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今、インドネシアのバリ島滞在中。ネット事情が悪いので、詳細は帰国後アップします。お楽しみに♪
2010.01.31
<続き>こうした佐藤有香のスケート技術に立脚した表現力を、アボット選手は今季うまく吸収してきているように思う。彼も動きに無駄がなく、かつ嫌味がない。昨シーズンに比べて、確実に表現がスムーズになり、「進歩している」という印象を強くもつことができた。そして、もう1つ。佐藤有香のもっている価値観。これが現行のルールで勝って行くのにピッタリなのだ。この動画の解説を聞くとよくわかる。http://www.youtube.com/watch?v=V5JNIvvVgMU&feature=relatedもう10年も前の演技だが、このとき解説の佐藤有香は、マリニナ選手のスケートの基礎力、それにジャンプを褒めている。ルッツに関しては、「エッジの正確さ」。ジャンプの質に関しては、いわゆるディレイド・ジャンプの概念からマリニナ選手のジャンプがお手本だと言っている。つまり、「きちんと上にあがって、それから回転を始め、回転を止めて降りてくる(回りきっての着氷)」ということだ。そして、「最近トリプルジャンプ、トリプルジャンプと必要にせまられて、スケートを滑るというところがいい加減になってきている傾向がある」「ルッツのエッジをきちんとバックアウトサイドで踏み切れる選手がいない」とも言っている。当時こうした視点で話をする解説者はいなかった。つまり佐藤有香は、このころからずっと、「4つのエッジ(アウト、イン、フォア、バック)の使い分けを含めた、基礎的なスケート技術の低下」が気になっていたのだろう。現行のルールは、運用にははなはだしく問題があるが、方向性としては一理ある。それを10年も前にズバリと言っているのだ。なぜ今佐藤有香なのか。彼女がスケートに対してもっている価値観に触れたこの大昔の解説を聞けば、その答えはおのずと出ると思う。彼女が現役選手にコーチとアドバイスをしている場面をテレビで見たが、さかんに、「自分自身で考えること」の重要性を説いている。これにも過去の「前例」があるのだ。佐藤選手は世界女王になる直前のリレハンメルオリンピックで、本番直前にジャンプの調子を著しく崩していた。解説の五十嵐さん曰く、「練習ではジャンプが全然跳べていなかった」「氷の上で考え込んでいた」。テクニカルプログラム(ショートプログラム)のジャンプの失敗で出遅れ、フリーでは最終グループに入れなかった佐藤選手。それでも、練習では跳べなかったジャンプをフリーでは、相当のレベルでまとめた。そして、演技終了後、「最終グループには入れていれば、もっと点が出たと思う」というコメントを残している。そのときの動画がこれ。http://www.youtube.com/watch?v=x2u2Qk4Fd9s&feature=related非常に緊張した面持ちで演技に入り、終わったときは、「やった!」という顔で一瞬泣きそうになっている。跳べるはずのジャンプが跳べなくなってしまうのには、理由がある。浅田選手も同様のことを言って、ビデオを見て軌道を修正したと語っている。佐藤選手はそれを恐らく、オリンピック本番直前の氷上で、頭の中でやっていたのだ。練習は必ず考えながらやること。「自分の頭で考える」ことに主眼をおく佐藤有香の価値観が、アボット選手のようなある程度完成された選手に対して、非常に短期間で功を奏したとしても不思議ではない。こちらはオリンピック後に日本で開かれた世界選手権のフリーの様子。このときは、演技に入る前にだいぶ精神的余裕があるようで、表情が柔らかだ。http://www.youtube.com/watch?v=p03ZQBf0TvA&feature=relatedアボット選手もこの演技に感銘を受けたと話していたが、Mizumizuもこのプログラムは、フィギュア史上に残る大傑作だと思っている。何度見ても飽きない。手足の長い白人の美少女がバレエ的に優雅に舞うだけがフィギュアの表現力ではない。伸びやかな滑りとキビキビとしたエッジ捌きが高い次元で両立し、かつエレガントが上半身の動きが見事に足の動きと連動している佐藤有香の表現は、まさにフィギュアスケート独自のもの。メリハリの効いたポーズも、流れるような動作も素晴らしい。いつまでも色褪せない価値をもったプログラムだ。一方で、ジャンプは非常に弱い。ジャンプはルッツとフリップがそれぞれ単独で1回だけ。3トゥループが2トゥループになっている。前半にかためてしまっているのでジャンプ構成のバランスも必ずしもよくない。それを補うステップワークをもっているからこそ、世界レベルでも通用したが、このジャンプ構成で世界女王はどうか、という意見も当然あるかもしれない。事実、採点結果は1位をつけたジャッジ5人、2位をつけたジャッジが4人という僅差だった。だが、肝心なことは、佐藤有香はこのとき、ジャンプの目立った失敗をしていないということだ。ルッツとフリップは着氷はよくないが、なんとか踏みとどまっているし、トゥループをダブルにしたのは、3回転ジャンプのミスではあるが、ジャンプそのものの失敗ではない。連続ジャンプは、3Lo+2Tに、2Aから3Sへのシーケンス。ルッツとフリップをなかなか連続にできない佐藤選手ならではの構成だ。この「シーケンス作戦」は、ダウングレード判定が厳しい今季、多くの女子選手が取り入れている。もし、このとき、ジャンプの得意なライバルのボナリー選手に対抗して、なにがなんでもルッツを連続にして2回入れようとでもしていたら、おそらくミスって自滅していた。このシーズン、佐藤選手はずっとジャンプがうまくいっていなかったのだ。全日本を2連覇したときのインタビューで、「これで優勝してしまうのか・・・」と敗者のような反省の弁を述べていた(と思う。記憶ベースなので、もしかしたら混乱しているかも)。それでもシーズン最後には、自分のジャンプの地力に合った構成をかためてミスを防ぎ、「ジャンプ以外の部分」で魅せたから世界女王になることができた。これは、現行のルール下での勝ち方と共通してはいないだろうか? 日本選手が負けるのはなぜか? 採点が変? それはわかっている。だが、なんといっても、「自滅してしまうから」だというのが大きな理由ではないか。ライバルに勝つために、客観的に見たら「バンザイ攻撃」でしかない高難度のジャンプ構成を組む。案の定難しいジャンプは跳べない。焦る。次に難しいジャンプでまた失敗する。後半になると体力がもたなくなって、またミスる。たいがいがこのパターンだ。そして、「次につながる」と同じ台詞を繰り返し、「次」になっても、やはりあちこちでミスをする。こういう思考回路に陥るのも、実際のところ無理はない部分もある。たとえば男子で4回転を捨てるとすると、トリプルアクセル2度を決めることが最重要課題になるが、それではパトリック・チャンと同じレベルにまでジャンプ構成を落とすことになる。ジャンプ構成が一列になってしまったら、勝負を決めるのは演技・構成点。そうなってくると、おそらく地元のチャン選手の演技・構成点が高く出るだろう。また、プルシェンコのように確実に4+3を決めてくる選手には自力で勝つチャンスがほぼなくなり、彼のミス待ちになる。ところがプルシェンコは(ほとんど)ミスをしてくれない。精密な機械のようにジャンプを降りてくる。だから、メダルを確実にするためには、どうしても4回転が必要なのだ。本田武史の、「横一線になったときに、4回転が切り札になる」というのは、そういう意味だ。理屈はそうだが、現実の自分の実力を素直に見極める勇気がなければ、大技は切り札どころか、ただの自爆装置になってしまう。「誰々が何々を決めたら、自分も何々を決めないと勝てない」というifの世界に入り込んで自爆するよりも、もっと大切なことがあるはずだ。それにプルシェンコのフリーの点を見ると、あれだけのジャンプを決めても、必ずしもブッチ切りの銀河点ではない(もちろん、お手盛りの国内大会は除く)。誰かに勝とうとするのではなく、自分のできる最大限のことをミスなくこなして、プログラムの完成度を高めること。それが、1994年に佐藤有香が、そしてトリノオリンピックで荒川静香がやったことなのだ。よく「誰々と誰々が完璧な演技をしたらどちらが勝つか」という不毛な問いかけに対して、元有名選手が困惑しながら意見を述べている姿を見るが(たいていは、「やってみないとわからない」という答えになってしまう)、現実には、ミスのない演技を大舞台でする選手はほとんどいない。だから、実際には「失敗しない選手」がここ一番で勝ち、「失敗した」選手が負ける。「完璧な演技をしたらどちらが勝つか」の闘いになったことはほとんどない。「どちらがミスをしないか」の闘いがほとんどだと言ってもいい。佐藤有香の1994世界選手権は、薄氷を踏む勝利だった。だが、1票差でも勝利は勝利。世界チャンピオンのタイトルを手にしたことで、佐藤有香の将来は大きくひらけたのだ。世界タイトルを獲った佐藤有香は、すぐにプロへの転向を発表した。彼女自身がこの1つのタイトルが自分にもたらす「効果」を冷静に認識していたのだ。もし、あのとき勝っていなかったら、有名なアイスショーに呼んでもらうこともできなかったろうし、そうなるとプロスケーターとしてキャリアを積むこともできなかったかもしれない。全米王者アボット選手の横に座っている佐藤有香をキス&クライで見ることもなかったかもしれないのだ。世界女王になった佐藤有香に対する当時の日本のメディアの扱いは実に冷淡なものだった。翌日のスポーツ新聞で紙面のトップを飾ったのは、高校野球(春のセンバツ)の完全試合。佐藤有香の記事など、探さないと見つからないぐらい小さいものだった。高校野球は人気があるかもしれないし、完全試合は快挙かもしれないが、それは単に国内レベルの、しかも高校生の話ではないか。世界相手に闘い、かつ勝った選手に対するこの軽い扱い、この態度は、まさに井の中の蛙。今になって「全米を魅了したプロスケーター、佐藤有香」「すべての選手のお手本」などと持ち上げている。実にアホらしい。実際に佐藤有香がプロフィギュア選手権などで優勝していたころは、見向きもしなかったくせに。優れた才能を自国では欠点をあげつらって貶め、海外から評価してもらってやっとその価値に気づく。日本人の態度はいつもこうだ。いかに結果を出すことが大事か。そのための条件は、「果敢な挑戦」をすることでは決してない。まず自分が自爆しないことなのだ。この原則は、ルールがどう変わろうと不変だと思う。よく「モロゾフは、選手が跳びたがってるジャンプを回避させる」などと非難するファンがいるが、たとえばモロゾフがプルシェンコのコーチだったら、4回転を回避させるだろうか? ジャンプというのは確率。練習で確率の悪いジャンプは、試合でだって決まらない。模試で解けない問題が、本番の入試で解けないのと同じことだ。「ジャンプを回避しても勝てる」と思って回避させているというより、「自爆して負けてしまう確率を極力減らしている」と言ったほうがいい。結果としてそれが勝つための必要条件だという考えは、極めて合理的だと思う。佐藤有香は、アボット選手とともに、今回全米で最高の結果を出した。ジュニアとシニアで世界女王のタイトルをもち、プロスケーターおよび解説者としても活躍し、かつコーチとしても成功したという人は、これまでほとんどいない。佐藤有香は世界初のフィギュア界の「オールラウンドプレイヤー」になるかもしれない。その素質は十分だし、実際にそこに向かう扉を自らの手で開けた。本当に素晴らしいことだと思う。それもこれも、彼女が基礎の基礎から一歩一歩積み重ねてきた結果なのだ。結果というのは一朝一夕には出ない。成功するためには運も必要だが、運がめぐってくることさえ偶然ではなく、長い間の積み重ねがもたらす必然なのだと思う。<終わり>
