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さて、性懲りもなく、ほとんど不可能な(とはいうものの、12年間しゃべってきて、とにかくいちどは成功したので、きわめて困難な試みではあるけれども、ぼくが試みた場合でさえ伝えるのが不可能とは言い切れないと知ってしまった)試みを、「私とは?」「言葉とは?」「考えない、とは?」など、生身の人間相手に、きょう、さっきまで、しゃべっていました。考え方とか思想とか、そういうのが言いたいのではなく、感覚が変化する、ということへの好奇心を持ってもらえるかどうか、なのですが…まったくダメでした。いったい何の目的でそんなことをひろめようとしているのか、ただの善意とは思えず、詐欺のような何かが隠されているような気がする、というような反応でした。でもまあ、料理はほめてもらえました。
2011年10月30日
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矢印に従い階段を昇っていくうち、雨が降り出した。雨にかすんで見えにくい視界にロープが浮かんでいる。ロープウェイ乗り場を探しているのでなければ、ロープが浮いているとは見なさず別の何かだと見なしたのだろうが、いまはロープだと思いこんでいるので、別の何と見なしえたかについては、考えない。 見まわしてもロープウェイは見あたらなかったが、進んでいくと、ふいに小屋が立っていた。ガラス窓から、人と切符(何色かの切符が並んでいる)が見え、切符売り場だった。切符は売ってもらわなくても持っている。
2011年10月30日
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この写真を拡大すると…拡大写真(クリックしてね)…画像が整うのに時間がかかるのが欠点ですが…うーん、すごい。
2011年10月26日
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久しぶりに、「目の変化」を相手に起こす(相手はべつに「目の変化」を起こしたいわけではなく、いったい何を変なことを言ってるのか、興味をもってくれているだけではあるのですが)べく、言いたいことを言ってみる機会が1週間後くらいにあります。これまで自分が何を言ってきたのか、かなり忘れているので、この機会にいくつかまとめてみたいと思います。■まずはですね、「私とは何か?」ということを考えてみたいんですけども、それはですね、突き詰めると「言葉とは何か?」というあたりに来ると思うんですけども、まあ、のんびりやります。とりあえずはですね、「私とは何か?」なんですけど、まあ、捉え方としては2つあると思うんです。もちろん捉え方なんてものは無限にあるわけなんですけれども、そうはいうもののですね、まあ、ぼくとして納得のできる捉え方をですね、2つほど紹介してみようかと、まあ、そういうことです。ひとつはですね、「私とは頭に流れている言葉である」というもので、もうひとつは「私とは瞬間ごとの知覚である」というものなんですけども、まずは「私とは頭に流れている言葉である」のほうからしゃべってみます。ということで、「私とは何か?」と問うてみてですね、まずは「頭に流れている言葉である」と答えてみる。ということはですね、頭に言葉が流れていないときにはですね、「私はいない」ということになります。たとえば「無我」って言いますけども、そんなに難しく考えることはないわけでして、我が無いってのは、頭に言葉が流れていない、考えていない、考えていないということも考えていない、ということです。逆に言いますと、何であれ考えた瞬間にですね、「私」が出現するわけです。つまりですね、「考え」が「私」なわけです。「私とは頭に流れている言葉である」というのはですね、「私が考える」とか「考えが私にやってくる」といった、「私」と「考え」を別の現象として扱わない、主体と客体、といったふうに分けないわけです。では次に、「私とは何か?」と問われてですね、「私とは瞬間ごとの知覚である」と答えるとしましょう。「私とは瞬間ごとの知覚である」というのはですね、見えたり聞こえたり、匂いとか触わったりとか、まあ、そういった知覚というのはですね、生きておればまあ、瞬間ごとにあるわけですけども、そういったその場の感覚が「私」なんだ、というわけです。見えたり聞こえたり、いろんな感覚が広がってるこの世界が私である。つまりですね、外側に広がっているかのようにみなしている世界がじつは「私」であり、そうするとですね、体は「私」の中を移動しているわけです。私の体は「私」の中を旅している。ということでまあ、「私とは何か?」という問いに対するですね、ぼくにとって腑に落ちる2つの捉え方を簡単にしゃべってみましたが、じつはですね、どんな捉え方といいますか、意見や判断といったものにしてもですね、根本的には根拠が無いのですね。