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平成30年5月5日(土) 詩集「測量船」:三好達治(66) アヴェ・マリア(1) 鏡に映る、この新しい夏帽子。林に蝉(せみ)が啼いてゐる。 私は椅子に腰を下ろす。私の靴は新しい。海が私を待っ てゐる。 私は汽車に乗るだらう、夜が来たら。 私は山を越えるだらう、夜が明けたら。 私は何を見るだらう。 そして私は、何を思ふだらう。 ほんとうに私は、どこへ行くのだらう。 窓に咲いたダーリア。窓から入って来る蝶。私の眺め てゐる雲、高い雲。 雲は風に送られ 私は季節に送られ、 (つづく)
2018.05.05
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平成30年5月3日(木) 詩集「測量船」:三好達治(64) MEMOIRE 秋風に姉が喪(な)くなった。長い竹箸(たけばし)にその白骨がまた毀(こは) れた。竈(かまど)は煖(あたたか)かった。あたりには、また秋風がめぐっ てゐた。私は子供の頬を舐(な)めた。私は旅に出た。もう恋 人からは、稀(ま)れな手紙も来なくなってゐた。海は澄んで ゐた。空も青かった。私は海岸を歩き廻った。その頃、 アリストテレスを読んでゐた。沖に軍艦が泊まってゐた。 夕方喇叭(ラッパ)が聞こえた。また灯が点(とも)った。山上に祭礼があっ た。私は稲田の間を遠く歩いて行った。林間の、古い長 い石階を上った。それは高い山だった。私は酒を酌(く)んだ。 (つづく)
2018.05.03
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平成30年5月2日(水) 詩集「測量船」:三好達治(63) 昼 別離の心は反って不思議に恋の逢瀬(おふせ)に似て、あわただ しくほのかに苦(に)がい。行くものはいそいそとして仮そめ の勇気を整(ととの)へ、とどまる者はせんなく煙草(たばこ)を燻(く)ゆらせる 束(つか)の間に、ふと何かその身の愚(おろ)かさを知る。 彼女を乗せた乗合馬車が、風景の遠くの方へ一直線に、 彼女と彼女の小さな手携げ行李(かうり)と、二つの風呂敷包みと を伴(つ)れてゆく。それの浅葱(あさぎ)のカーテンにさらさらと木洩(こも) れ日が流れて滑り、その中を蹄鉄(ていてつ)がかはるがはる鮎(あゆ)のや うに光る。ふっと、まるでみんなが、馭者(ぎよしや)も馬も、たよ りない鳥のやうな運命に思はれる。さやうなら、さやう なら、彼女の部屋の水色の窓は、静かに残されて開いて ゐる。 河原に沿うて、並木のある畑の中の街道を、馬車はも う遠く山襞(やまひだ)に隠れてしまった。そして、それはもうすぐ、 あのここからは見えない白い橋を、その橋板を朗(ほが)らかに 轟(とどろ)かせて、風の中を渡って走るだらう。すべてが青く澄 み渡った正午だ。そして、私の前を白い矮鶏(ちゃぼ)の一列が石 垣にそって歩いてゐる。ああ時間がこんなにはっきりと 見える! 私は侘(わび)しくて、紅い林檎(りんご)を買った。(つづく)
2018.05.02
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平成30年5月1日(火) 詩集「測量船」:三好達治(63) 鹿(4) 淋しい風が吹いてゐた。 その夜、私はこの村に来てゐるあの女小説家のところ へ遊びに行った。メーテルリンクの「沈黙」は何だか怖 ろしくて厭やですね、――そんなことを云ひながら、机 の上の鏡台をのけて、私は彼女の眉(まゆ)を描(ひ)いた、注意深く。 それから彼女は、この鏡台の抽出(ひきだ)しから小さな品物をと り出して、これが夜の緑の白粉(おしろい)、これがデリカ・ブロウ、 それこんなの、と蓋(ふた)をとって、それらの優しい絵具を私 に教へた。そこでふと私も、夕暮れ見たあの何か心に残 る、不仕合せな王子の街道を選ばれていった話をした。 ――あらほんと、鉄砲がほしいわね。 ――…………… ――ね、鉄砲が欲しくない? ――ええ、さう……、鉄砲も欲しいですね。 淋しい風が吹いてゐた。私は、何か不意に遠くにゐる 人の許へ帰りたくなった。(つづく)
2018.05.01
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平成30年4月30日(月) 詩集「測量船」:三好達治(62) 鹿(3) 棒に縛られて舁(かつ)がれてゆくこの高雅な山の幸(さち)は、まる で童話の中の不仕合せな王子のやうに慎(つつ)ましく、痛まし い弾傷(だんきず)は見えなかったけれど、いかめしい角(つの)のある首が 変なところへ挟(はさ)まったまま、背中をまるくして、揺られ ながら、それは妙な形の胡坐(あぐら)を組んでゐる優しい獣の姿 であった。生気を喪(うしな)って少しささくれた毛並は、まだし っとりと、あの山に隠れた森と谿間(たにま)の、幽邃(ゆうすゐ)な、冷めた い影や空気に濡れてゐた。 ――いよう獲れただめ。 ――いやすくなかっただ、たった三つしきゃ。 ――どうだろう今年は? ――ゐるにはゐるがね。今日はだいぶ逃がしちまった よ。
2018.04.30
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平成30年4月29日(日) 詩集「測量船」:三好達治(61) 鹿(2) 冬といっても人眼にふれないどこかにちらりほらり椿(つばき) の花の咲いてゐる、また畑の中に立った夏蜜柑(みかん)や朱欒(ざぼん)の その青い実のたわわに枝に憩(やす)んでゐる、この遠い街道に 沿った、村の郵便局の、壁にあるポストの金具を、ちょ いと指さきに冷めたく思ったそのあとで、そこを出ると、 私は私の前を通るさっきの獲物の、鹿の三頭に行き会っ た。(つづく)
