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同僚と国際展示場・ビッグサイトで開かれている『INCHEM TOKYO 2013』に行ってきました。りんかい線・国際展示場から徒歩にてビッグサイトへ。『INCHEM TOKYO 2013』は 今回で29回目を迎える日本唯一の化学およびプロセス産業用プラントの専門展示会。主にはプラント用機械やシステム、制御・計測分析機器、その他マイクロ化学プロセスやデバイスなど化学およびプロセス産業用プラントに関する製品・サービスが出展。併せて『水イノベーション 2013』も。革新的な水循環システムの構築と上下水道運営システムの国内外展開を支援する専門展示会。 上水プラント・造水プラントエンジニアリング技術から排水処理、汚泥処理などの装置システム、そして各種部材や水処理剤などが出展されていた。 帰路は同僚と隅田川・水上バスにて浅草まで。チケットを購入し待ち時間に生ビールを一杯。「トルネード」と呼ばれる、カップの下から注ぎ入れるビールサーバにて。逆止弁付きの専用カップをセットすると、下から自動でビールが注入。そして、適量で停止する優れもの。17時前の夕焼けが。 乗船する水上バスが到着。 パレットタウン大観覧車に沈む夕陽。 ホテルトラスティ東京ベイサイドも夕陽に輝いていた。 レインボーブリッジ。 東京タワー。 フジテレビ本社があるFCGビル。 夕焼けを背景にしたビル群。レインボーブリッジの後ろには富士山が、いや雲。 日の出桟橋に近づく。 御座船 安宅丸。 「セブンアイランド」という高速船。今回の大島からの避難船に利用されたと埠頭係員から。日の出桟橋から浅草行きの水上バスに乗り換え。
2013.10.31
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我が家の庭のホウキグサ(箒草)が濃いピンクの姿に変わってきました。 箒のような細かい茎が特徴で、秋のこの時期に紅葉、茎も同様に赤くなってきたのです。昔は茎を乾燥して束ねに箒として利用されることがあったのです。成熟果実は秋田県の郷土料理「とんぶり」の材料となるのです。「とんぶり」の名の由来については、「ぶりこ(ハタハタの卵)に似た、唐伝来のもの」を意味する「とうぶりこ(唐ぶりこ、唐鰤子)」が省略され、転訛したものとする説が有力なのだそうです。 しかし我が家のものは、とんぶりの実が小さいのです。食用のとんぶりを採るものは品種改良された物なのでしょうか?コキアとも呼ばれており、モコモコに生長したコキアは大きいもので1m程度になっています。先日の台風の風の影響か丸かったものが中心から割れてしまった物も。初夏には、まりもの如き美しい若葉の緑を、そしてこの時期には美しい赤色の姿を楽しませてくれるのです。
2013.10.30
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先週末の土曜日は、台風の影響で生憎の雨。遅れている農作業を取り戻すべく、屋根のある場所でのソラマメの種まきを行いました。種類は通販で購入した『打越一寸』。打越一寸は3粒莢率が高い多収型品種なのです。草勢も強く、寒さにも比較的強くて、作りやすいので毎年この種類を栽培しているのです。袋を切って種を取り出すと一袋に24個の種が入っていました。青い色は、種を病害から守り、畑に病害を持ち込まないように種子消毒処理をしてある為。今年も育苗ポットに種まき。豆のヘソ、つまりお歯黒を下にして、凹んだ部分が上に来るように少し斜めで差し込む。種を全部埋め込んでしまわないのが失敗しないコツだとは亡き母より。 何故かというと、ソラマメが発芽するためには酸素、つまり空気が必要。つまり種も呼吸をしていると。 故に全部埋め込んでしまうと、呼吸ができなくなって腐ってしまうことがあると。よってこの後、土を薄く被せて種まきの終了。10日前後での発芽が楽しみ。 併せてスナップえんどうの種まきも。こちらも通販で2種類を購入。 一つのポットに3粒ずつの種まき。こちらは軽く覆土して完了。 こちらも1週間もすると根が出て、10日後くらいには芽が出始めるはずなのです。スナップエンドウは早蒔きすると大苗になってしまって冬を越せずに枯れてしまうのです。本葉が2枚から3枚で冬を越すのが一番いい状態。よってこの時期に必ず種まきを行うことが重要なのです。甘い野菜、スナップエンドウ!!。茹でてマヨネーズやレモン汁をかけてビールを片手に。至福の時間なのです。
2013.10.29
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この日は福島空港から大阪・伊丹空港への移動。福島空港は福島県石川郡玉川村と須賀川市にまたがって位置する空港であり、利用するのは今回が初めて。空港ビル前ではウルトラマンマックスの大きな大きな立像が迎えてくれた。ビルの内部にも至る所にウルトラマンのポスターが。 福島空港開港20周年。須賀川市×M78星雲光の国姉妹都市提携を記念して、毎月、福島空港にウルトラヒーローがやってくると。M78星雲は、『ウルトラシリーズ』に登場する架空の星雲。ウルトラマンらの故郷で、銀河系から300万光年離れた所に存在するのだ。空港入り口扉にも。売店のj販売員の女性に、何故『ウルトラマン』かと訪ねてみるとウルトラマンの産みの親そして特撮の神様と言われている円谷英二氏はここ須賀川市の出身であるからとのこと。そして1964年の東京オリンピックのマラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉氏もここの出身であるとも。 古代怪獣 ゴモラ。 福島空港は、現在新千歳空港へANAとADO便が1日4便、そして大阪伊丹空港へANAとIBX便が1日9便と2空港へのFLIGHT便のみ。日本航空グループが2009年1月限りで撤退するなど、厳しい状況が続いているのだ。福島の南側では茨城空港、北側では仙台空港へと利用客が分散しているとのこと。よってこの時間(16時30分)の空港ロビーは閑散。 空港2Fのウルトラマン立像も何か寂しげ。 赤い「複葉機」が天井から吊り下げられていた。英国が設計製作し第一次世界大戦時に活躍した戦闘機S.E.5aとのこと。模型飛行機のようであったがこのままで飛行可能とのこと。重量軽減のためエンジンは取り下ろし、建物天井から吊下げ、飛行中の姿を再現すべく空中展示していたのであった。この日の伊丹空港行きはDHC-8。デ・ハビランド・カナダ DHC-8 (de Havilland Canada DHC-8) とは、1980年代初頭にボンバルディア社が開発した双発プロペラターボプロップ旅客機。 何とか提示の18時に豪雨の伊丹空港へ強い衝撃の下、無事着陸したのであった。
2013.10.28
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この日は郡山ホテル満室で新白河駅前に宿泊し、仕事の都合でホテルに待機している同僚を迎えに行く。新白河駅前には松尾芭蕉の銅像があり句が記されていた。江戸を出てから二十日あまりたち、芭蕉も旅を続ける覚悟が出来たことがうかがえる句。『心もとなき日数(ひかず)重なるままに白河の関にかかりて旅心定まりぬ。』 と。同僚と合流し郡山へ向かう途中、白河小峰城の文字を発見。慌ててカーナビをSET。駐車場に車を止め徒歩にて向かう。阿部家・結城家の資料を展示した「白河集古苑」の脇を通り城内へ。遠く白河小峰城の三重櫓が見えた。更に進むと、芝生で寛ぐ叔母ちゃんから現在は入城できないと。2011年3月11日に発生した東日本大震災により、三重櫓の崩壊には至らなかったものの数箇所の石垣・曲輪が崩壊、または積み重ねがゆるむ被害があったと。曲輪上にあった白河バラ園や公園・石碑等も崩壊し、震災以後は本丸への立ち入り禁止となっているのだ。なるほど正面の石垣は完全に崩れている事が解ったのであった。2011年秋から修復工事が行われているが、完全な復旧には5年程かかる見込みであると叔母ちゃんから。 白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、5月1日、大半を焼失し落城したとのこと。 1991年(平成3年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が当時の史料に基づいて復元されたのだ。白河城の三重櫓は木造復元された城郭建築のうち、天守に相当する建物の復元では最初のもので、数少ない木造復元天守の一つであるとのこと。 公園内部の道路脇には復旧状況を説明するポスターが掲げられていた。 戊辰戦争の激戦地となった松並稲荷山の杉を使って復元をしており、中に入り柱をみると弾傷が確認できるよのことであったが残念ながら。 復元された三重櫓と前御門の写真。 日本100名城のスタンプをもらうべく白河集古苑に戻る。 入り口の白砂の中に石碑等が展示されていた。 石碑は2つあり、右が「松涛山記碑」といい、「あづまや」について記されたもの。左が「むら尾花句集」で、1687年に松尾芭蕉が詠んだ句「ほととぎす まねくか麦の むら尾花」と記されていた。アームストロング砲(複製)。新政府軍が使用したイギリス製アームストロング砲。アメリカの南北戦争が終わると幕末の日本へ売却され、戊辰戦争で使用されたもの。白河小峰城周辺の古地図。 白河集古苑入り口と後ろの白河小峰城石垣。 そして再び郡山の現場に戻ったのであった。
2013.10.27
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天守閣より 西方向。天守閣より 北東方向 天守閣より 南方向 天守閣から飯盛山方向。 飯盛山。赤白のポールが目印。白虎隊自刃の地としても知られている山。戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争に際して、会津藩では藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊と呼ばれる部隊が結成され抗戦するが、戦いにおいて敗れ敗走し撤退する際に飯盛山に逃れ、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃した地。 西出丸方面。 本丸跡と二の丸方面。 本丸跡地の芝生には白きボールが。実は夜間ライトアップのLEDとのこと。 土産物屋の会津塗りも美しかった。 復元された干飯櫓・南走長屋。平成12年に復元された南走長屋・干飯櫓は鶴ヶ城内にあった11棟の櫓の中で一番規模の大きかった櫓で食糧庫だったと考えられていると。壁の小窓から攻めてくる敵を狙い撃ちしている男の像が。石落としと呼ばれている空間で床の隙間から大きな石を敵めがけて落としていたと。老いた新島八重の肖像画。 2011年3月に大改修を行い天守閣の屋根を45年ぶりに葺き替え、それまでの黒瓦を美しい赤瓦に。赤瓦は会津松平藩の藩祖保科正之公時代の慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されているのだ。表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたと。 天守閣の鯱(しゃちほこ)。 平成2年に鶴ヶ城敷地内に移築復元された茶室・麟閣。この麟閣は千利休の子、少庵が会津に匿われていた時に造られたとのこと。御三階跡(おさんかいあと)。ここには本丸唯一の高楼建築「御三階」があったと。藩主の御休息の間のすぐ背後に位置し、限られた人しか近づけなかったと考えられていると。現在は、石垣が積まれたところやその周囲の地面の中を発掘調査中。 団体旅行の写真スポットはここ。 お城ボくん チケット売り場。入場料は500円であった。 鳥居と天主のBEST MIX。 武者走り。 鶴ヶ城の武者走りは、鶴ヶ城の石垣の特色の一つで、城内への大手門となる太鼓門の渡り櫓や帯郭の石垣の上への昇降が容易にできるように、左右に分かれた石段が設けられているのだ。 鐘撞堂。時守りを置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂。戊辰の戦時下においても、一切ひるむことなく、正確に時を報じ続け、城内の同胞を大いに励ました鐘撞堂。それを煩わしく思った新政府軍は、この鐘撞堂に、砲火を集中させたと。お堀の脇の木々も紅葉の真っ盛り。 帰路の磐越自動車道のトンネルの坑口が白鳥のデザイン。猪苗代湖が白鳥の有名な飛来地であるから。
