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『この世にたやすい仕事はない』津村記久子(新潮文庫) 先日テレビを見ていたら、ラップミュージックのわが国での草分けのような方(「ラッパー」と言うんですかね)が話をなさっていました。 そもそも流行ものについてはポップスの歌だけではなく、テレビドラマについても映画についても、ほぼ何一つついていけないわたくしでありますが、少し興味を持ってその番組を見ていたのは、これも少し前に高橋源一郎の小説を読んでいたら、ラップミュージックについて、なかなか興味深いことが書かれてあったのを覚えていたからです。 いえ本当は高橋源一郎がその小説でラップについて主に触れていたことは、ほとんど失念していたのですが、確かその文脈の中に、現代の若者達にはロック音楽はもはや暑苦しいといった表現があって、それを読んで、私は本当に驚いてしまいました。 ロックンロールは、いつの時代もポップスの中心であり、常に若者の代弁者として時代を並走していると信じて疑わなかった(というよりロック音楽が暑苦しいと感じるなんて全く思ってもみなかった)私でありました。 しかしいわれてみれば、まー、確かに、ロックはもう半世紀も前のはやり歌であり、その頃の若者の情念や喜びや怒りの「熱い表現」なんて、なるほど、考えてみれば現代の若者達とは、全く感覚も環境も接点がないですわねー。 ……うーん、で、その替わりがラップなの? と思った私は、しかしあの、何といいますかー、どこか一本切れてるよーな、空気が抜けてるよーな音楽が本当にそうなのー、としばらくは信じ難く、でもそう一概に否定すべきものでもなさそうだぞと思っていたやさきだったので、冒頭のラッパーの言っていたことは、けっこう興味深かったです。 さて、今回はなぜいきなりの、柄でもないラップ音楽の話なのかを、以下少し順を追って説明させていただきます。 まず私は、冒頭の小説もその流れなのですが、ここんところ2冊に1冊くらい新しい作家の本(近年の芥川賞系の小説)を読んでいて、それも女性作家の小説をけっこう読んでいました。 その時思ったことをぶっちゃけ言いますと、よくもまあこんなに次から次と自己肯定感の極めて低い孤独な若い貧乏女性の同じような自分探しの話ばかりが続くものだ、と。 (この度は詳しく触れませんが、なぜ女性であるのかというのはなかなか興味深い問いかけだと思います。あれこれ考えられはしましょうが、直感的に思ったのは、男性にしてしまうとそれこそ身も蓋もなくなってしまうんじゃないかということです。それは例えば本小説の第5話の男性であったり、村田沙耶香の『コンビニ人間』の男性であったり。) そして、それらの共通した特徴の一つが、表現・展開ともに、もう少し力が入っていていいんじゃないかと思うようなところが見事に踏ん張り切らずに抜けている小説群でありました。 とどのつまり、それがまぁ、私にとってはまるでラップ音楽のごとく、若さのシャウトもなければ情念もない、「脱力感」と書いてそのまま本当にがくりと両肩が落ちる感じの話ばかりで(もちろん細かく厳密に見ればそれぞれ異なった個性はありましょうが)、どれも達者で読みやすくユーモラスでありながら、しかしこれだけ続くと、やはりどこかがヘンなんじゃないかと思ってしまったわけです。 ヘンなのは、時代でしょうか。おかしいのは、現代という社会でしょうか。 そんな気はします。特に今回取り上げた小説は、タイトルからも分かるように「働くこと」をテーマにしています。今、日本の若者を取り巻いている労働環境は、本書からも読みとれますがかなり歪んだ厳しいものでありそうです。 ただそれが、まるでラップのように脱力的に軽やかにどこか抜けているようにゆるく描かれています。 しかし冒頭のラッパーが、ラップ音楽を作る時や歌う時には、かなりいろんな工夫をするという話をしていました。 なるほど、本小説もかなり抜けたゆるさで書かれていますが、私は、ところどころ読み返したりしながら少し丁寧に読み進んでいきますと、この表面的な「抜け」具合や脱力感の下に、思いがけなくも実にしっかりと構成した上で話をゆるめていることや、何より主人公について、私が上記に書いた「自己肯定感の極めて低い孤独な若い貧乏女性」とは読めないのではないかということに気付き、はっとしました。 下記は、前後の展開説明は省略しますが、本書の終盤クライマックスシーンの描写です。 