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2階建てバスからヒースストリート沿いの車窓を楽しむ。私のカメラはGPS機能付きのため、写真からgoogle mapにリンク出来るので何処で撮影した写真か大体の位置が解る優れものなのです。北ロンドンのビアホール The Garden Gate白き教会 St John's from Downshire Hill Heath Street Baptist Church Golders Green Parish ChurchGolders Green Station車窓からは日本版『百均』 ならぬ『1£均』の」店が。何処も同じ。そしてホテルに到着し、いよいよ帰国の途へ。12日間お世話になった部屋。寝室兼妻の部屋。寝室入り口から、左奥が台所。右が我が部屋の居間。居間、私の部屋。 妻が奮闘してくれた台所。食器も備え付け。調理器も。そしてシンクの端には世話になった洗濯乾燥機が。シャワー室はバスタブ無し。これだけは残念。そして左には我々の部屋3Fに昇る階段が。奥左が寝室、そして右側が居間。CHECK OUTしようとしたがこのカードが『excluded』とのこと。やむなく準備しておいた別のカードで精算できたのであった。やれやれ!!息子の家でしばしくつろぎこの旅行の思い出話や息子の帰国後の話も。 帰りもヒースロー空港まで息子が車で送ってくれたのであった。遠くにウェンブリー・スタジアム(Wembley Stadium)のシンボルであるスタジアム上部のアーチが見えた。出発はヒースロー空港 Terminal 3。息子への感謝と、近いうちの帰国・再会を約束して別れたのであった。帰国便 ANA NH202 19:35発。 待合室で出発時間までくつろぐ。 定刻に出発。早速夕飯が。 その後は二人とも爆睡6~7時間。気がついて窓を覗くとアラスカ上空か?行きにも見えた蛇行する大河が。2回目の食事はお粥を注文。 ウラジオストック手前の白き山々。そしていよいよ日本海上空へ。この間、我々夫婦のオーディオの音声が不調、イヤホーンを取り替えてもダメ。キャビンアテンダントがこの葉書を2枚くれた。この葉書を投函するとお詫びの5000円相当のMILEか旅行券が届くとのこと。さすがに日本のANA、他の国の飛行機では?? 懐かしき日本の街並み。 そして茨城沖の太平洋上空へ。 飛行時間11時間30分も終わりに近づく。 那珂湊漁港が眼下に。 成田空港への着陸態勢に。ここでカメラ撮影は中断。 『ようこそ日本へ』出国手続きを無事終え、成田空港からは行きと同様バスを利用。横浜ベイブリッジを通過。 バスを下車し、妻は食料の買い出しにデパートへ。私はバッグの留守番役。タクシーを利用し無事帰宅したのであった。そして、帰宅して、一番ホッとしたのは風呂に浸かった時!! 久しぶりの妻との海外旅行、そして息子とのこれも久しぶりの?再会の旅であったのだ。ロンドンの街並みはヨーロッパの古い街並みとはどこか一味違う気がしたのであった。 地下鉄の車両が小さくてかわいかった。いかにも「チューブ」と言う感じが!!入場無料の美術館や博物館も楽しむことが出来た。その代わりホテル代はじめ物価は円安直後でもありかなり高いと感じたのであった。そして外での食事は確かにイマイチ、妻の手作りの料理に救われたのであった。とは言ってもお金を払いそれなりのレストランに行けば問題ないのも事実。ロンドンから少し離れるだけで、美しい田園風景がみられるのどかなカントリーサイドが広がっていた。イギリスを代表するとても美しいカントリーサイドのコッツウォルズ地方には、メルヘンのような心休まる街が点在していた。美しい田舎の村を訪ねる日帰りツアーの旅で、よりイギリスらしさを感じることが出来たのであった。そしてロンドン市内もかけずり回った。世界の中でも指折りに魅力的な大都会、ロンドン。さまざまな時代・王朝の建物と近代的ビルが混在、様々な人種・民族の人々が行き交い、様々な文化の融合が見られる都市であった。バッキンガム宮殿、ビッグベン、ウエストミンスター寺院、セントポール寺院、タワーブリッジロンドン塔など、ロンドンを代表する建造物へ。大英博物館、ナショナル・ギャラリーなどの充実した美術館。大観覧車ロンドン・アイそしてテムズ河クルーズも楽しむことが出来たのだ。そしてイギリス人は親切な方が多く、こちらが声をかけさえすれば、誰もが懇切丁寧に対応してくれたのであった。これぞ一期一会の旅。-完-
2013.05.31
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いよいよロンドン旅行も最終日。長い間お世話になったテラスハウス(terraced house)。テラスハウスとは境界壁を共有する複数の戸建て住宅が連続している形式の低層集合住宅。ホテル受付入り口。 バイキング形式の食堂。そして裏庭。 我が部屋の鍵。 この日は地下鉄で、マーケットの多いカムデンタウンの散策に3人で向かう。地下鉄駅に向かう途中の八重桜は満開状態。この地に到着した12日前にはまだ花がチラホラであったのだが。CAMDEN TOWN駅まで行き下車。毎週末約10万人が訪れるといわれるカムデン・マーケット(Camden Market)。平日も一部の店舗は営業しているそうだが、多くの店は土日のみの営業。そしてこの日は5月6日の祭日。 アーリー・メイ・バンクホリデー(Early May Bank Holiday).この旅で何回もトイレと間違えた看板。初めてこのサインを見た時は、TOILET(トイレ)の、Iが抜けてしまっているものだと思ってしまったのだ。だが、それからも、色々な建物の前で、同じくIの抜けたトイレのサインを見つけた。これはきっと誰かのいたずら?。それにしても、公衆トイレは無数にある...しかも、どう見ても、普通のアパートや家にしか見えない。何なのだろう??と不思議に。実は、この TO LET は、貸し部屋そして貸し家のことだったのだ。 マーケットの建物の壁にはユニークな様々な展示。このカムデンマーケット周辺は2008年に大規模な火災に見舞われたが、現在では火災以前よりも規模を拡大して営業を続けているとのこと。途中、運河の閘門(こうもん)に出会う。英語ではロック(Lock)。水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置。閘門の特徴は、固定された閘室(前後を仕切った空間)内の水位を変えられることで、これに対して同じく船を上下させるための装置。パナマ運河もこの形式。 水門を閉めて水位を上昇させている。 ここに奥からの船を導入後、奥の水門を閉じるのである。そして手前の水門の下部を開いて水を抜くのである。水位が下がったら水門を開け船は無事にこの閘門を通過。この運河はリージェント運河(Regent's Canal)。カムデン・ロック・マーケットに隣接する広大なマーケット。名前の由来は、この場所がその昔荷船を引くための馬の厩舎(stables)・病院として使用されていたことから。多くのストールやショップは鉄道の高架下にあり、中は迷路のように入り組んでいた。いたるところに馬や馬の頭部を形どった巨大な鉄の彫刻があり、独特の雰囲気。 若者と観光客が沢山集まる日本の原宿のような街を散策した後はバスで高級住宅地の並ぶ街ハムステッドへ向かう。セミデタッチハウス (Semi-Detached House)。そしてホテルへ。2階建てバスに乗り2階の先頭の座席を確保しロンドンの街並みを楽しむ。 Pond Street 沿いの公園。
2013.05.30
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再びデルフトの街並みを散策。運河の水面に映った街路樹も美しかった。正面に煙突が。Techniek Museum Delft(デルフト技術博物館)再び別の運河に出会う。いくつもの運河が街中を流れ、古い建物が大航海時代の繁栄を感じさせてくれたのです。新教会の裏側を運河沿いに歩いて行くと、東門に出た。ここからの運河の風景は、まさにフェルメールが過ごした17世紀の「デルフトの風景」を彷彿とさせるものであった。 「デルフトの眺望」に描かれたロッテルダム門に似た東門が現存していた。「デルフトの眺望」に描かれたロッテルダム門もスヒーダム門ももはや現存せず、フェルメールの時代にはあった街を取り囲む城壁もないのであった。 運河を渡って再びデルフトの街に入る。東門の前には白き跳ね橋が。東門はデルフトに残る唯一の門で,14世紀に作られたのだ。1514年には塔とそれを覆うこのとんがり屋根が作られたとのこと。昔はこの門は人が歩ける道を持つ城壁の一部であり,水門ともつながっていたとのこと。1962年から64年にかけて修復され,現在はアート・ギャラリーとして利用されいるのだ。城門防備、城内の治安維持のため、橋を上げ下ろしすることで通行を制限することが出来たのだ。しかし現代では規模の小さな水路で船舶の通行を妨げることなく、自動車や列車が水路上を横断することができるような利用のされかたをしているのだ。ゴッホの有名な絵画作品「アルルの跳ね橋」には両側からハの字型に開く跳ね橋が描かれているがこちらは片側からのみ。運河の先には新教会が再び見えた。 運河には多くの橋が架かっているため、観光船の高さは極めて低い。 デルフト観光を終え再びデルフト駅に戻る。駐輪場の自転車の数は日本以上。係員も不在だがほぼ見事に駐輪。駅の大規模工事中のため、この仮設橋から駅構内に入るのだ。 定刻に特急列車が到着。駅出発直後に左手に風車の姿が。 帰りも車窓からチューリップ畑の美しさを楽しむ。 途中車窓には高速道路の入り口ゲートが。この地の高速道路も無料? 免税店を散策。オランダの空港らしくチューリップの球根や様々な花の種や球根が売られていた。空港ロビーの壁には観光した跳ね橋の光景がデルフト焼き風に描かれていた。 デルフトの街並みと塔が名前入りで。スキポール空港を離陸し、ヒースロー空港に無事到着。 息子の車で再びホテルに向かう。夕陽が白い花を光らせていた。 ロンドンの夕焼け。そして日没の時間は20:25。息子の車内部。 部屋に戻り、妻が疲れている中でスパゲティーを作ってくれたのだ。 野菜サラダも。今回の旅行の夕食はかなりは妻の手作り。そして最終日に向けて爆睡。
2013.05.29
