物を「奈良漬」と称して販売したためだともいわれています。 奈良漬ノ秋ヲ忘レヌ誠カナ(明治34) また、奈良漬では、明治32年7月30日、松瀬青々宛ての手紙で「奈良漬御恵投に預り、ことの他の好味、これがために食すすみ申候」とあり、松瀬青々に宛てて「拝復。酷暑之候、益々御清勝奉賀候、今秋は御上京相成趣楽く御待申上候、併し御困難之事と今より御案し申候、ほととぎすのためにはこの上なき仕合に御座候。御句沢山に難有く候、また奈良漬御恵投に預り、ことの他の好味、これがために食すすみ申候、露月も今秋は秋田へ帰由申来候、今少し医術修行之上にて帰る方得策と存候、御地近来は俳句非常に隆盛にて、毎日の日本紙上御地の句なき時は無之、時としては過半をしめ居申候、たのしきことに存候、右御礼旁御返事まで 匆々不逞」と手紙を送りました。
2022.04.27
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敲けばか西瓜は赤し肺わろし(明治28) 子規は、明治35(1902)年7月9日に刊行された『徒歩旅行』に序文を書いています。「楽天の紀行は、毎日必ず面白い処が一、二個処は存じて居る。これが始めに徒歩旅行を見た時に余が驚嘆して措かなかった所以である。つまり徒歩旅行は必要と面白味を兼ね備えたもので、新聞記者の紀行としては理想と極点に達したというても善い位あると思う」と手放しで誉め、「殊にこの紀行を見ると毎日西瓜何銭という記事があるのを見てこの記者の西瓜好きなるに驚いたというよりも、むしろ西瓜好きなる余自身は三尺の垂涎を禁ずることが出来なかった。毎日西瓜の切売を食うような楽みは行脚的旅行の一大利得である」と共感を示しています。「この記者の目的は美人に非ず、酒に非ず、談話に非ず、ただ一意大食にあることは甚だ余の賛成を表する所である」ところが、自分とよく似ていると感じたのでしょう。 中村楽天は、播磨国辻井村(現在の兵庫県姫路市)に生まれ、徳富蘇峰・主宰の「国民新聞」に記者として入社、のち『国民之友』の編集者となります。30歳を超えてから俳句に興味を抱き、「ホトトギス」の同人となって子規門下となりました。子規が直野碧玲瓏、上原三川とともに出版した「日本派」最初の類題句集『新俳句』(民友社)の編集や刊行にも尽力しています。そのことが『子規居士と余』の中に書かれていて「芝の白金三光町にあった北里病院から『新俳句』という句集の現れたことも思いがけない出来事であった。それはその病院に入院中の上原三川君と直野碧玲瓏君とがーーそのほかに東洋、春風庵という二人の人もいたーー『日本新聞』の句を切り抜いて持っていたそれを材料として類題句集を編み、それを国民新聞社にいた中村楽天君の周旋で民友社から出版したのであった。校正万端出版状の手続きは楽天君の隠れたる努力であった」とあります。 楽天は、のちに二六新報に入社し、明治35年に「二六新報」に連載していた『徒歩旅行』を出版します。その際の序文を子規に書いてもらったのが『徒歩旅行を読む』です。 紀行文をどう書いたら善いかということは紀行の目的によって違う。しかし大概な紀行は、純粋の美文的に書くものでなくてもやはり出来るだけ面白く書こうとする、即ち美文的に書こうとする、故に先ず面白く書くということはその紀行全部の目的でなくても少くも目的の五分は必ずこれであると極めて置いて、さてその外の五分は人によって種々雑多に書かれて居ることである。一、二の例をいうて見ると、山水の景勝を書くのを目的としたものや、地理地形を書くことを目的としたものや、風俗習慣を書くことを目的としたものや、あるいはその地の政治経済教育の有様より物産に至るまで細かに記することを目的としたもの、あるいは個人的に旅行の里程、車馬の賃、宿泊料などのことを一々に記したもの、あるいは記事の方は極めて簡略に書いて、ただ文章を飾る事を務めたもの、などいろいろある。