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6月20日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(18)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(18) わたしなどには、こういうお節介好きの商人のほうが有難いのですが、ことクスリに関するかぎり、いっぱい抱えていないと、どうも心細い。だから、「こんなことでは、困るなァ、日本から取り寄せなければ、どうにもならないなァ、面倒なことよノオ」と、いささか憂鬱になっていましたところ、そこはよくしたもので、トットコ、トットコと歩いていますうちに、とてもいい綜合ヴィタミン剤や綜合感冒錠を気前よく売ってくれる店を見つけました。日本のものに比べると三倍くらいの値段ですし、それに乱売合戦などという気の利いた催しがありませんために、たいへん高くつきますが、それでも日本から航空便で取り寄せることを思えば、うんと廉いはずです。思いきって五万円ぶんほど、いっぺんに仕入れましたので、これで安心をして冬を迎えることができます。君たちも安心して下さい。 (つづく)
2024.06.20
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6月20日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(356)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(8)(前日)どんな人生行路も他の人のそれとまったく同じ過程をたどるものではなく、また、一見いかにも自然にみえる段階でも、しばしば逆の順序をとっていることがあります。たとえば、青年時代に老成した人が、年取って初めて精神的青春を持つような例もあるのです。(よりつづく)しかし、内的に健全な人間生活であるならば、必ず明らかに認められるようななんらかの発展をともないます。一方また、その発達の途中でまったく気まぐれな飛躍や中断が起こると言うこともないのです。しかし、それと同時に、まったく模範的に経過する生涯は滅多にあるものではなく、どの人の生涯にも、避ければ避けられた過ちがあり、あとからではもはや埋めることのできないすき間があるものです。 (つづく)
2024.06.20
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6月20日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。智者いずくにある智者はどこにいるのであろうか、学者はどこにいるのであろうか、聖者はどこにいるのであろうか、君子はどこにいるのいるのであろうか。わが国にはいません、かといって外国にもおりません、そうです全世界を探してもどこにもおりません。智者は天にいらっしゃいます、神と共にいらっしゃいます、いや彼が神そのものなのです、イエスキリストその人なのです。イエスキリストこそが智慧であり聡明(さとり)なのです。彼に至らなければ光はないのです。わたしが何をしようと、四方八方探し回わろうと智者を探しえないのです。キリストはわたしたちの天上にいらっしゃるとともにわたしたちの心にもいらっしゃるのです。わたしはイエスキリストにより、自分自身はもちろんのこと全世界をその光で照らそうと決心したのです。
2024.06.20
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6月19日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(17)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(17)だいたいが、この国の商人というのは、このクスリヤのオバサンに限らず、お客であるわたしに対して、ツベコベ、ツベコベと、お説教を試みようとする習癖がある。夕方に、ヤオヤで卵を四個書おうとしましたら、 「オマエハ、コノ卵ヲ四個トモ今夜カ明朝ニ食ベテシマウノカ?」と聞くのです。 「今夜ニ一ツ、明朝ニ一ツ…」と答えると、 「ソレナラバ、二個ニシテオクガイイ、無駄ナコトダ。アスニナレバ新シイ、卵ガクル、ソシテコノ卵ハ、半ペンス値ガサガル」と言う。 「では、ソウスルヨ」と答えると、さも満足そうにニッコリ笑って、「ベェリ、グウド」と誉めてくれました。店に入ると、たいていの場合、“May I help you?”と言いながら歩み寄ってくるから、売りたくないのでもないようですが、専門家としての自負心をもっているというのか、国民性のしからしめるところなのか、妙にカウンセラー気どりのところがあります。 (つづく)
2024.06.19
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6月19日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(356)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(8)(前日)この場合まず第一に言いうることは、どのような人生行路にもすべて段階があるということです。そして、およそ価値ある生涯ならば、たとえば牧場をさらさらと流れる澄んだ小川のようにまるで変化のないものではなく、あるいは、人工の運河のように始めから終りまで一直線に走ってゆくものでもないということです。(よりつづく)どんな人生行路も他の人のそれとまったく同じ過程をたどるものではなく、また、一見いかにも自然にみえる段階でも、しばしば逆の順序をとっていることがあります。たとえば、青年時代に老成した人が、年取って初めて精神的青春を持つような例もあるのです。 (つづく)
2024.06.19
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解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。独立教会の建設監督より建てられた協会があります。宣教師によって立てられた教会があります。しかしわたしたちは神の聖書を直に学んで神によって教会を建てようと思っているのです。聖書はドイツにルーテル教会を生みました、英国においてはメソヂスト教会を生みました。そういう同じ力が日本においても、純粋な日本独自の教会を生まないわけはありません。わたしたちは、外国の人たちの助けをうけず日本人だけで強固なキリストの教会を建てることが出来ると信じるのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.19
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6月18日(火)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(16)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(16)ここ英国は、さすがに名にし負うスモッグの国だけあって、日本で言えば浅田飴のようなノドのオクスリだけは、タバコ屋の店頭にまで色とりどりの箱に入って並べたてられておりますものの、クスリらしいクスリとなると、入手が仲々に面倒です。クスリ屋の店先で簡単に買えるものはと言えば、カゼグスリならアスピリン、保健剤ならエビオスやワカモトなみの酵母剤の程度であって、それ以上のクスリになると医者の処方箋が必要らしい。『ドリクソン』という名のビタミンC発泡錠(十錠入り)を、やっと売ってもらい、これが大層気に入ったので、八日目に、「ザ・リドクソン・イズ・ナイス」と呟きながら二個目を買い求めに出かけましたところ、アレハ、一日ニ、一錠ノメバ充分ダト、言ッテオイタデハアリマセンカ。ナクナルノガ早スギマスゥ」と、叱られてしまいました。 (つづく)