2018.04.29
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平成30年4月28日(土) 詩集「測量船」:三好達治(60) 鹿(1) 夕暮れ、狩の獲物が峠を下りてくる。猟師が五六人、 犬が六七頭。――それらの列の下りてくる背(うし)ろの、いつ とは知らない間にすっかり色の変った空路(そらぢ)に、昼まから 浮んでゐた白い月。
2018.04.28
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平成30年4月27日(金) 詩集「測量船」:三好達治(59) 燕(6) ――疲れてみんなからだんだん後に遅れて、ひとりぼ っちになってしまったらどんなに悲しく淋しいだらうな。 ――いや、心配しなくていいのだ。何も心配するには 当らない。海をまだ知らないものは訳もなくそれを飛び 越えてしまふのだ。その海がほんとに大きく思へるのは、 それはまだお前たちではない。海の上でひとりぼっちに なるのは、それはお前たちではないだらう……。けれど も何も心配するには当らない。私たちは毎日こんなに楽 しく暮してゐるのに、私たちの過ちからでなく起ってく ることが、何でそんなに悲しいものか。今までも自然が さうすることは、さうなってみれば、いつも予(あらかじ)め怖れ た心配とは随分様子の違ったものだった。ああ、たとへ 海の上でひとりぼっちになるにしても……。(つづく)三好達治詩集改版 (新潮文庫) [ 三好達治 ]
2018.04.27
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平成30年4月26日(木) 詩集「測量船」:三好達治(58) 燕(5) ――どうか今年の海は、不意に空模様が変って荒れた りなどしなければいいが。 ――海ってどんなに大きいの、でも川の方が長いでせ う? ――もし海の上で疲れてしまったらどうすればいいの かしら。海は水ばかりなんでせう。そして空と同じやう に、どこにも休むところがないのでせう、横や前から強 い風が吹いてきても。 (つづく)
2018.04.26
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平成30年4月25日(水) 詩集「測量船」:三好達治(57) 燕(4) ――あんなちっちゃな卵だったのに、お前も大変もの 知りになりましたね。 ――さあみんな夜は早くから夢を見ないで深くお眠り、 そして朝の楽しい心で、一日勇気を喪(うしな)はずに風に切って 遊び廻らう。帰るのにまた旅は長いのだから。 ――帰るといふのかしら、去年頃から、私はどうも解 らなくなってしまった。幾度も海を渡ってゐるうちに、 どちらの国で私がうまれたのか、記憶がなくなってしまっ たから。 (つづく)
2018.04.25
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平成30年4月24日(火) 詩集「測量船」:三好達治(56) 燕(3) ――私は昨夜稲妻(いなづま)を見ましたわ。稲妻を見たことがあ る?あれが風や野原をしらぬ間にこんなにつめたくす るのでせう。これもそのとき見たのだけれど、夜でも空 にはやはり雲があるのね。(つづく)
2018.04.24
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平成30年4月23日(月) 詩集「測量船」:三好達治(55) 燕(2) ――それは毎年誰かの言ひだすことだ。風もなかった のに、私は昨夜柿の実の落ちる音を聞いた。あんなに大 きく見えた入道雲も、もうこの頃では日に日に小さくな って、ちょっと山の上から覗いたかと思ふと、すぐまた どこかへ急いで消えてしまふ。 (つづく)
2018.04.23
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平成30年4月22日(日) 詩集「測量船」:三好達治(54) 燕(1) 「あそこの電線にあれ燕がドレミはソラシドよ」 ――毎日こんなにいいお天気だけれど、もうそろそろ 私たちの出発も近づいた。午後の風は胸に冷めたいし、 この頃の日ぐれの早さは、まるで空の遠くから切(せつ)ない網 を撒かれるやうだ。夕暮の林から蜩(ひぐらし)が、あの鋭い唱歌 でかなかなかなと歌ふのを聞いてゐると、私は自分 が場所が解らなくなってなぜか泪が湧いてくる。 (つづく)
2018.04.22
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平成30年4月19日(木) 詩集「測量船」:三好達治(51) 僕は(1) さう、さうだ、笛の心は慰(なぐさ)まない、如何(いか)なる歌の過剰(くわじよう) にも、笛の心は慰まない、友よ、この笛を吹くな、この 笛はもうならない。僕は、僕はもう疲れてしまった、僕 はもう、僕の歌を歌ってしまった、この笛を吹くな、こ の笛はもうならない、――昨日の歌はどこへ行ったか? 追憶は帰ってこない!春が来た、友よ、君らの歌を歌 って呉(く)れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀 を慰めて呉れ。(つづく)
2018.04.19
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平成30年4月18日(水) 詩集「測量船」:三好達治(50) 草の上(4) ★ 鵞鳥(がてう)は小径を走る。 彼女の影も小径を走る。 鵞鳥は芝生を走る。 彼女の影も芝生を走る。 白い鵞鳥と彼女の影と 走る走る――走る ああ、鵞鳥は水に身を投げる!