2010.01.24
<きのうから続く>イタリア人振付師で、世界的な名声を確立した人はあまり思い浮かばない。振付はロシアとカナダの2大潮流のようなものが、これまでのフィギュア界では支配的で、重厚で深みのあるロシア的世界が評価されるか、洒脱で繊細なカナダ的世界が評価されるかは、そのときどきのトレンドによっていた。カメレンゴの作る世界は、そのどちらとも違う。高橋選手の「道」にはユーモアとペーソスがあるが、ロシア的悲劇ほどは重くない。重くはないが、ヨーロッパ的な深さがある。北ヨーロッパにもない北米にもないその独特な味が、今シーズンは稀有なスケーターを得て、一挙に花開いた感がある。他の有名振付師ほど量産態勢に入っていないから、これだけ個性の違う振付を精密に創作できたのかもしれない。今季はいわゆる「世界的振付師」の作品が、「レベル取りのための振付」「短所を補い長所を目立たせる、やや表現に偏りのある振付」になってしまっているなか、カメレンゴの振付は、そうした作為的なものをほとんど感じさせない、選手にとっては新たな表現の境地を切り拓く挑戦型でありつつ、かつ滑り込むことでここまで芸術性の高いものに仕上がってくる奥の深いものだ。振付師とスケーター、この2つの才能がうまく合致しなければ、ここまでの完成度は望めない。高橋大輔の「道」は、かなり冒険だったはずだが、今季フタをあけてみたら、予想以上の演技・構成点での評価を得た。昨シーズン高橋選手は、「道」のほかに「Ocean Waves」というカメレンゴ振付の作品をもう1つ用意していたはずだが、「Ocean Waves」がもしかしたら、音楽そのものがうねっているようなアボット選手の「オルガン」と似たコンセプトの作品だったのかもしれない。いずれにせよ、ここにきてカメレンゴ作品は、ライザチェック選手やウィアー選手のローリー・ニコル、デヴィット・ウィルソン作品以上のものだという評価を得た。つまりカメレンゴは、与えられたチャンスを活かしたのだ。成功する人間のパターンにうまく入った。これで彼の仕事が増えることは、間違いない。仕事が増えれば生活が向上する。実に結構なこと。プロフェッショナルは、そうやって道を切り拓いていかなければならない。成功するかしないかは、巡ってきたチャンスを活かせるか否か、結果のちょっとした違いにかかっている。そして、もう1つ。忘れてはならないのは、コーチ佐藤有香の評価が高まったということだ。全米選手権の際も、アナウンスでさかんに、アボット選手のコーチ、ユカ・サトウの名前が連呼されていた。ワールドジュニアチャンピオンとワールドチャンピオンの称号を2つもち、プロスケーターとしても活躍しているユカ・サトウ。彼女もアボット選手を全米2連覇に導くことで、コーチとしての結果を出した。しかも、今季非常に強いライザチェック選手を大差で退けた。この結果のもつ意味もはかり知れない。大事なオリンピックシーズンにアボット選手が佐藤有香につき、上手く行くのか行かないのか。良いシナリオと悪いシナリオがあったと思う。まず悪いシナリオ。それは昨シーズンの最後に、アボット選手が調子を落としてしまったことだ。全米選手権までは勢いがあったが、その後の国際大会では結果が出ない。オリンピックシーズンにコーチを替えるのは、得策でない場合が多い。しかも、佐藤有香は実績と経験の豊富なコーチではない。昨シーズンの悪い調子から立て直せず、今季ズルズルっと後退してしまう可能性もあった。良いシナリオとしては、アボット選手が昨シーズン調子を崩したのは、主に疲労が原因だったということ。試合での4回転は決まらないが、地力がないわけではない。また、アボット選手は非常に基礎のしっかりした選手で、エッジ違反や回転不足になりやすいジャンプといった克服すべき欠点がなかったこと。だから、もっている力をうまくまとめ、かつ佐藤有香のもつ高度なスケーティング技術を間近に見て吸収すれば、さらに高い次元にステップアップできる可能性があったこと。結果として後者になったと思う。これは新採点システムに移行してから顕著になってきたある特徴--実際に自分が滑ってお手本を示すことのできるコーチについた選手が強くなる傾向がある--の良き一例にもなった。モロゾフにせよ、オーサーにせよ、自分で滑ってお手本を弟子に見せることができる。以前のコーチはむしろ、もっと精神的な面で選手をコントロールできることのできる人が結果を出してきた。この傾向が変わり始めたことをハッキリ示したのは、荒川選手が、タラソワではなく、実際に滑ってお手本を見せてくれるモロゾフを選んだときだったかもしれない。モロゾフは、フィギュア全盛期の旧ソ連にあっては特別優れた選手ではなかったが、今現在、ときどきテレビで、怒号を浴びせながら安藤選手や織田選手にステップや腕の表現などのお手本を見せている映像を見ると、「ニコライ君、君が滑ってくれたまえ」(←急に上から目線)とショーの出演を依頼したくなるほどに素晴らしい。オーサーのほうは、キム選手とときどきショーで滑っていたが、膝を深く使い、体全体を大きく使った伸びのある滑りなど、ソックリだ。今季のアボット選手の「あくまでスケート技術に立脚した」表現力の向上にも、プロスケーターとしても現役で活躍している佐藤有香の存在があるように思う。事実、アボット選手は、佐藤有香の滑りを見て、弟子入りを決めたと語っている。なぜ、今佐藤有香なのか。それにも理由があると思う。不完全なジャンプを徹底的に減点し、所定の条件を満たしたエレメンツのレベル認定とその出来栄えで勝負が決まる今の採点傾向について、伊藤みどりは昨シーズン「規定(コンパルソリー)への回帰」と表現した。佐藤有香はコンパルソリー時代の選手ではなく、むしろ、ジャンプが決まらなければどうにもならなくなった「ポスト伊藤みどりの時代」の選手なのだが、そうしたなかでも正確で質の高い技術力で世界を制したといっていい。アボット選手の言葉を借りれば、「(現行ルールで)成功するためのすべてをもっているスケーター」なのだ。ジャンプというのはすぐに跳べなくなってしまうが、基礎のしっかりしたスケーティング技術はそうそう色褪せるものではない。現役時代の佐藤選手は、ルッツ、フリップをなかなかきれいに着氷できなかったが、そのかわりステップワークで会場を沸かせることのできる稀有な存在だった。ちょうど、1994年に伊藤みどり、クリスティ・ヤマグチ、佐藤有香の3人の世界女王が競った「チャレンジオブチャンピオンズ」という競技会の動画がある。画質は悪いが、三人三様の強さがよくでている動画だと思う。まずは「100年に一人出るか出ないかの天才」と解説の佐野稔が絶賛した伊藤みどりのジャンプ。驚異的な高さと飛距離だ。最後にスロー再生が出るが、トリプルアクセルにせよ、セカンドの3回転トゥループにせよ、これだけピタッと降りて、ス~ッと流れる降り方をされれば、ジャッジは絶対にダウングレードなどできない(もちろんこの当時ダウングレードなどという概念はないが)。完璧に回りきって余裕をもって降りてきているから、「ピタッ+ス~ッ」となり、佐野稔の言う「ランディング、つまりは降りた姿勢の完璧さ」が生まれる。キム・ヨナ選手もダウングレード判定に文句をつける前に、このぐらい完璧に着氷してみせてほしいものだ。多くの場合、「グルン」と回っていってしまったり、「ガッ」と氷のカスが飛び散るキム選手のセカンドの3回転は、Mizumizuにはかなり疑わしく見える。それにしても、伊藤みどりのジャンプを見ている佐野さんの興奮ぶり・・・「凄いッ!」「うまいッ!」と叫ぶのは、先のロシア大会でのプルシェンコ選手のジャンプを見たときのテンションにそっくり・・・(苦笑)。これだけ長く解説をやっているというのにも驚くが、1994年と2009年に、同じノリで叫んでるというのにも驚いた。進歩・・・もとい、老成せずにこれだけのアツさを保っているところが、佐野稔という人が天才だった証左かもしれない。今でこそ世界トップで競える男子選手が複数いる日本だが、1970年代に、「スタイルのよさ」がどうしてもモノをいうフィギュア界で世界相手に台にのぼるということは、佐野稔選手とはどれほど並外れた華の持ち主だったのかと思う。佐野選手の次に世界選手権でメダルを獲得した日本人男子選手は本田武史。その登場までには、実に25年もの年月を要したのだから。そして、クリスティ・ヤマグチ選手。彼女はジャンプの成功率も安定して高く、かつ表現力もある、非常にバランスの取れた選手だ。ことに手の表現が美しい。ひらひらと何かが舞い落ちる様子を片手で表現している部分などは秀逸。解説の女性アナウンサーは、「ヤマグチ選手は、スケーティングが非常にきれいですねぇ」などと言っているが、それは佐藤有香に対して言う言葉だと思う。同じ競技会で見ているのなら、一目瞭然だと思うのだが。アナウンス担当者が、「わかってないくせに、評判だけ聞きかじって適当なことを言う」のは、今も昔も変わらないらしい。しかも、その佐藤有香に対しては、「ステップは世界トップ。でもジャンプは得意ではない」などとわざわざマイナスのことを言って、佐野稔を憤慨させている。ステップも見事だが、佐藤有香は「ただ単に滑っている」ところがずば抜けてきれいな選手なのだ。膝の使い方の深さ、柔らかさは他の選手の追随を許さない。Mizumizuもショーを見に行ったことがあるが、佐藤有香はどんなに遠くにいてもわかる。滑っていると氷が柔らかく見える。そして、スタイル自体にはさほど恵まれていないにもかかわらず、滑る姿が非常にエレガントだ。スローにしてみると、エッジ捌きがいかに速くても、まるで氷をいたわるように丁寧にすべての動作をこなしているのがわかる。それだけではなく、スピンのポジションも正確で、かつスピンから出て行くときの足の位置、身体の使い方が素晴らしい。この動画で一番注目したのはスピンの部分。佐藤選手は柔軟性が飛びぬけているわけではなく、ビールマンスピンを試みて、「腰の骨が折れそうになった」と言っているのを聞いたことがあるが、ポジションを決めてきちんと回り、スムーズにフリーレッグの位置を換え、かつ丁寧に降ろして滑り始めるところまで、一切の無駄な動きがない。これこそまさしく、お手本のような動作だ。さらに腕を含めた上半身の動き。ヤマグチ選手のような個性はないかもしれないが、腕の動かし方からポーズの作り方まで、スピードのコントロールも含めて、すべて卓越していて、かつまったく嫌味がない。ときに細やか、ときに伸びやかな足の動きと連動しているのもいい。そして、顎から胸にかけての身体のラインには、流れるような上品さがある。これはフランス人の舞踏批評家が、「日本人の優れたバレリーナに、ほぼ共通して備わっている神秘的な魅力」として挙げている特長なのだが、不思議なことに佐藤選手もその魅力をもっていた。今なら安藤選手に、その魅力を感じる。顎から胸にかけての上半身に流れるような魅力があり、クイッと顎を突き出して腕を下から上に押し上げるようなポーズを取ると、その優美さが際立つ。今季の安藤選手の振付(特にステップの部分)をみると、モロゾフもそのラインの美しさを際立たせるポーズを、さかんに入れているように思う。<続く>
2010.01.23