2024.06.18
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6月18日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(355)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(7)(前日)それは、これまでたくさんの人が歩いた道でありながら、しかし誰にもよくわからないこの人生の道の途中で、旅人が疲れかかると元気をつけてやり、また、今の道を歩き続けるのが不安になり、予想した方向から逸(そ)れたような気がする時その迷いを解いてやるのに、役に立つでしょう。(よりつづく) この場合まず第一にいいうることは、どのような人生行路にもすべて段階があるということです。そして、およそ価値ある生涯ならば、たとえば牧場をさらさらと流れる澄んだ小川のようにまるで変化のないものではなく、あるいは、人工の運河のように始めから終りまで一直線に走ってゆくものでもないということです。 (つづく)
2024.06.18
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6月18日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。効果ある禁酒禁煙自分の力の不足を感じる人が刺激物を必要とします、たとえばタバコのようなあるいはアルコールのようなものです。これらは、生きるのに疲れた人によって用いられます。しかし、これらは力の源である主に接してまったく要のないものとなります。わたしたちは、「神に酔う」快楽を知って、酒に酔う快楽を忘れます。わたしたちの禁酒禁煙は義務として強制されるのではなく、不必要となるのです。まったく必要を感じなくあってはじめて、わたしたちは禁酒禁煙をつづけることが出来ます。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.18
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6月17日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(15)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(15)ところで、カゼで思い出しましたが、天地自然の摂理がどうの、自然科学が害毒がどうのと、偉そうな御託(ごたく)を並べたてながら、このわたしには、四年生の諸君なら御承知のとおり、クスリを浴びるほどに服むという甚だもって憂慮すべき道楽があり、日本に居るときにも、月に四、五千円はクスリ代に充てておりました。クスリとは言っても保健剤にカゼ薬の程度ですが、新聞広告を見ると、あれもこれも、みんな試用してみたくなるのだから始末がわるい。 そこで、こちらに参りますさいにも、どのメーカーにも不公平にならないようにと、一通りの銘柄を、ことごとく取り揃え、金額にして二万円ぶんくらいは用意してきました。もしも税関でスウツケースを開けさせられていたら、「こいつクスリの注文とりではあるまいか」と、きっと怪しまれたことでしょうネ。しかし、あんなにたくさん用意してきたはずのクスリ類も、ほかにこれと言って口に合う物とてない英国の生活ゆえ、主食がわりにポリポリと食べておりますうち、もうすっかり平らげてしまいました。 (つづく)
2024.06.17
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6月17日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(354)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(6)(前日)伝記作者がその体験の意味すら十分に理解しえない場合があるからです。一方そうした体験を物語うるはずの自叙伝も、たいてい、著者の虚栄心によって汚されていて、時には、逆に伝記のなかで最も真実の少ないものとなっています。(よりつづく)ですから、このような著作では個人的性格が強く出ており、人生の正しい道を行く「方法」といったものはおよそ存在しないのだ、と考えて大体さしつかえないでしょう。なおこの場合でも、最も役立つものは、おそらく、すぐれた人たちがたまたま残したごく実際的な言葉でしょう。それは、これまでたくさんの人が歩いた道でありながら、しかし誰にもよくわからないこの人生の道の途中で、旅人が疲れかかると元気をつけてやり、また、今の道を歩き続けるのが不安になり、予想した方向から逸それたような気がする時その迷いを解いてやるのに、役に立つでしょう。 (つづく)
2024.06.17
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6月17日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。隷属の民武力をもって勝利しても、もし霊魂でもって勝つのでなかったら我々は勝者ではなく、負けて隷属している人民であります。もし信仰でもって独立していないなら、わたしたちの独立は偽りの独立です。わたしたちは欧米の将校を自分達の国の陸海空軍のトップにするだろうか。しないであろう、しかし、自分達の霊魂をわたしたちは欧米人の牧師のもとに置いているではありませんか。恥じるべきことです。日本の多くのキリスト信者たちは、いまだ自立の人民ではなく、欧米人に隷属する人民と言うべきでありましょう。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.17
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6月16日(日)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(14)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(14) わたしたちは、いまや即刻、宇宙そのものに主体をおく東洋的な世界観に立ち帰るべきです。東洋思想の下にあっては、人間と自然との対決といったような思い上がったことは、もともと考えられぬ性質の事柄であり、自然というものは、人間にとってその故郷(ふるさと)をなすものとして観念されてきたはずです。虫の声云々から、一転、二転して、いやに大袈裟な話になってしまいましたけれど、とにかくコンクリートは、いけないなァ。わたしは、このヨーロッパへ『会計学と風土』の研究に罷り越してきておりますものの、「風」のほうだけは、毎日フトコロのなかにまで吹きこんでくるために充分に堪能(たんのう)させて戴いておりますが、「土」にゼンゼン恵まれないために、研究がアンバランスになり、とても苦労をしておりますの。 (つづく)
