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3月15日(火)内村鑑三「一日一生」より(注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。発行:昭和39年教文館歓喜と希望 内村鑑三 春は来りつつある雪は降りつつある しかし春は来たりつつある寒さは強くある しかし春は来たりつつある 春は来たりつつある 春は来たりつつある 雪の降るにもかかわらず 寒さの強きにもかかわらず 春は来たりつつある 慰めよ、苦しめる友よなんじの患難(なやみ)多きにもかかわらずなんじの苦痛(いたみ)強きにもかかわらず 春はなんじにもまた来たりつつある
2022.03.15
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4月2日(火) 詩集「バタフライ効果」(34) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 仮想現実 「飛ビ交ウ蛍ニ アナタノ魂ヲ探シニ来ラレテハ如何デスカ」 長いこと忘れていた人の心に ロボットが呼びかけている 地球創成時 闇に一条の光が走ると 靄の中から水面が現れてきた やがてそれは二つに分離し 水の引けた所には黒々とした陸地が浮かんだ 鳥が飛び魚が泳ぎ 草木が生え獣が生まれ ヤハウエは その一つ一つに名前を与えた 後から生まれた 暗く混迷を続ける子孫も 神に倣って 目にする物に一つ一つ名前を与えた 呼び出すことで 所有することが叶った時代 川を海を山を そして目に見えない物にも気付いて 苦心の末 名前を付けた 後の人は 体験もイメージもない それらの名前を ただ繰り返し借りればよかった 透き透るクラゲのようにふやけてしまった言葉が ガラスの世界を押し広げている 急速に広がる世界 拡散する宇宙のように あるいは分裂するカエルの卵のように 至る所人工知能は蔓延(はびこ)り 人間は高層ビルの小さな一室で 美しい快楽に浸る 「オハヨウ ゴザイマス 穏ヤカナ ヨイ朝デスネ」 人同士の素朴な交歓を忘れている心に 今日もロボットが語り掛ける (完結)
2019.04.02
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4月1日(月) 詩集「バタフライ効果」(33) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 鏡 サイドミラーの横にとまって 小鳥がしきりに覗っている 向こう側に仲間が居るのだ せわしげに羽ばたき 透明な鏡に当たって地に落ちそうになる またやり直している 何遍も横に止まって 向こう側に入ろうとする でも、なぜ行けないのだろう あなたが来て私と一緒に遊ばないか 鏡の国のアリスのように だが小鳥には鏡というものが解らない 自分というものを 確かめたことがないのだ 鏡に映る姿が まさか自分だとは知る由もない 向こうの鳥も こちらの動きに同調している そのうち もう一羽が木の陰に来た そして仲良く何処かへと飛んで行った 鏡からは 鳥の姿も見えなくなった
2019.04.01
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3月30日(土) 詩集「バタフライ効果」(31) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 遠い日 母は治るとばかり思っていたので、癌だとは言え なかった。仕事のない日、とおい病院に母を見舞 うと、隣の患者と話をしながら笑顔で鶴などを折 っている。これからは余生を楽しく……。そう思 っている矢先であった。しかしついに、地元の病 院へと移されて来た。そばに居てもほとんど助け にはならなかったが、私は毎晩のように母を見舞 った。……苦労を掛けたよ。有難う。そう心では 言ってみても、それを口に出せない私がいた。私 はただ見守っていた。もうモルヒネも効かないの であった。 死がま近かに迫った頃、頼みごとなどしなかった 母が私に一杯の水を求めた。私には有難かった。 母から求められることがとても嬉しく、いそいそ と立ち上った。母はそれを優しい眼差しで追っ てきた。迂闊にも私は後で気付いたのである。あ の時私に水を頼んだのは、最後の最後の親孝行の 真似事をさせることで、死後悔いるだろう私の気 持ちを楽にさせようとしたのではないか、と。 いつしか私も母親の歳を越えた。時を消す淡い淡 い雪のように、庭に梅の花が散っている。
2019.03.30
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詩集「バタフライ効果」(30) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 死語 その主婦は アンケートを読み上げる私を 横に立って眺めていたが 「あなた 東京の方?」と言った 「いえ、でも近くですが」 「懐かしいわ いつもこちらの言葉に囲まれていて 久しぶりに向こうの言葉を耳にしたから…」 ここに来て何年かが経ったのだろう 異郷の空で偶然 同郷の言葉に出会った明るい主婦の心が 肌の温もりのように伝わってきた …しばらくは話していたい 私もまた田舎から出て来たばかりの ホヤホヤの学生だった 卒業してから故郷に帰ると にわか仕込みの京都弁は瞬く間に消えて行った 塩のきいた言葉の前では メッキを施された余所行の言葉など 宙に浮いた空言となった 習慣や人情、生業 それらが飲み水のように胃腸を慣らした そして 疲れて 深夜にひっそりと寝入る前など 父や祖母の使っていた言葉が 肉声となって不意に蘇ってくるのである シャボン ギヤマン おぬし あるいは人がなくなった後の追憶話に よく祖母が使っていた あの「モウチない」は 毛血無い、あるいは毛知、毛値 だったのか 時を失った祖母の遺影は ただ黙って 私を見降ろしているばかりである
2019.03.29