今のルールではなかなか結果が出ない「理想追求型」のジャンプ構成。4回転を入れた「理想追求型」でもっともうまくいっている数少ない男子トップ選手がアボット選手だということは、すでに書いた。そして、とうとうそのアボット選手が全米で結果を出した。今季の世界王者かつファイナル覇者であるライザチェック選手に大差をつけての完全勝利。「優等生の出してくる試験答案は見ていて気持ちがいい」と、受験指導の教師はよく言うが、アボット選手のフリーのプロトコルもまさにそれ。最後のスピンのレベルだけが「2」に留まっているが、あとはレベルもほぼ文句なし。GOEも全要素でマイナスがついているのがたった1箇所。現在の男子のジャンプ構成の「まったき理想」は、プルシェンコ選手がつい先日ヨーロッパ選手権で見せた4回転1度にトリプルアクセル2度だといえる。トリプルアクセルを1度に抑えているアボット選手のジャンプ構成は、その意味では「まったき理想」とはいえないかもしれない。だが、プルシェンコは、案の定(?)ルッツが2回転になった。つまり、今の世界では、4Tを1つ、3Aを2つ入れて、かつ他のジャンプをすべてコンスタントに成功させられる力をもった選手はいないと言っていいのだ。アボット選手は、トリプルアクセルを1つにしているが、他の3回転ジャンプはすべて成功させた。ここまで4Tを入れずに結果を出してきたライザチェック選手はといえば、今回4Tを入れて、ダウングレード転倒、さらに2つではなく1つにした3Aからの連続もきれいに決まらず、普通なら跳べる3ループが2回転になって、しかも乱れた。つまり、ライザチェック選手も、4回転を入れることに連動する失敗のパターン、「次に難しいトリプルアクセルで失敗する。後半のいつもなら跳べるジャンプで失敗する」の2つに見事にはまっているということなのだ。正確には3A+2TはGOEだけのマイナスに留まっているから、「次に難しいトリプルアクセルで失敗する」のパターンからは、だいたい抜け出しているという見方もできるのだが。ライザチェック選手が4回転を入れるとこうなるであろうことは、想像できた。4回転をはずしても、トリプルアクセル2つをなかなかきれいに決められない。今回トリプルアクセルを1つにしたから、3Aからの連続ジャンプ3A+2Tをなんとか決めることができたが、これで欲張って3Aを2度にしていたら、もっとミスが増えただろう。アボット選手がついに4回転を決めて、かつ他のジャンプを成功させられたのも、決して偶然ではない。アボット選手はファイナルですでに、4回転は失敗したが、他のジャンプはすべて決めている。4回転を入れるとはまる失敗のパターンから抜け出していたのだから、今回の結果は階段を1つうまくのぼったということなのだ。だが、この1段をちゃんとのぼるのが非常に難しい。今回アボット選手がとうとう結果を出せたのも、彼がすでに過去に4回転を試合で決めた実績があること(2季前のワールド)に加えて、練習での4回転の確率がいい、つまり4回転を跳ぶ実力がもともと備わっていたからだとも言える。ここに至るまでのアボット選手は、非常に着実に階段をのぼろうとしてきた。2季前のワールドで、アボット選手は4回転は決めたが、他のジャンプがボロボロになった。そこで昨シーズンは、4回転を捨てて、他のジャンプをきれいまとめる作戦に出た。アボット選手は、ライザチェック選手やウィアー選手と同世代。常に注目されるこのアメリカの2強の陰に隠れて、それまで全米4位だったアボット選手の昨シーズン初めは、崖っぷちに立たされていたといっていいと思う。そして、昨シーズン前半、4回転なしで思った以上の結果が出て、アメリカ男子初のファイナル王者になり、勢いにのって全米も制した。この結果を出したあとに、アボット選手は4回転を入れ始める。だが、なかなか4回転が決まらない。そして肝心の世界選手権では、他のジャンプも乱れてしまい、惨敗。今シーズンは、コーチを佐藤有香に替えて練習環境も一新した。シーズン前半、4回転を入れての構成にこだわったアボット選手は、4回転をはずしてプログラムの完成度を上げる作戦できたライザチェック選手の後塵を拝することになった。だが、着実に「失敗するジャンプ」を減らしたアボット選手は、今回の全米でとうとう、「理想追求型」の高難度ジャンプが成功したときの強さを見せ付けた。全米フリーの演技は、以下の動画サイトで見られるが、http://www.youtube.com/watch?v=FM8zegmh9sc&feature=player_embedded今季Mizumizuが見た男子フリーの中でも、最も素晴らしいプログラムだった。音楽そのものが氷上でうねっているかのようなパフォーマンス。見ていて鳥肌が立った。アボット選手の個人演技史の中でも最高の出来。フリーの4回転も迫力があったが、ショートでのトリプルアクセルに入る前のターンとステップも驚異的だ。これぞまさに「独創的なジャンプの入り」。ジャンプのあとに、すぐにモーションが入るのも、これはきちんとジャンプを降りなければできないことなので、非常に高度かつリスキーな構成になっていることがわかる。「ジャンプが決まるとプログラム全体が非常に素晴らしくなる」と言ったのは、浅田真央とタラソワだが、アボット選手の密度の濃いプログラムにもそれがいえる。フリーの振付は高橋選手の「道」と同じく、イタリア人振付師のカメレンゴ。人生のドラマを巧みに表現した演技性の高い「道」に対して、音楽そのものを表現するこのアボット選手のフリーは、正直に言うと、これまであまりピンときていなかったのだが、印象ががらりと変わった。アボット選手は滑りはうまいが、さほど表現力に恵まれた選手ではないと思う。だが、昨シーズンと比べて、ショート、フリーとも表現力に抜群に磨きがかかった印象がある。ジャンプも表現も、確実に進歩している選手。実際のところ、こういうふうに言える選手がここのところいなくなってしまっている。結果を出すために大技を省いたライザチェック選手は、プログラム全体の完成度は上がったかもしれないが、必ずしもそれが「進歩」には見えない。リスクを避けてうまくまとめて点を伸ばす、というのは観ているほうにとっては、やはり物足りないのだ。ウィアー選手にいたっては、4回転をはずしても、トリプルアクセルが不安定で、かつ振付の傾向もあるだろうが、かつて全米を制覇していたころの線の美しさを活かしたバレエ的な高貴な雰囲気がなくなった。プログラム全体もスカスカに見える。アボット選手がジャンプを決めてしまうとさらにその印象が強まる。ショートは文字通り短いのでさほど気にならないが、フリーになると密度の薄さが目立ってしまうように思う。キム選手の振付に対しても、Mizumizuは同様の印象をもっている。要所要所のセクシーなポーズや音楽のポイントを抑えたちょっとした踊りでメリハリをつけてはいるが、全体的にさらっとしすぎていて、フィギュアスケートそのもののもつ醍醐味に欠ける。キム選手、ウィアー選手ともに、体力的にあまり恵まれたほうではないので、なんとか「省エネ」でいこうとする振付師の目論見が見えてしまうせいかもしれない。対照的にアボット選手は、ジャッジに向かって顔芸でアピールしたり、ステップの途中で止まって体を「妖艶に」クネクネさせたりはしないが、徹頭徹尾正統派のスケート技術で観客を魅了しようとする。上体を大きく使ってリズムをとらえ、深いエッジ遣いや細かいエッジ捌きで音楽のテンポを表現する。派手さには欠けるかもしれないが、通好みの極めてインテリジェンスな振付だ。要素間のつなぎも高度で、ただ単に滑っているところが少ない。知性と気品を感じさせるプログラムが少ない昨今、変に媚びない正統派の路線で、「これこそがフィギュアスケート」という密度の濃い振付と難度の高いジャンプを両立させた意義はあまりに大きい。今回の全米、アボット選手のフリーが1位、ウィアー選手が5位。演技・構成点では、アボット選手の86点に対し、ウィアー選手が77.34点と9点近く差がついた。技術点に関しては、89.75点(アボット)に対して、71.24点(ウィアー)と18.51点もの差がある。ジャンプ構成を落として、しかも失敗してしまうとこうなる。特に演技・構成点については、点差が妥当かどうかは主観によるので論じる意味はないが、ウィアー選手の「現状適応型」のプログラムのもつ弱さが、露呈した形になったと思う。ウィアー選手に関しては、どうも去年から「進歩」した印象がないのだ。ジャンプは明らかに後退してしまっているし、プログラムの振付は、個性には合っているが、好き嫌いが分かれすぎる。東京ファイナルのショートでのあまりに男娼めいたポーズには、正直辟易した。ああいった演技は、「アジアのある種の嗜好をもった女性ファン」には非常に受けるかもしれないが、それはそれだけのことだ。アマチュアらしい清潔感を捨ててしまうのは、ファン層をみずから狭めるだけの結果になりかねない。今回の全米では、ファイナルのときのような露骨なポーズは抑制されていたので、安心した。競技会はあくまで競技会。いくらフィギュアの試合が商業的な意味をもつとはいえ、お色気を競うショーにしてはいけない。ウィアー選手は、「妖艶な演技」に軸足がのりすぎている。その一方で、まだフリップにはアテンションマークがつき、4回転を捨てているにもかかわらずトリプルアクセルが2度きちんと入らない。こうした欠点をしっかり克服してオリンピックに来て欲しい。いくら層の厚いアメリカとはいえ、国内大会のフリーで5位まで落ちてしまっては、先行きが暗い。アボット選手のほうは、これだけ密度の濃い難しいプログラムを、ここまでミスなくできたのだから、言うことは何もない。あとはオリンピックでこの演技を繰り返すのみ。あの高度な構成を見ると、やはり相当にリスキーなプログラムだという印象は変わらない。今回のように滑ることができれば高得点が出るのは間違いないが、どこかで失敗すると、それが連鎖して全体が崩れてしまう可能性も高い。それでもこうして、徐々に完成度を上げてきている様子を見ると、オリンピック本番も過度に緊張しなければ、かなり期待できる。アボット選手は、むしろここで「もう1段ステップアップを」と欲を出さないことだ。本人にとって、ライザチェックをブッチ切っての今回の全米2連覇が大きな自信になったことは間違いないし、4回転を入れて、かつ他のジャンプも決めることのできる世界のトップジャンパーであることを内外に印象付けた意義も大きい。だが、それ以外にも今回のアボット選手の出した結果は、2つの重要な意味をもつことになると思う。まずは、振付師カメレンゴの名声が飛躍的に高まるであろうこと。なにしろ、高橋大輔の「道」と2本立てだ。それぞれまったくテイストが違うにもかかわらず、これまでとは一味違う選手の個性を引き出すことに成功した。フィギュアの振付で、もっとも注目されるのは、やはりシングルなのだ。高橋選手、アボット選手という世界トップクラスのシングル選手の振付を担当し、これだけ斬新な印象とともに高い点数を得たということは、カメレンゴ氏の人生にとっても今年は重要なターニングポイントになるだろうと思う。<続く>
2010.01.22
