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春節を迎えて2日。地元の中国人たちは家で過ごしているのか、親戚などを訪ねているのか、通りに出ると人は少なく、シャッターを閉めた店も多く、街は閑散としている。28日の夜からは(やっぱり?)日本人たちで集まって中国の新年を迎えた。日が落ちてからはあちこちで打ち上げ花火や爆竹の音がし始め、午前0時を迎えると共に、室内にも轟く爆音が。私たち(平均年齢29.4歳)は『わーい』とばかりに外に飛び出した。辺りは火薬で仄かに白く、団地の窓から花火をする人、外に出てする人、それぞれ興奮でいっぱいだった。私たちはそのまま近くのお寺に向かったが、まさに『初詣』の人で溢れていた。門の前には爆竹用のドラム缶が用意されており、鳴りやむことがなかった。カモフラージュの服を着た公安の人数名も出動。初めての春節に、こちらまで熱くこみ上げてくるものがあった。はじめてこの国に融けこんだ気がした。『日本では爆竹鳴らさないの?!』と言った人がいたけど、生まれた時からこれを体験してたら、年に一度のこの日を、すごく楽しみにするわけだ、と分かった気がした。もし、今度また他の土地に行ったなら、絶対 その土地の重要なイベントには参加した方がいいな、こりゃ。
2006年01月30日
中国では陰暦の正月の方がメインということで、今年は明後日がその本番。門のところに『福』という文字を逆さに張っている人や(この意味は,「福倒了」という発音を,音の近い「福到了」にかけているとのこと)、祝いの色、赤で彩られた箱に詰めて売っている果物、昼間からシャッターを閉めている店などちらほら見かける。その反面、クリスマスの飾りもまだ残っている。まぁ、日本では12月26日から急に見かけなくなるのでそれはそれでちょっと寂しいんだけど、たぶん中国での意味は、「せっかく飾り付けたのに、すぐに剥がしたらもったいない」「めんどくさい」ってとこだと思う。去年の春節はタイで迎えたので、中国では今回が初めて。中国人の知人に、「タイのチャイナタウンでは春節のとき赤い服を着てる人をたくさん見かけたけど、君らも着るの?」って聞いたら、「いいえ」と、苦笑していた。中国本土の人は今では着ることはないが、かえって海外に移り住んだ華僑たちの方が伝統を守っているらしい。明日は、爆竹とかでにぎやかになるのかしらん?楽しみなような、ちょっと怖いような…
2006年01月27日
今日でまたひとつ年をとってしまいました。この日は相方の友達のタイ人と、観光にきていたその父と妹が帰国する日で、私たちは昼食を共にし、彼らを空港に見送りに行ったのだが、他の多くのタイ人留学生たちも同じ便で帰国だったらしく、いろんな人におめでとうを言ってもらった。もうそろそろ嬉しくない年だけれども、こうして無事に年を重ねられることはありがたいことです。もっとも、カッコイイ大人になりたいと思うんだけど…
2006年01月26日
月曜から2泊3日で元陽と、建水というところに行ってきた。元陽は昆明からバスで7時間ほど南下したところにあり、広大な棚田で有名なところだが、どういう訳か10メートル先でも霞がかっているほど霧が深く、寒かった。30メートル先だともう完璧霧に埋もれてしまっていて、景色を見るなんて到底できなかった。地元の人曰く、3日前は天気が良かった、ということで、まぁ、タイミングですな。ちなみに7,8月が一番綺麗らしい。霧で何もできない元陽を1泊で後にし、バスの兄ちゃんに勧められるまま建水という町に向かった。ここは昆明よりもいくらか小さく、石畳の道と古い建物もいくらか残っていて、新旧入り混じった場所だった。人口密度が少なく、元陽もだけど、こういうところは人がいい。(昆明出発前の夜に食べたシャオカオ≪中華風バーベキュー≫で 体調を崩しっぱなしだったこともあったが)受付の女の子がいい子そうだったので、建水でも最初に尋ねた宿にすぐにチェックインしてしまった。部屋はまずまず良かったが、「24時間熱水」と書いてあったにも関わらず、断水でお湯が出なかった。体調崩したりお湯が出ないという理由で4日も頭を洗えなかったのはちょっとイタかったが、いい人たちに出会えたので、この旅はこれはこれで良かったのかもしれない。