2013.10.26
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磐越自動車城を利用し会津若松市へ向かう。再び会津磐梯山が前方に。昔は富士山の如き形の山であったが中央部が大噴火し今のような形になったのだ。会津若松城に立ち寄る。地元では一般的に鶴ヶ城と呼ばれ、道路標識も鶴ヶ城。文献史上では黒川城、会津城と呼ばることもあると。国の史跡としては、若松城跡の名称で指定されているとのこと。 前方に鶴ヶ城の天守閣が見えてきた。 西出丸駐車場の鶴ヶ城案内図。 椿坂を登り太鼓門(大手門)に向かう。現在ある天守閣から表門をつなぐ走長屋とともに表門を守り、帯郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと考えられているのだ。 右手の石垣にはひときわ大きな石が。美しい遊女を乗せ、勢いをつけて石を運んだとも伝えられ、遊女石と呼ばれていると。正面に天守閣が。 天主と幕末の古写真を基にして復元されたと。大型の天守台の北東側に寄せて五重五階の店主が建てられていた。白の総塗籠で装飾は少ないが五つの張出が存在感を。鶴ヶ城稲荷神社。御祭神は宇迦魂命(ウカノミタマノミコト)。社伝によれば、約600年前に城がつくられた頃から守護神として祀られていたとのこと。当時は東の三ノ丸にあったものが、現在の場所に遷されたらしいと。 甲冑を着た武者が『おもてなし』を。 入口のある東面。 天守閣の中へ向かう。 3Fは写真撮影可能。 会津唐人凧。 会津地方の玩具『赤ベコ』。 『会津天神』。"日本一美男子な天神様"として有名な会津天神。会津塗。 覗き窓から城内で働く女達の姿が漫画チックに。 城内表御殿の見取り図。
2013.10.25
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郡山から福島に向かう途中にある二本松城に立ち寄る。二本松は子供が小さい頃、夏休みを利用して大規模年金保養基地『グリーンピア二本松』を利用したことを想いだしたのであった。現在では二本松市に払い下げられ『スカイピアあだたら』として利用されているとのこと。二本松城は、日本100名城の一つ。別名、霞ヶ城・白旗城と呼ばれている城。 現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣と再建された箕輪門がある。山上の本丸には天守台、石垣が近年になって再構築されたとのこと。 二本松城跡は、中世から近世にかけて同じ場所で存続した東北では稀有な城跡。築城は畠山満泰が応永21年(1414)にこの地に居を構えたと。天正14年(1586)に伊達政宗により畠山氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の奥州仕置以後は会津領に組み入れられ、蒲生・上杉の支城として城代が置かれたと。その後松下・加藤氏を経て、寛永20年(1643)に丹羽光重が10万700石で入封し、以後、二本松藩の居城として明治維新に至ったのだ。入り口の箕輪門と戊辰戦争・少年隊の銅像が印象的 。二本松少年隊とは、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊のこと。 少年兵母像。二本松少年隊群像の傍らに、藩主丹羽氏の家紋「直違紋(すじかいもん)」の肩印を万感の思いで縫い付ける母の像が建つ。モデルは13歳で銃弾に倒れた岡山篤次郎の母で、屍を探し易いよう「二本松藩士岡山篤次郎十三歳」と縫い付けているとのこと。 この階段を上ると箕輪門があり城内へ。しかし時間が無く中に入らず。 「霞が城」の石垣は見事。本丸跡からは二本松市が見下ろせるとのことであったが。 100名城スタンプは、ここから少し離れた二本松市歴史資料館に。 裸婦像。二本松は菊人形で有名、こちらも時間が無く諦める。10月4~6日は提灯祭り。 福島県重要無形民俗文化財「二本松の提灯祭り」
2013.10.24
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客先への挨拶を終え、我が社の現場に戻ってみると、大阪支社長は郡山駅周辺のホテルは全て満室の為、裏磐梯に宿泊していると。車でホテルまで迎えに行くこととする。磐越自動車道を降り裏磐梯へ向かう。車窓から磐梯山が見えた。磐梯山は、会津富士、会津磐梯山とも呼ばれている日本百名山の1つ。806年に噴火し、それまで2,000m以上あった富士山型の山から、1888年噴火前の4峰(大磐梯、小磐梯、赤埴山、櫛ヶ峰)になったといわれているのだ。1888年の大噴火で長瀬川とその支流がせき止められ、土石流や火山泥流が下流域に被害を与えたのだ。このせき止めにより桧原湖、小野川湖、秋元湖、五色沼をはじめ、大小さまざまな湖沼が形成されたのだ。裏磐梯の景観は、この時に形成されたものと。 ホテル近くの五色沼の一つ 毘沙門沼。五色沼は、正式には五色沼湖沼群とよばれ、毘沙門沼、赤沼、みどろ沼、弁天沼、瑠璃沼、青沼などのいくつかの沼で構成されているのだ。この日は曇天、青空の下であったら紅葉そしてエメラルドの水面が・・・・。 紅葉し赤い実をつけたナナカマド。 五色沼沿いを郡山へ戻る。標高の高い場所は既に紅葉も最終段階。 遠く眼下に湖も。 走るにつれて青空も。 陽光の有無により周囲の色が変化するのだ。 湖に浮かぶ小島も盆栽の如し。 アーチ橋も紅葉をバックに美しい幾何学図形。
2013.10.23
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福島・郡山に出張しました。前夜泊で郡山に入り駅前のビジネスホテルに宿泊。そして翌朝はいつもの早朝散歩。6:30にホテルを出発。ホテル近くのフロンティア通りには2つの彫刻が。 「街」SEIJI SATO 作 「将軍の孫」北村西望 作 郡山駅。 駅の近くにある池ノ台緑地。既に公園の木々の紅葉が始まっていた。 公園内にあった彫像。郡山出身の三坂 耿一郎の作品『チュールの少女』荒池公園。荒池はかんがい用池として1662年に築造。当時の郡山は河川はおおくあるものの、水田に水を引くにはいたらず、荒野のままだった。しかし、満々と水をたたえる荒池周辺はこの水を有効に利用。時代は変わり農業用水としての役割は薄らいだものの、現在でも市民の憩いの場として親しまれていると。 池の近くにあった石碑には「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)という言葉。世界は屋根の下に暮らす家族のごとく平和であって欲しいという崇高な世界平和を願った言葉なのであった。 三坂耿一郎 の作品 『遊ぶ』がここにも。 麓山公園(はやまこうえん)。旧二本松藩主・丹羽長祥の馬場であった場所。日本の歴史公園100選に選定されていると。 鴨が水面にのんびりと。 近くの噴水。 郡山市水道局の壁画。 こおりやま文学の森資料館。2000年(平成12年)、鎌倉市にあった久米正雄の邸宅が親族から郡山市に寄付され、郡山総合体育館に隣接するこの地に移築されたことをきっかけに設立されたとのこと。せせらぎ広場。 せせらぎこみち。 総延長3kmの遊歩道。水と緑をテーマにしており、小道には水が流れ、様々な花木が植えられていた。散歩道や通学・通勤などに利用されていたのであった。ミュージカルがくと館。郡山市の音楽・文化交流館。郡山総合運動場内の開成山陸上競技場。収容人員 15,500名.私が働き始めた年1974年の8月4日から10日にかけて、日本初の本格的なロック・フェスティバルとしてワンステップフェスティバルのロックコンサートが開かれた場所。開成山野球場。 久米正雄の句碑。久米正雄や宮本百合子などの作家たちは青年時代、開成山一帯を散歩して感性を養い、素地を育てたと。『松柏の嵐の底や返り花』開拓の心の碑。九州・旧久留米藩を筆頭に全国9藩から約2,000人が郡山に移り住んで来たと。奥州街道沿いにあって、藩政末の中心地人口が5千人に満たなかった宿場町・郡山は、現在、33万人の中核市へと発展しているのだ。激動の明治初期、『一尺を開けば一尺の仕合(仕合わせ)あり、一寸を墾すれば一寸の幸あり』この言葉を信じて、荒涼たる原野を拓き、疏水を穿った多くの先人たちが。この「開拓の心」の碑は、当時を沸々としのばせるのであった。 野外音楽堂。 鴨が仲良く。緑色の頭、白い首輪からマガモか? 公園のシンボル的な赤の橋を渡る。 郡山は猪苗代湖の水を引いて発展しただけに、本当に水が豊か。この開成山公園は数ある市内の公園の中でももっとも水が豊富で、大規模な公園。この開拓者の群像は公園のシンボルでもあり、郡山のシンボルでもあるモニュメント。高さ20mはある石塔。中央の石塔の頂上には、市の鳥『カッコウ』が。開拓者の群像。これも三坂耿一郎 の作品のようだ。 現在の郡山の始まりの安積開拓はこの地、大槻原と呼ばれた、開成山の地から。開成山大神宮 。明治9年、伊勢の神宮の御分霊が奉遷され、以来「東北のお伊勢さま」と称され、多くの参拝者が訪れていると。そしてこの日の散歩を終え、同僚に車で迎えに来てもらいこの日の仕事場へ。
2013.10.22
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先日、我が家の横の農園の片付けを行いました。その時地面に多くのヤマイモのムカゴ(零余子)が落ちているのを発見。茶色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり可愛いのです。まだ落ちずに着いているムカゴもありました。、大小合わせビニール袋にいっぱい収穫できました。 早速、バター炒めに。最初に1分ほど電子レンジでチン。そしてフライパンにバターを敷き炒めました。塩、胡椒で味付けそして最後に醤油をサラッと。ビールのつまみに最高。やめられない、とまらない味。 次回は我が農園で収穫したニンニクも混ぜて。