ある日――西荻から自宅に帰る道すがら、洒落たウィンドウディスプレイの帽子屋を見つけた。高低差をつけた支柱を窓際に何本も並べ、その上に、わざとランダムな方向に向けて帽子をのせている。そこだけが急にパリの街角になったよう。帽子も1つ1つ全部デザインが違い、少量生産独特の雰囲気が漂ってくる。窓越しに店を覗くと、商品を飾っているのはウィンドウと壁回りだけで、店の中央から奥にかけては布やら裁縫道具やらが雑然と並んでいる大きな作業机が占領していた。店舗兼工房ということらしい。なんだかますます魅力的だ。入ってみると、女性が1人。案の定帽子作家で、店内に飾ってある帽子は、基本的に自分でデザインして縫ったオリジナルらしい。わりあいオーソドックスなものが多いが、全体的に非常に質が高い。ふと目に留まったのは、ある黒い帽子。上のほうが膨らんだ扇形で、浅い庇がついている・・・形としては鉄道員の被っているような帽子を、庇を小さくして、柔らかく変形させたよう。額の上のところに片結びになったリボンが付いているのが、また洒落ている。被ってみるととても暖かい。「カシミアに別珍を合わせたものなんですよ」ちょっとレトロな雰囲気もあり、パリ風だなと思ったので、そう言うと、やはり50年代のフランス、郵便配達員が被っていた帽子からヒントを得てデザインしたのだという。その品自体は、試作品なので売れないが、注文すれば作ってくれるという。まさかこんな近所に、オリジナルデザインのオーダーメイドの帽子を作ってくれる工房があるとは知らなかった。さっそく頭のサイズを測り・・・「あら、小さいわ」などと驚かれ(頭は本当に小さいのだ。中身がないから・・・ほっとけ!)、「小さいわねぇ、どうしよう。ピッタリに作りますか、それとも普通にして、少し余裕をもたせましょうか・・・」と作り手が迷っているようなので、「少し大きくてもいいですよ。目深に被れば、耳のほうまで隠れて暖かいだろうし」と、こちらの希望を伝えた。森茉莉は「父の帽子」で、頭のデカい鴎外が、帽子屋で自分に合うサイズがなくて、バツの悪い思い――というより、ほとんど八つ当たり――をしているようすをユーモラスに書いているが、逆の意味で鴎外の気持ちはよくわかる。ニットならまだしも、普通の帽子を被ると、変に大きくてスポンと目のあたりまで来てしまうことがある。急に、大人のものを欲しがっている子供になったような場違いな気分にとらわられる。さて、オーダーしてからしばらくたって電話があり、おおむねできたのでリボンを付ける前に、合わせに来て欲しいと言われた。さっそく行って被ってみると、やはりちょっと大きい。風で飛ばされるようなデザインではないと思うが、もうちょっと小さくしてもいいかな、という感じ。だが、あまりピッタリした帽子は頭皮が痒くなる気がして(←皮膚のトラブルには常に悩んでいるMizumizu)好きでないので、このくらいのが返っていい気もする。結局、しばらくこのまま使ってみて、気になるようならサイズ直しをしてもらうことで話が落ち着いた。「リボンの素材はどうしましょう? 変えますか?」「何かよさそうなの、ありますかね?」「グログランなんか、どうかしら」壁際の戸棚の中から、魔法のように色々な素材のテープが出てくる。Mizumizuも、「こっちはどう?」などと指差して、あれこれテープを当ててみたが、結局サンプルのが一番ということに落ち着いた。そして、また数日待ち、出来上がったと電話が来た。だが、忙しくてすぐ行けなかった。間を置いて出かけてみると、が~ん!平日の昼間なのに、店が開いてない。この店、オープン時間が実に不定期なのだ。だから、長いこと店の存在に気づかなかった。ゆる~い西荻になんともふさわしいゆる~い店。店の机の上もごちゃごちゃのめちゃめちゃで、整理整頓はかなり苦手な人らしい(笑)。でも、売ってる品物はちゃんとしてる。そんなところも、まさに西荻のカラーの店だ。次は事前に電話をして、開いているのを確認してから出かけた。頭の部分のデザインも、この帽子が気に入った理由の1つ。黒のカシミアと別珍を交互に使って、この2つの素材の質感の違いがさりげなく、とても洗練されている。近づいて初めてわかる上質感だ。リボンが付いているのも、量感のアクセントになってバランスがいい。よくみると少しボーイッシュなデザインなのだが、リボンを添えることで、フェミンニンな雰囲気になっている。被ってみると、さすがにカシミアというべきか。破格に暖かい。今のように、酷寒の時期にはこの帽子が手放せない。普通よくある、耳まですっぽり隠れる冬用ニット帽の比ではない。実際に被ると、もっと扇形に上のほうが膨らんで見える。やはりちょっと大きいので、直してもらおうかな・・・と思いつつ、少し風が通るのが逆に暑すぎなくていいのかも・・・などとも思い、今のところそのまま使っている。ちなみにこの店、看板も出ていないのだが、Strawというらしい。帽子を作ってもらってから、名刺をもらって初めて知ったのだった。Straw杉並区西荻南3-22-7tel:03(3332)6292第二、四木曜、日曜定休日14時頃~19時まで開店(だということだが、これもアテにならないので注意)。
2010.01.17
荻窪で一番、それもダントツの人気を誇るPizzaの店がLa voglia mattaだ。駅ビル(ルミネ)の中という立地のよさがあるにせよ、ここほど行列のできる店は珍しい。すいているのは、午後の中途半端な時間。夕食どきになると、この行例だ。奥に見えるのが店の入り口で、そのすぐ前から横に並べた椅子が3列になっている。それでも座りきれずに、立ちっぱなしの行列が店の横に伸びていっている。どんな絶品のPizzaを食べさせてくれるのか? と思うかもしれないが、実際にはPizzaの基本――いい材料を使い、窯火ですばやくアツアツに仕上げる――に非常に忠実、という印象だ。荻窪には他にも石窯の直火で焼くPizzaを出す店があるのだが、クリスピーなミラノ風(ローマ風ともいう)Pizzaを出すこの店が、ほんのちょっと頭ひとつ分だけ、個性と味で抜けている。それともうひとつ特筆すべき点――La voglia mattaには、「割安感」があるのだ。この「ほんのちょっとの違い」を出すのが難しいし、維持していくのはもっと難しい。そして、食べたあとの支払いで感じる微妙なお得感とそれに比例して上がってくる満足度。その「ちょっとの差」が客足の違いとしてハッキリ出てくる。パスタ類は日本的な味付けで、あまり突出しているとも思わなかったのだが、この「イタリア風野菜スープ」には、ちょっとばかり唸った。見かけはあまりよくないが、イタリアのミネストローネはこんなもの。もっとゲ○っぽいのも多い(苦笑)。メニューにはZuppa di Minestraとあったが、要はMinestrone(ミネストローネ)だと思う。ミネストローネは野菜やベーコン、ときには豆など入れて、その旨みがスープに滲み出てくるのが美味しいのだが、やはりスープの基本になるのは、イタリア語でブロードと呼ばれるダシなのだ。La voglia mattaの野菜スープは、このブロードがタダモノではないと見た。Mizumizuがミネストローネを作るときは、そこらの固形のチキンブイヨンを使うのだが、そうした既製品では出せない、まろやかなダシの味がする。ブロードがダメだと、トマトソースの風味を強くしてごまかす。イタリアでもミネストローネはたいていこのパターンになっている。La voglia mattaはブロードの味がいい。ダシが飛び切りの味噌汁のようなもの。これはありそうでなかなかないのだ。こういう隠れた小さなところの違いが、人気のヒミツかもしれない。以前のエントリーではスペシャリテのPizzaをご紹介したが、シンプルなPizzaもとても美味しい。あまりいろいろな具がのっているPizzaを、基本的には好まないMizumizu。この日は、辛いモノ好き、サラミ大好き人間のMizumizu連れ合いの趣味に合わせて、辛いサラミののったシンプルなPizza。クリスピーな生地には、しっかり小麦粉の美味しさが詰まっている。外側はカリカリで歯ごたえがよく、真ん中は溶けたチーズと一緒になって少しねっとり。サラミは本当に辛く、チーズとの相性バッチリ。もちろんワインではなく、ビールと合わせる。荻窪でダントツの人気を誇る理由も、通ってみて頷ける、リーズナブルでシンプルで、気取りのない美味しい店。次は「4つのチーズ」にしてみようかな。あ、そういえば、基本中の基本であるマルゲリータも、ここではまだ食べたことがなかった。遠くから来る方は、夜はこの行例なので予約は必須。
2010.01.15
2010年1月23日(土)に公開される、ヒース・レジャーの遺作『Dr.パルナサスの鏡』。この作品、イギリスで宣伝が始まったときは、ヒロインのリリー・コールのヌードがやたらと強調されて、「もしかして、『アイズワイドシャット』みたいなテイストなのか?」と、やや引いていたのだが、日本の公式サイトでの宣伝手法は、一転して、ヒース・レジャーと3人のイケメン俳優たちの友情をまず表に出す、完全に女性狙いのものに変わっていて驚いた。日本ではとにかく、女性を動員しないとヒットにはならないらしい。というか、イケメン俳優4人のネームバリューで、女性を動員してヒットさせようということか。公式サイトの予告動画の日本語のナレーションを聞いても、ターゲット・オーディエンスが若い女性だということがハッキリわかる。まずは、ヒース・レジャーの未完の遺作をジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルが引き継いだという経緯を語る。実際にこの3人はギャラをヒース・レジャーの遺児に捧げるという無欲さで、この作品に参加した。彼らがヒースに示した篤い友情は、事実として非常に感動的なのだが、この日本向け宣伝動画は、そのあとが悪い。あろうことかたらたらと粗筋を説明したあげく、「大切な人を守るため、今鏡の中へ」と、陳腐すぎるキャッチフレーズで終わっている。これじゃ、まるでティーンの少女向けファンタジーのよう。どうしてよくある少女漫画的ストーリーの枠に当てはめたような粗筋解説をして、わざわざ映画を観る楽しみを半減させるのか。こういう「ネタバレ」を宣伝サイドが自らしてくる場合は、実際は物語がそれほどわかりやすくない場合が多い。だって、監督はテリー・ギリアムじゃないの。そんなに一筋縄でいくワケがないと思うのだが。英語のナレーションを字幕にした予告動画は、ずっと成熟している。この作品が「ファウスト」を下敷きにしたものであることをまず伝え、ちゃんと(?)テリー・ギリアム監督の不可思議な映像世界を前面に出したものになっている。あまりナレーションでベラベラしゃべらないし、映像と寄り添う壮大なクラシカルなメロディ――それはロシア風のワルツに始まり、レクイエムめいた合唱に自在に変調する――も効いている。日本語版では、陳腐なストーリー解説に合わせるためか、粋な映像もだいぶカットされてしまった。どうして、日本ではなんでもかんでもこう、幼稚でないものまで幼稚化させるのか。英語のナレーションの予告動画を見ると、「オルフェの鏡」のエントリーで予想したとおり、この作品、ジャン・コクトー的イメージがそこここに散りばめられている。ギリアム監督が直接コクトーに影響を受けたかどうかはあまり問題ではないと思う。「鏡通過」に代表されるコクトーの「幻視」は、特にハリウッド映画に大きな影響を与え、そこからさらに色々な国のさまざまな人の手によって「翻案」されているからだ。たとえば、ヒース・レジャー演じるトニーと一緒にしばしば登場する「小さな人」。小人を登場させて、「この世」と「この世ならざる場所」との境界を曖昧にしていくという手法は、コクトーが好んで使ったものだ。『悲恋』では、小人が主人公を死の世界へ導く水先案内人の役割を果たす。『ルイ・ブラス』では、小人が正装をして宮殿に仕えていることで、そこが実は「この世のどこにもない場所」であることを強く暗示する。だから、コクトー作品へのオマージュである『ロバと王女』(ジャック・ドゥミー監督)の宮殿でも、「小さな青い人」たちが、普通に働いている。コクトー作品がときどき、奇妙なほど予言的側面をもつことは、『双頭の鷲』のエントリーでも紹介した。コクトーはジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールが演じた詩人と女王を双頭の鷲になぞらえ、一方が死ねば、もう一人も生きられないと書いた。それから何十年もたって、ジャン・マレーが亡くなると(そのときはとっくにコクトーはこの世にいなかったが)、一週間もしないうちに、まるであとを追うようにエドヴィージュ・フィエールが亡くなってしまった。「鏡通過」が役者にとって縁起が悪いことも、ジャン・マレーが「私のジャン・コクトー」の中で書いている。それはメキシコで『オルフェ』の舞台劇を上演しようとしたときのこと。まず地震が来て劇場が壊れ、芝居は延期になった。劇場を修復し、いざ上演となったとき、オルフェを演じていた役者がいったん鏡を通過し、ふたたび出てくる前に、舞台裏で倒れ死んでしまったのだ。