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3月28日(木) 詩集「バタフライ効果」(29) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 蓄える 昨夜の雨で川は溢れ 普段はのんびりとした川の流れが 逃げ惑う蛇のように川下へと下っていく これほどの水の量を 空は事も無げに抱えていたのだ 太陽が森を包み 葉は七色の光のうちから緑の光線だけを反射し あとは事も無げに蓄えている 光は幹に落ち 花や実に思わぬ色彩となって溢れ出す 自分の中の他人 他人の中にも自分 その声に私は耳を傾けていただろうか 私は心に 何人の想いを宿していただろう それは溢れ出る程には 無い だが、蓄えることで 私は自分と他人との想いを宿す 昆虫の目を手に入れるだろう 行きたくても行けない日がある 呼ばれても行かれない所が 何時かはきっと適えたいと思うのだが 今はじっと耐えるしかない 深く根に蓄えるとき
2019.03.28
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3月27日(水) 詩集「バタフライ効果」(28) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 夜明けの音 煮え立つお湯のように 淡い光がしんしんと闇を遠ざける 間もなく夜が明ける 私たちは遠くから近づいてくるバスの音を 未来の足音のように 聴いていた 戦後間もない 片田舎の 待ちに待った修学旅行 子供らは 埒もなく夢に乗せられ 親の思いとは別の 楽しい 世の中へと憧れたのだ 港には稚魚が群れて やがては外海に出かける前を 一列になり 回れ右をし あるいは蜘蛛の子のように惑いながら 春の日を楽しんでいた 人生も半ばを過ぎて しきりに思われる少年の日 あの遠くから近づいてくる淡い光が 沸き立つお湯のように しんしんと 心に広がり 母と子を大きな喜びで満たした朝を
2019.03.27
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詩集「バタフライ効果」(27) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 うそ 以前よりはマシになったが 嘘というヤツは 穏やかな日常にも小ハエのように生まれてきて 追っても払っても また舞い戻ってくる 生業は終えたのだから もう無理などする必要はないと思うが 自分以上に見せたい何かが 嘘を見栄えのよい言葉に包んで 良い恰好を繕おうとする 生きている以上 湧いてくる自愛への執念 この国に住んでいると 幾度か災害には見舞われるという 天災には逆らえない しかし人は自分なりの「減災」には努力出来ると それならば私も 幾つか嘘は減らせるだろう 罠を仕掛けたり 嫌がることをしつこく尋ねたり 相手に嘘を言わせる そんな状況だけは作りたくない それだって人への「施し」と言えるだろうから 小さな嘘 悪意のない嘘 そのようなものは 流れてゆく水のように聞く耳だといい そんな余裕が 私にも生まれているのだといい
2019.03.26
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3月25日(月) 詩集「バタフライ効果」(26) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 贈り物 私には生活を共に送る 家族というものが無くなっていた それは寝たきりの妻の苦痛から解放されて 私自身に戻っていける 安堵した時期でもあったが 二人連れが 話をしながら通りすぎていく 道端の花を見ている 私には あのように四つの眼で 同じものを眺める余裕があったろうか もう一度 その楽しみを 遠慮なく振舞い遠慮なくものが言えて でもそれは親とか兄弟 とは 違うようだ いつかは朝の陽に闇は消えて 笊のような心にも歓びは満ちるだろうか それを願い 無為とか惰性からは遠く 贈られた一人であることの自由を 私は果実のように 楽しもうとする
2019.03.25
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3月24日(日) 詩集「バタフライ効果」(25) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 夢うつつ 紅茶を淹れながら 思い出そうとしている 朝方 五感に 切ないセンセイションを巻き起こしていった夢 あれは確かにあの人だったが 親しく話しながら 打ち明けることもなかった ましてや触れることは… それでも蘇ったあの人の肌の感触よ 私を翳めていった頬の涼しさ 薹(とう)の立つ心に 薄れていく女への想いは 今頃になって かつての失楽を取り戻そうとあがいていたのだ 心臓に血をたぎらせ うつつ以上に私を歓びで満たして もしあの世に 魂があるとすれば この世の出来事なども 夢となって したことも、しなかったことも 生々しいものは火に炙られ かすかな情念だけが オーロラのように漂っていく… 死者には ただ それだけのことかも知れない この世の出来事など でも夢であっても 私が変えられていくこともあるのだ 鏡以上に私の姿を 見せつけられた朝など
2019.03.24
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3月23日(土) 詩集「バタフライ効果」(24) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 引き裂かれる神 あの時の過ちを 舞い事にしたいと思っても 無理な話です 他人に気づかれなくても 自分を裏切ったという心の負い目は 意識下で目をさましている 神がなければ 人は呵責から自由でしょうか 胡麻化さなければ 正直なだけでは 何時 割を食わされるとも判らない世の中 だからと言って 出鱈目にはなれないのですが 悪徳に出会うたびに 人は 増悪の思いに駆られる それでもなぜあの人は 自分さえも犠牲にして 赤の他人を救えたのでしょう そんな話を 被災地の人から聞いていると 人にはまだ未来を託すだけの良い資質が 残されているのだと思う それは のっぴきならない瀬戸際にしか現れない ひとりのひとりに隠されていて いざという時 竜巻のように立ちのぼってくる 何を置いても 守ろうとする種への本能 あれこそ 苦渋に引き裂かれている神の顔ではないでしょうか 己を犠牲にしてまで残そうとする すさまじい生き物の正体では
2019.03.23