2013.10.21
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東京電力さんから我が家の10月の太陽光発電(京セラ、5.76kw)の 『電気ご使用量のお知らせ』が先日届きました。期間:9月18日~10月17日(30日間) 電気使用量 昼 : 16KWH 朝晩 : 125KWH 夜 : 237KWH--------- 合計 : 378KWH 金額 :8,302円 先月9月は337KWH、7,599円でしたので、+41KWH⇒+703円のプラスになりました。そして『余剰購入電力量のお知らせ』です。 購入電力量 :432KWH購入予定金額 :20,736円の結果。今月も大きく12,434円の黒字となりました。 太陽光発電開始以来の使用電力量の推移です。 そして太陽光発電開始以来の売電電力料金の推移です。
2013.10.20
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石段をひたすら下る。総見寺の鐘楼。 石段の崩れた部分を補修中。『まさdo楽』と袋に。良質な自然土を粒度調整し乾燥したものが基材で、固化材・混和剤を混合してある簡易補修用の土のようだ。 石段横の石垣も見事。石垣に使う石が足りず、付近の寺の墓石を集めようとしたが抵抗に遭遇。そこで、信長は織田家の菩提寺である万松寺の墓石を安土に運び、各宗派の抵抗を鎮めたと。 石段の石仏 。人間が足で踏みつける階段に石仏を使うということから、織田信長は無神論者、宗教を冒涜していたという人間像が浮かん来るが、他方で、安土城の天守を見ると分かるように、非常に宗教に対して深い理解を示している面もあるのだ。おそらく、信長は仏教などの宗教を深く信仰していたのだと。漸く入り口の受付が見えてきた。受付のオバチャンに日本百名城のスタンプがここにあるかと尋ねるとスタンプは上の二の丸址にある信長本廟の手前の箱に入っていたと。しかし再び登る時間と元気は無く、登る時に確認すればよかったと猛省。スタンプは次回のお楽しみ。 石塁と大手山門。安土山の裾野。 安土城跡ガイダンス施設で休憩。内部にあった天主閣模型。 障壁画も見事。 タクシーでJR安土駅前まで戻る。JR安土駅前の信長像。信長像は晩年の姿らしく、能の「敦盛」を舞っているところとのこと。 駅前にある土産物屋の建物 安土町城郭資料館はこの日は休館日。 安土城ポスター。 信長の館ポスター。 安土城考古博物館、信長の館もこの日は休館日と言うことで次回へ。そして再び米原に戻り帰路へ。
2013.10.19
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仕事で滋賀県安土に行ってきました。新幹線で米原駅で下車し、在来線で安土駅で下車。午後の仕事を終え、同僚と車で10分ほどの場所にある安土城址に向かいました。安土城址は標高199mの安土山一帯にある織田信長(1534-82)の居城跡。国指定の特別史跡。天正4年(1576年)から織田信長が約3年の歳月をかけて完成。安土・桃山時代の幕開けとして築城されたが、織田信長が倒れた本能寺の変後、焼失して石垣だけが残って現在に至っている城址。大手門口に向かう。安土城跡の入口(大手門口)を入ると、一直線の石段が目に飛び込んで来た。受付で、安土城跡見学コースを1周するには約1時間とのことで頂上天主行きを決断。入り口で自販機でチケットを購入し、係りのおばちゃんに荷物の一時保管を無理やりお願いし、杖を片手に急ぎ足で階段を登る。大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側には幅1~1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれていた。途中には石垣に混じって石仏が置かれていた。 大手道の左側にある、羽柴秀吉邸跡。今は、ほとんど何も残っていないが、当時は、壮大な門が構えられており、最重要な場所にあることからも、織田信長が豊臣秀吉(木下藤吉郎)をどれだけ信頼・重用していたかが理解できるのであった。前田利家邸跡。 総見寺仮本堂(徳川家康邸跡)入り口。直線状の階段から左に曲がりその後は、ジグザグ階段。ジグザグ階段入り口から今登ってきた直線石段を下に見る。 祐筆として活躍した重臣、武井夕庵邸跡 。黒門跡は城内主要部への虎口にあたる門で重厚な石垣で守られていた。黒金門からは、後の城郭に多数見られる完成した虎口が出現。この門を境に下は家臣団の屋敷、上は信長の住居ともいえる生活空間と天主などが存在。城内で最大級の石垣を使用しその門は堅固そのもの。鉄板張であったとの言い伝えから黒金門と名付けられたと。 二の丸手前の石段におかれた仏足石。仏足跡はお釈迦さまの足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象になっていたと。我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代国宝)のものであるが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものと。二の丸跡入り口。二の丸は信長が日常に政務や生活を送っていた場所。二の丸址にある信長本廟。天正11年(1574年)、羽柴秀吉は安土城に住む三法師のもとへ年賀に訪れ、その年の2月、信長の遺品を埋葬して信長の廟を作ったっと。信長公本廟の一段下の郭には「護國駄都○」という石碑が建つが意味は・・・・・?。天守閣ではなく天主閣入り口。 高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴だが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている(他の礎石は全て現存している)とのこと。 この礎石のある場所は地下一階。天主内部は地下一階、地上六階。五階が法隆寺夢殿のごとく正八角形にして朱塗り、絵は天竺の仏教的素材、六階が正方形の平面、外部金箔、絵は中国の儒教的影響を受けたという。天守閣跡からは遠く琵琶湖が見えた。 左手には琵琶湖最大の島、沖島の姿も。 反対側。 確かに真ん中に礎石が無いことが解ったのであった。 天主閣を下り元総見寺・三重塔へ向かう。総見寺三重塔は、棟木に室町時代中期の享徳3年(1454)とあり、総見寺創建時(1576)に信長が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移築したとされている。屋根は本瓦葺で高さ19.7m、左側へ上の段の本堂跡へ導く石段がついていて、軒下の本格的な木組みが間近に見られた。 下には西ノ湖。西の湖は安土山の西にあることから。面積は2.8km2、水深は1.5mの浅い湖。この一帯は干拓地で、昭和17年までは安土山から北は琵琶湖につながっていたと。 この先は台風の大雨の影響で土砂崩れがあり通行止め。 既に萩の花が。
2013.10.18
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中欧旅行の旅行記の掲載でやや記載が遅れましたが、今年も我が家から車で20分程の場所にある小出川沿いの彼岸花を見に行って来ました。早朝6時に家を出て向かいました。前日は『彼岸花祭り』が実施された模様で川の上には横断幕が。 今年はややピークを過ぎた見学。 彼岸花にも多くの別名が。マンジュシャゲ(曼珠沙華)の他にもシビトバナ(死人花)、ユウレイバナ(幽霊花)など、毒性や墓地に多く咲くことからと思われる名前が。ハミズハナミズ(葉見ず花見ず)花の季節に葉がなく、葉の季節には花がないことからキツネノタイマツ(狐の松明)など多くの別名も。あるサイトによれば、地方名を数えると1000種を超えるとのこと。 祭りの写真コーナーも残っていました。所々に白の花も。 開花のピークの花も。花の周囲の淡いピンクの縁取りが美しかったのです。 これぞ『曼珠沙華』の燃える姿。ススキも負けじと存在感を。 未だ早朝散歩の人の姿もほとんど無し。 一輪そっと密かに。 朱のベルトが川沿いに。 紅白の花束の如し。 3本のベルトの場所も。 日の出直後の青空を背景に。 そして帰路に見つけた秋桜、コスモス畑。 赤、桃色・白の花が咲き始めていました。「秋桜」と書いて「コスモス」と読ませるようになったのは、1977(昭和52)年、山口百恵の「秋桜(コスモス)」(作詞・作曲:さだまさし)がヒットしてからのことであるとのこと。 淡紅(うすべに)の秋桜(コスモス)が秋の日の何気ない 陽溜(ひだま)りに揺れている この頃 涙脆(なみだもろ)くなった母が庭先でひとつ咳(せき)をする縁側でアルバムを開いては私の幼い日の思い出を何度も同じ話 くりかえす独り言みたいに 小さな声で こんな小春日和の 穏やかな日は あなたの優しさが 浸みて来る明日(あした)嫁ぐ私に苦労はしても笑い話に時が変えるよ心配いらないと笑った あれこれと思い出をたどったら いつの日も ひとりではなかったと今更ながら我儘(わがまま)な私に唇かんでいます明日への荷造りに手を借りて しばらくは楽し気にいたけれど突然涙こぼし(注) 元気でと何度も何度もくりかえす母ありがとうの言葉を かみしめながら生きてみます私なりに こんな小春日和の 穏やかな日は もう少しあなたの子供でいさせてくださいそして我が家の庭の白のリコリス。
2013.10.17
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先日、我が農園の落花生の収穫をおこないました。落花生はいろいろな名前で呼ばれています。南京豆そして地方では方言名は地豆、唐人豆、異人豆さらに殻から出した種をピーナッツとも。 スコップで掘り出してみると、大粒の南京豆がかなり付いていました。 妻と一緒に一粒一粒丁寧に採りました。 そして早速オーソドックスに塩ゆで。『掘り立て』の落花生を塩茹でにしたものは、また格別。中には落花生の実が行儀良く鎮座していました。茹でたては、ホクホクの白い実がなんとも甘く、ビールのつまみに最高だったのです。
2013.10.16
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私の朝の通勤時、家を出てしばらくすると良い香りが漂ってきました。今年も金木犀が開花していたのです。小さいオレンジ色の花を無数に咲かせていました。高度経済成長期の頃で、大気汚染が深刻化した時代にこの金木犀は都市部での花つきが悪くなったとのこと。金木犀は空気の汚れに敏感な植物で、大気汚染物質が樹の成長を妨げ、開花も妨げていたと考えられているとのこと。金木犀は中国南部が原産で江戸時代に渡来したとのこと。中国の北京市では微小粒子状物質「PM2・5」などが基準値を超える大気汚染が拡大しているとのニュースが報じられているが、北京では金木犀は咲いていないのでしょうか?すでに雨と風で地面に花弁が落ちていました。風がなければオレンジの絨毯のごとくなっていたのでしょうか?