2024.06.16
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6月16日(日)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(353)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(5)(前日)彼の論文には、人生におけるより高貴なものを目ざす自然の健全な常識が、ゆたかに含まれています。そして、このような健全な常識を青年の心に育てあげるのが、いわゆる「古典的教養」の、何物にもかえがたい主要な目的なのです。(よりつづく) こういう種類の著作で比較的後世のものとしては、イギリスの偉大な清教徒時代の作品であるバンヤンの「天路暦程」と、その約百年前に書かれたユング・シュティリンクの「郷愁」とをあげることができます。元来、すぐれた人々の伝記というものは、同時代の人や後世の人のために、人生の道案内の役目を果たすべきものでしょう。しかし、残念ながら、この種の著作ですぐれたものや、完全に真実なものはほとんど無いのが実情です。なぜなら、伝記作者は、彼らによって描かれる人物の最も内密な体験を知っているとは限らないからです。しかも、そうした体験はしばしば小さな出来事でありながら大きな結果を伴うことがあったりして、伝記作者がその体験の意味すら十分に理解しえない場合があるからです。一方そうした体験を物語うるはずの自叙伝も、たいてい、著者の虚栄心によって汚されていて、時には、逆に伝記のなかで最も真実の少ないものとなっています。 (つづく)
2024.06.16
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6月16日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。ただキリストに聴かんのみトルストイ一人の偉大さはロシア一億三千万人の人々より大でありましょう。キリスト一人の偉大さも世界中の十三億人の人々より大でありましょう。今、アメリカのルーズベルトとイギリスのチェンバレンは戦争が世の中に益をもたらすのだと言いますが、そんな説明に耳を貸す必要はありません。今、全世界の新聞記者が戦争による殺伐とした現在の状態を擁護していますが、そんなことに惑わされてはいけません。わたしたちは、ただイエスキリストが語られた数々の言葉に耳を傾ければよいのです。今、世の中がこぞって戦闘の勝利に酔っているとき、わたしたちは天からつかわされたイエスキリストの言葉によって心を鎮めなければならないのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.16
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6月15日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(13)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(13)二十世紀後半の人類というのは、やれ原水爆だの、それ人工衛星だの、ほれロケットだのと、大自然が予期してもいない珍妙なものを、さきを競って打ち上げ合い、宇宙のバランスを破壊することに懸命ですが、地表をコンクリートで覆い包んでしまうということもまた、天地自然の摂理を肯定し、これに謙虚に頭を垂れつづけ暮してきた東洋人の生き方とは、無縁のものであると申さねばなりますまい。 西洋では、古来、因果律をむしろ悪用して、自然の征服に憂き身を窶(やつ)しつづけて参りました。そしてその結果もたらされたものはと言えば、自然科学の恐るべき独走、自然科学と人文科学との深刻なアンバランス。この二十世紀に入って二度も世界大戦を経験せざるを得なかったのも、この自然科学なるものの独走に、その究極の原因があり、そこにこそ、この二十世紀後半における人間存在の不安の真の根源があると思います。 (つづく)
2024.06.15
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6月15日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(352)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(4)ストア派の人達は、その原則を奉ずる完全な賢者と、その反対の悪徳者だけしか認めないのですが、これに対して、プルタルコスは、その論文でもわかりますように、大体からいって、キケロ派の折衷主義の意味での折衷主義者です。どんな読者でもすぐ気づくように、この論文には、特に深さが欠けています。そういう深さというものは、当時まだほとんど世に知られていなかったキリスト教によって初めて道徳のなかに入ってきたのであり、また今後も常にそれによってのみ入ってくるでしょう。しかし、彼の論文には、人生におけるより高貴なものを目ざす自然の健全な常識が、ゆたかに含まれています。そして、このような健全な常識を青年の心に育てあげるのが、いわゆる「古典的教養」の、何物にもかえがたい主要な目的なのです。 (つづく)
2024.06.15
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6月15日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。思想の所在わたしは、思想を得ようと思って手当たり次第多くの本を読み終えました、しかしわたしには思想らしきものは何も得られませんでした。わたしは、ちょっとした人助けをしました、するとわたしの心に新しい思想とよべるものがどっと湧き上がってきました。それによって、わたしは知りました、思想と言うのは知識ではないことを。思想は行動でした、そうです、愛の行動でした。愛の行動がなくて真の思想と呼べるものはないでしょう。ですから、思想を求めるのであれば書籍によるよりはむしろ労働によるほうが確実に得られると思います。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.15
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6月14日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(12)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(12)因みに、よく「日本の土を踏む」などと申しますわネ。しかし、あれは、単に日本に帰り着くというだけの意味でなく、コンクリートの地面の国から土のある国に立ち戻るという、とてもとても味わいふかい言葉ですのよ。日本人は、せっかく鉄筋のアパートに入所してみても、直ちにマネービルにとりかかり、一日も速やかに庭のある家を手に入れようと努めますネ。あれは、土が恋しいからですの。その点、このロンドンでは、かりに地面に降りてみたところで、やっぱりコンクリート張りになってしまっていますから、ビルの屋根裏にお住まいになっていても、いっこうに下界を恋しいともお感じにならないようです。だから、日本でも、住宅の高層化、都市の立体化を本当に推進しようとお考えになるのであれば、下界に未練を感じさせないように地面にコンクリートを張りめぐらしてしまうくらいの心意気でないと、成功しますまい。しかし、君たちよ、地表をコンクリートで押し包み、土を封じ込めてしまうことが、果して健康的なことであるかどうか? (つづく)