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詩集「バタフライ効果」(23) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 雁 よく見ると白っぽい崖の肌の 点々とした黒い模様は休んでいる雁の群だ 呼び交すひと声とて無い 垢のように積もった痛み 一身に追い払おうと 一羽一羽おとなしく自分に戻っているのだった ひときわ白波の音が近づき 崖の向こうの冷たい空が 海辺の侘しさを押し広げている 春 また彼らは腕を組んで 玉のような汗にまみれ 一散に北を目指してこの夕空を戻るのだろう V字形の態勢を組み 次々先頭を引き継ぎながら 住み着いているカラス一羽 馬鹿にのんびりと過ぎていく夕べ 六十年前の 新生児取り違え事件が今報道されている よその親とも知らずに 病院で入れ替えられた二人 初老を迎える今になって 自分のルーツを知らされている 幸か不幸か 二人とも両親は亡くなったという 囲炉裏端で 父が話したことがあった (私は三歳で父を亡くした 写真一枚あるわけでは無く どんな顔をしていたのかもしらない)という 面影のない記憶の底に どんな寂しさを抱えていたのか 郭公(かつこう)は鶯の巣に托卵(たくらん)し 鶯は郭公の卵とも知らずに 温め孵(かえ)し 育てるという 自分の子供ではないと知っても 餌を欲しがって 口を開けば つい与えてしまうのだと 鳥たちも血のつながりを願って傷つき それでもなお 剥き出しのか弱い命に つき動かされて生きていたのだ 訳の判らない取り違えを 一身に飲み込みながら 今日も飛び立っていく鳥の強さ 渋柿には甘柿の枝 そうとも知らずに一心に実を成してきた その幻のような歳月
2019.03.22
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詩集「バタフライ効果」(22) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 耐えている馬 刻々と嵩んでくる重力 馬は 身じろぎもせず推し量っていた その眼は ざわめいている 若葉の歓びを見ない なよなよとしたやさしさを避け たてがみが梳(くしけず)られる 快感の味も忘れて 鏃のように食い込んでくる荒い鞭に 網膜までやられていた その眼は かつてもてはやされた 白馬であることを放棄し 終りのない 汗の 苦役のぬかるみを見ていた 馬よ 私のいとしいもの お前の眼にはいつからか燃えている 黒い感情がある 野に放たれた獣の逞しさがある 忘れている赤い血もある
2019.03.21
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詩集「バタフライ効果」(21) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 シカト顔 カルガモの親子が川を遡っていた 母親の後ろを追って十二の雛が泳いでいく 右に回れば 右に向き 左に向えば それに倣う 魚影濃い六月の川を 軽快なパレードを組んで川上へと向かっていた 母親がゆっくりと歩幅を変えると 生れたばかりの可愛い足が 一目散にそれに倣った みな一様にシカト顔で軽々と泳いでいたが 付いていくのは大事(おおごと)なのだ ふと母は立ち止まって 葉陰へと向きを変えた そしておっとりと 子供たちを眺めていたが 実は鷹の目を気にしてのこと 子供らは 甘えることも むさぼりも見せず 鞠のように川面に浮んで 四六時中母を見ていた 母は腹を括っている (私に付いて来られる子だけが 生き残れる術を学べる――) 非情な愛を 無表情なシカト顔に隠して 母はまた川上へと向きを変えた
2019.03.20
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詩集「バタフライ効果」(20) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 シアワセ ―機上にて― この高さでは 空の上下など消えてしまい 思い出だけがふうわりと ホタルのように昇ってくる アナタハ オクサンヤコドモカラ パパ、パパ トイワレテ トテモ キモチイイ、シアワセ 痩せたあの女の声が耳元で聞こえてくる そうか、あれがあの人たちの 先祖からの幸福感か あなたも良い人が出来るだろうから すると女は首を振って ふっと頬に愛嬌をのせた シアワセ ナレナイ シアワセ アキラメテイル そう言ってでもいるかのように 何時しか冷めてしまった夜の炎から 蝸牛のように優しさを伸ばすと かすかに背が弾んできた Attention Attention いやというほど雨が降って 外は白の無限大です あゝ、あの娘(こ)も家族にまたれていようか 土産を持ち帰る母のように… もうすぐ日本です 外は雨の無限大です
2019.03.19
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詩集「バタフライ効果」(19) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 告白 行く先は 砂金のように輝いて見えても 味わうことなど 要らなくなった静かな所 そんな所へ送られるのも後何年だろう いまさら卑下することも 自分以上に見せかける必要もない 私は私だ 心穏やかに 本音でもって生きていかれる そう思ったが 本当の自分など 何処にもいて何処にもいない 生きる以上 私はまた歪むだろう 心をしわくちゃに撓(たわ)めるだろう 後から後から顔を現わす 金時飴の顔のように 相変わらず これが私だ自分だと信じながら 遠くで砲弾の音がしている 同族を殺したことで 人は幽鬼のようにアリバイを捨て 壊され見失った行く宛てのない彼らに 「私は私」などと… だがそう念じられる 今の私は とにもかくにも 有難いことなのであります
2019.03.18
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詩集「バタフライ効果」(18) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 接ぎ木 まるでおとき話のような話だ 六十年前の 新生児取り違え事件が今報道されている よその親とも知らずに 病院で入れ替えられた二人 初老を迎える今になって 自分のルーツを知らされている 幸か不幸か 二人とも両親は亡くなったという 囲炉裏端で 父が話したことがあった (私は三歳で父を亡くした 写真一枚あるわけでは無く どんな顔をしていたのかもしらない)という 面影のない記憶の底に どんな寂しさを抱えていたのか 郭公(かつこう)は鶯の巣に托卵(たくらん)し 鶯は郭公の卵とも知らずに 温め孵(かえ)し 育てるという 自分の子供ではないと知っても 餌を欲しがって 口を開けば つい与えてしまうのだと 鳥たちも血のつながりを願って傷つき それでもなお 剥き出しのか弱い命に つき動かされて生きていたのだ 訳の判らない取り違えを 一身に飲み込みながら 今日も飛び立っていく鳥の強さ 渋柿には甘柿の枝 そうとも知らずに一心に実を成してきた その幻のような歳月