2013.10.15
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中欧旅行のブログ掲載も完了し、日常のブログ記載に戻ります。我が家の一連の外装工事が完了しました。門扉も新たな和風のものに交換しました。以前のものは観音開きの門扉でしたが、何回かの台風の強風でその都度ストッパーが外れ門扉の付け根が曲がってしまっていたのです。妻の要望により和風の引き戸タイプのものにしました。門柱を一部削り支柱を埋め込みました。家の玄関からの眺めです。 家の外壁のカラー鉄板も薄茶からクリーム色に全面塗り替えました。家の様子が一変し、先日には、以前訪ねてくれた友人が我が家を解らなくなってしまいました。台風一過の今朝の我が家近くからの朝焼けです。 そして日の出。ご近所の家の壁にも陽光が当たり壁が赤く染まっていました。 朝の温度も涼しくなりいよいよ本格的な『秋』の到来です。
2013.10.14
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今回の中欧旅行は、訪問国が全て「シェンゲン協定」実施国であったため、実施国を経由しての入国審査は不要。よって国境を越えるのは、日本で言えば県境の如き。高速道路で時速100km近くで国境を猛スピードで越えたのであった。しかし最後のポーランドの出国審査は厳重で、身ぐるみ剥がされ、IT製品も1個1個確認されたのであった。ワルシャワからはQATAR航空981便 16:50発。離陸後のワルシャワ上空からの高速道路。 ヴィスワ川(Wisła)。ヴィスワ川(Wisła)は、ポーランドで最長の川で、ポーランド国内を大きく蛇行しながら北へ流れ、バルト海へと注ぐ川。機窓からの夕焼けは、旅の終わりで感傷的に。 機内夕食。 夕食後は旅の疲れのためか爆睡。気がつけば既にペルシャ湾上空。クウェートの街の灯りか? バーレーンへのペルシャ湾に架かる橋 キング・ファハド・コーズウェイ(King FahdCauseway)。バーレーンのペルシャ湾沿岸。 そしてカタール上空へ。オレンジのナトリュームランプが煌めいていた。 そして定刻にカタール・ドーハ国際空港に到着。 ここで2.5時間のトランジット。日本に向かう便はQATAR航空 804便01:50発。 オマーン海上空からアラビア海へ出て飛行機はパキスタン上空へ向かう。 再び機内食。この後、我が身にトラブル発生。キャビンクルーが隣の客に缶ビールを提供する際、開いたビール缶を私の椅子の端に落としてしまったのであった。私の席には既に夕食の載ったトレイがあり腰を上げる事もママならず。よってズボンの臀部そしてブリーフまで濡れ冷たくなったのであった。ズボンはファーストクラスのパジャマズボンに着替えたが、ブリーフの交換は不可。よってお手ふき用のドライタオルをお尻に何枚か挟み込まざるを得なかったのであった。飛行機は中国大陸上空から渤海湾へ。下は山東半島。 そして久しぶりの日本食。 和蕎麦が旨かった。 マグロの赤身の刺身も。 真っ直ぐ進めば北朝鮮上空へ。しかし飛行機は方向を変え渤海湾を南下。更に南下し東に機首を変え韓国上空へ向かう。 韓国を横断し日本海そして新潟上空から成田空港へ無事着陸。 カタール・ドーハ国際空港に比べて極め利用客が少なくて寂しい成田空港。 そして成田空港からSさんの車、Sさんの運転でで自宅に向かう。首都高速湾岸線を千葉から横浜へ走っていくと大きな観覧車が。 そして20:30に帰宅したのであった。 南から北へと中欧の北に位置する各国の主要都市を実質7日間で駆け抜ける旅であった。1.ハンガリー⇒2.スロバキア⇒3.オーストリア⇒4.チェコ⇒5.ドイツ⇒6.ポーランドの主要都市、古都を訪ねる旅であった。1.ハンガリー・ブダペストは新旧入り混じった混沌とした街、ドナウ川からの鎖橋の夜景 そして両岸のライトアップされた古都は忘れられない光景。 この旅の全ての旅程でのベテラン添乗員の説明も素晴らしく、その経験と博識に 脱帽する毎日であった。2.スロバキア・プラチスラバはドナウ川に面しているからか、小さい街ながら開放的な 街。ユーロ圏でありながら物価は安く、治安も良好、英語の通用度も高かった。 そして丘の上にある城、外部からの見学のみの為かどこかオモチャの如し。3.オーストリア・ウィーンのシェーンブルグ宮殿はオーストリア帝国、絶頂期の ハプスブルグ家を感じることができたのであった。 美術史博物館のレンブラント、ブリューゲル、ラファエロなど著名な絵そして クリムトの壁画が美しかった。そして何よりもフェルメール『絵画芸術』に出会えたの だ。ウィーン歴史地区は、シュテファン聖堂、広場・・・等々ゆっくりとそして深く観賞の 為にもう一度訪れたいと。4.チェコ・チェスキー・クルムロフはレンガ色の屋根と蛇行するブルタヴァ川が印象的。 「ヨーロッパで最も美しい街」の一つという、世界遺産の町を堪能。これ以上観光地化 しないことを願いたい。 プラハの聖ヴィート教会は圧巻、かの有名なカレル橋、旧市街での歴史散策も 想い出深い。5.ドイツ・ドレスデンは第2次世界大戦末期、連合軍による空襲で壊滅的な被害を受けた 街。見事に復興した文化と芸術の街ドレスデンに驚嘆そして堪能したのであった。 がれきとなった部材を組み合わせて再建された聖母教会は、「ヨーロッパ最大のジグ ソーパズル」と言われたと。旧東ドイツ人の執念に驚嘆・尊敬そして感謝。 ゼンバーオーバーは本当に美しいオペラハウス、そして日本人男性オペラ歌手の 生の歌声が聴けたのは幸運そのもの。6.ポーランド・アウシュビッツ、ここはナチスドイツが強制収用所を作ってユダヤ人を 含む150万人余りを虐殺したホロコーストの現場を訪れたのであった。 人間がどれほど残忍になりえるのかを実感せざるを得ない重たい時間であった。 ドイツがナチ蛮行への徹底した反省に基きアウシュビッツ収容所をユネスコ世界文化 遺産にするうえで大きな役割を果たした事実も理解できたのであった。 世界各国からの訪問者は、いずれも寡黙であり目に涙を浮かべている姿が 至るところで。地球上に人類が存在する限り、永遠に残しておくべき人類の 『負の遺産』なのであった。 第二次大戦後、各国が歩んできた道のりは異なるものの、この時期のヨーロッパ史においては、いずれも負の歴史を紡いできた印象の強い国々への訪問であった。特にポーランドはソ連による支配とナチス・ドイツによる併合という2度の憂き目に遭っており、滞在時も未だにどことなく薄暗いような印象があるものの近代化への光も着実に射し込んできていると感じたのは私だけであろうか?戦後華々しく発展を遂げてきた、いわゆる西側諸国を今まで観光して来た私であったが、世界の歴史、将来について学びそして考える上では、今回の中欧旅行は意義深いものであったと今このブログを書きながら実感じているのである。 そして10日間の駆け足の旅であったが、真実・現実を本当に知るには最低1ヶ月は必要と感じているのである。40人のツアー客そして我々4人の旅友に大いにお世話になった事そして忘れられない旅になったことに感謝しこの旅行記の筆を置きたい。さて来年は何処に? 完
2013.10.13
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王宮広場。旧市街南端にある大きな広場。壁の赤いレンガだけでなく屋根の部分にも赤い瓦が使っているのだった。 左奥には屋根越しにヤン大聖堂の屋根も見えた。 王宮広場の高い石柱の上で十字架を手にして立っているのは、ポーランドの首都をクラクフからワルシャワへ移したジグムント3世の碑。旧王宮の時計塔。 観光馬車の女性も客待ち中。 ポーランドの女子大生達も我がカメラにポーズを。 旧王宮広場からクラクフ郊外通りを望む。 洗礼者ヨハネ大聖堂は外装工事中。 13世紀末から14世紀初頭に建てられた、ワルシャワで最も古い教会。ゴシック様式の建物。ワルシャワで初めてオルガンが置かれたのもこの教会との事。 パイプオルガン。 美しいステンドグラス。 第二次世界大戦後に再建されたワルシャワのイエズス会教会。 遠足?のワルシャワの子供達。 ワルシャワ旧市街広場は現在工事中。1980年ユネスコ世界遺産に登録されたワルシャワ歴史地区は、例外的な世界遺産。戦争によって灰燼に帰した町並みが完全な姿で再建されたとはいえ、再建であることに変わりはないから。第二次世界大戦中に徹底的に破壊されたワルシャワの町は、昔の絵画や町の破壊を予期して人々が描いた スケッチ、写真などをもとにして、レンガのひびに至るまで丹念に修復され、見事に中世の町並みは復活したと。ワルシャワ歴史地区が世界遺産に登録された のは、建物自体の歴史的な価値というよりは、首都再建を願ったポーランド国民の情熱がユネスコによって高く評価されたから。 ワルシャワの旧市街広場のほぼ中央には当地のシンボルともなっている人魚像が工事中の為一人寂しく。コペンハーゲンで見た人魚姫の像はがっかりしたが、ワルシャワの人魚姫像の方が印象的なのであった。 ワルシャワのバルバカンを抜ける。もともとは砦。それが現代でも残っていることに歴史を感じるのであった。 聖ジャック教会。ワルシャワ蜂起時に破壊されたが、大戦後再建されたバロック様式の建物で、ワルシャワで最も美しく、重要な教会の一つと言われているとのこと。 ワルシャワ蜂起記念碑。第2次世界大戦も末期、1944年8月1日、ワルシャワ市民がドイツ軍に対して蜂起した。この蜂起45周年を記念して、1989年8月に建てられたのがこの碑。ちなみにこの蜂起は失敗に終わった。市街のほとんどを破壊された上、20万人の死者を出し、1944年10月2日に降伏したのであった。 ポーランド軍のフィールド大聖堂。 クラシンスキ宮殿と公園。ネーミングの元になった貴族クラシンスキ家が17世紀に作った宮殿。戦後再建され 今では国立図書館の一部として使われていると。公園にはカラフルで大きなペガサスが置かれていた。地中海をイメージして4年前に作られた作品とのことであるが???。昼食は、ポーランド独特の鮮紅色のスープ バルシチ(Barszcz)。ビーツ(赤かぶ)の色を出したコンソメスープとのこと。 ポーランド風カツレツSさんとおそろいで土産にそしてこの旅の思い出に帽子を購入。 約150年目に創業したチョコレートメーカー「ヴェデル」の店を訪ねる。ワルシャワ中央駅とホリデイインの間にあるショッピングセンターへ。 三角形のガラスが屋根を構成した曲線美の屋根。ワルシャワ ズウォティ・タラスィ ショッピングモール(Zlote Tarasy Shopping Mall)本店は休店とのことでこのショッピングモールにある店へ。 名物 ホットチョコレートを注文。飲んでる途中に撮影。 Wedelのチョコレート飲料を2缶土産に購入。 全ての観光を終了し、バスでワルシャワ・フレデリック・ショパン空港へ。