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古都デルフトは13世紀頃に都市が形成されたとのこと。町の中心はマルクト(Markt:マーケット)と呼ばれる広場に面して、14世紀から建設が始まった市庁舎、新教会や歴史を偲ばせる古い建物の土産物屋、レストラン等があるのだ。この広場にほど近い北側に旧教会も。 2頭建て馬車に乗りデルフトの街を観光か? まるで中世に逆戻りしたような不思議な感覚。市庁舎(Stadhuis)塔部分は14世紀に建てられたが、今でも市庁舎として使われている建物は17世紀前半に完成。塔の頂上にはオランダ国旗がはためいていた。上から赤、白、青。赤は国を守るために戦った国民の勇気をたたえ、白は神の永遠の祝福を願う信仰心を表し、青は祖国への忠誠心を表すと。 そして焼け残ったこの塔のみが14世紀に建造されたもの。町の中心部のここマルクト広場では、毎週木曜日に青空市場が開かれているのだ。またデルフト焼きなどの土産物屋やレストランなどが、何世紀も経たと思われる古い建築物を商店として利用し店を開いているのだ。広場の中心には「国際法の父」と言われるグロティウスの像が歴史を感じさせる姿で建っていた。 マルクト広場近くの土産物屋の前で・・・・・とある婦人が巨大な木靴を履いて遊んでおりました。ミメウルワシかな!!旧市庁舎を見ながらレストランの前のテーブルで遅めの昼食。 もちろん最初はビールを注文。 何の肉かは忘れてしまったが・・・・。 そしてフィッシュ&チップス? 妻は軽めに?。 軽めの昼食を済ませ、レストランの内部にあるトイレへ。レストランの壁には様々なフェルメール作品が展示されていた。有名な『真珠の耳飾りの少女』フェルメールの最も有名な作品。北欧のモナリザと称される傑作。別名、青いターバンの娘 とも呼ばれるこの作品において最も特徴的な、黒色で統一される背景に鮮明に浮かび上がる少女の瞬間的な表情は、見る者に極めて強烈な印象を。こちらはデルフト焼きの大きな更に描かれた『真珠の耳飾りの少女』同じく 『牛乳を注ぐ女』。「光の画家」フェルメールの傑作『牛乳を注ぐ女』。 明るい光が差し込む窓辺で女性が陶製の容器に牛乳を注ぎ込むという、素朴な日常風景が描かれているのだ。数少ないフェルメール作品の中でも貴重な風景画作品のひとつ『デルフトの眺望』。 『ギターを弾く女』、昔、盗難にあった作品。『ヴァージナルの前に座る女』 こちらは『牛乳を注ぐ女』の現代版?背景が極めて近代的そして本物の作品とは逆の向き。遊び心でクリエイト。こちらが本物の作品。 そして運河の橋の近くの『牛乳を注ぐ女』の彫像。フェルメール・センター。フェルメールがギルドの代表として働いたことのある聖ルカ組合があった場所に造られているのだ。全作品の原寸大パネル掲示や透視方を活用した作画技法を紹介する展示などがおこなわれているとこと。1階にはフェルメール関連グッズを販売するショップやテールームが併設されていた。再び旧教会へ。入り口の周辺には数々の見事な彫刻が施されていた。 旧教会にあるフェルメールの墓石。フェルメールは旧教会の義母の墓所に葬られたのだ。義母は自分のために何年も前にこの墓所を購入していた。フェルメールの幼くして亡くなった子供もフェルメールより前にここに葬られたたと。デジカメの電池切れでiphoneで撮影、やれやれ。
2013.05.28
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この日はオランダ・デルフトへの家族3人での日帰り旅行。妻も前夜のオペラ鑑賞の疲れも魅せず、4時の早朝起床。息子がヒースロー空港まで自分の車で行こうとの事で4:45にホテルに迎えに来てくれ出発。空には下弦の三日月が輝いていた。高速を走り1時間弱にてヒースロー空港駐車場に到着。空港のレストランにて朝食に日本食に挑戦。鮭の塩焼き、味噌汁、漬け物、ご飯で約6ポンド(900円)。日本の吉野家で頼めば200円以下?利用便は7:25発アムステルダム・スキポール空港行き。 定時に離陸、機内は約70%程度の利用客。機窓下にはテムズ川の支流であるリー川(River Lee)が通過する貯水池が見えた。上部がキング・ジョージ貯水池、下部がウィリアム・ガーリング貯水池。飛行機は遠くドーバー海峡を右手に見ながらオランダに向かう。途中、ハムサンド・コーヒーの軽食がでた。一時間強でオランダの街が見えて来た。スキポール空港に到着。この空港は仕事・海外旅行等で私が何度となく利用しているヨーロッパのハブ空港。スキポール空港から特急でデルフトの街へ向かう。地中車窓には風力発電用の風車が見えた。長閑な牧場風景。 そしてカラフルなチューリップ畑が拡がる。乗った車両はDen Haag Centoraal駅行きとのことで、Liden Centraal駅で乗り換え。電車のデッキには大量のゴミが散乱。デルフトまでの電車と同機種。 遠くに伝統的なオランダ風車が見えた。 デルフト駅近くの公園風景が拡がる。 そしてデルフト駅(Delft)に無事到着。この地は7年前か仕事でデルフト工科大学( Delft University of Technology)を訪ねた折印象に残った街。デルフトは、ヨハネス・フェルメールやデルフト焼き陶器で世界に知られている街。運河沿いや教会、邸宅や美しい中庭など、昔の王家の栄華を彷彿とさせる史跡もたくさんあるのだ。前から再び訪ねてみたい街であったのだ。デルフト駅高架橋からはデルフト・新教会の尖塔が見えた。デルフト駅は現在大規模工事中であった。しかしデルフト駅は教会にあるような塔がついているのが印象的な赤煉瓦の駅舎街を歩き出すと運河が、そして運河の先の先には旧教会Oude Kerk(Old Church)が。そして鐘楼は少し傾いているのではと妻と息子が。運河には観光船が。 やはり傾いていることを私も確認。ゴシック様式の塔は1246年に建設。時間は丁度12時。 運河沿いにある旧デルフト州堤防管理委員会の館。この館は1505年頃に個人の邸宅(Jan de Huyterの邸宅)として建てられ,その後1645年からはデルフト州堤防管理委員会がここに置かれたのだ。この旧教会に近い運河の名はオウド・デルフト運河(Oude Delft)。旧デルフト州堤防管理委員会の館の正面(ファザード)入口。その上に設えられた紋章などが威厳を誇り,昔日の繁栄を偲ばせていた。 1280年に制定されたブルグント伯家の紋章か。尼僧の像(GEERTRUYT VAN OOSTEN)。旧教会の入口の付近に尼僧の像が。台座には GEERTRUYT VAN OOSTEN と彼女の名前が刻まれていたのだ。装飾の少ない質素で,肩から胴体にかけて柔らかい膨らみをもつ尼僧の像。 旧教会の尖塔がこれも青空に突き刺さっていた。 巨大な金属製オブジェ。 マルクト広場手前からの旧教会。不思議な青いハート。デルフト焼きのコバルトブルーで表現?明るい日差しの中で美しかったのだ。マルクト広場からの旧教会。
2013.05.27
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地下鉄Piccadilly Cirus駅からSouth Kensington駅に向かう。ロンドン自然史博物館(ロンドンしぜんしはくぶつかん、Natural History Museum)。 大英自然史博物館、英国自然史博物館などとも呼ばれ、自然史系博物館としてはイギリス最大であるのみならず、世界でもトップクラス 。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(ヴィクトリア・アンド・アルバートはくぶつかん、(Victoria and Albert Museum)は、現代美術・各国の古美術・工芸・デザインなど多岐にわたる400万点の膨大なコレクションを中心にした国立博物館。博物館入り口 建物も荘厳。ケンジントン公園の地図。 ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall of Arts and Sciences)は、イギリスのヴィクトリア女王の夫であるアルバート公に捧げられた演劇場。建物の大きさは83メートル×72メートルで、形は楕円形をしており、8,000人の収容規模。イギリスでもっとも有名なコンサートホール。ケンジントン公園・南入口にあったアルバート記念碑(Albert Memorial)。ロンドンのハイド・パーク内にあるヴィクトリア女王の王配アルバート公を象った像。高さ53mの記念碑。工事中であったが中央に鎮座する金色の像がアルバート公。 一番先端の天使達が。その下に立つ女神像達は、8つのVirtues(徳)、信仰、希望、慈善、謙遜、剛毅、分別、正義、節制を象徴するとのこと。周囲の四方の白き大理石像も見事。ケンジントン・ガーデンズ (Kensington Gardens) を歩く。ロンドンのハイド・パーク西方に存在する王立公園。 宮殿前の池。 水鳥がたくさん集まっているラウンド・ポンド。ケンジントン宮殿(Kensington Palace)。 ヴィクトリア女王像とケンジントン・パレス。ケンジントン宮殿正面入り口。故ダイアナ妃が住んでいた宮殿であり、ヴィクトリア女王が生まれた寝室もあると。ウィリアム3世がノッティンガム伯爵の私邸を買い取ったのが王族の居城となった始まりとのこと。 ロシア大使館。 日の丸の掲げられた建物。日本大使館ではなさそう。。 この日の夜は妻と息子はロイヤル・オペラ・ハウスでオペラ観賞。よって私はビッグベンの夜景を訪ねてみた。日没直後の国会議事堂。ヴィクトリア・タワーの照明は未だ。旧市庁舎付近は青のライトアップで飾られていた。そして赤に変化。 ロンドン・アイの夜の様子。青のリング。 ビッグベンの緑の照明も鮮やか。 既に21:15過ぎ。 Westminster Abberウエストミンスター寺院の白き輝き。 夜だとよけいに建物が際立って美しく見えたのであった。 そして再びビッグベンへ。 時間は21:35。長いこの日の観光を終わりホテルへと地下鉄で向かったのであった。再びこの夜景を見ることが出来るのであろうかとやや感傷的になりながらの帰路であったのだ。
2013.05.26
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ボートン・オン・ザ・ウォーター(Bourton-on-the-Water)は、イングランドのコッツウォルズ地域にあるグロスターシャー州の大きな村である。ボートンは人口約4千人と。 流れる川は ウインドラッシュ川。いくつかの歩道橋かけられ、川沿いの両側には散策の歩道が。柳の緑も鮮やかになっていた。「コッツウォルズのベニス」と呼ばれ、一番の人気スポット。 ウィンドラッシュ川のせせらぎのほとりに並木と緑の芝生が広がり、広々とした開放感のあるゆったりした街。水のせせらぎが涼しさを感じさせてくれたのだ。ボートン・オン・ザ・ウォーターの街の中央を流れるウィンドラッシュ川が、この街ののどかな雰囲気を作り出しているのであった。川辺の芝生にはベンチが置かれて人々が思い思いに憩いの時をすごしていた。川にはところどころ低い橋がかかり、それも美しい風景。川底が見える透き通った浅い川には多くの水鳥が羽を休めていた。レストランの前庭では多くの観光客がビールや食事を楽しんでいた。私も英国名物のフィッシュアンドチップスをテイクアウトして、川沿いの芝生の上でのんびりランチ。フィッシュアンドチップスには塩と酢をかけて味を調えて食べるのだ。 ゆったりしたい雰囲気。再びリラックス出来る空間と光景。橋の上から川の光景を撮す。橋は全部で5つ。小さな石の橋が3つと車が通る橋が2つ。 橋の下には幼い多くの鴨が気持ち良さそうに泳いでいた。真にのどかな昼下がり。それを覗き込む観光客。セント アンドリュー教会は現在でも村人の重要なふれあいの場とのこと。 コッツウォルズ産のライムストーンで作られたアーチ型の橋は、古代ローマ時代の橋だと。見事な石塀の道を行った先がツアーバス駐車場。ボートン・オン・ザ・ウォーターも心洗われる風景であったのだ。次は最後の訪問地、ブロードウェイへ。A424の車窓からものどかな風景がいつまでも続いていた。ブロードウェイ(Broadway)の大通り(High Street)に到着。ブロードウェイは広いハイストリートに沿って家が並ぶので、ブロードウェイという地名がついたとのこと。バスを降りて街を散策開始。 土産物売り場で「Cotswold Honey」 を発見。