2019.03.17
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詩集「バタフライ効果」(17) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 手掛かり いちめんの薄(すすき)の野原で 人らしい影が立ち止まっている 夕方の光を浴びて 影のように薄くなったり またはっきりと現れたりする こんな所に投げ出されたら 誰だって戸惑うだろう 行く先は何処なのか どこを目指して行けばよいのか 考えてみれば みな似通っている たまたまこの世に生み落とされて 偶然という風に運ばれ 時に抗いながら 自分の顔を探している このうら寂びた風景のなか 行く手掛かりは有るのだろうか 影のような人の顔に いつ目鼻は戻るのだろう ふと見上げると 蜘蛛が一匹空を泳いでいる 下からでは そう見えるのだ あの虫でさえ 方向のない宙に浮かんで 確かな足掛かりを築こうとしている
2019.03.16
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詩集「バタフライ効果」(16) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 井戸換え 水道のない頃は 各家に井戸があって 地元の青年団が年に一度掃除に来ていた 三人一組で 空になるまで水を汲み上げ そのあと一人が井戸に入って コケ類を掻き落とす 底にたまった泥の水を掻い出しに掛かる 塞がった井戸に出会って ふとそんなことを思い出した 歳のせいか 最近発見が少ないのである 脳の表面に怠惰がじわじわと触手を広げ 無為というコケになって 言葉の回路を狭めているようだ 使わないと 井戸水もいずれは枯れてしまうというから 綺麗な水が 絶え間なく滲みだすように たまには井戸換えをしなくてはと思う どこかで警鐘が鳴っている 段々その音が大きくなる
2019.03.15
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詩集「バタフライ効果」(14) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 痛み もの言えないお前を どのように理解すればよいのだろう 言葉の出ないお前を 何とか楽にさせようとして あれこれ手足を動かしてみるが 本当は 本当の所は 見当違いかも知れない お前の苦しみはお前だけのもの 私には置き換えれない そのもどかしさが 何時も私を当惑させる だがこの溝こそ 人には貴重なものなのだろう 支配されても心だけ そう在らなければ 人であることを保てなかった奴婢たち 誰の物でもない お前だけのもの お前を眺め不憫に思う私の痛みも 私だけのもの その埋まることのない 細い溝に 今日も橋を架けようとして 私はぎこちない 手を延ばそうとする
2019.03.13
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詩集「バタフライ効果」(13) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 年の功 近頃 弱いものに出会うと 同情を寄せたくなる むき出しの〈己〉の意識が希薄化した分 心は柔軟に広がっていて 怯えている人に会えば 怖がることはないのですよと 励まして上げたくなる ぎくしゃくしないで 気持ちよく生きていかれるように ちっぽけなエゴは置いて 謀らず むり押しをせず 悪意のない言葉を 挨拶のように手渡していく 街を明るくするには 程を弁えた人間を育てていくためには 難しい心遣いなど いらない ほんの少し胸を開いて 笑顔で相手と 向かい合えればいい そんなことが ごく自然に思われる近頃 これも生きるという折り合いの中で生まれた 年の功とでもいうものであろうか
2019.03.12
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詩集「バタフライ効果」(12) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 不動 ある夏 戸隠の 忍者屋敷に出かけたことがあった 水平に走る廊下を すたすたと歩いていくと いきなり部屋が傾いて見えた 一瞬 私は目を疑った 歩いてきた廊下と 肉眼では斜めにしか見えない部屋との 日常では考えられない 線の落差 はじめから 座敷だけは斜めに造られていたのだが 廊下も部屋も水平なものと信じているから 一瞬 足が竦(すく)んだのだ その思わぬ線の歪みは 私にひとつの映像を思い出させた 月の平面に 今しも翡翠色の地球が昇ってくる 見たこともない人の魂が ゆっくり昇って来たかのように 月から見れば 地球の自転は一目瞭然 だが私たちは この星も太陽を巡っているのだと知りながら いつの間にか信じているのだ 不動という幻影を 今は秋 澄み切った蒼空のもと 今しも重心を操りながら 海を渡っていくサーファーがいる
2019.03.11
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詩集「バタフライ効果」(11) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 鳥の言葉 鳥は多くの言葉を持たない 鳥は何かを伝えたい時 己のすべてを ぐらりと感情に置き換えていかねばならない 少ない言葉に 多くの音色を塗り込め 一つの意思を 無駄なく伝えていくためには お前は人のように 多くの想いを押し殺していくのではない 鳴くことにおいて ただ無心であり続けるだけ 誰彼から教えられたというのでもない 剥き出しの命を 事もなく生かしていくには それが最良の方法であっただけだ 軽いだけの 鳥であることに徹して 今日も雀が枝伝いにやって来た 少しずつ餌に近づき たえず頭をくりくりと動かしながら 主の動静を伺っている 私は縁側でじっとしたまま動けない 冬の陽が 置物になった私を 透明な絹の温もりで暖めている
2019.03.10