2013.10.12
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ワルシャワ最終日の朝も4人で早朝散歩。道路横の鉄道の駅のプラットホームでは衣料品も売られていた。 朝日を浴びた文化科学宮殿。 ワルシャワの街も漸く明るくなってきた。 科学技術博物館。 文化科学宮殿前の広場に建つオベリスク。 科学技術館前の彫像。 ハードロックカフェの大きな巨大ギターと雲に覆われ始めた文化科学宮殿の頂上付近。 ワルシャワ市内で一番大きいスーパーマーケット。1時間の散策を終え、ホテルで朝食。 旅も終盤戦に入り甘いものがおいしい。 バスに乗りワルシャワしない観光開始。 世界で最も有名なショパン像はワジェンキ公園の中、ベルヴェデルのすぐそばにあるウヤズドフスキ大通りに面した門の正面に建っていた。この像はワルシャワを代表するシンボルのなかでも有名なもののひとつ。この銅像は風に揺れる柳の木の下に座り、故郷マゾフシェの自然に耳を傾けるショパンを表現しているとの現地ガイドの説明であったが、どう見ても柳には・・・・??。近くにはリストの像も。 現地ガイド。 ポーランド首相官邸。アレキサンダー教会 ポーランド科学アカデミー。建物の手前にはニコラウス・コペルニクス像が建っていた。当時天動説が幅を利かせ教会が絶大な権力を持っていた時代。後にガリレオ・ガリレイが地動説を支持して宗教裁判にかけられ、「それでも地球は回っている」なる名言を残したのに、当のコペルニクスの方は死ぬ直前まで公表しなかったので迫害されずに済んだと。像の周囲には天動説の惑星を表現したオブジェが石畳に埋め込まれていた。こちらは地球。聖十字架教会。教会の入り口へのぼる階段の上には十字架を背負ったイエズス・キリスト像が建っていた。この教会には3つの身廊・側廊があり、2階建て。 聖十字架教会の中に入る。大きな扉を押し開けて中に入ると、厳粛な空間が。 ここはショパン一家が通っていた教会。身廊に向かって左から2つ目の柱の下にはショパンの心臓が入った壺が安置されていると。そこに彫りこまれた銘板にはマテオの福音の一節が刻まれているとのこと。「あなたの宝のある所には あなたの心もある」と。ショパンはパリで死亡したが、姉のルドヴィカがショパンの希望を聞き入れてポーランドに心臓を持ち帰ったとの説明が。 ステンドグラスも美しかった。 ショパンが学んだというワルシャワ大学正門。ワルシャワ大学には東洋研究所日本韓国学科があるとのこと。同学科はポーランド・ひいてはヨーロッパの日本研究・東アジア研究の中心となり、現在に至っていると。ヴィジトキ教会。ショパンがこの教会の日曜ミサでオルガンをひいていたとのこと。ポーランドのカトリック教会枢機卿ステファンウィシンスキーの記念碑。 Kordegardaギャラリー。 白壁が美しい現大統領官邸。(旧ラジヴィウ宮殿)8歳のショパンが初のコンサートを開いた場所。大統領官邸前に立っている像はポーランドの英雄ポニャトフスキ像。段ボールで造ってあるというクラシックカー トラバント。 カルメル会教会。カルメル会の教会として知られている聖母マリアの被昇天のと聖ヨセフの教会は、ワルシャワにおけるローマカトリック教会。 アダムミツキェヴィチ記念碑。最も有名なポーランドの詩人の記念碑。クラクフ郊外通り。 クラクフ郊外通りは王宮広場から南へ延びるメインストリート。クラクフ方面に向かっているためにこの名が付けられたと。聖アンナ教会。 ショパン16歳の秋から学び始めたワルシャワ音楽院が置かれていたシトー会修道院(現・聖アンナ教会)。 王宮広場の手前にある聖アンナ教会の鐘楼 。鐘楼上は旧市街のパノラマがゆっくりと楽しめる場所であったが・・・。
2013.10.11
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クラクフ中央駅に到着。駅の上は大きなショッピングモール。ショッピングモール内をホームに向かって移動。久々のエスカレータ利用。ホームに到着。当駅発の寝台列車によって、チェコのプラハ、オーストリアのウィーン、ハンガリーのブダペスト、など我々がこの旅で訪れた都市と結ばれているのだ。クラクフ中央駅(Krakow Glowny)の表示。利用列車は12:48発。列車はビャウィストク(Białystok)行。 ビャウィストクは、我々の目的地のワルシャワを超えポーランド北東部にある都市で、ポーランド北東部最大の都市。列車が到着。8人のコンパートメントスタイルの列車。定刻に列車はワルシャワに向けて走り出す。8人のコンパートメントに我々4人、ポーランド人のご婦人、青年一人、そして若いカップルの満席。列車の中でワインを飲むつもりであったがこのメンバーでは・・・と諦めた。途中Kさんが日本の折鶴をポーランド人に披露。わが旅とものSさんも挑戦。ところがカップルのナイスガイは見事な腕前でSさんより上手で感心しきり。なぜ知っているのかと尋ねると、ネット動画で勉強したと。次に紙風船をKさんが披露。流石にこちらは未習熟。お土産に欲しいと言い、自宅で挑戦すると。和気藹々の時間を過ごしアットいう間にワルシャワ駅に到着。 ワルシャワ市電が街中を走り回っていた。 文化科学宮殿。文化科学宮殿は、高さ237メートル、42階立て、尖塔の高さは49メートルあり、総室数は3288室とのこと。旧東側の宗主国ソビエト連邦の指導者スターリンからの迷惑極まりない贈り物であると。 近代的な高層ビルも市内のあちこちに。この日の宿泊ホテルはラディソン ブル ソビエンスキ。ホテルのフロント。 ツゥインの部屋。 チェックイン後暫く時間あるのでホテル近くを散策。果物売り場。 そして向日葵の種。この売り場近くで老婆が2人が路上の脇に座り込みこの向日葵の種を食べていた。 多くの種類のスモークハムも売られていた。曲線美の高層ビル。 財務省大臣宮殿。この日の夕食のスープは、穀物や野菜の入った具だくさんスープ クルブニク。 久しぶりのタイ米はボソボソ。夕食後は我々ツアーだけのショパンのミニピアノコンサート。演奏者は イェルジ・ロマニウク。世界中の国々で積極的に演奏活動を行っているピアニスト。旅友のSさんがピアニストと記念撮影。 ホテルへ戻るバスの車窓からはライトアップされた文化科学宮殿が。
2013.10.10
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ピアノの弦をモチーフにしたオブジェ。 弦の白き部分は噴水。現地ガイドの女性。 目の前にヴァヴェル城が姿を現した。 聖ペテロ聖パウロ教会。ヨハネパウロ2世はこの教会で大司教を務めた。中央市場広場からヴァヴェル城に向かう途中にあった教会。教会の名前に聖人が二人というもの珍らしい。立派なバロック様式。クラクフで最初の バロック様式で建設された教会で 教会の前の柵にキリストの12使徒の像が飾られていた。聖アンデレロマネスク教会。11世紀の終わり頃、パラティン伯ヴォイヴォデ・シェチェフにより建てられた教会で、ロマネスク様式の建物。12世紀末から13世紀初頭、巨大な塔やバロック様式のドーム、殿堂などが付け加えられたと。また14世紀には、ゴシック様式の小礼拝堂が教会の横に建設されたのだ。ヴァヴェル城入り口への坂を上る。ヴァヴェル城はクラクフの旧市街南、ヴィスワ川のほとりにそびえるゴシックルネサンス様式の城で、ポーランドを代表する歴史遺産。11~16世紀まで国王が住んでいて、敷地内には大聖堂や旧王宮、王の墓など歴史的な建造物が多く残されているのだ1320年にクラクフがポーランドの首都となると、国の政治を司る王宮として、文化の中心地として大いに栄えたのだ。 道路脇でアコーディオンをひく芸人。 ヴァヴェル城内にある大聖堂。1364年に建てられたこの聖堂はゴシック様式。後にルネサンス式の礼拝堂が増築されたのだ。中央の高い塔は「ジグムントの塔」。ここには、周囲8mもある巨大な鐘が吊り下げられていると。 ヴァヴェル城内への入り口門。 大聖堂の前に3メートルの高さのヨハネ·パウロ二世のモニュメント。右端の金色のドームはジグムント1世が建てた「ジグムント礼拝堂」。1533年に完成したポーランド・ルネサンス建築の最高傑作といわれる建物。 城内の壁の蔦は彩りを増していた。 中庭。三つの尖塔。 ヴァヴェル城の王宮に入る黒き門。歴史を感じる門。 ヴァヴェル城 王宮。回廊上部の壁には壁画模様が。金色の「ジグムント礼拝堂」。 クラクフの子供達。笑顔が美しい。 「ヴァヴェル城」はクラクフ旧市街の南、ヴィスワ川のほとりにあった。。レンガ造りの茶色の外観が印象的な、美しい王城。大時計のついた鐘楼。 歴史を感じる蔦のからまる門。 ヴァヴェル城を外側から。 城壁の赤い煉瓦が美しかった。 ワルシャワに向かう前の昼食。小麦粉のサワー・スープ、ズーレックは発酵させたライ麦ベースのスープ 豚肉のステーキ コトレット。 そしてクラクフ駅へ急ぐ。
2013.10.09