しかるに楽天の徒歩旅行というのはあるいは政治経済のことより教育のこと、工業のことを記し、あるいは旅行里程宿泊料等個人的のものをも記し、あるいは衣服飲食などを論じて菓子の品評さえすることもある。その目的は実に複雑であって、そうして一日の記事を凡そ新聞の一欄位に書きつめてしまわねばならぬので、普通の者ならばとてもこの目的を達することは困難であるべきのを、楽天は平気で遣ってのけて居る。よし辛かろうじてこの目的を達したところで最早その上に面白く書くという余地はないはずであるが、楽天の紀行は毎日必ず面白い処が一、二個処は存じて居る。これが始めに徒歩旅行を見た時に余が驚嘆して措かなかった所以である。つまり徒歩旅行は必要と面白味とを兼ね備えたもので、新聞記者の紀行としては理想の極点に達したというても善い位であると思う。 去年、この紀行が『二六新報』に出た時は炎天の候であって、余は病牀にあって病気と暑さとの夾み撃ちに遇うてただ煩悶を極めて居る時であったが、毎日この紀行を読むことは楽しみの一つであった。あるいは山を踰え谿(たにがわ)に沿いあるいは吹き通しの涼しき酒亭に御馳走を食べたなどと書いてあるのを見ると、いくらか自分も暑さを忘れると同時に、またその羨しさはいうまでもない。殊にこの紀行を見ると毎日西瓜何銭という記事があるのを見てこの記者の西瓜好きなるに驚いたというよりも、むしろ西瓜好きなる余自身は三尺の垂涎を禁ずることが出来なかった。毎日西瓜の切売を食うような楽みは行脚的旅行の一大利得である。 夏時の旅行は余もしばしばやった事があるが、旅行しながら毎日文章を書いて新聞社に送るということはよほど苦しいことである。一日の炎天を草鞋の埃にまぶれながら歩いてようよう宿屋に着いた時はただ労れに労れて何も仕事などの出来るものではない。風呂に入って汗を流し座敷に帰って足を延べた時は生き返ったようであるが、同時に草臥れが出てしもうて最早筆を採る勇気はない。其処でその夜は寐てしもうて翌朝になって文章を書いて新聞社に送って置く。そうして宿屋を出る時は最早九時にも十時にもなって居ることがあって、詰り朝の涼い間をかえって宿屋で費し暑い盛りを歩かねばならぬようなことになる。それは恐らく実験のない人には気の附かぬことである。 余は行脚的旅行は多少の経験があるが、しかしこの紀行にあるように各地で歓迎などを受ける旅行はまだしたことがない。毎日毎日歓迎を受けるのは楽しいものであるか、苦しいものであるか余にはわからぬが、時としてはうるさいこともあるであろう。けれども一日の旅行を終りて草臥れ直しの晩酌に美酒佳肴山の如く、あるいは赤襟赤裾の人さえも交りてもてなされるのは満更悪いこともあるまい。しかしこの記者の目的は美人に非ず、酒に非ず、談話に非ず、ただ一意大食にあることは甚だ余の賛成を表する所である。 この紀行が『二六新報』に出た時には三種の紀行が同時に同新報の上に載せられた。その内で世間の評判を聞くと血達磨の九州旅行が最も受けが善くて、この徒歩旅行は最も受けが悪いようであった。しかしそんな評は固より当てにならぬ。むしろ排斥せられたのがこの紀行の旨い所以ではあるまいか。血達磨の紀行には時として人を驚かすような奇語奇文奇行がないではないが、惜しいことには文字に不穏当な処が多い。殊にその豪傑志士を気取る処は俗受けのする処であって、その実その紀行の大欠点である。某の東北徒歩旅行は、始めよりこの徒歩旅行と両々相対して載せられたものであったが、その文章は全く幼稚で別に評するほどのものではなかった。