コッツウォルズのハチミツ「COTSWOLD HONEY~コッツウォルドハニー~」は、ビタミン・ミネラル・アミノ酸・酵素のほか、免疫力を高める花粉を含んだ無添加の純粋ハチミツで、濃厚でまろやかな味わいが特長とのこと。その極上の味わいに魅せられた世界の王侯貴族が競って買い求めるため、生産量の限られるこのハチミツは、英国でも幻のハチミツと言われるほど入手困難な希少品であると。さてこのハチミツの味は我が家のハチミツと比較して如何??八百屋を覗く。 見慣れたそして珍しい野菜も発見。 珍しいデコボコ トマト。 フィオレンティーノ。フランスの品種。横に切ると、花が咲いたようになりそう。木いちごとブルーベリー。 アイスクリーム販売車?ブロードウェイのかやぶき屋根の店。緑の葉も陽光に輝いていた。 pavilion broadway、実は家具屋さん。 ハイストリート沿いを散歩。外観こそ古い建物ばかりであるが、中はアウトドア用品屋だったり、ティールームだったり各種の店が。集合場所に指定された "Horse & Hound" というホテル。ホテルの前は広い牧草地になっていて、沢山の羊が草をはんでいた。 北コッツウォルズに位置するこの街は、「はちみつ色の・・・」という表現がぴったり。街全体が、黄色に近い石灰石でできた建物が連なっていた。こちらも車がなければBEST SHOT。 こちらも観光客は比較的少なかった。コッツウォルズ (Cotswolds) は、イングランド中央部に広がる標高300m以上に達する丘陵地帯であり、時としてイングランドの中心と呼ばれているのだ。そしてこの地ブロードウェイは「コッツウォルズの宝石」と例えられることのある村なのだった。古い歴史を持ち、羊毛の交易で栄えていたコッツウォルズの多くの村を訪ねることが出来たのであった。 今でもイングランドの面影を残した多くの建物に感動したのであった。 そして帰路へ。 この日は土曜日、オックスフォードサーカス周辺には人、人、人。ロンドンのピカデリーサーカスに向かう街並。曲線の美。
2013.05.25
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コッツウォルズの最も美しい村のひとつに数えられるバイブリー(Bibury)の街へ到着。 バイブリー村の中心をコルン川が流れ、水鳥の保護地域になっているとのこと。 かつて19世紀イギリスの詩人ウイリアム・モリスが「イギリスで一番美しい村」と絶賛したと言われる村。 村一番のみどころ「アーリントン・ロウ」。14世紀の家並みがそのまま残っていて、現在も村人が住んでいるのだ。この村の家々の屋根と切妻壁の家並みはナショナル トラスト (National Trust)により管理されているのだと。ナショナル・トラスト (National Trust) とは、歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体。正式名称は「歴史的名所や自然的景勝地のためのナショナル・トラスト」(National Trust for Places of Historic Interest or NaturalBeauty)。アーリントン・ロウ(Arlington Row)という家並みからバイブリーの村を歩いて一周したのだ。アーリントン・ロウの家並みは、もともと屋根の無い羊小屋だったものを、17世紀に屋根裏部屋をつけ、機織職人の作業場兼住居となるように改築したのだと。見事な癒しの光景。はちみつ色の家々がコッツウォルズそのもの。 村の名物、トラウト・ファーム(マスの養殖場)がこの奥に。 観光客も何故かまばら。日本人は我々ツアー客のみ。コルン川にかかるコッツウォルズ・ストーンでできた石橋。 皆コッツウォルズ・ストーンで作られているのだ。スワンホテル、1650年創業の歴史あるホテル。バイブリーのランドマーク。村を1周、静かに時が流れる空間であった。 民家の前庭は広く様々な花々が。 中世の姿をそのまま留める「アーリントン・ロー」の家並みは、静かな癒される空間であったのだ。そしてバスは次の目的地、ボートン オン ザ ウォーター(Bourton on the Water)へ。
2013.05.24
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この日は単独でのBurford Cotswolds ( バーフォード コッツウォルズ)へのバスツアー。妻は息子と夜のオペラ鑑賞のためホテル待機。ホテルから地下鉄の駅の途中にある八重桜の木の花も、到着日の4/25日には一分咲きのちらほらであったが、9日後のこの日はほぼ満開。野生の山桜に対して人里の桜ということから「里桜(さとざくら)」とも呼ばれる品種。また花の形から「牡丹桜(ぼたんざくら)」とも呼ばれているのだがこの地ロンドンでは?。 「いにしへの英国の都の 八重桜 今日(けふ)九重(ここのえ)に 匂ひぬるかな」 地下鉄の駅名の表示、この表示がホームの至る所にあり、どの車両に座っていても解るのはこの地下鉄、いやロンドンの地下鉄が日本の地下鉄と違うところ。この日の集合場所は、トラファルガー広場の側の三越デパート前 。定刻にツアーバスは出発、途中車窓から緑の半球の建物を確認。ロンドンにある蝋人形館、マダム・タッソー館(Madame Tussauds)。ビートルズやチャップリンなどイギリス出身の有名人をはじめ、歴史上の人物、各国の政治家、エンターテイナーからスポーツ選手などを精巧に再現して展示しているのだ。 M40高速を走る、途中 ドーバーの白い崖の如き切り通し。このツアーは珍しくトイレ休憩付き。 ツアーバス。 漸く目の前にバーフォードの街が現れる。一本の坂道を挟んで小さな店が並んでいるショッピングエリア。カフェや郵便局、お菓子屋、雑貨屋などが並ぶ。細い路地がいくつかあり、奥に行くと民家につながっているのだ。バーフォード(Burford)は、イングランドの西オックスフォード州のコッツウォル(Cotswolds)の丘にあるウィンドラッシュ川に接する古き村。 St. John the Baptist Church。 コッツウォルズで一番美しいと言われている教会。教会の前庭は多くの墓地が。 メイン通りのハイ・ストリートはかなり急な坂道。屋根も薄い石材をずらしながら重ねているのだ。日本の 檜皮葺(ひわだぶき)の石材番と言えそう。この通りには15世紀中頃から18世紀始めまでの石造りの建物が並んでいた。小さな集落内のすべての建物が同じ色調に統一されていたのだ。これが有名な"ハチミツ色の壁"とのこと。煙突も歴史を感じさせるのであった。 周辺に電柱や電線はなし。皆、地中に埋め込まれているのであろう。これが日本の景観との大きな違い。チェスターの街にも似た、白と黒のチューダー調の町並みが美しかった。しかし壁がそれぞれ垂直ではない?路上tっyしゃの車が多すぎて美しい風景を壊していたのだが。ガイドの説明によると、この道路沿いの家の車の駐車場になっているとのこと。 石塀も美しい、丁寧に積み重ねてあるだけなのであろうか。 この土産物は何? バーフォード の案内地図 。「The Cotswold Arms」という名前のパブとのこと。バーフォードの観光を終わり、次の目的地バイブリー(Bibury)の街へ。この日のドライバーと日本人女性ガイド。二人ともピンクのお揃い。
2013.05.23
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ストラトフォード・アポン・エイヴォンからオックスフォードへの道A3400。道路の脇に咲く花はmay-blossomとのこと。A44をオックスフォードへ。オックスフォード空港。そしてオックスフォードの街の入り口に到着。下を流れるのはテムズ川。オックスフォード クライストチャーチ大聖堂に向かう。多くの英国首相を輩出したクライストチャーチ。名門中の名門カレッジ。聖メアリー教会の尖塔。 先日引退したデビッド・ベッカム似のツアーガイド。 クライストチャーチ大聖堂 礼拝堂の外観。内陣の丸天井、天国のイメージを醸し出す為に入り組んだ星型の模様をなしていると。中庭への入り口。 『ハリーポッター』に出てくる食堂のモデルになった食堂 クライスト・チャーチの中庭とカレッジの中の学生寮。マートンカレッジの中央広場真ん中の塔にある鐘が門限を告げるのだとか・・・。オックスフォード大学とわ言われているが、1つの大学が有る訳でななく教授と学生が同じ寮に寄宿しながら、専門的な学問を学ぶ、学寮=カレッジの総称。ペックウォーター広場、そいて奥の建物はオックスフォード大学の中央図書館、ボドリアン図書館。1602年の創設。550万冊の本、13万点の手紙など、そして100万枚の地図や楽譜が保存されているのだと。オックスフォード大学には数多くの著名人が卒業しているのだ。元英国首相マーガレット・サッチャー,インドのマハトマ・ガンジー,また日本の現皇太子(マートン・カレッジ)と皇太子妃(雅子様)(ベルリオル・カレッジ)もオックスフォード大学を卒業しているのだ。 シェルドニアン・シアター(Sheldonian Theatre)。1668年に完成した劇場。現在はコンサート、講義、卒業式等に使われているとのこと。この建物をデザインした建築家はセント・ポール大聖堂を手掛けたクリストファー・レン。ボドリアン図書館(Bodleian Library)オックスフォード大学の中心的な図書館。いかにも歴史を感じさせる建物。上部にある彫像。 イギリスの王室の紋章イングランドを象徴するライオンとスコットランドを象徴するユニコーンが盾を支えている。イギリスの古くからの伝説では、ユニコーンはとても危険な獣のため、この国章では鎖でつながれている。盾の中に2組配された金色のライオン3頭はイングランド王室紋章、金の地に赤いライオンはスコットランドの紋章、竪琴はアイルランドの紋章である。盾の上には、冠をかぶったライオンがいる。ライオンのかぶっている冠は、イギリスの代表的な冠で、このライオンはイギリスを守っている、という意味があると。写真は「ため息橋」と呼ばれている校舎を繋ぐ渡り廊下。名前の由来は16世紀にヴェネツィアに架けられた橋ににているからだと。アシュモレアン博物館(the Ashmolean Museum of Art and Archeology)。世界最初の大学博物館。正式名称:アシュモレアン美術・考古学博物館。最初の建物は、エリアス・アシュモールが1677年オックスフォード大学に寄贈した「驚異の部屋」の収納のために建てられた。オックスフォードの有名な建築を集めたイラスト。 ベリオール・カレッジ(Balliol College)。最も人気があるカレッジで、2005年度は入寮希望者が全39カレッジの中で最多だったと。伝統的に、学部生の政治活動が盛んで、数人のイギリス首相を生み出している。また皇太子徳仁親王妃雅子様が外務省職員時代に留学。殉教者記念塔(Martyrs' Memorial)オックスフォード大学の観光を終えバスはロンドンへ。テムズウォータータワー(Thames Water Tower)頂上にはソーラーパネルが設置されていた。 2012年のロンドン五輪では、サッカーの決勝戦が開催されたウェンブリー・スタジアム(Wembley Stadium)を建設した際の残土で作った公園とのこと。そしてこの夜は息子のリクエストに応えて妻がお好み焼きを作ってくれたのであった。 地下鉄を利用して大手有名コンビニでの材料調達に孤軍奮闘。しかし残念ながら桜エビは見つけることができなかったと。