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詩集「バタフライ効果」(10) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 違和感 邪な手を そっと押し返す嫋(たお)やかな手のように 飲み慣れない水を呑むとき 胃がひらひらと押し戻してくる 飲んでしまえば 飲み込んでしまえば… クライストを説くシスターの傍で 私のハートは蛇の前の蛙のように怯んでいる 受け入れるには 何かを抑える必要がある 突き上げてくる違和感を無視して ステントのように 無理やり気持ちを押し広げることが 古里の景色 日々の暮らし その中から私の嗜好は育っていたのか 私という現象は この風土と相まって 知らぬ間に抗体を作り 馴染みのないものを 検問する でも 馴染まないものを 嫌だと言って決めつけるには 私の理性が納得しない これ位これ位は、と 何とか納得を示そうとして 私はまたも飲み慣れない水を飲み干す 突き上げてくる不快感を無視する
2019.03.09
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詩集「バタフライ効果」(9) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 初期化 あの頃は客船に夢を乗せて 水平線を渡っていた テレビやゲーム機などまだ無かったから わずかな世界しか見えなかったが それでも本物の海の深さも 魚たちの生命の輝きも目に届いた 遠い昔 あれは何処であったろうか 境内で老婆が一人ちょこんと岩に腰かけていた はぐれてしまった子猿のように 存在を消し ほの暗い森の陰で小さな置物になっていた (あれくらいの歳になると 人は人であることから抜け出し 影のように 自分の姿を消すことも出来るだろう) 私はたわいのないことを想った そして訳もなく初期化されて造られるという 万能細胞の話も 旅先で見知らぬ風景を眺めながら 鴎や風の賑わいに 少年の頃を呼び醒ましている すると何時しか 曇っていたガラスの脳に あの我を捨てて放心していた老婆の姿が 鮮やかに蘇ってくるのである
2019.03.08
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詩集「バタフライ効果」(8) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 壁の向こう 目を閉じて座っていると 異界から伝わって来る人の声 人工の音 カタコトと窓をたたく かすかな秋… でも私を過ぎていく一日一日は 心に泡立つ激しいものから私を遠ざける 国境の向こう 抑圧されている人々の苦しみや 信仰からくる異質への嫌悪 難民の恐怖や絶望 置き去りにされているISの自暴自棄から 私に聞こえるのは 遠くから伝わってくる波の音 さざ波のように漂ってくるヒグラシの声 健康と自由な会話と 心に染みてくる飲み物の香り それらは平和という厚いガラスのこちら側で 私を飼い犬のように馴らそうとする 私には聞こえない 知っていても 私の心には届いてこない 人の悲しみ 厚いガラスの向こう側では 無辜(むこ)の命が日々 絶えようとしている時に 耳を澄ませば伝わってくる 生きていくとは 知らぬ間に垣根をめぐらせてしまうことか 土竜(もぐら)のように光を失い 柵の中で安関と眠り 多くの蓄えを死守しようとして… でも何故 遠いのだろう 身近な人の 祈りのような想いさえも それは 傍らで 吐息のように囁かれていたのに
2019.03.07
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詩集「バタフライ効果」(7) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 一本の糸 不思議な光景を私は見た 池には三匹の金魚がいる 一匹が体調を崩して 横になったまま漂っていた あろうことか 後の二匹が両側から寄り添っている そして普段の真っ直ぐな姿勢にもどると 三匹はそっと離れていった いつもの諍いなど棚上げにして 死にかけている仲間を なんとか呼び戻そうと必死なのだ でもまた傾きはじめる 両側からまた寄り添っていく 取るに足らないと思った物が 人のような優しさを見せている 私は天啓をうけたような厳かな気持ちになった 燃え尽きていく命が 二つの命に最後のサヨウナラをつげている その痛みが透明な哀しみとなって 二匹から溢れ出るのだ 私は三つの命が 目に見えない一本の糸で繋がり 眺めている私にまで延びてくるのを感じていた 病んだ魚は とうとうぽっかりと浮かんでしまった 命の重みのような何かが 池の中から昇ってきた
2019.03.06
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詩集「バタフライ効果」(6) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 蝉の誘惑 時間になると 春ゼミが快い呪文のように裏山で鳴き出した いつの間にか私は恍惚の状態になる 眠いのではない 何かを考えている訳でもないが 授業する先生の声が透明にかすんでいって 知らぬ間に見えなくなるのだ 窓から流れてくる涼しい風や セミの声しかない窓の外の ゆったりした初夏の時間が 私を誘う お出でよ 外にお出で (いつか、あの世に迎えられる時は あんな誘われ方がいいよねえ…) 春ゼミがいつものように 私に催眠を仕掛けにきた 放心して ひとり微笑んでいる私の表情は 先生には阿呆のように写っただろう こら、○○! 卓球のことばかり考えているんじゃない 間もなく禁断の実が 私にも用意されようとしていた
2019.03.05
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詩集「バタフライ効果」(5) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 私の時間 近頃 空を見ていない 子供の頃 遊びから帰る途中で眺めていた空 若い頃 日当たりの良い野で妻と見上げていた遠い雲 ひとり縁側に座って ぼんやり何事かにかまけていると はるか向こうの松の梢に 秋を深めていく空が見えた 私はふと思い当たった 自分から遠ざかっている私に そして平衡を保とうとして ゆっくり復元していくヨットのように 傾いていた心が また元に戻っていくのを しばらくは空を見ていた すると懐かしい気持ちになれた そんな単純な目の動きが 何かにかまけ 留守になっていた私を 北斗の星のように それとなく気づかせてくれる 振れていた時間が またひょっこり ヤジロベエのように帰ってきた そう言えば 近頃 夜空を仰ぐこともなかった