高揚感を「ゆるさ」で包みながら、しかし作品の全体像をしっかりと捉えた、やはりクライマックスの表現であることが分かります。 私は、その場で胃液を吐き出しそうなほど緊張しながら、体の震えを押さえていったん外に出る。視界に入ったたき火の跡をじっと眺めていると、隅っこに小さなしいたけが転がっている。なんだかもう、焼いたしいたけをめんつゆで食べたような味が、強烈に舌の奥に湧き上がるような感じがしてくる。 本書には、随所に主人公の「私」(36歳独身女性)が大学新卒から14年勤めてきた仕事に燃え尽きて離職したという説明がくり返し書かれており(少しくどいくらいに)、そして、その後5つの仕事をゆるく転職していくというのがストーリーです。 しかしよく読むとこの展開には、本文に入る段階でバーンアウトして自分と仕事の関係性を失ってしまった「私」が、仕事を終えるたびに有能さを取り戻していく様子が、「ゆるさ」「抜け」の内側や後ろにきちんと書き込まれています。5つ描かれる仕事がひとつ終わるたびに、「私」の造形は、より大胆で繊細で粘り強くそして知的な姿に変わっていきます。 なるほど、主人公の「私」は、「自己肯定感の極めて低い孤独な若い貧乏女性」などではないと気づいた私は、ひょっとしたらまったく見当はずれで本文のフォルムとは甚だしく異なっているかも知れないとは感じつつ、ふと「貴種流離譚」という言葉をつぶやきました。 主人公「私」は「貴種」なのだという読みは、我ながらなかなかオリジナルで少し気にいっています。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.05.22
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『今夜はひとりぼっちかい?--日本文学盛衰史戦後文学編--』 高橋源一郎(講談社) 図書館で借りてきた本です。丁寧に扱わねばなりません。勝手に折り目なんて入れてはいけません。 というわけで、読み出す前にしっかり本のあちらこちらを眺めていました。 本の帯が、表紙と裏表紙に当たる部分だけ二つに切って裏表紙の内側に貼付してあります。最近こういうのが図書館の本の流行りなんですかね。 そういえば、昔の図書館の本は、いわゆる本の本体部以外はみんな捨てたのかどこかに仕舞ってあるのか、本の箱はもちろん、はなはだしい場合はカバーまでみーんな取り外して本棚に並べてありましたね。 今考えたら、図書館がかなり勝手にその書籍についてのさまざまな情報を取捨していたことがわかりますね。 考えるまでもなく、本のカバーは、その本にとってかなり大事なアピール部分であります。例えばあまり読まれなくなった古典的な小説が、カバーをはやりのイラストレーターの絵に変えたとたんに売れ出したなんてことはよく聞きますものね。(ジャケ買いというやつですね。) ……えーっと、変な話になりましたが、私は、読み始める前に書籍の本文以外の部分を矯めつ眇めつ見ていたら、二つ興味深いことに気づいたといいたかったんですね。 まずひとつめは、帯の文句です。こんな言葉が書いてあります。 「文学なんてもうありませんよ」前作の興奮を、ふたたび。 なるほど。前作、ありましたね。このブログでも紹介しました。私は結構楽しく読みました。そしてそのブログで、二つのことを書きました。 1.筆者は、現代作家中最も文学の将来を真面目に考えているひとりだ。 2.筆者は、文学史を換骨奪胎するという汲めど尽きない小説の鉱脈を発見した。 確かこんな感じだったですが、この度の帯を読んで、ああそうであったと改めて思い返し、今から本書を読むのに、私はますます気持がワクワクしました。 二つ目ですが、本文が終わった次のページに、初出誌の情報が書かれてありました。 それによると初出誌は本文のほとんどが「群像」で、2009年10月号から2012年6月号まで何度か休載しつつ(一番大きな休載は2011年8月号から2012年1月号まで)書かれ、それに別の雑誌に載せた作品をエピローグとして加えています。 この初出誌情報からは、本書成立の重要な経緯がよくわかります。 それは、誰でも気づくことでしょうが、東日本大地震の発生が、本書の内容におそらく大きな影響を与えたという事であります。 そしてさらにもう一つ、この初出誌情報の次のページには奥付があって、そこには本書の第一刷の発行が2018年8月だと書かれています。 