2024.06.14
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6月14日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(351)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(3)(前日)用語も、もとは非常にいい意味をもっていたのに、今では大部分の人々にそうした意味は失われてしまいました。おそらく、近い将来にほかの言葉におきかえられるにちがいありません。(よりつづく) 心の段階的発展を述べたもので今なお残っている著作のうち、古典的古代から由来するものがただ一つあります。それはギリシャの哲学教授のプルタルコスのものです。彼は紀元五○年頃ポイオティアに生れ、一二○年から一三○年の間にローマで死んだ。ローマでは、ほかの仕事もしたが、のちの皇帝ハドリアヌスの師になったと伝えられています。大小百以上にも及ぶ彼の著作のうち、今日では「英雄伝」くらいしか読まれていません。これさえ、学校などでもっと読まれていいと思われるのに、それほど読まれていない。彼のその他の著作は、普通、「プルタルコス道徳論集」という総題のもとに一括されているが、そのなかで最も読む値打のあるものの一つは、トラヤヌス時代の執政官ソシウス・セネキオにささげた「道徳的進歩はいかにして認められるか」という論文です。 (つづく)
2024.06.14
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6月14日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。改心と変質キリストの真似をしてもキリストのようになれるものではありません。それは、肉体は霊魂の真似が出来ないからです。それは石が木の真似ができないのと同じことです。われわれは、キリストのように変わることは出来ません。すなわち、うわべだけキリストのようになることはできません。ただ、やみくもに更正するのではなく、実験的に自分を改造するのです。キリスト信者とは単に心でキリストを信じる人間です。そうではなく、「キリストによって、新しく造り直された人間」で、キリストの性質を身に帯びた人間になるのです。救済は単なる心を改めることでなくて心が変質することです。キリストと同じように永遠に生きながらえるほどの霊魂と体を具える人間になることです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.14
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6月13日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(11)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(11) まあ、そのことは、いずれ詳しく御説明申上げるとして、要するに、ロンドンに虫とは、あまりにも超現実的であって、残念ながら頂きかねます。尤も、このロンドンだとて、蠅くらいなら目につきますワ。しかし、秋の虫などという風流なものは一匹もいませんの。土が殆んどなく、あたり一面、カチンカチンのコンクリートづくめですもの、育つはずがないではありませんか。土が欲しいなァ。土の香りを嗅ぎたいなァ。 (つづく)
2024.06.13
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6月13日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(350)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(2)(前日)以前から、たいていの説教が、人間的存在の到達しうる理想の状態をそれぞれかなり詳しく描いてみせながら、そこに到る道をはっきりと示すことが出来ない欠陥がありました。(よりつづく)しかし、本来こうしたことをすること(理想に到る道を示すこと)、しかも、いくぶん個人的な道案内をすることこそ、教会が現代の人々のために果たすべき使命でしょう。これが、つまり「魂の世話」という、わたしたちとしてはいささか頂きかねる名でよばれているところの、教会の仕事なのです。そういう魂の世話がまだとにかく行われている場合にも、今の教会では、それがあまりにも営業的とは言わないまでも、ひどく職業的になってしまっています。自由と個性とがとりわけ大切な、このような内面的な事柄においてさえ、一種の技術がつくりあげられてしまって、それに関する用語も、もとは非常にいい意味をもっていたのに、今では大部分の人々にそうした意味はうしなわれてしまいました。おそらく、近い将来にほかの言葉におきかえられるにちがいありません。 (つづく)
2024.06.13
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6月13日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。新生物学キリスト教は道徳を学ぶものではありません、むしろ生物学といえるでしょう。道徳を伝えて人を教えようとするのではありません、イエスキリストの全生命を投げ出して人を教えようとするのです。イエスが次のようなことを言っていますが、言葉の表面的な意味だけで驚いたり拒否したりしてはならないのです。「イエスキリストいいけるは誠に実(まこと)になんじらに告げん、もし人の子(キリスト自身のこと)の肉を食わず、その血を飲まざればなんじらに生命なし」(ヨハネ伝六章五十三節)。キリストは道徳という薬を処方して人の心の病を癒そうとはしません、神様自らの生きている命を与えて人の心の病気を追い出すのです。キリストは人間の罪悪を清める血清療法です。神様の生命力でもって人間の死に打ち勝つ方法です。しかし、残念ながらキリストの教えをこのように理解出来る人は大変少ないのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.13
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6月12日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(10)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(10)拝啓 先月の二〇日ごろに早くも寒波に見舞われてしまったロンドンですが、その後は気温が、多少もち直しました。しかし、空模様は、ますます不景気なことで、あれほどに鮮やかな色をみせてくれていたゼラニュームの花びらも、このところ、めっきり精彩を欠きはじめつつあります。 どなたかが、「先生も、近頃は、ロンドンで虫の声に耳をかたむけておいでのことと思います」だなんて書いて下さっていますけれど、君たちは、どうして、このように少しずつズレたことばかり仰るのでしょうネ。尤も、明治のはじめに、いちはやく日本の『小学唱歌集』に採り入れられた『庭の千草』(The Last Rose of Summer)や『故郷の空』(Comin’ thru’ the Rye)にも、♪庭の千草も虫の音も…だとか、♪月影落ちて鈴虫鳴く…だとかと、たしかに虫が登場しています。しかし、一口に英国の民謡だとは言え、前者はアイルランド、後者はスコットランドの民謡にほかならず、もともとこの英国というのは連合王国ですから、アイルランドもスコットランドも、ロンドンのあるイングランドから見れば、半ば外国のようなところですの。 (つづく)