ヒース・レジャーが亡くなったのも、「鏡を通過」するこの作品を撮っている最中。『ダークナイト』での過酷なスケジュールと役作りで神経をすり減らし、私生活でのゴタゴタもあって精神的にまいっていたという報道はなされてはいたが、『Dr.パルナサスの鏡』予告動画でのヒースの笑顔を見る限り、死に至るほど深刻な問題があったとは、到底信じられない。もちろんテリー・ギリアム監督は、ジャン・コクトーだけでなく、古今東西に散らばるさまざまなイメージを巧みに取り入れている。そう、独創的な人は、常に幅広い知識人であり、優れた翻案家でもあるのだ。Mizumizuがまた特に目をひきつけられたのは、英語の予告動画にちらと出てきた、この場面。この挿絵の右上の部分。なんとまあ、ブリューゲルの「死の勝利」の一部そっくりいただいたものじゃないですか。下の人物画にもモトネタがあると思う。それがどの作品なのかはハッキリわからないが、ブリューゲルと同じく北方の画家の、おそらくテーマは「東方三博士の礼拝」だと思う。布の質感が北方絵画の特徴を示している。このブリューゲルの「死の勝利」については、こちらのエントリーで紹介したが、奇妙なほど、現在のCGで作り上げたファンタジーワールドに似ているのだ。『Dr.パルナサスの鏡』の小道具にブリューゲルの絵画を忍び込ませたのが監督のアイディアなのか、美術スタッフのアイディアなのかは知らないが、恐らくブリューゲルやボッシュといった中世末期の画家の作り出した奇怪なキャラクターは、現代のアーティストにも強く訴えてくるものがあると思う。いろいろな意味で、観るのが楽しみな『Dr.パルナサスの鏡』。各国の映画のポスターを紹介したこちらのサイトも興味深い。この独特な映像世界のどの部分をクローズアップして宣伝するのか? 日本はあくまで、スター俳優中心主義。黒と白を基調にして、中心の鏡の中だけに色をちりばめた色彩構成は、とても洗練されている。ちょっと地味かもしれないが、上品なデザインだ。しかし、ヒロインのリリー・コールと、大注目の配役であるトム・ウェイツの名前さえないというのは・・・ トム・ウェイツが演じる悪魔メフィスト、それだけで胸が高鳴る人も多いと思うのだが。ここまでイケメン俳優の名前を繰り返すのは、日本だけなのでは。作品の内容や質よりも、まずは、役者の「顔」で観客を集めようという今の日本の風潮をよく表している。個人的に好きなのは・・・リリー・コールが抜群に美しいこの1枚。さすがおフランス。リリーの少し獣めいた瞳が印象的だ。ヌードで釣らず、明るい髪によく映えるクリームイエローのドレスを着せているところもオシャレ。指のニュアンスもいい。やはりヒロインをヒロインとして正当に扱って欲しいものだ。このごろの日本は何でもかんでも女性客狙いのイケメンパラダイス作品ばかりで、憧憬の偶像としてのヒロインがいなくなってしまった。この作品では、ヒロインが魅力的に描かれているんじゃないか――その部分にも、実はMizumizuは期待している。しかし・・・『ブロークバック・マウンテン』では、ある意味、ヒース以上の評価を受けたジェイク・ジレンホールはどうしたのだろう?ヒースが亡くなったときに撮っていたBrothersは、12月にアメリカで公開されたはずで、日本でも公開予定と聞いたのだが・・・いつ?ネットでの匿名ファン投稿が口さがなく、心ないのは万国共通だが、ジェイクがヒースの葬儀に表立って参加しなかったことで、英語の掲示板にも、「葬式にも出ないなんてなんてやつ。親友なんてウソだろ」「どうせ仕事だけの付き合い。友情はただの売り物」などとさかんに書き立てられ、気の毒このうえなかった。実際には、ヒースが急死したときには撮影を中断してNYに行っているし、東海岸から西海岸に移ってヒースのお別れ会があったときも、表にこそでなかったが、行っていたのは明らかだし(街中で写真を盗み取りされている)、オーストラリアでの最後のお別れ会のときも、表に出てきた母親ミシェルにかわってヒースの娘のマチルダの面倒を見ていたのは名付け親のジェイク以外考えられない(マチルダちゃんだけが顔を出さず、他のヒースの家族は全員出席)し、つまりは、アメリカからオーストラリアまでずっとヒースにくっついていた状態なのに、「表に出てこない」からといって、非難されるとは・・・出てきたら出てきたで、今度はメディアが無遠慮にカメラを向けてプライバシーを侵害するのは目に見えている。「葬儀に出られないほど辛いのでは?」と掲示板に書いたファンが一人だけいたっけ。ああした書き込みが救いだ。
2010.01.13
殺人的なスケジュールだった12月。1月になったら気が抜けて、仕事のペースがガタンと落ちた。それでも、相変わらずコンスタントに仕事が入り、「南の島で休暇」というささやかな(?)夢がまた遠ざかる・・・12月に何か請求し忘れている案件があるような気がしていたが、案の定だった(苦笑)。新しく仕事が来て、そのクライアントさんへ12月の仕事の請求をし忘れているのに、そこで気づいた。額が小さかったせいか、完全に抜けていて、チェックしたつもりでも気づかなかった(クライアントにとっては好都合?)。おまけに6月から12月の外注費の源泉預かり金が、税理士事務所で計算してもらった数字と合わない。それも250円。イライラしながら、在広島の事務所と何度か電話でやり取りし、やっと間違いを見つけた。ミスしていたのはMizumizuのほう。数字には基本的にヨワいMizumizu。もともとこの手の作業には向いていない。向いていないが、いい加減に済ませることができない性格なので、ちょっとでも数字が違うと、「ま、いいや税理士のほうが正しいだろうし」という気になれずに、双方の計算をチェックしないと気がすまない。ごくたまに税理士事務所側の勘違いもあるのだが、だいたい間違っているのは、Mizumizu。自分が間違っているたびに、税理士事務所を巻き込んでひと騒動になる(←迷惑なクライアントだなあ)。250円ぽっちの数字が合わないために、何時間も無駄にした。電話代だけで250円を上回っているのは必至。この源泉預かり金、1月20日までに納めなければならず、毎年大いにムカつかせていただいている。ムカつく理由はただひとつ。 「何でひとさまの税金をこっちが預かって、納めなけりゃならんの!」源泉徴収という日本独特――独特かどうか、世界中の税金システムを知ってるわけではないのでハッキリ言えないが、少なくともアメリカにはないはず――のシステムのおかげで、毎年毎年、実に多くの無駄な労力と経費が使われていると思う。企業側にしたら、源泉預かり金の計算と納付という手間。そのために人件費もかかる。源泉されるほうの手間はたいしたことはないと思うが、自己申告にもとづいて還付される場合が多いハズで、そのための事務処理と膨大な銀行の手数料がかかる。個人が追加で税金を納める場合もしかり。こうした手数料は国持ちとはいえ、それはもともと税金。銀行ばっかり、やたらもうかるシステムだと思う。小耳に挟んだ話なのだが、この天引きシステムは、軍国主義の時代、税務署の職員が軍人の家に税金を催促に行くと、刀を手に払わないとスゴまれ、困った役人が考え出したもので、そのときに主導的な役割を果たしたのが宮沢喜一だったそうな。へ~ X 3どうも「帝国軍人」を悪者に仕立てあげたいがために、誇張されたエピソードという気もしないでもないが、そんな昔に作られたシステムがいまだに続いているのにウンザリする。経営者側から、「源泉徴収やめようぜ」的意見が発せられることもあるが、言ってるのはたいてい起業家、つまり新しく企業を興した人だ。大企業のトップが源泉無駄論を吹いてるのは、あまり聞かない。もう「そういうもの」として定着しているということなのか。あるいは、「預かり金」を銀行にプールしている間に利息がつくので、それが大企業となれば膨大だろうし、案外「もうかってる」部分もあるということか。これは消費税についてもいえる。しかし、こうまで企業側に面倒な事務作業を負わせ、いったん企業から納めさせた税金を、国から個人に還付するなどという二重の無駄な作業をしても、なおペイするシステムなんだろうか、これ。つまり、源泉をせずにすべて自己責任とし、脱税に厳しく対処するという(これはアメリカ式システムだと思うが)労力に比べると、とりあえず取りっぱぐりはない源泉徴収にしたほうが、総体的に見て経費が安くあがり、かつ適正な税収を得られるのだろうか。よくわからないが、どうもそういうマクロの視点からは議論がされていない気がするし(まあ議論しても、どっちが効率的か結論は出ないかもしれない)、財務省と銀行の癒着という面もあるように思う。ひとさまの税金を預かって納める側からすれば、額が大きいだけに、その数字を見ただけで少々ムカつくのだ。つまり、もともとは預かってるお金なのだが、イザ自分の懐から出て行くとなると、「自分が払っている」ような、損した気分になるということ。これは消費税を払うときも同じ。消費税は別に請求しているので、もともと払ったのはお客さんのほうなのだが、イザ自分が払う段になると、「こんなに払わないといけないわけ?」などという気になる。この2つは気分的なものだが、日本中で源泉預かりに絡んで支払われる労力・経費は、集合体で考えると、壮大な無駄だとしか思えない。
2010.01.09
東京で最中の美味しい店といえば、皇室御用達の虎屋、銀座の空也、吉祥寺の小さざ・・・などが思い浮かぶが、本郷の壷屋もはずせない。寛永年間に町民が開いた最初の江戸根元菓子店で、明治維新の折、お世話になった徳川家の終焉とともに一度は暖簾を下ろす決意をしたものの、勝海舟から、「市民が食べたいと言っているから続けるように」と言われて、店を再開したのだという。保存料の類が一切入っていないので、日もちは3~4日。一口食べて、「美味しい~!」と叫ぶようなインパクトはないが、餡の柔らかな甘さがクセになり、何度でもまた食べたくなる味。こちらが名物の「壷最中」。薄手の皮の中に、はみださんばかりの(というか、実際にはみだしている)餡が入っている。白が漉し餡で、茶色がつぶ餡。茶色の皮のほうは、かすかにおこげの風味があって、何と言うか野性的な最中だ。亡父もここの最中が好きで、亡くなる2ヶ月前だったか、オランダ人相手のパーティに持参していた。同行しなかったので、オランダ人の反応は知らないのだが(父によれば、「好評だった」というのだが・・・ホントかなぁ・・・)、昔はガイジンが苦手な日本の甘味といえば、餡子が相場だった。今はみな少しは食べられるようになったのだろうか。普通の円い最中もある。皮は壷形の最中より厚めで、餡の量も少ない。普通はつぶ餡を好むMizumizuなのだが、壷屋の最中に関しては、上品な漉し餡のほうが気に入っている。こちらはどっしりした壷最中と対照的に、とても小さな「壷壷最中」。創業当時の品物を再現したのだとか。皮と餡のバランスで言ったら、個人的にはMizumizuはこれが一番好きかもしれない。サイズが小さいのもいい。本場・上方の洗練された色とりどりの和菓子に比べると、上菓子(東京の和菓子)はどうしても見劣りするように思う。壷屋の上菓子も、一見ルックスが素朴すぎて、「大丈夫か?」と思わないでもないのだが、実際に口にしてみると、あまりに自然でとてもやさしい味。写真は「鶴」だそうな・・・ うさぎかと思った(笑)。中の白餡の風味は、何度でもリピートしたくなる。これぞ手作り。きんとん(と店の人は言っている)の下に餡入りの求肥餅が隠れている、凝った上菓子。これもMizumizuお気に入り。この本郷の壷屋は、かなり「知る人ぞ知る」店だと思っていたので、ちょくちょくフランスの美味しいものネタを仕入れに(仕入れているだけでいっこうに行けないのだが)伺っているPARIS+ANTIQUEさんのブログに突然、ここの最中の写真が現れたときは、心から驚いた。