2019.03.04
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詩集「バタフライ効果」(4) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 サヨナラの前に 今 何かをしてあげなければ そう思う人の顔が目の前を過(よぎ)っていく そのうちと思いながら いつしか月日が経ってしまった 私が先か あの人が先か それは誰にも解らないが いずれは手の届かない岸辺に向って さようならを言うことになる 俊敏さや一途な想いや 体を鍛えようとする明日への願い それもこれも 水枯れの花のように少しずつ衰えてきた いつかは私から 時間というものも飛び去るだろう 今 何かをしてあげなければ この四次元という まだ肌の温もりの伝わる世界で
2019.03.03
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詩集「バタフライ効果」(3) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三歌集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 手紙 昨夜は皆既月食 地球の落す影が段々と光を狭め とうとう最後の光芒まで覆ってしまうと 月は透きとおったクラゲのように 輪郭まで消してしまった 魔術師か 一瞬のうちに鳩を隠した そう思えるほど あっけない消滅だったが かく言う私の輪郭も 馬齢とともに輝きを削がれて 自分では気づかないまま 空っぽに透けていくのかも知れないね 二人でいる時は 私はあなたの満月のような心を 私の影で覆ったりはしない 太陽と地球のように 程よい距離、程よい温もりを保って あなたののびやかな風景を いつまでも楽しんでいたいから 今夜 月の光はまだ見えないよ 遠慮がちな星たちが 二つ三つ、一つ二つ、暗い空で瞬いている
2019.03.02
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詩集「バタフライ効果」(2) 著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集) 発行:二○一八年十一月三十日 発行所:ルネッサンス・アイ 発売元:白順社 春先 空で震える 毛根のような枝々が 満遍なく陽を啜っている 枝という枝に薄紅のつぼみをまとい やがて溢れでる 春の開花を 人々はその人生に 重ね合わそうと集まるのだが 樹は ただ 体液の命ずるままに 上げ潮のごとく満ちていくだけ 死ぬまで 一か所に繋がれていて 朽葉は土に 新しい気力は花へと… そしてその後は僅かばかりの果実をかざして 鳥たちを待ち続けている たとえそれが 人には耐えがたく思われようとも 命ある限り よみがえるシジフォスの神話を 繰り返し 繰り返している静けさ でも お前は いったい 何時休めるのだろう… 冷たい風の中で 配達夫は焦っている まだ終わらない まだ終われない… もう菜の花も咲き始めたのに 蔵の中では少年が いつ止むとも判らない同級の悪意を思って ひとり悲しみに沈んでいる 春よ もう良いではないか お前の清冽なシンバルの音を鳴らせ
2019.03.01
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詩集「バタフライ効果」(1)著者:金指安行(下田市在住、著者の第三詩集)発行:二○一八年十一月三十日発行所:ルネッサンス・アイ発売元:白順社 アマゾンの蝶 厚い雲が半島にかかっているあしたは雨の模様キャスターが順を追って状況を説明している一連の要因を上げ以前の観測と照らし合わせて 蝶の羽ばたきが少しずつ大気を変え巡り巡って遠くの空に雨雲をもたらすのだとこの「バタフライ効果」という本当のような嘘の話 予測できない未来に向かって私たちは観測する占いに頼り確かな要因を繋ぎ合わせカオスの中に一つの法則を見出そうとする 小さな差異を血眼になって探している異なる顔立ちに似通っている何かを探す そのようにして私の言葉があの人の心を和ませあの人の子供まで明るく変えて行くとしたら私も罪のないアマゾンの魔術師一匹の蝶になって大空を舞うだろうに詩集 バタフライ効果 / 金指安行 【本】
2019.02.28
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平成30年5月23日(水) 詩集「測量船」:三好達治(90) パン(2) 私は崖に立って、候兵(ものみ)のやうにぼんやりしてゐた 海、古い小さな海よ、人はお前に身を投げる、私はお前 を眺めてゐる 追憶は帰ってくるか、雲と雲との間から 恐らくは万事休矣(ばんじきうす)、かうして歌も種切(たねぎ)れだ 汽船が滑ってゆく、汽船が流れてゆく 艫(とも)を見せて、それは私の帽子のやうだ 私は帽子をま深にする さあ帰らう、パン 私のサンチョパンザよ、お前のその短い脚で、もっと貴 族的に歩くのだ さうだ首をあげて、さう尻尾(しっぽ)もあげて あわてものの蟹(かに)が、運河の水門から滑って落ちた その水音が気に入った、――腹をたてるな、パン、あれ 批評だよ (完結)
2018.05.23
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平成30年5月22日(火) 詩集「測量船」:三好達治(89) パン(1) パンをつれて、愛犬のパンザをつれて 私は曇り日の海へ行く パン、脚の短い私のサンチョパンザよ どうしたんだ、どうしてそんなに嚔(くさめ)をするんだ パン、これが海だ 海がお前に楽しいか、それとも情けないのか パン、海と私とは肖てゐるか 肖てゐると思ふなら、もう一度嚔をしてみろ パンはあちらへ行った、そして首をふって嚔をした 木立の中の扶養院(ふやういん)から、ラディオの喘息(ぜんそく)持ちのお談議が 聞える (つづく)
2018.05.22
