育てているのは未来です

育てているのは未来です

2024.04.14
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カテゴリ: 未分類
☆ 今は昔の物語
 職員と話をしていると、私の記憶の中では昨日のことのように鮮明な出来事も、みな
さんにとっては、聞いたこともない異次元の世界の話だということを実感します。なの
で、その霞の彼方に消えてしまった時代のことを書いてみようと思います。

番町小学校の思い出 ①
 私は、番町小学校という松山市役所に隣接した立地の小学校に通いました。入学した
当時、占領政策のなにかだったのか、運動場に面した木造平屋建ての校舎をアメリカ人
が頻繁に出入りしていた記憶があります。私の家から小学校までは直線で500メート
ル程、途中、銀天街というアーケード商店街を横切り、6年間通いました。
 高学年になった頃、教員のストライキというのがあって、顔見知りの先生たちが紅い
ハチマキをして職員室の前に座り込んでいたことや、そのせいでほとんどの授業が自習
になったりしたのを覚えています。大人の事情なので、子どもの私には、なんのことや
らさっぱりわかりませんでした。

 学校の北側の道路を隔てたところに電電公社(NTT)があり、お昼になると電話交換
手の若い女性があふれるように建物から出てくる様子が眩しかった記憶があります。当
時の電話はまず交換手につながり、「八幡浜の****番につないで」と伝えると、交
換手が八幡浜局につなぎ、そこからさらに相手の電話につないでもらうというような仕
組みで、電話交換手は当時の女性の花型職業でした。やがて電話の接続はパルスとリレ
ーを使った電気的なものになり、この職業は時代の中に消滅してしまいます。

 私は、授業中の先生の揚げ足を取ったり、他の悪ガキと一緒になって大声で騒いだり
しては、よく職員室に連れて行かれ、座らされていました。それでも懲りないので、校
長室に座らされたことも多々あります。校長室には、いまではおなじみの正岡子規の横
顔写真が掲げられていて、校長先生不在の時は、正座をしてひたすらその写真をながめ
ていました。校長先生からは「またか」と言われましたが、特に叱られるようなことは
ありませんでした。
 廊下に立たされるのも度々で、立たされついでに学校を抜け出して城山に登り、山道
を外れた山中をうろついていた時、木立の向こうに、煉瓦の塀に囲まれた不思議な建物
を見つけて驚いたことがあります。それが当時まだ一般公開されていなかったフランス
風洋館「萬翠荘」でした。
 学校を逃げ出したものの、カバンがないまま家には帰れないので、放課後、薄暗くな
るのを待ってそっと学校に帰ってみると、誰もいなくなった教室の一番前の教師用机に
担任が座っているのが見えました。見つからないよう床に体を伏せ、自分の机まで匍匐
前進していくと、なぜかそこにあるはずのカバンがありません。そっと頭を上げて担任
の方を見かえすと、一心に書き物をしている先生の机の上に、「ここにあるぞ」とでも
いうように私のカバンが置いてありました。「万事休す」です。

 先に書いた校長先生は卒業の時、差し出したサイン帳に「日に新たに、日々新たに、
また日に新たなり」と書いてくれました。当時はどういう意味だか分かりませんでした
が、中国の書物「大学」の中の一文だということを、だいぶん後になってから知りまし
た。





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最終更新日  2024.04.14 23:10:49
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