2024.06.12
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6月12日(水)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(349)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。人生の階段(1) わたしたちの内的生活をいくつかの段階にわけて説明したり、または、いろんな駅や滞在地を経て、さまざまの障害に出会ったりする旅行にたとえて述べようとする考えは古くからのもので、実際非常にもっともな考え方です。それにもかかわらず、そういう記述で、現代の要求、ことに教養のある階級の要求に適合するものは、なかなか見当たりません。また、以前から、たいていの説教が、人間的存在の到達しうる理想の状態をそれぞれかなり詳しく描いてみせながら、そこに到る道をはっきりと示すことが出来ない欠陥がありました。 (つづく)
2024.06.12
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6月12日(水)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。天才と聖霊天から授かる天才は慕うべきすばらしいものです。しかしながら、天から与えられる聖霊のすばらしさにはとても及びません。天才は一時的な贈り物ですので、使ってしまえばなくなってしまいます。しかし、聖霊は終身年金のようなものです、死ぬまで受けられるのです。天才はごく限られた人にしか与えられませんが、聖霊は誰でも受けることができます。天才はむしろ神様を拒否する人に与えられ、聖霊は天の父なる神様を信じその愛にすべてをおまかせする人に与えられます。天才は貴族的であるのに対し、聖霊は平民的です。だからわれわれは心を低く保ち、天より恩恵を受けられるよう願うことです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.12
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6月11日(火)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(9)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(9)ただ、それら既成の学問が徒らに実用知識の城に低迷することなく、科学としてのこんにちの体系を整えあげることのできたのは、それにかかわりをもつすべてのひとびとが、そのときどきの当面の問題点の解決策の案出にあまんじることなく、志操を高くもち、幾代にも亘って終始地道な沈潜をつづけたればこそであります。やがては、まぎれもなく二十一世紀の科学としての光栄を荷うことであろう会計学の座に連なる君たちが、自己の専攻する学問に誇りと愛情とをもって、日々たくましくその究明に献身して下さるよう、ここロンドンの空の下から切にお願いをしてやみません。それでは、けさは、とりあえず、これまで。 不一 九月五日 あさ (つづく)
2024.06.11
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6月11日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(348)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(50)(前日)そうした道を歩けば、時としてなお「道に獅子」が待ち伏せしていることもあります。しかし、この論文で勧められる小径には、そのようなおそろしいものは出て来ないのです。(よりつづく)いうまでもなくあなたは、つねに決意する用意をおこたってはいけません。なぜなら、ただ「勝利を得る人のみが、これらのものを受け継ぐでしょう」。不決断な人は、まったくの無信仰者と同じく、どんなに都合よくいった場合でも、その人格的生命の没落が、近くかつ確実に、予期されるだけです。 (つづく)
2024.06.11
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6月11日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。奇異なる現象今日、非戦論者は無神論者の中に多く、キリスト教信者は概して主戦論者が多くおります。神様などいないという者が平和を唱え、神様は愛なりと叫ぶ者が戦争を謳歌しているのです。キリスト教は、もう陳腐なものとなったのでしょうか、あるいはキリスト教信者が堕落してしまったのでしょうか。これを解決するためには、キリスト教を捨てるか、キリスト教信者を退けるかの二つにひとつです。わたしは、キリスト教は捨てることは絶対にしません、ですから、止むを得ないことですが、今日の世の中のキリスト教信者と言っている人たちを排除したいと思うのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.11
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6月10日(月)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(8)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(8)さて、お説教はこれくらいにして、きょうはゼミナール再開の初日のことでもあるから、ガウンの襟と袖とを正して、ひとつ励ましの言葉をも申しおくっておきたいと思う。 君たちが専攻されつつある会計学というのは、いまだ未成熟の段階にあるとは言え、あたらしい社会秩序の形成に役立ちうる実に豊かな学問領域をもっているのです。天文学→宇宙物理学→理論物理学と発展してきた自然科学にしたところで、その発端にあっては、どのような気象の下で種子を蒔くべきかということを知るための、農耕上の必要からは発足したものにほかならなかったのであり、学問的な関心の芽生え出るに至る最初のいとぐちというものは、おしなべて、そのような卑近な願望からであります。 (つづく)
2024.06.10
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6月10日(月)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(347)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(49)(前日)あなたたちもまた、そのような衝動を多かれ少なかれ感じているでしょう。そうでなければ、同じようにその衝動から生れたこの本を手にすることはなかったでしょう。いずれにしましても、そうした衝動を手軽に追い払ってはいけません。その衝動は、あなたの本質のよりよい部分から発しているからです。(よりつづく)むしろ、みなさんは次のような一つの助言を受け容れてください。つまり、まずキリスト教の序説、つまりキリスト教が自明だとしているその前提条件を、いっそう綿密に吟味してください。そして、ある限りの力でその条件に沿って生きようと決心することができましたら、その上で初めて、キリスト教の教義を学ぶのです。たしかに、今話したことと反対の行き方が世間普通のものであり、わたしたちの学校や教会の宗教教育で一般に指示される道もまたそうです。しかし、そうした道を歩けば、時としてなお「道に獅子」が待ち伏せしていることもあります。しかし、この論文で勧められる小径には、そのようなおそろしいものは出て来ないのです。 (つづく)