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平成30年5月20日(日) 詩集「測量船」:三好達治(87) 獅子(4) ……運動してゐますね……こんなのに山の中で出遭った ら……いやまったく、威勢のいい鬣(たてがみ)ですな……。 しか しながらこの時、彼――獅子は、その視線を落してゐた 床(ゆか)の上に、更に一の新しい敵、最も単純にして最も不逞 な懐疑の抗弁を読みとった。彼は床に爪をたてて引っか いた。彼は床をたたきつけた。錯覚! 錯覚であるか? 彼は自らの眼を疑った。果たしてそれは錯覚であるか? (つづく)
2018.05.20
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平成30年5月19日(土) 詩集「測量船」:三好達治(86) 獅子(3) しみじみとその厚ぼったい蹠裏(あしうら)に機(はず)む感覚に耐へ、彼は 考へた。ああかの、彼の視覚に閃き、鉄柵の間から、墜(お) ちんとして夙(は)やく飛び去ったところのあの訪問者、あの 花の如(ごと)き一瞬は何であったか? 彼の生命にまで溌剌(はつらつ)た りし、かの明瞭の啓示、晴天をよぎって早く消え去った、 かの輝やく情緒、それは今自(みずか)らにまで、如何に解くべき 謎であらうか? そして思はず彼は、彼の思索の無力を 知って、ただ奇蹟の再び繰り返される周期にまで思慕を よせた。けれどもその時、檻の前に歩みをとめた人々は 小手を翳(かざ)して、彼の憂鬱(いううつ)の徘徊(はいかい)を眺めながら囁(ささや)き交した。 (つづく)
2018.05.19
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平成30年5月18日(金) 詩集「測量船」:三好達治(85) 獅子(2) 途(みち)すがらに、彼の檻の一隅をも訪れたのである。彼は眼 をしばたたいた。その眼を鼻筋によせて、浪うつ鬣(たてがみ)の 向日葵(ひまわり)のやうに燃えあがる首を起こし、前肢を引寄せ、 姿態を逞(たく)しくすっくりとたち上った。彼は鉄柵の前に つめ寄った。しかしその時、彼はふと寧(むし)ろ反って自分の 動作のあまりに緩慢(くわんまん)なのに解きがたい不審を感じた。蝶 はもとより、夙(は)やく天の一方にその自由の飛翔(ひしやう)を掠(かす)め消 え去った。彼は歩行を促す後体のために、余儀なく前体 を一方にすばやくひんまげた。そして習慣の重い歩(あし)どり で檻にそって歩き始めた。彼にとっての実に僅かな、た だ一飛躍にすぎない領土を、そこに描く屈従(くつじゅう)と倦怠(けんたん)の縦(じゆ) 横無尽(うわうむじん)の線状から、無限の距離に引き伸して彼は半日の 旅程に就いた。しかしながら懶(ものう)く王者の項(うなじ)をうな垂(だ)れ、(つづく)
2018.05.18
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平成30年5月17日(木) 詩集「測量船」:三好達治(84) 獅子(1) 彼れ、獅子は見た、快適の午睡の果てに、――彼はそ こに洗はれて、深淵(しんえん)の午後に、また月のやうに浮び上っ た白磁の皿であった、――微(かす)かに見開いた睫毛(まつげ)の間に、 汚臭に満された認識の裂きがたいこの約束、コンクリー トの王座の上に腕を組む鉄柵のこの空間、彼の楚囚(そしう)の王 国を、今そこに漸(やうや)く明瞭する旧知の檻(をり)を、彼は見たので ある。……巧緻(かうち)に閃(ひら)めきながら、世に最も軽快な、最も 奔放(ほんぽう)な小さい一羽の天使が、羽ばたきながらそこを漂ひ 過ぎさるのを。……蝶は、たとへば影の海から日向(ひなた)の沙(さ) 漠(ばく)へ、日向の砂浜から再び影の水そこへと、翩翻(へんぽん)として、 現実の隙間に、季節と光線の僅(わづ)かな煌(きら)めく彫刻を施(ほどこ)しな がら、一瞬から一瞬へ、偶然から偶然への、その散策(さんさく)の 途(みち)すがらに、彼の檻の一隅をも訪れたのである。 (つづく)
2018.05.17
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平成30年5月16日(水) 詩集「測量船」:三好達治(79) 郷愁 蝶のやうな私の郷愁!……。 蝶はいくつか籬(まがき)を越え、 午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私 は本を閉ぢる。私は壁に凭(もた)れる。隣りの部屋で二時が打 つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海 よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして 母よ、仏蘭西(ふらんす)人の言葉では、あなたの中に海がある。」 (つづく)
2018.05.16
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平成30年5月15日(火) 詩集「測量船」:三好達治(76) 私と雪と(6) そして、しかし今一度意識が私に帰ってきた。私は力 めて、ただ眼を強く見開いた。視覚の最後の印象に、恰(あたか) もそこに私自身を見るやうに、暮色の曇り空を凝視(ぎょうし)した。 その凝視を続けようとした。しかし間もなく瞼は落ちた。 私は傷ついて私の獲物の上に折り重なってゐた。(あの 狙撃者が、私に近づいて来るだらう。彼は、あらゆる点 で私と一致してゐたから。)そして私の下の野獣が、もは やその刺(とげ)に満ちた死屍(しし)が、麻酔(ますゐ)に入らうとする私にとっ ての、優しい魅力であった。その時私は聴いたのである。 私の下の死屍、寧(むし)ろ私と同じい静物から、それの中に囁(ささや) く声を、「私と雪と……」
2018.05.15
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平成30年5月14日(月) 詩集「測量船」:三好達治(75) 私と雪と(5) 私の立ってゐた樹立の蔭に、今また私と同じ人影が、 黄昏から彼の推測の一点に私を 私の立ってゐた樹立の蔭に、今また私と同じ人影が、 黄昏から彼の推測の一点に私を切り離して、狙撃者の眼 深にした帽子の庇を反らし、私と同じ外套の襟を立て、 その息を殺した照準の中に、既に私を閉ぢこめてゐた。 「よろしい、もはや! 私は斃れるだらう! まるで何 かの小説の中の……」 ――早や、私は横ざまに打ち倒れた。銃声が轟いた… …、記憶の遠い谺に。 (つづく)
2018.05.14