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この日のクラクフ郊外のホテル。クラウン ピアスト ホテル&パーク。この日も4人でホテル周辺の早朝散歩。ホテルの壁には緑の蔦が。もうしばらくすると紅葉開始か。あわただしく朝食を。この日は日本から持って来たカレーを部屋のポットで温めて食堂に持ち込み楽しむ。この日は軽めの朝食。マレイキ広場のラヂスラス・ジャジロ王の騎馬 バルバカン。バルバカンは、その街を守る城壁の円形の砦 。1498年の造られたもの。後のワルシャワでも登場したが、ポーランド内では3つしか残っていない貴重なものと。隣接するフロリアンスカ門の防備の役割を果たしていたと。ロリンスカ門からフロリアンスカ通りを望む。フロリアンスカ通りはクラクフの旧市街の中心の中央市場広場へと続く通り。遠く聖マリア教会の尖塔が見えた。通りの両側にショップ、レストランが並び、旧市街でも最もにぎやかな通り。フロリンスカ門をフロリアンスカ通り側から。かつて旧市街のまわりには城壁が張り巡らされていたが、近代になり取り壊され、現在は一部を残すのみ。旧市街の立体地図。 チャルトリスキ博物館ポーランド最古の美術館本美術館の収蔵品コレクションは私立美術館としてはヨーロッパ有数の規模を誇る。レオナルド・ダ・ヴィンチ 『白貂を抱く貴婦人』もこの美術館の中に。中央広場に近づくにつれ聖マリア教会の尖塔が巨大に。 聖マリア教会1222年の創建、ゴシック様式。この教会には有名な話があると。かつて、ここをモンゴルが攻めて来た時、ラッパ吹きが教会の窓から襲撃を知らせたのだ。しかし、彼はラッパを吹き終わらないうちに喉を射抜かれてしまった。その悲劇を悼んで、「聖マリア教会」では、毎時、ラッパが吹かれるのだと。ラッパの音は、必ず途中で途切れるのだと。2つの塔の高さが違う理由についても、悲話があると。昔、この教会に2つの塔を建てるために有名な建築家兄弟が選ばれた。兄弟は競い合って塔を建てたが、兄は自分より弟のほうが建築家として優れていることに気づき、劣等感から弟をナイフで刺し殺して、密かに遺体をヴィスワ川に捨ててしまったと。弟が行方知れずになってしまったため、弟が建てていた塔は兄のより低いまま建設中止になり、屋根を付けて完成としたと。しかし良心の呵責に耐えかねた兄は2つの塔の披露の日に罪を告白し自殺してしまったと。弟の塔から飛び降りたという説と、弟を刺したその同じナイフで自殺したという説があると。 この事件の教訓を忘れないため、織物会館内部の丸天井にはナイフが掛けられていた。聖マリア教会の壁面。 会館前にはポーランドの偉大な詩人アダム・ミツキェヴィッチ像が中央広場の南東の角に建つ、聖ヴォイチェフ教会。10世紀に建てられたクラクフ最古の教会。 聖バルバラ教会。聖マリア教会の裏にあった。織物会館。織物会館は14世紀にルネサンス様式で建てられ幅100m、奥行き50mという大きなものでかつて衣服や生地の取引が行われたところであったと。現在は美術館や観光案内所、土産物店などが入っていた。広場には多くの花屋が。何と呼ぶのであろうか生花のリング。 旧市庁舎の塔のふもとにはこんなモニュメントが。不気味な顔。ルネッサンスやバロック建築のきめ細かい彫刻が美しいクラクフの街には、およそ不似合い。旧市庁舎。旧市庁舎は13世紀末にここに建てられたが1820年に取り壊され70mの高さのあるこの塔だけが残されたと。 聖アンア教会が右手前方に。 ヤギェウォ大学中庭。クラクフにあるポーランド最古の大学。コペルニクスなどが学んだ。ポーランドを代表する総合大学で、近年では大学ランキングでワルシャワ大学を抜いてポーランドのトップに立つこともあると。同大学の図書館は、モーツァルトとショパンの自筆楽譜を多数所有していることで知られているのだ。結婚式を迎えてカップルの喜びのポーズ。 ヤギェウォ大学中庭から外へ。 ミウォシュ【Czesław Miłosz】の像。ポーランド生まれの詩人・小説家。フランスへ亡命したのち、1960年に米国へ移住1970年帰化。悲哀と幻滅をたたえた叙情詩が多い。1980年ノーベル文学賞受賞。詩集「真昼の明かり」、評論「とらわれた魂」など。 ヤギェヴォ大学のコペルニクスの像 。ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた人物。ポーランドの可愛い子供達。この日は遠足?
2013.10.08
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四方を電流有刺鉄線に囲まれ、外の世界から完全に遮断されたアウシュビッツ絶滅収容所。その一番最果ての角そして正門から一番遠い部分にあたるその場所が、<死のブロック>と呼ばれる場所。 ナチスドイツが数千人を銃殺した「死の壁」 レンガ作りの赤い壁は、一見したところどこにでもあるような、普通のブロック状の壁。何も知らずにこの壁を見たら、おそらく私は何も感じるものはないかもしれない。何千という銃弾を受けた壁。 収容者用三段ベッド。 収容所を囲んでいる二重の有刺鉄線フェンス。鉄線には6000Vの高圧電流が流れていたと。 ヘスの絞首台。1947年、初代アウシュヴィッツ所長のルドルフ・フェルディナント・ヘス が締首刑にされた場所。 ガス室。 そして焼却炉の煙突。 ガス室内部。 天井にチクロンガスの投入口があった。 苦しみもがいた爪痕がガス室の壁の至る所に。写真を撮るのも、ブログに掲載するのも躊躇しましたが、このような悲しい事実があったことを未来に語り継ぐことが、ここを訪れた私の責務と。 焼却炉。ユダヤ人はガス殺されて遺体はこここで火葬されたと。アウシュビッツの長官は 「お前たちの出口はここの煙突しかない!」と収容者に口癖のように叫んでいたと説明が。 再びバスに乗りアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ。被収容者増を補うため、1941年10月、ブジェジンカ村に絶滅収容所として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所。アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成。 死の門。この門をくぐると生きて帰れない事から「死の門」と呼ばれるようになったと。 展望室に上がる。総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、300以上の施設が。建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされるのだ。ピーク時の1944年には90,000人が収容されたのだ。そのほとんどはユダヤ人と。 巨大な収容所の平面配置図。 このホームで生死の仕分けが行われたのだ。 恐怖と劣悪な環境、奴隷労働。ガイドは「想像できない光景」と表現していた。これはわずか70年近く前に、実際に人類が行ったことなのだ。日本人は、加害者として、同時に被害者として両方の立場で、戦争の悲劇を子供たちにも伝えていく責任を負っていることを痛感したのであった・・・・・・・・・。そしてバスでクラクフまで走りホテルにチェックイン後にこの日の夕食。 全員が落ち込んだ気持ちでの夕食。 スープ。 そして旨くなかった餃子のようなすいとんの様なピロシキ。 店内で歌も歌われていたが・・・・。 クラクフ旧市街にある礼拝堂の尖塔が。
2013.10.07
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ヴィエリチカ岩塩抗近くのレストランで昼食。 野菜サラダ。メインディッシュ。オシフィエンチム(Oswiecim)の文字が車窓から確認できた。ドイツ語名でアウシュヴィッツ (Auschwitz) 。 この日の訪問地はアウシュヴィッツ。第二次世界大戦が勃発するとポーランドはドイツに侵攻され、1940年にはポーランド軍の兵舎を転用してアウシュヴィッツ強制収容所が建設されたのだ。強制収容所跡は現在国立博物館として保存され、ユネスコの世界遺産(負の世界遺産)に登録されているのだ。我々のバスドライバーの勘違いで、最初にアウシュヴィッツ=ビルケナウ第二強制収容所(ビルケナウ強制収容所)に小雨の中到着。 添乗員の指示でUターンし、アウシュビッツ 第一収容所に到着。博物館の入口にある付近の当時の航空写真。鉄道線路を挟んで下側にアウシュヴィッツ強制収容所、上側にビルケナウがあり、広大な敷地にこれらの施設か作られていたことが分かったのです。 入場し添乗員による人数確認。 アウシュヴィッツの象徴である「Arbeit macht frei(アルバイト・マハト・フライ=働けば自由になる)」のゲート。実際、この門をくぐって自由になった人はいないのであった。 ARBEITのBが上下逆さまなのは有名。収容者が作らされたもので、せめてもの抵抗の証としてこのように逆さまに作ったという説があるらしい。収容所内の建物群。1941年以降に、ここに収容された人々によって、二階建てに増築されたり改築されたりした赤レンガの頑丈な建物。 レンガ造りの収容棟は、現在28棟ある。設立された当時は一階建ての14棟と二階建ての6棟の計20棟しかなかった。囚人の増加に伴い、すべての棟は二階建てになり、新たに8棟が増設され、現在残る28棟になったのだ。もちろん、この増設も囚人たちの労働力を使って行っているのだ。正面奥は監視塔。 別名「絶滅収容所」。?ここは民間人のユダヤ人を中心として少なくとも110万人の命が、過酷な強制労働、人体実験や有毒ガスに寄って殺害された、「ホロコースト」の代名詞である場所。4号棟にある展示室へ。 アウシュヴィッツにはヨーロッパ各地からユダヤ人、政治犯、捕虜などが送り込まれたと添乗員からの説明。 囚人のカルテ。アウシュヴィッツに連行されたユダヤ人の数。ヨーロッパ中の国から連れてこられたのがわかるのであった。アウシュビッツ収容所へ殺害されるために送られてきた人々の殆どは、東ヨーロッパに移住させられるだけと信じていたと。 収容所に送られてきた人々の写真。、新たな生活に希望と喜びを持って笑顔の人も。鉄道引き込み線に着いた人々を待っていたのは、「選別」。