もともとこちらのブログと縁が出来たのは、「タルトタタン発祥の町ラモット・ブーヴロン」を個人で訪ねたあと、「こんなフランスのド田舎までわざわざ来る物好きって、きっと私だけだろうなぁ・・・」と思ってブログ検索してみたところ、パリから電車を乗り継いで訪ねただけでなく、タルトタタンの食べ歩きまでしたというド根性エントリーを見てビックリしたのがきっかけ。Mizumizuがホールでタルトタタンを買った、「Jack Lejarre(ジャック・ルジャル)」というお菓子屋も売り子のおば様つきで写真が載っていた。なぜか不思議と嗜好が合い、「ヴェネチア一のレストランを紹介します」とあって、どこを選んだのかな? と思ったら、なんとMizumizuが一番贔屓にしている「マドンナ」だった。ヴェネチアには他にも高級レストランがあるのだが、値段がお手ごろで美味しいこのトラットリアが気に入って、いつもヴェネチアを訪ねると入り浸りになる。ヴァポレットを降りたらリアルト橋をわたって、左へ。そして最初の角を右へ(ここの路地をふさぐように他店がテーブルを出していて、マドンナを探してウロウロしている観光客を強引に座らせ、ぼったくるらしい)。薄暗い路地の左にある、いつも混んでるマドンナ。しばらく行っていないが、贔屓だった店が相変わらず美味しいと聞いて、嬉しい気分になった。本郷の壷屋にしろ、ラモット・ブーヴロンのジャック・ルジャルにせよ、ヴェネチアのマドンナにせよ、店の規模は小さいが、時代の荒波を超えていけるだけの「強い翼」を持っている。グローバル化が進む世界の中で、小さくしぶとく生き残るための知恵。奇をてらうのではなく基本に忠実に、「美味しい」と言われた味を落とさずに続けていく努力だ。壷屋は本当に小さい店だ。知らなければ(いや、知っていても)うっかりしていたら通り過ぎてしまいそう。店の中も薄暗く、古っぽく、雑然としている。あえて店のしつらいにお金をかけないというのも、品質勝負の店ではいい選択かもしれない。
2010.01.08
1月3日に、東京ミッドタウンに行ったとき・・・スケートリンクの工事が急ピッチで進んでいた。1月6日から期間限定で一般利用が可能になるという。ただでさえ寒い1月だが、このあたりはビル風がすごく、立っているだけで顔が冷たく、切れそうになる。リンク下の施設にペンキを塗っている職人さんも、ご苦労なこと。明らかにNYのロックセンター前のオープンスケートリンクのイメージ。VWロゴが思いっきり目立つところに張られていた。フォルクスワーゲン社がメインスポンサーになっているということだろう。輸入車はどこも苦戦している昨今だが、フォルクスワーゲンだけはメゲずに宣伝攻勢をかけている感がある。いつだったか日本橋の三越で試乗会をやっていて、気がついたら誘われて乗っていた(笑)。メルセデス派のMizumizuは、乗り味の面でちょっと満足できなかったのだが、ハンドルを握ったMizumizu連れ合いには、思いのほか好印象だったらしい。フォルクスワーゲンは、メルセデス、BMW、アウディの三強に比べるとぐっと庶民的で、そのわりにはドイツ車らしいしっかり感もちゃんとある。とにかく(メルセデスに比べると)値段が段違いに安いし、そのわりにはいいクルマだ。フォルクスワーゲンとは、もともと「国民(大衆)のクルマ」という意味。メンツにこだわらなくてすむ分、今がチャンスと攻勢をかけているのかもしれない。不況のなか、頑張ってこうしたイベントのスポンサーになってくれるのはありがたいことだと思う。しかし、このスケートリンクは、まごうことなき吹きっさらし空間。「ここで滑るのは寒いね~」と、Mizumizuが言ったら、長野育ちのMizumizu連れ合い、「寒くなきゃ氷張らないんだから、当たり前でしょ」彼の田舎では、田んぼに水を入れて凍らせてリンクにしていたらしい。しかも学校の正規の授業に(スピード)スケートがあったとか。この話、聞いたときはかなりたまげた。田んぼでスケート? マジですか? 長野では常識なのだろうか? だとしたら、もっとたまげる。Mizumizuの記憶にある野外のスケートリンクは、小学校にあがって連れて行ってもらった、須走のスケートリンク。富士山がすぐ近くに見える、広大な(と、子供のころは思ったのだが、実際はどうだったのだろう?)スケート場だった。床も壁も、そして机も椅子も全部木でできた休憩所は、ひどく薄暗かった記憶がある。ギシギシ言う床を踏みしめて歩き、リンクに出ると、ぱあっと半透明の白の世界が大きく広がった。須走のスケートリンクが原体験なので、その後、屋内のスケートリンクに行くと、あまりにも狭く、人がひしめいているように見え、怖く感じたものだ。東京のど真ん中にできた上品な屋外スケートリンクも、とても狭い。利用料金はかなりリーズナブル。どれくらい人が来るのかな。ビル風に追い立てられるように、ミッドタウンの中に戻った。和のテイストを取り入れた吹き抜けは、配された素材の色調や質感、それに照明や自然光の採り込みかたを含めて、その空気感が唯一無二。1月5日にはこのスケートリンクのメディア向けの発表会があるということだったので、「また荒川静香?」と思ったら、案の定だった(動画はこちら)。クールビューティに負けず劣らずの美貌の持ち主、浅田舞も登場していた。タレント性では妹を凌ぐ才能をもっている人なので、また新しいフィールドで輝いて欲しい。
2010.01.07
1メートルほどのラズベリーの苗木を植えたのが4年前。最初の収穫時期(初夏)に、1日数個取れる状態が続き、ラズベリー好きのMizumizu連れ合いはホクホク。翌年は、剪定をせずに放っておいたら、葉っぱばかりあちこちから繁茂したが、実はならなかった。それで適当に剪定したら、次の年(それはつまり、昨年なのだが)には6月頭から実が成りだした。7月中旬にいったん終わったのだが、10月ぐらいになって、また食べられそうな実がつきはじめた。最初の年は初夏にしか収穫できなかったので、知らなかったのだが、ネットで調べたら、ラズベリーは年に2度実をつけるのだという。へ~ X 3初夏のころのように「次々と」熟してくるということはなく、実も初夏のときのようにきれいな形にならないものが多いのだが、それでもゆっくりしたペースで、数日間獲れない日が続いたあと、1日1個か2個食べられる実が獲れるという状態が続いた。雨のあとに実が急に熟すのは、初夏のときと同じだった。冬に入ると実が熟すペースはさらにゆっくりになり、熟しきらずにしぼんでしまうものも増えたのだが、それでも、12月になっても、やっぱり週に何度かは獲れるのだ。寒さが進み年末になってくると、大きく分かれた枝のほとんどは、先のほうまで枯れてきた。1本だけ、テラスのほうに伸びてきていた枝だけが葉も何枚か緑で、弱々しく熟そうとしている実をちらほらつけている。そして、1月6日。おそらく最後の収穫になりそうな実が獲れた。形はいびつだが、これでも冬に入ったあとのラズベリーとしては整っているほう。他にも少し赤くなりはじめているのもあるのだが、おそらく熟しきる力はなさそうだ。しかし、一般的には6月中旬から7月、9月下旬から10月が収穫時期と書いてあるラズベリーが1月に入っても、まだ獲れるとは・・・さすがにヒートアイランド東京、と言うべきか。そういえば、東京では蚊が越冬しているという噂がある。ここらあたりでも、11月までは蚊は確実に飛んでいる。
2010.01.06
<きのうから続く>テレビで紹介されていた職人。それはおあつらえむきに、陶磁器の割れやヒビの修理を専門にしている人だった。もともとは骨董商で、独学で陶磁器の修理を学んだという。最初は同業者からの依頼がほとんどだったのが、だんだんと一般の人からの注文も増えたのだとか。「六屋」という工房を文京区にかまえているらしい。「案外、愛着があるから直してまた使いたいという方が多いんですよ」職人の言葉は、Mizumizuの思いそのままだった。「金継ぎ・銀継ぎ」という手法を使うとかで、テレビで説明されていたのだが、「???」とにかく、非常に細かく、凝った作業をやるらしい。さっそく、行って相談することにした。もともと文京区千駄木が本籍地のMizumizu。六屋工房のある小石川のあたりは、なんとなく懐かしい場所だ。クルマが轟々と通る春日通りのビルの1階。道すがら窓ガラス越しに覗いても、古っぽいものが雑然と並んでいて、何をやっているのかよくわからないような店だ。入っていくと、目指す職人さんは、部屋をパーティションで区切り、わざわざ「隅っこ」のほうに応接セットと作業用の机を置いて、そこに座っていた。入り口に近い空間は・・・外から見たとおり、古っぽいものが雑然と並んでいて、ただ単に無駄なスペースになっている・・・ような気がした。しかも、無駄にしてる空間のが広い・・・変わり者の雰囲気ムンムン・・・(苦笑)。隅っこに置かれた応接セットに、うながされて座り、パキーンと見事に2つに割ってしまったリモージュのソーサーを見せた。「直せますかね?」「う~ん」唸りながらひっくり返して見ている。「模様はあまりないんですね。ほとんど白か」「そうですね。ですから、継ぐだけでいいんですけど」「どのくらいまで元通りになるか、わからないけど・・・」「まあそのへんは・・・もちろん新品みたいになるとは思ってませんから」「これだと、昔ながらのやり方ではなくて、化学的な接着剤を使ったほうがよさそうですね」は? 化学的な接着剤? もしかしてそこらのセメンダインの類ですかね? 金継ぎナンタラとかは、関係ないわけで?「実際にかかる時間は、もちろん、すぐなんだけど・・・少しイメージトレーニングしてからやりたいから」は? い、イメージトレーニング? 「しばらく預からせてもらっていいですかね?」「どうぞどうぞ、いつでも気分が乗ったときで(←これは大事だ)。できたらご連絡いただければ。別に急ぎませんから(←職人はせかせてはいけない)」そんな話のついでに、「どこからいらしたんですか?」と聞かれたので、杉並だと答えると、「ぼくも杉並にいたことあるんですよ」とのこと。ちょうどそのころMizumizuは家(新築・中古を含めて)or土地orマンションを探していて、馴染みのある文京区も当たっていたのだが、不動産は杉並よりやはり一段値段が高かった。そう言うと、驚いたように、「へええ? そうですか? 文京区のが高いんだ」などと言う。「・・・」文京区はいわゆる「山手線の内側」で、江戸時代から将軍のお膝元。武家屋敷跡地が高級住宅街になっている。それに比べれば杉並なんて、もともとは別荘地として不動産開発が始まった。不動産価格がどっちが高いか、普通の感覚でもわかりそうなものだし、ましてや両方に住んだことがあるというのに、気づいてないって・・・商いにはむいておへんな(←どこの言葉?)。職人になってよかった。ぬぼ~っとした風体もやっぱり、ホントに骨董を商ってたんどすか?間違いなく地味な職人作業が向いている人だ。だいたいの見積を聞いて、もちろん十分に良心的な言い値だったので、そのまま預けてきた。1週間もたたずに、「できましたので」の電話があり、取りに出向くと、「化学的接着剤」で「イメージトレーニング」して、仕上げたらしい修理は思った以上に見事にできていた。接着剤が漏れているわけでもなく、ぐるりの模様がズレてるわけでもない。遠目には割れ目さえわからない。「おお~!」と、感嘆符のあとに、さらに丁寧にお礼を言おうとしたのだが、なんだか照れたようにすぐ向こうを向いてしまって、「よろしいですか?」の言葉もない。最初の日はわりに饒舌だったのに、どうしちゃったんだろう。社交的なのか内気なのか、よくわからない人だったが、仕事にも値段にも満足して店を出た。それをちゃんと口で伝えられなかったのが残念だったのだが、向こうを向いてる人に、しつこく話し続けるのも変だしね。これが現在のソーサーの割れ目。かなり拡大して撮って、やっと手前から向こうに一直線に縦に走っている割れ目が写った。肉眼だと、よっぽど目を近づけてみて、「ヒビかな?」と思う程度。ヒビどころか、真っ二つだったのですよ。使っている間にコーヒーの液が入り込んで、割れ目が目立つようにならないかな・・・と懸念していたのだが、案外大丈夫。裏は多少カケが目立つ。なんだか、それこそ骨董品みたい(笑)。割れてしまったものは割れてしまったものだが、あえて自分の足で直しにいったことで愛着は深まった。別に売るわけではない、使い倒すつもりで買ったモノなので、それで十分だと思う。こちらはお揃いのデザートプレート。金彩がやはり、少し剥げてきている。これは割らないように気をつけよっと。