2024.06.10
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6月10日(月)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。世論と神意 世論は神様からの声だと思ったら大間違いです。神様の声はつねに世論に反対します。昔の預言者はことごとく世論の反抗者と言ってもいいでしょう。人類とはそもそも何者でしょうか。聖書にいわく「主天より人の子を望みて、悟る者、神を研(あず)ぬる者ありやと見給いしに、みな叛き出でてことごとく腐れたり、善をなす者なし、一人もなし」と(詩篇十四篇ニ、三節)。神様に叛き神様より去った人類の世論は神意をつたえるものではありません。私は、神様の言葉であります聖書に耳を傾けて、悪人が多数占める社会の世論なぞには従いません。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.10
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6月9日(日)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(346)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(48)(前日)キリスト教こそ人間を幸福にするまことの、唯一の真理だと言うその高い自負が、果たして正当であるか、また、それがどこまで正当であるか、を検討しようというわけなのです。(よりつづく)読者のみなさん、あなたたちもまた、そのような衝動を多かれ少なかれ感じているでしょう。そうでなければ、同じようにその衝動からうまれたこの本を手にすることはなかったでしょう。いずれにしましても、そうした衝動を手軽に追い払ってはいけません。その衝動は、あなたの本質のよりよい部分から発しているからです。 (つづく)
2024.06.09
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6月9日(日)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。キリストによる神政の特質キリストによる政治は王政ではありません。ですから、王侯貴族は存在しません。キリストによる政治は共和制ではありません。ですから多数を頼む必要はありません。キリストによる政治は神政と呼んでいいでしょう。無形の神様による政治、無形の神様を信頼する政治です。キリストの政治は国民一人一人が真に独立をすることを奨励します。一人一人が神様とともにたとえ全世界を相手にしてもひるまない人間を作る政治です。一人一人が国を支えることができるようにする政治、国の土台、基礎をしっかりするような政治を目指します。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.09
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6月8日(土)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(6)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(6)なお、わたしがヨコハマを発った日に出来た会報(第五巻第一号)を未だに受け取っていないというOBが非常に多いのは、どういうわけなのか?こうも矢鱈にロンドンくんだりまで苦情が多く届くところを見ると、届かないのか、それとも発送していないのか。邪魔くさいから束にして、ドブかゴミタメにでも棄ててしまったと違うかい?OBが、とても憤慨しているよ。そういう心掛けだから、会費の集まりも芳しくないのよ。とにかく、万事なにごとによらず、どうもだらしがなくって、いけません。 (つづく)
2024.06.08
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6月8日(土)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(345)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(47)(前日)現世および来世にわたる大問題について、キリスト教以上の確実性を有するものはどこにも存在しないということです。(よりつづく)そしてまた、「自然科学」の往々にしてまだ極めて不確定な個々の結論に満足して、それ以上の諸問題、たとえば全体としてみた万物の関連とか、人類の生活と繁栄とを強く左右する道徳的世界法則などについての問題を、かんたんに人類の思想のなかから追放すればそれでもう十分だというわけにはいかないことは、確かです。このようなやり方は、けっして長い間にわたって成功するものではありません。いや、むしろ、このような瑣末な目標にすべてを局限する単なる現実主義の時代の後には必ず、まだ浅薄になりきれない人や、官能的世界にすっかり溺れてしまえない人たちの心に、あらためて、キリスト教の真偽をたしかめたいという衝動が押さえがたい強烈な力でわき起こってくるにちがいありません。つまり、キリスト教こそ人間を幸福にするまことの、唯一の真理だと言うその高い自負が、果たして正当であるか、また、それがどこまで正当であるか、を検討しようというわけなのです。 (つづく)
2024.06.08
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6月8日(土)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。新生命と新事業新しい事業を何かしようとあれこれ考えるよりは、新しい生き方を求めなさいと言いたいのです。新しい事業を始めるからといって必ずしも新しい生き方、新しい生命力を得たとは言えないでしょう。しかし、新しい生き方、新しい生命力を求めて得れば必ず新しい事業が伴ってくるのです。成功の秘訣を自分の外に求めるのは誤りです、自分自身の内に求めるべきなのです。そして、自分自身の内より発生した事業は常に健全です、また常に永続します。わたしが人に新しい生き方、新しい生命力を説くのはなにも宗教のためだけでなく、みなさんが事業に成功するためでもあるのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.08