医師が判断して労働できそうな人は収容所へ送られれ、仕事ができないと判断された人たちはそのままガス室へ。証言によると、運ばれてきた人間の70%を超える人々がガス室へ送られていたと。性別・年齢関係なく・・・。地下のガス室に入っていく囚人たちを再現した模型。 囚人たちが階段で地下に降りて、最初の部屋(脱衣場)で服を脱ぎガス室に向かう姿が。そしてその奥に焼却炉があったのだ。シャワーを浴びさせてやると隊員に騙され、皆洋服を脱がされシャワー室にみせかけた、嘘のシャワーの室。その天井の穴から、この毒薬チクロンBを投入して窒息死させたと。チクロンBという毒薬と珪藻土。 猛毒のシアン化水素であり、気化すれば青酸ガスになるのだ。アウシュビッツだけで 1942-1943年の間に2万キログラムのチクロンBが使用されたと。 解放後に見つかった空き缶の山 中身が入った缶もあったと。当時のヘス所長の証言によると 約1500人を殺すのに6-7キログラムの毒ガスが必要だった。と。ソ連軍が入ってきたとき、倉庫から袋に入った約7トンの髪の毛が発見された。現在、約25m×5mのケースに溢れんばかりに展示されていた。すべての髪の毛はくすんだ色をしていて、嗄れ果てたような感じになっていた。この量には圧倒されてしまったtのであった。ガラス越しに見学しているだけなのだが、なんか息苦しくなってくる自分がいたのであった。 髪の毛で作られ毛布。収容された人の(特に女性の)髪の毛を再利用して、敷物や潜水艦の船員の靴を作ったと。展示されていた膨大な髪の毛の束の数だけ確実に人が死んでいるのである。 囚人たちの夥しいクシ。 義足、義手、松葉杖など。 食器や数々の生活用品。 収容所に送られてきた人たちのトランク。トランクには名前や住所を書かされたと。収容所に送られてきた人たちの靴。皆、新たな生活に希望と喜びを持って来たと。よそ行きのピカピカの靴を新調してこれを履いて。この靴一つ一つに人生の足跡が。 靴磨き粉。
2013.10.06
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宿泊ホテルはブロツワフにあるカンパニーレ オールド タウン。ブロツワフはポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつ。この朝も4人で6:30から1時間ほどの早朝散歩を計画。 その前に朝食をとる。 市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっていると。川には多くの白い泡が。40年前?の日本と同じ光景。まだまだ生活水の処理が遅れているのであろう。街のガルニゾン教会の尖塔。 それにしても泡の多さが気になったのであったが。ここが泡の発生源、しかし川が未処理の界面活性剤でよごれているからこそ。 朝早く路面電がひっきりなしに。そして中には多くの通勤客が。 ビィエリチカ 岩塩坑に高速道路で向かう。この日の宿泊地クラクフまでは221kmの表示が。 ポーランドの高速は有料なのであろう。料金所が。未だETCは発達していない模様。 ヴィエリチカ岩塩坑に到着。 ヴィエリチカ岩塩坑で採掘された岩塩は「白い金」 といわれ、中世ポーランド王国に大きな利益をもたらしたのだ。近年は岩塩坑夫が利用したであろうエレベーターで地下へ。 13世紀から本格的な採掘が初まり、14~16世紀、岩塩はポーランド王国の財源の三分の一を担うまでになったと。坑道は深さ327m、全長300kmにも及ぶと。1996年にコストの問題と洪水の危険から採掘が中止され、現在は観光地となっているのだ。観光客向けの3.5kmの坑道には歴史や神話上の様々なモチーフをかたどった彫像が並び、さらに礼拝堂や岩塩採掘史までが展示されていたのであった。坑道は丸太で補強されていた。坑道の丸太が白く塩で覆われている箇所も。 岩塩層に光が当たり黒く輝いていた。 ポーランド王ボレスワフ・フストドリビとの婚礼のため、ハンガリーからやってきたキンガ姫は道中の泉に婚約指輪を投げ入れ、ヴィエリチカの住民に掘り出すよう求めたと。するとその泉から岩塩層と指輪が発見されたという伝説があるとの説明が。 キンガ姫の伝説の一場面。中世の頃、塩の彫刻は採掘作業用のオイルランプに照らされて揺らめき、命を持つかのように見えたとの説明。 岩塩を彫刻して造った像が至る所に。 丸太の道がなくなり塩の巨大なトンネルを手すりに掴まりながら降りた。薄暗がりに王様の像、妖精の像、コペルニクスの像も。孤独な暗黒の世界で、塩鉱夫達はこの像を眺め安らぎを得ていたのであろうか。王様の像。 キリスト像。これは岩塩ではなさそう。 坑内でのくつろぎの場面か?。 塩の階段。 塩で作られた聖人 。ポーランド出身の前ローマ法王ヨハネ=パウロ2世。こちらは最近造られたものであろう。 天井からは「王様の塩」と呼ばれている純度の高い白い岩塩から作られているシャンデリァが下がっていた。信じられないような光景。総て岩塩工の手によるもの。 キンガ礼拝堂。とても地下にあるとは思えない広さ。岩塩坑での仕事は常に危険がつきまとっていて、坑内の無事を祈るためにいくつもの礼拝堂が造られたと。この「聖キンガ礼拝堂」はその中で一番の大きさで地下100mの場所に。模様の入った床やシャンデリア、奥の礼拝堂に至るまでほとんどが岩塩で造られているのであった。 岩塩で造られたキンガ礼拝堂の奥にあるマリア像。 シャンデリアを真下から。神秘的な光景。 壁には数々の彫刻があったがこの「最後の晩餐」は見事。地底には他に運動場があり博物館も。壁や天井から鐘乳石のように塩の結晶が溶け出してその先には塩で出来たつららから滴り落ちるのも濃い塩水。年間に110万人が訪れる場所。 こちらの壁彫刻も見事。 マリア像。光が神秘的。濃い塩水が緑に輝いていた。 約1時間の見学であったが、岩塩の力で殺菌された涼しい坑内で、塩の芸術の数々に感動した、あっと言う間の時間であったのだ。
2013.10.05
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ゼンパー・オーパー(ゼンパー・オペラ) Semper Oper。 ゼンパー・オーパーはドレスデンにある州立歌劇場の愛称。東ドイツ時代はドレスデン国立歌劇場であったが、現在はザクセン州立歌劇場である(旧称で呼ばれることも多い)。世界で最も華麗な劇場の一つとして知られ、特にいぶし銀の響きといわれる劇場専属の管弦楽団 シュターツカペレ・ドレスデン SachsischeStaatskapelle Dresden のサウンドは世界中にファンが多いのだ。 この日は、運良く内部の見学のみが可能な日であったのだ。 天井の絵画も壮観。 折しもこの時は、何の催し物であったかは不明であるが、若き日本人の男性オペラ歌手が壇上で公演していたのであった。 5分ほどで終了したが、ラッキーな体験であったのだ。観客席のも多くの観客が。 天井も豪華で緻密で見事。ゼンパー・オーパー(ゼンパー・オペラ) Semper Operは 手前の騎馬像ザクセン王ヨハンの命によって建てられたのだ。ツヴィンガー宮殿。 宮殿中庭。ここも幾何学的な模様が美しかった。 ツヴィンガー宮殿中庭からのザクセン王ヨハンの騎馬像。 再び旧宮廷教会。屋根の上に立ち並ぶ78人もの聖人の銅像が非常に印象的だった。。ドレスデンの観光を終えバスで270km弱のブロッワフに向かう。途中で渋滞、一時停止。乗用車が道路脇の農地に突っ込パトカーが出動。 この晩の夕飯。
2013.10.04
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バスでこの日の昼食レストランに。メニューはソーセージ料理。しかしこれが主食。 これはスープ・・・・? レストラン内のステンドグラスは印象に残っているのである。 現地添乗員のドイツ人女性。ドレスデンは人口:約50万(東部ドイツ新5州の1つザクセン州の州都)。旧東ドイツで3番目に大きい都市。ドレスデンは「エルベの真珠」とも呼ばれるザクセン州の州都と称えられ、華麗な宮廷文化が輝くバロックの町であるとの説明。フラウエン教会(Dresdner Frauenkirche)。教会の建物は第二次世界大戦中のドレスデン爆撃を乗り切ったものの、完全に焼損し爆撃の翌日崩壊。現在はかつての敵同士の和解を象徴する建築物として再建。外部の復元は2004年に、屋内は再建の開始より13年後の2005年に完了。 アウグスト2世の銅像。18世紀前半,アウグスト強王(1670-1733)とその息子のフリードリッヒ.アウグスト2世の治世下で,ドレスデンの町は一変した.アウグスト強王はドレスデンの歴史を語る上で欠かせない人物であるが,ポーランドで生まれた王は当時,ザクセン王国をも勢力下に納め,その首都であったドレスデンを文化の中心地にしようと優れた芸術家や音楽家を次々に招聘した.またお抱えの宮廷建築士=ペッペルマンに美しいバロック調の建物を数多く作らせた.その代表作は何と言ってもツヴィンガー宮殿.現在のドレスデンの美しい町並みは,この王無くしてはあり得なかったと。 こちらはルターの銅像。この教会はドイツ福音主義教会を構成するザクセン福音ルター派州教会に属していると。聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけはプロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化、思想にも大きな足跡を残したとのこと。 広場ではピアノの生演奏が行われていた。この日は日曜日。 黒い部分が大戦前に使われていた材料を再利用し復元した部分。オリジナルのレンガを組み合わせる作業は困難を極め、世界最大のジグソーパズルと言われたと。 現地ガイドが大戦直後の悲惨な聖母教会の写真?を示してくれたのであった。 ガラスのドームが芸術アカデミー。建築家コンスタンティン・リプシウスが、1885年から1894年に、この芸術の殿堂を建てた。