2013.05.22
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ウォリック城の多くの美しいステンドグラスを楽しむことが出来たのです。 そして再び城外を二人で散策。ガイズタワー頂上からの展望に挑戦。タワーそして城壁へ登る入り口。急な階段が続く。 城壁の隙間から、St. Mary Churchが見えた。そして螺旋階段を息を切らして登る。タワーの頂上から見た東門とその奥にはエイヴォン川が。下の芝生の上では弓のプレゼンテーションの姿が。 城の周囲は公園になっており、緑に包まれていた。 妻が先に螺旋階段を下りる。頂上からの展望をカメラに納め私が続く。螺旋階段は一人がやっと通れる程の狭さ。 城壁の階段を下り、先ほどの入り口へ向かう。出口手前で観光の英国人夫妻とすれ違う。脇に寄り道を譲ると英国人から『one way』の言葉が。すなわちここは一方通行であったのだ。実は下り専用の螺旋階段があり、そこを下れば東門方面に行けたのだが。妻はその階段を利用し東方面へ、この瞬間私は迷子状態。緑の芝生を歩きながら、妻の姿を探すとやはり東門への城壁上で手を振る姿を発見したのであった。集合時間が迫ってきたので東門へ向かうと、右側に異様な光景が。妻の話によると、この奥にはもっと悲惨な光景が拡がっており、東門頂上付近から見下ろしたと。無事集合時間に間に合い、次の目的地のストラトフォード・アポン・エイヴォンに向かう。道路の両側には新緑がひろがっていた。目的地のストラトフォード・アポン・エイヴォンに到着。目指す場所はウィリアム・シェイクスピアが生まれたといわれている家。街の入り口にあったピエロ像の台座には喜劇「お気に召すまま」から引用した言葉が刻まれていた。"The fool doth think he is wise, but the wise man knows himself to be a fool."(愚者は自分を賢者と思っているが、賢者は自分が愚者であると知っている)耳の痛い言葉、反省しきり。異国の地で愚者を実感したのであった。生家左隣のシェイクスピアセンターが入口。 シェイクスピアの生家を見学するには、ここから入場し、最初に部屋ごとに10分ほどのビデオを見終わらないと次の扉が開かず次に進めないような仕組み。ビデオを見終わってから生家を見学。ギューギューと混雑する施設見学よりはましであるが、急いで見学したいときは非常に不向きなシステム?。 いやこんなことを感じるのは日本人いや私だけ?巨大なシェークスピアが迎えてくれた。そして漸くシェークスピアの生家が。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた英文学の作家。 この家に生まれ、引退するまでの約20年間に、四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残したのだ。家の中には様々な展示物が。台所と食堂。寝室のBED。 ボランティア?の説明も。シェークスピアが生まれ育った部屋の数々が当時のまま、残されているのだと。家の窓からは前庭とこの家を訪ねる観光客の姿が。 庭ではコンサートも行われていた。シェークスピアの肖像が庭の片隅に。土産物屋には多くのシェークスピア作品が販売されていた。 シェークスピア のポートレイト(肖像画)も。シェークスピアの家は思ったよりも大きかった。彼の父親は、手袋の商いをしながら、金貸しなどいろいろな商売もし、議会にもでて、町長にもなるなど、なかなかの成功者だったとのこと。街の土産物屋を二人で散策。途中サンドイッチで腹ごしらえ。中に挟む物を選ぶことが出来、様々な野菜そしてドレッシングも自由に選ぶことが出来るシステム。この旅行で食べたサンドイッチでは最高の味。面白いカラフルなパソコン用キーボードを発見。
2013.05.21
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ロンドン滞在も終盤戦になり、この日は妻も参加のウォリック城→ストラトフォード・アポン・エイヴォン→オックスフォードへの日帰り観光バスツアー。この日もVictria Coach Stationからの出発。途中公園には山高帽を被った男の騎馬像が。ブーディッカの銅像。時計塔のそばに架かっているウェストミンスター橋のたもとに 馬二頭が牽く古代の戦車に乗った女性の銅像が。ブーディッカという古代イギリス東部地域の女王だと。大きな白い門「マーブルアーチ」。ハイド・パークの角にある大理石の門。M40高速を走る。 途中前方には、トラックの最後部にフォークリフトを乗せたトラックが。しかし固縛の為のロープはなし。どの様に固定しているのと観察すると、ツメ(フォーク)をトラック後部に設置された隙間に差し込み固定している模様。ウォリック城の入り口ゲートに到着。 チケットもらい、入場。早口の英語で説明された集合時間をガイドに再確認。 ガイズタワーの上には白地に赤十字の旗が。 イングランドの国旗「セント・ジョージ・クロス」 (St.George's Cross)。 英国のみならず、中世ヨーロッパの城の中でも最も美しいと言われる名城 。エイヴォン川沿いの険しい崖の上に建つ。その原型は、10世紀に造られた砦・土塁で、11世紀にウィリアム征服王により木造の城塞が築かれ、14~15世紀には2つの石造の塔を持つ現存する城郭がほぼ完成したとのこと。ウォーリック伯爵が所有する城だったが、1978年にマダム・タッソー蝋(ろう)人形館を運営するタッソーグループに売却され、アトラクション施設となったとのこと。東門(EAST GATE) 鋼鉄製の落下扉。 ノルマン時代は要塞として、今日では、周囲の風景を見渡す見晴台に。坂道と階段を登り頂上まで行く。城のすぐ横を蛇行して流れるエイヴォン川。 眼下には木製の見慣れないものが。 説明板。 『huge catapult』とあるので投石器(中世の城門破壊用)であろうか?城砦からの街並み。中央に見えるのがSt. Mary Church。左側部分はロイヤル・ウィークエンド・パーティの開かれた会場。向って右部分はグレート・ホールと呼ばれる建物。17~8世紀のもの。城内で一番広い建物で、ウォリックの歴史を通じて、最も重要な部分を蝋人形で再現しているのだ。 当時の甲冑をまとい馬に乗る兵士。ここはメインホール。城の中は博物館のようにたくさんのものが展示されていたのだ。 美しい家具、木彫装飾が非常に見事。我が家にもこれをと!!絵も見事であるが額縁もそれ以上に豪華。 城内、数カ所に当時を偲ばせる様々な蝋人形が配置され、見るものを楽しませてくれました。それにしても、これだけの量の蝋人形を見たのは初めての経験。しかもどれもホンモノと間違えるくらいの精巧な出来。 美しい王妃? 本物と見間違えるほどにリアルな蝋人形。中世の城とはいえこの城の展示は超ハイテク。 城の中にある書斎のような部屋。当時のたくさんの本物の本が残っていた。今にも語りかけて来そうな蝋人形。 中国の家具などが置いてあったベットルームには、母親に抱かれた赤ん坊も。
2013.05.20
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バース観光を終わりこの日の最後の目的地はストーンヘンジ。バースの車窓からのバースの街並み。窓の●が邪魔。道の両側には牧場が拡がり牛や馬の放牧が至る箇所で。こちらは豚の放牧そして個室?豚小屋の数々。菜の花畑が車窓を賑やかに。 あと1週間もすれば黄色一色。 黄色ベルト地帯。 こちらは黄色の絨毯。この冬に完成予定のストーンヘンジ観光館の工事も急ピッチ中。ストーンヘンジのバス駐車場に到着。チケットをもらい地下道へ。 地下道の壁には当時の想像図が描かれていた。 地上に出ると目の前に巨大石群ストーンヘンジが現れる。円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えているとのこと。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されているのだ。 遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていないのだ。ストーンヘンジは主にサーセン・ストーンと呼ばれる砂岩と、ブルー・ストーンと呼ばれる玄武岩から構成されているのだ。最大で50tにもなるサーセン・ストーンは、ストーンヘンジから30kmほど離れた場所にあるマルバラーの丘から持ち運ばれたもの。ひとつ約4tながら82個はあったと見られるブルー・ストーンにいたっては、なんと250kmも離れたウェールズのプレセリの丘から運送されたと。 近くには羊が放牧されていて、ノンビリと草を飯でいた。 運搬方法には諸説あるが、いずれにせよストーンヘンジで最大級の石を動かすには一度に数百人の男性が必要。なぜ円形をしているのか?ストーンヘンジはまず円形に囲われた土手の中に、30もの巨大なサーセン・ストーンが直径30mほどのサークル状に立てられているのだ。この列石柱の上には横石が乗り、いまは崩れてしまったが、かつては円形につなげられていたのだ。石はただ乗せられているだけではなく、立石と横石は凸凹を組み合わせて接合されており(ほぞさし式)、横石同士は溝でつなぎあわされている(さねはぎ式)。この円形の内側にブルー・ストーンが同心円状に並べられ、さらに内側には5組の門のような組石(トリリトン)が馬蹄型に並んでいるのだ。この内側にも同じように馬蹄型にブルー・ストーンが配されているのだ。上空から見るとこの様に見えるとのこと。『パンフレット』を撮影。ヒール・ストーンと呼ばれている石。夏至には、このヒール・ストーンから遺跡の中心の延長線上に日が昇り冬至には、同じくこのヒール・ストーンから遺跡の中心の延長線上に日が沈むとのこと。 正面から見ると猿の顔の形に見えた。 ストーンヘンジ観光を終わりアイスクリームで一休み。 ここからバスでVictoria駅まではほぼ爆睡。 ホテルの部屋に到着したのは20:15の日没時。
2013.05.19
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ローマ浴場に隣接するバース大聖堂(Bath Abbey)を訪ねた。バース大聖堂は,もともとは修道院から出発し(だからChurchではなくAbbeyと呼ばれる),長い歴史を経て現在の姿となったとのこと。大聖堂西正面左手の入口から寺院の中に入る。そして白の世界に出会う。 床から石の線が柱を伝わって天井まで垂直に立ち上がり,石の花のような模様を描いている。このたくさんの石の花びらが天井で交錯する様は実に見事。「花の街」と呼ばれるバースだが,教会の中にも美しい石の花が咲いていた。この「石の花」は英国後期ゴシック期に特徴的なファン・ヴォールトと呼ばれる建築様式と。天井の模様は曲線美の極み。礼拝堂の後部上の巨大なパイプオルガン(The Mighty Klais Organ)も荘厳。 様々なステンドグラスが寺院の壁に飾られていた。右手西端の大きな窓に描かれた旧約聖書のシーン。落ち着ける静かな空間。ステンドグラスの美しさに魅了され、しばらくの間、椅子に座って観賞。 寺院内の大理石の彫刻も圧巻。 大聖堂を出て近くを散策。下を流れる河はエイボン川。 King Edward VII Memorial (Angel of Peace)セントジョンズ教会。68メートルの尖塔が青空に突き刺さっていた。