つまり、雑誌掲載終了から6年たっての書籍化です。 これは、書籍化までの間隔が異様に長くありませんかね。 ……さて、本文に入るまでのことをぐずぐずと書きましたが、上記のような事前情報を得て本書を読み始めた私は、読み終えてまず、筆者にとってこの形の書籍化は不本意ではなかったかと感じました。 本書の構成は、プロローグとエピローグの間に15の章立てがありますが、「続」とか「2」「3」などの承前の章を一つにまとめると9つのエピソードから成り立っています。 そして内容的に、最後のエピソードを書きだす手前の時点で、東日本大震災が発生している事が読み取れます。そこで内容ががらりと変わっています。 そもそも前作の『日本文学盛衰史』にも、文芸評論か文芸随筆めいた章がありましたが、この度の本作は、ほぼ全編がそんな書きぶりになっています。(エピローグだけが違っていて、ここはより虚構的ですが。) そのことについての賛否は様々にあるだろうとは思いますが、私としては(単なる好みなのかもしれませんが)あまり好きじゃないです。 ただ、この筆者の場合、そのように書き始めた作中の空間が、いきなり鮮やかな虚構空間にパラフレーズしていく展開があったりして、そんな時はとても楽しく読めるのですが、文芸随筆めいたまま終わってしまった時は(私は、文芸的な随筆そのものはとても好きなのですが)、やはり少し不満足さが残ります。 たぶん小説とは何でもありだという持論をお持ちの筆者でしょうが、しかしこれを優れた小説手法だと評価する事はきっと筆者もしないだろう、などと思ってしまいます。 要するに本書は、大地震(と原発事故)のせいで最初の構成が吹っ飛んでしまった作品ではないのか、という事です。(だって、これでは戦後文学についてのエピソードがあまりに少なすぎませんか。) 雑誌連載終了から単行本出版まで6年かかっていることも、それを裏付けているように思います。(このあいだに、何とかしようと思われたのではなかったでしょうか。) あわせて、例えば本書のプロローグにはこんなことが書かれています。 大学院の学生が、近代日本文学者の名前をほとんど知らないというエピソードがあって、帯にあった「文学なんてもうありませんよ」というフレーズが書かれた後の部分です。 (略)ナツメソウセキもモリオウガイも、それから、アクタガワリュウノスケにシガナオヤが少々、それから一気に飛んで、現代の作家たち。「文学」なんかなくても、「小説」はある。そして、いまも読まれつつあるじゃないか。きみの生徒たちだって、みんな、読んでるしね。それの、どこが不都合なんだい? 明治の流行作家で、昭和になっても読まれたやつが、いったい何人いる。生まれてたちまち消え去る泡のような群小作家は、どの時代にもいる。残るのは数人、あとは雑魚。それが「文学」だろうと、「文学」でなかろうと、歴史の篩の機能はいつも同じさ。 そうじゃない。ぼくが問題にしているのは……なにより大切だと思えるのは……。 私は、この最後の行の答えが、あるいは、少なくともそれに至るアプローチの方法かアプローチそのものの描写が、本書には描かれるはずだったと考えます。きっと筆者は書くつもりであったと思います。 しかしそれは果たされることなく、本書の構成は、大きく形を変えてしまいました。 私はそのことを、とても残念ではないかと感じる読者であります。 (ただし、純文学というのはわりと融通無碍で、本書の伏線がひょっとして10年後の筆者の作品に描かれているなんてことは、まぁ、十分考えられるジャンルではありますが……。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.05.12
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『コンビニ人間』村田沙耶香(文春文庫) 芥川賞受賞作の、売れている本というので手に入れました。(図書館では300人以上の予約待ちでした。)オビに100万部突破とあります。なるほど、売れているんですね。 で、読んでみました。160ページほどの中編小説なので、その気になれば数時間で読めます。読んだ後、もう一度表紙を見て「累計100万部突破」「24カ国に翻訳決定」という言葉を改めて読んで、少々申し訳ないながら私は、 「世界は病んでいる」とぽつりと呟いてしまいました。 いえ、本書がつまらないといっているのではありません。