2006年01月25日
これは将来を語る「夢」ではなく、寝てるときに見る「夢」の話。私の夢は、カラーである。雲ひとつない青空の下、舗装されていない砂ぼこの坂道を自転車で登っているときに、あんまり空が綺麗なんで立ち止まってケータイを取り出し、写メールを撮る、という夢なんて、ちょっと素敵でしょ?おじいちゃん家の庭で友達と立ち話をしているとき、ウルフルズのトータス松本氏が赤いママチャリを押して向かってきた、というのもあった。ちなみに自転車には「中坊秀樹」と書いてあった。(しかし知り合いにそんな人はいない)で、こないだは、とうとう嗅覚も登場した。どこか知らないが、室内で見知らぬひと数人といた。私はそこで無音のおなら(すかしっ屁というやつですな)をしてしまったのだが、「あ」と思った時にはもう遅かった。臭いは辺りに広がり始めていた。私は何食わぬ顔でドアに向かい、「なんか臭くない?」という声を後にした。ドキドキした。だけど、誰かおならしたのかもしれないね、実際。
2006年01月22日
以前日記にも書いた「いっしー」から引き継いだラテンダンスの回数券を使って、友人と3人で踊ってきた。教室には壁に沿って大きな鏡が張り巡らされており、前からも横からも自分のダンスをチェックできるようになっている。いやはや。スピードは着いて行かんし、腰は回らんし。私が左右にステップを踏んだなら、まるで野球で「リー、リー」ってやってるよう。私の前で踊っていた身長150cm未満のミャンマーガールに至っては、「おかあさんといっしょ」を見ながら踊っている子供にしか見えんかった。なんでターンするとき手を羽ばたかせるのか。「ほら、こうやって腰をうねらせるのよ!」って、あんたのそれは、日本じゃ「ドルフィンキック」っていうんだよ、と。今月22日から3週間も教室は休みになってしまう。休みまでに、どれだけ進歩できるんだろう、私たち!!
2006年01月11日
本学期快要完了.假期我可能去越南.但是我男朋友不想去那里.所以我先去越南,回来后去其他地方玩.
2006年01月10日
最近の二胡レッスンは、私がもうじき昆明を離れるということで駆け足で教えてもらってるが、本来は一つの曲を5年、10年とかけて磨きあげていくものらしい。一年くらい習えばあとは自分で練習していくことはなんとか可能らしいが、たった数ケ月で去って行く人も中にはいるわけで、老師としてはやはり惜しそうだ。今日のレッスンの後は、他に生徒が控えてなかったので老師と共に二胡のCDを買いに行った。歩きながら老師は語る。『今じゃ昆明は出稼ぎの地方の人で、街は溢れかえってしまっている。大きなビルが立ち並び、老昆明(古い街並み)もほんの一部でしか見ることができなくなってしまった。どうしようもない。こういうことは突然起こったわけじゃないが、頭は着いていかない』そりゃあ、ここで生まれ、ここで育って年をとっていった人にとっては、その風景が失われ、新しい物にとって変わっていくのを見届けるのは少なからず混乱と寂しさがあるだろう。おじいちゃん先生の授業も残すところあとわずか。『お金を貯めたらまた戻ってきなさい。その時は私の家に泊まればいい。電話をくれれば飛行場まで迎えに行くよ』古い風景が失われても、人の心はまだまだ暖かい。こう言ってくれる人がいるこの街は、私にとって第二の故郷と言えるだろう。
2006年01月02日
今回の年越しは、広州、深セン、上海に赴任した仲間も昆明に戻ってきて、まだ在昆の日本人と共に集まってそばをすすった。彼らは口を揃えて「空気が綺麗」「落ち着く」、と言う。今学期が終わると、知人のほとんどがここを去るが、それでも来年ここに集まったら面白いなぁ。最近、日本語を喋る時、言葉が出てこない。だからって、中国語が流暢だという訳でもない。半端な位置におります。
2006年01月02日
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