2018.04.18
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平成30年4月16日(月) 詩集「測量船」:三好達治(48) 草の上(2) ★ かなかなはどこで啼いてゐる? 林の中で、霧の中で ダリアは私の腰に 向日葵(ひまわり)は肩の上に お寺で鐘が鳴る。 乞食が通る。 かなかなはどこで啼いてゐる? あちらの方で、こちらの方で。 (つづく)
2018.04.16
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平成30年4月15日(日) 詩集「測量船」:三好達治(47) 草の上(1) ★ 野原に出て坐ってゐると、 私はあなたを待ってゐる。 それはさうではないのだが、 たしかな約束でもしたやうに、 私はあなたを待ってゐる。 それはさうではないのだが、 野原に出て坐ってゐると、 私はあなたを待ってゐる。 そうして日影は移るのだが―― (つづく)
2018.04.15
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平成30年4月14日(土) 詩集「測量船」:三好達治(46) 鳥語(13) ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。 この言葉は、しかしいつとなくそれを聞く私の心に深 く滲(し)み入り、日に日に私の記憶と入り混って了(しま)った。そ してやがてもう今では、嘗(かつ)て昔の日に、私が人を殺したの だと、さう云って、誰かが私の上に罪を露(あば)いたとしても、 私は恐らくそれを否定しないであらう。今日も、私の無 秩序な読書と、窓に咲き誇るダーリアの上で、鳥はその 同じ言葉を繰り返してゐるのである。――君も私の部屋 に来て、この鳥の言葉を聞くがいい。もし君にして、人を 殺した記憶がなく、なほかつその遠い悔恨(くわいこん)が欲しいなら。(つづく)
2018.04.14
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平成30年4月13日(金) 詩集「測量船」:三好達治(45) 鳥語(12) ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。 然り、今度は鳥の言葉が彼を殺した。そしてこの鳥は それから後、彼女のかたく繋がれた運命の、もうすっか り錆びた金環の円周の中で、永くその言葉を叫び続けて ゐる。私は日に幾度となく、この、嘗(かつ)ては彼の悔恨であ り、今はまた彼女の悔恨であるところの、そう思へば不 思議に懐かしい言葉を聞くのである。
2018.04.13
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平成30年4月12日(木) 詩集「測量船」:三好達治(44) 鳥語(11) 事実はあまりに明瞭だ。夜明けにしんだジャンの父は、 恐らくその生涯の半ばよりも永い間、誰にも秘密にした 言葉を胸に抱いて、そのためにふしぎなほど無口な生涯 を続けてゐたものであらう。そして幾度となく不眠の夜 を過ごしたものに違ひない。実に、彼がこの世を去った 日の、その明方に到るまで、彼は予感の、それが最後の 夜となりさうなあはれな恐怖に戦(をのの)きながら、遥かに遠く 過ぎ去った昔の日の、制しがたかった情熱の、激しい悔(くわい) 恨(こん)を繰り返してゐたのに違ひない。そして、その憂鬱(いううつ)の 堆積(たいせき)の、一夜の疲労と入り混(まじ)って、僅かに慰められたや うに感じられたその明方に、もう窓硝子(まどガラス)の白くなってゐ るのに気づかず、ふと彼は、追憶の壊れ落ちる胸から、 祈りのやうに、吐息(といき)のやうに、心の忘れられない言葉を 呟(つぶや)いたのである。すると枕もとから、まだ眠ってゐる筈(はず) のこの鸚鵡が、はっきりと、快活な夜明けの声で、その 言葉を再び彼の耳に繰り返したのである。 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。 (つづく)
2018.04.12
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平成30年4月11日(水) 詩集「測量船」:三好達治(43) 鳥語(10) 事実はあまりに明瞭だ。夜明けに死んだジャンの父は、 恐らくその生涯の半ばよりも永い間、誰にも秘密にした 言葉を胸に抱いて、そのために不思議なほど無口な生涯 を続けてゐたものであらう。そして幾度となく不眠の夜 を過ごしたものに違ひない。実に、彼がこの世を去った 日の、その明方に到るまで、彼は予感の、それが最後の 過ぎ去った昔の日の、制しがたかった情熱の、激しい悔(くわい) 恨(こん)を繰り返してゐたのに違ひない。そして、その憂鬱(いううつ)の 堆積の、一夜の疲労と入り混(まじ)って、僅かに慰められたや うに感じられたその明方に、もう窓硝子の白くなってゐ るのに気づかず、ふと彼は、追憶の壊れ落ちる胸から、 祈りのやうに、吐息(といき)のやうに、心の忘れられない言葉を 呟(つぶや)いたのである。すると枕もとから、まだ眠ってゐる筈(はず) のこの鸚鵡が、はっきりと、快活な夜明けの声で、その 言葉を再び彼の耳に繰り返したのである。(つづく)