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6月7日(金)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(5)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(5)普段わが身の痛いところも痒いところもないときに、「大学は就職予備校であってよいのか!」などと大見栄を切ること、これは誰にでもできる、いとも幼稚なことなのよ。要は、ゼミナールの行事を棄てるか、それともゼミナールとともに生きぬくか、そのいずれをという二者択一の決断を余儀なくされるような事態に自分自身が追いこまれたとき、いかに身を処し、どう行動するかにあるのです。 三年生の諸君よ、一三名のサムライよ、悪習は、いったん生じると年々歳々とめどもなく拡大しがちです。事実、一昨年よりは昨年、昨年よりは今年と、就職合戦にかこつけて合宿を袖にする人が増えてきている。悪例を先例とせず、せめて来年度の君たちは、冷静に賢明に行動してくれ給え。 (つづく)
2024.06.07
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6月7日(金)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(344)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(46)(前日)この道を終りまで歩き通した人で、一生を棒に振ったとか、そればかりか、あまりにも苦しい、まったく耐えがたい生活であったなどと、愚痴ばかりこぼした人は、幾千年来いまだ一人もなかったのです。 ところが、幸福へ到着しようとして他のさまざまな道を歩いた人で、こんにち嘆き悲しんでいないひとが一体どれだけいるでしょうか。(よりつづく)総じて人間の魂には、たえずそれがすでに超感覚的事実の信仰にはっきり心を向けている人の場合でさえも、なお時として、自分の考えや希望全体の現実性について真剣な疑念がわき起こることがあるということは、いやしくも真実を告白しようと思う人なら誰でも否定することはできません。そしてまた、他人が時折おちいるこうした疑惑を烈しく非難するような人は、決して信仰堅固な人ではないと言うことも事実です。そのような人は往々、こうして他人を糾弾する熱意によって、むしろ自分の心にきざす疑念をしいて押えつけようとするのに過ぎない場合があります。けれども、そうした懐疑的瞬間においてもなお、次ぎのことだけは疑うわけにはいきません。すなわち、現世および来世にわたる大問題について、キリスト教以上の確実性を有するものはどこにも存在しないということです。 (つづく)
2024.06.07
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6月7日(金)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。聖徒の交際わたしはこの地上で一人神様を愛しているのではありません。わたしは、わたしと同じような心をもった世界中の人、そう聖徒とともに神を愛しているのです。たとえ身近におなじ心を持つ人が居ないからといって恨みごとを言ったりしてはいけません。わたしと同じ心の人は世界中にはたくさんおります。正しいキリスト信者は主のもとに一体です。その人たちの祈りは世界の方々から天の神に向って上ってゆくのです。そして、わたしたち聖徒はたとえ世界中に散らばっていても、主の指導のもとに同じように行動しているのです。ですから、どんな境遇におかれても孤独な心を持つ必要がないのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.07
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6月6日(木)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(4)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(4)なお、今年は例年以上に就職状況が好調のようであり、その点はまことに御同慶に堪えませんが、とりわけ合宿に参加した人のほうが順調に決ったというのは、どういうことかね。毎年、口がすっぱくなるほど申し上げているように、天は、運命に逆らわないで誠実に生きる人たちにこそ、幸いするものなのです。かりに、志望会社の試験日とゼミナールの合宿とが、ちょどかち合うという、最悪のケースに遭遇した場合にでも、合宿の日取りのほうが、二ヶ月三ヶ月も前に決ってしまっているのです。ジタバタしないで、むしろそれを天命として肯定し、あくまでも合宿のほうを優先的に考えようとする心掛けの人――、そういう人に対しては、天は必ず味方をするものなのです。そういう人が惨めな結果に陥るほど、この世の中は不公平に出来てはいないはずです。 (つづく)
2024.06.06
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6月6日(木)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(343)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(45)(前日)大事なのは、人間および天性の力に関するキリスト教本来の冷静な見解なのです。必要なのは実践です、そうすれば、信仰の進歩は自然と生じるのです。(よりつづく)ですから魂よ、君は、ありふれた世俗的生活の、とうてい満足をうる見込みのない迷路を脱け出して、あらゆる幸福への道のうちこの最も簡単にして最上の道にたどりつきながら、なおもためらって、キリスト教の玄関に実際にはいりかねています。――それはおそらく、あなたがまだ十分に信頼をよせがたい人々の群れがそこにうごめいている姿を見るからでしょうが、――しかしそれでもなお、あなたは決心を固めて、思い切って入りなさい。どれほどもたたないうちに、思いきってそれをしただけの値打ちがあることだけは、少なくとも分るにちがいありません。この道からふたたび引き返す人はまれであり、また、この道を終りまで歩き通した人で、一生を棒に振ったとか、そればかりか、あまりにも苦しい、まったく耐えがたい生活であったなどと、愚痴ばかりこぼしたひとは、幾千年来いまだ一人もなかったのです。 ところが、幸福へ到着しようとして他のさまざまな道を歩いた人で、こんにち嘆き悲しんでいないひとが一体どれだけいるでしょうか。 (つづく)
2024.06.06
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6月6日(木)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。社会主義とキリストの教え社会主義というのは結局は肉の問題、物質の問題です。それに対してキリストの教えは霊の問題、精神、霊魂の問題です。社会主義は地上での問題を議論し、キリストの教えは天上での、永久の幸せについて問題にしているのです。われわれが空腹に苦しむとき食べ物を下さいと訴えるのが社会主義です。「鹿が渓水(たにみず)を慕い喘(あえぐ)ごとくわが霊魂は主の神様を慕い喘ぐなり」(詩篇四十二篇一節)、これがキリストの教えです。社会主義とキリストの教えとは天地雲泥の差があります。いかなるときも、決してこの二つのことを混同しないよう十分注意をしなさい。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.06