2010.01.05
陶磁器が好きなので、焼き物で名高い街に行くと、思い出に食器やカップ類をいくつか買うのが習慣になっている。あまり高いものは買わない。せいぜい数万レベル。磁器の食器は平気で10万、50万とするものもあるが、そういうランクになるとキズついたり、色が剥落したりするのが怖くて使えなくなる。緻密なハンドペインティングだとか、金彩が場違いに華やかなものだとか、買ってもコレクションとして眺めるだけになる陶磁器にはあまり興味がなくて、Mizumizuの目的はあくまで日常に使えるもの。それをあれこれ迷いながら、窯元あるいは窯元に近い街で選んで歩くのが好きなのだ。日本ならまだいいのだが、個人で海外旅行しているときはやっかいだ。旅の途中で割れ物を買ってしまったら、最後まで自分で持って歩かなければいけない。「大丈夫かな? 割れてないかな?」と常に心配になるのがストレスだし、といって確認のために梱包を解いてしまったら、あとがもっと面倒だ。それでもやはり買ってしまう。フランスのリモージュを訪ねたときも、気に入るものがないかいろいろと店を見て歩いた。ハッキリ言って、リモージュの街での磁器探しは、期待したほど楽しくはなかった。窯元があるわけでもなく、ショップも案外大量生産モノを置いているところが多く、白一色のダイニングセットなど見ると、「これじゃ、ノリタケと変わらんじゃん」と心から叫びたくなった。ノリタケがリモージュのマネをしたのかもしれないが。ともかくリモージュは、磁器を扱う店は多いのだが、どこも似たり寄ったり。日本のデパートに入ってくるリモージュは、それなりに「おフランスっぽい」ものが選ばれているが、現地で見たら、わりあい「どこにでもあるふつー」の磁器が多かった。なんというか、これなら何もリモージュくんだりまで来る必要はない。パリのデパートで十分じゃないかと。焼き物の街という意味では、有田や伊万里のほうがずっと雰囲気がある。リモージュの国立陶磁器美術館も思いのほかレベルが低い。リモージュで磁器産業が始まったのは18世紀末。肥前磁器の始まりは17世紀初頭。その差がいかに歴然たるものかを確認する結果になった。それでも、街の中心の広場に面したHaviland(アヴィランド)直営店は品揃えも質もよく、ここで気に入ったデミタスカップ&ソーサーとデザートプレートを2種類買った。アヴィランドはリモージュ土着のメーカーではなく、ノルマンディーに起源をもつ(と自分たちで主張する)アメリカ人貿易商が作った会社だ。そのせいなのか、アヴィランドのリモージュ焼きは、東洋風のもの、いかにもフランスらしいロココ風のもの、そして超モダンでスマートなものまで、デザインの選択肢が非常に広い。「外部からの風」と採り入れることに躊躇がない。東洋風のものは「シノワズリー」と呼ばれる中国趣味のものから、ヨーロッパで一世を風靡した「柿右衛門」カラーを採り入れた和風なものまで・・・・・・というか、実際にはそのフュージョンになっていて、中国の磁器とも日本の磁器とも違う、フランス的解釈の不思議な東洋が器になった、という印象。ロココ風のものは、ルイ絶対王政時代を彷彿させる豪華絢爛な金彩を特徴とするものと、可憐で華やかな花模様とに大別できると思う。リモージュ焼きは花柄デザインをマリー・アントワネットのイメージとくっつけて、うまく商売をした感がある。オーストリアから輿入れしてきた美貌の王妃を、自分たちの手で首チョンしておきながら、今ではフランスのプロモーションに思いっきり利用している。実に都合のいい人たちだ。「悲劇」が、常に最高の商売のネタになるのはいずこの国も同じこと。さて、アヴィランドで意外と充実していたのは、現代的なすっきりとしたデザインのものだった。これにも案外心惹かれたのだが、モダンなものなら日本製にもあるし、やはりリモージュ焼きを買うなら、徹頭徹尾フランス風のフェミニンなものがいい。というわけで、選んだのが、「ヴァルドロワール(ロワール渓谷)」と「ヴィウパリ・ヴェール(旧きパリ、緑バージョン)」という、いかにもフランス的なネーミングの2品。りっぱな店構えの高級店だったが、日本人がいい客だと知っているのが、売り物を棚から自分の手でおろしてじっくり選んでいても、齢おそらく60歳超のマダムは、何も言わずに脇でニコニコしていた(でも、かなり笑顔が引きつっていたので、内心、「割らないでよ、割らないよ」と念じている雰囲気はビシビシ伝わってきた・笑)。「自分で日本に持って帰るので、丁寧に包んで」と英語で言ったのだが、全然通じない。すると奥に引っ込んでわざわざ英語のできる若い女の子を連れてきた。こういう丁寧(というか、ま、日本のレベルなら当たり前のことだが)な接客は、フランスでは珍しいので印象に残った。これしきのことで好印象の店になるってのが、フランスの凄いところだ。同じことを英語のできるお姉さんに言うと、「もちろん、もちろん。気をつけるわ」と胸を張りながら、ごくごく普通の梱包をしてくれた。愛想のいいマダムは、最後まで笑顔全開。翻訳すると、「できればもっと買って欲しい」というところ(意訳)。よっぽど売れないのだろうか、リモージュ焼き。日本でも高級磁器は苦しいと聞くが、いずこも同じかもしれない。だが、こういう「人との思い出」ができるのが、旅先の買い物の楽しさだと思う。店に個性があるように、売る人にも個性がある。それがおもしろい。最近はそういう「人の顔」が見られる店が、特に日本では、少なくなってしまったが。リモージュを発ってクルマで中部フランスを回り、パリ経由で日本に帰って来た。自宅で梱包を解くときはドキドキする。よかった。割れてない。リモージュ焼き全般に言えることだが、地の白が青ざめていて、透明感がある。温かみには欠けるが、何ともいえないクールさが上品で貴族的だ。Mizumizuはなぜかデミタスカップの円筒形が好きで、気がつくと家中デミタスカップばかりになっている。普通のコーヒーカップが非常に少ない。デミタスカップの形なんて、どれも同じなのだが、その同じ、小さな円筒形に、違ったデザインが施されているのを見るのが楽しいのだ。リモージュで買った2種類のデミタスカップとプレート。使ってみると、どちらかというとヴィウパリ・ヴェールのほうが好きになってきた。ヴァルドロワールのほうは、寒色のニュアンスのある地色に、寒色のブルーを基調とした柄なので、これでデザートを食べると、かなり「寒い」感じになる。ヴィウパリ・ヴェールのほうが使用頻度が増えた。で・・・割れ物の運命の瞬間が、1年とたたずにやってきてしまった。つまり・・・洗ったあとにシンクにうっかり落としてしまい・・・パキーン!デミタスカップのソーサーが、まっぷたつに割れてしまったのだ。「わ~!!」と、大声をあげたのは、たまたま一緒にキッチンにいたMizumizu連れ合い。Mizumizuがヴィウパリ・ヴェールをとても気に入ってると知っているので、必死に慰め始めた。ショックのあまりMizumizuが暴れると思ったらしい(?)。だが、割ってしまった本人のほうは、誰のせいでもないし、わりあいあっさりと、がっくり・・・しただけだった。もうちょっと使いふるしてから割りたかった。いや、そりゃ、できれば永遠に割りたくなかったが。しかし・・・きれいに2つに割れていて、そのままくっつけたら使えそうだ。セメンダインで貼り合わせてみようかと連れ合いとも相談したのだが、素人がやったって、きれいにくっつくわけがない。割れてしまったものは割れてしまったものだし、ソーサーなしでカップだけ使うしかないかな、と思いつつ数ヶ月放置・・・しておいたら、神の啓示か、テレビである職人が紹介されているのを見た。<明日に続く>
2010.01.04
あったのかなかったのか、それすらもはや分からないMizumizuの正月休み。大晦日と元旦はとりあえず仕事はしなかったのだが、ぐったりしていて、何をしていたのか、すでにほとんど記憶すらない。2日になって多少よみがえり、請求書作成という簡単な事務をこなす。しかし、4日までに納品しなければいけない仕事もポツポツとたまっている。というか、クライアントの「できれば年内」という希望を、無理言って延ばしてもらったのはこっちなのだ、ははは(←乾いた笑い)。せめて4日までは新しい仕事は来ないだろうと思っていたら、甘かった。2日の夜にさっそく仕事依頼のメールが。クリスマス前に来るはずだった仕事で、延び延びになっていたので、もう立ち消えになったかと思いきや、2日に来るとは・・・って、クライアントはアメリカの企業なのだ。つまり・・・「オイ、アメ公、テメーらだけとっととクリスマス休暇に入りやがって! こちとら30日ギリギリまで働いてんだよ! 2日に仕事よこすな!」などとは決して思わず、3日朝から仕事スタート。ああ、忠犬ハチ公よりエライな、チームMizumizu(←一応企業形態にしてるが、規模は「チーム」の域を出ない)。この時間になってようやく、新規の仕事も終わりが見えてきているところ。そんなときに、目に留まったのがこのニュース。主要百貨店の初売りが2日、始まり、消費不況の中、福袋の人気が目立った。 日本橋三越本店(東京・中央区)には、昨年より約3割多い約8000人が、行列を作った。女性用のカシミヤセーターやダウンコートが入った1万500円の福袋が人気で、用意した700個は午前中で完売した。 三越は、「福袋には、価格を上回る価値ある商品を入れた」とお得感を強調する。だが、買い物客の目線はシビアで、「ムダになる商品はいらない」と、中身のサンプルを確認する光景が目立った。一昔前の「不況」のときには、高級ブランド品は売れていて、「消費の二極化」と言われたものだが、最近は高級品も売れない。消費者も目が肥え、賢くなり、高級品を所有することで自分のステータスが上がったという夢を見るのではなく、身の丈に合ったものをできるだけ安く入手しようとしている。それにしても、去年より行列にならぶ人が増え、あの日本橋三越に8000人の行列とは。よく行くデパートだが、それは銀座の三越よりすいているから、というのが大きな理由なのだ。この寒い中、あのレトロチックなデパートに8000人が並んだ光景を想像してまず率直に思ったのは、「あ~、うっかり行かなくてよかった」ということだ。「並んでまで買いたい」という気持ちは、ほとんど理解できないMizumizu。逆に言えば、それだけ経済的に「まだ」恵まれているのかもしれない。だが、そんな個人的な話より考えさせられたことがある。このニュースはあまりに鋭く世相を反映しているということだ。今の世の中、流行っている商売というのはかならず、「値段以上のお得感を提供しているところ」なのだ。この原則は、店屋のような商売でも、才能を売り物にするフリーランスでも、独立した専門職ですら変わらない。いいものだからいくら高くても売れるという時代は完全に終わった。今はクライアントが、「払ったお金以上の価値があるモノ(あるいはサービス)を手にした」と思わなければ、商売繁盛にはならないのだ。そうなると、どうなるか? 当然のところ薄利になる。多売ができればいいが、できない職種も多い。そもそも多売になったら質を保てないから、あとは安売り合戦になってしまう。