2018.04.11
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平成30年4月10日(火) 詩集「測量船」:三好達治(42) 鳥語(9) ――さうです。それは事実と少しも違って居りません。 あなたの仰しゃることは、私にとっても、この家族の誰 にとっても、決して嬉しいことではありませんが、私は 正直に答へませう。 たとへこの会話が、私の想像の上であらうとも、私は もうここで、それを打きらなければならない礼儀を知っ てゐる。(つづく)
2018.04.10
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平成30年4月9日(月) 詩集「測量船」:三好達治(41) 鳥語(8) (ところがありませんでした。)それにたった一つお祖父さ まの枕もとに吊(つる)るされてあったあの生きものの鸚鵡(あうむ)だけが さうでせう、気がついて見ればその朝から、あんなに不、 吉なことを叫び始めたのです。それでその当座は、どう かしてあれを捨ててしまひたいとも思って見たのでせう が、破れ靴でさへ捨て場に困るものを、まして生きてゐ る鳥の捨て場所もないし、鳥の言葉が単純に、その意味 の通り、お祖父さまの生涯を早めたとは、たとへ子供に だって、素直にさうと信じらるべきことでもなし、その 上あんなにお祖父さまは、永い年月の間あの鸚鵡を可愛 がってゐらっしゃったのだから、それは今になって見れ ば、あのお祖父さまの思出の、生き残ってゐる唯一のも のなんだし、それをこの家から失くすることは誰にも出 来ないのでせう。
2018.04.09
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平成30年4月8日(日) 詩集「測量船」:三好達治(40) 鳥語(7) ――そうですわ。なくなった良人のジャンが、いつか そんなことを私に教へました。あなたもまた、それをあ のジャンからいつかお聞きになったのでせうか? ――いいえ、私はあなたのジャンを知りません。…… そして、それからある日のこと、お祖父さまは朝のベッ ドの上で、誰も知らない間に冷たくなっておしまひに なったのです。部屋の中には、何も平生と少しも変った ところがありませんでした。 (つづく)
2018.04.08
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平成30年4月7日(土) 詩集「測量船」:三好達治(39) 鳥語(6) ――答へて下さい、きっとかうなんでせう。昔、あな たの家のお祖父さまが、あなたの良人(マリ)に仰(おっ)しゃったので す。どうかお前は、私がゐなくなったら、もうこの国に は住まないで、遠い東の、日本の国へでも行って暮して お呉(く)れ、この私はもうそんな遠い旅行に耐へられない年(と) 齢(し)になったが、しかしお前は行ってお呉れ。どうか、そ れの詳(くわ)しい理由は訊(き)かないで、私の唯一の頼みだから、 もうすぐ私が死んでしまったなら、早く、私のこの願ひ を実行してお呉れ。と、きっとそんな風に仰しゃったの です。あなたの良人(マリ)に。
2018.04.07
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平成30年4月6日(金) 詩集「測量船」:三好達治(38) 鳥語(5) ――J’ai tue……ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。 J’ai tue……J’ai tue……。 それにしても、しかしいったい何のために、誰が誰を 殺したのだらう? それも何時(いつ)? どこで? どんな風 にして? ――よろしい、消え去った昔のことはどちら でもいい! それよりも先(ま)づ第一に、その言葉を信ずる なら、この金環に繋(つな)がれてゐる鳥が誰かを殺したのに相 違ない。そこで一瞬の間に、私の想像がすぐに怪奇なデ サンの織布(しょくふ)を織りあげる。たとへば私はここの主婦にか う云って尋ねるだらう。(つづく)
2018.04.06
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平成30年4月5日(木) 詩集「測量船」:三好達治(37) 鳥語(4) 「…けれど、どうも変ですわね。うちの人達はみんな、 それを聞くのを、きっと厭やなのに違ひありません。」 私は、それに就てはもう何も彼女から聞きたくなかっ た。ただ新しく、云はばこの家族の隙間(すきま)に、一室を借り ただけの私にとって、知らぬ他国から遠く移って来た人 達の、その瑣々(ささ)とした、歴史の永く変遷(へんせん)した昔の出来事 の詳しい穿鑿(せんさく)などは、も早や趣味としてもこのましくなか ったのである。何故なら、凡そどのやうな事の真実も、 所詮は自由なイデエの、私の空想より遥かに無力であ ったから。 (つづく)