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6月5日(水)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(3)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(3)しかし君たちよ。秋には各種の行事も予定されていることだし、少しは、しっかりしてくれないと、困ります。ことに就職問題にかこつけて合宿を袖にした小市民派の諸君よ、君たちは、就職先さえ決れば、こんどこそは、せめて罪ほろぼしに、二人前も三人前も頑張ってくれないと、このままでは、いったいなんのためにノコノコとゼミナールに割りこんでこられたのやら、判らないではありませんか。例年であれば、秋にはゼミナール運営上の各種のバトンを三年生に申し送るという慣例になっておりますが、それは秋から冬にかけて就職試験がおこなわれることを前提にしてのことであり、そのほうのシーズンが、こう大幅に繰りあがってしまった以上、もはや引退は罷りならぬ。就職先さえ決れば、今度は心おきなくゼミナール活動に専念すべし。 (つづく)
2024.06.05
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6月5日(水)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(342)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(44)(前日)学問的に把握しようとしても、キリスト教は一層わかりにくい、疑わしいものになりがちです。それをすることは、他のあらゆる学問と何ら変わらない一個の「学問」であって、そうした研究を使命とする人達に任せてしまってさしつかえありません。だいたい、そういう学問は、ひとの内的進歩に何ら大きな貢献をなすものではありません。(よりつづく)疑いもなくキリスト教は、福音書に聖霊とよばれているあの霊を通じてのみ、完全に理解せられるのです。聖霊がどんなものであるか、わたしたちはそれを知りません。わたしたちが知りうるのはただ、それがきわめて現実的であって、わたしたちの生活にその作用がまざまざと現われ、世間で最も大切な宝とみなされているもの、欠くことのできない享楽と思われている一切のものに対して、次第次第にわたしたちを無関心にする力を持つものだということです。わたしたちはこうした自由に到達するという召命を受けているのです。果たしてそれが達成されるか、前にはたしかに疑わしく思われたこともありますが、今やキリスト教の信仰によってそれが可能となったのです。といいましても、キリスト教をただ「おもしろい」と思ったり、キリスト教の誇張された見解をおもしろいと思ったりするだけでは、だめです。大事なのは、人間および天性の力に関するキリスト教本来の冷静な見解なのです。必要なのは実践です、そうすれば、信仰の進歩は自然と生じるのです。 (つづく)
2024.06.05
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6月5日(水)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。わが唯一の武器「万軍の主宣べ給う、権力によらず、能力によらず、わが霊によるなり」と(ゼカリヤ書四章六節)。政権によらず、武力によらず、ただ神様の霊によってわたしは生きます。教会を必ずしも必要としません、神学も必ずしも必要としません、ただ神様の聖霊を必要とします。わたしの武器はただ一つこれです。わたしはこれによって、自分自身に勝ち、世の中のいかなる者にも勝ち、そうです死さえ克服しようと思うのです。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.05
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6月4日(火)山桝忠恕先生のイギリス滞在記「東も東西も西」師弟友情通信――(下)(2)同文舘発行(昭和41年)山桝忠恕著「東も東西も西」より(注)わたしは、39年40年に山桝ゼミに在籍しました。「なんとなく 申し聞かせて おきたくて」(2)就職先内定のお知らせに接し次第、皆さんのお名前の上に赤丸をつけさせて戴くべく、部屋の壁一面に大きな紙を早々(はやばや)と貼りつけ、手ぐすねひいて吉報の飛来を待っておりましたのに、Oくんが一早く最寄りの友人数名の消息を知らせてくてたのと、一、二名のかたから個人的に御報告に接しただけで、その後いっこうに赤丸が増えず、こんなことなら、もう剥がしてしまおうかと、いま少しのところで短気を起こしかけていたところでした。しかし、けさは久々に赤丸が三つ増え、悦にいっています。 (つづく)
2024.06.04
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6月4日(火)「幸福論」(ヒルティ)(第二部)(341)ヒルティ著草間平作訳 発行所 岩波書店(1935年5月15日)(注)あくまでも、訳に忠実にしていますが、簡略化や意訳や表現の変更(例えば、「…である」を「…です」に変えたり)しています。それもすべて自分自身のためです(後藤瑞義)。キリスト教序説(43)(前日)魂が自由になりたいとの衝動を持ちつづけるならば、魂はついに前進せんとする十分な意志を自分のうちに見出すような美わしい日が、神の恵みによって到来するのです。その時、魂はただちに自由となり、あとから思えば、どうしたあんなにも長い間ためらっていられたか分からないくらいです。(よりつづく)それでも、こうした十分な意志が生ずるのをいわば手をこまねいて待っているのは、間違いでしょう。キリスト教も、多くの他の事柄と同様に、研究によってではなく、それをためしてみることによって初めてまなぶことができるのです。それと反対に、キリスト教について無駄な論議をかさねることは、その精神にもっともはなはだしく背くものです。また、いわゆる学問的に把握しようとしても、キリスト教は一層わかりにくい、疑わしいものになりがちです。それをすることは、他のあらゆる学問と何ら変わらない一個の「学問」であって、そうした研究を使命とする人達に任せてしまってさしつかえありません。だいたい、そういう学問は、ひとの内的進歩に何ら大きな貢献をなすものではありません。 (つづく)
2024.06.04
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6月4日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています。また聖書の聖句にも、わたしの解釈的なものが含まれる場合があります。お手元の聖書でご確認してください。また、ここに記載されていることは、すべてわたし自身(後藤瑞義)に向けてのことです。新しき伝道農夫が農業をやめないで農夫のままで伝道する、商人が商売をやめないで商人のままで伝道をする、医師が肉体をなおしながら霊魂も救ってゆく、官吏はその職に留まって大胆にキリストの教えを表白する。神学者になる必要はありません、現在の職のままで立派な伝道者になれるのです。これからやってくる二十世紀の時代は、まさにそういう新しい伝道が必要とされるでしょう。(注)以上は、「内村鑑三所感集」(岩波書店)よりの転載です
2024.06.04
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