独り楽天の文は既に老熟の境に達して居て、ことさらに人を驚かすような新文字もないけれど、それでありながらまた人を倦うまさないように処々に多少諧謔を弄して山をつくって居る。実に軽妙の筆、老錬の文というべきである。固より他の紀行と同日に論ずべきものでないのみならず、凡そこれほどの紀行はちょっとこの頃見たことがないように思う。ただ傍人より見れば新聞取次店または地方歓迎者の名前を一々列記したるだけはややうるさい感があるが、それはこの紀行の目的の一部であるから固より記者を責むべきものではない。むしろかかる紀行の中へかかる世俗的な目的をも加えしかも充分に成功したる楽天の手腕には驚かざるを得ない。(徒歩旅行を読む) 西瓜好きの子規は、『松蘿玉液』の「菓物」に「甜瓜や西瓜は田舎びているが、誠意を感じるので捨てがたい。特に西瓜の色は浮きうきした様子もあり旅をする女性が恋したようで、傾城(遊女)のような嘘つきには似ても似つかない(明治二十九年十二月二十八日)」と記しています。楽天にも、同様に、そのように誠意というか、食べものに対する真摯な姿勢を感じていたのでしょうか。
2022.04.25
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旱雲西瓜を切れば眞赤也(明治29) 新海非風は、明治3(1870)年に松山末広町で生まれ、子規に常盤会寄宿舎で出逢い、子規の見識に惚れ込みました。その時子規と同居していた男に頼み込んで代わってもらい、同室となって俳句や小説にのめり込みました。子規と一緒に小説『山吹の一枝』を連作したこともあります。 非風は、俳句の優れた天分を持っているのですが、その反面エキセントリックなところがありました。子規は『筆まかせ』の「悟り」で「神経過敏にして輒すく事物に刺激せらるるの性なれば……その挙動半狂の人に似たり」と評しています。 軍人志望で陸軍士官学校に入学したのですが、肺病を患って退学したことで自暴自棄となり、放蕩の果てに家の財産を食いつぶした非風は、吉原でなじみになった女と結婚しました。そして日本銀行に入って、のちに北海道に渡りますが、健康面で激務に堪えきれず妻の実家のあった京都に戻り、不養生から子規より一年早く鬼籍に入りました。高浜虚子の小説『俳諧師』の五十嵐十雨は、非風をモデルにしています。 河東碧梧桐は『子規を語る』で子規の西瓜好きを綴っていますが、その中で「非風が途中で西瓜を買った。……のぼさんも一所に、石手川の川原まで引張って行った。そこらの石に西瓜をぶっつけて、手づかみで貧り食いながら、今夜は大いに振ったな、と大恐悦(大喜び)だった」と非風の破天荒な行動を記しています。 かなり暑い日でもあった。シャツ一枚の肌ぬぎになった子規の前に、赤い西瓜が盛って出された。白い細い長い指の股から垢を探み出していた子規は、私にも勧めるよりか、自分でしゃぶりつく方が早かった。 私の家では、西瓜を食うのは年にただ一度で、旧の七月に七夕祭をする時だけであった。それも子供の七、八人もある大家族を擁していたので、せいぜい二切れか三切れの割宛に過ぎなかった。今、目の前に盛られた西瓜の鼻を衝く涼しい豊かな芳ばしきに打たれながら、私は軽々しく手を出す気にならなかった。物固い倹約に馴らされた私の家の習慣と、余りに距離のある眼前の事実が、新たな感想となって、私の頭の中を往来していたのだ。 そう言えば、いつの帰省の時に尋ねて往っても、御馳走に西瓜の出ない時は無かった。毎日尋ねて往ってもきょうのは善かったとか、悪かったとか、西瓜の評が出た。そうして誰よりも一番余計に食べた。