2018.04.05
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詩集「測量船」:三好達治(36) 鳥語(3) 最初私は、私の工夫から試みにそれを J’ai tue……le Tempsと補って見て、その下で、毎日それを気にもしな いで、秩序のない私の読書を続けてゐた。つまり、 ――キノフモケフモワタシハムダ二ヒヲスゴス。 と、そう云って、彼女は私の窓で無邪気に頸(くび)をかしげ てゐたのである。そしてそれから後、ある日ふとした会 話の機(はず)みから初めて、その言葉の不吉な意味を私に暗示 したのは、この家の痩せて背の高い女中のローズであっ た。薔薇(ローズ)と呼ばれる年とったその女中は、今私のゐるこ この一家の人人と共に、永い年月を、長崎から神戸を経 て、こんな風に東京の郊外で住まふやうになるまで、彼 女の運命と時間を、主家の住居の一隅でいつも正直に過 ごして来たものらしい。(つづく)
2018.04.04
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平成30年4月3日(火) 詩集「測量船」:三好達治(35) 鳥語(2) ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ…… 実は、それは甲高(かんだか)く発音される仏蘭西(フランス)語で、ただJ’ai Tue……と云ふだけの、ほんの単純な言葉だから、こんな 風に訳したのではすっかり私の空想になってしまふので ある。しかしまたこの私の空想にも理由がある。
2018.04.03
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平成30年4月2日(月) 詩集「測量船」:三好達治(34) 鳥語(1) 私の窓に吊された白い鸚鵡(あうむ)は、その片脚を古い鎖(くさり)で繋(つな) がれた金環(かなわ)のもうすっかり錆(さ)びた円周を終日噛りながら、 時としてふと、何か気紛(きまぐ)れな遠い方角に空虚なものを感 じたように、いつもきまって同じ一つの言葉を叫ぶ。 ――ワタシハヒトヲコロシタノダガ……。
2018.04.02
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平成30年4月1日(日) 詩集「測量船」:三好達治(33) 庭(2) 午後、私は雉(きじ)を射ちに谿(たに)へ行った。還って見ると、ベ ッドの脚に水が流れてゐた。私のとりあげた重い玩具の、 まだ濡れゐる眼窩(がんくわ)や顳顬(こめかみ)の疵に、小さき赤蟻(あかあり)がいそが しく見え隠れしてゐる、それは淡い褐色の、不思議に優 雅な城のやうであった。 誰から手紙が来た。私はそれに手紙を書いた。(つづく)
2018.04.01
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平成30年3月31日(土) 詩集「測量船」:三好達治(32) 庭(1) 槐(えんじゆ)の蔭の教へられた場所へ、私は草の上からぐさり と鶴嘴(つるはし)をたたきこんだ。それから、五分もすると、たや すく私は掘りあてた、私は土まみれの髑髏(どくろ)を掘り出した のである。私は池へ行ってそれを洗った。私の不注意「か らできた顳顬(こめかみ)の上の疵(きず)を、さっきの鶴嘴の手応へを私は 後悔してゐた。部屋に帰って、私はそれをベッドの下に 置いた。(つづく)
2018.03.31
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平成30年3月30日(金) 詩集「測量船」:三好達治(31) 庭(3) 瞳をかへした頁(ページ)の上に、私は古い指紋を見た。私は本 を閉ぢて部屋に帰った。その一日が暮れてしまふまで、 私の額に散弾が水を切り、白い花菖蒲(あやめ)が揺れてゐた。
2018.03.30
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平成30年3月29日(木) 詩集「測量船」:三好達治(30) 庭(2) 築地(ついぢ)の裾を、めあてのない遑だしさで急いでくる蝦蟇(がま) の群。その腹は山梔(くちなし)の花のやうに白く、細い疵(きず)が斜めに 貫(つらぬ)いたまま、なほ水掻で一つが一つの背なかを捉へてゐ る。そのあとに冷たいものを流して、たとへばあの遠い 星へまでもと、悪夢のやうに重たいものを踏んでくる蝦 蟇の群。(つづく)
2018.03.29
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平成30年3月28日(水) 詩集「測量船」:三好達治(29) 庭(1) 夕暮とともにどこから来たのか一人の若い男が、木立 に隠れて池の中へ空気銃を射(う)ってゐた。水を切る散弾の 音が築山(つきやま)のかげで本を読んでゐる私に聞こえてきた。波紋 の中に白い花菖蒲(あやめ)が咲いてゐた。 (つづく)
