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3.11の大震災のあと、テレビでさかんに流れた金子みすゞの「こだまでしょうか」。やはり、テレビの効果はすごいというべきか、仙崎(山口県長門市)の「金子みすゞ記念館」には、多くの老若男女が訪れており、驚くような賑わいを見せていた。
みすゞが働いていた本屋を再現した記念館入り口。大正時代にタイムスリップしたような佇まいは、雰囲気がある。
仙崎の観光施設や店先に置いてある「下関・長門・美祢 山口県西部 ドライブマップ」という青い二つ折りのマップを入手すれば、入館料が50円引きになる。行きたい人はぜひこれを持って行こう。
小学校3年生から高校卒業までを山口で過ごしたMizumizuは、当然詩人・金子みすゞについては知っている。だが、ファンタジックな詩とは裏腹に、金子みすゞの人生については、夫から性病を移され、離縁し、幼い娘を遺して26歳という若さ自殺した・・・と暗いイメージで語られることが多かったように思う。
詩人=苦悩がステータスだった時代というのが確かにあり、その時流にのって、人生の陰の部分だけが取り上げられる傾向にあったのかもしれない。
そのイメージで記念館を訪ねたMizumizuは、やたらと金子みすゞを、その純粋な人となりから持ち上げている「マンセー」ぶりにやや違和感をもった。才能あふれる若き女性詩人、彼女を虐げる傲慢で無理解な夫・・・というような、あまりにわかりやすすぎ、単純すぎる人間関係の図式にのっとって、金子みすゞの不遇が語られすぎている。
西條八十に高く評価されたことは、これでもかと強調されているが、八十の後任には好まれなかった話はできるかぎり矮小化されている。自殺という最期についてはできるだけぼやかし、なにが原因なのか、記念館の記述をつぶさに読んでもまったくわからない。小さな子どもも見に来るから・・・というような「配慮」からかもしれないが、そうした気遣いをすることが、果たして正しいのだろうか?
もとより山口というのは田舎で、非常に保守的な土地柄だ。そこで詩ばかり書いている空想力豊かな少女が、それほど周囲に受け入れられたのだろうか? 経済的に成功していればともかく、カネにもならない文芸活動をしている女流詩人など、「変わり者」だと白い目で見ていたのではないだろうか?
金子みすゞの詩にはそもそも、周囲の「普通の」人間には見えないものが見え、感じないものを感じてしまう鋭敏な神経な詩人の孤独感・浮遊感が漂っているように思うのだ。
Mizumizuがフランスに行ったときも、世界的人気を誇る詩人・ジャン・コクトーをあちこちで「町興し」に使っている例をいやというほど見て、薄ら寒い思いをした。コクトーはフランス人の詩人に対する冷淡さを何度も著作で嘆いていたというのに。
同じような「ちゃっかり」ぶりを、金子みすゞを観光資源として使っている仙崎にも感じた。どこもかしこも、「しょーばいしょーばい」と言わんばかりだ。みすゞは才能にあふれ、賢く、やさしい女性で・・・と言った周囲のマンセー証言だけを並べ立てれば並べ立てるほど、奇妙に嘘臭く、人間・金子みすゞの姿がぼやけてくる。
金子みすゞに興味をもつきっかけとしては、意義のあるものかもしれない。だが、こうしたしょーばい優先の綺麗事記念館が、あちこちにできて町興しに使われているのかと思うと、Mizumizuの中の違和感は高まる。
みな、人の真実には興味がないのだろうか? 人生には光と陰がある。光の部分だけをことさら強調し、陰の部分はなるたけ後ろに隠し、死後何年もたってから広く認められるようになった才能をもてはやして商売につなげるのが、果たして詩人と詩を愛する人々のためになるのだろうか。
だが、記念館の方針がどうあれ、金子みすゞの「大漁」は傑作だ。この詩は、前半には、大漁に賑わう港の騒ぎを目の前で見ているような臨場感があり、読んでいるだけで魚の匂いを嗅ぐようだ。そして、最後に読者の思索は詩人とともに海へ沈み、人の営みの罪深さと業、物事の裏表に想いを馳せることになる。
大漁
朝焼 小焼だ
大漁だ。
大羽鰯(おおばいわし)の
大漁だ。
濱は祭りの
やうだけど
海のなかでは
何萬の
鰯のとむらひ
するだらう。
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