ある年非風ーー新海正行、亡ーーと一処に帰省した時など、月を見に行こうというので、近くの石手川まで出かけた。月の冴え冴えした水のない磧(かわら)の石に腰かけて、その日見た田舎芝居の評などしている中、非風が持って来た西瓜を、そこらの石にぶちあてて割ったりしたこともあった。(河東碧梧桐 子規を語る 4野球) これは明治24(1891)年の夏、子規が松山に帰省したときの出来事でした。割れた西瓜の汁のように、非風の狂気が赤い色で浮かびあがってきます。このことは高浜虚子も『子規居士と余』に書いています。 三津の生簀で居士と碧梧桐君と三人で飯を食うた。その時居士は鉢の水に浮かせてあった興居島の桃のむいたのを摘み出しては食い食いした。その帰りであった。空には月があった。満月では無くて欠けた月であった。縄手の松が黒かった。もうその頃汽車はあったが三人はわざと一里半の夜道を歩いて松山に帰った。それは、「歩いて帰ろうや」という居士の動議によったものであった。その帰りに連句を作った。余と碧梧桐君とは連句というものがどんなものかそれさえ知らなかったのを、居士は一々教えながら作るのであった。何でも松山に帰り着くまでに表六句が出来ぬかであった。そうして二、三日経って居士はそれを訂正して清書したものを余らに見せた。もし今獺祭書屋旧子規庵を探したらその草稿を見出すのにむずかしくはあるまい。居士は如何なる場合にいい捨てた句でも必ずそれを書き留めて置くことを忘れなかったのである。 こういう事もあった。 海中に松の生えた岩が突出して居る。「おい上ろう。上ろう」と新海非風君が言う。「上ろう。テレペンが沢山あるよ」と言ったのが子規居士である。舟が揺れて居る。二人の上ったあとの舟中に取り残されたのは碧梧桐君と余とであった。間もなく碧梧桐君もその岩に掻かき上ってしまって最後には余一人取り残された。 非風君はその頃肺を病んでいた。たしかこの時であったと思う、非風君がかっと吐くと鮮かな赤い血の網のようにからまった痰が波の上に浮いたのは。「おいおい少し大事にしないといけないよ」と子規居士は注意するように言った。「ハハハハ」と非風君は悲痛なような声を出して笑い、「おい升さん(子規居士の通称)泳ごうや」「乱暴しちゃいけないよ」子規居士は重ねて言う。「かまうものか。血位が何ぞな。どうせ死ぬのじゃがな」と非風君は言う。 居士の病後のみを知っている人は居士はあまり運動などはしなかった人のように思うであろうが、あれでなかなかそうでもなかったらしい。ベースボールなどは第一高等学校のチャンピオンであったとかいうことだ。居士の肺を病んだのは余の面会する二、三年前のことであったので、余の逢った頃はもう一度咯血した後であった。けれどもなお相当に蛮気があった。この時もたしか艪を漕いだかと思う。ただ非風君ほど自暴ではなかった。非風君の方が居士より三、四年後に発病したらしかったがその自暴のために非風君の方が先に死んだ。居士は自暴を起すような人ではなかった。 同勢三、四人で一個の西瓜を買って石手川へ涼みに行き、居士はある石崖の上に擲げつけてそれを割り、その破片をヒヒヒヒと嬉しそうに笑いながら拾って食ったこともあった。(子規居士と余 2) 明治27(1894)年、虚子は、小石川にあった非風の家に転がり込みます。この時のことを『俳諧師』で綴っています。 この男は何かにつけてカランカランと玉盤を打つような響をさして笑うのが常で、馬鹿に涙脆くって腹も立てやすい代りに機嫌も治りやすい。俳句を作り始めた頃は仲間中の第一の天才といわれ、小説を書いてもオリジナルな処があるという評判であった。