2013.05.18
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バスはバース(BATH)へと向かう。途中、バース競馬場(Bath Racecourse)の看板を見つける。道路の横のタンポポの群生が黄色の帯に。イングランド西部の温泉地バースは、ケルト人や古代ローマ人が都市の礎を築いたのだ。現在の街並みが造られたのはおおむね18世紀のこと。18世紀のロンドンの都市開発では、集合住宅で取り囲む手法が円形という画期的な形『サーカス』が現れたのだ。サーカスは地上3階、地下1階、住戸数は33。内側の立面は円柱を埋め込んだ三層構成で、柱は1階がドリス式、2階がイオニア式、3階がコリント式というふうに、ギリシア・ローマ建築の様式を踏まえたデザイン。BATHのローマ浴場近くでバスを降りる。広場の人形いや人間。 バースはロンドンの西約140kmの所に在り、人口は約9万人程度。紀元前から温泉保養地として有名で、一説には、ケルト人が発見したと言われていると。ここの地名が、英語のbath(風呂)の語源になったというのは俗説で、正しくはその逆で、風呂を意味するゲルマン古語から、温泉の有るこの土地に、風呂という名前が付けられたとのこと。 ローマ浴場の正面入口。ローマ浴場と言いながら、まるで中世や近世に成って造られた教会の様な建物だったのだ。これは中世に修道院とか教会として使用されていた名残?。正面の玄関は閉ざされており、観光客の入る入口はこの左側に新しく造られていたが、この建物の外観は見るべきものが。 受付ホールはドーム状の天井に装飾が施され、柱は大理石で出来ており中央に受付カウンターが設置されていた。入場券はこのプラスチックコイン、まるで日本の5円玉の如し。 入口から2階へ上がり外へ出ると、ここは露天の回廊に成っており、下にある大浴場が目の前に拡がった。1階の大浴場の四方は回廊に成っており、風呂に入ったり、回廊部分で休み疲れをとっていたのであろう。大聖堂の如きローマ浴場の建物を背景に。 こちらは、ローマ浴場の全体模型。上部の大きなかまぼこ型の屋根のところが大浴場。元々は屋根がついていたと。 バースの全体配置予想図。 1Fからの大浴場。正面の通路のところにアーチ状のものが置かれているのがわかる。あれが元々この大浴場を覆っていたかまぼこ型の屋根の一部とのこと。いつしか屋根がなくなり、代わりに彫像が立ち並ぶようになったようだ。 建物が湯面に映る。
2013.05.17
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ウィンザー城への観光客はこの奥の入り口からチケット売り場へ。 チケット売り場の建物。 チケット売り場内部。 この先の門をくぐって、いよいよ城内へ。この日は女王が滞在中のためか、ウィンザー城のヘンリー8世門(出口)い近い広場で行われる11時からの近衛兵の交代式を見学。庭園も見事。 場内には既に多くの観光客が。クイーンメアリー人形館へ向かう。この人形館は、クイーンメアリーの為に作られたもので、本物を1/12に縮小して作られているとのこと。大理石の床、食器は陶磁器、絵画が見事であった。セント・ジョージ礼拝堂。1475年エドワード4世時代に建設が始まり、1528年に完成した建物は英ゴシック様式建築の最高峰と言われていると。英国のゴシック建築は外部の垂直の線が特徴的で、内部は美しいアーチ形の天井に歴代の王の紋章が飾られているのだ。ヘンリー8世をはじめとした国王たちの墓所で、101歳で崩御された皇太后もここに眠っているとのこと。日曜日は礼拝があるためここは見学不可と。ラウンドタワー。石造りの古いタワーでウィンザーの町を見下ろすような丘の高台に。この塔がある丘の周囲は、庭好きのイギリス人らしく、見事なガーデンになっていた。古い石作りが、イギリスの歴史を感じさせてくれるのであった。ウィンザーの街並み。 場内の芝生も見事な色。 人の姿が少ないところでシャッターを。 突然衛兵が現れた。 歴史を感じさせる石造りが青空と真っ白な雲に映えていた。 見学を終えヘンリー8世門から外に出る。ビクトリア女王像
2013.05.16
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この日は単独でのバスツアーに申し込み参加。集合場所は昨日と同じくVictoria Coach Station。旅行企画会社のカウンターに8時過ぎに到着。受付をしTICKETを入手。集合場所を指示され、8:45集合とのこと。 9時出発のウインザー城そしてストーンヘンジへの旅。 バスは定刻に出発。この日は前方に座席を確保。この日もほぼ満席。M4高速道路を利用しウインザー城を目指す。対向車線は渋滞中。ツアーバスは漸く10時前にウインザー城に到着。 Windsor&Eton Central(ウィンザー&イートン セントラル)駅構内を徒歩で進むと煌びやかな機関車(先頭部のみ)が目に入って来た。イギリス国王(現在:エリザベス女王)の紋章。イングランドを象徴するライオンとスコットランドを象徴するユニコーンが盾を支えている。イギリスの古くからの伝説では、ユニコーンはとても危険な獣のため、この国章では鎖でつながれているのだ。盾の中に2組配された金色のライオン3頭はイングランド王室紋章、金の地に赤いライオンはスコットランドの紋章、竪琴はアイルランドの紋章であると。盾の上には、冠をかぶったライオンがいる。ライオンのかぶっている冠は、イギリスの代表的な冠で、このライオンはイギリスを守っている、という意味があると。女王もこの機関車を利用したのであろうか。テムズ・ストリートから見た駅構内の時計台。時間は10:05。 ショッピングセンターを抜けるとすぐにウィンザー城が見えて来た。ウィンザー城は実際に王(女王)が住んでいる城として世界最大。今のエリザベス女王も週末などに来ると。 ウィンザー城横の広い道を通過。お土産店は未だあまり開いていなかった。 荷物を積んだ2頭の馬車の姿も。 ヘンリー8世門。ここは角塔。ウィンザー城は900年前に築かれて以来、何世紀もの間に歴代の王によって城の強化のため増築をしたとの事。 ここは城の観光入り口ではなくで出口。ここにも女王の紋章が刻み込まれていた。 ロンドンの西約30Km、テムズ川ぞいの丘の上に建つ900年以上の歴史をもつ王室の居城。最初のノルマン王、ウィリアム征服王がここに砦を築いたのが始まりで、12世紀にヘンリー2世、3世によって木造の砦は石造に変えられ、19世紀に入りジョージ4世によって現在の宮殿風に変えられたとのこと。現在、エリザベス2世ご一家は週末や余暇をここで過ごされることが多く、女王がおられる時は塔上にロイヤル・スタンダード旗が掲揚されていると。遠くラウンド・タワーが見えた。この日はロイヤル・スタンダード旗が立っていたので、女王様が滞在中?。ロイヤル・スタンダード旗がはためいていた。 上空にはひっきりなしに飛行機の大きな姿が。この場所の上空はヒースロー空港への旅客機の飛行ルート。チケット売り場。中は入場を待つ客でかなり混雑。チケットブースは入場券を買うだけの場所なのに、どことなく「ロイヤルな雰囲気」。窓口にいる職員もなんとなく品がよく、手にしたチケットも王室のマークが入った立派なもの。
2013.05.15
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神父んの説教も始まった。大聖堂の回廊と芝生の中庭。芝生にはお墓が。過去の聖職者のものあろうか。そして再び入り口。 出口(入り口を大聖堂側から) カンタベリー大聖堂を後にしグリニッジに向かうことバスで1時間。もちろんグリニッジは経度0º 0' 0"に位置している街。グリニッジ天文台がある都市としてよく知られており、この天文台をグリニッジ子午線が通っているのだ。greenwich naval college gardensグリニッジ大学の一部。Trinity Laban Conservatoire Of Music & Danceイギリスで最も古い、世界トップクラスの名門音楽院の一つ。ロンドンで学ぶ本場の音楽。卒業生の多くがミュージシャンとして活躍する、最高レベルの環境と教育の場とのこと。緑の芝生の庭には古い大砲が設置されているが,これは約200年前に作られたものらしい。 北極探検者のジョゼフ・ルネ・ベロー (Joseph René Bellot) を記念するオベリスク。 世界遺産に登録されているカティー・サーク号(Cutty Sark)。1869年に建造された帆船で、インドからイギリスまで紅茶を運ぶ役割を担った。当時は世界一の速度を誇った帆船。2007年5月の火災で半焼し復元したもの。帆船のマストに人物が、カメラでズームしてみると人形が。IPHONE5のGPSは0度00分27秒を示していた。 greenwich pier(桟橋) から観光船でロンドン市内まで戻るのだ。Trinity Laban Conservatoire Of Music & Danceのテムズ側の光景 我々が乗る観光船が到着。 観光船はテムズ側をロンドン方面に登る。ユニークな形のビルディング。ロンドンブリッジを下から。ロンドン塔を川面から。セント・ポール寺院の大きなドームも見えた。Embankment Pierにて下船しこの日の観光は終了。地下鉄でWoodside Parkまで戻り近くのスーパーに立ち寄る。ここがロンドン滞在中にお世話になったスーパー。UK4大スーパーマーケットの1つとのこと。リンゴを購入、日本のリンゴと異なりかなり小粒。地下鉄の車内でこれをかじっている人を時々見かけたのであった。 反対にこのインゲン豆は巨大。 19:30前であるが未だこの明るさ。日没まで後1時間。忙しい1日であったがリーズ城、そしてカンタベリー大聖堂の様々なステンドグラスそしてドーバー海峡の白き断崖、そしてテムズ側の船旅を楽しんだのであった。そして部屋に戻りビールロング缶を。2本飲むと何故か酔いが激しいのであったが、缶をよく見るとアルコール濃度9%のビールがあるとはビックリ。普段飲んでるビールは大体アルコール度数4.5~5.5%。イギリスでもほとんどがそのくらい。スコットランドでは伝統のあるビールのようだが。スーパーで買ったイチゴも楽しむ。食べながら我が菜園のイチゴはどうなっているのかとふと。この日も『イチゴイチエ・一期一会』の旅を楽しみ、9%ビールでだめ押し。よってこの日も爆睡。
2013.05.14
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大聖堂内は写真撮影可とのことで美しいステンドガラスを撮りまくる。
2013.05.13