ここにはアカデミーとザクセン芸術協会の展覧会場が入ってるとのこと。この大きなガラスドームは外見から「レモン絞り器」というあだ名で呼ばれていると。そう言われればなるほど・・・・。 「レモン絞り器」の上の女神ファーマの金の像 君主の行列(Fürstenzug)。大戦の空襲で町のほとんどが破壊されたドレスデンだが、奇跡的に残ったものがこの「君主の行列」という壁画。レジデンス城のシュタルホーフ(武芸競技場)の北の外壁を飾る、長さ102mの「君主の行列」。35人のザクセンを支配したヴェッティン家の王侯、それに市民階級の代表者たちが描かれているのである。 1868年に画家ヴィルヘルム・ワルターが、2層の対照的な色からなる漆喰の、表面の湿った層を掻き落として線画を描く壁の装飾技法であるスグラフィット用法で仕上げたと。しかしながらしかし 漆喰の損傷が激しく、1904年から1907年にかけてこの外壁を24,600枚のマイセン焼きの磁器タイルの壁画に替えたと。 絵の最下部には「富める者」 「好戦者」 「温厚なる者」 「誇り高き者」 「噛まれた者」といった 添え名の記された君主もいるのである。そして各君主の在位期間が記載されているのであった。 それにしても磁器タイルとは思えない精巧な描写。 アウグスト2世(アウグスト強王)の勇姿。 行列の最後は子供たちも一緒の庶民の群れ、群れの最後尾にこの絵を描いた画家ウイルヘルム ヴァルターも描かれているとのこと。 カトリック宮廷教会(Katholische Hofkirche)ザクセン最大の教会であり、最後のバロック教会。ドレスデン地方裁判所。ブリュールのテラス前の像。 ブリュールのテラスからアウグスト橋。ブリュールのテラスは、エルベ川にテラスのように張り出した庭園付きの広大な遊歩道である。本来はエルベ側の堅固な要塞だったが、それを当時権力を振るっていたザクセン首相ブリュールが改造したものであるとのこと。 ブリュールのテラスから見たドレスデン城(左)と旧宮廷教会(右)
2013.10.03
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我々旅友4人はいたって元気。この日も5時からプラハの街の早朝散歩。ホテルを出てもまだ日の出前なので薄暗い。ホテル近くのの公園内を散策。さすがにこの地でもこの時間には人はほとんど見かけず。公園の隅に各種トレーニングマシンが設置されていた。日本の公園内にも1~2種の簡単なものは見かけたことはあるが、トレセンの如くこの様に各種器具が設置されていることに驚きと感動の瞬間だったのだ。 旅友のSさんも早速挑戦。まだまだ元気そのものの先輩であるが、いつか誰にでも来る日を覚悟して異国の地でリハビリ訓練を開始したのであった。 5:40 東の空が赤く染まってきた。 見事なチェコ・プラハの朝焼け。 そして1時間の早朝散歩を終え宿泊ホテルに戻る。 早速朝食。 ロビーには紙幣の両替機が設置されていた。日本円からの両替が可能なのであった。 プラハから8号線、E55号線でドイツ・バスタイ渓谷へ向かう。途中、バスはプラハ駅横を通過。 ホテル出発は7:50。40名のツアーであったので集合時間の心配をしたが今回の旅友は全員PUNCTUAL!!。集合時間の10min前にはほぼ全員が集合。途中、高速道路脇にはグライダー用飛行場がいやただの平らな草原? 2時間ほどでバスタイ渓谷に到着。バスを降り渓谷の展望道路まで歩く。 途中客を乗せた白馬車に出会う。 建物の壁に這うツタは既に真っ赤に紅葉。 集合時間を確認し散策開始。見回すと、周りはすごい奇岩が立ち並んでいた。中国の桂林 に似た景観か。巨大な岩の割れ目から光が射し込み神秘的。その隙間から遙か下に田園風景が。 バスタイ橋には多くの観光客が。 断崖が一気にエルベ川に。 岩の割れ目から エルベ川沿いの村落が見えた。丁度エルベ川蛇行する場所の上。エルベ川は、チェコ北部およびドイツ東部を流れ北海へと注ぐ国際河川。全長約1,091kmはヨーロッパでは14番目に長く、このうち727kmがドイツ国内を占める川。 カヌーで船旅を楽しむ人も川面に。 村の教会であろうか? 奇岩の数々、ただしロッククライミングの人影は見えず。 かつては要塞としての役目も担っていたと添乗員の説明。 巨岩が橋で繋がり断崖の先端まで。 何故か日本の国旗が描かれていた。 奇岩。 バスタイ橋の全景。やはり要塞? 帰りに赤く染まった落ち葉を拾い撮影中に、旅友のKさんの可愛い手が突然。私の顔も赤く染まったのであった。しかしKさんの本音の意図は、私に対する「濡れ落ち葉」 STOP?バスタイ渓谷の観光を終え再びバスでドレスデンに向かう。 ドレスデン市内の教会の尖塔は12:25を示していた。 折しもこの日はドイツ総選挙の日。道路脇には、勝利したメルケル首相の巨大ポスターが。 エルベ川から巨大尖塔のある大聖堂、ドレスデン城が見えた。 ギネスブックに登録されている「世界一美しい牛乳屋さん」 へ立ち寄る。店の内部。牛乳を飲んだが我が家の近くの牧場の牛乳の方が味が濃いのであった。 世界一美しいと誰が判断したのであろうか?金額でギネスを手に入れた?これもビジネスモデル? 我が旅友は隣にあるマスタード売り場の方が大人気。 各種のマスタードを味見して購入できるのだ。これもビジネスモデル。世界一辛いマスタード屋さんとしてギネス登録したら?
2013.10.02
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カレル橋の反対側の旧市街橋塔門が近づいてきた。 塔門をくぐる。 塔門をくぐり振り返る。 塔門の中間から見下ろす像。 カラフルな建物の下をヴルタヴァ川が流れていた。聖サルヴァトーレ教会。 歩いて渡ってきたカレル橋と聖人像。建物の下を通過する路面電車。トンネル部分の高さが低いため、パンタグラフが架線により押し下げられていたのであった。 旧市街広場に建つティーン教会の尖塔が2本。 旧市街広場の天文時計のある塔が目前に。 15世紀に作られ、当時のままの姿で今も時を刻んでいると。 この天文時計は3つの主要な部分、すなわち空の太陽や月の位置などの天文図を示すための文字盤、「使徒の行進 (The Walk of the Apostles)」と呼ばれるキリストの使徒などが時間ごとに動く人形仕掛け、それから月々を表す浮き彫りの暦版からなると。 文字盤(プラネタリュ-ム)。 暦表。17時になり仕掛け時計が動き出したのだ。文字盤の脇にいる死神が鐘を鳴らしその音と共に塔の上にあるキリストの12使徒がゆっくりと次々に現れては消えてゆくのであった。最後に一番上でニワトリが一声鳴いて終わり。旧市庁舎(西側)の美しい「スグラフィット装飾」の建物。スグラフィット装飾とは16世紀半ば、ボヘミア全土に広がった「だまし絵(トロンプ・ルイユ)」といわれる壁絵の装飾技術。もとはイタリアからもたらされたもの。レンガの壁に木炭などの黒い漆喰を塗り、その上に石灰の白い塗料を塗り、その上から下絵を針金で突いて写しとり、下絵にそって白い塗料を掻き削ると、下から黒い漆喰があらわれ、白黒の絵が出来上がる。遠くからは、凹凸のある石壁のように見えるが、実際には凹凸のない壁画であると。 自由時間にボヘミアンガラスの店を覗く。 クリムトの絵画を題材にしたガラス作品。 こちらはかなりエロチックな作品。 旧市庁舎広場で大型シャボン玉を造り遊んでいた。 大きなシャボン玉の裏には聖ミクラージュ教会。聖ミクラーシュ教会はプラハの最も大きいと最も有名なバロック様式の建物。バロック様式の真珠とも呼ばれていると。イエズス会の教会として1703-1756年の間に建てられたドーム。教会の長さは60メートルと幅は40メートル。教会の両方の塔の高さは79メートルと細い塔の上に(215段の階段)上ることが可能。時間があれば上りたかったが残念。旧市街広場のヤン・フス像。ヤン・フスは、チェコの宗教改革の先駆者として知られているのだ。当時のローマ教会の堕落を厳しく批判したため、1415年に火あぶりの刑になり死亡した。以後、チョコにおける信者(フス派)は、ローマカトリック教会と戦うことに。ヤン・フスの像は、1915年フス没後500年を記念して造られたのだ。ティーン教会。 旧市街広場の東側に特徴のある二つの尖塔を持つゴシックの教会。正式名称はティーン(税関)の前の聖母マリア教会。教会の裏に税関があったから。見学を終え旧市街に別れを告げ徒歩でバスに向かう。カレル橋から2つ下流の橋を渡る。 橋脚の上の,トーチカを持った女性像。橋からのプラハ城・ 聖ヴィート大聖堂。レトナー公園の不思議なモニュメント。 メトロノームとのこと。メトロノームのある場所はもともと大きなスターリン像があったとのこと。それが1989年の共産党独裁政権崩壊と共に像が壊され、」メトロノームに代わったと。正式にはチェコでは「タイムマシーン」と呼ばれており、時間は止まらない、未来に向けて時を刻み続ける、そんな意味がこめられていると添乗員のHさんから。あくまでも博識のベテラン添乗員であることをこの旅行でいたる場所で感じたのであった。ヴルタヴァ川(モルダウ川)の静かな流れ。川は旧市街のあたりで湾曲し、流れが緩やかであり、ところどころが浅瀬になっており、水鳥が餌をあさるために、多く集まって来ていた。ここチェコの作曲家スメタナは連作交響詩組曲「わが祖国」の第2曲でヴルタヴァ川を題材としていることを想いだしたのであった。ホテル・パノラマ プラハにチェックインしホテルでの夕食。甘いものが欲しかったのであった。 ここチェコもビール(チェコ語では Pivo と言います)が有名。何せ、国民一人当たりのビールの消費量が世界一であるとこれも添乗員から。この日は黒ビールに挑戦。やや甘い。黒糖のような甘さ。苦味はかなり抑えられ飲みやすかったが後味は口に甘みが残る感じ。フルーティーさはあまりなし。
2013.10.01
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