ところが一年許り前から道楽を始めて、国許に五十嵐の成功を待焦れていたお母さんから、なけなしの財産をすつかり捲き上げて遊蕩費にしてしまい、何でも目下吉原の何楼とかの女郎を身受けするとかいって騷いでいるという噂をこの頃増田は聞いたのであるが、その実この女郎というのは京都の六条の数珠屋の娘で、かなりの身代であったのが破産したために吉原に売られ、この頃年季が明けて廃業する、それをある小官吏と競争していたのである。この女郎は源氏名を司といって小籬ながらもお職を張通していた。丸ッポチヤの、顏の割合に口の大きい、笑う時はあまり口が広がりすぎて相形が崩れる嫌いはあるが美人たるを失わぬ。人の好い張りの無い、朋輩には司さん司さんと可愛がられていたが、よくあれでお職が張れたものだと蔭口を利く者もあつた。五十嵐と小官吏とが互に微力を尽し合って鞘当てをする。司は両方共に公平に待遇する。小官吏の方は大人しい、五十嵐はしばしば癇癪を起して当り散らす。小官吏の方はいつも優しい。五十嵐の方は優しい時は度を外れて優しい。司は廃業間際になって五十嵐の手に帰した。(俳諧師 14) 碧梧桐の『子規を語る』には、非風を「碧梧桐の『子規を語る』には「非風を知ったのは、偶然子規の部屋で会ったのが最初だった。気の軽い、賑やかな、言葉に誇張的な形容が多かったが、しかし十分に明るさを持った、中で一番親しみやすい人だった。どういう話でも半分笑いながら、さも嬉しそうに、一語一語に力を入れて行くので、いつかその方向に引きずられるのだった。美しく並んだ白い歯を見せる大きな口から垂れそうになる涯を拭き拭き話しすすむ時が、その喜びと明るさの絶頂であった、面長な規則正しい顔に、ゆとりを与える二重の限検のやさしさが漂っていた」とその印象を書いています。 『子規を語る』には「非風の家」という章が設けられています。 非風の家は小石川の何処であったか記憶していない。非風は一時喀血をした、肺結核の診断をうけたのであったが、療養効を奏して、その頃常態に復していた。日本銀行の計算課とかに出ていたようだった。算盤を二つつないで、何十億という長たらしい数の計算をするのは、そりゃア苦しいもんぞな、とよく日々の仕事のくだらなさをこぼしていた。薄給のせいもあったであろうが、六畳と四畳半位しか部屋のない小さな家だった。それでも非風の家には火燵がしてあって、いつも春らしい濃厚な暖かさが漂っていた。非風や虚子のいうように、根岸が窮屈で冷たいとも思わなかったが、非風の家に来ると、何となく骨の伸びるようなくつろぎを感ずるのでもあった。 非風はその頃吉原で馴染であった女と同棲していたのだ。恋の経緯をよく非風から面白くきかされたものだったが、地位も金もない非風が、多くの競争者の中の恋の勝利者であったのだ。 小柄な、眼のばっちりした、口は大きかったが、顔全体に愛嬌のあった細君ーー他人行儀に、ただこの女とは言いすてられないーーは、初対面から私達を友達のようにもてなした。忘れられない人なっこい柔かさがあった。そうして何処にも玄人らしい臭いがなかった。下女も置かないで、自ら薪水の労もとっていた。よく御馳走になった食べ汚したものを片づける時など、気の毒な位小まめに立働いていた。書生上りの水入らずの暮しには、恰好の細君だった。 鳴雪や子規の先輩には打ち開け難い内証も、非風はかけかまいなく私達の前にさらけ出した。私達を見物人に持って、二人でいちゃついたりする晴れ晴れしさが、生活に追われていた非風のせめてものパラダイスだった。こまかい女性らしい感情の動きに支配されて、すぐ泣いたり笑ったりする、話上手な非風は、総てのものを失なったような空洞な暗い心に囚われていた私には、この上なく美しいものに見えた。また羨ましい境涯にも見えた。