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平成30年5月13日(日) 詩集「測量船」:三好達治(74) 私と雪と(4) 私は獲物に向って進んでいった。しかし、それも狩猟 者の喜びでではなかった。獲物の野猪(しし)は、日暮(にちぼ)に黝(くろ)ずん だ肢体をなほ逞(たく)ましく横たへてゐた。その下で、流れ出 る血が泥に吸はれてゐた。ふと、私は促されるやうに背 後を顧(かへり)みた。そして私は総てを了解した!(つづく)
2018.05.13
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平成30年5月12日(土) 詩集「測量船」:三好達治(73) 私と雪と(3) やがて日没の空が見え、林がきれた。そこに時刻の波 紋が現れた。私は静かに銃器に装填(そうてん)した。(どこかで雪 が落ちた。)私は額をあげ、眼(まな)深(ぶか)くした帽子の庇(ひさし)を反(そ)ら し、樹立にぐっと肩を寄せた。射程が目測され、私の推 測が疑ひのない一点の上に結ばれた。床尾の金具が、冷 めたく肩に滲みた。私は息を殺した。緊張の中に鋼(はがね)のや うな倦怠(けんたい)が味はれた。そして微かな最後の契機(けいき)を、ただ 軽く食指が残したとき、――然(しか)り、獲物はそこに現れた。 (しかも、この透視の瞬間にあって、なほ私が如何(いか)に無 智な者であっただらう!)獲物の歩並(あしなみ)は注視され、引鉄(ひきがね) が落ちた。泥とともに浅い雪が飛沫(ひまつ)をあげた。硫黄(いわう)の香 りが流れた。この素早い嗅覚の現在が、まるで記憶の、 漠(ばく)とした遠い過去のやうに思はれた。(つづく)
2018.05.12
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平成30年5月11日(金) 詩集「測量船」:三好達治(72) 私と雪と(2) 私は林に入った。はたと、続いておちる枯枝の音と鳥 の羽搏(はばた)きと。樹立の垂直はどこまでも重なりあって、互 に隠しあひ、それが冷めたく溜息(ためいき)つく雰囲気で私を支配 した。私から何ものかが喪(うしな)はれた。(ここには、生命が あって灯火がない。)私はそれを好んだ。恐らく私は疲れ てゐたから。(つづく)
2018.05.11
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平成30年5月10日(木) 詩集「測量船」:三好達治(71) 私と雪と(1) 今日私をして、なほ口笛を吹かせるのは何だろう? 古い魅力がまた私を誘った。私は靴を穿(は)いて、壁から 銃を下ろした。私は栖居(すまゐ)を出た。折から雪が、わづかに 眩(まぶ)しくもつれて、はや遅い午後を降り重ねてゐた。犬は しかし思ひ直してまた鎖(くさり)にとめた。「私は一人で行か う。」そして雪こそ、霏々(ひひ)として織るその軽い織ものか ら、私は路を教へた。私はそれに従った、――寧(むし)ろいさ んで。 (つづく)
2018.05.10
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平成30年5月9日(水) 詩集「測量船」:三好達治(70) 十一月の視野に於て 倫理の矢に命って殞ちる倫理の小禽。風景の上に忍耐 されるそのフラット・スピン! 小禽は叫ぶ。否、否、否。わたしは、私から堕ちる血を私 の血とは認めない。否! しかし、倫理の矢に命って殞ちる倫理の小禽よ! ★ 雲は私に告げる。――見よ! 見よ! 如何に私が常 に変貌するところのもの、飛び去るところのものである か。私は自らを否定する。実に私の宿命から、かく私は 私の生命を旅行し、私自らの形象から絶えず私を追放す る。否!…… 否!…… それに私は答へる。――君は、追求することによって 建築し、建築することによって移動する。ああ智慧と自 由の、羨望に価する者よ! ただ、しかしながらその宿 命を以て告げるところの、君や、常に敗北の影ある旅行 者よ! (つづく)
2018.05.09
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平成30年5月8日(火) 詩集「測量船」:三好達治(69) 菊 北川冬彦君に 花ばかりがこの世で私に美しい。 窓に腰かけてゐる私の、ふとある時の私の純潔。 私の膝。私の手足。(飛行機が林を越える。) ――それから私の秘密。 秘密の花弁につつまれたあるひと時の私の純潔。 私の上を雲が流れる。私は楽しい。私は悲しくない。 しかしまた、やがて悲しみが私に帰ってくるだらう。 私には私の悲しみを防ぐすべがない。 私の悩みには理由がない。――それを私は知ってゐる。 花ばかりがこの世で私に美しい。 (つづく)
2018.05.08
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平成30年5月7日(月) 詩集「測量船」:三好達治(68) 雉 安西冬衛君に 山腹に朴(ほほ)の幹が白い。萱原(かやはら)に鴉(からす)の群が下りてゐる。鴉 が私を見た。私は遠い山の、電柱の列が細く越えてゐる のを眺めた。私は山襞(やまひだ)に隠れていった。 道は川に沿ひ、翳(かげ)り易い日向(ひなた)に、鶺鴒(せきれい)が淡い黄色を流 して飛ぶ。 枯葉に音をたてる赤棟蛇(やまかがし)の、その心ままなる行衛(ゆくへ)。 夕暮に私は雉(きじ)を買った。夜になって、川を眺める窓を 閉ざした。私は酒を酌(く)んだ。水の音が窓から遠ざかって いった。 食膳の朱塗りの上に、私は一粒の散弾を落した。 (つづく)
2018.05.07
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平成30年5月6日(日) 詩集「測量船」:三好達治(67) アヴェ・マリア(2) 私は犬を呼ぶ。私は口笛を吹いて、樹影に睡ってゐる 犬を呼ぶ。私は犬の手を握る。ジャッキーよ、ブブルよ。 ――まあこんなに、蝉はどこにも啼いてゐる。 私は急いで十字を切る、 落葉の積った胸の、小径の奥に。 アヴェ・マリア、マリアさま、 夜が来たら私は汽車に乗るのです、 私はどこへ行くのでせう。 私のハンカチは新しい。 それに私の涙はもう古い。 ――もう一度会ふ日はないか。 ――もう一度会ふ日はないだらう。 そして旅に出れば、知らない人ばかりを見、知らない 海の音を聞くだらう。そしてもう誰にも会はないだらう。 (つづく)
2018.05.06
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