2018.03.28
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平成30年3月27日(火) 詩集「測量船」:三好達治(28) 夜(3) やがて百年が経ち、まもなく千年が経つだらう。そし てこの、この上もない正しい行ひのあとに、しかし二度 とは地上に下りてはこないだらうあの星へまで、彼は、 悔恨(くわいこん)にも似た一条の水脈のやうなものを、あとかたもな い虚空(こくう)の中に永く見まもってゐた。 (つづく)
2018.03.27
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平成30年3月26日(月) 詩集「測量船」:三好達治(27) 夜(2) その夜、年若い邏卒(らそつ)は草の間に落ちて眠ってゐる一つ の青い星を拾った。それはひいやりと手のひらに滲(し)み、 あたりを蛍光(けいくわう)に染めて闇の中に彼の姿を浮ばせた。あや しんで彼が空を仰いだとき、とある星座の鍵がひととこ ろ青い蕾(ボタン)を喪(うしな)ってほのかに白く霞(かす)んでゐた。そこで彼は いそいで睡ってゐる星を深い麻酔(ますゐ)から呼びさまし、蛍を 放すときのやうな軽い指さきの力でそれを空へと還して、 やった。星は眩(まば)ゆい光を放ち、初めは大きく揺れながら やがては一直線に、束(つか)の間の夢のやうにもとの座に帰っ てしまった。 (つづく)
2018.03.26
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平成30年3月25日(日) 詩集「測量船」:三好達治(26) 夜(1) 柝(たく)の音は街の胸壁(きょうへき)に沿って夜どほし規則ただしく響い てゐた。それは幾囘となく人人の睡眠の周囲を廻(め)ぐり、 遠い地平に夜明けを呼びながら、ますます冴(さ)えて鳴り、 さまざまの方向に谺(こだま)をかへしてゐた。 (つづく)
2018.03.25
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平成30年3月24日(土) 詩集「測量船」:三好達治(25) 庭 太陽はまだ暗い倉庫に遮(さへ)られて、霜の置いた庭は紫 いろにひろびろと冷い影の底にあった。その朝私の 拾ったものは凍死した一羽の鴉(からす)であった。かたくなな翼 を錘(つむ)の形にたたむで、灰色の瞼をとぢてゐた。それを抛(な) げてみると、枯れた芝生に落ちてあっけない音をたてた。 近づいて見ると、しづかに血を流してゐた。 晴れてゆく空のどこかから、また鴉の啼くのが聞えた。(つづく)
2018.03.24
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平成30年3月23日(金) 詩集「測量船」:三好達治(24) 鴉(3) ――飛べ! 私は促(うなが)されて土を蹴(け)った。私の心は急に怒りに満ち溢 れ、鋭い悲哀に貫(つらぬ)かれて、ただひたすらにこの屈辱(くつじょく)の地 をあとに、あてもなく一直線に翔(かけ)っていった。感情が感 情に鞭(むち)うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い 時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北か らは遠く飛び去って、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝 福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗(しつえう)な命令の 声ではなかったか。 ――啼け! おお、今こそ私は啼くであらう。 ――啼け! ――よろしい、私は啼く。 そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は 啼いてゐた。 ――ああ、ああ、ああ、ああ、 ――ああ、ああ、ああ、ああ、 風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は 言葉を撒いてゐた。冷たいものがしきりに頬を流れて ゐた。
2018.03.23
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平成30年3月22日(木) 詩集「測量船」:三好達治(23) 鴉(2) ――お前の着物を脱げ! 恐怖の中に私は羞恥(しうち)と微(かす)かな憤(いきどほ)りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従った。するとその声はなほ冷やかに、 ――裸になれ!その上衣を拾って着よ! と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨(みじ)めな姿に上衣を羽織って風の中に曝(さら)されてゐた。私の心は敗北に用意をした。 ――飛べ! しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧(かへり)みた。は長い翼になって両腋(りやうわき)の畳(たた)まれ、鱗(うろこ)をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。 (つづく)