その反対、とっても面白かったです。久々に読みながら声を出して笑ったりもしました。 しかし、描かれているのは、明らかに病んだ世界の物語であります。 例えばユニークな登場人物、35歳フリーターでがりがりに痩せている男の白羽は、36歳同じくフリーターの主人公恵子にこのように言います。 この世界は、縄文時代と変わってないんですよ。ムラのためにならない人間は削除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ。 バイトのまま、ババアになってもう嫁の貰い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い。縄文時代だったら、子供も産めない年増の女が、結婚もせずムラをうろうろしてるようなものですよ。ムラのお荷物でしかない。 ……うーん、どうですか。この小説は2016年に発表されましたが、2018年に自民党の女性議員が(批判の対象は直接は女性ではなかったですが)、ほぼ同様の生産性のない人間には権利がないといったことを書きましたよね。(これを小説作品の先見性といってもいいし、あるいは時代がますます煮詰まってきているということでしょうか。) 小説の話に戻しますが、この気持ちの悪い論理展開をする白羽という男は、しかし同時にこんなことを言う男でもあります。 男なら働け、結婚しろ、結婚をしたならもっと稼げ、子供を作れ。ムラの奴隷だ。一生働くように世界から命令されている。僕の精巣すら、ムラのものなんだ。セックスの経験がないだけで、精子の無駄遣いをしているように扱われる。(中略)ぼくは一生何もしたくない。一生、死ぬまで、誰にも干渉されずにただ息をしていたい。それだけを望んでいるんだ。 ……ふたたび、どうでしょうか。 わたくし思いますに、この対象の相対化、重層性こそが小説の生命線ではないでしょうか。 必死になって何かを主張しているその端から、しゃあしゃあと反対意見を繰り出していく、それも枝葉のついた物語の形を取りながら。 この思考の柔軟さと強靱性が、読んでいて惚れ惚れします。 誰だったか、小説家は必ずしもいい頭を持つ必要はないが強い頭を持つことは大事だということを書いていましたが、それはきっとこんなことなのでしょうね。 とにかく本小説は100万部も売れて、24カ国に翻訳されようとしています。 わたくしの偏ったイメージの芥川賞受賞作品は、最先端であるかも知れないが(私としてはそこが好きではあるのですが)、どこか痩せていじけてやけくそのようなところがあるのですが、本書は、それとは一線を画した物語のうまさ面白さポピュラリティを持っています。売れて当然でしょう。 ただ私は、やはり幾つかよく分からないところもあります。 最近私は、若い女性作家のほぼリアルタイム小説を、本書を含めて3冊読みました。川上未映子の『すべて真夜中の恋人たち』、本谷有希子の『異類婚姻譚』、そして本書ですが、どれもとてもよく似た感じの女性主人公になっています。いわゆる社会にうまく適応できない若い女性なんですね。 しかしその3人の中で、本書の主人公は明らかに病名のつく心(脳)の病を持った女性ではありませんか。私が一番よく分からないのは、彼女の行動の異常さは病気のせいであると、特に主人公の身内(妹が出てきます。悪くない書かれ方ではあるのですが)は考えて対応しないのかであります。 妹は、主人公である姉に対して「いつになったら治るの」「どうすれば普通になるの」と泣きながら迫ります。 しかしこれは、例えば車椅子で暮らす方に、どうすれば歩いてもらえるのかというようなものじゃないのでしょうか。私は読み違えているんでしょうか。 ともあれ、本書は、そんなとても魅力的な主人公の造型(一途さ、純粋さ、上品さ、独特の快い驚きを伴う思考形態)に加え、ユニークな歪んだしかしどこか憎めない副登場人物(上記の白羽です)、さらには彼らを取り巻く群像についても俗悪で典型的でそしてユーモラスな人々を万全の布陣で配し(恵子の友人たちや、白羽の義理の妹、この女性も面白い)、何ともテンポ良い展開で物語を描きあげます。 会心の作品だと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.05.04
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