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リーズ城を後にし、約1時間弱にてドーバーの街に到着。ドーバー(Dover)は英仏海峡に面した英国のケント州の主要な港湾都市。ヨーロッパ大陸と接近しており、フランスのカレーとの距離はおよそ34kmであり、それゆえドーバーは英国で最も忙しい港。イギリス海峡を広義の大西洋の一部とし「大西洋と北海の境」、あるいは、イギリス海峡の一部と考え「イギリス海峡の最狭部」ととらえられているのだ。ドーバー海岸は砂ではなくはまさに小石海岸。記念に美しい模様の小石を思い出に拾う。ドーバーの街からは白亜の断崖が見えた。石灰岩(チョーク)質であるため白色をしているのだ。全面の海域には消波堤などは一切なく、自然のままの姿 。遠くにドーバー城の姿が。「イングランドの鍵」と呼ばれたドーバー城の築城を命じたのは「征服王」ウィリアム1世。プランタジネット家のイングランド王ヘンリー2世が築いたのが、今に残るドーバー城。よって城に掲げられた国旗は、イングランドの国旗(イングランドの守護聖人である聖ジョージの旗)である白地に赤の十字。そして再びバスは高速道路を走りカンタベリー大聖堂へ向かう。40分程で大聖堂に到着。早速遅い昼食。カンタベリー大聖堂は、イングランド南東部ケント州のカンタベリーにある教会.そしてイギリス国教会の総本山。7世紀にカンタベリーのアウグスティヌスがイギリスに布教し、修道院として建設されたとのこと。こちらが敷地内への入り口。左が受付。 入場してすぐの右手に案内板が。この写真に写っているのは西半分で、14~5世紀に増築された部分。この大聖堂の中では新しい部分。現在開かれている出入り口は、教会の中では一番地味に作られていると言う『南西のドア』。一番地味とのことだが、かなりの装飾が施されていた。中に入ってまず目を引くのはホールの大きさ・広さ・天井の高さ。そのホールをとりまく内壁はすべて彫刻とステンドグラスで装飾されていた。 もちろんユネスコの世界遺産に登録されている。
2013.05.12
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このリーズ城は長い歴史を誇る城で、数次にわたって増築されているのだ。下の写真に見える右側の橋の手前が15世紀、橋の部分が19世紀ということに。さらに時代をさかのぼれば、857年にリーズ家が木造の城を造ったのが発祥とのこと。1119年より要塞化するために石造りの城へと改築が始まり、1278年にイギリス国王のエドワード1世の手に渡って住居用の城となり、以後3世紀にわたって王族が所有していたとのこと。 リーズ城の現在の入口は地下のワイン貯蔵室。そしてこの堂々とした面構えの城の入口が人間がやっと一人通れるような、今にも壊れそうなアーチ型の木造のドア。アーチ型のドアをくぐるとそこは薄暗い丸天井の土壁で出来た、奥に長く横幅の狭いひっそりとした地下室。そして両脇には無造作にワイン樽が並べられていた。 女王の寝室。天蓋付きベッド。壁には見事な陶板彫刻が。 6人の王妃の一人?それともエリザベス1世?図書室。様々な用途に使われていた部屋で、1926年までは食堂だったとか。1938年に17世紀後期風にデザインをしなおしたとのことで、格調高い部屋。ぎっしりと詰まった『本物の』本の数々は圧巻。ダイニングルームの壁には美しい数々の陶器が飾られていた。リーズ城の一般公開は1976年。この城の美しさに魅せられたひとりの女性、ベイリー夫人が城を買い取り、長い年月に渡る修復後に公開したのだ。ワインセラーの城内入り口から始まり、女王の部屋と浴室、ヘンリー8世の宴会場、礼拝所、ベイリー夫人の寝室、現在でも使用される会議室や応接間、ディナールームなどを楽しんだのであった。そして城を出て城の裏の公園を散策。城の裏からのアングルも見事な光景。 近くには人に馴れた?いや馴れすぎた孔雀がテーブルの上で休憩中。見事に美しい羽の模様。 孔雀の羽をじっと見ていると、逆にこっちが見られているような気分に・・・。確かに綺麗だが、不思議な模様。何だか無数の目が付いているようで・・・。青空に映える女王たちの城。大きな庭園の奥には樹木で出来た迷路も。挑戦したかったが、迷子になり戻れなくなり集合時間に間に合わなくなる事を考えて断念。 黒鳥も湖面にのんびりと。オオハクチョウなどのように渡りを行わず、季節や環境の変化により移動を行う漂鳥。黒鳥は嘴の赤が特徴であるが、幼鳥は羽毛は白色でくちばしは黒色、成長するにつれて羽毛が黒くなり、くちばしは赤褐色から赤色へと変わっていくのだと。リーズ城の観光を終え出口に向かうと、『セグウェイ』講習が行われていた。行きたい方向に体を傾けて体重をかけると、速度調節から前進後進、方向転換ができる不思議な乗り物セグウェイ。
2013.05.11
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この日は妻とロンドン日帰りバスツアーに参加。出発場所はビクトリア駅近くのVictoria Coach Station。Coachとは大型バスの事であり、すなわちビクトリア バス ターミナル。リーズ城、カンタベリー大聖堂、ドーバー観光とグリニッジ・クルーズの日本人のガイド付き日帰りバスツアー。定刻の8時半にバスは出発。バスはほぼ参加者で満員。ウエストミンスター寺院横をバスは通過。 先日訪れたビッグベン、時間は丁度9時に通過。 Christ Church, Old Kent Road横を通過。 高速ロードM20を利用し10時過ぎに最初の観光地リーズ城に到着。ケント州にある、「世界一愛らしいお城」 と呼ばれているリーズ城。チケット売り場。観光バスは更に奥に。 リーズ城は、中世の6人の女王の住居。エリナー(エドワード1世の妃)、イザベラ(エドワード2世の妃)、フィリッパ(エドワード3世の妃)、ジョアン・オブ・ナヴァル(ヘンリー4世の妃)、キャサリン・オブ・ヴァロア(ヘンリー5世の妃)キャサリン・オブ・アラゴン(ヘンリー8世の最初の妃)。エリザベス1世も、戴冠する前のある期間ここに囚われていたのだ。リーズ城は、しばしば「女王たちの城、城の中の女王」といわれている理由がこれ。 【パンフレットを撮影】この城の最も有名な所有者はヘンリー8世。ヘンリー8世は、この城を最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの好みに合わせてリフォームしたと。ヘンリー8世とフランス国王フランシスの1520年の会合を記念して描かれた「金襴(きんらん)の草原」という目を見張る絵画がリーズ城に掛けられているのだ。 バスは城の入り口近くで停車。 防壁と要塞の名残の水車小屋跡。リーズ城入り口に到着したが開城前。しばらく周囲を散策して10:30の開城を待つ。 リーズ城は1900年代になって、イギリス系米国の大富豪、ベイリー婦人の手に渡り、現在リーズ城財団の管理下とか 湖岸には多くの野鳥?が、かなり人になれている模様。いよいよ10:30に開城、城内入り口に向かう。正面から入ることが出来る・・・わけではなく、裏口?の如き場所に回ることに。湖の中に建てられた城であることが解る。 城の上には旗が。
2013.05.10
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チェスター大聖堂 (Chester Cathedral)10世紀にデーン人からの略奪を逃れるために聖ワーバラの聖骸をスタンフォードシャーからチェスターへ移し教会を建てたのが始まり。、1092年にベネディクト派の修道院となり、1250年に現在の建物ができ、16世紀のヘンリー8世の時代に大聖堂となったとのこと。現在の建物は、1250年に建築が始まり、約250年後に完成したもの。それにしても、真っ白な漆喰の壁に黒い木組みの柱や梁が美しいアクセントをつくっていた。三階建てや五階建ての木造家屋もあり、建築技術の進歩が伺えたのであった。この地では地震や暴風雨に対する備えは必要ないので、このような木造高層建築が可能となったのであろう。10世紀にサクソン人が教会を築いた場所に、11世紀末ノルマン人が再建したと。チェスター大聖堂を裏庭側から眺めた風景。重厚な石造り。城壁の横には鳩小屋が。城壁の途中にあるキング・チャールズ・タワー。扉上部の銘に、1645年9月24日、チャールズ国王はこのタワーに立ち、ロートン・ムーアの戦いで国王軍が議会軍に敗れるのを見守った、と書かれていると。この時期にひどく損傷を受けたが、1658年にほぼ完全に復元されたと。キング・チャールズ・タワーとその下を流れる川。実は城壁の外濠は天然の川でなく、ローマ人が造成したシェロップシャー・カナール。城の横を通過する列車の線路。4つあるゲートのひとつ、ウォーターゲートは工事中。チェスター競馬場(ルーディー)。英国でもっとも古い競馬場。ザ・ダービーのトライアルレースのチェスター・ヴェース競走が行われるとのこと。ディー川沿いにあるこの競馬場は、ローマ帝国時代は港として使われていたが堆積物のため港としては使えなくなってしまったとの事。チェスター市庁舎はチェスター旧市街(城壁内)のなかほどに。ロウズと呼ばれる木枠のかわいらしい商店街。再びシンボルの時計。イーストゲートに掲げられた紋章。運河に浮かぶナローボート。この船で観光に来たのであろう。カモの親子が仲良く。 そして帰路の特急列車。途中、車窓には富士山が。奮発してFirst Class。2列+1列の座席配置でゆったりと。
2013.05.09
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「ザ・クロス」の目印となっている「時計塔」。 建物の2階部分のバルコニーを回旋状につなげたこの町独特のショッピングアーケード。要塞として造られ、中世には襲ってくるヴァイキングへの対策のためにさらに強固な要塞を必要としたという街の歴史は、この街を囲む城壁を見れば一目瞭然。現存するもののほとんどは中世に築かれたもので、時代と歴史を感じさせる重厚な造り。現在では観光用の回廊として整備されており、街並みを眺めながら散歩する事が出来るのであった。下の写真の赤い部分が城壁の位置。城壁は全長は3.2kmあり、市街を見物しながら歩いて1時間弱で一周できるのであった。チェスター城、芝に囲まれた丘に建つ城。 ブリッジ・ストリートを下り、ブリッジ・ゲート付近から城郭の外側を展望。城壁のそばを流れる川がディー川 (River Dee)、古色蒼然とした石橋が13世紀に造られたオールド・ディーブリッジ (Old Dee Bridge)城郭の横を流れるディー川とオールド・ディー・ブリッジ。昔は川の水深も深く、大きな船も往来できたとのこと。城壁の構造がよくわかる場所。街を囲む城壁の、東の外側にはローマ時代の遺跡が幾つか残っていた。床暖房システムの跡とのこと。ローマ円形劇場跡(Roman Amphitheatre) 小学生たちであろうか、お祭りの練習準備中。セント・ジョン・ザ・バプティスト教会 (Parish Church of St John the Baptist) こちらは新設された吊り橋。城壁の上からイーストゲート時計塔(East Gate Clock)を見る。イーストゲート時計塔から東方を見る。ザ・ロウズの商店街が続く。
2013.05.08