2018.03.22
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平成30年3月21日(水)詩集「測量船」:三好達治(22)鴉(1) 風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯(はて)しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖(そで)を捉へ裾(すそ)をめぐり、そしてまたその荒(すさ)まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。――とまれ! 私は立ちどまって周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。(つづく)
2018.03.21
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平成30年3月20日(火)詩集「測量船」:三好達治(21)冬の日冬の日 しづかに泪(なみだ)をながしぬ泪をながせば山のかたちさへ冴(さ)え冴えと澄み空はさ青に小さき雲の流れたり音もなく人はみなたつきのかたにいそしむをわれが上にもときいとなみのあれかしとかくは願ひわが泪ひとりぬぐはれぬ今は世におしなべていちじるしきものなく――
2018.03.20
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平成30年3月19日(月)詩集「測量船」:三好達治(20) 池に向へる朝餉 水澄みふるとしもなきうすしぐれ啼く鳥の鳥のねも日にかはりけりひとり居をわびしといはむいくたびか朝餉(あさげ)の箸(はし)をやすませて魚光る眺めてあればなほさだかならねど 一日のうれひを感ず楽しきことを考へよかく思ひ 愉(たの)しさにとりすがれどもちひさき魚は水に消えかなしみばかりしたしけれ
2018.03.19
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平成30年3月18日(日) 詩集「測量船」:三好達治(19) 落葉やんで 雌鶏(めんどり)が土を掻(か)く、土を掻いては一歩すざって、ちょっ と小頸(こくび)を傾ける。時雨(しぐれ)模様に曇った空へ、雄鶏(をんどり)が叫びを あげる。下女は庭の落葉を掻き集めて、白いエプロンの、 よく働く下女だ、それに火を放つ。私の部屋は、廊下の 前に藤棚があって、昼も薄暗い。ときどきその落葉が座(ざ) 蒲団(ぶとん)の下に入ってゐた。一日、その藤棚がすっかり黄葉 を撒(ま)いてしまって、濶然(くわつぜん)と空を透かしてゐた。 飴(あめ)売りや風吹く秋の女竹 やまふ人の今日鋏(はさみ)する柘榴(ざくろ)かな 病を養って伊豆に客となる梶井基次郎君より返書あり、 柘榴の句は鋏するのところ、剪定(せんてい)の意なりや収穫の意な りや、弁(べん)じ難しとお咎(とが)め蒙(かうむ)った。重ねて、 一つのみ時雨(しぐれ)に赤き柘榴かな そして私も、自(みずか)らの微痣(びやう)の篤(あつ)からんことを怖れて、あわ ただしく故郷へ帰った。そこにも同じ果実が熟してゐた。 海の藍柘榴(ざくろ)日に日に割るるのみ 冬浅き軍鶏(しやも)のけづめのよごれかな 二三度母のお小言を聞いて、そして全く冬になった。或は家居し、或は海辺をさ迷ひながら。 冬といふ壁にしづもる棕櫚(しゆろ)の影 冬といふ日向に鶏(とり)の坐りけり 落葉やんで鶏の眼に海うつるらし (つづく)
2018.03.18
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平成30年3月17日(土) 詩集「測量船」:三好達治(18) 秋夜弄筆日かず経て呼子鳥(よぶことり)啼(な)かずなりしを、それかともききあやしみて外のもに出づれば、音に澄みて鳴けるは遠き蟋(こほ)蟀(ろぎ)なりけり。柿の実したたかに石に落ち、空を仰ぐに風早く雲飛んで月もまた飛ぶこと早し。野に瀟殺(せうさつ)の兆(きざし)ありて客心を痛ましめ、夜頃を宿のほとりに、我は秋蚕(しうさん)の匂ひあるなかをさまよひぬ。また室に帰りて怠(おこた)りて弓臥(きゆうが)するに、時はなほ衣手(ころもで)のうすきを喞(かこ)つに早けれども――。 ひときはは凩(こがらし)ちかきひぢ枕 また時ありて山雨(さんう)のわづかにたばしり去るを前庭のひろきに知りぬ。 楠天の葉うらも白き月夜かな (つづく)
2018.03.17