どういうことかと言いますとですね、どんなふうに書こうがですね、どんなふうにしゃべろうが、それらは言葉で組み立てられているからなんですね。「言葉には根拠が無い」なんて言われたってですね、いったい何が言いたいのか、まあ、わからないわけですけれども、たとえばですね、「根拠」っていう言葉がありますけど、「根拠とは何か?」と問われましてもですね、まあ、その、「よりどころ」だとかですね、「もとになる理由」だとか答えたところでですね、最終的な答えにはならないわけです。と言いますのはですね、じゃあ、「よりどころとは何か?」だとか、「理由とは何か?」といったふうにですね、いつまで問うていっても切りが無いわけです。それどころか、「何か、とは何か?」とかですね、「とは、とは何か」といったようにですね、切りが無い。ちょっとほかのふうに言いますとですね、たとえばですね、「手」という言葉がありますけれども、その、「手」という言葉とですね、「手自体」といいますか、まあ、いわば、物体としての手、「手、そのもの」とは別なわけです。「手」という言葉とですね、いわば、物体としての手自体、手そのもの、とは別なわけです。まあ、そんなのあたりまえじゃないか、それがどうした、って言われるかもしれませんけども、その、物体としての手にはですね、本来、言葉が無いわけでして、物体としての手は言葉でできていない。これはまあ、言葉すべてに当てはまるわけでして、言葉とですね、その言葉が指し示す物とか、まあ、概念にですね、言葉を結びつけないっていうふうに、ちょっと本気で取り組んでみたらですね、なんといいますか、言うに言われぬ、とでも言いますか、まあ、その、奇妙な気配が漂ってくるのですけど、たとえば「言葉」という言葉にしたってですね、「言葉」という言葉と、「言葉」そのもの、とは別なわけです。しかもですね、言葉そのもの、なんて言いましても、まあ、その、言葉抜きではですね、「言葉そのもの」を表現することはできないわけでして、言葉抜きでは何ひとつ、言葉で表現できない。世界についての表現は、言葉でできている。世界「そのもの」は、言葉でできていない。だからどうなんだ、ということなんですけども、まあ、いわば、世界を感じるためにはですね、言葉から離れて、といいますか、まあ、その、ここがまた、わかりづらいところなんですけれども、言葉から離れるなんて言いますとですね、まあ、その、「考えないでいようとしたらよけい考えてしまうではないか?」といった疑問が出てきたりもするわけです。「考えないでいよう」と頭で考えたってですね、それだけで考えなくなったりはしないわけでして、そこでですね、まあ、たとえば、目を使ってみたらどうか。目を使って「考えない」試みをする、というのは、たとえばですね、3秒でいいから息を止めて目の前の物をじっと見つめるわけです。なぜ息を止めるかといいますとですね、息を止めていたら頭に言葉が流れにくいからなんですね。言葉抜きで物を見る。言葉抜きで行動を見る。「手」という言葉とですね、いわば、物体としての手自体、「手そのもの」とは別であるようにですね、行動を表現する言葉といいますか、行動を文章にしたものとですね、言葉抜きの「行動そのもの」とは別なわけです。どういうことかと言いますとですね、たとえばですね、「私は椅子にすわっている」というふうにですね、行動を表現するわけですけど、まあ、その、「私は椅子にすわっている」という文章はですね、言葉で組み立てられているわけです。「私」とか「椅子」とか「すわっている」とかの言葉でできているわけですが、「椅子」という言葉とですね、物体としての「椅子そのもの」とは別でありますし、また、「すわっている」という表現とですね、「すわっている事そのもの」といいますか、まあ、その、「すわっているという現象」とはですね、別なわけです。現象についての表現は、言葉でできている。現象「そのもの」は、言葉でできていない。
2011年10月25日
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川を渡る方法ならいくらでもある。 川を渡るのはいやだ。 川を渡った。 川を渡り、川向こうの街を進み、立入り禁止として張り巡らされた金網の破れ目を抜け、道に迷い、隣接する建物と建物の隙間に、矢印を見つける。 ロープウェイ乗り場に向かう矢印らしい。
2011年10月23日