クライアントが増えてくれば、それに対応する人手も確保しなければいけない。だから、流行っている店(あるいは忙しく働いている専門的職種)というのは、「仕事は回っているけど、そんなには儲けてない」ということになる。以前は「他の店、他の人間には提供できない特殊なサービス」を売れる人間は、もっと「気持ちよく」儲けていたはずだ。多忙な知人に話を聞いても、だいたいみな同じことを言う。「忙しいけど、儲からない」。これは実感だろうと思う。福袋だってそうだ。提供する側は、「お値段以上の価値」を強調するが、客のほうはシビア。福袋というのは、もともとは売れ残りや在庫の処分が目的。それにさまざまな付加価値をつけることで肥大化してきた恒例ビジネスだ。だが、極論してしまえば、もともとの値付けが価値に見合ってないから売れ残ったのだし、少なくともそういう商品が大半だろうと思う。放っておいても売れるものを福袋に詰めて安く出したりはしない。もともとの値付けだって、べらぼうに高かったわけではないだろう。売り手はあくまで、「これぐらいなら売れる」と考えて値段をつけるのが普通だ。それが売り手の思惑ほどは、買い手がその価値を評価してくれなかったということなのだ。この原則はモノだけではなく、人が提供する特殊な技能や才能、専門知識に立脚したサービスにも当てはまる。提供する側は、「(自分の力量にしたら)かなり安くやっている」と思っても、客側はたいていはそうは思わない。「もっと安ければいいな。でも(サービスの)質が落ちても困るけど」。商売はそのバランスの上に成り立っていて、サービスの売り手が提供するものの価値が、払った値段以上のものだと買い手側が納得すれば仕事は増える。仕事が増えたからといって、じゃあ報酬も上げようとなると、とたんに仕事の依頼が来なくなるのは、専門職でも飲食店でも、パターンと同じだろう。専門家になるためには、それなりの技能、あるいは専門知識が必要だが、技能や専門知識を身につけたからといって、それだけでは「売れっ子」にはなれない。難しい資格を取ったからといって、それだけで将来は保証されない。自分をアピールする営業力、売り込みに成功して仕事が来たら(あるいは職を得たら)、今度はクライアントの信頼を持続させるため(あるいは組織から常に必要な人間だと認めてもらうため)の努力が欠かせない。ましてや他人とは違う何かを持っていない人間は、それこそ時期が来たら、自分を安売りしても買い手(雇い主)が見つからないという事態に陥ってしまう。そういう時代だからこそ、より強い翼を持たなければダメだろう。他人にはない自分の強みを見極めて世の中をわたっていく力。基礎的な力を身につけなければ応用も利かないし、そもそも自分の強みを見つけられない。目覚しい経済発展の中で、日本人はいつのころからか翼を鍛えるための地道な努力を嫌がるようになったように見える。そのかわりに蔓延ったのは、空想的・理想的・楽観的な平和主義や平等主義、手前勝手な権利意識だ。今の日本人は先人が築いてくれた目に見えない財産を食いつぶして、なんとか世界の金持ち国の一員に留まっている。その中で確実に中産階級の没落が始まっている。忙しい人はますます忙しく、暇な人はいつまでも暇に。貧しい人はどんどん貧しく、安いもの、ちょっとしたお得感のあるものに群がって時間を浪費する。こうした状況に陥ってから、慌てて「恵まれない人」に、乏しい国庫からいくらかのカネをばら撒いても、何の役にも立たない。「母子加算が復活したら、寿しを食べたい」だの「子供を人並みに旅行に連れて行ってあげたい」だのと愚かなことを言っている母親は、施しをもらってもそれを次世代の教育のために使うという理性がない。単に自分の欲のままに消費して、それで寿し屋と旅行業者が一時的に、ほんのちょっと潤うだけ。昔の「日本の親」は、こんな態度ではなかったと思うのだが。寿しも旅行も、子供を一人前にしてからでいい話だ。子供がひとかどの人間になれば、育ててくれた親に対して寿しだって旅行だってプレゼントしてくれるだろう。今は我慢しても、将来に堅実な夢を持つ。そうやってかつての日本人は自分の足で階段をのぼっていったのに。
2010.01.03
ガラスだの陶磁器だの、壊れやすいものが好きだ。中でも目がないのがアラバスター。柔らかな質感と、半透明の雪の肌。光を透かすと、大理石とガラスの混血児になる。ヴォルテッラでは、蝋燭立てと写真立てを買った(本当は花瓶も欲しかった)のだが、蝋燭立ては、2つのうち1つを自宅に着いたとたんに割り、写真立てのほうも倒したり、当たったりしている間に崩壊してしまった。いいかげん、アラバスターの小物はやめなくては・・・と思いつつ、コンラン・ショップで、グサリとくるアラバスターに出会ってしまった。それは・・・アラバスター製のソープディスペンサー。3つばかり展示されていたのだが、1つ1つ模様が違う。少し黄色い色が入っているもの。縞模様が特徴的なもの。そして、一番気に入ったのは、斜めの縞模様に雪片のようなまだらの模様が透けて散っているものだ。理性の声が、「オイオイ、またそんな超壊れモノを洗面台の横に置いてどうするわけ? 倒したら終わりだぞ」と告げたのだが・・・手にとって、その少しざらつく暖かみのある肌に触れたらもうダメなのだ。一見、大理石めいているが、大理石はもっと怜悧な感触がある。ヴォルテッラの感覚で言えば、「まあ、数千円ってところかな、万はしないでしょ」と、多少タカをくくって、ひっくり返して値段を見たら・・・「え? 2000円ちょっと? いや、このカンマの位置は・・・」24,150円。に、にまん? にまんですと?コンラン・ショップはデザイン性では新奇なアイテムを置いてるが、値段が高い(おまけに、あまり商品管理がうまくないのか、汚れてる売り物も多い)。しかし、このアラバスターのソープディスペンサーは、特段変わったデザインということもない。カタチは曲線と直線がうまく調和して美しいが、どちらかというと、ものすごくオーソドックス。加工だって別に難しくないでしょ。凝ったカッティングを施してるわけじゃない。強いて言えば、この丸みを帯びた形に石を切るには、無駄になる部分も含めて、材料のアラバスターがかなり要るかな、というぐらいか。それでも、惚れた弱み。値段には目をつぶって、買おうと思ってレジに行くと、レジ横に数日後に始まるセールの葉書が置いてあった。こういうものを目ざとく見つけるのは、Mizumizu連れ合いのほう。で、あつかましくも、「これってセールで安くなりますか?」などと聞くのはMizumizu。店員さんは、嫌な顔ひとつせず、「たぶん・・・割引になります」と教えてくれた。このごろは、結構こういうことも嫌がらずに教えてくれる店が多い。なので、ちゃっかりレジで、「じゃ、今日は買うのやめます」と宣言し、数日おいて出直した。気に入った「あのアラバスター」はあるかな、と心配しないでもなかったのだが、アラバスターの小物ごときに何万も払う物好きがそうそういるとも思えなかった。案の定、ちゃんとあった。しかも、予想以上に割り引かれている。こうなると・・・最初は買う気がなかった、お揃いのビーカーも買ってしまった。ビーカーも模様が1つ1つ違っている。極力ディスペンサーと似た模様をもつものを選んだ。サイズがちょうど合い、並べて置くとフォルムの主張がずっと強まる。一方は上が丸く、他方は下が丸い。その「ひっくり返し」の同じデザインが目に心地いい。結局・・・1つ分の値段で2つ買えたからお得と言うべきか・・・まんまと店側のセールの目論みにはまったというべきか・・・レジに持っていくと、先日とは別のお姉さんが、思いもかけないことを言ってきた。「あ、こちらは、炭酸カルシウム製ですので、アルコールや酸に弱いんです。色などもついてしまったら落ちにくいですが、よろしいですか?」は? 炭酸カルシウム製? そう言うと人工物みたいじゃないですか。炭酸カルシウムを主成分とするアラバスターという意味だよね?「アラバスターですよね?」あまりに当然のこととして思い込んでいたので、確認もしなかったが、確かに「アラバスター製」とはどこにも書いてない。でも、Volterra(ヴォルテッラ)という名前が付いてるところを見ても明らかだろう。「・・・大理石じゃないんです。見た目は似てますけど」ちぐはぐな答えが返ってきた。どうやら「アラバスター」というものを知らないか、忘れているようだ。「液だれなんかも、放っておくとシミになるかもしれません」つまり、繊細な素材だということを、買う前に客に了解してもらおうというつもりらしい。それにしても、「炭酸カルシウム」って、わざわざ言ってるのはなぜ? と思ってウィキペディアを見ると、アラバスターには「石膏」と「方解石」の2つがあり、炭酸カルシウムを主成分とするのは後者。しかも、方解石のアラバスターは古代のもの、今アラバスターと言ったら、ふつう石膏(雪花石膏)のものを指すらしいことがわかった。なるほど、それで上の人間が店員にアラバスターと教えなかったのかもしれない。フムフム。どちらにせよ、アラバスターがひ弱な素材であることは承知のうえ。とは言え、アルコールに弱かったら、入れる液体石鹸も選ばないといけないじゃないの。しかも、液だれがシミになるって・・・ずいぶんと気を使わせるソープディスペンサーだ。ヒビだって入りやすい。そもそも元来ソープディスペンサーには向いてない素材ってことじゃないの? トホホ・・・綺麗だが、傷つきやすく、手がかかる――アラバスターに惚れてしまったら、いずれ壊れてしまうのは覚悟でうえで付き合わなければいけない。綺麗だが、傷つきやすく、手がかかる――これが人間だったら、実に面倒だ。惚れた相手がアラバスターでまだよかった。
2010.01.02
ここ数日のMizumizu・・・30日にようやく仕事が終わるものの、すでに日付の感覚なし。31日に納品の終わった仕事の請求書を作成せねばと思いつつ、もう仕事はイヤだ! Mizumizu以上に働いてるMizumizu連れ合いは、きのうまでは疲労困憊していたのだが、一晩ぐっすり寝たら体調がよくなったよう。夕方になって大晦日の東京を見物しようと2人でクルマで出かける。Mizumizuを助手席に乗せてクルマを運転するのが大好きなMizumizu連れ合い。ちょっと時間ができると、「(クルマで)ぐるっとするか?」と誘ってくる。どこへ行くということもないのだが・・・もちろんOKですよ♪♪ ハート♪♪イルミネーション都市・東京の麗しさに改めてうっとり。次々に趣向を凝らしたイルミネーションが現れる。多少シャビーなものや、色がちぐはぐなものがあるのはご愛嬌。星マークのイルミネーション飾りを下げた、どこかの並木道が気に入る。銀座松屋の地下の食料品売り場に、閉店時間の30分前に行って、その混雑ぶりにビビる(人が多すぎてなかなか進めない!)。だが全般的に道はすいていて、人も少ない。家で紅白を途中から見るも・・・ほとんど知っている歌がないことに、ガクゼンとする。イタリアの友人に手紙を書くも・・・イタリア語のスペルがあやしくなり、ガクゼンとする。数日前イタリア人の友人から電話が来たのだが、イタリア語が聞き取れなくなっていた。言葉って長い間実際に使わないと、本当に忘れてしまうと実感。年が明けて、たった今思っていることは・・・12月の数々の納品をなんとかこなせて、本当にヨカッタ! あとは請求書だ。3日までには作って送らないと。・・・このごろ納期はなんとか忘れず守っても、後回しにした請求を忘れそうになる自分にガクゼンとしている。数週間もすると終わった仕事のことを忘れている。あ、そういえば、4日までに納品する仕事もあるんだっけ。やっぱ元旦から始めないとダメかしらん。トホホ。
2010.01.01
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