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パリからロンドンに戻った翌日は私単独でのチェスター (Chester)観光。妻はパリの疲れを取るためホテルの部屋での休養と息子への母親料理の準備。出発駅のEustonまで地下鉄を利用。 出発は10:10発の特急列車。前日パリからの帰路に駅で乗車券、指定券を事前購入済み。駅の構内の発車時間と発車プラットフォームが表示される電光掲示板。 電光掲示板の下で見上げて待っていても発車予定の15分前になってもプラットフォームNOが表示されないのでした。この辺が日本と異なる国民性か。漸く10分前にPatform 3の表示が。利用した特急列車。往復のチケットを購入。改札はなく車内で検札に来るだけ。途中 Milton Keynes Central駅に停車。イギリスでは自転車をそのまま車両に持ち込み可能。ホームを自転車で走行している輩の姿も。途中の草原にはCanal(運河)がありそこに小舟の姿もいたるところで見ることができた。Canal Boat,またはNarrow Boat(幅の狭いボートの意味)はこの運河に浮かんでいるボート。。英国では数家族で一緒に大きい船を借りて休暇を過ごす人も沢山いると。運河沿いにはパブなども沢山あると。船に泊まらないで、これらのホテルやB&B( bed and breakfast)に泊まる人もいるとか・・・。ところどころにボートプールも。チェスター到着10分前に目覚ましをセットしうとうとしていると、前に座っていた中年の英国紳士が私の膝を叩いてくれた。ビックリして目を覚ますと、列車が車両故障のためこの駅で運転終了とのこと。最初は意味が分からず聞き返すと乗り換えの為の列車が発車するPlatform NOも教えてくれた。特急列車のため払い戻しが出来るようでその説明もしてくれた様だが十分理解できず、払い戻しはギブアップ。その駅の名は『Crewe』。ここからはこの各駅停車に乗りチェスターまで30分の旅。想定外のトラブルのためビックリしたが英国紳士のお蔭で何とかなった。起してくれなかったら車庫まで??チェスター (Chester)に漸く40分遅れで無事到着。チェスターはイングランド北西部チェシャーの中心都市。ディー川沿い、ウェールズとの境に位置。イギリス国内では最良の状態で現存する城郭都市のひとつ。人口は約8万人とのこと。歴史を感じさせるチェスター駅。チェスターにはローマ時代の遺跡が残り、中世にはヴァイキングの襲撃を受け街を囲む城壁を堅固にして、現在も残っているのだ。イングランドで最も中世の面影を残す街と云われているのだ。タウンホールからザ・クロスへ通ずるノースゲート・ストリ-トの建物。白壁に黒い梁が、チェスターが繁栄したころの姿をそのまま残しているのであった。イーストゲート・クロック。街を囲む城壁には4つの門があり、そこから中心へ道は延びているのだ。中でも東のイーストゲートは、その上に「イーストゲート・クロック」という、ヴィクトリア女王即位60年を記念して作られた時計台が。チューダーのシンボル イーストゲートクロック(4面時計)。時間は丁度午後1時。西暦1837年、イギリス国王ウィリアム4世が亡くなった。その後を継承してイギリスの王位についたのは、わずか18歳の女性 ヴィクトリア。それから60年後の1897年の数字が時計台に刻まれているのであった。そしてビクトリア女王を表す「VR」の文字も。カメラをどこに向けても絵になる景色。30年ほど前、仕事でこの街を通りかかり客先の担当者が案内してくれた印象的な街であったのだ。30年ぶりでも印象的な景色。このチューダー様式も古いものは1600年代のもあって、木組みと漆喰で400年も建っていて、しかもまだ、店舗などに使われていて今でも現役.。街の中心部には白壁に黒い柱の建物が並ぶ中世の街そのもののような街並みに感激。
2013.05.07
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地下鉄メトロ2号線、ANVERS(アンヴェール)駅まで行きモンマルトルの丘の頂上を目指す。長い階段が続いた。近くをを走っている「フニクレール」と呼ばれる乗り物を利用すべきでした。 サクレ・クール寺院。モンマルトルのサクレ・クール寺院 (Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre) はパリ市内モンマルトルの丘の頂にそびえる教会堂。ロマネスク様式・ビザンティン様式のバジリカ大聖堂。階段下でハープ演奏を披露するオジサン。 モスク(イスラム寺院)のようなドーム。「サクレ・クール寺院」(Basilique du Sacré-Cœur)は、「聖なる心臓」(聖心)を意味する教会で、フランス各地やベルギーのフランス語圏などに多数あると。キリストの彫刻か? 彫刻の如き人物、動かない、動かない・・・・・・・・。 2つの騎馬像が私たちを迎えてくれた。左側は、聖王と呼ばれるルイ9世の騎馬像。 印象派の巨匠達が好んで住んだ、モンマルトル、そしてそのシンボルの寺院。この日は入場を断念。正面の天井に描かれた大きなキリストのモザイク画が非常に印象的とのことであったが。パリ市内を一望できるスポットは、他にもいくつかあるが、こんなに広い範囲が見渡せるのは、ここだけの魅力。隅の方に行くとエッフェル塔の姿も見ることが出来た。モンマルトルは歴史地区に指定され、その歴史的景観や特徴を保持するため開発は最小限度しか許可されていないとのこと。石畳の細い坂道や長い階段などが随所に見られる街並みはどこも絵になる風景。寺院下の緑地には多くの家族やカップルが寛いでいた。 新人画家いっぱいいると言われるテルトル広場には、行けなかったが、30年ほど前にここを訪ねたときに購入したこの寺院を描いた絵が今でも私の部屋の壁に掛けられているのです。帰りの道は土産物屋が両側に。再び地下鉄でシャンゼリゼ通りに戻る。 シャンゼリゼ通りの店を散策する。シャンゼリゼ通りを示す看板を発見。 途中、歩道上のテントカフェで家族で一休み。地下鉄12号線に乗り、先日閉店であったデパートに再チャレンジ。デパート、 ル・ボン・マルシェに到着。チョコレート売り場。各種野菜が並んでいた。ハチミツ売り場。ラベルには半楕円形の巣の姿も。蜂蜜をフランス語にすると、【Miel】。日本の調味料の特設売り場も設けられていた。ロンドンへの帰路もパリ・北駅(Paris Nord)からユーロスターで。パリ北駅の美しいドーム屋根。帰路は特等席を利用。出発直後に出てきた軽食。完食して爆睡し帰路もドーバー海峡トンネルを実感できず。
2013.05.06
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ノートルダム大聖堂に漸く到着。ゴシック建築を代表する建物であり、フランス、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会の大聖堂。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指すとのこと。巡礼者や観光客を合わせ約1400万人の来訪者があるとのこと。大聖堂の歴史の始まりは1163年に遡る。パリの司教モーリス・ド・シュリーにより建設が開始され、このゴシック建築の至宝の最初の石が置かれてから、2013年で850年を数えるのだ。2012年12月12日~2013年11月24日、ノートルダム寺院の建設850周年を記念し、期間中多くのフェスティバル、セレモニー、感謝の祈りや、文化事業などが予定されているとのこと。青のゲートが設置されていた。ゲートの内部からステンドグラスを楽しむことが出来た。 ゲートをでると特設スタンドが設置されていた。特設スタンドは、双塔の正面に設置され、地上5メートルの高さから、ノートルダムを眺められるように設定されていたのだ。息を呑む美しさの、ノートルダム大聖堂の「バラ窓」パリのノートルダムで双塔と並んで有名なのが、「バラ窓」と呼ばれるステンドグラス。この「バラ窓」は、ノートルダム大聖堂だけでなく、ゴシック建築の円形ステンドグラスの名称。ノートルダム大聖堂には西側・北側・南側あわせて3つのバラ窓があるが、現在では、13世紀のステンドガラスはこの北側のバラ窓のみ。残念ながら中に入るのは諦めたが、このバラ窓のステンドグラスは見たかったのであった。ノートルダム大聖堂の正面入り口上部。中央の門には、「最後の審判」が描かれているのだ。下の段には「復活」の場面、中央の段には「死者の魂を裁いて、選ばれた者は天国へ、選ばれなかった者は地獄へ」という場面、上の段には「裁きを行っているキリスト」が描かれているとのこと。ヴィクトル・ユゴーの小説『ノートルダムのせむし男』の舞台にもなった寺院。近くのレストランで昼食。オニオンスープは大満足。ハムとチーズのサンドイッチは・・・・・・。 周囲の道路に沿って歩く。どこから見ても美しく、素晴らし建築物。 昼に見るのも良いが、夜にライトアップしているのを見るのも幻想的とのことだが。ノートルダム大聖堂の後ろ側は、「スパイダー」と呼ばれる。まるでクモのように、足が生えているのであった。正面より形状が複雑であり美しい姿。聖母マリア? 尖塔が青空に突き刺さっているが如し。 八重桜もほぼ満開。 大聖堂の尖塔。左側がゴシック様式の塔"新鐘楼"。右側がロマネスク様式の"旧鐘楼"。 観光遊覧船には多くの観光客が。皆ノートルダム大聖堂が見えだしたので一斉にカメラを。
2013.05.05
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パリ観光2日目。宿泊ホテルは「WESTMINSTER HOTEL」朝食抜きでホテル前の通り(ラ・ペ通り Rue de la Paix、「平和通り」の意)をセーヌ川方面に開店前の高級ブランド店のウインドウを見ながら歩く。前方ヴァンドーム広場のヴァンドームの円柱が見えた。見事な青空、広場の中央にはローマ風の衣装を身にまとったナポレオンの像が頂上に。フランソワ・ミッテラン通りを渡り チュイルリー庭園をルーブル美術館方面に向かう。後ろにはコンコルド広場のオベリスクの頂上が朝陽に輝いていた。そしてその後方には凱旋門の姿が。ルーヴル美術館が見えて来た。そして同じく後方にはエッフェル塔の姿も。カルーゼル凱旋門(Arc de Triomphe du Carrousel) 。1806年から1808年にかけて、前年のナポレオンの勝利を祝するために建設されたもの。高さ19メートル、巾23メートル、奥行7.3メートル。中央のアーチの高さは6.4メートル、両脇の小さなアーチの高さは4.3メートルとのこと。門の上には、兵士や女神の彫像が飾られ、表面にはナポレオンが勝利した数々の戦いのレリーフが。アーチの内側にも細かいレリーフがびっしり。建設当初は、門の一番上に、ナポレオンがベネツィアから奪った黄金色のクアトリガ(4頭だての馬車)が飾られていたとのこと。しかし、1815年ワーテルローの戦いでナポレオンが敗れた際に、オリジナルは奪い返されてしまい、現在はボシオ作のコピーであると。ルーヴル美術館メイン・エントランスのルーヴル・ピラミッドが前方に。既に朝早くから多くの観光客がいる模様。ルイ14世の騎馬像が出迎えてくれた。 ルーヴル・ピラミッドは、ガラスを主材料としており、高さ20.6メートル、底辺35メートルに達しており、603枚の菱形のガラス板と70枚の三角形のガラス板とで構築されているとの事。この日の美術館観賞は時間的に無理なため諦める。以前この場所を訪れたときは、この美術館は目で見るのではなく足で見るものと実感した事を思い出したのであった。ルーヴル美術館の外に出て、カルーゼル橋(Pont du Carrousel)を渡る。ルーヴル宮殿に通じていることからルーヴル橋という名も与えられているとのこと。ルーヴル橋を振り返る。セーヌ川は青空を映して流れも穏やか。 シテ島に向かいセーヌ川沿いを歩きアール橋に到着。金網に南京錠を閉めて、鍵を川に投げ入れると二人にとって良いというジンクスがあるとのこと。金網場は所狭しと南京錠が。日本の観光地にもある光景。経度局?(Bureau des longitudes)がアール橋の真ん前に。先ほど渡ったセーヌ川にかかるカルーゼル橋。それにしても見事な快晴。 シテ島( Île de la Cité)は、パリの中心部を流れるセーヌ川の中州。遠くノートルダム大聖堂の尖塔も見えた。手前側のヌフ橋。16世紀に建設されたものであり、パリに現存する最古の橋。シテ島観光船も続々と。 アンリ4世の騎馬像。シャンジュ橋を渡る。