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「空間」という言葉と「空間そのもの」とは別である。「時間」という言葉と「時間そのもの」とは別である。「言葉」という言葉と「言葉そのもの」とは別である。「そのもの」という言葉と「そのもの、そのもの」とは別である。「別である」という言葉と「別である、そのもの」とは別である。(言葉は言葉である)(それはそうとして)我々の深層は、いわゆる「空間」「時間」の中で生きているわけではない、としてみる。我々の深層は、科学的空間・社会的空間の中で生きているわけではない、としてみる。我々の深層は、科学的時間・社会的時間の中で生きているわけではない、としてみる。我々の深層は、いわゆる「空間」「時間」という、ひろがりの中で生きているわけではない、としてみる。我々は、なんというか、大きさも位置も測定できない「点」として生きている。
2011年10月23日
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あいまいな地図を見せて道を尋ねても、そういえば子供のころ、道に迷ってロープウェイ乗り場のような所に出くわしたこともあったような、なかったような、とかなんとか、そんなふうなあいまいな返事しか返ってこない。 そのうち道を尋ねようにも人がいなくなり、これではどうにも辿り着けないな、と呟きながらあいまいに進んで行くと、川にぶつかった。
2011年10月16日
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『一筋縄では来れない場所』という手紙の言葉に引かれて、ついついここまで来てしまったのかもしれない。 ある朝、目覚め、はっきり決心がついているのに気づき、よし、出発だ、と手軽な荷物をかばん(ロープウェイに置き忘れてしまった)に詰め、切符(ロープウェイ乗り場の名と目的地の名が印刷してある)と地図を握ったはいいが、あいまいな地図を頼りに、ロープウェイ乗り場まで辿り着くのは容易ではなかった。
2011年10月12日
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「瞑想:J.クリシュナムルティ(著):中川吉晴(訳):p84/p85」より引用『あなたが 独りであることをおそれず 世界にくみせず なにものにも執着していないとき 独りであることのエクスタシーがうまれる …… それは はじめからそこにあり いまも現前している そして いつもそこに ありつづけるだろう』
2011年10月10日
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朝、駅へ向かう公園の、6時や7時の、散歩する人たちが減ってゆき、8時や9時の、出勤する人たちが減ってゆき、10時には、人気のない散歩道になった。
2011年10月06日
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2011年10月06日
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『もし来ていただけるなら、この辺りは一筋縄では来れない場所ですので、必要な切符のほか、地図を同封させていただきます』と、手紙には書いてあった。 一筋縄では来れない場所、というのに引かれて、ついついここまでやってきたのかもしれない。
2011年10月06日
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2011年10月05日
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社会生活は生きるのに必要だけれど、社会生活は人間の哀しみなので、せめて心理的には社会と大きな距離をとるほうがうまくゆく人たち(私もたぶん)もいる。
2011年10月05日
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これのダンス目 の前の椅子の脚の並んでいる位置と菓子のアルミの袋の光るのとみょうにうつくしい日私の重いこれは それを失い透明な鏡を抜け ひろがり誰もいないところで踊る透明な鏡がきらめく
2011年10月02日
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2011年10月02日
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2011年10月02日
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水には興味あるけど、おいしい水を飲むためだけに、わざわざここまでやってきたわけではない。そこまで渇いてはいない。『水を飲んでほしいだけでなく、じつはお見せしたい物事があるのです。ちょっとした見世物でして、きっと興味を持っていただけると思っています。 お会いできる日を楽しみにお待ちしております』と、手紙には書いてあった。
2011年10月02日
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