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平成30年3月16日(金) 詩集「測量船」:三好達治(17) 街(3) 昔、この街を営むために、彼等の祖先は山脈のどちらの方角を分けてやって来たのであらうか。この街の出来あがった日、彼等の敵は再び山脈のどちらの方角を分けてやってきたのであらうか。そして、この胸壁が如何(いか)に激しい戦を隔てて二分したのであらうか。それら総(すべ)ての歴史は気にもとめずに忘れられ、人人はひたすらに変りない習慣に従って、彼等の祖先と同じ形の食器から同じ黄色い食物を摂(と)り、野に同じ種を播(ま)き、身に同じ衣をまとひ、頭に同じ髷(まげ)同じ冠(かんむり)を伝へてゐる。それが彼等の掟(おきて)ででもあるかの如く、彼等は常に懶惰(らんだ)であり、時を定めず睡眠を貪(むさぼ)り、夢の断えまに立ちあがっては、厚い胸を張り、ごろごろと喉(のど)を鳴らして多量の水を飲みほすのである、気流がはげしく乾燥してゐるために。 やがて夜が来たとき、満潮に呑まれる珊瑚礁(さんごせう)のやうに、暗黒と沈黙の圧力の中に、どんなに暗く、この街は溺(おぼ)れさり沈みさるのであらうか。そしてその中で、どんな形の器にどのやうな灯火がともされるのであらうか。もしくは灯火の用とてもないのであらうか。私はそれを知らない。今も私は、時として追憶の峠に立って、遠くにこの街を眺めるのであるが、私の記憶は、いつも、太陽の沈む方へといそいで帰ってしまふのである。(つづく)
2018.03.16
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平成30年3月15日(木) 詩集「測量船」:三好達治(17) 街(2) 崩れるがままに崩れ落ちて行く胸壁の上に、または 茂るがままにうら白く茂ってゐる楊の中に、鵲(かささぎ)は乗り、 飛びかひ、白い斑(まだら)のある長い尾を振り、終日石を敲(たた)くや うな叫びをあげてゐる。なほその上にも、たまたま月が 上旬の終りに近く、その一抹の半円を、遠く散在する粟(あわ) 畑玉蜀黍(たうもろこし)畑の上、骨だった山脈の上、杳(はる)かな昼の一点に 傾けてゐるとしたならば、人はみな、荒涼(くわうりやう)たる風景を浪 うち覆ふ、嘗(かつ)て如何(いか)なる文化も手を触れなかった寂寥(せきれう)の 中に、おのがじしそのよるべなき運命を一瞬にして身に 知り歎くであらう。そしてこの胸壁を周(めぐ)らした小さな街 は、四囲の寂寥をしてさらに悲しきものとするために、 時ありて幾条か、静かに炊爨(すゐさん)の煙を空に炷(た)くのである。 (つづく)
2018.03.15
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平成30年3月14日(水) 詩集「測量船」:三好達治(16) 街(1) 山間の盆地が、その傷(いた)ましい、荒蕪(くわうぶ)な杯盤(はいばん)の上に、祈 念の如くに空に擎(ささ)げてゐる一つの小さな街。夜ごとに音 もなく崩(くづ)れてゆく胸壁(きようへき)によって、正方形に劃(かぎ)られてゐる 一つの小さな街。その四方に楊(やなぎ)の並木が、枝深く、すぎ 去った幾世紀の影を与へてゐる。今も明方には、颯々(さつさつ)と 野分(のわき)のやうな羽音を落して、その上を水色の鶴が渡って 行く、昼はこの街の桜門(ろうもん)から、鳴き叫ぶ豚の列が走りい で、転がり、しきりにその痩(や)せた黒い姿を、灌木と雑草 の平野の中にけしてしまふ。もしもその時、異様な哀音 の軋(きし)るのを遠くに聞くならば、時をへて並木の影に、小 さな二輪車が丘のやうな赭牛(あかうし)の項(うなじ)に牽(ひ)かれて、夏ならば 瓜(うり)を積み、秋ならば薪(まき)を載せ、徐(おもむ)ろに、桜門の方へと歩 み去るのを見るだらう。木の肌も黒く古びてしまった桜 門の、楯形(たてがた)に空を見透かす格子の中に、今は鳴ることす らも忘れてしまった小さな鐘が、沈黙の昔ながらの威厳 をもって、ほのかに暗く、穹窿(きゅうりゅう)をなした天井に浮んでゐ る。(つづく)
2018.03.14
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平成30年3月13日(火) 詩集「測量船」:三好達治(15) 峠(4) 私は注意深く煙草の火を消した。午後ははや少し遅くなってゐた。そしてこの、恐らくは行き会ふ人もないだらう行手を思ひ、草深い不案内な降り道を考へると、人人の誰からも遠く離れた私の鳥のやうな自由な時間も、やはりあわただしく立ちあがらなければならないのを味気なく感じた。既(すで)に旅の日数は重なってゐた。私は旅情に病(やまひ)の如(ごと)き悲哀を感じてゐた。しかし私にあって今日旅を行く心は、ただ左右の風物に身を托して行く行く季節を謳(うた)った古人の心でなければならない。もうすぐに海がみえるであらう。それだのに私の心の、何と秋に痛み易いことか―― ああ、その海辺の村の松風を聴き、暗い旅籠(はたご)の湯にひたり、そこの窓に岬を眺めよう、その岬に陽の落ちないうちに――。そして私は心に打ち寄せる浪の音を聞いた。私は峠を下った。 (つづく)
2018.03.13
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