主人のすすめるままに、虚子と謡をうたったりしている間、万事を忘れてしまうことの出来たのも、ただこの非風の家があったのみだ。もっとも先天性が合わないといって私を好かなかったらしい非風と私との間は、中に虚子を通じての交際であったから、当時の鴛鴦生活の甘味に十分浸るほどの親しみを持つてはいなかった。 非風がその後東京を引払って、北海道に往ったり、後に細君の郷里の京都で、悲惨な最期を遂げた事情についても余り多くを知らずに過ごした。 私は今でもそう思う。非風という人に不得手な算盤などを持たして置かずに、その趣味性の上に生活せしめる方法は無ったのかと。花の一時に開くように、その口をついて出づる片言隻句にも光っていた天才的な閃めきを、もっと培養し鍛錬する道は無ったのであろうかと。一題百句時代の子規と非風とは、古白瓢亭以上の親しみを持っていたようであるが、それがどういうはずみで、次第に疎遠になって往ったものか、この明治二十七年の末には、もう殆んどお互いに往来することもないほどの隔たりを見せていた。(河東碧梧桐 子規を語る 25非風の家) 五十嵐は不思議な眼附をしてこの一座を見る。殊にそのぎらぎら光る眼は先ず艶書の束に止まり、細君の手許から、張り掛けられた畳紙、それからまた三藏の首筋に及ぶ。細君は「大変早かったのですね」を少し驚いて五十嵐を見上げる。五十嵐の癇走った声が晴天の霹靂と破裂する。「貴樣ッ。何をしておるのだ」「畳紙を張っていたのです」「馬鹿ッ。恥を知れよ恥を。人の前でこんな物を出し散らかしてッ」とそこに転げていた文束を取って細君に擲げつけると、細君の前髪の辺にはたと当って櫛が飛ぶ。「こんな物を馬鹿なッ」と畳紙を八ツ裂きに裂いてそれを丸めてまた細君に擲げつける。細君は青い顏して口をむっと閉じ、目をショボショボさせながら黙ってキチンと坐っている。細君は五十嵐が腹を立てて物を擲げつける時や、長い骨々した腕で搏つ時はいつもこういう態度でいる。また鬢がほつれて額にかかって憐れ気にションボリと坐っている細君の凄艶な姿は、能く五十嵐の心を柔らげるに足るのである。三藏は「十風君、乱暴をしてはいかぬ。僕がここへ来たのが悪かった」と言いながら立ち上って五十嵐の手を支える。この時五十嵐の心はもう少し折れかけている。「君は心配せんでいいよ」と僅かに笑いを洩らして三藏の顏を見「馬鹿野郎が、自分の身分を恥ずることを知らないのか。情けない奴が」と嵐の吹き留めにここに在る糊の皿を足蹴にしてひっくりかえし、眼の中には涙を一杯に溜めている。細君はまだ黙って木像の如く坐っている。「奧さん雜巾は?」と三藏は覆った糊皿を見て心配そうに細君の顏を見る。「塀和君、そんなことに君心配すなよ。君のように気分が弱くってはいかぬよ」といって、五十嵐は三藏の肩に手を置いて「この間の発句は出来たかい。さうかそれでは見てやろう」といって三藏が懷から出す句稿を受取つて、例の赤い机掛の前に体を擲げつけるようにして坐る。 細君は漸く体を動かし始めて、覆った糊を拭き取ったり、飛び散った文殼を纒めたりして、鼻を啜り上げながらその辺を片附け始める。 その夜五十嵐はひしと細君を抱き締めて寢る。かかることのあった夜はいつもそうである。(俳諧師 25) 虚子は、非風の人間としての魅力と複雑さ、その破滅的な生き方を、『俳諧師』の五十嵐十雨に託したのでした。 結核になって自暴自棄になり、その才能を放蕩に浪費してしまった非風と、病にありながらも俳句や和歌の革新のために歩んでいった子規。西瓜の食べ方にも、破滅型の非風と、対象を貪り尽くす子規の違いが、よく現れています。
2022.04.23
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