2013.05.04
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20分ほど道を迷いながら進む。漸くリュクサンブール宮殿のMAPに出会い一安心。リュクサンブール公フランソワの邸宅を、イタリアからフランス王室に嫁いできたマリー・ド・メディシス(ルイ13世の母)の居城として改築したもの。 フランス元老院(上院)の議事堂として使用され、その周囲はリュクサンブール公園として一般に公開されているとのこと。水面に映る宮殿の姿も美しかった。 高木の並木を両側に配した公園の突き当たりに、優雅な宮殿が姿を見せる景観はパリ随一ではないのだろうか。パリ市内一の広さを誇る庭園には100体以上もの彫像や記念碑が置かれ、さながら野外美術館の如し。 アメリカ合衆国ニューヨーク州にある自由の女神像の原型がこれとのこと。宮殿前の見事な花の庭園。パリっ子の憩いの場の一つとなっているとのことだが納得。この日のパリ観光初日はこれまでとしIPHONE5で近くの地下鉄駅を探しホテルまで戻ったのであった。この日の夕飯は、「札幌味噌ラーメン」。
2013.05.03
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先ほど歩いたシャンゼリゼ通り歩道には多くの観光客の姿が。一方通行の螺旋階段を慎重に下る。 下におりシャンゼリゼ通りに目をやると多くの献花があり、その中心にモニュメント的な炎がともっていた。ここには第一次世界大戦の無名兵士が葬られているのだ。そしてこの場所はフランスのために命を落とした兵士達の慰霊碑のような場所になっているようであった。このエトワールの凱旋門は1805年にナポレオンが率いるフランス軍がアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍に芸術的とも評価される戦術で大勝を納めたことを記念するために1806年に建造がナポレオン自身によって命じられたと。もっとも彼はその完成を見ることなく1821年に幽閉先のセント・ヘレナ島でこの世を去ってしまったのだ。その後この凱旋門は1836年に完成。1840年に彼の亡骸がパリに移された時初めて、自分の命で自らの栄光のために造らせたこの門をナポレオンはくぐったのであったと。 1792年出発「ラ・マルセイエーズ」リュードによる彫刻 (南東面右側)この彫像は、翼を持った女神、勝利の女神ニケに導かれ、ライン川流域への遠征に出発するフランス帝国軍の姿を描いたもの。1810年勝利 コルトーによる彫刻 (南東面左側)ナポレオン一世の頭上には、勝者の証し、月桂樹の冠が捧げられているのだ。背後では、勝利の女神ニケが空を舞い、オーストリア、ドイツ、ロシア、イタリア等に対するフランス帝国軍の勝利を祝福していると。 南東面の大アーチ プラディエによる彫刻。南西面の大アーチ プラディエによる彫刻。シャンゼリゼ道り沿いの店を訪ねながらコンコルド広場方面に向かい散策する。 振り返ると多くの観光客が展望台で楽しんでいることが確認できた。イエナ通りを利用してエッフェル塔に徒歩で向かう。もちろんエッフェル塔( La tour Eiffel)は、パリの象徴的な名所となっている塔。フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のためにギュスターヴ・エッフェルによって設計され建造されたもの。現在の高さは324m。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1m。手前のイエナ橋に到着。イエナ橋( Pont d'Iéna)はセーヌ川に架かる石造アーチ橋。橋の四方には4体の彫刻が飾られていた。第2展望台までは階段で昇ることが可能なようで階段を昇る人の姿が確認できた。こちらも橋の四方の4体の彫刻の一つ。赤いエレベーター。 イエナ橋と下を流れるセーヌ川。ロンドンのテムズ川より河の色はきれい。近くの公園には多くの出店やオモチャが展示されていた。 カラフルなドーナッツ。セーヌ川沿いをコンコルド広場に向けて歩く。歩行者専用のドゥビイ橋の下を観光船が通過する。 アルマ橋の交差点で信号待ちをしているとローラースケートの大群が信号を無視して反対側の歩道を渡っていった。その長さは100m以上。アレキサンドル3世橋。四隅に立つ高さ17mの石柱の像も見事。ペガサス、女神の黄金像とのこと。橋に飾られたアレクサンドル3世橋の彫刻:「セーヌ川の妖精」 フランス国民議会議事堂が右手に見えて来た。ブルボン宮殿(Palais Bourbon)と呼ばれ、セーヌ川河岸に位置し、コンコルド広場とはコンコルド橋を介してつながっているのだ。コンコルド橋を渡りコンコルド広場に向かう。遠くエッフェル塔が見えた。 コンコルド広場に立つオベリスク。フランス革命中には、ルイ16世やマリー・アントワネットへのギロチン処刑が行われた刑場でもある。1795年、現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれ始めたのだ。エジプトのルクソール神殿から運んできたオベリスクLuxor Obelisk(クレオパトラの針)。以前の旅行で訪ねたルクソール神殿には残る1本はまだそのまま立っていた事を思い出す。赤い花崗岩でできており、台座を含めて高さは23メートル、重さは250トン以上。先端部分は紀元前6世紀ごろ盗まれたとされており、1998年にフランス政府が金箔を施したキャップを先端に追加したとのこと。オベリスクの下には豪華なリムジン車が停車し近くに結婚式を済ませた新郎新婦の姿が。(言葉から中国系?) ツタンカーメンの姿の動かない人。 ラムセス2世の治世を褒め称えるヒエログリフが刻まれているのだ。コンコルド広場の噴水は、ローマ・サンピエトロ広場を模してジャック・イニャス・イトルフが1836年~1840年に設計したものとのこと。 広場でダンスの練習をするカップルの姿。コンコルド広場を後にし地下鉄の駅に向かう。地下鉄駅の内部は洒落たアルファベットのタイルが無限に続く。調べてみるとフランス人権宣言の文面が綴られているとのこと。妻のリクエストに応えて地下鉄12号線でパリで一番古いそしておしゃれデパート、ル・ボン・マルシェに向かう。ところがこの日は日曜日のため店は閉店。やむなく隣の公園のベンチで一休み。再度訪ねることとし、リュクサンブール宮殿を訪れることで皆合意。
2013.05.02
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我が夫婦が宿泊しているテラウハウスの部屋の様子を紹介します。まずは屋根裏の寝室。斜めの部分に頭をぶつける可能性が有るため黄色のポストイットを貼り付けました。対面には壁掛けテレビと作り付けの収納ダンスが。入り口正面のロフト部。居間には大きな窓、ソファーと壁掛けテレビが。トイレ、シャワー室は1段下がった場所に。 寝室から台所への通路。 ダイニングルーム、冷蔵庫、オーブン等も設置されていた。一番右側には洗濯乾燥機も。 妻がこの場で料理と洗濯に奮闘してくれたのであった。この日はユーロスター(Eurostar)でフランス・パリに行く日。ユーロスターは、英仏海峡トンネルを通ってイギリスと大陸ヨーロッパとを結ぶ国際列車。ロンドンとフランスのパリ、リール、およびベルギーのブリュッセルとの間で運行されており、最高速度 300km/h の高速鉄道となっているのだ。この日も地下鉄を利用してセント・パンクラス駅(St Pancras station)に向かう。案内板に従ってユーロスター搭乗口に向かう。 9:22発のパリ行きを息子が予約済み。 e-TICKET。コーヒーショップでサンドイッチを購入し朝食をとる。荷物検査、出国そしてここでフランス入国検査を終えホームへ。 目指すはパリ (北駅)。列車が既に入線していた。日本と違うのは列車の外装がやけに汚れていること。この辺が大きな国民性の違い。 新幹線車両内。定刻に新幹線は出発し、すぐに左右は草原の光景が拡がった。高速道路と交差。 この後爆睡し気がつくとドーバー海峡トンネルを既に通過しヨーロッパ大陸に。車窓から多くの風力発電設備を見ることが出来た。そしてパリ北駅に近づく。ロンドンから2時間15分。パリ北駅に到着。もちろんフランス語での表示。 ここからはタクシーでホテルへ。ホテルはパリ・オペラ座の近く。 ガルニエ宮(Palais Garnier)が正式名称であり、首都パリにある歌劇場なのである。チェックインし暫く休憩後、早速散策開始。ナポレオン3世が建てたネオ・バロック様式の豪華な建物。高さは 82m(地表-屋上アポロン像の先)。フランス国旗と欧州旗がたなびいていた。青地は青空を表し、星の描く円環はヨーロッパの人々の連帯を表す。12個という星の数は最初から決まっていたもので、「完璧」と「充実」を表し、加盟国の数を表すものではなく今後とも増えたり減ったりすることはないと2年前デンマークを訪れたとき学んだことを思い出す。 オペラ座沿いの道を1周する。正面の彫刻も見事。パリでも地下鉄を利用して凱旋門に向かう。Charles de Gaulle Étoile駅で降り地上に出るとそこは凱旋門の真ん前。正式にはエトワール凱旋門(フランス語: Arc de triomphe de l'Étoile)。パリのシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にある凱旋門。凱旋門の下には巨大なフランス国旗がたなびいていた。3人とも284段、50mの地獄の螺旋階段を上り展望台まで行くことを決意。途中何度か休みながらも何とか展望台にたどり着いた。この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びておりその形が地図上で光り輝く「星=étoile」のように見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場) la place de l'Etoile」と呼ばれていたとシャンゼリゼ通り、遠くにコンコルド広場のオベリスクも確認できた。モンマルトル (Montmartre)の丘方面。モンマルトルはパリで一番高い丘。セーヌ川右岸18区にあり、パリ有数の観光名所。サクレ・クール寺院、テルトル広場、キャバレー「ムーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがあるのだ。 高層ビルが1本ニョキッと。 高層ビルは209mあるオフィスビル モンパルナス・タワー。オフィスビル モンパルナス・タワーと金色のドームが。新凱旋門方面。 新凱旋門は、高さ110メートル、幅70メートル。形は、パリの凱旋門に似せているが、オフィスビルになっているので、両サイドは事務所としてつかわれているようだ。 そしてエッフェル塔の勇姿が。
2013.05.01
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